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「木乃伊之吉」を救う──あるいはホモフォビアの陥穽

 木乃伊(ミイラ)という語をその名に含む、あらかじめのスティグマとカップリングされて読者に提示された、「人間というより」「ぼうっと部屋に紫のかたまりが入り込んできたと思」わせるようなこの「いやな奴」を、これから救わなければならないと自分で決める。決めたらまずは、誰から救うのかを次に見定めなくてはならなくなる。その最初の課題から、じつはじつに厄介なのだ。

 島尾敏雄の『贋学生』は「木乃伊之吉」(きの・いのきち、と呼ぶのだろう)と「私」と友人「毛利」の三人の物語である。学生である「私」と「毛利」が「木乃」という医学部の学生に誘われるままに長崎への三人行を行うところから話は始まる。金回りがよく、宝塚のスターを妹に持つという良家の「東京の坊ちゃん」らしい「木乃」は、「私」と「毛利」にその妹を紹介しようと働きかけ、さらには「私」の妹の見合い話もまとめようと奔走する。その間、おそらく六月だろうと思われる時期から残暑までの数カ月間、「木乃」はほんとうは「木乃」という名前ですらない贋学生だということを「私」たちに悟られることなく「私」たちの生活に闖入し、攪乱し、そしてそれら嘘のことごとくがばれそうになったある時に、あたかも真夏の蒸し暑い夜の夢のように忽然と姿を消すのだ。

 物語はそれだけである。真相は何だったのか、その謎解きもない。それなら安部公房の『闖入者たち』と同じような不条理小説かというとそうではない。公房の闖入者たちと違って「木乃」と「私」たちは互いに即物的な見返りを得合っている。それは「木乃」からたびたびおごられる酒食や、「私」が「木乃」から受ける数回の男色行為の描写によって、さらに「毛利」と「木乃」との同様の行為を暗示するさりげない数行によっても示される。なによりも異なるのは読中読後のわたしたちの不条理の感覚の原因となっているのが「木乃」の嘘であるということがわかっていることだ。

 「男色」と「虚言癖」という、もう一つのありがちなカップリングを見せるこのテキスト上の二つの汚名は、しかしそれらの直裁的な表出においては徹底的には深く指弾されることがないこともこの『贋学生』の特徴だ。そういう具体的な事実の表出によって「木乃」の人物像が読者に与えられるのではなく、「木乃」は小説の端緒からとにかくなんとなくいやな人物として記述され、「私」の目を通した、「木乃伊」に象徴されるような気持ち悪さの雰囲気として端から読者に刷り込まれてゆくのだ。そうして冒頭にも示したような「紫」色っぽい不気味さの基底音に見合うように、「男色」と「虚言」とがさしたる「私」の非難も拒絶もなくぽんぽんとさりげなく配置されるのである。

 「木乃」はその最初の登場の文から、つまり第一章の第二文で、次のような「疲れ」る男として読者に与えられる。

 ●毛利に対して私は、さほどに気をつかう必要はなかったが、木乃が毛利だけでなく私に対しても、しきりに気を使っていることが、私の気持ちを一層疲れさせた。(p7=講談社文芸文庫に拠る。以下掲出ページは同)

 それだけではない。「木乃」に対する「私」の視線は初めからはなはだ意地悪である。

 ●木乃は早速、毛利の方に身体をよじって何かしきりに話しかけ、そして毛利がいかにも面白そうに笑いこけているのを、皮肉な気持ちで私は感じていた。(p8)
 ●どこといって言いようはないけれど、何となくいやしい仕草が、私をけげんな気持ちにさせた。(p9)
 ●私は木乃の気持ちの動きをひどく軽蔑した。(p9)

 テキストは過去形の時制を取りながらもあたかも現在進行中の出来事のように記述され、しかもときおりすべてが終わった時点からの省察も綯い混じる形を取る。したがって、読者としてはこれらいやらしさの感覚が、書き手である「私」の、出来事の最中の感想であるのか、それとも「木乃」が「贋学生」であると知れてからの後付けの感想であるのか判読できない。しかも、「どこといって言いようはないけれど、何となくいやしい仕草」(p9)はやがて巧みにその「木乃」の肉体的特徴への嫌悪へとずらされるのである。前記四文の「木乃」の全体的な雰囲気への嫌悪は、その同じ第一章の最後で早くも次のように「肉」付けされるのだ。

 ●紫の色彩から私は芝居の女形を連想し、木乃の腰が目立って太いことや、ふくらはぎも亦たっぷり肉付きのあることなどが、どうしたことか私の印象に強く残った。(p12)
 ●顔だけでなしに、腰と言わず足と言わず、いつも女のようにみがいているような感じを受けた。(p12)
 ●木乃は煙草をくわえた。(中略)両手の指のそれぞれが、べったり磯ぎんちゃくの運動のように、白い煙草をケースから抜きとり、口にくわえ、そしてマッチをすって火をつける。(p13)

 いわば“男”の不快の感覚を総動員して提出されるこの「木乃伊之吉」を、そんなにもいやならば付き合わなければ簡単じゃあないのかと思うのだけれど、柄谷行人は講談社文芸文庫版の『贋学生』に収めたその秀逸な解説「『謎』としてとどまるもの」の中でこれを夢の不可抗力性に比し、「最初の出会いにおいてすでに私は疑うことを放棄している」と記述している。けれど、ではなぜに「私」はその「木乃」の「夢」を見つづけたのだろうか。

 フロイトを持ち出すまでもなく、より具体的な例証を昨年春の米国の学会誌「異常心理ジャーナル」の中に見いだすことができる。ジョージア大学の研究者が、異常心理としての「ホモフォビア(同性愛嫌悪症)」の正体を実験によって分析しようとしたものだ。

 実験は異性愛者を自称する被験男子学生六十四人を対象に、まず彼らを同性愛を嫌悪する者とべつに気にしない者たちとに分類して行われた。彼らのペニスに計測器を装着してともに男同士の性交を描いたゲイ・ポルノのヴィデオを見せる。すると二グループの勃起率に明らかな差異が認められた。ホモフォビアの男子たちの八〇%までに明らかな勃起が生じ、その平均はヴィデオ開始後わずか一分でペニスの周囲長が一センチ増大。四分経過時点では平均して一・二五センチ増になった。対してホモフォビアを持たない学生では勃起を見たのは三〇%。しかもその膨張平均は四分経過時点でも五ミリ増にとどまった。

 この実験結果に通底する事例をインターネットのニューズグループの書き込みにも見ることができる。ゲイの話題を扱ったニューズグループの書き込みの中に、毎日必ずといってよいほどの自称ストレートたちの罵倒の言葉がアップされるのだ。彼らは同性愛を異常、病気、変態と罵り、地獄に堕ちろとか銃で撃ち殺してやるとか書き込んでは素性を明かさずに消えてゆくのである。ニューズグループとはもとよりあるテーマでの情報交換を目的に開放されたネット上の架空空間である。したがって同性愛に関するグループにはほんらい同性愛者たちしかアクセスしない。彼らはそこでポルノ写真を交換したり情報をやりとりしたりしている。そんな場所にそんなにも同性愛が嫌いな輩が、わざわざアクセスしては貴重な時間を費やして一件一件「ホモ」たちの書き込みをブラウズし、写真をダウンしてみては反吐が出るとかの感想を吐き出し、憎悪の殴り書きをしては立ち去ってゆくのである。

 この二つの事例を突き合わせてみると、わたしたちは重大に入り組んだある矛盾に行き当たることになる。つまり、ホモセクシュアルたちが非難するホモフォウブの異性愛者たちのそのホモフォビアは、じつは異性愛者たちの中のホモセクシュアリティの裏返しの自己嫌悪であるということ。すると、同性愛者たちが非難しているのはじつは異性愛者ではなく自らの同性愛を認めない隠れホモたちであるということになる。したがって同性愛者たちによるホモフォビア解体のアクティヴィズムは異性愛強制社会全体の構造に対してではあるものの、じつはその中の隠れホモたちへの攻撃と炙り出しに向かうということであって、圧倒的多数を占めるとされる“真”の異性愛者たちにはあまり関係しない、内部抗争に矮小化されることになるのである。

 冒頭に記した「木乃伊之吉を救う」という行為の、いったい誰から彼を救うのかという見定めは、かくして「ホモ同士で勝手にやってればいいんじゃないの?」といった自家中毒に陥ることになるのだ。

 しかしこの命題のたてかたには統語上の主語の位相のずれが存在している。そのすべてはおそらく同性愛者は男性で全人口の一〇%だとか五%だとかいやそれよりもっと少ない一・六%程度だとかといった神話を背景にしている。この場合の「同性愛者」とは、本質主義でも構成主義でもどちらからでもよいがとにかく自らに同性愛者たる言葉を与えている者を指す。しかしホモフォビアとはもとよりある個人の中の異性愛性と同性愛性との葛藤の結果として現れる。それはセルフアイデンティフィケイションとは別の問題であり、むしろセルフアイデンティフィケイションの過程のせめぎ合いの(あるいは所与のものとしての異性愛信仰から生まれる無意識の齟齬の)結果で生まれる鬼子なのだ。

 フロイトは『性欲論三篇』の中で「人間に関しては純粋な男性も純粋な女性も心理的・生理的レヴェルでは存在しない。人間はすべて自らの性とその異性の性の特徴の混淆を示していて、能動性と受動性というこの二つの心的特徴が混じり合っている」と記している。そしてそのあとに性対象倒錯(inversion)を防止するためには(防止しなくてはならない理由は記述されない)社会的オーソリティによる禁止をしなければならないと説くのである。

 われらが友人のタイモン・スクリーチが今春まとめ上げた『春画』(講談社選書メチエ、高山宏訳)では、この「社会的オーソリティによる禁止」のなかった江戸時代のジェンダー、セクシュアリティの模様が厖大な資料によって一気に現代の知のパラダイムからひっぺ返されて提出されている。彼は「江戸という所でのジェンダーの意味」について、「今日とちがって、江戸の性【@セクシュアリティ】は同性愛と異性愛という二項対立【@バイナリズム】に拠って立ってはいなかった」として次のように記す。

 ●男色と女色の区別をしないというのではない。した。しかしその区別は程度の上の区別であって、何やら絶対的なもの同士の対立というものではなかったのである。(p50)
 ●要するに異性愛者【@ヘテロ】、同性愛者【@ホモ】をはっきり峻別できる固定された人間類型と見る感覚がなかったのである。男色、女色は要するに行為【@・・】の謂【@いい】であって、人間を指す女色-家、男色-家という語はない。(p50)

 すなわちスクリーチは、社会的オーソリティの禁止のない社会である江戸では「どんな男にしろ女も少年も愛することが可能と考えられてい」て、「春画の力学【@ダイナミクス】の中で」もその社会に忠実に性対象は男であっても女であっても「根本的なちがいはな」く、「自在無碍な二つのジェンダー間の移行」が「可能」なのだとするのである。その上で彼はこれを現代の「両性愛【@バイセクシュアル】」とするのも「正確ではない」と断る。なぜなら「江戸には両性愛が横断していくべきそもそもの二項対立の感覚が存在していなかったからである」と説くのだ(第二章「分節される身体」、1江戸のジェンダー)。スクリーチを補足すれば、彼がここで「男色、女色は要するに行為の謂」とか男色は「一人の人間が丸ごとそうだというより、一人の人間の一個の趣味という扱い」とか言うときに、この「扱い」は逆に現代に置き換えることもまた正確ではない。

 このとき、「木乃伊之吉」を誰から救うのかという問題は、「ホモ同士で勝手にやってればいいんじゃないの?」という次元から現代の知【@エピステモロジー】一般への課題として普遍化する。なぜなら、問題は同性愛者が全人口の一〇%とか五%だとかいったことなどではなく、敢えていえば「男なんてみんなホモ」だからである。もちろんこれは女でも少年でもこんにゃくでも木の股でも「愛することが可能」という意味において。そこではむしろ、“真”のヘテロセクシュアルの男性こそが一〇%とか五%とかのレンジでしか存在しない。そうしてここまで来て、「木乃伊之吉」は“ホモ”でもある“異性愛者”の「私」からこそ救われなくてはならないということがやっと明らかになる。

 さて柄谷行人は前述の解説評論の中で「木乃は『私』たちに男色を強い、」と物語のあらすじとともに「木乃」を紹介している。しかし、「木乃」と「私」の性交渉はどう読んでも「強い」られたものとは読めない。せいぜい「私」の「拒みきれない」性交渉といったところだ。それにしてもどうして「男色」が近代以後の文脈で登場するときには、あたかも自ら掘った穴に自ら落ち込んでいるかのような自家撞着的なプロブレマティクスとして「強いる」とか「拒む」とかが必ず言挙げされ、必ずなんらかの名目や譲歩節が男色の成立条件として言い訳のように提示されるのだろうか。

 最初の性交渉は「木乃」が「私」の「冷毒」なる赤い斑点を治療するという名目で行われる。「木乃は私のパンツをずるずるとはいで行」き、「私は自分の股間に熱い息吹を感じ」、「ふと木乃が大きく動き、私の股間は木乃の二つの臀部を感じ、私の位置は巧妙に木乃の手で転倒させられていた」のだが、「全くの受身でいる姿勢は、私に初めてのことであり、それの対応のしようがない」。これが第十四章「奇妙な処方」での描写である。いまひとつの交渉らしきものは後半に入った第二十二章「電話の効用」での描写だ。妹の見合い話を進行中の「木乃」が「私」の実家に泊まることになり、「木乃と私は二階に寝」ることになる。夜中に「私の腰のあたりになま臭い魚がまとわりつくので」「そのつもりで魚に手をかけてはがそうとすると、ずしりとした手応えがあったので眼が覚め」る。「木乃は」「寝返りを打ち、その拍子に彼の首を私の股の所にもって来た。そして彼の右手がするすると伸びて来て、私の股間は彼につかまれていた」。だが、「私は木乃をはっきり拒絶することが出来ない気の弱さを露呈し」、「彼のその無礼をはっきりはねつける勇気が出ないのはどういうことだ」と当惑するのである。

 「対応のしようがない」「勇気が出ない」のは「木乃」が旅行をおごってくれたり宝塚スターの「妹」を紹介しようとしてくれたり妹の見合いを進めてくれたりしている恩義からか、それとも「冷毒治療」や「寝ているときのおぼつかなさ」を男同士の性行為の「譲歩」条件として言い逃れられると思ってのことか。いやそもそも、この「木乃」の男色行為は「木乃」の人物像になんらかの不快の(あるいはさまざまな不快のヴァリエーションの一例としての)飾り付けをする以外に何の意味があるのだろう。「木乃」はべつに男色者でなくとも「小屋者の女形のような陰にこもった女性的な感じ」(p44)でなくとも、「胆汁質」(p63)で「尻は女のように大きくたれ下がっているように見え」(p100)なくともぜんぜんよいではないか。

 しかし「私」はその倒錯者「木乃」を通してやがて自分の中の女性性を次のように述懐するのである。

 ●私は自分がいくらかしおらしく見え、そして自分の身体に女性を感じたりする。自分の身体の汚れや不如意や欠点を化粧と衣装で扮装するという思いつきは、何となく女性身らしく、私の即物的な戒律がそのような扮装と大して違いがなく、わが身があわれになるようだ。(p139−140)
 ●私は、私の耳のあたりやうなじの辺が、女になったのではないかと錯覚した程だ。私は木乃のしつこい言葉を否定しながら、耳と皮膚がそれを喜び始めていた。(p198)

 男性の他者の中に存在する女性性への嫌悪、そうして決定的にはならないまでも自らの中の女性性と男性性との葛藤の自覚──。

 ある不可解な人物が既成の関係性の中に不意に性的にも割り込んできてそれを攪乱し、そしてやはり唐突にいなくなる、というストーリーはピエル・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(一九六八年制作、ヴィデオは東芝EMI)にも共通する。しかしその方向性は、この『贋学生』とはまったく逆である。このホモセクシュアルの映画監督/作家の登場させる「木乃」は完璧な美青年であり、この美青年に対するホモフォビアや不快はこの作品にはまったく存在しない。「木乃」と同じように不可解でときには「男色を(も)強い」る男なのだが、「女のような尻」は持っていないし美しいというだけで謎めいていることさえもが美徳になるこのありさまだ。これは制作された六〇年代後半当時の政治思想を基盤にイタリアの階級闘争とブルジョワジーの欺瞞を描いたものとされているが、じつはたんに男の裸を撮りたくて政治思想を衣服にまとっただけの映画ではある。だが、それでもここでは若きテレンス・スタンプ演じる不意の客であるこの青年の美しさに工場経営者の一家全員が、メイドを含め息子、娘、さらにあの能面のシルヴァーナ・マンガーノ演じる妻やその夫までもが顔を歪ませ彼とそれぞれに秘密の性交渉を持ち、そうして下層階級の出であるメイドは現人神となり、資本家一家のほうは、息子は自分の絵に小便を引っかけるし娘は目を開けたままベッドで動けなくなって入院するし妻は街で若い男をクルーズするし旦那は駅で全裸になって砂漠を彷徨うし、といった階級的因果応報譚に忠実に人生の断裂的大変身を経験してゆくのである。性はここではまがりなりにも人生の欺瞞を暴く起爆剤として提出される。

 対して『贋学生』では「木乃」によって「私」にはエクスプロージョンもインプロージョンも起こらない。起こるのは「私」の例の赤い発疹の「冷毒」からの回復と、「木乃と会ってからすべて妙な具合に解放されてしまった」(p194)という癒しである。あたかも「木乃」が他者の厄災をすべて引き受け、自らそれら厄災もろともその身に火を放って蒸発してしまうというどこかの土地の身代わりの呪術師であったかのように、「私」の忌むべき内的女性性はこうして昇華されるのである。

 「木乃」はそのとき、感謝されこそすれ忌み嫌われるべき人物ではないはずだ。「木乃」が消えたあとで「私」が「だが一体木乃伊之吉は何を目的で私たちに近づいたのだろう」と思い返し、「その目的が何であったか私には分からない。むしろ利益を得たのは私たちの方であったと言えそうではないか」(p260)と自問するなら、その答えはまさに「イエス」なのである。じじつ、「私」はいままさに雨中に逃げ去ろうとする「木乃」の後ろ姿に向けて「落ち着け、待て」と声をかけながら、「奇妙なことに、もう確かにうさん臭い存在に違いない木乃伊之吉に、今迄にない愛情のかたまりみたいなものが胸につき上げて来たのを知」(p257)るのだ。

 そう、感謝と忌避とは相反しない。すなわちその感謝に辿り着く道がゆいいつ忌み嫌うべき人物への自己嫌悪の、すなわち自らのホモセクシュアリティとホモフォビアとの投影と仮託と身代わりとを経て、その引き換えとして初めて達成されるものなのだとしたら、それはつまりは自己の外に忌み嫌うべき身代わりの他者の想定こそが必要だったということであり、自己の一部を自己の外に強いて切り離すという奇妙にねじくれた意図の(つまりは強制的な異性愛主義に屈した意図の)反映であるのだ。「私」が感じた「木乃」への「愛情のかたまりみたいなもの」は、それはまさに廃棄する自己の一部への未練と哀惜にほかならないのである。みずからの内部に在っては愛されず、捨て去るときにのみ余裕を持って自覚できるつねに過去形としての愛の発露。すべては「私」の一人芝居。そう思ってはたと思い返してみれば、『贋学生』のテキストのスタイルは「木乃」が嘘の信憑性を高めるために多用した「電話の効用」とまったく同じく、全体をとおして一度も「私」の心象以外に人物描写や事件描写になんの客観的な物証を示さない形を取っていたではないか。おまけに「木乃」の妹と吹聴される宝塚スターは、まさに彼女こそがゆいいつ「私」たち三人の男同士のホモソシアルな関係性の古典的なアリバイとして繰り返し閉鎖的に内輪同士で交換され、三人のホモセクシュアリティを隠蔽するかのようにホモソシアルでホモフォビックな幻想を補強し、幻想であることが明らかであるにもかかわらずほとんどすがりつくような強さで、あえて、強いて、信じつづけられていたのだ。あたかもヘテロセクシュアリティこそがそこではフィクションであったかのように。

 それらもろもろを引き剥がして考えてみれば、「木乃」はおそらく、“あんな”男色者でなくともよかった。「木乃」はおそらく、女のような尻をした胆汁質のステレオティピカルないやな奴でなくともよかった。“オカマならでは”の虚言癖の変態でなくともよかった。テレンス・スタンプ並みの絶世の、妖しい美青年であったってよかったのだ。彼もまた、いっさいの説明を放棄して「夢」のように登場し性交し去ってゆくのだから。

 だがおそらくその場合、「私」はきっと彼と寝る。拒絶もなにも、あらかじめの逡巡はそれこそ放棄してあるいは圧倒的に圧倒されて、一度はぜったいにじゅんすいに惚けたように彼と寝るはずだ。その場合、「私」の自ら忌む内的女性性は昇華されないばかりか深化しさえするだろう。「木乃」は身代わりの棄却でなく永遠の(あるいは達成されない、あるいは逆にさらに忌むことさえするような)憧憬として「私」の中に種子を宿すだろう。そのとき、『贋学生』のテキストは『テオレマ』の結末のように絶対的に解体してゆくのである。それはおそらく、困るのだ。その覚悟ができていないときには、したがってこのテキストはこのエッセイの冒頭に記したように、あらかじめのスティグマとカップリングにされた「木乃伊之吉」なる人物のいやらしさこそが必要だったのである。

 こうして「木乃」の“不快”は、「私」の“回復”のためにのみ冒頭からデッチ上げられることになった。それが見えたとき、この『贋学生』の物語はすべて「木乃」のではない、じつは「私」のほうの嘘の(あるいは虚構の)、捏造された「男色者」を生け贄とする切り離しと棄却の物語だったという、ぼうっとした紫の色を帯びはじめるのである。“男”とはこうしていま、ほとんどがホモフォビアを介してしか異性愛者になれないほどに情けなくホモセクシュアルなのである。

 それにしても島尾敏雄の困難──。このエッセイは作家本人の実生活を対象にするものではないが、特攻の問題にしてもこの「木乃」のことにしても、なにやらわからぬ外部からの力に対し、この作家はそれに対応する自らの内部を、たとえ時代の拘束としてそれ以上は不可能であったり不能であったりはしながらも、つねに見出そうとはしているのである。『贋学生』の「木乃」の嘘は、つまりは間接的な「私」の嘘は、やがてその十年後の『死の棘』で、あたかも地中深くひっそりと根を伸ばしていたかのように「私」本人の嘘として真正面から噴出することになる。「木乃伊之吉」の次に今度は、「島尾敏雄」をこそ救ってやりたくなってしまうほどに、それは作家自身の手によって徹底的に責められることになるのである。
(了)

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