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「内心の自由」

コミーFBI長官を辞めさせたことで却ってロシア疑惑が深まり窮地に陥っているトランプ大統領。前川文科省事務次官の引責辞任から全く別筋と思われた加計学園の「総理のご意向」問題が火を噴いている安倍首相。

日本ではトランプ政権の破茶滅茶を笑う人が多いのですが、なんのなんの、この2人は"covfefe”や"unpresident"といった英語のミスと「云々(でんでん?)」といった漢字の誤読まで含めて実はとてもよく似ています。だって、身内びいき、マスメディア攻撃、御用メディアの多用、大統領令と閣議決定の多発、「フェイクニュース!」や「印象操作!」といった金太郎アメ反論、歴史の捏造と歴史の修正、「文書は確認できない」といったオルタナファクトに基づいた政権運営──ほら、ほとんど相似形でしょ? しかも磐石な支持層はオルトライト・白人至上主義団体とネトウヨ・日本会議というところまで合致している。

似ていないのは、トランプ政権の方は司法長官の辞任話やコミー証言なども出てきて今やもうメタメタなのに対し、安倍首相の方は今も国会無視の強気の政権運営を続けられていることです。その差異はおそらく政権の長に対する日米の議会と司法の独立性、そしてジャーナリズムの力の違いを背景にしているのでしょう。

なんとも情けない話ですが、さっきCNNで中継されていた上院情報委員会公聴会での委員(上院議員)たちと証人(アンドリュー・マッケイブFBI長官代理、ロッド・ローゼンスティン司法副長官、ダン・コーツ国家情報局長、マイケル・ロジャーズ国家安全保障局長)たちとの丁々発止のやり取りを見ていると、そもそも議論とか質疑応答というものに対する熱量というか、対応の真剣さがまるで違うんですね。ああ言えばこう言うの応酬で、この公聴会ではトランプと彼らの間で交わされた/交わされなかった会話の内容はほとんど明らかにされなかったですが、その「明らかにされなかった」具合の攻防が、ディベイトとはかくあるものかというほどに青白く燃え盛っていました。

一方、そんなアメリカを尻目に安倍政権はいま着々と「共謀罪」の強行採決に向けて進んでいます。共謀罪は過去3回も廃案になった無理筋の法案です。なのに今回は「五輪を前にしたテロ対策だ」という名目で再提出されました。テロ対策なら必要じゃないか、という世論が圧倒的ですが、「テロ等準備罪」という看板を掲げたものの当初は法案内に「テロ」という文言さえ存在しなかった代物なのです。しかも「この法律がなければ国連組織犯罪防止条約(TOC条約)を批准できず国際的批判を受け、オリンピックも開けない」という政権側の説明は「虚偽」。さらにこの条約は金銭目的の組織犯罪に対するもので、「テロ」とは無関係ということもわかってしまいました。


テロと関係ないなら現行法で既に対応できています。おまけに「花見客が双眼鏡を持っていたらテロの下見かもしれない」といったアホみたいな答弁を繰り返す法務大臣が管轄する案件とあって、国会審議は全く噛み合っていないどころか、そもそもまともな説明も回答も皆無なのです。

嘘や説明回避を繰り返しながらのこの前のめりは、いったい何が目的なのでしょう?

ロシアに亡命中のあのエドワード・スノーデンが日本向けに「これは政府の大衆監視をさらに容易にするための法律だ」と説明しています。なぜ監視しなければならないのか? その方が政権運営が簡単だからです。特に警察の活動が容易になります。そしてこれで公安警察の予算がまた増える。1980年以降、どんどん減っている公安警察の活動の場が、これでまた増えることになります。

社会正義と秩序のためにも警察には大いに活躍してもらいたい。それは当然でしょう。しかしその一方で公安警察が、社会正義と秩序を旗印にとんでもない国民弾圧をしてきた歴史も厳然と存在しています。共謀罪と同じような治安維持法で、拷問や冤罪や政治の政権に都合の悪い「一般人」たちへの「予防的な排除」がなされてきました。

警察組織の性格というのは、じつは世界中で今も同じです。だって「今月はスピード違反検挙率が悪いから、ちょっとネズミ捕りやって増やそうか」という「警察の性格」は私たちの誰もが経験的に知っているはずじゃないですか。それが交通警察なら罰金や免停で済みます(それだって酷い話ですが)、それが刑事警察や公安警察の場合だったら、話は取り返しもつかず人生に関わってきます。交通警察と刑事・公安警察の差は、その警察活動が目に見えてわかるかどうか、の違いだけです。どちらにしても警察組織の胸三寸で容赦なく検挙できます。

共謀罪では「内心の自由」が侵される、と心配されています。実際の「内心」など誰にもわかるはずないから、それが直接的に侵されるはずもない、杞憂だよ、と言う人もいるでしょう。けれど問題は、その知られるはずもない「内心」の中身を、自分が決めるのではなく他人が勝手に判断するという点なのです。

「内心」を他人に勝手に決め付けられない権利を「内心の自由」と言います。だから「自分は(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことは考えないから大丈夫」という問題ではありません。共謀罪の恐ろしさは「あなたは(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことを考えた」と他人から決め付けられることなのです。

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