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January 28, 2011

「平成の開国」の正体

オバマさんの一般教書演説が行われました。日本でいえば年頭の施政方針演説に相当するもんですが、日本と同じくねじれ議会を抱える大統領は緊縮財政や法人税減税、自由貿易協定締結など、共和党寄りの中道路線を示して市場の好感を誘ったようです。来年に再選を狙う身としては「米国をビジネスに最適の場とする」ことで「win the future=未来を勝ち取る」姿勢を見せなければならなかったのでしょう。

オバマさんはかっこいいし演説の言葉もいちいち心にしみるし、日本のメディアもなんだか憧れの政治家みたいに扱っています。そのオバマさんが唱える米国の経済回復は、しかし何を「足場」にするのでしょうか?

それは米国の内需が何によって刺激されるかを考えればわかります。簡単に言うとそれは輸出です。どこに?

そこで登場するのがいま話題の「TPP=環太平洋パートナーシップ協定」です。最初はシンガポール、チリ、ブルネイなど小国4国が集まって経済協力しようという話だったのが、昨年10月、急に米国が参加すると言い出してあれよあれよという間に日本やオーストラリアも加わる計10カ国でやっていこうということになっています。菅政権はこれを「平成の開国」と呼んで、乗り遅れたら取り返しのつかないことになると宣伝しているのですが、これ、よく見てみると米国の米国による米国のための内需拡大の戦略的協定でしかないのです。米国に限りませんが、国家というものは外交においてはもっぱら国益のために手段を選ばずに突き進みます。極論を言えばオバマさんもアメリカのことしか考えていないのです。だってアメリカの大統領なんですから。

TPPで日本の輸出が伸びる? そんなことはありません。日本の製造業が輸出で拡大することはない。なぜならTPP参加10カ国内のGDP比は米国が67%、日本が24%、豪州が5%で残る7カ国は合わせて4%しかありません。内需の規模を比べるとその差はさらに広がって米日豪を除く7カ国は合計で0・1%なのです。そんな国々を相手にしても商売なんか増えません。環太平洋で肝心の中国も韓国もいない貿易協定内で、日本製品の輸出先は米国しかない。逆に言えば、米国の輸出先もまた日本だということです。

つまりTPPは実質的に日米貿易なのです。でも日本は対米輸出を伸ばせない。なぜなら円高ドル安で儲からないからです。TPPによって米国は関税を撤廃すると言っていますが、そんな恩恵はドル安による為替損でたちどころに消えてしまう。米国はTPPで輸出を4年で2倍に拡大すると言っているのです。雇用は日本ではなく米国内で生まれるのです。

一方でドル安の米国の農産品が日本に押し寄せます。牛丼はもっと安くなります。野菜もそうです。菅政権はデフレ脱却で雇用の創出を目指しているはずなのに、これではデフレが輸入される。デフレが続けばお米だって耐えきれません。日本の農業は壊れます。

まさに日本をカモにしようというこんなわかりやすいワナに、いくら親米と言えどもさすがに難色を示すだろうと思ったら何を勘違いしたか菅政権はこれを当然のものとして推進しようとしています。いったい何を考えているのでしょう?

最近の菅民主党は政権交代前の民主党とは別物です。若く真面目で意欲に溢れた伴侶が結婚してみたら大ウソつきのロクデナシだった、みたいな。この思いは次の選挙でどこに向かうのでしょうか? また政界再編というのも信じられないし面倒臭いですしねえ。

そんな折、スタンダード&プアーズが日本国債を格下げしました。これはまさに“有言逆行”のいまの政治のせいです。

January 19, 2011

年の初めにイッパツかます

大晦日の夜、「紅白」の裏のTBSラジオで、1年を振り返る時事座談会に出演していました。「フリーランス座談会 信頼崩壊の2010年」というのがタイトル(ポッドキャストでいまでも聞けますが、いつまでサーバーに残っているのでしょう?)。お相手はジャーナリストの江川紹子さんと神保哲生さん。とはいえこれは帰国していた12月半ばに収録したもので実際の大晦日には私はメキシコに避寒に行っていたのですが。

でも今回書きたいのはそのことではありません。座談は大まかな流れだけ決めてすべて自由だったのですが、スタート直後の番組紹介などは司会役でもあった私の役目で、それはしっかりとセリフが決まっていました。でも台本どおりしゃべるのがどうにも嫌で(この日の台本のことではありません。いつもそうなの)、それも何の気なしにアドリブでしゃべっちゃいました。録音なので後で編集できるからよかったのでしょうが、生放送だったら制作スタッフはヒヤヒヤだったでしょう。すんません、TBSラジオのみなさん。

台本どおりが嫌、というのは、たとえ台本以上の面白いことが言えたにしてもともすると失敗する危険もあります。ですので制作側が台本どおりの無難なところでまとめたいと思うのはまったくもって至極ごもっとも。それを責めるのは筋違いです。私もそんな気は毛頭もありません。

でもこうして言挙げしているのはそれを敷衍していまの日本社会を論じちゃおうという魂胆です。最近日本に帰る機会が多く、帰るたびにとても心地よいぬっくりした感じに包まれるのですが、そのうち次第に時間が経ってくるとなんだかフラストレーションがたまってくるのを禁じ得ない。それはべつに私の周囲の人たちに感じているのではなくて、テレビで報道される政治家や官僚やそれを報道するキャスターや記者やコメンテーターたちにイライラが募ってくるのですね。なんともチマチマとお行儀よくまとまっていて、だれもあまり仕事で冒険も遊びもしない彼らを見ていると、なんだかだんだんイラっとしてくるのです。アドリブを嫌う社会。台本どおり。慣例どおり。つつがなく、つつがなく。それはつまり、予定調和を至上として、失敗を恐れる過度の事前警戒を、「普通のこと以上のことをしない」怠惰の言い訳にしている社会のことです。

江川さんは昨年、某テレビでスポーツ評論をする張本勲さんの「喝!」に思わず「えー?」と異論の感嘆詞を挙げたところその張本さんの逆鱗に触れ、番組を降ろされちゃったようです。そこでは台本上、江川さんは発言しないことになっていたからで、張本さん、プロのオレの野球評論にエー?とは何事だ、素人は黙ってろ、となったらしい。ま、翻訳すればそれはつまり女子供は口を出すなってことみたいな響きですけど、まあそうなんでしょう。そうやって日本のテレビ番組では侃々諤々の論争はほとんど起こりません。みんな司会者の「そうですよね」の言葉でうなづき合って次のコーナーへ移るのです。まあ、視聴者の日本人自身が論争を嫌うから、そういうの見たくないってのもあるでしょうけどね。そういうの、すぐに「放送事故」扱いですし。「事故=失敗」を事前に警戒してその恐れをしらみつぶしに排除してゆく。それが「安全=成功=事無し」に至る道です。それをできるのが優秀なスタッフ、ということ。これはじつは皮肉でもなんでもありません。

じつはあの普天間も同じようなメカニズムが働いたのでした。外務省も防衛省も「端から無理」と失敗を警戒して、鳩山さんの外堀を埋め身動きとれないようにした。それが「安全=成功=事無し」に至る道でした。それを見た菅さんが政権延命だけを目的に失敗を恐れてなにも変革せず、官僚たちの言いなりに消費税増税だけを目指すのは当然かもしれません。消費税増税は、まさにいまの体制を維持するため、つまりは同じく「安全=成功=事無し」であるために必要な手段なのですから。そこに横並びで台本どおりの政治部報道メディアの応援があれば下手はしないだろうという目論見です。その屋台骨はすでに世論の波で揺らいでいるのに、です。

また放送局の例で申し訳ないけれど、たとえば自動車会社の提供する番組ではスポンサー社製の車の批判や車社会の弊害には触れてはいけないことになっています。でもそれはべつに提供企業がそう規制しているわけではないんですよ。じつは番組の制作側がそう慮って事前に出演者になんとなくそう伝え、事無きを期するわけです。先ほども書きましたがそれは制作側としては当然の配慮でしょう。そういうたしなみのあるところじゃないと逆に危なくて番組なんか提供できるものではありません。でも本当にそれがいいのでしょうか?

いや、「それが」というのは違うな。「それだけを金科玉条とするだけでことはすべてうまく運ぶのでしょうか?」というようなところが私の気持ちに正確な疑問文です。批判は財産だとして積極的にそれを聞こうとする会社は、自動車会社に限らず逆に伸びるでしょうし、むしろ誠実だとして信頼すらされるのではないか? それは「普通」以上の効果です。事前にすべて段取りしてちんまりまとまる事無かれ主義よりも、むしろ敢えて少しは波風立っても議論して問題の本質を見極めた方が会社や社会の飛躍になるはず。

ところがその判断ができる勇者が少な過ぎる。日本には、企業や社会というプールの中で「溺れると嫌だから」と立ち泳ぎしてる人ばかりが目立ちます。なにも全員がグーグルやアップルの社員みたいに自由に泳いで発想しろと言っているのではないけれど、そういうアドリブのための余地を用意していないとブレークスルーは絶対に起きない。

台本、慣例、マニュアル──いろいろな呼び名はあるでしょうが、もっと楽しく自由に仕事をしようじゃありませんか。もちろんアドリブはしっかりと基本を押さえていないと無理だし、そういうのができないのにしゃしゃり出てくるやつが多いと「おまえはマニュアルどおりにやってればいいんだよっ!」と怒鳴りたくなるのもわかるんですがね。アメリカにいると日本とは逆に、面白いやつはたくさんいるけどそうした台本どおりの基本動作ができない輩が多すぎて、そっちの点でイラっとすることが多いのですから困ったもんです。

段取りと事前警戒を怠らないきっちりしたスタッフがいる。でも同時に、自由にアドリブでやれるスタッフもいる。そしてその双方がお互いを必要としていることを自覚し尊敬し合っている──どうして人間社会ってそんなふうにバランスよく両方を兼ね揃えることができないんでしょう。うまくいかないもんですねえ。

政権交代から2年目です。このパラダイムシフトには未知の状況を切り拓く当意即妙の胆力が必要なのはわかっていたはずなのに、日本社会の個人個人はそれに対応し切れていません。減点されない普通のことをするのではなく、得点しなくちゃ勝てないのだけれど。まあ、こんなことを新年早々考えているのは、ええ確かに、私がジャズやロックのアドリブが大好きだったサッカー少年として育ってきたせいかもしれませんけど。