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英語しゃーない2

英語社内公用語化に関してちょいと危惧を書いたところ、日本国内でもみなさんこれに批判的というか反発を示していらっしゃるようで、私がツイッターでフォローさせていただいている内田樹先生のつぶやき(12:53 AM Aug 1st)によると「某新聞取材。「英語社内公用語化論」について。「対論」というかたちで、賛否の両論を紹介する企画なのに、「賛成論」を語る識者がいないそうです。ユニクロも楽天も広報は「あ、その話はちょっとご勘弁を・・・」なんですって。変なの。だったら、プレスリリースなんか出さなきゃいいのに。」とのこと。

なるほどしかし、それほど世間的に反発が多いなら、逆に賛成に回ったっていいぞ、みたいな天の邪鬼が体の内側でモソつくのを感じている次第。なにせ、なんとなくその反発、例の「国家の品格」の論調みたいなんじゃないかなあと、逆にこれまた危惧するわけで。

日本の文化や経済が独自に発展してきた背景には、ある意味じつは「日本語」という言語の特殊バリアで守られてきたせいもあります。それは鎖国状態、あるいはガラパゴス状態というのともちょいと違って、選択透過膜とでも言いますか、都合のよいものだけを取り入れ、都合の悪いものは入れも出しもしない。相手には日本内部で何が起きているのかわからないから、国際競争とは別のところでちゃっかり稼がせてもらってきた、という事情があったのだと思います。もちろん大変な企業努力と技術開発があったのは大前提ですが、真の意味で欧米企業と同じ土俵に上り始めたのはカルロス・ゴーンさんが日産に来たころからでしょうか。

その意味でそろそろ英語社内公用語論が出てきてもぜんぜんおかしくない話ではあるのです。

じつは私の日本語の文章修行は英語を勉強することで始まりました。日本語では曖昧に済ませられるところが、英語ではちゃんと1から論理立てて言わねばならないという思考の形の違いにも自覚的になりました。これはとても役に立っています。日本語を相対化することは、同時に英語を相対化することでもありましたし、同じ言葉の背景にある2つ、あるいは3つや4つの文化背景の違いからもいろいろ学ぶところが多いからです。

簡単な例を挙げれば、たとえば「外国人とのハーフ」という言葉。日本語では短くシャレててかっこいいですが、英語だと「半端者」という意味に聞こえるのです。せめて「ハーフ&ハーフ」なら合計「1」になっていいのですが、短縮して「ハーフ」なら「半分しかない人」なのですね。これは日本語の柔軟性と英語の論理性を象徴する(しないか?w)1つの事例だと思います。

それは英語を使って初めて知れる相対性でした。つまり英語も日本語も便利もあれば不便もあるという、いわばアイコだってことが、英語を使うことで初めて実感としてわかったのです。

それを論拠に、わたしはかつて「国家の品格」をトンデモ本だと批判しました。そして今回聞く英語社内公用語化への世間的な一斉の反発もまた、「日本人なんだから日本語を!」「英語に心を売るな!」みたいな単純な国粋主義的な心性の現れではないかと危惧するわけです。

前回ブログで触れた社内公用語化論への反対の根拠の1つは、社内で「英語」使いが重用されるあまり、肝心の「仕事」のできる人が英語ができないという理由だけで排除されるような倒錯が起きないかと心配だということです。それは日本人だから日本語を、ではなく、その日本語を鍛えるためにも余裕があれば英語を学んだ方がよりよいという実感からきています。

先に、日本経済や文化が日本語によって守られてきた、と書きましたが、そういう感覚はじつはいまでも続いています。日本に帰ると急に、国際ニュースなどどうでもいいよその場所のこと、みたいな感じになってしまうのです。ニューヨークにいるとまるで我がことのようにビンビン響いてくる国際ニュースが、日本にいると日本人が日本語で伝えているせいか、どこか遠い外国での話に聞こえてくる(そのとおりなのですが)。

これはまた、以前書いた「身内の言語」=「クローゼットの言語」としての日本語の“効能”なのかもしれません。この原稿、どこに行ったかなと思ってスポットライトで調べたらあらまだこのコンピュータの中にあるではありませんか、というかちゃんと移設してたんだ。それを、この次のブログで近々再掲しましょう(しました=追記)。ご興味ある方はお読みください。長いですけど、これは1995年に青土舎のイマーゴという(もうなくなった)雑誌の「ゲイ・リベレイション」特集に依頼されて書いた原稿です。ずいぶん昔だなあ。でも、まあ、まだかろうじて読めるでしょう。

閑話休題。そう、日本語と英語とは、それはおそらく、日本の近世と近代(現代)の相克なのです。すべて関係します。相撲協会の体質と近代民主税制国家との矛盾とか、官房機密費とマスメディアの癒着とか、西武の大久保と雄星の確執とか、記者クラブとオープン会見の軋轢とか、総会屋と物言う株主の対決とか、おもえばここ数年のゴタゴタのほとんどが身内の言語社会が世界的には通用しないとほぼ初めて公になったということから来る齟齬なのです。そして歴史的に、前者は必ず後者へと流れて行かざるを得ないものなのですね。そういう視点に立てば、「社内」は「英語」の導入でどんどん思考様式を近代化すべきであり、そういうところからしか世界戦略が成り立たないのは道理です。幸いなことに、「会社」は相撲協会や記者クラブなんかよりははるかに旧弊から自由である存在でしょうし。少なくとも楽天やユニクロは。そうやって思い返せば、21世紀に入ってからの例の堀江貴文氏の登場もまた、日本の近世的企業体質への、現代からの挑戦だったのでしょう。

ただし、そうは言ってももう1つ留意すべきことがあります。それは、「英語」が、アメリカが世界で覇権を維持するための大いなる戦略的道具だということです。「英語を世界言語にする」というより大きな米国主導の市場戦略が、背景に見え隠れするのです。

いつの間にか映画がハリウッドだらけになったようにネットもまたいま英語だらけです。相手方のこの言語戦略を自覚しているのかいないのかの違いは、同じ土俵に立つ上でかなり大きいと思います。同じ土俵に乗りはするが、必ず英語文化に対抗しうる日本語文化を重しにしている、そんな「アイコ」に持ち込む努力は、忘れてほしくないと思うのです。

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