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July 20, 2003

2003/07「笑いがいじめに変わるとき」

 知り合いのニューヨーク大学の先生から「マーガレット・チョーの新しいビデオが手に入ったから見に来ない?」と誘いがかかった。

 彼女は韓国系アメリカ人のコメディエンヌで、韓国の風習をひきずる自分の両親の珍妙な話をさんざん披露しては観客を大笑いさせる、現在のアメリカで最もとんがった人気コメディエンヌの1人だ。

 自分のことも「韓国系で、ブスでおまけにバイセクシュアルで、これで三振アウトよ」と公言してはばからない。先生宅にはほかの教授先生も集まって、ワインを飲みながら涙を流しながらの爆笑に次ぐ爆笑観賞会と相成った。

 ニューヨークの街角には「スタンダップ・コメディ」と看板のかかるナイトクラブがいくつもある。「立ったままのコメディ」という意味だが、いわば飲食付きの漫談専門寄席みたいなものだ。

 アメリカの笑いの主流はエッチな話、人種ジョーク、政治家への揶揄。そうしてほぼ共通して舌鋒鋭く笑われる対象は決まって「権力」、同時にもう一つ、コメディアン/コメディエンヌ自身という「自分」である。「他人」は、それが権力を持った人間である以外は笑いの対象にならない。あるいは、「してはいけない」という不文律が確立されている。

 人種ネタでもたとえばユダヤ人ネタがあり黒人ネタがあるが、それをジョークにできるのは当のユダヤ人、黒人など本人たちだけなのだ。それ以外の、たとえばユダヤ人が無自覚に黒人ネタをやったらこれはすぐにも人種差別になる。抗議の暴動だって起こりかねない。

 50年代のスタンダップコメディの鬼才レニー・ブルースは、ステージから「今日は何人、ニガーが来てるんだ?」と問いかけた。客たちは静まりかえった。ニガーというのは黒人に対する最大級の侮蔑語。しかし彼は自分が黒人と同じ「最低」なユダヤ人だという意識を背景に言葉の偽善やタブーを衝いたのだった。

 お笑いは、じつは呑気じゃやってられない仕事である。つねに権力の所在に敏感で、自虐をネタにできる頭の強さが要求される。いまハリウッドで活躍するトム・ハンクスもロビン・ウィリアムズもみんなこのスタンダップ・コメディ出身。そんな彼らのジョークは、ぜったいに弱者をネタにしない。ネタにして笑っているときは自分がその弱者といっしょであるという覚悟のある時だけである。

 ちょっと以前、日本テレビのSMAPの特別番組で中国・瀋陽の日本総領事館で起きた北朝鮮「ハンミちゃん一家駆け込み事件」のパロディが放送され、同局に多数の抗議電話が寄せられたというのがニュースになった。

 これはいったい何を笑ったのか? 権力を持った北朝鮮か、中国の警察当局か、日本の外務省をか? それとも、権力から最も遠いハンミちゃん一家をか?

 笑いは、その当事者とともにあるという覚悟がなければいじめと同じ効用しか持たなくなる。それはプロの芸ではないし電波を使って見せるものでもない。冒頭のマーガレット・チョーの笑いにしても、本人以外の者がああいうジョークを言ったらたちまち人種・ジェンダー・性的少数者の3大差別になるのだ。

 日本のお笑いは基本的に「他人」を笑う。年寄りをからかうことが堂々と笑いのネタになる。社会進出をしている女性が「恐い存在」として笑われ、気弱な男性も「おかま」として笑われる。コメディアンたちはそうして年寄りでもなく、女でもなく、「おかま」でもない。自分は安全地帯にいるのだ。

 それは弱い者いじめとどう違うのだろう? こういうことを自覚できないプロデューサーやお笑い芸人は、そこらのいじめっ子とどう違うのだろう?