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January 31, 2007

「ゲイの高校生の普通な毎日」

「ゲイの高校生の普通な毎日」というブログを読みました。ちょっと前ですが、1月25日のです。この高校生ブロガーくんはカムアウトしていないようですが、そのブログに「実は最近仲いい子の部活の後輩の子がゲイなんだって聞いちゃったりしました」と書いていました。

どうも「ケータイを勝手に見られたりして、なかにブックマークしていたゲイサイトを見られてしまって判明した」らしい。で、噂が立って「それでかなり避けられたり陰で言われたりしてるみたい」なのですね。「これって全然他人事に思われへん」と彼は書きます。そうして「やっぱり……異性愛者からしたら同性愛者ってのは気持ち悪いもんでしかないみたいです。あと、どうもおかしな思考回路持った人ってイメージ多いし……。友達に言われましたもん。その子が近くにいるときに僕が背伸びしてお腹出してると『あいつには気をつけろよ。ゲイやから襲われるで!』」

「ゲイの高校生」くんは、「とりあえず作り笑いでごまかしたけどそれって憤慨。同性愛者がみんながみんなそんなやつじゃないですから。普通に常識ありますから」ととてもしっかりしたことを書いています。「カバちゃんとかおすピーとかかりやざきさん」のテレビのイメージの影響を感じながらもその3人を「すごく面白いからすきだけど」とフォローしてもいます。で、「同性愛者って実は、ふつうにキャラ薄く生きてる人が多いんだよぉ……ばれないようにばれないようにって、毎日繕いながらひっそりと恋愛生活してるんやしぃ」といまの高校生ゲイの世界をさりげなく、しかし的確に教えてくれます。「僕もいつかは同性愛者ってことを隠さずに生きていけるようになりたい。たとえ、何人の人が背中をむけても、きっと何人かはわかってくれるはずだって信じたいから」という彼は、そしてブログを「うん。強くなろう……」と結ぶのです。

いい文章だなあ。

さて、これを読んでどう思ったか。こんな21世紀になっても日本の高校生たちは20年前と同じ差別にさらされているのか、とか? あるコメントは「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね……。私も憤慨です。同性愛とか別に普通なんですけどね。そうじゃない人のほうが多いのかーわからんなぁー」と言っていました。また別のひとは「やっぱり友達ゎみんなノンケだから、同性愛っぽい話とかが出るとキモって顔する人ばっかりで」とも。

コメント群もみなさん共感的で、早く噂が消えればいいのにとその噂の後輩くんを気遣ってくれています。やさしいね。

高校生ってどうなんでしょう。ほんとにそんなにホモフォビックなのかなあ。私は「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね」というコメントに逆に気づくことがありました。

つまり、理解が増えたというのが表面的なら、理解のなさもまた表面的なんじゃないのかと。ホモフォビアも、ちゃんと理解して抱いてるんじゃなくて、そう凝り固まったものでもないんじゃないのかなって思ったわけです。みんななんとない受け売り、耳に挟んだものをまるで自分の考えたことのように思い込んじゃってるだけかも。そういうのもまたピアプレッシャーの一種でしょうね。みんながそう思ってる。そんな幻想からの圧力に押し流されてるだけ。

そうしたホモフォビアって、まあ高校生のリビドーの強さを纏ってなんだかすっごく厄介なバカ騒ぎめいたものにも見えるけれど、じつはそんなに大したもんじゃないんじゃないんでしょうか? そこを教育で衝いてやれば、かんたんに転ぶんじゃないかなあ。

教育ってカルチベートcultivateすることだっていったのは太宰治ですけど、そこに植えるのは正しさのタネなの。その正しさの芽を示してやること。それは情報のときもあるし態度のときもある。で、正しさはまずは信じるに足るものだってことを示してやること。まさにそれこそが必要なことなのではないか? それこそが「教育の再生」ってことの1つじゃないのか。

高校生のホモフォビアなんて幻想だ、そう実体があるものではないと書きました。中学生や小学生間のホモフォビアではもっとそうでしょう。正確な情報が与えられていないところでは幻想しか成立しませんからね。小学生と高校生のホモフォビアの違いは、まあ、時間が経過したせいで表層の角質化がやや進んだということくらいか。その証拠に(小学生の時とそう変わらないという証拠に)そういうホモフォビックな言辞を吐く高校生に「どうして?」って訊いてやったら、おそらく3つ目の「どうして?」くらいでそれ以上の答えに窮するでしょうから。

それが凝り固まっちゃったいい年のヤツなら、答えに窮する自分を認めたくなくて的外れな反撃に出たり無視を決め込んだりする。そこで終わりです。これは個別対応しても時間と労力の無駄だ。よほどの友達でない限り、そんな手間を敢えてこちらから割いてやる必要も気力もない。それは時代のパラダイムの変化で十把一絡げに変える以外にない。
でも高校生なら(それもまたわたしの甘っちょろい幻想かもしれないけれど)、自分が答えられないという事実に新鮮な驚きを覚えることも可能ではないか? 自分が答えに窮している瞬間に、あ、そっか、と蒙が啓かれる喜びを覚えることもできるのではないか? なぜなら、正しさに気づくことは楽しいことなのですから。ま、最近はキレる高校生もいるだろうけれどね。それはまた別の話。正しさが時としてとんでもなくイヤなものだってのも、それは次のレッスン。

で、私はそれが教育の醍醐味だと思う。そうしてそれはそんなに、というか、ぜんぜん、難しいことではないはずだ。その機会を、先生たちはどうして見逃しているのかなあ。もったいないなあ。

じゃあさ、先生という教育者たちがそれを見逃しているのなら、先生に頼らずに生徒たち同士が互いを触発し合うことだって、じつはそう難しいことではないと思うのです。さっきも書いたけれど、相手が友達だったらそういう触発の手間をかけてやってもいいじゃないですか。友情を手がかりにその友達のホモフォビアをちょっとずつ修正してやる。それはそいつのためです。放っておいたらホモフォビアを抱えたままのみっともないヤツになってしまうのですから。

「言うのは簡単だけれど」という声が聞こえてきそうだけれど、ほんとにそうかしら? 試したこともないんでしょ? どうしてそういえるのか? カムアウトの怖さはね、半分は妄想なんです。ビクついて頭の中で怖さが膨らんで……でも、じっさいはそんなに大変なことではないと思うなあ。十代のホモフォビアなんて枯れススキみたいなもので、そう大層なことではないという例証は欧米の中学や高校なんかでは枚挙にいとまがないのですから。大層な場合もあるけどね、それはだいたい、相手が集団でピアプレッシャーに凝り固まって、自分じゃどうにもできなくなるときです。でもそれはホモフォビアの強さというよりも、集団ヒステリアの強さなんだと思う。

やわらかな心の、やわらかさに期待できるような、そんな機会が、若い彼らのまわりにもっともっと増えるといいね。

January 26, 2007

喰えないヤツだね

CNNの中でもタフマンとされるウルフ・ブリッツァーが、ブッシュの一般教書演説のあとで副大統領のチェイニーに対面インタビューを行ないました。日本の新聞報道などでは上記映像の前半部分、つまり、ブッシュによるイラク増派政策への民主党からの批判を聞き、ブリッツァーが「イラク政策の失敗が政権の信頼を損ね、共和党内にも増派への疑問が広がっている」と言うと、チェイニーがひとこと、「ホグウォッシュ(hogwash=豚のエサ)」と吐き捨てるように一蹴した、という部分がニュースになっていますが、まあ、この男、ほんと、凄みがありますわね。

ホグウォッシュってね、このブルシット(牛の糞)と同じく、だれも喰わない戯言、っていう意味。それもこいつ、鼻で笑いながらこういうことを口の端でいうんだ。吐き捨てるように言う、というのがどういうことか、この映像は教科書だね。ブリッツァーもいちいち言葉に詰まるほどだもんなあ。はは。

で、日本ではニュースにならない部分を抜き出しましょう。同じインタビューでこの映像の最後の部分の質問は、あの娘のメアリーさんの妊娠問題についてです。そんなことも訊くわけです。
それはつぎのようなやりとりでした。
それにしてもどうしてこんなプライヴェートなことまで質問するのか?
それは、まさに先日、私がここで記した槙原カムアウト問題で触れたことです。
妊娠はプライヴェートなこと。しかし、レズビアンであるメアリーさんの妊娠は、いま最も議論の起きている人権問題に関わることだからです。ゲイのカップルに生まれる子供のこと。そうしてそのカップルと子供への法的保護。だからブリッツァーは質問しようとした。ところが……。

さあ、顛末は次のようなものでした。文字に起こします。

**
Q We're out of time, but a couple of issues I want to raise with you. Your daughter Mary, she's pregnant. All of us are happy. She's going to have a baby. You're going to have another grandchild. Some of the -- some critics, though, are suggesting, for example, a statement from someone representing Focus on the Family:
"Mary Cheney's pregnancy raises the question of what's best for children. Just because it's possible to conceive a child outside of the relationship of a married mother and father, doesn't mean it's best for the child."
(Q;もう時間がないんですが、もう1つ2つお訊きしたい。あなたの娘さん、メアリーのことです。妊娠なさった。とてもうれしいことです。赤ん坊が生まれるんですからね。あなたにまたお孫さんができるわけです。ただ、批判する人も、まあ、何人かいて、例えばですね「家族の価値」を標榜する代表者なんかからは「メアリー・チェイニーの妊娠は子供たちにとって何が最良なのかという問いを提起している」と声明を出したりしています。つまり結婚している母親と父親の関係の外で子供が生まれてもいいと思われたりして、それは子供にとってベストなことではない、と)
Do you want to respond to that?
(そういう発言について何か言いたいですか?)

THE VICE PRESIDENT: No, I don't.

(副大統領;いや、言うことはない)

Q She's obviously a good daughter --
(もちろんとても素晴らしい娘さんで……)

THE VICE PRESIDENT: I'm delighted -- I'm delighted I'm about to have a sixth grandchild, Wolf, and obviously think the world of both of my daughters and all of my grandchildren. And I think, frankly, you're out of line with that question.
(遮るように=筆者註)(うれしいことだ……6人目の孫が生まれようとしてるのだから、それはうれしいことだ、ウルフ、それにもちろん、娘2人の世界のことや私の孫たちみんなのことを考えるとね。で、思うに、率直に言えば、きみのその質問はルール違反だ)

Q I think all of us appreciate --
(たじたじになって)(いや、みんな評価すると思いますが、その……)

THE VICE PRESIDENT: I think you're out of -- I think you're out of line with that question.
(きみは論点から……その質問は、論点から逸れていて訊くべきことではないと思う)

Q -- your daughter. We like your daughters. Believe me, I'm very, very sympathetic to Liz and to Mary. I like them both. That was just a question that's come up and it's a responsible, fair question.
(しどろもどろ状態で)(あなたの娘さん、あなたの娘さんたちを気にかけているのです。私を知ってるでしょう、私はリズにもメアリーにも、とても、とても同情的だ。2人とも大好きです。これはただのふつうの質問ですよ。ふつうに頭に浮かんだ質問。それを責任をもって公正に質問しているのです。

THE VICE PRESIDENT: I just fundamentally disagree with your perspective.
(わたしは基本的に、そのきみの考え方には同意しない)

**
以上。そんなけ。
すごいでしょ。はは。
この"out of line"というのは、「線を越えてる」「はみ出している」「出過ぎだ」「分(ぶ)をわきまえない」「常軌を逸している」「規則違反だ」っていう、かなりきつい意味の婉曲な言い回しですわな。つまりね、ほんとはチェイニー、「たわごとだ」「何を言ってるんだ、バカ」「言って良いことと悪いことがあるぞ」という脅しをしてるわけです。脅し。でも、本質は何かというと、このおやじ、逃げてるんだ。都合が悪くなるとこうして脅して逃げる。

チェイニーは、同じこのインタビューで、イラクから手を引くことは「「アメリカ人は戦う根性がないとテロリストに言われる。それが最大の脅威だ」とも発言しています。彼の思考回路にはそれしかない。つまりメアリーさんのときと同じなんですね。都合が悪くなるとこうして「脅威だ」と言って脅すのです。で、なにも答えていない。「戦う根性」以外のものを相手に示し得ない、そういう思考回路こそがテロリストを煽るのだということに触れない。

こういうのを虚仮威しというのです。ホグウォッシュとは、まさにチェイニーに向けてこそ発せられるべき罵倒語です。おまえは豚も喰わねえわ、ってね。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

g2007012207geiba.jpgg2007012207higasiouen.jpg

 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

January 16, 2007

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ、再び

hedwig.jpg


2月15日の「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の公開に向けて、1と月前にあたる15日からとうとう本格的舞台稽古が始まったようです。山本耕史くん、中村中ちゃんらが演出の鈴木勝秀さんらスタッフと顔合わせをしたよとの連絡が入りました。
中ちゃんのブログもちょっとそのことに触れているようで。
http://www.nakamura-ataru.jp/blog/index.html

でも、新宿FACEの公演はなんだかとっくに完売らしい。(仙台、大阪、名古屋、福岡でもやるけどわが故郷、札幌は残念ながら公演、ないですねえ)
で、急きょ、新宿厚生年金で4月7、8日に追加公演決定と。厚生年金って、箱デカすぎでないですか? でもFACEの舞台とはまたかなり違ったものになるだろうから、それもまた面白そう。

わたしは2月15日のこけら落としを観に行きます。4月も日本に行けるだろうか?
お時間とお金とご興味のある方はチケット買ってくだされ。 詳細は以下に。

ヘドウィグ公式サイトへはここをクリック

以下、わたしの提供したコピーっす。

ミュージカルと侮るな。ロックと蔑むな。これは東西分断とジェンダー分裂の20世紀末文学と音楽の和合的偉業。ここを過ぎてこそのかなしみの21世紀。しかもここを過ぎねば、かなしみが「愛しみ」と書かれることも知り得ない。

January 12, 2007

ハーヴィー・ミルクの胸像


6年近く前から準備されていた、サンフランシスコ市庁舎にハーヴィー・ミルクの胸像を設置するプロジェクトですが、いまその市庁舎に最終候補の3作の粘土プロトタイプが展示されました。「ハーヴィー・ミルクをもういちど市庁舎へ」というスローガンもいいですね。

彼がどういう人かはもう少なからぬ人が知っていると思いますが、知らない人はこちらを'クリック'。ここでは「ハーヴェイ・ミルク」となっていますけど(わたしも昔そう呼んでいたし、映画のタイトルもそうでした)、彼、ほんとの読みは「ハーヴィー」なんですね。だいたい英語の名前の読みで最後が「-ey」となってるのは「エイ」じゃなくて「イー」です(英語豆知識!)。

最終候補の作家はいずれもサンフランシスコ湾エリアのひとたちで、近々、この中から1作が選ばれます。で、1年かけて粘土からブロンズ像にして、それで来年2008年5月22日という、ハーヴィーの誕生日(生きていたら78歳です)に、除幕式っていうのかしら、公開される予定です(あら、彼、わたしの誕生日と1日違いだわん)。2008年は、彼が暗殺されてからちょうど30年目でもあります。

これは一般から9万ドル(1050万円)の寄付を集めて推進されているプロジェクトで、1等賞には制作費も合わせて6万ドル(700万円)くらいが提供されるんですって。最終候補の3作には粘土代で2500ドルだそう。

で、候補作は左のがいちばん写実的だね。この、ネクタイが風に翻ってるところがいいなあ。
で、顔としてはわたしは右のが好きかも。まさによく知っているハーヴィー・ミルクの笑顔です。
真ん中のは2つの別の顔が付いている。ペルソナっていう概念か。

さあ、どれになるんでしょう。どれに決まるにしても、いつも思うんだけどアメリカ人ってのはほんと人を顕彰するのがうまいやね。サンフランシスコの市役所にハーヴィー・ミルクの胸像が建つって、じつにサンフランシスコらしい計らい。決まったらまたここでお知らせします。

January 11, 2007

バラバラ切断殺人と女性蔑視

正月からろくでもない事件です。NYにいると、日本のおそらくは狂騒的だろうメディア・スクラムみたいなこういう猟奇事件めいたものの、その猟奇さに合わせたみたいな下司な報道に曝されなくて済むのがいい。

片や渋谷区幡ヶ谷の歯科医の娘さんとそのお兄ちゃん。片や同じく渋谷区富ヶ谷のモルガン・スタンリーの高給取りとその奥さんです。
なんだかんだいってわたしもオンラインのニュースサイトだけですけどけっこう読んでしまっていて、まあ、報道の下品さに辟易しながらもその同じ土俵に上がってしまっているのですが、その字面だけで判断すると、この2つはとてもよく似ています。ただし、これは「遺体のバラバラ切断」というのはあまり重要な要素じゃないのかもしれません。それはこれまでの報道を総合すればきっと始末に困ったからであって、べつに“猟奇的”な意味合いからではないでしょう。幡ヶ谷のお兄ちゃんは妹の乳房や性器部分を切り取っていたというけれど、これは性的なものなのか捜査の攪乱のためか、今の時点ではよくわからないし、いまのところわたしにはあまり興味がない。どっちにしてもそれだけであるならば想像力の範囲ではありますし。

似ているのはバラバラにしたとか短絡的だとかそういうことだけではありません。
似ているのは、(これはあくまでのわたしの読んだ報道の範囲内だけからの判断ですけれど)この2つの事件に臭う、同じような女性嫌悪(ミソジニー)の要素です。女性嫌悪というのが強すぎるなら、女性蔑視と言ってもよい。

武藤亜澄さんは、お兄ちゃんの勇貴くんから「言葉遣いがなっていない」とか「態度が悪い」とか「恩知らずでわがまま」と非難されていて、それが殺人の背景の一つのようです。非難は勇貴くんだけではなく、どうもそのうえの長兄からもお母さんからも来ていたようだ。こうして根掘り葉掘り情報を流布されてしまうご遺族には同情を禁じませんが、私が書くのはご家族への非難じゃないので赦していただきたい。

「妹」というのは微妙なものです。女であり、さらに年下である。年上の男にとっては愛護の対象である、とされるこの位置から、年上の男に向けて「三浪のくせに」という言葉が発せられたら、愛護の対象は、愛護の対象である分だけ逆のベクトルをまとう攻撃の対象に変わるでしょう。亜澄さんは歯科医の一家にあってひとり演劇に興味があって別の道を歩もうとしていて、それも家族内の波風のもとだったのかもしれません。あるいは、末っ子で女だった彼女は、歯学部ー歯科医というエスタブリッシュからひとり離れることのできた「女」で「年若」の“特権”をあえて使ったのかもしれない。

で、ふと思うのです。彼女がもし女でなかったら、つまり、弟だったなら、勇貴くんが抱いていた殺意は別の種類のものだったんじゃないだろうかというふうなことです。愛護の裏返しのような敢えて駆られての殺意ではなくて、変な言い方ですがもっと対等な殺意というか、いやあるいは兄貴のほうも演劇なんていうろくでもない道に進もうとしている弟を見て、自分も三浪する以外の別の道があるのかもしれないななんていう既成コースの脱構築が促されるようなそんな関係すら想像可能な、もっと風通しのよい景色があったのではないかと、思ったりもする。

亜澄さんも、女であることであえて突っ張って頑張らねばならないような状況にいたのではないか? 勇貴くんも妹にバカにされたことで弟にバカにされる以上の辱めを感じたのではないか?

そこにある女性へのバイアス。

これを、じつはモルガンスタンリーのなんとかさんにも感じます。もちろん、今日時点でのほとんど第一報的な報道の範囲内の情報からの判断ですからそれはわたしの想像を出ないし、殺された方を貶める意図もここにはありません。

さて32歳の妻は、「口論も絶えず」「暴力も振るわれ」「自分を否定している」ように感じられた30歳の夫を寝ているあいだにワインの瓶で殴りつけて殺害します。加害者の一方的な供述をかりに真とするなら、ここに見えてくるのはとても強権的で封建的な、女を人間とも思っていない30歳の男性若者像です。さらにここにも年齢差が、とても日本的に、関係してくるかもしれません。こちらの場合は、愛護の対象ではなくなった女性です。そのときにこの「年上」という要素がどのように「愛護の対象ではない」という部分を補強するのか、その残酷な例は私たちの周囲におそらく多々見られることでしょう。

極論をいえば、どうしてこうも男は女が嫌いなのか、ということです。
裏を返せば、男は自分のセックスの対象となる(可能性のある)女しか好きではないのか?
ふたつの事件で被害者と加害者はそれぞれ男女が逆転していますが、わたしには同じ女嫌いという要素が下地になった殺しだと思えてなりません。いや、モルガンスタリーの男性はすごくいい人で、わたしが基にしているのは加害者容疑者の妻の一方的な虚構の供述なのかもしれませんが。

両事件はまだまだどんな展開になるのかわかりません。
が、そういう視点でニュースショーやワイドショーを眺めてみることも必要かもしれません。日本社会の持つそういう種類のミソジニーは、もちろんホモソシアリティの産物であり、それがゲイと、それ以上にレズビアンたちを抑圧しているのです。その種のメカニズムに、心ある人は自覚的であってほしいと願います。

January 09, 2007

World Index更新

ワールドインデックスを更新しました。
昨年12月に発売のバディに掲載した原稿の画像ファイルです。
日本でじわじわと広がるいやな雰囲気を「父権」というキーワードで読み解いています。
上のバナーのWorld Indexをクリックして進んでください。

January 05, 2007

さて、2007年の書き初めは

今年はどんな年かといえば、アメリカでは来年11月(という遠い先)の大統領選挙への動きが徐々に表面化してくる年です。昨年11月の中間選挙で民主党が主導権を握った米国上下院議会が4日から始まりました。ということで、上にはめ込んだのは、昨年12月29日にニューハンプシャー州ポーツマスのタウンホールで行なわれた、民主党の大統領選挙出馬表明者ジョン・エドワーズの公開討論会の模様です。エドワーズは、2004年の選挙でも大統領候補に出馬して、けっきょく予備選でケリー上院議員に破れましたがそのケリーに請われて副大統領候補としていっしょに選挙戦を戦っていた若手のホープです。

さて、その彼がヒラリーやオバマより早く出馬表明して、選挙戦を開始、でこの質疑応答に臨んだわけです。一般参加者からの質問はイラク問題やなにやらと多岐にわたりますが、ここではお隣りマサチューセッツ州からの参加者であるマークさんという人が、ゲイマリッジについて質問しました。内容はかいつまむと次のようなものです。

質問「同性婚に関してはこの国には多くの軋轢が生まれているようですが、あなたの見方はどういうものですか? というか、あなたを支持するこの国のゲイの有権者に、どういうふうに話しますか、つまりその、宗教的な意味での同性結婚ではなく、公民権としてのゲイ結婚について、つまり同性のパートナーと結婚できる市民としての資格を得ることができるという意味での結婚に関して」

エドワーズの回答には、いまのアメリカの抱える困難が如実に示されています。というか、アメリカの大統領選挙で勝ち抜くための戦略的な物言いの難しさというものでしょう。

エドワーズは逃げるのです。こう言って。
「私にとって、一つの最も難しい問題ですね、個人的に──いえ、難しい問題はたくさんありますが──他の問題のほとんどにはそんなに個人的な葛藤は抱かないわけで。ただこのことに関しては個人的な苦悩が続いています……というのも、問題は、わたしの見方で言えば、自分のパートナーといっしょに暮らしたいという男女は、尊厳と敬意をもって扱われるべきだしその公民権も持って然るべきである。それが、おっしゃるように、アメリカにおける権利と公正さと正義である、と思うわけであり、そこで、問題は次にでは「それはシヴィル・ユニオンやパートナーシップの認知やパートナーとしての諸手当への支持を通しては達成できないものなのか? これではゲイのアメリカ人が与えられるべきレヴェルの尊厳と敬意は得られないのか? あるいは、ゲイ・マリッジの事柄へと橋を渡らなければならないものなのか?」、と。わたしは個人的にそのことに関してものすごく悩んでいます。答えがわからないのです。わかればいいのですが……云々」

じつは今月発売のバディにも書いたのですが、民主党の中でも最も先進的な1人とされるヒラリー・クリントンもまたゲイ・マリッジに関しては言葉を濁しています。

つまり、同性結婚の問題は、大統領選挙にとって鬼門中の鬼門なのです。

ならこう言ってはどうなのか?
「わたしは同性結婚には賛成です。しかし、いま同性結婚を支持すると公言すれば、多数の有権者にそっぽを向かれることになる。そうすれば大統領にはなれない。アメリカ全体の意思としては同性婚はいまはまだ時期尚早なのだと判断せざるを得ない。なので、戦略的に、わたしは同性結婚をまだ推進しようという立場を取らないことにします。しかし、時期が熟するときは必ず来る。HIV/AIDSに関してもその理解が多数派を占めた時期が来たように。その時期はわたしの任期中に来るかもしれない。そのときに同性婚に踏み切るにやぶさかではない。しかしそれまでは同性シヴィルユニオン、あるいは同性パートナーシップ制度として下地を作りたいのです」

まあ、そんなことをおくびにも出したら、それは同性婚賛成ということであって、戦略的にそれを隠しているということになって、まあ、選挙で投票者を失うことになるのは同じです。なのでそうとさえ言えないということになる。

つまり、言えないのですよ。

言えるときはいつか?
それは、そう言ったほうが票が取れる、失う票よりも得る票が多くなるときです。そうしていまはそうじゃないんだろうなあということなのです。

ただし、あと2年のうちに、そのような状況にならないとも限らないのもまた事実です。
というのも、例の米軍の同性愛者の従軍問題、「Don't Ask, Don't Tell」ポリシーですね、それがもうすぐにでも翻される時が近づいているのですから。これもまた、「Don't Ask, Don't Tell」の妥協が発効した1994年には考えられなかった状況なのです。

さてさて2007年。
まあ、今年もどうにかみなさん、生き延びましょうぜ。そうすりゃなんかかならずいいこともあるでしょうから。