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2003/11「ボギーの時代」

 シュワルツェネッガーの加州知事選圧勝で喉に引っかかった小骨のように気になったのは、もはや「セクハラ」も「ヒトラー礼讃」も大した問題ではないのかなあという思いだった。

 この2点はとても象徴的で、シュワちゃんに否定的な人はまさにそんな2つに象徴される彼の「男オトコした単純さ」が苦手なのだ。逆に言えば彼の圧勝は、巷間いわれるような「政治のアウトサイダーへの期待」とか「変化への期待」とかとは別に、そんな「男オトコした単純さ」が望まれたということでもあるのだろうか。

 「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」とジュリーが歌ったのは25年も前である。思えば阿久悠もすごい歌詞を書いたもんだ。アメリカはそれからいわゆる「PC(政治的正しさ)の時代」を通り抜けた。「聞き分けのない女の頬をひとつふたつ張り倒して」なんて滅相もない。それは歴とした犯罪、不正義になった。

 だが、あるいはだからこそ、「女どもは小賢しいことを言いはじめ、おまけにゲイなんて連中も人権だの性的指向だのとワケのワカランことを言うようになった」みたいな、七面倒くさい理屈から来る鬱憤が溜まりに溜まって、「ええい、面倒くせえっ!」とばかりに「男オトコした単純さ」の逆襲がいま始まっているのだろうか。

 いや、それは「いま」に始まったことではない。ヒトラー礼讃のネオナチは欧州で1970年代から台頭し、フェミニズムへの逆風はフェミニズムの誕生時から顕在していた。ブッシュ政権への高支持率もこれにつながるところがある。

 複雑なことは言わない。世界は善と悪、男と女に2分され、やかましいことを言うやつはなんでもテロリストとして先制攻撃。あとのことはあとになってから考えればいいーーそうしてイラク情勢は、「だから言っただろ」という決まり文句がはまりすぎるほど見事に予告的に、ゲリラ化・泥沼化の様相を呈しはじめている。「テキサスの男らしさ」を看板に掲げた、その実、ネオ・コンサヴァティズムの性急な力業の落ち着き先がこれである。

 翻って日本でも、千羽鶴が焼かれたのも記憶に新しい広島で、今度はまた原爆ドームの石碑が手形で汚された。「セクハラ」や「ヒトラー」同様、「ヒロシマ」も大した問題ではなくなっている。そういや「憲法」なんてものも、自民党による「改正」の道筋が決まる。狙いはもちろん、憲法第9条である。対立軸であるべきはずの民主党にしても改憲派が多数を占めるのだから。

 かつては確かに存在していたはずの、大きな「正しさ」の象徴だったものたちの空洞化。というか、大きな「正しさ」だけを掲げてその実地を育み維持する努力を怠ってきた(いやむしろ自民党政権にとっては「はぐくみ維持する努力こそが邪魔だった」その)結果が、理念とか倫理とかいうもののスカスカの骨抜き状態であることは自明の理なのだ。

 その空っぽになった空間を、いまからふたたび埋め直す作業というのは、はて、可能なのだろうか。それとも何かまるで別の道を行くべきなのだろうか。

 かつて、ヒトラーの国家元帥にまでなりつめ失脚したヘルマン・ゲーリングが、戦後の戦勝国連合によるニュルンベルグ裁判で次のようにうそぶいた。

 ◆◆Naturally, the common people don't want war, but after all, it is the leaders of a country who determine the policy, and it is always a simple matter to drag people along whether it is a democracy, or a fascist dictatorship, or a parliament, or a communist dictatorship. Voice or no voice, the people can always be brought to the bidding of the leaders. This is easy. All you have to do is to tel them they are being attacked, and denounce the pacifists for lack of patriotism and exposing the country to danger. It works the same in every country.

(当然のこととして、庶民というものは戦争など望まない。しかし、とどのつまり国家の方針を決めるのはその国の指導者たちである。そうして民主制度であろうとファシストの独裁政権であろうと、あるいは議会制であろうと共産主義独裁であろうと、人々を引きずり動かす事情というのは常に単純なことがらだ。声を出そうが出すまいが、国民というものはいつだって指導者層の命令に従うよう仕向けることができる。簡単なことだ。国民たちに、おまえたちは攻撃されようとしていると言う、ただそれだけでよい。そうして平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難すればよい。これはすべての国家で等しく通用する)
        

 「おまえたちは攻撃されようとしている」というのはさしづめ、いまの日本にとっては北朝鮮だろうか。いや、「日本が北朝鮮にミサイル攻撃されようとしている」という関係だけでなく、北朝鮮の「庶民」にとってはおそらく「北朝鮮が日本に攻撃されている」という反転した関係になっている、その相互の意味においても。

 自民党の自称「危機管理派」は、今まさに「こんな時にも平和だ平和が大事だと言っている脳天気がいる。平和が大切なのは当たり前です。その平和のためにも自衛のための軍備が必要なのです」として、「平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難」しているのだから、北と日本のどちらがゲーリングの講釈した煽動なのか。

 まあ、どっちもどっちだろうと分かっていながら、こういうのはたしかに「すべての国家で等しく通用する」謂いであるには違いない。

 さて、憲法第9条というのは、戦争など望まない普通の庶民が戦争へと向かう上記ゲーリングの披瀝したからくりを充分に咀嚼(そしゃく)した上での、一つの結論だった。それは「単純な男っぽさ」をけっして志向しないという、新たな時代の意志だった。

 しかし、それもそろそろまたもう一度、そうした意志を共有するためにはそんなばかげたからくりにまたもや自ら騙されてみなければならないという、痛みの体験が必要になるほどの時間が経ってしまったのかもしれない。

 「だから言っただろ」と言わなくて済むように、何を、今すればよいのだろうか。とりあえず選挙である。ひとつ言えることは、「政権交代の可能性」というのはそれ自体、それだけでも政治をよりシャンとさせるということである。

 聞き分けのないやつはひとつふたつ張り倒せばいいという時代は、逆行であろうが進歩であろうが、どちらとも勘弁ねがいたい。

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