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『We Are Everywhere』

 先日、AP通信が興味深いニュースを流しました。テキサス州議会ただ1人のオープンリー・ゲイ(ゲイであることをべつに隠したりしていない人を「オープンリー・ゲイ」と呼びます)の議員グレン・マクシーさんが、ある日のジョージ・W・ブッシュ州知事との会話を披露したのがニュースになったのです。

  ──「知事が私の肩に手を掛けて、ぐっと顔を近づけてきてこう言うんだ。『グレン、私はきみを個人として人間として尊重している。だからわかってもらいたいんだが、これから私がゲイに関して公的に発言するその内容は、きみ個人とはなんら関係のないものと受け取ってほしいんだよ』」。

  ことし4月にテキサス州議会で子供の保険法改正案が可決された際の話です。知事が同改正案の提案者でもあった彼のもとにお祝いに歩み寄ってきて、ついでにそういうことを口にしたのですね。話はまだ続きます。
 ──「それでもちろんこう返答したよ。『知事、あんたがゲイのやつらは子供の親としてふさわしくないと言うなら、それはあんた、つまり私のことを指して言ってるんだよ』。そうしたら知事は近くの別の議員のところに声をかけに行ったがね」。
  来年の大統領選でのフロントランナーであるブッシュ知事ならではの暴露話ですが、さて、このニュースからいろいろなことが読み取れます。

  その最初はもちろんマクシー議員が意図したように共和党の反ゲイ姿勢、あるいは「そんな反ゲイ政策も一皮むけばこんなまやかしでしかない」というメッセージです。

  キリスト教保守派を主要な支持基盤とする共和党はむかしから、「聖書の教えに反する」とされる同性愛者たちを「ライフスタイル」すなわち選択可能な「趣味の問題」(つまり快楽のために敢えてこうした“悪徳”を選んだ人びと)として非難していますが、もう1つは、そんな「背徳者」に対して「個人」的には「尊重している」と発言したブッシュ氏の思惑です。
  氏は人柄の人としても知られていますからこれはそのまま、ほんとうに政治家としての建前と個人としての友情との狭間での彼の苦衷を察してくれという意味だったのかもしれません。あるいはもっとうがった見方をすれば、そんな共和党候補でも最近のゲイたちの政治力の増大は無視できず、それを牽制する意図があったかもしれないということです     
  ゲイの政治力というのはそれほどに強いものなのでしょうか? 日本のメディアでは同性愛者に関するニュースはほとんど皆無です。取り上げられる同性愛者はお笑いやスキャンダルの対象だったりするだけで、したがって「日本には本当のホモはいない」と本気で思っている人も少なくありません。「エイズは外国人の病気で日本人だったら感染しにくい」と思っている人さえまだいるほどですから。

  ところがアメリカに住んでいると前述のAP通信ばかりかニューヨーク・タイムズ、CNNといった主要ニュースメディアにゲイの話題が登場しない日はありません。

  1999年8月のゲイ関連のニュースには▽ジェニー・ジョーンズ・ショーでのゲイ殺人事件の再審詳報▽宗教界でのゲイ容認の動きとそれへの抵抗▽ゲイ向けの広告が増加中という話題もの▽米軍でのゲイ兵士殺人事件続報▽国防総省が兵士たちにゲイ容認教育を行うとの方針▽ボーイスカウトでのゲイ差別禁止判決−−など、APやロイターで1日平均10種類ほどものニュース配信がありました。

  その中で目に付いたのがやはり大統領選にらみの共和党の動きです。前回のドール共和党での大統領選挙の際には同党がゲイからの献金を返還したということが大ニュースになりました。が、今回は同党も早々と「ゲイからの献金歓迎」という声明を出したのがニュースになっています。

  「ゲイが共和党に寄付?」と思われるかもしれませんが、カトリックにも隠れゲイの司祭がいるくらいです、同党非公認ながらも全米で1万人以上の会員を持つ「ログキャビン(丸太小屋)・リパブリカンズ」という名前のオープンリー・ゲイの共和党員組織があるのです。前述したようにここは94年の中間選挙で共和党候補に計20万ドルの政治献金を行っていて、96年にもドール候補に寄付をしたらそのカネを突き返された。もっともドール候補はその後に平謝りに謝りましたが。ゲイの共和党議員だっています。最近も「実はゲイだった」とやっとのことで告白した上院議員もいました。
  オレゴン州議会でオープンリー・ゲイの共和党議員チャック・カーペンター氏は「ゲイで共和党員だなんて、しばらくはまるでナチス党員のユダヤ人みたいに思われてたがね」と回想しています。

  ところで具体的に、いったいゲイというのはどのくらいの政治勢力なのでしょう? ニューヨークタイムズによれば、前回96年の大統領選出口調査で、じつは5%もの人たちが自分のことをゲイであると明らかにしています(ゲイというのはレズビアン女性のことも含む用語です)。これは全米のヒスパニック系の投票翼窒ニほぼ同じです。またユダヤ系と比べても2倍近い数字でもあります。

  さらに考慮しなくてはならないのは、ここで5%というのは、自分で自分をゲイだと言える人たちだけの割合だということです。いまでも抑圧や差別の多いキリスト教社会では、自分をゲイだとはっきり言えない人たちがその陰にそれこそごまんと控えています。すると、ゲイというのは潜在分を含めてやはりかなりの勢力になる。

  しかもゲイと自称している人たちはもちろん自分たちの置かれている政治的状況にきわめて敏感な人たちでもあります。ゲイであることに誇りと自信を持っている人たちです。それは例えば、ゲイ人権団体から寄付を呼びかけるダイレクトメールが届いたら、ほかのどの社会層よりもはるかにそれに呼応する人たちの数が多い、ということでもあります。アメリカのゲイ団体の集金力は、一時期のエイズ関連寄付の多さとともに特筆に値するものです。

  ちなみに7月中旬、民主党の筆頭大統領候補ゴア副大統領はゲイ団体から15万ドルの寄付を受けました。
     
  このゲイのネットワークはかなりのものです。おまけにこれは人種などほかのマイノリティ層と異なり、すべての人種、すべての民族、すべての職種、すべての階級、すべての地域、すべての宗教、すべての(思春期以降の)年齢層を横断するネットワークなのです。こういうカテゴリーは人類史上、ゲイ以外に存在したことがありません。

  いや、そうとも言えないか……あえて言えば「左利きの人」とか「太った人」とか「近視の人」、逆に言えば「目のよい人」「かっこいい体型の人」とかいうカテゴリーも同じですね。こういうのはたしかに地球上のどの層にもどの時代にも存在する。
  話は横道に逸れますが、例えば知識人や芸術家にゲイが多いという“俗説”があります。たしかにチャイコフスキーやヘンデルなど歴史的に同性愛者の大音楽家はいますし、近場ではレナード・バーンスタインなどもゲイでした。画家のフランシス・ベイコンもゲイでしたし、哲学者のミシェル・フーコーとかヴィトゲンシュタインもそうですね。みんなが知っているウォルト・ホイットマンやテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティなど、作家業にもたくさんゲイはいます。『ファルコナー』を書いたジョン・チーヴァーも同性愛者だったことを実の娘が彼の死後に明かしています。

  しかしだからといって芸術家にホモセクシュアルが多いとは言えない。たまたま有名人だから同性愛者だと暴露される率が多いというだけの話かもしれないし、たとえば芸術家とはちょっと違うかもしれないけれど「ヘアメイク・アーティストってゲイが多いですよね」と同意を求められても私には「そうとも言えないんじゃないか」としか答えられません。「だってゲイの人って美的感覚に優れてるっていうじゃないですか?」と返されたりしますが、そういうのは才能もあるけれど基本的には努力した結果の獲得形質であって、抑圧のある社会でゲイの人がしっかり生きていきたいと願うときに、美的感覚とか芸術的技術とかそういうものを糧にしてしか生きられなかった、だから努力した、そういうことの単なる結果なのかもしれませんよね。

  つまり芸術家とか美的感覚を必要とする職業とかというのは、「ゲイだからなれた」のではなく、もともとの自分の美的・芸術的感覚と才能とをよりよく培っているかどうかの問題であって、それはむしろ「ゲイでもなれた」ということだったのではないかと思う。知識人だって成就の条件はゲイネスではなくてその知能と精進ですし。

  いずれにしてもどこにでもどの時代にでもどの層にでもゲイはいます。「オンナっぽいやつ」だけがゲイだ(レズビアンの場合はその逆です)と思ったら大間違いです。「オンナっぽい」とゲイだとすぐ知られるかもしれませんが、この世にはそれと同じ分だけ(あるいはそれ以上に)「オトコっぽい」ゲイもたくさんいます。彼らは「オトコっぽい」分だけ周囲に気づかれずに済んでいるだけの話で、ひょっとするとコソコソしている分だけ「オンナっぽい」ゲイたちよりも「オトコっぽくない」のかもしれない、という面白い逆説まで読み取れたりします。    

 閑話休題。さてそのような強力なゲイのネットワークは最初から存在したたわけではもちろんありません。
  前回の『三島由紀夫のストーンウォール』でも紹介したように、ゲイたちが政治意識を持って本格的に活動を始めたのは1970年代に入ってからです。72年の民主党の党大会から同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。そのときはゲイとレズビアンは差別撤廃の対象とはなりませんでしたが、ウォルター・クロンカイトは当時のニュースで「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

  さすがです。やはり彼は一級のニュースマンだった。日本のジャーナリストで同性愛のことを揶揄や嫌悪なく普通の顔で普通に話題にできる人はY2Kを迎えようとする現在でさえも数少ない。

  もちろんジャーナリズムの中にもゲイは同じ割合だけいます。90年には「全米レズビアン&ゲイ・ジャーナリスト協会(NLGJA)」という組織もできました。NYタイムズやウォールストリート・ジャーナルといった大マスメディアの記者たちから大学でジャーナリズムを専攻している学生まで、もちろんTVジャーナリストも含めて現在は全米で1000人が会員です。中にはピュリッツァー受賞ジャーナリストもいます。

  さて、これがゲイたちが「We Are Everywhere(私たちはどこにでもいる)」と豪語する実態です。
  かつて同性愛者であることは最高の脅しのタネでした。だから同性愛者たちは国家機密に関する職には就けなかった。しかしこれは簡単なことです。同性愛が秘密でもなんでもなくなれば済むことなのですから。クリントン政権では、ゲイネスがすでに恥ではなくなったという認識のもとに今年こうした国家公務員のゲイ排除の職種差別も撤廃しました。
  日本の朝・毎・読・日経・産経・東京・共同・時事、及びすべてのテレビ局、そのいずれの組織にも私が個人的に知っているゲイの記者がいますが、ゲイであると知られるのを怖がってひた隠しに隠している人がほとんどです。それは傍で見ていてかわいそうなくらいです。優秀な記者も少なくないのですが。

  ゲイのジャーナリストも、じつはゲイであることを隠しているほうが逆に危ないのです。隠すからそれをネタに脅すやつがいる。前回も書きましたが、「隠す」という行為はそれほどまでに不健康で危険なことなのです。
  わかっているけど……彼らはそう言います。それほどまでにホモフォビアの呪縛は厳しい。次回はそのあたりを説明しましょう。
(続く)

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