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「ゲイの高校生の普通な毎日」

「ゲイの高校生の普通な毎日」というブログを読みました。ちょっと前ですが、1月25日のです。この高校生ブロガーくんはカムアウトしていないようですが、そのブログに「実は最近仲いい子の部活の後輩の子がゲイなんだって聞いちゃったりしました」と書いていました。

どうも「ケータイを勝手に見られたりして、なかにブックマークしていたゲイサイトを見られてしまって判明した」らしい。で、噂が立って「それでかなり避けられたり陰で言われたりしてるみたい」なのですね。「これって全然他人事に思われへん」と彼は書きます。そうして「やっぱり……異性愛者からしたら同性愛者ってのは気持ち悪いもんでしかないみたいです。あと、どうもおかしな思考回路持った人ってイメージ多いし……。友達に言われましたもん。その子が近くにいるときに僕が背伸びしてお腹出してると『あいつには気をつけろよ。ゲイやから襲われるで!』」

「ゲイの高校生」くんは、「とりあえず作り笑いでごまかしたけどそれって憤慨。同性愛者がみんながみんなそんなやつじゃないですから。普通に常識ありますから」ととてもしっかりしたことを書いています。「カバちゃんとかおすピーとかかりやざきさん」のテレビのイメージの影響を感じながらもその3人を「すごく面白いからすきだけど」とフォローしてもいます。で、「同性愛者って実は、ふつうにキャラ薄く生きてる人が多いんだよぉ……ばれないようにばれないようにって、毎日繕いながらひっそりと恋愛生活してるんやしぃ」といまの高校生ゲイの世界をさりげなく、しかし的確に教えてくれます。「僕もいつかは同性愛者ってことを隠さずに生きていけるようになりたい。たとえ、何人の人が背中をむけても、きっと何人かはわかってくれるはずだって信じたいから」という彼は、そしてブログを「うん。強くなろう……」と結ぶのです。

いい文章だなあ。

さて、これを読んでどう思ったか。こんな21世紀になっても日本の高校生たちは20年前と同じ差別にさらされているのか、とか? あるコメントは「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね……。私も憤慨です。同性愛とか別に普通なんですけどね。そうじゃない人のほうが多いのかーわからんなぁー」と言っていました。また別のひとは「やっぱり友達ゎみんなノンケだから、同性愛っぽい話とかが出るとキモって顔する人ばっかりで」とも。

コメント群もみなさん共感的で、早く噂が消えればいいのにとその噂の後輩くんを気遣ってくれています。やさしいね。

高校生ってどうなんでしょう。ほんとにそんなにホモフォビックなのかなあ。私は「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね」というコメントに逆に気づくことがありました。

つまり、理解が増えたというのが表面的なら、理解のなさもまた表面的なんじゃないのかと。ホモフォビアも、ちゃんと理解して抱いてるんじゃなくて、そう凝り固まったものでもないんじゃないのかなって思ったわけです。みんななんとない受け売り、耳に挟んだものをまるで自分の考えたことのように思い込んじゃってるだけかも。そういうのもまたピアプレッシャーの一種でしょうね。みんながそう思ってる。そんな幻想からの圧力に押し流されてるだけ。

そうしたホモフォビアって、まあ高校生のリビドーの強さを纏ってなんだかすっごく厄介なバカ騒ぎめいたものにも見えるけれど、じつはそんなに大したもんじゃないんじゃないんでしょうか? そこを教育で衝いてやれば、かんたんに転ぶんじゃないかなあ。

教育ってカルチベートcultivateすることだっていったのは太宰治ですけど、そこに植えるのは正しさのタネなの。その正しさの芽を示してやること。それは情報のときもあるし態度のときもある。で、正しさはまずは信じるに足るものだってことを示してやること。まさにそれこそが必要なことなのではないか? それこそが「教育の再生」ってことの1つじゃないのか。

高校生のホモフォビアなんて幻想だ、そう実体があるものではないと書きました。中学生や小学生間のホモフォビアではもっとそうでしょう。正確な情報が与えられていないところでは幻想しか成立しませんからね。小学生と高校生のホモフォビアの違いは、まあ、時間が経過したせいで表層の角質化がやや進んだということくらいか。その証拠に(小学生の時とそう変わらないという証拠に)そういうホモフォビックな言辞を吐く高校生に「どうして?」って訊いてやったら、おそらく3つ目の「どうして?」くらいでそれ以上の答えに窮するでしょうから。

それが凝り固まっちゃったいい年のヤツなら、答えに窮する自分を認めたくなくて的外れな反撃に出たり無視を決め込んだりする。そこで終わりです。これは個別対応しても時間と労力の無駄だ。よほどの友達でない限り、そんな手間を敢えてこちらから割いてやる必要も気力もない。それは時代のパラダイムの変化で十把一絡げに変える以外にない。
でも高校生なら(それもまたわたしの甘っちょろい幻想かもしれないけれど)、自分が答えられないという事実に新鮮な驚きを覚えることも可能ではないか? 自分が答えに窮している瞬間に、あ、そっか、と蒙が啓かれる喜びを覚えることもできるのではないか? なぜなら、正しさに気づくことは楽しいことなのですから。ま、最近はキレる高校生もいるだろうけれどね。それはまた別の話。正しさが時としてとんでもなくイヤなものだってのも、それは次のレッスン。

で、私はそれが教育の醍醐味だと思う。そうしてそれはそんなに、というか、ぜんぜん、難しいことではないはずだ。その機会を、先生たちはどうして見逃しているのかなあ。もったいないなあ。

じゃあさ、先生という教育者たちがそれを見逃しているのなら、先生に頼らずに生徒たち同士が互いを触発し合うことだって、じつはそう難しいことではないと思うのです。さっきも書いたけれど、相手が友達だったらそういう触発の手間をかけてやってもいいじゃないですか。友情を手がかりにその友達のホモフォビアをちょっとずつ修正してやる。それはそいつのためです。放っておいたらホモフォビアを抱えたままのみっともないヤツになってしまうのですから。

「言うのは簡単だけれど」という声が聞こえてきそうだけれど、ほんとにそうかしら? 試したこともないんでしょ? どうしてそういえるのか? カムアウトの怖さはね、半分は妄想なんです。ビクついて頭の中で怖さが膨らんで……でも、じっさいはそんなに大変なことではないと思うなあ。十代のホモフォビアなんて枯れススキみたいなもので、そう大層なことではないという例証は欧米の中学や高校なんかでは枚挙にいとまがないのですから。大層な場合もあるけどね、それはだいたい、相手が集団でピアプレッシャーに凝り固まって、自分じゃどうにもできなくなるときです。でもそれはホモフォビアの強さというよりも、集団ヒステリアの強さなんだと思う。

やわらかな心の、やわらかさに期待できるような、そんな機会が、若い彼らのまわりにもっともっと増えるといいね。

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