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中村中「リンゴ売り」

リンゴ売り

別に好きでこんな服を着てるわけじゃない
別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない

だって派手な衣装で隠さなきゃ
だって派手な化粧で隠さなきゃ
だって剥げた心を指差して
貴方たち笑うじゃないの

誰にだって優しい事を言いたいわけじゃない
誰にだっていい顔ばかりしたいわけじゃない

だけど軽い口調で流さなきゃ
だけど軽く笑顔で答えなきゃ
勝手な事 散々言っといて
貴方たち笑うじゃないの

私を買って下さい
一晩買って下さい

つまずくだけじゃ血も流れない
涙すら流れない

私を抱いて下さい
一晩抱いて下さい

淋しさだけじゃ夢も見れない
愛は在りませんか

私を抱いて下さい
いつまでも抱いてください

 「私を買って下さい」って、唄の中で言いのけたディーヴァというのはいままでいただろうか。藤圭子? 北原ミレイ? 浅川マキ? ちあきなおみ? 中島みゆき? 椎名林檎? みんな、なんとなく唄っていそうで、でも、中村中の「リンゴ売り」とはなんとなく違う。

 歴代の女唄というものにはだいたい恋い焦がれる相手が存在していて、恨みもツラミも愛も肉も怒りも、「わたし」と「貴男」という個々の関係性を糧に成立している。そのひとに向かって唄っている。あるいはそのひとを思って唄っている。あるいはそんな過去を思って唄っている。なのに、この「リンゴ売り」には誰もいない。いるのはリンゴ売りの前を通り過ぎる、誰とも知れない「笑う」「貴方たち」だけ。過去も未来もない、点でしかない時の消息。

 中村中の唄を聞くと、いつも「あらかじめ失われた恋人たち」というリルケの詩の一節を思い出している自分がいる。そしてそれはきっと、リルケが言ったよりもさらに深い意味で失われている。だからこれは、歴代のディーヴァたちの唄えなかったことじゃない。唄わなかったのは、唄う必要がなかったからだ。なぜなら、ディーヴァたちの唄う女唄には、あらかじめだれかがいたから。あらかじめ、だれかがいることを前提にできたから。あらかじめは、そんなに失われているわけじゃないから。でも中村の唄は、あらかじめ拠って立つ地面もない、女唄ですらない底なしの奈落に浮かんでいる孤独。

 思い溢れてシャープした最後の「私を抱いて下さい/いつまでも抱いて下さい」はなんだか、落下を支えて張り渡した命綱みたいだ。持てる声の種類すべてを動員して抗っている、そんな切羽。そしてそれはきっと、敬愛するディーヴァたちに突きつける、めいっぱいの彼女からのリンゴだ。

 思い出した。通底する歌詞を聞いたことがある。スティングの「Tomorrow We'll See」という唄。どこかの都会の街娼を唄った唄。街娼は「あたし」。でも英語の歌では、男が女唄を唄うことはぜったいにない。だから聞いているとわかってくる。この唄のストーリーは、主語がスティングなんだ。だからこれもじつは女唄ではない。「あたしの友だちは結局死んじゃって/彼のドレスは赤く染みになった/親戚も住所もなくて/この通りのもう1人の犠牲者/警察が彼を運び去れば/次の日には誰かが彼の場所に立っていた/感謝祭までには故郷に帰れるわね/生きてではないけれど」。そうしてスティングは言うのだ。「だれかがあたしのことを心配してくれるなんて/そんなのはあたしの計画にはない」「ねえ、ひとりにしないで、悲しくさせないで/いままでで最高の5分間をあなたにあげるから」って。

 この「あなた」も、誰でもない。この「あたし」も、あとにもさきにも誰かとの個々の関係性を「計画」しているわけではない。

 かつて寺山修司は、「悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず」と歌った。きっと手渡しではなく、その果実は中村中の「リンゴ」にあらかじめ乗り移ったのだろうと思う。

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