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2003/10「お客様」の領域

 前回も触れたが、先月3週間ほど日本に行っていたのはまずは北大医学部のエイズに関するワークショップに招かれて札幌で講演を行ってきたためである。題目は「若者のエイズ予防におけるメディアの役割」。米国の例を挙げてマスメディアがいかにこの問題に取り組んできたかを紹介し、日本のメディアとの差を検証してみた。

 それにしても、エイズに対する、いやエイズに限らずおそらくほとんどの社会事象に対する人びとの向き合い方の、日米間にある種ぬぐい去りがたいこの温度差の正体はいったい何なのだろうかと飛行機の中でもつらつら考えていて、成田空港に降り立ったときに、ああ、これなんだと気づいた。なんと清潔で、かつすみずみまで接客の行き届いた場所なのだろう!

 日本ではしばしばパブリックとプライベートが混同される。公的な話と私的な話とが見境なく混じり合う。「他人」行儀が疎まれ、「身内」になることが他人との関係性の究極の目標とされる。つまり、この世には「身内」と「それ以外の人」しかいないのである。

 身内付き合いが究極の目的なのでセクハラもどきの軽口さえ「身内の証拠だ」と信じている人がいる。政治家の失言も同じくこの種の身内話の延長にある。身内だけのジョークとして言ったのに新聞なんかが書くからああいうことになる、といまでも勘違いして自分は悪くないと思っている日本の政治家はじつはかなり多い。

 他人と個と個として向き合う、真っ当というかそれゆえに頭を使う対等の付き合いは敬遠され、それが高じて身内になり得ない、関係のないやつらは目に見えなくなる。どうでもよくなるのだ。

 こうして電車内で傍若無人に振る舞い、人混みでぶつかっても「失礼」とさえ言わずに立ち去る輩が出てくる。パブリックな場、他人と客観的に向き合う公の場での立ち振る舞いが蔑(ないがし)ろになるのである。「他人」とは「関係ないやつら」に他ならないからである。

 では日本には他人と付き合う場はないのかというと、成田空港に降り立って気づいたのは「お客様の領域」というべきものなのである。これはアメリカにはない。いや、大富豪や貴族階級を相手にする「お得意様の領域」というのは欧米にも存在するのだが、一般を相手にこれほど気配りの行き届いた「場」はまずない。

 空港はきれいだ。デパートの接客は丁寧だ。銀行の窓口もすばらしい笑顔。対して、米国の空港はなんとも殺伐とし、デパートの売り子は怖いほど。銀行もつっけんどんでスーパーなんぞ買った品をショッピングバッグに投げ入れられる始末。日本に帰ってきて「お客様」扱いされると、それだけで「ああ、なんていい国なんだ!」と思ってしまう。

 しかし、なぜまた「エイズ」の話でこんなことを考えたかというと、ところがただし、「お客様の領域」では議論が成り立たないということからである。

 「お客様」とは議論できない。「お客様」にはひたすら謝るのみである。そうしてとにかくお引き取り願って、その後でアッカンベエだ。かつ「身内」でも議論はじつは成り立たない。「まあまあ、おたがい仲間なんだから」ということで対立は(対立ではなく建設的な叩き台ですら)触れる前から回避されてしまうのである。

 そうするとどうなるか。議論とか話し合いとか、そういう「他者」との客観的なつながりを作るための行為がないと「社会」は形成されない。この社会がじつは多くの他人が存在する「公」という部分なのである。日本では「公」と「私」が混同されるというが、じつは混同ではなくて「公」がないのだ(「官」はありつづけているが)。そしてその「公」の部分が「お客様の領域」で置き換わっている。

 「他人」とは「関係ないやつら」と書いたが、「お客様」とはそんな中でゆいいつの「関係ある他人」だ。というか、他人との関係性を「客」か「客でない」かでしか計れない、日本人はそういうところに陥ってしまっているのではないか。

 個と個が対等に付き合える「公」がなければコミュニティーとしての強さは出てくるはずもない。そんな社会は、エイズでもなんでも、さまざまな脅威にとても弱い社会である。「若者のエイズ予防」だなどと言っても、それはゆいいつ心に届く(?)「身内話」にはなりようがないから、端から耳に入ってこない。そんなからくり……。

 アメリカで暮らしていて、時々とても疲れるのはどこでも議論が成立してしまうせいでもある。ある意味それが煩わしさよりも理に適って割り切りやすさにもつながるのだが、ところがスーパーマーケットの店員やタクシーの運転手とも議論しなくてはならないときがあってそんなときはまったく腹立たしい。こっちは客なんだぞと捨て台詞のつもりで言ってみてもそれは議論をなおさらややこしくさせるだけだ。

 対して日本はこの「お客様の領域」へのこだわりを活かして産業も成功した。いかにお客様を喜ばせるかを徹頭徹尾考えて、ウォークマンも生まれたし、レクサスも世界の最高級車に進化した。コンビニ弁当を含めマクドナルドやKFCまで日本のファストフードははるかに美味しいし、デパ地下の商品バラエティーなどアメリカのプロの料理人が見たら卒倒しかねない。

 とても心地よい「身内の領域」と世界的にもユニークなその「お客様の領域」の二つながらをきちっと残しながら、それでいて個と個とが対等に接し合えるもう一つの「公」という場も育てられたら、日本は実にやさしくかつ心強い、世界に誇れる社会になれるのに、というのが、今回のワークショップでの私の講演の結論だった。

 それはおそらく、来月の日本の総選挙での投票でも肝心な点だ。「身内」ではなく、いかに「公」を知っている候補者を選ぶか。議論が成立する場としての、日本の「公」を育てるのにどの候補がよいのか。それを基準に私も海外投票を行いたい。

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