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August 16, 2017

ヘイトの源泉

「シャーロッツビルの衝突」の背景は元をただせば150年前の南北戦争にまで遡ります。バージニア州はちょうどその「南部」の出入り口に位置します。そこはまたあの有名な名将リー将軍の出身地でもあります。

150年前、南北戦争に負けた南部の白人男性たちにはいわゆる「Lost Cause of the Confideracy(南部連合州の失われた大義)」という苦々しい感情が遺りました。この場合の大義とは南部が南部であるアイデンティティのようなものです。それは騎士道精神であったり男らしさであったり、まあ、日本でいう大和魂みたいな南部の誇り、南部魂のことでしょう。それは必ずしも奴隷制への執着を意味しないとも言われています。

それがノスタルジアであった時はよかったのです。サザン・ホスピタリティという南部ならではの親切心も同根でしょう。なのでこの南部連合の古き良き時代を記念する銅像や公園や碑は全米で南部連合11州よりも多い計31州に700以上、おそらくは1000ほどもあるだろうといわれています。

ところがこの南部の「失われた大義」がいつの間にか右翼思想と結びついてきました。この5年ほどの動きなのですが、それが一気に顕在化したのが2015年6月に起きたサウスカロライナ州チャールストンで起きた黒人教会9人殺害乱射事件でした。意図して黒人たちを標的にした犯人のディラン・ルーフ死刑囚(当時22歳)はアパルトヘイトとKKKに心酔する白人至上主義者でした。その彼が南部連合旗=南軍旗を掲げる自分撮りの写真をネットで披露していたのです。ここで一気に南軍旗への反感が再燃しました。

アメリカでいう右翼思想とは最近は白人至上主義=男性優位主義=異性愛中心主義=優生学=KKK=ネオナチ=オルトライト(Alternative-Right)=銃規制反対論=連邦制反対論=ミリシア(民兵組織)と繋がります。

なのでこの2年来、南部州の公共施設からこの南軍旗を撤去しようという動きが広がりました。人種差別の象徴のように受け取られてきたからです。同時にそれは南軍のシンボル、ロバート・E・リー将軍の銅像も撤去してしまおうという話に拡大しました。

リー将軍の名誉のためにいえば、彼は奴隷制に賛成していたわけではなく(あの時代ですから積極的反対というわけでもなかったのですが)バージニア州出身だったせいで、バージニアがアメリカ合衆国から脱退して南部連合(アメリカ連合国)に合流した際に、北軍から南軍に戻って故郷のために一肌脱いだという、南部魂を具現するような立派な人だったわけです。

シャーロッツビルの市議会が1年の議論の末、右翼過激思想の白人たちに持ち上げられるリー将軍の銅像を撤去すると決めたのがこの4月でした。そしてそれに反対する人々が「Unite the Right(右翼をまとめよう)」という旗印の下、最初に撤去賛成派と衝突したのが7月8日の集会でした。ですから今回は2度目の衝突です。

ところでなぜ今になってこんな右翼過激思想が台頭してきたのか? 衝突現場の集会に参加していたKKKの元リーダー、デビッド・デュークがTVカメラに向けて「これはトランプの公約を実現するための行動なのだ」と答えています。

トランプ大統領の誕生の際にもその支持層の一部低位白人男性層の心理として説明しましたが、前述の右翼思想のすべては80年代からの「政治的正しさ」によって「アメリカの価値観ではない」ということになりました。「南部」に託けた白人男性主義は、ここで2度目の「失われた大義」を経験することになりました。

次にオバマ大統領の登場です。これは彼ら白人にとっては3度目の屈辱でした。黒人大統領を担ぐヤンキー対その屈辱を口に出しては言えないディクシーという、妙竹林な第2次南北戦争のような心理戦が(ヤンキーの側ではなくディクシーに託ける側の心の中だけで)オバマの任期の8年間潜行していたわけです。その積もり積もった鬱憤が、トランプ大統領登場の勢いに乗じてはち切れます。「アメリカを取り戻す」が彼らの勝手な"南部"魂に変形して「"南部"魂を取り戻す」になった。「PCなんてクソ喰らえ!」というやつです。

この憎悪はですからトランプが作ったのではありません。トランプが解き放ったのは確かですが、作ったのはむしろオバマ大統領だったという歴史のパラドクスなのです。それがいま現出している。

これはつまり150年来の鬱憤ばらしです。なので、もちろんオバマに責任は微塵もありません。責任はそれを解き放たせた、いやむしろ解き放つことを奨励したトランプにあります。

支持率33%(キニピアク大学)とか34%(ギャラップ)とかの数字のそう小さくはない部分は、7月8日、8月12日の衝突集会に集まってきた彼ら白人至上主義者たちが占めています。トランプがすでに「アメリカの価値ではない」とされるそんな彼らを指弾できずに「on many sides」(それもこのフレイズを2度も繰り返して強調したのです)の「this egregious display of hatred, bigotry and violence」を非難する、と、対象を曖昧にしてまるで喧嘩両成敗みたいにコメントしたのも、さらにその理由を記者会見で「白人至上主義者たちの支持が欲しいからですか?」と訊かれても答えずに退場したのも、彼らのそんな行動を後押ししているのが自分であるという自覚があるからです。

リベラルばかりか身内の共和党内からもこの大統領コメントの酷さを指摘されて渋々白人至上主義やKKK、ネオナチらを名指しで批判する2度目のコメントを出さねばならなかった時のトランプは、いかにもオレはいまプロンプターを読んでいるんだぞ、という、なんとも正直な顔をしておりました。

このひどい対応に嫌気が刺したのか、医薬品のメルクCEOケネス・フレイジャー、スポーツ用品のアンダー・アーマーCEOケビン・プランクに次いで、この24時間で3人目の大企業CEOがトランプへの企業助言組織(米製造業評議会)を辞めました。インテルのCEOブライアン・クルザニッチです。

それとは別に、政権内部でも次はあのスティーブン・バノンがクビを切られるという情報が流れています。司法長官のジェフ・セッションズも辞めるかもしれません。残るメンバーの中核は軍人とゴールドマンサックスの出身者。ほとんどすでに空中分解していても不思議ではないホワイトハウスの210日目です。

August 09, 2017

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。だから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容だけではなく、語り継ぐその行為自体をも賞賛すべき映画なのです。語り継ぐことを手控えていた私(たちの世代)としては、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。

遅ればせながら『この世界の片隅に』

映画『この世界の片隅に』が11日からニューヨークでもアンジェリカ・フィルムセンターなどで上映されます。ニューヨークだけではなく、サンフランシスコやロサンゼルスなどでも公開されるようですが、全米で何館での公開かはまだ定まっていないのか数字が出てきません。でも、イギリスの会社が欧米での配給権を買い取って、パリやロンドンでも映画祭などで好評を博しているようです。ニューヨークでも7月にジャパンソサエティで「Japan Cuts」という日本映画祭で最終日に上映され、260席が満席の人気だったと聞きました。アメリカで映画好きが参考にする映画評サイト「ロットゥン・トマト Rotten Tomato」では、評論家の評価総点が100%ポジティヴというものでした。何かしらネガティヴ評価があったりする中で、これはとても珍しいことです。

このアニメ映画は北海道に帰った今年初め、実は85歳になる母親を連れて雪の中を観に行ってきました。自称「老人性鬱病」の母親はこのところ外出もせず籠りがちで、戦争とはいえ主人公の「すずさん」と同じく自身の少女時代を描いた映画でも見せれば懐かしく元気になるのではないかと思ったのです。「すずさん」にはモデルがいて、その方は今もご存命で御年95歳と言いますから、母よりも10歳も年上ですが、母も13歳で終戦を迎えています。

ところで見終わった母の開口一番は「なんでこんなもの見なくちゃならないの」だったのでした。別につらい昔を思い出して不愉快だったという口調ではなく、ただアッケラカンと「ぜんぜん面白くなかった」と言うのです。「だって、みんな知ってる話なんだもの」と。

実を言うと私の感想も似たようなものでした。ものすごく評判の良いこの作品の、描かれるエピソードの一つ一つがすべて「知っていた話」でした。

戦死した遺体を回収できず、骨の代わりに石ころの入った骨箱だけが戦地から帰還してきたという話は、19歳の時に学生寮の賄いのおじさんに酒飲み話で聞かされて号泣しました。南方戦線でのジャングルの苛酷さやヒルの大きさは高校時代の友人のお父上から怪談のように聞かされ、防空壕での暗闇の生き埋めの恐怖や、特高や憲兵たちの人間とは思えぬ非情さは私の子供時代、トラウマになるほどに何度も何度も少年向け漫画やテレビで描かれていました。闇市や買い出し、食べ物の苦労は宴席で集まる親戚から笑い話のように聞かされましたし、米がなくて南瓜や豆や芋ばかり食べていたせいで、その3つは二度と口にしないと宣言していた年長の友人は4人はいます。大学で出てきた東京の池袋の駅には、あれは東口でしたか、いつも決まって片足のない傷痍軍人が白い包帯と軍服姿で通行人から援助を乞う姿がありました。いやそれ以前に、北海道の本家の玄関にもそんな人たちが何度も訪れてはお金を無心していたものでした。

戦争が狂気だという厳然たる事実は、そうして身にしみて思い知っていました。そんな狂気は何としてでも避けねばという平和主義はだから、理想論でも何でもなく戦後世代の私たちには確固たるリアリズムでした。

だから『この世界の片隅に』は、少なくとも母と私にはタネも仕掛けも知っている手品を見る思いでした。それをなぜ「世間」はかくも絶賛するのだろうかとさえ訝ったほどです。私が知らなかったのはただ、あの時の「呉」という軍港都市で、日本軍の撃った高射砲の砲弾がバラバラに砕けて再び地上の自分たちにピュンピュンと凶器となって降り落ちてきたという事実くらいでした。

そんなとき、3月21日のNYタイムズに「Anne Frank Who? Museums Combat Ignorance About the Holocaust(アンネ・フランクって誰? 博物館、ホロコーストの無知と戦う)」という長文記事が掲載されました。「若い世代の訪問者、外国からの客たちはホロコーストに関するわずかな知識しか持ち合わせていない。時にはアンネ・フランをまるで知らない者もいる」と。だから今、アムステルダムの「アンネ・フランクの家」などは今再び、あのホロコーストの地獄をどうにか手を替え品を替えて、若い世代に、戦争を知らぬ世代に伝え継ぐ努力を常に新たにしているのだ、と。

そのときに気づきました。ああ、あの映画は、あの時代の日常の物語というその一次情報の内容で絶賛されていると同時に、原作者のこうの史代さん(48)や映画版監督の片渕須直さん(57)ら製作陣の、その、すでに忘れられようとしている(私たちの世代にとっては当たり前の知識だった)その一次情報を、今再び伝え継ごうとする努力こそがまた絶賛の対象だったのだ、と。

戦争を生きた世代がどんどん亡くなって、彼らの話を聞いた私たち戦後第一世代は、直接自分が体験したわけではないそんな話を我が物顔で次の世代に語るのを、どこかでおこがましく感じていたのではないか? そんな我らのスキを衝いて、平和憲法を「みっともない憲法ですよ」と言ってのける人が総理大臣になっている時代なのです。

「アンネの日記」はかつて、誰もが知っている歴史的な共通認識でした。でもいまアンネ・フランクを知らない人がいる。広島や長崎も同じです。

けれどこれは逆を言えば、アメリカではかつての世代では原爆は太平洋戦争を終結させるための必要悪だった、いや必要悪ですらなく、あれは善だった、という人々が圧倒的だったのでした。でも最近の世論調査では35歳以下では広島・長崎への原爆投下は実は不要だった、悪だった、と答える人たちが多数を占めるようになってきています。おそらくそんな世代へ、『この世界の片隅に』は新たに穏やかながら強い平和への訴えを届けるツールになるに違いありません。今回の北米都市部での上映にとどまらず、今後のネット配信やDVD化なども経て特になおさら、これから末長くゆっくりとけれど確実に、欧米のジャパニメーション世代に浸透してゆくと思います。

ですから『この世界の片隅に』は、語り継ぐその内容と同時に、語り継ぐその行為自体もまた賞賛すべき二段構えの映画なのです。語り継ぐことに気後れし、なんとはなしにそれを手控えていた私(たちの世代)としてはつまり、代わりに語り継いでくれて本当にありがとうございますという映画、もう、ただ頭を下げて感謝するしかない映画なのです。