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東京にて③

「今後、原発行政は世界中で後退するでしょう」と前回書きましたが、日本国内ではなんだかそんな見方を打ち消す論調が総動員されています。テレビでは大方の学者や評論家がいまも「原発なしでは日本の電力は立ち行かない」という大前提に立って発言しています。本当にそうなのかという疑いすら差し挟む暇もなく、まるで御用学者しか存在しなくなったかのよう。先週の朝まで生テレビを見ていても、こんなに原発推進派が多いとは知りませんでした。

これはいったいどういうことなのでしょう。「反原発」を声高に叫んだ昔と違って、原子力発電率は日本ではすでに3割に達しています。でも原発施設の耐用年数は40年が限度なので、今後徐々に「脱原発」への道をたどって自然エネルギー利用の発電へと移行していくことに無理はないはずです。なのに例の「計画停電」までもが「原発がないせいで不便なのだ」というレトリックに使われそうな雰囲気。

そうして東電の福島第一原発はいま、とうとうプルトニウムの漏出にまで至りました。欧米の報道は津波被害直後からすぐにその危険性に触れて自国民の退避を促しましたが、対して日本では政府・保安院や東電が当初から「安全だ」「切迫していない」という発表で来たはずが、いつのまにか「福島第一原発事故、スリーマイル超えレベル6相当に」なっていました。それでもまだ「ただちに健康に影響するものではない」って、本当ですか?

ある重篤な原発事故が起きて、しかも周辺住民を安全に一度に避難させる術を持たない場合を想像してみてください。その場合、事故と住民の健康被害はすでにリスクとして存在しています。つまりもう起きたことです。これはしょうがない。しかしその2つの既成の危険に加えてもう1つ、その事実を伝えることでパニックになって不測の事態が起きるという危険が考えられるとき、その3つ目の余計な危険は避けたいというのが為政者にとっての危機管理の1つのあり方ではあります。

だから事実はゆっくりと伝える。パニックが起きないように徐々に慣らしながら知らせる。そうして住民を秩序正しく避難させる。

これは結末を除いて、例の茹でガエルの寓話そっくりです。原発20〜30km圏の屋内退避要請がいま自主避難勧告に移行しそうなこともこれに当てはまる。たとえそれが「被曝の危険性などが変動したのではなく、物資不足による生活困難を理由としたもの」だとしても、です。

ここまで取り返しのつかない事故を起こしながら原発にしがみつく理由は、日本がすでに原発にとてつもない投資をしてきて、世界に対して「安全な原発を売る」巨大ビジネスさえもが存在しているからです。この既存の発電産業の構造を転換することは、そこで生きている人たちには論外のことなのです。それこそいま止めたら投資している分が「取り返しがつかない」。

かつて日本は太陽光発電でも京セラやシャープが世界のトップクラスの企業でした。しかし国家として原発ビジネスにシフトした結果、風力や波力を含めグリーンなエネルギー開発は欧州に大きく遅れを取ってしまいました。なぜあのときにグリーンな自然エネルギーに投資しなかったのか?

なせなら原発のほうがより巨大なカネが動く産業だったからです。巨大なカネがかかっても発電効率が高いから十分に元が取れるビジネスだったからです。それが「コストが安い」という宣伝文句を生んだ、当時のつたない太陽光発電や風力発電などとは比べ物にならないほどに大きなビジネスだったからです。

そうしていつのまにか日本は、原発以外の可能性を自ら封じ込めてきていたのですね。

震災報道には連日、数多くの日本人の善意が取り上げられています。私たちはそんな善意の美談を、これからの日本再生の希望の拠り所にしています。

しかしそんな善意というもの一般への幅広い妄信と安心とが、一方で私たち日本人の感性を誤らせているのかもしれません。まるで、気づかないように徐々に温度を上げてくれていることすらもが、「彼ら」の善意だと信じているかのようです。茹でガエルはついには、秩序正しく避難を指示されるのではなく、死んでしまうのに。

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