September 19, 2018

「幇間稽古」

『鬼平』と並ぶ池波正太郎の代表作に『剣客商売』があります。その中の「井関道場・四天王」という一編は、四天王とされる4人の高弟から井関道場の後継者を選ぶという話題から始まります。相談を受けた主人公の老剣客・小兵衛が、道場を覗き見して4人各々の稽古づけの品定めをします。その中の一人、後藤九兵衛を見たときに、小兵衛は「あ……こいつはだめだ」と直感します。

この後藤九兵衛、どんな指導法かというと「そこ、そこ。もうすこしだ」とか「残念。いま一歩踏み込みを厳しく」とか「それだ。その呼吸だ」とか「一人一人へうまいことをいってやるもの」で、これでは「十の素質がある門人でも三か四のところで行き止まり」になる「幇間稽古」だと小兵衛は断じるのです。門人の心身を鍛えるのではなく、自分の剣法を売って名声と地位を得んとする道場主の典型タイプ、と斬って捨てて容赦ない。

ふうむ、そうか、小兵衛は「褒めて育てる」タイプではダメだと言っているのか──。

ただ、これは作者池波正太郎の普遍的な判断なのか、それとも江戸時代を背景にした小兵衛の思いなのか、その辺はよくわかりません。けれど、私の大好きな「小兵衛」の話です、そう言われれば確かに褒めて甘やかして育てて、そのまま甘ちゃんになる「やればできるんだけどしないだけ、と言って慢心している」タイプが多かったりするなあ、とも思ってしまうのです。あるいは「厳しくすればするほど傑出してくるタイプ」と「褒められることでぐんと伸びるタイプ」と、その見極めに応じて稽古づけの方法を変えるのが最もよいのかもしれないなあ、とか。

だって、テニスで全米オープン優勝という前代未聞の快挙を果たした大坂なおみには、「幇間稽古」の権化のようなサーシャ・バインというコーチが付いていたんですよ。彼のコーチングは、徹底して「さっきちょっとだけ前向きになるって約束しただろ? 大丈夫。キミならできる。キミならできるよ」とか、「ポジティブになれ。人生はこんなに楽しい。天気もいい。さあ集中しろ」とか、彼女をひたすら励まし褒めることだったのです。彼によって大坂なおみは「三か四」止まりだったかもしれない素質の発露を「十」あるいは十二分に引き上げられたのです。

ここは小兵衛、どう言うか?

さて、ここのところ日本で問題になっているのがスポーツ指導者による、練習の名を借りた異常なパワハラと暴力です。厳しければいいというもんではすでにありません。大相撲では死者まで出ましたし、今年になっても女子レスリングの伊調選手へのいじめや日大アメフト部での反則強要や無理強い、ボクシング連盟での忖度判定やワンマン体制、女子体操、重量挙げ、日体大陸上部駅伝などでの暴力指導と、どこもかしこも立て続けに殴ったり蹴ったりいじめたり排除したり恫喝したりのオンパレード。まるでどこかの専制恐怖政治の国のような在りようです。いったいこれは何なのでしょう?

スポーツ庁の鈴木大地長官はこれらを受けて「スポーツ界の悪い伝統を断ち切る意味でチャンス」と言います。いみじくも彼が公的に認めたように、言われるまでもなく私たちはみな学校の部活動などから経験的に日本のこの「悪い伝統」のことを知っています。だから大坂なおみのあの快挙の後ろに「褒めて育てる」サーシャ・バインのコーチングがあったことを知って、あんなに強権的に怒られたり殴られたりしなくても成功できる道があるじゃないか、と思い始めている。

この「悪い伝統」は軍隊から来ていると言われます。力による徹底支配、絶対の上下関係、自律や思考を許さない命令系統──それは日本の軍隊に限ったことではありません。

そう言われて思い出すのがリチャード・ギアが主演した『愛と青春の旅立ち』(82年)という映画です。リチャード・ギアをはじめとした多く白人の士官候補生を徹底的に、ときには人種的な意趣返しかと思うほど理不尽に絞りあげる教官の黒人軍曹フォーリーは、サディストかと思うほどに容赦ありません。彼は絶対に褒めそやしたりはしない。まさに『剣客商売』の小兵衛の精神です。

そう思ったときに気づきました。ああ、剣客も兵隊も、待っているのは文字通り生死をかけた戦場なのだ。稽古をしなければたちどころに殺されてしまう。鍛錬を通過できないような輩は戦場ですぐに死んでしまう。そればかりか他人をも危険に道連れにすらする。そんなやつらをしごき落としてやることが稽古・訓練の使命なのか、と。ならばそれはむしろ、彼らを死なせないための優しさなのか、と。そのとき、小兵衛とフォーリーは「死」の厳しさの前に同等となる。

第二次大戦の日本軍は兵士たちに「死ぬな」という訓練ではなく、次第に「死んでこい」という狂気を教えるようになりました。しかも戦死者よりも餓死者の方が多いという指揮系統のデタラメぶりを放置しながら。

日本のスポーツ界がいま問題視されているのは、「死ぬ気で戦え」という狂気の精神論と、その精神論に従わぬ選手を「飢えろ」とばかりに排除してザマアミロとばかりに北叟笑む、日本軍ばりの腐った男性性の、いじましくも理不尽な伝統なのです。

剣客や兵士と違って直截的な死が待っているわけではないスポーツ選手に必要なのは、「戦い」という形を取るものが潜在的に持つそんな「死」の厳しさを疑似的な仮説とできる知性と、その「仮説の死」を乗り越えるための科学的な技術論と、そしてその「仮説の死の厳しさ」を克服するための、ときに「幇間」的ですらあってもいい、選手一人一人に寄り添う論理的かつ人間的な「生」の言葉なのでしょう。

そこは小兵衛だってフォーリーだって、ちゃんと頷いてくれるはずだと思いますよ。──ああ、よかった。

August 25, 2018

フォント拡大テスト

さてこれで文字が大きくなるか?
どうでしょう?

August 20, 2018

LGBTバブルへの異和感

私がこれから書く異和感のようなものは、あるいは単なる勘違いかもしれません。

現在のいわゆるLGBT(Q)ブームなるものは2015年の渋谷区での同性パートナーシップ制度開始の頃あたりからじわじわと始まった感じでしょうか。あるいはもっと以前の「性同一性障害」の性別取扱特例法が成立した2003年くらいにまで遡れるのでしょうか。とはいえ、2003年時点では「T」のトランスジェンダーが一様に「GID=性同一性障害」と病理化されて呼称されていたくらいですから、「T」を含む「LGBT」なる言葉はまだ、人口に膾炙するはるか以前のことのように思えます。

いずれにしてもそういう社会的事象が起きるたびに徐々にメディアの取扱量も増えて、25年前は懸命に当時勤めていた新聞社内で校閲さんに訴えてもまったく直らなかった「性的志向/嗜好」が「性的指向」に(自動的あるいは機械的に?)直るようにはなったし(まだあるけど)、「ホモ」や「レズ」の表記もなくなったし、「生産性がない」となれば一斉に社会のあちこちから「何を言ってるんだ」の抗議や反論が挙がるようにもなりました。もっとも、米バーモント州の予備選で8月14日、トランスジェンダーの女性が民主党の知事候補になったという時事通信の見出しはいまも「性転換『女性』が知事候補に=主要政党で初-米バーモント州」と、女性に「」が付いているし、今時「性転換」なんて言わないのに、なんですが……。

そんなこんなで、ここで「LGBTがブームなんだ」と言っても、本当に社会の内実が変わったのか、みんなそこに付いてこれているのか、というと私には甚だ心もとないのです。日本社会で性的指向や性自認に関して、それこそ朝のワイドショーレベルで(つまりは「お茶の間レベル」で)盛んに話題が展開された(そういう会話や対話や、それに伴う新しい気づきや納得が日常生活のレベルで様々に起きた)という記憶がまったくないのです。それは当時、私が日本にいなかったせいだというわけではないでしょう。

そんなモヤモヤした感じを抱きながら8月は、例の「杉田水脈生産性発言」を批判する一連のTVニュースショーを見ていました。そんなある時、羽鳥さんの「モーニングショー」でテレ朝の玉川徹さんが(この人は色々と口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという態度が私は嫌いじゃないのです)「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論にしようとしたんですね。その時に私は「うわ、何だこのジャンプ感?」と思った。ほぼ反射的に、「もうそういう時代じゃない」という言葉に納得している人がいったい日本社会でどのくらいいるんだろうと思った。きっとそんなに多くないだろうな、と反射的に突っ込んでいたのです。

私はこれまで、仕事柄、日本の様々な分野で功成り名遂げた人々に会ってもきました。そういう実に知的な人たちであっても、こと同性愛者やトランスジェンダーに関してはとんでもなくひどいことを言う場面に遭遇してきました。40年近くも昔になりますが、私の尊敬する有名な思想家はミシェル・フーコーの思索を同性愛者にありがちな傾向と揶揄したりもしました。国連で重要なポストに上り詰めた有能な行政官は20年ほど前、日本人記者たちとの酒席で与太話になった際「国連にもホモが多くてねえ」とあからさまに嫌な顔をして嗤っていました。いまではとてもLGBTフレンドリーな映画評論家も数年前まではLGBT映画を面白おかしくからかい混じりに(聞こえるような笑い声とともに)評論していました。私が最も柔軟な頭を持つ哲学者として尊敬している人も、かつて同性愛に対する蔑みを口にしました。今も現役の著名なあるジャーナリストは「LGBTなんかよりもっと重要な問題がたくさんある」として、今回の杉田発言を問題視することを「くだらん」と断じていました。他の全てでは見事に知的で理性的で優しくもある人々が、こと同性愛に関してはそんなことを平気で口にしてきました。ましてやテレビや週刊誌でのついこの前までの描かれ方と言ったら……そういう例は枚挙にいとまがない。

それらはおおよそLGBTQの問題を「性愛」あるいは「性行為」に限定された問題だと考えるせいでしょう。例えば先日のロバート・キャンベル東大名誉教授のさりげないカムアウトでさえ、なぜそんな性的なことを公表する必要があるのかと訝るでしょう。そんな「私的」なことは、公の議論にはそぐわないし言挙げする必要はないと考えるでしょう。性的なことは好き嫌いのことだからそれは「個人的な趣味」とどう違うのかとさえ考えるかもしれません。「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うしたり顔の人もいるはずです。

でも「そういうの」ではないのです。けれど、「『そういうの』ではない」と言うためのその理由の部分、根拠の空間を、日本社会は埋めてきたのか? 「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを詰めることなく素通りしてきて、そして突然黒船のように欧米から人権問題としてのLGBTQ情報が押し寄せてきた。その大量の情報をあまり問題が生じないように処理するためには、日本社会はいま、とりあえず「今はもうそういう時代じゃないんだから」で切り抜けるしかほかはない。そういうことなんじゃないのか。

「生産性発言」はナチスの優生思想に結びつくということが(これまでの戦後教育の成果か)多くの人にすぐにわかって、LGBTQのみならず母親や障害者や老人や病人など各層から批判が湧き上がりました。それは割と形骸化していなくて、今でもちゃんとその論理の道筋をたどることができる。数学に例えれば、ある定理を憶えているだけではなくてその定理を導き出した論理が見えていて根本のところまで辿り帰ることができる。けれど「生理的にムリ」「気持ち悪い」「所詮セックス」発言には、大方の人がちゃんと言い返せない。そればかりか、とりあえず本質的な回答や得心は保留して「でも今はそういう時代じゃないんだ」という「定理」だけを示して次に行こうとしている。でも、その定理を導き出したこれまでの歴史を知るのは必要なのです。それを素通りしてしまった今までの無為を取り戻す営み、根拠の空白を埋める作業はぜったいに必要。けれどそれは朝の情報番組の時間枠くらいではとても足りないのです。

この「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」は、私が引用した玉川さんの言とはすでに関係ない「言葉尻」としてだけで使っています。前段の要旨を言い換えましょう。この言葉尻から意地悪く連想するものは「LGBTという性的少数者・弱者はとにかく存在していて、世界的傾向から言ってもその人たちにも人権はあるし、私たちはそれを尊重しなくてはいけない。それがいまの人権の時代なのだ」ということです。さらに意訳すれば「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている。そういう時代なのだ」

近代の解放運動、人権運動の先行者であるアメリカの例を引けば、アメリカは「そういう弱者をも庇護し尊重する時代」を作ってきたわけではありません。これはとても重要です。

大雑把に言っていいなら50年代からの黒人解放運動、60年代からの女性解放運動、70年代からのゲイ解放運動(当時はLGBTQという言葉はなかったし、LもBもTもQもしばしば大雑把にゲイという言葉でカテゴライズされていました)を経て、アメリカは現在のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)の概念の土台を築いてきました(80年代を経るとこのPCは形骸的な言葉狩りに流れてしまいもするのですが)。

それはどういう連なりだったかと言うと、「白人」と「黒人」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者(当時の意味における)」という対構造において、その構造内で”下克上"が起きた、"革命"が起きたということだったのです。

「白人」の「男性」の「異性愛者」はアメリカ社会で常に歴史の主人公の立場にいました。彼らはすべての文章の中で常に「主語」の位置にいたのです。そうして彼ら「主語」が駆使する「動詞」の先の「目的語(object=対象物)」の位置には、「黒人」と「女性」と「同性愛者」がいた。彼らは常に「主語」によって語られる存在であり、使われる存在であり、どうとでもされる存在でした。ところが急に「黒人」たちが語り始めるのです。語られる一方の「目的語=対象物」でしかなかった「黒人」たちが、急に「主語」となって「I Have a Dream!(私には夢がある!)」と話し出したのです。続いて「女性」たちが「The Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」と訴え始め、「同性愛者」たちが「Enough is Enough!(もう充分なんだよ!)」と叫び出したのです。

「目的語」「対象物」からの解放、それが人権運動でした。それは同時に、それまで「主語」であった「白人」の「男性」の「異性愛者」たちの地位(主格)を揺るがします。「黒人」たちが「白人」たちを語り始めます。「女性」たちが「男性」を語り、「同性愛者」が「異性愛者」たちをターゲットにします。「主語(主格)」だった者たちが「目的語(目的格)」に下るのです。

実際、それらは暗に実に性的でもありました。白人の男性異性愛者は暗に黒人男性よりも性的に劣っているのではないかと(つまりは性器が小さいのではないかと)不安であったし、女性には自分の性行為が拙いと(女子会で品定めされて)言われることに怯えていたし、同性愛者には「尻の穴を狙われる」ことを(ほとんど妄想の域で)恐れていました。それらの強迫観念が逆に彼らを「主語(主格)」の位置に雁字搦めにして固執させ、自らの権威(主語性、主格性)が白人男性異性愛者性という虚勢(相対性)でしかないことに気づかせる回路を遮断していたのです。

その"下克上"がもたらした気づきが、彼ら白人男性異性愛者の「私たちは黒人・女性・同性愛者という弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」というものでなかったことは自明でしょう。なぜならその文章において彼らはまだ「主語」の位置に固定されているから。

そうではなく、彼らの気づきは、「私たちは黒人・女性・同性愛者という"弱者"たちと入れ替え可能だったのだ」というものでした。

「入れ替え可能」とはどういうことか? それは自分が時に主語になり時に目的語になるという対等性のことです。それは位置付けの相対性、流動性のことであり、それがひいては「平等」ということであり、さらには主格と目的格、時にはそのどちらでもないがそれらの格を補う補語の位置にも移動可能な「自由」を獲得するということであり、すべての「格」からの「解放」だったということです。つまり、黒人と女性とゲイたちの解放運動は、とどのつまりは白人の男性の異性愛者たちのその白人性、男性性、異性愛規範性からの「解放運動」につながるのだということなのです。もうそこに固執して虚勢を張る必要はないのだ、という。楽になろうよ、という。権力は絶対ではなく、絶対の権力は絶対に無理があるという。もっと余裕のある「白人」、もっといい「男」、もっと穏やかな「異性愛者」になりなよ、という運動。

そんなことを考えていたときに、八木秀次がまんまと同じようなことを言っていました。勝共連合系の雑誌『世界思想』9月号で「東京都LGBT条例の危険性」というタイトルの付けられたインタビュー記事です。彼は都が6月4日に発表した条例案概要を引いて「『2 多様な性の理解の推進』の目的には『性自認や性的指向などを理由とする差別の解消及び啓発などを推進』とある。(略)これも運用次第では非常に窮屈な社会になってしまう。性的マイノリティへの配慮は必要とはいえ、同時に性的マジョリティの価値が相対化される懸念がある」と言うのです。

「性的マジョリティの価値が相対化される」と、社会は窮屈ではなくむしろ緩やかになるというのは前々段で紐解いたばかりです。「性的マジョリティ(及びそれに付随する属性)の価値(権力)が絶対化され」た社会こそが、それ以外の者たちに、そしてひいてはマジョリティ自身にとっても、実に窮屈な社会なのです。

ここで端なくもわかることは、「白人・男性・異性愛者」を規範とする考え方の日本社会における相当物は、家父長制とか父権主義というやつなのですね。そういう封建的な「家」の価値の「相対化」が怖い。夫婦の選択的別姓制度への反対もジェンダーフリーへのアレルギー的拒絶も、彼らの言う「家族の絆が壊れる」というまことしやかな(ですらないのですが)理由ではなく、家父長を頂点とする「絶対」的秩序の崩れ、家制度の瓦解を防ぐためのものなのです。

でも、そんなもん、日本国憲法でとっくに「ダメ」を出されたもののはず。ああ、そっか。だから彼らは日本国憲法は「反日」だと言って、「家制度」を基盤とする大日本帝国憲法へと立ち戻ろうとしているわけなのですね。それって保守とか右翼とかですらなく、単なる封建主義者だということです。

閑話休題。

LGBTQに関して、「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うのは、この「わかっている」と発語する主体(主語)がなんの変容も経験していない、経験しないで済ませようという言い方です。つまり「今はもうそういう時代じゃないんだから」と言いながらも、「そういう時代」の変化から自分の本質は例外であり続けられるという、根拠のない不変性の表明です。そしてその辻褄の合わせ方は、主語(自分)は変えずに「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」という、「LGBTという可哀想な人たち」(目的語)に対する振る舞い方(動詞)を変えるだけで事足らせよう/乗り切ろう、という、(原義としての)姑息な対処法でしかないのです。

これはすべての少数者解放運動に関係しています。黒人、女性、LGBTQに限らず、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、もっと敷衍して老人、病者、子供・赤ん坊、そして障害者も、いずれも主語として自分を語り得る権利を持つ。それは特権ではありません。それは「あなた」が持っているのと同じものでしかありません。生産性がないからと言われて「家」から追い出されそうになっても、逆に「なんだてめえは!」と言い返すことができる権利です(たとえ身体的な制約からそれが物理的な声にならないとしても)。すっかり評判が悪くなっている「政治的正しさ」とは、実はそうして積み上げられてきた真っ当さの論理(定理)のことのはずなのです。

杉田水脈の生産性発言への渋谷駅前抗議集会で、私は「私はゲイだ、私はレズビアンだ、私はトランスジェンダーだ、私は年寄りだ、私は病人だ、私は障害者だ;私は彼らであり、彼らは私なのだ」と話しました。それはここまで説明してきた、入れ替え可能性、流動性の言及でした。

ところで"下克上""革命"と書いたままでした。言わずもがなですが、説明しなくては不安になったままの人がいるでしょうから書き添えますが、「入れ替え可能性」というのはもちろん、下克上や革命があってその位置の逆転がそのまま固定される、ということではありません。いったん入れ替われば、そこからはもう自由なのです。時には「わたし」が、時には「あなた」が、時には「彼/彼女/あるいは性別分類不可能な三人称」が主語として行動する、そんな相互関係が生まれるということです。それを多様性と呼ぶのです。その多様性こそが、それぞれの弱さ強さ得意不得意好き嫌いを補い合える強さであり、他者の弱虫泣き虫怖気虫を知って優しくなれる良さだと信じています。

こうして辿り着いた「政治的正しさ」という定理の論理を理解できない人もいます。一度ひっくり返った秩序は自分にとって不利なまま進むと怯える人もいます(ま、アメリカで言えばトランプ主義者たちですが)。けれど、今も"かつて"のような絶対的な「主語性」にしがみつけば世界はふたたび理解可能になる(簡単になる)と信じるのは間違いです。「LGBTのことなんかよりもっと重要な問題がある」と言うのがいかに間違いであるかと同じように。LGBTQのことを通じて、逆に世界はこんなにも理解可能になるのですから。

さて最後に、「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを、先日、20代の若者2人を相手に2時間も語ったネット番組がYouTubeで公開されています。関心のある方はそちらも是非ご視聴ください。以下にリンクを貼っておきます。エンベッドできるかな?

お、できた。



August 19, 2018

匿名のQ

8月16日、全米の新聞社の3割にあたる300社とも400社とも言われる新聞媒体がトランプの一連のメディア攻撃を批判する社説を一斉に掲載しました。ことあるごとに自分の意に沿わないニュースを「フェイク・ニュース!」と断じ、7月20日のNYタイムズのA.G.ザルツバーガー発行人(38)との会談では「フェイク・ニュース」ジャーナリストを「国民の敵 Enemy of the People」とまで言ったトランプに対し、ボストン・グローブ紙が呼びかけたこの対抗運動のSNS上でのハッシュタグは「#EnemyOfNone(誰の敵でもない)」です。

こうしてジャーナリズムが自らを「敵ではない」と言わなければならないのは、合衆国憲法の初っぱなの修正第1条で「表現の自由」「報道の自由」を謳うような国で、その報道が具体的な暴力の対象になりかねない危機感を現場ジャーナリストたちが抱き始めているからです。

その兆候が7月31日のフロリダ・タンパでのトランプのMAGA(Make America Great Again)集会でした。そこでCNNのホワイトハウス担当キャップであるジム・アコスタが現場リポートをしようとしたところ、その中継が「CNN SUCKS(CNNは腐ってる)」の罵声で囲まれました。「FUCK the MEDIA(メディアをやっつけろ)」のTシャツを着た人、「Tell the truth!(本当のことを言え!)」と叫ぶ人たちの中で「Q」という文字の付いたキャップやTシャツを着ている人たちも目立ちました。中には大きく「Q」と切り抜いたプラカードを掲げている人もいました。

「Q」は昨年10月に「4chan(日本の2ちゃんねるに相当)」という電子掲示板に現れた匿名の人物(集団?)です。匿名=Anonymous を意味する「Anon」を付けて「QAnon(キュー・エイノン)=匿名のQ」と呼ばれてもいます。「Q」は米政府の極秘情報へのアクセス権を持つ政府高官だと信じられています。「Q」はその後、「4chan」が汚染されたとして投稿の場を「8chan」に変えましたが、今もまるでノストラダムスの予言めいた直接的には意味不明の暗号めいた情報の断片を投稿してはフォロワーたちをその解読に夢中にさせています。なぜなら「Q」の使命は、トランプとともに「ディープ・ステート」の企みを暴くことだからです。

「ディープ・ステート」は予てからある陰謀論の1つで、オリジナルは17世紀にも遡ります。現在のアメリカでは共和・民主の党派に関係なくいわゆるエスタブリッシュメントの政治家や官僚、財閥・銀行、CIAやFBI、メディアまでを含む、既得権益を握る「影(裏、闇)の国家(政府)」のことで、ロスチャイルド家だとかイルミナティーだとかフリーメイソンだとかのお馴染みの名前が出てきます。「Q」の説ではトランプはこの「ディープ・ステート」と戦うために軍部に請われて出現した大統領なのです。

「Q」によれば、金正恩はトランプを攻撃したいCIAの操り人形・手先です。ヒラリー・クリントンやオバマやジョージ・ソロスらはトランプ政権の転覆を画策しつつ一方で国際児童売春組織のメンバーです。モラー特別検察官はトランプのロシア疑惑捜査をしているフリをして実は民主党のそんな不正を捜査しています。トム・ハンクスやスピルバーグら民主党支持のハリウッドスターたちは、この小児性愛者のネットワークに所属しています。

笑い話ならそれでよいのですが、大統領選挙期間中の「ピザゲート」事件ではそんな陰謀論を信じた男が武器を持ってワシントンDCのピザ店を襲撃して発砲しました。その陰謀論の流れは今も脈々と続いており、そこに「Q」が現れた。荒唐無稽すぎて「QAnon」一派は最初は共和党の中の実に瑣末な一部に過ぎなかったのですが、ここ数ヶ月で一気にトランプ支持層の大きな本流へと成長してきているのです。ジョージア州などには「QAnon」と大書したビルボードが幹線道路脇に建ち、今年6月15日のネヴァダ州のフーバーダム近郊ではこの「QAnon」の"情報"を信じたフォロワーの男が司法省に対し陰謀資料を公表しろと90分にわたりハイウェイをAR-15や拳銃持参で武装封鎖して逮捕されました。彼らは大手メディアのニュースを「フェイク・ニュースだ!」と連呼するトランプの言を信じています。ワシントン・ポスト紙のマーガレット・サリヴァン記者は7月31日のタンパでの集会が、まるでこの「QAnon」支持者=陰謀論者たちの「カミングアウト・パーティーだった」とツイートしていました。

こんなにあちこちで破綻している陰謀論がどうしてこうも広くトランプ支持者の間で信じられているのか、よく理解できない人が多いでしょう。でも、トランプは選挙前から、少なくともこの3年にわたってこの根拠のない嘘話を数々と繰り出し吹聴してきた。選挙期間中から「バラク・オバマはアメリカ生まれではない」と何度も何度も繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。大統領就任式に集まった群衆はメディアによって不当に矮小化されたと繰り返しているうちにトランプ支持者たちはそれを信じました。ヒラリー・クリントンの私的メールサーヴァー捜査も不正を隠蔽していると言い続けるうちに彼女はすっかり「crooked(詐欺師で)」「criminal(犯罪者」になった。これまで何百とファクトチェックで「嘘」と断じられたトランプの虚言も、そのファクトチェックすらメディアの「フェイク・ストーリー!」だと繰り返すことで真実になっている。思い返せば就任2日目に例の就任式の参加者数に関してケリーアン・コンウェイが用いた言葉「オルタナティヴ・ファクツ(もう一つの事実)」が、この政権を支えてきたのです。その積み重ねが大きな「QAnon」を作り上げてしまった。米タイム誌は6月末の号で、「Q」をインターネット上で最も影響力のある25人のうちの1人に挙げました。

ジャーナリズムへのこの執拗な攻撃、政権による特定メディアへの名指しの非難。なんだか日本でも同じことが起きているので気持ち悪くなるのですが、そういえば2016年11月、トランプ当選が決まってすぐにトランプタワーに彼を表敬訪問した安倍首相、自分とトランプとの共通点だとして言ったセリフが「あなたはNYタイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」でした。大統領首席戦略官となるスティーヴ・バノンは安倍を指して「Trump before Trump(トランプが登場する前のトランプ」と形容したそうです。

さてこうした「匿名のQ」への支持拡大で困るのは(日米で共通して)議論の土台が崩壊してしまうことです。私たちの「知」が拠って立つ共通の事実がなくなることです。でも「Q」の支持者たちは頑なに「Q」を信じる。なぜならトランプその人が「Q」の存在をほのめかすようなことを言ったりするからです。例えば何の脈絡もなく「17」という数字を持ち出してくるとか……例のタンパでの集会でもトランプは大統領就任前にワシントンDCに訪れたのは「17回だ」と4回も演説で触れていました。アルファベットで、Qは17番目の文字なのです。

タンパ・ベイ・タイムズ紙の演説書き下ろしによるとそれは次のような、文脈不明の「17」の羅列でした。
You know(なあ), I told the story the other day(この話は前にもしたんだが), I was probably in Washington in my entire life 17 times(人生でワシントンに言ったのは多分17回だ). True(マジで), 17 times(17回). I don’t think I ever stayed overnight(泊まったことはないと思うが)… Again(もう一度言うが), I’ve only been here about 17 times(17回だ、あそこに行ったのは=【訳注:タンパにいるのにワシントンのことを here って、「ここはどこ?」状態なんでしょうか?】). And probably seven of those times was to check out the hotel I’m building on Pennsylvania Avenue(で、おそらくその中の7回はペンシルベニア・アベニューに建てているホテルの様子を見に行ったんだ=【訳注:これも時制がおかしいわ】) and then I hop on the plane and I go back(行ってもすぐに飛行機に乗って帰ったがな=【訳注:同前】). So I’ve been there 17 times(だから、行ったのは17回だ), never stayed there at night(泊まったことは一度もない). I don’t believe(ないと思う).

何なんでしょう、この演説は? ただしこれは「Q」支持者にとっては、トランプが明らかに「17」を通して「Q」と「Q」支持者を意識している、という暗号になるわけです。

さて、ところでいったい「Q」は誰なのか? 

大手メディアでニュースとして取り上げられるようになったこの「Q」に関して、ハッカー集団「アノニマス」が8月に入って宣戦布告をしました。彼らのハッキング技術を駆使して、必ずや「Q」の正体を暴き出してやる、と表明したのです。

昨年2017年にアメフトの全米選手権を制したアラバマ大のチームがホワイトハウスに表敬訪問した際、トランプに贈ったユニフォームの背番号が「17」でした。これが「Q」支持者の間でいまさら話題になっています。その「17」こそが「Qの存在を証明する暗号だったから」というのです。そして、それが彼らに意味したのは、トランプこそが「Q」その人なのかもしれない、ということなのです。おお。

ちなみにNYタイムズによれば、同じくアラバマ大が全米選手権で優勝してオバマを表敬した際は、贈呈されたユニフォームの背番号は「15」でした。2015年度の優勝だったからです。

August 08, 2018

「生産性」という呪縛

安倍首相自らのリクルートによって比例代表で当選した自民党の杉田水脈衆院議員が「LGBTは子供を作らない。つまり『生産性』がない」と「新潮45」に寄稿して大きく物議を醸しています。少子化対策という大義名分に照らしても「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と反語で疑問を呈していて、この発言はインディペンダントやガーディアン、CNNなどの海外ニュースでも問題視されています。その中でも最も厳しい論調だったのが、若者に人気のある米国のニュースサイト「Daily Beast デイリービースト」のTOKYO発8月4日付の記事でした。

JAKE ADELSTEINとMARI YAMAMOTOの共同執筆となるそれは、見出しからして「Ugly, Ignorant, Pathological Anti-LGBT Prejudice Reigns in Japan's Ruling Party(醜悪で無知で病的な反LGBT偏見が日本の支配政党に君臨する)」とかなりキツイ。そして「日本の、そう自由でもそう民主的でもない自由民主党が、2012年の安倍政権発足以来、ヘイトスピーチで問題になっている。ここ何年もの間、日本の問題は少数派の「在日韓国・朝鮮人」へ向けられてきたが、ここ数週間で、出生率の低下や社会問題の新しいスケープゴートが生まれた。LGBTコミュニティである」と書き始めます。

注目すべきは、日本のメディアではほとんど指摘されていませんが、ここではすぎた発言を明確に「ヘイトスピーチ」と断じている点です。これは国際基準でいえば明らかに憎悪発言であり、政治家ならば一発でアウトの事例です。もっとも、トランプ時代のアメリカにあってはその大前提も揺らいではいますが。

記事はそこから、安倍首相自らがリクルートして自民党に入った杉田議員の今回の発言内容を紹介します。しかし問題の核心は杉田個人の発言にとどまりません。まさに彼女を許してきた自民党だと切り込みます。

For weeks, Sugita’s party seemed to condone her views. But the Japanese people and even the self-censoring media are not letting this one slide, and now even within the LDP there have been angry and pointed exclamations of disgust.
「杉田の党は数週間にわたって彼女の見解を問題視しないでいたが、日本人およびセルフセンサリング・メディア(政権批判を自己検閲する日本のメディア)も今回は見逃さなかった。自民党の内部ですらも怒りと非難の声が上がった」

But were any lessons learned?
「しかし、教訓は学ばれたのか?」

杉田議員はこの寄稿の中で「リプロダクティヴィティ(生殖・再生産性)」を「プロダクティヴィティ(生産性)」と故意か無学か混同し、論理を飛躍させているのですが、言うまでもなく人間を「生産性」で語ることは、ナチスの優生思想です。アウシュビッツなどの強制収容所では連行したユダヤ人を「手に職を持つ者」と「持たない者」に分け、後者は「ノミ・シラミを洗い落とすためのシャワー室」という名のガス室に送り込みました。そこには当然、老人や病人や女・子供が含まれます。

同時に杉田議員の言う通り、ナチスは「生産性のない」身障者や同性愛者(当時はLGBTという細分化した言葉がなく、みなホモセクシュアルで一緒くたにされていました)たちをも数十万人規模で"処理"したのです。

デイリービーストは性的少数者を取り巻く日本での現状も説明します。

Currently, roughly 8 percent of the population identify themselves as LGBT. While Japan does not legally recognize same-sex marriage at a national level, local governments, including the Shibuya and Setagaya wards of Tokyo, have used ordinances to recognize same-sex partnerships. Other prefectures are taking similar measures.
「自らをLGBTとする人々は現在およそ8%だが、日本では同性婚は法的に認められず、渋谷や世田谷などの地方レベルで同性パートナーシップが条例で認知されるだけだ」

Beverage maker Kirin, e-commerce giant Rakuten, and some other Japanese corporations are moving ahead with policies to provide the same paid leave for marriage, childbirth, and other life-changing events to same-sex couples. (Note that even Japan’s stodgy corporations are able to conceive something that LDP politicians can’t seem to grasp: yes, even same-sex couples can have children.)
「キリンや楽天など日本の大企業には同性カップルの従業員にも結婚・出産やその他人生の大事なイヴェントにおける有給休暇など福利厚生を拡大している。(注:日本の野暮な企業でさえ自民党の政治家が考えられないこうした事例を考えつける。そう、もちろん同性カップルでも子供を持つことは可能だから)」

その上で国際アムネスティの言葉を借りて、「日本でLGBTピープルは家庭内、職場、教育現場、医療サービスで差別を受けている」「政治家や政権幹部が公の場で極めてホモフォビックな発言をしさえする」と紹介。それを安倍総裁率いる自民党の体質として次のように分析しています。

興味深いのは今回の杉田寄稿文は朝日新聞攻撃の文章だと説明してからの安倍首相の人物像です。

The Asahi Shimbun is one of the more liberal newspapers in the country and has been compared to the New York Times. The Asahi is strongly disliked by Prime Minister Abe, who has publicly attacked the paper, and who has in his meetings with President Donald Trump told him, “I hope you can tame the New York Times the way I tamed the Asahi.”  Long before Trump was calling the press, “the enemy of the people,” Abe was making effective use of that tactic. (When Steve Bannon called Abe, “Trump before Trump” he wasn’t far off the mark.)
「朝日はニューヨークタイムズに例えられる日本のリベラル紙だ。安倍首相にひどく嫌われている新聞で、彼はこれまでも公然と同紙を攻撃してきた。トランプとの最初の会談【訳注:2016年11月の、当選直後のトランプタワーでの会談】で彼は「私が朝日新聞を飼いならしたようにあなたもニューヨーク・タイムズを飼い慣らせるよう望んでいる【訳注:正確には「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私も朝日新聞に叩かれたが勝った。あなたもそうしてくれ」と言ったとされる】」と伝えた。。トランプがメディアを「国民の敵」と呼ぶようになるずっと以前から、安倍はこの戦略を有効に使ってきたのだ。スティーブ・バノン(元大統領首席戦略官)は実際、安倍を『トランプ以前のトランプ』と呼んでいた。その言いはそう間違ってはいない」

デイリービーストはここから「同性婚を認めたら兄弟婚や親子婚、ペット婚まで行くかもしれない。海外ではそういう人も現れている」という杉田の発言を詳報して、そこにネット上で反対の声に火がつき、さらにそれに反対するネトウヨの自民党支持者が参戦してきた様子を紹介する。7月27日夜に行われた自民党本部前での大抗議集会の様子も描写し、若い女子大生ら参加者の声も拾っています。つまりこれは自民党自体の体質への、LGBTのみならず広い層からの異議申し立てなのだということにまで踏み込むのです。

Mio Sugita, who was not available for comment, is, like many female politicians welcomed into the LDP, an extreme right-winger and fiercely loyal to Abe. This is important to understand because she is a microcosm of the few women that manage to gain power within the LDP, which has more or less been ruling Japan since the party was founded in 1955. Even when LDP lawmakers are female in gender they are rarely feminists and often echo the sexist and extremist views of Nippon Kaigi, the right-wing Shinto cult, or are members of it. This group helped Abe stage a political comeback after his bumbling exit from power in 2007; most of his handpicked cabinet members belong to the group.
「杉田はコメントを出していないが、自民党に歓迎されて入った多くの女性政治家たちと同様、極端な右翼思想の持ち主で安倍に強烈な忠誠を尽くす。ここを理解することが重要だ。なぜなら彼女は、自民党で権力を握る少数の女性たちのマイクロコズム(小宇宙=縮図)だからだ。自民党の女性政治家たちはジェンダーこそ女性だが、フェミニストであることはまずなく、むしろしばしば性差別主義者で日本会議や神社本庁などの極端な右翼の声を反映し、あるいはそのメンバーであったりする。これらの組織が安倍のカムバックを演出し、安倍は彼らのメンバーから閣僚人事を行っている」

The tone-deaf attitude towards the LGBT community by Japan’s ruling party is part of a pattern of picking on the weak in society, blaming them for being weak and then for society’s wider problems. When people dare to assert they have rights, the LDP pushes back even harder, whether against LGBT people, or foreign workers, or women, or third-generation Korean-Japanese, or the press –– when things go wrong the minorities get blamed.
「日本の支配政党のLGBTへのこの無知な=音が聞こえていない=態度は、日本社会の弱い者いじめ、弱者攻撃のパターンの一部だ。その弱者、少数者たちがより広い社会問題の元凶だと非難するのだ。そういうグループが果敢に権利を主張すれば、自民党の反撃はさらに酷いことになる。LGBTだけでなく、外国人労働者、女性、在日韓国人朝鮮人三世、そして報道機関にすらもそれは向けられる。よくないことが起きればそれはマイノリティのせいなのだ」

Partially blaming LGBT for Japan’s declining birth-rate is not as difficult as addressing the real reasons people don’t have children: a lack of real job opportunities for women, gender inequality, single-parent poverty, the destruction of labor laws so that lifetime employment is a pipe-dream, endemic overtime resulting in (karoshi) people working to death, sexual harassment on the job, maternity harassment. The wealthy old men who run the party don’t have any conception of working hours so long and wages so low that dating is difficult, getting married a challenge, and raising children is impossible. All of this while there is rising poverty as Abenomics fizzles out.
「日本の出産率低下でLGBTを攻撃するのは、子供を持たない本当の理由を解決するよりも簡単だからだ。日本では女性たちの仕事の機会が欠けている。男女格差、性差別、シングルペアレントの貧困、終身雇用制の崩壊、過労死、職場のセクハラ、マタハラ。この政党を運営する裕福な老人男性たちは、労働時間がひどく長くて賃金がひどく低くてデートすることも難しく結婚することはチャレンジで子供を育てることが不可能だということをさっぱり理解していない。これら全てがアベノミクスが立ち消えになろうとする中、立ち現れる貧困の一方で起きていることだ」

そして、結語が次の一文です。

It’s a lot easier to wage a war on LGBT people than it is to wage a genuine war on poverty.
「貧困問題に本当の戦争を仕掛けるよりも、LGBTを叩いている方がずっと簡単なのだ」

デイリービーストは報道と同時にオピニオン誌の傾向も強いのは確かです。しかし、杉田発言への今回のこの抗議のかつてない盛り上がりは確かに、LGBTのみならず、不妊の夫婦や障害者や病人や老人を含めた多くの「生産性がない」とされる人々を巻き込んでいること、そしてその背景に日本の自民党が見逃している、あるいは故意に見捨てている大きな政治的空白が存在していることを指摘するこの記事は、かなり正鵠を射ていると思います。自民党とその周辺の日本のオトコ社会だけを見ていたら、これほどの抗議拡大の理由はわからないままなのです。

Archives

Powered by
Movable Type 3.2