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      <title>まだ言うか Still Wanna Say?</title>
      <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/</link>
      <description>その他の依頼原稿を徒然なるままに再掲</description>
      <language>en</language>
      <copyright>Copyright 2009</copyright>
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            <item>
         <title>目次（各ページの日付はアップした日ですので記事とは無関係です）</title>
         <description><![CDATA[<p>【2009年４月日本公開映画『ミルク』〜Harvey Milkとこの時代】</p>

<p>ハーヴィー・ミルクの名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。<br />
でも、ないかもしれません。<br />
むかし、というか、いまも、「ハーヴェイ・ミルク」という書き方の方がなじみがあるかもしれません。<br />
知識の有無を含めて、その辺がきっと日本の「状況」だと思います。</p>

<p>ダスティン・ブラックという若い脚本家が、このハーヴィー・ミルクの人生に感動してこれを史実に忠実な映画として再現してみんなに見せたいと思いました。その脚本を読んでガス・ヴァン・サントという結構とんがった映画ばかりを作っている監督が動き、ショーン・ペンを主演にして映画制作が始まりました。</p>

<p>その舞台裏、完成にいたるまでを、アメリカのプロダクションが説明しています。それは英語ですけど、それを注釈とか補足とかを含めながら、日本語でここでご紹介します。</p>

<p>　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/2009harvey_milk.html" target="_blank">【イントロダクション】</a></p>

<p>　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_11.html" target="_blank">【ストーリー】</a></p>

<p>　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_12.html" target="_blank">【ミルクとあの時代、そしていま】</a></p>

<p><br />
【マジメでためになるゲイ講座】<br />
　これは地元ニューヨークの日本人向けニュース誌『OCSニュース』に1999年秋から初回４回と続編の３回にわたってゲイに関する基礎知識なり基礎情報を収集記述した連載コラムです。すでに何年も経っていて、いま読み返すと、いやはや当時の私、かなり頭に来ているようですね。<br />
　まあ、NYという地の利を得ながらもなにも理解しようとしない周囲の日本人コミュニティに呆れているわけですが、なんとも若書きがお恥ずかしい。とはいえ、基本的にこの記述はいまでもじゅうぶん有効ではあると思います。タイトルはずばり「マジメでためになるゲイ講座」。こちらでは「マジため」 と略されて、日本人コミュニティのなかでかなり反響がありました。ま、こんなこと、それまでだれもいわなかったことですから。<br />
　ということで、NYという場所柄と当時の時代性を鑑みながら、ぜひあなたの「ゲイ理解」の一つの参考にしていただけると幸いです。</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_9.html" target="_blank">その１ 『三島由紀夫のストーンウォール』 </a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/we_are_everywhere.html" target="_blank">その２ 『We Are Everywhere』</a> <br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_8.html" target="_blank">その３ 『男社会のホモフォビア』</a> <br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_7.html" target="_blank">その４ 『ゲイが集まりゃ桶屋が儲かる？』</a> </p>

<p>【続・マジメでためになるゲイ講座】<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_6.html" target="_blank">その１ 『反自然な変態は殺されるべきか？』</a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_5.html" target="_blank">その２ 『目に見える暴力、見えない暴力』</a><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_4.html" target="_blank">最終回 『いまさら訊くのも恥ずかしかったこんな質問への回答』</a></p>

<p>＊</p>

<p>【クイアリーディングへのお誘い】<br />
　日本ではまだあまり馴染みがありませんが、これは表象としてのテキストをクイアという偏光板を通して眺め直し、そこに隠されたセクシュアリティ（にまつわるものの正体）をあぶりだそうという手法です。クイアというのは本来は英語の侮蔑語で「ヘンタイ」というほどの意味。でも、ここでは悪い意味ではありません。意味や価値観からも自由なアミーバ運動体みたいなもんです。</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_3.html" target="_blank">太宰治をクィアする</a>（1998.06 ユリイカ臨時増刊　総特集「太宰治　没後50年記念」）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_2.html" target="_blank">「木乃伊之吉」を救う──あるいはホモフォビアの陥穽'</a>（1998.08 ユリイカ 総特集・島尾敏雄）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_1.html" target="_blank">クローゼットに迷い込まないための──「ブロークバック山の案内図」</a>（2006.03 yes 創刊２号）</p>

<p>＊</p>

<p>【LGBT】</p>

<p>　　　2006年夏、シカゴで第７回ゲイゲームズ開催（2006.10 yes 創刊４号）<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/08/_gay_games_1.html" target="_blank">Gay Games シカゴ・ルポ　（付録・シカゴ市長の挨拶抄録）</a><br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/08/japan.html" target="_blank">世界の真ん中でJAPANと叫んだスイーマーたち</a></p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/nyc_gay_pride_2004.html" target="_blank">NYのゲイプライドができるまで</a><br />
　　　　Gay Prideの準備委員会インタビュー（2004年６月）<br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/nyc_gay_pride2004.html" target="_blank">Gay Pride 参加要項</a><br />
　　　　プライドパレードなどの参加の手引きです（2004年版）</p>

<p>＊</p>

<p>【その他の書評など】</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_10.html" target="_blank">「国家の品格」というトンデモ本</a>（2006年4月）</p>

<p>＊</p>

<p>【その他の随想など】</p>

<p>　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2008/09/20010911.html" target="_blank">再現・2001/09/11　あの日に何が起きたのか</a>（2002.12『レスキュー』冬号・特集）</p>

<p><br />
　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2004/12/2004.html" target="_blank">2004年のクリスマス</a>（2004.12.24「週刊NY生活」）</p>

<p>　　　北丸雄二のアメリカ談議（毎日新聞・米国サイト2001/01〜2003/12＝原稿欠落あり）<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/12/200312.html" target="_blank">2003/12「ギャンブルで未来を占う」</a>〜どうやってネオコンを環視するか？<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/11/200311.html" target="_blank">2003/11「ボギーの時代」</a>〜国民を煽動するのは簡単だ<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/10/200310.html" target="_blank">2003/10「お客様」の領域</a>〜エイズと日本社会の弱点<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/09/200309.html" target="_blank">2003/09「座頭市」が受賞した理由</a>〜ポストモダンを理解したチャンバラ映画<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/08/200308.html" target="_blank">2003/08「正しくなさ」の小さな芽</a>〜長崎の12歳少年の殺人に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/07/200307.html" target="_blank">2003/07「笑いがいじめに変わるとき」</a>〜「ハンミちゃん一家駆け込み事件」をパロディにする精神<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/06/200306_1.html" target="_blank">2003/06「なぜ、日本にほとんど報道されないのか？」</a>〜ソドミー法の違憲判決の意味<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/06/200306.html" target="_blank">2003/06「もう１つのゴジラ効果」</a>〜アメリカが松井から学んでほしいこと<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/04/200304.html" target="_blank">2003/04「キツネ効果という妖怪」</a>〜Foxニュースが煽るアメリカ世論<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/04/200304_1.html" target="_blank">2003/04「よい戦争のよくない未来」</a>〜イラク戦争の行方をズバリ予想する<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/02/200302.html" target="_blank">2003/02「オオカミ少年とオオカミと」</a>〜イラク開戦間近のいやな雰囲気<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2003/02/200302_1.html" target="_blank">2003/02「やっつけないとわからない」</a>〜北朝鮮への日本のTVの口調<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/12/200212.html" target="_blank">2002/12「残酷な恐怖が支配する」</a>〜映画「「ボウリング・フォー・コロンバイン」に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/10/200210.html" target="_blank">2002/10「ホイッスルブロウワー（笛を吹く人）」</a>〜雪印食品がつぶれたのはだれの責任？<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/09/200209.html" target="_blank">2002/09「失われた土地を求めて」</a>〜9.11テロ跡地に思う<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2002/04/200204.html" target="_blank">2002/04「年を取るのが惨めでない社会」</a>〜定年制度のないアメリカ<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/06/200106.html" target="_blank">2001/06「真紀子バッシングの正体」</a>〜女はダメだと言いたいオジサン<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/05/200105.html" target="_blank">2001/05「外交官はパーティーがお好き」</a>〜官官接待、外交機密費、外交官特権<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/04/200104.html" target="_blank">2001/04「笑うも手、黙るも手」</a>〜ごまかしの手法の日米格差<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/03/200103.html" target="_blank">2001/03「アイ・アム・ソーリーが言えなくて」</a>〜高校実習船えひめ丸沈没事件<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/02/200102.html" target="_blank">2001/02「リアリティとは何か？」</a>〜日本のTVが元祖のリアリティ番組<br />
　　　　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2001/01/20011.html" target="_blank">2001/01「酒とバラの日々」</a>〜ワインを巡る考察</p>]]></description>
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         <category>INDEX</category>
         <pubDate>Tue, 30 Nov 2060 18:56:43 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ミルクとあの時代、そしていま</title>
         <description><![CDATA[<p>【若者たちには希望が必要だ】</p>

<p>「この運動が続いていくことを願う。なぜならわたしの選挙は世の若者たちに希望を与えたからだ。若者たちには、希望を与え続けなければならないからだ」</p>

<p><img alt="milk-bust-300.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/milk-bust-300.jpg" width="300" height="426" /></p>

<p><br />
ミルク暗殺30年を追悼してサンフランシスコ市庁舎内に2008年、ハーヴィー・ミルクの胸像が設置された。公募で選ばれたその像の台座に、冒頭のこの、有名な彼の言葉が刻まれている。ミルクが恋人スコット・スミスと住み始めたサンフランシスコ、そのアパートと階下の「カストロ・カメラ」店のあった575 Castro Streetの前にもまた同じ言葉を刻んだ記念碑が建っている。</p>

<p>文字どおりカストロ地区の真ん中を貫くカストロ通り。マーケット通りから南へ折れてカストロに入ると、すぐに映画館であるカストロ・シネマの看板がひときわ目を引く。ミルクらの暮らした界隈はその２ブロック目、18番街と19番街の間だ。現在、マーケット通りとの角にはハーヴィー・ミルク広場があり、彼と彼のコミュニティに敬意を表して大きなレインボウ・フラッグがはためいている。６色の虹の旗は、性的少数者たちの統合の旗印だ。</p>

<p>当時、カストロ・カメラは商売のためというよりもむしろコミュニティ・センターのような役目を果たしていた。ミルクに惹かれた近隣住民たちが日がな立ち寄っては地区内のちょっとした問題を話し合ったり、評判を聞きつけて遠くからはるばるやってきた若い活動家、家や学校を追われたゲイの少年たちまでがたむろする場所になっていた。そこに集った若者らはやがて後の選挙本部の重要な参謀たちとなる。</p>

<p>学生時代にミルクと知り合い、やがてミルクの右腕となるクリーヴ・ジョーンズ（エミール・ハーシュ）、店で働きながらミルクらの活動を写真で記録し続けたダニー・ニコレッタ、最初の選挙本部長となったジム・リヴァルド、選挙戦略を担当し市政執行委員時代には補佐官として仕えた“Polish Princess（ポーランドのお姫さま）”ことディック・パビック、“Lotus Blossom（スイレンちゃん）”こと政治顧問のマイケル・ウォン、そして当選した４度目の選挙の立役者であり男たちの中でただ１人のレズビアンだったアン・クローネンバーグ。</p>

<p>彼らはいずれもミルクの遺志を引き継ぎ、さまざまな分野でミルクの蒔いた「希望」の種子を芽吹かせていった。それはミルクの願ったとおり、現在も続いている。</p>

<p>【希望をもらったサンアントニオの若者】</p>

<p>どんな社会運動にも英雄が必要だ。時が経ち、その英雄の目指した変革が成就したとき、往々にして人は１人の人間がいかに大きな違いを生み出したかなんてことは忘れてしまうけれど。</p>

<p>『ミルク』の脚本を書いたダスティン・ランス・ブラックが当のミルクの存在を知ったのは90年代初めだった。その数年後、彼はアカデミー賞受賞の1984年のドキュメンタリー映画『The Times of Harvey Milk（邦題＝ハーヴェイ・ミルク）』を見る。ブラックはまだその時のことを憶えている。「映画の最後の部分でミルクが演説をしてるんだ。こう言っていた。『デモインとかサンアントニオとかのどこかで』、サンアントニオってまさにおれが育ったとこなんだけど、『だれか若いゲイがある日新聞を開いてその見出しを見つけるんだ。＜ホモセクシュアルの男がサンフランシスコで当選＞。そうしてその子は気づく。きっと、世界はこれからよくなる。きっと明日はもっとよくなる。ぼくには、希望があるんだ、と』」</p>

<p>「ぼくは号泣していた」とブラックは言う。「まさにぼくが、その子だったから。彼から希望をもらったのはぼくだったから。ミルクが言っていたのは、きみはそれでいいんだってことだけじゃなかった。きみはすごいことができるんだってことまで言ってた。そのころはゲイ・コミュニティにとっては最悪の時だったのに。エイズがあったから。で、ぼくは思った。この物語をもういちど世間に広めなくちゃって。彼のメッセージを語り継がなきゃって」</p>

<p><img alt="DUSTIN_BLACK3.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/DUSTIN_BLACK3.jpg" width="400" height="600" /></p>

<p><img alt="harveymilk_head.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harveymilk_head.jpg" width="600" height="310" /><br />
ランス・ブラックの起動力となったドキュメンタリー版も日本で再公開。<br />
詳細は<a href="http://www.pan-dora.co.jp/harveymilk/" target="_blank">こちらをクリック</a></p>

<p>「ミルクの遺してくれたものは、ゲイであってもクローゼットに隠れちゃダメだって言い続けることだった。ゲイであることはただ他人とちょっとばかり違ってるってことでしかない。そんなことより自分で自分の志をいかに持つかってことが大切なんだ。いまの若い子たちにはもう当たり前なんだろうけど、いまじゃ堂々と、ゲイだってことを隠さないで医者とか弁護士とか役者とかになりたいって、そう思ってる子がたくさんいる。それってじつはハーヴィーの遺産だし、彼のメッセージはそうしていまも若い子の命を救っているんだ」</p>

<p>数年後、ブラックは映画・テレビ界に足がかりを得て作家・演出家などとして働き始めた。それでもいつか「ゲイのマーティン・ルーサー・キング」と呼ばれた男ハーヴィー・ミルクの物語を書き上げたいと思っていた。しかしミルクに関する本を利用する権利がなかったのだ。つまり、自身で独自のリサーチを進める以外に方法はなかったのである。仕事仲間は、映画化のあてもないのにそんな危険なことはやめろと言っていた。だが、調べてみたら四半世紀も経っていたのにミルクの近くにいて彼の仕事の重要部分を担っていた人物たちがみなまだ生きていたのだ。本ではなく関係者本人たちにインタビューできる。作家としてそれ以上の条件はなかった。「オーケイ、書ける、と思ったんだ」とブラックは言う。</p>

<p>最初に会ったのが、ミルクがカストロの路上で出会った眼鏡の若者、やがて彼の右腕となったクリーヴ・ジョーンズだった。ミルクと共にいつも第一線で活動してきた彼は、ミルクの死後も彼の遺志を引き継ぎ多くの抗議集会や政治行進を率いてきた。エイズ禍ただ中の1987年、犠牲者を悼みその名を大きくキルトに縫い込むというネームズ・プロジェクト（エイズ・メモリアル・キルト）をスタートさせたのも彼だ。この企画はいまや世界的なエイズ啓発運動のシンボルになっている。</p>

<p>ブラックによるジョーンズへのインタビューは２日間、テープ８時間分に及んだ。その間、ジョーンズはダニー・ニコレッタ、アン・クローネンバーグ、トラック組合チームスターズのアラン・ベアード、トム・アミアーノ、ジム・リヴァルドら重要人物を次々と紹介してくれた。もっとも、ミルクの映画に関してはこれまでも多くのアプローチがあり、そのいずれの企画もが立ち消えになっていた経緯もあった。インタビューする相手にまずは「自分はそういうのとは違う、インタビューは時間の無駄ではない」と説得するのが彼の最初の仕事だった。「結局、彼らを信じさせることはできた。でも、実を言うと自分ではまだ、ほんとに映画にできるかどうか、半信半疑だったんだ」</p>

<p>当時の彼にはテレビ番組の台本の仕事もあって、週末ごとのサンフランシスコ通いが１年も続いた。あるとき、ミルクの政治顧問マイケル・ウォンが、ミルクとのやり取りを当時、すべて詳細に日記につけていたという話を耳にした。その日記を見せてほしいと何度もウォンに頼み込んだ。ある夜、市庁舎近くのレストランでの夕食後、そのウォンが分厚い膨大なコピーの束をどすんとテーブルに置いてよこした。「ああ、それが日記だ」とウォンは言った。</p>

<p>こうして『ミルク』は政治的な記録だけでなくミルクの人間としての個人的な物語にもなったのだ。けっきょく、ジョーンズはすべてにわたって協力してくれ、映画全体の時代考証顧問になってくれた。撮影時には毎日ロケの現場に足を運んでくれていたという。</p>

<p>映画はミルクがスコットに会ってから暗殺されるまでの８年間を描く。「映画が始まってすぐに、観客には暗殺のことが示唆されるように書いた。これは、ある大切な人物にとんでもないひどいことが起きる映画だ、ってすぐに示したかった。そうして時計の針が刻まれはじめる。その時計はミルクの頭の中でも刻まれていたはずだ。なぜなら、彼は遺言を録音していたから。自分はいつか暗殺されると彼は知っていた。事実、友人たちに『おれは50歳まで生きないだろうな』と話してたっていうんだ」。凶弾を受けたとき、ミルクは48歳だった。</p>

<p>「個人的なことが、政治的なことと、ときに美しく出遭う」とブラックは話す。「ミルクのやっていたことの理由は、とても個人的なところから発していたと思う。それは単に権利獲得とか選挙戦略とかいうものじゃない。それは彼がスコットと愛し合っていたこと、ジャック・リラと愛し合っていたことと関係してる。その事実が、オーケイなことであってほしかったんだ。そのことをだれかにどうのこうの言われたくなかったんだ。自分が自分であってよいのだという権利なんだよ。だって、彼がまだ若かったとき、彼が最初にサンフランシスコにやってきたとき、ゲイが恋愛するのは違法だったんだよ。男同士でダンスすることも、ゲイバーに入ることも違法だったんだよ。だから、これはものすごく個人的な話なんだ。それがたとえものすごく政治的なことであっても。彼にとってこれは、愛のための政治学だったんだよ」</p>

<p><br />
【４年をかけて書いた脚本】</p>

<p>脚本はリサーチとインタビューで３年、執筆に１年、計４年近くかかった。テレビの仕事を続ける中で何度も諦めかけた。「ただね、何人もの人たちがこれまでだれにも話してこなかったつらい思い出までぼくに教えてくれてたんだよ。彼らをがっかりさせることはできなかった」とブラックは語る。だがやっと書き上げたとき、彼には映画を作る資金はなかった。</p>

<p>「ランスの脚本はすばらしかった」とジョーンズは話す。「とてもすっきりしていてエレガントな作りだった。しかもハーヴィーの声がしっかりと聞こえた。それでランスに言ったんだよ。『これでいいと思ったら、おれに言え。そしたら監督を紹介してやる』」。それが彼の友人のガス・ヴァン・サントだった。ジョーンズは最初の顔合わせをセッティングした。だが、そのときにはブラックは脚本をヴァン・サントに渡していない。もう一回書き直して、それからオレゴン州ポートランドの監督に送ったのだ。10日後、ブラックに電話がかかってきた。「よし、これで映画を作ろう」と監督は言った。</p>

<p>ヴァン・サントも振り返る。「ドキュメンタリー版の『ハーヴェイ・ミルク』があったからね、バーはかなり高かった。だがドラマ版はその重要な続編になると感じていた」「公務中に暗殺されたミルクはゲイの世界での聖人になったんだよ。この映画を制作する理由の１つは、彼の時代を知らないいまの若者たちのためだ。若い人たちに、彼を思い出し、彼について学んでほしいからだ」</p>

<p>ブラックの友人には『アメリカン・ビューティー』のプロデュースでオスカーを受賞したダン・ジンクスとブルース・コーエンもいた。２人とも子供のころからミルクのことは知っていた。ジンクスの父親は当時、サンノゼ・マーキュリー・ニューズ紙の編集者で、ミルクの選挙とその当選とを記事にしていたのだ。ジンクスは言う。「ランスが脚本を書き上げてガス・ヴァン・サントが監督するって新聞で読んで、それで思わずランスに電話をかけておめでとうって言ってやったんだ。そうしたら彼が『あのさ、プロデューサーがまだ決まってないんだ。脚本、読んでみる？』って言うんだよ。思わず『ウソだろ！』って叫んでた。『もちろんやるよ！』ってね」</p>

<p>コーエンも続けた。「脚本を読んでみて、これでやっと映画ができると思った。この英雄の物語を伝えるのにふさわしい力強い本と完璧な監督。それをぼくたちが手伝えるなんて、信じられない幸運だった。この映画はたおやかな叙情詩でもあり、あらぶる叙事詩でもある。ハーヴィーのことを知らなくても感動するしドキドキするし、第一、この男はぼくらの想像するような並みの政治家じゃないんだ。しかも、『変革』を合い言葉にする大統領がアメリカに誕生するこの年にこの映画が出来上がったんだよ」</p>

<p>ヴァン・サント、ブラック、ジンクス、コーエンの４人は映画制作の具体的なステップに入った。重要な史実の部分は過去の資料映像を使うことをためらわないと決めた。暗殺事件後のダイアン・ファインスタインの声明発表、あれは劇での再現は不可能だ。あの時の衝撃と戦慄は、あの時の衝撃と戦慄に語らせる以外にない。そのうち、映画『サイドウェイ』のマイケル・ロンドンがこの脚本に惚れ込んだ。「脚本を読んでいると自分の昔を思い出してきてね。ぼくの大学はサンフランシスコのベイエリアだったんだ。あのころのことはよく憶えている。ミルクが市とコミュニティにとっていかに重要な人物だったかを改めて思い出したよ」。彼のグラウンズウェル・プロダクションはそうして出資に参加した。</p>

<p>さて、ミルクをだれが演じるか？<br />
参加スタッフだれもの心に浮かんだのがショーン・ペンだった。<br />
ヴァン・サントがペンを知っていた。そこで彼に脚本を送った。ヴァン・サントがブラックに電話を返すまでには10日を要したが、ペンの場合はもっと早い１週間で反応があった。ブラックとヴァン・サントはさっそくペンと会い、プロジェクトへの参加を確認した。ペンからの条件が１つあった。ミルクの政治活動と同様、彼のプライベートな恋愛関係も真実のまま描くこと。ブラックが話す。「主役というのは危険な商売だ。そのリスクを冒してまで役を演じる覚悟があるかどうか。でも、ショーンは『そのまんまをやろうじゃないか。ありのままのミルクを伝えようよ』って言ってくれた。彼にとってこの映画はとにかく正確であることが大前提だった。結果、彼は完璧に、心も精神もハーヴィー・ミルクになりきった」</p>

<p><img alt="r8c7r8.png" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/r8c7r8.png" width="372" height="250" /></p>

<p>ペンの演技の見事さはだれが見ても明らかだ。ジンクスが言った。「毎日、セットで、ショーンがだれかものすごくハーヴィーみたいな人物に変身していくんだ。それを目撃することがぼくらみんなの毎日のスリルになった。特に実人生でミルクを知っているスタッフにとっては、その変身過程は驚き以外のなにものでもなかったよ」。コーエンも言う。「ハーヴィーが実際に行った演説をそのまま一言一句正確にペンが再現しているシーンがいくつかあるんだけどね、セットでそれを見ていてぼくは鳥肌が立ったね」</p>

<p>ショーン・ペンは言う。「こうやって演技できたのは、素晴らしい脚本が導いてくれたのはもちろん、かなりの量の実写映像が残っていたからもある。それらを見ていておれはミルクに惚れ込んだ。この人物、この人間性、精神性に恋をした。それらは俳優としてのおれの想像を超えた何物かだった。それにね、ガス・ヴァン・サントはぜったいに詰まらない映画は作らない。だから俳優として、彼の作り方には全幅の信頼を寄せていたからね」</p>

<p><img alt="SEAN_PENN4.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/SEAN_PENN4.jpg" width="400" height="600" /></p>

<p>【カストロ通りのタイムマシン】</p>

<p>この映画を作る上でのルールの１つ。「この企画に共感し参加を希望する人たちがいれば、それは拒まない」。映画の中でいかに多くの実在の人物が描かれるかを考えると、キャスティングは通常の映画よりもずっと重要になる。ブルース・コーエンが言う。「ハーヴィー・ミルクの話の待望の映画化だ。俳優たちはそれだけでもこの映画に出演したがる。まして監督がガスで主役がショーンとなりゃそりゃ飛びつくわね。配役では俳優たちの性的指向は無視したよ。ストレートの俳優にもゲイの役を振ったし、ゲイの俳優にストレートの役を振った場合もある。そうじゃなきゃできなかったね」</p>

<p>ミルクをよく知る実在の人物の多くも生きていた。そんなミルクの古き友人たちはちょくちょく撮影現場に訪れてくれた。俳優たちは彼ら自身から学べた。「リサーチの段階でもずいぶん彼らと付き合ったけれど、制作に入ってからもできるだけ関係者全員をこの映画に巻き込みたかったんだ」とブラックは言う。「なんでもいい、自分の役の衣装選びで相談に乗ってもらうとかでも、ただ撮影現場にいてくれるだけでもよかった」。実際にカメラの前に立った人物たちもいる。映画の中のトム・アミアーノ（ゲイの教師として住民投票提案６号で解雇されそうになった人物）をトム・アミアーノ自身が演じるように提案したのはヴァン・サントだった。ミルクのスピーチ・ライターだったフランク・ロビンソンに、カストロ・カメラ店にたむろしたりデモで行進する彼自身を演じさせたのも監督だ。トラック組合のアラン・ベアードまで監督に勧められて自身を演じている。あの昔にミルクを取り巻いていた彼らがいまふたたび戻ってきたのだった。</p>

<p>自分以外の役を演じた人たちもいた。エミール・ハーシュが演じたクリーヴ・ジョーンズ本人は、ミルクの支援者だったドン・アマドールを演じている。プロの俳優だけでなくアマチュアも使いこなすのはガス・ヴァン・サントの長年の手法だ。「相手がヴェテランのプロだろうと新人だろうと、監督として彼らには同じように話をする。演出、感情表現、他の登場人物、物語全体について話し合う。独学でやってきたからね、俳優でない人たちにも演じさせてきたのはそのせいもあるんだろう」</p>

<p>『ミルク』は、彼らにとってのタイムマシンだった。ミルクの支持者でレインボーフラッグの考案者ギルバート・ベイカーはいまはニューヨークに住んでいた。クリーヴ・ジョーンズはカリフォルニア東部のパームスプリングスだ。アン・クローネンバーグはサンフランシスコに住み続け、いまは市の公衆衛生局の管理計画副局長を務める。提案６号を契機にカムアウトして反対運動に加わった前述のトム・アミアーノは現在、かつてのミルク同様、サンフランシスコ市政執行委員を務めている。そんな彼らがみな再びサンフランシスコで合流した。アミアーノはショーン・ペンのセリフに混じるミルクのニューヨーク訛りの英語に感動したという。ベイカーも映画に自身としてちょっとだけ登場しているが、ペンを見ては何度もミルクではないかと錯覚し、しばし呆然としたらしい。「あのころハーヴィーが私にデモの横断幕が欲しいから作ってくれと言ってきて作ったことがある。おかしいね、それから30年経ってまたこの映画のために、私がサンフランシスコで旗を作ってるなんて。口の悪い友人たちが言うんだよ、78年より縫うのがずいぶんうまくなったなってね」</p>

<p>アン・クローネンバーグも打ち明けた。「実を言うと自分が撮影に臨めるのかどうか、不安だったの。ミルクの暗殺はとてもつらい経験だったからね。でも正反対だった。30年間、友人であり恩師であり父親でもあったミルクを失って殻に閉じこもっていたのよ。でもその痛みから逃れようとして、あの素晴らしい時代のすべてを封印してしまっていたのね。それをいま再び体験できた」「選挙に勝利したあの夜の再現シーンで、ガスが言ったの。『来いよ、アン、このシーンはきみがいてもらわないと』って。それで77年のあの選挙の夜の、２度目のパーティーを経験したのよ。いったいどれだけの人が30年後に人生を２度経験できる？」</p>

<p>ダン・ジンクスも彼らがいかにあの時のことを記憶しているかに驚く。「現在のキャストやスタッフと実在のかつての人物たちが一緒に同じ時を再現するんだよ。衣装部に行って『そうね、これが私があの夜に来ていた服に似てるね』とか、カメラの前で『あの日のカストロ・カメラではぼくはそこに立ってたんだ』とか教えてくれるんだよ。時には写真まで持ってきてくれて」</p>

<p>ヴァン・サントは、こうしたリアリティに自身の制作スタイルを合わせた。「シーンを現実的に見せる方法は、劇的になり過ぎないようにすること。そうすればその瞬間は現実に起こっていることのように見える。それが自然主義であり、私のスタイルだ」</p>

<p>ミルクの当選した年、レインボーフラッグも初お披露目となった1978年のゲイ・フリーダムデイ・パレードを再現するときには、ベイエリア周辺から3000人を越えるエキストラがボランティアで集まった。クローネンバーグはミルクを古いボルボに乗せ、マーケット・ストリートを運転した時の様子を思い出した。ミルクは助手席には座らず、サンルーフを開けてその屋根部分に乗っかっていた。万が一襲われたり銃撃されたりした時のことを考えて、病院への緊急の経路もあらかじめ調べ上げていたと教えてくれた。</p>

<p>映画ではミルクの派手な誕生パーティーも再現されている。結果的にミルクの最後の誕生日だった。当時の出席者たちは、パーティーの主賓がミルクに仕掛けたいたずらのことも覚えていた。パイを顔にぶつける遊びはミルク自身が好んでやったものだったが、その夜はミルクがパイを５つも顔にぶつけられていた。ダニー・ニコレッタも振り返る。「僕もパイを投げた１人だったけれどね、セットの隅で泣いたよ。音楽がかかり、みんな楽しげで、まるであの日のパーティーと同じだった。素晴らしかった。でも、胸が締め付けられてね」。ジョーンズも言う。「ぼくも最初の週は毎日泣いてたよ。ジョシュ・ブローリンがダン・ホワイトの格好をしてそばを通ったときにはゾッとしたけどね。そうしたら彼が言ったんだ。『いまのその顔、それが知りたかったんですよ』って」</p>

<p>ブローリンも言う。「台本を読んで、最後には泣いていた。これはラブストーリーであり、公民権に関する物語であり、青春の物語だった。それから娘といっしょにドキュメンタリー版を見たんだ。ほんとうに心震えたよ。それですぐにやるって決めたんだ。ミルクってのは、みんなの人生がよりよいものになるなら自分は危険な目に遭ってもぜんぜんかまわないという人だった。モスコーニ市長のことも忘れちゃいけない。彼が用意してくれたおかげでミルクができたこともたくさんあったから」</p>

<p>ミルクの最後の恋人であったジャック・リラを演じたディエゴ・ルナも言う。「ジャックは公正に描きたかった。実際には彼のことは知らないけど、よくわかるんだ。アメリカに来たメキシコ人はだれでもみんな大変だ。おまけにあの時代でゲイでメキシコ人だよ、それがどれほど大変だったか。彼はたぶん、どうしてよいかわからなくて自分の面倒を見てくれる人を探していたんだろうと思う。彼の家族に会って話を聞くのはやめにした。その代わりダニー・ニコレッタやクリーヴ・ジョーンズといろいろ話して、自分なりのジャックを作りあげたんだ」「ショーン・ペンはぼくにとてもやさしくて、何をどうすればいい映画になるのかも知っている。演技で大切なことはコミュニケーションなんだ。彼といっしょのシーンでは彼はいつもすぐそばにいてくれた」</p>

<p>ペンの最新の監督作品『イントゥ・ザ・ワイルド』の演技で絶賛されたエミール・ハーシュは、今度は共演者としてペンと関わることになった。「ペンといっしょに仕事をするのは最高だ。『イントゥ〜』でずいぶん濃い付き合いをしたから、次に急に共演するなんてことになったらどんな感じかなって想像してたんだ。だってその時点では僕にとって彼は監督でしかなかったからね。彼の才能とか洞察力とかいった監督としての素晴らしさは今回もそっくり、今度は演技者として、すべてのシーンの１秒１秒に表れてたよ」。そのハーシュについてジンクスが言う。「彼はカメラに写らないところでもクリーブになってたね。それで、カメラの前でちょっとしたアドリブをするんだが、それもほんとうに本人が言いそうなことを口にするんだよ」</p>

<p>ミルクの最も忠実な恋人だったスコット・スミスは『スパイダーマン』シリーズでも人気のジェームズ・フランコが演じた。ミルク暗殺後、一部に“ミルクの未亡人”とも呼ばれていたスコットの人生の大半はミルクの遺品を保管することに捧げられた。ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』監督のロバート・エプスタインが、フランコに劇場版ではカットされていたスコットへのインタビュー映像を見せてくれた。「なんとなく彼っていう人間がわかった気がした。ミルクの当選前にすでに２人は別れていたんだけれど、その後もお互いを気遣っていたんだ。ミルクも選挙の夜のスピーチで彼に礼を述べていたしね」。ニコレッタも２人について思い出す。「ミルクとスコットは痛々しいほど深く愛し合っていたんだよ。だからこそ激しく感情をぶつけ合うこともあった。選挙運動のプレッシャーもあったんだろうね。よく、ものすごく感情的に言い合いしてたもんなあ」</p>

<p><br />
【ガス・ヴァン・サントという視線】</p>

<p><img alt="GusVanSantD_J__McCart_16437188.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/GusVanSantD_J__McCart_16437188.jpg" width="600" height="400" /></p>

<p>脚本家ダスティン・ランス・ブラックは「撮影初日はほっとして溜息が出た」としみじみ語る。「４年間やってきたことがやっと実を結んだって思った。やった、ついにここまで来た、ってね。その日、虹が出たときにはほんと涙が出た。ふと見たらクリーヴ・ジョーンズも泣いてたんだ」。そのジョーンズも言う。「これ以上ないってくらいひどい朝だったね。どしゃ降りでおまけにものすごく寒くてね。最初に撮影するシーンのためにエクセルシオール地区（ダン・ホワイトの地区）にいた。そうしたらカメラを回す２分前にふと雲が切れて太陽が現れた。次に、撮影現場の上に虹がかかったんだよ。こりゃあ吉兆だって思ったね」</p>

<p>ガス・ヴァン・サントと撮影監督ハリス・サヴィデスは悪天候にも動じず、迷信もそうは信じないタイプだ。共作５本目のこの映画について、ヴァン・サントは「これまでのどの映画もハリスとはどうやって撮るか模索しながらの旅みたいなもんだった。ただ、『ミルク』はいままでの小品とは違う映画になるだろうと感じていた」と話す。彼らは絵コンテに頼らなかった。互いに協力して未知の世界を切り開くという独自のスタイルを貫いた。「撮影を始めるとき、わたしたちにはいつも無限の可能性が待っている。その中からおもしろいと思うものだけに絞っていく。他の映画や写真を参考にすることもある。すべてを検討して、気に入ったものは数えるほどしか残らないけどね」</p>

<p>ブラックは現場のヴァン・サントから多くを学んだ。「彼のスタイルはいままでいっしょに仕事してきたどの監督とも違っていた。とてもオーガニックというか、自然なんだ。一歩下がって観てる。そうするとものごとが自然に動き始めるって知ってる。そうして、思いもよらなかったものをそこで見つけ出す、みたいな。役者たちの近くにいて、役者たちが自分たちで何かを発見するのを待ってる、みたいな」。ダン・ジンクスも言う。「やむを得ず言わねばならないことでも、ただ言うだけじゃない。いつどういうときにそれを言うかを知っている。だからみんなもその指示を聴くんだ。ほんの二言三言だったりもするが、彼が何を求めてるのかわかるんだな」</p>

<p>アン・クローネンバーグを演じたアリソン・ピルもうれしそうだ。「なんというか、すべてアドリブの感覚なの。おまけにかなりの部分、カメラが２台で追ってくれるのね。すごく刺激的なやり方だと思う。一日中、ずっとベストを保たないとダメ。信用してないとできないわ」</p>

<p>エミール・ハーシュの感想はこう。「役者として、ガスは自分の脚で歩くことを教えてくれるんだ。松葉杖なんか使ったら二度と自分の脚で歩けなくなる。だから彼と仕事をすると、役者は自分の直感をすごく信じられるようになるし勇気も出るようになる。彼といっしょに仕事してごらん、ものすごいから」</p>

<p><br />
【もう１つの主役、サンフランシスコ】</p>

<p>『ミルク』は、トレジャー・アイランドを拠点として全編を現地サンフランシスコ市内で撮影された。ハリー・サヴィデスはその２年前、ジェイク・ジレンホールが主演した『ゾディアック』の撮影監督としてすでに市内の大部分を知っていた。</p>

<p>プロダクションはギャヴィン・ニューソム現市長とサンフランシスコ市映画委員会と密に連絡を取り、エグゼクティブ・プロデューサー兼ユニット・プロダクション・マネジャーのバーバラ・A・ホールが市内のどの場所でも撮影できるように手配した。その中にはもちろん市庁舎内部も含まれたが、市長執務室も撮影してだいじょうぶというニューソム市長からの提案は丁寧に辞退した。市長の仕事をいささかなりとも煩わすのはこの映画の趣旨から言ってもできないことだったから。市長はハーヴィー・ミルクの物語は「かならず語り継がれねばならない物語だ」と話す。この映画ではサンフランシスコ自体が１つの重要な登場人物なのだった。ミルクの物語はこの市を変え、街の歴史の中にすでに織り込まれているのだ。</p>

<p>「さて、カストロ・カメラ店をどこに作るか、だった」とコーエンが説明した。「結局、ほんとうに店があった場所、カストロ通りの575番に落ち着いた。そこはいまギフトショップになっててね、そこに入って言ったんだ。『すみませんが、映画の撮影で９週間ほどあなたたちを店から追い出して、ここを70年代当時のミルクのカメラ店に見えるように改造したいんだが、よいだろうか？』って。まるで歴史を作ってるような感じだったよ。もう１回、いま現在カストロ・カメラの歴史を始めるみたいな」</p>

<p>Givenという名のギフトショップのオーナーは喜んで店を明け渡してくれた。ジンクスによれば、アート・デザイナーとセット・デコレーターのチームは、現在の店を保護するため実際の壁から７センチほど内側に別の壁をつくって店内をすっぽりと覆うという作戦に出た。その壁に当時のポスターなどを飾り付けるのだ。こうして、30年前のカストロ・カメラ店がそっくり再現された。それは当時の関係者に大きな感慨をもたらした。マイケル・ウォンもその１人だ。ブラックに膨大な日記を託した彼は、そう感情的な男ではない。その彼がこの再現されたカメラ店に30年ぶりに入ってきたとき、彼は店内を歩き回り、眺め回し、奥の部屋に行って、そうして印刷機を目にすることになった。それがプロダクション・デザイナーのビル・グルームがどこからか見つけ出してきた、あの当選した選挙でミルクがレンタルしていたモデルと同じものだったのだ。マイケルは店の外に出た。そうして泣き始めた。ブラックをハグしながら「ありがとう」と言うのが精一杯だった。ブラックももらい泣きした。「やってよかったと思った」とブラックは言う。</p>

<p><img alt="20CastroCamera1.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/20CastroCamera1.jpg" width="400" height="267" /></p>

<p>ミルクの仲間たちがあのときと同じようにまた「カストロ・カメラ」に集ってきた。ジェームズ・フランコが教えてくれた。「みんなふらっと店に入ってきて、たがいに顔を見合わせてるんだ。それで目だけで会話してるみたいだった。時間を巻き戻したみたいだった。この一軒の店が、世界中のゲイの人権運動にとって信じられないくらい重要な役割を果たしたってことがわかった」</p>

<p><img alt="castrocamera2.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/castrocamera2.jpg" width="500" height="375" /></p>

<p><img alt="castrocamera.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/castrocamera.jpg" width="500" height="375" /></p>

<p>ビル・グルームは驚きを隠さない。「昔からずっとカストロ地区に住んでる人たちが、みんなそのカストロ・カメラに顔を出してくれた。それも、当時の店内にあったものを、写真だけじゃない、小物や飾りやポスターまで使ってくれと持ち寄ってくれた。窓に架かっていた看板、あれもそうだ。あれも本物なんだよ。そういうのをみんなずっと家で持っていたんだ」。そんな「店」には間違って本物の観光客がカメラの電池を買いに入ってきたりもしたという。</p>

<p>店には変わってしまったところもあれば、当時のままの店もあった。ミルクが近所の人々をまとめるためにゲイたちを連れて行くマッコネリー・ワイン＆リカー店は、現在はスワール・ワイン・ショップに変わっていたが一時的に30年前に戻された。デザイナーたちはカストロ通りの２区画、17番街から19番街までの50軒ほどの店頭を再現した。サンフランシスコの６年間の歴史を描くため違う時代風景も必要だった。そのため、72年から73年の風景の場所と76年や77年時点の外観の部分を作り、そこをカメラワークで撮り分けたのだ。</p>

<p>衣装も膨大な写真資料を基に用意された。衣装担当はダニー・グリッカー。ミルク自身、自分の服装にはあまりかまわなかった。カストロに住んでいた人々はみな似たり寄ったり。服にかける金がなかったのだ。クリーヴ・ジョーンズによればミルクはいつも同じ服を着ていて、政治活動のためにもっと服が必要になると、古着屋で何着かスーツを買ってきてそれを着回していたらしい。靴にも穴が空いていて、暗殺後に彼が市庁舎から運び出された際もクリーヴは靴に空いた穴でそれがミルクだとわかったのだという。</p>

<p>サンフランシスコの街も、数週間にわたって過去の姿に戻った。時代設定はベイカーのデザインしたレインボー・フラッグが登場する78年より前だったため、現在いたるところで街を飾る虹色の旗は一時的に撤去されるか見えないように覆われた。アクエリアス・レコード、チャイナ・コート、トッド・ホールなど、復元された当時の人気スポットに市民たちは喜んだ。映画館カストロ・シネマも建物正面と看板が70年代当時のように化粧直しされた。ネオンの張り出し屋根は塗り替えられ修理されて、ここ20年でいちばんきれいになった。誰もが思い出話に花を咲かせ、変革と希望の時代のあの興奮がそこここで人々の心を満たした。ミルクがまた人々を一つにしたのだ。</p>

<p>2008年２月８日、最も重要なシーンが撮影された。何万人のサンフランシスコ市民が、押し黙ったまま追悼のキャンドルライトを携えて歩いたあのマーチが再現されたのだった。あの、30年前の78年11月27日の夜、衝撃と悲嘆と憤怒とに苦悩しながら、市民たちは年齢も人種も性的指向も越えて１つになった。数千人のエキストラがこれを再現した。そこにはクリーヴ・ジョーンズ、ギルバート・ベイカーのように、30年前のマーチを歩いた人たちも数多くいた。</p>

<p><img alt="dd_milk396kw.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/dd_milk396kw.jpg" width="580" height="399" /><br />
これが映画で再現された追悼のマーチ</p>

<p><img alt="milk-candlelight-march-1978-2.gif" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/milk-candlelight-march-1978-2.gif" width="306" height="242" /><br />
30年前の本物の追悼マーチ</p>

<p>ロンドンは言う。「30年ぶりに、サンフランシスコの街が静止したようだった。街は人で溢れた。ただ映画に出演したくて集まった人たちじゃない。歩き始め、カメラが回り始めたときから、なぜ自分たちがいまここで歩いているのかみんな知っていた。それは、あのときと同じ喪失感だった。俳優たちもきっとそれを感じてたと思う」</p>

<p>サンフランシスコではいまでも毎年11月27日にミルクとモスコーニの２人を追悼するキャンドルライト・マーチが行われている。クリーヴ・ジョーンズは言う。「30年前のこの街でぼくらは歴史を作った。そしていままたそれを再現した。歩いている中に30年前に見た顔も何人かいた。ほろ苦い思いも混じる。この30年の間に、ここにいるべき数知れぬ多くの仲間たちがエイズで死んでいったから。彼らはもうここにいない。でもぼくはこうやって生き延びて、この映画が完成するのを目の当たりにできるんだ。それはほんとうに幸せなことだ」</p>

<p><img alt="MilkMoscone_march(1).JPG" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/MilkMoscone_march%281%29.JPG" width="350" height="262" /><br />
30年後の2009年11月の追悼マーチ</p>

<p><br />
【ミルクの遺したもの】</p>

<p>ハーヴィー・ミルクが打ち破った壁は、今日の文化・政治に大きな影響を与えている。同性愛者を初めとする性的少数者の人権運動は30年を経て大きな飛躍を遂げたが、その変革はいまも継続中だ。</p>

<p>現在の人権先進国における最大の政治課題は同性婚だ。<br />
同性間の結婚を合法化した国（オランダ、ベルギー、ベルギー、スペイン、カナダ、南アフリカ、ノルウェー、ネパール）もある。マサチューセッツやカリフォルニア州、コネチカット州のような、アメリカのいくつかの州もこれに続いた。だが皮肉なことに、ミルクの時代に同性愛者の教師を解雇できるとした住民投票提案６号を否決したカリフォルニア州では08年、いったんは合法化した同性結婚を州憲法で違法と規定するという住民投票提案８号が可決されてしまった。この可決に関しては現在、同州の議会や裁判所で論議が続いている。米国はキリスト教プロテスタントという厳格な宗教で立国したという背景もあり、ヨーロッパよりも同性結婚に関する反発が大きいという傾向がある。そうした保守層を支持者に持つ米国の前大統領ジョージ・W・ブッシュも在任中、同性婚を法的に承認することを禁止する合衆国憲法修正案に支持を表明した。しかし同案は上院で否決され、同性婚をめぐる人権派と宗教保守派との攻防は一進一退を繰り返している。</p>

<p><img alt="dlblack.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/dlblack.jpg" width="407" height="594" /><br />
ダスティン・ブラックの胸にある「No on 8」は、提案８号にノーと言おう、という意思表示だ</p>

<p><br />
スタッフのコメントを紹介する。</p>

<p>「両親にカミングアウトする高校生たちのことを耳にするようになった。すでにカムアウトした人が公職に立候補することもふつうになった。この30年でここまで来られたのは、ミルクのような勇気ある先人たちのおかげだ」＝ダン・ジンクス（プロデューサー）</p>

<p>「ミルクの物語は、１人の人間が成し遂げられることの大きさと、いままだやるべきことの多さとを教えてくれる」＝ブルース・コーエン（同）</p>

<p>「ぼくにとってのミルクの最大の功績は、彼の希望の物語がこれまで数多くの命を救い、これからも救い続けるだろうということだ。ぼくも救われた１人だった。これからカミングアウトする子供たちはまだ大勢いる。ゲイにもすごいヒーローやスーパースターがいるんだということをぼくは彼らに教えてあげたい。この映画が、そんな若い彼らの命を救うというハーヴィー・ミルクの影響力をもっと強大にしてくれることがぼくの希望だ」＝ダスティン・ランス・ブラック（脚本家）。</p>

<p>「自分たちの歴史について知り、そこからできるだけいろんなことを学んでほしいと思う。ぼくらの闘いはまだ終わっていないが、今ある自由のためにどれだけの人がどれだけ長いこと苦闘してきたかを知らない若者が増えていることがときどき怖くなる。歴史は、いま自分は自由で裕福で安全だと思っていても、一夜にしてそれが幻想だったとわかるときがあることを教えてくれる。ぼくらの闘いはこれまでは少しずつ勝ってきた。でも、いまのこのすべてが一瞬のうちに奪われることだってあるんだ」＝クリーヴ・ジョーンズ（当時のミルクの若き右腕）</p>

<p><img alt="harvey-milk1.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harvey-milk1.jpg" width="464" height="411" /></p>

<p><a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/2009harvey_milk.html">最初から読む</a>　<a href="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_11.html">前に戻る</a></p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_12.html</link>
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         <category>LGBT issues</category>
         <pubDate>Thu, 16 Apr 2009 03:18:01 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『ミルク』のストーリー</title>
         <description><![CDATA[<p>【ストーリー】</p>

<p>時代がミルクを必要としたのか、ハーヴィー・ミルクの周囲には社会変革の大波が次から次へと押し寄せた。彼の軸足は同性愛者の人権解放にあったが、それは同時に高齢者から労働者までさまざまな社会弱者への共感へとつながった。そんなすべてのか弱き声を代弁しようと奮闘したミルクに、時代のもう一つの顔はしかし、苛酷な運命を用意していた。映画『ミルク』は、そんな彼の最後の８年間を描いている。</p>

<p>＊</p>

<p>金融や保険業界で働いていたハーヴィー・ミルク（ショーン・ペン）はニューヨークで20歳年下のスコット・スミス（ジェームズ・フランコ）と出逢う。恋に落ちた２人は72年、新しい天地を求めて自由の地サンフランシスコに移り住む。転居先はアイルランド系の移民労働者たちが数多く住んでいたユリーカ・ヴァレー地区。60年代後半からここにはまたゲイやヒッピーたちの流入も続いており、やがてすぐに「カストロ地区」と呼び変えられることになる。</p>

<p><img alt="314c9xd.png" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/314c9xd.png" width="372" height="250" /></p>

<p>ミルクらは当初は職にも就かず自由気ままな暮らしをしていたが、貯金も尽きだすと残りの金で自分たちのアパート１階に小さなカメラ店「カストロ・カメラ」を開店。社交的でユーモアにあふれたミルクの人柄はたちまち周囲のゲイやヒッピーたちを惹き付け、店は周辺商店主や住民たちも含めた情報交換の場、コミュニティ・センターの様相を呈し始めた。だが、もちろん近隣にはアイルランド系の保守的なカトリック層も多く、ゲイたちのあけすけさを快く思わぬ者たちもいた。ミルクは、そうした差別的な既存商工会に対抗して、カストロ・ヴィレッジ協会という新しい商工会を結成、恋人スコットらの理解と協力の下、地元商店街や近隣住民の抱える問題に政治的により深く関わり始め、「カストロ・ストリートの市長」という異名を持つようになる。</p>

<p>ミルクが初めてサンフランシスコ市の市政執行委員（日本の市議の役割も担う行政監督官）に立候補したのは1973年11月の選挙だった。当時はサンフランシスコにあってすらゲイに対する偏見と暴力が公然と横行していた。彼が求めたのはすべての人のための権利と機会の平等だった。しかし落選。２度目は２年後の75年。しかしこれも落選。ただしこのときにはミルクも支援した州上院議員だったジョージ・モスコーニがSF市長に当選した。ミルクは同市長によって市の上訴認可委員に任命されるが、今度は76年の州議会下院選挙に打って出るために同委員も辞めることになった。</p>

<p>このころから恋人スコットともすれ違いが生じ始めていた。しかし、ミルクはすでに大きな政治の時代のうねりの中でスコットだけのミルクではなくなっていた。州議会選でも３度目の敗北をなめたミルクは、スコットとの約束に反して４度目の選挙である77年の市政執行委員選に立候補、ついに彼との別れを経験する。だが、その代償としてか、小選挙区制に変わった新制度のもとミルクはカストロを含む第５区でとうとう念願の当選を果たすのだった。ゲイ男性だと公言して米国史上初めて公選された公職者の誕生だった。当選を喜ぶ支援者の中には新しい恋人ジャック・リラ（ディエゴ・ルナ）や若きゲイ活動家に成長したクリーブ・ジョーンズ（エミール・ハーシュ）、今回の選挙参謀だったレズビアンのアン・クローネンバーグ（アリソン・ピル）のほか、スコットの姿もあった。</p>

<p><img alt="1195tut.png" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/1195tut.png" width="372" height="250" /><br />
ジャック・リラ（ディエゴ・ルナ）</p>

<p><img alt="1498aqs.png" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/1498aqs.png" width="372" height="250" /><br />
クリーブ・ジョーンズ（エミール・ハーシュ）</p>

<p><br />
78年１月の委員就任後、公共・福祉政策の立案で地域住民の広い賛同を得たミルクが次に直面したのは、同性愛者の教師をその性的指向ゆえに解雇できるとする提案６号の住民投票だった。全米でゲイの権利剥奪の運動が成功を収めていた。カリフォルニア州でももし提案６号が通れば、ゲイ差別は教育分野だけに留まらず他の職業分野や居住環境など生活全般に拡大するだろう。その反動の波は異人種や障がい者など他のマイノリティにも及ぶだろう。時代を逆行させてはいけないという信念のもと、ミルクは精力的に提案６号反対運動を展開する。ミルクは言う。「若者たちを再びクローゼットに隠れさせてはならない、カムアウトだ、カムアウトだ！」</p>

<p><img alt="harvey-milk.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harvey-milk.jpg" width="468" height="356" /></p>

<p><img alt="sean-penn-harvey-milk.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/sean-penn-harvey-milk.jpg" width="450" height="581" />　<img alt="harvey_milk_slate._SX320_CR0,0,0,0_PIen-us-vendor-play-shuttle-off,BottomLeft,0,43_.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harvey_milk_slate._SX320_CR0%2C0%2C0%2C0_PIen-us-vendor-play-shuttle-off%2CBottomLeft%2C0%2C43_.jpg" width="320" height="282" /></p>

<p>対して、保守派たちは「子供たちを守れ！」という大号令のもと凄まじい賛成運動を繰り広げた。筆頭は元準ミス・アメリカで人気歌手だったアニタ・ブライアントだった。彼女はその知名度を利用して精力的にメディアに登場。「ゲイは子供を産めない。だからあなたの子供たちを新しくゲイにしようとリクルートしているのだ」という誤った偏見を流布し、ミルクたちの反対運動を追い込んでいった。だが、「運動は続けなければならない。なぜならわたしの選挙はそこここにいる若者たちに希望を与えたからだ。若者たちには、希望を与え続けなければならないからだ」というミルクの思いは、リベラル派の民主党元大統領ジミー・カーターや、保守派の共和党の現職大統領レーガンらの賛同も得るに至り、78年11月７日の開票の夜、住民投票提案６号は劇的な否決を勝ち取るのだった。</p>

<p><img alt="milkfirstlook-ew.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/milkfirstlook-ew.jpg" width="400" height="300" /></p>

<p><br />
一方、もう一つの運命がミルクを待ち受けていた。同じ選挙で当選した同僚市政執行委員ダン・ホワイト（ジョシュ・ブローリン）の影だった。敬虔なキリスト教徒の家に育ったホワイトは同性愛者であるミルクの華々しさと強引とも言える政治手腕に異和感とストレスを覚えながらも是々非々で彼に対していた。その彼が11月10日、突然の辞意を表明するのだ。それも、直後にその辞意を撤回して、モスコーニ市長にその辞意撤回をさらに拒絶されるという屈辱も経験して。</p>

<p><img alt="2wrm2qr.png" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2wrm2qr.png" width="372" height="250" /><br />
ダン・ホワイト（ジョシュ・ブローリン）</p>

<p><img alt="425.milk.012209.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/425.milk.012209.jpg" width="425" height="315" /></p>

<p><br />
78年11月27日、ダン・ホワイトは拳銃を用意し、市庁舎の金属探知機を回避するために地下から庁舎内に侵入する。ホワイトは最初に市長執務室に入りそこでモスコーニを射殺、次にミルクのところに行って彼を射殺した。ミルクの任期はわずか11カ月余りで終わりを迎えた。衝撃と悲嘆がサンフランシスコを覆った。３万人以上の市民が、若者が、ゲイたちがロウソクを手にカストロから市庁舎までを行進し、ミルクとモスコーニ市長の死を悼んだ。</p>

<p>翌年、ダン・ホワイトは公判で、仕事と家庭での孤立感とストレスに加え、ジャンク・フードの過剰摂取から犯行に及んだとする「心神耗弱」の主張の弁論により、わずか７年の禁固刑を宣告されるにとどまった。明らかに軽すぎるその判決を受けて、怒った市民たちは「ホワイト・ナイト・ライオット」と呼ばれる暴動を起こし、街は激しい抗議と混乱に包まれた。</p>

<p><img alt="White Night Riot protesters burned police cars in front of City Hall. Chronicle photo by John Storey, 1979.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/White%20Night%20Riot%20protesters%20burned%20police%20cars%20in%20front%20of%20City%20Hall.%20Chronicle%20photo%20by%20John%20Storey%2C%201979.jpg" width="286" height="400" /> <img alt="Burning cop car in front of City Hall San Francisco White Night Riot May 1979.JPG" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/Burning%20cop%20car%20in%20front%20of%20City%20Hall%20San%20Francisco%20White%20Night%20Riot%20May%201979.JPG" width="144" height="200" /><br />
1979年５月20日、サンフランシスコ・ホワイトナイト暴動で燃えるパトカー、市庁舎</p>

<p><img alt="burning cop cars white night riot.JPG" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/burning%20cop%20cars%20white%20night%20riot.JPG" width="403" height="232" /></p>

<p><img alt="White_Night_Riot_march_in_progress.JPG" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/White_Night_Riot_march_in_progress.JPG" width="561" height="225" /></p>

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         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_11.html</link>
         <guid>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/post_11.html</guid>
         <category>LGBT issues</category>
         <pubDate>Thu, 16 Apr 2009 02:56:37 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2009年４月日本公開映画『ミルク』〜Harvey Milkとこの時代</title>
         <description><![CDATA[<p>ハーヴィー・ミルクの名前くらいは聞いたことがあるかもしれません。<br />
でも、ないかもしれません。<br />
むかし、というか、いまも、「ハーヴェイ・ミルク」という書き方の方がなじみがあるかもしれません。<br />
知識の有無を含めて、その辺がきっと日本の「状況」だと思います。</p>

<p>ダスティン・ブラックという若い脚本家が、このハーヴィー・ミルクの人生に感動してこれを史実に忠実な映画として再現してみんなに見せたいと思いました。その脚本を読んでガス・ヴァン・サントという結構とんがった映画ばかりを作っている監督が動き、ショーン・ペンを主演にして映画制作が始まりました。</p>

<p>その舞台裏、完成にいたるまでを、アメリカのプロダクションが説明しています。それは英語ですけど、それを注釈とか補足とかを含めながら、日本語でここでご紹介します。</p>

<p><br />
＊＊＊＊</p>

<p>【イントロダクション】</p>

<p>史実に忠実であることとドラマの醍醐味とは共存できるのか？<br />
──監督ガス・ヴァン・サントと主演ショーン・ペンがその答えとして映画『ミルク』を用意した。</p>

<p><br />
<img alt="harvey_milk.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harvey_milk.jpg" width="352" height="530" />　　<img alt="harvey-milk-sean-penn.JPG" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/harvey-milk-sean-penn.JPG" width="336" height="409" /></p>

<p><br />
＊＊</p>

<p>70年代サンフランシスコのリベラルな空気の匂いとともに、映画『ミルク』は現代同性愛者解放運動の伝説の人物ハーヴィー・ミルクを生き生きと甦らせた。この映画は、時代の事実である。同時に、いかなる時代にあっても普遍的な、愛と勇気と希望の物語だ。</p>

<p>いまでは洒落たカフェやレストランが立ち並び、世界中のゲイ・コミュニティのメッカとして知られるサンフランシスコの一角──その地区の通りの名を冠して、あらんかぎりの尊敬と親愛を込めながら「カストロ通りの市長──Mayor of Castro Street」と呼ばれた男がいる。ハーヴィー・ミルク。ゲイに対する差別と偏見渦巻く70年代にいち早くゲイ・コミュニティの“声”となり、同性愛者のみならず高齢者から労働組合員まで、あらゆるマイノリティの権利のために立ち上がったミルクは確かにあの時代の１つの象徴だった。彼の政治家としての存在の系譜は時代と分野を超えて深く静かに根を張り、その１本は現在のバラク・オバマ大統領にもたどり着いているだろう。</p>

<p>地元コミュ二ティを代表して政治にかかわろうと３度の落選を経験するも、1977年末、ミルクは念願のサンフランシスコ市政執行委員に選出される。旺盛な行動力と若者たちをも引き込む話力で大衆政治家の道を進むミルクだったが、任期１年に届かぬうち志なかばで凶弾に倒れてしまう。殺害犯は元同僚委員のダン・ホワイト。突然の辞職表明と辞職撤回表明、そしてその拒絶を受けての混乱の中で、モスコーニ市長をも暗殺した直後の犯行だった。</p>

<p><img alt="45024_harvey_milk.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/45024_harvey_milk.jpg" width="450" height="299" /></p>

<p><br />
ハーヴィー・ミルクのそんな最後の波乱の８年間の映画化。ガス・ヴァン・サントはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールと監督賞を同時受賞した『エレファント』（03年）だけでなく、『マイ・プライベート・アイダホ』（91年）やアカデミー監督賞候補の『グッド・ウィル・ハンティング／旅立ち』（97年）など、時代の中で揺れ動く若者たちの繊細な心を描いたら右に出る者のいない異才。15年以上前の90年代初めからすでにハーヴィー・ミルクの人生の映画化企画を練っていたという。そのためか映画はカリスマ政治家を取り巻く歴史的事実の圧倒的な迫力を背景に、１人の繊細かつ大胆なゲイ男性の人生そのものを見事にフィルムに焼きつけた。</p>

<p>主人公ミルクには、まるでミルク本人が乗り移ったかのような演技を見せつけるオスカー俳優ショーン・ペン。つねに新たな挑戦を続けるペンは、ここでも指先１つ１つまで、肘の曲げ方、声の震えの１つ１つまでがミルクだ。ミルクの恋人だったスコット役には、この映画で確実に演技派の仲間入りをしたジェームズ・フランコ。また、エミール・ハーシュ、ジェフ・ブローリン、ディエゴ・ルナなど気鋭の若手／個性派俳優が脇をかため、現代美術家のジェフ・クーンズも出演するなど、ガス・ヴァン・サントらしい配役となった。映画のエンドロールでは実在の主要登場人物たち本人が写真で紹介されるが、彼らを演じた俳優たちがペンだけでなくいずれも驚くほどソックリなのは一興だ。</p>

<p>脚本はミルク暗殺当時まだ４歳だった気鋭の若手ダスティン・ランス・ブラック。彼は保守的なクリスチャンであるモルモン教の家庭に育ち、自身もゲイであることで「自分はいつか地獄に堕ちる」と思いつづけてきた。そんな彼もやがて成長してからハーヴィー・ミルクという存在を知り、「希望」を語る彼の演説を聴いてやっと人生を救われたのだという。その“恩”を返すべく、彼はミルクに関して３年間のリサーチとインタビューの末にこの脚本を完成させ、それがガス・ヴァン・サントの目に留まって今回の映画化へと結びついたのだった。</p>

<p><img alt=",,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,dlblack.jpg" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2C%2Cdlblack.jpg" width="407" height="594" /></p>

<p><br />
ガス・ヴァン・サント作品ではすでに常連の撮影監督ハリー・サヴィデスの指揮の下、ミルクのカメラ店＝選挙事務所のあるカストロ地区などはすべて実際のサンフランシスコの現地でロケが行われた。当時の景観を再現すべく様々な時代考証が徹底され、撮影はミルクを知る多くの地元関係者の協力を得て、追悼マーチなどにもゲイやストレートを問わず数多の近隣住民たちがボランティアで参加したという。映画はニューヨーク映画批評家協会賞で作品賞、主演男優賞、助演男優賞の主要３賞を独占。ロサンゼルス映画批評家教会賞でも主演男優賞を獲得。そして09年アカデミー賞では「スラムドッグ・ミリオネア」が各賞ほぼ独占の席巻の中、しっかりと脚本賞、主演男優賞を確保した。</p>

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         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2009/04/2009harvey_milk.html</link>
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         <category>LGBT issues</category>
         <pubDate>Thu, 16 Apr 2009 02:22:33 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>2001/09/11　再現</title>
         <description><![CDATA[<p>9.11WTC攻撃</p>

<p>◎あの日、何が起こったのか？</p>

<p>◆09/11　08:46am　<br />
●ブルックリンの緊急通信センター　通信専門員ジャネット・ハーモン</p>

<p>　いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン（53）はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。</p>

<p>　緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。１日平均３万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。</p>

<p>　そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター！」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで！」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの？」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747（実際はボーイング767型機）がぶつかったの！　ビルが火の玉なの！　わざとぶつかったように見える！」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ！　とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ！」。</p>

<p>　ジャンボ機がぶつかった？　確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。</p>

<p>◆09/11　08:55am<br />
●ブルックリン橋　ＮＹ消防長官トーマス・ヴォン・エッセン</p>

<p>　前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを８時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道ＦＤＲドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。</p>

<p>　夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。</p>

<p>　「あれは、雲かな？」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。</p>

<p>　いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。</p>

<p>　「なんてこった！　貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ！」とエッセンは叫んでいた。</p>

<p>　そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第２次出動命令が発信された。それは十数秒後には第３次、第４次出動に、そしてたちどころに最大動員の第５次出動に変わった。</p>

<p>　マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第５次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。</p>

<p>◆09/11　08:58am<br />
●ＦＤＮＹ　ニューヨ−ク市内に位置する212消防署</p>

<p>　ＮＹ消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計１万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の９時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。</p>

<p>　ＮＹ市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち（Finests）」と呼ばれる。対してＮＹ消防本部（ＦＤＮＹ）の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち（Bravests）」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長２人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。</p>

<p>　最初の出動命令は世界貿易センター（ＷＴＣ）にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「ＷＴＣで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。</p>

<p>　通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊（バタリオン）」として派遣される。それでもだめならより大きく地域（ディビジョン）全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。</p>

<p>　第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもＷＴＣに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の２倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前９時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。</p>

<p>　まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。</p>

<p>◆09/11　09:03am<br />
●２機目が南タワーに突入</p>

<p>　消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第２弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は１機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。３万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。３分の１が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り３分の２がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。</p>

<p>　南タワーにも即座に第５次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。</p>

<p>　だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。</p>

<p>　熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。</p>

<p>◆09/11　09:59am<br />
●南タワー、「もっと部隊をよこせ！」</p>

<p>　２機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに１機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。</p>

<p>　そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年８月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。</p>

<p>　午前９時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。</p>

<p>　南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ！」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。</p>

<p>　14分後、午前９時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。</p>

<p>　その直前、ワシントンＤＣ郊外では国防総省にボーイング７５７が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。</p>

<p>◆09/11　10:28am<br />
●北タワーも……２万5000人を退避させて</p>

<p>　午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるＰＡＳＳ（個人警報安全システム）モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。</p>

<p>　消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。ＷＴＣの計６棟が崩落または炎上していた。約２万坪が燃え上がっていたのだ。</p>

<p>　ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助（レスキュー）本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第１レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は７人、第22消防車隊は４人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル（当時レートで5700億円）に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの２塔からは計２万5000人が脱出できたのだ。</p>

<p>　火は以後、崩壊した地下で４カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。</p>

<p><br />
◎ＷＴＣ崩壊その後〜救助作業から撤去作業へ</p>

<p>▼ＮＹ市の緊急司令センターはタワー北隣のＷＴＣ７番棟にあった。このビルも炎上の末11日午後５時20分に崩落した。市長ジュリアーニは現場の司令センターとして無線指令車を導入した。</p>

<p>▼テロリストたちが突入させた航空機に化学兵器、生物兵器が搭載されていなかったか、市はその日のうちにＷＴＣ近隣３カ所に空気サンプルの採取装置を設置して化学分析に回した。結果はいずれも陰性だった。</p>

<p>▼テロの夜が明けて２日目からグラウンドゼロは連邦緊急事態管理庁（ＦＥＭＡ）の管轄となった。同庁から1300人が派遣され、そこに米国赤十字、連邦捜査局（ＦＢＩ）、ＮＹ市警（ＮＹＰＤ）、ＮＹ消防（ＦＤＮＹ）から2000人が加わって生存者の救出作業が続けられた。24時間以内に、現場には260台の特殊重機が運び込まれ、240台のトラックが稼働しはじめた。</p>

<p>▼ＮＹ都市圏から若者たちのボランティアも集まりはじめた。その数はたちまち数万人にふくれあがり、ＦＥＭＡの組織管理力をはるかに越える数になった。</p>

<p>▼全米およびカナダの各地の消防隊も陸路ＮＹに到着しはじめた。飛行機はすべて発着禁止だったのでみな自前のトラックやバスや列車でやってきた。グランドセントラル駅ではそんな応援隊の到着のたびに周囲から拍手と歓声が挙がった。カリフォルニアからは、同地に多い地震で活躍する土中の生存者探索班が到着した。各地の消防署長の多くは、ＮＹに助けに行きたいという彼らを有給扱いで送り出した。</p>

<p>▼陸軍工兵隊も投入された。しかし陸軍のベテランたちにもこの光景は初めてだった。「1995年のオクラホマ連邦ビル爆破事件の悲惨さも、この壮絶さの比ではなかった」と工兵隊のジョン・オダウド大佐は話している。</p>

<p>▼瓦礫の撤去は初め、手作業でバケツで行われた。重機の投入はいるかもしれない生存者の命を危険にさらす恐れがあったためだ。しかし結局、生存者は事件発生後48時間で５人しか見つからなかった。</p>

<p>▼１週間で７万トンの瓦礫が撤去された。１日75台のトラックが20マイル先のスタッテン島の瓦礫選別所にそれらを運んだ。そこでもまた人骨の収集が行われていた。同時に、ＷＴＣ崩落のメカニズムを探るために大学や研究所から専門家が送り込まれ、鉄骨やコンクリートブロックの断裂の実態を詳細に調査していった。</p>

<p>▼現場の２万坪の瓦礫の山は部分部分に落とし穴があり弱い構造があり、さらに地下へと潜れる隘路があった。しかし危険なことに、正確な全体の位置関係はだれも把握できていなかった。そこで1500メートルの上空から航空機で地表にレーザーを照射し、コンピュータによる解析で３Ｄマップを作成する方法がとられた。「光探知測量（Light Detection And Ranging）」、または頭文字を取って「ＬＩＤＡＲ（ライダー）」と呼ばれる最新技術だった。３次元で描かれたコンピュータ・グラフィクスの現場地図を見て、実地でそれを知っている消防士たちは「ここがあれだ」と即座に位置関係を飲み込んでいった。ＬＩＤＡＲの誤差はわずか±15センチだった。</p>

<p>▼ＷＴＣからわずか数ブロックしか離れていないウォール街のＮＹ証券取引所は17日の月曜に再開した。テロからわずか１週間の間に、不通だった電話も電話会社ヴェライゾンが3000人の人員を投入して４万回線を復旧させた。停電だった電気も1900人の作業員が延べ60キロに及ぶ仮ケーブルを敷設して19日には供給を再開した。それはおそらく、アメリカ人の意地だった。</p>

<p>▼９月24日、ジュリアーニ市長は「これ以上生存者を発見することは不可能だろう」と苦渋の宣言を行った。この時点から、作業は公式に救助から遺体収集、瓦礫撤去へと変わった。</p>

<p>▼ＷＴＣは地下に駐車場や地下鉄駅や商店街などが７層にわたって配置されていた。地下へと潜ってゆく消防士たちにはこの現場に特化したＧＰＳ（衛星測位システム）装置が配布された。グラウンド・ゼロはすでにそのころ、消防士たちの間では「ザ・ピット（奈落）」と呼ばれていた。</p>

<p>▼現場からは瓦礫の下に埋まったおびただしい数の車両も回収された。その中には消防車両91台、警察車両は144台もあった。修復はいずれも不可能な状態だった。</p>

<p>▼事件後６カ月の2002年３月11日、ＷＴＣ跡地に強力なサーチライトが88基用意された。その夜から32夜にわたって、サーチライトはニューヨークの夜に鎮魂の光のタワーを２本浮かび上がらせつづけた。それは十数キロ先からも見える幻の塔だった。</p>

<p>▼2002年５月30日、瓦礫の撤去作業は正式に終了した。要した人員と時間は150万人・時間、瓦礫の総量トラック10万7000台分180万トン。</p>

<p></p>

<p><br />
◎証言集</p>

<p>■ＷＴＣ現場で取材していたＮＹデイリーニューズ・カメラマン、デイヴィッド・ハンシャー<br />
　南タワーの崩落で生き埋めになった。もう息ができず、死ぬんだと覚悟した。ヘルプと何度も叫んだ。どのくらい経ったか、そのとき声が聞こえた。「心配するな、ブラザー、すぐに助け出してやる」。その声を忘れない。消防士たちが互いに「ブラザー」と呼び合っていることを知っていた。近くに何人も消防士たちがとを思い出した。助かる、とそのとき思った。</p>

<p>■ＦＤＮＹカメラマン、ジョージ・ファリナーチ<br />
　現場に到着したときはすでにカオスだった。無線も聞こえなかったし、この混沌に見合う装備も何もなかった。手にしていたのは斧とかハンマーとか。何も持っていない者はすでに潰れた消防車から使えそうな物を引っ張り取っていた。しかしそれもゴミ漁りにしか役立たないような代物だった。それで作業を始めなければならなかった。しかもあの日は消防学校の卒業式から間もなく、９月11日はまさに現場に出るのがまったく初めての消防士たちも多かったんだ。</p>

<p>■フリーランスジャーナリスト、ピーター・フォーリー<br />
　タワーが倒れた後でさえも、数百人の消防士たちが現場に駆け戻っていった。足下には落とし穴が待ち受け、周囲のビルからもガラスや窓枠の金属などが断続的に降り注いでいた。逃げるではなく進んでゆく人々。救急隊も恐れを知らなかった。現場はものすごい熱だった。彼らを見ていて、感動に心臓が止まりそうだった。</p>

<p>■消防船「ジョン・Ｊ・ハーヴィー」号船長。ハントリー・ギル<br />
　ハドソン川沿いの現場に到着したのは２つ目のタワーが崩壊してまもなくだった。ちょうど沿岸警備隊の無線がイースト川やバッテリー公園沖のすべての船舶に協力を要請しはじめた。ＷＴＣの現場近くでは逃げようもなく川沿いに押しやられた人々でいっぱいだったから。あの日、民間も含めてボートが大変な威力を発揮した。トンネルも閉鎖、橋も閉鎖、道路もままならにときに、１万人から２万人もの人々がニュージャージー側に逃げようとしていた。ボートだけが逃げる手段だった。旅客運航などしたこともないボートが数十台もハドソン川を猛スピードで行き来していた。</p>

<p>■海兵隊安全局大尉、スコット・シールズ<br />
　水がなかった。供給システムがダウンしていた。それでもまだ火は燃えつづけていた。我々を取り囲む周辺のビルもすべて同様に燃えはじめ、トラックの大きさの瓦礫があちこちで落ちてきていた。火と戦う水がほしかった。そのとき、消防船がやってきた。ジョン・Ｊ・ハーヴィー号だ。あれは古くてもうスクラップだというのでＮＹ市が５万ドル（当時レートで600万円）で消防に払い下げた船なんた。でも、ハーヴィーは他のどの消防船よりも水を大量に汲み上げられた。ＷＴＣ北西の岸辺に停泊して水を供給してくれたハーヴィーは我々のヒーローだった。</p>

<p>■連邦緊急事態管理庁（ＦＥＭＡ）、マイケル・リーガー<br />
　あのとき救助の人々を衝き動かしていたものはただ、希望だった。だが、その希望も色あせていった。おぼえているが、３日目だ。もう生存者はいないとどこかでわかったのは。実際、翌12日の朝に５人の生存者が見つかっただけで、それ以後はだれも生きて発見されなかった。</p>

<p>■星条旗を掲げる３人の消防士を撮影した「ザ・レコード」紙のカメラマン、トーマス・フランクリン<br />
　もうフィルムが残っていなかった。最後の40枚を撮ってから帰ろうと現場を振り返ったときに、30メートルほど先で３人の消防士が星条旗を揚げようとしているのが目に入った。淡々と、儀式めいたところも何もなく、ただ黙って、仕事のように旗を揚げようとしていた。写真を撮りながら、ジョー・ローゼンタールの硫黄島の写真を思い出していた。これが私たちの連帯と誇りとを示すポジティヴな写真と受け取られていることをうれしく思う。</p>

<p>■第５はしご車隊、スティーヴン・ナポリターノ<br />
　あの現場でおぼえているのはバケツだね、バケツ・リレー。あんな巨大な作業で、そんな小さな道具を使っていたんだ。何百人もが何百個ものプラスチックのバケツで延々と土砂を取り除いていた。皮肉なもんだね。そんなことが頭を去らないんだ。</p>

<p>■第4はしご車隊　ジェイムズ・ダフィー<br />
　南タワーが崩れたとき、ぼくは北タワーのロビーにいて、生まれて初めてあんな大きな音を聞いた。一瞬のうちに10メートルくらいぶっ飛んだよ。そのとき手に持っていた斧もハロゲンランプもなくしてしまった。でも、ハロゲンは翌日、他の人に見つけられて戻ってきた。</p>

<p>■第１消防車隊　ネルソン・ロス・ジュニア<br />
　救助作業の現場で足場に目を落とすと、隙間から地下が覗けたんだ。見ると自分の足の下に車やらバスやらが埋まっていた。これはきっと駐車場だと思って他の仲間を呼ぶと、これは駐車場じゃない、ここは道だったところだと言われてね。そのときわかったね、これが110階のビルが潰れた跡なんだって。道であろうが公園であろうが関係なく覆い被さっている。そのときのショックはいまでも忘れられない。</p>

<p>■ＮＹ市警副調査官　ジェイムズ・ルオンゴ<br />
　瓦礫、残骸が一時集積されるフレッシュキルで遺品などの回収を担当していた。ところがね、あれほどの残骸の中で、物の無さが私にとってはショックだった。あんなにたくさんの残骸の中に、ドアがない、電話機もない、コンピュータもない。ドアノブさえないんだ。みんな溶けてなくなったか溶けて塊になってしまったか。でもなぜかプラスチックのＩＤカードがたくさん回収されたね。革の財布にでも入っていたからだろうか。そう、現金も全部で７万5000ドルほど回収された。だれのものかは永遠にわからないだろうが。</p>

<p>■第５はしご車隊副隊長　ケネス・クリスチャンセン<br />
　おぼえているのは現場の静かさだ。ひどく静かだった。きっと混乱してすごいだろうと思っていたが、実際に到着してみると、あるのは粉塵と金属の塊だった。なにもなかった。椅子もない。全部つぶされて何が何だか分からなかった。</p>

<p>■第24消防車隊　ジョン・オトランドー<br />
　スミソニアン博物館や港湾委員会、ＮＹ歴史学会などは事件発生当初からこのテロを記憶するためにさまざまな遺品や遺物を収集している。そういう物は博物館に飾れるからいいよね。でも、本当に後世に伝えたいものは、あの時のみんなの働きぶりだよ。みんなが力を合わせて懸命に救助作業を続けていた。私の見たその努力と善意を博物館に飾ることができたらどんなにすばらしいことか。</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎「英雄たちのカレンダー」</p>

<p>　全米大都市の消防本部では選りすぐりのハンサムな消防士たちをモデルに毎年カレンダーを作っている。収益金を地域の消防教育や啓蒙基金に回しているのだ.</p>

<p>　ＦＤＮＹも例外ではない。しかし02年版のそのカレンダーは昨年９月28日の発売を前に急きょ中止になった。343人の犠牲者を出したばかりでなく、モデルになった中にもロバート・コルディス、トーマス・フォーリー、アンヘル・フアルベの３人の殉職消防士が含まれていたからだ。</p>

<p>　だが今年、さまざまな追悼を経て殉職者のためにもぜひそのカレンダーを復刊させてほしいとの思いが寄せられた。そうしてＦＤＮＹはこれを来年03年版カレンダーとして復活させたのだ。</p>

<p>　これまで同カレンダーは「消防署のハンク（マッチョマン）たち」という名だった。が、今回の03年版はまさに「ヒーローたちのカレンダー」と改名。カバーも世界貿易センターだった昨年版の背景をエンパイアステート・ビルに差し替えた。３殉職者の１月、５月、10月のカレンダー写真には黒いリボンが喪章として添えられている。<br />
（了）</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎「トゥー・マッチ以上」の心の傷を抱えつつ、逝った仲間たちを忘れず<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　──第１５２消防署インタビュー</p>

<p><br />
　マンハッタンの南端からさらにフェリーで25分ほど南下したニューヨーク湾上にニューヨーク市の５番目の区、スタテン島がある。人口は40万人ほど、面積はマンハッタン島の３倍近い150平方キロ。そこにももちろん20の消防署がある。その中の、隊員わずか17人の第152消防車隊もまた愛する仲間を失った。ロバート・コルディス消防士（当時28）。じつは彼は9.11のちょうど２週間前にブルックリン区の第１スクワッド（特別救助）隊に異動になっていた。しかし隊舎２階にはいまでも彼のロッカーが当時のまま残っている。ピーター・デフィーオ署長（51）、スティーヴ・ザザ主任消防士（43）、アンソニー・フラッシオーラ消防士（38）に話を聞いた。</p>

<p>　　　　　　　＊<br />
Ｑロバートの異動したスクワッド隊というのは？</p>

<p>デフィーオ署長　あれはレスキュー隊のもっと機動的なものでね、いちばん忙しくて危険なエリート部隊みたいなもんだ。ロブ（ロバート）はここで２年働いていたんだが、いつももっと忙しくて注目を浴びるようなところで活躍したいと思ってた。だからあの現場で真っ先にタワーに飛び込んでいったと聞いても、まあ、あいつならそうするだろうなと思ったよ。</p>

<p>Ｑ異動は喜んでいた？</p>

<p>デ署長　ああ、これでまた女にモテるってな（笑）。若かったから仕事以外はぜんぶ女だ（笑）。とにかくうちにいた２年間、なんにでも積極的だった。オフの日は近くのバーでバーテンもしてたくらいだ。人気者だったよ。町のみんながやつを知っていた。</p>

<p>フラッシオーラ消防士　おれもよくあいつに遊びに誘われてたんだが、こっちは女房持ちだしね、なかなか付き合いきれなかった。あいつはよくマンハッタンまで出かけて飲んでたな。それに、2002年のＦＤＮＹのカレンダーにもモデルとして採用されて、それもとても喜んでいた。２階のワークアウト室でいつも体を鍛えてたからそれは誇りにしてたよ。もちろん、またこれでモテるぜってのもあったろうが（笑）。</p>

<p>ザザ主任　カレンダー、見たか？　ウォールストリートの雄牛の像に上半身裸でまたがってるやつさ。</p>

<p>デ署長　そうそう、そういえばロブのガールフレンドだっていう若い娘さんがあの事件の後でうちの署にやって来たよ。３人も、だ（笑）。</p>

<p>フ消防士　あいつは料理も上手でね。パスタなんか、最初に作ってくれたのはチキンが載ってるやつでこれが美味かった。褒めてやったら照れてたけどな。</p>

<p>Ｑ死んだと知らされて？</p>

<p>フ消防士　……そうだな、なんだか……頭が熱くなった。やつだけじゃなく、他の親友も死んだんだ。ロブの報せを受けたのは14日だったかな。それまでだれが死んだのかもわからなかった。ぽつりぽつりと噂のように死者の名前が伝わってきた。毎日増えていった。トゥー・マッチ（ひどすぎる）だと思った。トゥー・マッチ以上だ。</p>

<p>Ｑショックはいまでも？</p>

<p>フ消防士　正直言って、ぶり返すね、ときどき。</p>

<p>デ署長　われわれは四六時中いっしょにいるからね。シフトは朝の９時から夕方の６時までの９時間と、その夕方６時から朝９時までの15時間の２交替。仕事もメシも風呂もその間ずっといっしょだ。家族？　家族以上だよ。</p>

<p>Ｑセラピーは？</p>

<p>フ消防士　受けてるやつもいるが、おれはやってない。家に帰って犬を蹴飛ばしてストレス解消だ（笑）。</p>

<p>デ署長　おいおい、女房は蹴飛ばすなよ（笑）。</p>

<p>ザ主任　死んだということもじつはどこかで認めたくないんだな。死んだって言葉を、言いたくないんだ。</p>

<p>Ｑあの朝はどうやって？</p>

<p>ザ主任　第一報を受けて大隊長を乗せてすぐにフェリー桟橋まで隊の車で飛んでいった。真正面にマンハッタンの南端が見えるから。１機目の突入後間もなくで煙はまだ白かった。そうしたらおれたちのすぐ頭の上をものすごい低空飛行で別の旅客機が飛んでいったんだよ、そのマンハッタンの方に向かって。何だ、と思って見ているとそれで見ている前でまたビルにヒットした。信じられなかった。これは大変だって目が覚めた。それでそのまま車で橋を使ってブルックリンに渡り、そこからトンネルを通って現場に急行したんだ。途中でもう一人大隊長を拾ってね。</p>

<p>フ消防士　おれはたまたま非番でブルックリンにいてね、橋が閉鎖されてスタテン島には戻れなかった。現場急行の指令が出ていたので近くにいたスクールバスに頼み込んで他の消防士たちといっしょにとにかくマンハッタンに向かったんだ。現場はすごかった。到着したときは２棟目も崩れた後でどこもかしこもぜんぶ粉だらけになっていた。あとは鉄の塊。何をしていいのか、どこから手を付ければいいのかわからない。とにかく近くにいた隊に合流してホースラインを引いて、それからけが人を捜した。</p>

<p>ザ主任　１棟目は爆発したんだ。ものすごい音だった。あの上層階部分が落っこちてきたんだ。一瞬のうちにあたりはみんな煙だな。雲が襲ってきた感じだ。そして気づくと音が消えてた。何も聞こえない。雲の向こうに消防車の点滅する明かりは見えたが、逃げる途中で道具もマスクもなくなっていた。いっしょにいた別の主任消防士は血だらけだった。煙がうっすらと晴れてあたりを見ると、そこにはちょうど飛行機の残骸がちらばっている場所だった。タイヤとか飛行機の窓とか。すごい光景だった。生きている人間はおれたち以外にはだれもいないんじゃないかと思った。</p>

<p>Ｑ２棟目は？</p>

<p>ザ主任　あれは潰れ込むようだった。爆発音ではなく、地響きのようなとどろきが上の方から聞こえてきた。これは死ぬと思った。逃げても逃げても巨大な鉄の桁や梁が降ってくるんだ。それにつぶされてみんな死んでるんだ。よく生きてたと思う。何なんだろうな、その違いってのは。</p>

<p>フ消防士　現場でおぼえているのはフラストレーションだ。無力感。</p>

<p>ザ主任　１年前にいっしょに現場に行った車はいま署の中にあるよ。窓は破れてボンネットもぼこぼこだったんだが、それでもみんな修理が済んで復帰してきた。</p>

<p>デ署長　ロブのロッカーもまだ２階に残してあるよ。</p>

<p>フ消防士　ヴィン・ディーゼルっていう最近人気のマッチョ俳優を知ってるか？　あれがロブに似ているってんでロッカーの扉にはその俳優の写真が貼ってあるんだ。後で見せるよ。</p>

<p>デ署長　あいつは一人息子でね、母さんは去年の感謝祭（11月下旬）にこの署に挨拶に来たが、つらそうだったな。毎年感謝祭には署で七面鳥を焼くんだが、さすがに去年はいつもと違った。事件から１年が経ったと言ってもな、まだまだ忘れることはできないし忘れようとも思わないよ。むしろ忘れないようにしてるんだ。<br />
（了）</p>

<p></p>

<p></p>

<p>◎ＦＤＮＹフットボールチームの再建</p>

<p>　ニューヨークでは警察と消防は永遠のよきライバルでもある。とくに両者間では毎年、各種のスポーツ競技会がチャリティー名目で開催される。ＮＹＰＤの精鋭（ザ・ファイネスト）たちとＦＤＮＹの勇者（ザ・ブレイヴェスト）たち。だが、ことしのアメフト大会はやや様相を異にした。</p>

<p>　９.11から間もない昨年10月初め、ＦＤＮＹの「ザ・ブレイヴェスト・フットボール・クラブ」のメンバーの間で熱い議論が起こっていた。30年間続いたこの伝統のチームを解散させるのか否か。３４３人の殉職者の中にこのチームの中心メンバー22人も含まれていたのだ。チームの二本立てのクォーターバックであるパット・ライオンズとトム・カルンの２人も亡くなった。「パットのためならなんでもやってやるという気になったんだ」とチームメイトのウッディー・マッケイルは言う。「ハドルの中にパットが入ってくると、彼の自信がおれたちみんなに乗り移ってきたんだ」</p>

<p>　このままではチームの士気も運営もままならなかった。精神的ショックから立ち直れなかった。アメリカの消防士たちはほとんど家族にも似た同胞愛で結ばれている。一日いっぱいを共に過ごし、共に料理をし、共に働き、共に教え合い、共に学び合う。一人の人生はみんなの人生とつながっている。</p>

<p>　フルバックのトム・ナルドゥッチが訴えた。「今年、おれたちは１２０人もの新人の加入サインを受けてるんだ。こんなことは前にはなかったことだ。みんな、生きるってことの意味が変わったんだ。フットボールは、おれたちにとってもう単なるスポーツじゃないんだ」</p>

<p>　ＦＤＮＹチームは例年、全米の消防や救急隊からなる公共安全機関フットボールリーグなどで試合を続け、それから５月のＮＹＰＤとの恒例の対抗試合に臨む。それがメイン・イヴェントだ。「今年の試合の意味は、前と同じことをやるということなんだ」とＮＹＰＤ側の監督ピート・ムーグも言う。「テロで変えられてたまるか。これがアメリカのやり方なんだ、というところを見せてやらなくてはならない」</p>

<p>　５月19日、ニューヨークのお隣ニュージャージー州のジャイアンツ・スタジアムで、第30回「ファン・シティー・ボウル」が１万２０００人の観客を集めてキックオフされた。22人のチームメイトの遺族も招待されていた。殉職したプレイヤーのジャージーが一枚一枚額に入れられてその遺族に贈呈された。そこには「我らがチームの永遠のヒーロー」とのプレートが付いていた。</p>

<p>　試合は10対０でＮＹＰＤの勝利に終わった。ＦＤＮＹでＭＶＰに輝いたディフェンスのスティーヴン・オーは言う。「去年は一緒に戦った仲間が今年はいない。それは変な気持ちだ。だがひとたび試合が始まればあとは勝つことしか考えないからいい」<br />
（了）</p>

<p></p>

<p><br />
◎マイケル・ジャッジ通り（31st Street between 6th and 7th Avenue）</p>

<p>　全米の消防署にはそれぞれ所属の司祭がいる。被災現場で犠牲者を弔い遺族をいたわり、殉職消防士の葬儀も司る。ＦＤＮＹにはマイケル・ジャッジ神父（当時68）がいた。ブルックリン生まれのちゃきちゃきのニューヨーカーで子供のころは靴磨きもした。気さくで冗談が好きでやさしく温かく、だれもにファーザー・マイクとファーストネームで呼ばれるニューヨークの名物神父だった。消防士たちといっしょにどんな現場にも真っ先に駆けつけた。昨年９月11日の朝も同じだった。燃えさかる北タワーの現場に神父はいた。安全なところに避難してくださいと若い消防士たちに促されても頑として彼らとともに行動していたのだ。</p>

<p>　瀕死の重傷を負った消防士が仮指揮所を設けたロビーに運び込まれた。神父は彼に駆け寄った。彼に最後の祈りを与えてやらねばいけなかった。そのために神父はヘルメットを脱いだ。そのとき、南タワーが崩落した。北タワー・ロビーに飛び込んできた瓦礫の一片が神父を直撃した。即死だった。世界貿易センターテロで、公式に名前の確認された最初の殉職者の一人がこのファーザー・マイクだった。</p>

<p>　ファーザー・マイクの居所はマンハッタン中心部、西31丁目のアッシジ聖フランシス教会だった。通りを挟んで目の前がＦＤＮＹの第１消防車隊兼第24はしご車隊だ。ここにいるだれもがファーザー・マイクを悼み、いまも神父の写真を署に掲げている。</p>

<p>　ＮＹ市議会議長と当時のジュリアーニ市長が共同提案者という異例の扱いで、神父のいた31丁目の六番街と七番街までの間が「ファーザー・マイケル・ジャッジ通り」と命名された。それだけではない。神父の人生をしのぶ１時間枠のドキュメンタリー番組も制作され、東90丁目とウォールストリートを結ぶ通勤フェリーも「ファーザー・マイク」号と改名された。</p>

<p>　消防に尽くしただけではなかった。神父はゲイ男性でもあり、エイズ禍の最初期から他の教会にも見捨てられたエイズ患者の世話を見てきた。クリントン前大統領夫妻も神父と親友づきあいをしていた。</p>

<p>　神父をよく知るデイヴィッド・フューラム消防士は「神父が大好きだった」と話す。「私と妻の結婚式も長女の洗礼式もみなファーザー・マイクがやってくれた。神父は私の人生の一部だった。あんなに大きな心を持った人はいない。彼を知っている人はみんな彼に感動していたんだよ」<br />
（了）</p>

<p><br />
</p>]]></description>
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         <category>その他/随想</category>
         <pubDate>Mon, 15 Sep 2008 02:24:06 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「国家の品格」というトンデモ本</title>
         <description><![CDATA[<p>　日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」（新潮新書）という本でした。日本ではもう１１０万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら？　と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。</p>

<p><img alt="book_kokka.gif" src="http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/book_kokka.gif" width="210" height="328" /></p>

<p>　こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で３年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」</p>

<p>　おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。</p>

<p>　首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。<br />
　もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。<br />
　でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。</p>

<p>　そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。</p>

<p>　さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。<br />
　ここでまたわからなくなる。<br />
　だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「（長い）論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。</p>

<p>　もちろん筆者もバカじゃないですから（いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね）、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。<br />
　これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。</p>

<p>　先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに（p5）。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の２つの力を両輪にすべきなのに。</p>

<p>　さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。<br />
　藤原さんはそれに関していじめの例を引きます（p62）。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。<br />
　「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」（p48）という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。<br />
　それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。</p>

<p>　ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。<br />
　藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。</p>

<p>　「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか？　それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。<br />
　で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。</p>

<p>　人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか？」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが，論理的に必然的に待っているのです。<br />
　それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。</p>

<p>　では、武士はなぜ人を殺してよかったのか？　それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは１つの論理の導く１つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。</p>

<p>　「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。<br />
　というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。</p>

<p>　ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか？　「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか？　私にはそれはどうしてもできない。</p>

<p>　藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。</p>

<p>　どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。<br />
　はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン（p101）。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン（p102）。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授（106P）等々。<br />
　なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。</p>

<p>　英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。</p>

<p>　総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている（思いたがっている）国民はほかにいないんじゃないでしょうか？　逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが，私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。</p>

<p>　「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう（101P）が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。</p>

<p>　この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。<br />
　以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。</p>

<p>　この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように（p122）、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。</p>

<p>　武士道に絡めて、もう１つ言ってよろしいですか？<br />
　新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」（p124）だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」（p90-91）といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか？　そう、武士です。<br />
　敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう，抱いてもらう立場のままです。</p>

<p>　この武士道精神は、藤原さんが「非道」（p21）と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その２ページ前と７ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。<br />
　頭がこんがらがってきませんか？　この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか？　「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか？　まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。</p>

<p>　藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。</p>

<p>　私はいまの日本に欠けているのは（そしてこの本にも欠けているのは）むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。</p>

<p>　この本は、じつは第４章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。<br />
　ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。</p>

<p>　そういうことです。</p>

<p>　ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。<br />
　以上、終わり。（2006年４月のブログ Daily Bullshit から）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_10.html</link>
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         <category>Review</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 01:14:26 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『三島由紀夫のストーンウォール』</title>
         <description><![CDATA[<p>　 先日、ある日本人女性がゲイ男性の中にいたストレート男性と話をして「あなたはノーマルなんですね」とコメントしました。一瞬の間を置いて大爆笑となったのですが、その一瞬のフリーズの理由を彼女は理解したでしょうか・・こんな「うっかり」のゲイ侮蔑がニューヨークに住んでいてさえも日本人の口から漏れてしまいます。しかしそろそろあなたも「これはちょっとまずいかも」と思ってはいませんか？　なぜならあなたも、自分の周りに「予想」以上にゲイが多いことにそろそろ気づきはじめているでしょうから。もしそうじゃないなら、それはあなたが「偏見ある人物」としてこっそり敬遠されている証拠かもしれません。アメリカ生活のほかの問題と同様、ここでも知ることから始めてはどうでしょう？　これから４回に渡り、この欄でゲイに関するいろいろな話題をわかりやすくご紹介します。 </p>

<p>　 冒頭の話はべつに彼女に限ったことではありません。かなり知的な人や地位のある人でさえもゲイに関しては腰が引けるふりをする人や下品な冗談や当てこすりしか言えない日本人が数多くいます。「ノーマル」の反対は「アブノーマル」。つまり「異常なヘンタイ」。これではゲイ男性も立つ瀬がありません。彼女に悪意がなかったのは確かでしょうが、同時に他者に対する繊細な「意識」もないと見られたのも確かでしょう。 </p>

<p>　 こういううっかりした、けれどとても失礼なゲイ蔑視が日本人コミュニティーに蔓延していることははしなくも先日、ある日本語新聞が毎年６月最終日曜に恒例となっているマンハッタンのゲイ・プライドを報道したときにも明らかになりました。記事はＮＹ市警などの警官で作る全米ゲイ組織「ＧＯＡＬ」の行進を取り上げたものですが、その見出しがなぜか「私たちは警官である前にゲイなのよ」と意味もなくオンナ言葉になっていたのです。 </p>

<p>　 いや、「意味もなく」ではありません。これはじつは言外に「オカマはこうしてオンナ言葉でからかうべきものなのだ」というメッセージをとても雄弁に伝える役目を果たしました（同時に、オンナ言葉の奥に潜む拭い去りがたい女性蔑視も）。 <br />
　 もっとも、同紙編集部に確認したところそういう意図はなかったと平謝りでしたから問題はここでも同じく、そういう意図がないのにそうやってしまう「意識」の「なさ」なのです。 </p>

<p>　 これらはすべて、同性愛に対する日本での条件反射的な対応をそのまま米国生活にも持ち込んだものでしょう。しかしそれはあまり通用する理論ではありません。通用しないどころか逆に「ホモフォーブ（同性愛者をさしたる論理的理由なく異常に嫌悪する恐怖神経症の人）」という、「未開人」に匹敵するレッテルを貼られることもあります。「うっかり」が「怠慢」と責められるアメリカでその種の論理が通用しないのはほかにだって貿易摩擦の問題やセクハラ関連の議論でもご存じのとおりです。 </p>

<p>　 どうして意識が低いのか。それは「ゲイ」が「性」に関することがらだからです。セックスに関してはおおやけに話さないという習慣が東アジア文化圏にはあります。よって日本では性科学でさえも正当に発展していません。真っ当な議論がないからいつまでも下世話なゴシップの次元から抜け出せないのです。 </p>

<p>　 じつは私も恥ずかしい思いをしたことがあります。日本の英和辞典で知った単語で、ゲイの人に向かって「ファゴット」という単語を使ったことがあるのです。その場でこれは大変な侮蔑語だと教えられ大汗をかきました。日本の辞書はいまでも同性愛者のことを一様に「ホモ」とか「オカマ」とかの侮蔑語で訳出しているものが多く、さらにそれが侮蔑語であるという意識すらないのです（これは27万項目を収録し最も権威ある辞書とされる、ついこの99年４月に出たばかりの研究社リーダーズ英和辞典第２版でも直っていません）。 </p>

<p>　 対してアメリカでは60年代後半からの性解放運動以来、「性」も「愛」と同様、幸福追求のために正当に考えられて然るべき人間性の一つなのだとされてきました。だから徹底的に議論にもなる。もちろんその分、宗教右翼からの侮蔑や罵倒も激しくなっていますしテロや虐殺さえも起きていますが。 </p>

<p>　 ただしその議論の論理的帰結はすでに定まっています。つまり同性愛は人間以外の自然界を見ても異常でも病気でもないということ。異常や病気があるとすればそれはすべて「隠す」という行為および「隠さねばならぬ」という心理的抑圧から派生したものであるということ。たとえば異性愛者であっても、それを「隠さねばならぬ」としたら頭がおかしくなってしまうことは往々にしてあり得るでしょう。そういうことです。 </p>

<p>　 それらの抑圧の原因は米国の場合すべて宗教的な諸説にあります。その意味ではユダヤ人蔑視などとほとんど同じ構造です。ところで日本ではゲイ蔑視の「理論的後ろ盾」というものがなに一つないというのがじつに不思議なのです。あるならぜひ教えていただきたいのですが。 </p>

<p>　 さて、その議論の突端は、じつはいまから30年前にこのニューヨークのダウンタウンで起こりました。 </p>

<p>　 30年前の1969年という年は、日本中で『黒猫のタンゴ』が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、ここアメリカではニクソンが大統領になり、ウッドストックが開かれ、空の上ではアポロ11号が月に到着した年です。 </p>

<p>　 グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」という名前を一度も聞いたことがなくても日本人なら当然です。日本のマスメディアは90年代に入るまでここで起きた同性愛者たちの“蜂起”をただの１行も報道していません。アメリカのメディアですら、たとえばタイム誌がそれに関して恐る恐る触れたのは事件後４カ月も経ってからでした。 <br />
　 なぜなら、同性愛者であることは当時、アメリカでも個人的な「趣味」の問題だと考えられていたからです。ゲイ男性の自伝として史上初めて全米図書賞を受賞したポール・モネットの『Becoming a Man』（93年）は、当時の時代状況を「ヒッピーの性革命はだれもがだれとでもセックスできるということではあったが、ゲイであってもいいということではなかった。女性にも有色人種にも戦争にも政治哲学はあったが、ゲイにはなんの政治的意味もなかったのだ」と書いています。 </p>

<p>　 もっと奇妙な逸話もあります。ある作家が70年代初期に、思想・政治分野を扱う専門書店でゲイに関する本があるかと訊いたら「ポルノや変態モノは置いてない」と言われたというものです。店の本棚には女性、少数民族、さらには動物への抑圧という本まであったというのに、ゲイに対する抑圧は「なかった」。 </p>

<p>　 順が逆になってしまいました。69年６月28日土曜の未明にストーンウォールでいったい何が起きたのか・・伏線としては前日にゲイたちのアイドルであり、ゲイのファンたちをとても大切にしていた女優ジュディ・ガーランドが死んだことが挙げられます。その夜はこの偉大なアイコンを偲んで数多くのゲイたちがヴィレッジに集まっていました。そんな大切なとむらいの通夜にＮＹ市警がゲイバー摘発にやってきたのです。 </p>

<p>　 当時のゲイバーでは酒の販売が禁止されていました。それを黙認して警官たちは賄賂を受け取り、定期的に形だけのガサ入れをやっていました。この夜も簡単なはずでした。なにせ相手はヤワなオカマたちなのですから。 </p>

<p>　 例によって店の従業員と女装の売春夫たちが手錠をはめられ逮捕車両に押し込まれました。バカにされののしられ警棒で小突かれながら「なんなのよ！」とだれかが警官に文句を言います。「こんな夜くらい静かに酒を飲ませてよ」と。「ファゴットが一丁前の口を利くな」と警官が言います。「なにがジュディ・ガーランドだ」と別の警官が笑います。 </p>

<p>　 だれかの心でなにかが切れます。それはそうでしょう。愛する者が死んだその夜に、最もまじめでひたむきな状態の人間の心が足蹴にされているのです。野次馬だった遠巻きの多くのゲイたちの中に、警官隊に向けて小銭を投げつける者が出てきます。小銭は小石になります。次にはビール瓶になり路端のゴミ箱になります。逆上する警官隊に対抗して「ゴー、ガールズ！」と号令が上がります。すると女装のゲイたちやレズビアンの勇者たちがいっせいに警官隊に歯向かいはじめたのです。道路のアスファルトが剥がされ、駐車メーターのネギ坊主も引き抜かれ投げつけられ、「反乱」はやがて数千人を巻き込んだ大暴動になりました。なにも失うもののないなにもかもを奪われていた者たちが、その夜初めて奪われたくないものに気づいて拳を握り立ち上がったﾌでした。 </p>

<p>　 暴動は、昼間はバー側がタダ酒を振る舞う酒宴となり（酒を売るのは違法でしたから）、夜には警官隊との衝突を繰り返して３日３晩続きました。これがその後に「ストーンウォールの反乱」と呼ばれるものでした。 </p>

<p>　 これがどのくらいゲイの人権運動に影響があったかといえば、ストーンウォール以前にはゲイの人権デモはせいぜい50人も集まればよかったのに、それが翌年のストーンウォール記念デモでは３千人のゲイがクリストファー・ストリートを練り歩いた、と言えばわかるでしょうか。ゲイ団体も事件前は全米でわずか50ほどしかなかったのが１年半で２００団体にも増えました。73年末までには、大学や教会や市単位などでその数、全米で合計１１００団体以上にも膨れ上がったのです。 </p>

<p>　 ところで、この「ストーンウォール」というバーのことを、この事件前に知っている著名な日本人がいました。 <br />
　 作家の三島由紀夫です。 </p>

<p>　 あのストーンウォールの反乱の１、２年前の夏だったそうです。日本からやってきた三島にそこで出遭った、現在はニューヨーク大学で映画研究コーディネーターを務めるジェレマイア・ニュートン氏（50）に話を聴きました。 <br />
　 三島は当時のニューヨーク文壇の関係者らと数人でヴィレッジに来ていました。まずジュリアスというゲイバーで軽く飲み、それから隣りのブロックのストーンウォールに向かいました。しかし三島はその入口チェックで入店を断られたそうなのです。 </p>

<p>　 「日本の偉い作家なんだって一生懸命説明したが、あのころアジア人なんてだれも鼻にもひっかけなかった。人種差別もひどい時代だったから」とニュートン氏。 日本学者フォービヨン・バワーズが、三島の自決直後の70年12月３日付ヴィレッジ・ヴォイス紙に追悼文を寄せています。そこに「ある夜、三島はただセックスだけのために渡米してきた。一緒に食事をとり、私に細かく自分の求める相手を描写したあと、ともにダウンタウンのゲイバー巡りをした」と書いてあるのも、おそらくニュートン氏の語るのと同じ夜のことだと思われます。白いスーツを着て意気込んで向かったその夜の三島の男漁りは、バワーズによればけっきょく虚しかったそうですが。 </p>

<p>　 三島とストーンウォールとのこの背離は、いまから思えばとても象徴的です。三島は自分が入店を断られたあのゲイバーからその翌年に画期的なゲイの人権運動が始まっていたのだとも知らぬままに死んでいったのでしょう。日本では同性愛は多く情緒的批判者から右翼思想や天皇制と結びつけられエセ病理学的にも揶揄されてきました。つまりオカマはオカマのままだったわけです。が、ここアメリカではオカマは次第に誇り高き「ゲイ」になっていきます。それは民主主義と結びつく運動です。６月の「ゲイ・プライド」とはそういう意味なのです。民主主義にはなんらの感情移入もできなかった作家三島由紀夫は、その意味でストーンウォールとは無関係です。彼はゲイではなく、ただのヘンタイ男色者として死んだのでした。もちろんここでいう「ヘンタイ」とは、自分が同性愛者であることを恥じている、その「恥」の意識の変態性を指しています。 <br />
（続く）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_9.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:07:53 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『We Are Everywhere』</title>
         <description><![CDATA[<p>　先日、ＡＰ通信が興味深いニュースを流しました。テキサス州議会ただ１人のオープンリー・ゲイ（ゲイであることをべつに隠したりしていない人を「オープンリー・ゲイ」と呼びます）の議員グレン・マクシーさんが、ある日のジョージ・Ｗ・ブッシュ州知事との会話を披露したのがニュースになったのです。</p>

<p>　 ──「知事が私の肩に手を掛けて、ぐっと顔を近づけてきてこう言うんだ。『グレン、私はきみを個人として人間として尊重している。だからわかってもらいたいんだが、これから私がゲイに関して公的に発言するその内容は、きみ個人とはなんら関係のないものと受け取ってほしいんだよ』」。</p>

<p>　 ことし４月にテキサス州議会で子供の保険法改正案が可決された際の話です。知事が同改正案の提案者でもあった彼のもとにお祝いに歩み寄ってきて、ついでにそういうことを口にしたのですね。話はまだ続きます。<br />
　──「それでもちろんこう返答したよ。『知事、あんたがゲイのやつらは子供の親としてふさわしくないと言うなら、それはあんた、つまり私のことを指して言ってるんだよ』。そうしたら知事は近くの別の議員のところに声をかけに行ったがね」。<br />
　 来年の大統領選でのフロントランナーであるブッシュ知事ならではの暴露話ですが、さて、このニュースからいろいろなことが読み取れます。</p>

<p>　 その最初はもちろんマクシー議員が意図したように共和党の反ゲイ姿勢、あるいは「そんな反ゲイ政策も一皮むけばこんなまやかしでしかない」というメッセージです。</p>

<p>　 キリスト教保守派を主要な支持基盤とする共和党はむかしから、「聖書の教えに反する」とされる同性愛者たちを「ライフスタイル」すなわち選択可能な「趣味の問題」（つまり快楽のために敢えてこうした“悪徳”を選んだ人びと）として非難していますが、もう１つは、そんな「背徳者」に対して「個人」的には「尊重している」と発言したブッシュ氏の思惑です。<br />
　 氏は人柄の人としても知られていますからこれはそのまま、ほんとうに政治家としての建前と個人としての友情との狭間での彼の苦衷を察してくれという意味だったのかもしれません。あるいはもっとうがった見方をすれば、そんな共和党候補でも最近のゲイたちの政治力の増大は無視できず、それを牽制する意図があったかもしれないということです　　　　　<br />
　 ゲイの政治力というのはそれほどに強いものなのでしょうか？　日本のメディアでは同性愛者に関するニュースはほとんど皆無です。取り上げられる同性愛者はお笑いやスキャンダルの対象だったりするだけで、したがって「日本には本当のホモはいない」と本気で思っている人も少なくありません。「エイズは外国人の病気で日本人だったら感染しにくい」と思っている人さえまだいるほどですから。</p>

<p>　 ところがアメリカに住んでいると前述のＡＰ通信ばかりかニューヨーク・タイムズ、ＣＮＮといった主要ニュースメディアにゲイの話題が登場しない日はありません。</p>

<p>　 1999年８月のゲイ関連のニュースには▽ジェニー・ジョーンズ・ショーでのゲイ殺人事件の再審詳報▽宗教界でのゲイ容認の動きとそれへの抵抗▽ゲイ向けの広告が増加中という話題もの▽米軍でのゲイ兵士殺人事件続報▽国防総省が兵士たちにゲイ容認教育を行うとの方針▽ボーイスカウトでのゲイ差別禁止判決−−など、ＡＰやロイターで１日平均10種類ほどものニュース配信がありました。</p>

<p>　 その中で目に付いたのがやはり大統領選にらみの共和党の動きです。前回のドール共和党での大統領選挙の際には同党がゲイからの献金を返還したということが大ニュースになりました。が、今回は同党も早々と「ゲイからの献金歓迎」という声明を出したのがニュースになっています。</p>

<p>　 「ゲイが共和党に寄付？」と思われるかもしれませんが、カトリックにも隠れゲイの司祭がいるくらいです、同党非公認ながらも全米で１万人以上の会員を持つ「ログキャビン（丸太小屋）・リパブリカンズ」という名前のオープンリー・ゲイの共和党員組織があるのです。前述したようにここは94年の中間選挙で共和党候補に計20万ドルの政治献金を行っていて、96年にもドール候補に寄付をしたらそのカネを突き返された。もっともドール候補はその後に平謝りに謝りましたが。ゲイの共和党議員だっています。最近も「実はゲイだった」とやっとのことで告白した上院議員もいました。<br />
　 オレゴン州議会でオープンリー・ゲイの共和党議員チャック・カーペンター氏は「ゲイで共和党員だなんて、しばらくはまるでナチス党員のユダヤ人みたいに思われてたがね」と回想しています。</p>

<p>　 ところで具体的に、いったいゲイというのはどのくらいの政治勢力なのでしょう？　ニューヨークタイムズによれば、前回96年の大統領選出口調査で、じつは５％もの人たちが自分のことをゲイであると明らかにしています（ゲイというのはレズビアン女性のことも含む用語です）。これは全米のヒスパニック系の投票翼窒ﾆほぼ同じです。またユダヤ系と比べても２倍近い数字でもあります。</p>

<p>　 さらに考慮しなくてはならないのは、ここで５％というのは、自分で自分をゲイだと言える人たちだけの割合だということです。いまでも抑圧や差別の多いキリスト教社会では、自分をゲイだとはっきり言えない人たちがその陰にそれこそごまんと控えています。すると、ゲイというのは潜在分を含めてやはりかなりの勢力になる。</p>

<p>　 しかもゲイと自称している人たちはもちろん自分たちの置かれている政治的状況にきわめて敏感な人たちでもあります。ゲイであることに誇りと自信を持っている人たちです。それは例えば、ゲイ人権団体から寄付を呼びかけるダイレクトメールが届いたら、ほかのどの社会層よりもはるかにそれに呼応する人たちの数が多い、ということでもあります。アメリカのゲイ団体の集金力は、一時期のエイズ関連寄付の多さとともに特筆に値するものです。</p>

<p>　 ちなみに７月中旬、民主党の筆頭大統領候補ゴア副大統領はゲイ団体から15万ドルの寄付を受けました。<br />
　　　　　<br />
　 このゲイのネットワークはかなりのものです。おまけにこれは人種などほかのマイノリティ層と異なり、すべての人種、すべての民族、すべての職種、すべての階級、すべての地域、すべての宗教、すべての（思春期以降の）年齢層を横断するネットワークなのです。こういうカテゴリーは人類史上、ゲイ以外に存在したことがありません。</p>

<p>　 いや、そうとも言えないか……あえて言えば「左利きの人」とか「太った人」とか「近視の人」、逆に言えば「目のよい人」「かっこいい体型の人」とかいうカテゴリーも同じですね。こういうのはたしかに地球上のどの層にもどの時代にも存在する。<br />
　 話は横道に逸れますが、例えば知識人や芸術家にゲイが多いという“俗説”があります。たしかにチャイコフスキーやヘンデルなど歴史的に同性愛者の大音楽家はいますし、近場ではレナード・バーンスタインなどもゲイでした。画家のフランシス・ベイコンもゲイでしたし、哲学者のミシェル・フーコーとかヴィトゲンシュタインもそうですね。みんなが知っているウォルト・ホイットマンやテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティなど、作家業にもたくさんゲイはいます。『ファルコナー』を書いたジョン・チーヴァーも同性愛者だったことを実の娘が彼の死後に明かしています。</p>

<p>　 しかしだからといって芸術家にホモセクシュアルが多いとは言えない。たまたま有名人だから同性愛者だと暴露される率が多いというだけの話かもしれないし、たとえば芸術家とはちょっと違うかもしれないけれど「ヘアメイク・アーティストってゲイが多いですよね」と同意を求められても私には「そうとも言えないんじゃないか」としか答えられません。「だってゲイの人って美的感覚に優れてるっていうじゃないですか？」と返されたりしますが、そういうのは才能もあるけれど基本的には努力した結果の獲得形質であって、抑圧のある社会でゲイの人がしっかり生きていきたいと願うときに、美的感覚とか芸術的技術とかそういうものを糧にしてしか生きられなかった、だから努力した、そういうことの単なる結果なのかもしれませんよね。</p>

<p>　 つまり芸術家とか美的感覚を必要とする職業とかというのは、「ゲイだからなれた」のではなく、もともとの自分の美的・芸術的感覚と才能とをよりよく培っているかどうかの問題であって、それはむしろ「ゲイでもなれた」ということだったのではないかと思う。知識人だって成就の条件はゲイネスではなくてその知能と精進ですし。</p>

<p>　 いずれにしてもどこにでもどの時代にでもどの層にでもゲイはいます。「オンナっぽいやつ」だけがゲイだ（レズビアンの場合はその逆です）と思ったら大間違いです。「オンナっぽい」とゲイだとすぐ知られるかもしれませんが、この世にはそれと同じ分だけ（あるいはそれ以上に）「オトコっぽい」ゲイもたくさんいます。彼らは「オトコっぽい」分だけ周囲に気づかれずに済んでいるだけの話で、ひょっとするとコソコソしている分だけ「オンナっぽい」ゲイたちよりも「オトコっぽくない」のかもしれない、という面白い逆説まで読み取れたりします。　　　　</p>

<p>　閑話休題。さてそのような強力なゲイのネットワークは最初から存在したたわけではもちろんありません。<br />
　 前回の『三島由紀夫のストーンウォール』でも紹介したように、ゲイたちが政治意識を持って本格的に活動を始めたのは1970年代に入ってからです。72年の民主党の党大会から同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。そのときはゲイとレズビアンは差別撤廃の対象とはなりませんでしたが、ウォルター・クロンカイトは当時のニュースで「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。</p>

<p>　 さすがです。やはり彼は一級のニュースマンだった。日本のジャーナリストで同性愛のことを揶揄や嫌悪なく普通の顔で普通に話題にできる人はＹ２Ｋを迎えようとする現在でさえも数少ない。</p>

<p>　 もちろんジャーナリズムの中にもゲイは同じ割合だけいます。90年には「全米レズビアン＆ゲイ・ジャーナリスト協会（ＮＬＧＪＡ）」という組織もできました。ＮＹタイムズやウォールストリート・ジャーナルといった大マスメディアの記者たちから大学でジャーナリズムを専攻している学生まで、もちろんＴＶジャーナリストも含めて現在は全米で1000人が会員です。中にはピュリッツァー受賞ジャーナリストもいます。</p>

<p>　 さて、これがゲイたちが「We Are Everywhere（私たちはどこにでもいる）」と豪語する実態です。<br />
　 かつて同性愛者であることは最高の脅しのタネでした。だから同性愛者たちは国家機密に関する職には就けなかった。しかしこれは簡単なことです。同性愛が秘密でもなんでもなくなれば済むことなのですから。クリントン政権では、ゲイネスがすでに恥ではなくなったという認識のもとに今年こうした国家公務員のゲイ排除の職種差別も撤廃しました。<br />
　 日本の朝・毎・読・日経・産経・東京・共同・時事、及びすべてのテレビ局、そのいずれの組織にも私が個人的に知っているゲイの記者がいますが、ゲイであると知られるのを怖がってひた隠しに隠している人がほとんどです。それは傍で見ていてかわいそうなくらいです。優秀な記者も少なくないのですが。</p>

<p>　 ゲイのジャーナリストも、じつはゲイであることを隠しているほうが逆に危ないのです。隠すからそれをネタに脅すやつがいる。前回も書きましたが、「隠す」という行為はそれほどまでに不健康で危険なことなのです。<br />
　 わかっているけど……彼らはそう言います。それほどまでにホモフォビアの呪縛は厳しい。次回はそのあたりを説明しましょう。<br />
（続く） </p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/we_are_everywhere.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:06:35 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『男社会のホモフォビア』</title>
         <description><![CDATA[<p>　1999年９月５日付ニューヨーク・タイムズ日曜版に、元大リーガーでサンディエゴ・パドレスを最後に96年に引退したビリー・ビーン氏（35）の大型インタビュー記事が掲載されたのに気づいた人もいらっしゃるでしょう。ビーン氏はこの夏、自分がじつは同性愛者だったとマイアミ・ヘラルド紙のインタビューで明かしました。今回のＮＹタイムズの記事はいわばその掘り下げ詳報ですね。 </p>

<p>　 前回、同性愛者がどこにでもいるということを書きましたが、それは「男らしさ」が支配するアメリカのスポーツ界でも同じです。しかしじつのところ、スポーツ選手で現役時代に自分がゲイだと公表した男性は、いままでにただ１人、フィギュア・スケートのルディ・ガリンド選手しかいません。女性のほうはテニスのマルチナ・ナヴラチロヴァやゴルフのマフィン・スペンサーダヴリン、自転車のミッシー・ジオーヴらがいるのですが。 </p>

<p>　 ただし現役引退後にゲイだったと公表した男性選手はかなりいます。フットボール界でもデヴィッド・コペイやロイ・シモンズがそうでした。飛び込みの連続五輪金メダリスト、グレッグ・ルゲイナスもゲイでした。レッドスキンズのタイトエンドだったジェリー・スミスは86年にエイズになって初めて自分がゲイだったと打ち明け、その７週間後に亡くなりました。 <br />
　 現役時代にカムアウト（ゲイであることを公表することをこう言います）するのが難しいのは、とくにチームスポーツで著しいようです。それはもちろんチームメイトたちからの拒絶を恐れてのことでしょう。仲間から嫌われてはチームスポーツは成立しませんから。 </p>

<p>　 ビリー・ビーン氏はメジャーリーグでの９年間を「片足は大リーグに置きながらももう片足ではバナナの皮を踏んでいるような気持ちだった」とタイムズの記事の中で述懐しています。それを裏打ちするように、同紙での他選手の反応の１つにヤンキーズのチャッド・カーティス外野手のコメントも載っていました。「このロッカールームの全員にアンケートをとったら、きっとみんな、だれかチームメイトの１人が自分のことを（性的に）品定めしてるなんて、考えるだけでもいやだと答えるだろう」。 </p>

<p>　 これはじつに「男性」的な感想でしょうね。いつもは女性を「性的に品定め」してはばかることない男性異性愛者たちが、自分たちが「品定め」されることになるなどとは思いもしなかった、あるいは思いもしたくない。なぜなら、そんなふうになったら彼の拠って立つところの「世界と歴史の主人公」たる「男性」性が否定されてしまうからです。さまざまな物語の中でいつも「主語」として君臨してきた自分が、その同性愛者のテキストの中ではいつのまにか「目的語」になって存在する。そのことへの恐怖。それはまさしく男性としての「主体性」を揺るがす大問題なのです。 </p>

<p>　 しかし、それにしても同性愛者はただそんなことだけでほかの男性異性愛者たちの脅威なのでしょうか？　「主語」とか「主体性」とか、そういう“哲学”的な話題のほかに、じつはとても興味深いデータがあります。</p>

<p>　 「同性愛」という言葉を聞いてふつうでなく反応してしまう人たちがいます。これを心理学者のジョージ・ワインバーグ博士が72年に「ホモフォビア（同性愛恐怖症）」と名付けました。高所恐怖症とか閉所恐怖症とか広場恐怖症とか、そういう一連の恐怖症の１つです。むろんこの場合、治療の対象は高所や広場でないのと同じように同性愛ではありません。治療の対象は同性愛をそうやって病的に嫌悪する人たちのほうなのです。 </p>

<p>　 さて、そのホモフォビアの研究で米国の学会誌「異常心理ジャーナル」が97年にジョージア大学の研究者の実験を紹介しました。 <br />
　 実験は異性愛者を自称する被験男子学生64人を対象に、まず彼らを同性愛を嫌悪する者とべつに気にしない者たちとに分類して行われました。それで何をどうしたのかというと、その彼らのペニスに計測器を装着して、双方のグループにともに男同士の性交を描いたゲイ・ポルノのヴィデオを見せたわけです（すごい実験ですよね）。すると２グループの勃起率に明らかな差異が認められました。 </p>

<p>　 なんと、ホモフォビアの男子グループの80％の学生に明らかな勃起が生じ、その平均はヴィデオ開始後わずか１分でペニスの周囲長が１センチ増大。４分経過時点では平均して１・25センチ増になったというものでした。 <br />
　 対してホモフォビアを持たない学生では勃起を見たのは30％。しかもその膨張平均は４分経過時点でも５ミリ増にとどまったのでした。 </p>

<p>　 これはいったい何を意味しているのでしょうか？ <br />
　 この実験結果に通底する事例をインターネットのニューズグループの書き込みにも見ることができます。ゲイの話題を扱ったニューズグループの書き込みの中に、毎日必ずといってよいほどゲイたちを罵倒する言葉がアップされています。彼らは同性愛者たちを「異常」「病気」「変態」と罵り、「地獄に堕ちろ」とか「銃で撃ち拾してやる」とか書き込んでは素性を明かさずに消えていきます。 </p>

<p>　 ニューズグループというのはもとよりあるテーマでの情報交換を目的に開放されたネット上の架空空間ですから、したがって同性愛に関するグループにはほんらい同性愛者たちしかアクセスしません。そんなにも同性愛が嫌いな輩が、わざわざそんな場所を調べ出してアクセスしては貴重な時間まで費やして１件１件「ホモ」たちの書き込みを読み写真をダウンロードし、ヘドが出るとかいった感想や憎悪の殴り書きをしては立ち去っていくのです。 </p>

<p>　 この執拗さはどう考えても普通じゃない。 <br />
　 さて、なんとなくホモフォビアの正体がわかってきたでしょう？　つまりホモセクシュアルを嫌悪する男性に限って、じつはホモセクシュアルのことが気になって気になってしょうがないのだということ。もっと言ってしまえば、彼らはホモセクシュアルなことに性的に興奮すらするのだということです。 <br />
　 そうです。同性愛者の存在は、異性愛者たちの内なる同性愛性を目覚めさせてしまうという意味でも大きな脅威なのです。ホモフォビアとはつまり、自分の中の無意識のホモセクシュアルな欲望への否定なのです。この解釈は実にフロイド的ですね。 </p>

<p>　 フロイドは人間はもともと両性愛的に生まれてくると指摘しましたが、たしかにまったく「ホモっ気」がなければ「ホモ」のことなど気にもならないし「ホモ」から「性的に品定め」されても動じる必要などありません。「ホモ」の話題でぎゃーぎゃー騒いだり罵ったりする男ほど“怪しい”とすれば、なんだか世の中の男性はみんな「隠れホモ」みたいに見えてきそうです。 <br />
　 じつはそういう状態を表す言葉も社会学とジェンダーの学問領域からすでに生まれています。「ホモソシアル」という形容詞がそれです。日本語にするのはなかなか難しいのですが、要するに「男同士が社会の中で徹底的にツルんでいる状態」をイメージすればよいでしょう。日本語にはなりにくいがその意味するものはとても日本的な男たちの光景でもありますから、私たちにもけっこう容易に理解できるのではないでしょうか。このホモソシアリティには大きな特徴があります。 <br />
　 １つは、ホモソシアルな関係というのは精神的にはとてもホモセクシュアルな関係なのですが、じっさいにはホモセクシュアルを極端に忌避するというものです。男同士ツルんでいても、ホモじゃないぜ、ということを見せつけるために異常な強さで同性愛的なものを排斥するわけです。 </p>

<p>　 忌避されるのはホモセクシュアルだけではありません。じつはホモソシアルな男性中心社会では、女性もまた彼らの異性愛性を証明するアリバイ的な道具でしかありません。ときには女性たちは男同士の絆の強さを示す、あるいはその絆を補強するだけのために、当の男たちの間で通貨のように交換されたりもするのです。それは男同士の付き合いのときにたとえば単なる「お茶くみ」に変身させられるどこかの奥さんとか、もっと極端に言えば同じ女性と寝たと言って「アナ兄弟だな」とか言って喜ぶ男どもなどに如実に現れています。 </p>

<p>　 つまりホモソシアルな社会というのは、そうした権力の中心にいる男性異性愛者以外の者たちにとってはたいへんな抑圧装置として働くということです。ゲイのことを考えることは、じつはそんな非情なシステムの在り方を変えていこうという試みでもあるわけなのです。 </p>

<p>　 スポーツ界というのはそうした「男らしさ」の権化の世界でもありますから、ホモフォビアが強いのもまあ頷けはします。そういえば「男の世界」である軍隊もまた似たようなメカニズムですね。米軍のホモフォビアはとても有名で、例の「（ゲイであることを）聞かない、言わない」原則はほとんど機能していません。ついでに言えば、軍隊にはホモフォビアだけでなく男の世界に割り入ってきた女性兵士に対する女性嫌悪（ミソジニー）さえ存在しています。まさに前述のホモソシアルの特徴そのものでしょう？ </p>

<p>　 さて、それをひっくり返そうとするゲイたちの試みの１つが「ゲイ・ゲームズ」です。82年にサンフランシスコで始まった４年に１度のこのスポーツの祭典は発足当初は「ゲイ・オリンピック」と名付けられ、その後に本家の米国オリンピック委員会に名称権の問題で訴えられて名称を変更しましたから、その騒ぎなどを記憶している人も多いでしょう。 <br />
　 このゲイ・ゲームズは以来着実に参加者を増やし、94年にニューヨークで行われた第４回大会では８日間の期間中、競技参加者は世界44カ国から１万５千人。31種類の競技が行われて観客動員50万人を記録し、アマチュア・スポーツ大会ではそれこそ本家オリンピックを抜いて世界１の規模を誇るまでに成長しました。98年にはついに海を渡ってアムステルダムで開催されました。競技出場者も２万人に膨れ上がりました。 </p>

<p>　 「男らしさ」とか「より強く」とか、そういった旧来のスポーツの価値観を捨てて、参加する楽しさを原則にしていることも最近の商業主義的五輪よりある意味で本来の近代五輪の理想的イメージに近いような印象を受けますね。 <br />
　 このゲイ・ゲームズを考えたのがメキシコ五輪で十種競技の６位に入賞した、薬学博士でもあるトム・ワデルでした。彼は68年のそのオリンピックで、アメリカの黒人人権運動の示威行為として手を突き上げて表彰台に立った米国黒人スプリンター２人への非難渦巻く中、その２人への支持声明を出したことでも知られています。 <br />
　 そんな彼も86年にエイズと診断され、翌年に49歳の若さで亡くなりました。ですが、彼の遺志はいまでもゲイ・ゲームズに結実しています。 </p>

<p>　 かつてオリンピックの名称使用をめぐって争った米国オリンピック委員会も、90年に初めてのオープンリー・レズビアンの委員を採用したころからこのゲイ・ゲームズに協力を開始しています。同委の年間スポーツ・イベントのリストにも掲載するようになりましたし、ゲームズに参加しに訪れる外国選手たちのためにビザ取得で協力してやっています。日本からももちろん毎回、何十人もの選手団が参加しています。 </p>

<p>　 でも、この世界最大のスポーツの祭典「ゲイ・ゲームズ」が日本国内できちんと報道されたという話は、例によってまだ聞いたことがありません。日本という国がじつにホモソシアルだということを考えれば、日本という国そのものが見事にホモフォビックだというのも先ほどからの論理から言って当然といえば当然なのですが……。 <br />
（続）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_8.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:05:48 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『ゲイが集まりゃ桶屋が儲かる？』</title>
         <description><![CDATA[<p>　最近、マンハッタンのチェルシー地区を歩いたことがありますか？　とくに八番街の15〜22丁目周辺です。つい数年前までは殺風景な茶色いビルの建ち並ぶだけの通りだったのですが、いまはやたらとカラフルでおしゃれなレストランやカフェが並んでいます。見ればいたるところにレインボウ・フラッグのワッペンが貼ってあったりします。 </p>

<p>　この虹色の旗はゲイのシンボルマークです。いろんな色がともに１つの美しい虹を作る、というのが、性的にさまざまな人間の多様性を受容しようという訴えのシンボルになっているのです。つまりチェルシーはいまやすっかり「ゲイな」場所に様変わりしてしまっているわけです。 </p>

<p>　「ゲイ地区」といえばかつてはニューヨークではグリニッジ・ヴィレッジでした。昔から自由人の住む「リトル・ボヘミア」として栄え、最初のゲイバー（当時はゲイという言葉はなかったので、花の名の「パンジー・プレイス」というのがゲイバーの婉曲隠語でした）も1919年にできています。この連載の初回に記したゲイ人権運動の嚆矢たるストーンウォール・インも七番街からクリストファー・ストリートをすぐ東に入ったところにあります。 </p>

<p>　しかしビレッジは基本的には住宅地域で、道路も狭く商業施設のスペースも限られています。おまけにどんどん瀟洒になって家賃も高くなり、年齢層も高い金持ちゲイしか住めない場所になってきました。ゲイたちがチェルシーに移りはじめたのはそんなころです。チェルシーはそれまで特に八番街から西ではなんだか危険な感じもする地区でした。だから家賃も安くて、だから若いゲイたちも住むことができたのですが、そうやってゲイたちが入り始めてから街はどんどん明るく安全になってきて、今ではすっかりニューヨークでいちばんトレンディーな地区になってしまいました。 </p>

<p>　そういえばサンフランシスコのカストロ地区も「ゲイの街」になってから見違えるほどきれいになりました。ウェストハリウッドもゲイ地区が最も輝いています。ケープコッドのプロヴィンスタウンやフロリダのサウスビーチ、キーウェストなど、ゲイのリゾート地は不況時でさえも賑わっていました。ゲイたちが来れば街はそんなにも様変わりするのでしょうか。 </p>

<p>　チェルシーが注目されはじめたのはちょうどストーンウォールの25周年記念イヴェントが行われ、ニューヨークでゲイ・ゲームズが開催された94年ころからです。前後してヴィレッジにあったゲイ専門書店「ディファレント・ライト」が３倍の店舗面積を求めてチェルシーに移転しました。モデルみたいなかっこいいお兄ちゃんたちがウェイターをする「フード・バー」というおしゃれなレストランが出来たのもこのころですね。そういえば「マッスル・クィーン」「ジム・クィーン」（ジム通いと筋肉造りに夢中のゲイの若者たちを冷やかしてこういいます）の変形の「チェルシー・クィーン」「チェルシー・クローン」なる言葉が生まれたのも90年代半ばころからでしょうか。まるで絵に描いたようなきれいな肉体を誇り、ぴったりしたシャツを着てブランド志向で短髪で、「かっこいい」「トレンディー」という意味から「アンドロイドみたい」「頭悪そう」「お高くとまってる」といったマイナスイメージも抱えた言葉です。 </p>

<p>　じつはゲイ男性たちのこの「筋肉づくり」は、80年代のエイズ恐怖から始まったものでした。陽に焼けた健康的な肉体は、たとえそれが人工的に作られたものであっても、あるいはそれだからこそ意志的な、エイズに対するアンチテーゼだったのです。 </p>

<p>　その作られた美しい肉体がファッションとしての単なる記号になってくるのは、エイズ危機がどういう誤解からか「薄れた」と感じられてきた時期に一致します。もちろんこの「薄れた」という感覚はエイズ患者／感染者に対する同情や思いやりが「トレンド」になったことにもよります。例の、患者／感染者への「友情・支援」を示すレッドリボンなんてものが流行りだし、そういうふうにエイズ・フレンドリーであることを「エイズ・シック（chic）」と呼ぶ傾向さえ生まれました。レッドリボンが高給宝飾店からとんでもない高額なアクセサリーとして売り出されたのもこのころでしたね。 </p>

<p>　92年ごろから94年ごろにかけてこうしてエイズ危機がファッションによって薄められて行く中、それまでエイズの汚名をまとっていたゲイたちの反撃もまた始まります。６月のストーンウォール記念イヴェントのテーマは93年には「Be Visible（目に見える存在になれ）」になりました。エイズによって二重の差別を受け、ふたたびクローゼット（ゲイであることを隠している状態）に閉じ籠もりがちになった傾向に対し、もう一度原点に戻って「カムアウトせよ」と訴える。エイズの汚名を脱ぎ捨てて、その暗いクローゼットから出てきたゲイの新世代は、エイズへのアンチテーゼではない、単なるファッションとしての美しい肉体の鎧をまとっていた、というわけです。 </p>

<p>　もちろん、これはあまりに戯画化しすぎた分析です。ゲイといっても美しくない人のほうが圧倒的に多いし（失礼！）、チェルシーの風潮が全米に通じるかといえばカリフォルニアのゲイはまた違うしという具合にそれぞれさまざまです。忘れてならないのは、エイズに苦しむゲイはエイズに苦しむ異性愛者たちと同じくいまもたくさんいるということです。 </p>

<p>　それでもこの歴史の戯画化と単純化をもう少し敷衍してみましょう。 </p>

<p>　さて、よりヴィジブル（目に見えるよう）になって元気なゲイたちを（正確に言えばそれはゆいいつ白人ゲイ男性層だったのですが）生き馬の目を抜く米ビジネス界が見逃すはずはありません。 </p>

<p>　やはり90年代に入ってから、メディアはこぞってゲイたちの可処分所得の多さを喧伝しはじめます。その先駆けとなったのはウォールストリート・ジャーナルの1991年６月18日付けの大々的な統計記事でした。米商務省国勢調査局と民間調査機関の共同調査によるその統計数字は、ゲイの世帯がアメリカの一般世帯よりはるかに年間所得や可処分所得が大きく高学歴で、旅行や買い物に多大な興味を示しているというものでした。 </p>

<p>　その当時の統計結果を少し抜き出してみましょう。 </p>

<p>　 ▼一世帯平均年収はゲイ世帯で５万５４３０ドルで、全米平均より２万３千ドル多い <br />
　 ▼米国人平均個人年収１万２１６６ドルに対し、ゲイ個人は３万６８００ドルと３倍 <br />
　 ▼大卒者は米国平均では18％なのに対しゲイでは59・６％とこれも３倍以上 <br />
　 ▼年収10万ドル以上の高額所得者はゲイで７％を占め、アメリカ平均の４倍 <br />
　 ▼回答レズビアンの２％は年収20万ドルを超え、これはゲイ男性中の比率より多い <br />
　 ▼全米でゲイ男性とレズビアン女性が獲得する所得は年間で５１４０億ドル <br />
　 ▼海外旅行経験者はアメリカ人全体では14％だが、ゲイでは65・８％ <br />
　 ▼航空会社のフリークエント・フライヤーズのメンバーも米国人全体で１・９％だった当時に、ゲイはその13倍以上の26・５％ </p>

<p>　これを知ってアメリカの大企業がゲイたちをひそかに「上客」として狙いはじめたのです。（じつはこのゲイ金持ち説というのも私には大変戯画化されたものに見えるのですが、重要なのは事実がどうかというよりも、この場合はそんなマンガにもビジネス・マーケティング界というのは乗るものだ、という、そちらの事実のほうです）。 </p>

<p>　そのときのＷＳＪ紙の見出しは「根深い敬遠を捨て、ゲイ社会への企業広告増加」。同じころに《サンフランシスコ・クロニクル》紙も「隠れた金鉱ゲイ・マーケット」と書きました。「だれもがゲイ・ビジネスに乗り出そうとしている。ストレート（異性愛者）社会の気づかないところで、一般企業までもがみんなゲイ市場になだれ込んでいる」とのマーケッターの分析コメントがニューヨーク・タイムズ紙で紹介されたのは92年３月のことでした。 </p>

<p>　90年代半ばにかけ、大企業がこうしてゲイ向けのマーケティングを本格化させていきます。アメックスは顧客の財形部門にゲイとレズビアンの担当員を置いてゲイの老後の資産形成などきめ細かな相談に乗りはじめました。アメリカン航空は94年からゲイ専門部門をつくってゲイ・イヴェントへの格安航空券の提供やゲイの団体旅行割引販売などを企画し成功します。そして95年４月にはニューヨークで初めて「ゲイ・ビジネス・エキスポ」が開かれ、チェイス・マンハッタン銀行やらメットライフ（保険）、メリルリンチ（証券）など、特段ゲイフレンドリーでもない企業の投資部門までが出展もしました。ジュリアーニＮＹ市長も開会式に出席して「ニューヨークがこの素晴らしいエキスポの恒常的な拠点都市になることを希望する」と祝辞を述べました。石原都知事がそうしたことをするとは想像すらできませんが。 </p>

<p>　つまりこういうことです。 <br />
　ゲイが集まればお金が落ちる。お金が落ちるところにはビジネスが発生する。発生するビジネスも「おしゃれなゲイ」という幻想に自らもオシャレになろうとする。するとそこにおしゃれな空間が誕生する。するとまたゲイたちが集まってくる。 </p>

<p>　なんだか「風」と「桶屋」の循環関係みたいな話です。冒頭からの話に戻れば、チェルシーという地区の変身譚はこうしたじつに90年代的なお話なのです。（もっとも、ゲイたちはすでにいま現在家賃高騰気味のチェルシーから、その北のミッドタウン最西部クリントン地区に移りはじめているそうですが）。 </p>

<p>　政治うんぬんが宗教的な思惑や偏見で煮詰まったりするときに、この企業の論理、はっきりいえば「おカネ」の論理はじつにすっきりとわかりやすい。おまけにここにゲイの投資家なんてものも登場してきますから、企業は、家族手当や扶養手当などゲイの社員を対象にした福利厚生にも目配りをしなくてはならなくなりました。なんといってもゲイの社員を差別すれば優秀な人材を逃すことにもなりかねませんし。 </p>

<p>　かくしていまやゲイ雑誌などには高級時計や自動車、ファッション企業など、ふと見ると何という高級誌だろうと思うほどの一流広告主が並んでいます。それもゲイ・メディア向けにモデルを男２人にしたり女２人にしたり、ゲイのシンボルマークのレインボウ・フラッグを飾ったり逆三角形をあしらったりと、さすがプロの仕事です。ゲイの活字メディアへの広告の出稿量も、某コンサルタント会社が統計を取りはじめて４年連続で上昇中で、昨年は対前年比20％以上も増えたことがわかっています。好況を背景に他メディアも数字を伸ばしているのですが、主要新聞の広告量は５・６％、主要雑誌は９％の伸びでしたから、単純に成長率だけ比べればとんでもない数字だとわかります。 </p>

<p>　先に私は「ゲイ金持ち説」を、これもまた戯画化されたものと書きました。簡単に理由を言えば、自分がゲイだと言える人は、自分にある程度自信を持っている人だからです（それは連載第２回の原稿でも少し触れました）。その陰に、いったいどれほど多くの、自分をゲイだと言えない人がひそんでいるか、どれほど多くの、自分がゲイであることを認めたくないと思ってしまう人が隠れているか、それを思えばゲイは一様に金持ちで美しくてオシャレで洗練されていて、などということは言えるもんじゃありません。だとすれば、この「ゲイ金持ち説」もあれもこれも全部がまた、じつはゲイの側からのとても戦略的なプロパガンダだということも疑えるわけです。 </p>

<p>　ただし、そう戦略を張り巡らさねば戦えない状況が、今もまだゲイを取り巻いて存在しているのだということは、これまでの連載でわかっていただけたのではないかと思います。その状況とはまさに、圧倒的多数を誇る異性愛者である「あなた」たちの、強制異性愛的存在そのものなのです（そんなこと言われても困ってしまいますけどね）。 </p>

<p>　そうした「あなた」たちに取り囲まれて、アメリカの青少年では同性愛を理由にした自殺が全体の30％もあります。言葉を換えれば、ゲイやレズビアンである子供たちは、そうではない子供たちより３倍も死を選ぶ確率が多いということなのです。 </p>

<p>　それを知ってもまだ「あなた」が笑っていられるのだとしたら、「異常」とはどちらを指して呼ぶ言葉なのか・・それを知っていただくだけでもこの連載を行った甲斐はあります。 <br />
（終わり）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_7.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:03:34 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『反自然的な変態は殺されるべきか？』</title>
         <description><![CDATA[<p>　先日、４回の連載が終了したばかりだというのにまたまた登場ということになってしまいました。読者の方々からの反響が予想以上に大きく、まだ書いていないことがたくさんあるとお叱りすらいただいたからです。ゲイに関することを書き始めたら本が何冊あっても足りないことは承知の上です。なお、日本のゲイのことに関する状況論・哲学論的な論考としては、わたしが全面的に監修した『ゲイ・スタディーズ』という本が昨年、青土社から出版されています。かなり本格的な（つまりは読むのがけっこう面倒な）本ですが日系書店に頼めば取り寄せてくれるでしょう。なかなか刺激的なことが書いてあって、ご自分の人生観に「揺らぎ」を欲する人には最適な本かとも思います（ちなみにお買い求めになってもわたしには一銭も入りませんからこれは宣伝ではありませんよ）。さて、今回は３回の連載です。まずは最新のホットな話題からお話ししていきましょう。 </p>

<p>　いま、日本のゲイの人たちの間でものすごく話題になっていることがあります。それは、この（1999年）９月と10月に日本のＴＢＳ系列で全国放送された「ここがヘンだよ日本人」という番組が発端です。 </p>

<p>　スタジオに日本人を50人、さらにその対面に在日外国人をやはり50人集めて、ある一つのことに関して外国人たちが日本人にいろいろと文句をつける、というのが番組コンセプトです。番組ホストが北野たけしですから、面白おかしく、しかも刺激的に、かつでき得るならばちょっと知的にといったところを狙っているのでしょう。 </p>

<p>　で、そこで同性愛のことがテーマになりました。日本人の席に集まっているのはもちろん日本のゲイとレズビアンの50人です。いままで２回にわたって激論が繰り広げられているのですが、日本人のゲイがこんなにあからさまに真剣に怒っているのが放送されたのは、おそらく日本のテレビ史上初めてのことです。そこで外国人の側から「ホモの子供が産まれたら殺す」という発言が飛び出して、スタジオが騒然となったのでした。 </p>

<p>　その発言内容を一部ですが再録しましょう。これは日本で同性愛への理解を深めようと講演や執筆活動などを行っている「すこたん企画」というゲイのサイトで聞き取り掲載したものの転載です。第２回放送の内容で、第１回で問題になった「アフリカには同性愛者はぜったいにいない」とするアフリカ人の発言から話題は始まります。司会陣にはたけしのほかにテリー伊藤やサッカーのラモス、タレントの加藤和彦らがいます。 </p>

<p>ガーナ人「（同性愛者など）いないものはいない。いないと言ったらいない」 <br />
加藤和彦「なぜ黒人差別に怒るのに、ゲイを認めようとしないの」 <br />
ナイジェリア人「（ゲイなど）見たことない」 <br />
テリー伊藤「社会的に抹殺されるから（自分がゲイだと）言えないんでしょ」 <br />
日本人ゲイの席に座る東城さんという男性「（ゲイ向け旅行ガイド本の）『スパルタカス』によれば、ほとんどのアフリカ（の大都市）にゲイバーがある」 <br />
イラン人「（同性愛という）フツーじゃないこと、なんで自慢してるの」 <br />
東城さん「魂の叫び。苦しいことを伝えてる」 <br />
米国人１「病気の人でも差別しないのに……」 <br />
パキスタン人「（病気の人は）治療受けるでしょ」 <br />
米国人１「さまざまな生活を肯定しないのは、時代遅れ」 <br />
キューバ人（パキスタン人へ）「前に日本で外国人だからって仕事上差別されたって言ったでしょ。マイノリティがマイノリティを否定しちゃいけない。キューバでも同性愛というだけで優秀なのに共産党員になれない人がいた」 <br />
パキスタン人「否定してない。ちゃんと治療受けなきゃいけない」 <br />
中国人（女）「病気じゃないけど変態」 <br />
東城さん「どこまでを変態だとして線引きするの」 <br />
ガーナ人「男と男でどうやってエッチするの？」 <br />
テリー伊藤（ガーナ人に向かって）「ケツ出せ、ケツ出しゃ、教えてやる」 <br />
たけし「人間はパンツをはいた時点で変態。繁殖期以外もセックスする人間そのものが変態」 <br />
東城さん「子どもが同性愛者だったら？」 <br />
インド人１「子どもがホモになったら殺す。男同士女同士セックスするなんて許さない。（東城さんに向かって）あなたが親戚だったらあなたも殺すよ。お尻の穴から子どもは生まれない」 <br />
インド人２も賛成。 <br />
（会場騒然） <br />
ラモス「人の命をなんだと思ってる。アンタたち、子どもを殺すのか。自分の息子を殺すのか。そういう子どもを見たくなきゃ、自殺しろ」 <br />
インド人１「自分の人生殺してるよ。殺人者だ。なんで男で女になるの」 <br />
ナイジェリア人「生きる資格ない。子ども殺す」 <br />
ラモス「オマエにそんなこと言う資格ない」 <br />
インド人２「家族や親戚に迷惑かける」 <br />
テリー「かけても守るのが親だろう」 <br />
米国人２「こういう殺してもいいという人がいるかぎり、同性愛者にはふたつの選択しかなくなる。ウソの人生を送るか安全な場所に移るかだ。アメリカでも田舎にいると殺されかねないから、みんなサンフランシスコやニューヨークへ行く」 </p>

<p>　字面だけを読んでもかなり激しい内容だということがわかるでしょう。日本人だけではこんなにあからさまなゲイ否定論は出てこないでしょうから、話題を盛り上げようという番組プロデューサーの思惑は的中したわけです。 </p>

<p>　ゲイ攻撃の先頭に立っているのはアフリカ系の人、及びインド、パキスタン人などです。とはいえこれはスタジオ内の話だけでは済みません。ちょうど同じころ、９月末にはアフリカのウガンダで大統領ヨウェリ・ムセヴェニが刑事警察局に対し、同性愛者を「忌まわしい行為」のかどで一斉逮捕せよと命じました。</p>

<p>　対してアメリカ国務省が10月15日、ウガンダ政府に強い警告を行っています。いわく「性的指向に基づく個人の逮捕及び収監は、ウガンダ国内法に定められていようがいまいが深刻な人権侵害であるとわれわれは考える。ウガンダの政府高官は自国が国際的人権宣言国の一つであることを想起すべきである。たとえそれら人権宣言及び国際協定がとくに性的指向に触れていずとも、これらへの参加は必然的に各個人の人権を尊重することを伴うものである」 </p>

<p>　ところがその数日前には今度は中国が北京の地区裁判所で同性愛を「アブノーマルで受け入れがたいもの」と近代中国史上初めて規定したというニュースが流れています。 </p>

<p>　中国は人口12億。インドも10億を突破したばかりです。アフリカ全体の人口増加も著しい。そういう中で同性愛者たちが21世紀をどう生き残れるのか、という問いには、いままでこつこつと懸命に築いてきた欧米での民主的なゲイ人権運動が、ともすると圧倒的な数の論理でたちどころにつぶされてしまうかもしれない、というまさに生命に関する具体的な危惧が潜在しているのです。ことは、ＴＢＳの番組でゲイの人たちが真剣に怒っていた以上に深刻な事態なのかもしれません。 </p>

<p>　さて、いみじくもあの番組の中では「病気じゃないけど変態」「男と男でどうやってエッチするの」「お尻の穴から子どもは生まれない」などといった発言が登場していました。こうしてみると「反自然」というのが世界的に同性愛者に対する敵対や虐待の口実になっています。これがもう少し進むと「わざわざ快楽のためにそういう反自然な性に耽溺している」という論理になります。これは宗教的な断罪にもつながります。 </p>

<p>　でもね、セックスしないゲイだっているんですよ。「快楽だなんてもう面倒くさくて嫌い」という人は、どうしてそれでもまだゲイをやってるんでしょうか。わざわざ「反自然な性に耽溺」するなんてのもけっこうしんどいはずです。おまけに人からバカにされたり場所や時代によっては懲役や鞭打ちや火あぶりまで待っていたんですよ。そうしてまでして「溺れよう」なんて思うかなあ。それもまだ性の何たるかを知らない思春期のゲイの子供たちまで。 </p>

<p>　それとも、同性愛というのがそれほどまでに「蠱惑的」だと異性愛者のあなたが考えるのなら、それはまさに性に対する「あなたの願望」を語っているのであって、同性愛者の性の実体をではない、ということになる論理の落とし穴すら待っているのです。 </p>

<p>　いえ、わたしはべつに「同性愛は自然だ」と言い張りたいわけではありません。 <br />
　 前回の連載第一回で「同性愛は人間以外の自然界を見ても異常でも病気でもない」として、その説明を省いてただ「その議論の論理的帰結はすでに定まっています」とだけ書きました。そうするとある読者の方から「説明もなしに同性愛が正しいと言われても納得できない」というご指摘をいただきました。 </p>

<p>　わたしは、「同性愛が正しい」とは言っていないのです。さらに言えば「異性愛こそが正しい」とも証明されてもいないのに、わざわざ「同性愛は正しい」ということを証明する必要もないとも思っています。 </p>

<p>　「正しい」「正しくない」といった議論にはその言葉の定義の問題とともに価値観も働きます。しかし、それ以前に、生きた同性愛者を目の前にして、正しいも正しくないもあったもんじゃないだろう、というのがわたしの第１の論点です。 </p>

<p>　これは「正しい」を「自然だ」に置き換えても結構です。その「自然」にはしばしば人間の勝手な「功利主義」が付随します。同時に中途半端な「合理主義」も働きます。それ以外のものを切り捨てるのは、じつはナチスのやり方なんですよ。気づいていましたか？ </p>

<p>　「女は子供を産むもの」というのが自然だと考えれば、不妊症の女性は生きている価値がなくなります。「男は子供を産ませるもの」だから、無精子症の男性はバカにされて当然とお考えですか？　それとまったく同様の論理で、五体不満足な身障者は「自然」ではないから殺すべきですか？　いったいどこからどこまでが「普通」ですか？　あなたの身長は「普通」ですか？　あなたの年齢は「普通」でしょうか？　肝機能やら視力やら「普通」ではない年寄りは捨ててもよいのですか？　いったい、だれが「自然」なのですか？　あなたはその基準を適用しても自分は排除されないという自信がありますか？　そして、自信があるならほかの人間はどう排除されてもいいとお考えですか？　それが、たとえば、たまたまあなたの愛してしまった人だったとしても？ </p>

<p>　その意味で「人間はパンツをはいた時点で変態。繁殖期以外もセックスする人間そのものが変態」と北野たけしがあの番組で言っていたことはとても「正しい」のです。論理学で「前提が偽なら結果はすべて真」という定理がありますが、人間の存在がそもそも「反自然の変態」なら、やってることはどうせみんな「どうでも正しい」のかもしれません。もっとも、それでも「殺せ」と叫ぶ人は後を絶たないのですが……。 </p>

<p>　「神はアダムとイヴをお造りになった。男と男をではない」というのが例の同性愛者逮捕令を出したウガンダの大統領ムセヴェニの弁です。 </p>

<p>　そのウガンダの首都カンパラの有力紙に最近、ゲイ読者からの匿名の投書が初めて掲載されました。「同性愛も自然なことだとは、あなた方の偏見の中では思いも寄らないでしょう。しかし必要な科学的根拠抜きにそれを反自然だとしてしまう意見こそ、じつはとても疑わしいものなのです」。投書氏は問います、「警察は、オーラルセックスやコンドームを使用している人たちをも、自然に反した肉欲に走っている者たちとして逮捕するつもりですか？」 <br />
（続く） </p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_6.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Sat, 02 Dec 2006 00:00:52 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『目に見える暴力、見えない暴力』</title>
         <description><![CDATA[<p>　「ビレッジを歩いているとびっくりさせられるあるビルボードに出くわす。それは２人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっているどでかい写真だ」「クリストファーストリートの周辺などにはゲイのパーティーを知らせるあからさまなポスターが街角のあちこちに貼ってあるし、ニューススタンドの店先には男性のヌード雑誌が見事なほどずらりと並べられている」「アメリカではゲイの人口が全体の10％を越えたといわれておりゲイの人たちの人権も確立されつつある」 </p>

<p>　さて、これらの文章はじつはわたしのこのＯＣＳの連載を読んで、東京のあるテレビプロダクションが「ニューヨークのゲイの世界をドキュメンタリーで放映したいのだがいろいろと教えてくれないか」と言ってきたときの、彼らの事前に用意していた台本の一部です。 </p>

<p>　わたしは頭を抱えてしまいました。「参考までに」と渡されたこのスクリプトを、彼らの思考回路を測るための、本当に参考にしてもよろしいものなのか？ </p>

<p>　じつはこういうことは以前にもかなりの頻度でありました。若い人たちにとても人気の『地球の歩き方』というガイドブックがあります。たとえばつい数年前まで、この本にはグリニッジビレッジが「クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」というふうに描写されていました（さすがに現在の版ではこうした物言いは削除されていますが）。 </p>

<p>　これらの表現を「ヘンだ」と感じないとしたら、あなたはかなりヘンです。ゲイの街として「有名になってしまった」と書くときの、その、わかったふうな道徳顔。「２人の男性がいちゃいちゃ寝そべって」とか「あからさまなポスター」とか、そんな非難がましい語句をなんの抵抗もなく書き連ねられる神経。 </p>

<p>　この２つの根っこにあるのはおそらく同じものです。つまり「自分たちの読者／視聴者にはゲイはいない」という妄信です。だから、極端に言えば「どんなことでも言える」。だって、あいつらはいつもどこかほかの場所にいて、ここでこんなものを読んだりはしないんだから。 </p>

<p>　それが「アメリカではゲイの人口が全体の10％を越えたといわれており」という表現につながります。 <br />
　そう、アメリカではホモが10％以上もいる。日本では考えられないことだ。 </p>

<p>　そうなんですか？　と思わず電話口で訊いてしまいました。するとディレクター氏は「え？　なんせデータがないもので」。 </p>

<p>　データがないのにこの人はアメリカと日本の同性愛者の比率は違うと、なぜか（データもないくせに）決めてかかっているのです。 </p>

<p>　「自分たちの読者／視聴者にはゲイはいない」という妄信は、すなわち自分の知ってるやつには同性愛者などいないという無意識の思い込みにもつながります。いちばん最初の連載でも書いたことですが、同性愛者たちは隠れるのが得意です。隠れることに真剣です。そんじょそこらのことじゃ正体なんか見せてはやらないと思っているほどに。 </p>

<p>　で、じつはある程度の確率で、あなたの周囲にいた、これまで最もやさしく寛大で、あなたのことをいつも好きでいてくれた友人のだれかは、おそらく同性愛者です。そしてあなたはそれに気づいていない。気づいていないばかりか彼／彼女を、傷つけるようなことを（なにげもなしに）あなたはしてきた。 <br />
　でも安心してください。彼／彼女はあなたのその無神経さをあらかじめ赦してすらくれていますから。 <br />
　　　　　　 ＊ <br />
　そんな例を、わたしたちは今月（1999年11月）のある裁判で知ることができます。 <br />
　それはいまからちょうど１年ほど前、ワイオミング州ララミーという町で、１人の同性愛者の大学生が殺された事件の裁判でした。 </p>

<p>　殺された青年はマシュー・シェパードといいます。21歳でした。マシューは大学でもオープンリー・ゲイで通していました。身長１５６センチ、体重52キロの小柄な彼はしかしゲイバッシングの格好の対象だったようで、何度かいじめにも遭っています。その彼が昨年10月、地元のバーから「自分たちもゲイだ」とウソをついた２人の若者に連れ出され、ひとけのない牧草地の柵に十字架の形で縛り付けられ殴りつけられ、20ドルを奪われた上に零下の現場で意識不明のまま放置され、通行人の発見から５日後に、いちども意識を取り戻さないままに死亡したのでした。拳銃の銃座で18回も殴打された彼の頭蓋骨は陥没し、血が乾くよりも先に凍りついた彼の頬には、発見時に、涙の跡だけが白かったといいます。 </p>

<p>　犯行の動機は、マシューがゲイであったことです。犯人の１人はすでにこの４月に２回の終身刑を言い渡されました。残った主犯のアーロン・マッキニー（22）にも今月４日、死刑だろうという大方の予想を裏切って同じく終身刑２回が言い渡されました。 </p>

<p>　じつはこのマッキニーが死刑に処されるべきかで、米国のゲイたちの世論は見事なほどに真っ２つに分かれました。死刑に賛成は42・９％、反対は44・４％。米国の死刑賛成派は通常60％とか70％に上ります。ところがゲイたちは「それでも殺すな」と言っているようなのです。 </p>

<p>　べつに怒っていないわけではないのです。むしろゲイたちはものすごく怒っている。マンハッタンに住んでいる方なら去年1998年、この事件が起こった後のプラザホテル前でのマシューを悼む「祈りの夜」にゲイやレズビアンら５千人もの人たちが集まり、それが結局はデモ届けをしていないということで規制を行おうとしたＮＹ市警との間で久々の暴動騒ぎにまで発展したことを憶えているかもしれません。 </p>

<p>　このところ社会的容認度も増えたかのようで脳天気に構えていたゲイたちが、本当に久々にマジに怒ったのがこのマシューの事件でした。でもその犯人をすら「殺すな」と言うゲイたちがいる。 </p>

<p>　終身刑の判決後、マシューの父親が次のような声明を発表しました。 <br />
　「私はきみが死ぬこと以上にふさわしいことはないと思っている、ミスター・マッキニー。けれどもいまは癒しの始まりの時だ。いまはいかなる慈悲も示そうとしなかった者にも慈悲を与えるときだﾉﾉミスター・マッキニー、私はきみに命を許す。そうするのは私にはとても難しいことだが、それはマシューの遺志なのだ」 <br />
　マッキニー被告の死刑回避を働きかけたのは、じつは、マシュー・シェパードの両親でもあったのです。 </p>

<p>　わたしのあるゲイの友人の１人も、たとえマッキニーに死刑判決が出ても、あるいは出たとしたらそれだからこそ、死刑減刑の嘆願がゲイたち自身から起きていたかもしれないと言います。それこそがむしろ「殺すな」のメッセージなのだ、という意味を込めて。 </p>

<p>　そういう話を聞くと、わたしは人類にゲイという心強くやさしき人たちがいることがとても大きな誇りに思えてきます。人間もまだ捨てたもんでもないというような、そんな気になります。でも、彼らより、彼らを殺そうとする人間のほうが目立つのもまた事実なのです。ゲイだからという、そのことだけで殺される人はいまでも後を絶ちません。それが現在の民主党の、性的指向までをも視野に入れた連邦規模での「ヘイト・クライム（憎悪犯罪防止法）」法案の成立努力につながっているのです。 <br />
　　　　　　 ＊ <br />
　さすがに日本には、このマシュー・シェパード事件のようなことはありません、と書ければよいのですが、わかりません。なぜなら、表だった暴力は見えないかもしれませんが、表だたない暴力なら同じように蔓延しているからです。アメリカでは５時間に１人の割合で思春期の同性愛者が自殺すると推計されています。ある１つの命を救うために、私たちに与えられた時間はたったの５時間もないということです。 </p>

<p>　では日本ではどうなのか。残念ながら思春期の少年少女の自殺の原因に、「同性愛」があるということすら日本では認識されていません。だってほら、「同性愛」とか「エイズ」とかって、「外国のもの」ですから。 <br />
　　　　　　 ＊ <br />
　95年の春に、日本の新聞各紙に、関東地方のある男子中学生の自殺記事が掲載されていました。ある新聞は動機について「日記に『好きな相手に冷たくされた』などの記述」があったと書いてありました。そこで別の新聞を見るとそこにも「日記に恋愛についての悩みが書かれており」とありました。 </p>

<p>　この時代、思春期の恋破れくらいで自殺するとははて面妖な、とも思いつつさらにまた別の新聞を開くと、そこには「残された日記には男の友達に冷たくされたと思い込み、悩んでいる心境がつづられていた」とあったのです。 </p>

<p>　それぞれに、なにかを記述することを回避するようなキーワードを束ね合わせれば、「冷たくされた」「好きな相手」が友情ではなく「恋愛」の対象で、さらに「男の友達」だったﾑﾑという新聞報道、あるいは警察発表がどこまで、またどれほどの事実なのかは、当時、わたしはそれ以上を確認しませんでした。したがって自殺した当の男子中学生その子本人が同性愛者だった、とは、ここでは言いません。 </p>

<p>　しかし、同じような子で同性愛者の子は必ずいるでしょう。彼は、ちまたに蔓延する「２人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっている」といった何気ない言説の積み重ねによって、「同性愛」というものが非難されるものであるという思いを募らせるのです。そしていやがおうにもやがてその重みにつぶされる。 </p>

<p>　日本にはゲイに対する目に見える暴力がないだけマシだと言う人がいます。そういう問題ではありません。目に見えようが見えまいが、暴力なんぞ両方ともまっぴらだということなのです。 </p>

<p>　頭を抱えているだけではだめなのでしょう。かのディレクター氏らのそんな暴力的な「同性愛」観をこれ以上たれ流しにさせないためにも、わたしは冒頭のテレビ番組の監修を引き受けるべきなのかもしれません。頭を抱えたくもなります。 <br />
（続く）</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_5.html</link>
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         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Fri, 01 Dec 2006 23:56:40 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>『いまさら訊くのも恥ずかしかったこんな質問への回答』</title>
         <description><![CDATA[<p> 　とうとう今回が最終回です。いろいろごたくを並べてきましたが、先日、読者の方から、じつは同性愛についてまだ肝心の、ほんとに基本的なところがよくわからない、と言われました。「肝心なところ」はやはり最後に書きましょう。いろんな面倒臭い話を知った上で「基礎知識」に触れるというのもいいですよね。というわけで、最終回はＱ＆Ａ形式で進めます。 <br />
　　　　　　 ＊ <br />
Ｑ　ホモとオカマとゲイは違うんですか？ </p>

<p>Ａ　これらの言葉が指示しているものはどれも同じもの、つまりは同性愛者です。 <br />
　 よく「オカマは女装してるホモのこと」とか「着流しや着物を着ているやつ」とか「ホモは男の格好のままのオカマ」「ゲイはファッショナブルで知的」とか、わけのわからん分類をする人が同性愛者の中にもいますが、それらはみんなブルシットです。 </p>

<p>　 差があるとしたら侮蔑語か侮蔑語でないかの違いです。 <br />
　 ホモはホモセクシュアルの短縮で、英語で「Ｈｏｍｏ」と口にしたら（付き合う人たちの質にもよりますが）ＮＹなどでは口にしたあなたのほうが人格を疑われる確率が高いでしょう。日本人だから人権意識が低いのだと大目に見られるかもしれませんが、それはあなたの知性や品性に関わる評価となるはずです。 </p>

<p>　 ホモと同じ侮蔑語は英語ではクイア、ファゴット（ファグ）、フェアリーなどがあります。これらも自称でない限り（つまりあなたがゲイでない限り）口にしないほうが無難です。口にするときは同性愛者を罵倒するのだという明確な意思を持ってください。 </p>

<p>　 オカマというのは日本語で「尻」の俗語です。肛門性交から連想された言葉で、「ケツに入れられるヤツ」という意味。ですからこれも侮蔑語です（なぜ侮蔑になるかはかなり複雑な問題ですのでここでは省きます）。日本でも最近はこの「ホモ」「オカマ」をマスコミがほとんど使わなくなりました。90年代後半からの変化です。日本の同性愛者たちがけっこう「うるさく」なってきてすぐ抗議したりするので、マスメディア側が「触らぬ神に祟りなし」で自主規制したのです。で、みんな「ゲイ」になってしまいました。どんなにバカな扱いでも、まるでゲイとさえ呼んでおけば問題はクリアできるとでも思っているかのように。 <br />
　 たしかに「ゲイ」はもう侮蔑語ではありません。ゲイたちが自分たちを示す言葉として選んだのが「ゲイ」です。 </p>

<p>Ｑ　ゲイは女装したいと思っているんですか？　女になりたいんでしょうか？ </p>

<p>Ａ　同性愛と異性装は次元の異なるものです。もちろん、ゲイ男性の中には女装者もいますしゲイ女性にも男装者がいます。しかし、それは異性愛者も同じで、異性愛男性にも女装願望を持っている人や実践者がたくさんいます。 <br />
　 服や化粧というのは教育や環境によって後付けとして構成された文化的な性（ジェンダー）差です。ですからそのトランスジェンダー（ジェンダー転換）願望のどこまでが先天的な性指向と関係するのか、どこまで後天的な性嗜好から発展したものなのかはじつはよくわかっていません。 <br />
　 いずれにしても「同性愛者は女装／男装したいと思っている」のではなくて、女装／男装者は同性愛・異性愛の差なく両者にともに存在するということです。 <br />
　 男性の肉体を持って生まれたひとが「女になりたい」と願うのは、文化的な装いの性、つまりジェンダーとともに、肉体的な性、つまりセックスを変えたいということですからこちらは厳密にはトランスジェンダーよりもトランスセクシュアルという言い方をすることがあります。これも同性愛とは別次元で考えるものです。同性愛とは愛する相手のことで規定される概念で、トランスセクシュアル願望とは自分の肉体への思いによって規定される概念だからです。 <br />
　 そこで問題になるのが「性同一性障害」という、今年（1999年）、日本の性転換手術（2006年現在では性別適合手術、または性別再判定手術と呼ぶようになりました）のニュースなどでも話題になった言葉です。これは、自分の心が女もしくは男なのに、自分の肉体がその逆の性だということに耐えられない、という齟齬の症例なのですが、それが同性愛に対する抑圧や差別の大きな社会に生きているせいで外因的にそう思ってしまうのか、それともより内因的にもともと女の脳と男の肉体で生まれてきてしまったせいなのか、その辺の判定はとても難しくわからないことが多すぎるのです。しかし、そのどちらにしても実際にそういう人が存在するのだから、性転換手術（性別適合手術）とはとりあえずはその苦しみを取り除くようにしよう、という、その「とりあえず」の処置なのです。自分でなかった自分が自分にふさわしい自分になるためには、手術以外にもおおくの作業が必要になります。<br />
　（性同一性障害=GID＝に関しては2003年、「日本で性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律（通称・性同一性障害特例法）」が成立、翌年７月に施行されました。この法律にも多くの問題がありますが、日本社会のみならずGIDの人びとに関してはいまだ一般にも情報が行き渡らず、無理解と無知を基にした差別が絶えません）</p>

<p>Ｑ　ゲイの人たちってどんなセックスをするんですか？ </p>

<p>Ａ　あなたはどんなセックスをしますか？　また、あなたはどんなセックスをしてみたいですか？　それを頭の中で想像してください。ものすごくエッチなアレとかコレとかぜんぜんエッチじゃないけどほんわかするナニまでいろんな形のいろんな気持ちのセックス。そう、人に言えないようなことまでを。 <br />
　 で、とつぜん、あなたはどんなセックスをしていますかと訊かれたとします。興味本位で「人に言えないようなこと」まで教えてよと言われたらどう対応するか？ <br />
　 この質問には、ですから回答は２つあります。 <br />
　 あなたがほんとうに気のおけない友人で、それで打ち明け話の延長としてそう訊いてきたら「人の考えるすべての種類のセックスをしている」というのが答えです。もちろん１人で全部をやっているという意味ではなくて。人間って、ゲイであろうがストレートであろうが思ったことはほとんどぜんぶ実行してみちゃう生き物なのです。あなたがやってなくても、必ずだれかがソレをやっていますもの。 <br />
　 もう１つの回答はこれとは違います。つまり、あなたがまるで「未開の土人」の性器までをも調べる資格があると思い上がっている「白人侵略者」のようならば、あるいは知的探求という大義名分でその実スケベ心を満たすためだけに質問してきたのなら、「だれがそんなプライヴェートなことに答える義務があるか」なのです。それこそそんなことを訊くなんて「なんと失礼な！」、ですよね。 </p>

<p>Ｑ　でも、男役とか女役とかあるんでしょう？ </p>

<p>Ａ　あります。英語では「トップ」と「ボトム」といいます。しかしこれは必ずしも固定してはいません。固定したカップルもいますが、ときには反対になるカップルもいます。また、いわゆる男でも女でもないセックスの形もあります。これは想像力の及ぶ限りに人それぞれです。それはストレートのカップルでもまったく同じでしょうね。 <br />
　 ちなみに、外見がマッチョだからといってベッドでもそうかというとそうとも限りません。見た目が亭主関白でもベッドでは奥様の言いなりになるのが好きなストレート男性がいるのと同じです。 </p>

<p>Ｑ　ゲイもストレートも同じだと強調しますが、同じじゃないところもあるでしょう？ </p>

<p>Ａ　「同じ」という説明の仕方は、じつは多分に戦略的なものです。「あいつらは変態だ」「オカマはヘンだ」と言われる社会の中で基本的な人権を獲得してゆくためには、まずは「私たちも同じ人間だ」というところから始めなくてはならないという戦略。 <br />
　 ところが一方でゲイたちには「同じ」という平板な概念を嫌うよう意図的に先鋭化している部分もあります。「違う」ことこそがゲイがゲイである所以だ、という具合に。 <br />
　 「わざとフツーじゃなく」振る舞うスタイル、「ひとひねり」する感性などをもひっくるめて「ゲイ」の文化および在りようが登場してきているのです。そこでマスコミが「ゲイ」という言葉を多用するようになってから、その偽善を衝くかのように逆に自分たちをあえて「クイア」と呼ぶゲイたちも登場しています。「何おっかながってんだよ。ほら、オカマと呼んでみろよ」と挑発するかのように。「オカマで何が悪い！」と言うように。でも、この挑発に乗って彼らを「クイア（オカマ）」と呼んだら痛い目に遭いますからご注意を。 <br />
　 「多様性」を認めるところから文化は強くやさしく豊かになります。ですから同じでなくたってぜんぜんかまわない。むしろ違ったほうが面白い。「同じ」であらねばならぬことの脅迫から自由になること、これもゲイという概念の教えてくれるものです。 </p>

<p>Ｑ　でもやっぱり男が男を愛するのは不自然では？ </p>

<p>Ａ　異性を好きになる人だって偉そうなことは言えないでしょう。異性を好きになるのはあなたが努力してそうしたのではない。遺伝子によってあらかじめそうプログラムされていたからで、あなたの大脳の「意志」の成果じゃない。それをまるで自分の手柄のように語るのは「ぼくのパパは偉いんだぞ」と自慢するかわいい子供のようです。 <br />
　 それと同じく同性を好きになるのもその人の努力の結果ではありません。大脳がそのようにあらかじめプログラムされているからです。もちろんそれが「姿を現す」には環境とか文化的・宗教的制約とかいった外的な要因が関係してはくるでしょうが、まあ、種がなければ芽は出ない、と同じことです。 <br />
　 じつは人間には生物学的に一〇〇％ヘテロセクシュアルの人も一〇〇％ホモセクシュアルの人もそんなに生粋のﾒ純血種ﾓはあまりいないのです。「ホモっ気」があるとかないとかよく冗談めかして言いますがじつはホモっ気はみんなある。それを「性指向のスペクトル」といいます。 <br />
　 ほら、光をプリズムに通すといろんな色が順々に分かれて出てくるでしょう。そのグラデーションのように、人間の性的指向もホモっ気やヘテロっ気などいろんなものが混じり合って成立している。 <br />
　 ホモっ気が10％の人はそれを抑えつけていてもべつに問題は生じないでしょう。抑えているという自覚すらないかもしれません。なぜってほら男性主義の社会ってホモソシアルな社会だから男同士で発散できる機会はけっこう備わっているわけで、それで10％程度の欲望なら簡単に解消されるからです。 <br />
　 でも30〜40％になってくるとちょっと気になっちゃうかもしれません。60％とかでこの社会の中ではきっと困り始めます。でもまだだいじょうぶかもしれない。でもそれが70とか80％以上になったら、これは隠しているといずれ爆発します。気が狂うかもしれない。自殺する人も多い。無理して結婚して、奥さんを虐待したり無視したり、ほんとうにひどいことをする隠れ同性愛者たちもいます。 <br />
　 女性の場合だって男性とのセックスをいやいや我慢している人もたくさんいます。女性の同性愛者は、この男社会で女であることで、よりつらい思いをしているでしょう。 <br />
　 「自然」「不自然」でいえば、ぜんぜん社会的制約のない文化では男は男とやっても「自然」です。10％しかホモっ気のないやつでも、ヤル機会があったらヤルかもしれません。日本の江戸時代までがまさにそうでした。 <br />
　 また現代でも、少年が成人になるときに年長の青年に肛門性交もしくは口を通して精液を注入してもらわねばならないという「通過儀礼」習慣を維持する民族もいます。 <br />
　 「自然」「反自然」という分類も、ですからじつはとても文化的な「洗脳」の結果の価値判断なのです。 </p>

<p>Ｑ　そんなことを言われると男はみんなホモみたいです。 </p>

<p>Ａ　ええ、おそらく半分くらいの男性はどの民族でも（いろんな意味で）ホモセクシュアルになりうるかもしれません。ただしこういう社会ですから、そんな抑圧の中でも自分をゲイだと自認している人は、もしくは認めざるを得ないほどにホモセクシュアルな人は、だいたい全人口の10％前後ではないかとされています。さらにそれを他人に公言できるほどにプライドを持ったゲイの人はもっと少なく、アメリカでもその半分の５％前後でしょうか。日本ではさらに少ないですが、それは同性愛者の比率が少ないということではありません。 <br />
　　　　　　 ＊ <br />
　 99年初めに発行された『生物学的豊饒』という本では「哺乳類と鳥類の80％の種でオス同士の、55％でメス同士の関係が観察されている」として「同性愛的関係の発生の確率は、推論すればこの地上に存在するとされる百万種類の生物学的種で15％から30％にのぼる」と記しています。 <br />
　 まさにそれを裏打ちするようにオーストラリアの自然保護区で99年夏、同じ巣でいっしょに暮らしながら７羽のヒナを育てている２羽のオスのエミューのカップルが確認されました。そこの保護区職員が「これは超モダンな家族だ。でもホモセクシュアルってんじゃないと思う。１羽がちょっと混乱してるだけだと思う」とコメントしています。そういうコメントをひねり出さざるを得なかったその彼の混乱ぶりこそがおかしいですよね。 <br />
　 生物の在りようとは、ダーウィンの説いたような種の保存とか自然淘汰とかの単純な結果ではないようです。この連載で言いたかったことも、とどのつまりはそういうことなのです。 <br />
（了） </p>

<p>この項、一部2006年11月に追記。</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_4.html</link>
         <guid>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_4.html</guid>
         <category>マジためゲイ講座</category>
         <pubDate>Fri, 01 Dec 2006 23:21:23 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>太宰治をクイアする</title>
         <description><![CDATA[<p>　　1998年５月１日付け、ニューヨーク・ポスト紙は「GAY JESUS MAY STAR ON B'WAY（ゲイのイエスがブロードウェイでスターになるかも）」という見出しのスクープを報じた【注：New York Post 5/1/98 "GAY JESUS MAY STAR ON B'WAY" by Ward MorehouseIII and Tracy Conner】。同記事によると、トニー賞３回受賞の第一線の劇作家テレンス・マクナリー【注：代表作に『Love! Valour! Compassion!』『Master Class』『Kiss of the Spiderwoman』】がマンハッタン・シアター・クラブと共同で極秘製作中のその劇は、イエスの名をヨシュア【注：Joshua 自体が救世主という意味を持ち、Jesusと同義でも用いる】と変えてはいるものの使徒を率いてローマに入り、新約聖書に伝えられるイエスの数かずの台詞をしゃべる。劇の題名は『Corpus Christi（キリストの躰）』。この劇で、そのイエスらしき主人公は使徒の何人かと性関係がある。さらに有名なローマ総督ピラトとの対峙において、聖書の「汝はユダヤの王なるか？」という審問が劇中では「汝はクィアの王なるか？」に変わり、主人公は聖書のとおり「汝の言うが如きなり」と答えるのである。</p>

<p>　欧米のゲイ・スタディーズの学者たちはこれまでもイエスとその使徒の何人かがゲイである可能性（とはいっても現代のパラダイム上でのgayではあり得ないが）を指摘してきた。だがそれは欧米カトリシズムの最も大きなタブーの一つであり、天皇の人間宣言と同様、キリストの人間宣言すらもまた1970年のロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』でキリスト教会から熾烈な非難を浴びたのである。アンドルー・ロイド・ウェーバーの曲とティム・ライスの歌詞によるこのロック・ミュージカルでは、キリストを「He's a man. He's just a man（ただの男）」【注： Tim Rice "I Don't Know How To Love Him" 1970】とした歌詞がカトリックの逆鱗に触れた。さらに全編、ユダの目をとおした悩める男キリストが焦点になっており、ユダは彼イエスを愛するがゆえに彼を裏切り銀貨30枚で彼を売り、そして最後に彼と口づけをしてのちに縊死するのである。キリスト教会は当時、マタイ伝26章49などで新約聖書にも記される劇中でのこの男同士の接吻にも異常な嫌悪感を示した（浅利慶太演出による日本の物マネ版ではユダとキリストとのキスは物マネの分さえも弁えずにおこがましくも割愛された）。</p>

<p>　今回のゲイのヨシュアにもすでにポスト紙が同記事中でカトリック界の反応を紹介している。代表的なものは次のような言説だ。<br />
　「それ（イエスと使徒とのセックス関係が劇で示されること）が本当ならば恐ろしいことだ」「とても信じられない」【注：（）内は筆者追記】（ニューヨーク大司教教区スポークスマン、ジョー・ズウィリング）<br />
　「（そのような劇は）言葉に出来ないほどに病的だ」【注：（）内は筆者追記】（宗教と市民の権利のためのカトリック連盟、ウィリアム・ドノヒュー）<br />
　冒頭からの２つの劇の視点は、じつは1940年に太宰が『駈込み訴え』【注：《中央公論》昭和15年２月号初出】 で示したものと本質的に異ならない。太宰のユダは次のように、「あの人」と「あなた」の三人称上の憎悪と二人称上の愛情と間の渓谷をめまぐるしく跳び移る対象としてのイエスを、「凡夫だ。ただの人だ」つまり「He's a man. He's just a man」として形容する。<br />
　なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて（中略）欣喜雀躍している。今にがっかりするのが、私にはわかっています。【注：新潮文庫版《走れメロス》『『駈込み訴え』P124】<br />
　ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまわった。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。【注：同P128】 <br />
　さらに『スーパースター』ではイエスは売春婦として描かれたマグダラのマリアと恋人であるとされ、それについてユダは「あなたのような人があの種の女に身をやつすとは私には奇妙でわけがわからない。そう、彼女が楽しませてくれるのは私にもわかる。だが彼女にその身をさすらせその髪に口づけさせるのはまったくあなたらしくはない」【注：Tim Rice "Strange Thing Mystifying" 1970年】 と嘆くのだが、太宰の『駈込み訴え』ではその恋の相手、マルタの妹のマリアについて同じようにこう「訴え」るのである。<br />
　あの人ともあろうものが。あんな無知な百姓女ふぜいに、そよとでも特殊な愛を感じたとあれば、それは、なんという失態。取り返しの出来ぬ大醜聞【注：同『駈込み訴え』P126】<br />
　ではマクナリーの「クィアのキリスト」とはどうつながるのだろうか。『キリストの躰』は今秋（編注；1998年秋）のブロードウェイまたはオフ・ブロードウェイでの開演に向け予想されるキリスト教右派の攻撃を回避するためか箝口令下にあり、詳細をいまだいっさい明らかにしてはいない。が、いま現在の取っ掛かりとしては太宰のユダの「クィアネス」の指摘だけでもこのエッセイの意図に適って充分だろうと思われる。</p>

<p>　太宰のユダの心理の流れを任意に、といっても感情の屈折点を示すと思われる部分を順番に書き出していってみよう。<br />
　１）あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。<br />
　２）私はあの人を、美しい人だと思っている。（中略）あの人は美しい人なのだ。<br />
　３）私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。（中略）誰よりも愛しています。<br />
　４）私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。<br />
　５）あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。<br />
　６）（マリアに関するイエスについて）ああ、我慢ならない。堪忍ならない。（中略）もはや駄目だと思いました。<br />
　７）それでも私は堪えている。あの人ひとりに心を捧げ、これまでどんな女にも心を動かしたことは無いのだ。<br />
　８）（マリアについて）私だって思っていたのだ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。<br />
　９）そうだ、私は口惜しいのです。<br />
　10）あの人は私の女をとったのだ。いや、ちがった！　あの女が私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。<br />
　11）ああ、ジェラシイというのは、なんてやりきれない悪徳だ。<br />
　12）（イエスを売ろうとしたのを指摘されて）逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。（中略）売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。<br />
　13）捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。<br />
　14）銀三十で、あいつは売られる。私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。<br />
　こうしてピンポイント的に抽出してみたとき、私たちはこのユダの心理の流れの下に、あの、古典的で、恐ろしいほどに明晰なフロイトのパラノイア分析の主要図式をほとんどそっくりそのままに透かし見るのである。フロイトは次のように指摘した。<br />
　「パラノイアのよくある主要な形態はすべてただ１つの命題、すなわち《私（男）は彼を愛している》という命題の引き起こす否認として説明され得るということは注目すべき事実である。そればかりか彼らは、そのような否認を定型化し得る、可能なかぎりのすべての方途を使い果たすのである。<br />
　《私（男）は彼を愛している》というその命題は次のように否認される。<br />
（ａ）迫害妄想<br />
　《私は彼を愛していないーー私は彼を憎んでいる》<br />
　この否認は、無意識の中でそれよりほかには表現され得ないが、しかし、パラノイア患者にはこの形を取っては意識されることがない。（中略）《私は彼を憎んでいる》という命題は結果的に他者への投射によって変形するのだ。つまり《彼は私を憎んで（迫害して）いる。そのことが、私が彼を憎むことを正当化する》。こうして、じっさいはこちらこそが動因力であるその無意識の感情が、あたかも外的な認知の結果であるかのように次の形で姿を現すのである。<br />
　《私は彼を愛していないーー私は彼を憎んでいる、なぜならば彼が私を迫害しているからだ》<br />
（ｂ）恋愛妄想<br />
　《私は彼を愛していないーー私は彼女を愛している》<br />
　そして同じように投射への必要性に従順に、この命題は次のように変形する。《私は、彼女が私を愛していることを知っている》<br />
　《私は彼を愛していないーー私は彼女を愛している、なぜならば彼女が私を愛しているからだ》<br />
（ｃ）嫉妬妄想<br />
　《その男を愛しているのは私ではないーー彼女が彼を愛しているのだ》。そして彼はその女性が、彼自身が愛したいと誘われる男たちすべてと関係があるのではないかと疑うことになる。<br />
　（中略）<br />
　さてこの３つの命題を共通して構成している命題、つまり《私は彼を愛している》という命題はこれら３つの異なった方法によってのみ否認されると思われるかもしれない。嫉妬妄想は主体主語を否認する。迫害妄想は動詞を否認する。そして恋愛妄想は対象目的語を否認する。しかし、じっさいは４番目の種類の否認も可能なのである。いわばその命題そのもの全体を拒否するやり方が。<br />
　《私は愛することなどしないーー私はだれをも愛さない》。そして、結局のところは、人のリビドーはどこかへ向かわなくてはならないから、この命題は次のような命題と心理学的に等値になるようである。つまり《私は私だけを愛する》。したがってこの種の否認が私たちに教えるものは、自我に対する性的過大評価として見ることのできる誇大妄想である」【注：THREE CASE HISTRORIES of COLLIER BOOKS edition, " Psychoanalytic Notes Upon an Autobiographical Account of a Case of Paranoia (Dementia Paranoides)(1911年) III. On the Mechanism of Paranoia P.139〜141より北丸が抄訳】</p>

<p>　フロイトのこのじつに数学的な論理の立て方と、いっけん混乱を極める太宰のユダの息切らして駈込み訴えるその饒舌とを、カット＆ペーストで私たちは次のように整理することができる。</p>

<p>（ａ）迫害妄想（被害妄想）《私は彼を愛していないーー私は彼を憎んでいる、なぜならば彼が私を迫害して（憎んで）いるからだ》<br />
１）あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。<br />
５）あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。<br />
12）（イエスを売ろうとしたのを指摘されて）逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ。（中略）売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。<br />
13）捕えて、棒で殴って素裸にして殺すがよい。<br />
（ｂ）恋愛妄想《私は彼を愛していないーー私は彼女を愛している、なぜならば彼女が私を愛しているからだ》<br />
８）（マリアについて）私だって思っていたのだ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。<br />
10）あの人は私の女をとったのだ。いや、ちがった！　あの女が私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。<br />
（ｃ）嫉妬妄想《その男を愛しているのは私ではないーー彼女が彼を愛しているのだ》<br />
６）（マリアに関するイエスについて）ああ、我慢ならない。堪忍ならない。（中略）もはや駄目だと思いました。<br />
９）そうだ、私は口惜しいのです。<br />
10）あの人は私の女をとったのだ。いや、ちがった！　あの女が私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。<br />
11）ああ、ジェラシイというのは、なんてやりきれない悪徳だ。<br />
（ｄ）誇大妄想《私は愛することなどしない｜｜私はだれをも愛さない。私は私だけを愛する》<br />
７）それでも私は堪えている。あの人ひとりに心を捧げ、これまでどんな女にも心を動かしたことは無いのだ。<br />
14）銀三十で、あいつは売られる。私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。<br />
　そしてこれらの命題の陰に、フロイトは何があると指摘したのだったか。そう、それはいまここで分類し残した太宰のユダの吐露と一致する。つまり、《私は彼を愛している》という、フロイトの言うすべての男性に存在する可能性としての無意識下の唯一の大前提と、作家太宰が意識の上に恥ずかしげもなく引きずりだした愛と。<br />
２）私はあの人を、美しい人だと思っている。（中略）あの人は美しい人なのだ。<br />
３）私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただあなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。（中略）誰よりも愛しています。<br />
４）私はあの人を愛している。あの人が死ねば、私も一緒に死ぬのだ。あの人は、誰のものでもない。私のものだ。あの人を他人に手渡すくらいなら、手渡すまえに、私はあの人を殺してあげる。<br />
　ところでパラノイアはすべて外界からの知覚と内的な動因との齟齬によって惹起される。この葛藤は内的な同性愛的動因を外的な異性愛的知覚に投射して合致させることで歪みを生じさせ、ついには病理学的な領域へと踏み込むのである。しかしここで注意しなくてはならないのは、フロイトの指摘した病理は、同性愛的動因ではなくて、その内的動因と外的知覚との歪みのことだということである。冒頭部分で示した「ゲイのキリスト」に対して、右派キリスト者たちが「それ（イエスと使徒とのセックス関係が劇で示されること）が本当ならば恐ろしいことだ」「とても信じられない」「（そのような劇は）言葉に出来ないほどに病的だ」とした「恐ろしい」「信じられない」「病的」という指摘は、フロイトが同じ嫉妬妄想の記述で展開した「主語主体の転換とともにすべてのプロセスが自我の外に投げ出される」【注：同THREE CASE HISTORIES P.140】のと同じ論理構造を持つことも指摘しなくてはならないだろう。こうした病理学の領域へと投げ出す無自我の言説が蔓延る社会では、（まるで同性愛者のように）心優しき太宰読みである奥野健男がせっかくその『駈込み訴え』の解説で「ぼくはこの作品を翻訳、出版し、西洋諸国の人々に読ませたい気がする」【注：新潮文庫版解説P.247】と書いても、結果は、たとえ「ゲイ」が「キリスト」ではなくこれまでさんざんに汚辱を負わされてきた「ユダ」のほうであったとしても、嫉妬妄想的に「キリスト」と「ユダ」の主語主体は混同され、全体像を否認する形の木っ端微塵の悲惨なものになるだろうことは覚悟しなくてはならない。<br />
　ところがそういう浅薄な読みを越えて、ここではフロイトのパラノイア患者とこのユダの造形者太宰との違いを指摘しておかなければならない。さきほど「太宰が意識の上に恥ずかしげもなく引きずりだした愛」と記したのは、まさにそれこそが太宰文学の核心であるだろうからだ。フロイトは、患者自身の同性愛的感情についての「この否認は、無意識の中でそれよりほかには表現され得ないが、しかし、パラノイア患者にはこの形を取っては意識されることがない」と記したのだが、太宰のユダはその感情を明確に意識しているのである。<br />
　彼はキリストへの愛ばかりか、「ああ、ジェラシイというのは、なんてやりきれない悪徳だ」という述懐で自らの嫉妬妄想を、「ああ、もう、わからなくなりました」という混乱の自覚で恋愛妄想を、「逆にむらむら憤怒の念が炎を挙げて噴出したのだ」という解説で迫害妄想を、そしてこの小説最後の結語「私の名は、商人のユダ。へっへっ。イスカリオテのユダ」という場面の「へっへっ」に象徴される空恐ろしい自意識の自嘲で、自らの誇大妄想をも自覚しているのである。<br />
　このとき、「クィアネス」はこのユダのセクシュアリティのみの「変態性」から飛び立って、ユダの意識そのものの「変態性」へと突き刺さるのだ。それはトム・ライスの描いた『スーパースター』ではユダとイエスのキスの場面以外では意図してかしないでか覆われていた、そしてテレンス・マクナリーの『キリストの躰』とは「クィア」という言葉を介して少なくとも表沙汰としては繋がり得るだろう変態性のことである。それはミシェル・フーコーの言葉を借りれば「制度」が「虚を突かれてしま」うような変幻自在な関係性のことなのだ。<br />
　フーコーは次のように記している。<br />
　「私は、こうしたことこそが同性愛を「当惑させるもの」にしているのだと思います。性行為そのものよりも、同性愛的な性の様式の方が遥かに。法や自然に適合しない性行為を想像することが、人々を不安にするのではありません。そうではなくて、個々の人間が愛し合い始めること、それこそが問題なのです。制度は虚を突かれてしまいます。（中略）制度的諸コードは（中略）こうした関係を合法化することができないのです。制度内にショートを引き起こし、法や規則や慣習のあるべき所に愛を持ち込むこうした諸関係を。」【注：ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』哲学書房1987年５月刊、増田一夫訳P.12〜13】<br />
　私たちはここで、太宰の場合に、「パラノイア」という制度的諸コードの１つが、あるいは制度によってコード化される心的諸メカニズムの１つが「虚を突かれてしま」っているさまを目の当たりにする。何によってか。それはユダのキリストへの愛の自意識によってである。そしてこの「愛の自意識」こそ、「同性愛的な性の様式」と「クィアネス（変態性）」とを二股分かれにグニョグニョと変形動員して、「愛」の「制度的諸コード」を深く「突き」貫き、復活の前にある死に向けて「ショート」させるロンギヌスの槍なのである。<br />
　もう一人の卓越した太宰読みである吉本隆明はこの太宰の「クィアネス」について次のように述懐している。<br />
　「太宰治という人は、ぼくがお会いしたときには、まことに見事に常識でいう社会的な善と悪が、ちゃんとひっくり返っている人になっていました。つまり、一般的に人々がいいことだとおもっていることは全部悪いことで、悪いことだとおもっていることは全部いいことだというふうに、完全に、揺るぎない自信でひっくり返っていまして（後略）」【注：吉本隆明「愛する作家たち」コスモの本、P.34】<br />
　サルトルによる『聖ジュネ』を、つまりはサルトルの目に映った世紀のクィア、ジャン・ジュネに関する言説を強く連想させるこの文脈においてすら、デフォルトとしての異性愛を「完全に、揺るぎない自信で」信じている吉本が太宰の「同性愛的な性の様式」を指摘できないことは無理もない。先に指摘した「愛の自意識」に関しても彼は同じ論考で次のように統括している。<br />
　「太宰治の根本的なモチーフは、家庭愛でも人類愛でも男女愛でもいいんですけど、愛ということだとおもいます」【注：同P.41】<br />
　吉本ほどの書物の解体論者がすべての男性のパラノイアの唯一の原因命題である「私（男）は彼（男）を愛している」という、これ自体は病理ではないのだから特殊命題として排除する理由もないむしろ公理を、太宰の中から見逃しているのはどういう理由からなのだろう。<br />
　太宰に関しては前述した『駈込み訴え』ばかりでなくじつはいくらでも「同性愛的な」たたずまいを摘み出すことができるのだ。第１創作集である《晩年》の中の『思い出』【注：昭和８年同人雑誌『海豹』初出】には「私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合った」というまさに直裁的な記述があって「お互いの小指がすれあってさえも、私たちは顔を赤くした」とまで書いてある。だがじつはこんなのは牧歌的に「同性愛」的ではあるが「クィア」ではまったくない。クィアの白眉は『彼は昔の彼ならず』【注：昭和９年10月『世紀』初出】の木下青扇であり、『ダスゲマイネ』【注：昭和10年10月『文藝春秋』初出】の馬場数馬であり、『古典風』【注：昭和15年６月『知性』初出】の美濃十郎であり、『乞食学生』【注：昭和15年７〜12月『若草』初出】の自称・佐伯五一郎であり、そしてなによりもそのそれぞれの小説の「私」と「僕」だ。<br />
　たとえば、「ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生まれのヴァイオリンの名手」と馬場数馬との邂逅とされる次のような一節に私たちはいったいいくつのクィアな暗示を見つけ出せば足りるのか。<br />
　「その夜、馬場とシゲティは共鳴を始めて、銀座一丁目から八丁目までのめぼしいカフエを一軒一軒、たんねんに呑んでまわった。勘定はヨオゼフ・シゲティが払った。シゲティは酒を飲んでも行儀がよかった。黒の朝ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはついに一指も触れなかった。理知で切りきざんだ工合いの芸でなければ面白くないのです。文学のほうではアンドレ・ジッドとトオマス・マンが好きです、と言ってから淋しそうに右手の親指の爪を噛んだ。ジッドをチットと発音していた。夜のまったく明けはなれたころ、二人は、帝国ホテルの前庭の蓮の池のほとりでお互いに顔をそむけながら力の抜けた握手をしてそそくさと別れ（後略）」【注：新潮文庫版《走れメロス》『ダス・ゲマイネ』P.12】<br />
　さらに、『思い出』には微塵もなかった、愛の確信犯としての、次のような「私」に対するクィアな馬場の告白。（文中「海賊」は共同企画の同人誌のプラン）<br />
　「君を好きだから、君を離したくなかったから、海賊なんぞ持ちだしたまでのことだ。君が海賊の空想に胸をふくらめて、様様のプランを言いだすときの潤んだ眼だけが、僕の生き甲斐だった。この眼を見るために僕はきょうまで生きて来たのだと思った。僕は、ほんとうの愛情というものを君に教わって、はじめて知ったような気がしている。君は透明だ、純粋だ。おまけに、ーー美少年だ！」【注：同P.38】<br />
　太宰の小説には限りなく「美少年」という言葉が登場する。だからこの結句はことさら驚くようなことではない。しかしこの告白の後で馬場が「ちぇっ！　ぼくはなぜこうべらべらしゃべってしまうのだろう。軽薄。狂騒。ほんとうの愛情というものは死ぬまで黙っているものだ」と“反省”して“見せる”とき、私たちはそこにとてもストレートで迷いのない『葉隠』の美学を反転させた声を聞くというより、あのオスカー・ワイルドの同性愛裁判での捻じくれたクィア宣言、「最も高貴な愛の形」としての「敢えてその名を告げぬ愛」のほうの、聞こえよがしの逆さ言葉を聞いてしまうのである。</p>

<p>　私が「太宰をクィアする」と題したこのエッセイで為したいのは、しかし、太宰が同性愛者だったとか隠れホモじゃなかったのかとかバイセクシュアルだったかもしれないとかいうような論証ではまったくない。たとえ指摘した彼ら登場人物のことごとくが、ワイルドばかりか、太宰とほぼ同年代のイヴリン・ウォーの手になる『ブライヅヘッドふたたび』の同性愛者のクィア、「プルーストやジードと一緒に食事をする仲で、コクトーやディアギレフとはもっと親しく」「ロナルド・ファーバンクはその小説に熱烈な献辞を書いて送」ったというアントニー・ブランシュ【注：『ブラウヅヘッドふたたび』ちくま文庫、吉田健一訳P.66】をも彷彿させるにしても。<br />
　じつは表題とした「クィア」という（本来は）名詞が、何をどう定義するものなのかということについては、ゲイ・スタディーズ、クィア・セオリーの発祥地ともいえるアメリカでも数多くの議論がなされてきて、結果、「現在」の、「アメリカ」の（と厳密にはきわめて限定的にしかーーそれももっと特定的にという者もあるほどにーー指示できないような）同性愛者たちは、自分たちをゲイと呼ぶべきなのかクィアと呼ぶべきなのかにさえも迷わざるを得ない状況でもある。だが、１つの、きわめて謙虚でありながら遺漏のない定義の提示がデイヴィッド・ハルプリンによってなされている。</p>

<p>　「この言葉の否定的な面も十分承知した上で、その可能性を開いた状態にしておきたいという、というのがわたしの望みである。つまり「クイアー」は（ホモ）セクシュアル・アイデンティティを、必ずしも実質的にではなく、対抗的かつ関係的に、そして実体としてではなく位置として、ものとしてではなく規範に対抗する抵抗として、定義することができるのだ」【注：デイヴィッド・ハルプリン《聖フーコー》太田出版1997年５月、村上敏勝訳『ミシェル・フーコーのクイアー・ポリティクス』P.98。なお、クィアとゲイの間の論議もこの同じ論考のP.90〜100に詳しい】<br />
　私が指摘したいのは、したがってまさにハルプリンの定義どおりの太宰治のクィアネスではあるものの、さらにそのクィアネスの付随によって、彼の「愛」がきわめて「開いた状態」にあるという事実である。もっといえば、だれにでもセクシュアル・アイデンティティというものはあるのだから（フロイトが解説するまでもなく「人のリビドーはどこかへ向かわなくてはならない」のだから）、太宰の小説内のリビドーもどこかに向かっているのは確かなのだ。しかしそれは「どこかに」というより、「どこへでも」辺りかまわず向かっている状態にあり、そんなクィアな心象の中での、ホモセクシュアリティの存在というよりもむしろ、ホモフォビアの不在こそが（不在の証明というのは、じつは人間のアリバイとは違ってとても難しいのだが）問題になるということなのである。したがって前述の吉本の「太宰治の根本的なモチーフは、家庭愛でも人類愛でも男女愛でもいいんですけど、愛ということだとおもいます」というさりげないまとめの言葉は、「家庭愛でも人類愛でも男女愛でもいいんですけど」なんていうさりげないもんじゃねえだろ、と、まさにその部分にこそ、ツッコミが入って然るべきだということなのである。</p>

<p>　ところが太宰のその時代が、時代として同性にも朗々と愛を語れる環境にあったのだというなら話はここで終わる。<br />
　氏家幹人がその労作の（とはいえ奇妙にホモフォビアとホモフィリアの綯い混じった）教養書『武士道とエロス』【注：講談社現代新書1239、1995年２月刊】の中で駆け足で明治・大正・昭和の日本文学における男色・少年愛・同性愛の系譜を紹介している。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』（明治42年《スバル》）や秋田雨雀の『同性の恋』（明治40年《早稲田文学》）、久米正雄の『学生時代』、さらに明治34年までの志賀直哉の「必ずしもプラトニックではなかったやうに見える」少年愛などを紹介しながら、その明治期の牧歌的な少年愛指向が終焉するありさまを稲垣足歩の言葉を借りて「明治の美少年パニック」の風潮は「明治初年から半世紀の間続いてきて、大正期に入るとともに漸く影が薄れた」【注：『武士道とエロス』第二章「君と私」P.79】と説明している。その後に登場するのはどういう言説かというと、大正２年に発表された里見とん（編注；漢字がない。弓へんに享）の『君と私と』（《白樺》４〜７月号）が、学習院中等科時代（明治30年代中期）に主人公「私」里見が「君」である志賀直哉に「男同士の恋」を抱いた事実をモデルにしたことについて、志賀が「イヤな感じを受けた」と書いていることが紹介されている。川端康成もまた齢五十のときの昭和23年の『少年』で大正初期の自らの寄宿舎時代の肉体的な同性愛関係を描きながら、執筆時には「中学校の寄宿舎には、たとひいかなる事情がおありでも子弟を送ることはお止しなさいと、世間の父兄に私は忠告したい」ともらしている【注：同P.66】、としている。</p>

<p>　太宰は明治42年（1909年）生まれ。性に目覚めるだろうときを大正後期から昭和にかけて送っている。「同性の恋」に関する牧歌的な時代は終わり、その種の過去を後悔するような卑屈な言説が登場してくるころである。浜尾四郎の『悪魔の弟子』（昭和４年）【注：『悪魔の弟子』の分析に関しては『ゲイ・スタディーズ』青土社（1997年６月）のキース・ヴィンセントの読み（P.127〜131）が日本のAIDS言説と対照させて興味深い】や夢野久作の『死後の恋』（昭和３年）、堀辰雄の『燃ゆる頬』（昭和７年）など、男同士の恋に、昔ながらの死の香りを付与する相変わらずの言説も再生産されている。そして時代は稀代のホモフォウブにしてホモファイル、三島由紀夫の登場を待つのである。</p>

<p>　したがって、話はやはり終わらない。<br />
　フーコーが次のように語ったことはいまではあまりにも有名である。<br />
　「もうひとつ警戒しなければならないことは、同性愛という問いを「私は何者なのか？　私の欲望の秘密は何なのか？」という問題に引き戻す傾向です。おそらく「どのような関係が、同性愛を通じて成立され、発明され、増殖され、調整されうるのか？」と問いかけた方がよいのではないでしょうか。自分の性の真理を即自的に発見するのが問題なのではなく、むしろこれからの自分の性現象を、関係の多様性に達するために用いることなのです。そしておそらくこれこそが、同性愛は欲望【＠デジール】の一つの形態ではなく、ある望むべき【＠デジラーブル】事柄であるということの真の理由なのでしょう。したがって、われわれは懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることはないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです。」【注：『同性愛と生存の美学』P.9〜10】<br />
　私たちはここでもまた、フーコーのこの「友情」に寄り添うようなものとしての教科書的なテキストを太宰の作品の中に容易に思い浮かべることができるのだ。その『走れメロス』は、欧米で広く知られている「ダモンとピシアスDamon and Pythias」の故事（「メロス」がピシアスで「セリヌンティウス」がダモンに相当する）に太宰が太宰的な肉付けを行ったものだ。</p>

<p>　故事の原型はエドワード・カーペンターの『IOLAUS: AN ANTHOLOGY OF FRIENDSHIP』【注：http://www.fordham.edu/halsall/pwh/iolaus.html に全文を見ることができる】 （1908年）にも友情の形を取る同性愛のケースとして「ダヴィデとヨナタン」の関係などと並んで収容されている。アメリカの場合、1962年にメトロゴールドウィン（ＭＧ）が映画化しているが、そこではピシアス（つまりメロス）が暴君ディオニスに一時帰郷の許しを請うのは国にいる妻と子供たちに最後の申しつけをするためということになっている。さらにダモンにおいても（つまりセリヌンティウスにも）彼の愛する女性が登場して、彼がピシアスをその女性に会わせもするという、念入りの伏線が張られている。つまりこの２人は「どう見てもホモに見えるけど、でもそういうヘンなのじゃなくて女と付き合ってるんだからダイジョーブですよ」というわけだ。これを引いたか定かではないが、小学校高学年用に出回っている劇の脚本【注：James Stephan ParksとSally Powell Corbettの共作】もあって、これにも妻と子供が用意されている。付け加えれば、メロスとセリヌンティウスの友情の厚さに感じて最後には「どうか、わしをも（王の面前でひしと抱き合っているその２人の）仲間に入れてくれまいか」と言ってしまう王にも、こちらではきちんとお后がいる。<br />
　対して『メロス』はそこはまったく無防備である。ここには基本的に女性は登場しない。女性は、メロスの帰郷の理由としてのチョイ役を担わされる16歳の妹と、そして最後の最後にやはりチラとだけ出てくる「ひとりの少女」だけだ。そしてその２人とも名前すら与えられていない。しかもこの最終部の少女たるや、登場のわけは「緋のマントをメロスに投げ」るためだけの役である。なぜなら、メロスは（たとえ濁流を渡り山賊を蹴ちらしてきたにしても、だ）なんだか無意味に「まっぱだか」なのである。</p>

<p>　フェミニストたちが読み砕けば必ずや苦虫をも噛み砕くことになるだろうこのテキストは、かくもホモセクシュアルとはいわずともホモソーシアルであることは疑いない。ホモフォビアに向かわないホモソシアリティ……。いやそもそも、太宰の小説に「男女」は登場するのか。太宰は『女人創造』という短いエッセイで自己弁護している。<br />
　「女が描けていない、ということは、何も、その作品の決定的な不名誉ではない。女を描けないのではなくて、女を描かないのである。そこに理想主義の獅子奮迅が在る。美しい無知が在る。私は、しばらく、この態度に拠ろうと思っている。」【注：新潮文庫《もの思う葦》所収『女人創造』P.108】<br />
　太宰のその他数多のミソジニー的言説は彼のホモソシアリティと裏表にある。しかしこの「理想」は、いま一つ、フーコーが関心を寄せた問いかけと重なる。フーコーはその「友情」の形として（そして太宰が材を取ったと同じ）古代を、現制度をショートさせる虚構としての可能性の叩き台の１つとして持ち出すのである。<br />
　「すなわち、男たちにとって共にあるということはいかにして可能なのか？　共に生き、時間を、食事を、寝室を、余暇を、悲しみを、知を、秘密を分かち合うことはいかに可能なのか？　家族、職業、強制された仲間関係といった制度的な関係の外で、「ありのままの」男同士でいるとは何なのだろうか？」【注：『同性愛と生存の美学』P.10】<br />
　その問いに、「単純な男であった」メロスが、じつは答えを（あるいは答えの暗示を）与えている。シラクスの市の、すでに沈もうとする夕陽を受けてきらきら光る塔楼が見え、セリヌンティウスの弟子であるフイロストラトスが「あなたは遅かった」と叫ぶのを「いや、まだ陽は沈まぬ」と走りつづけるメロスは、「間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。人の命も問題ではないのだ」として、「私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」と宣言するのである。</p>

<p>　「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」｜｜それは友情か信義か愛か？　いや、違うのだ。メロスはすでにこれら「愛と誠の力」や「友と友の間の信実」や「名誉」という言葉なら口にしている。「殺される為に走るのだ」とも「身代わりの友を救う為に走るのだ」とも「王の奸佞邪知を打ち破る為に走るのだ」とも言っている。そういうものならわかっている。しかしここでは、そういうものではない「なんだか（わからないもの）、もっと恐ろしく大きいもの」「わけのわからぬ大きな力にひきずられて」走っている。わかっていることをふとすべて棄却して、そういうものばかりではない、「単純」ではないなにかがそこに待ち受けていることを一瞬だが洞察するのである。それは、このメロスの物語が大団円で閉じるそのときにはすっかりあっさり忘れられ、ついに解決されることはないのだが。</p>

<p>　「男同士でいるとは何なのだろうか？」。その答えもまたなにかもっと恐ろしくて大きいものだ。制度を撹乱し不安にし、他方で男同士でいるその男たちにも苦行と脱性器化の、新たな関係の地平の発明の継続を求めるもの。<br />
　この二つを結びつけることーーほんとうのことをいえばそんなこと、へっへっ、力技に過ぎるのは当たり前だ。太宰の時代にそして太宰の日本に東京に、ミソジニーもホモソシアリティも、さらには私たちがいま使っている道具としてのセクシュアリティの概念も、そんなものは存在しなかったのだから。それはまさしくフーコーがＫ・Ｊ・ドーヴァーの『ギリシャにおける同性愛』【注：邦訳、リブロポート1984年刊、中務哲郎・下田立行訳】を指して「この本において最も重要だと思われるのは、ドーヴァーが同性愛・異性愛というわれわれの切り方がまったくギリシャ人やローマ人に対しては適切ではない、と示したこと」【注：『同性愛と生存の美学』P.21】と言ったのと同じだ。太宰がフーコーを、現代で言うセクシュアリティさえをも理解しないのは当たり前だ。ミソジニックと非難されてぽかんと口すら開けるだろう。まったく、何が嫌いかと言って、タイムマシンで訪れた人間がなんだきみはマッチも知らないのかと言うことくらい腹立たしいものはない。おじさん、×ボタンはキャンセルでしょ、としたり顔で言うのもやめにしよう。ただし、「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」があることをこのメロスの作者は知っていたのである。</p>

<p>　「なんだか、もっと恐ろしく大きいもの」とは何か、と問われて、「人生そのもの」とか「生き方すべてをひっくるめたもの」とか、そう答えれば中学校の中間試験では満点を取れるかもしれない。だが、問題は、それを問うたしたり顔の教師という制度コードの虚を突くことなのだ。そして太宰の読者なら、というか太宰をそうまで偏愛的に、つまりはクィアに「愛」している読み手（たらんとする者）なら、その太宰の意味する「人生」とか「生き方」とかいうものが、いったいどんなに恐ろしく自由で対抗的で苦しく開かれているかを（その女性嫌悪の深層をも片目で客観的に見据えつつ）一瞬でも透視する機会を見逃すべきではないということなのだ。私が奥野健男を指してずっと先で「同性愛者のように心優し」いと、現実の同性愛者一般とは関係のない喩えを持ち出したのはそういう意味である。さらに吉本隆明を指して「デフォルトとしての異性愛を完全に、揺るぎない自信で信じている」としたのも、また同じくそういう意味である。吉本はフーコーの『同性愛と生存の美学』に関する書評【注：『言葉の沃野へ・下』中公文庫P.61〜69（「マリ・クレール」1987年７月号初出）】で「脱性化」と「脱性器化」とを読み違え、さらに「同性愛という主題は当事者にとって切実で深刻な主題であるほどには、当事者でないものには切実でも深刻でもなく、性の自然さにゆだねたまま流し過ぎてしまう面がある」と言ってしまう。「流し過ぎて」は私が読んだように「流してそのまま過ぎてしまう」の意味なのか、それとも私の誤読で「流してしまう傾向が多過ぎる嫌いがある」という反省の描写なのか、後者ならばよいのだけれど、そのあとに続く文がたった３行で結びとなってしまっているために後者の読みとは繋がらず、結果、「性の自然さ」の部分を換えればこれは「同性愛という主題」でなくとも、「女性問題」でも「部落問題」でも「世田谷３丁目の野良猫問題」でも同じだろうということになる（にもかかわらず、最後の文では脈絡不覚に唐突に「エイズ」を口に滑らせる）のである。</p>

<p>　ここまで書いたとき、朗々たる愛のクィアな確信犯である太宰を、どうして三島があれほどまでに毛嫌いしたか、川端が昔の「中学校の寄宿舎」を振り返るように眉を顰めたか、志賀が鼻糞でも丸めるように太宰を無視したかの理由の一つが見えてくる。それが見えたとき、日本文学もそしてまた、自分がクィアであると（クィアという言葉を知らなくとも）自覚している者と、自分がクィアであることを糊塗しようとする輩と、そしてその２つがどうしても理解できないストレートな道を勝手にうねりながら進む連中との３種類に、ぱたぱたと分類できてしまうのである。<br />
　そうして問題は、問題というものがいつも最後にそうであるように、自分はそのどれなのかということ、いや違う！　そのような「私は何者なのか？」の問いに引き戻すことではなく、そうではなくて、「われわれは懸命に」、そのどれに「なろうとすべき」なのかと問いつづけることなのである。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2006/12/post_3.html</link>
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         <category>Queer Reading</category>
         <pubDate>Fri, 01 Dec 2006 20:38:13 -0500</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>「木乃伊之吉」を救う──あるいはホモフォビアの陥穽</title>
         <description><![CDATA[<p>　木乃伊（ミイラ）という語をその名に含む、あらかじめのスティグマとカップリングされて読者に提示された、「人間というより」「ぼうっと部屋に紫のかたまりが入り込んできたと思」わせるようなこの「いやな奴」を、これから救わなければならないと自分で決める。決めたらまずは、誰から救うのかを次に見定めなくてはならなくなる。その最初の課題から、じつはじつに厄介なのだ。</p>

<p>　島尾敏雄の『贋学生』は「木乃伊之吉」（きの・いのきち、と呼ぶのだろう）と「私」と友人「毛利」の三人の物語である。学生である「私」と「毛利」が「木乃」という医学部の学生に誘われるままに長崎への三人行を行うところから話は始まる。金回りがよく、宝塚のスターを妹に持つという良家の「東京の坊ちゃん」らしい「木乃」は、「私」と「毛利」にその妹を紹介しようと働きかけ、さらには「私」の妹の見合い話もまとめようと奔走する。その間、おそらく六月だろうと思われる時期から残暑までの数カ月間、「木乃」はほんとうは「木乃」という名前ですらない贋学生だということを「私」たちに悟られることなく「私」たちの生活に闖入し、攪乱し、そしてそれら嘘のことごとくがばれそうになったある時に、あたかも真夏の蒸し暑い夜の夢のように忽然と姿を消すのだ。</p>

<p>　物語はそれだけである。真相は何だったのか、その謎解きもない。それなら安部公房の『闖入者たち』と同じような不条理小説かというとそうではない。公房の闖入者たちと違って「木乃」と「私」たちは互いに即物的な見返りを得合っている。それは「木乃」からたびたびおごられる酒食や、「私」が「木乃」から受ける数回の男色行為の描写によって、さらに「毛利」と「木乃」との同様の行為を暗示するさりげない数行によっても示される。なによりも異なるのは読中読後のわたしたちの不条理の感覚の原因となっているのが「木乃」の嘘であるということがわかっていることだ。</p>

<p>　「男色」と「虚言癖」という、もう一つのありがちなカップリングを見せるこのテキスト上の二つの汚名は、しかしそれらの直裁的な表出においては徹底的には深く指弾されることがないこともこの『贋学生』の特徴だ。そういう具体的な事実の表出によって「木乃」の人物像が読者に与えられるのではなく、「木乃」は小説の端緒からとにかくなんとなくいやな人物として記述され、「私」の目を通した、「木乃伊」に象徴されるような気持ち悪さの雰囲気として端から読者に刷り込まれてゆくのだ。そうして冒頭にも示したような「紫」色っぽい不気味さの基底音に見合うように、「男色」と「虚言」とがさしたる「私」の非難も拒絶もなくぽんぽんとさりげなく配置されるのである。</p>

<p>　「木乃」はその最初の登場の文から、つまり第一章の第二文で、次のような「疲れ」る男として読者に与えられる。</p>

<p>　●毛利に対して私は、さほどに気をつかう必要はなかったが、木乃が毛利だけでなく私に対しても、しきりに気を使っていることが、私の気持ちを一層疲れさせた。（ｐ７＝講談社文芸文庫に拠る。以下掲出ページは同）</p>

<p>　それだけではない。「木乃」に対する「私」の視線は初めからはなはだ意地悪である。</p>

<p>　●木乃は早速、毛利の方に身体をよじって何かしきりに話しかけ、そして毛利がいかにも面白そうに笑いこけているのを、皮肉な気持ちで私は感じていた。（ｐ８）<br />
　●どこといって言いようはないけれど、何となくいやしい仕草が、私をけげんな気持ちにさせた。（ｐ９）<br />
　●私は木乃の気持ちの動きをひどく軽蔑した。（ｐ９）</p>

<p>　テキストは過去形の時制を取りながらもあたかも現在進行中の出来事のように記述され、しかもときおりすべてが終わった時点からの省察も綯い混じる形を取る。したがって、読者としてはこれらいやらしさの感覚が、書き手である「私」の、出来事の最中の感想であるのか、それとも「木乃」が「贋学生」であると知れてからの後付けの感想であるのか判読できない。しかも、「どこといって言いようはないけれど、何となくいやしい仕草」（ｐ９）はやがて巧みにその「木乃」の肉体的特徴への嫌悪へとずらされるのである。前記四文の「木乃」の全体的な雰囲気への嫌悪は、その同じ第一章の最後で早くも次のように「肉」付けされるのだ。</p>

<p>　●紫の色彩から私は芝居の女形を連想し、木乃の腰が目立って太いことや、ふくらはぎも亦たっぷり肉付きのあることなどが、どうしたことか私の印象に強く残った。（ｐ12）<br />
　●顔だけでなしに、腰と言わず足と言わず、いつも女のようにみがいているような感じを受けた。（ｐ12）<br />
　●木乃は煙草をくわえた。（中略）両手の指のそれぞれが、べったり磯ぎんちゃくの運動のように、白い煙草をケースから抜きとり、口にくわえ、そしてマッチをすって火をつける。（ｐ13）</p>

<p>　いわば“男”の不快の感覚を総動員して提出されるこの「木乃伊之吉」を、そんなにもいやならば付き合わなければ簡単じゃあないのかと思うのだけれど、柄谷行人は講談社文芸文庫版の『贋学生』に収めたその秀逸な解説「『謎』としてとどまるもの」の中でこれを夢の不可抗力性に比し、「最初の出会いにおいてすでに私は疑うことを放棄している」と記述している。けれど、ではなぜに「私」はその「木乃」の「夢」を見つづけたのだろうか。</p>

<p>　フロイトを持ち出すまでもなく、より具体的な例証を昨年春の米国の学会誌「異常心理ジャーナル」の中に見いだすことができる。ジョージア大学の研究者が、異常心理としての「ホモフォビア（同性愛嫌悪症）」の正体を実験によって分析しようとしたものだ。</p>

<p>　実験は異性愛者を自称する被験男子学生六十四人を対象に、まず彼らを同性愛を嫌悪する者とべつに気にしない者たちとに分類して行われた。彼らのペニスに計測器を装着してともに男同士の性交を描いたゲイ・ポルノのヴィデオを見せる。すると二グループの勃起率に明らかな差異が認められた。ホモフォビアの男子たちの八〇％までに明らかな勃起が生じ、その平均はヴィデオ開始後わずか一分でペニスの周囲長が一センチ増大。四分経過時点では平均して一・二五センチ増になった。対してホモフォビアを持たない学生では勃起を見たのは三〇％。しかもその膨張平均は四分経過時点でも五ミリ増にとどまった。</p>

<p>　この実験結果に通底する事例をインターネットのニューズグループの書き込みにも見ることができる。ゲイの話題を扱ったニューズグループの書き込みの中に、毎日必ずといってよいほどの自称ストレートたちの罵倒の言葉がアップされるのだ。彼らは同性愛を異常、病気、変態と罵り、地獄に堕ちろとか銃で撃ち殺してやるとか書き込んでは素性を明かさずに消えてゆくのである。ニューズグループとはもとよりあるテーマでの情報交換を目的に開放されたネット上の架空空間である。したがって同性愛に関するグループにはほんらい同性愛者たちしかアクセスしない。彼らはそこでポルノ写真を交換したり情報をやりとりしたりしている。そんな場所にそんなにも同性愛が嫌いな輩が、わざわざアクセスしては貴重な時間を費やして一件一件「ホモ」たちの書き込みをブラウズし、写真をダウンしてみては反吐が出るとかの感想を吐き出し、憎悪の殴り書きをしては立ち去ってゆくのである。</p>

<p>　この二つの事例を突き合わせてみると、わたしたちは重大に入り組んだある矛盾に行き当たることになる。つまり、ホモセクシュアルたちが非難するホモフォウブの異性愛者たちのそのホモフォビアは、じつは異性愛者たちの中のホモセクシュアリティの裏返しの自己嫌悪であるということ。すると、同性愛者たちが非難しているのはじつは異性愛者ではなく自らの同性愛を認めない隠れホモたちであるということになる。したがって同性愛者たちによるホモフォビア解体のアクティヴィズムは異性愛強制社会全体の構造に対してではあるものの、じつはその中の隠れホモたちへの攻撃と炙り出しに向かうということであって、圧倒的多数を占めるとされる“真”の異性愛者たちにはあまり関係しない、内部抗争に矮小化されることになるのである。</p>

<p>　冒頭に記した「木乃伊之吉を救う」という行為の、いったい誰から彼を救うのかという見定めは、かくして「ホモ同士で勝手にやってればいいんじゃないの？」といった自家中毒に陥ることになるのだ。</p>

<p>　しかしこの命題のたてかたには統語上の主語の位相のずれが存在している。そのすべてはおそらく同性愛者は男性で全人口の一〇％だとか五％だとかいやそれよりもっと少ない一・六％程度だとかといった神話を背景にしている。この場合の「同性愛者」とは、本質主義でも構成主義でもどちらからでもよいがとにかく自らに同性愛者たる言葉を与えている者を指す。しかしホモフォビアとはもとよりある個人の中の異性愛性と同性愛性との葛藤の結果として現れる。それはセルフアイデンティフィケイションとは別の問題であり、むしろセルフアイデンティフィケイションの過程のせめぎ合いの（あるいは所与のものとしての異性愛信仰から生まれる無意識の齟齬の）結果で生まれる鬼子なのだ。</p>

<p>　フロイトは『性欲論三篇』の中で「人間に関しては純粋な男性も純粋な女性も心理的・生理的レヴェルでは存在しない。人間はすべて自らの性とその異性の性の特徴の混淆を示していて、能動性と受動性というこの二つの心的特徴が混じり合っている」と記している。そしてそのあとに性対象倒錯（inversion）を防止するためには（防止しなくてはならない理由は記述されない）社会的オーソリティによる禁止をしなければならないと説くのである。</p>

<p>　われらが友人のタイモン・スクリーチが今春まとめ上げた『春画』（講談社選書メチエ、高山宏訳）では、この「社会的オーソリティによる禁止」のなかった江戸時代のジェンダー、セクシュアリティの模様が厖大な資料によって一気に現代の知のパラダイムからひっぺ返されて提出されている。彼は「江戸という所でのジェンダーの意味」について、「今日とちがって、江戸の性【＠セクシュアリティ】は同性愛と異性愛という二項対立【＠バイナリズム】に拠って立ってはいなかった」として次のように記す。</p>

<p>　●男色と女色の区別をしないというのではない。した。しかしその区別は程度の上の区別であって、何やら絶対的なもの同士の対立というものではなかったのである。（ｐ50）<br />
　●要するに異性愛者【＠ヘテロ】、同性愛者【＠ホモ】をはっきり峻別できる固定された人間類型と見る感覚がなかったのである。男色、女色は要するに行為【＠・・】の謂【＠いい】であって、人間を指す女色-家、男色-家という語はない。（ｐ50）</p>

<p>　すなわちスクリーチは、社会的オーソリティの禁止のない社会である江戸では「どんな男にしろ女も少年も愛することが可能と考えられてい」て、「春画の力学【＠ダイナミクス】の中で」もその社会に忠実に性対象は男であっても女であっても「根本的なちがいはな」く、「自在無碍な二つのジェンダー間の移行」が「可能」なのだとするのである。その上で彼はこれを現代の「両性愛【＠バイセクシュアル】」とするのも「正確ではない」と断る。なぜなら「江戸には両性愛が横断していくべきそもそもの二項対立の感覚が存在していなかったからである」と説くのだ（第二章「分節される身体」、１江戸のジェンダー）。スクリーチを補足すれば、彼がここで「男色、女色は要するに行為の謂」とか男色は「一人の人間が丸ごとそうだというより、一人の人間の一個の趣味という扱い」とか言うときに、この「扱い」は逆に現代に置き換えることもまた正確ではない。</p>

<p>　このとき、「木乃伊之吉」を誰から救うのかという問題は、「ホモ同士で勝手にやってればいいんじゃないの？」という次元から現代の知【＠エピステモロジー】一般への課題として普遍化する。なぜなら、問題は同性愛者が全人口の一〇％とか五％だとかいったことなどではなく、敢えていえば「男なんてみんなホモ」だからである。もちろんこれは女でも少年でもこんにゃくでも木の股でも「愛することが可能」という意味において。そこではむしろ、“真”のヘテロセクシュアルの男性こそが一〇％とか五％とかのレンジでしか存在しない。そうしてここまで来て、「木乃伊之吉」は“ホモ”でもある“異性愛者”の「私」からこそ救われなくてはならないということがやっと明らかになる。</p>

<p>　さて柄谷行人は前述の解説評論の中で「木乃は『私』たちに男色を強い、」と物語のあらすじとともに「木乃」を紹介している。しかし、「木乃」と「私」の性交渉はどう読んでも「強い」られたものとは読めない。せいぜい「私」の「拒みきれない」性交渉といったところだ。それにしてもどうして「男色」が近代以後の文脈で登場するときには、あたかも自ら掘った穴に自ら落ち込んでいるかのような自家撞着的なプロブレマティクスとして「強いる」とか「拒む」とかが必ず言挙げされ、必ずなんらかの名目や譲歩節が男色の成立条件として言い訳のように提示されるのだろうか。</p>

<p>　最初の性交渉は「木乃」が「私」の「冷毒」なる赤い斑点を治療するという名目で行われる。「木乃は私のパンツをずるずるとはいで行」き、「私は自分の股間に熱い息吹を感じ」、「ふと木乃が大きく動き、私の股間は木乃の二つの臀部を感じ、私の位置は巧妙に木乃の手で転倒させられていた」のだが、「全くの受身でいる姿勢は、私に初めてのことであり、それの対応のしようがない」。これが第十四章「奇妙な処方」での描写である。いまひとつの交渉らしきものは後半に入った第二十二章「電話の効用」での描写だ。妹の見合い話を進行中の「木乃」が「私」の実家に泊まることになり、「木乃と私は二階に寝」ることになる。夜中に「私の腰のあたりになま臭い魚がまとわりつくので」「そのつもりで魚に手をかけてはがそうとすると、ずしりとした手応えがあったので眼が覚め」る。「木乃は」「寝返りを打ち、その拍子に彼の首を私の股の所にもって来た。そして彼の右手がするすると伸びて来て、私の股間は彼につかまれていた」。だが、「私は木乃をはっきり拒絶することが出来ない気の弱さを露呈し」、「彼のその無礼をはっきりはねつける勇気が出ないのはどういうことだ」と当惑するのである。</p>

<p>　「対応のしようがない」「勇気が出ない」のは「木乃」が旅行をおごってくれたり宝塚スターの「妹」を紹介しようとしてくれたり妹の見合いを進めてくれたりしている恩義からか、それとも「冷毒治療」や「寝ているときのおぼつかなさ」を男同士の性行為の「譲歩」条件として言い逃れられると思ってのことか。いやそもそも、この「木乃」の男色行為は「木乃」の人物像になんらかの不快の（あるいはさまざまな不快のヴァリエーションの一例としての）飾り付けをする以外に何の意味があるのだろう。「木乃」はべつに男色者でなくとも「小屋者の女形のような陰にこもった女性的な感じ」（ｐ44）でなくとも、「胆汁質」（ｐ63）で「尻は女のように大きくたれ下がっているように見え」（ｐ１００）なくともぜんぜんよいではないか。</p>

<p>　しかし「私」はその倒錯者「木乃」を通してやがて自分の中の女性性を次のように述懐するのである。</p>

<p>　●私は自分がいくらかしおらしく見え、そして自分の身体に女性を感じたりする。自分の身体の汚れや不如意や欠点を化粧と衣装で扮装するという思いつきは、何となく女性身らしく、私の即物的な戒律がそのような扮装と大して違いがなく、わが身があわれになるようだ。（ｐ１３９−１４０）<br />
　●私は、私の耳のあたりやうなじの辺が、女になったのではないかと錯覚した程だ。私は木乃のしつこい言葉を否定しながら、耳と皮膚がそれを喜び始めていた。（ｐ１９８）</p>

<p>　男性の他者の中に存在する女性性への嫌悪、そうして決定的にはならないまでも自らの中の女性性と男性性との葛藤の自覚──。</p>

<p>　ある不可解な人物が既成の関係性の中に不意に性的にも割り込んできてそれを攪乱し、そしてやはり唐突にいなくなる、というストーリーはピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』（一九六八年制作、ヴィデオは東芝ＥＭＩ）にも共通する。しかしその方向性は、この『贋学生』とはまったく逆である。このホモセクシュアルの映画監督／作家の登場させる「木乃」は完璧な美青年であり、この美青年に対するホモフォビアや不快はこの作品にはまったく存在しない。「木乃」と同じように不可解でときには「男色を（も）強い」る男なのだが、「女のような尻」は持っていないし美しいというだけで謎めいていることさえもが美徳になるこのありさまだ。これは制作された六〇年代後半当時の政治思想を基盤にイタリアの階級闘争とブルジョワジーの欺瞞を描いたものとされているが、じつはたんに男の裸を撮りたくて政治思想を衣服にまとっただけの映画ではある。だが、それでもここでは若きテレンス・スタンプ演じる不意の客であるこの青年の美しさに工場経営者の一家全員が、メイドを含め息子、娘、さらにあの能面のシルヴァーナ・マンガーノ演じる妻やその夫までもが顔を歪ませ彼とそれぞれに秘密の性交渉を持ち、そうして下層階級の出であるメイドは現人神となり、資本家一家のほうは、息子は自分の絵に小便を引っかけるし娘は目を開けたままベッドで動けなくなって入院するし妻は街で若い男をクルーズするし旦那は駅で全裸になって砂漠を彷徨うし、といった階級的因果応報譚に忠実に人生の断裂的大変身を経験してゆくのである。性はここではまがりなりにも人生の欺瞞を暴く起爆剤として提出される。</p>

<p>　対して『贋学生』では「木乃」によって「私」にはエクスプロージョンもインプロージョンも起こらない。起こるのは「私」の例の赤い発疹の「冷毒」からの回復と、「木乃と会ってからすべて妙な具合に解放されてしまった」（ｐ１９４）という癒しである。あたかも「木乃」が他者の厄災をすべて引き受け、自らそれら厄災もろともその身に火を放って蒸発してしまうというどこかの土地の身代わりの呪術師であったかのように、「私」の忌むべき内的女性性はこうして昇華されるのである。</p>

<p>　「木乃」はそのとき、感謝されこそすれ忌み嫌われるべき人物ではないはずだ。「木乃」が消えたあとで「私」が「だが一体木乃伊之吉は何を目的で私たちに近づいたのだろう」と思い返し、「その目的が何であったか私には分からない。むしろ利益を得たのは私たちの方であったと言えそうではないか」（ｐ２６０）と自問するなら、その答えはまさに「イエス」なのである。じじつ、「私」はいままさに雨中に逃げ去ろうとする「木乃」の後ろ姿に向けて「落ち着け、待て」と声をかけながら、「奇妙なことに、もう確かにうさん臭い存在に違いない木乃伊之吉に、今迄にない愛情のかたまりみたいなものが胸につき上げて来たのを知」（ｐ２５７）るのだ。</p>

<p>　そう、感謝と忌避とは相反しない。すなわちその感謝に辿り着く道がゆいいつ忌み嫌うべき人物への自己嫌悪の、すなわち自らのホモセクシュアリティとホモフォビアとの投影と仮託と身代わりとを経て、その引き換えとして初めて達成されるものなのだとしたら、それはつまりは自己の外に忌み嫌うべき身代わりの他者の想定こそが必要だったということであり、自己の一部を自己の外に強いて切り離すという奇妙にねじくれた意図の（つまりは強制的な異性愛主義に屈した意図の）反映であるのだ。「私」が感じた「木乃」への「愛情のかたまりみたいなもの」は、それはまさに廃棄する自己の一部への未練と哀惜にほかならないのである。みずからの内部に在っては愛されず、捨て去るときにのみ余裕を持って自覚できるつねに過去形としての愛の発露。すべては「私」の一人芝居。そう思ってはたと思い返してみれば、『贋学生』のテキストのスタイルは「木乃」が嘘の信憑性を高めるために多用した「電話の効用」とまったく同じく、全体をとおして一度も「私」の心象以外に人物描写や事件描写になんの客観的な物証を示さない形を取っていたではないか。おまけに「木乃」の妹と吹聴される宝塚スターは、まさに彼女こそがゆいいつ「私」たち三人の男同士のホモソシアルな関係性の古典的なアリバイとして繰り返し閉鎖的に内輪同士で交換され、三人のホモセクシュアリティを隠蔽するかのようにホモソシアルでホモフォビックな幻想を補強し、幻想であることが明らかであるにもかかわらずほとんどすがりつくような強さで、あえて、強いて、信じつづけられていたのだ。あたかもヘテロセクシュアリティこそがそこではフィクションであったかのように。</p>

<p>　それらもろもろを引き剥がして考えてみれば、「木乃」はおそらく、“あんな”男色者でなくともよかった。「木乃」はおそらく、女のような尻をした胆汁質のステレオティピカルないやな奴でなくともよかった。“オカマならでは”の虚言癖の変態でなくともよかった。テレンス・スタンプ並みの絶世の、妖しい美青年であったってよかったのだ。彼もまた、いっさいの説明を放棄して「夢」のように登場し性交し去ってゆくのだから。</p>

<p>　だがおそらくその場合、「私」はきっと彼と寝る。拒絶もなにも、あらかじめの逡巡はそれこそ放棄してあるいは圧倒的に圧倒されて、一度はぜったいにじゅんすいに惚けたように彼と寝るはずだ。その場合、「私」の自ら忌む内的女性性は昇華されないばかりか深化しさえするだろう。「木乃」は身代わりの棄却でなく永遠の（あるいは達成されない、あるいは逆にさらに忌むことさえするような）憧憬として「私」の中に種子を宿すだろう。そのとき、『贋学生』のテキストは『テオレマ』の結末のように絶対的に解体してゆくのである。それはおそらく、困るのだ。その覚悟ができていないときには、したがってこのテキストはこのエッセイの冒頭に記したように、あらかじめのスティグマとカップリングにされた「木乃伊之吉」なる人物のいやらしさこそが必要だったのである。</p>

<p>　こうして「木乃」の“不快”は、「私」の“回復”のためにのみ冒頭からデッチ上げられることになった。それが見えたとき、この『贋学生』の物語はすべて「木乃」のではない、じつは「私」のほうの嘘の（あるいは虚構の）、捏造された「男色者」を生け贄とする切り離しと棄却の物語だったという、ぼうっとした紫の色を帯びはじめるのである。“男”とはこうしていま、ほとんどがホモフォビアを介してしか異性愛者になれないほどに情けなくホモセクシュアルなのである。</p>

<p>　それにしても島尾敏雄の困難──。このエッセイは作家本人の実生活を対象にするものではないが、特攻の問題にしてもこの「木乃」のことにしても、なにやらわからぬ外部からの力に対し、この作家はそれに対応する自らの内部を、たとえ時代の拘束としてそれ以上は不可能であったり不能であったりはしながらも、つねに見出そうとはしているのである。『贋学生』の「木乃」の嘘は、つまりは間接的な「私」の嘘は、やがてその十年後の『死の棘』で、あたかも地中深くひっそりと根を伸ばしていたかのように「私」本人の嘘として真正面から噴出することになる。「木乃伊之吉」の次に今度は、「島尾敏雄」をこそ救ってやりたくなってしまうほどに、それは作家自身の手によって徹底的に責められることになるのである。<br />
（了）<br />
</p>]]></description>
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         <category>Queer Reading</category>
         <pubDate>Fri, 01 Dec 2006 20:33:54 -0500</pubDate>
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