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May 11, 2018

『君の名前で僕を呼んで』試論──あるいは『敢えてその名前を呼ばぬ愛』について

これは男性間の恋愛感情に関する映画です。その恋愛感情に対する是非はあらかじめ決まっていて、そこに向かって進んでゆくストーリーになっています。この映画は、その答えを提示したかったがための映画かもしれません。その答えというのは、最後に近い、エリオが一夏の別れを経た部分で、父親が彼に向けて説く「友情」あるいは「友情以上のもの」と呼んだこの恋愛感情への是認、肯定です。この映画の影の主人公は、その答えを差し出してくれるエリオのこの父親と言ってもよいかもしれません。

まだ原作を読んでいないのでこれが原作者の意図なのか、あるいは脚本を書いたジェイムズ・アイヴォリーの企図なのかじつは判断しかねるのですが、しかしいずれにしてもこれを映画の中でこういう形で提示しようとアイヴォリーが決めたのですから、アイヴォリーの思いであるという前提の上で考えていきましょう。この父親は、アイヴォリーです。だからこの映画の影の主人公も、じつはアイヴォリーなのです。

映画の設定は1983年の夏、北イタリアのとある場所。ご存知のようにJ.アイヴォリーは1980年代に『モーリス』という映画の脚本を書き、自ら監督しました。こちらはE.M.フォスターが1914年に執筆した同性愛小説が原作です。

片や1900年代初頭を舞台に1987年に製作された『モーリス』。
片や1983年を舞台に2017年に製作された『君の名前で僕を呼んで』。

この2つの時代、いや、正確には4つの時代は、とても違います。違うのは、先ほど触れた「男性間の恋愛感情」への是非の判断です。20世紀初頭は言うまでもなく男性間の恋愛は性的倒錯であり精神疾患でした。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との恋愛関係で裁判にかけられ、有罪になったのはつい20年ほど前、1895年のことでした。20世紀初頭、E.M.フォスターはもちろんそれを深く胸に(秘めたトラウマとして)刻んでいたはずです。一方で『モーリス』が作られた1980年代半ばはエイズ禍の真っ最中です。『モーリス』には、その原作年、製作年のいずれにおいても、男性間の恋愛を肯定的に描く環境は微塵もなかった。

対する『君の名前で〜』の1983年は、かろうじて北イタリアの別荘地にまでエイズ禍がまだ届いていなかったギリギリの時代設定です。聞けば原作では時代設定が1987年だったのを、アイヴォリーが83年に前倒ししたのだとか。男性間の恋愛が、秘めている限りまだ牧歌的でいられた時代。まさにエイズ禍の影を挿し挟みたくなかったがゆえの時代変更かもしれません。そして2017年という製作年は、もちろん欧米では同性婚も認められた肯定感のプロモーションの時代です(おそらく企画段階ではトランプの登場も予測されていなかったはずです)。

アイヴォリーは、この『君の名前で〜』によって、『モーリス』(の時代)には描けなかった「男性観の恋愛感情」への肯定感を、(『モーリス』製作の後でいつの間にかゲイだとカミングアウトしていた身として)自分の映画製作史に上書きした(かった)のだろうと思うのです。

もっとも、この映画には『モーリス』の上書き以上のものがあります。アイヴォリーは同性愛映画の名作の手法をさりげなく総動員させています。いたるところに散りばめられている『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュ、そして『ムーンライト』のタイムライン。

アイヴォリーの(あるいは監督のルカ・ グァダニーノの)描いた「肯定感」の醸造法は『ブロークバック』からの借用です。『ブロークバック』ではエニス(ヒース・レッジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)の逢瀬にはいつも水が流れていました。大自然の水辺という清澄な瑞々しさが彼らの関係を保障していたのです。一方でエニスとその妻アルマ(ミシェル・ウィルアムズ)の情交は常に埃舞うアメリカの片田舎での、軋むベッドの上でした。

それは『君の名前で〜』に受け継がれています。エリオとオリヴァーはいつも別荘のプールで泳ぎ、その脇で本を読み、思索をして過ごします。その水辺でエリオのオリヴァーに対する思いはスポンジのように(!)膨らみ、やがて初めて辿り着くキスはエリオが「秘密の場所」と呼ぶ清冽な池のほとりです。一方でエリオとマルシアの、成功した2度目の性交は使われていない物置部屋の、やはり埃舞い上がるマットレスの上でした。

それにしても男性観の恋愛への肯定感を醸成するために『ブロークバック』でも『君の名前で〜』でもこうして女性との関係性をそれとなく汚すのはたとえ対比とは言えなんとも不公平というかズルい気がするのですが……。

ズルいのはもう1つ、エリオの17歳という年齢です。男性なら(あるいは女性でも)わかると思いますが、17歳の男の子というのは頭の中まで精液が詰まっているような、身体中がそんな混乱した性の海に浸かっています。意識するしないに関わらず何から何までもが性的なものと関係していて、時に友情と友情以上のものとの狭間もわからなくなったりします。自分の欲望の指向するものがなんだかわからなくなって、その人が好きなのか、その人とのセックスが好きなのか、それともセックスそのものが好きなのかもわからなくなって、自分は頭がおかしいのかと本当に気が狂いそうになったりもするのです。

だって、アプリコットですよ。桃ほどに大きなアプリコットを相手に自慰をして(そしてそれは日本で巷間言われるコンニャクとか木の股とかとは違ってとてもお尻=肛門性交に似ているのです)、その後で眠ってしまった自分のおちんちんをフェラしてきたオリヴァーに「何をしたんだ?」と冗談混じりに訊かれるわけです。エリオは真剣に打ち明けます。「I am sick(僕はビョーキだ/頭がおかしい)」と。

もうそういう年齢を過ぎているオリヴァーはその告白の深刻さを真に受けません。「もっと sick な(気持ち悪い、頭の変な)ことを見せてあげる」と言ってそのアプリコットを食べようとまでする。そこでエリオは本当に泣くのです。「Why are you doing this to me?(なんで僕にそんなことをするんだ)」。それはオリヴァーにとってはお遊びですが、17歳の真剣に悩むエリオにとっては自分の「ビョーキ」を当てこする「辱め」「ひどい仕打ち」なのです。彼はそれほど自分のことがわからなくなっている。そしてオリヴァーの胸に顔を埋めながら(でしたっけ?)「I don't want you to go....(行かないで)」と絞り出すように呟くのです。

この「17歳」の告白を、性的混乱として受け取るのか、性的決定として受け取るのか、その選択をアイヴォリーは表向き、観客に委ねているように見えます。というのも、この年齢的な局面は『ムーンライト』(2016年)にも描かれていましたから。

『ムーンライト』はシャイロンという1人のゲイ男性の少年期、思春期、そして成年期の3部構成で描かれ、ティーネイジャーの第2部で描かれるシャイロンは同級生のケヴィンとドラッグをやりながら(これも海辺で)キスをし、ケヴィンから手淫を受けます。シャイロンはその優しいケヴィンとの思い出を胸に、以後、第3部で筋骨隆々のドラッグディラーとなってケヴィンと再会したその時まで、誰とも触れ合わず、誰とも抱き合いもせずに生きていたのです。

私たちは過去の何かから変化して大人になっていくのではありません。過去の何かは大人になってもいつも自分の中にあります。まるでマトリョーシュカ人形のように、過去の何かの上に新たな何かを作り上げ、それが以前の自分に覆い被さって大きくなっていくのです。シャイロンはゲイですが、ケヴィンはゲイではありません。大人になった2人には本来ならあの青い月明かりの海辺での、思春期の関係性は戻ってこないはずです。けれど、いまのシャイロンの筋骨隆々のあの肉体の下に、おどおどした十代のティーネイジャーのシャイロンも生きていて、同時にマイアミでダイナーのシェフとして働く様変わりしたケヴィンの中にもその皮膚の何層か下にあの海辺のケヴィンが生きていて、そのケヴィンはまるでマトリョーシュカの一番上から何個かの人形を脱ぎ捨てるようにして、逞しい今のシャイロンの下にいるひ弱なシャイロンを抱きしめるのです。そう、私たちは私たちの中に、今も17歳の自分を飼っている。

十代のそれらは性的混乱なのでしょうか? あるいはそれは思春期に起こりがちな性的未決定なままの性の(そしてその同義としての愛の)横溢だったのでしょうか? アイヴォリーがその判断を観客に委ねるふうに提示しているのは、私はズルいと思います。ここから例えば、「これはゲイ映画ではない」という言説が生まれてきます。「これはLGBTの話ではなく、もっと普遍的な愛の物語だ」という、お馴染みのあの御託です。

実際、3月初めの東京での『君の名前で〜』の試写会では、試写後に登壇した映画評論家らが「僕はこの作品を見て、LGBTを全く意識しませんでした。普通の恋愛映画と感じました」「ブロークバックマウンテンは気持ち悪かったけど、この映画は綺麗だったから観易かった」「この作品はLGBTの映画ではなく、ごく普通の恋人たちの作品。人間の機微を描いたエモーショナルな作品。(LGBTを)特別視している状況がもう違います」云々と話していた、らしい(ネット上で拾った伝聞情報です)。

それはどうなんでしょう? どうしてそこまで「ゲイでない」と言挙げするのでしょう? まるでそれを強調することが、より普遍性を持った褒め言葉であるかのように。

私はむしろ、「17歳」は「ゲイでもあるのだ」と捉える方が自然だと思っています。精液が爪先から頭のてっぺんにまで充満しているような気分の、そして知らないうちにそれが鼻血になってのべつまくなし漏れ出てしまうようなあの時代は、混乱とか未決定とかそういうものではなくむしろ、すべての(変てこりんさをも含んだ)可能性を持ち合わせた年齢だと見据える。そこでは友情すらも性的な何かなのです。そう捉えることこそがありのままの理解なのではないか? 社会的規範とか倫理観とか制約とか、そういうものに構築された意味を剥ぎ取ってみれば、それも「ゲイ」と呼ぶことに、何の躊躇があるのでしょう?

いま90歳のアイヴォリー自身に、そこまでの肯定感があるのかはわかりません。アイヴォリーの分身であるエリオの父親のあの長ゼリフは、自らはその肯定感を得る前に身を退いてしまった後悔とともに語られます。この映画自体、「未決定」で「混乱」するエリオの自己探索の、一夏の出来事のように(表向き)作られてはいるのですから。

自己探索──それは冒頭の、エリオが目を止めるオリヴァーの胸元の、ダヴィデの星、六芒星のペンダントによって最初に暗示されます。それは自らのアイデンティティの証です。そしてそのペンダントの向こうには胸毛の生えた大人の厚い胸があります。オリヴァーは知的で、自分が何者かを知っていて、しかも胸毛のある大人です。それらは今のエリオにはないものです。オリヴァーは到着した最初の日に疲れて眠りたくて夕食をパスするような、礼儀知らずの不遜なアメリカ人として描かれます。それもエリオが持ち合わせていないものです。なんだか気に食わないけれどとても気になる存在として、エリオはオリヴァーに憧れてゆく。「自己」をすでにアイデンティファイしている(と見える)24歳のオリヴァーに惹かれるのです。

そう、これはエリオにとっては自己探索の映画でもあります。けれど視点を変えれば、これは実は、オリヴァーにとってはとても苦しい言い訳の映画であることもわかってくるのです。

それを象徴するのが「Later(後で)」という彼の口癖の言葉です。

なぜか?

オリヴァーがエリオに「Grow up. I'll see you at midnight(大人になれ。今夜12時に会おう)」と告げたあの初夜のベッドで、この映画のタイトルにもなる重要な言葉、「Call me by your name, and I call you by mine(君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名前で君を呼ぶ)」と提案したのが、エリオかオリヴァーか、どちらだったのか憶えていますか?

これを「2人で愛を交わし、お互いの中に自分を差し出した関係において、君は僕で、僕は君なのだ」というロマンティックな意味だと捉えることは可能でしょう。そしてエリオにとってはもちろんそうだった。エリオはそういう意味だと受け取ったのだと思います。けれどオリヴァーにとって、この呼称の問題はそんなに単純にロマンティックなものではないのです。

この呼称はオリヴァーからの提案です。そしてそのオリヴァーは、すでに自己探索を終えたクローゼットのゲイ男性なのです。

この映画の早い段階で、オリヴァーはエリオの危うい感情に気づいています。初夜の後でいみじくも告白したように彼はあのバレーボールのとき、半裸のエリオの肩を揉んで「リラックス!」と言ったときに、すでに彼に狙いをつけていたのでした。さらに2人で自転車で街に行って、第一次世界大戦のピアーヴェ川の戦いの戦勝碑のところでエリオに告白されようとしたとき、それが何かを聞く前に「そういうことは話してはいけない」とエリオを制したのです。さらにさらに、その後のエリオの「秘密の場所」への寄り道でキスをしたとき、それ以上のことを拒んで自分の脇腹の傷の化膿のことに話を逸らしました。これらは自制心の表れではありません。これらは、自制心を失ったらどうなるかを知っているクローゼットのゲイ男性の恐怖心です。クローゼットのゲイ男性として、彼はその種の決定をいつも「Later」と言って先送りにしてきたのです。

それらの伏線となるのが、ピアーヴェの直前のシーンの、エリオの母親の朗読による16世紀フランスの恋愛譚『エプタメロン』のストーリーです。ドイツ語版しか見つからなかったその本は、ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、母親はその中から王女と若きハンサムな騎士の物語を英語に訳しながら読み聞かせます。騎士と王女の2人は恋に落ちるのですが、まさにその友情ゆえに騎士は王女にそのことを持ち出して良いのかわからない。そして騎士は王女に問うのです。「Is it better to speak or to die? (話した方がいいか、死んだ方がいいか?)」と。エリオは母親に自分にはそんな質問をする勇気はないと言います。けれど横でそれを聞いていた父親は(ええ、あの父親です)エリオに「そんなことはないだろう」と後押しするのです。

ちなみにエリオの父親はエリオのオリヴァーに対する友情以上の感情を「母さんは知らない」と言うのですが、母親はもちろん知っています。すべての母親は、もちろん息子のそのことを知っているのです(笑)。

この母親による『エプタメロン』の朗読の力(to speak or to die=まるでシェイクスピアのセリフのような「話すべきか、死ぬべきか」の命題)で、その直後のエリオはあのピアーヴェの戦勝碑のところでオリヴァーに告白しようと勇気を振るうわけです。告白の決心とともに、カメラは一瞬、頭上の胸懐の十字架を見上げるエリオの視線をなぞるように映します。そうしてからオリヴァーに向き合うエリオに対し、ところがすでにその素振りを察知しているオリヴァーは「そういうことは話していけない」と制止するのです。また Later と言うかのように。

これは自制心ではなく恐怖心だと書きました。なぜか?

ここに繰り返し現れる「話す/話さない」という命題は、ゲイへの迫害の歴史を知っている者には極めて重要かつ明白なセンテンスを想起させるのです。それは先でも触れたオスカー・ワイルドの有名なフレーズ、「The love that dare not speak its name」です。「敢えてその名を言わぬ愛」──ワイルドは、ダグラス卿との男色関係を問われた1895年の裁判で自分たちの恋愛をそう形容し、結果、2年間の重労働刑に処せられたのでした(このことは結局、オスカー・ワイルドの名声を破壊し、彼は悲惨な晩年を送ることになるのです)。知的なオリヴァーがワイルドの人生の恐ろしい顛末を知らないはずがありません。しかも1983年は、北イタリアの別荘地でこそエイズの影はありませんが、オリヴァーのアメリカではすでにレーガン政権の下、エイズ禍の表面化と拡大と、それに伴う大々的なホモフォビア(同性愛嫌悪)が進行していました。ゲイであることはまさに「話すか、死ぬか」の二者択一でしかないほどの恐怖でした。彼がクローゼットである事実は、誰もがクローゼットに隠れていた時代を示唆しているにすぎません。「敢えてその名を言う」者とは、つまりクローゼットからカムアウトするゲイたちのことです。そしてあの時代、彼らはほぼ、「エイズ禍と闘う」という社会的な大義名分を盾としなければ敢えてその愛の名前など口にできなかったのです。

そう、「君の名前で僕を呼んで」と提案したのはオリヴァーです。それは実は「敢えてその名前を呼ばぬ愛」の方法なのです。相手の名前を呼べば、それが「同性愛」という名前のものだと知られてしまうからです。だから彼は自分の名前で相手の名前を代用させた……その底に流れているのは恐怖心なのです。エリオが母親から『エプタメロン』の話を聞かされたと話したときに、オリヴァーが、騎士が王女にその思いを話したのか話さなかったのか、その結果を妙に気にしたのもそのせいです。

ピアーヴェの戦勝碑のシーンから、エリオの心はオリヴァーに決めています。その時のエリオはいつの間にかオリヴァーのダヴィデの星のペンダントを自分のものにしています。自分のアイデンティティを選び取り、身に着けたのです。けれど肝心のオリヴァーがそこからビビり始める。だから「Trator! (裏切り者!)」と罵りたくもなるのです。なにせ、オリヴァーはエリオとの性的な場面ではまるで日常を転換するように普段は吸わないタバコを吸うのですから。あたかも酔わなければ性交できない弱虫のように。

ラストシーンに向かってまた『ブロークバック・マウンテン』が出てきます。ジャックが隠し持っていたエニスのシャツのように、エリオはオリヴァーが到着した初日に着ていた青いシャツも手に入れています。そしてとうとう帰米することになる前に、2人で旅行したベルガモでいっしょに緑濃い山に登るのです。そこには滝が流れてもいます。一心不乱にこの「ブロークバック・マウンテン」を駆け上がるエリオの後ろで、ところがオリヴァーは一瞬その足を止め、山と反対方向に向き直って遠くを見つめるのです。それが何を意味しているのか、そのとき彼が何を見ていたのか。もう言わなくてもわかりますよね。その年の冬、電話の向こうからオリヴァーはエリオに結婚することを告げます。彼女とはもう2年前から付き合っていたのだと。

そして最後の3分半の長回しがスタートします。エリオの顔には、彼が見つめている暖炉の炎の色が反射しています。それは赤く燃える彼の性愛の象徴です。その向こう、エリオの背後の窓の外には雪が降っています。そしてその雪とエリオの間に、ハヌカの食卓の支度をする家庭が介在しています。

この三層構造も、実は『ブロークバック』のラストシーンと呼応しています。時が経ち、老いたエニスのトレイラーハウスの中、そこにはエニスの性愛の象徴のブロークバック・マウンテンを写した絵葉書が貼ってありました。それが貼られているのはトレイラーハウスに置いたクローゼットの四角い扉でした。そしてクローゼットの横には窓があり、その窓からはうら寒い外の世界が見えていたのです。その三層構造。

エリオの見つめる炎、温かい室内、そして外の雪世界──アイヴォリーが提示したのは、『モーリス』で描けなかった肯定感だと最初に書きました。そのためにこの最後の三層構造は、『ブロークバック』のラストシーンの三層構造と1つだけ違っています。それは『ブロークバック』での「クローゼットの四角い扉」が、「温かい家庭」に置き換わっていることです。エニスの性愛を守ったのがクローゼットだったのに対し、エリオの性愛を守るのは家庭なのです。

『ブロークバック』のラストシーンは1983年の設定です。スタートは1963年でした。1963年からの20年間を引きずるエニスの破れなかった「クローゼット」。それをアイヴォリーはその同じ年の冬に「温かい家庭」に置き換えて、2017年からエリオを鼓舞しているのです。


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註)まだ1回しかこの映画を観ていないので、記憶違いや細部に関して見逃している部分がいくつもあると思います。
例えば、半ばごろに登場するヘラクレイトスの『Cosmic Fragments』という本。これは福岡伸一さんも敷衍した「動的平衡」の考え方の土台である「万物は流転する」というテーゼの本です。「同じ川に2度と入ることはできない」という有名な譬え話に象徴されますが、これは私が持ち出した「マトリョーシュカ」の話と矛盾します。それはどう解決するのか、私にはまだわかりません。
もう1つ気になったのは、画面に何度か登場するハエです。あれは何なのでしょう? 確かエリオがオナニーをしようとするシーン、それと最後の長回しのシーンでもハエが映り込んでいました。あのハエに何か意味を持たせようとすると(いろんな可能性を考えて観ましたが、そのいずれも)変なことになります。その1つが迫り来るエイズ禍の影の象徴というものです。その読みは可能だけど、安易すぎるし表層的なホモフォビアにつながります。もしこのハエの映り込みが意図的ではないならば、あるいは意図的であったとしたらなおさらあれは無意味かつ有害ですので、事後の画像処理で消すべきじゃないかと強く思います。
あと、ヘーゲルの引用にどういう意味があるのかはまだ考えていません(笑)。

March 22, 2018

物見の塔の王子が見たもの ──プリンスと「エホヴァの証人」考

プリンスが「エホヴァの証人」に改宗したという報が一般に広まったのは2001年5月27日付のAP電による。同月号の「ゴッサム」誌のインタヴュー記事を基に、「エホバの証人」であるプリンスが次のように語ったと紹介する記事だった──「汚い言葉を使うとその言葉が過去に起こしたすべての怒りやネガティヴな経験を呼び起こすことになる。それは自分自身に向けられる。そんなこと、イヤだろう?」「暴力を目にすると親は一体どこにいるんだと思う。彼らの人生で神はどこにいるんだと思う。子供っていうのはどんなプログラムでも取り入れてしまうコンピュータみたいなもんで、おかしなことが起きるんだよ。子供なのにタバコを吸ったりセックスしたり」

見出しは「G-rated Prince?」というものだった。「X-rated」の歌詞やケツ出しパンツのヴィデオクリップを作ってきたプリンスが、「G–General Audiences(一般向け)」にレイティングされるアーティストになったのが信じられないというニュアンスだった。

       *

プリンスの訃報を受けて世界中で彼の音楽的な功績や革新性を讃えるテキストが溢れた。日本も例外ではない。ただ、彼と「エホヴァの証人」に関するもの、なぜ彼の音楽が変わっていったのかについて書かれたものはあまり目にしない。

音楽の起源が祭祀と労働にあるのだとすれば、それが宗教や政治という社会的なメッセージを自ずから纏うのは至極当然のことと思われる。ゴスペルに限らず、アメリカではキリスト教絡みのカントリーやポップスを専門に流す教会系のラジオ局がいくつも存在し、それらはテレビ伝道師のメガチャーチとも繋がって(80年代をピークに)小さからぬマーケットを築いてきた。(政治的なメッセージを含む楽曲およびアーティストに関しては説明するまでもないだろう)

あのボブ・ディランでさえ、1979年にキリスト教への入信を公にし、その新たな信仰を基としたとされるアルバムを3枚リリースした。ディランはそうして数年にわたってツアーのステージ上から説教をしていたのである。しかし彼がキリスト教音楽のサブカルチャーの一部になることはなかった。ディランのファンは常にそんな彼に懐疑的だったし、宗教を説く彼にカネを払うこともすぐに飽きてしまった(Encyclopedia of Contemporary Christian Music by Mark Allan Powell, 2002)。かくしてディランは1981年にはもう宗教を歌うことをやめてしまう。批評家もファンもそれを大いに歓迎した。

しかし、ことは『Jack U Off』や『Sexy MF』『Cream』という曲を書いてきたプリンスの話である。たとえ「ゴッサム」誌やAP電の記事でもにわかには信じられることがなかった。ちなみに『Jack U Off』は「おまえを手でイカせる」という意味だし、「MF」は最大の忌避語「マザーファッカー」の頭字語、『Cream』とは「精液」のことだ。

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「エホヴァの証人」とは、キリスト教主流派の「神とキリストと聖霊の三位一体」を否定し、唯一神エホヴァを崇拝の対象することからキリスト教の異端もしくは非キリスト教とされる宗教集団だ。近い将来に現在の世界を破壊するハルマゲドンが起きて地上は千年の時を経て創世記に描かれる楽園「神の王国」に回復されるとする。そしてそれこそが人間の直面する問題を解決する唯一の方法であると説くのである。

「血を避けるべき」とする聖書の記述により輸血を拒否するため、日本でも1985年6月6日、10歳の小学生男児が交通事故に遭い、両親が輸血拒否したことにより死亡したとされる「川崎学童輸血拒否事件」、また、「戦いを学ばない」「剣を取るものは剣によって滅びる」という聖書の記述を理由に格闘技への参加も禁止していて、これも日本では学校での必須科目の剣道を履修せずに退学や留年となったケースを最高裁(1996年3月8日)まで争った「神戸高専剣道実技拒否事件訴訟」で名を知られている。

伝道者数は世界で820万人、キリストの死に感謝する「主の記念式」には世界で2000万人の信者が出席するとしている。その教義はことごとくプリンスのそれまでの歌詞の示唆してきたもの──淫行、肉欲、乱行、強欲、マスターベーション──と相入れない。「エホヴァの証人」以外の信仰を持つ者や非信仰者とは付き合ってはいけないし軍隊に入ることも国旗を掲揚することも選挙で投票に行くことも禁じている。ヨガもスポーツも喫煙も薬物もダメだし、クリスマスもヴァレンタイン・デイも祝うことはない。

そこに2003年10月15日付の「エンターテインメント」誌が(これも地元ミネアポリスの「セントポール・スタートリビューン」紙の記事を基に)戸別訪問して勧誘するプリンスの伝道師ぶりを全米に報じて、改めてその改宗が確認されたのだった。

曰く──ミネソタ州エデンプレーリーのロシェルという女性が同紙に語ったところによると、前週の日曜の午後2時に家のドアがノックされ、彼女の夫が出てみるとそこに紫のポップスターが宗教勧誘に立っていた。彼は「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」という本名を名乗って、一緒にいたファンクバンド、スライ&ザ・ファミリーストーンの元ベーシスト、ラリー・グラハムとともに家に入ってきた。彼女は最初「なんてクール(最高)なこと!」と思ったが、プリンス・ネルソンは「エホヴァの証人」の話を始めた。そこで彼女が「ここはユダヤ人の家よ。お門違いだと思う」と言うと、彼はそれでも最後まで話したいと言うのである。横にいたグラハムが聖書を取り出してユダヤ人とイスラエルの土地のところを読みだし、それから話は25分ほど続いた。やがて「ものみの塔」のパンフレットを取り出すと、彼らはそれを渡して家を出、外に停めてあって大きな黒いトラックに乗り込んだ。助手席には長い黒髪の女性が乗っていて(おそらくブリンスの2番目の妻マヌエラ・テストリーニ)、面白いことに他の家にはまったく立ち寄らずにそのまま走り去った。「すごく変な感じで笑うしかなかった」とロシェルは言う。「(ユダヤ教で最も重要な日とされる)『贖罪の日』の数時間前にユダヤ人の家に来て改宗を試みるなんて、きっとよく知らなかったんだわ」と。

       *

死の直後に「ビルボード」誌などが伝えたのは、プリンスの最初のバンド「ザ・レヴォルーション」の結成メンバーだったウェンディ・メルヴォインとリサ・コールマンのエピソードだ。

二人は幼なじみで恋人同士でもあった。プリンスの音楽上での家族がいたとしたら、彼女たちがそれだ。その二人が2000年にレヴォルーションのツアーをやろうとプリンスに持ちかけたとき、彼女たちは当然「イエス」という答えが返ってくると思っていた。しかし違った。「彼はやらないと言った。何故なら私が同性愛者だから。それに半分ユダヤ人の血が入っているからだと」。そしてもし一緒にやりたければ記者会見を開いて、そこで自分の同性愛を反省し、「エホヴァの証人」に改宗すると発表しろと言われたのだという。「もう二度と彼から連絡が来ることはないだろうと思った」とメルヴォインは言う。

しかし実際はその6年後、三人はロンドンの同じステージに立つことになる。メルヴォインとプリンスは互いに肩をぶつけ合いながらギターを弾き、コールマンはピアノを弾いていた。

バンドの最初期には二人が同性愛者であることを知った上でそれを受け入れ、次にはそれを理由に手ひどく拒絶し、次にはまた何もなかったかのように受け入れる。40年近くの彼の音楽人生で、享楽的な性の追求と敬虔な信仰をめぐるこの謎だらけの矛盾がプリンスを貫いている。言い方を換えれば性と快楽を歌うのと同じ分だけ、神と天罰の恐怖が彼の人生と音楽に漂っていたのかもしれない。

       *

彼の最初で最大の世界的ヒットとなった『When Doves Cry』(これを『ビートに抱かれて』という邦題にした1984年の日本のセンスはここでは問わない)は映画『パープルレイン』の中心的テーマとされる。この半自伝的物語は自分の内面と外部世界との葛藤・衝突を描くのだが、『Doves』の歌詞は自分と相手との、汗の重なる濃厚なキスを描いて始まる(Dig if you will the picture /Of you and I engaged in a kiss /The sweat of your body covers me)。

第二連でそれはさらに幻想的に飛躍し、紫スミレの満開の中庭でサカる姿の獣たちの夢想へと誘う(Dream if you can a courtyard /An ocean of violets in bloom /Animals strike curious poses /They feel the heat /The heat between me and you)のだが、そうした極めて性的な連想が第三連では不意に現実の人生へと引き戻されるのである。

「どうしてこんな冷酷な世界に僕をひとりぼっちに置き去りにするんだ?(How can you just leave me standing? /Alone in a world that's so cold? )」
「きっと自分のせいだ。父みたいに厚かましいからだ。そしてきみは母のように不満ばかりだ(Maybe I'm just too demanding /Maybe I'm just like my father too bold /Maybe you're just like my mother /She's never satisfied)」
と。

とはいえ、ここでも「bold」は性的な厚かましさや大胆さを、「satisfied」も性的な充足感を暗喩している。いや逆に、性的な意味が明示され、性格としての「図々しさや不満」の方が暗喩なのかもしれないが。

そして歌詞はリフレインされるサビに続くのである。

Why do we scream at each other
どうして僕らは怒鳴り合うのか?
This is what it sounds like
その声はまるで
When doves cry
鳩が泣くときのよう

「性」と「生」とがここでも軋み合う。鳩が「鳴く」ときの「クー、クー(Coo)」という性的な囁きや喘ぎ声を思わせながら、その実、彼は「泣く、叫ぶ(cry)」という動詞を置くのだ。そしてそれは誰もが気づくように「平和」がかき乱されていることを共示する。なぜなら、破壊的な父親から距離を置こうとすればするほど、その父親のように性的に「bold」で快楽的な自己に気づくから。この曲はそして最後に、「泣かないでくれ(Don't cry)」と何度も繰り返しながら終わるのである。

       *

あの時のプロモーションヴィデオは湯気立つバクタブから立ち上がる全裸の(と思われる)プリンスを映し出していた。彼は「heat(サカリ)」にある獣のように思わせぶりに四つん這いでフロアを移動した。長い睫毛に整形した細い鼻梁、小柄で華奢な体に華美な衣装、クネクネした走り方に化粧をした艶めかしい頬笑み、そして登場した暴力的な父親と虐げられる母親像──80年代半ばにあってそのすべてが「ゲイの匂い」を漂わせていた。あるいは異形の者としての「クイア(おかま)」感を。「精液」の意味だと紹介した『Cream』(1991)の「U got the horn so why don't U blow it? / U are filthy cute」の歌詞も、「勃起してるなら射精しちゃえよ。おまえはめちゃくちゃ可愛い」という意味だ。こんなに"ゲイ"な歌詞はそうはない。

当然のように、そしてあからさまに、当時のゲイ男性たちはそれらを"誤解"した(もっとも『Cream』は、鏡に映った自分を見ながら書いたとしている)。エイズ禍のさなかにあった彼らが、それでも露骨に性を謳歌する彼のファンになっていったのは言うまでもない。今でも「プリンスはゲイだ」と言う"プリンス信者"も数多い。

しかし80年代にあって、「黒人」であって「ゲイ的」であるというのは(たとえその意匠を纏うだけであっても)大変な”矛盾”だった。マッチョな黒人コミュニティにあって、精神的にも肉体的にも繊細に育ちあがった青年がその繊細さを逆手に取って露悪的な戦略を取ったのだとしても、次には白人社会からの好奇の目が襲ったろうことは想像に難くない。セクシュアリティはしばしば人種という権力構造に絡みついている。

友人でかつ音楽上の協力者だったシーラ・Eが「ビルボード」誌で回想しているのは神を信じていた最初期のプリンスと、その後に「何も信じていないようになった」中期のプリンスと、そして「エホヴァの証人」になってからのプリンスの3人だ。「彼のためには、何かを信じることは何も信じないよりはいいことだと思った」と彼女は言う。彼にはそんなにも屈強な何かが必要だったのだろうか。

プリンスの家庭は「カオスだった」と同誌に寄稿したジャーナリスト、クレア・ホフマンも指摘している。両親はキリスト教の別の保守的宗派、時に異端ともされる「セヴンスデイ・アドヴェンティスト(Seventh Day Adventist=安息日再臨派)」の信者で、ペンシルヴェニア大学の宗教学教授サリー・バリンジャー・ゴードンによれば「セヴンスデイとエホヴァの証人は核心部分で多くの信義を共有している」という。「両者とも終末の日に向けて準備しており、魂の救済こそが人類の目指すものであって、神に魂を届けることこそが最も重要な使命だと考えている」

       *

80年代初めにプリンスは立て続けに3枚のアルバムを出している。『Dirty Mind』(80)『Controversy』(81)『1999』(82)だ。メイクアップを施し、ヒールを履き、ボタンを外したブラウスを着て、彼の書いた歌詞はいずれもジェンダーとセクシュアリティの垣根を押し広げるような(あるいはただ単に卑猥なだけと映る)ものだった。前述の『Jack U Off』も『Controversy』からのシングルカットで、ただただどうやって性的なオルガスムを得るかという歌だ。

それでも『Controversy』では「天にまします我らの父よ。願わくは御名を崇めさせたまえ」で始まる「主の祈り」が唱えられ、曲の終わりに向けて「僕のことをみんなルード(無礼)と言うけど/みんなヌードだったらいいと思うし/黒人も白人もなければいいと思うし/ルールもなければいいと思うし(People call me rude / I wish we all were nude / I wish there was no black and white / I wish there were no rules)」といたって"真面目"なメッセージが繰り返される。

『1999』は「2000年でパーティーは終わる(Two thousand zero zero Party over)」という審判の日の暗喩がポップなメロディーで繰り返され「人生はパーティー、パーティーはいつかは終わる(But life is just a party / and parties weren't meant 2 last)」というシニカルな終末のイメージが明るい曲調と裏腹に散りばめられるのだ。

「エホヴァの証人」になる以前から、「セヴンスデイ」の終末の日のイメージは色濃く彼の歌に影を落としていた。そしてまたシーラEが証言したように、再び「何も信じていないようになった」プリンスは、その後に「ニッキーという女の子を知ってた。セックスの鬼だったね(I knew a girl named nikki / I guess u could say she was a sex fiend)」で始まる、歌詞通りのセックス狂いの歌『Darling Nikki』(1984)をも歌う支離滅裂さだった。

       *

白状すれば私は、89年の『バットマン』のサウンドトラック以降、90年代のプリンスをほとんど追っていない。ワーナー・ブラザーズとのゴタゴタや、「かつてプリンスとして知られたアーティスト(the Artist Formerly Known As Prince)」などの呼び名といった、音楽以外の話題ばかりがうるさくて辟易していたこともある。そのうちに冒頭で紹介した例の「エホヴァの証人」のニュースが耳に届くことになった。

「エホヴァの証人」の有名人であるマイケル・ジャクソンやテニスのヴィーナスとセリーナ・ウィリアムズ姉妹、ノトーリアスB.I.G.らがその信者(証人)の家で育ったのに対し、プリンスは「セヴンスデイ」から改宗した「証人」だ。母親からの強い勧めがあったともされるが、広く知られるように直接彼に2年がかりの入信勧誘を行ったのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのラリー・グラハムだ。

ワシントン・ポスト紙との2008年のインタビューでプリンスはそれを「改宗というよりはもっと、realization(気づいた、わかった、という感覚)だった」と話している。そしてグラハムとの関係を「(映画『マトリックス』の中の)モーフィアスとネオのようだった」と例えている。それはキリスト教で広く言われる「ボーン・アゲイン・クリスチャン」、つまり新たに生まれ変わったようにクリスチャンとして霊的に覚醒するパタンと同じだ。先に触れたボブ・ディランもそうだし、急に宗教的保守右翼に変身したテッド・ニュージェントやリトル・リチャード、クリフ・リチャードらもそうだ。政治家たちも、ジョージ・W・ブッシュを筆頭に、過去の不始末を一掃するかように突然「ボーン・アゲイン・クリスチャン」を名乗ることも少なくない。

過去の不始末やカオス、自己同一性に関する不安、自信のなさ、迷い──人間は様々な理由から宗教に救いを求め、すがりつく。「エホヴァの証人」もまた、真実の自分を見出し、自身との啓示的で平和的かつ安定的な関係をもたらしてくれる宗教なのだろうか?

       *

プリンスの死が報じられた2016年4月21日のわずか2日前、4月19日付で、ゲイニュースサイト「gaystarnews.com」に掲載されたエッセイがある。「Secrets of a gay Jehovah's Witness: how I escaped the religion and rebuilt my life(ゲイの「エホヴァの証人」の秘密:いかにして私はその宗教から逃れ自分の人生を築き直したか)」と題したその記事は、英国で「エホヴァの証人」の一家に生まれたゲイの青年ジョシュ・ガタリッジ(Josh Gutteridge)の手記だ。かいつまめば次のような物語である。

「17歳の時に男性と初めての経験をした。人生はまったく違うものになった。すぐに両親と「証人」コミュニティに告白した。三人の年配の「証人」たちの前に座らされ、包み隠さずに話すように言われた。しかしうまく行かなかった。言われたのは「同性愛行為をしない同性愛者であれ」ということだった。母は同性愛者でなくなるための本を渡してきた。苦しいと打ち明けると努力が足りないと言われた。

父は、僕が弟や妹とのセックスを夢想したりするのかと聞いてきた。彼にとって同性愛者は小児性愛者と同じものだった。父はHIVが感染すると言って僕の歯ブラシを別のところに置いた。

学校での成績は学年でトップだった。けれど16歳で学校は終わった。「エホヴァの証人」では大学などの高等教育を目指してはならないと言われるから。状況を変えようと19歳でフランスに渡ることに決めたが、そこのホストファミリーも「エホヴァの証人」で、英語を話す人々への伝道を行うのが条件だった。英国に戻ったのは23歳の時で、セラピーを始めた。初めてのボーイフレンドが出来た。彼と彼の家族が、本当に人に受け入れられるというのがどういうことかを教えてくれた。けれどそれは二重生活の始まりでもあった。常に両親が、僕がボーイフレンドと一緒にいるところを見るのではないかと怯えていた。

2014年11月、もう同性愛者でないふりを続けることはできないと両親に話した。これは「共同絶交」を意味した。家族も友人も知人も、「エホヴァの証人」仲間からは二度と口をきいてもらえなくなることだ。その日からそれが始まった。両親からはテキストメッセージさえも送られてこなかった。2015年には道で父親とすれ違ったが、彼は僕を存在しないものとして通り過ぎて行った。新しい人生を始めようと決心したきっかけはそれだった。ボーイフレンドと一緒にロンドンに移ることに決めた……」。

──彼はいま、新たなパートナーとともにウェブベースのブランディング・エージェンシーを経営する一方で、LGBTQIの人々が直接会って話せるサポート・ネットワーク「KRUSH」(krushnetwork.com)を5月に立ち上げた。やっと自分を否定する宗教コミュニティから自立できたという。

       *

「改宗」が伝えられた2001年の11月、プリンスは、9年ぶりに「プリンス」に戻って初の、24番目のアルバム『The Rainbow Children』をリリースした。ジャズィーなアレンジも多い中でのコンセプトは、やはり信仰とセクシュアリティ、そして愛とレイシズムだった。描かれるのはマーティン・ルーサー・キング牧師に着想したような(実際、師の演説音源も使われている)架空のユートピアへと向かう社会運動の物語。

アルバム最後の曲のタイトルは『Last December』。人生最後の12月が来たらどうするか、と問うこのスローナンバーは最後に、

In the name of the father
父なる神の名において
In the name of the son
その子キリストの名において
We need to come together
我らは共に手を携え
Come together as one
心を一つにして共に行こう

と繰り返されて終わる。

「USAトゥデイ」紙はこのアルバムを「これまでで最も果敢で魅惑的な作品の一つ。たとえこれを神への謎めいた求愛と受け取ろうとも」と評した。「ボストン・グローブ」紙も「傑作」とは言わないまでも「1987年の『Sign 'O' The Times』【編注:この「O」はピースマークです】以来の、最も一貫して満足できるアルバム」とした。

しかし「ローリング・ストーン」誌はやや違った。「神聖なる正義のシンセサイザーを振る説教壇の奇人に先導された、砂漠を渡る長いトボトボ歩き」と形容したのだ。「説教壇の奇人(Freak in the Pulpit)」とはもちろんプリンスのことである。「フリーク」を「奇人」と訳したが、実はそれよりももっと強いニュアンスがある。「バケモノ」とか「畸形」とか、とにかくゾッとする奇怪な生き物のことだ。

リベラルな若者文化を先導する「ローリング・ストーン」誌が、プリンスの「信仰」を快く思わなかったのはそこからも明らかだ。そして多くのゲイのファンたちもまた、裏切られたと感じていたに違いない。前出のクレア・ホフマンが行ったあるインタビューでは、プリンスは同性婚に反対してソドムとゴモラを連想させるような次のような発言をしている。「神が地上に降り立って人間があちこちでくだらないことをやったりしているのを見て、それでみんな全部いっぺんにきれいに片付けたんだ。『もう十分だ』って具合に」

同時に「エホヴァの証人」のコミュニティにとってもまた、たとえ彼が政治的には共和党を支持する保守派のスターだったとしても、「説教壇のフリーク」を迎え入れることは奇怪なことだったに違いない。

       *

トム・クルーズやジョン・トラボルタなどの有名人を広告塔のように利用する「サイエントロジー」とは違って、「エホヴァの証人」の本部組織である「ものみの塔(聖書冊子)協会」は建前上は有名人を特別扱いしない。プリンスの死後に掲載された英デイリーメイル紙の記事には、昨年夏の「エホヴァの証人」地区大会にラリー・グラハムと並んで座っているプリンスの姿が写真に収められている。濃い色のシャツに白いスーツらしき服を着た彼は、他の普通の「証人」たちとともに参加者席にいる。死の1カ月足らず前の3月23日のキリストの死の記念日にも、彼は普通に地元の集会に姿を見せていた。

もし特別扱いをしているとすれば、それはあれだけ卑猥な歌を歌ってきた彼を組織の中に招き入れたことだ。それまでの彼の「罪」をいっさい問うことなしに。

「それは彼の圧倒的な富のおかげだ」と、元「証人」で、そこからの脱退の経緯を『Cowboys, Armageddon, and The Truth(カウボーイ、アルマゲドン、そして真実)』という本に上梓したスコット・テリーは説明する。

「証人」たちには通常、決められた会費はないが、それぞれの「王国会館(Kingdom Hall)」(「神の王国」を崇める彼らの教会の呼び名だ)のドアには寄付金を入れる箱が置いてあり、さらには戸別訪問での寄付集めも行われるという。テリーは「証人」のフェイスブックのページで、プリンスが死の6カ月前に他の「証人」たちと同じようにその寄付集めを行っていたという投稿を読んだという。もっとも、4人のボディーガード付きでリムジンで乗り付けた、とはいうが。

やはり元「証人」で今は脱退信者たちの支援活動を行っているアレクサンドラ・ジェイムズは、プリンスの遺産がどれほど「ものみの塔協会」に寄付されるかに注目している。いまのところ遺産に関する遺書の存在は明らかになっていないが、プリンスの資産は死の影響もあって今後も急増するとされ、彼のミネソタ州のペイズリー・パークの自宅兼スタジオには今後200年間毎年アルバムを作れるほどの未発表曲も遺されているという。遺産総額は一説で3億ドル(300億円)以上だ。

ジェイムズによれば、「ものみの塔協会」は最近、「証人」たちに自分の遺産を「非信仰者」の家族にではなく教会に、つまり同じ「証人」たちにこそ寄付すべきだという説得の圧力を強めているのだという。「エホヴァの証人」自体も、プリンスがこれまでにすでに「相当な贈り物と支援」を行ってきたことを認めている。もっとも、巨額の寄付は、教義によって秘密裏に行わなければならないとされるが。

ほとんど声明というものを出さない「協会」が、プリンスの死を聞いて「悲嘆している」と異例の広報をした。プリンスの信仰と遺志とがいかなるものであったかに関わらず、宗教組織には常によくわからないままの莫大な金が動いている。

       *

興味深いことに、ボブ・ディランが「物見の塔 Watchtower」を歌にしている。のちにジミ・ヘンドリックスがカヴァーした傑作『All Along the Watchtower(見張り塔からずっと)』(1967)だ。聖書の「イザヤ書」にある、バビロンの崩壊を知る物見の塔からの眺めをテーマにしている。登場するのは冒頭からいきなり道化師と泥棒だ。

“There must be some kind of way out of here,”
Said the joker to the thief.
「出て行く道はあるはずだ」と道化師が泥棒に言う。

──なぜ出て行こうとするのか?

“There’s too much confusion,
I can’t get no relief.
Businessmen, they drink my wine,
Plowmen dig my earth.
None of them along the line
Know what any of it is worth.”
「混乱と不安。ビジネスマンは俺のワインを飲んじまう。農夫たちは俺の土地を耕してくれる。でも意味がわからない。価値もわからない」

“No reason to get excited,”
The thief he kindly spoke.
“There are many here among us
Who feel that life is but a joke.
But you and I, we’ve been through that,
And this is not our fate.
So let us not talk falsely now,
The hour is getting late.”
「そう騒ぎなさんな」と泥棒がやさしくも言う。「人生はただのジョークだという奴がたくさんいるが、俺らはそれを生き抜いてきた。ジョークじゃない。だから戯言はやめよう、時間も遅いし」


──ここで場面が転じる。不意に物見の塔が現れる。

All along the watchtower,
Princes kept the view,
While all the women came and went —
Barefoot servants too.
ウォッチタワーからずっと、王子たちは見張りを続ける。女たちは行き来し、裸足の召使いたちもまた─

Outside in the cold distance,
A wildcat did growl.
外の遠く寒い荒野から、山猫が吠える。

Two riders were approaching, and
The wind began to howl.
馬に乗った2つの人影がやってくる。そして風が鳴り始める。

──冒頭の2人がここにつながる。あの道化師と泥棒だ。何かが起きた。彼ら、別の生き方が近づいてくる。嵐が来る。

ここに登場するディランの「プリンス(王子)」たちもまた、物見の塔から道化師と泥棒、そして山猫──城の外側の世界を、一早く見つけている。それは「プリンス・ロジャーズ・ネルソン」の見たものと、同じものなのだろうか、違うものなのだろうか。
(了)

《現代思想2016年8月臨時増刊号・総特集プリンス》掲載

December 02, 2006

「国家の品格」というトンデモ本

 日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」(新潮新書)という本でした。日本ではもう110万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら? と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。

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 こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で3年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」

 おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。

 首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。
 もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。
 でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。

 そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。

 さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。
 ここでまたわからなくなる。
 だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「(長い)論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。

 もちろん筆者もバカじゃないですから(いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね)、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。
 これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。

 先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに(p5)。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の2つの力を両輪にすべきなのに。

 さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。
 藤原さんはそれに関していじめの例を引きます(p62)。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。
 「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」(p48)という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。
 それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。

 ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。
 藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。

 「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか? それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。
 で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。

 人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか?」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが,論理的に必然的に待っているのです。
 それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。

 では、武士はなぜ人を殺してよかったのか? それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは1つの論理の導く1つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。

 「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。
 というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。

 ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか? 「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか? 私にはそれはどうしてもできない。

 藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。

 どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。
 はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン(p101)。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン(p102)。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授(106P)等々。
 なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。

 英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。

 総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている(思いたがっている)国民はほかにいないんじゃないでしょうか? 逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが,私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。

 「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう(101P)が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。

 この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。
 以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。

 この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように(p122)、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。

 武士道に絡めて、もう1つ言ってよろしいですか?
 新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」(p124)だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p90-91)といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか? そう、武士です。
 敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう,抱いてもらう立場のままです。

 この武士道精神は、藤原さんが「非道」(p21)と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その2ページ前と7ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。
 頭がこんがらがってきませんか? この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか? 「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか? まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。

 藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。

 私はいまの日本に欠けているのは(そしてこの本にも欠けているのは)むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。

 この本は、じつは第4章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。
 ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。

 そういうことです。

 ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。
 以上、終わり。(2006年4月のブログ Daily Bullshit から)