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クローゼットに迷い込まないための「ブロークバック山の案内図」

◎「愛とは自然の力」の二重の意味

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

 「Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。この「ブロークバック・マウンテン」で中心を成す「愛」は、いつも山や川や湖といった「自然」の中で生きていた。その事実。「愛とは、自然の形作ってくれた力」。あのはるかなブロークバック・マウンテンが彼らに与えてくれた力なのだ。そしてじつは、彼らの愛は、その自然の助けなしには生きられなかったのである。

 このコピーの二重性は象徴的である。しかも原作のアニー・プルー、脚本のラリー・マクマートリーとダイアナ・オサナ、そして監督のアン・リーの意図はあからさまなほどに共謀的で明確だ。

 エニス・デル・マーとジャック・トゥイストの愛の交歓はほとんど(4年ぶりのやむにやまれぬモテルの一夜を除いて)美しく瑞々しい山々と木々に囲まれ、抗い難い川の水の流れをまえに営まれる。対して彼らの日常は、埃舞う乾燥しきった下界での出来事だ。エニスにとっては無教養で小心で疲れ切ったアルマと泣きわめく赤ん坊たち、そしてうまくいかない仕事。ジャックにとっては15歳になっても字も書けない学習障害を持つ息子(原作)やしゃしゃり出る義理の父親。出逢いではあれほどかわいかったルリーンがすぐに逆毛を立てた酸素漂白ブロンドのタバコぷかぷかテキサス女に変身してしまうげんなりさ加減。しかも老いた実の両親のいる実家のひからび具合といったら!

◎混乱とすり替えを総動員させる確信犯

 私たちはすでにここで、そうした日常への嫌悪の反作用として同性愛と共示される「瑞々しさ」「美しさ」に抗い難く誘われてゆくのである。読者が/観客が同性愛者か否かの問題を超えて、埃っぽさやオムツの臭いや夫婦の諍いといった機能不全の乾いた生活を選ぶか、すべての煩わしさを脱ぎ捨て裸でジャンプしてゆくあの澄んだ水を選ぶかという問題(そりゃだれだって後者を選びたくなるでしょう)。

 読者/観客はこうして軽く混乱させられる。なぜならこれまで、異性愛の読者/観客の大半にとって同性愛とはむしろ荒涼たる性の砂漠のことだったはずだから。同性愛が「生活」を離れたものであることは思い描かれ得たが、それは「瑞々しい自然」へと向かうのではなく、「飽くなき放逸」へ「薄汚れた地獄」へと堕ちるものだったからである。

 この小説/映画が「ゲイのステレオタイプを打破」したといわれる所以の1つはそこにある。たとえ男らしいゲイを出してきても「ゲイ」を描くだけでは固定観念を破ることはじつは難しい。アン・リーたち制作陣はだから、「自然の力」まで総動員させてその共示性と価値観とのすり替えを謀ったのである。

 観客はここで、自分が同性愛を求めているのか瑞々しく美しい自然を求めているのか、あるいはその両方を求めているのか(そういえば自分もかつて昔、どこか忘れてしまったはるか遠くに、こんな疼くような甘酸っぱい季節を置き去りにしてきたのではなかったか?)、それらを解決する余裕なく(あるいはその軽い混乱を楽しみすらしながら!)ストーリーにはまり込んでゆくのだ。

 映画は「これはゲイのカウボーイの話ではない。もっと普遍的な愛の物語だ」と宣伝されるが、これが「ゲイ」をプロモートしていないならば何だというのか。いやそれはしかし、右派の文脈での物言いである。これは「プロモート」ではない。これはむしろ、汚名の返上なのである。「同性愛」というものに塗りたくられた歴史的文化的宗教的なスティグマを熨斗【@のし】を付けてお返しする、これはじつは頬かむりした確信犯の仕業なのである。

◎すべての背景にクローゼットの罪業

 ところが、ここまで来て私たちはその「美しく」「瑞々しい」はずのホモセクシュアリティが大きなしっぺ返しを孕んでいることに気づくのだ。ジャックがタイヤレバー(タイヤのゴムを外すための鉄棒)で殺されたのかどうかというホモフォビアとゲイバッシングの問題だけではなく(ちなみに、この原作も映画も語り尽くさないことが多い。あたかもそれは私たちの現実生活で、事実がすべて私たちに語られ知られ得るものではないのと同じように。私たちはかなりの部分を事実ではなく解釈によって生きているのだ)。

 それは家族の問題である。制度としてではなく関係性としての。

 エニスはアルマに離婚を告げられる。ジャックの息子のことなどどこかに忘れられる。そうして2人が望んだはずの男同士の家族としての暮らしも、エニスの語った9歳のころの記憶、男2人で暮らしていてタイヤレバーで虐殺されたアールという男の話でもって端から雁字搦めにされ動き出すことさえかなわなかった。

 そのすべての背景に(同性愛者としての自分を隠匿している/隠匿せざるを得なかった、仮想の場所としての)クローゼットの問題がある。小説も映画も後半に向かって、テーマを密やかに同性愛からクローゼットの問題へと移行させてゆくのである。

 エニスの泣き方はまさにその伏線だ。彼の心はクローゼットの中にあった。しかもそれがクローゼットだとすら知らなかった。だからそこから横溢した最初の涙を嘔吐だと勘違いし、ジャックに「おまえをあきらめられさえしたら(I wish I knew how to quit you)!」と告げられたときも「心臓発作なのか燃え上がる激情の横溢なのか」わからない泣き方でしか泣けなかったのである。

 そうしてこのとき、すべての厄災の原因は同性愛にあるのではなく、クローゼットの罪業(あるいはクローゼットを強いる時代の罪業)なのだと判明するのである。

◎入り子細工として提示される4つのイメージ

 ひとはクローゼットに籠っている限り幸福になどなれはしない。家族も裏切る。自分の心も裏切る。すべての親密なものたちを裏切るのだ。そしてあのブロークバック・マウンテンとは、そのクローゼットの反動としての、さらに仮想の理想郷の記憶でありながらもその実、より甘美で広大なクローゼットの装置のことでもあったと暗示されるのである。

 いみじくもジャックが思うのだ──「ジャックが思い出すもの、否応もなくわけもわからず渇望してやまないものは、あの時、あの遠い夏、ブロークバック・マウンテンでエニスが彼の背後に近づき、彼を引き寄せ、なにもいわずに抱きしめてきたあの時間そのものだった。ふたりに等しくあった、セックスとは違うなにかへの飢えが満たされていた、あの時間だった。(略)そしてきっと、と彼は思った。自分たちはきっとあそこから、そうたいして遠くまでは行き着かなかったのだろうと。そんなもんだ。そんなもん」

 この隠れたメッセージは映画でも原作でも最後になって形を取ることになる。あのブロークバックの証しは、ジャックの実家のその彼の部屋の、文字どおりクローゼットの中に潜んでいたからだ。重なり合うあの2枚のシャツとして。そうしてもういちど、本当に最後の最後にふたたび、こんどはエニスのトレイラーハウスのクローゼットの扉の内側に、ブロークバックの絵はがきとともに。

 この映画が真に知的で雄弁なのはそのときだ。私たちはその最後に、入り子細工のように巧妙に区画され提示される4つの額縁イメージを見ることになる。

 1つは、不器用なエニスが初めて明確な思いとともに重ね直したシャツとつながる、絵はがきの枠に収まる彼らの愛の時間。次にそれを取り囲む四角いクローゼット。そのとなりの、窓枠の向こうのうら寒げな外部世界。そうしてもう1つ、スクリーンという額縁に囲まれたアメリカの(あるいは多人種制作陣の)、それらすべてへの批評的な現在である。

◎「I swear....」の次に続くもの

 この重層的な構造を観客に提示しながら、「ブロークバック・マウンテン」はじつに静謐な雄弁さと訥弁さをもって私たちにつぶやきかけるのだ──「I swear....(おれは誓うよ……)」と。

 その次に来る、いまだ言葉にならなかったエニスの思いを言葉にするのは、そうしてその時点からすでに20年以上を経ている私たちの宿題なのである。なぜならそのときエニスのクローゼットの扉は、そのときもなおクローゼットではありながらも、私たちに向かって、少なくとも開かれてはいたのだから。【本文中の原作引用は筆者訳に拠る】
(了)

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