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新年に考えること

子供のころはおとなになったらわかると言われつづけてきましたが、おとなになってわかったことは、おとなになってもいろんな答えがわかるわけではないということでした。にもかかわらず、疑問の数は以前より確実に多くなっているような気さえします。

昨年末からずっと考えているのは民主主義のことです。アラブの春も、99%の占拠運動のアメリカの秋も、根は民主主義に関わることです。でもそこに1つ大きな誤解があります。それは、民主主義になれば自分の思っていることがきっと実現するという誤解です。

民主主義は、何かを実現するにはおそらく最も非効率的な制度だと思います。なぜなら、民主主義とは、何かをやるためではなく、何かをやらせないための制度だからです。

それは「牽制」の政体です。「抑制」の政体と言ってもいい。様々な歴史がある個人や集団の暴走で傷ついてきました。そのうちに傷つけられてきた「みんな」こそが歴史の主役なのだという考え方が広がってきました。そこでそのみんなで、付託した「権力」の独善や独断や独裁や独走を許さない仕組みを作っていった。それが民主制度でした。

ところが民主制度になると、何かを実行するにもいちいち特定の集団の利益や不利益に結びつかないかとかみんな(=議会)で検証しなくてはなりません。ものすごく面倒くさいし時間もかってまどろっこしいことこの上ない。
 
「アラブの春」で指導者を放逐した「みんな」は、これから民主的な政体ができると期待しているのでしょうが、心配はなにせそういうシチ面倒くさい仕組みですから、直ちに現れない変化に業を煮やしてまたぞろ過激な原理主義思想が台頭してくることです。

アラブに限ったことではありません。イギリスやイタリアでの若者たちの暴動も、ウォール街占拠運動も、世界はいま、急激に変質する経済や社会の動きに対応し切れていないこの民主制度の回りくどさに、辟易し始めているのではないか?

冒頭に、疑問は多くなる一方なのに答えはわからないままだと書きました。世の中は情報や物流や金融が世界規模でつながることでとても複雑になってきています。ギリシャの債務が日本のどこか片田舎の農家の借金に関係してくる。いままで「風が吹けば桶屋が儲かる」噺を笑い話にしていましたが、いまやそれは冗談ではなくなっているのです。なのにその論理の飛躍をより緻密な論理で埋めつつ理解する能力を、人間はいまだ持ち得ていない。これからだって持てる理由もありません。それは私たちの処理能力を越えているようにさえ思えます。

そんなときに「風」と「桶屋」との間を快刀乱麻で切り捨てる人物が魅力的に見えてきます。先の大阪市長選挙での橋下徹市長の誕生は、きっとそうした「みんな」のもどかしさを背景にしています。暴れん坊将軍や水戸黄門といっしょです。しち面倒くさい手間を省いて1時間で悪者を退治してくれるのです。そして「みんな」は、世直しなんぞにあまり努力する必要もなく楽に暮らせるわけです。

めでたしめでたし? いえ、この話はところがここでは終わりません。なぜなら、フセインもカダフィもムバラクもサーレハもみな当初は暴れん坊将軍や黄門様と同じくみんなの英雄として登場してきたからです。しかし権力は堕落する。絶対的な権力は絶対的に堕落します。独占的な権力は独占的に堕落し、阿呆な権力は阿呆なくらいに堕落する。そうして「切り捨てられる」余計として、また「みんな」が虐げられるのです。

民主主義の中から登場したものたちが、その民主主義を切り捨てるような手法でしか政治を断行できないと判断するようになる。それは自己否定であり自己矛盾です。これは民主主義の、いったいどういう皮肉でしょうか? その答えを、私はずっと考えています。

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Comments

友人の紹介で辿り着きました。すてきな記事をありがとうございます。「民主主義とは、何かをやるためではなく、何かをやらせないための制度」というところに大きく頷きました。

個人的な興味から、Occupy Movementを追っていますが、この運動がレーガン以降急速に発展したと言われるアメリカのデモクラシーならぬコーポラトクラシーの台頭に歯止めをかけ、徐々にですが大統領選のポリティカルディスコースにまでも影響を及ぼし始めているのを興味深く見守っています。大統領選が行われる今年、まだ幼いこのデモクラシーがどのような成長を遂げるのか、少し期待してみようと思っています。

同時に、日本がとても心配でもあります。日本は文化的な理由なのか、こういったデモ運動が肌に合わないような気がします。フランスでは政府が民衆を恐れる程デモが盛んだと聞いたことがありますが、国民がそのように強烈な政治チェックを行わない日本では、民主主義は成り立つのか、あるいは新たな独裁政権の誕生を阻めるのかとさえ心配になります。

このように考えていると、政治体制を選び、それに頼ることの限界を感じます。北丸さんがおっしゃるように、民主主義の確立がゴールなのではないのでしょう。それを始まり、そして単なる社会の枠組みと考え、その中身を埋める人間の教育に全力を尽くさなくてはいけないのだと改めて感じます。新たな気付きのきっかけを下さったこと、感謝しております。

大裕

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