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沖縄・集団自決の島〜1987年の夏

1945年、終戦間際の沖縄での集団自決を、安倍政権は文科相の教科書検定を通してまたぞろ「軍の強制はなかった」としようとしているようです。そのニュースが報じられてから、20年前に沖縄で取材したその集団自決の原稿をどうにか探し出してきました。従軍慰安婦の問題とも微妙に重なるこの「日本軍の免罪」化現象は、いったい何を意味しているのでしょう。

以下の原稿は、1987年夏、私が直接話を聞いて書いたものです。その夏の、新聞の終戦企画の1回目として掲載されたそのままの原文。
集団自決がどういうものだったのか、これを読んで判断してください(年齢などは20年前の取材時点のものです)。


 戦(いくさ)ヌクトゥヤ 話シブシクネェラン──戦のことは話したくない。照り返す日の光。ガジュマルの大木。白茶けた細い道に赤瓦(がわら)の家並み。島の人たちは聞き取りにくい方言で、日に焼けたシワ深い顔を穏やかにほほ笑ませながら語ることを拒絶する。

 那覇から10人乗りの小型飛行機で約15分、西へ40キロの海上に、慶留間島はある。本土からダイビングにやってくる若者たちは隣の阿嘉、座間味の島々にモーターボートで乗り継ぎ、慶留間を顧みる者は少ない。

 昭和20年3月26日、米軍上陸。慶留間の島民の半数が壕(ごう)の中で自決した。

 島には鉄筋2階建ての立派な学校があった。ひっそりと押し黙る島に、乳緑色の波が打ち寄せる。

 「戦争のこと話してもらうのは大変。学校でも慰霊の日に沖縄戦を語ってほしいとおじいちゃん、おばあちゃんにお願いしたけれど、断られました」。4月に赴任してきたばかりの慶留間小中学校教諭石嶺律子(22)がそう教えてくれた。全島民56人。学童は計5人。すべてが島南側のわずかな平地部に生活している。北側は深い山があるだけだ。

 「みな生き残りですからヨォ」と、学校に近い自宅で中村武次郎(57)は言った。「10年前までは、1人で20人も首絞めたじいさんが生きておったし」

 集団自決。座間味島ではネコイラズとカミソリが使われた。渡嘉敷島では自軍から渡された手りゅう弾とカマが用いられた。慶留間では、申し合わせたようにそれは縄だったという。

 3月23日、空襲。学校など全焼。百余人の全島民が山に逃げた。翌24日、艦砲射撃の間を縫って、人々は焼け残った家財道具をまとめて山へ運んだ。このときのこん包の縄が、自決に使われることになったのだ。

 中村の避難した真っ暗やみの壕には、母親と当時20歳の姉のほかに10人ほどが入っていた。米軍上陸の報が駆け抜けた26日の朝、母親はどこからか3メートルものヒモを持ってきて、姉を絞め始めたのだと中村は話した。

 「私の頭の上で姉さんの脚がバタバタしてましたヨォ。そん時、息、止まったと思います。それから2分くらいでしたヨ、壕の入り口に、知ってる青年と米兵がいて、出なさいと言われた。死んでなかったのは5人でした。あと5分早ければ姉さんは生きておったかもしれんですヨ」

 自決というより、親族同士での殺し合いだった。「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の戦陣訓は住民にも強要され、慶留間、渡嘉敷など離島での自決者は合わせて500人とも600人ともいわれている。

 「情報が違っていたです」と、中村の横から妻静子(59)がしゃべり始める。「アメリカさん、よかったんです。じぇんじぇん(全然)いじめません。女、ゴーカンしないし、男、道路に並べて戦車でひき殺しもしない。みんな、友軍が悪かったですヨ。日本軍が食糧ため込んで、阿嘉では老人、栄養不良で死んだですヨ。イモ畑とられて、イモ食ったらスパイだと言って日本刀で切り殺されましたヨ。私、阿嘉でしたからみんな知ってますヨ」

 敵上陸を目前に控えて昼夜兼行の戦闘準備を進めた沖縄では、多くの住民が陣地や飛行場の構築に動員され、軍の機密を知ることになった。日本軍は住民の監視を強め、最後にはハワイなどからの移民帰り、ろうあ者、方言を使う老人までもがスパイ容疑で拷問、虐殺された例もある。

 慶留間には、天皇の人間宣言の前に米兵の“人間宣言”があった。その後、復帰の年まで「日本」は生き残った島民から離れ続けた。島占領後、彼らの気掛かりは、捕虜になった自分たちを日本軍が殺しにくるのではないかという逆転した恐れだったのである。だからしばらくは家には帰らず、山で隠れて寝ていたのだと笑いもせずに中村は言った。

 その山のふもとに、当時犠牲になった38人の子供たちを祭る「小鳩の塔」が海を望んでいる。南の海のダイビングを満喫しようと阿嘉島へ向かう九州の大学生グループの1人は、「いろんなことがあったみたいですね」と強すぎる日差しに目を細めながら照れたように笑った。
(了)
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さて、教科書検定で書き換えを指示されたのは「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」というような記述です。この記述は検定意見後に「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と変わって検定に合格しました。

なるほど、いまの「ニッポン」はつまり、自決に使われた手りゅう弾は「スパイだった島民が軍から盗んだものだ」と言うつもりなのでしょう。そうでなければあるいは、日本刀で問答無用で切りつけるような日本軍に(中村さんの奥さんは「友軍」と呼びました。「自軍」ではない。そのニュアンスの違いを忖度してください)、占領後の強姦と戦車での惨殺を予想した思いやり深さで、「それとなく渡されたのだ」と。そんな状況が、想像できるか。

これは沖縄の人たちに、生きながら虜囚以上の辱めを再度押し付けることです。そして、そう言い兼ねないというのがいまのニッポンの自民党政府です。

22日の参院補欠選が福島と沖縄で行われます。
昨10日夜、自民党の参院議員会長青木幹雄は、この2つの選挙で「2勝すれば安倍政権は続くし、何でもできる」と話しています。2勝すれば夏の参院選でも余勢を買えるというのです。
「何でもできる」──違憲と判断されてきた集団自衛権の憲法解釈の再検討も安倍自身が口にしました。なるほど。

汚いものに蓋をして「美しい」と言い、悪いことはしていないと「国」の自信を煽る。
そこに見える大いなる時代錯誤と厚顔無恥は、すでに正気の沙汰ではありません。

沖縄は、集団自決に追い込まれた人びとの生き残りたちは、こんな「ニッポン」に選挙を通じて何と言うつもりでしょう。

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Comments

渡嘉敷島の指揮官の赤松大尉(当時二十五歳)は、島の巡査の安里氏が、部落民をどうするか相談 にいった時に「我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と言っています。

また、4人の女性が部隊の本部に行った時には 「何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい」とさとし、 4人はこの言葉で気を取り直し、無事生きのびました。同じように女子青年団長が5、6人の女子団員と一緒に斬り込み隊に出ることをお願いに行った時に、「何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさい」と怒って戻させています。

 戦後、赤松さんは、家族を失った島の住民のために、つまり遺族年金受給のために、捏造された自決命令書に印を押して自ら十字架を背負いました。その後、赤松さんが島の人たちから慰霊祭に招かれた時に、那覇空港で運動家たちに取り囲まれ、「虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕が張り出され、「赤松帰れ!人殺し帰 れ!」と「何しに来たんだよ!」 と罵倒され続けました。赤松さんは直立不動のままその場に立ち尽くしました。結局、赤松さんは、渡嘉敷島に行けませんでした。

座間味島の指揮官の梅澤少佐(当時二十七歳)は、島の指導者が相談に来て自決用の手榴弾を求めた時に、断わって追い返しています。となりの阿嘉島でも、鈴木茂治整備中隊長のところへ、与那嶺区長(屋号シレー小)が自決用の手榴弾をもらいたと相談にきましたが、鈴木中隊長は「住民が死ぬことはない。死ぬのは自分たちだけでよい」と自決を思いとどまるよう説得して成功しています。その晩、鈴木中尉は米軍に切り込みに行って戦死。

戦後は、マスコミや知識人たちが、赤松さんや梅澤さんを鬼や悪魔のように宣伝してきました。そのため、二人と部下たちや家族はずっと罵倒され続けてきました。しかし、最近になってようやく真実が広まってきました。それで教科書検定も変わったのです。

渡辺さん、こんにちは

読ませてもらいました。
ひどい話ですよね。
ほんと、人間ってだめだなあって思います。

全体を通してどうだこうだという話は、必ずこういう個別の話によって補強されたりあるいは註釈を入れたりしなくてはなりません。そうしないとかならずステレオタイプに陥ってしまう。「マスコミや知識人たちが」という中にも、赤松さんのお話を取り上げた者がいるように。

ただし、最後の「最近になってようやく真実が広まってきました。それで教科書検定も変わったのです。」というのはすこし違うような気もします。あそこに渦巻いた権力はそんなにナイーヴで美しいものではありません。政治とはそういうものです。

ほんと、人間ってダメです。

曽野綾子は「ある神話の背景」を自画自賛して①赤松隊の個々の軍人を個別に取材した②古波藏村長が安里巡査がずっと軍との連絡役だったと聞いたのでその後安里巡査を取材した-ことを取材内容の正しさの理由としております。
しかしhttp://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=root
の中「ある神話の背景研究」及び2頁後の「曽野綾子は赤松と複数回」会ったかをお読みいただければ、いずれも嘘であることが理解いただけると思います。

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