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少数者マーケットとは何か?

 身障者用の駐車場や客室を用意して建築基準を満たしてから、完了検査にパスすればすぐにそれらをつぶし、一般客用の施設に改造してしまう。「東横イン」という誰もが知っているホテルチェーンがやっていたことは、マイノリティ・マーケットに対する社会と企業のあり方を考える上でじつに示唆的です。東横インの西田憲正社長は記者会見で「身障者用客室を造っても年に1、2人しか来なくて」「使わないものはいいんじゃないのという感覚はあった」とうそぶきましたが、はたしてそれは本当なのでしょうか。

 ニューヨークに暮らして気づくことは、街なかでの車いすの人の多さです。90年代にバスはすべて車いす対応型に変わりました。地下鉄は施設自体が老朽化していますが、現在、主要駅のほとんどでエレベーターを新設して車いすの人も利用できるようになりつつあります。こうしたインフラが整備されてきて初めて、身障者たちの存在が目に見えるようになります。そういう設備がない状態では、それこそ「年に1、2人しか利用しない」わけで、だから「使わないもの」は「必要もない」という論理に落ち込んでいきます。

 この場合、マイノリティ側は自らアイデンティティ意識を高め連帯して企業や社会に自分たちのマーケットの存在をアピールしてゆくべきでしょうか。それはそのほうがいろいろな意味で好ましいのでしょうが、「してゆくべき」となるとなんだかちょっと違うような気もします。逆に考えて、「してゆかなければそのままでいいのか」というとそれは違うからです。しなくたってしてゆかなくてはならない。だいたい巨大マーケットとされる主婦層やギャル層やサラリーマン層が自己同一性を高めて連帯しているなんて話は聞いたこともないし、なんで少数者たちだけがそういう努力を必要とされるか、そんなのは理屈に合いません。そういうマーケットへのアプローチと掘り起こし、育成するは第一義的には企業と社会の側にあるのだと思うのです。巨大ではなく顕在化していないマーケットの存在にも気づかせる、そのための触発は与えるにやぶさかではないけれど、そのために身障者たちの側が必要条件として何かを「しなければならない」という物言いは、あなた何様なの、という感じなのです。

 ホリエモンの登場時、「会社は誰のものか」ということが議論にもなりました。もちろん会社は株主のものです。ただし、その株主の利益を保証するためには、その会社の存在する場に健全な社会が形成されていなければなりません。そのためには会社の利益は単なる株主だけではなく、従業員やその地域社会の構成員にも還元されていかなくてはならないのです。こうして、ステークホルダーの概念には株主だけではなく、広義にその会社や社会の構成員も含まれるというのが私の思うところです。企業はすでに個人的な利益追求の場だけではなく、高度資本主義社会にあっては社会全体の利益追求の道具でもあるのです。そしてその社会全体の中には、もちろんマイノリティも含まれる。

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 翻ってゲイ・マーケットについて考えてみましょう。欧米のように言挙げを旨としない日本社会では、マイノリティの言挙げもまた少ない。アイデンティティなどという概念も言語化の問題と関係しますから希薄かもしれません。だからといってゲイ・マーケットは存在しないというのは前段までの身障者の例をとっても誤りですし、日本ではゲイ市場は育たないとかいうのも東急インの社長のような「何様」な物言いでしょう。ゲイ・マーケットはそんなのとは別のところで、当事者であるゲイ(LGBT)の思惑や気力とは別のところで、第一義的には社会と企業の側から形作られなければならないもののはずです。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 なんでまたこんなことをここに書くのかというと、バディの3月号に伏見憲明さんがタワーレコードによる「yes」というLGBT向け新雑誌の創刊に触れつつ、「日本におけるゲイは、時代が進んでも、いわゆる『ゲイマーケット』を形成するような層としては成り立ちえないように痛感してきたのだ」と書かれていたからです。

 なーに、御大、そんなに悲観なさることはありやせんぜ。いや、いっているのは悲観ではないか。では言い方を変えれば、これはそんなに痛感すべきようなことでもないのです。それこそこちら側はのんびり構えていたって一向にかまわないのですから。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 私はこれまで、マイノリティの解放運動はじつはマイノリティのためだけではなく、より多数という意味においてはより重要に、マジョリティを真っ当に解放するための運動なのだ、ということをいってきました。つまりゲイ市場の創出も確立も育成も、ゲイのためにというよりはこの社会全体の幸せのために必要なことで、結果、LGBTたち自身も全体の一部として幸せになる、という図式です。

 そりゃこの時代のこの日本、さまざまな手段や考え方1つで、マイノリティであってさえもハッピーな感じはなんとなく手にできるかもしれません。それが流行語のようによく言われる「緩い」幸せでもべつに問題はない。それは処世でしょう。それはそれでいいのです。だが、問題はそこではないのです。問題は、それではマジョリティの側のどうしようもなさ、この日本社会の脳天気さはなにも変わらないということなのです。せっかくマイノリティ問題を梃子にしてよりよい全体を築きたいというのに。

 車いすの人や目の不自由な人たちだって緩い幸せくらいは、いや熱い幸せだって持っているかもしれません。しかし、だからといって「それでいいんじゃないの」と東横インの社長が言ってしまうのは筋違いでしょう。

 マーケットというのはその構成員の努力によって形成されるものではありませんし,思惑どおりに形成できるものでもありません。あくまでもマーケター側が利益を上げようとする際に、十把一絡げのように投網を打って消費層をまとめあげ刺激できたらずっと簡単で経済的で効率的だということで出来上がった概念なのです。ですからLGBTをまとめあげてマーケットを形成するのは第一義的に企業の側なのです。われわれ消費者としては、さあまとめあげてよ、そうしてくれればちゃんとカネも落としてあげるよ、というもんです。最終的には互助的なんですがね。

 そういう文脈においてLGBTマーケットを考えてみる。それへのコミットメントについても。それが今回の東横インの身障者用施設改造事件の教えでもあると思います。

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