February 22, 2018

酒とワインと和食と洋食と

あのね、今日はちょっと蘊蓄を。NYに24年も住んでた身として、その間の日本の変わり具合もNYの変わり具合も、大変なものでした。で、何が変わったかというその1つが日本酒です。

これまでいろんな日本の醸造元の経営者たちともお会いする機会があって、そんで話してきたんですが、2000年以降ごろからでしょうかね、日本酒が欧米で飲まれるにはどうすればいいんでしょうね、ということをよく聞かれてたわけです。

かつてはジャパニーズ・レストランにしか、それもマスプロダクトの大衆酒しかなかった日本酒ですが、今ではすっかりNYに馴染んじゃって、和食店に行けば醸造元の大小を問わず様々な銘柄を見つけることができるし、フランス料理店でも珍しい日本酒を揃えるソムリエも増えました。まあ、結局日本酒はそうやって「欧米で飲まれる」ようにはなったのですが、ところが日本酒とワインでは本来、決定的、本質的に違うんです。

その違いというのは象徴的に、日本語で「酒を飲みに行こう」という言い方に表れています。「酒を飲む」といっても、「飲む」ためにはそのお店に様々な肴が用意されているのが普通です。ところが英語で「飲みに行こう」と言ったときにはだいたいはバーで、つまみはほとんどありません。あったとしてもバッファロー・ウィング(鶏の手羽元を揚げたり煮込んだりして酸っぱ辛く味付けた軽食)やフレンチフライくらいです。ナッツとかもあるけど。

日本では「酒を飲む」は「メシを食う」に通じます。つまり、そこでは料理は酒を飲むためにあります。それはご飯でも同じ。ご飯を食べるために他の料理がある。そして酒もご飯も「お米」です。様々な料理はその2つの「米」のために捧げられる。すべての料理は、お米を食べるためにこそ用意されるのです。そしてそのお酒、ご飯という2つの形態のお米は、自分のすぐ前、食卓の一番近いところに置かれます。それは紛うことなく、それこそが食事の主役だということです。

ところが西洋料理店で自分の一番前に置かれるのは、肉や魚やスープやサラダといった「他の料理」です。ご飯に当たるパンは左上ですし、お酒に当たるワインは右上です。これはどう見ても、その「料理」を食べるためのつなぎに、パンやワインが脇にある、という位置関係です。

つまりこういうことです。和食と洋食では、主客が逆転しているのです。日本では主食たる「お米」が目の前にある。西洋では主菜たる「料理」が目の前にある。ちなみに、欧米には「主食」という概念はありません。昔々、中学校で「私たち風には米を主食にしている」という日本語を英語にする例文があって、そこでは「We live on rice.」というふうに訳されていました。でもこれ、to live on って「主食」っていう意味じゃないですよね。 rice に乗っかって(頼って)生きている、という意味です。

でも、そんな感じの食べ物はアメリカにあるかなあ、何かなあ? と考えたのですが、それはパンじゃないし、肉でもない。主菜 main dish というのはあるけど、それはいつも食べる具体的な食材のことではないし、あくまで分類としての「主菜」です。日本語の「主菜」という言葉自体、これも「メイン・ディッシュ」からきた翻訳語でしょうね。日本だと「おかず」なんですけど、「おかず」に当たる「一汁一菜」はご飯をメインと考えた場合の、その添え物のことですから、日本の食卓では「主菜」にはなり得ないんですよね。「主菜」とは言っても、それは「おかず」の中でのメインであって、そもそも「おかず」ってのは「お数」のことであり、その他「数々」の副菜、ということで、「副菜」の中では「主=メイン」ではあっても、全体の食事の中の「主」というわけではないのです。格が違う。

「和食と洋食では主客が逆転している」と書きましたが、つまり和食の「主」はお米であるご飯やお酒。一方で洋食での「主」は数々の「おかず」で、そこでは酒類は「主」たるおかずをスムーズに楽しむためのお口潤しの添え物=「従」なる存在なのです。

ですので、日本酒が欧米でワインのように飲まれるためには、ワインのような「従」の地位に行かなければならなかった。つまり日本酒は「お米」=「主」であることをやめなければならなかったのです。

そのために日本酒はどんどんと精米を進め、お米を削りに削って吟醸、大吟醸へと変身しました。それは「お米」くささを捨て、「まるでワインのような」果実香を纏うことでした。つまり「お米」から「果実」に変わることで自ら主役の座を降り、その場所を「主菜」たちに明け渡したのです。それが今の海外での日本酒ブームの、あまり語られない、というかほとんど気づかれていない、舞台裏の謎解き物語です。

とは言え最近日本に帰ってきて気づいたのですが、そんな一時の大吟醸ブームの方向性に「日本酒らしさ」が失われていると感じた造り手が少なからずいたのでしょう、日本での日本酒はここ5年、10年で、海外での志向とは逆に再び「お米らしさ」を取り戻しているような気がします。雑味を消し去りながらもきちんと「日本酒」の日本酒らしさを取り戻した味のものが多くなっている。やはりいろんな酒がなくては面白くありませんからね。

もっとも、それが海外で浸透するためには、今度は本当にお酒が食卓での本来の位置、つまり「すぐ手前」に戻るような、飲み方、食し方自体の日本復帰を紹介することになるのかもしれません。そしてそれは、茶道のお茶が Tea ではなく日本のお茶として浸透しているように、きっと可能だと思います。

というわけでうんちく話は終わりますが、最後にもう1つお役立ち蘊蓄情報を。

先ほどパンは左上、ワインは右上と書きましたが、円卓で座っているとどちらが自分のパンかワインかわからなくなります。そんな時は左右の手でそれぞれ指を伸ばし、そこで親指と人差し指で丸を作ってください。左手は「b」の字、右手は「d」の字の形になりませんか? 「b」はブレッドの「b」、「d」はドリンクの「d」です。その手の先にあるのがあなたのパンとワインです。

February 21, 2018

不信と怯えの愚かしさ

大統領選を混乱させた罪などで13人のロシア人とロシアの3企業を起訴したことや、自分の選対副本部長を務めたリック・ゲイツがもうすぐ正式に司法取引に応じるだろうことが報じられ、トランプは先週末にまた怒涛の21連発癇癪ツイートを炸裂させました。さらにFBIを「ロシア疑惑に時間を使い過ぎ」てフロリダの高校乱射事件を防げなかったと批判するに至っては、当の高校の生徒の「FBIを責めるな。これはFBIの問題ではなく銃撃犯の問題だ。それにFBIの責任者はあなたではないか」という指摘で十分でしょう。

モラー特別検察官チームによるロシア疑惑を中心とする捜査は大統領選への選挙介入が今回初めて具体的な「罪状」として明らかになるなど、いろいろなことが同時進行していてついには今日は娘婿ジャレド・クシュナーのビジネスとの利益相反までもがニュースになっていました。いろいろ面倒なのでそれらはまとめて別の機会に書きます。今回はヴァレンタインズ・デーに起きたフロリダの乱射事件に関してです。

現場となったパークランドは州南東部、フォート・ローダーデイルに近い比較的リベラルな土地柄で、「フロリダで最も安全な街」のはずでした。その高校もマージョリー・ストーンマン・ダグラスという20世紀の偉大な環境保護家でジャーナリストかつフェミニストの名を冠した学校で、事件後の生徒たちの発言も実に知的で鋭い主張を含むものでした。彼らは3月24日にワシントンや全米大都市で大規模な銃規制デモを呼びかけるなど、全米ライフル協会(NRA)とその周辺政治家たちへ、高校生らしい直截的な正義感に溢れた厳しい批判を続けています。ちなみに大統領選ではNRAら銃ロビーはトランプ支援に3040万ドル(33億円)以上を費やしました。下院議長のポール・ライアンには17万ドル(1800万円)以上のカネが流れています。

何度も書いていますが、アメリカで銃規制が進まないのはこうしたNRAの政治圧力もありますが、その根幹には修正憲法第2条の「銃を持つ権利」の下に、国家への不信と、他者への怯えがあるからです。前者は建国の建前ですが、問題なのはむしろ、建国過程の本音とも言える後者の心理です。

アメリカは基本的に他者の土地を奪って作った国です。警察力もなく自分で守らねばならなかった家や命です。現在だって、中西部や南部の広大な田舎では自分の命は自分で守る、というか余所者は疑ってかかるのが普通でしょう。警察を呼んだってはるかかなたからいつ来てくれるかわからない。コミュニティが守ってくれるのを待つわけにもいかない。そうすると生き方の基盤に、どうしたって自分は自分で守る、という姿勢が染み付くのです。そこでは自分は銃と一体化しています。銃を持ってないと裸でいるみたいな気分だと聞いたこともあります。私たちに置き換えればさしずめ携帯電話とか財布を持たずに外出しちゃったような、そんな身近な、でも実に深刻な孤立無援の不安とでもいえばいいでしょうか?

銃社会に慣れるというのはそういうことなのかもしれません。そうやってアメリカには3億丁もの銃が溢れ、年間1万人以上が銃で死ぬのです。

ところで、ひとつ気づきませんか? アメリカでの銃の蔓延は実は世界の軍拡競争と同じ原理なのです。他国への不信と怯えとが基となっていくらでも軍備を拡大する。安全を求めながら結局は他者も鏡写しに同じ安全を求めて、結果、互いに武器を溜め込んで一触即発の破滅の危機を招いてしまう「安全保障のジレンマ」というやつです。軍備というものは需要と供給の法則に外れて、実際の需要ではなく恐怖の妄想で際限なく供給されるのです。そのうちに何百回も地球を破壊できるような核兵器が溜まってしまって、人類はやっと大型の戦略核だけでも減らそうという気になった。1990年代からのSTART(Strategic Arms Reduction Talks/Treaty=戦略兵器削減交渉/条約)というやつがそれです。

北朝鮮の核開発も、遅ればせながら同じ自分の安全を求める「不信と怯え」が動機なのです。銃を持つ権利を謳うアメリカ人が、北朝鮮におまえは武器を持つなと非難する資格は本当はありません。言えることはただ「むやみな不信と怯えは愚か者の落とし穴だ」という、アメリカ自らの現状を憂える自戒の言葉のはずです。

おかしなことが起きています。銃規制を進めようとしたオバマ政権下では、自分の銃が取り上げられてしまうと怯えた人たちがこぞって銃を購入して販売数はうなぎのぼりでした。ところがそれを引き継ぐはずのヒラリーではなくトランプ政権の誕生で人々は安心したのか、逆に(いつでも買える)銃を買わなくなってしまった。そんな時に世界で最も古い歴史を持つ銃器メーカーの1つ「レミントン」が破産申請をする予定だというニュースが伝わりました。今回の高校乱射事件の前日のことです。スミス&ウェッソンを抱えるアメリカン・アウトドア・ブランズやスターム・ルガーといった企業の競合するアメリカの銃器業界は、トランプの大統領就任決定以降、売り上げの低迷に直面しているのです。

この点でもアナロジーが成立します。軍備増強を進めるトランプ政権は国防費を当初予定よりも大きく7兆円(13%)ほども増やして70兆円規模(国防費だけで日本の国家予算にも匹敵する額です)にする計画です。軍拡を経済拡大と結びつける共和党の伝統的な手法ですが、アメリカが軍拡をすると同盟国は安心して防衛費の伸びを抑える傾向になる。それはまずいのでトランプはアメリカの武器兵器(日本では安倍政権下でこれを「防衛装備品」と呼ぶ詭弁を使うようになりました)を買ってくれと懸命に売り込んでいる。昨年の最初のアジア歴訪でも、トランプと各国首脳との会談の主題は「北朝鮮」を二の次にしてまずはアメリカの武器の売り込みでした。アメリカがレミントンのようになっては困るのです。

そうして際限なく世界中に「銃」が行き渡ることになるのです。

それでも人類はやっと戦略核の削減に動き出していると書きました。これは、銃規制でいえば強大銃器つまり攻撃用ライフルや自動小銃の規制に当たります。今回も使われたAR-15のような大型で強力な銃への規制です。そもそも、心に問題を抱えた19歳がそんな攻撃用ライフルを簡単に買えちゃうなんて、どうしたっておかしいでしょう、という話です。それを規制しよう、厳格化しようというのは実に真っ当な対応の仕方ではありませんか? ところがそれすらNRA周辺は蟻の一穴になると「怯え」るのです。そんなバカな、でしょう?

人類は戦略核の愚かさに気づいたのに、アメリカは分不相応な強大銃器の所持許容の愚かさに気づいていない。いや逆に8年ぶりの国防政策「核態勢見直し(Nuclear Posture Review)」で「使える核=低出力核兵器」を増強すると明言した大統領です。この力任せ、力自慢、威丈高の元を質せば、そこに北朝鮮と同じ、武器を誇示しなければ不安でしょうがないという「怯え」があることは明らかなのです。

私たちは、この「怯え」を克服しない限り軍縮はできません。銃規制もできない。「怯え」を克服するのはそして、理性と理性を基にした相手とのコミュニケーションに頼るしかないのです。そこに「怯え」に替わる新しい生き方の共通基盤を構築するしかないのです。それがなければ人間は常に「怯え」の下の「安全保障のジレンマ」に陥ることを繰り返すしかないのです。そんな無限ループが甚だしく愚かなことであるのはわかっているはずなのに、さて、人類はその呪縛を越えられるほどに賢いでしょうか?

少なくともマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校の生存者高校生たちは、そのループを断ち切るために賢くあろうと懸命に訴えているように見えます。

January 10, 2018

『火と憤怒 Fire and Fury』

そもそもどこの「精神的にとても安定した天才」が自分のことを「精神的にとても安定した天才だ」と言うだろうか、という疑義がまずあるものですから、この本自体の信憑性への細かな疑問がすっ飛ばされて、とにかく「さもありなん」で読み進んでしまうのがこの本の怖いところです。とにかくKindle版で購入して、ざっと一通り最後まで読んでみました。

いみじくもセクハラ辞任したFOXニュースの元CEOロジャー・アイルズがトランプに関して冒頭部分でこう語っています。「あいつは頭を殴られても、殴られたと分からずに攻撃し続ける」。アイルズはトランプのそんな「恥知らずさ」が好きなのだそうです。そう、この『火と憤怒』(もちろんこの題名はトランプによる北朝鮮への脅し文句から取っています)は、トランプの非常識と破廉恥と無知ぶりの暴露を欲している人々に、それらを惜しみなく与えるように書かれています。だから驚きよりも「やっぱり」と思ってしまう。だいたい、大統領になんかなりたくないんじゃないか、という話は選挙前にこのコラムでもさんざん書いてきましたし、政権発足後の政権内の人物関係の軋轢も、既に知っている文脈から外れていません。もっとも、この本には脚注も出典も引用元も書いていないので、まるで見ていたような描写は一体どういうものなのか引っかかりはするのですが。

著者のマイケル・ウルフはニューヨーク・マガジンやハリウッド・リポーター誌などで業界ウラ話的なコラムを書いていた人です。私の知人で出版事情に詳しい版権エージェントの大原ケイさんが、そのウルフが選挙期間中からやたらとトランプを持ち上げる記事を書くのを変だなあと思っていたそうです。それもこれも彼がトランプ政権に食い込むしたたかな作戦だったようで、実際、彼はそんな記事が気に入られてトランプと知り合い、ホワイトハウスでは大統領執務室のあるウエストウィングで「壁のハエ」になれるほどどこでも出入り自由、雑談自由だったと取材の舞台裏を明かしています。大原さんは、トランプ政権のスタッフにしても彼のことを知っていたらヤバイとわかりそうなものだけど、政権内で本を読むのはスティーブ・バノンぐらいだったから気づかれなかったのだろうと呆れています。

かくして暴露された内輪話は、数々の細かな事実誤認はあるものの、イヴァンカが解説したあの髪の秘密とか、メラニアを「トロフィーワイフ」と呼んではばからないとか、毒殺を恐れて歯ブラシには触らせないとかマクドナルドしか食べないとか、あるいは合衆国憲法のことも共和党下院議長だったジョン・ベイナーの名前も知らなかったとか、さらには友人の妻を寝取るためにわざとその友人と浮気話をして、それをその妻にスピーカーフォン越しに聞かせたとか、それはそれは唖然とする話ばかりです。

一方で反ユダヤのバノンがジャレッド・クシュナーとどう折り合っていたのかが不思議だったのですが、案の定ジャレッドとイヴァンカの夫婦を民主党支持のリベラルなバカだと非難して「ジャーヴァンカ」とまとめて呼んでいたとか、バノンがジョン・ケリーらを軍人官僚と呼んで毛嫌いしていたとか、政権スタッフたちのそれぞれの悪口の応酬も書かれていて、だから1年も経たないうちに主要スタッフの30%が辞めてしまうという機能不全状態なのだなと、妙に納得するようにもなっています。

政権としてもよほどこの本を恐れているのか、というか言い返せねば気が済まないトランプの性格を忖度してか、上級政策顧問スティーヴン・ミラーが先日、CNNに登場してこの暴露本を「ガーベージ作家によるガーベージ本」と呼んでヒステリックにトランプ擁護をまくし立てていました。ミラーのセリフは「24時間政権攻撃してるんだから3分だけこちらの言い分を話させろ」というものですが、その3分間は同じことの繰り返しで、結局司会のジェイク・タッパーにマイクを切られてしまいました。しかしそのまま番組が終了しても退席せず、結局セキュリティによって強制排除されたそうです。32歳で若いとはいえ、あまりにも拙く幼い。まあ、政治の素人みたいなもんで、政権がたち至らなくなったら自分の行く先も危うくなる身の上、必死であることはわかりますが。

けれどやや不可解なのはこの暴露本の主要部分を構成したスティーヴ・バノンです。発売から3日経ってやっと自分の話したことの「謝罪」と「後悔」を口にするのですが、部分的に誤った引用があるというもののデタラメだとは言わないのです。トランプがフェイク・ブックだとわめきたてても、このバノンの態度がこの本に一定のクレディビリティを持たせてしまっています。バノンは政権をクビになってからもトランプをは毎日連絡を取り合っているとか、100%支持しているとか、先月は日本に来てもそう言っていましたが、殊勝なふりをして実はこの暴露話は政権崩壊を狙っているのではないかとも勘ぐられるほどです。まあ、どうでもいいんですけど。

というか、バノン、このせいでブライトバートの資金スポンサーからも見限られ、あるいはブライトバート自体をも追われかねない状況です。政権崩壊よりも自らが崩壊しそう。

そのバノンがこの本の最後のところでも再び登場してきます。彼の見立てるトランプ政権の今後は、モラー特別検察官チームが弾劾に追い込む確率が33.3%、修正憲法25条、つまり職務遂行できない(精神の不安定?)として排除される前にトランプが自ら辞任する確率が33.3%、どうにか1期を終えるのが33.3%(しかし2期目はない)と見ている、とこの本は締めくくっているのです。

はてさてどうなることやらのトランプ政権2年目の新年の幕開けです。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

***

冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


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December 15, 2017

告発の行方

アメリカのような「レディー・ファースト」の国でどうしてセクハラが起きるんですかと訊かれます。セクハラは多くの場合パワハラです。それは「性」が「権力」と深く結びつくものだからです。「性」の本質はDNが存続することですが、そのためには脳を持つ多くの生き物でまずはマウンティングが必要です。それは、文字どおり、かつ、比喩的にも、「権力の表現形」なのです。

なので、権力がはびこるところではセクハラも頻発します。個人的な力関係の場合も社会的な権力の場合もあります。男と女、年長と年少、白人と黒人、多数派と少数派──パワーゲームが横行する場所ではパワハラとセクハラ(あるいは性犯罪)は紙一重です。

この騒動の震源地であるハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴィー・ワインスティンや、オスカー俳優ケヴィン・スペイシーへの告発は以前から噂されていました。トランプは大統領になる前はセクハラを自慢してもいました。けれど告発が社会全体の問題になることはほとんどありませんでした。結果、これまではコメディアンのビル・コスビーやFOXニュースのビル・オライリーなど、ああ、1991年、G.W.ブッシュが指名した最高裁判事ののクラレンス・トーマスへのアニタ・ヒルによる告発の例もありましたね、でもいずれも個人的、散発的な事件でしかありませんでした。それがどうして今のような「ムーヴメント」になったのか。

私にはまだその核心的な違いがわかっていません。女性たち、被害者たちの鬱積が飽和点に達していた。そこにワイントンポストやNYタイムズなどの主流メディアが手を差し伸べた。それをツイッターやフェイスブックの「#MeToo」運動が後押した……それはわかっていますが、この「世間」(アメリカやヨーロッパですが)の熱の(空ぶかしのような部分も含めて)発生源の構成がまだわかり切らない。わかっているのは、そこにはとにかく物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しようという実にアメリカ的な意志が働いていることです。ヒステリックな部分もありますが、恐らくそれもどこかふさわしい共感点へたどり着くための一過程なのでしょう。

   *

日本でもそんなアメリカの性被害告発の動きが報道されています。ところが一方で、TBSのTV報道局ワシントン支局長だった男性のレイプ疑惑が、国会でも取り上げられながらも不可解なうやむやさでやり過ごされ、さっぱり腑に落ちないままです。

同支局での職を求めて彼と接触したジャーナリスト伊藤詩織さんが、就労ビザの件で都内で食事に誘われた際、何を飲まされたのか食事後に気を失い、激しい痛みで目を覚ますとホテルの一室で男性が上に乗っていたというこの件では、(1)男性に逮捕状が出ていましたが執行直前に警視庁から逮捕中止の指示が出たこと、(2)書類送検されたがそれも不起訴で、(3)さらに検察審査会でも不起訴は覆らず、その理由が全く不明なこと。そしてそれらが、その男性が安倍首相と公私ともに昵懇のジャーナリストであることによる捜査当局の上部の「忖度」だという疑い(中止を指示したのも菅官房長官の秘書官だった警視庁刑事部長)に結びついて、なんとも嫌な印象なのです。

性行為があったのは男性も認めているのに、なぜ犯罪性がないとされたのか? 何より逮捕状の執行が直前で中止された事実の理由も政府側は説明を回避しています。言わない理由は「容疑者ではない人物のプライバシーに関わることだから」。

しかし問うているのは「容疑者でない」ようにしたその政府(警察・検察)の行為の説明なのです。アメリカの現在のムーヴメントには「物事を表沙汰にして徹底的に正しく解決しよう」という気概があると書きましたが、日本ではレイプの疑惑そのもの以前の、その有無自体を明らかにする経緯への疑義までもが「表沙汰」にされない。ちなみに、当の刑事部長(現在は統括審議官に昇進)は「2年も前の話がなんで今頃?」と週刊誌に答えています。「(男性が)よくテレビに出てるからという(ことが)あるんじゃないの?」と。

   *

折しも12月12日はアラバマ州での上院補選でした。ここでも40年前の14歳の少女への性的行為など計8人の女性から告発を受けた共和党のロイ・ムーアの支持者たちが、「なぜ40年前の話が選挙1カ月前になって?」と、その詩織さん問題の元刑事部長と同じことを言っていたのです。性犯罪の倫理性には時効などないし、しかも性被害の告訴告発には、普通と違う時間が流れているのです。

しかしここはなにせアラバマでした。黒人公民権運動のきっかけとなった55年のローザ・パークス事件や、65年の「血の日曜日」事件も起きたとても保守的な土地柄。白人人口も少なくなっているとはいえ70%近く、6割の人が今も定期的に教会に通う、最も信仰に篤いバイブル・ベルトの州の1つ。ムーアも強硬なキリスト教保守派で州最高裁の判事でした。そして親分のトランプと同じように、彼自身も性犯罪疑惑などという事実はないの一点張りの強硬否定。性被害を訴えるウェイトレスたちのダイナーの常連だったのにもかかわらず、その女性たちにはあったこともないと強弁を続けました。
 
案の定、告発そのものをフェイクニュースだと叫ぶ支持者はいるし「ムーアの少女淫行も不道徳だが、民主党の中絶と同性婚容認も同じ不道徳」「しかもムーアは40年前の話だが、民主党の不道徳は現在進行形だ」という"論理"もまかり通って、こんな爆弾スキャンダルが報じられてもこの25年、民主党が勝ったことのない保守牙城では、やはりムーアが最後には逃げ切るかとも見られていました。おまけにあのトランプの懐刀スティーブ・バノンも乗り込んで、民主党候補ダグ・ジョーンズの猛追もせいぜい「善戦」止まりと悲観されていたのです。

それが勝った。

トランプ政権になってからバージニアやニュージャージーの州知事選などで負け続けの共和党でしたが、その2州はまだ都市部で、アラバマのような真っ赤っかの保守州での敗北とはマグニチュードが違います。

バイブル・ベルトとラスト・ベルト──支持率30%を割らないトランプ政権の最後の足場がこの2つでした。アラバマの敗北はその1つ、バイブル・ベルトの地盤が「告発」の地震に歪んだことを意味します。来年の中間選挙を考えると、共和党はこうした告発があった場合に、否定一本で行くというこれまでの戦略を変えねばならないでしょう。とにかくいまアメリカはセクハラや性犯罪に関しては「被害者ファースト」で社会変革が進行中なのです。

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