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March 20, 2001

2001/03「アイ・アム・ソーリーが言えなくて」

 「アメリカで事故を起こしてもぜったいに『アイ・アム・ソーリー(すみません)』と言ってはいけない。そう言えば落ち度は自分にあると認めたから謝ったのだと取られてしまう。すると損害賠償の責任まですべて自分にかかってくる」−−と、この話はNYにある日本人向けの自動車免許取得講習でも教えてくれるからこちらでは常識らしい。

 高校実習船えひめ丸を沈没させ、9人の行方不明者を出している米軍原潜事故で、一言も被害者家族に謝罪しない艦長の態度が日本社会の感情を逆撫でした。けっきょく後日、査問会で家族に向かって「謝罪します」と頭を下げたのだが、やはりこれもそれまで「謝ってはいけないと弁護士に言われていた」らしい。

 じつはこの「謝らない常識」が米国でもやっと「おかしい」ということになってきている。カリフォルニア州で今年1月から「謝罪した事実は民事訴訟においてはその人の過失の証明にはならない」という法律が発効した。この法律の成立の背景にあるのは「あいつはなんで一言も謝らないんだ。その気なら裁判に訴えてでも謝らせてやる」という“人情”。じっさい、フロリダ大学の医療事故訴訟調査では「医者が一言ソーリーと言ってくれていたら裁判にはしなかった」という原告が3割もいた。訴訟は多くの場合、怒りと不幸に支えられている。怒りだけでも和らげられれば、増加する一方の不幸な訴訟合戦も減るだろう。

 カリフォルニアでは出来たばかりだがマサチューセッツ州ではじつは1986年から同種の法律ができている。その提案者ウィリアム・ソルトンストール州上院議員(当時)も、じつは娘さんを交通事故で亡くし、その際に相手の運転者が一言も謝らなかったことに深い疑問を感じたのが動機だ。

 「謝ってもいいじゃないか。謝罪はじつに人間的な反応だ」と今回のカリフォルニア州法の提案者ルー・ペイパン州下院議員も言う。同種法はほかにバーモント州とジョージア州で1992年から、テキサス州でも99年からできている。そんな人間的な心の動きはアメリカ人にだってもちろんあるのだ。ワドル艦長だって謝罪を止められた心苦しさも重なって涙を流したのだろう。

 被害者の家族を世話するのは日本の外務省の役目だ。外務省は米軍に、あるいは艦長の弁護士に、こうした当事国内における法律上の変化の事実を突きつけ、被害者の怒りを和らげるためにも一刻も早く当事者である艦長に直接謝罪してほしいと口添えしただろうか。そういうことに気づくか否かが、外務省の2大任務の「邦人保護」と「外交」の、じつは本質的な力量の判じ部分なのだが。