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猫に鰹節

 NYに3年くらい派遣されても英語がペラペラになるようなことはまずありません。で、小さいころから英語をやっていればなあという思いが生まれるのは当然でしょうが、そうしていれば本当に話せるようになっていたのかというとそれはまた別の問題です。

 日本の中教審外国語専門部会が「小学校高学年から英語を必修にする」との方針を示したと聞いて、藤原正彦じゃあないが、こいつはまったくの見当違いだろうとの疑問が拭えません。まあ文部省関連ではゆとり教育だとか愛国心教育だとか、朝令暮改でもとから信用できないのですが。

 子供のころからバイリンガルというのは理想的ですが、よほど言葉の才に長ける子を除いて日本語も英語もどちらも満足に使えない虻蜂取らずの危険も待っています。だいたい中学から大学まで10年も英語をやって話せないものを、小学校高学年からの2年を加えたってどうなるものでもないでしょう。英語のできない原因は他のところにあるのです。

 言葉というのはいくら仕組みや言い回しを学んでも、肝心なことは「言いたいこと」「語りたいこと」があるかどうかです。器を買っても、中に入れる料理がなければ観賞用のただの飾りでしかない。では日本の教育は器の中身を満たすその料理のうまい作り方を教えているのかというとそれも心もとないのです。

 自分なりの意見を持つこと、その意見を人前で表明すること、少数意見を邪険にしないこと、他者への批判や反対はその意見を咀嚼し尊重したうえで行うこと──コミュニケーションのその4つの基本はたしかに日本の教育現場でも奨励されてはいるでしょう。しかしその実現に具体的に努力するよりむしろ、「他人と違わないこと」「むやみに私見を主張しないこと」「公共の場では黙っていること」のほうがうまい生き方だと、多くの子供たちが思っているのではないか? 先日発表の経産省の就職アンケートで、「自らやるべきことを見つけて積極的に取り組む」という「主体性」に自信のある大学生はわずか28%でした。

 あるいは東京都の教育委員会が「職員会議で挙手や採決によって教職員の意向を確認するような運営は行わない」という通知を各都立学校長宛に出したというニュース。かつて「NOと言える日本」を記した石原慎太郎都知事ですが、日の丸・君が代問題でもなんでも教育現場でどんどん「NO」と言うことさえ出来ない状況が拡大しています。ではいったい何を話せばよいのか? 子供たちにだって、話すことではなく「話さない」ことが奨励されている。

 そんな中で英語を話せと言われたって無理なのです。話す主体としての「自分」が無いからです。大切なのは「英語を」話すことではなく、英語で「自分を」語ることだというのに。

 前にも書きましたが、こんな笑い話があります。日本人が事故を起こして大ケガをした。アメリカ人が近寄って大丈夫かという意味で「ハウ・アー・ユー?」と訊いたら、ケガでダラダラ血を流しながらその日本人、「アイアム・ファイン、サンキュー、アンド・ユー?」と笑顔で答えた──あまり笑えた話じゃないですが。

 そうしたらこんどは日本で、中学生から使えるクレジットサービスが始まるんですって。まったく、仕事も収入もない中学生に中身の伴わない「クレジット(信用)」を与えてどう使わせるつもりか。猫に小判。いや、この場合は、猫に鰹節、でしょうか。

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