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太鼓持ちの善意

久しぶりの日本で、なんとなく確実に空気が変わってきていることを感じています。電車内の週刊誌の吊り広告では「嫌韓嫌中」見出しが踊り、まさに1月のこのブログ「爬虫類の脳」で指摘した「反知性主義」が大手を振っています。昨年7月末の麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言は、その後の日本版国家安全保障会議の設置や特定秘密保護法の強行可決、さらには首相の靖国参拝やその周辺の歴史修正発言などで着実に実行に移されています。あのときはまさか本気ではなく失言の類いだろう程度に思っていたのですが。

この種の時代の動きをどう捉えればよいのでしょうか? かつてハンナ・アーレントは、ナチスドイツで数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に送ったアドルフ・アイヒマンを、怪物ではなく、職務を淡々とこなすだけの小役人的な思考停止の人物であったと結論し、それを「悪の凡庸さ」と呼びました。

私がこのところ気になっているのは、しかしその次の段階のことです。普通の人が、おそらくは“善意”で上層部の意向を汲み、決定や通達やそのときの政治的な空気を過度に忖度してそれ以上のことをやってしまう。そういう心づくしの先回り行為は、この「悪の凡庸さ」を超えて、社会学的にはどう考えられているのだろうか、ということです。

先日、東京都美術館が「憲法9条を守り、靖国参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた造形作品を「政治的」として撤去・手直しを求めていたことがわかりました。今週には護憲の立場を明確にしている哲学者の内田樹さんを招いた憲法集会を神戸市がやはり「政治的中立性を損なう」として後援拒否をしていたことが明らかになりました。これまではずっと後援してきたのに突然の断り。同じような集会は長野県千曲市でも後援が断わられたとか。東京新聞によると、千曲市の担当者は解釈改憲による集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相への配慮をほのめかしています。

私はこのメカニズムがとても恐ろしい。話は大きくなりますが、南京大虐殺も従軍慰安婦も実は同じようなことだったのではないかと思っています。真正の命令や強制の証拠がないということを根拠にこれらを否定する人たちがいますが、命令や強制などなくても人間は自ら進んで権力の“意向”を代行するのです。

この、言わば「太鼓持ちの善意」のようなものが、今の日本であちこち無批判に湧いてきているような気がします。いや、彼らは自分が太鼓持ちをしているなどとは思っていないのです。そこがさらに怖い。そして同時多発的なこの太鼓持ち的な動きの1つ1つが、その時の権力の意向をなんとなく社会に満たす役目を果たしている。かくしてそれが結果的にたとえ由々しき事態を招くことになっても、もちろん「上」は「そんな命令は出していない」「そこまで言っていない」とシレッとしていられる。

韓国人街で有名な新宿・大久保の街にいま「朝鮮人は帰れ」とかナチスの鉤十字のマークなどの落書きが溢れています。今月2日、ツイッターやフェイスブックなどの呼びかけで集まった人たち50人以上が「差別らくがき消し隊」を結成してその落書きを3時間にわたって消して回りました。中には岐阜や愛知からはるばるこのためにやってきた人もいました。

太鼓持ちではない「善意」も日本にはまだまだ溢れています。もっともその善意の彼らは、ネトウヨと呼ばれる人たちに氏名がわかると、職場や自宅に嫌がらせの電話がかかり、顔写真や素性をネット上で「指名手配リスト」として公開されているのだそうです。

いったい日本はどうなっているのでしょう?

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