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ジェンダーフリー

産経抄っていう、産経新聞の天声人語みたいなコラムが18日付でつぎのような文章を載せましたんねん。

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  ジェンダーフリー(性差解消)という名のばかげた風潮は、とどまるところを知らない。東京の港区が男女共同参画政策の一つとして区の刊行物八千部を全職員に配った。その刊行物で「ちょっと待った! そのイラスト」と、いろいろ注文をつけていたという。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろしい…と。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなにが正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかねないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”といった季節感も否定されてしまうだろう。

 ▼日曜の楽しみの一つは産経俳・歌壇に目を通すことだが、きのうの俳句に「ピアスして少年無口青嵐」、短歌に「日に焼けて人力車曳く女子(をみなご)の胸当て黒き鎌倉の谷戸」というのがあった。これは前記のイデオロギーとは無縁の時代風景らしい。

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産経抄ってのはおバカさんで有名なんだけど、例の性同一性障害者の戸籍変更の法案の辺りから、こういう反動的なのが目立つようになってきてはいるんだよね。とうとう、鈍い日本の「異性愛情交男性」諸氏もやっと気づきはじめて、おいおい、こりゃ、なんなんだ、いままで何もきいてなかったぞ、とステゴザウルスよろしくおっぽを踏まれてから5秒後にチクッと感じたんだろうなあ。でも、こういうのってもう20年前の言説でさ、こいつらはPCとかも知らないんだわね。

 ▼たとえば保育園の送り迎えの風景で、女性だけが描かれているイラストは「固定
観念にとらわれている」からダメ。父親もカバンを持って登園する絵にされた。また
女性の晴れ着だけの成人式風景は男性を加えたものに改められた。

これは、「ダメ」とか「された」、とか、被害者意識もろだしで、そういうところが彼にとっていやなだけで、別にその事実自体はなんでもないんじゃない? ってレベルでしょ。

 ▼先日、同じ東京の大田区で「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環
境」などと表記した運動のことを書いた。日教組が「男女混合名簿」という名称を
「女男混合名簿」と変えよと提唱したこともある。男女はいけない、女男ならよろし
い…と。

これはhistoryをhertoryに変えた、とかいう、ジェンダーの意識化の最初にかならずおきる問題で、こういうのは淘汰されて落ち着くところに落ち着くんだから騒ぐ必要なしって、保守派ならそのくらいはいつもの論法なのにね、こういう時に限って過敏になって、なにそれ、「女々しい」んじゃなくって、だわ。

 ▼そういう人たちは両性具有とか同性愛を過剰に強調し、男女間の性愛と同列に扱
う。男女間の性愛をことさらに「異性間情愛」と呼んだりしている。こうなるとなに
が正常なのか、判断する常識を人びとから、とくに子供から奪っていくことになる。

「ことさらに」って、異性間情愛の何がいけないのでしょうね。
ちなみに、「常識」は判断しない。「常識」は、判断なし、思考なしに、自動的に結論が決まっているのです。
そういう「判断しない常識」というのに、再考を促そうというものなんだから、当然のことでしょうに。
おまけにこのおやじ、「子供」なんてのをここで人質に出すなよなあ。おめえみたいなのが子供の判断を奪ってるんだからさ。
またまたおまけに、「両性具有」って何よ? このひと、こうは書いても、ぜったいインターセックスのひとたちのことを念頭に置いてるわけじゃないね。古い辞書って、バイセクシュアルを「両性具有」って訳語を振ってることがあるんだけど、そのレベルでしょう、きっと。100円賭けてもいい。このおじさん、「両性具有」の意味、知らないぜ。

 ▼先に“ばかげた風潮”と書いたが、決して軽視することはできない。男らしさ・
女らしさを否定するジェンダーフリー教育の弊害は、国を危うくすることになりかね
ないからだ。日本の伝統や文化も無視されていくことになる。そのうち“夏らしさ”
といった季節感も否定されてしまうだろう。

どうして「夏らしさ」に飛んじゃうのかなあ。
すごいなあ。
「ばかげた風潮」を云々する前に、自分の「ばかさ加減」を考えた方がよいわね。
「ジェンダーフリー教育の弊害」がなくても、もうとっくにこの国は危ういんだわさ。
だから変えようっていうのにさ。

ああ、またバカとか言っちゃった。
まあね、「デイリー・ブルシット」のコラムだから、しょうがないのかも。
とほほ。人格者になりたいよん。

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