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近代と現代のガチンコ

私が毎日新聞の支局記者だったとき、読売新聞の同期の新人記者が交通人身事故を起こしました。そのときデスクは「武士の情け」と言って記事中の彼の肩書きをただ「会社員」とした。まあ間違いではないですが、身内かばいと取られてもしょうがありません。なぜなら被疑者が大企業の社員の場合は「それもまたニュース」としてその企業名を出していたのですから。

でも新聞社はそういう身内かばいはやはりまずいだろうと軌道修正してきました。公に反省したり謝罪したりはしなかったにしろ、こっそりと内部的に反省して現在に至っているのです。それが近世の「瓦版」が知らず知らずのうちに紳士面したいまの「新聞」になっている経緯です。もちろんいまも政局情報や検察・警察情報至上主義みたいな「ヤバい」ところはまだままありますが、おそらくいま新聞社内ではその種のガラパゴス・ジャーナリズムへの反省が秘密裏に進んでいるのではないかと希望的に推測します。

まあ、それを自浄能力と威張って言えるかどうかは別にして、「社会の公器」と奉られた新聞としては変わらねばならないという内的な圧力もあることはあるんだと思うのですね。チクッと刺さったままになっているトゲをいずれはどうにかしなくてはならないだろう、みたいな。しかし翻ってそういう後ろめたさに衝き動かされたささやかな取り繕いの意志すらもが、八百長問題の相撲協会にはなかったということなんだと思います。

相撲の八百長問題は板垣退助の明治時代から表沙汰になっていますが、60年代、70年代にもあって、記憶に新しいのは96年に週刊ポストがやった告発キャンペーン。次は07年の週刊現代での告発でしょうか。つまり協会は最近だけでも2度3度は内部的に出直しのチャンスがあったということです。けれど協会はそれを出直しのモメンタムにするのではなく、まずは組織防衛に回った。後者の、講談社を訴えた民事裁判では大鳴門部屋の板井が84年の北の湖との対戦について証言した「50万円もらって自分が負けるという八百長だった」という告発に対しても、当時理事長だった北の湖自身が「なぜこんな話をするのか理解できない」と全面否定しました。物証がないので結果はもちろん相撲協会側の勝訴でした。

おまけにその裁判の途中でロシア出身の若ノ鵬の大麻吸引事件が起きました。その若ノ鵬が記者会見を開いて八百長問題を告発。けれど大麻を吸うやつが何を言うか、という聞く耳持たずの反応で、若ノ鵬は「八百長告発はウソでした」と引っ込めた。しかしそれも先日、テレビ朝日がその元若ノ鵬に電話をつないで「ウソだと言えば協会が退職金を出してやる」と言われたからだったという内幕を証言させていました。

協会としてまず組織防衛に回るのはわからないでもない。しかしそこでたとえ勝訴したとしても、これは本当はまずいと思った人間は相撲界内部にはいなかったのか? ただ単にバレなくてラッキーと捉えたのだとしたらとんでもないバカ者です。裁判所もマスコミもチョロいもんだと思ったかどうかは別にしても、そのときに後顧の憂いのないように内部的に秘密裏にでも悪しき慣習を絶とうとすることはできたはずだからです。

メディアに登場して八百長問題を語る相撲関係者すべての歯切れが悪いこと悪いこと。だいたい放駒理事長(元大関魁傑)にしても、調べる前から「過去には絶対なかった」と断言するってのはむしろ、真実を糊塗してますって力んでるような印象です。

メディアもメディアです。朝や午後の情報番組で登場する「元力士」たちのコメンテーターに、ズバリ「八百長はあったのか、自分はやったことがあるか、そんな話を持ちかけられたことがあるか、そんな話は聞いたことがあるか」となぜ一言も聞かないのでしょう。みな遠回しに「どう思われますか?」とあいまいに振るだけの遠慮ぶり。噂になった北の湖にだって直接聞けばいいのです。というか、いま行われている力士たちへの聞き取り調査ですけど、そんなことする前にまずは相撲協会の理事たち、親方たちに事情聴取すべきでしょう。だって、彼らの方がいまだけでなく過去も知っている歴史の「生き字引」なんですから。それを、現役の力士たちからだけ事情聴取して罰しようとするなんて、なんとまあ卑怯な。だいたい携帯電話を提出させるなんて、小学生への対応でしょう。なさけない。

グローバル・スタンダードと、すべてを身内で処理できると妄信するガラパゴスな日本的行動規範とのガチンコ。以前も書きましたが、相撲界で起きているここ数年の不祥事とはつまり、ことごとく現代と近代との齟齬のことなのですね。

新聞とかメディアは絶対にグローバル・スタンダードに法らねばならないのは明らかです。でも相撲界は違うだろうなあというのがあります。国技かどうかなんてどうでもいいけど、世界規範に合わせたら相撲もタダのスポーツ……それじゃあなんか寂しいなあ、という思いが日本社会の中にあるのは確かでしょう。ではどうすればよいのか?

八百長をやってきたのにはやってきただけの理由があります。その背景を改善しないでやるなと言うだけではダメでしょう。1つは幕下以下ほぼゼロという給与体系を変えてやることです。そうすれば互助会的な星のやり取りで生活費を心配することもなくなる。また年間90回という過酷な本場所取り組みを減らすことも必要でしょう。真剣勝負での巨体の衝突がそんなにあっては耐えられるはずがありません。地方巡業は「無気力相撲」もまあ大目に見て、しかし本場所は真剣勝負という形にしていけばよいのではないか。

「十両にならなければカネが入らないからこそ懸命に稽古をするんだ」と言ってテレビのコメンテーターとして給与体系の見直しに反対してた元力士もいましたが、そんなことで稽古をしなくなるようなやつならもともと相撲取りにならなきゃよいのです。そんな過酷な給与でしか維持できない星取りの意欲なら、大相撲なんか滅びて当然でしょう。

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