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読者からのあるコメント

清野さんという、このブログを読んでいてくれている方から、先日来の同性婚問題に関連して次のようなコメントが「白い結び目」のブログのコメント欄に書き入れられました。

わたしの論評は余計でしょう。
とても考えさせられる文書です。
みなさんにも読んでいただきたく、ここに再掲してご紹介します。

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北丸さんおはようございます。早すぎますか?少しだけ私の後悔の話を聞いて下さい。

それは私がまだ23歳で大学を卒業して東京の会社に就職した年のことです。まだ新入社員研修をしていたばかりの頃、自分の不注意の為に会社内で事故を起こし入院し、手術ということになりました。大変な手術でした。

その入院中に会社の7年先輩のSさん(男性)が何度も見舞いに来てくれました。日々不安でいた私の所に特別何も言わなかったのですがよく来てくれていつしか仲良くなっていました。退院後も飲みに連れて行ってくれたり野球に連れて行ってくれたり、寄席やボウリングなど退社後や日曜日も先輩(これ以降彼と書きます)が連れていってくれました。お金も何事もないようにすべて彼が払ってくれていました。これは私が怪我をした事に対して気の毒と思っての事なのかな?と思っていました。また薄給の新人は会社ではこのように面倒みてもらえるものなのかな?と考えていました。実際他の先輩もよく私をドライブやスナックに連れて行ってくれていたのでそのようなものだと思っていました。

恋も知らず、社会も知らない私はまるでわかっていませんでした。その後も彼とは二人で旅行にも行きましたし、彼の家にも招待されたし、私のアパートに泊まりに来たこともありましたが私の中では仲が良い先輩の域を越えなかったし彼も何ももとめませんでした。ただ私を可愛がってくれるだけでした。

怪我の治りの悪かった私は普通の勤務が大変でこのまま会社に迷惑をかけ続ける事に対しても申し訳なく1年半後に決意して辞表を出しました。彼にも相談していましたが彼が何かを示唆することはありませんでした。

彼は変わらず引越しの準備を手伝い荷物を業者に出してくれたりといつものように私のすぐ近くにいてくれました。最後まで何も語らず、彼との別れが近づいていました。

山手線の電車に乗っていました。かなり混んでいました。私と彼は向き合うように立っていました。この電車を私が降りたら彼とはもう会えないと思ったら私の心の中から嗚咽のような感情が起こりました。涙が堰をきったように流れ出し電車の中で止まらなくなりました。そうすると彼がズボンのポケットからハンカチを出し私に渡し「返さなくていいから」といいました。私はもっと激しい涙がでてきました。そうするといつのまにか私の顎が彼の左肩にのっていました。そして彼はものすごくソフトに私を抱いていました。私はいつの間にか彼を抱きかえしていました。私の降りる駅まで彼は私を抱いていました。いやではありませんでした。私の降りる駅が来ました。何も言わず彼は私を降ろしました。でもいつもと違う顔でした。降りた私は暫くホームで涙が止まりませんでした。

それから私は次の日、田舎に帰りました。怪我の事で人生を失敗したような失意となんであんな会社に入ってしまったのだろうという悔しさで、会社の事はもう考えたくなくて電話もかけず、忘れたいという思いが私を包んでいました。2ヶ月後位にふいに彼から電話がありました。「なんで電話をかけないんだ?もっと電話をかけろよ。東京に出て来い」と言いました。いろいろと話しましたが、特に私の中で気持ちの変化はありませんでした。

それ以降私はその会社の事も彼の事もちっとも考えませんでした。東京に戻る気もありませんでした。彼からはその後電話はありませんでした。2年後位に彼が結婚して婿さんになったという噂をききました。でも遠い所の話のような感じでした。

それからまた何年もたち友人達との話のなかで私が「新人の頃はよかった。先輩に面倒みてもらったし、お金を自分で払った事もない」というと友人達から「そんな事はない」と言われました。「割勘だったよ」という話でした。旅行の話にしても電車の中の話にしても「それはその先輩がお前が好きだったんだよ」と断定されてしまいました。私もそうかな?と思い始めましたがそうではないだろうとも思います。ただ私のような者の為に彼が支払った金額は膨大だったのではないか?自分がその立場だったら後輩にそこまでやってあげる気がしませんでした。不意に彼の愛情に気がついてしまいました。私は子供だったと思いました。申し訳ないと思いました。謝らなければならない、感謝の気持ちを伝えなければならないと思いました。でも彼は会社も辞めて居所もわからなくなっていました。どうぞ彼が幸せでいて下さいといつも祈っています。

もしもあの頃、同性と結婚できる世の中だったら私は彼と結婚していたと思います。彼の幸せをそっと願うこともなく、今一人で寝るベットの中には彼がいて私が朝、目を醒ますと彼が「おはよう」と言ってくれる日常があったのではないかと思うのです。

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Comments

北丸さん、北丸さんのブログに私の文章が訂正なしに載っていたのはびっくりしました。
そしてありがとうございました。私の中の誰にも話した事のない話を臆面もなく載せてしまった事はよかったのか悪かったのかは良くわかりません。誰かの心を救う事になればいいなと思います。作家でありジャーナリストの北丸さんに少しでも認められたのなら光栄です。
 冒頭私の事を読者と呼んでいたのは今後はファンと変えて下さい。北丸さんのブログ楽しいです。でも北丸さんはものすごく優しい人なのにブログでは激しいキャラにしているのは何故ですか?優しい文章でも充分わかるしその方がいいと思いますがだめですか?

>ブログでは激しいキャラにしているのは何故ですか?優しい文章でも充分わかるしその方がいいと思いますがだめですか?

まっこと、仰せのとおりです。
権力を持つ者の正しくないこと、邪なことに対して激昂する癖があります。そんなときも冷静に穏やかに諭すほうが有効なのでしょうが、ついつい深夜で酒が入っていたりすると腹が立っちゃうのは不徳の致すところです。

そうなんですよね、言葉が言葉を呼ぶというか、わたしも調子に乗る質だ。あああ。

気をつけます。

映画トランスアメリカを観て、北丸さんのタッカー監督のインタビューページにアクセスしたことをきっかけに、今日初めて北丸さんのサイトにアクセスさせて頂きました。
私はできるだけ偏見や差別のない人間であろうと努めているものです。

しかし、清野さんの文章を拝見し、最後の段落まで清野さんが女性だと思い込んでいた自分に気がつき、頭をハンマーで殴られたような感覚になりました。
十分、私は偏見(思い込み)に満ちているじゃないか、と恥じ入りました。

>十分、私は偏見(思い込み)に満ちているじゃないか、と恥じ入りました。

Fさん、わたしたちの頭って、まずは考え方の枠組みがどう形作られるか、というところから育ち上がってゆくのだと思います。それが「常識」という枠組みなんですね。それがないと、まずものごとを考えることすら出来ません。考え方の、足場みたいなもんです。なので、それは必要なものなのだと思います。

つぎに、さらに、思考を進めると、今度はその枠組み自体の窮屈さとか歪さとか、あるいは古めかしさとかに気づいてきます。そうして、「常識」や「ステレオタイプ」というものがいかに頼りないものか、がわかってくる。

そのときにわたしたちは、目から鱗が落ちると言ったり、今まで気づかなかった自分を恥じ入ったりするのです。でも、それは恥じ入ると同時に、一方ですごく喜ばしいものでもあるのだと思います。

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