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勘三郎の感涙

勘三郎が亡くなったこともあって7年の間が空きました。平成中村座の3度目となるニューヨーク公演は、その勘三郎が平成に復活させ、亡くなる1年前に勘九郎(当時・勘太郎)に継がせた『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』でした。

初日を見てきました。自分の死を知っていたとは思いません。けれど04年の『夏祭浪花鑑』と07年の『法界坊』と、そして三遊亭円朝の怪談噺が原作の今回の演し物と、この手を替え品を替えの構成はまさに勘三郎の仕掛けた歌舞伎披露の壮大な計画だったように思えてなりませんでした。

最初の『夏祭浪花鑑』で、勘三郎(当時・勘九郎)は歌舞伎狂言の濃厚なダイナミズムを大捕り物に託して娯楽芸術の極みを提示してくれました。NYタイムズは「ハリウッド映画より刺激的で面白い」と絶賛しました。しかし次の『法界坊』で勘三郎はそんな芸術性への期待を見事に裏切ります。

このときのNYタイムズの事前記事で彼はこう説明しています。「能は時の権力者によってつねに保護されてきた。しかし歌舞伎は一般大衆が支えてきたものだ」。「ハイ・アート」を期待してきたニューヨーカーに彼は、歌舞伎はそんな気取ったもんじゃねえ、とばかりに猥雑な喜劇を見せつけたのです。

あのとき私の席の近くには10歳くらいの息子にタイとブレザーを着せた父親が座っていました。きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出してきたんでしょう。

でも幕が開いてやがて登場した笹野高史の「山崎屋勘十郎」、なんと美女「お組」を目にしてすぐにおニンニンをぴょこぴょことおっ勃てたわけです。袴がそれでぴょんぴょんはねる。禅と茶道と礼儀作法の国から「まさかこんな……」。あのお父さんも固まってしまっていました。

ただ、「猥雑」と言いましたがそれを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極みでした。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリン。いやチャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのか。

勘三郎は庶民のそんな野卑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎に注入したかったのでしょう。いつのまにか「優等生」扱いの歌舞伎に、原初的な破天荒さを取り戻す。その目論見は見事に勘三郎でした。

そして今回、私たちは勘三郎の“仕組んだ”歌舞伎そのものの力を目にすることになりました。勘九郎と獅童の若い2人の演技に勘三郎と橋之助の熟れと遊びを見ることはできません。けれど生真面目でまっすぐな勘九郎と獅童を、この芝居は「歌舞伎」という技術がしっかりと支える作りになっていたのです。それは前2回の作品とは異なる歌舞伎の形でした。

隣のアメリカ人カップルは勘九郎の早替わりのたびに、いやそれがどんどん増すごとに「おお」という感嘆の声を大きくしていきました。本来は数時間かかるこの大作を2時間半に刈り込んだ演出も切れの良い枠組みとして演技を支えました。それはまるで、勘三郎自体がこの舞台世界となって、その中で息子たちを動かしているような気がしたのです。いつしか私も身を乗り出して「おお」「おお」と声を出していました。

じつは私は勘三郎さんとは誕生日も9日違うだけの同い年でした。あのいたずら好きな、しかも計算しつくしたかのようなトリックスターだった勘三郎さんが、今日の息子さんたちを見て感涙にむせぶ姿を私はいま容易に想像できます。楽しかった。勘九郎さん、次回4回目のNY公演をまた楽しみにしていますよ。

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