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『いまさら訊くのも恥ずかしかったこんな質問への回答』

 とうとう今回が最終回です。いろいろごたくを並べてきましたが、先日、読者の方から、じつは同性愛についてまだ肝心の、ほんとに基本的なところがよくわからない、と言われました。「肝心なところ」はやはり最後に書きましょう。いろんな面倒臭い話を知った上で「基礎知識」に触れるというのもいいですよね。というわけで、最終回はQ&A形式で進めます。
       *
Q ホモとオカマとゲイは違うんですか?

A これらの言葉が指示しているものはどれも同じもの、つまりは同性愛者です。
  よく「オカマは女装してるホモのこと」とか「着流しや着物を着ているやつ」とか「ホモは男の格好のままのオカマ」「ゲイはファッショナブルで知的」とか、わけのわからん分類をする人が同性愛者の中にもいますが、それらはみんなブルシットです。

  差があるとしたら侮蔑語か侮蔑語でないかの違いです。
  ホモはホモセクシュアルの短縮で、英語で「Homo」と口にしたら(付き合う人たちの質にもよりますが)NYなどでは口にしたあなたのほうが人格を疑われる確率が高いでしょう。日本人だから人権意識が低いのだと大目に見られるかもしれませんが、それはあなたの知性や品性に関わる評価となるはずです。

  ホモと同じ侮蔑語は英語ではクイア、ファゴット(ファグ)、フェアリーなどがあります。これらも自称でない限り(つまりあなたがゲイでない限り)口にしないほうが無難です。口にするときは同性愛者を罵倒するのだという明確な意思を持ってください。

  オカマというのは日本語で「尻」の俗語です。肛門性交から連想された言葉で、「ケツに入れられるヤツ」という意味。ですからこれも侮蔑語です(なぜ侮蔑になるかはかなり複雑な問題ですのでここでは省きます)。日本でも最近はこの「ホモ」「オカマ」をマスコミがほとんど使わなくなりました。90年代後半からの変化です。日本の同性愛者たちがけっこう「うるさく」なってきてすぐ抗議したりするので、マスメディア側が「触らぬ神に祟りなし」で自主規制したのです。で、みんな「ゲイ」になってしまいました。どんなにバカな扱いでも、まるでゲイとさえ呼んでおけば問題はクリアできるとでも思っているかのように。
  たしかに「ゲイ」はもう侮蔑語ではありません。ゲイたちが自分たちを示す言葉として選んだのが「ゲイ」です。

Q ゲイは女装したいと思っているんですか? 女になりたいんでしょうか?

A 同性愛と異性装は次元の異なるものです。もちろん、ゲイ男性の中には女装者もいますしゲイ女性にも男装者がいます。しかし、それは異性愛者も同じで、異性愛男性にも女装願望を持っている人や実践者がたくさんいます。
  服や化粧というのは教育や環境によって後付けとして構成された文化的な性(ジェンダー)差です。ですからそのトランスジェンダー(ジェンダー転換)願望のどこまでが先天的な性指向と関係するのか、どこまで後天的な性嗜好から発展したものなのかはじつはよくわかっていません。
  いずれにしても「同性愛者は女装/男装したいと思っている」のではなくて、女装/男装者は同性愛・異性愛の差なく両者にともに存在するということです。
  男性の肉体を持って生まれたひとが「女になりたい」と願うのは、文化的な装いの性、つまりジェンダーとともに、肉体的な性、つまりセックスを変えたいということですからこちらは厳密にはトランスジェンダーよりもトランスセクシュアルという言い方をすることがあります。これも同性愛とは別次元で考えるものです。同性愛とは愛する相手のことで規定される概念で、トランスセクシュアル願望とは自分の肉体への思いによって規定される概念だからです。
  そこで問題になるのが「性同一性障害」という、今年(1999年)、日本の性転換手術(2006年現在では性別適合手術、または性別再判定手術と呼ぶようになりました)のニュースなどでも話題になった言葉です。これは、自分の心が女もしくは男なのに、自分の肉体がその逆の性だということに耐えられない、という齟齬の症例なのですが、それが同性愛に対する抑圧や差別の大きな社会に生きているせいで外因的にそう思ってしまうのか、それともより内因的にもともと女の脳と男の肉体で生まれてきてしまったせいなのか、その辺の判定はとても難しくわからないことが多すぎるのです。しかし、そのどちらにしても実際にそういう人が存在するのだから、性転換手術(性別適合手術)とはとりあえずはその苦しみを取り除くようにしよう、という、その「とりあえず」の処置なのです。自分でなかった自分が自分にふさわしい自分になるためには、手術以外にもおおくの作業が必要になります。
 (性同一性障害=GID=に関しては2003年、「日本で性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(通称・性同一性障害特例法)」が成立、翌年7月に施行されました。この法律にも多くの問題がありますが、日本社会のみならずGIDの人びとに関してはいまだ一般にも情報が行き渡らず、無理解と無知を基にした差別が絶えません)

Q ゲイの人たちってどんなセックスをするんですか?

A あなたはどんなセックスをしますか? また、あなたはどんなセックスをしてみたいですか? それを頭の中で想像してください。ものすごくエッチなアレとかコレとかぜんぜんエッチじゃないけどほんわかするナニまでいろんな形のいろんな気持ちのセックス。そう、人に言えないようなことまでを。
  で、とつぜん、あなたはどんなセックスをしていますかと訊かれたとします。興味本位で「人に言えないようなこと」まで教えてよと言われたらどう対応するか?
  この質問には、ですから回答は2つあります。
  あなたがほんとうに気のおけない友人で、それで打ち明け話の延長としてそう訊いてきたら「人の考えるすべての種類のセックスをしている」というのが答えです。もちろん1人で全部をやっているという意味ではなくて。人間って、ゲイであろうがストレートであろうが思ったことはほとんどぜんぶ実行してみちゃう生き物なのです。あなたがやってなくても、必ずだれかがソレをやっていますもの。
  もう1つの回答はこれとは違います。つまり、あなたがまるで「未開の土人」の性器までをも調べる資格があると思い上がっている「白人侵略者」のようならば、あるいは知的探求という大義名分でその実スケベ心を満たすためだけに質問してきたのなら、「だれがそんなプライヴェートなことに答える義務があるか」なのです。それこそそんなことを訊くなんて「なんと失礼な!」、ですよね。

Q でも、男役とか女役とかあるんでしょう?

A あります。英語では「トップ」と「ボトム」といいます。しかしこれは必ずしも固定してはいません。固定したカップルもいますが、ときには反対になるカップルもいます。また、いわゆる男でも女でもないセックスの形もあります。これは想像力の及ぶ限りに人それぞれです。それはストレートのカップルでもまったく同じでしょうね。
  ちなみに、外見がマッチョだからといってベッドでもそうかというとそうとも限りません。見た目が亭主関白でもベッドでは奥様の言いなりになるのが好きなストレート男性がいるのと同じです。

Q ゲイもストレートも同じだと強調しますが、同じじゃないところもあるでしょう?

A 「同じ」という説明の仕方は、じつは多分に戦略的なものです。「あいつらは変態だ」「オカマはヘンだ」と言われる社会の中で基本的な人権を獲得してゆくためには、まずは「私たちも同じ人間だ」というところから始めなくてはならないという戦略。
  ところが一方でゲイたちには「同じ」という平板な概念を嫌うよう意図的に先鋭化している部分もあります。「違う」ことこそがゲイがゲイである所以だ、という具合に。
  「わざとフツーじゃなく」振る舞うスタイル、「ひとひねり」する感性などをもひっくるめて「ゲイ」の文化および在りようが登場してきているのです。そこでマスコミが「ゲイ」という言葉を多用するようになってから、その偽善を衝くかのように逆に自分たちをあえて「クイア」と呼ぶゲイたちも登場しています。「何おっかながってんだよ。ほら、オカマと呼んでみろよ」と挑発するかのように。「オカマで何が悪い!」と言うように。でも、この挑発に乗って彼らを「クイア(オカマ)」と呼んだら痛い目に遭いますからご注意を。
  「多様性」を認めるところから文化は強くやさしく豊かになります。ですから同じでなくたってぜんぜんかまわない。むしろ違ったほうが面白い。「同じ」であらねばならぬことの脅迫から自由になること、これもゲイという概念の教えてくれるものです。

Q でもやっぱり男が男を愛するのは不自然では?

A 異性を好きになる人だって偉そうなことは言えないでしょう。異性を好きになるのはあなたが努力してそうしたのではない。遺伝子によってあらかじめそうプログラムされていたからで、あなたの大脳の「意志」の成果じゃない。それをまるで自分の手柄のように語るのは「ぼくのパパは偉いんだぞ」と自慢するかわいい子供のようです。
  それと同じく同性を好きになるのもその人の努力の結果ではありません。大脳がそのようにあらかじめプログラムされているからです。もちろんそれが「姿を現す」には環境とか文化的・宗教的制約とかいった外的な要因が関係してはくるでしょうが、まあ、種がなければ芽は出ない、と同じことです。
  じつは人間には生物学的に一〇〇%ヘテロセクシュアルの人も一〇〇%ホモセクシュアルの人もそんなに生粋のメ純血種モはあまりいないのです。「ホモっ気」があるとかないとかよく冗談めかして言いますがじつはホモっ気はみんなある。それを「性指向のスペクトル」といいます。
  ほら、光をプリズムに通すといろんな色が順々に分かれて出てくるでしょう。そのグラデーションのように、人間の性的指向もホモっ気やヘテロっ気などいろんなものが混じり合って成立している。
  ホモっ気が10%の人はそれを抑えつけていてもべつに問題は生じないでしょう。抑えているという自覚すらないかもしれません。なぜってほら男性主義の社会ってホモソシアルな社会だから男同士で発散できる機会はけっこう備わっているわけで、それで10%程度の欲望なら簡単に解消されるからです。
  でも30〜40%になってくるとちょっと気になっちゃうかもしれません。60%とかでこの社会の中ではきっと困り始めます。でもまだだいじょうぶかもしれない。でもそれが70とか80%以上になったら、これは隠しているといずれ爆発します。気が狂うかもしれない。自殺する人も多い。無理して結婚して、奥さんを虐待したり無視したり、ほんとうにひどいことをする隠れ同性愛者たちもいます。
  女性の場合だって男性とのセックスをいやいや我慢している人もたくさんいます。女性の同性愛者は、この男社会で女であることで、よりつらい思いをしているでしょう。
  「自然」「不自然」でいえば、ぜんぜん社会的制約のない文化では男は男とやっても「自然」です。10%しかホモっ気のないやつでも、ヤル機会があったらヤルかもしれません。日本の江戸時代までがまさにそうでした。
  また現代でも、少年が成人になるときに年長の青年に肛門性交もしくは口を通して精液を注入してもらわねばならないという「通過儀礼」習慣を維持する民族もいます。
  「自然」「反自然」という分類も、ですからじつはとても文化的な「洗脳」の結果の価値判断なのです。

Q そんなことを言われると男はみんなホモみたいです。

A ええ、おそらく半分くらいの男性はどの民族でも(いろんな意味で)ホモセクシュアルになりうるかもしれません。ただしこういう社会ですから、そんな抑圧の中でも自分をゲイだと自認している人は、もしくは認めざるを得ないほどにホモセクシュアルな人は、だいたい全人口の10%前後ではないかとされています。さらにそれを他人に公言できるほどにプライドを持ったゲイの人はもっと少なく、アメリカでもその半分の5%前後でしょうか。日本ではさらに少ないですが、それは同性愛者の比率が少ないということではありません。
       *
  99年初めに発行された『生物学的豊饒』という本では「哺乳類と鳥類の80%の種でオス同士の、55%でメス同士の関係が観察されている」として「同性愛的関係の発生の確率は、推論すればこの地上に存在するとされる百万種類の生物学的種で15%から30%にのぼる」と記しています。
  まさにそれを裏打ちするようにオーストラリアの自然保護区で99年夏、同じ巣でいっしょに暮らしながら7羽のヒナを育てている2羽のオスのエミューのカップルが確認されました。そこの保護区職員が「これは超モダンな家族だ。でもホモセクシュアルってんじゃないと思う。1羽がちょっと混乱してるだけだと思う」とコメントしています。そういうコメントをひねり出さざるを得なかったその彼の混乱ぶりこそがおかしいですよね。
  生物の在りようとは、ダーウィンの説いたような種の保存とか自然淘汰とかの単純な結果ではないようです。この連載で言いたかったことも、とどのつまりはそういうことなのです。
(了)

この項、一部2006年11月に追記。

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