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September 19, 2018

「幇間稽古」

『鬼平』と並ぶ池波正太郎の代表作に『剣客商売』があります。その中の「井関道場・四天王」という一編は、四天王とされる4人の高弟から井関道場の後継者を選ぶという話題から始まります。相談を受けた主人公の老剣客・小兵衛が、道場を覗き見して4人各々の稽古づけの品定めをします。その中の一人、後藤九兵衛を見たときに、小兵衛は「あ……こいつはだめだ」と直感します。

この後藤九兵衛、どんな指導法かというと「そこ、そこ。もうすこしだ」とか「残念。いま一歩踏み込みを厳しく」とか「それだ。その呼吸だ」とか「一人一人へうまいことをいってやるもの」で、これでは「十の素質がある門人でも三か四のところで行き止まり」になる「幇間稽古」だと小兵衛は断じるのです。門人の心身を鍛えるのではなく、自分の剣法を売って名声と地位を得んとする道場主の典型タイプ、と斬って捨てて容赦ない。

ふうむ、そうか、小兵衛は「褒めて育てる」タイプではダメだと言っているのか──。

ただ、これは作者池波正太郎の普遍的な判断なのか、それとも江戸時代を背景にした小兵衛の思いなのか、その辺はよくわかりません。けれど、私の大好きな「小兵衛」の話です、そう言われれば確かに褒めて甘やかして育てて、そのまま甘ちゃんになる「やればできるんだけどしないだけ、と言って慢心している」タイプが多かったりするなあ、とも思ってしまうのです。あるいは「厳しくすればするほど傑出してくるタイプ」と「褒められることでぐんと伸びるタイプ」と、その見極めに応じて稽古づけの方法を変えるのが最もよいのかもしれないなあ、とか。

だって、テニスで全米オープン優勝という前代未聞の快挙を果たした大坂なおみには、「幇間稽古」の権化のようなサーシャ・バインというコーチが付いていたんですよ。彼のコーチングは、徹底して「さっきちょっとだけ前向きになるって約束しただろ? 大丈夫。キミならできる。キミならできるよ」とか、「ポジティブになれ。人生はこんなに楽しい。天気もいい。さあ集中しろ」とか、彼女をひたすら励まし褒めることだったのです。彼によって大坂なおみは「三か四」止まりだったかもしれない素質の発露を「十」あるいは十二分に引き上げられたのです。

ここは小兵衛、どう言うか?

さて、ここのところ日本で問題になっているのがスポーツ指導者による、練習の名を借りた異常なパワハラと暴力です。厳しければいいというもんではすでにありません。大相撲では死者まで出ましたし、今年になっても女子レスリングの伊調選手へのいじめや日大アメフト部での反則強要や無理強い、ボクシング連盟での忖度判定やワンマン体制、女子体操、重量挙げ、日体大陸上部駅伝などでの暴力指導と、どこもかしこも立て続けに殴ったり蹴ったりいじめたり排除したり恫喝したりのオンパレード。まるでどこかの専制恐怖政治の国のような在りようです。いったいこれは何なのでしょう?

スポーツ庁の鈴木大地長官はこれらを受けて「スポーツ界の悪い伝統を断ち切る意味でチャンス」と言います。いみじくも彼が公的に認めたように、言われるまでもなく私たちはみな学校の部活動などから経験的に日本のこの「悪い伝統」のことを知っています。だから大坂なおみのあの快挙の後ろに「褒めて育てる」サーシャ・バインのコーチングがあったことを知って、あんなに強権的に怒られたり殴られたりしなくても成功できる道があるじゃないか、と思い始めている。

この「悪い伝統」は軍隊から来ていると言われます。力による徹底支配、絶対の上下関係、自律や思考を許さない命令系統──それは日本の軍隊に限ったことではありません。

そう言われて思い出すのがリチャード・ギアが主演した『愛と青春の旅立ち』(82年)という映画です。リチャード・ギアをはじめとした多く白人の士官候補生を徹底的に、ときには人種的な意趣返しかと思うほど理不尽に絞りあげる教官の黒人軍曹フォーリーは、サディストかと思うほどに容赦ありません。彼は絶対に褒めそやしたりはしない。まさに『剣客商売』の小兵衛の精神です。

そう思ったときに気づきました。ああ、剣客も兵隊も、待っているのは文字通り生死をかけた戦場なのだ。稽古をしなければたちどころに殺されてしまう。鍛錬を通過できないような輩は戦場ですぐに死んでしまう。そればかりか他人をも危険に道連れにすらする。そんなやつらをしごき落としてやることが稽古・訓練の使命なのか、と。ならばそれはむしろ、彼らを死なせないための優しさなのか、と。そのとき、小兵衛とフォーリーは「死」の厳しさの前に同等となる。

第二次大戦の日本軍は兵士たちに「死ぬな」という訓練ではなく、次第に「死んでこい」という狂気を教えるようになりました。しかも戦死者よりも餓死者の方が多いという指揮系統のデタラメぶりを放置しながら。

日本のスポーツ界がいま問題視されているのは、「死ぬ気で戦え」という狂気の精神論と、その精神論に従わぬ選手を「飢えろ」とばかりに排除してザマアミロとばかりに北叟笑む、日本軍ばりの腐った男性性の、いじましくも理不尽な伝統なのです。

剣客や兵士と違って直截的な死が待っているわけではないスポーツ選手に必要なのは、「戦い」という形を取るものが潜在的に持つそんな「死」の厳しさを疑似的な仮説とできる知性と、その「仮説の死」を乗り越えるための科学的な技術論と、そしてその「仮説の死の厳しさ」を克服するための、ときに「幇間」的ですらあってもいい、選手一人一人に寄り添う論理的かつ人間的な「生」の言葉なのでしょう。

そこは小兵衛だってフォーリーだって、ちゃんと頷いてくれるはずだと思いますよ。──ああ、よかった。