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運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

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