2002/12「残酷な恐怖が支配する」
米国に「銃規制に反対する女性の会」という団体がある。「女はみんな銃規制に賛成だという神話に風穴を開けよう」という勇ましい標語で「もし女たちが丸腰なら“やめないと撃つわよ”と言っても強姦魔たちは聞く耳を持たないでしょう」と怖がらせるのである。
武器は通常の商品とは需要の仕組みが異なる。平和な時代の武器の需要は、本来は平和なのだから必要ないもののはずなのだが、そういう直接の必要性ではなく今後のために、あるいは何かのために必要になってくる、という漠然たる思いが素となる。これがしばしば妄想へと走る。妄想は際限がなく、よって需要もまた際限がなくなる。
なぜこうも銃による殺人が多いのかを問うドキュメンタリー映画が米国でヒット中だ。監督兼インタビューアは突撃取材が身上の映像作家マイケル・ムーア。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」というこの怪作は、高校生2人が13人の生徒・教師を射殺した1999年のコロラド州コロンバイン高校事件を軸に進む。事件に銃は責任がないとする銃規制反対派に対して、この題名は、自殺した犯人2人が乱射直前に早朝ボウリングをしていた事実を挙げて「ではボウリングが事件の責任を負うべきか」と皮肉る反語だ。
人口約2億6000万人に2億丁の銃器が個人所有されている米国では銃器殺人犠牲者は年約1万5000人。ならば銃の多さが原因か。しかし、隣国カナダは人口3000万人で800万丁もの銃が家庭に散らばるのに、同殺人は毎年100〜200人にとどまる。
ムーアの突撃インタビューは銃規制反対の最右翼NRA(全米ライフル協会)会長チャールトン・ヘストンに及ぶ。この老俳優は「米国には多民族が暮らしているからだ」と推論する。
ムーアはカナダでもアジア人や黒人など少数民族が30%もいる事実を反証として挙げる。ヘストンは答えに窮し、さらに6歳の少年による銃の誤射で死んだ6歳の少女のために陳謝の一つもないのか、と迫られて不機嫌に黙したきり席を立つのである。
結局この映画で明らかになることは責任の所在ではなく責任の不在だ。銃規制反対派は何も考えていない、という事実である。銃がなければ襲われるという恐怖と脅威を撒き散らしながら、しかしその先のことを考えない無責任である。
ブッシュ外交もこれに似る。テロの脅威を振りまきそのために圧倒的な武力を用意する。だが、ひいてはそれがどこに向かうのかを実はだれも考えていない。
米国はいま、実はかつてなく恐怖にとらわれているのである。しかしこの国では臆病であることは最も恥ずべきこと。だから力に頼る。必要以上に力を使うことを志向する。
しかし、弱虫であることを極端に嫌う者は、じつは自分の中の弱虫を最も恐れる臆病者なのだという逆説に、アメリカは気づいていない。そういう文化では、恐怖に駆られた者たちがその恐怖を抑え込むためにも必要以上に銃を撃つのだ。武器とは、恐怖を勇敢さに変えてくれる即席装置なのだから。
人間は、生き物はもともと小心なもの。それを認めてもっと肩の力を抜けば楽に生きられるのに。それは他者にとっても生きやすい環境のはずだ。イラク攻撃が既成事実として動き出しているような年の瀬に、弱虫であることを恐れない国家を夢想している。