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December 15, 2003

ラストサムライ

なんだかせわしない。
来週あたりからみんな休みに入るので、いろいろ仕事が今週に重なって大変っす。そういうわけで今週はあまり更新できないかも。
アメリカではフルーがはやっているようですが、ま、外に出る暇もないので大丈夫でしょうな。

といいながら、昨日、「ラストサムライ」を見てきました。ハリウッド、という次元で、これはなかなかいい映画でした。というか、外国映画の中の日本人を見て「いいなあ」と思ったのはこの映画が初めてなんですね。だからいい映画に思えるのかもしれないけど。

劇場内のあちこちですすり泣きが聞こえていました。なんというかまあ、「ダンス・ウィズ・ウルブス」とか「ラストモヒカン」とか、そういうたぐいのたいそうな叙事詩+メロドラマで、トム・クルーズはこれでオスカーを取るでしょう。なんといっても、トム・クルーズが、この映画ではトム・クルーズを演じていないというのがよろしかった。ちゃんと劇中のオルグレンになっていました。
渡辺謙も最優秀助演賞ですね。というか、渡辺謙が主役の映画みたいなもんでしたから。うちのキョンはもう渡辺謙にめろめろでした。ま、あいつはたいした役者です。ぼくはフジテレビ系の、なんだっけ、「斬九郎」の時代劇、あれ見て、うめえなあ、こいつって思ってました。昔の大河ドラマのときもよかったけど、病気して力抜けて、鬼気の迫り方にもふっと抜ける人間くささがある。そういえば奥さんの借金問題、どうしたんだろ?

でもわたしは、これを見ながら、ひょっとしてこれってイラク戦争かもな、との思いが浮かぶのを止められませんでした。西欧化と、それに抗する旧体制。イスラムの戦士たちの中には、これをほんとうにジハードと信じている人たちもいるはずでしょう。後世、彼らがフィクションの中ででも、あらたなコンテキストとともに「勝元(渡辺謙の役)」として描かれることはあるのだろうか、と。

映画から一夜明けたらサダム・フセインが捕まってましたけど。

ラストサムライのストーリーはすべてフィクションですが、一番のフィクションは、この泣かせる「日本人」像なのかもしれません。あんな日本人、いるかよ、って、そんなふうに思ってしまう情けない日本に、複雑な心境です。

December 10, 2003

テロテロとバカみたいに

ちょっと物言い、よろしいか。
というか、いつも物言いなんだがね。

自衛隊のイラク派遣が閣議決定しましたね。
そんでもって、「テロが相次ぐイラクに自衛隊を派遣するための重装備」というのが、当然のように言われていますが、ちょっとお待ち下さい。イラクで起こっているのは、あれは「テロ」じゃないですよ。あれは、国軍の残党が、いままだ“侵略軍”に対してゲリラ戦として戦っているわけです。戦闘、戦争ですよ。じじつ、米国は戦闘終結という変な宣言はしたが、戦争終結はしていない。つまり、ほんとに戦争です。戦争「状態」とか、そういう言葉でごまかすべきでもない。

それを流行語のようにテロ、テロと呼べばいいってもんじゃないでしょう。
というより、そう呼ぶと見誤たる。あなた、ヴェトナム戦争時のゲリラ戦を、だれがテロといいますか?
これはつまり、「戦地に自衛隊を派遣する」と明確に認識しなくてはならない。
これは、歴史を見ても、だれがどう考えても、米国という“侵略軍”勢に加わる、ということです。

わたしはイラク復興に出かけていくことは、必要なことだと思います。
しかしそれには、戦争が終わっていなければならない。
戦争が終わって、それでもテロが続くという状態はあるでしょう。
しかし、現在のイラクは、それではないのです。
憲法がどうだとかいう以上に、その憲法の背景にあった基本精神にのっとって、戦争にはぜったいに加担できない。いま苦しんでいるイラク市民には酷だが、日本の「人的な直接関与」は待ってもらわねばならない。なぜならいま関与しないことで、さらに別の意味で、次元で、分野で、関与できるところが拡大する可能性もあるから、そうやって補償することを必ず検討するということで、いまは忍んでいただかなければならない。

そうしたうえで、戦争が終結した段階で、サンダーバードよろしく国際救援隊として、あるいは「世界の警察」に対峙する概念としての国際的な「世界の消防」国家を標榜して、堂々と出かけていくのです。そのときには、「テロ」で殺されても撤退なぞしないぞと強く示しながら。だって、そのときは、殺す方が悪いと明示されているから。

しかし、いまは、殺す方にも義がある。なぜなら、戦争だからです。義と義との戦いに、武力は行使しない、行使しても始まらない、武力を使っても何の解決にもならない、というのが、我々日本の、痛く辛く、しかし貴重な結論だったんじゃあありませんか。

「危険だからといって派遣しないわけにはいかない」という小泉は、コンテキストのねつ造です。
危険だから派遣しないのではない。戦争だから派遣しないのです。戦争でなければ、危険であっても派遣する。そんなことは当然です。

どうしてそんな自明のことが、日本という国ではわかられていないのでしょうか。
この程度の論理が通用しないって、ちょっとひどすぎやしないか?

December 09, 2003

お笑い種

ブルシットのネタに困ったときは産経抄だね。
昨日のはまたまた開いた口が閉まらなかった。

ちょっといいかな、全文引用

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 「え、日本とアメリカが戦争したことがあったの? それでどっちが勝ったの?」と聞く子がいるといわれたことがある。とんでもない話、困った話の例として挙げられたが、十二月八日はその日米開戦の日。その日から六十二年がたった。▼日本が大東亜戦争に駆り立てられた動機ははたして「侵略」にあったのか。明治維新によって近代国家になった日本にとって、ロシアの南下政策は大きな脅威であり、アジアへ進出した西欧列強も日本をおびやかした。しかし「列強に伍して自国を守ろうとした」という主張は東京裁判で封じられた。▼ところが日本占領の元帥マッカーサーは一九五〇(昭和二十五)年十月、大統領トルーマンとのウェーク島会談で「東京裁判は誤りだ」と告白したという。翌五一年五月の米議会聴聞会で次の証言も、近年注目されている。▼「原料の供給を断ち切られたら、一千万人から一千二百万人の失業者が日本で発生するだろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」▼マッカーサーは日本は自衛戦争をしたと述べたのだが、そういう日本の「戦争責任」がいまもしばしば論じられている。執拗(しつよう)に責任を追及するものがいる。しかしもし戦争を起こした側に責任があるとすれば、戦争を起こさせた側にもそれがあるはずである。▼イラク戦争を見ればはっきりするだろう。先制攻撃をしたのはアメリカだが、ではその単独行動主義の戦争責任だけが責められるのか。サダム・フセイン政権のクルド人虐殺やテロ支援や独裁や専制に問題はないのか。戦争責任をいうなら戦争を起こさせた側にもあるというべきだろう。

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ね〜、すごいっしょー。
ふつう、書いてて気づくよねえ、あ、やべっ、とかさ。
「戦争を起こさせた方にも責任がある」って、これ、禁句でしょ?

だって、そうなるとフセイン政権のクウェート先制攻撃も認めざるを得なくなる。
それどころか、世界貿易センターを破壊させたきっかけを作ったアメリカも悪い、ということになる。
それどころか、フセインに武器を貯めさせるようなことをしたアメリカも悪い、って、そういうこと、言いたいわけではなかったのでしょうが、あの産経抄だけ書き続けて30数年のI御大は。

こういうの、いじめ問題でもそうだよね。
「いじめは、いじめる側だけではなく、いじめられる側にも、いじめを起こす何かがあったのだから、それは悪い」ってのと似てるでしょ。これって、戦争とはメカニズムが違うけどある部分でじつに極めて産経抄的に同じでね、産経抄のこのおっさんがいじめに関してどんなことを書いてるか検証してもいませんが、きっと、こういうこと、言ってると思うよ。きっとじゃなく、絶対に言ってるね、こいつは。

この人、前のジェンダーフリーの時もそうだったけど、ほんとうにバカなんだと思います。
産経東京本社も、確信犯というより、ここまでくると無慈悲だね。
かわいそうだと思わないのかしら、こういう人を堂々と一面で晒し者にして。

それとも、何? あれ、わざと逆説を暗示してるの? 身を捨ててのすごいシニシズム?
へっ、まさか、そんな高度な芸当、できるわけ、ねえよなあ。
ね〜?

December 08, 2003

年の瀬っすねえ

ちらほらあーっとクリスマスカードの届く季節と相成っています。
そうそう、日本だとクリスマスカードはクリスマス、年賀状はお正月、とその時に合わせて送るものだけど、こっちのグリーティングという概念はちょっと違って、メリー・クリスマスってのは「メリークリスマスを送ってね」という意味だし、「ハッピーニューイヤー」ってのも「明けましておめでとう」という意味でゃなくて、「明けましたらおめでたいようにね」という、未来への願望なんだね。だから、その時期のずっと前に届くの。
はい、また一つ、英語のおべんけうでしたね。

でも、こういうさ、なんちうのかなあ、新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ(はい、ここで今回のちょっとした論理の飛躍というかひきつけがあります)、ということを当然の人生の態度として共有していない人というのがけっこう多いのかなあ、と思ってしまったのが、例のハンセン氏病のもと患者の宿泊拒否問題でした。

当該の熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」、8日の朝日・コムでは「ホテルを経営する「アイスター」(本社・東京)は8日、同社のホームページで「社の正式見解」として「『宿泊拒否はホテル業として当然の判断』との主張になんら変更はありません」と掲載した。県や元患者らは反発を強めている。」ということらしいね。病膏肓に入るって、こういう人たちの方をこそいうの、とか非難するのは簡単だが、非難しても始まらないのが面倒くさいところ。聞く耳を持たない頑迷なこうした妄想を、それでも辛抱強く折伏していかなければならない。そういう作業をだれかがやらなくてはね、イラクを叩くブッシュと同じことになってしまうのだわ。

それともう一つ、この宿泊拒否された「菊池恵楓園入所者自治会」のほうに、なんだか、すごい電話や手紙が舞い込んでいるらしい。
12/5付けの東京新聞の特報面(これが近年、また読ませて面白いんだわ)によると
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20031205/mng_____tokuho__000.shtml

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 (ホテル側の謝罪を)入所者側は謝罪文の受け取りを拒否。この場面がテレビのニュースで放映されると、その後三日間にわたり全国から百本以上の電話がかかってきた。「ほとんどが批判、中傷でした。『ごう慢だ』『裁判に勝ったって社会は受け入れてない』などで、年配の人が多かった」
 電話が一段落すると、手紙が届くようになった。こちらも中傷の方が多い。「これはひどかった」と太田さんがいう、はがきの中央に、変形した顔の写真をはり付けたはがきがあった。「人々に嫌悪され、国が差別していたのを謝罪したのをたてにとりいい気になっているが、中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」
 その他の手紙にも、入所者らの気持ちを刺すような言葉が並ぶ。「調子に乗らないの」「謝罪されたら、おとなしくひっこめ」「私たちは温泉に行く暇もなくお金もありません。国の税金で生活してきたあなたたちが、権利だけ主張しないでください」—。差出人は名前が書いてあるものもあるが、「善良な一国民」「女性代表」など、匿名も目立つ。
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ね、すごいっしょ。
こういうの書いちゃえる人たちって、基本的に、「人生への態度」が違うんだなあって、思わない? 正しさ、とか、そういうこと、端から持ってないというか、諦めちゃってるというか、バカにしてるというか、「世の中、そんなもんじゃねえんだよ」ってドラマの中で言うやつぁ視聴者にはだいたい悪者・いじめ役だって思ってたのだけど、こういう輩って、主人公より、そういういじめ役のほうに感情移入してるのかねえ。

いや、あたしだってね、「正しさ」のもうどうしようもない「おこがましさ」とか「イヤらしさ」ってのは知ってるさね。しかし問題は、そういうのって、「正しさ」が権力を持ったときの話で、だって、あーた、ハンセン氏病に関する「正しさ」って、権力なんて持ったことないでしょね。かわいらしい、それこそ、すぐへなってしまいそうな正しさなんだわ。それを「おこがましい」とは、どの面下げて言えるんだえ? ってことなの、言いたいのは。

でも、そこでふと気づくのよ。
なんだか、こういう抗議文、トーンが一緒で、ちょっと待てよ、またこれ“組織票”なんでないの? まあ、よくある陰謀説みたいに受け取られるかもしれねえけどな。

逆に、組織票だったら納得できるけど、自然発生的にこうもトーンが同じだったら、恐いわねえ。ハンセン氏病元患者はもう病原体を持ってるわけじゃないんだから感染するわきゃないけど、「アイスター」ウイルスは感染するんだ、というか、ナントカ子さまの帯状疱疹のように、他が弱くなったら一気にぼわっと体の表面に出てくるのだね。

あのね、ニューヨークってね、街をエレファントマン病の人とか、五体不満足な人とか、いろいろ平気で歩いてたりするの。市バスなんかも、車いすの人、ばんばん乗せるしね。いま、地下鉄駅(これが古いから)、あちこちで改装工事中なのは、みんな車いす用のエレベーター設置のためなのだ。ま、そういうもんだよ。
先の記事で「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」ってはがき送った人もね、慣れなのよ。慣れ。初めはびっくりするけど、慣れるの。この「慣れ」にはいろんな条件が必要なんだけどさ。

昔はさ、「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」って、きっと黒人とかさ、ホッテントットとか、牛女とか、ヘビ女とか、小人症の人とかさ、ジャイアント馬場とかさ、カルホーンとかさ(う、古いな)、平気で言えてた時代があったんだと、思うよ。

でもね、「新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ」という積み重ねでさ、「これが他の人間と同様か」っていう突きつけに、いまはやはり平然と、「そうなんだよ、おぢさん」と応えるのが、気持ちいい人生への態度なんだと、選択したいのだ。