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March 30, 2011

東京にて③

「今後、原発行政は世界中で後退するでしょう」と前回書きましたが、日本国内ではなんだかそんな見方を打ち消す論調が総動員されています。テレビでは大方の学者や評論家がいまも「原発なしでは日本の電力は立ち行かない」という大前提に立って発言しています。本当にそうなのかという疑いすら差し挟む暇もなく、まるで御用学者しか存在しなくなったかのよう。先週の朝まで生テレビを見ていても、こんなに原発推進派が多いとは知りませんでした。

これはいったいどういうことなのでしょう。「反原発」を声高に叫んだ昔と違って、原子力発電率は日本ではすでに3割に達しています。でも原発施設の耐用年数は40年が限度なので、今後徐々に「脱原発」への道をたどって自然エネルギー利用の発電へと移行していくことに無理はないはずです。なのに例の「計画停電」までもが「原発がないせいで不便なのだ」というレトリックに使われそうな雰囲気。

そうして東電の福島第一原発はいま、とうとうプルトニウムの漏出にまで至りました。欧米の報道は津波被害直後からすぐにその危険性に触れて自国民の退避を促しましたが、対して日本では政府・保安院や東電が当初から「安全だ」「切迫していない」という発表で来たはずが、いつのまにか「福島第一原発事故、スリーマイル超えレベル6相当に」なっていました。それでもまだ「ただちに健康に影響するものではない」って、本当ですか?

ある重篤な原発事故が起きて、しかも周辺住民を安全に一度に避難させる術を持たない場合を想像してみてください。その場合、事故と住民の健康被害はすでにリスクとして存在しています。つまりもう起きたことです。これはしょうがない。しかしその2つの既成の危険に加えてもう1つ、その事実を伝えることでパニックになって不測の事態が起きるという危険が考えられるとき、その3つ目の余計な危険は避けたいというのが為政者にとっての危機管理の1つのあり方ではあります。

だから事実はゆっくりと伝える。パニックが起きないように徐々に慣らしながら知らせる。そうして住民を秩序正しく避難させる。

これは結末を除いて、例の茹でガエルの寓話そっくりです。原発20〜30km圏の屋内退避要請がいま自主避難勧告に移行しそうなこともこれに当てはまる。たとえそれが「被曝の危険性などが変動したのではなく、物資不足による生活困難を理由としたもの」だとしても、です。

ここまで取り返しのつかない事故を起こしながら原発にしがみつく理由は、日本がすでに原発にとてつもない投資をしてきて、世界に対して「安全な原発を売る」巨大ビジネスさえもが存在しているからです。この既存の発電産業の構造を転換することは、そこで生きている人たちには論外のことなのです。それこそいま止めたら投資している分が「取り返しがつかない」。

かつて日本は太陽光発電でも京セラやシャープが世界のトップクラスの企業でした。しかし国家として原発ビジネスにシフトした結果、風力や波力を含めグリーンなエネルギー開発は欧州に大きく遅れを取ってしまいました。なぜあのときにグリーンな自然エネルギーに投資しなかったのか?

なせなら原発のほうがより巨大なカネが動く産業だったからです。巨大なカネがかかっても発電効率が高いから十分に元が取れるビジネスだったからです。それが「コストが安い」という宣伝文句を生んだ、当時のつたない太陽光発電や風力発電などとは比べ物にならないほどに大きなビジネスだったからです。

そうしていつのまにか日本は、原発以外の可能性を自ら封じ込めてきていたのですね。

震災報道には連日、数多くの日本人の善意が取り上げられています。私たちはそんな善意の美談を、これからの日本再生の希望の拠り所にしています。

しかしそんな善意というもの一般への幅広い妄信と安心とが、一方で私たち日本人の感性を誤らせているのかもしれません。まるで、気づかないように徐々に温度を上げてくれていることすらもが、「彼ら」の善意だと信じているかのようです。茹でガエルはついには、秩序正しく避難を指示されるのではなく、死んでしまうのに。

March 21, 2011

東京にて②

地震発生直後の週末はべつに買いだめなどパニックの兆候はありませんでした。それが週明けの月曜、14日あたりからスーパーではカップ麺やお米、牛乳の棚などに空きが目立ち始め、それはいまトイレットペーパーや納豆、パンなどに広がっています。

きっかけはツイッターでのつぶやきだったとか言われていますが、よくわかりません。実際に買い物に行って在庫の薄い店内を見ると「ああ、なんか買わなくちゃ」という気持ちに駆られます。テレビで他のスーパーでも売り切れ続出と見せられるといくらキャスターが「品物はあります。心配しないで」と言っても心が騒ぎます。

私の東京のアパートは四谷三丁目ですが、いつも賑やかな新宿通りはコンビニやスーパーなどの看板も節電で消され、開いている店内も奥半分しか蛍光灯が点けられていないので夜は薄暗くまるで違う場所みたい。人通りもまばらで、とても魅力的な飲食店街である杉大門通りも閑古鳥が鳴いています。これでは各地で3月の決算期を乗り切れない個人店が続出するかもしれません。

映画館も午後6時で閉館。演劇やコンサート、バレエ、イベントなどの興行も軒並み中止。私の母親が楽しみにしていた5月初めの「東アジア・ロシアをめぐる11日間クルーズ」も、いま彼女から嘆きの電話があったのですが、使用する外国船が放射能が怖いとかで日本への寄港を回避することに決定、急きょ中止になっちゃったそう。どこに停泊する予定だったのかと聞くと、長崎と室蘭ですって。関係ないでしょうにねえ。

「風評」被害はこれから国外からもやってくるでしょう。復興支援の輪は海外でも拡大するでしょうが、それ以上に日本への観光客は激減するでしょうし、魚介類を含め日本の産品がどう扱われるかも気になるところです。
もちろんその原因は原発にあります。東京電力はこの事故の直前まで妻夫木聡くんを起用した「オール電化」のCMを大量に流していました。そのすべては止めたり動かしたりを容易にできない原子炉から生まれる昼夜を問わぬ電力を消費させるためでした。民主党も自民党も「クリーンな電力」としての原発を推進してきました。それらの行き着いたところがこんな大惨事でした。

今後、原発行政は世界中で後退するでしょう。それは被災地だけでなく、 日本全体の国のあり方も変えるきっかけになるほどのものです。いやむしろ、これを力に変えるための第一歩を踏み出さねばなりません。なぜなら次にはすぐに、東海・東南海大地震が迫っているからです。

余震、節電、列車の運休と状況が違うので一概には言えませんが、9.11のとき、生き延びた私たちはとにかく早く「普通の生活」に戻ろうと声を掛け合いました。ブロードウェイも敢えて直ぐに再開しました。それが無差別テロに対するニューヨーカー一般の唯一の抗議の方法だったからです。

この大震災の復興の第一歩もまた、敢えて懸命に「普通の生活」をしようとすることだと思います。普通に生活をするということは普通の経済活動を取り戻すことです。それが税金になり、国の力になります。今後避難してくる多くの被災者の方々を受け入れる受け皿が「普通の生活」なのです。

もっとも、原発事故を機に、しらみつぶしに夜から闇をなくしてきた日本の大都会の「普通」の照明のあり方は、考え直した方がいいですね。夜は夜の暗さを楽しむもの。それもNYに暮らして学んだ1つです。

March 14, 2011

東京にて①

寒さも緩んだ午後、連れ合いといっしょに散歩がてら新宿の喫茶店の外でお茶をしていました。そこに地震が来ました。目の前の新しい十数階建てのビルが前後に大きくたわみ、鳥たちが騒がしく鳴きながら青空を飛び交いました。地鳴り、叫び声、窓ガラスの震動。通行中の車が停車し、ビルからは続々と人が出てきて靖国通りの大きな交差点の中央に集まりました。その場のすべてが揺れ、軋み、鳴っていました。とうとう東海・東南海大地震が来たのかと思いました。そのときはまだ震源が宮城沖だとは知りませんでした。その数十分後に、あの津波の第一波が現地を襲おうとしていたことも。

その後の展開はみなさんもご存じの通りです。9・11を体験した人ならばわかるでしょうが、こういうときこそ人びとの善意が輝きます。

計画停電が始まったとき、東電の準備不足と説明の不手際を責める大メディアを尻目に、若者たちはこれをネット上で「ヤシマ作戦」と名付け積極的に節電を呼びかけていました。あの大人気アニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」で対「使徒」攻撃兵器の電力を集めるため日本中を停電にしたのと同じ作戦名です。自らの不便を捧げる善意の連帯です。

ツイッター上でもこの悲劇の中で起きたささやかな善意のエピソードが多く紹介されています。

▼ディズニーランドではショップのお菓子なども配給された。ちょっと派手目な女子高生たちが必要以上にたくさんもらってて「何だ?」って一瞬思ったけど、その後その子たちが、避難所の子供たちにお菓子を配っていたところ見て感動。子供連れは動けない状況だったから、本当にありがたい心配りだった▼ホームで待ちくたびれていたら、ホームレスの人達が寒いから敷けって段ボールをくれた。いつも私達は横目で流してるのに。あたたかいです▼1階に下りて中部電力から関東に送電が始まってる話をしたら、普段はTVも暖房も明かりもつけっぱなしの父親が何も言わずに率先してコンセントを抜きに行った。少し感動した▼昨日、歩いて帰ろうって決めて甲州街道を西へ向かっていて夜の21時くらいなのに、ビルの前で会社をトイレと休憩所として解放してる所があった。社員さんが大声でその旨を歩く人に伝えていた。感動して泣きそうになった。いや、昨日は緊張してて泣けなかったけど、今思い出してないてる▼避難所でおじいさんが「これからどうなるんだろう」と漏らした時、横にいた高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元に戻します」って背中さすって言ってたらしい。大丈夫、未来あるよ▼韓国人の友達からさっききたメール。「世界唯一の核被爆国。対戦にも負けた。毎年台風がくる。地震だってくる。津波もくる…小さい島国だけど、それでも立ち上がってきたのが日本なんじゃないの。頑張れ頑張れ」ちなみに僕いま泣いてる。

地震後2日間は携帯も固定電話もなかなかつながりませんでした。その一方でツイッターやスカイプは常につながりました。大切な人の消息を知るためにも、ネット接続のできる環境を日本中でいち早く整備すべきだと痛感しています。

そんな中、またまた都知事に立候補した石原慎太郎がこの大震災を天罰だと発言しました。米国のキリスト教原理主義者にもこれとまったく同じ発想をする人たちがいますが、石原こそがこんな人を選んだ都民への天罰のようです。

March 01, 2011

人生の目的

人がたくましく育つにはある程度の負荷が必要です。ですから日本式の入試制度も乗り越えるべき関門として存在意義はあるのかもしれません。けれども負荷ストレスが強すぎると、そこから入試さえ乗り切れば事は足れりと思うような本末転倒が起きもする。日本の今年の大学入試で、なんらかの携帯機器からウェブサイトに入試問題の解答を求めるような輩が出てきたのもその結果なのでしょう。

日本では昔から何度も入試改革が叫ばれていますが、「年に一度の一発勝負」という原則はほとんど変わっていません。対してアメリカではご存じのように一般的に日本の入試のようなものはなく、高校各科目の成績評価平均点(GPA)と、それだけでは学校間の格差が大きいので年数回、全米で同時実施される標準テスト(SATかACTの2種類)の点数などを提出して大学側が総合的に合否を判定するようになっています。

最も一般的なSATの試験は選択科目や小論文も含み年に7回も実施されていて、ある回で失敗しても何度も受け直していちばん良い成績だった回の点数を希望大学に提出することができます。なので一発勝負で合否が決まる日本式よりもこちらの米国式の方が学生のストレスはかなり少ないと思います。

ただし大学の授業は大変です。これもかなり格差はありますが、大学は勉学での鍛錬の場という意識が浸透しています。背景はもちろん米国が大変な学位・資格社会であるということ。学部を修了しただけでは一流企業ではあまり意味がなく、ビジネススクールやロースクールなど大学院を出ていなければプロフェッショナルなキャリアは獲得できないという、有名大学さえ出ていればよいどこかの国の単なる「学歴社会」よりはるかに厳しいものです。

おまけに現在の大学の学費はハーバードやコロンビアなどの一流大学では年4万ドル前後にも達しているようです。寮費や生活費を含めると年6万ドルほどになりましょう。しかも学生の多くはその費用の大部分を親掛かりではなく奨学金や貯金など自分で工面する。そこまでお金を払うのですから真剣にならざるを得ません。日米の大学生の質の差はそんな経済環境の差でもあります。

「入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われる米国の大学システムはこうして確立されています。まあ、入るのだって有名大学では「簡単」というほど簡単ではありませんが。

今回のウェブサイト・カンニングに、日本の情報番組のコメンテーターたちは異口同音に「まじめに勉強してきた者がバカを見るようなことがあってはいけない」と怒ってみせています。一見正論ですが、このコメント、私にはなんだか違うような気がします。

どの時代にもカンニングはあり、今回はたまたまネットを利用した新種のものだから驚かれたり騒がれているだけです。言うべきは逆に「そんなカンニングによって、まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」と教えてやることではないのか?

ズルして大学に入った者はズルして大学を出てズルして社会で生きて行くでしょう。そんな人生は得でもなんでもありません。そんなものに比べて「まじめな者がバカを見た」と怒ってはいけない。それは逆に「カンニングして大学に入った者が得をした」と言うことと同じことだからです。「どんなことをしても大学に入った者が勝ち」という宣言。批判しているはずのコメントが、じつはカンニングを許す論理に手を貸してしまっている。「だからカンニングをしてでも大学に入るべし」という倒錯に通底しているのです。

大学に入ることは人生の手段の1つであって目的ではありません。一連のコメンテーターたちのコメントは、人生の目的を入試合格という手段に卑小化することに貢献するだけなのです。日本の大学入試の負荷ストレスが歪んでいるのは、そうした論理破綻を見逃している社会の浅薄さにもあるのでしょう。そういえば、相談サイトに投稿された問題の解答として「ベストアンサー」と示された英訳例の、何じゃこれ?具合を指摘できたコメンテーターもいなかったなあ。あれは「まじめに勉強してきたものがバカを見る」ような恐れのあるものですらなかった。むしろバカを見たのはそれを丸写しにしたかもしれないカンニング者だったでしょう。ね、「まじめに勉強している者がバカを見るようなことは絶対にない」のですよ。