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September 20, 2003

2003/09「座頭市」が受賞した理由

 一時帰国の日本で「座頭市」を見た。尊敬するニッポン放送のKくんに「ぜったいに見てください。ぼくは涙が出ましたよ」と薦められたからで、ふつうなら見ないで過ごすところだった。

 北野武の映画はこれまで、いずれもなんだかとてもわざとくさくて好きになれなかった。あの、まったく話さない演出とか、ほとんど話さない演出とか、むやみな暴力の噴出とか、作り手の意図がいかにもあからさまに透けて見えるのがどうもいやだった。

 それが「座頭市」では端からチャンバラ劇である。わざとらしさ、作り物っぽさはすでに前提だから、そのぶん北野映画の“臭さ”が気にならなかったのかもしれない。しかしそれだけでヴェネチアで、トロントで、賞が取れるだろうか。

 「座頭市」は米国でもリメイクがある。「ブレードランナー」のルトガー・ハウアーが盲目の刀使いを演じた「ブラインド・フューリー」(1989)は三隅研次監督の「座頭市・血煙り街道」(1967)を下敷きにしたものだ。

 「北野座頭市」自体もリメイクだから、盲目の居合の達人というこの映画の基本コンセプトは欧米の映画通にもすでに既知のものだった。結局はおおいにそれに乗じていて、物語の巧みさといっても悪党たちの秘密はすぐにわかるし、浅野忠信の窮状もストーリー上の目新しい背景ではない。

 「最強」を謳うヒーロー性にしても、最強がカギならば「ゴジラ」が受賞してもおかしくはないし、時代劇としては往年の人気TVドラマ「必殺・仕掛け人」の方が爽快で入り組んでいるほどだ。ではどうしてこの娯楽アクションが外国で大きな賞を取れたのか。

 それは、最後のシーンに近いただ2つの台詞のせいである。一つは橘大五郎演じる「おせい」の一言。もう一つはこの「北野座頭市」その人の台詞である。(作品を観て、その台詞を見つけて下さい)

 この2つの台詞のせいで、北野「座頭市」はジェンダーとマイノリティーと、そしてアイデンティティー・ポリティクスという、欧米でいまも旬でありつづけているポストモダンの意匠をまとった。

 「主体は変幻できる」。それが受賞の理由である。さらにKくんの「涙」の理由でもある。欧米の観客や評論家はそこに反応する。痛快な娯楽アクションがオセロゲームの見事な一手のように不意に遡及的に知的な装いをまとうのである。

 「そんなに複雑な話じゃないさ」と、この映画をくだらないと唾棄した友人に言われたが、そのとおり。べつに複雑な話ではない。むしろそのことを実に単純な図式で示してしまった簡潔性は娯楽映画の必要条件。ただし、その簡潔さゆえに、この2つの台詞の重大な歴史性を、ジェンダーとマイノリティーとアイデンティティーの問題に疎い日本の観客がなんとなく分かっているふうに見過ごしてしまうのは往々にしてあり得るだろう。

 北野「座頭市」に関して、そのあたりにきちんと言及した批評は書かれているのだろうか。日本映画でこのことをこうして映画上の言葉にしたのは、この北野「座頭市」が初めてだということは覚えておいてよいのだ。

 これは大島渚の愚劣なバケモノ映画「御法度」(2000)と対極をなすものである。「衆道」という“欧米受けしそう”なテーマを中心に据え、しかも「オオシマ」というビッグネームが冠されていたのにあの映画が欧米でいっさいの映画賞を逃したのはなぜだったか、その理由が皆目わからないとばかりに大島は当時ただただ憮然とした表情をしていたが、そこにも出演していた北野武がまさにその巨匠に「座頭市」で理由を突きつけた格好になった。

 おそらく彼はそのへんも計算尽くである。勉強家というか、目の付け所を知っているというか、そんなビートたけしに、だから「続編」をねだってはいけない。続編はすでに座頭市ではない。

 米国での公開が待たれる。公開時期もあいまって、これはひょっとしたらひょっとするかもしれない。娯楽映画としてストーリー自体の浅さは否めないものの、ジェンダーとマイノリティーとアイデンティティーの問題を擦り込ませた演出の妙はいまの米国人の琴線に触れる。

 ポストモダンを理解したチャンバラ映画なんて、なんといっても世界初なのだから。