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October 28, 2010

中村 中「少年少女」

そりゃ私は中村中を応援してはいます。デビューしたのがなんだっけ、汚れた下着? 友達の詩? そんなことはどうでもいいんですが、とにかく、久しぶりに気骨というのかなあ、歌い手としてだけではなく、歌の作り手としても、ケッと言っても動じない、押されても倒れないやつとして、こういうやつがいるんだなあ、という印象を持った。てか、まあ、それは間違いかもしれないから、いまだから言えるみたいに、あるいは後づけとして言ってるんだけど。後出しジャンケンみたいにね。

そう、いつも人を賞賛したいときには前置きと言い訳が長くなる。素直に人を褒められない時代。褒めるのにも理由がいる時代。いや時代の所為にしちゃダメだよな。ってまたここでも長くなるわね。

本日はまたよい酒を飲んできた後で、なにかというと、尾瀬の雪解けの大吟醸、これ美味いんですよ。ちょいと乳酸っぽくて。それと、満寿泉の大吟醸をアンリ・ジローの樽に6カ月入れて熟成させたやつとか、こいつはもうすごい。まるでひれ酒のような旨味が横溢(マイナス魚臭さ)。そしてもちろん、その当のアンリ・ジローのトップラインの Cuvée Fut de Chene 2000 Ay Grand Cru とかも料理に合わせて飲んできたんです。これもすごいシャンパン。

ふむ、それは関係ないか。

そしていま、中村の「少年少女」を聞いている。「今夜も僕らは、なんとか生きている」とか歌われちゃってる。

私にとってこのアルバムは、なんだか知らんが、ジェフ・バックリー以来のヘビーローテーションです。つまり5年ぶりの、いつ終わるとも知れぬリピート聴取状態。NYの地下鉄でもずっとiPhoneで聞いている。さすがに聞き過ぎだな、と思って辻伸行くんのラフマニノフとか、パトリック・コーエンのサティとかも聞いたりしてるんだけど、ふと気づくと夜中に頭の中で「少年少女」の中の何かが渦巻いてる状態。

いま、ちょうど「ごめん、私は、喉をやられてる」って歌われてます。

最初のころは、そう、このね、何たっけ? そうそう、みんな絶賛の「戦争を知らない僕らの戦争」にやられたんですが、そのうちに、もっとさりげない、最初は聞き流していた歌ね、初恋とかさ、秘密だとかさ、ともだちになりたい、や、青春でした、だとかさ、そういうののメロディーまでもが浸食してくるんだ。

まあ、これこそヘビーローテーションの為せるわざですが。

技術的なことを言うと、曲作りがすごくうまくなった。とても自然になった。メロディーにおかしな力が入っていない。味わっていると旨味がじわじわと出てくる。なのでもう3週間くらい繰り返し聞いていても全然だいじょうぶ。ヘビロテに耐えうる。前のアルバムも褒めたけど、これとは違ってる。

でね、ちょうどこれを聞いてるのと平行して、アメリカでは、ゲイの十代の男のたちがどんどん嫌がらせやいじめに遭って自殺するという事件が続発しているのです。この2カ月くらいで8人かな。わかってるだけで。ルトガーズ大学の19歳は、寮の部屋で好きな男の子とキスやなんかしてるのをSkypeで自動中継されちゃって、ジョージ・ワシントン・ブリッジから投身自殺した。あの橋、すごく高い。そこから飛び降りるよりつらいことがあったということでしょう。考えるだけでまいっちゃいます。

ついこないだ、10月13日に自殺した子はカリフォルニア・ビバリーヒルズの高校生で、学校帰りに5人の他の生徒に殴る蹴るの暴行を受けた。そして家に帰って縊死した。「何よりもつらかったのは、肋骨を折ったことじゃない。ぼくの大事な人たちからもらったものを盗まれてしまったことだ。最悪の日だ」と遺書にあった。「カミングアウトと、(ボーイフレンドの)ダリックと幸せだったことが人生で最高のことだった。でも、それが自分の死につながるとは昔は知らなかった」とも。

そう、中村中の「少年少女」を聞いていて思うのは、これをいまの十代の子たちに聞いてほしいなあということです。聞いて、何?という子はいつの時代でもいるでしょうから、そういうのはどうでもいい。そうじゃなくて、聞いて、励まされる子たちが必ずいる。励まされる? ちゅーか、ああ、自分は1人じゃないって、そう感じる子が必ずいる。そういう子たちに聞いてほしい。いや、これは変な言葉遣いだ。そういう子たちが、たまたま聞いていてほしい。

いまや、年を取った私はこのアルバムを聴いてもこれっぽちの涙も表沙汰にはならないけれど、大脳皮質の地層の奥のどこかで、15のぼくがカッと赤く熱くなっているのがわかる。そう、じゅうぶんに時は隔てているけれど、15のぼくは1人じゃないって、おぢさん、思うよ、ってな感じ。

とてもたくさんのメッセージが込められたアルバムでも、でもさ、メロディーが付いてこないとこんなに長く繰り返し聞けない。なんだか、ちょうどいいあんばいで詩と曲が流れてる。ま、それも私の感性にとって、ということだけれど、それは信じてもらわねばしょうがない。

わたしのこのぶろぐに「少年少女」が訪れているとは考えられないけど、もし読んでいるなら、アルバム、聞いてごらん。もし、そんな少年少女を知っている人なら、さりげなくその子たちにこれらの曲を聴くよう仕向けてください。ただ1人でも、そんな子たちの命を救えるなら、いや、実際に死ぬ、生きるってな話じゃなくてもね、そうなら、単なるCDとしては儲けもんじゃないでしょうか。

またぐるっとまわって「独白」になった。
中村中のセリフが、ちょいと訛ってるのはどこの言葉? ま、愛嬌だけどね。

あ、そうそう、中ちゃん、この曲の最後、私はあれは違うと思います。
「わたしを愛してくれますか?」じゃないだろう。

あそこはさ、

「わたしを愛したり、できますか?」

あるいは、もっと直截に

「私を、愛せますか?」

っていう投げかけ、詰問じゃないか?

不満っていえばそれくらいでしょうか。

おやすみなさい。寝ます。

October 13, 2010

検察審査会もおかしいぞ(10/18、加筆あり)

小沢一郎という政治家はよほど嫌われているんでしょう。検察審査会の2回もの議決で強制起訴が決まり、それでも議員辞職も離党もしないと言うので、各紙の世論調査によると6割とか7割の人たちがけしからんと思っているようです。

じつは公務員の場合、刑事事件で起訴された時点で「通常な勤務が不可能になる」「公務につくことに疑惑や疑念が生じる」ために休職扱いとなります。ただしそこで被告人本人が罪を認めている場合は、本人に確認した上で懲戒免職の処分が下されたりします。でも本人が罪状を否認している場合はあくまでも「推定無罪」の原則で免職にしたりはできません。

ところが日本では、逮捕されたら即、犯人という印象が強いですよね。だから起訴の段階で会社を辞めさせられたりすることもあるかもしれません。あるいは世間的にそういうふうに思い込んでいる人も多いでしょうね。これはひとえに優秀な日本の警察への信頼があって、さらにそれに乗っかった上でメディアの報道があるからです。新聞記者もテレビ記者も、事件や事故の場合は日常的にほとんどが捜査当局の情報が主たる第一次情報なので、自ずと視点はまずは捜査当局のものと同じになります。

捜査当局の視点とは、事件においては、あくまでも容疑者を捜し出し、そいつは有罪だと思って邁進するという視線です。メディアも推定無罪原則はいったん棚に上げ、とりあえずは手っ取り早く手に入るそうした容疑者情報を基にすることになります。それが同時に、読者に読まれるような(事件が解決してよかった、いったいどんなやつが犯人なんだ?的な)記事を提供するということにつながる。それが期待されるニュースなのですね。

新聞もテレビも商売です。推定無罪を掲げて容疑者の人物像や事件の背景を伝えなかったら(それはまだ捜査当局の思い描く「筋読み」の物語でしかないのですが)だれも買っても見てもくれません。せめてバランスをとって容疑者側の言い分を伝えようにも、勾留期間中は弁護士以外は接見禁止だったりして直接取材ができないので、警察や検察経由の供述内容を伝聞報道するしかないのです。記者による独自の調査報道というのもありますが、よほどの大きな事件でないと徹底取材は難しい。それだっていわゆる世間の関心を見諮りながらやるわけだし、強制捜査件があるわけではない新聞社には人材や労力も限られています。

かろうじて事実に近いものが明らかになるのが裁判ですが、そんなころにはみんな当の事件の内容すら忘れています。とてもそれまで待てません。じつは裁判原稿はきちんと追うとかなり興味深いものがあるのですが、なにしろ事件から時間が経っている上に公判も小間切れで、1回1回の間隔が長い(最近の裁判官裁判は違いますが)。自ずから読者も限られてきます。

かくしてジャーナリズムは、いまも瓦版時代の一時的・短期的なセンセーショナリズムから脱却しきれない。まあ、日本の検察の起訴有罪率は99%以上ですから、そこに乗っかって記事を書いてもあまりハズレはないわけですが。

しかし今回、厚労省局長だった村木さんの裁判で恐ろしいことが発覚しました。前回のコラムで書いたように、検察は自分たちの有罪物語に合わせて証拠を捏造することもあるのかもしれないという重大な疑義が生まれたのです。そのことに世間が気づいた。じつはこれに合わせて新聞報道やテレビ報道というのもじつはすごく危ないのではないかということもわかったのですが、これは当の新聞やテレビが触れないのであまり話題になっていませんよね。

でも、こんなのがありました。
朝日新聞社の今年の会社案内です。まずは9月初め時点でウェブサイトなどで宣伝されていたこの紙面を見てください。

そしてこれが10月になって掲載されている同じ、というか改訂された宣伝文です。

どう変わったかわかりますか?

改訂前は、この郵便不正が局長逮捕にまで及んだ大事件で、それを「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と自慢していたのですが、改訂後には「一方、(中略)厚生労働省の局長が逮捕・起訴されましたが、大阪地裁で2010年9月、無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化すると同時に、特捜部の捜査の問題点を明らかにする報道も続けました」となって、掲載した新聞紙面の写真も、真ん中のが村木さんの写真まで付けた「厚労省局長を逮捕」の紙面から差し障りのないものにすげ替えられているのです。

村木さんが逮捕・起訴されたときのメディアの報じ方は、やはり前述した「犯人扱い」でした。なんだか女性の出世頭であることが悪いことかのように、まるで(言葉は悪いけど端的に言えば)「やり手ババア」みたいな書き方をしていたんですよ。そのことにホッカムリして、しれっとこれはないでしょう、という気がします。ま、朝日に限りませんが。

村木さんだけではありません。今年は足利事件の菅家さんの再審無罪もありました。そんな大げさな事件でなくとも、たとえば痴漢の事件などでかなりの無罪判決が出ています。これは07年に公開された「それでもボクはやってない」という映画でも描かれていたパタンです。

そういうときはみんな「無実なのに有罪にされるなんて、怖いなあ」と思うのですが、でもやはり誰か容疑者がつかまるとどうしても懲罰心理が働いてしまう。「赦せない」「懲らしめてやれ」という感情がその人に集中します。その心理を煽るようにまたメディアもそうした流れに添った情報を売るのです。

話を最初に戻しましょう。小沢一郎に対するこの検察審査会による「起訴」は、そんな「一般」の「市民」の「感情」を背景にしているのでしょう。朝日は社説で「知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに『世の中』の代表である審査員によって退けられた」と書きました。他紙も異口同音です。本当にそうなのでしょうか?

ここまでを踏まえた上で、次に検察審査会の問題に触れたいと思います。

**(以下、10月18日に加筆です)

さて、幸せなことに私たちは警察や検察、さらには裁判所というものを概ね信じられる社会に生きています。ところがその日本の検察になんだか最近「暴走」が目立つ。無理やり世間受けする犯罪を作り上げているのではないかという疑義が生じている。それがこのブログ前段の主旨でした。

長年、同じ体制が続くと必ず惰性と怠慢と傲慢が顔をのぞかせます。自民党体制はそうやって政権交代を余儀なくされました。同じ目がいま、官僚機構に向けられています。その1つが検察に対する「一般の国民の目線を持つ」検察審査会だと思われました。

ところが今回の小沢一郎強制起訴につながる第五検審の議決の結論は、要するに「検察官だけの判断で起訴しないのは不当」で「国民は裁判所に、本当に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利がある」ということでした。よって「起訴すべきである」としたのです。

これはじつにもっともな意見です。ただし、ここで見逃していけないことは、逮捕・起訴の時点で、その人の社会的な名誉はほぼ確実に失われるという現実があるということです。「推定無罪」の原則は世間的には働かない。

菅家さんの、村木さんの冤罪などがあって、わたしもちょうど過敏になっているせいかもしれません。でも、小沢一郎は検察が起訴したくてしたくてたまらなかったのに出来なかったのです。それを無理に起訴して裁判にして無罪にでもなったら、これは無謀な起訴、暴走検察とのそしりを免れない、と検察は判断したわけですよね。そうなったら無実の者を陥れようとしたと批判される。大変だ、と。

でも、それじゃダメだと第5検審は結論した。とにかく裁判で白黒つけろと。検察の密室内だけで判断するんじゃなく、白日の下で国民に納得がいくようにしろ、と。

でも、ここで疑問です。強制起訴して、そして裁判で無罪となったら、これ、誰が責任取るんでしょう? 無謀な第5検審? 暴走検審? そんな話になるんでしょうか?

検審は一般市民から選ばれます。でも、それが誰なのか、どういう議論でそういう議決になったのかも明らかにされません。議事録もないのです。もちろんそんな名もなく力もない一般市民に「誤り」の責任を押し付けるわけにもいきません。

しかし検察審査会というものがものすごい力を持っているものだと改めて気づかされたのがこの小沢強制起訴です。国会では離党だ議員辞職だと迫られ、これで議員辞職ともなれば検審システムは国会議員の問責決議以上の権力を持つことになります。いや、選挙で落選させる以上の力にもなります。それって検審のメンバー11人が担え切れる責任なんでしょうか?

権力には、それに見合うだけの責任が必要です。検察は、冤罪を起こせば何らかの形で責任を取るでしょう。菅家さんの担当検事は無罪となっても一言の謝罪をも拒否しましたが、村木裁判では責任者が辞職する流れになっているようですね。そうしてその責任の反映が、起訴有罪率99%以上という事態につながっている。もちろん、この重責が、何がなんでも有罪にしなくちゃならん、という調書の作文につながってもいるのですが。

しかし一方、検察審査会には責任の取りようがありません。白か黒かわからんからとりあえず起訴して裁判だ、あるいは、黒に限りなく近い灰色に見えるから裁判だ、となって、この検審による起訴が検察による起訴と同等に扱うことには、それは無理があるのではないか?

なぜなら、検審は捜査権を持っていないからです。そんな検審が「全部裁判で」と起訴を乱発していったら、起訴有罪率はずいぶんと低下してくるはずです。そうなっても、起訴=有罪を前提にした社会的制裁は正義でいられるのでしょうか? 検審の起訴議決は検察の起訴と同じなんでしょうか?

検審と検察はどうしたって違うでしょう。なぜなら、検審は自分たちで捜査して「限りなく灰色」と判断するのではないからです。検審は、それまでに警察や検察が捜査した手許の資料を読み込むことで「限りなく灰色」と判断するのです。というか、判断材料は手許の資料しかない。

このときに、検審のメンバーが検察の判断を明らかに覆せるのは、その同じ捜査資料を基に、検察が明らかに容疑対象者に手心を加えた、恣意的に手ぬるい処分で済ませた、というのが見えたときだけではないでしょうか? つまり、身内に甘い措置とか、身内かばいの起訴猶予とか。

先ほども書いたように、小沢一郎は検察が起訴したくても出来なかった案件です。手心を加えたのではない、庇ったのでもありません。検察はこのとき、むしろ権力の横暴を自制したのです。というか、諦めた。お手上げになったのです。ところが第5検審はそこを、進め、と言った。これは、検察が傍若無人に身内かばいをして不起訴にしたものを検察審査会が正す、という形の、通常の拮抗関係とは逆の形なのです。私はむしろ、右翼の営業妨害を恐れて日教組大会の開催をキャンセルしたプリンスホテルに対する検察の不起訴を、検察審査会がそれでいいと認めた議決の方(9月30日)こそ、「起訴相当」とすべきだったと信じているのですが、ほんと、おかしいよなあ。正義がどこにあるのか、これじゃ右翼の街宣活動による社会生活の妨害を間接的に是認したことになるじゃありませんかね。他にだってあります。三井環元検事による検察の裏金告発問題、高知白バイ事件の冤罪の可能性と警察ぐるみの隠蔽……。

閑話休題。
「判断材料は手許の資料しかない」とも書きましたが、その点でもこの第5検審はおかしなことをしています。

この場合の「手許の資料」とは、「告発された内容」のことです。ところが第5検審は、どういうミスかその告発内容以外の、「土地の購入資金に充てた4億円についても収支報告書にうその記載をした」という、新たな容疑を犯罪事実として追加しているのです。つまり、手元にある資料以外のものをも独自に捜査しちゃったことになる。まあ、それを新たに告発するのはいいのですが、でもその場合も法的というか論理的には「2度の議決を経て強制起訴となる」のですから、その件についてはもう1回議決しなくちゃならないことになるわけです。

さらに、この第5検審、ほんとにちゃんと審査をしたのかも疑問な部分があるのです。このメンバーが第1回の審査会を開いたのが9月7日。陸山会事件の関係資料は厚さが20cmで2000ページに及ぶというんですが、それを9月14日の第2回審査会で議決にこぎ着けるわけです。これ、どうなんでしょう? みんな、ちゃんと資料に当たったなんて、信じられます? なんか、予断があって簡単に議決しちゃったんじゃないのって、思っちゃいますよね、ふつう。

今回の「小沢起訴議決」は、村木訴追における前田検事のフロッピー改ざんが明るみに出る前の判断でした。つまり「起訴」の持つ責任の重みが改めて問いかけられる前の議決だった。マスコミは「政治とカネ」のワンフレーズ報道の大合唱で、国民世論は嫌疑を検証する必要もなく熱くなっていました。検審の審査員たちはそんな空気に影響されていなかったのか? 予断とはそのことを言います。

米国の陪審裁判では、陪審員はものすごく厳しく選出されます。当該事件のことをマスメディアの報道で知っているか? 関係者と利害関係がないか? 事件に主観的な先入観を持っていないか? そうやって弁護人、検事双方からふるいにかけられ、「十二人の怒れる男」たちが、いや女たちも、時には数日もかけて選ばれるわけです。でも、日本では裁判員もこの検察審査員も、そんなに厳格には選ばれていないようです。そしてまあ、前にも書いたように、議事録もない(!)わけで、彼らに予断があったかどうかという私の疑義は事実上検証不能なんですが。

ただね、おかしいのはそれだけじゃないんです。例の平均年齢問題。あまりに密室審査なので検審事務局が世論に押される形で審査メンバー11人の平均年齢を出してきました。それが最初は30.9歳。でも、おいおい、これはいくらなんでも日本人社会の年齢構成から言っても若すぎるんじゃないかと疑問が出た。そしたら1人足し忘れがあったとして、33.91歳と訂正された。で、足し忘れた審査員の年齢は37歳だって説明したわけです。でも、計算合わないでしょ。37歳だった場合は平均で34.27歳になりますから。でも新聞もそのまま記事にしちゃったんですよね。そしたらまたそれじゃ変だろ、って声がわき起こった。当然です。でまた訂正と相成った。で、結果的には34.8歳だった、と。まあ、これでもずいぶんと日本人社会の構成から言って不思議に若すぎますがね。

ま、そんなのは本来は枝葉末節な話なんですが、でも検審が変だと思い始めたらそんなことまでじつに気になるのです。だって、検審事務局は、この年齢問題を「足し忘れ以外の10人として計上した数字自体に誤りがある。この数字(30.9歳)はお忘れ頂いた方がよい」「基礎とした数字が間違っていた」と言ってるんです。で、しかも11人の審査員の年令公表は「具体的には特定にも繋がる恐れがありますので、お答えしておりません」ときた。年齢から個人が特定されるなんてことだったら警察の犯人捜査ももっと容易になるはずですが、まあそれをさておいても、じゃあ、1人だけ公表されちゃった37歳の人の個人特定の「恐れ」はどうなるんでしょうかね? その人は人身御供ですか?

不信は続きます。ないのは議事録だけじゃなく、審査会がどこで開かれたのかその会議室名も「公表できない」審査会を何回開催したかも「言えない」って言うわけです。おかしくね? どこの国ですか、ここは?


検察審査会の責任と権力のアンバランスが、いまになってとても不気味だと感じています。なぜなら、責任を取らない権力は独裁であり、その力の行使は暗闇から手を出して逃げ去るリンチと同じ構造を持っているからです。検審には、つまり、リンチが可能なのです。それは恐ろしい発見です。

とどのつまり、私たちは、何人たりとも犯罪者はぜったいに見逃さないというがっちりした120%の安全社会を欲しているのか、それとも、絶対に無実の者を陥れることのない、ゆったりした80%の安心社会を目指すのか、の選択なのかもしれません。前者は必ずや冤罪を生むでしょうし、後者は犯罪者を逃しもするでしょう。もちろん両者の兼ね合いが望ましいのですが、その両方に振れながら社会は進んでいくのでしょう。そして、そのとき自分は、この命題の主語の位置にいるのか、目的語の位置にいるのか。両者の選択は、その違いかもしれません。それはつまり、権力をどれだけ信用できる社会なのか、ということでもあるのですが。

さ、ここまでで検察、検察審査会のおかしさをまとめてみました。でももう1つ、おかしなものが浮き彫りになっています。この蘭の前段で触れた、マスメディアの奇怪さです。朝日の社説は、ここ最近でもまれに見るひどさでした。検察のおかしさ、それに追随した自分たちのおかしさ、そしてそれを上塗りする検審=正義説に則った社説や論説。

ネット上にはこれまで表に出てこなかったミニメディアの言説が渦巻いています。わたしはマスコミを「マスゴミ」と書くような輩の文章は端から捨てていますが、時には自分も「こりゃあゴミだ」と思うような新聞記事に出くわすことがままあります。日本のマスメディアのいびつさ。そこを指摘し続ける最近の日本の独立系のフリーランスジャーナリストたちの言説がとても新鮮で力強い。マスコミの無謬神話なんぞとっくに破綻しているのですが、その破綻具合を言語化する強いメディアがこれまではありませんでした。しかし、いま、ネット上のミニメディアというべきストリーム映像による個人放送やブログ、ツイッターなどが連携し始めています。ミニコミからマスコミの間に、そういうメディアが育ち始めています。

おそらくそのメディアによって、検察の無謬神話の次には、マスコミの無謬神話がこれから目に見える形で崩壊すると思います。

October 04, 2010

やはり検察が変だ

新聞記者も取材の前にはある程度自分なりの構図や物語を考えます。そうじゃないとインタビューしても質問が定まらないからです。ところが、取材の醍醐味はいかに自分の思い描いたストーリーがはずれるか、なのです。こちらが想像できるようなことは読者も想像できる。しかし事実は往々にして想像の範囲を超えていました。ときに取材対象者すらも自分ではそうだとは気づいていない、そんな予想外の事実や意味をいかに引き出すか、それがインタビューの面白さです。

そういうことを続けていると、他者という存在はなんと凄いものだろうという畏敬が生まれてきます。若いころには小説を出したりもしましたが、少なくとも私の虚構の想像力など事実の前ではたかが知れていると思い知ったのも新聞記者ならではの経験でした。

検察もまた、捜査に当たっては事件の「筋読み」をします。それは新聞記者と同じです。警察を介さず、検察が自ら直接捜査する特捜部事件はこの筋読みがすべてを左右します。なぜなら、ほとんどを個人で行う新聞記者と違って、チームで取り組む特捜部は筋を読み違えてもなかなか方向転換ができない。こりゃダメだと別のネタを探せばいい気楽で身軽な新聞記者と違って、年に1度か2度の大ネタを外すことは特捜検事の出世には致命的なことなのです。だから慎重にも慎重を重ね、筋読みの確度を高めるのです。で、そうするとなおさらその筋からはずれられないという矛盾に陥るのです。

郵便不正事件の村木・元厚労省局長のえん罪(未遂)事件も、こうした筋書きから逃れられなかった硬直した特捜検察の大罪です。しかもこれは、いま紙上をにぎわす前田検事のフロッピーディスク改ざんが問題の本質なのではありません。本質は、検察が村木さんは無罪だとわかっていたのに(実際、公判3日目には公判担当検事が上司に無実だと申告していたのです)、そのまま筋書き通りに有罪論告を行ったことです。前田検事のFD改ざんはその氷山の、目に見えやすい一角に過ぎません。

これは公的な人格を抹殺するという意味で殺人を試みるに等しい行為です。しかもその有罪論告はもちろん検察のトップも了承していた。いったい、どういう民主国家がこんなことをするでしょう? まるでナチスやスターリンです。その罪の大きさを、検察はわかっているのでしょうか? そうして、検察トップもまたその共犯だということを。

筋書きに合った調書を取るのを得意とする(業界用語で「割り屋」と呼ばれます)この前田検事の関与した事件には、民主党の小沢元幹事長絡みの「西松建設事件」や「陸山会事件」、当時の佐藤栄佐久知事らが起訴された「福島県知事汚職事件」、元公安調査庁長官を一審有罪にした「朝鮮総連事件」と、いずれも容疑者から事件関与を認める供述を引き出し調書にまとめたものの、共通して公判で否認に転じられている怪しいケースが多いのです。

前田検事が「筋書き」に合わせて証拠を捏造する検察の象徴だとしたら、少なくとも彼の関わった事件はすべて直ちに訴追・公判を一時停止し、供述調書を含めた証拠の一切合切をすぐにも洗い直さなければならないのがスジでしょう。これは検察の公訴権の土台を揺るがす大問題なのです。なぜなら、司法当局を信用できない国家は民主国家ではあり得ないのですから。

そこに検察審査会が小沢元幹事長の強制起訴を議決しました。小沢氏の一連の「政治とカネ」問題の端緒は、公設第一秘書の大久保氏が、前田検事の取り調べで容疑を否認から「大筋で認めた」と転じたことでした。

検察審査会は正しい判断をしたのでしょうか? ならばいいのですが、もし違っていたら?

検察が起訴した事件はこれまで99%までが有罪でした。なので「起訴=有罪」という方程式が成立すると見なされています。しかし今回、村木さんの裁判でそれが崩れた。それでみんなが慄然としているときに、この検察審査会による「起訴」です。その起訴はすでにかつての起訴ではないはずです。起訴は昔の起訴ならず、ってやつでしょう。おまけに、検審は、白黒は裁判所がつけてくれ、という判断。検察の起訴は、こいつはクロだから裁判でそれを追認しろ、っていう勢いなのですが、検審はそうじゃあないようだ。

にもかかわらず、起訴は起訴として与野党かまわず政界もメディアも「小沢はヤメロ」の大合唱。いったい村木裁判から何を学習したのか?

検察審査会の問題は、……長くなるのでそれはまた次回で書きましょう。