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2007-08ホモセクシュアルな欲望

◎私たちは結局、スキャンダラスな「隠れホモ」をあぶり出しているだけなのか?
──「ホモセクシュアルな欲望」の問題を考える

*またオトリ警官に捕まった

 だれか「ストレートの男性」に思いもかけないホモセクシュアルなスキャンダルが持ち上がったとします。たとえば「売春夫を買った」とか「ハッテン場で警官に捕まった」とかです。この場合、この「ストレートの男性」は「隠れホモ」なのでしょうか。まあ、そういう場合は多いでしょう。でもそうだった場合、私は考え込んでしまうのです。じゃあこれは世間一般の、「ホモ」ではない男性たちには関係のない、「ホモたち」だけで勝手にやっててくれよという内部的なクソ問題だということなのか、と。
 そういうことが、このところアメリカで立て続けに起きています。
 昨年9月、(1)共和党のベテラン下院議員だったマーク・フォーリーが10代の議会アルバイトの少年とわいせつなIMを交わしていたことで辞職しました。
 次はその直後の11月、(2)信者数3千万人という全米最大のキリスト教会・福音派のトップであり、妻と5人の子持ちのテッド・ハガードが、反ゲイを叫びながらもその裏で売春夫を買っていたことが明らかになり、こちらも会長職を辞してリハビリに入りました。
 今年になってもこの7月、(3)フロリダ州下院議員(共和党)のボブ・アレン(妻娘持ち)が公衆便所で私服のオトリ警官に20ドルを渡してオーラルセックスを求めたとして逮捕されました。そうしたら今度は共和党のベテラン連邦上院議員のラリー・クレイグ(妻と3人の子持ち)が、ミネソタの空港トイレで隣の個室に入ったオトリ警官にセックスを誘ったとして6月に現行犯逮捕されていたことがわかり、8月にそれが報道されて9月いっぱいで議員辞職する事態に追い込まれました。

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逮捕されて報道陣に取り囲まれたフロリダ州議会のボブ・アレン下院議員


*典型的な3つの対処法

 この4件の「ストレート男性」たちはきわめて典型的なパタンで“事件”に対応しました。
 (1)のフォーリーは「私はペドフィリア(少年愛好者)ではない」としながら「じつはゲイだった」として赦しを請う戦略に出ました。ペドフィリアはれっきとした犯罪ですが、ゲイだと、これは守られるべき“かわいそうな”少数者です。しかしこの事件はゲイかゲイじゃないか、隠れホモならどうだこうだ、という問題ではありません。彼は下院議会で行方不明の子供たちや性的虐待の対象となっている子供たちを救うための議員連盟の代表を務めていたのです。ですからこれはそんな彼の「偽善」の問題であって、中心命題は性指向ではないのです。
 (2)のハガードの対処法は違いました。3年もこの売春夫と“関係”を続けながら、彼と教会はこれを悪魔の仕業だとして、あらためて神の道へ戻ることを誓ったのです。男性との関係は悪魔の誘惑だったというわけです。
 キリスト教原理主義者は「隠れホモ」という概念以前にまず「同性愛者」が存在するという自体を信じていません(なんせこの世界が出来たのだってわずか6千年前なのですから!)。つまり、人はみな異性愛者であり、弱い人はときに悪魔の誘惑によって「同性愛性行為」に走ってしまう。だからそれは悔い改められるし、精進すれば立派に異性愛者に戻ることも可能だ、という論理になるのです。同性愛を趣味とか嗜好とかの「ライフスタイルの問題だ」というのもこの論理なのです。
 ですから、これもまた「隠れホモ」の問題ではありませんでした。これは異性愛者のほんの出来心の、セックス耽溺という“悪事”だったのです。これは真の神の道へと戻るための“試練”だったのです。
 (3)のボブ・アレンとラリー・クレイグはほとんど同じ対応です。両者ともオトリ警官が間違ったのであってこれは勘違いによる誤認逮捕だと主張し、「私はゲイではない」と言い張っています。ふうむ、ならばこれこそが「隠れホモ」のみっともない言い逃れなんでしょうか。
 そうかもしれません。2人とも妻子持ちですがそんなのは関係ない。妻子があるのにオトコを作る夫はたくさんいる||アメリカのゲイ関連のブログのほとんどはそのような「オープンリー・ゲイ」からの「クローゼテッド・ゲイ」に対する内部抗争・攻撃めいた言辞あるいは揶揄で占められています。

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クレイグ上院議員の議員辞職発表はTV生中継されるほど注目を浴びた


*ホモの内輪のクソ問題?

 ならばこれはやはり「ホモ同士で勝手にやってればいいんじゃないの?」といった自家中毒めいた内輪のクソ問題なのでしょうか。
 結論からいえば、それは違うと思うのです。なぜなら、そういう連中がすべて「隠れホモ」だったら、なんだか同性愛者がものすごく多すぎるような気がするからです。
 いや、逆にこう言い換えてもいいでしょう。同性愛者は男性で人口の10%だとか5%だとかいやそれよりもっと少ないとかともいいますが、そういう話とは別次元で、「男なんてみんなホモ」なんじゃないか。
 それが証拠に、男色行為に西洋的な制限のなかった江戸時代の日本では性行為は異性とも同性とも移行可能なものであって二項対立するものではありませんでした。そもそも性行為上のジェンダーの境界が曖昧であるために、それはいまでいうバイセクシュアルとはまた別のものです。同じ意味で、つまりいまでいう本質主義的な同性愛者というのも異性愛者というのも、ともに存在しなかった……。
 フロイトも『性欲論三篇』の中で「人間に関しては純粋な男性も純粋な女性も心理的・生理的レヴェルでは存在しない。人間はすべて自らの性とその異性の性の特徴の混淆を示していて、能動性と受動性というこの二つの心的特徴が混じり合っている」と書いていますが、そういうことなんでしょう。
 つまりこういうことです。
 すべての男性には「ホモセクシュアルな欲望」というものがある。それは「ホモセクシュアル(たち)の欲望」とは違うヘテロセクシュアル(たち)も持つ「同性愛的な欲望」のことです。
 それを知ったとき、「だれかストレートの男性に思いもかけないホモセクシュアルなスキャンダルが持ち上がった」としても、それは「ああ、またホモが」という問題ではないのだということがわかるのです。それはほとんどすべての男たちに潜在する問題だったのです。ヘテロ男性たちはそうとは気づいていないでしょうし、認めたくもないでしょうけれどね。
 私たちの頭の中から去らない「ホモセクシュアルな欲望」の問題は、ですから、もっと普遍的な、だれしもが抱える人生の問題なのです。私たちがこだわるのは卑小なクソ問題ではありません。自信を持って堂々とこだわっていいのですよ。
(了)

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