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      <title>まだ言うか Still Wanna Say?</title>
      <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/</link>
      <description>その他の依頼原稿を徒然なるままに再掲</description>
      <language>en</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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            <item>
         <title>目次（各ページの日付はアップした日ですので記事とは無関係です）</title>
         <description><![CDATA[<p>【マジメでためになるゲイ講座】<br />
　これは地元ニューヨークの日本人向けニュース誌『OCSニュース』に1999年秋から初回４回と続編の３回にわたってゲイに関する基礎知識なり基礎情報を収集記述した連載コラムです。すでに何年も経っていて、いま読み返すと、いやはや当時の私、かなり頭に来ているようですね。<br />
　まあ、NYという地の利を得ながらもなにも理解しようとしない周囲の日本人コミュニティに呆れているわけですが、なんとも若書きがお恥ずかしい。とはいえ、基本的にこの記述はいまでもじゅうぶん有効ではあると思います。タイトルはずばり「マジメでためになるゲイ講座」。こちらでは「マジため」 と略されて、日本人コミュニティのなかでかなり反響がありました。ま、こんなこと、それまでだれもいわなかったことですから。<br />
　ということで、NYという場所柄と当時の時代性を鑑みながら、ぜひあなたの「ゲイ理解」の一つの参考にしていただけると幸いです。</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_9.html" target="_blank">その１ 『三島由紀夫のストーンウォール』 </a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/we_are_everywhere.html" target="_blank">その２ 『We Are Everywhere』</a> <br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_8.html" target="_blank">その３ 『男社会のホモフォビア』</a> <br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_7.html" target="_blank">その４ 『ゲイが集まりゃ桶屋が儲かる？』</a> </p>

<p>【続・マジメでためになるゲイ講座】<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_6.html" target="_blank">その１ 『反自然な変態は殺されるべきか？』</a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_5.html" target="_blank">その２ 『目に見える暴力、見えない暴力』</a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_4.html" target="_blank">最終回 『いまさら訊くのも恥ずかしかったこんな質問への回答』</a></p>

<p>＊</p>

<p>【クイアリーディングへのお誘い】<br />
　日本ではまだあまり馴染みがありませんが、これは表象としてのテキストをクイアという偏光板を通して眺め直し、そこに隠されたセクシュアリティ（にまつわるものの正体）をあぶりだそうという手法です。クイアというのは本来は英語の侮蔑語で「ヘンタイ」というほどの意味。でも、ここでは悪い意味ではありません。意味や価値観からも自由なアミーバ運動体みたいなもんです。</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_3.html" target="_blank">太宰治をクィアする</a>（1998.06 ユリイカ臨時増刊　総特集「太宰治　没後50年記念」）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_2.html" target="_blank">「木乃伊之吉」を救う──あるいはホモフォビアの陥穽'</a>（1998.08 ユリイカ 総特集・島尾敏雄）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_1.html" target="_blank">クローゼットに迷い込まないための──「ブロークバック山の案内図」</a>（2006.03 yes 創刊２号）</p>

<p>＊</p>

<p>【LGBT】</p>

<p>　　　2006年夏、シカゴで第７回ゲイゲームズ開催（2006.10 yes 創刊４号）<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/08/_gay_games_1.html" target="_blank">Gay Games シカゴ・ルポ　（付録・シカゴ市長の挨拶抄録）</a><br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/08/japan.html" target="_blank">世界の真ん中でJAPANと叫んだスイーマーたち</a></p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/nyc_gay_pride_2004.html" target="_blank">NYのゲイプライドができるまで</a><br />
　　　　Gay Prideの準備委員会インタビュー（2004年６月）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/nyc_gay_pride2004.html" target="_blank">Gay Pride 参加要項</a><br />
　　　　プライドパレードなどの参加の手引きです（2004年版）</p>

<p>＊</p>

<p>【その他の書評など】</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_10.html" target="_blank">「国家の品格」というトンデモ本</a>（2006年4月）</p>

<p>＊</p>

<p>【その他の随想など】</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2008/09/20010911.html" target="_blank">再現・2001/09/11　あの日に何が起きたのか</a>（2002.12『レスキュー』冬号・特集）</p>

<p><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2004/12/2004.html" target="_blank">2004年のクリスマス</a>（2004.12.24「週刊NY生活」）</p>

<p>　　　北丸雄二のアメリカ談議（毎日新聞・米国サイト2001/01〜2003/12＝原稿欠落あり）<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/12/200312.html" target="_blank">2003/12「ギャンブルで未来を占う」</a>〜どうやってネオコンを環視するか？<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/11/200311.html" target="_blank">2003/11「ボギーの時代」</a>〜国民を煽動するのは簡単だ<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/10/200310.html" target="_blank">2003/10「お客様」の領域</a>〜エイズと日本社会の弱点<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/09/200309.html" target="_blank">2003/09「座頭市」が受賞した理由</a>〜ポストモダンを理解したチャンバラ映画<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/08/200308.html" target="_blank">2003/08「正しくなさ」の小さな芽</a>〜長崎の12歳少年の殺人に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/07/200307.html" target="_blank">2003/07「笑いがいじめに変わるとき」</a>〜「ハンミちゃん一家駆け込み事件」をパロディにする精神<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/06/200306_1.html" target="_blank">2003/06「なぜ、日本にほとんど報道されないのか？」</a>〜ソドミー法の違憲判決の意味<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/06/200306.html" target="_blank">2003/06「もう１つのゴジラ効果」</a>〜アメリカが松井から学んでほしいこと<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/04/200304.html" target="_blank">2003/04「キツネ効果という妖怪」</a>〜Foxニュースが煽るアメリカ世論<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/04/200304_1.html" target="_blank">2003/04「よい戦争のよくない未来」</a>〜イラク戦争の行方をズバリ予想する<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/02/200302.html" target="_blank">2003/02「オオカミ少年とオオカミと」</a>〜イラク開戦間近のいやな雰囲気<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/02/200302_1.html" target="_blank">2003/02「やっつけないとわからない」</a>〜北朝鮮への日本のTVの口調<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/12/200212.html" target="_blank">2002/12「残酷な恐怖が支配する」</a>〜映画「「ボウリング・フォー・コロンバイン」に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/10/200210.html" target="_blank">2002/10「ホイッスルブロウワー（笛を吹く人）」</a>〜雪印食品がつぶれたのはだれの責任？<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/09/200209.html" target="_blank">2002/09「失われた土地を求めて」</a>〜9.11テロ跡地に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/04/200204.html" target="_blank">2002/04「年を取るのが惨めでない社会」</a>〜定年制度のないアメリカ<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/06/200106.html" target="_blank">2001/06「真紀子バッシングの正体」</a>〜女はダメだと言いたいオジサン<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/05/200105.html" target="_blank">2001/05「外交官はパーティーがお好き」</a>〜官官接待、外交機密費、外交官特権<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/04/200104.html" target="_blank">2001/04「笑うも手、黙るも手」</a>〜ごまかしの手法の日米格差<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/03/200103.html" target="_blank">2001/03「アイ・アム・ソーリーが言えなくて」</a>〜高校実習船えひめ丸沈没事件<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/02/200102.html" target="_blank">2001/02「リアリティとは何か？」</a>〜日本のTVが元祖のリアリティ番組<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/01/20011.html" target="_blank">2001/01「酒とバラの日々」</a>〜ワインを巡る考察</p>]]></description>
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         <category>INDEX</category>
         <pubDate>Tue, 30 Nov 2060 18:56:43 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2001/09/11　再現</title>
         <description><![CDATA[<p>9.11WTC攻撃</p>

<p>◎あの日、何が起こったのか？</p>

<p>◆09/11　08:46am　<br />
●ブルックリンの緊急通信センター　通信専門員ジャネット・ハーモン</p>

<p>　いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン（53）はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。</p>

<p>　緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。１日平均３万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。</p>

<p>　そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター！」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで！」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの？」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747（実際はボーイング767型機）がぶつかったの！　ビルが火の玉なの！　わざとぶつかったように見える！」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ！　とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ！」。</p>

<p>　ジャンボ機がぶつかった？　確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。</p>

<p>◆09/11　08:55am<br />
●ブルックリン橋　ＮＹ消防長官トーマス・ヴォン・エッセン</p>

<p>　前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを８時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道ＦＤＲドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。</p>

<p>　夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。</p>

<p>　「あれは、雲かな？」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。</p>

<p>　いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。</p>

<p>　「なんてこった！　貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ！」とエッセンは叫んでいた。</p>

<p>　そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第２次出動命令が発信された。それは十数秒後には第３次、第４次出動に、そしてたちどころに最大動員の第５次出動に変わった。</p>

<p>　マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第５次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。</p>

<p>◆09/11　08:58am<br />
●ＦＤＮＹ　ニューヨ−ク市内に位置する212消防署</p>

<p>　ＮＹ消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計１万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の９時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。</p>

<p>　ＮＹ市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち（Finests）」と呼ばれる。対してＮＹ消防本部（ＦＤＮＹ）の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち（Bravests）」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長２人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。</p>

<p>　最初の出動命令は世界貿易センター（ＷＴＣ）にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「ＷＴＣで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。</p>

<p>　通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊（バタリオン）」として派遣される。それでもだめならより大きく地域（ディビジョン）全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。</p>

<p>　第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもＷＴＣに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の２倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前９時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。</p>

<p>　まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。</p>

<p>◆09/11　09:03am<br />
●２機目が南タワーに突入</p>

<p>　消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第２弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は１機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。３万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。３分の１が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り３分の２がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。</p>

<p>　南タワーにも即座に第５次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。</p>

<p>　だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。</p>

<p>　熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。</p>

<p>◆09/11　09:59am<br />
●南タワー、「もっと部隊をよこせ！」</p>

<p>　２機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに１機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。</p>

<p>　そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年８月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。</p>

<p>　午前９時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。</p>

<p>　南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ！」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。</p>

<p>　14分後、午前９時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。</p>

<p>　その直前、ワシントンＤＣ郊外では国防総省にボーイング７５７が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。</p>

<p>◆09/11　10:28am<br />
●北タワーも……２万5000人を退避させて</p>

<p>　午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるＰＡＳＳ（個人警報安全システム）モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。</p>

<p>　消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。ＷＴＣの計６棟が崩落または炎上していた。約２万坪が燃え上がっていたのだ。</p>

<p>　ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助（レスキュー）本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第１レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は７人、第22消防車隊は４人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル（当時レートで5700億円）に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの２塔からは計２万5000人が脱出できたのだ。</p>

<p>　火は以後、崩壊した地下で４カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。</p>

<p><br />
◎ＷＴＣ崩壊その後〜救助作業から撤去作業へ</p>

<p>▼ＮＹ市の緊急司令センターはタワー北隣のＷＴＣ７番棟にあった。このビルも炎上の末11日午後５時20分に崩落した。市長ジュリアーニは現場の司令センターとして無線指令車を導入した。</p>

<p>▼テロリストたちが突入させた航空機に化学兵器、生物兵器が搭載されていなかったか、市はその日のうちにＷＴＣ近隣３カ所に空気サンプルの採取装置を設置して化学分析に回した。結果はいずれも陰性だった。</p>

<p>▼テロの夜が明けて２日目からグラウンドゼロは連邦緊急事態管理庁（ＦＥＭＡ）の管轄となった。同庁から1300人が派遣され、そこに米国赤十字、連邦捜査局（ＦＢＩ）、ＮＹ市警（ＮＹＰＤ）、ＮＹ消防（ＦＤＮＹ）から2000人が加わって生存者の救出作業が続けられた。24時間以内に、現場には260台の特殊重機が運び込まれ、240台のトラックが稼働しはじめた。</p>

<p>▼ＮＹ都市圏から若者たちのボランティアも集まりはじめた。その数はたちまち数万人にふくれあがり、ＦＥＭＡの組織管理力をはるかに越える数になった。</p>

<p>▼全米およびカナダの各地の消防隊も陸路ＮＹに到着しはじめた。飛行機はすべて発着禁止だったのでみな自前のトラックやバスや列車でやってきた。グランドセントラル駅ではそんな応援隊の到着のたびに周囲から拍手と歓声が挙がった。カリフォルニアからは、同地に多い地震で活躍する土中の生存者探索班が到着した。各地の消防署長の多くは、ＮＹに助けに行きたいという彼らを有給扱いで送り出した。</p>

<p>▼陸軍工兵隊も投入された。しかし陸軍のベテランたちにもこの光景は初めてだった。「1995年のオクラホマ連邦ビル爆破事件の悲惨さも、この壮絶さの比ではなかった」と工兵隊のジョン・オダウド大佐は話している。</p>

<p>▼瓦礫の撤去は初め、手作業でバケツで行われた。重機の投入はいるかもしれない生存者の命を危険にさらす恐れがあったためだ。しかし結局、生存者は事件発生後48時間で５人しか見つからなかった。</p>

<p>▼１週間で７万トンの瓦礫が撤去された。１日75台のトラックが20マイル先のスタッテン島の瓦礫選別所にそれらを運んだ。そこでもまた人骨の収集が行われていた。同時に、ＷＴＣ崩落のメカニズムを探るために大学や研究所から専門家が送り込まれ、鉄骨やコンクリートブロックの断裂の実態を詳細に調査していった。</p>

<p>▼現場の２万坪の瓦礫の山は部分部分に落とし穴があり弱い構造があり、さらに地下へと潜れる隘路があった。しかし危険なことに、正確な全体の位置関係はだれも把握できていなかった。そこで1500メートルの上空から航空機で地表にレーザーを照射し、コンピュータによる解析で３Ｄマップを作成する方法がとられた。「光探知測量（Light Detection And Ranging）」、または頭文字を取って「ＬＩＤＡＲ（ライダー）」と呼ばれる最新技術だった。３次元で描かれたコンピュータ・グラフィクスの現場地図を見て、実地でそれを知っている消防士たちは「ここがあれだ」と即座に位置関係を飲み込んでいった。ＬＩＤＡＲの誤差はわずか±15センチだった。</p>

<p>▼ＷＴＣからわずか数ブロックしか離れていないウォール街のＮＹ証券取引所は17日の月曜に再開した。テロからわずか１週間の間に、不通だった電話も電話会社ヴェライゾンが3000人の人員を投入して４万回線を復旧させた。停電だった電気も1900人の作業員が延べ60キロに及ぶ仮ケーブルを敷設して19日には供給を再開した。それはおそらく、アメリカ人の意地だった。</p>

<p>▼９月24日、ジュリアーニ市長は「これ以上生存者を発見することは不可能だろう」と苦渋の宣言を行った。この時点から、作業は公式に救助から遺体収集、瓦礫撤去へと変わった。</p>

<p>▼ＷＴＣは地下に駐車場や地下鉄駅や商店街などが７層にわたって配置されていた。地下へと潜ってゆく消防士たちにはこの現場に特化したＧＰＳ（衛星測位システム）装置が配布された。グラウンド・ゼロはすでにそのころ、消防士たちの間では「ザ・ピット（奈落）」と呼ばれていた。</p>

<p>▼現場からは瓦礫の下に埋まったおびただしい数の車両も回収された。その中には消防車両91台、警察車両は144台もあった。修復はいずれも不可能な状態だった。</p>

<p>▼事件後６カ月の2002年３月11日、ＷＴＣ跡地に強力なサーチライトが88基用意された。その夜から32夜にわたって、サーチライトはニューヨークの夜に鎮魂の光のタワーを２本浮かび上がらせつづけた。それは十数キロ先からも見える幻の塔だった。</p>

<p>▼2002年５月30日、瓦礫の撤去作業は正式に終了した。要した人員と時間は150万人・時間、瓦礫の総量トラック10万7000台分180万トン。</p>

<p></p>

<p><br />
◎証言集</p>

<p>■ＷＴＣ現場で取材していたＮＹデイリーニューズ・カメラマン、デイヴィッド・ハンシャー<br />
　南タワーの崩落で生き埋めになった。もう息ができず、死ぬんだと覚悟した。ヘルプと何度も叫んだ。どのくらい経ったか、そのとき声が聞こえた。「心配するな、ブラザー、すぐに助け出してやる」。その声を忘れない。消防士たちが互いに「ブラザー」と呼び合っていることを知っていた。近くに何人も消防士たちがとを思い出した。助かる、とそのとき思った。</p>

<p>■ＦＤＮＹカメラマン、ジョージ・ファリナーチ<br />
　現場に到着したときはすでにカオスだった。無線も聞こえなかったし、この混沌に見合う装備も何もなかった。手にしていたのは斧とかハンマーとか。何も持っていない者はすでに潰れた消防車から使えそうな物を引っ張り取っていた。しかしそれもゴミ漁りにしか役立たないような代物だった。それで作業を始めなければならなかった。しかもあの日は消防学校の卒業式から間もなく、９月11日はまさに現場に出るのがまったく初めての消防士たちも多かったんだ。</p>

<p>■フリーランスジャーナリスト、ピーター・フォーリー<br />
　タワーが倒れた後でさえも、数百人の消防士たちが現場に駆け戻っていった。足下には落とし穴が待ち受け、周囲のビルからもガラスや窓枠の金属などが断続的に降り注いでいた。逃げるではなく進んでゆく人々。救急隊も恐れを知らなかった。現場はものすごい熱だった。彼らを見ていて、感動に心臓が止まりそうだった。</p>

<p>■消防船「ジョン・Ｊ・ハーヴィー」号船長。ハントリー・ギル<br />
　ハドソン川沿いの現場に到着したのは２つ目のタワーが崩壊してまもなくだった。ちょうど沿岸警備隊の無線がイースト川やバッテリー公園沖のすべての船舶に協力を要請しはじめた。ＷＴＣの現場近くでは逃げようもなく川沿いに押しやられた人々でいっぱいだったから。あの日、民間も含めてボートが大変な威力を発揮した。トンネルも閉鎖、橋も閉鎖、道路もままならにときに、１万人から２万人もの人々がニュージャージー側に逃げようとしていた。ボートだけが逃げる手段だった。旅客運航などしたこともないボートが数十台もハドソン川を猛スピードで行き来していた。</p>

<p>■海兵隊安全局大尉、スコット・シールズ<br />
　水がなかった。供給システムがダウンしていた。それでもまだ火は燃えつづけていた。我々を取り囲む周辺のビルもすべて同様に燃えはじめ、トラックの大きさの瓦礫があちこちで落ちてきていた。火と戦う水がほしかった。そのとき、消防船がやってきた。ジョン・Ｊ・ハーヴィー号だ。あれは古くてもうスクラップだというのでＮＹ市が５万ドル（当時レートで600万円）で消防に払い下げた船なんた。でも、ハーヴィーは他のどの消防船よりも水を大量に汲み上げられた。ＷＴＣ北西の岸辺に停泊して水を供給してくれたハーヴィーは我々のヒーローだった。</p>

<p>■連邦緊急事態管理庁（ＦＥＭＡ）、マイケル・リーガー<br />
　あのとき救助の人々を衝き動かしていたものはただ、希望だった。だが、その希望も色あせていった。おぼえているが、３日目だ。もう生存者はいないとどこかでわかったのは。実際、翌12日の朝に５人の生存者が見つかっただけで、それ以後はだれも生きて発見されなかった。</p>

<p>■星条旗を掲げる３人の消防士を撮影した「ザ・レコード」紙のカメラマン、トーマス・フランクリン<br />
　もうフィルムが残っていなかった。最後の40枚を撮ってから帰ろうと現場を振り返ったときに、30メートルほど先で３人の消防士が星条旗を揚げようとしているのが目に入った。淡々と、儀式めいたところも何もなく、ただ黙って、仕事のように旗を揚げようとしていた。写真を撮りながら、ジョー・ローゼンタールの硫黄島の写真を思い出していた。これが私たちの連帯と誇りとを示すポジティヴな写真と受け取られていることをうれしく思う。</p>

<p>■第５はしご車隊、スティーヴン・ナポリターノ<br />
　あの現場でおぼえているのはバケツだね、バケツ・リレー。あんな巨大な作業で、そんな小さな道具を使っていたんだ。何百人もが何百個ものプラスチックのバケツで延々と土砂を取り除いていた。皮肉なもんだね。そんなことが頭を去らないんだ。</p>

<p>■第4はしご車隊　ジェイムズ・ダフィー<br />
　南タワーが崩れたとき、ぼくは北タワーのロビーにいて、生まれて初めてあんな大きな音を聞いた。一瞬のうちに10メートルくらいぶっ飛んだよ。そのとき手に持っていた斧もハロゲンランプもなくしてしまった。でも、ハロゲンは翌日、他の人に見つけられて戻ってきた。</p>

<p>■第１消防車隊　ネルソン・ロス・ジュニア<br />
　救助作業の現場で足場に目を落とすと、隙間から地下が覗けたんだ。見ると自分の足の下に車やらバスやらが埋まっていた。これはきっと駐車場だと思って他の仲間を呼ぶと、これは駐車場じゃない、ここは道だったところだと言われてね。そのときわかったね、これが110階のビルが潰れた跡なんだって。道であろうが公園であろうが関係なく覆い被さっている。そのときのショックはいまでも忘れられない。</p>

<p>■ＮＹ市警副調査官　ジェイムズ・ルオンゴ<br />
　瓦礫、残骸が一時集積されるフレッシュキルで遺品などの回収を担当していた。ところがね、あれほどの残骸の中で、物の無さが私にとってはショックだった。あんなにたくさんの残骸の中に、ドアがない、電話機もない、コンピュータもない。ドアノブさえないんだ。みんな溶けてなくなったか溶けて塊になってしまったか。でもなぜかプラスチックのＩＤカードがたくさん回収されたね。革の財布にでも入っていたからだろうか。そう、現金も全部で７万5000ドルほど回収された。だれのものかは永遠にわからないだろうが。</p>

<p>■第５はしご車隊副隊長　ケネス・クリスチャンセン<br />
　おぼえているのは現場の静かさだ。ひどく静かだった。きっと混乱してすごいだろうと思っていたが、実際に到着してみると、あるのは粉塵と金属の塊だった。なにもなかった。椅子もない。全部つぶされて何が何だか分からなかった。</p>

<p>■第24消防車隊　ジョン・オトランドー<br />
　スミソニアン博物館や港湾委員会、ＮＹ歴史学会などは事件発生当初からこのテロを記憶するためにさまざまな遺品や遺物を収集している。そういう物は博物館に飾れるからいいよね。でも、本当に後世に伝えたいものは、あの時のみんなの働きぶりだよ。みんなが力を合わせて懸命に救助作業を続けていた。私の見たその努力と善意を博物館に飾ることができたらどんなにすばらしいことか。</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎「英雄たちのカレンダー」</p>

<p>　全米大都市の消防本部では選りすぐりのハンサムな消防士たちをモデルに毎年カレンダーを作っている。収益金を地域の消防教育や啓蒙基金に回しているのだ.</p>

<p>　ＦＤＮＹも例外ではない。しかし02年版のそのカレンダーは昨年９月28日の発売を前に急きょ中止になった。343人の犠牲者を出したばかりでなく、モデルになった中にもロバート・コルディス、トーマス・フォーリー、アンヘル・フアルベの３人の殉職消防士が含まれていたからだ。</p>

<p>　だが今年、さまざまな追悼を経て殉職者のためにもぜひそのカレンダーを復刊させてほしいとの思いが寄せられた。そうしてＦＤＮＹはこれを来年03年版カレンダーとして復活させたのだ。</p>

<p>　これまで同カレンダーは「消防署のハンク（マッチョマン）たち」という名だった。が、今回の03年版はまさに「ヒーローたちのカレンダー」と改名。カバーも世界貿易センターだった昨年版の背景をエンパイアステート・ビルに差し替えた。３殉職者の１月、５月、10月のカレンダー写真には黒いリボンが喪章として添えられている。<br />
（了）</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎「トゥー・マッチ以上」の心の傷を抱えつつ、逝った仲間たちを忘れず<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　──第１５２消防署インタビュー</p>

<p><br />
　マンハッタンの南端からさらにフェリーで25分ほど南下したニューヨーク湾上にニューヨーク市の５番目の区、スタテン島がある。人口は40万人ほど、面積はマンハッタン島の３倍近い150平方キロ。そこにももちろん20の消防署がある。その中の、隊員わずか17人の第152消防車隊もまた愛する仲間を失った。ロバート・コルディス消防士（当時28）。じつは彼は9.11のちょうど２週間前にブルックリン区の第１スクワッド（特別救助）隊に異動になっていた。しかし隊舎２階にはいまでも彼のロッカーが当時のまま残っている。ピーター・デフィーオ署長（51）、スティーヴ・ザザ主任消防士（43）、アンソニー・フラッシオーラ消防士（38）に話を聞いた。</p>

<p>　　　　　　　＊<br />
Ｑロバートの異動したスクワッド隊というのは？</p>

<p>デフィーオ署長　あれはレスキュー隊のもっと機動的なものでね、いちばん忙しくて危険なエリート部隊みたいなもんだ。ロブ（ロバート）はここで２年働いていたんだが、いつももっと忙しくて注目を浴びるようなところで活躍したいと思ってた。だからあの現場で真っ先にタワーに飛び込んでいったと聞いても、まあ、あいつならそうするだろうなと思ったよ。</p>

<p>Ｑ異動は喜んでいた？</p>

<p>デ署長　ああ、これでまた女にモテるってな（笑）。若かったから仕事以外はぜんぶ女だ（笑）。とにかくうちにいた２年間、なんにでも積極的だった。オフの日は近くのバーでバーテンもしてたくらいだ。人気者だったよ。町のみんながやつを知っていた。</p>

<p>フラッシオーラ消防士　おれもよくあいつに遊びに誘われてたんだが、こっちは女房持ちだしね、なかなか付き合いきれなかった。あいつはよくマンハッタンまで出かけて飲んでたな。それに、2002年のＦＤＮＹのカレンダーにもモデルとして採用されて、それもとても喜んでいた。２階のワークアウト室でいつも体を鍛えてたからそれは誇りにしてたよ。もちろん、またこれでモテるぜってのもあったろうが（笑）。</p>

<p>ザザ主任　カレンダー、見たか？　ウォールストリートの雄牛の像に上半身裸でまたがってるやつさ。</p>

<p>デ署長　そうそう、そういえばロブのガールフレンドだっていう若い娘さんがあの事件の後でうちの署にやって来たよ。３人も、だ（笑）。</p>

<p>フ消防士　あいつは料理も上手でね。パスタなんか、最初に作ってくれたのはチキンが載ってるやつでこれが美味かった。褒めてやったら照れてたけどな。</p>

<p>Ｑ死んだと知らされて？</p>

<p>フ消防士　……そうだな、なんだか……頭が熱くなった。やつだけじゃなく、他の親友も死んだんだ。ロブの報せを受けたのは14日だったかな。それまでだれが死んだのかもわからなかった。ぽつりぽつりと噂のように死者の名前が伝わってきた。毎日増えていった。トゥー・マッチ（ひどすぎる）だと思った。トゥー・マッチ以上だ。</p>

<p>Ｑショックはいまでも？</p>

<p>フ消防士　正直言って、ぶり返すね、ときどき。</p>

<p>デ署長　われわれは四六時中いっしょにいるからね。シフトは朝の９時から夕方の６時までの９時間と、その夕方６時から朝９時までの15時間の２交替。仕事もメシも風呂もその間ずっといっしょだ。家族？　家族以上だよ。</p>

<p>Ｑセラピーは？</p>

<p>フ消防士　受けてるやつもいるが、おれはやってない。家に帰って犬を蹴飛ばしてストレス解消だ（笑）。</p>

<p>デ署長　おいおい、女房は蹴飛ばすなよ（笑）。</p>

<p>ザ主任　死んだということもじつはどこかで認めたくないんだな。死んだって言葉を、言いたくないんだ。</p>

<p>Ｑあの朝はどうやって？</p>

<p>ザ主任　第一報を受けて大隊長を乗せてすぐにフェリー桟橋まで隊の車で飛んでいった。真正面にマンハッタンの南端が見えるから。１機目の突入後間もなくで煙はまだ白かった。そうしたらおれたちのすぐ頭の上をものすごい低空飛行で別の旅客機が飛んでいったんだよ、そのマンハッタンの方に向かって。何だ、と思って見ているとそれで見ている前でまたビルにヒットした。信じられなかった。これは大変だって目が覚めた。それでそのまま車で橋を使ってブルックリンに渡り、そこからトンネルを通って現場に急行したんだ。途中でもう一人大隊長を拾ってね。</p>

<p>フ消防士　おれはたまたま非番でブルックリンにいてね、橋が閉鎖されてスタテン島には戻れなかった。現場急行の指令が出ていたので近くにいたスクールバスに頼み込んで他の消防士たちといっしょにとにかくマンハッタンに向かったんだ。現場はすごかった。到着したときは２棟目も崩れた後でどこもかしこもぜんぶ粉だらけになっていた。あとは鉄の塊。何をしていいのか、どこから手を付ければいいのかわからない。とにかく近くにいた隊に合流してホースラインを引いて、それからけが人を捜した。</p>

<p>ザ主任　１棟目は爆発したんだ。ものすごい音だった。あの上層階部分が落っこちてきたんだ。一瞬のうちにあたりはみんな煙だな。雲が襲ってきた感じだ。そして気づくと音が消えてた。何も聞こえない。雲の向こうに消防車の点滅する明かりは見えたが、逃げる途中で道具もマスクもなくなっていた。いっしょにいた別の主任消防士は血だらけだった。煙がうっすらと晴れてあたりを見ると、そこにはちょうど飛行機の残骸がちらばっている場所だった。タイヤとか飛行機の窓とか。すごい光景だった。生きている人間はおれたち以外にはだれもいないんじゃないかと思った。</p>

<p>Ｑ２棟目は？</p>

<p>ザ主任　あれは潰れ込むようだった。爆発音ではなく、地響きのようなとどろきが上の方から聞こえてきた。これは死ぬと思った。逃げても逃げても巨大な鉄の桁や梁が降ってくるんだ。それにつぶされてみんな死んでるんだ。よく生きてたと思う。何なんだろうな、その違いってのは。</p>

<p>フ消防士　現場でおぼえているのはフラストレーションだ。無力感。</p>

<p>ザ主任　１年前にいっしょに現場に行った車はいま署の中にあるよ。窓は破れてボンネットもぼこぼこだったんだが、それでもみんな修理が済んで復帰してきた。</p>

<p>デ署長　ロブのロッカーもまだ２階に残してあるよ。</p>

<p>フ消防士　ヴィン・ディーゼルっていう最近人気のマッチョ俳優を知ってるか？　あれがロブに似ているってんでロッカーの扉にはその俳優の写真が貼ってあるんだ。後で見せるよ。</p>

<p>デ署長　あいつは一人息子でね、母さんは去年の感謝祭（11月下旬）にこの署に挨拶に来たが、つらそうだったな。毎年感謝祭には署で七面鳥を焼くんだが、さすがに去年はいつもと違った。事件から１年が経ったと言ってもな、まだまだ忘れることはできないし忘れようとも思わないよ。むしろ忘れないようにしてるんだ。<br />
（了）</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎ＦＤＮＹフットボールチームの再建</p>

<p>　ニューヨークでは警察と消防は永遠のよきライバルでもある。とくに両者間では毎年、各種のスポーツ競技会がチャリティー名目で開催される。ＮＹＰＤの精鋭（ザ・ファイネスト）たちとＦＤＮＹの勇者（ザ・ブレイヴェスト）たち。だが、ことしのアメフト大会はやや様相を異にした。</p>

<p>　９.11から間もない昨年10月初め、ＦＤＮＹの「ザ・ブレイヴェスト・フットボール・クラブ」のメンバーの間で熱い議論が起こっていた。30年間続いたこの伝統のチームを解散させるのか否か。３４３人の殉職者の中にこのチームの中心メンバー22人も含まれていたのだ。チームの二本立てのクォーターバックであるパット・ライオンズとトム・カルンの２人も亡くなった。「パットのためならなんでもやってやるという気になったんだ」とチームメイトのウッディー・マッケイルは言う。「ハドルの中にパットが入ってくると、彼の自信がおれたちみんなに乗り移ってきたんだ」</p>

<p>　このままではチームの士気も運営もままならなかった。精神的ショックから立ち直れなかった。アメリカの消防士たちはほとんど家族にも似た同胞愛で結ばれている。一日いっぱいを共に過ごし、共に料理をし、共に働き、共に教え合い、共に学び合う。一人の人生はみんなの人生とつながっている。</p>

<p>　フルバックのトム・ナルドゥッチが訴えた。「今年、おれたちは１２０人もの新人の加入サインを受けてるんだ。こんなことは前にはなかったことだ。みんな、生きるってことの意味が変わったんだ。フットボールは、おれたちにとってもう単なるスポーツじゃないんだ」</p>

<p>　ＦＤＮＹチームは例年、全米の消防や救急隊からなる公共安全機関フットボールリーグなどで試合を続け、それから５月のＮＹＰＤとの恒例の対抗試合に臨む。それがメイン・イヴェントだ。「今年の試合の意味は、前と同じことをやるということなんだ」とＮＹＰＤ側の監督ピート・ムーグも言う。「テロで変えられてたまるか。これがアメリカのやり方なんだ、というところを見せてやらなくてはならない」</p>

<p>　５月19日、ニューヨークのお隣ニュージャージー州のジャイアンツ・スタジアムで、第30回「ファン・シティー・ボウル」が１万２０００人の観客を集めてキックオフされた。22人のチームメイトの遺族も招待されていた。殉職したプレイヤーのジャージーが一枚一枚額に入れられてその遺族に贈呈された。そこには「我らがチームの永遠のヒーロー」とのプレートが付いていた。</p>

<p>　試合は10対０でＮＹＰＤの勝利に終わった。ＦＤＮＹでＭＶＰに輝いたディフェンスのスティーヴン・オーは言う。「去年は一緒に戦った仲間が今年はいない。それは変な気持ちだ。だがひとたび試合が始まればあとは勝つことしか考えないからいい」<br />
（了）</p>

<p></p>

<p><br />
◎マイケル・ジャッジ通り（31st Street between 6th and 7th Avenue）</p>

<p>　全米の消防署にはそれぞれ所属の司祭がいる。被災現場で犠牲者を弔い遺族をいたわり、殉職消防士の葬儀も司る。ＦＤＮＹにはマイケル・ジャッジ神父（当時68）がいた。ブルックリン生まれのちゃきちゃきのニューヨーカーで子供のころは靴磨きもした。気さくで冗談が好きでやさしく温かく、だれもにファーザー・マイクとファーストネームで呼ばれるニューヨークの名物神父だった。消防士たちといっしょにどんな現場にも真っ先に駆けつけた。昨年９月11日の朝も同じだった。燃えさかる北タワーの現場に神父はいた。安全なところに避難してくださいと若い消防士たちに促されても頑として彼らとともに行動していたのだ。</p>

<p>　瀕死の重傷を負った消防士が仮指揮所を設けたロビーに運び込まれた。神父は彼に駆け寄った。彼に最後の祈りを与えてやらねばいけなかった。そのために神父はヘルメットを脱いだ。そのとき、南タワーが崩落した。北タワー・ロビーに飛び込んできた瓦礫の一片が神父を直撃した。即死だった。世界貿易センターテロで、公式に名前の確認された最初の殉職者の一人がこのファーザー・マイクだった。</p>

<p>　ファーザー・マイクの居所はマンハッタン中心部、西31丁目のアッシジ聖フランシス教会だった。通りを挟んで目の前がＦＤＮＹの第１消防車隊兼第24はしご車隊だ。ここにいるだれもがファーザー・マイクを悼み、いまも神父の写真を署に掲げている。</p>

<p>　ＮＹ市議会議長と当時のジュリアーニ市長が共同提案者という異例の扱いで、神父のいた31丁目の六番街と七番街までの間が「ファーザー・マイケル・ジャッジ通り」と命名された。それだけではない。神父の人生をしのぶ１時間枠のドキュメンタリー番組も制作され、東90丁目とウォールストリートを結ぶ通勤フェリーも「ファーザー・マイク」号と改名された。</p>

<p>　消防に尽くしただけではなかった。神父はゲイ男性でもあり、エイズ禍の最初期から他の教会にも見捨てられたエイズ患者の世話を見てきた。クリントン前大統領夫妻も神父と親友づきあいをしていた。</p>

<p>　神父をよく知るデイヴィッド・フューラム消防士は「神父が大好きだった」と話す。「私と妻の結婚式も長女の洗礼式もみなファーザー・マイクがやってくれた。神父は私の人生の一部だった。あんなに大きな心を持った人はいない。彼を知っている人はみんな彼に感動していたんだよ」<br />
（了）</p>

<p><br />
</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2008/09/20010911.html</link>
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         <category>その他/随想</category>
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 02:24:06 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「国家の品格」というトンデモ本</title>
         <description><![CDATA[<p>　日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」（新潮新書）という本でした。日本ではもう１１０万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら？　と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。</p>

<p><img alt="book_kokka.gif" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/book_kokka.gif" width="210" height="328" /></p>

<p>　こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で３年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」</p>

<p>　おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。</p>

<p>　首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。<br />
　もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。<br />
　でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。</p>

<p>　そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。</p>

<p>　さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。<br />
　ここでまたわからなくなる。<br />
　だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「（長い）論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。</p>

<p>　もちろん筆者もバカじゃないですから（いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね）、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。<br />
　これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。</p>

<p>　先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに（p5）。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の２つの力を両輪にすべきなのに。</p>

<p>　さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。<br />
　藤原さんはそれに関していじめの例を引きます（p62）。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。<br />
　「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」（p48）という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。<br />
　それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。</p>

<p>　ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。<br />
　藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。</p>

<p>　「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか？　それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。<br />
　で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。</p>

<p>　人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか？」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが，論理的に必然的に待っているのです。<br />
　それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。</p>

<p>　では、武士はなぜ人を殺してよかったのか？　それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは１つの論理の導く１つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。</p>

<p>　「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。<br />
　というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。</p>

<p>　ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか？　「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか？　私にはそれはどうしてもできない。</p>

<p>　藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。</p>

<p>　どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。<br />
　はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン（p101）。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン（p102）。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授（106P）等々。<br />
　なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。</p>

<p>　英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。</p>

<p>　総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている（思いたがっている）国民はほかにいないんじゃないでしょうか？　逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが，私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。</p>

<p>　「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう（101P）が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。</p>

<p>　この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。<br />
　以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。</p>

<p>　この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように（p122）、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。</p>

<p>　武士道に絡めて、もう１つ言ってよろしいですか？<br />
　新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」（p124）だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」（p90-91）といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか？　そう、武士です。<br />
　敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう，抱いてもらう立場のままです。</p>

<p>　この武士道精神は、藤原さんが「非道」（p21）と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その２ページ前と７ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。<br />
　頭がこんがらがってきませんか？　この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか？　「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか？　まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。</p>

<p>　藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。</p>

<p>　私はいまの日本に欠けているのは（そしてこの本にも欠けているのは）むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。</p>

<p>　この本は、じつは第４章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。<br />
　ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。</p>

<p>　そういうことです。</p>

<p>　ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。<br />
　以上、終わり。（2006年４月のブログ Daily Bullshit から）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_10.html</link>
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         <category>Review</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 01:14:26 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『三島由紀夫のストーンウォール』</title>
         <description><![CDATA[<p>　 先日、ある日本人女性がゲイ男性の中にいたストレート男性と話をして「あなたはノーマルなんですね」とコメントしました。一瞬の間を置いて大爆笑となったのですが、その一瞬のフリーズの理由を彼女は理解したでしょうか・・こんな「うっかり」のゲイ侮蔑がニューヨークに住んでいてさえも日本人の口から漏れてしまいます。しかしそろそろあなたも「これはちょっとまずいかも」と思ってはいませんか？　なぜならあなたも、自分の周りに「予想」以上にゲイが多いことにそろそろ気づきはじめているでしょうから。もしそうじゃないなら、それはあなたが「偏見ある人物」としてこっそり敬遠されている証拠かもしれません。アメリカ生活のほかの問題と同様、ここでも知ることから始めてはどうでしょう？　これから４回に渡り、この欄でゲイに関するいろいろな話題をわかりやすくご紹介します。 </p>

<p>　 冒頭の話はべつに彼女に限ったことではありません。かなり知的な人や地位のある人でさえもゲイに関しては腰が引けるふりをする人や下品な冗談や当てこすりしか言えない日本人が数多くいます。「ノーマル」の反対は「アブノーマル」。つまり「異常なヘンタイ」。これではゲイ男性も立つ瀬がありません。彼女に悪意がなかったのは確かでしょうが、同時に他者に対する繊細な「意識」もないと見られたのも確かでしょう。 </p>

<p>　 こういううっかりした、けれどとても失礼なゲイ蔑視が日本人コミュニティーに蔓延していることははしなくも先日、ある日本語新聞が毎年６月最終日曜に恒例となっているマンハッタンのゲイ・プライドを報道したときにも明らかになりました。記事はＮＹ市警などの警官で作る全米ゲイ組織「ＧＯＡＬ」の行進を取り上げたものですが、その見出しがなぜか「私たちは警官である前にゲイなのよ」と意味もなくオンナ言葉になっていたのです。 </p>

<p>　 いや、「意味もなく」ではありません。これはじつは言外に「オカマはこうしてオンナ言葉でからかうべきものなのだ」というメッセージをとても雄弁に伝える役目を果たしました（同時に、オンナ言葉の奥に潜む拭い去りがたい女性蔑視も）。 <br />
　 もっとも、同紙編集部に確認したところそういう意図はなかったと平謝りでしたから問題はここでも同じく、そういう意図がないのにそうやってしまう「意識」の「なさ」なのです。 </p>

<p>　 これらはすべて、同性愛に対する日本での条件反射的な対応をそのまま米国生活にも持ち込んだものでしょう。しかしそれはあまり通用する理論ではありません。通用しないどころか逆に「ホモフォーブ（同性愛者をさしたる論理的理由なく異常に嫌悪する恐怖神経症の人）」という、「未開人」に匹敵するレッテルを貼られることもあります。「うっかり」が「怠慢」と責められるアメリカでその種の論理が通用しないのはほかにだって貿易摩擦の問題やセクハラ関連の議論でもご存じのとおりです。 </p>

<p>　 どうして意識が低いのか。それは「ゲイ」が「性」に関することがらだからです。セックスに関してはおおやけに話さないという習慣が東アジア文化圏にはあります。よって日本では性科学でさえも正当に発展していません。真っ当な議論がないからいつまでも下世話なゴシップの次元から抜け出せないのです。 </p>

<p>　 じつは私も恥ずかしい思いをしたことがあります。日本の英和辞典で知った単語で、ゲイの人に向かって「ファゴット」という単語を使ったことがあるのです。その場でこれは大変な侮蔑語だと教えられ大汗をかきました。日本の辞書はいまでも同性愛者のことを一様に「ホモ」とか「オカマ」とかの侮蔑語で訳出しているものが多く、さらにそれが侮蔑語であるという意識すらないのです（これは27万項目を収録し最も権威ある辞書とされる、ついこの99年４月に出たばかりの研究社リーダーズ英和辞典第２版でも直っていません）。 </p>

<p>　 対してアメリカでは60年代後半からの性解放運動以来、「性」も「愛」と同様、幸福追求のために正当に考えられて然るべき人間性の一つなのだとされてきました。だから徹底的に議論にもなる。もちろんその分、宗教右翼からの侮蔑や罵倒も激しくなっていますしテロや虐殺さえも起きていますが。 </p>

<p>　 ただしその議論の論理的帰結はすでに定まっています。つまり同性愛は人間以外の自然界を見ても異常でも病気でもないということ。異常や病気があるとすればそれはすべて「隠す」という行為および「隠さねばならぬ」という心理的抑圧から派生したものであるということ。たとえば異性愛者であっても、それを「隠さねばならぬ」としたら頭がおかしくなってしまうことは往々にしてあり得るでしょう。そういうことです。 </p>

<p>　 それらの抑圧の原因は米国の場合すべて宗教的な諸説にあります。その意味ではユダヤ人蔑視などとほとんど同じ構造です。ところで日本ではゲイ蔑視の「理論的後ろ盾」というものがなに一つないというのがじつに不思議なのです。あるならぜひ教えていただきたいのですが。 </p>

<p>　 さて、その議論の突端は、じつはいまから30年前にこのニューヨークのダウンタウンで起こりました。 </p>

<p>　 30年前の1969年という年は、日本中で『黒猫のタンゴ』が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、ここアメリカではニクソンが大統領になり、ウッドストックが開かれ、空の上ではアポロ11号が月に到着した年です。 </p>

<p>　 グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」という名前を一度も聞いたことがなくても日本人なら当然です。日本のマスメディアは90年代に入るまでここで起きた同性愛者たちの“蜂起”をただの１行も報道していません。アメリカのメディアですら、たとえばタイム誌がそれに関して恐る恐る触れたのは事件後４カ月も経ってからでした。 <br />
　 なぜなら、同性愛者であることは当時、アメリカでも個人的な「趣味」の問題だと考えられていたからです。ゲイ男性の自伝として史上初めて全米図書賞を受賞したポール・モネットの『Becoming a Man』（93年）は、当時の時代状況を「ヒッピーの性革命はだれもがだれとでもセックスできるということではあったが、ゲイであってもいいということではなかった。女性にも有色人種にも戦争にも政治哲学はあったが、ゲイにはなんの政治的意味もなかったのだ」と書いています。 </p>

<p>　 もっと奇妙な逸話もあります。ある作家が70年代初期に、思想・政治分野を扱う専門書店でゲイに関する本があるかと訊いたら「ポルノや変態モノは置いてない」と言われたというものです。店の本棚には女性、少数民族、さらには動物への抑圧という本まであったというのに、ゲイに対する抑圧は「なかった」。 </p>

<p>　 順が逆になってしまいました。69年６月28日土曜の未明にストーンウォールでいったい何が起きたのか・・伏線としては前日にゲイたちのアイドルであり、ゲイのファンたちをとても大切にしていた女優ジュディ・ガーランドが死んだことが挙げられます。その夜はこの偉大なアイコンを偲んで数多くのゲイたちがヴィレッジに集まっていました。そんな大切なとむらいの通夜にＮＹ市警がゲイバー摘発にやってきたのです。 </p>

<p>　 当時のゲイバーでは酒の販売が禁止されていました。それを黙認して警官たちは賄賂を受け取り、定期的に形だけのガサ入れをやっていました。この夜も簡単なはずでした。なにせ相手はヤワなオカマたちなのですから。 </p>

<p>　 例によって店の従業員と女装の売春夫たちが手錠をはめられ逮捕車両に押し込まれました。バカにされののしられ警棒で小突かれながら「なんなのよ！」とだれかが警官に文句を言います。「こんな夜くらい静かに酒を飲ませてよ」と。「ファゴットが一丁前の口を利くな」と警官が言います。「なにがジュディ・ガーランドだ」と別の警官が笑います。 </p>

<p>　 だれかの心でなにかが切れます。それはそうでしょう。愛する者が死んだその夜に、最もまじめでひたむきな状態の人間の心が足蹴にされているのです。野次馬だった遠巻きの多くのゲイたちの中に、警官隊に向けて小銭を投げつける者が出てきます。小銭は小石になります。次にはビール瓶になり路端のゴミ箱になります。逆上する警官隊に対抗して「ゴー、ガールズ！」と号令が上がります。すると女装のゲイたちやレズビアンの勇者たちがいっせいに警官隊に歯向かいはじめたのです。道路のアスファルトが剥がされ、駐車メーターのネギ坊主も引き抜かれ投げつけられ、「反乱」はやがて数千人を巻き込んだ大暴動になりました。なにも失うもののないなにもかもを奪われていた者たちが、その夜初めて奪われたくないものに気づいて拳を握り立ち上がったﾌでした。 </p>

<p>　 暴動は、昼間はバー側がタダ酒を振る舞う酒宴となり（酒を売るのは違法でしたから）、夜には警官隊との衝突を繰り返して３日３晩続きました。これがその後に「ストーンウォールの反乱」と呼ばれるものでした。 </p>

<p>　 これがどのくらいゲイの人権運動に影響があったかといえば、ストーンウォール以前にはゲイの人権デモはせいぜい50人も集まればよかったのに、それが翌年のストーンウォール記念デモでは３千人のゲイがクリストファー・ストリートを練り歩いた、と言えばわかるでしょうか。ゲイ団体も事件前は全米でわずか50ほどしかなかったのが１年半で２００団体にも増えました。73年末までには、大学や教会や市単位などでその数、全米で合計１１００団体以上にも膨れ上がったのです。 </p>

<p>　 ところで、この「ストーンウォール」というバーのことを、この事件前に知っている著名な日本人がいました。 <br />
　 作家の三島由紀夫です。 </p>

<p>　 あのストーンウォールの反乱の１、２年前の夏だったそうです。日本からやってきた三島にそこで出遭った、現在はニューヨーク大学で映画研究コーディネーターを務めるジェレマイア・ニュートン氏（50）に話を聴きました。 <br />
　 三島は当時のニューヨーク文壇の関係者らと数人でヴィレッジに来ていました。まずジュリアスというゲイバーで軽く飲み、それから隣りのブロックのストーンウォールに向かいました。しかし三島はその入口チェックで入店を断られたそうなのです。 </p>

<p>　 「日本の偉い作家なんだって一生懸命説明したが、あのころアジア人なんてだれも鼻にもひっかけなかった。人種差別もひどい時代だったから」とニュートン氏。 日本学者フォービヨン・バワーズが、三島の自決直後の70年12月３日付ヴィレッジ・ヴォイス紙に追悼文を寄せています。そこに「ある夜、三島はただセックスだけのために渡米してきた。一緒に食事をとり、私に細かく自分の求める相手を描写したあと、ともにダウンタウンのゲイバー巡りをした」と書いてあるのも、おそらくニュートン氏の語るのと同じ夜のことだと思われます。白いスーツを着て意気込んで向かったその夜の三島の男漁りは、バワーズによればけっきょく虚しかったそうですが。 </p>

<p>　 三島とストーンウォールとのこの背離は、いまから思えばとても象徴的です。三島は自分が入店を断られたあのゲイバーからその翌年に画期的なゲイの人権運動が始まっていたのだとも知らぬままに死んでいったのでしょう。日本では同性愛は多く情緒的批判者から右翼思想や天皇制と結びつけられエセ病理学的にも揶揄されてきました。つまりオカマはオカマのままだったわけです。が、ここアメリカではオカマは次第に誇り高き「ゲイ」になっていきます。それは民主主義と結びつく運動です。６月の「ゲイ・プライド」とはそういう意味なのです。民主主義にはなんらの感情移入もできなかった作家三島由紀夫は、その意味でストーンウォールとは無関係です。彼はゲイではなく、ただのヘンタイ男色者として死んだのでした。もちろんここでいう「ヘンタイ」とは、自分が同性愛者であることを恥じている、その「恥」の意識の変態性を指しています。 <br />
（続く）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_9.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:07:53 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『We Are Everywhere』</title>
         <description><![CDATA[<p>　先日、ＡＰ通信が興味深いニュースを流しました。テキサス州議会ただ１人のオープンリー・ゲイ（ゲイであることをべつに隠したりしていない人を「オープンリー・ゲイ」と呼びます）の議員グレン・マクシーさんが、ある日のジョージ・Ｗ・ブッシュ州知事との会話を披露したのがニュースになったのです。</p>

<p>　 ──「知事が私の肩に手を掛けて、ぐっと顔を近づけてきてこう言うんだ。『グレン、私はきみを個人として人間として尊重している。だからわかってもらいたいんだが、これから私がゲイに関して公的に発言するその内容は、きみ個人とはなんら関係のないものと受け取ってほしいんだよ』」。</p>

<p>　 ことし４月にテキサス州議会で子供の保険法改正案が可決された際の話です。知事が同改正案の提案者でもあった彼のもとにお祝いに歩み寄ってきて、ついでにそういうことを口にしたのですね。話はまだ続きます。<br />
　──「それでもちろんこう返答したよ。『知事、あんたがゲイのやつらは子供の親としてふさわしくないと言うなら、それはあんた、つまり私のことを指して言ってるんだよ』。そうしたら知事は近くの別の議員のところに声をかけに行ったがね」。<br />
　 来年の大統領選でのフロントランナーであるブッシュ知事ならではの暴露話ですが、さて、このニュースからいろいろなことが読み取れます。</p>

<p>　 その最初はもちろんマクシー議員が意図したように共和党の反ゲイ姿勢、あるいは「そんな反ゲイ政策も一皮むけばこんなまやかしでしかない」というメッセージです。</p>

<p>　 キリスト教保守派を主要な支持基盤とする共和党はむかしから、「聖書の教えに反する」とされる同性愛者たちを「ライフスタイル」すなわち選択可能な「趣味の問題」（つまり快楽のために敢えてこうした“悪徳”を選んだ人びと）として非難していますが、もう１つは、そんな「背徳者」に対して「個人」的には「尊重している」と発言したブッシュ氏の思惑です。<br />
　 氏は人柄の人としても知られていますからこれはそのまま、ほんとうに政治家としての建前と個人としての友情との狭間での彼の苦衷を察してくれという意味だったのかもしれません。あるいはもっとうがった見方をすれば、そんな共和党候補でも最近のゲイたちの政治力の増大は無視できず、それを牽制する意図があったかもしれないということです　　　　　<br />
　 ゲイの政治力というのはそれほどに強いものなのでしょうか？　日本のメディアでは同性愛者に関するニュースはほとんど皆無です。取り上げられる同性愛者はお笑いやスキャンダルの対象だったりするだけで、したがって「日本には本当のホモはいない」と本気で思っている人も少なくありません。「エイズは外国人の病気で日本人だったら感染しにくい」と思っている人さえまだいるほどですから。</p>

<p>　 ところがアメリカに住んでいると前述のＡＰ通信ばかりかニューヨーク・タイムズ、ＣＮＮといった主要ニュースメディアにゲイの話題が登場しない日はありません。</p>

<p>　 1999年８月のゲイ関連のニュースには▽ジェニー・ジョーンズ・ショーでのゲイ殺人事件の再審詳報▽宗教界でのゲイ容認の動きとそれへの抵抗▽ゲイ向けの広告が増加中という話題もの▽米軍でのゲイ兵士殺人事件続報▽国防総省が兵士たちにゲイ容認教育を行うとの方針▽ボーイスカウトでのゲイ差別禁止判決−−など、ＡＰやロイターで１日平均10種類ほどものニュース配信がありました。</p>

<p>　 その中で目に付いたのがやはり大統領選にらみの共和党の動きです。前回のドール共和党での大統領選挙の際には同党がゲイからの献金を返還したということが大ニュースになりました。が、今回は同党も早々と「ゲイからの献金歓迎」という声明を出したのがニュースになっています。</p>

<p>　 「ゲイが共和党に寄付？」と思われるかもしれませんが、カトリックにも隠れゲイの司祭がいるくらいです、同党非公認ながらも全米で１万人以上の会員を持つ「ログキャビン（丸太小屋）・リパブリカンズ」という名前のオープンリー・ゲイの共和党員組織があるのです。前述したようにここは94年の中間選挙で共和党候補に計20万ドルの政治献金を行っていて、96年にもドール候補に寄付をしたらそのカネを突き返された。もっともドール候補はその後に平謝りに謝りましたが。ゲイの共和党議員だっています。最近も「実はゲイだった」とやっとのことで告白した上院議員もいました。<br />
　 オレゴン州議会でオープンリー・ゲイの共和党議員チャック・カーペンター氏は「ゲイで共和党員だなんて、しばらくはまるでナチス党員のユダヤ人みたいに思われてたがね」と回想しています。</p>

<p>　 ところで具体的に、いったいゲイというのはどのくらいの政治勢力なのでしょう？　ニューヨークタイムズによれば、前回96年の大統領選出口調査で、じつは５％もの人たちが自分のことをゲイであると明らかにしています（ゲイというのはレズビアン女性のことも含む用語です）。これは全米のヒスパニック系の投票翼窒ﾆほぼ同じです。またユダヤ系と比べても２倍近い数字でもあります。</p>

<p>　 さらに考慮しなくてはならないのは、ここで５％というのは、自分で自分をゲイだと言える人たちだけの割合だということです。いまでも抑圧や差別の多いキリスト教社会では、自分をゲイだとはっきり言えない人たちがその陰にそれこそごまんと控えています。すると、ゲイというのは潜在分を含めてやはりかなりの勢力になる。</p>

<p>　 しかもゲイと自称している人たちはもちろん自分たちの置かれている政治的状況にきわめて敏感な人たちでもあります。ゲイであることに誇りと自信を持っている人たちです。それは例えば、ゲイ人権団体から寄付を呼びかけるダイレクトメールが届いたら、ほかのどの社会層よりもはるかにそれに呼応する人たちの数が多い、ということでもあります。アメリカのゲイ団体の集金力は、一時期のエイズ関連寄付の多さとともに特筆に値するものです。</p>

<p>　 ちなみに７月中旬、民主党の筆頭大統領候補ゴア副大統領はゲイ団体から15万ドルの寄付を受けました。<br />
　　　　　<br />
　 このゲイのネットワークはかなりのものです。おまけにこれは人種などほかのマイノリティ層と異なり、すべての人種、すべての民族、すべての職種、すべての階級、すべての地域、すべての宗教、すべての（思春期以降の）年齢層を横断するネットワークなのです。こういうカテゴリーは人類史上、ゲイ以外に存在したことがありません。</p>

<p>　 いや、そうとも言えないか……あえて言えば「左利きの人」とか「太った人」とか「近視の人」、逆に言えば「目のよい人」「かっこいい体型の人」とかいうカテゴリーも同じですね。こういうのはたしかに地球上のどの層にもどの時代にも存在する。<br />
　 話は横道に逸れますが、例えば知識人や芸術家にゲイが多いという“俗説”があります。たしかにチャイコフスキーやヘンデルなど歴史的に同性愛者の大音楽家はいますし、近場ではレナード・バーンスタインなどもゲイでした。画家のフランシス・ベイコンもゲイでしたし、哲学者のミシェル・フーコーとかヴィトゲンシュタインもそうですね。みんなが知っているウォルト・ホイットマンやテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティなど、作家業にもたくさんゲイはいます。『ファルコナー』を書いたジョン・チーヴァーも同性愛者だったことを実の娘が彼の死後に明かしています。</p>

<p>　 しかしだからといって芸術家にホモセクシュアルが多いとは言えない。たまたま有名人だから同性愛者だと暴露される率が多いというだけの話かもしれないし、たとえば芸術家とはちょっと違うかもしれないけれど「ヘアメイク・アーティストってゲイが多いですよね」と同意を求められても私には「そうとも言えないんじゃないか」としか答えられません。「だってゲイの人って美的感覚に優れてるっていうじゃないですか？」と返されたりしますが、そういうのは才能もあるけれど基本的には努力した結果の獲得形質であって、抑圧のある社会でゲイの人がしっかり生きていきたいと願うときに、美的感覚とか芸術的技術とかそういうものを糧にしてしか生きられなかった、だから努力した、そういうことの単なる結果なのかもしれませんよね。</p>

<p>　 つまり芸術家とか美的感覚を必要とする職業とかというのは、「ゲイだからなれた」のではなく、もともとの自分の美的・芸術的感覚と才能とをよりよく培っているかどうかの問題であって、それはむしろ「ゲイでもなれた」ということだったのではないかと思う。知識人だって成就の条件はゲイネスではなくてその知能と精進ですし。</p>

<p>　 いずれにしてもどこにでもどの時代にでもどの層にでもゲイはいます。「オンナっぽいやつ」だけがゲイだ（レズビアンの場合はその逆です）と思ったら大間違いです。「オンナっぽい」とゲイだとすぐ知られるかもしれませんが、この世にはそれと同じ分だけ（あるいはそれ以上に）「オトコっぽい」ゲイもたくさんいます。彼らは「オトコっぽい」分だけ周囲に気づかれずに済んでいるだけの話で、ひょっとするとコソコソしている分だけ「オンナっぽい」ゲイたちよりも「オトコっぽくない」のかもしれない、という面白い逆説まで読み取れたりします。　　　　</p>

<p>　閑話休題。さてそのような強力なゲイのネットワークは最初から存在したたわけではもちろんありません。<br />
　 前回の『三島由紀夫のストーンウォール』でも紹介したように、ゲイたちが政治意識を持って本格的に活動を始めたのは1970年代に入ってからです。72年の民主党の党大会から同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。そのときはゲイとレズビアンは差別撤廃の対象とはなりませんでしたが、ウォルター・クロンカイトは当時のニュースで「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。</p>

<p>　 さすがです。やはり彼は一級のニュースマンだった。日本のジャーナリストで同性愛のことを揶揄や嫌悪なく普通の顔で普通に話題にできる人はＹ２Ｋを迎えようとする現在でさえも数少ない。</p>

<p>　 もちろんジャーナリズムの中にもゲイは同じ割合だけいます。90年には「全米レズビアン＆ゲイ・ジャーナリスト協会（ＮＬＧＪＡ）」という組織もできました。ＮＹタイムズやウォールストリート・ジャーナルといった大マスメディアの記者たちから大学でジャーナリズムを専攻している学生まで、もちろんＴＶジャーナリストも含めて現在は全米で1000人が会員です。中にはピュリッツァー受賞ジャーナリストもいます。</p>

<p>　 さて、これがゲイたちが「We Are Everywhere（私たちはどこにでもいる）」と豪語する実態です。<br />
　 かつて同性愛者であることは最高の脅しのタネでした。だから同性愛者たちは国家機密に関する職には就けなかった。しかしこれは簡単なことです。同性愛が秘密でもなんでもなくなれば済むことなのですから。クリントン政権では、ゲイネスがすでに恥ではなくなったという認識のもとに今年こうした国家公務員のゲイ排除の職種差別も撤廃しました。<br />
　 日本の朝・毎・読・日経・産経・東京・共同・時事、及びすべてのテレビ局、そのいずれの組織にも私が個人的に知っているゲイの記者がいますが、ゲイであると知られるのを怖がってひた隠しに隠している人がほとんどです。それは傍で見ていてかわいそうなくらいです。優秀な記者も少なくないのですが。</p>

<p>　 ゲイのジャーナリストも、じつはゲイであることを隠しているほうが逆に危ないのです。隠すからそれをネタに脅すやつがいる。前回も書きましたが、「隠す」という行為はそれほどまでに不健康で危険なことなのです。<br />
　 わかっているけど……彼らはそう言います。それほどまでにホモフォビアの呪縛は厳しい。次回はそのあたりを説明しましょう。<br />
（続く） </p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/we_are_everywhere.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:06:35 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『男社会のホモフォビア』</title>
         <description><![CDATA[<p>　1999年９月５日付ニューヨーク・タイムズ日曜版に、元大リーガーでサンディエゴ・パドレスを最後に96年に引退したビリー・ビーン氏（35）の大型インタビュー記事が掲載されたのに気づいた人もいらっしゃるでしょう。ビーン氏はこの夏、自分がじつは同性愛者だったとマイアミ・ヘラルド紙のインタビューで明かしました。今回のＮＹタイムズの記事はいわばその掘り下げ詳報ですね。 </p>

<p>　 前回、同性愛者がどこにでもいるということを書きましたが、それは「男らしさ」が支配するアメリカのスポーツ界でも同じです。しかしじつのところ、スポーツ選手で現役時代に自分がゲイだと公表した男性は、いままでにただ１人、フィギュア・スケートのルディ・ガリンド選手しかいません。女性のほうはテニスのマルチナ・ナヴラチロヴァやゴルフのマフィン・スペンサーダヴリン、自転車のミッシー・ジオーヴらがいるのですが。 </p>

<p>　 ただし現役引退後にゲイだったと公表した男性選手はかなりいます。フットボール界でもデヴィッド・コペイやロイ・シモンズがそうでした。飛び込みの連続五輪金メダリスト、グレッグ・ルゲイナスもゲイでした。レッドスキンズのタイトエンドだったジェリー・スミスは86年にエイズになって初めて自分がゲイだったと打ち明け、その７週間後に亡くなりました。 <br />
　 現役時代にカムアウト（ゲイであることを公表することをこう言います）するのが難しいのは、とくにチームスポーツで著しいようです。それはもちろんチームメイトたちからの拒絶を恐れてのことでしょう。仲間から嫌われてはチームスポーツは成立しませんから。 </p>

<p>　 ビリー・ビーン氏はメジャーリーグでの９年間を「片足は大リーグに置きながらももう片足ではバナナの皮を踏んでいるような気持ちだった」とタイムズの記事の中で述懐しています。それを裏打ちするように、同紙での他選手の反応の１つにヤンキーズのチャッド・カーティス外野手のコメントも載っていました。「このロッカールームの全員にアンケートをとったら、きっとみんな、だれかチームメイトの１人が自分のことを（性的に）品定めしてるなんて、考えるだけでもいやだと答えるだろう」。 </p>

<p>　 これはじつに「男性」的な感想でしょうね。いつもは女性を「性的に品定め」してはばかることない男性異性愛者たちが、自分たちが「品定め」されることになるなどとは思いもしなかった、あるいは思いもしたくない。なぜなら、そんなふうになったら彼の拠って立つところの「世界と歴史の主人公」たる「男性」性が否定されてしまうからです。さまざまな物語の中でいつも「主語」として君臨してきた自分が、その同性愛者のテキストの中ではいつのまにか「目的語」になって存在する。そのことへの恐怖。それはまさしく男性としての「主体性」を揺るがす大問題なのです。 </p>

<p>　 しかし、それにしても同性愛者はただそんなことだけでほかの男性異性愛者たちの脅威なのでしょうか？　「主語」とか「主体性」とか、そういう“哲学”的な話題のほかに、じつはとても興味深いデータがあります。</p>

<p>　 「同性愛」という言葉を聞いてふつうでなく反応してしまう人たちがいます。これを心理学者のジョージ・ワインバーグ博士が72年に「ホモフォビア（同性愛恐怖症）」と名付けました。高所恐怖症とか閉所恐怖症とか広場恐怖症とか、そういう一連の恐怖症の１つです。むろんこの場合、治療の対象は高所や広場でないのと同じように同性愛ではありません。治療の対象は同性愛をそうやって病的に嫌悪する人たちのほうなのです。 </p>

<p>　 さて、そのホモフォビアの研究で米国の学会誌「異常心理ジャーナル」が97年にジョージア大学の研究者の実験を紹介しました。 <br />
　 実験は異性愛者を自称する被験男子学生64人を対象に、まず彼らを同性愛を嫌悪する者とべつに気にしない者たちとに分類して行われました。それで何をどうしたのかというと、その彼らのペニスに計測器を装着して、双方のグループにともに男同士の性交を描いたゲイ・ポルノのヴィデオを見せたわけです（すごい実験ですよね）。すると２グループの勃起率に明らかな差異が認められました。 </p>

<p>　 なんと、ホモフォビアの男子グループの80％の学生に明らかな勃起が生じ、その平均はヴィデオ開始後わずか１分でペニスの周囲長が１センチ増大。４分経過時点では平均して１・25センチ増になったというものでした。 <br />
　 対してホモフォビアを持たない学生では勃起を見たのは30％。しかもその膨張平均は４分経過時点でも５ミリ増にとどまったのでした。 </p>

<p>　 これはいったい何を意味しているのでしょうか？ <br />
　 この実験結果に通底する事例をインターネットのニューズグループの書き込みにも見ることができます。ゲイの話題を扱ったニューズグループの書き込みの中に、毎日必ずといってよいほどゲイたちを罵倒する言葉がアップされています。彼らは同性愛者たちを「異常」「病気」「変態」と罵り、「地獄に堕ちろ」とか「銃で撃ち拾してやる」とか書き込んでは素性を明かさずに消えていきます。 </p>

<p>　 ニューズグループというのはもとよりあるテーマでの情報交換を目的に開放されたネット上の架空空間ですから、したがって同性愛に関するグループにはほんらい同性愛者たちしかアクセスしません。そんなにも同性愛が嫌いな輩が、わざわざそんな場所を調べ出してアクセスしては貴重な時間まで費やして１件１件「ホモ」たちの書き込みを読み写真をダウンロードし、ヘドが出るとかいった感想や憎悪の殴り書きをしては立ち去っていくのです。 </p>

<p>　 この執拗さはどう考えても普通じゃない。 <br />
　 さて、なんとなくホモフォビアの正体がわかってきたでしょう？　つまりホモセクシュアルを嫌悪する男性に限って、じつはホモセクシュアルのことが気になって気になってしょうがないのだということ。もっと言ってしまえば、彼らはホモセクシュアルなことに性的に興奮すらするのだということです。 <br />
　 そうです。同性愛者の存在は、異性愛者たちの内なる同性愛性を目覚めさせてしまうという意味でも大きな脅威なのです。ホモフォビアとはつまり、自分の中の無意識のホモセクシュアルな欲望への否定なのです。この解釈は実にフロイド的ですね。 </p>

<p>　 フロイドは人間はもともと両性愛的に生まれてくると指摘しましたが、たしかにまったく「ホモっ気」がなければ「ホモ」のことなど気にもならないし「ホモ」から「性的に品定め」されても動じる必要などありません。「ホモ」の話題でぎゃーぎゃー騒いだり罵ったりする男ほど“怪しい”とすれば、なんだか世の中の男性はみんな「隠れホモ」みたいに見えてきそうです。 <br />
　 じつはそういう状態を表す言葉も社会学とジェンダーの学問領域からすでに生まれています。「ホモソシアル」という形容詞がそれです。日本語にするのはなかなか難しいのですが、要するに「男同士が社会の中で徹底的にツルんでいる状態」をイメージすればよいでしょう。日本語にはなりにくいがその意味するものはとても日本的な男たちの光景でもありますから、私たちにもけっこう容易に理解できるのではないでしょうか。このホモソシアリティには大きな特徴があります。 <br />
　 １つは、ホモソシアルな関係というのは精神的にはとてもホモセクシュアルな関係なのですが、じっさいにはホモセクシュアルを極端に忌避するというものです。男同士ツルんでいても、ホモじゃないぜ、ということを見せつけるために異常な強さで同性愛的なものを排斥するわけです。 </p>

<p>　 忌避されるのはホモセクシュアルだけではありません。じつはホモソシアルな男性中心社会では、女性もまた彼らの異性愛性を証明するアリバイ的な道具でしかありません。ときには女性たちは男同士の絆の強さを示す、あるいはその絆を補強するだけのために、当の男たちの間で通貨のように交換されたりもするのです。それは男同士の付き合いのときにたとえば単なる「お茶くみ」に変身させられるどこかの奥さんとか、もっと極端に言えば同じ女性と寝たと言って「アナ兄弟だな」とか言って喜ぶ男どもなどに如実に現れています。 </p>

<p>　 つまりホモソシアルな社会というのは、そうした権力の中心にいる男性異性愛者以外の者たちにとってはたいへんな抑圧装置として働くということです。ゲイのことを考えることは、じつはそんな非情なシステムの在り方を変えていこうという試みでもあるわけなのです。 </p>

<p>　 スポーツ界というのはそうした「男らしさ」の権化の世界でもありますから、ホモフォビアが強いのもまあ頷けはします。そういえば「男の世界」である軍隊もまた似たようなメカニズムですね。米軍のホモフォビアはとても有名で、例の「（ゲイであることを）聞かない、言わない」原則はほとんど機能していません。ついでに言えば、軍隊にはホモフォビアだけでなく男の世界に割り入ってきた女性兵士に対する女性嫌悪（ミソジニー）さえ存在しています。まさに前述のホモソシアルの特徴そのものでしょう？ </p>

<p>　 さて、それをひっくり返そうとするゲイたちの試みの１つが「ゲイ・ゲームズ」です。82年にサンフランシスコで始まった４年に１度のこのスポーツの祭典は発足当初は「ゲイ・オリンピック」と名付けられ、その後に本家の米国オリンピック委員会に名称権の問題で訴えられて名称を変更しましたから、その騒ぎなどを記憶している人も多いでしょう。 <br />
　 このゲイ・ゲームズは以来着実に参加者を増やし、94年にニューヨークで行われた第４回大会では８日間の期間中、競技参加者は世界44カ国から１万５千人。31種類の競技が行われて観客動員50万人を記録し、アマチュア・スポーツ大会ではそれこそ本家オリンピックを抜いて世界１の規模を誇るまでに成長しました。98年にはついに海を渡ってアムステルダムで開催されました。競技出場者も２万人に膨れ上がりました。 </p>

<p>　 「男らしさ」とか「より強く」とか、そういった旧来のスポーツの価値観を捨てて、参加する楽しさを原則にしていることも最近の商業主義的五輪よりある意味で本来の近代五輪の理想的イメージに近いような印象を受けますね。 <br />
　 このゲイ・ゲームズを考えたのがメキシコ五輪で十種競技の６位に入賞した、薬学博士でもあるトム・ワデルでした。彼は68年のそのオリンピックで、アメリカの黒人人権運動の示威行為として手を突き上げて表彰台に立った米国黒人スプリンター２人への非難渦巻く中、その２人への支持声明を出したことでも知られています。 <br />
　 そんな彼も86年にエイズと診断され、翌年に49歳の若さで亡くなりました。ですが、彼の遺志はいまでもゲイ・ゲームズに結実しています。 </p>

<p>　 かつてオリンピックの名称使用をめぐって争った米国オリンピック委員会も、90年に初めてのオープンリー・レズビアンの委員を採用したころからこのゲイ・ゲームズに協力を開始しています。同委の年間スポーツ・イベントのリストにも掲載するようになりましたし、ゲームズに参加しに訪れる外国選手たちのためにビザ取得で協力してやっています。日本からももちろん毎回、何十人もの選手団が参加しています。 </p>

<p>　 でも、この世界最大のスポーツの祭典「ゲイ・ゲームズ」が日本国内できちんと報道されたという話は、例によってまだ聞いたことがありません。日本という国がじつにホモソシアルだということを考えれば、日本という国そのものが見事にホモフォビックだというのも先ほどからの論理から言って当然といえば当然なのですが……。 <br />
（続）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_8.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:05:48 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『ゲイが集まりゃ桶屋が儲かる？』</title>
         <description><![CDATA[<p>　最近、マンハッタンのチェルシー地区を歩いたことがありますか？　とくに八番街の15〜22丁目周辺です。つい数年前までは殺風景な茶色いビルの建ち並ぶだけの通りだったのですが、いまはやたらとカラフルでおしゃれなレストランやカフェが並んでいます。見ればいたるところにレインボウ・フラッグのワッペンが貼ってあったりします。 </p>

<p>　この虹色の旗はゲイのシンボルマークです。いろんな色がともに１つの美しい虹を作る、というのが、性的にさまざまな人間の多様性を受容しようという訴えのシンボルになっているのです。つまりチェルシーはいまやすっかり「ゲイな」場所に様変わりしてしまっているわけです。 </p>

<p>　「ゲイ地区」といえばかつてはニューヨークではグリニッジ・ヴィレッジでした。昔から自由人の住む「リトル・ボヘミア」として栄え、最初のゲイバー（当時はゲイという言葉はなかったので、花の名の「パンジー・プレイス」というのがゲイバーの婉曲隠語でした）も1919年にできています。この連載の初回に記したゲイ人権運動の嚆矢たるストーンウォール・インも七番街からクリストファー・ストリートをすぐ東に入ったところにあります。 </p>

<p>　しかしビレッジは基本的には住宅地域で、道路も狭く商業施設のスペースも限られています。おまけにどんどん瀟洒になって家賃も高くなり、年齢層も高い金持ちゲイしか住めない場所になってきました。ゲイたちがチェルシーに移りはじめたのはそんなころです。チェルシーはそれまで特に八番街から西ではなんだか危険な感じもする地区でした。だから家賃も安くて、だから若いゲイたちも住むことができたのですが、そうやってゲイたちが入り始めてから街はどんどん明るく安全になってきて、今ではすっかりニューヨークでいちばんトレンディーな地区になってしまいました。 </p>

<p>　そういえばサンフランシスコのカストロ地区も「ゲイの街」になってから見違えるほどきれいになりました。ウェストハリウッドもゲイ地区が最も輝いています。ケープコッドのプロヴィンスタウンやフロリダのサウスビーチ、キーウェストなど、ゲイのリゾート地は不況時でさえも賑わっていました。ゲイたちが来れば街はそんなにも様変わりするのでしょうか。 </p>

<p>　チェルシーが注目されはじめたのはちょうどストーンウォールの25周年記念イヴェントが行われ、ニューヨークでゲイ・ゲームズが開催された94年ころからです。前後してヴィレッジにあったゲイ専門書店「ディファレント・ライト」が３倍の店舗面積を求めてチェルシーに移転しました。モデルみたいなかっこいいお兄ちゃんたちがウェイターをする「フード・バー」というおしゃれなレストランが出来たのもこのころですね。そういえば「マッスル・クィーン」「ジム・クィーン」（ジム通いと筋肉造りに夢中のゲイの若者たちを冷やかしてこういいます）の変形の「チェルシー・クィーン」「チェルシー・クローン」なる言葉が生まれたのも90年代半ばころからでしょうか。まるで絵に描いたようなきれいな肉体を誇り、ぴったりしたシャツを着てブランド志向で短髪で、「かっこいい」「トレンディー」という意味から「アンドロイドみたい」「頭悪そう」「お高くとまってる」といったマイナスイメージも抱えた言葉です。 </p>

<p>　じつはゲイ男性たちのこの「筋肉づくり」は、80年代のエイズ恐怖から始まったものでした。陽に焼けた健康的な肉体は、たとえそれが人工的に作られたものであっても、あるいはそれだからこそ意志的な、エイズに対するアンチテーゼだったのです。 </p>

<p>　その作られた美しい肉体がファッションとしての単なる記号になってくるのは、エイズ危機がどういう誤解からか「薄れた」と感じられてきた時期に一致します。もちろんこの「薄れた」という感覚はエイズ患者／感染者に対する同情や思いやりが「トレンド」になったことにもよります。例の、患者／感染者への「友情・支援」を示すレッドリボンなんてものが流行りだし、そういうふうにエイズ・フレンドリーであることを「エイズ・シック（chic）」と呼ぶ傾向さえ生まれました。レッドリボンが高給宝飾店からとんでもない高額なアクセサリーとして売り出されたのもこのころでしたね。 </p>

<p>　92年ごろから94年ごろにかけてこうしてエイズ危機がファッションによって薄められて行く中、それまでエイズの汚名をまとっていたゲイたちの反撃もまた始まります。６月のストーンウォール記念イヴェントのテーマは93年には「Be Visible（目に見える存在になれ）」になりました。エイズによって二重の差別を受け、ふたたびクローゼット（ゲイであることを隠している状態）に閉じ籠もりがちになった傾向に対し、もう一度原点に戻って「カムアウトせよ」と訴える。エイズの汚名を脱ぎ捨てて、その暗いクローゼットから出てきたゲイの新世代は、エイズへのアンチテーゼではない、単なるファッションとしての美しい肉体の鎧をまとっていた、というわけです。 </p>

<p>　もちろん、これはあまりに戯画化しすぎた分析です。ゲイといっても美しくない人のほうが圧倒的に多いし（失礼！）、チェルシーの風潮が全米に通じるかといえばカリフォルニアのゲイはまた違うしという具合にそれぞれさまざまです。忘れてならないのは、エイズに苦しむゲイはエイズに苦しむ異性愛者たちと同じくいまもたくさんいるということです。 </p>

<p>　それでもこの歴史の戯画化と単純化をもう少し敷衍してみましょう。 </p>

<p>　さて、よりヴィジブル（目に見えるよう）になって元気なゲイたちを（正確に言えばそれはゆいいつ白人ゲイ男性層だったのですが）生き馬の目を抜く米ビジネス界が見逃すはずはありません。 </p>

<p>　やはり90年代に入ってから、メディアはこぞってゲイたちの可処分所得の多さを喧伝しはじめます。その先駆けとなったのはウォールストリート・ジャーナルの1991年６月18日付けの大々的な統計記事でした。米商務省国勢調査局と民間調査機関の共同調査によるその統計数字は、ゲイの世帯がアメリカの一般世帯よりはるかに年間所得や可処分所得が大きく高学歴で、旅行や買い物に多大な興味を示しているというものでした。 </p>

<p>　その当時の統計結果を少し抜き出してみましょう。 </p>

<p>　 ▼一世帯平均年収はゲイ世帯で５万５４３０ドルで、全米平均より２万３千ドル多い <br />
　 ▼米国人平均個人年収１万２１６６ドルに対し、ゲイ個人は３万６８００ドルと３倍 <br />
　 ▼大卒者は米国平均では18％なのに対しゲイでは59・６％とこれも３倍以上 <br />
　 ▼年収10万ドル以上の高額所得者はゲイで７％を占め、アメリカ平均の４倍 <br />
　 ▼回答レズビアンの２％は年収20万ドルを超え、これはゲイ男性中の比率より多い <br />
　 ▼全米でゲイ男性とレズビアン女性が獲得する所得は年間で５１４０億ドル <br />
　 ▼海外旅行経験者はアメリカ人全体では14％だが、ゲイでは65・８％ <br />
　 ▼航空会社のフリー