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June 22, 2006

Summer Storm

アメリカのケーブルTVにはいま、3つのゲイチャンネルがあって、その1つに「here!」TVという有料局があります。VODの方式と24時間放送の2チャンネルで、有料といっても月に6ドルで見られるわけ。ブロックバスターで2本ビデオを借りる分で見放題だから、まあ悪くはないディールですわね。

で、今年の初めかな、NYのアート系のクアドシネマという映画館で公開していた2001年のドイツ映画「Summer Storm」が、早くもこのケーブル局に登場して、先日、見てみました。

よかったんですよ、これが、なかなかとても。
さてストーリーですが、高校のボート部の男女が合宿で郊外の川のほとりにキャンプを張るわけです。そん中のトビとアヒムという2人の男の子にはそれぞれガールフレンドもいて、彼女たちも女子部の方で練習をしてる。ところが、トビはなんとなくチームメートのアヒムがたまらなく好きになってしまう。そんで永遠の友情を誓い合いながらも、しかしアヒムは自分のガールフレンドといっしょにいる時間の方が長くなりがちになって、それでトビがみっともなくも嫉妬してしまう。で、無理にキスをしようとして拒絶され……。

まあ、こういうのはよくある設定、よくあるパタン。

でも、さすが21世紀の映画です。違う要素が入ってくるんですよ。いいなあ、こういうの。
そのキャンプ地に、他地区からゲイばっかりのボート部の高校生たちもやってくるんだけど、で、ここで挑発されるのはトビたち、“普通”の高校生たち。古い話だけど、「東京・府中少年の家」事件とは逆ですね。で、少年たちは、少年たち自らでreconcileの道を辿り始めるのです。

この辺の筋運びがきれいごとじゃなくてとても自然で清々しくて、こういう映画を見られるヨーロッパやアメリカの高校生たちは、ゲイでもゲイでなくとも、機会としてとても恵まれているなあと思いました。

物事には順番というものがあります。
日本のゲイシーンというのは、きちんと順番におさらいする教育的な基盤というものがなくて、いつも先鋭的なものを先取りして自慢するプロ仕様だけがちやほやされる異様なもののように映ったりします。そうして性的指向とか性的アイデンティティとかジェンダーとかで余計に混乱したりすることになる。

知るのに早すぎることはありません。だから、知る順番はどうとでもなりますが、知ったあとで遡及的にその「理」の成り立ちをたどることは必要でしょう。

BBMも好きな映画ですが、若い人たちには、性指向に関係なく万人に、むしろこの「Summer Storm」をこそ見てほしいと思います。新旧のゲイ・イッシューが、この映画の中に潮目のように存在して、そうして確実に未来へと流れていきます。

この7月、この映画は「サマー・ストーム〜夏の突風」というタイトルで東京のLG映画祭で青山のスパイラルホールで上映されるようです。12日(金)16時〜と14日(日)13時15分〜の2回。1300円。
それと、大阪では関西Queer (クイア)Film Festival で、24日(月)19時45分? HEP HALL(梅田・HEP FIVE 8階)=大阪市北区角田町5-15=だそうです。ドイツ語で日本語、英語字幕付き。1,600円とか。

お楽しみあれ。

June 21, 2006

インサイダー中のインサイダー

ずっと黙って事の推移を見てきましたが、日銀の福井さん、これはダメです。
あのひと,顔はおばさん顔で、まったく悪意のない顔をしていてそれで世間受けに関しては得をしてるんでしょうけど、そういうもので守りきれはしないです。

村上ファンドの村上が「プロ中のプロ」と自称したら笑われるだけですが、福井さんのことを「インサイダー中のインサイダー」と言っても誰も笑う人はいません。ジョークにもならない。日銀総裁くらいにインサイダーっていないでしょ? そいつがマネーゲームに参加してよいはずがない。事は、冗談じゃないくらいに深刻なのです。それがどうして「何か問題があると、すぐに辞めればいいという問題じゃない」(小泉)なんでしょうか?

小泉は自らの有終の美への汚点を避けようと、庇いとおそうとしているにすぎない。
小泉は、本当は、自衛隊のサマワ撤収に際してブッシュのように隠密行動で現地に行って派遣隊員たちの目の前に立ち、イッパツ演説して労をねぎらう方向で検討していました。それが北朝鮮のあのミサイル騒動でつぶれようとしていて、まあ、簡単に有終の美とは言えない状況になっています。

そこに,やや軸足を変えてきたのが安倍です。まったく、機を見るに敏いというか、21日午後の会見で「国民の受け止めは厳しい。利益は必ずしも少額ではない。資産公開や内規の見直しをすべきだというのが国民の声で、それなしには信頼を得ることは難しい」だって。
前半は福井への個人批判、後半は日銀の構造批判とずらしながらも、しっかり自分の得点だけは稼いで、かつ、政権の方針とも辻褄を合わせるという、こいつはほんとに小賢しいね。

なぜならこの男、自分は統一教会やマル暴とつながっているくせに、そっちの心配をしなくてよいようなネタがあればそっちに目を向けさせてシレッとしているわけなのです。父さんはもっとテンネンが入っていて、で、結局は権力闘争に加わることさえ出来なかった人ですが、その分の欠落を補ってあまりあるほどに卒ないだけこいつはあくどい。

勝共連合、統一教会、つまりはアメリカの現政権の失政の元凶であるネオコンとつながるということに、日本のどれだけのひとが気づいているのでしょう。というか、ネオコンとつながるからといって、「だから、どうなの?」なんでしょうか。

June 16, 2006

GAY PRIDE MONTH

6月はご存じのようにこっちはGay Pride Monthなわけで、それに伴って米国ではいろんなマーケットがさまざまなゲイ向けの企画を実行しています。

で、気づいたんですが、アップルのiTunes Music Storeが、ゲイプライドに合わせて、ゲイプライド月間のエッセンシャルズ・プレイリストを公開してます。ま、これで売れる売れないは別にして、iTMSとしても顧客のLGBT層に向けての企業姿勢は示しているわけですね。

で、日本のiTMSは、見てみましたがもちろんなにもやってません。
「エッセンシャルズ」という切り売りの売り方自体、ないみたいですね。あるのかな?

そこで、東京パレードは8月12日ですよね。札幌は9月17日。
これ、iTMSに企画として持ち込んだらいかがでしょう?
アップルが企業としてパレードに協賛してくれるのが一番ですが、同時に、iTMSでもエッセンシャルズみたいなコーナーを設けて、パレードの実行委員会とかバディとかと連動してゲイに人気の曲やシンガーのリストアップを行う、とかね。

そろそろ、LGBTマーケットも対外的な自己主張しないと。
そのためにはまずはゲイフレンドリーな企業を無理しゃり作っちゃうことですわ。

iTMSにはすでにメッセージを送ってみました。
iTunes Store Feedback

実行委のみなさん、お忙しいでしょうが、いかがでしょうかね?

June 15, 2006

医療改革の正体

東大名誉教授の(というのはあまり関係ないのですが)多田富雄さんが、4月に朝日に寄稿していた文章を目にしました。14日、小泉改革の名の下に、医療制度改革関連法が14日午前の参院本会議で、自民、公明両党の賛成多数で可決、成立しました。わたしはまったくフォローしていなかったのですが、こんなことが起きるとわかっていながら(この手記の寄稿は4月8日付紙面に掲載されているのです)法案を通過させてしまう日本の与党とは何なのでしょう。

お読みください。情けない。まったく、情けない。

***
(私の視点ウイークエンド)診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告 多田富雄
2006.04.08 東京朝刊 15頁 オピニオン欄 

 私は脳梗塞(こうそく)の後遺症で、重度の右半身まひに言語障害、嚥下(えんか)障害などで物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。

 ところがこの3月末、突然医師から今回の診療報酬改定で、医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。私は当然リハビリを受けることができないことになる。

 私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルは歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。身体機能はリハビリをちょっと怠ると瞬く間に低下することを思い知らされた。これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかはない。その先はお定まりの、衰弱死だ。私はリハビリを早期に再開したので、今も少しずつ運動機能は回復している。

 ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭(むち)打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。

 そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。今回の改定は、「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである。実際の現場で、障害者の訓練をしている理学療法士の細井匠さんも「何人が命を落とすのか」と3月25日の本紙・声欄(東京本社版)に書いている。ある都立病院では、約8割の患者がリハビリを受けられなくなるという。リハビリ外来が崩壊する危機があるのだ。

 私はその病院で言語療法を受けている。こちらはもっと深刻だ。構音障害が運動まひより回復が遅いことは医師なら誰でも知っている。1年たってやっと少し声が出るようになる。もし180日で打ち切られれば一生話せなくなってしまう。口蓋(こうがい)裂の子供などにはもっと残酷である。この子らを半年で放り出すのは、一生しゃべるなというようなものだ。言語障害者のグループ指導などできなくなる。

 身体機能の維持は、寝たきり老人を防ぎ、医療費を抑制する予防医学にもなっている。医療費の抑制を目的とするなら逆行した措置である。それとも、障害者の権利を削って医療費を稼ぐというなら、障害者のためのスペースを商業施設に流用した東横インよりも悪質である。

 何よりも、リハビリに対する考え方が間違っている。リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は、人間の尊厳を踏みにじることになる。そのことに気づいて欲しい。

 今回の改定によって、何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。そして一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか。

 (ただとみお 東京大名誉教授)

     ◇

 34年生まれ。医学博士(免疫学)。「生命の意味論」「独酌余滴」など著書多数。

June 14, 2006

FOXにもこんなキャスターが!

いやいや、すばらしい。
このYouTubeのビデオ、5分ありますが、5分見続ける価値あり。

<該当のYouTubeビデオ、著作権問題で削除>

イラクで亡くなった米兵の葬儀に、「こいつはゲイだ」として墓地への埋葬にデモ隊を送り出してたウエストボローバプティスト教会(カンザス州)の一派があるんだが、その広報の女性に、FOXニュースのジュリー・バンデラスがピチッと切れて烈火の如き猛攻撃。

こいつらね、9/11もイラクの戦死者もAIDSもなにも、すべて神の思し召しだっていうわけだ。いまのこの世の悪行がすべて報いとなって現れているんだというわけね。ゲイプライドなんてものは倒錯を誇ってることで、そんなんがあるせいで天罰が下っているってのさ。

いやはや、ジュリーさん、怒りようが尋常じゃない。「Oh, really?」ってのは、けっこうけんか腰の物言いでね、「あら、ほんと、はあ?」ってな感じ。よく見ると首を横に揺らしてる、もうこりゃ、本気だね。聖書のレヴィ記を引用する相手のシャーリー・フェルプス・ローパーに真っ向から噛み付き、おまけに声がきれいだから相手のきんきん声を圧倒してなおさら小気味よい。しかしこのおばちゃんも最初は低〜い声で穏やかぶってたんだけど、いやいやどんどん声は高くなるし叫ぶし、がははは。
しかしFOXって、保守派だと思ってましたが、こういうキャスターもいるのね。

「神の言葉が憎悪だなんて、そんなことはあるはずがない!」
「だれがあんたに神の代弁をさせる権利を与えてるの? 何者なのあんたは? 説教者?」
「あなたが憎悪をばらまいてるのよ。あなたこそが悪魔よ。聖書を信じてるって? なら、あなたこそが地獄に堕ちなさい!」
「あなたみたいな人はアメリカ人じゃないわ。その教会を持ってどこか他の国に行くべきよ!」

以上全部、ジュリーの発言。ふだんは同じ文句をゲイの方が言われているのに、それをそっくりお返ししてやっているという構図。これは、前から考えてないと出てこないしゃべりですね。お見事!

June 13, 2006

ちょっとまずい本当の話

 サッカー、こっちでも生中継されていて、見ましたよ。ニホン、いやいや、こっちのアナウンサーまでも川口のあの同点ゴール直前のフリーキックの止め方なんか、「ワールドトップクラス!」なんて褒めちぎってから、あやや、危ねえなあ、こういうときにぽろっと入れられちゃうんだよって思ってたらあっというまに入れられました。ひー。で、その後はぼろぼろと逆転追加点。

 あれ、なんだかんだいっても体力差でしたね。後半のシュート数も負けていたし、というか、攻め込むんだけど最後のシュートにまでつながらない。へなへなでした。あれほど戻りの速かったディフェンスも同点にされてからは気ばかり焦って攻め込んでカウンターアタックに戻ってこられなかった。

 ああいうときはみんな、精神力だとか気力だとかいうけど、大いなる間違いでね、私もずっとサッカーをやっていたからわかるんだけど、気力ってのも体力の一部でして、躯が動かないと頭もぜんぜん働かないんですよ。肉体はつながっているわけです。躯が動いてるから気力ってのも間に合うわけで、だから、精神論をぶつスポーツコーチなんてのは信用できんの。それはあくまでフィジカルな力と技が土台にあってこそのお話です。

 まあ、ニホン全国、サッカー熱に浮かれているようですが、この敗戦ですこしは冷めてくれるといいのですが。サッカーなんか知らないって人もかなりいると思うんだけど、そういうところに目が行かずにワーってなっちゃうファッショがありますわよね。そういうの、アメリカって、まあサッカーはそんなに人気があるわけじゃないけど、野球だってバスケットだってアメフトだって、わーっとなるところはなってるけどなってないところはなってないって感じで、怒濤の熱狂というのがないところは何だろうねって思います。大人なんだろうか?

 って,ここまでが枕でして、本日のお話はそういうのとはぜんぜん違って、映画を見てきたって話です。
 巷で評判のアル・ゴア“主演”の「an Inconvenient Truth」ってやつです。地球温暖化のドキュメンタリー。で、ドキュメンタリーだって聞いてたからそのつもりで見始めたんだけど、ドキュメンタリーというよりはアル・ゴアの地球温暖化に関する講義を映した映画なんですね、これが。

 冒頭の、うららかな陽射しを浴びて川の流れるシーンのナレーションからしてアル・ゴアの声で、おっと、こりゃアル・ゴアのプロモーション映画かって思いました。まあ、そういういともあるのかもしれないけど、そのうちにそんなことがどうでもよくなるくらいに大変な事態が起きているのだって教えられる、そういう映画です。

 さまざまなものの歴史に転換点というものがあります。大規模な戦争ではヒロシマ・ナガサキがそうでしたし、テロリズムではもちろん9・11がそうでしょう。そんな中で昨年のハリケーン・カトリーナもまた、アメリカ人の意識を根幹から変えそうな“事件”だったんでしょう。というのも、地球温暖化とか環境保全とかは、カトリーナ以前に口にしてもどこか他人事でそう切実さはなかった。けれどいまはガソリン高騰も相俟って、あれほどCO2を放出しまくっていたアメリカ人でさえもちょっとこりゃまずいかなと思い始めているような気がします。

 前述したように、映画は温暖化に関するアル・ゴアの講義をそのままなぞるようにして進みます。講義の冒頭での自己紹介で、彼はまず自分の肩書きを「the Former Next President of the United States(前・次期合衆国大統領)」とイッパツ笑わせてから、地球温暖化の凄まじい推移と影響とを写真やグラフを多用して視覚的にわかりやすく解説してゆくわけです。

 その語り口は映画脚本顔負けにユーモアに富みかつ真剣で、途中、暗い映画館の中でわたしゃいま自分がノートを取っていないことを後悔したくらいです。そのくらいネタが満載。なかにはすでに知っていることもありますが、しかしこうまとめて編年体・紀伝体、時間の縦軸と横軸を切り取りながら目の前に提出されると、あらら、こりゃほんと、Inconvenient(まずい)だわ、って気持ちがどんどん募ってくる。

 どんなことが起きているか? 「キリマンジャロの雪」として有名だったあの雪はもうないのです。カナダやヨーロッパのあの美しい氷河はすでに多くが消えています。太陽熱の反射板の役目を果たしてきたそんな氷面が小さくなって海はますます加速的に水温を上昇させています。ですからカテゴリー4とか5とかの強力ハリケーンはこの30年で倍増しています。気温上昇で蚊がアンデスの中腹まで飛んでいけてマラリアの被害地域が広がっています。一方で内陸部は日照りで干ばつが続き、シベリアでは永久凍土層が融けて居住地が崩壊しているのと同時に、湖が次々に消滅しています。そしてなによりもぞっとするのは、そうして融けた陸地の淡水が大量に海に流れ込むことで、塩水濃度のバランスが崩れて太平洋や大西洋の大きな海流が迷走するか止まってしまいそうなのです。「カタストロフィーちょっと好き」の私ですが、やっぱ、ちょっとぞっとします。

 もちろんこれらは「警告」ですからショッキングに編集されているかもしれません。スクリーンで示されるグラフだって縦の軸の単位がよく見えないので変化の度合いが劇的に強調されているかもしれない。しかしたとえ話半分だとしても「話半分であってほしい」と思えるくらいにこれは、ちょっとインコンヴィニエントな話なのです。

 そういや富士山の万年雪も最近は夏は融けていますよね。

 なんともぐったりします。でも、とてもアメリカ人的というか、最後にきちんと「いま自分に出来ること」が示されます。普通の電球を蛍光灯に変えるとかリサイクルするだとか木を植えるだとか、そういう当たり前のことなんだけど、ってか、遅すぎるよ、あんたら、って感じもしないではないが、中には冷凍食品を買わない、肉食を減らす、可能ならハイブリッドカーを買う、なんてのもあります。そしてもちろん連邦議員に手紙を書くなんてのも。

 こりゃ、日本で公開されるんでしょうか? 公開されたら、ぜひご覧になることをお勧めします。下手なスリラーなんかよりずっとドキドキします。

 もしくは、大学とか市民団体とか、そういうところで自主上映界なんか企画してはいかがでしょうかね。きっと、そういう趣旨を伝えたら安く貸し出してくれるんじゃないでしょうか? えっと、ウェブサイトは次のとおりです。

An Inconvenient Truth Oficial Site


 ブッシュ政権のこの6年で疲弊したアメリカ人の理想主義が、11月の中間選挙にどう影響するのかにもこの映画は一役買いそうです。それは人気凋落の現大統領に、さらにちょっとまずい話ではありましょう。

June 05, 2006

ルールと金儲けと天罰と

村上さん、いっしゅんムッとしながらもここが攻めどころと直感したのか「ルールの中でお金を儲けて何が悪いんですか」と笑みを浮かべてしゃべってましたね。

うーん、こういう言い方をしてしまえるというところに彼の、および彼に連なる人びとの短絡があるんだろうなと思いました次第です。まあ、会見でのメディアのバカな質問に対する単なるカウンター・アタックだったのかもしれませんけれど。

ヴォカァね、金儲けは、本来は、なんらかの価値を生んだことに対する対価として生じるものだって、思っています。基本はそこだって。そういう価値を生み出したなら、金儲けは当然の結果ですよね。株式投資によって新たな価値が生まれるのは、その投資先の企業が、投資者に代わって価値を生み出してくれるからです。それが投資のおかげだとなって、投資者に価値の収益が還元される。

でも、この資本主義(資本とはまさに投資の「資」のことです)の世の中で自由主義経済が運営されると、ちょうどリンゴがなくても算数が行われるように、実体の価値がなくてもお金だけが価値の代理となってかってに数字・記号としてあっち行ったりこっち行ったりするようになります。そこから派生してマネーゲームが可能になります。

すると、そういう、実体の価値以上のお金が行き来するそういうゲームの中では、お金儲けはまた同時に、お金損を生み出すことに直結します。価値が生まれてお金が生まれるのではなく、価値が生じずに、お金だけが行き来するのですから、だれかが損をしなければ、つまりその損をしたお金がなければ、それ以外にお金はどこからも来ないのです。

「お金儲け」とはこの場合、だれかが損をした金を,自分こそが手に入れるというゲームです。

さてそこで、このゲームには、ルールが必要になってきます。ところがそれはゲームのルールですから、社会に必要な、平等とか機会均等とかいうルールとは違うものです。むしろゲームというのは不均衡を作るためのもので、ある一定のルールの中でいかに相手を出し抜き、失策を衝き、いかに自分が優位に立つかという遊びです。つまり、ルール自体のカバーしないところで抜け道を探し、アンバランスを生むのを楽しむことに遊びがあるのです。双六もモノポリーも、そこではなんにも価値は生み出しません。いかに相手の持っている点数を、コマを、子供銀行券を、点棒を、マッチ棒を、みかんを奪い取るか、バランスを崩すかというものです。総体としての点棒は、ぜんぜん増えない。だからルールは、時に理不尽でもそれがゲームだからかまわないし、逆にアンバランスを作り出すような不備がなくては勝ち負けが決まらなくてつまらないのです。

ところが現実社会では、ルールは今の世の中の基本となっている生存権とか平等とか機会均等とか平和とか、そういうものに則っています。そういう部分で不備があっては困るから万全を期して具体的なルール(法律)を作るのですが、証取法はしかし、そこに肝心な、「お金儲けをするには価値を実体として生まねばならない」という条項はないんですね。そんなの、市場原理がどうにかしてくれるもんであって、法で国家が介入するようなものではない。つまり、どうしたって不備なんです。

証取法だけでなく、法律というのは(文章というのは)、必ず書いていないものが存在する、という宿命を持っている。私たちはそれをいままで、倫理とか畏敬とかという「理」でもって補って生き続けているのです。(先日の「国家の品格」批判のときに大切なのはむしろ「論理」と書いていた私の論点は、あれからよく考えてみると、「論理」というよりもときには「理(り、または、ことわり)」と呼んだ方がよいかもしれないと思い当たりましたのでここでは「理」を採用します。論としては述べきれない膨大な論理の道筋を、私たちはときに直観として悟ることがあります。それは「論」はたどってはいないが、しかしそれでも「理」ではある、という種類のものです。つまり、道筋のことです)

さて、そんな畏れを、私たちは「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で表現してきました。ところが、ルールだルールだという人は、逆に、ルールの不備をもっともよく知っている人だったりする。ルールさえ守れば何をしたって大丈夫だと言い切れる人は、相手をそのルールに雁字搦めにしておいて、自分はそのすきにちゃっかりルールの抜け道をたどれる人なのかもしれません。

村上ファンドのやり方はまさにそれでした。
企業が価値を生み出せるような投資をしていたか? ノー。彼らがやってきたことは、単なる売り抜けです。おまけに記者会見で謝罪のふりして「引退」を「潔く表明」する芝居まで演出して、それって、今まで稼いだ「2000億くらい稼ぎましたか」ってさりげない自慢をして示したそのお金を持って、これまた人生「売り抜け」ようというわけですな。

こりゃね、ルールを守っているからいいというものではない。本来の株式投資の趣旨とは違う、金儲けのための資金運用。さっきもいったように、ゲームの中では、儲けるカネは仕組んでだれかに損させたカネです。だって、そういうルールなんだから、そういうゲームの世界でそういう金儲けをしない方こそがバカなんじゃないか、という理屈でしょう。そりゃねえ、まあ、バカかどうかはわからんが、そういう世の中では、こつこつと企業を育てて金を作ろうなんて人は「奇特な人ですなあ」って、よほどのお人好しか時代遅れかのように扱われ、バカを見ることだけは確かな感じですね。で、格差社会って、こないだも書いたけど、正体はこれなんですよね。

で、そういうときに「天網恢恢」なのだ、って昔の人はいいました。そういう濡れ手に粟じゃなくて、ちゃんと価値を生み出しつつお金儲けをしようよ、って。まあ、すっげえ古いというか硬いというか真面目というか、そういう今では奇特な倫理が、そうねえ、村社会みたいな、すべてが目に見えている社会ではあって、そういうところでそういうずるっこい錬金術の金儲けをやってたら確かに村八分だし、でも、こういう今の社会ではデカくて逆になにも見えなくなっているから村八分はないけど、逆に、「どっか変だなあ」から「今に天罰が当たる」へとつながる発言になってくるわけですよね。

だから、彼はインサイダー取引がどうだ、「聞いちゃったでしょうと言われれば、聞いちゃったんですよ」って、そんな“罪のない”ことのせいで責められるべきだってのは、違うんじゃないかと思います。それはあくまで前述した「ルール」上の、ちょっとした「ミステーク」で(それこそ村上さんが会見で強調してたことなんだけど),本質ではないんじゃないんでしょうか? しかも、彼がやったことは「聞いちゃった」なんていう「ミステーク」レヴェルなんかじゃなく、自分で仕掛けてるんですからね。そう、じっさい、彼はその「本質ではない」ってところで自称「ミステーク」を視聴者にインプリントさせるように何度も認めて見せて、それで「潔く」刑にも服しましょうといっているのです。

間違っちゃった、プロ中のプロともあろうものが、ああ、しくじった、悔しいと、そういう演出をしてますが、おいおい、お前が責められてるのはそんなんじゃないだろう、それってわざとケアレスミスを“自白”してみせて、視聴者にケアレスミスだったのかと印象づけて本質を騙そうとする目くらましだろう、って気がするんですね。これは、彼が、そのマネーゲームの哲学そのものを批判されているんだってことを、わざとネグレクトしているか矮小化するためか、それともそういう本質的批判を回避するために開いた会見であるようにしか見えなかったんですよ。だって、ニッポン放送もどこもかしこも、すべてやつが仕掛けた株ゲームだったわけですから。

わたしもじつは、星野仙一さんがああして村上氏に「天罰が下る」と言ったことにはあまり気持ちのよいものを感じなかった。ちょっとわたしの思っているのと方向性が違うような感じがしたんで。でも、それに対して、昨日の記者会見であの村上氏が「天罰が下るなんて言っちゃいかん」「そんなことを言っちゃいかん」と、何度も何度も言ってたでしょう? ありゃ、まさに本質的批判のとば口なんです。そこから見えるものを批判していかねばならない。

それと、これは余談だけれど、あのとき、あの人、40いくつで、まるでじいさまの口調のような話し方を演出しながら、なにか高所から見下したように星野仙一を「叱りつけ」てましたね。あれを見て、ああ、この人、すっげえ尊大な人なんだなあ、と思った。どうしてわかるかというと、私もじつはそういうところがあるから。げへへ。わざとじいさまのように悟り切ったような叱りつけ方をするから(って、このブログの書き方見てる人はわかってますよね。あはは)。ただ、わたしゃ、よく見てくれるとわかるけど、そういう“尊大”な叱りつけ方をするのは、相手が確実に権力を持っている場合に限ってる。星野さん、人気はあるけど、権力、そんなに持ってないんじゃないかなあ。ありゃね、村上さん、よっぽど「天罰」ってものが、まずいって思ったからじゃないんですかね、あの「尊大徹底見下し切り返し」のセリフ回しは。

ところで、天罰が下るとか当たるとか、なぜ「言っちゃいかん」のか。村上氏、あの会見で、どうしてそういう謂いが「いかん」のか説明しなかった。「私の子供にも影響があった」とか言ってましたが、だから言うべきじゃない、というのかしら?

彼はまた、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ような社会じゃないと、日本はダメになる、とかって言ってたけど、あんたみたいな、右のものを左にしただけで金を稼いでいるやつらが税金をいっぱい納めたって、そんなの、それこそ当然の話なんじゃないのって思うだけです。「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ってのがなくなったのは、あのバブル期に税金をいっぱい払った人ってのが土地をただ転がしたり(あ、そういう人は節税もしっかりしてたから逆に払わなかったりしてたか)売ったりしてた人たちばかりで、なにも価値を生み出したわけではなかった、ただ金が儲かっちゃった人たちばかりだったから。つまり、村上ファンドの元祖みたいな人たちばかりだったからです。

つまり、村上さんはさ、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」社会を作るのに、またあんた、自分で邪魔したんだよ、ってことなのです。

あの村上会見のペテンは、いみじくも、彼が自分で口にした「ルール」と「金儲け」のペテンを、知ってるくせに知らん振りをした、あの厚顔にあります(本当に知らないのなら、こりゃ本当にヴァカってだけの話ですけど)。

天網恢恢疎にして漏らさず。
天罰とは、ですから、今回の検察の摘発のことではありません。
天罰とは、その厚顔を自ら曝す結果になったあの記者会見のことをいうのではないでしょうか。かなり底の割れた、恥ずかしい会見だったと、わたしは思いました。

June 03, 2006

森喜朗のフットボール

国連AIDS総会に出席した森嘉朗が、「私はラグビーフットボールが好きです。次回にはAIDSにトライできるように頑張りましょう」とにやけながらスピーチしました。外務官僚の用意した原稿の丸呑み、棒読みです。この作文を書いた官僚の、ass-kissingがにおうような演説でした。そもそも、こんなところで比喩というよりもシャレに近い言い回しを用いる神経とはなんなのでしょうか。

エイズ対策は一にも二にも教育です。日本では90年代後半、公教育でAIDS教育を性教育と絡めて行ってきた歴史もあります。それが、「行き過ぎた性/ジェンダー教育反対キャンペーン」という反動に遭ってほとんど行われなくなっています。例の日の丸君が代強制問題や多数決も採用できない職員会議問題、官憲をも動員した懲罰主義などとも通底して、教育現場は竦み上がり硬直しきり、疲弊し果てているようにも映ります。

日本ではいま、5人に1人が65歳以上の高齢者だそうです。少子化と若者の減少。その若者たちがHIVにさらされています。それは労働力の減少や社会基盤の脆弱を憂う話ではありません。HIVに感染し、AIDSを発症しても、彼ら/彼女らを支え励ます人がいないと危惧する話です。HIV感染差別の無知は、HIV感染そのものの無知と同じです。つまり、差別者と感染者が同じ無知でつながっているような社会です。これは、不幸が堂々巡りする社会です。暗愚の迷宮です。

自民党政府と官僚の怠慢と無能、自治体の無知と事なかれ主義、そして勝共連合のカラス頭とが、この不幸を増殖させています。「性的少数者の問題には関心もないしその必要もない」とか「性的放埒を嗜好するゲイのライフスタイルを喧伝させるな」というそういう目先のフォビアにブロックされて、その先に何が待っているのかを考えられない。社会を滅ぼすのはゲイたちのライフスタイルではありません。社会を滅ぼすのは憎悪に駆られたアドレナリンです。それは視野狭窄をもたらします。

とにかく、学校でAIDSを、AIDSの背景を、AIDSから学んだ人間の知恵を、子供たちに教えることを一刻も早く再開しなければなりません。日本では、先日もフジテレビがアフリカの貧困地帯のAIDSを取り上げて女性アナウンサーがルポみたいなことをやっていました。その努力は認めます。たとえ彼女がHIVのことをウイルスではなく病気そのもののように話す間違いを自覚していないとしても、アフリカのエイズ問題で浮き彫りになる世界の矛盾はぐったりするほど重大なことです。

けれど、それをアリバイにしないでほしい。アフリカのことをやっていればエイズ問題をカバーしたつもりにならないでもらいたいのです。日本もいま、いや、日本はいまもまだ、HIVの蔓延に無防備のままなのです。その日本のHIV/AIDSを、日本のTV局は、アフリカのいたいけな子供たちの感染を語ると同じように思いやりをもって語ってくれているのだろうか。遠い国の子供たちを同情を込めてこぞって取り上げるその裏側に、間近な性感染者の若者たち大人たちへの、それは自業自得だという、すでに一度10年以上前に破綻したはずの、因果応報論がぶすぶすと発酵してはいないか。

ニュースは自分に近い場所で起こったものほどそのひとにとっては大きな問題のはずです。にもかかわらず、AIDS問題では遠くのニュースの方が大きく頻繁に取り上げられる。おまけに日本政府は、今回の国連AIDS総会用の日本の取り組みのレビューに、4ページの英語のファイルしか用意しませんでした。日本国内向けには説明しなくてよいと考えているようです。それは日本という社会の、「品格」も「けじめ」もむなしい、とても倒錯的な非情を象徴しています。

ちなみに、前回も国連AIDS総会に日本代表としてやってきた森喜朗は、2000年1月、福井県の講演で「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」としゃあしゃあといいのけた人物です。そのほかにもえひめ丸沈没事故の際のゴルフ続行問題、神の国発言、大阪たんつぼ発言と、史上最も頭の悪い総理として名を為した人。いまもポスト小泉のキングメーカーたらんといろいろとうるさい発言を続けていますが、あのデカい図体、ラグビーフットボールじゃなくとも、ほんと、森喜朗は、邪魔だ、どけ、と一喝したい男です。「トライ」されるべきは本人でしょう。

June 02, 2006

役得亡者

 「役得」という言葉があります。新聞記者にも役得はあります。警察や役所が設ける幹部との酒席は、きっとマスコミ対策費とかいう名目の支出だったのでしょうが、若かった私は最初、結構な料理が出てかなり驚いたものでした。

 私は社会部畑だったのでどちらかというと(不祥事)企業に嫌われる立場でしたんで、他の役得にはほとんど浴しませんでしたが、経済部の記者などは企業の新製品を試供品としてもらったりします。製品紹介のiPodをもらった記者はさすがにうれしそうでしたし、昔はどういう意図か一流デパートのワイシャツお仕立券なども企業から配られたとか。いまはあまりそういう露骨なのはないでしょうが、それでも芸能記者は入手困難のチケットが(他人の分まで)手に入ったりします。かつて、社に送られてくる試聴用のレコードからCDからぜんぶ家に持ち帰っていた記者の家の床が抜けたという本当の話を聞いたこともあります。運動部の記者だってサインをもらえるとか、まあ、そんなのはかわいいもんかもしれません。政治部の記者の役得って、何なんだろう。なんか怖いね。

 NYに来てからも某企業の会長さんが日本からいらっしゃるたびに個別にこちらの一流レストランで食事をご相伴させてもらったりしました。べつにその企業に便宜を図るわけでもないのにどうしてこんなことするのと秘書氏に訊くと「予算があるから消費しなくちゃならないんですよ」との話。今はその会長氏も引退なさったから、もうそんな慣習はないんでしょうね。

 もともと貧乏性のせいか、その種の「役得」に遭遇するたびになんとも居心地の悪い気分になったものですが、まあ、それも年に1度ほどの勉強でした。新聞社を辞めてからは「役得」という言葉自体も忘れましたが。

 ただ、どんどん「役得」中毒が進む人も少なくないようです。役得などなくてもふつうに仕事をしていたのに、そのうちに役得も自分の正当な報酬のうちだと誤解するようになる。役得がないと仕事をしなくなる。

 開いた口がふさがらないとしか言えない社会保険庁の国民年金保険料不正免除問題は、じつはここ数年で明らかになった同庁の「役得体質」と同根です。

 同庁職員たちはこれまで、自分たちで使うゴルフ練習場のクラブやボール購入費、テニスコートやバスケットボールコートの建設費などにも保険料を流用していました。同庁発行の年金マニュアルや健康の手引きのような小冊子で、“監修費”と称して職員に1ページ6万円とか18万円とかのアルバイトをバラまいていました。職員の健康や研修のためと称して自分たち用のマッサージ機やミュージカルやクラシック、狂言のチケットを購入していました。

 これはもう「役得」のレベルではなく「悪徳」極まった立派な背任、横領、窃盗罪です。なのに、そうしたものでの起訴は1件もなかった。わけがわかりません。

 ふと目を横に向けると今度は国会の根幹である国政調査権を支える国政調査活動費が、2年で1億円分も議員たちの料亭やクラブでの飲み食いに流用されていたことが朝日新聞の調べでわかりました。おまけに国会職員までもが備品や光熱費に使うべき庁費を自分たちの飲食に充てていたんですって。それらの中には芸者やコンパニオンを上げての宴会もあって、これも役得ですか? いったい日本という国はどうなっているのか、顎が外れそうです。

 今国会では教育基本法の改正もありますが、そんな連中に「日本を愛せ」と強制されても首を傾げてしまいます。そいつらの「日本」と私の愛する日本は、どうしたって違うもんなあ。で、そういう連中に限って「ニッポンは素晴らしい」とか「品格がある」だとか「国を愛するのは義務だ」とかっていうわけですわ。なんなんでしょ、こういうのって。

 先日もここに書きましたが、産經新聞がネットで流布されている「君が代」の替え歌を憤慨しながら紹介していました。君が代の歌詞にも聞こえる英語の歌詞で、いままたよく読んでみると、死者を悼むその内容は、cave とあって、これは「カマ」で多くの住民が死んでいった沖縄戦のことのようでもあり従軍慰安婦のようでもあり、ですね。ところで、友人が教えてくれたところによると、この歌詞がネットで流布し始めたのは99年2月で、国歌国旗制定法以前の話だとか。その点で、産経の記事の“読み”は事実誤認の間違いだということです。あら、はずかしい。

 私の尊敬するアーティストで上質のやわらかな言論人でもある大塚TAQさんが、この替え歌の、もっとキュートなヴァージョンを遊びで作ってくれました。以下のものがそれです。

  Kick me, girl and your old wand
  Chill your knees, a yacht in your need
  Southern rain, is she known?
  Heat one old toe, not retail
  Cock ate North moon, soup, mud and dates

  お嬢ちゃん、その杖でぼくを蹴飛ばして。
  膝を震わしてる場合じゃないよ、必要なのは一艘のヨット。
  南の雨さん、彼女のことは知っている?
  足の指を一本だけ熱くするの、売り物じゃないやつを。
  雄鶏が北の月とスープと泥とナツメヤシを食べたよ。

 いわく、「現在あるバージョンだと、その都度「慰安婦問題」に向き合わなきゃならないのがシンドイ気がするし…。」ということでいろいろとことばをいじっているうちに、「なんかマザーグースみたいな不思議な世界」が出来上がったというわけだそうです。

 素敵ですね。もちろん、こんなことをしている大塚さんに、役得なんてもんはありません。せいぜいみんなの敬意を集めるくらい。それは役得ではなく、人徳です。