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    <title>隔数日刊─Daily Bullshit</title>
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    <updated>2010-02-23T17:30:11Z</updated>
    <subtitle>日々の戯れ言の掃き溜めですな。なるべく毎日更新したいが……。</subtitle>
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    <title>ワインと日本酒と</title>
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    <published>2010-02-22T12:52:55Z</published>
    <updated>2010-02-23T17:30:11Z</updated>
    
    <summary>いまニューヨークではいろんな分野の日本ブランドの紹介が盛んに行われています。この１カ月だけでも長芋やゆず酢や包丁、醤油やお香や磁器や牛肉などありとあらゆる日本産品が目白押しでした。中でも毎月のように行われているのが日本酒のプロモーションです。そんなところに顔を出すとよく、海外で日本酒をワインのように飲んでもらうにはどうしたらよいだろうかと相談されもします。 これはとても難しい問題です。というのも、じつは日本酒とワインとでは、飲食という文化の中で立ち位置がまったく違うからです。それは、やはりご飯とパンがまったく違うのと一緒なんです。 私たち日本人は基本的に「コメっ食い」なんですね。食事の中心にはご飯があるんです。極端なことを言えば、ご飯を食べるためにおかずがあるんですね。おかずを食べるためにご飯があるのではない。逆です。すべてはご飯のためです。「ごはんがススムくん」というネーミングの良さもまさにそこにツボがあるからです。みそ汁だってスープと違って全部一度に飲むものではないでしょ？　その都度口内をさっぱり流して、「さてまたもう一回」とご飯（とおかず）に再度取り組むためのものですよね。つまりはこれもまたご飯のため。 対してパンは、これも極端を言えば、逆に前菜や主菜を食べるためのものなんです。パンを食べることを目的に前菜や主菜を食べるのでは（ほとんど）ない。あくまでも前菜や主菜がメインで、それをよりよく楽しむために、口直しにパンに中継ぎをさせるみたいな感じなのです。ソースをすくうときとかもね。 だから、「主食」っていう概念もよくわからないんです。私たちは学校で「日本人の主食はご飯です」って教わりましたが、でも、そういうのを英語でなんと言うのか、そもそもそういう叙述が有効なのか、どうもしっくり来ないんです。We, the Japanese, live on rice. なんですけど、この live on というのが英語で使うかというと、「アメリカではパンが主食です」ってふうに言えるのか、また、live on の次にくるのがパンなのか肉なのかもじつはよくわからない。少なくとも「ご飯」とか「お米」とかがすんなり出てくるようには常識にはなっていない感じです。 よく、「ひとはパンのみにて生きるにあらず」といいますが、聖書の時代はほかに大した食べ物もなかったんでしょうね。だからそのころはパンはまだ食事の中での主役だったのかもしれません。でもいまは食事をするという意味で「パンを食べたい」と言うひとはいないなあ。日本語だと「ああ、ご飯食べたい」って、「食事したい」という意味と「（パンや麺モノではなく）お米のご飯が食いたい」という２つの意味で常套句ですが。 ワインもそうです。マルゴーとかムートンとかのビッグ・ワインなら違うかもしれませんが、一般的なテーブルワインは前菜・主菜で疲れた味覚（パレット）を立ち直させるためにあります。マリアージュと言ってワインと料理の相性の良さでもっと美味しくするための出会いの演出もあります。いずれにしても基本的には、前菜・主菜を食べるためにワインが存在します。ワインはむしろ日本の食文化の中でのみそ汁と似ているかもしれませんね。 で、日本酒はそうじゃありません。お酒はみそ汁の立ち位置ではなく、ご飯と同じ位置なのです。つまり日本酒もご飯なのです。ご飯同様、日本酒を飲むときは日本酒が主役なのです。食事をするためにお酒を飲むのではなく、お酒を飲むために食事が要るのです。その食事を酒のサカナと言います。漢字で書けば「酒菜（さかな＝さけのおかず）」です。なので、お酒のあるときはご飯は食べず、ご飯のときはお酒は飲まない。この２つは基本的に同じもの、「お米」だからです。お鮨とお酒をいっしょにする人もいますが、本当はお鮨にはお茶です。そうじゃないと米と米で重複しちゃう。リダンダンシーです。 ワインとパンにはそういう関係はありません。しかもこういう、ワインを中心にした飲食の仕方はワインではあまりしません。うーん、食事が済んだあとのチーズのコースのときがやや酒飲みの感覚というか、酒と酒菜の関係に似ている感じでしょうか。いや、スパインのタパスとか、日本の酒の飲み方に近いかもなあ。そうね、日本酒って、基本的に小皿料理をお供にするんだな。あと、イタリアのバールでも立ち飲みでいろいろ小皿を出してくれる。でも、日本の会席料理みたいに、本格的な料理がワインを軸として供されるということは、ワイン飲みの会みたいなイベント以外はあまりないように思います。 ですから、ニューヨークのレストランで日本酒をワインのように飲んでもらうには、という問い掛けには、チーズコースとは言いませんが、なにか、食事がメインのコースの後か先にでも、お酒に合う肴の小皿コースを供してもらわねばならないということになりますか。ちょうどお鮨にスイッチする前のお造りの段階のような、そんな新しいコンセプトのコースが必要になってくるのだと思うのです。しかもそのとき、お酒はワインのように右手奥にあるのではなく、食事の皿をも差し置いて、食べる人の直近の中央に位置しなくてはならない。なぜならそこが主役たるお酒の位置なのですから。 このところ、ワインのような大吟醸酒が増えています。これはこれでとても素晴らしいですが、悲しいかな、輸送費がかかって日本で飲む時の倍ほどの値段がします。しかも「ワインのような大吟醸」なら、同じ値段のワインを飲んだ方がよほど美味しいのです。 先日、ある和食のシェフが各界の名士を招待してのディナーイベントで腕を振るった際、日本人の招待客に「まるでフレンチのシェフみたいで格好いいわね」と言われて憤慨していました。 フレンチの方が格好よいというのではなく、和も仏もそれぞれの本来の立ち位置で堂々と存在できる、そういう時代にしていきたいものです。...</summary>
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        <name>kitamaru</name>
        
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            <category term="時事問題・アメリカ" />
            <category term="身辺雑記/その他" />
    
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        <![CDATA[<p>いまニューヨークではいろんな分野の日本ブランドの紹介が盛んに行われています。この１カ月だけでも長芋やゆず酢や包丁、醤油やお香や磁器や牛肉などありとあらゆる日本産品が目白押しでした。中でも毎月のように行われているのが日本酒のプロモーションです。そんなところに顔を出すとよく、海外で日本酒をワインのように飲んでもらうにはどうしたらよいだろうかと相談されもします。</p>

<p>これはとても難しい問題です。というのも、じつは日本酒とワインとでは、飲食という文化の中で立ち位置がまったく違うからです。それは、やはりご飯とパンがまったく違うのと一緒なんです。</p>

<p>私たち日本人は基本的に「コメっ食い」なんですね。食事の中心にはご飯があるんです。極端なことを言えば、ご飯を食べるためにおかずがあるんですね。おかずを食べるためにご飯があるのではない。逆です。すべてはご飯のためです。「ごはんがススムくん」というネーミングの良さもまさにそこにツボがあるからです。みそ汁だってスープと違って全部一度に飲むものではないでしょ？　その都度口内をさっぱり流して、「さてまたもう一回」とご飯（とおかず）に再度取り組むためのものですよね。つまりはこれもまたご飯のため。</p>

<p>対してパンは、これも極端を言えば、逆に前菜や主菜を食べるためのものなんです。パンを食べることを目的に前菜や主菜を食べるのでは（ほとんど）ない。あくまでも前菜や主菜がメインで、それをよりよく楽しむために、口直しにパンに中継ぎをさせるみたいな感じなのです。ソースをすくうときとかもね。</p>

<p>だから、「主食」っていう概念もよくわからないんです。私たちは学校で「日本人の主食はご飯です」って教わりましたが、でも、そういうのを英語でなんと言うのか、そもそもそういう叙述が有効なのか、どうもしっくり来ないんです。We, the Japanese, live on rice. なんですけど、この live on というのが英語で使うかというと、「アメリカではパンが主食です」ってふうに言えるのか、また、live on の次にくるのがパンなのか肉なのかもじつはよくわからない。少なくとも「ご飯」とか「お米」とかがすんなり出てくるようには常識にはなっていない感じです。</p>

<p>よく、「ひとはパンのみにて生きるにあらず」といいますが、聖書の時代はほかに大した食べ物もなかったんでしょうね。だからそのころはパンはまだ食事の中での主役だったのかもしれません。でもいまは食事をするという意味で「パンを食べたい」と言うひとはいないなあ。日本語だと「ああ、ご飯食べたい」って、「食事したい」という意味と「（パンや麺モノではなく）お米のご飯が食いたい」という２つの意味で常套句ですが。</p>

<p>ワインもそうです。マルゴーとかムートンとかのビッグ・ワインなら違うかもしれませんが、一般的なテーブルワインは前菜・主菜で疲れた味覚（パレット）を立ち直させるためにあります。マリアージュと言ってワインと料理の相性の良さでもっと美味しくするための出会いの演出もあります。いずれにしても基本的には、前菜・主菜を食べるためにワインが存在します。ワインはむしろ日本の食文化の中でのみそ汁と似ているかもしれませんね。</p>

<p>で、日本酒はそうじゃありません。お酒はみそ汁の立ち位置ではなく、ご飯と同じ位置なのです。つまり日本酒もご飯なのです。ご飯同様、日本酒を飲むときは日本酒が主役なのです。食事をするためにお酒を飲むのではなく、お酒を飲むために食事が要るのです。その食事を酒のサカナと言います。漢字で書けば「酒菜（さかな＝さけのおかず）」です。なので、お酒のあるときはご飯は食べず、ご飯のときはお酒は飲まない。この２つは基本的に同じもの、「お米」だからです。お鮨とお酒をいっしょにする人もいますが、本当はお鮨にはお茶です。そうじゃないと米と米で重複しちゃう。リダンダンシーです。</p>

<p>ワインとパンにはそういう関係はありません。しかもこういう、ワインを中心にした飲食の仕方はワインではあまりしません。うーん、食事が済んだあとのチーズのコースのときがやや酒飲みの感覚というか、酒と酒菜の関係に似ている感じでしょうか。いや、スパインのタパスとか、日本の酒の飲み方に近いかもなあ。そうね、日本酒って、基本的に小皿料理をお供にするんだな。あと、イタリアのバールでも立ち飲みでいろいろ小皿を出してくれる。でも、日本の会席料理みたいに、本格的な料理がワインを軸として供されるということは、ワイン飲みの会みたいなイベント以外はあまりないように思います。</p>

<p>ですから、ニューヨークのレストランで日本酒をワインのように飲んでもらうには、という問い掛けには、チーズコースとは言いませんが、なにか、食事がメインのコースの後か先にでも、お酒に合う肴の小皿コースを供してもらわねばならないということになりますか。ちょうどお鮨にスイッチする前のお造りの段階のような、そんな新しいコンセプトのコースが必要になってくるのだと思うのです。しかもそのとき、お酒はワインのように右手奥にあるのではなく、食事の皿をも差し置いて、食べる人の直近の中央に位置しなくてはならない。なぜならそこが主役たるお酒の位置なのですから。</p>

<p>このところ、ワインのような大吟醸酒が増えています。これはこれでとても素晴らしいですが、悲しいかな、輸送費がかかって日本で飲む時の倍ほどの値段がします。しかも「ワインのような大吟醸」なら、同じ値段のワインを飲んだ方がよほど美味しいのです。</p>

<p>先日、ある和食のシェフが各界の名士を招待してのディナーイベントで腕を振るった際、日本人の招待客に「まるでフレンチのシェフみたいで格好いいわね」と言われて憤慨していました。</p>

<p>フレンチの方が格好よいというのではなく、和も仏もそれぞれの本来の立ち位置で堂々と存在できる、そういう時代にしていきたいものです。<br />
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    <title>寄ってたかっての背後にあるもの</title>
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    <published>2010-02-14T14:41:11Z</published>
    <updated>2010-02-16T17:07:46Z</updated>
    
    <summary>ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。 なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。 ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。 そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。 抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう？　まるで沸騰社会みたい。 もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。 でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ（だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません）。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない（って勝手に思い込んでますけど）。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。 それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。 いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。 この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。 「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は（米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは）好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた＝１２日午後、バンクーバーのジャパンハウス（鈴木健児撮影）」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス（日本選手団の支援施設）で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか？　いやらしい書き方するなよなあ。 私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・日本" />
            <category term="芸能・スポーツ" />
    
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        <![CDATA[<p>ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。</p>

<p>なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。</p>

<p>ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。</p>

<p>そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。</p>

<p>抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう？　まるで沸騰社会みたい。</p>

<p>もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。</p>

<p>でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ（だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません）。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない（って勝手に思い込んでますけど）。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。</p>

<p>それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。</p>

<p>いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。</p>

<p>この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。</p>

<p>「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は（米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは）好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた＝１２日午後、バンクーバーのジャパンハウス（鈴木健児撮影）」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス（日本選手団の支援施設）で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか？　いやらしい書き方するなよなあ。</p>

<p>私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。</p>]]>
        
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    <title>検察と報道の大罪</title>
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    <published>2010-02-07T23:47:06Z</published>
    <updated>2010-02-09T00:52:29Z</updated>
    
    <summary>米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ（二重の危険）」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。 ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った（産経）り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」（毎日）りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか？」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか？ しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様？」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。 いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか？　他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です（あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい）。 いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その（本当はあるはずもない）無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。 それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね（古い）。 つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。 なのに今回は、１年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。 で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。 一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。 するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。 私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは（システムに思考があるかどうかはまた別にして）、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。 実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。 どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか？ みんな、飽きやすいからなあ。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・日本" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ（二重の危険）」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。</p>

<p>ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った（産経）り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」（毎日）りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか？」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか？</p>

<p>しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様？」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。</p>

<p>いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか？　他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です（あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい）。</p>

<p>いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その（本当はあるはずもない）無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。</p>

<p>それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ<a href="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2006/02/post_143.html" target="_blank">「生きよ、墜ちよ」</a>でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね（古い）。</p>

<p>つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。</p>

<p>なのに今回は、１年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。</p>

<p>で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。</p>

<p>一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。</p>

<p>するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。</p>

<p>私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは（システムに思考があるかどうかはまた別にして）、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。</p>

<p>実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。</p>

<p>どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか？<br />
みんな、飽きやすいからなあ。</p>]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>電子ブックと出版革命</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2010/01/post_331.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.kitamaruyuji.com/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=706" title="電子ブックと出版革命" />
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    <published>2010-01-21T04:57:37Z</published>
    <updated>2010-01-21T09:17:55Z</updated>
    
    <summary>アップルのタブレットMacが27日にも発表になるらしいと聞いて、これで日本でも電子書籍販売が加速するんじゃないかとちょっと期待しています。 というのも、電子書籍ってのはデータファイルですから、製本化する必要がないわけで、つまりは手元にあるいろんな原稿を「自費出版」する必要なく「販売」できるってことにつながりますよね。いや、拙文をちまちまと売ろうなんて魂胆ではなくて、じつはちゃんとアメリカで出版されたベストセラーなどの翻訳をしながらも、日本の出版社の都合で急に出版が取りやめになっちゃった原稿がいくつか手元にあるのです。それをどうにかできないかなあとつらつら思っていたのですが、根が無精なもので自分から別の出版社を探すでもなく売り込むわけでもなく、そのままほったらかし。それが出版側のリスクなく、というか出版が必要ないのだから誰のリスクを心配することもなく直接の販路を得ることになるわけで、これって、確実に現在の出版社の機能の大きな一部を削ぎ取っちゃうような、革命的出来事です。 まあ、出版というのは「本になる」といういっしゅ物神崇拝的な実体化を愛でる部分もあるわけで、その意味では出版社のその機能は失われることはないでしょうが、しかしこれはまさしくレコードが電子ファイルになってしまったと同じ流れが著述界にもやってくるということでしょう。 iTunesストアではそういう音楽界のインディーズのアウトプットは受け付けてるんだよね。 でも、大物アーティストたちがレコード会社というかCD会社？にいまもこだわってくっついているのはどういうことなんだろう？　ああ、イベントとかプロモーションとかいろいろ抱き合わせでやってくれるからかな。それに、従来からの契約もあるだろうしね。 でも、出版界なんてそんな縛りはない。お抱え作家、なんてものは一時、半村良が「太陽の世界」を角川パッケージで書き続けると宣言したときくらいでしょう（←古い）。 これ、すごいことだなあ。 と思ってたら、先ほどこんなニュースが！！！！ ＊＊＊＊＊ アマゾン、「Kindle」向け電子書籍の印税を引き上げ--「App Store」と同率に CNET Japan 文：David Carnoy（CNET News） 翻訳校正：矢倉美登里、長谷睦 2010/01/21 12:24   　Amazonが「Kindle Digital Text Platform（DTP）」を利用する作家や出版社に支払う印税を、電子書籍の表示価格の70％に引き上げると発表した。今回の動きは、米国時間1月27日にタブレット型端末を発表する可能性が濃厚なAppleに対する先制攻撃なのかもしれない。70％という印税率は従来の35％から大幅な引き上げとなるが、「App Store」でアプリを販売する開発者にAppleが支払う売上配分と同じであり、これは偶然の一致ではなさそうだ。 　Amazonによると、6月30日以降、印税率70％の新オプションを選ぶ作家や出版社は、Kindle向け電子書籍が売れるたびに、表示価格の70％から配信コストを引いた額を受け取ることになるという。この新しいオプションは、既存のDTP標準印税オプションを置き換えるものではなく、追加される形となる。従来の印税オプションは、印税率が35％で、表示価格の65％をAmazonが受け取っている。 　App Storeは、AmazonやBarnes &amp; Nobleといった電子書籍ストアなどが提供する電子書籍リーダーアプリ（Kindleや「Stanza」）のほか、独立型アプリとして何千もの電子書籍を提供しているが、Amazonは、新しい価格体系がAppleがApp Storeで実施している印税プログラムに対応するものであるのかどうかについては、コメントしていない。ただし配信コストは、ファイルサイズに基づいて計算され、料金は1Mバイト当たり15セントになる点は明確にしている。 　Amazonのニュースリリースには以下のような記述がある。「現在のDTPファイルサイズのメジアン（中央値）である368Kバイトの場合、配信コストは売上部数当たり6セント未満になる。したがって、この新しいプログラムでは、作家と出版社は書籍が売れるたびにより多くの利益を得ることができる。たとえば、価格が8.99ドルの書籍だと、作家の手取りは標準オプションでは3.15ドルだが、新しい70％オプションでは6.25ドルになる」 　今回の発表は、印税率70％オプションの適用条件も定めている。このオプションを利用するには、以下の条件を満たしている必要がある。 　＊作家または出版社が設定した価格が2.99～9.99ドルの範囲内である。 　＊電子書籍の価格が、紙媒体の書籍の最低価格より20％以上安い。 　＊作家や出版社が権利を持つすべての地域で作品の販売が可能。 　＊テキスト読み上げ（text-to-speech）機能など、「Kindle Store」の幅広い機能に対応している。こうした機能は、AmazonがKindleおよびKindle Storeに機能を追加し続けるのにあわせて増えていく。 　＊他店の価格（紙媒体の書籍の価格を含む）以下で提供される。Amazonがこのプロセスを自動化するツールを提供し、70％の印税はこの最低価格を基準として算出される。 　＊著作権のある作品が対象で、1923年以前に出版された作品（パブリックドメインの書籍）は対象外。当初は米国で販売される書籍のみが対象となる。 ＊＊＊＊＊...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・アメリカ" />
            <category term="身辺雑記/その他" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>アップルのタブレットMacが27日にも発表になるらしいと聞いて、これで日本でも電子書籍販売が加速するんじゃないかとちょっと期待しています。</p>

<p>というのも、電子書籍ってのはデータファイルですから、製本化する必要がないわけで、つまりは手元にあるいろんな原稿を「自費出版」する必要なく「販売」できるってことにつながりますよね。いや、拙文をちまちまと売ろうなんて魂胆ではなくて、じつはちゃんとアメリカで出版されたベストセラーなどの翻訳をしながらも、日本の出版社の都合で急に出版が取りやめになっちゃった原稿がいくつか手元にあるのです。それをどうにかできないかなあとつらつら思っていたのですが、根が無精なもので自分から別の出版社を探すでもなく売り込むわけでもなく、そのままほったらかし。それが出版側のリスクなく、というか出版が必要ないのだから誰のリスクを心配することもなく直接の販路を得ることになるわけで、これって、確実に現在の出版社の機能の大きな一部を削ぎ取っちゃうような、革命的出来事です。</p>

<p>まあ、出版というのは「本になる」といういっしゅ物神崇拝的な実体化を愛でる部分もあるわけで、その意味では出版社のその機能は失われることはないでしょうが、しかしこれはまさしくレコードが電子ファイルになってしまったと同じ流れが著述界にもやってくるということでしょう。</p>

<p>iTunesストアではそういう音楽界のインディーズのアウトプットは受け付けてるんだよね。<br />
でも、大物アーティストたちがレコード会社というかCD会社？にいまもこだわってくっついているのはどういうことなんだろう？　ああ、イベントとかプロモーションとかいろいろ抱き合わせでやってくれるからかな。それに、従来からの契約もあるだろうしね。</p>

<p>でも、出版界なんてそんな縛りはない。お抱え作家、なんてものは一時、半村良が「太陽の世界」を角川パッケージで書き続けると宣言したときくらいでしょう（←古い）。</p>

<p>これ、すごいことだなあ。</p>

<p>と思ってたら、先ほどこんなニュースが！！！！</p>

<p>＊＊＊＊＊<br />
アマゾン、「Kindle」向け電子書籍の印税を引き上げ--「App Store」と同率に</p>

<p>CNET Japan<br />
文：David Carnoy（CNET News） 翻訳校正：矢倉美登里、長谷睦<br />
2010/01/21 12:24  </p>

<p>　Amazonが「Kindle Digital Text Platform（DTP）」を利用する作家や出版社に支払う印税を、電子書籍の表示価格の70％に引き上げると発表した。今回の動きは、米国時間1月27日にタブレット型端末を発表する可能性が濃厚なAppleに対する先制攻撃なのかもしれない。70％という印税率は従来の35％から大幅な引き上げとなるが、「App Store」でアプリを販売する開発者にAppleが支払う売上配分と同じであり、これは偶然の一致ではなさそうだ。</p>

<p>　Amazonによると、6月30日以降、印税率70％の新オプションを選ぶ作家や出版社は、Kindle向け電子書籍が売れるたびに、表示価格の70％から配信コストを引いた額を受け取ることになるという。この新しいオプションは、既存のDTP標準印税オプションを置き換えるものではなく、追加される形となる。従来の印税オプションは、印税率が35％で、表示価格の65％をAmazonが受け取っている。</p>

<p>　App Storeは、AmazonやBarnes & Nobleといった電子書籍ストアなどが提供する電子書籍リーダーアプリ（Kindleや「Stanza」）のほか、独立型アプリとして何千もの電子書籍を提供しているが、Amazonは、新しい価格体系がAppleがApp Storeで実施している印税プログラムに対応するものであるのかどうかについては、コメントしていない。ただし配信コストは、ファイルサイズに基づいて計算され、料金は1Mバイト当たり15セントになる点は明確にしている。</p>

<p>　Amazonのニュースリリースには以下のような記述がある。「現在のDTPファイルサイズのメジアン（中央値）である368Kバイトの場合、配信コストは売上部数当たり6セント未満になる。したがって、この新しいプログラムでは、作家と出版社は書籍が売れるたびにより多くの利益を得ることができる。たとえば、価格が8.99ドルの書籍だと、作家の手取りは標準オプションでは3.15ドルだが、新しい70％オプションでは6.25ドルになる」</p>

<p>　今回の発表は、印税率70％オプションの適用条件も定めている。このオプションを利用するには、以下の条件を満たしている必要がある。</p>

<p>　＊作家または出版社が設定した価格が2.99～9.99ドルの範囲内である。</p>

<p>　＊電子書籍の価格が、紙媒体の書籍の最低価格より20％以上安い。</p>

<p>　＊作家や出版社が権利を持つすべての地域で作品の販売が可能。</p>

<p>　＊テキスト読み上げ（text-to-speech）機能など、「Kindle Store」の幅広い機能に対応している。こうした機能は、AmazonがKindleおよびKindle Storeに機能を追加し続けるのにあわせて増えていく。</p>

<p>　＊他店の価格（紙媒体の書籍の価格を含む）以下で提供される。Amazonがこのプロセスを自動化するツールを提供し、70％の印税はこの最低価格を基準として算出される。</p>

<p>　＊著作権のある作品が対象で、1923年以前に出版された作品（パブリックドメインの書籍）は対象外。当初は米国で販売される書籍のみが対象となる。</p>

<p>＊＊＊＊＊</p>

<p>びっくりするのは電子書籍の印税ってアメリカでは35％もあったってこと。しかもそれを今度は倍の70％にするってことです。</p>

<p>ええええ！？　日本じゃ単行本でもせいぜい売価の10％。翻訳物だと８％。文庫だと５％ですよ。出版不況だから今はもっと安いかもしれない……。つまり2000円の本１つ売れても、日本じゃ書いた人には高々200円（税引き前）しか手に入らないってこと。初版なんて今きっと3000部がいいところだろうから、2000円の本１つ書いて出しても全部で60万円にしかならないということです。これじゃ生きてけないわね。でもこれがアメリカだったら420万円だ。うーん、俄然やる気が出てくるね。</p>

<p>そういやアメリカって、作家がものすごい前払金をもらったりしてますものね。それにしてもこんなに印税取ってたとは知らなんだ。てか、日本の出版社のほうがすごい搾取をしてるってことか。まあ、製本とか抜群にきれいですけど。</p>

<p>でも道理で大手出版社の社員は結構な高給取り。講談社とか集英社とか新潮社とかの社員ってエリートっぽいもんねえ。しかも作家は本を出していただけるところですから下手な文句も言えず、なんせ「東販／日販がこれじゃあ売れないって言うんで」という一言で、はあ、と言わざるを得ない。</p>

<p>ところが自分の時価の販路ができるとあれば話は違います。まあ、宣伝とかは必要でしょうが、私のような、べつに大して売ろうと思っていないのは読みたい／読ませたい人にだけ届けばよいわけで、これはうれしい。これは出版革命ですわ。</p>

<p>アメリカの一般の本屋さんはアマゾンの成長でどんどん閉店しています。統廃合と再編が進んで大手ブックチェーンだけがかろうじて生き残っている。それが今度は「本」そのものがなくなろうとしているのでしょう。もちろんここでも人間の「物」への執着はなくならないでしょうから本屋さんが完全に消滅することはないにしても、商売のメインストリームからは消えてゆく運命なんでしょうね。だからその大手書店チェーンも今、自社チェーンというかサイトでの電子書籍販売システムの構築に躍起になっているのです。</p>

<p>まあ、わたしが考えてるくらいですから日本の関連業者さんはすでに新たなビジネスモデルとビジネスチャンスをねらってがんばっているんでしょうけれど。</p>

<p>もっとも、次のようなニュースも</p>

<p>＊＊＊＊</p>

<p>Amazon、Kindle向け自費出版サービスを米国外に拡大</p>

<p>【世界中の出版社や個人が、電子書籍リーダー「Kindle」向けのコンテンツをKindle Storeで販売できるようになった。ただし対応する言語は英語、ドイツ語、フランス語のみ】</p>

<p>1月18日10時49分配信 ITmedia エンタープライズ</p>

<p>　米Amazonは1月15日、米国でのみ提供してきた電子書籍の自費出版サービス「Kindle Digital Text Platform（DTP）」を、米国外でも利用可能にしたと発表した。対応する言語は英語に加え、ドイツ語とフランス語。そのほかの言語についても段階的に対応していくという。</p>

<p>　DTPは出版社や個人がコンテンツをKindle Storeで販売できるようにするサービス。HTMLやテキスト、PDFファイルなどをアップロードするとKindleのフォーマットに変換され、Kindle Storeに登録される。書籍の価格は利用者が設定でき、売り上げの35％を受け取ることができる。これまでは米国の銀行口座と米国在住を証明するための社会保障番号(SSN)などが必要だったが、米国外の利用者はそれらの情報を記入せずに登録できるようになった。売上金の受け取りは小切手で行う。</p>

<p>　Kindleで表示できる文字は現状ではLatin-1と呼ばれる1バイトコードのみで、日本語などの2バイトコードに対応する見込みは具体的に明らかにされていない。<br />
最終更新:1月18日10時49分</p>

<p>＊＊＊＊</p>

<p>日本語という言葉によって、日本はここでも守られて入るんですが、猶予の時間はそう長くはないと思います。</p>]]>
        
    </content>
</entry>
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    <title>再び、ハイチ地震と日本</title>
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    <published>2010-01-19T03:28:45Z</published>
    <updated>2010-01-19T23:49:09Z</updated>
    
    <summary>距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。 折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう？　まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで５日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢４億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。 西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。 それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。 ▼アメリカン・エクスプレス；25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。 ▼アメリカン航空グループ（AMR）；サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。 ▼AT&amp;T；携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。 ▼バンク・オブ・アメリカ；100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。 ▼キャンベルスープ；20万ドル。 ▼キヤノン・グループ；22万ドルを米赤十字社へ。 ▼シスコ基金；250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付（上限100万ドル） ▼シティグループ；救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。 ▼コカコーラ；米赤十字社へ100万ドル。 ▼クレディスイス；100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。 ▼DHL；災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。 ▼ダウ・ケミカル；50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。 ▼デュポン；10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。 ▼フェデラルエクスプレス；42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。 ▼ゼネラル・エレクトリック（GE）；250万ドル。 ▼ジェネラル・ミルズ基金；25万ドル。 ▼ゴールドマン・サックス；100万ドル。 ▼グーグル；100万ドルをユニセフとCAREへ。 ▼グラクソ・スミス＆クライン；抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。 ▼GM基金；10万ドルを米赤十字社へ。 ▼ヒューレット・パッカード；50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。 ▼ホームデポ基金；10万ドルを米赤十字社へ。 ▼IBM；技術およびサービスで15万ドル相当分。 ▼インテル；25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。 ▼JPモルガン・チェース；100万ドル。 ▼ケロッグ；25万ドル。 ▼KPMG；50万ドル。 ▼クラフト・フーズ；2万5000ドル。 ▼メジャーリーグ・ベースボール（MBL）；100万ドルをユニセフに。 ▼マスターカード；会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。 ▼マクドナルド；50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。 ▼マイクロソフト；125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。 ▼モルガン・スタンリー；100万ドル。 ▼モトローラ；10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。 ▼北米ネスレ・ウォーターズ；100万ドル相当分の飲料水 ▼ニューズ・コープ；25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。...</summary>
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        <name>kitamaru</name>
        
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            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・アメリカ" />
            <category term="時事問題・国際" />
            <category term="時事問題・日本" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。</p>

<p>折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう？　まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで５日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢４億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。</p>

<p>西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で<a href="http://www.uschamber.com/BCLC/Haiti_CorporateDonations" target="_blank">米企業の支援をまとめているサイト</a>を見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。</p>

<p>それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。</p>

<p>▼アメリカン・エクスプレス；25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。<br />
▼アメリカン航空グループ（AMR）；サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。<br />
▼AT&T；携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。<br />
▼バンク・オブ・アメリカ；100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。<br />
▼キャンベルスープ；20万ドル。<br />
▼キヤノン・グループ；22万ドルを米赤十字社へ。<br />
▼シスコ基金；250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付（上限100万ドル）<br />
▼シティグループ；救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。<br />
▼コカコーラ；米赤十字社へ100万ドル。<br />
▼クレディスイス；100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。<br />
▼DHL；災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。<br />
▼ダウ・ケミカル；50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。<br />
▼デュポン；10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。<br />
▼フェデラルエクスプレス；42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。<br />
▼ゼネラル・エレクトリック（GE）；250万ドル。<br />
▼ジェネラル・ミルズ基金；25万ドル。<br />
▼ゴールドマン・サックス；100万ドル。<br />
▼グーグル；100万ドルをユニセフとCAREへ。<br />
▼グラクソ・スミス＆クライン；抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。<br />
▼GM基金；10万ドルを米赤十字社へ。<br />
▼ヒューレット・パッカード；50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。<br />
▼ホームデポ基金；10万ドルを米赤十字社へ。<br />
▼IBM；技術およびサービスで15万ドル相当分。<br />
▼インテル；25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。<br />
▼JPモルガン・チェース；100万ドル。<br />
▼ケロッグ；25万ドル。<br />
▼KPMG；50万ドル。<br />
▼クラフト・フーズ；2万5000ドル。<br />
▼メジャーリーグ・ベースボール（MBL）；100万ドルをユニセフに。<br />
▼マスターカード；会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。<br />
▼マクドナルド；50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。<br />
▼マイクロソフト；125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。<br />
▼モルガン・スタンリー；100万ドル。<br />
▼モトローラ；10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。<br />
▼北米ネスレ・ウォーターズ；100万ドル相当分の飲料水<br />
▼ニューズ・コープ；25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。<br />
▼ニューヨーク・ヤンキーズ；50万ドル。<br />
▼パナソニック；10万9962ドル（1000万円）。<br />
▼ペプシコ；100万ドル。<br />
▼トヨタ；50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。<br />
▼トイザらス；15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。<br />
▼ユニリーヴァー；50万ドルを国連食糧計画に。<br />
▼ヴェライゾン基金；10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。<br />
▼VISA；20万ドルを米赤十字社へ。<br />
▼ウォルマート；50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。<br />
▼ウォルト・ディズニー社；10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。</p>

<p>　　……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。</p>

<p>電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに（地震発生後５日間）で1600万ドル（15億円）を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。</p>

<p>思えば９・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。</p>

<p>とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。</p>

<p>日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ（トップページ）にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがＣＲＭの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。</p>

<p>何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。</p>

<p>今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法９条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。<br />
</p>]]>
        
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    <title>地震で壊滅的なハイチ支援の緊急呼びかけ</title>
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    <published>2010-01-14T07:19:47Z</published>
    <updated>2010-01-14T07:43:16Z</updated>
    
    <summary>アメリカのTVニュースではハイチの惨状がずっと報道されています。とんでもないことになっています。マグニチュードこそ7.0と阪神大震災（M7.3）より小さかったといえ、震源の浅さと脆弱な建物の倒壊のために被害の規模は何十倍にも及んでいます。死者はともすると十万人を超えるとか言っています。被災人口は300万人！ 国連の仲裁で亡命大統領だったアリスティードが復帰した1994年に取材でニューヨークからハイチに入りました。ポルトープランスはとても貧しい首都で、首都でそうなのですから地方はもっと困窮した事態でした。建物はすべて２階建てか３階建てで、木造の他、セメントブロックをただ積み上げただけの家が並んでいました。支柱もないこれらの家屋が軒並み倒壊したのです。ツイッターにもフェイスブックにもハイチの人々の悲鳴が溢れています。 日本での報道がどうなっているのか、日本政府の対応がどうなのか、チェックしていません。 こういうとき、どうすべきか。 民主党でも、社民党でも、いや、自民党のだれか、ここが政治家の出番だ、売名行為といわれてもよい、すぐにテレビでもラジオでも日本国民に募金を呼びかけることです。500円でも100円でも1000円でも、政府のおカネの手配が遅れるなら、一般人がカネを出し合って送ってやることです。それをやってますか？ もう１つ、日本の企業各社のホームページ（トップページ）をいますぐハイチへのお見舞いの言葉で始まるデザインに書き換えることです。そうしてそこからクリックで国際赤十字なりへの募金ページに飛べるようにすることです。銀行は寄付金の振り込み料を無料にするようシステムを変えることです。 阪神・淡路大震災、9.11、インド洋大津波、世界中の大災害で欧米の各企業と各政府の反応の素早かったこと。日本の企業はぜんぜん駄目でした。とにかくお見舞いを表明すること、そこからいろいろな行動が始まります。政府がやるというのではなく、日本人がみんなでハイチを考えてください。それが日本という国なのだと表明してください。 いま、欧米の企業や政府がみんなそれに取りかかっています。企業もホームページを書き換えています。 これを読んだあなたの会社でも、そうしてください。 つい２日前のブログでハウツー本をけなしましたが、これこそ、ハウツーの重要さです。 思いは形にしなければ伝わらないのです。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="時事問題・国際" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>アメリカのTVニュースではハイチの惨状がずっと報道されています。とんでもないことになっています。マグニチュードこそ7.0と阪神大震災（M7.3）より小さかったといえ、震源の浅さと脆弱な建物の倒壊のために被害の規模は何十倍にも及んでいます。死者はともすると十万人を超えるとか言っています。被災人口は300万人！</p>

<p>国連の仲裁で亡命大統領だったアリスティードが復帰した1994年に取材でニューヨークからハイチに入りました。ポルトープランスはとても貧しい首都で、首都でそうなのですから地方はもっと困窮した事態でした。建物はすべて２階建てか３階建てで、木造の他、セメントブロックをただ積み上げただけの家が並んでいました。支柱もないこれらの家屋が軒並み倒壊したのです。ツイッターにもフェイスブックにもハイチの人々の悲鳴が溢れています。</p>

<p>日本での報道がどうなっているのか、日本政府の対応がどうなのか、チェックしていません。<br />
こういうとき、どうすべきか。</p>

<p>民主党でも、社民党でも、いや、自民党のだれか、ここが政治家の出番だ、売名行為といわれてもよい、すぐにテレビでもラジオでも日本国民に募金を呼びかけることです。500円でも100円でも1000円でも、政府のおカネの手配が遅れるなら、一般人がカネを出し合って送ってやることです。それをやってますか？</p>

<p>もう１つ、日本の企業各社のホームページ（トップページ）をいますぐハイチへのお見舞いの言葉で始まるデザインに書き換えることです。そうしてそこからクリックで国際赤十字なりへの募金ページに飛べるようにすることです。銀行は寄付金の振り込み料を無料にするようシステムを変えることです。</p>

<p>阪神・淡路大震災、9.11、インド洋大津波、世界中の大災害で欧米の各企業と各政府の反応の素早かったこと。日本の企業はぜんぜん駄目でした。とにかくお見舞いを表明すること、そこからいろいろな行動が始まります。政府がやるというのではなく、日本人がみんなでハイチを考えてください。それが日本という国なのだと表明してください。</p>

<p>いま、欧米の企業や政府がみんなそれに取りかかっています。企業もホームページを書き換えています。<br />
これを読んだあなたの会社でも、そうしてください。</p>

<p>つい２日前のブログでハウツー本をけなしましたが、これこそ、ハウツーの重要さです。<br />
思いは形にしなければ伝わらないのです。</p>]]>
        
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    <title>日米外相会談</title>
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    <id>tag:www.kitamaruyuji.com,2010:/dailybullshit//1.684</id>
    
    <published>2010-01-12T17:44:47Z</published>
    <updated>2010-01-14T07:12:25Z</updated>
    
    <summary>さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また５分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。 というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。（って、私は前から言っていたんですけどね）。 日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「５月までに決める＝５月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか？　というかどこに着目しているのか？ アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない（indestructible）のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。 もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50％を初めて切って、46％になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10％を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で５千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。 で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。 じつはこれには伏線があります。１月６日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise（ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ）」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」（朝日新聞）のです。 これを報じた朝日新聞を引きましょう。 同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。（普天間のような）二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。 　東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。 まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。 ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の１つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という（まあ、もっともな）立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。 ＊＊ Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・アメリカ" />
            <category term="時事問題・日本" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また５分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。</p>

<p>というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。（って、私は前から言っていたんですけどね）。</p>

<p>日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「５月までに決める＝５月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか？　というかどこに着目しているのか？</p>

<p>アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない（indestructible）のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。</p>

<p>もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50％を初めて切って、46％になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10％を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で５千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。</p>

<p>で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。</p>

<p>じつはこれには伏線があります。１月６日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise（ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ）」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」（朝日新聞）のです。</p>

<p>これを報じた朝日新聞を引きましょう。<br />
同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。（普天間のような）二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。<br />
　東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。</p>

<p>まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。</p>

<p>ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の１つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という（まあ、もっともな）立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。</p>

<p>＊＊</p>

<p>Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.<br />
たとえ鳩山氏が結果的に基地計画で折れたとしても、われわれは日本に対してより我慢強く戦略的なアプローチをしていかねばならない。われわれがいまやっていることは東アジアのためのわれわれの長期的戦略を二次的な問題で脅かしているという事態なのである。普天間は、そんなものは屁みたいなもんだし、日本の新政権が持ち出してきた数多くの問題の１つでしかない。新政権が言っているのはより平等な同盟関係とか、中国とのよりよい関係とか、東アジアのコミュニティの創造だとか、まあ、意味ははっきりとはわからないまでもそういうことなのだ。</p>

<p>When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.<br />
東アジア戦略に関して1995年にペンタゴンの報告書を手伝ったときに、われわれの見据えたことはこの地域に３つの大国が存在しているという現実だった。すなわち、米国、日本、中国である。われわれが日本との同盟関係を維持することが中国が台頭してくるその環境を決定づけるのである。われわれは中国が国際的なシステムの中に入ってくるよう望んでいた。たとえば世界貿易機関（WTO）に参加するなどして。しかしわれわれは同時に未来のより強大になった中国が好戦的に変わる危険にも備えなくてはならなかったのだ。</p>

<p>＊＊</p>

<p>かなりしたたかでしょう。<br />
そう、日本が中国を見ているように、アメリカもまた中国との関係で日本はとても重要な国なのです。その三つ巴の（？）バランスを上手く保たねば、この地域でのアメリカの覇権も危うい。そのためには普天間など取るに足らない問題だ、というわけです。おそらくこれはクリントン国務省の考え方と同じと考えてよい。</p>

<p>ワシントンポストはまさにそこを次のように書いています。（翻訳文のカッコ内は私の註です）</p>

<p>The new tone also stems from a growing realization in Washington and Tokyo that the base issue cannot be allowed to dominate an alliance crucial to both countries at a time when a resurgent China is remaking Asia, signing trade deals and staking claims to ocean resources.<br />
ワシントンと東京で、再び台頭してきた中国がアジアを再構築し貿易問題をまとめ海洋資源の所有権を主張しようとしているとき、米日両国にとって死活の問題である同盟関係を基地問題などで右往左往させてはならないという認識が育ってきて、（日米間の亀裂、不協和音とは違う）あらたな傾向が出てきた。</p>

<p>（中略）<br />
But Tuesday, Clinton was understanding.<br />
火曜日（12日＝日米外相会談の日）、クリントンは（日本の立場を）理解していた。</p>

<p>"We are respectful of the process that the Japanese government is going through," she said. "We also have an appreciation for some of the difficult new issues that this government must address," including the widespread opposition to the U.S. military presence on Okinawa.<br />
「日本政府が経験している過程はわれわれも尊重している」と彼女（クリントン）は言った。「またこの（日本の）政府が困難で新たな問題のいくつかに取り組んでいることも私たちは評価している」と。その問題には沖縄の米軍の駐留に対する広い反対意見のことも含まれている。</p>

<p>＊＊</p>

<p>ね、いかに「普天間、平行線」という見出しが間違っているか、これでわかるでしょ？<br />
岡田外相と、その報告を受けた鳩山首相が上機嫌そうだったのは、こういうことなのです。</p>

<p>＊＊＊＊＊<br />
以下、ナイのエッセーを添付しときます。時間があったら翻訳しますけど、いまはちょっと全部は無理。</p>

<p>SEEN from Tokyo, America’s relationship with Japan faces a crisis. The immediate problem is deadlock over a plan to move an American military base on the island of Okinawa. It sounds simple, but this is an issue with a long back story that could create a serious rift with one of our most crucial allies.</p>

<p>When I was in the Pentagon more than a decade ago, we began planning to reduce the burden that our presence places on Okinawa, which houses more than half of the 47,000 American troops in Japan. The Marine Corps Air Station Futenma was a particular problem because of its proximity to a crowded city, Ginowan. After years of negotiation, the Japanese and American governments agreed in 2006 to move the base to a less populated part of Okinawa and to move 8,000 Marines from Okinawa to Guam by 2014.</p>

<p>The plan was thrown into jeopardy last summer when the Japanese voted out the Liberal Democratic Party that had governed the country for nearly half a century in favor of the Democratic Party of Japan. The new prime minister, Yukio Hatoyama, leads a government that is inexperienced, divided and still in the thrall of campaign promises to move the base off the island or out of Japan completely.</p>

<p>The Pentagon is properly annoyed that Mr. Hatoyama is trying to go back on an agreement that took more than a decade to work out and that has major implications for the Marine Corps’ budget and force realignment. Secretary of Defense Robert Gates expressed displeasure during a trip to Japan in October, calling any reassessment of the plan “counterproductive.” When he visited Tokyo in November, President Obama agreed to a high-level working group to consider the Futenma question. But since then, Mr. Hatoyama has said he will delay a final decision on relocation until at least May.</p>

<p>Not surprisingly, some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise, for Mr. Hatoyama is caught in a vise, with the Americans squeezing from one side and a small left-wing party (upon which his majority in the upper house of the legislature depends) threatening to quit the coalition if he makes any significant concessions to the Americans. Further complicating matters, the future of Futenma is deeply contentious for Okinawans.</p>

<p>Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.</p>

<p>When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.</p>

<p>After a year and a half of extensive negotiations, the United States and Japan agreed that our alliance, rather than representing a cold war relic, was the basis for stability and prosperity in the region. President Bill Clinton and Prime Minister Ryutaro Hashimoto affirmed that in their 1996 Tokyo declaration. This strategy of “integrate, but hedge” continued to guide American foreign policy through the years of the Bush administration.</p>

<p>This year is the 50th anniversary of the United States-Japan security treaty. The two countries will miss a major opportunity if they let the base controversy lead to bitter feelings or the further reduction of American forces in Japan. The best guarantee of security in a region where China remains a long-term challenge and a nuclear North Korea poses a clear threat remains the presence of American troops, which Japan helps to maintain with generous host nation support.</p>

<p>Sometimes Japanese officials quietly welcome “gaiatsu,” or foreign pressure, to help resolve their own bureaucratic deadlocks. But that is not the case here: if the United States undercuts the new Japanese government and creates resentment among the Japanese public, then a victory on Futenma could prove Pyrrhic.</p>]]>
        
    </content>
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    <title>二人で生きる技術</title>
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    <published>2010-01-11T19:32:41Z</published>
    <updated>2010-01-12T20:45:39Z</updated>
    
    <summary> よくわからないのですが、いわゆるハウツー本が本屋さんに並んでいたりするのを見るとなんとまあ恥ずかしいなあと思ってしまいます。コンピュータとかカメラとか、育児とか料理とか、そういうツールや技術系のハウツー本ならぜんぜんいいんですけどね。でも……と書いてみて、あら、本なんてみんなハウツーものみたいなもんかもしれないなと思ったりもします。そうだよね、こうやって書いていることも、結局は書き手が考えた答えを都合よく読み手に教えてるってことだもなあ、とかって……でも言いたいのは、なんというか、ほんとうはそういうのは手っ取り早く誰かの用意した答えを知るのじゃなくて、自分でちゃんと時間をかけて考えて答えを見つけていかなくちゃダメだろ、というような物事がこの世には確実にあるような気がするんですね。答えが大切なんじゃなくて、答えにいたるまでのプロセスが大切なのに、先に答えを聞いてしまってどうするんだ、ってことが。 太宰が、数学の教科書の後ろに問題の答が書いてあるのを見つけて、「なんと無礼な」か「失礼」だったか、そう思った、ってのがどっかにあったでしょ？　あれなんだよね。あれを読んだからか、私は10代のころからレコードもベスト盤を買うのを恥ずかしいことだと思ってしまった。絶対に自分はベスト盤など買わないぞと誓った。で、中年になって、iTunesストアが出来て、往年のロックやジャズの懐かしい連中のコレクションを自分のMacに再収集しようとして、めくるめくほど数多のベスト盤の山を前に思わずその１つをポチってしまったとき、私はふと辺りを見回し、目撃者のいないことに軽く安堵しつつも激しく自らを恥じたものです。（でも１回ポチるともうあとは堰を切ったようにベスト盤の嵐でしたけど。ま、経済的にも全然安上がりですし、背に腹は変えられないという事情はありますな。年を取ると寛容になるもんです） ハウツー本とベスト盤がどうして同じ次元で語られるのかってのは、つまり、ラクしていいとこ取りしようってことで、言い訳を言えば、わたしなんぞの、もうそうは新しいことなんか起きない年代の、しかも残された時間もそうない者にはそれでもぜんぜん大勢には影響がないってことなんだけど、これから人生を作っていく人たちが、対人関係とか仕事のしかたとか、恋愛とか人生とか、そういうもので教科書の後ろを見ちゃうみたいなやり方だと、それは本末転倒でしょーってことなんです。知ったふうなことばかり言って、その実ものすごく中身がなくて、ぜんぶどっかで聞いたようなことだけを題目のように繰り返して世を渡ってるような輩も（渡れてないか）けっこういます。話しててやになっちゃう。 だから、例えばジャーナリズム学科とかで勉強したって、それはちょっと違うんじゃないかって思う。火事や殺しや交通事故の現場でないと感じられないなにかがあって、それを書くことに苦悶して、そうやってからジャーナリズム学科でもういっかい勉強できるような、そんな環境やシステムが日本の職業ジャーナリストたちにも用意されていれば素晴らしいと思うけど、最初にジャーナリズム学科で技術を教わっても、まあ、人によるだろうけど、つまり、わかったふうに思っちゃいけないってことですわね。まあ、そうね、人によるか。ジャーナリスト学科で学んでも、知ったふうには思わないやつもいるもんね。技術はあるに越したことはないし、か。 そうですね。つまり、ハウツー本を読んで、知ったふうな口をきくやつがダメなんだ。だからといって「だからそれはハウツー本が悪いわけじゃない」ってわけじゃなくて、ハウツー本は九割がたそういう連中を確実に標的にして作られてるんだから、ダメに乗っかってカネ稼ぐための本だから、いわゆる故意の教唆だわね。ハウツー本もやっぱりダメなんだよ。 ……といろいろと与太が長くなったですが、何が書きたいかというと、表題の本についてです。 年をまたいで「二人で生きる技術　〜幸せになるためのパートナーシップ」（ポット出版）を読んで、2010年のブログの最初のエントリーはこの本についてにしようと決めました。著者の大塚隆史さんは70年代後半にラジオ「スネークマンショー」で15分ほどの自身のコーナーを持ち、ゲイに関する幅広い話題を広く（多くゲイの）聴取者に語りかけていた人です。寡聞にして私はその当時そのラジオのことは知りませんでしたが、大塚さんにお会いした数年前、録音の残っていたものを集めたCDをいただいて、その話題の広さと深さにちょっと、というか、かなりショックを受けました。というのも、私が90年代から書いたり言ったりしていたことのほとんどは、すでに大塚さんがそのラジオ番組で10年以上前に言い尽くしていたことだったからです。はは、こりゃまいったね、というのが正直な感想でした。 「二人で生きる技術」はその大塚さんの、個人のパートナー史というべきものを通じて、パートナーであること、パートナーであろうとするというのはどういうことなのか、を示している本です。でも、これは教科書ではありません。ハウツー本でもありません。冒頭から多くを費やして、つまり私はそのことが言いたかったのです。 でね、ここで書かれるパートナー、「二人」というのは、男同士の二人です。で、だからこれはゲイのパートナーシップのためにだけに書かれた本かというと、じつはそうじゃない気がします。これは、同性間・異性間にかかわらず、最も困難な環境の１つにいる人たちが、どうやって伴侶を見つけ、どうやってその関係を続けるのかについての、普遍的な、かつとても個人的な努力の軌跡です。 私たちはここで「大塚隆史」というある個人の、パートナーを求めて止まない人生を覗き見ることになります。彼はこれまでに５人のパートナーと付き合っているのですが、彼の心にあったのはただ１つ、おとぎ話で結ばれたお姫さまと王子様がその後、「末長く幸せに暮らしました」という絶対命題でした。つまり彼にとっての傾注の対象は、物語の主要となるドラマティックな恋愛の部分が終わったあとの、「末長く」しかも「幸せ」な「暮らし」のことなのです。著者はこの「暮らし」のために懸命に精力を傾けます。これが「二人で生きる」ということであり、そのためには技術が必要なんだという気づきがあるんですが、でも、その技術がなんなのか、この本はハウツー本のように簡単にはそれを教えてはくれません。なぜなら、それは具体的には５人のパートナーそれぞれで違うことだったのですし、私たちはそのパートナーたちとの「暮らし」の丁寧で詳細な記述の各章を読み進めることで、筆者とそのパートナーの行った努力と獲得した技術とを追体験することになるのです。そうして、そうすることでしかわからないことというものがある。 男女の、あらかじめ当たり前として用意されている“ような”関係性とは違って、ゲイの男性（あるいは女性）２人の関係というのはなんとも手探りで、だれもの目に見えるロールモデル（理想のお手本）というのもそうあるわけではありません。男女の場合は恋愛のあとに結婚というものが控えているのを多くの人が認識しているでしょうが、日本のゲイの場合は結婚もシヴィルユニオンもドメスティックパートナーシップも現実問題として自らに引き寄せて考えている人はそう多くはないでしょう。すると勢い、状況的に、ゲイ男性カップルの関係性というのは恋愛の後は何なんだ、セックスの後は何になるんだろうということになります。 著者が行ったことは、まさにその「なにか」をハウツー本もなく自ら作り上げてゆくことでした。そしてそれのすべてをいま、身を以て示してくれることだったのです。彼以前にそれを作り上げた人はもちろんいたでしょうが、それを見せてくれた人はほとんど皆無だったからです。男女の恋愛を描いた小説や映画は数限りなくありますし、それこそ「その後」の「暮らし」を追ったドキュメンタリーもたくさんあります。でもそれらはほぼ、「二人で暮らす」ことをアプリオリな大前提として始めていて、そこを疑うことについて甘い。でも、ほんとうはそこから始めなくてはならないのではないか？ そう思ったとき、じつはそのことは男女のカップルにとってもほんとうは同じなのだということに気づくのです。恋愛ってそもそも自動的に始まってしまいます。恋愛の原動力はセックスへの希求（リビドー）なんですが、というかそれは主客転倒で、リビドーがセックスへと導く儀式としての恋愛を創造したんですが、自動的に始まる恋愛は自動操縦ではどうもうまく行かないほど複雑になってしまって、あるいはお見合いによるお付き合いでもいいんだけど、人間の私たちはいつの間にかそんな自動操縦のモードを手放さざるを得なくなってしまいました。 ところが恋愛（という捏造された儀式）の余勢をかって、なるがままに任せていればどうにかなるさと思っているカップルが多いのです。そもそもいろんな分野で自動操縦をやめてしまった人間たちが、どうして愛する人とだけは自動操縦で大丈夫だと思っていられるのか。 恋愛って、人生で何回も出来るもんじゃない。恋愛にベテランというのは存在しないのです。つまり、みんないくつになっても手探りで、素人なの。だから真剣にならないとすぐに失敗するのです。 「二人で生きる技術」に書かれている数多くの実際のエピソードは、読んでいて「他者」というものの発見に満ちています。人間って、みんな違うんだって改めて気づかされます。セックスの話も包み隠さず出てきます。エイズの話も、ウソの話も、浮気の話も出てきます。おそらく、多くの読者が泣くだろうエピソードも登場します。私も泣きました。そうして、他者というのは、改めてすごいなあと思った。自分の知らなかった他者たちをこうして知った「気づき」を、有り難く思うのです。 これは、自分の愛する女性との関係を当たり前と思っている男性たちに読んでもらいたい本です。あるいは愛する男性との関係で悩んでいる女性たちにも。関係性において、何事にも当たり前というのはありません。それは奇跡なのです。それが続くのは、さらにもっと大きな奇跡なのです。それを続けさせるための「技術」がこの本には書いてあります。最後の章にいくつか箇条書きにもなっています。でも、それは大した技術ではありません。いちばん重要なのは、そこまで読み進め、何かを読み取ろうとした努力に関係するものです。この本を読み進めたように、自分たちの関係を読解してみることがまず、そんな技術を体得するためのとっかかりだろうと思います。それは、関係を諦めない、おとぎ話を信じる力なのだと思います。...</summary>
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        <name>kitamaru</name>
        
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            <category term="書評・劇評・映画評など" />
    
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        <![CDATA[<p><img alt="２人で生きる技術.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/%EF%BC%92%E4%BA%BA%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E6%8A%80%E8%A1%93.jpg" width="400" height="588" /></p>

<p>よくわからないのですが、いわゆるハウツー本が本屋さんに並んでいたりするのを見るとなんとまあ恥ずかしいなあと思ってしまいます。コンピュータとかカメラとか、育児とか料理とか、そういうツールや技術系のハウツー本ならぜんぜんいいんですけどね。でも……と書いてみて、あら、本なんてみんなハウツーものみたいなもんかもしれないなと思ったりもします。そうだよね、こうやって書いていることも、結局は書き手が考えた答えを都合よく読み手に教えてるってことだもなあ、とかって……でも言いたいのは、なんというか、ほんとうはそういうのは手っ取り早く誰かの用意した答えを知るのじゃなくて、自分でちゃんと時間をかけて考えて答えを見つけていかなくちゃダメだろ、というような物事がこの世には確実にあるような気がするんですね。答えが大切なんじゃなくて、答えにいたるまでのプロセスが大切なのに、先に答えを聞いてしまってどうするんだ、ってことが。</p>

<p>太宰が、数学の教科書の後ろに問題の答が書いてあるのを見つけて、「なんと無礼な」か「失礼」だったか、そう思った、ってのがどっかにあったでしょ？　あれなんだよね。あれを読んだからか、私は10代のころからレコードもベスト盤を買うのを恥ずかしいことだと思ってしまった。絶対に自分はベスト盤など買わないぞと誓った。で、中年になって、iTunesストアが出来て、往年のロックやジャズの懐かしい連中のコレクションを自分のMacに再収集しようとして、めくるめくほど数多のベスト盤の山を前に思わずその１つをポチってしまったとき、私はふと辺りを見回し、目撃者のいないことに軽く安堵しつつも激しく自らを恥じたものです。（でも１回ポチるともうあとは堰を切ったようにベスト盤の嵐でしたけど。ま、経済的にも全然安上がりですし、背に腹は変えられないという事情はありますな。年を取ると寛容になるもんです）</p>

<p>ハウツー本とベスト盤がどうして同じ次元で語られるのかってのは、つまり、ラクしていいとこ取りしようってことで、言い訳を言えば、わたしなんぞの、もうそうは新しいことなんか起きない年代の、しかも残された時間もそうない者にはそれでもぜんぜん大勢には影響がないってことなんだけど、これから人生を作っていく人たちが、対人関係とか仕事のしかたとか、恋愛とか人生とか、そういうもので教科書の後ろを見ちゃうみたいなやり方だと、それは本末転倒でしょーってことなんです。知ったふうなことばかり言って、その実ものすごく中身がなくて、ぜんぶどっかで聞いたようなことだけを題目のように繰り返して世を渡ってるような輩も（渡れてないか）けっこういます。話しててやになっちゃう。</p>

<p>だから、例えばジャーナリズム学科とかで勉強したって、それはちょっと違うんじゃないかって思う。火事や殺しや交通事故の現場でないと感じられないなにかがあって、それを書くことに苦悶して、そうやってからジャーナリズム学科でもういっかい勉強できるような、そんな環境やシステムが日本の職業ジャーナリストたちにも用意されていれば素晴らしいと思うけど、最初にジャーナリズム学科で技術を教わっても、まあ、人によるだろうけど、つまり、わかったふうに思っちゃいけないってことですわね。まあ、そうね、人によるか。ジャーナリスト学科で学んでも、知ったふうには思わないやつもいるもんね。技術はあるに越したことはないし、か。</p>

<p>そうですね。つまり、ハウツー本を読んで、知ったふうな口をきくやつがダメなんだ。だからといって「だからそれはハウツー本が悪いわけじゃない」ってわけじゃなくて、ハウツー本は九割がたそういう連中を確実に標的にして作られてるんだから、ダメに乗っかってカネ稼ぐための本だから、いわゆる故意の教唆だわね。ハウツー本もやっぱりダメなんだよ。</p>

<p>……といろいろと与太が長くなったですが、何が書きたいかというと、表題の本についてです。</p>

<p>年をまたいで「二人で生きる技術　〜幸せになるためのパートナーシップ」（ポット出版）を読んで、2010年のブログの最初のエントリーはこの本についてにしようと決めました。著者の大塚隆史さんは70年代後半にラジオ「スネークマンショー」で15分ほどの自身のコーナーを持ち、ゲイに関する幅広い話題を広く（多くゲイの）聴取者に語りかけていた人です。寡聞にして私はその当時そのラジオのことは知りませんでしたが、大塚さんにお会いした数年前、録音の残っていたものを集めたCDをいただいて、その話題の広さと深さにちょっと、というか、かなりショックを受けました。というのも、私が90年代から書いたり言ったりしていたことのほとんどは、すでに大塚さんがそのラジオ番組で10年以上前に言い尽くしていたことだったからです。はは、こりゃまいったね、というのが正直な感想でした。</p>

<p>「二人で生きる技術」はその大塚さんの、個人のパートナー史というべきものを通じて、パートナーであること、パートナーであろうとするというのはどういうことなのか、を示している本です。でも、これは教科書ではありません。ハウツー本でもありません。冒頭から多くを費やして、つまり私はそのことが言いたかったのです。</p>

<p>でね、ここで書かれるパートナー、「二人」というのは、男同士の二人です。で、だからこれはゲイのパートナーシップのためにだけに書かれた本かというと、じつはそうじゃない気がします。これは、同性間・異性間にかかわらず、最も困難な環境の１つにいる人たちが、どうやって伴侶を見つけ、どうやってその関係を続けるのかについての、普遍的な、かつとても個人的な努力の軌跡です。</p>

<p>私たちはここで「大塚隆史」というある個人の、パートナーを求めて止まない人生を覗き見ることになります。彼はこれまでに５人のパートナーと付き合っているのですが、彼の心にあったのはただ１つ、おとぎ話で結ばれたお姫さまと王子様がその後、「末長く幸せに暮らしました」という絶対命題でした。つまり彼にとっての傾注の対象は、物語の主要となるドラマティックな恋愛の部分が終わったあとの、「末長く」しかも「幸せ」な「暮らし」のことなのです。著者はこの「暮らし」のために懸命に精力を傾けます。これが「二人で生きる」ということであり、そのためには技術が必要なんだという気づきがあるんですが、でも、その技術がなんなのか、この本はハウツー本のように簡単にはそれを教えてはくれません。なぜなら、それは具体的には５人のパートナーそれぞれで違うことだったのですし、私たちはそのパートナーたちとの「暮らし」の丁寧で詳細な記述の各章を読み進めることで、筆者とそのパートナーの行った努力と獲得した技術とを追体験することになるのです。そうして、そうすることでしかわからないことというものがある。</p>

<p>男女の、あらかじめ当たり前として用意されている“ような”関係性とは違って、ゲイの男性（あるいは女性）２人の関係というのはなんとも手探りで、だれもの目に見えるロールモデル（理想のお手本）というのもそうあるわけではありません。男女の場合は恋愛のあとに結婚というものが控えているのを多くの人が認識しているでしょうが、日本のゲイの場合は結婚もシヴィルユニオンもドメスティックパートナーシップも現実問題として自らに引き寄せて考えている人はそう多くはないでしょう。すると勢い、状況的に、ゲイ男性カップルの関係性というのは恋愛の後は何なんだ、セックスの後は何になるんだろうということになります。</p>

<p>著者が行ったことは、まさにその「なにか」をハウツー本もなく自ら作り上げてゆくことでした。そしてそれのすべてをいま、身を以て示してくれることだったのです。彼以前にそれを作り上げた人はもちろんいたでしょうが、それを見せてくれた人はほとんど皆無だったからです。男女の恋愛を描いた小説や映画は数限りなくありますし、それこそ「その後」の「暮らし」を追ったドキュメンタリーもたくさんあります。でもそれらはほぼ、「二人で暮らす」ことをアプリオリな大前提として始めていて、そこを疑うことについて甘い。でも、ほんとうはそこから始めなくてはならないのではないか？</p>

<p>そう思ったとき、じつはそのことは男女のカップルにとってもほんとうは同じなのだということに気づくのです。恋愛ってそもそも自動的に始まってしまいます。恋愛の原動力はセックスへの希求（リビドー）なんですが、というかそれは主客転倒で、リビドーがセックスへと導く儀式としての恋愛を創造したんですが、自動的に始まる恋愛は自動操縦ではどうもうまく行かないほど複雑になってしまって、あるいはお見合いによるお付き合いでもいいんだけど、人間の私たちはいつの間にかそんな自動操縦のモードを手放さざるを得なくなってしまいました。</p>

<p>ところが恋愛（という捏造された儀式）の余勢をかって、なるがままに任せていればどうにかなるさと思っているカップルが多いのです。そもそもいろんな分野で自動操縦をやめてしまった人間たちが、どうして愛する人とだけは自動操縦で大丈夫だと思っていられるのか。</p>

<p>恋愛って、人生で何回も出来るもんじゃない。恋愛にベテランというのは存在しないのです。つまり、みんないくつになっても手探りで、素人なの。だから真剣にならないとすぐに失敗するのです。</p>

<p>「二人で生きる技術」に書かれている数多くの実際のエピソードは、読んでいて「他者」というものの発見に満ちています。人間って、みんな違うんだって改めて気づかされます。セックスの話も包み隠さず出てきます。エイズの話も、ウソの話も、浮気の話も出てきます。おそらく、多くの読者が泣くだろうエピソードも登場します。私も泣きました。そうして、他者というのは、改めてすごいなあと思った。自分の知らなかった他者たちをこうして知った「気づき」を、有り難く思うのです。</p>

<p>これは、自分の愛する女性との関係を当たり前と思っている男性たちに読んでもらいたい本です。あるいは愛する男性との関係で悩んでいる女性たちにも。関係性において、何事にも当たり前というのはありません。それは奇跡なのです。それが続くのは、さらにもっと大きな奇跡なのです。それを続けさせるための「技術」がこの本には書いてあります。最後の章にいくつか箇条書きにもなっています。でも、それは大した技術ではありません。いちばん重要なのは、そこまで読み進め、何かを読み取ろうとした努力に関係するものです。この本を読み進めたように、自分たちの関係を読解してみることがまず、そんな技術を体得するためのとっかかりだろうと思います。それは、関係を諦めない、おとぎ話を信じる力なのだと思います。</p>]]>
        
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    <title>オバマの１年</title>
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    <published>2009-12-31T07:08:58Z</published>
    <updated>2010-01-09T17:36:47Z</updated>
    
    <summary>年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの１年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを５分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので（MBSは25分くれました、感謝）、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。 12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。 なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた１年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの１年はまた、国内で３割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った１年でもあったからです。 その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。 しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。 あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の１つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。 イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。 彼は計算高いのでしょうか？　そうかもしれません。同じように３割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。 景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10％なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。 にっちもさっちもいかなかったオバマの１年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。 なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。 で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ？、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義＝悪者」という刷り込みが出来上がっています。 で、オバマに対して批判する人たち，保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。 保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な１年でした。 そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。 ＊＊ よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで？　なんでだよー？　いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ？」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。 鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。 で、そこからなのです。話し合いというのは。 普天間の問題は、基本的に２つの問題に集約されます。 １つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。 もう１つは、沖縄に基地が集中している問題。 沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま？」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。 つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。 それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。 沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。 さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。 そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。 ＊＊ 前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。 もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、３年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。 アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。 交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか？　だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ？　なんか笑えることがあるのか？」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。 ＊＊ 私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。 警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。 アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の，ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。 そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。...</summary>
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        <![CDATA[<p>年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの１年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを５分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので（MBSは25分くれました、感謝）、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。</p>

<p>12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。</p>

<p>なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた１年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの１年はまた、国内で３割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った１年でもあったからです。</p>

<p>その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。</p>

<p>しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。</p>

<p>あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の１つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。</p>

<p>イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。</p>

<p>彼は計算高いのでしょうか？　そうかもしれません。同じように３割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。</p>

<p>景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10％なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。</p>

<p>にっちもさっちもいかなかったオバマの１年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。</p>

<p>なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。</p>

<p>で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ？、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義＝悪者」という刷り込みが出来上がっています。</p>

<p>で、オバマに対して批判する人たち，保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。</p>

<p>保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な１年でした。</p>

<p>そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。</p>

<p>＊＊</p>

<p>よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで？　なんでだよー？　いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ？」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。</p>

<p>鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。</p>

<p>で、そこからなのです。話し合いというのは。</p>

<p>普天間の問題は、基本的に２つの問題に集約されます。</p>

<p>１つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。<br />
もう１つは、沖縄に基地が集中している問題。</p>

<p>沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま？」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。</p>

<p>つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。</p>

<p>それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。</p>

<p>沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。</p>

<p>さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。</p>

<p>そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。</p>

<p>＊＊</p>

<p>前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。</p>

<p>もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、３年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。</p>

<p>アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。</p>

<p>交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか？　だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ？　なんか笑えることがあるのか？」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。</p>

<p>＊＊</p>

<p>私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。</p>

<p>警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。</p>

<p>アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の，ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。</p>

<p>そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。</p>]]>
        
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    <title>中村中〜阿漕な土産〜</title>
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    <published>2009-12-20T05:29:29Z</published>
    <updated>2009-12-20T06:06:11Z</updated>
    
    <summary>渋谷CCレモンホールでの中ちゃんのコンサート、昨晩行ってきた。 アクースティック４人編成をバックのものだったが、中村中、この１年でずいぶんとすごくなった。まあ、声の出ること出ること。出だしはまだ緊張してるみたいだったけど、それがどんどん観客のエネルギーを吸い取るみたいにノリはじめ、ああいう状態は歌っている方もものすごくいい気持ちなんだろうなあと思うような歌になっていった。私も歌ってた頃があるから、なんとなくわかる。えー、こんなのも出るんだって、自分でもびっくりしちゃうくらいなときが訪れることがあるのだ。昨晩はきっとそんな感じだったんだろうって思う。 アクースティックだったから歌い方も変わったのかもしれない。ブレスの仕方が変わった。前回は４月に彼女のコンサートにいったんだが、まあ、ホールの大きさも違うし構成も違うから一概には断じられないけれど、前回はブレスまでをも効果音にしちゃうみたいな感じの歌い方。今回はもっとナチュラルなブレスだった。 そして、歌が確実にうまくなっていた。 だんだん、私の論評が届かないところにまで上がっていくような予感がする。 基本的に、ぼくはぼくが自分でできることと比べることでしか批評ができないのだ。 今年は彼女、事務所を変わったりでいろいろとあったみたいだけど、20代でいろいろと大変なことを経ていくのは彼女にとってきっと良いことなんだと思う。良いことにしていけなければ、もともとだめなんだとも思う。 いっしょに行ったトーちゃんとその夜遅く、さてそこで、プロデューサーとしていったいどういう道を彼女に用意すればよいののかということを考えた。ふうむ、と言ったきり、ふたりともその答えを言葉にすることはなかったけど、歌謡曲歌いの彼女としてと、歌謡曲作りの彼女としてと、どんな未来があるのだろうか。トーちゃんには先日からちあきなおみが頭の中に宿っていたせいもあって、なんとなく２人を比べているような節もあったのだが。 「友達の詩」は名作だが、これはできるべくしてできちゃった歌だろうから、そうじゃなくてモノ作りとして意識的に作り上げる歌がどういうものであるのか、ぼくにはまだ腑に落ちるものが聞こえていない。それは詩の問題だろうか？　彼女はもっともっと本を読むべきかもしれない。詩とか、俳句とか、短歌とかでもいい。寺山とか、ギンズバーグとか、そういう母恋いの詩とかも。そうして盗むところから再開してもいいと思う。 昨晩のコンサートを見ながら、彼女の40歳の、50歳のコンサートに行きたいとちらと思っていた。 それまで生きていようと思った。...</summary>
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            <category term="LGBT問題" />
            <category term="書評・劇評・映画評など" />
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        <![CDATA[<p>渋谷CCレモンホールでの中ちゃんのコンサート、昨晩行ってきた。<br />
アクースティック４人編成をバックのものだったが、中村中、この１年でずいぶんとすごくなった。まあ、声の出ること出ること。出だしはまだ緊張してるみたいだったけど、それがどんどん観客のエネルギーを吸い取るみたいにノリはじめ、ああいう状態は歌っている方もものすごくいい気持ちなんだろうなあと思うような歌になっていった。私も歌ってた頃があるから、なんとなくわかる。えー、こんなのも出るんだって、自分でもびっくりしちゃうくらいなときが訪れることがあるのだ。昨晩はきっとそんな感じだったんだろうって思う。</p>

<p>アクースティックだったから歌い方も変わったのかもしれない。ブレスの仕方が変わった。前回は４月に彼女のコンサートにいったんだが、まあ、ホールの大きさも違うし構成も違うから一概には断じられないけれど、前回はブレスまでをも効果音にしちゃうみたいな感じの歌い方。今回はもっとナチュラルなブレスだった。</p>

<p>そして、歌が確実にうまくなっていた。<br />
だんだん、私の論評が届かないところにまで上がっていくような予感がする。</p>

<p>基本的に、ぼくはぼくが自分でできることと比べることでしか批評ができないのだ。</p>

<p>今年は彼女、事務所を変わったりでいろいろとあったみたいだけど、20代でいろいろと大変なことを経ていくのは彼女にとってきっと良いことなんだと思う。良いことにしていけなければ、もともとだめなんだとも思う。</p>

<p>いっしょに行ったトーちゃんとその夜遅く、さてそこで、プロデューサーとしていったいどういう道を彼女に用意すればよいののかということを考えた。ふうむ、と言ったきり、ふたりともその答えを言葉にすることはなかったけど、歌謡曲歌いの彼女としてと、歌謡曲作りの彼女としてと、どんな未来があるのだろうか。トーちゃんには先日からちあきなおみが頭の中に宿っていたせいもあって、なんとなく２人を比べているような節もあったのだが。</p>

<p>「友達の詩」は名作だが、これはできるべくしてできちゃった歌だろうから、そうじゃなくてモノ作りとして意識的に作り上げる歌がどういうものであるのか、ぼくにはまだ腑に落ちるものが聞こえていない。それは詩の問題だろうか？　彼女はもっともっと本を読むべきかもしれない。詩とか、俳句とか、短歌とかでもいい。寺山とか、ギンズバーグとか、そういう母恋いの詩とかも。そうして盗むところから再開してもいいと思う。</p>

<p>昨晩のコンサートを見ながら、彼女の40歳の、50歳のコンサートに行きたいとちらと思っていた。<br />
それまで生きていようと思った。</p>]]>
        
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    <title>年越しの果てに見えてくるもの</title>
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    <published>2009-12-14T05:02:32Z</published>
    <updated>2009-12-18T05:17:03Z</updated>
    
    <summary>小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。 にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。 普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の（不慣れな）やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。 米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう？　まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか？　それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。 米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。 普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。 しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80％を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか？　それは果たしてそもそも必要なのか？ 日米中の３国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか？　あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。 習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。...</summary>
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            <category term="時事問題・国際" />
            <category term="時事問題・日本" />
    
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        <![CDATA[<p>小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。</p>

<p>にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。</p>

<p>普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の（不慣れな）やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。</p>

<p>米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう？　まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか？　それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。</p>

<p>米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。</p>

<p>普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。</p>

<p>しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80％を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか？　それは果たしてそもそも必要なのか？</p>

<p>日米中の３国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか？　あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。</p>

<p>習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。</p>]]>
        
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    <title>世界エイズデー</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2009/12/post_324.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.kitamaruyuji.com/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=680" title="世界エイズデー" />
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    <published>2009-12-02T05:19:32Z</published>
    <updated>2009-12-18T05:22:41Z</updated>
    
    <summary>１日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。 稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。 一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。 米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。 ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜１時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「Ａ」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。 あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Ａくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し＝犯人探し」が横行しましたっけ。 果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。 これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。 エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。 人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。 宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。 稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。 感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で３人で語り合ったのでした。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="HIV/AIDS" />
            <category term="ジャーナリズム/マスメディア" />
            <category term="時事問題・日本" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>１日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。</p>

<p>稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。</p>

<p>一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。</p>

<p>米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。</p>

<p>ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜１時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「Ａ」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。</p>

<p>あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Ａくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し＝犯人探し」が横行しましたっけ。</p>

<p>果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。</p>

<p>これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。</p>

<p>エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。</p>

<p>人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。</p>

<p>宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。</p>

<p>稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。</p>

<p>感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で３人で語り合ったのでした。</p>]]>
        
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    <title>麻原と三浦と市橋と</title>
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    <published>2009-11-13T08:15:52Z</published>
    <updated>2009-11-13T08:23:22Z</updated>
    
    <summary>市橋容疑者の絶食が続いています。 あくまでも彼がリンゼイさん殺害の犯人だとして、の話ですが、この子、あの逃亡の手段の凄まじさというか、とにかく逃げたいという執念はなにかというと、基本的に、責任を負いたくない、つまり現実を見たくない、つまり叱られたくない、ってことなんだと思います。 きっと、ずっとそうやって逃げてきたのかもしれません。親からのプレッシャーからもなにからも。ぜ～んぶ逃げて生きてきた（のだと勝手に想像してみる）。 ドッジボールで、人は２つに分類されます。ひとつは、ボールから逃げ回る人間。もうひとつは、ボールを果敢に取りに回ってかつ反撃に転じようという人間。ぼくは、小学生のときに、ぜったいに後者だったんだけれど、けっこう最近、ドッジボールがじつはそういうゲームではないのだと知って愕然としました。というのもずっと「ドッチ」ボールだと思ってて、「ドッジ＝dodge＝素早く身をかわして避ける」だということに気づかなかったの。 ああ、ぼくは間違っていたんだ。あれは、球を躱すゲームだったのだ。なんという長いあいだ！　 閑話休題。 で、市橋くん、警察が上手かったのは、整形の写真、すぐに公開しなかったことです。市橋くんが整形外科に行って、それで写真も入手してあるというふうに報道させてから、写真を公開するまでに２日ほどあったんだっけ？　そのときに、市橋くんはきっと、あの写真を公開されたらまずいと思って、まず手っ取り早く、ひげを剃ったのです。公開写真はヒゲ付きだろうとふんで。 で、警察が出してきたのは「予断を避けるため」として、そのヒゲをフォトショップで取り除いたスッピンの顔だったわけですね。がーん。 このときの市橋くんの動揺はいかほどだったか。 せっかくひげを剃ったのに、完璧に裏をかかれた。しかも、またひげを伸ばすまでには何日もかかる。つまり、あの手配写真は、見事に今の市橋くんだったわけです。 逃亡犯の心理として、このダメージは大きいでしょう。 ここで彼はとても追いつめられます。どこにも逃げられない。顔を隠すということ自体がもうすでに自分は容疑者、指名手配犯だということになるのですから、このどうしようもなさで、彼はほとんど眠れもしなかった。かくれんぼをして、そこら中に鬼がいるという状態です。あとは髪を剃っちゃうしかない。でも、それをしてないのはどうしてかなあ？　あれは、フードで隠せるからか？　いや、ナルシシズムかな。その辺はぼくにはわかりません。 でもとにかく、わたしの想像の中の彼は、もうどうにもしようがない、という極限状態で、あのフェリーの待合室で捕まったのです。でも、彼は（仮定の彼は）、とにかく、現実を回避したい、責任を回避したい人間なのです。では、次にどうするか？ 逃げるのですよ。やはり。 自分の心の中に。 外界を遮断して、心の中に、奥深くに、逃げ込む。そこしかない。 それがこの拒食なのです。 それが私のフィクティシャスな彼に関する解釈。 いわば、麻原彰晃と、三浦和義との間の、どこかにある人間としての市橋くん。 麻原は外界を完全に遮断した。 三浦は真実の内界を遮断した。 市橋くんは、そういう意味で、けっこう興味深い人物かもしれません。 叱られたこと、ないのかなあ。 親との関係、セックス、とても古典的だけど、やはり鍵はそれなんだろうなあ。 でも、もう一個、かつて浅田彰が言ってた「スキゾ・キッズ」。 これ？ スキゾって、現実社会ではこんな無様なものにしかなれないのだろうか？ 最近、考えてるのは、このスキゾではなく、クラウド・コンピュータ型の人間たち、です。 実体がないの。 でも、これはちょっとぜんぶ書き出すのは面倒なのでまたの機会にしましょう。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="時事問題・日本" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>市橋容疑者の絶食が続いています。</p>

<p>あくまでも彼がリンゼイさん殺害の犯人だとして、の話ですが、この子、あの逃亡の手段の凄まじさというか、とにかく逃げたいという執念はなにかというと、基本的に、責任を負いたくない、つまり現実を見たくない、つまり叱られたくない、ってことなんだと思います。 </p>

<p>きっと、ずっとそうやって逃げてきたのかもしれません。親からのプレッシャーからもなにからも。ぜ～んぶ逃げて生きてきた（のだと勝手に想像してみる）。 </p>

<p>ドッジボールで、人は２つに分類されます。ひとつは、ボールから逃げ回る人間。もうひとつは、ボールを果敢に取りに回ってかつ反撃に転じようという人間。ぼくは、小学生のときに、ぜったいに後者だったんだけれど、けっこう最近、ドッジボールがじつはそういうゲームではないのだと知って愕然としました。というのもずっと「ドッチ」ボールだと思ってて、「ドッジ＝dodge＝素早く身をかわして避ける」だということに気づかなかったの。 </p>

<p>ああ、ぼくは間違っていたんだ。あれは、球を躱すゲームだったのだ。なんという長いあいだ！　</p>

<p>閑話休題。 <br />
で、市橋くん、警察が上手かったのは、整形の写真、すぐに公開しなかったことです。市橋くんが整形外科に行って、それで写真も入手してあるというふうに報道させてから、写真を公開するまでに２日ほどあったんだっけ？　そのときに、市橋くんはきっと、あの写真を公開されたらまずいと思って、まず手っ取り早く、ひげを剃ったのです。公開写真はヒゲ付きだろうとふんで。 </p>

<p>で、警察が出してきたのは「予断を避けるため」として、そのヒゲをフォトショップで取り除いたスッピンの顔だったわけですね。がーん。 </p>

<p>このときの市橋くんの動揺はいかほどだったか。 <br />
せっかくひげを剃ったのに、完璧に裏をかかれた。しかも、またひげを伸ばすまでには何日もかかる。つまり、あの手配写真は、見事に今の市橋くんだったわけです。 </p>

<p>逃亡犯の心理として、このダメージは大きいでしょう。 <br />
ここで彼はとても追いつめられます。どこにも逃げられない。顔を隠すということ自体がもうすでに自分は容疑者、指名手配犯だということになるのですから、このどうしようもなさで、彼はほとんど眠れもしなかった。かくれんぼをして、そこら中に鬼がいるという状態です。あとは髪を剃っちゃうしかない。でも、それをしてないのはどうしてかなあ？　あれは、フードで隠せるからか？　いや、ナルシシズムかな。その辺はぼくにはわかりません。 </p>

<p>でもとにかく、わたしの想像の中の彼は、もうどうにもしようがない、という極限状態で、あのフェリーの待合室で捕まったのです。でも、彼は（仮定の彼は）、とにかく、現実を回避したい、責任を回避したい人間なのです。では、次にどうするか？ </p>

<p>逃げるのですよ。やはり。 <br />
自分の心の中に。 <br />
外界を遮断して、心の中に、奥深くに、逃げ込む。そこしかない。 </p>

<p>それがこの拒食なのです。 <br />
それが私のフィクティシャスな彼に関する解釈。 </p>

<p>いわば、麻原彰晃と、三浦和義との間の、どこかにある人間としての市橋くん。 </p>

<p>麻原は外界を完全に遮断した。 <br />
三浦は真実の内界を遮断した。 </p>

<p>市橋くんは、そういう意味で、けっこう興味深い人物かもしれません。 <br />
叱られたこと、ないのかなあ。 <br />
親との関係、セックス、とても古典的だけど、やはり鍵はそれなんだろうなあ。<br />
でも、もう一個、かつて浅田彰が言ってた「スキゾ・キッズ」。<br />
これ？<br />
スキゾって、現実社会ではこんな無様なものにしかなれないのだろうか？</p>

<p>最近、考えてるのは、このスキゾではなく、クラウド・コンピュータ型の人間たち、です。<br />
実体がないの。<br />
でも、これはちょっとぜんぶ書き出すのは面倒なのでまたの機会にしましょう。</p>]]>
        
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    <title>宣伝──ヘドウィグ再降臨</title>
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    <published>2009-11-12T18:10:56Z</published>
    <updated>2009-11-12T18:25:15Z</updated>
    
    <summary>考えてみたら、わたし、自分の本とか講演とかあんまりほとんど宣伝したことがないんだけど、山本耕史のヘドウィグはかなりプッシュしました。 まあ、ミュージカル（といってよいのかどうか、これはけっこう演劇とロックコンサートのコラボみたいなステージ）の翻訳はこの作品が最初だったせいもありますが、山本耕史のヘドウィグをやったのは、山本耕史という役者のすごさを知ったという点でもよかったです。この人の仕事ぶりのすごさは、テレビではなかなかわからんと思う。そこら辺のいい加減な兄ちゃんかと思ってたら大間違い。プロというのはすごいと彼と会って思ったもん。 というわけで、山本ヘドの再々演が今月末から始まります。 お勧めします。 今までヘドを見逃してきたなら、これを見逃すでありません。 今回は短期決戦。 なんか、衣裳とか、変えるとかって言ってるだけどどうなるんだろ。 じつは私もなにも聞いてない。 それに伴ってすこし演技も変わるのかしら？　ちょっとたのしみ。 相手役のソムン・タクは、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックを足して２を掛けたような歌い方をします。たとえが古いといわれますが、現代の歌手でそいつらに匹敵するようなわかりやすい例は、あるんだろうか？ わたし、これを宣伝しても一銭にもなりませんが、お勧めします。 見なさい。見て、震えなされ。 詳細は以下にあります。 http://www.lovehed.jp 初めての方はぜひここでストーリーや歌詞の訳をおさらいしてから行った方がわかると思います。歌は字幕なしの英語で歌うの。 大阪はたった１回だけの公演。 前回、キャンセルになったからね。 11月27日（金）午後７時から、渾身の大阪厚生年金会館芸術ホール。 東京は12月2日(水) ～12月6日(日)　ゼップ東京（お台場） こちらは昼と夜の公演がいろいろ。 http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1 よろしく。...</summary>
    <author>
        <name>kitamaru</name>
        
    </author>
            <category term="LGBT問題" />
            <category term="俳句とか小説とか翻訳とか" />
            <category term="書評・劇評・映画評など" />
            <category term="芸能・スポーツ" />
    
    <content type="html" xml:lang="en" xml:base="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/">
        <![CDATA[<p>考えてみたら、わたし、自分の本とか講演とかあんまりほとんど宣伝したことがないんだけど、山本耕史のヘドウィグはかなりプッシュしました。 </p>

<p><img alt="へど２.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/%E3%81%B8%E3%81%A9%EF%BC%92.jpg" width="445" height="330" /></p>

<p>まあ、ミュージカル（といってよいのかどうか、これはけっこう演劇とロックコンサートのコラボみたいなステージ）の翻訳はこの作品が最初だったせいもありますが、山本耕史のヘドウィグをやったのは、山本耕史という役者のすごさを知ったという点でもよかったです。この人の仕事ぶりのすごさは、テレビではなかなかわからんと思う。そこら辺のいい加減な兄ちゃんかと思ってたら大間違い。プロというのはすごいと彼と会って思ったもん。 </p>

<p><img alt="ヘド３.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/%E3%83%98%E3%83%89%EF%BC%93.jpg" width="449" height="266" /></p>

<p>というわけで、山本ヘドの再々演が今月末から始まります。 <br />
お勧めします。 <br />
今までヘドを見逃してきたなら、これを見逃すでありません。 <br />
今回は短期決戦。<br />
なんか、衣裳とか、変えるとかって言ってるだけどどうなるんだろ。<br />
じつは私もなにも聞いてない。 <br />
それに伴ってすこし演技も変わるのかしら？　ちょっとたのしみ。<br />
 <br />
<img alt="へど１.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/%E3%81%B8%E3%81%A9%EF%BC%91.jpg" width="441" height="296" /></p>

<p>相手役のソムン・タクは、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックを足して２を掛けたような歌い方をします。たとえが古いといわれますが、現代の歌手でそいつらに匹敵するようなわかりやすい例は、あるんだろうか？ </p>

<p>わたし、これを宣伝しても一銭にもなりませんが、お勧めします。 </p>

<p>見なさい。見て、震えなされ。</p>

<p><br />
詳細は以下にあります。 </p>

<p><a href="http://www.lovehed.jp" target="_blank">http://www.lovehed.jp</a></p>

<p>初めての方はぜひここでストーリーや歌詞の訳をおさらいしてから行った方がわかると思います。歌は字幕なしの英語で歌うの。 </p>

<p><br />
大阪はたった１回だけの公演。<br />
前回、キャンセルになったからね。<br />
11月27日（金）午後７時から、渾身の大阪厚生年金会館芸術ホール。</p>

<p>東京は12月2日(水) ～12月6日(日)　ゼップ東京（お台場）<br />
こちらは昼と夜の公演がいろいろ。</p>

<p><a href="http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1" target="_blank">http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1</a></p>

<p>よろしく。</p>

<p><br />
</p>]]>
        
    </content>
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<entry>
    <title>メディアの立ち位置</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2009/10/post_320.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://www.kitamaruyuji.com/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=676" title="メディアの立ち位置" />
    <id>tag:www.kitamaruyuji.com,2009:/dailybullshit//1.676</id>
    
    <published>2009-10-26T18:33:55Z</published>
    <updated>2009-10-26T19:53:32Z</updated>
    
    <summary>鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。 ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。 でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。 谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて（じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから）、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。 同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。 自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。 最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。 しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年３月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。 で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか？　言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の１つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの？　どうなの？ 米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の２つを持っています。この２つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。 　 同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のＮＹタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。 でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル（居心地のよい）という言葉の向こう側にコンビニエント（都合のよい）が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。 なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。 そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。 いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。 その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。 悪しきポピュリズム（これに関しては３つ前のエントリーで触れました）を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。...</summary>
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<p>ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。</p>

<p>でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。</p>

<p>谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて（じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから）、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。</p>

<p>同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。</p>

<p>自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。</p>

<p>最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。</p>

<p>しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年３月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。</p>

<p>で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか？　言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の１つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの？　どうなの？</p>

<p>米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の２つを持っています。この２つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。<br />
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同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のＮＹタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。</p>

<p>でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル（居心地のよい）という言葉の向こう側にコンビニエント（都合のよい）が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。</p>

<p>なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。</p>

<p>そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。</p>

<p>いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。</p>

<p>その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。</p>

<p>悪しきポピュリズム（これに関しては３つ前のエントリーで触れました）を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。</p>]]>
        
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