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October 29, 2013

軍人の思考

驚いたのは安倍首相が27日、自衛隊の観閲式で「防衛力はその存在だけで抑止力になる、という従来の発想は完全に捨て去ってもらわないといけない」と演説したことです。武力は行使しなければ意味がないとは、日本が依存する「核抑止力」をも否定することになる論理だと、気づいているのかいないのか。この人どうも首尾一貫しないでブレーンの入れ知恵をその場その場で適当に口にしているだけの印象が拭えません。入れ知恵を自分の論理として理解する力、一体化して構築する力がないのか、ただ「勇ましさ」だけをキーワードにしてかっこいいフレーズを飛び石渡りしているような気がするのです。

そして国家安全保障会議とか特定秘密保護法案です。安倍さんは戦後日本が築き上げてきた「平和主義」ドクトリンを根底から変えたいんですね。で、こちらのキーワードは「勇ましさ」をもうちょっと外向きに言い換えた「積極的平和主義」。同じ「平和」が入っているとはいえその中身は正反対です。

今回スルスルと閣議決定にまで至った日本の秘密保護法案は、なにせ事前のパブリックコメント募集で反対が8割もあったのにそれはまったく無視されました。町村信孝元外相が「組織的にコメントする人々がいたと推測できる」と一蹴したように初めから成立ありき。いったい何のためのパブコメ募集だったのか。もしこれが賛成8割だったならそれも組織票だと言ったのかしら?

この法案はそもそも湾岸戦争以降共同軍事行動に前のめりになった自民党政府に対し、提供する軍事機密が日本から漏れては困るという米国側の危惧から始まりました。それが2000年のアーミテージ・リポートで具体的に字になって日本にも「アメリカ並みの秘密保護法制が必要」とされ、翌01年の9.11後に制定された愛国者法の対テロ戦争の熱狂下で日本への圧力もぐっと高まった。そして第一次安倍政権下の07年に「日米軍事情報包括保護協定」が締結されたのです。

本来ならこれで事足りるはずでした。ところが安倍政権はもっけの幸いとばかりにこれを秘密保護法案に拡大し、持論の改憲、集団的自衛権、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱見直し等々とパッケージして、彼の言う「積極的平和主義」を構想したのです。

国家にはもちろん運営上の機密情報が存在します。それを守るための法律もまた必要です。日本にはすでに公務員法や自衛隊法でそれが守られています。しかし今回の秘密保護法案は罰則をさらに強め、取材のジャーナリストたちも処罰対象にするものです。

秘密保護法案にはそれに拮抗する情報公開法や、内部告発者をきちんと保護する法律並びにそれを保障する社会文化が同時に必要とされます。ところが日本にはそれがない。日本にはジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンも出てきそうにないのです。そして秘密の正当性を検証する機会がないまま、政府の指定する秘密だけが増殖するのです。

ではその秘密とは何なのか? 1つのウソをつきとおすために別のウソをつかねばならなくなるように、1つの秘密を隠すためにその周辺情報までも秘密にしなくてはならなくなります。ウソがウソを呼ぶように、秘密が秘密を呼ぶのです。そして何が秘密なのか、誰も定義できなくなってしまう。それが検証されることのない「秘密」の正体です。

その好例が国家安全保障局(NSA)によるメルケル独首相ら35カ国首脳への盗聴です。この盗聴が始まったのは2002年。やはり2001年の9.11後の狂乱下ですね。テロ情報収集のためには手段を選ばない。そのためにはヨーロッパ経由の情報も必要、ドイツのNATO情報も必要、つぎにドイツの首相になりそうなメルケルさんの情報も必要、といくらでも拡大して行ったことは想像に難くありません。諜報活動は歯止めがない場合はかならず自己増殖するのです。

この場合、盗聴内容はもちろん機密情報でしょう。さらにその具体的方法として「盗聴」という違法行為をやっていたこと自体も機密情報になります。つまり、政府の違法行為までが機密情報に指定されるわけです。そして秘密保護法ができれば、政府の違法行為を告発することさえもが違法となってしまう。政府の違法行為は、では誰がどのように正すことができるのか?

問題はそこにあります。

平時のときの有事対策とは、平時であるが故に冷静かつ論理的に考えられるすべての回路を駆使しなくてはなりません。政治家は秘密を保護するだけではなく、情報を精査して評価する方法や情報公開法も作っておかねばならない。なのにいまのこの平時に、まるで有事の際に有事の対策を立てるかのような有事ヒステリアで思考回路が一本化してしまっている。それは政治家の思考ではありません。軍人の思考なのです。

October 18, 2013

敗者は誰か?

連邦政府の閉鎖と債務不履行危機はけっきょく16日のギリギリのところで一時的ながらも決着を見ました。いったいあの騒ぎは何だったのでしょう?──オバマ大統領は法案署名後の深夜の演説で「ここに勝者はいない」と言いましたが、敗者はいました。誰か? それは国際的な信用を失ったアメリカそのものです。政府閉鎖期間中の経済損失は230億ドルとも言われています。

いや、国際的な顰蹙を買うもととなったのは何一つ言い分も通せずに妥協するしかなかった共和党だから、共和党こそが敗者ではないか、と言う人もいます。

暫定予算を人質に取っての彼らの要求はとにもかくにも医療保険制度改革(オバマケア)の廃止でした。手を替え品を替えしてやってきたオバマケア阻止行動の、これは43回目の試みでした。もちろん今回で43回目の失敗です。

オバマは折れる素振りさえまったく見せませんでした。完全無視をしたのです。そりゃそうでしょう、ここで妥協してオバマケア開始延期でもしたなら、その延期期限のときには次は「廃止だ」と要求がエスカレートするに決まっているからです。日本では元NHKの日高義樹や産経の古森のオジチャマやらが「オバマは指導力を失った」と我田引水、牽強付会の売文で露出していますが、いったい何をどう見ればそういう解釈が出来るのか私にはまったくわかりません。

だって、ぜんぜん折れないオバマを前に、じゃあせめて避妊医療の保険適用は外せないか? と言ってきたのは共和党です。もちろんノー。じゃ医療機器への課税廃止は? そんなのもダメ。ドサクサに紛れて石油掘削事業の再開や環境保護法の規制緩和やキーストーン石油パイプラインの建設再開の承認まで要求してきましたが、そんなのももちろん全部突っぱねられました。いやはや完敗です。

じつは共和党はベイナーが下院議長になってから1度も自分たちの重要法案を成立させたためしがありません。ティーパーティーの新人議員たちの威勢の良さに引きずられるだけで何一つまとめられないのです。「指導力を失った」という言葉はこのベイナーのためにある。普通の頭ならばそういう読解をします。共和党の完敗はベイナーの完敗なのです。

ではそのおおもとの敗因である茶会の一派はどうかというと、この人たち、自分たちが負けたとは思っていないのです。なぜか? なぜなら彼らはこの「大騒ぎ」の「オバマいじめ」で来年の選挙もまた勝てると確信したからです。政治家は選挙に勝てればいいのですから。

茶会の関係者たちは「オバマ憎し」「オバマケアこそが大問題」なのであって、アメリカの連邦制度がどうなろうが、デフォルトで世界経済がどうなろうが関係ないのです。そもそも連邦政府なんて必要ない、世界のことはどうでもいい「小さな政府」論者たち、あるいは「大きなこと」が考えられない人たちです。「茶会の女王」ミッシェル・バックマン(下院議員)なんか政府閉鎖でも「これこそが私たちの見たかったこと。こんな幸せなことはない」と言い放ったほどです。

この人たちの選挙区はレッドステート(共和党が優勢の州)の中でもさらに真っ赤な選挙区。そこの有権者たちはすっかり茶会の主張である「オバマケアは悪魔の政策でアメリカの自助の精神を破壊し、個人の健康のことにまで口出ししてくる社会主義の悪法だ」を信じているわけです。

ところで彼らに現在の医療格差をどうこうする解決策はありません。茶会は基本的に「アンチ」の党派で、アンチ以外の建設的な対案があるわけじゃないからです。ある意味、対案がないから熱狂できる。なぜなら、対案があったらそこでまたいろいろ考えなくちゃならなくなる。そうすると単純に熱狂しているだけでは済まなくなるからです。そういう面倒なものはない方が熱くなりやすい。そういうもんです。

で、茶会政治家にとっては11月の中間選挙本番より、じつは来年早々本格化する共和党予備選挙が重要です。そこで党候補になれればさっきも書いたようにその真っ赤な選挙区では民主党候補には楽勝できるのですから。しかも茶会スポンサーには全米4位の金持ちのコッチ兄弟や同7位のラスベガス賭博王エイデルソンが控えているのを忘れてはいけません。

この3氏、彼らだけで私財は計9兆円といわれています。日本の一般会計予算の10%に相当する大金です。こうしたことを背景に、去年の予備選では茶会の全面支援を受けた新人が穏健派の現職上院議員を蹴落として共和党候補になるという現象が起きました。これは衝撃でした。

私はこの選挙の傾向はジョージ・W・ブッシュの時の選挙に遡ると思っています。2000年のブッシュ対ゴアのときです。あのときに、副大統領のゴアを大統領にさせないために、ブッシュは、というよりブッシュ陣営の選挙参謀カール・ローブは「ゴアは同性婚や中絶にも理解を示す社会主義者だ」「このままではアメリカが壊されてしまう」と大々的に宣伝し、これまで選挙になんか行かなかった宗教的にとても敬虔な、キリスト教保守派の人々を投票に行くよう焚き付けたのです。そうやって400万人の新たな保守投票者を獲得した。これはブッシュに投票する人が1割増えたという計算です。

その宗教的な保守派の人々が一旦そうやって政治的な力に味をしめると、そこから茶会の波が起きるわけです。田舎の人たち、教会しか娯楽がないような人たち、自分の土地のことが人生の最重要な課題である人たち。それはどの国にもいる生活者です。ただそれが宗教と、それもものすごく狂信的な巨大チャーチと結びつき、そこにアメリカ的な、発言するのが美徳という精神文化が加わると、これほどに大きな政治勢力になる。茶会とはそうやって生まれてきたのだと私は総括しています。

それから13年、かくして共和党の(というか反オバマの、反民主の)候補者たちはそんな茶会とその大富豪スポンサーの歓心を買うためにどんどん右傾し、共和党は股裂き状態になっています。そしてそんな共和党に付き合いきれない民主党がいます。

アメリカの二極化は政治の機能不全につながっています。それはさらなる国際的信用失墜の敗者への道なのですが、もちろん茶会にはそれがひいてはどう自分たち自身の首を絞めることになるのか、理解する想像力も洞察力もありません。

October 03, 2013

靖国とアーリントンと千鳥ヶ淵と

しかし安倍政権もよほどオバマ政権に嫌われたものです。この前のエントリーでも安倍さんのハドソン研究所講演などにおける米民主党との疎遠ぶりに触れましたが、今度は日米外務・防衛担当閣僚会議に訪日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、10月3日のその会議の朝に、わざわざ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れ、献花・黙祷したのです。

米国の大臣が2人そろって日本人戦没者を追悼する──この異例の弔意表敬は何を意味しているのでしょう?

これには伏線がありました。安倍が今年5月の訪米に際して外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」のインタビューでバージニア州にあるアーリントン国立墓地を引き合いに出し「靖国はアーリントンだ」という論理を開陳したのです。

「靖国神社についてはどうぞ、アメリカのアーリントン国立墓地での戦没者への追悼を考えてみてください。アメリカの歴代大統領はみなこの墓地にお参りをします。日本の首相として私も(そこを)訪れ、弔意を表しました。しかしジョージタウン大学のケビン・ドーク教授によれば、アーリントン国立墓地には南北戦争で戦死した南軍将兵の霊も納められているそうです。その墓地にお参りをすることは、それら南軍将兵の霊に弔意を表し、(彼らが守ろうとして戦った)奴隷制を認めることを意味はしないでしょう。私は靖国についても同じことが言えると思います。靖国には自国に奉仕して、命を失った人たちの霊が祀られているのです」

このケビン・ドーク教授のくだりは産經新聞への寄稿からの引用で、産経の古森のオジチャマも「靖国参拝問題で本紙に寄稿したジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が『アーリントン墓地には奴隷制を守るために戦った南軍将兵の遺体も埋葬されているが、そこに弔意を表しても奴隷制の礼賛にはならない』と比喩的に指摘したことに触発され、初めて南軍将兵の墓を訪れてみたのだった」とコラム(2006年05月31日 産経新聞 東京朝刊 国際面)で触れているから、おそらくそれを読んでの引き合いだったのでしょう。

例によって古森のオジチャマはフォーリン・アフェアーズ記者への安倍の回答を、自分のコラムを読んでくれていたせいか「なかなか鋭い答えだと思います」と賞賛しています。

ですが今回、日本の首相たちのアーリントン墓地表敬訪問の返礼として、オバマ政権が選んだ場所はその「靖国」ではありませんでした。千鳥ヶ淵だったのです。これはつまり日本で「アーリントン」に相当するのは「靖国ではない」ということを暗に、かつ具体的に示したのです。かなりきつい当てつけです。普通の読解力があれば、これは相当に苦々しいしっぺ返しです。

アメリカとしては、東アジアでキナ臭いことが起きたら大変なのです。にもかかわらず相も変わらず中韓を刺激するようなことばかりする安倍内閣というのは何なのかと呆れている。安倍さんは民主党政権でぐちゃぐちゃになったアメリカとの関係を「取り戻す」と、これも自らの宣伝コピーとともに宣言してきましたが、「取り戻せた」と自賛するほどにはまったく至っていないのは自分でも知っているはず。

同時に千鳥ヶ淵献花はかつての敵国である米国による日本との完全な和解の象徴でもあります。いま敵対している中国や韓国との関係をも、このように敬意を示して和解に持っていけよ、というオバマ政権からのメッセージだと読めなくもありません。

「完全な和解の象徴」と書きましたが、じつはその「完全」にはきっと次があります。それは核廃絶を謳ってノーベル平和賞を受賞したオバマさんが広島に行くことです。

米国はイランや北朝鮮の核開発を認めるわけにはいきません。テロリストに核爆弾が渡るのも流血を厭わず阻止し続ける。その強硬一本の姿勢とともに、彼はヒロシマ献花という平和の象徴的なメッセージを世界に振りまく戦略を考えているのではないか。

折りも折り、日本の大使には「叔父(エドワード・ケネディ)とともに1978年に広島に訪れて深く影響を受けた」と承認のための上院公聴会でわざわざ話したキャロライン・ケネディがまもなく赴任します。大統領の広島記念式典への出席には米国内でいろいろと異論も多いのですが、天下の「ケネディ」とともに出席すればその批判も出にくくなるでしょう。

来年の8月、あるいは選挙もない任期最後の2015年8月に、私は今回のケリーとヘーゲルのように2人並んで広島で献花するオバマとケネディの姿が目に見えるような気がするのですが、ま、そんな先のこと、今から確定するはずもありませんけどね。