July 11, 2018

連邦主義者協会

蓋を開ければ大方の予想通りブレット・カヴァノー(53)がケネディ最高裁判事の後任に指名されました。9日夜の指名発表で、その場でトランプに紹介され握手をして肩を叩かれた瞬間のカヴァノーは、顔を紅潮させてまるで泣き出しそうな感極まった顔をしていました。裁判官というのは何者からも独立した存在ですが、「最高裁判事指名についてこの大統領ほど広く相談し、様々な立場の大勢に意見を求めた人はいません」とのトランプ賛美は、単なる感謝の社交辞令以上のものに聞こえました。

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アイヴィーリーグ(イェール)出身で、G.W.ブッシュ政権で顧問として働いたのちにワシントンDC控訴裁判事を務め、両親も判事という典型的な「エスタブリッシュメント」の彼は、反エスタブリッシュを掲げるトランプの支持層受けしないのではないかとの指摘もありますが、実はカヴァノーはトランプが推薦を仰いだ「フェデラリスト・ソサエティ」(Federalist Society=連邦主義者協会)や右派シンクタンク「ヘリテージ財団」からの強力なプッシュがありました。

さらに、NBCやポリティコによれば、ケネディ判事はすでに数カ月にわたってトランプと自らの引退とその後任人事について話し合っていたそうです。カヴァノーはそのケネディの法律書記官でもありました。ケネディはトランプがカヴァノーを後任に据えると確約したため、予定通りに6月に「7月いっぱいでの引退」を発表したというのです。つまりは他の後任判事候補のリストはみんなダミーだということになります。すべてをサスペンスドラマのように"視聴者"に提供しようというトランプの演出だったわけでしょうか。

何れにしてもこの大きな米司法界の変動は、「フェデラリスト・ソサエティ」の存在抜きには語れません。この協会は1982年にイェールやハーヴァード、シカゴ大学などの名門大学の保守派法学生が始めた組織ですが、今や米法曹界を牛耳る厳然たる右派勢力です。メンバーは全米200校(支部)以上の法科大学院生が1万人以上、現役の弁護士・検事で6万人以上を数え、もちろん昨年1月に亡くなったアントン・スカリア判事の後任としてトランプにピックされたニール・ゴーサッチ判事もここのリストから選ばれました。ちなみに安全保障担当補佐官のジョン・ボルトンもメンバーで、とにかく弁護士出身の共和党政治家はほぼみなここと関わっています。

日本でも「日本会議」という保守組織が政財界で隠然たる影響を及ぼしていますが、フェデラリスト・ソサエティの影響力はその比ではありません。ネオコンがバックに付いたブッシュ政権ではアシュクロフト司法長官やオルソン法務局長、拷問に道を開いた司法省の法律顧問もこのソサエティのメンバーでした。

そもそもフェデラリストとは合衆国憲法の制定に際して連邦政府の権限を強化して保護貿易を支持した人々を指します。憲法解釈でもオリジナリズム(原文主義)を通し、カヴァノーも指名受諾スピーチで「判事は法律を作るのではなく法律を紹介する(must interpret the law, not make the law)ものだ」と故スカリア判事の格言を宣言しました。「A judge must interprets the statutes as written, and a judge must interprets the Constitution as written, informed by history, tradition, and precedent (判事は書かれている通りに法令を、憲法を紹介しなければならない。歴史と伝統と先例とに教えられながら)」という部分が彼の法への姿勢を表しているでしょう。法律があまりに恣意的に操作されるものになって、国家権力に対する抑制が利いていないとする立場です。そこには社会の変化に合わせて柔軟な法解釈を行ってきたリベラル政権への批判があります。(to intepret は「解釈する」という意味ですが、この場合は書かれている通りに忠実に introduce するというニュアンスだと思います)

すると問題となるのは女性の妊娠中絶権や同性婚の合憲性、さらには大統領権限の制限といった二極化著しい論争の行方です。いやそれ以前にトランプ政権は加入を義務付けているオバマケアの違憲性を問うてくるでしょう。その時にゴーサッチとこのカヴァノーが、伝統的で歴史的な判断を示すのは目に見えています。

「中間派」「穏健派」として是々非々のキャスティング・ヴォートを握ってきたケネディ判事が、自分よりも筋金入りの保守カヴァノーをプッシュしたのは、やはり人情というものなんでしょうね。最高裁の構成が今後数十年に渡って保守5リベラル4で(あるいはそれ以上に)固定してしまうと焦る民主党が、今後の指名承認でどういう戦略に出るか、あまり手がないのも確かなのです。共和党上院はおそらく10月初めをメドに指名承認を決めたいと計画しています。

上院はいま共和党対民主党は51対49の僅差です。共和党にも中絶権の維持を求める女性議員がいて、そうすると賛成票は逆転する可能性もありますが、逆に民主党にもトランプ支持州出身で苦戦する議員もいて、彼らが承認に回る可能性もあります。

日本と違ってアメリカの議員には党議拘束がありません。政党から自由に自分の意見を通すことができる。したがってこれから、その議員たちにプレッシャーをかけようと、各々の選挙区で数百万ドルをかけた大規模な意見広告合戦が始まります。

July 03, 2018

乗っ取られる司法

レーガン大統領に指名され、保守派とされながらも同性婚や中絶権に関しては賛成するなど中間派的バランス感覚を買われていたアンソニー・ケネディ最高裁判事(81)が引退を表明しました。トランプ大統領は早速後任に保守派を充てる人選に入りました。

ケネディ判事を別にして保守とリベラルとが4対4で拮抗していた判事構成が、これで今後数十年にわたり右寄りに固定してしまうのではないかとの焦りがリベラル側に滲みます。昨年2月に保守派のスカリア判事が死去した際、オバマ大統領の後任指名は任期が残りわずかだったために上院多数派の共和党に阻止されました。数ヶ月後には新たな大統領を選部のだから、その新たな民意に従うべきだとされたのです。結果、スカリアの後任はトランプが指名することになり、保守派のニール・ゴーサッチ(50)がその座を得たのです。

保守派が保守派と代わったこの人事は大勢に影響はなかったのですが、今度は"中間"派とも呼ばれるケネディの入れ替え。それだけではありません。9人の最高裁判事の最高齢である85歳のルース・ギンズバーグ女史も実は前々から引退したいと仄めかしていて、ところがリベラル派の彼女が辞めればトランプが保守派の3人目を最高裁に送り込むことになる。すると保守対リベラルは6対3です。これでは彼女も辞めるに辞められない。そういう状況で民主党はいま、せめてケネディ後任に関してはオバマの時に倣って11月の中間選挙での民意を聞いてからにすべしと迫っています。

在任中に2人ならず3人も最高裁判事を指名する"強運"に恵まれる大統領はいません。最高裁判事は議会に弾劾されるか自ら引退を言わない限り原則終身制なので、これはもう司法がトランプに乗っ取られるくらいの衝撃です。

アメリカは大統領(行政)と議会(立法)と裁判所(司法)の3権がいずれも政治的な判断を行います。日本みたいに「高度な政治的問題だから」といって裁判所が司法判断を避けるようなことはありません。

最高裁判事の入れ替えの陰で、実はトランプ大統領は就任以来この1年半、連邦裁判所の判事を着々と保守派判事で埋めているのです。これが実はじわじわとアメリカ政治の右傾化に寄与しています。

連邦控訴裁判所は11の地区巡回裁判所とワシントンDCおよび連邦巡回裁判所の計13あります。その判事の数は計179人。オバマ時代はリベラルが85人、保守が79人、欠員が15人でした。それがトランプになって、欠員を含めすでに新たな15人の保守派判事(全員白人、女性4人)の人事に成功しています。さらに12人の保守派候補が指名承認待ち状態。その下にある94の連邦地裁でもトランプが指名した新たな保守派判事の就任は80人近くに上る予定です。

最高裁が保守化する以上に、下級裁が保守化する方が社会的影響は大きい。というのも、最高裁は年平均75件の問題に判断を示すに過ぎませんが、連邦控訴裁は年平均で計3万件も裁いているのです。連邦地裁だとどのくらいに上るのか。

結果、トランプ指名の新判事たちは政治献金の規制に反対し(個人献金者の表現の自由を侵害するという理由です)、企業が人種に基づいて行った人事異動を支持し、死刑囚の執行方法の変更願い(特別な疾病で薬物注射では非常な苦痛を伴うと主張していました)を却下し、自治体が会議の冒頭でキリスト教の祈りを捧げる慣例を支持しました。総じて警察や刑務官に有利な判断を行い、女性や少数派への配慮を軽んじる傾向があります。ある性的暴行事案の裁判では、被告人の男子学生が、告訴した暴行被害者に法廷で相対する権利を認めてもいます。法廷で対峙することによる被害者の再度の心的トラウマは考慮されない結果になりました。

最高裁判事の華々しい人事案件に目を奪われている間にも、トランプによる司法の掌握は深く進行していたわけです。それにしてもなぜケネディ判事は共和党不利を言われる中間選挙を避けるように選挙4ヶ月前のいまこの時点で引退表明したのか? まるでトランプにとって最も都合の良い時期である今を見計らったように。この2人の間に、誰か調整役が介在したのでしょうか?

2017年2月、大統領就任後に初めて議会で演説を行ったあと退場する際に、トランプはケネディ判事のところで立ち止まり、こう声を掛けました。

“Say hello to your boy.(息子さんによろしく)Special guy(特別な男だ)”と。

6月28日付のNYタイムズがリポートしています。

Mr. Trump was apparently referring to Justice Kennedy’s son, Justin. The younger Mr. Kennedy spent more than a decade at Deutsche Bank, eventually rising to become the bank’s global head of real estate capital markets, and he worked closely with Mr. Trump when he was a real estate developer, according to two people with knowledge of his role.
(トランプが言っているのは明らかにケネディ判事の息子ジャスティンのことだった。彼はドイツ銀行に10年以上勤務し、最終的に同銀行の不動産資金市場部門の世界トップに昇進した。ジャスティンの役割を知る2人の人物への取材によると、彼は不動産開発業者だったトランプ氏と緊密に仕事をした。

During Mr. Kennedy’s tenure, Deutsche Bank became Mr. Trump’s most important lender, dispensing well over $1 billion in loans to him for the renovation and construction of skyscrapers in New York and Chicago at a time other mainstream banks were wary of doing business with him because of his troubled business history.
ケネディ判事の在任期間中、ドイツ銀行はトランプ氏への最も重要な融資元となった。ニューヨークとシカゴの高層ビル群のリノベーションおよび建造のために、ドイツ銀行はトランプ氏にゆうに10億ドル(現レートで1兆1000億円)を超える融資を行ってきた。他の主流銀行が、トランプ氏の問題多い業績に共同事業を控えていたのと同時期の話だ。

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トランプはかねてから女性たちの中絶権を認めた1973年の「ロウ対ウェイド」裁判での最高裁判決を覆したいと公言してきました。「妊娠を継続するか否かに関する女性の決定はプライバシー権に含まれる」として、アメリカ合衆国憲法修正第14条が女性の中絶の権利を保障していると初めて判示したこの裁判によって、人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法の大部分が違憲で無効となりました。これはいわゆるプロライフ=胎児の生命を尊重し中絶に反対する立場をとる宗教保守派の長年の主要攻撃対象です。中間選挙を控え、そして2年後の2期目の選挙戦を控え、トランプには白磁労働者層に加えて宗教保守派層の票固めも必要なのです。さてその次は、同性婚の否定でしょうか。

大統領の権力の強大さを、今更ながら考えています。中間選挙の結果がリベラル層にとっていかに重要かを考えながら。

June 13, 2018

凡庸な合意

「歴史的瞬間」というのは何を指して言うのでしょう? 米朝首脳会談の合意文書を読む限り、ここには何ら新しいことはなく、曖昧な約束だけが並んでいました。主要4項目はクリントン時代の94年の米朝枠組み合意とそっくりです。ならば前例のない「歴史的瞬間」と言うのは、北朝鮮の指導者と米国大統領が会って握手した、ツーショット写真を撮った、ということなのでしょう。

ちなみに、94年の米朝枠組み合意のテキストはこうでした。

・双方とも、政治的・経済的関係の完全な正常化に向けて行動する。
・アメリカは、その保有する核兵器を北朝鮮に対して使用せず、脅威も与えないと確約する。
・北朝鮮は、1992年の朝鮮半島の非核化に関する共同宣言を履行する手段をとる

今回の合意骨子はこうです。

・米国と北朝鮮は、平和と繁栄を求める両国民の希望通りに、新たな米朝関係の構築に向けて取り組む。
・米国と北朝鮮は、朝鮮半島での恒久的で安定的な平和体制の構築に向け、力を合わせる。
・北朝鮮は、4月27日の「板門店宣言」を再確認し、朝鮮半島の完全な非核化に向け取り組む。

これに遺骨返還が加わるわけですが、ほとんど同じでしょう? いやいや実は、94年合意の方には他にも「北朝鮮は核拡散防止条約に留まる」とか「凍結されない核施設については、国際原子力機関 (IAEA) の通常および特別の査察を再開する」「北朝鮮が現在保有する使用済み核燃料は、北朝鮮国内で保管し、再処理することなく完全に廃棄する」などの具体的項目が入っているので、むしろ今回の合意文書は中身のないスカスカな後退の表れと受け取られてもやむなしなのです。

前回のブログエントリー「予測可能大統領」で、6月12日の会談は「具体的な結論には至らぬ見通し」「壮大な政治ショーとしてとりあえず世界を煙に巻く算段」と書きました。なぜなら、金正恩の呼びかけに応じた3月初めからの準備期間「3カ月」はあまりに短かったからです。今回の合意文書はまさにその具現でした。トランプは「外交」というものをナメていたのでしょう。

非核化に関して行程表も示せず何も詰められず、結果、政治的成果を焦るトランプの前のめりのパフォーマンスと批判されてもしょうがありません。案の定、文書署名後の記者会見では具体性に欠ける合意ということで集中砲火を浴びていたのです。

その時のトランプは、なんだか初めて壮大な理想論を語っていたような印象です。米国大統領は国民に向けて大いなる理想を提示するのが常ですが、トランプの記者会見は朝鮮半島の統一とか平和的解決とか、ま、理想論というよりは希望的観測といったほうがいいのかもしれません。

結果、唯一具体的に形になったのは、前述の「会った、握手した、ツーショット」という、第一に北が望んでいた「米国大統領を使った金正恩の箔付け」だけです(歴代の米国政府はそれをこそ忌避して、協議を遠くから差配していた)。しかも今回は、大変なカネの節約になるからとトランプは朝鮮半島での米韓軍事演習の取り止めや、在韓米軍の撤退の見通し、さらにはそう遠くない制裁解除の話まで会見で披露しました。外交プロトコルを無視したこうした発言に至っては、「トレメンダス・サクセス(途轍もない成功)」というトランプの自画自賛の常套句は、現時点では金正恩にとっての言葉です。

いえ、しかしそれでもいいのです。今年初めの時点では、この5〜6月というのはともすると朝鮮戦争再開の、まさに「今そこにある危機」を予想されていたのですから。それが回避されたのは何よりです。まずはそれを寿ぎたい。

「外交プロトコルなんてクソくらえ、慣習なんて関係ない。オレはオレ流で誰もできなかったことをやり遂げるのだ」と言うトランプに99%の懐疑を抱きながらも、じつは瓢箪から駒でなんらかの成果が得られるのではないか、と、そしてその場合は、トランプに対する評価の根本のなにがしかを変えねばならないなと、1%の希望を持っていたことは否定しません。

しかし今回改めてわかったことは、トランプは脅しとハッタリの取り引きが得意なディーラーかもしれないが、緻密で理詰めな交渉が出来るネゴシエーターではないということです。そして「外交」というのはまさに、ディールではなくネゴシエーションなのです。

交渉というものは時にカッコ悪い自分をさらさねばならないけれど、ナルシストの彼はそれが出来ない。アメリカに住んで、日本とは違って何度も多くの議論の場に立ち会いました。その中でトランプのような人に何度も出食わしました。強面でぶつかりながらも、実際に一対一で対峙すると、面と向かっては自分の嫌なことは言えない、言うとちっちゃな人間だと思われるのが嫌な、徹底した「いいカッコしい」が結構いるのです。だからそんな局面に至らぬうちにディールをかけようとするのです。

トランプはそういう人物です。脅しとハッタリのディールは得意かもしれないが、理詰めの緻密な交渉は苦手なのです。非核化のプロセスとはまさにその理詰めの交渉に他なりません。そしてそれを「外交」と呼ぶ。記者会見で妙に饒舌だったトランプは、私には雄弁なだけのとても凡庸な交渉人に見えました。

問題はしかしこれからです。クリントンもブッシュも、24年前の枠組み合意や11年前の6カ国協議で今回のトランプと金正恩が「合意」したような、この地点までは来ていました。その「約束」を具体化するときに金正日に裏切られたのです。

トランプは別に特別な大統領ではありません。外交となればクリントン、ブッシュが直面した同じ困難に直面するのです。しかし「今回はその二の舞にならない」と言っているのだとしたら、トランプ政権はこれから彼らとは違う何が出来るのか? 前二者が言わなかった「体制保証」を示したのだから今度は裏切らないはず、というのはさすがにナイーヴすぎましょうから。

「CVID(完全で検証可能かつ不可逆的な非核化)」は実に困難です。なにせ核弾頭が何個あるのかもわからない。核関連施設は400カ所とも言われ、1カ所に1週間かければ8年かかります。

私はCVIDは不可能だと思っています。しかしそんなことは現実世界ではままあることです。ならば北が核を隠し持っても使わせないようにすることです。もちろん公式にはそんなことは言えませんが、同じく朝鮮半島の非核化を望む中ロの思惑も取り込んで、そういう包囲網を作る。いったん世界経済の仕組みの中に取り込めば、経済的繁栄をかなぐり捨ててまでも世界のならず者国家に逆戻りすることは難しい。私たちがもう昭和30年代に戻れないのと同じです。北朝鮮を、金正恩をそういう状況に誘導することが、片目をつぶって偉業を成す現実的政治家の本領だと思っています。

もっとも、その場合はトランプは(遠くて関係ないと思えるのにカネばかりがかかる)東アジアのことなどどうでもよくなる。米国の安全保障体制も変わるでしょう。日本のことだってどうでもいい、となる。その時、常に「100%アメリカとある」アベちゃんはどうするんでしょうね。

June 05, 2018

予測可能大統領

就任直後から何をするか予測不能と言われていたトランプ大統領が、最近はその行動パタンが見え見えで、こんなに予測可能な大統領はいないんじゃないかと思えてきました。米朝首脳会談中止の書簡は、見る人には交渉途中のブラフでしかなかったし、案の定、来週12日のシンガポール会談は壮大な政治ショーとしてぶち上げ、とりあえず世界を煙に巻く算段です。

トランプの行動パタンははっきりしています。すでに多くの人が言うように、自分が主演のテレビ番組をセルフプロデュースしているというのが当たっています。まず自分が目立つこと。ディールと称してハッタリをかますこと。次にそのハッタリを本物かのように装うこと。その後で辻褄が合わなくなり、ウヤムヤな着地点を探すのですが、その時点ではすでに視聴者(支持者)には何かすごいことをやったかのように印象付けているのです。つまり「大言壮語」をあたかも「有言実行」であるかのように仕組むパタンです。

メキシコの壁然り。パリ協定やTPP脱退宣言然り。現時点でハッタリ段階の関税戦争もこれから同じパタンをたどるはずです。

「6月12日」も同じ。3月初めの金正恩の呼びかけに即座に応答したことで、世界はこれで武力衝突が回避できると歓迎しました。「さすがトランプだ、因習に縛られずに自ら動いた」と。ところが派手に「5月中」と予告した日取りではとても詰め切れない。「6月12日」にずらしたのはよしとして、問題はそれでも具体的な結論には至らぬ見通しなので、その後も第2回、第3回と会談を継続させることです。

行動パタンは書きました。ここで、トランプの行動指針が明らかになります。

目下の課題は8月か9月に弾けるかもしれないとされるロシア疑惑捜査をどう躱すかです。6月2日付のNYタイムズが、トランプ弁護団からモラー特別検察官に当てた書簡をスッパ抜きました。弁護団はロシア疑惑に関して「大統領は、訴追されても自分を恩赦する権利を持つ」と、かねてより噂されていたトンデモ論理をやはり持ち出してきました。さらには「大統領に司法妨害はあり得ない。なぜなら大統領は司法のトップであり、いつでも捜査を中止できるのだ」とまで言うわけです。その後のトランプのツイートはまたこの件で狂乱状態です。まあ、大統領は訴追されないという慣行があるので、恩赦云々は世間向けの虚勢であると同時に、いかにトランプ陣営が切羽詰まっているかを表する証左ということです。ただし、モラーは弾劾を下院に提起できる。そして弾劾はもちろん恩赦の埒外です。

もう1つの行動指針は11月の中間選挙での勝利です。これは上記の弾劾にも関わる死活問題です。全員改選となる下院は民主党が有利と言われ、多数を獲得されれば弾劾に弾みがついてしまいます。だから何がなんでも勝たねばならない。

そのためには、北との関係は「6月12日」でファンファーレ高らかに前奏曲、それから「成功」を小出しにつなげながら11月以前にクライマックスへ到達するようにした方が良いかもしれない、とトランプが考えても不思議ではありますまい。しかし「始める前から決裂」は最もマズいので、トランプは北の非核化は段階的でもいいと会談実現にハードルを下げたのです。

ところで段階的非核化の容認とは、実は94年の米朝枠組み合意や03〜07年の6カ国協議での取り決めと同じです。その何れもが北朝鮮の約束反故で破綻し、トランプはそうやって失敗した2人の大統領、クリントンとジョージ・W・ブッシュを口汚く嘲り非難してきたはずです。なのにまた自分も同じことをしようとしている。何が違うのでしょう。

メディアはもちろんその点を鋭く衝いています。だからマティス国防長官やクドロー国家経済会議議長が「制裁解除は北朝鮮の非核化の最後のプロセス」と、クリントンやブッシュの時とは違うと強調しているのですが、おかしなことにここ最近のトランプ自身は制裁解除については言及しなくなっている。会談実現と非核化プロセスに関する発言だけなのです。

これも大言壮語の陰で「ウヤムヤな着地点を探す」という行動パタンです。表立っての経済制裁解除は難しいでしょうが、トランプのことです、金正恩に、このところ急接近の中国とロシアの制裁逃れ支援は目こぼしするくらいのことは言うかもしれません。

何れにしても再びの対話路線回帰で「対話は無意味」と言い続けてきたどっかの首相は梯子を外された格好ですが、トランプは圧力一辺倒の前言との齟齬を取り繕おうと、さらに踏み込んで朝鮮戦争の終戦宣言から平和協定締結という大団円を演出したいようです。もっとも、それこそが北朝鮮の思うツボなのですが、ノーベル賞がちらつく彼にはそこはどうでもいいのです。

我田引水、牽強付会、曲学阿世、傲岸不遜……たとえ今回も過去と同じ「対話のための対話」だったとしても、とりあえず武力行使が回避されたのは喜ばしいことです。が、トランプ流の行き着く先に待つ世界を思うと、暗澹たる気分は続いています。

May 16, 2018

『君の名前で僕を呼んで』試論──あるいは『敢えてその名前を呼ばぬ愛』について

これは男性間の恋愛感情に関する映画です。その恋愛感情に対する是非はあらかじめ決まっていて、そこに向かって進んでゆくストーリーになっています。この映画は、その答えを提示したかったがための映画かもしれません。その答えというのは、最後に近い、エリオが一夏の別れを経た部分で、父親が彼に向けて説く「友情」あるいは「友情以上のもの」と呼んだこの恋愛感情への是認、肯定です。この映画の影の主人公は、その答えを差し出してくれるエリオのこの父親と言ってもよいかもしれません。

まだ原作を読んでいないのでこれが原作者の意図なのか、あるいは脚本を書いたジェイムズ・アイヴォリーの企図なのかじつは判断しかねるのですが、しかしいずれにしてもこれを映画の中でこういう形で提示しようとアイヴォリーが決めたのですから、アイヴォリーの思いであるという前提の上で考えていきましょう。この父親は、アイヴォリーです。だからこの映画の影の主人公も、じつはアイヴォリーなのです。

映画の設定は1983年の夏、北イタリアのとある場所。ご存知のようにJ.アイヴォリーは1980年代に『モーリス』という映画の脚本を書き、自ら監督しました。こちらはE.M.フォスターが1914年に執筆した同性愛小説が原作です。

片や1900年代初頭を舞台に1987年に製作された『モーリス』。
片や1983年を舞台に2017年に製作された『君の名前で僕を呼んで』。

この2つの時代、いや、正確には4つの時代は、とても違います。違うのは、先ほど触れた「男性間の恋愛感情」への是非の判断です。20世紀初頭は言うまでもなく男性間の恋愛は性的倒錯であり精神疾患でした。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との恋愛関係で裁判にかけられ、有罪になったのはつい20年ほど前、1895年のことでした。20世紀初頭、E.M.フォスターはもちろんそれを深く胸に(秘めたトラウマとして)刻んでいたはずです。一方で『モーリス』が作られた1980年代半ばはエイズ禍の真っ最中です。『モーリス』には、その原作年、製作年のいずれにおいても、男性間の恋愛を肯定的に描く環境は微塵もなかった。

対する『君の名前で〜』の1983年は、かろうじて北イタリアの別荘地にまでエイズ禍がまだ届いていなかったギリギリの時代設定です。聞けば原作では時代設定が1987年だったのを、アイヴォリーが83年に前倒ししたのだとか。男性間の恋愛が、秘めている限りまだ牧歌的でいられた時代。まさにエイズ禍の影を挿し挟みたくなかったがゆえの時代変更かもしれません。そして2017年という製作年は、もちろん欧米では同性婚も認められた肯定感のプロモーションの時代です(おそらく企画段階ではトランプの登場も予測されていなかったはずです)。

アイヴォリーは、この『君の名前で〜』によって、『モーリス』(の時代)には描けなかった「男性観の恋愛感情」への肯定感を、(『モーリス』製作の後でいつの間にかゲイだとカミングアウトしていた身として)自分の映画製作史に上書きした(かった)のだろうと思うのです。

もっとも、この映画には『モーリス』の上書き以上のものがあります。アイヴォリーは同性愛映画の名作の手法をさりげなく総動員させています。いたるところに散りばめられている『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュ、そして『ムーンライト』のタイムライン。

アイヴォリーの(あるいは監督のルカ・ グァダニーノの)描いた「肯定感」の醸造法は『ブロークバック』からの借用です。『ブロークバック』ではエニス(ヒース・レッジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)の逢瀬にはいつも水が流れていました。大自然の水辺という清澄な瑞々しさが彼らの関係を保障していたのです。一方でエニスとその妻アルマ(ミシェル・ウィルアムズ)の情交は常に埃舞うアメリカの片田舎での、軋むベッドの上でした。

それは『君の名前で〜』に受け継がれています。エリオとオリヴァーはいつも別荘のプールで泳ぎ、その脇で本を読み、思索をして過ごします。その水辺でエリオのオリヴァーに対する思いはスポンジのように(!)膨らみ、やがて初めて辿り着くキスはエリオが「秘密の場所」と呼ぶ清冽な池のほとりです。一方でエリオとマルシアの、成功した2度目の性交は使われていない物置部屋の、やはり埃舞い上がるマットレスの上でした。

それにしても男性観の恋愛への肯定感を醸成するために『ブロークバック』でも『君の名前で〜』でもこうして女性との関係性をそれとなく汚すのはたとえ対比とは言えなんとも不公平というかズルい気がするのですが……。

ズルいのはもう1つ、エリオの17歳という年齢です。男性なら(あるいは女性でも)わかると思いますが、17歳の男の子というのは頭の中まで精液が詰まっているような、身体中がそんな混乱した性の海に浸かっています。意識するしないに関わらず何から何までもが性的なものと関係していて、時に友情と友情以上のものとの狭間もわからなくなったりします。自分の欲望の指向するものがなんだかわからなくなって、その人が好きなのか、その人とのセックスが好きなのか、それともセックスそのものが好きなのかもわからなくなって、自分は頭がおかしいのかと本当に気が狂いそうになったりもするのです。

だって、アプリコットですよ。桃ほどに大きなアプリコットを相手に自慰をして(そしてそれは日本で巷間言われるコンニャクとか木の股とかとは違ってとてもお尻=肛門性交に似ているのです)、その後で眠ってしまった自分のおちんちんをフェラしてきたオリヴァーに「何をしたんだ?」と冗談混じりに訊かれるわけです。エリオは真剣に打ち明けます。「I am sick(僕はビョーキだ/頭がおかしい)」と。

もうそういう年齢を過ぎているオリヴァーはその告白の深刻さを真に受けません。「もっと sick な(気持ち悪い、頭の変な)ことを見せてあげる」と言ってそのアプリコットを食べようとまでする。そこでエリオは本当に泣くのです。「Why are you doing this to me?(なんで僕にそんなことをするんだ)」。それはオリヴァーにとってはお遊びですが、17歳の真剣に悩むエリオにとっては自分の「ビョーキ」を当てこする「辱め」「ひどい仕打ち」なのです。彼はそれほど自分のことがわからなくなっている。そしてオリヴァーの胸に顔を埋めながら(でしたっけ?)「I don't want you to go....(行かないで)」と絞り出すように呟くのです。

この「17歳」の告白を、性的混乱として受け取るのか、性的決定として受け取るのか、その選択をアイヴォリーは表向き、観客に委ねているように見えます。というのも、この年齢的な局面は『ムーンライト』(2016年)にも描かれていましたから。

『ムーンライト』はシャイロンという1人のゲイ男性の少年期、思春期、そして成年期の3部構成で描かれ、ティーネイジャーの第2部で描かれるシャイロンは同級生のケヴィンとドラッグをやりながら(これも海辺で)キスをし、ケヴィンから手淫を受けます。シャイロンはその優しいケヴィンとの思い出を胸に、以後、第3部で筋骨隆々のドラッグディラーとなってケヴィンと再会したその時まで、誰とも触れ合わず、誰とも抱き合いもせずに生きていたのです。

私たちは過去の何かから変化して大人になっていくのではありません。過去の何かは大人になってもいつも自分の中にあります。まるでマトリョーシュカ人形のように、過去の何かの上に新たな何かを作り上げ、それが以前の自分に覆い被さって大きくなっていくのです。シャイロンはゲイですが、ケヴィンはゲイではありません。大人になった2人には本来ならあの青い月明かりの海辺での、思春期の関係性は戻ってこないはずです。けれど、いまのシャイロンの筋骨隆々のあの肉体の下に、おどおどした十代のティーネイジャーのシャイロンも生きていて、同時にマイアミでダイナーのシェフとして働く様変わりしたケヴィンの中にもその皮膚の何層か下にあの海辺のケヴィンが生きていて、そのケヴィンはまるでマトリョーシュカの一番上から何個かの人形を脱ぎ捨てるようにして、逞しい今のシャイロンの下にいるひ弱なシャイロンを抱きしめるのです。そう、私たちは私たちの中に、今も17歳の自分を飼っている。

十代のそれらは性的混乱なのでしょうか? あるいはそれは思春期に起こりがちな性的未決定なままの性の(そしてその同義としての愛の)横溢だったのでしょうか? アイヴォリーがその判断を観客に委ねるふうに提示しているのは、私はズルいと思います。ここから例えば、「これはゲイ映画ではない」という言説が生まれてきます。「これはLGBTの話ではなく、もっと普遍的な愛の物語だ」という、お馴染みのあの御託です。

実際、3月初めの東京での『君の名前で〜』の試写会では、試写後に登壇した映画評論家らが「僕はこの作品を見て、LGBTを全く意識しませんでした。普通の恋愛映画と感じました」「ブロークバックマウンテンは気持ち悪かったけど、この映画は綺麗だったから観易かった」「この作品はLGBTの映画ではなく、ごく普通の恋人たちの作品。人間の機微を描いたエモーショナルな作品。(LGBTを)特別視している状況がもう違います」云々と話していた、らしい(ネット上で拾った伝聞情報です)。

それはどうなんでしょう? どうしてそこまで「ゲイでない」と言挙げするのでしょう? まるでそれを強調することが、より普遍性を持った褒め言葉であるかのように。

私はむしろ、「17歳」は「ゲイでもあるのだ」と捉える方が自然だと思っています。精液が爪先から頭のてっぺんにまで充満しているような気分の、そして知らないうちにそれが鼻血になってのべつまくなし漏れ出てしまうようなあの時代は、混乱とか未決定とかそういうものではなくむしろ、すべての(変てこりんさをも含んだ)可能性を持ち合わせた年齢だと見据える。そこでは友情すらも性的な何かなのです。そう捉えることこそがありのままの理解なのではないか? 社会的規範とか倫理観とか制約とか、そういうものに構築された意味を剥ぎ取ってみれば、それも「ゲイ」と呼ぶことに、何の躊躇があるのでしょう?

いま90歳のアイヴォリー自身に、そこまでの肯定感があるのかはわかりません。アイヴォリーの分身であるエリオの父親のあの長ゼリフは、自らはその肯定感を得る前に身を退いてしまった後悔とともに語られます。この映画自体、「未決定」で「混乱」するエリオの自己探索の、一夏の出来事のように(表向き)作られてはいるのですから。

自己探索──それは冒頭の、エリオが目を止めるオリヴァーの胸元の、ダヴィデの星、六芒星のペンダントによって最初に暗示されます。それは自らのアイデンティティの証です。そしてそのペンダントの向こうには胸毛の生えた大人の厚い胸があります。オリヴァーは知的で、自分が何者かを知っていて、しかも胸毛のある大人です。それらは今のエリオにはないものです。オリヴァーは到着した最初の日に疲れて眠りたくて夕食をパスするような、礼儀知らずの不遜なアメリカ人として描かれます。それもエリオが持ち合わせていないものです。なんだか気に食わないけれどとても気になる存在として、エリオはオリヴァーに憧れてゆく。「自己」をすでにアイデンティファイしている(と見える)24歳のオリヴァーに惹かれるのです。

そう、これはエリオにとっては自己探索の映画でもあります。けれど視点を変えれば、これは実は、オリヴァーにとってはとても苦しい言い訳の映画であることもわかってくるのです。

それを象徴するのが「Later(後で)」という彼の口癖の言葉です。

なぜか?

オリヴァーがエリオに「Grow up. I'll see you at midnight(大人になれ。今夜12時に会おう)」と告げたあの初夜のベッドで、この映画のタイトルにもなる重要な言葉、「Call me by your name, and I call you by mine(君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名前で君を呼ぶ)」と提案したのが、エリオかオリヴァーか、どちらだったのか憶えていますか?

これを「2人で愛を交わし、お互いの中に自分を差し出した関係において、君は僕で、僕は君なのだ」というロマンティックな意味だと捉えることは可能でしょう。そしてエリオにとってはもちろんそうだった。エリオはそういう意味だと受け取ったのだと思います。けれどオリヴァーにとって、この呼称の問題はそんなに単純にロマンティックなものではないのです。

この呼称はオリヴァーからの提案です。そしてそのオリヴァーは、すでに自己探索を終えたクローゼットのゲイ男性なのです。

この映画の早い段階で、オリヴァーはエリオの危うい感情に気づいています。初夜の後でいみじくも告白したように彼はあのバレーボールのとき、半裸のエリオの肩を揉んで「リラックス!」と言ったときに、すでに彼に狙いをつけていたのでした。さらに2人で自転車で街に行って、第一次世界大戦のピアーヴェ川の戦いの戦勝碑のところでエリオに告白されようとしたとき、それが何かを聞く前に「そういうことは話してはいけない」とエリオを制したのです。さらにさらに、その後のエリオの「秘密の場所」への寄り道でキスをしたとき、それ以上のことを拒んで自分の脇腹の傷の化膿のことに話を逸らしました。これらは自制心の表れではありません。これらは、自制心を失ったらどうなるかを知っているクローゼットのゲイ男性の恐怖心です。クローゼットのゲイ男性として、彼はその種の決定をいつも「Later」と言って先送りにしてきたのです。

それらの伏線となるのが、ピアーヴェの直前のシーンの、エリオの母親の朗読による16世紀フランスの恋愛譚『エプタメロン』のストーリーです。ドイツ語版しか見つからなかったその本は、ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、母親はその中から王女と若きハンサムな騎士の物語を英語に訳しながら読み聞かせます。騎士と王女の2人は恋に落ちるのですが、まさにその友情ゆえに騎士は王女にそのことを持ち出して良いのかわからない。そして騎士は王女に問うのです。「Is it better to speak or to die? (話した方がいいか、死んだ方がいいか?)」と。エリオは母親に自分にはそんな質問をする勇気はないと言います。けれど横でそれを聞いていた父親は(ええ、あの父親です)エリオに「そんなことはないだろう」と後押しするのです。

ちなみにエリオの父親はエリオのオリヴァーに対する友情以上の感情を「母さんは知らない」と言うのですが、母親はもちろん知っています。すべての母親は、もちろん息子のそのことを知っているのです(笑)。

この母親による『エプタメロン』の朗読の力(to speak or to die=まるでシェイクスピアのセリフのような「話すべきか、死ぬべきか」の命題)で、その直後のエリオはあのピアーヴェの戦勝碑のところでオリヴァーに告白しようと勇気を振るうわけです。告白の決心とともに、カメラは一瞬、頭上の胸懐の十字架を見上げるエリオの視線をなぞるように映します。そうしてからオリヴァーに向き合うエリオに対し、ところがすでにその素振りを察知しているオリヴァーは「そういうことは話していけない」と制止するのです。また Later と言うかのように。

これは自制心ではなく恐怖心だと書きました。なぜか?

ここに繰り返し現れる「話す/話さない」という命題は、ゲイへの迫害の歴史を知っている者には極めて重要かつ明白なセンテンスを想起させるのです。それは先でも触れたオスカー・ワイルドの有名なフレーズ、「The love that dare not speak its name」です。「敢えてその名を言わぬ愛」──ワイルドは、ダグラス卿との男色関係を問われた1895年の裁判で自分たちの恋愛をそう形容し、結果、2年間の重労働刑に処せられたのでした(このことは結局、オスカー・ワイルドの名声を破壊し、彼は悲惨な晩年を送ることになるのです)。知的なオリヴァーがワイルドの人生の恐ろしい顛末を知らないはずがありません。しかも1983年は、北イタリアの別荘地でこそエイズの影はありませんが、オリヴァーのアメリカではすでにレーガン政権の下、エイズ禍の表面化と拡大と、それに伴う大々的なホモフォビア(同性愛嫌悪)が進行していました。ゲイであることはまさに「話すか、死ぬか」の二者択一でしかないほどの恐怖でした。彼がクローゼットである事実は、誰もがクローゼットに隠れていた時代を示唆しているにすぎません。「敢えてその名を言う」者とは、つまりクローゼットからカムアウトするゲイたちのことです。そしてあの時代、彼らはほぼ、「エイズ禍と闘う」という社会的な大義名分を盾としなければ敢えてその愛の名前など口にできなかったのです。

そう、「君の名前で僕を呼んで」と提案したのはオリヴァーです。それは実は「敢えてその名前を呼ばぬ愛」の方法なのです。相手の名前を呼べば、それが「同性愛」という名前のものだと知られてしまうからです。だから彼は自分の名前で相手の名前を代用させた……その底に流れているのは恐怖心なのです。エリオが母親から『エプタメロン』の話を聞かされたと話したときに、オリヴァーが、騎士が王女にその思いを話したのか話さなかったのか、その結果を妙に気にしたのもそのせいです。

ピアーヴェの戦勝碑のシーンから、エリオの心はオリヴァーに決めています。その時のエリオはいつの間にかオリヴァーのダヴィデの星のペンダントを自分のものにしています。自分のアイデンティティを選び取り、身に着けたのです。けれど肝心のオリヴァーがそこからビビり始める。だから「Trator! (裏切り者!)」と罵りたくもなるのです。なにせ、オリヴァーはエリオとの性的な場面ではまるで日常を転換するように普段は吸わないタバコを吸うのですから。あたかも酔わなければ性交できない弱虫のように。

ラストシーンに向かってまた『ブロークバック・マウンテン』が出てきます。ジャックが隠し持っていたエニスのシャツのように、エリオはオリヴァーが到着した初日に着ていた青いシャツも手に入れています。そしてとうとう帰米することになる前に、2人で旅行したベルガモでいっしょに緑濃い山に登るのです。そこには滝が流れてもいます。一心不乱にこの「ブロークバック・マウンテン」を駆け上がるエリオの後ろで、ところがオリヴァーは一瞬その足を止め、山と反対方向に向き直って遠くを見つめるのです。それが何を意味しているのか、そのとき彼が何を見ていたのか。もう言わなくてもわかりますよね。その年の冬、電話の向こうからオリヴァーはエリオに結婚することを告げます。彼女とはもう2年前から付き合っていたのだと。

そして最後の3分半の長回しがスタートします。エリオの顔には、彼が見つめている暖炉の炎の色が反射しています。それは赤く燃える彼の性愛の象徴です。その向こう、エリオの背後の窓の外には雪が降っています。そしてその雪とエリオの間に、ハヌカの食卓の支度をする家庭が介在しています。

この三層構造も、実は『ブロークバック』のラストシーンと呼応しています。時が経ち、老いたエニスのトレイラーハウスの中、そこにはエニスの性愛の象徴のブロークバック・マウンテンを写した絵葉書が貼ってありました。それが貼られているのはトレイラーハウスに置いたクローゼットの四角い扉でした。そしてクローゼットの横には窓があり、その窓からはうら寒い外の世界が見えていたのです。その三層構造。

エリオの見つめる炎、温かい室内、そして外の雪世界──アイヴォリーが提示したのは、『モーリス』で描けなかった肯定感だと最初に書きました。そのためにこの最後の三層構造は、『ブロークバック』のラストシーンの三層構造と1つだけ違っています。それは『ブロークバック』での「クローゼットの四角い扉」が、「温かい家庭」に置き換わっていることです。エニスの性愛を守ったのがクローゼットだったのに対し、エリオの性愛を守るのは家庭なのです。

『ブロークバック』のラストシーンは1983年の設定です。スタートは1963年でした。1963年からの20年間を引きずるエニスの破れなかった「クローゼット」。それをアイヴォリーはその同じ年の冬に「温かい家庭」に置き換えて、2017年からエリオを鼓舞しているのです。


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註)まだ1回しかこの映画を観ていないので、記憶違いや細部に関して見逃している部分がいくつもあると思います。
例えば、半ばごろに登場するヘラクレイトスの『Cosmic Fragments』という本。これは福岡伸一さんも敷衍した「動的平衡」の考え方の土台である「万物は流転する」というテーゼの本です。「同じ川に2度と入ることはできない」という有名な譬え話に象徴されますが、これは私が持ち出した「マトリョーシュカ」の話と矛盾します。それはどう解決するのか、私にはまだわかりません。
もう1つ気になったのは、画面に何度か登場するハエです。あれは何なのでしょう? 確かエリオがオナニーをしようとするシーン、それと最後の長回しのシーンでもハエが映り込んでいました。あのハエに何か意味を持たせようとすると(いろんな可能性を考えて観ましたが、そのいずれも)変なことになります。その1つが迫り来るエイズ禍の影の象徴というものです。その読みは可能だけど、安易すぎるし表層的なホモフォビアにつながります。もしこのハエの映り込みが意図的ではないならば、あるいは意図的であったとしたらなおさらあれは無意味かつ有害ですので、事後の画像処理で消すべきじゃないかと強く思います。
あと、ヘーゲルの引用にどういう意味があるのかはまだ考えていません(笑)。

しっかし、本文には書かなかったけど、シャラメくん、あのオドオド感、行きつ戻りつ感、意を決した感、わけわかんなくなっちゃった感、こんなこと言っちゃった感、全てを自分の引き出しから出して、というか出せるんだから、すごい俳優だなあ。オスカーのノミネート宜なるかな、でありました。

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