Main

December 02, 2006

『三島由紀夫のストーンウォール』

  先日、ある日本人女性がゲイ男性の中にいたストレート男性と話をして「あなたはノーマルなんですね」とコメントしました。一瞬の間を置いて大爆笑となったのですが、その一瞬のフリーズの理由を彼女は理解したでしょうか・・こんな「うっかり」のゲイ侮蔑がニューヨークに住んでいてさえも日本人の口から漏れてしまいます。しかしそろそろあなたも「これはちょっとまずいかも」と思ってはいませんか? なぜならあなたも、自分の周りに「予想」以上にゲイが多いことにそろそろ気づきはじめているでしょうから。もしそうじゃないなら、それはあなたが「偏見ある人物」としてこっそり敬遠されている証拠かもしれません。アメリカ生活のほかの問題と同様、ここでも知ることから始めてはどうでしょう? これから4回に渡り、この欄でゲイに関するいろいろな話題をわかりやすくご紹介します。

  冒頭の話はべつに彼女に限ったことではありません。かなり知的な人や地位のある人でさえもゲイに関しては腰が引けるふりをする人や下品な冗談や当てこすりしか言えない日本人が数多くいます。「ノーマル」の反対は「アブノーマル」。つまり「異常なヘンタイ」。これではゲイ男性も立つ瀬がありません。彼女に悪意がなかったのは確かでしょうが、同時に他者に対する繊細な「意識」もないと見られたのも確かでしょう。

  こういううっかりした、けれどとても失礼なゲイ蔑視が日本人コミュニティーに蔓延していることははしなくも先日、ある日本語新聞が毎年6月最終日曜に恒例となっているマンハッタンのゲイ・プライドを報道したときにも明らかになりました。記事はNY市警などの警官で作る全米ゲイ組織「GOAL」の行進を取り上げたものですが、その見出しがなぜか「私たちは警官である前にゲイなのよ」と意味もなくオンナ言葉になっていたのです。

  いや、「意味もなく」ではありません。これはじつは言外に「オカマはこうしてオンナ言葉でからかうべきものなのだ」というメッセージをとても雄弁に伝える役目を果たしました(同時に、オンナ言葉の奥に潜む拭い去りがたい女性蔑視も)。
  もっとも、同紙編集部に確認したところそういう意図はなかったと平謝りでしたから問題はここでも同じく、そういう意図がないのにそうやってしまう「意識」の「なさ」なのです。

  これらはすべて、同性愛に対する日本での条件反射的な対応をそのまま米国生活にも持ち込んだものでしょう。しかしそれはあまり通用する理論ではありません。通用しないどころか逆に「ホモフォーブ(同性愛者をさしたる論理的理由なく異常に嫌悪する恐怖神経症の人)」という、「未開人」に匹敵するレッテルを貼られることもあります。「うっかり」が「怠慢」と責められるアメリカでその種の論理が通用しないのはほかにだって貿易摩擦の問題やセクハラ関連の議論でもご存じのとおりです。

  どうして意識が低いのか。それは「ゲイ」が「性」に関することがらだからです。セックスに関してはおおやけに話さないという習慣が東アジア文化圏にはあります。よって日本では性科学でさえも正当に発展していません。真っ当な議論がないからいつまでも下世話なゴシップの次元から抜け出せないのです。

  じつは私も恥ずかしい思いをしたことがあります。日本の英和辞典で知った単語で、ゲイの人に向かって「ファゴット」という単語を使ったことがあるのです。その場でこれは大変な侮蔑語だと教えられ大汗をかきました。日本の辞書はいまでも同性愛者のことを一様に「ホモ」とか「オカマ」とかの侮蔑語で訳出しているものが多く、さらにそれが侮蔑語であるという意識すらないのです(これは27万項目を収録し最も権威ある辞書とされる、ついこの99年4月に出たばかりの研究社リーダーズ英和辞典第2版でも直っていません)。

  対してアメリカでは60年代後半からの性解放運動以来、「性」も「愛」と同様、幸福追求のために正当に考えられて然るべき人間性の一つなのだとされてきました。だから徹底的に議論にもなる。もちろんその分、宗教右翼からの侮蔑や罵倒も激しくなっていますしテロや虐殺さえも起きていますが。

  ただしその議論の論理的帰結はすでに定まっています。つまり同性愛は人間以外の自然界を見ても異常でも病気でもないということ。異常や病気があるとすればそれはすべて「隠す」という行為および「隠さねばならぬ」という心理的抑圧から派生したものであるということ。たとえば異性愛者であっても、それを「隠さねばならぬ」としたら頭がおかしくなってしまうことは往々にしてあり得るでしょう。そういうことです。

  それらの抑圧の原因は米国の場合すべて宗教的な諸説にあります。その意味ではユダヤ人蔑視などとほとんど同じ構造です。ところで日本ではゲイ蔑視の「理論的後ろ盾」というものがなに一つないというのがじつに不思議なのです。あるならぜひ教えていただきたいのですが。

  さて、その議論の突端は、じつはいまから30年前にこのニューヨークのダウンタウンで起こりました。

  30年前の1969年という年は、日本中で『黒猫のタンゴ』が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、ここアメリカではニクソンが大統領になり、ウッドストックが開かれ、空の上ではアポロ11号が月に到着した年です。

  グリニッジ・ヴィレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」という名前を一度も聞いたことがなくても日本人なら当然です。日本のマスメディアは90年代に入るまでここで起きた同性愛者たちの“蜂起”をただの1行も報道していません。アメリカのメディアですら、たとえばタイム誌がそれに関して恐る恐る触れたのは事件後4カ月も経ってからでした。
  なぜなら、同性愛者であることは当時、アメリカでも個人的な「趣味」の問題だと考えられていたからです。ゲイ男性の自伝として史上初めて全米図書賞を受賞したポール・モネットの『Becoming a Man』(93年)は、当時の時代状況を「ヒッピーの性革命はだれもがだれとでもセックスできるということではあったが、ゲイであってもいいということではなかった。女性にも有色人種にも戦争にも政治哲学はあったが、ゲイにはなんの政治的意味もなかったのだ」と書いています。

  もっと奇妙な逸話もあります。ある作家が70年代初期に、思想・政治分野を扱う専門書店でゲイに関する本があるかと訊いたら「ポルノや変態モノは置いてない」と言われたというものです。店の本棚には女性、少数民族、さらには動物への抑圧という本まであったというのに、ゲイに対する抑圧は「なかった」。

  順が逆になってしまいました。69年6月28日土曜の未明にストーンウォールでいったい何が起きたのか・・伏線としては前日にゲイたちのアイドルであり、ゲイのファンたちをとても大切にしていた女優ジュディ・ガーランドが死んだことが挙げられます。その夜はこの偉大なアイコンを偲んで数多くのゲイたちがヴィレッジに集まっていました。そんな大切なとむらいの通夜にNY市警がゲイバー摘発にやってきたのです。

  当時のゲイバーでは酒の販売が禁止されていました。それを黙認して警官たちは賄賂を受け取り、定期的に形だけのガサ入れをやっていました。この夜も簡単なはずでした。なにせ相手はヤワなオカマたちなのですから。

  例によって店の従業員と女装の売春夫たちが手錠をはめられ逮捕車両に押し込まれました。バカにされののしられ警棒で小突かれながら「なんなのよ!」とだれかが警官に文句を言います。「こんな夜くらい静かに酒を飲ませてよ」と。「ファゴットが一丁前の口を利くな」と警官が言います。「なにがジュディ・ガーランドだ」と別の警官が笑います。

  だれかの心でなにかが切れます。それはそうでしょう。愛する者が死んだその夜に、最もまじめでひたむきな状態の人間の心が足蹴にされているのです。野次馬だった遠巻きの多くのゲイたちの中に、警官隊に向けて小銭を投げつける者が出てきます。小銭は小石になります。次にはビール瓶になり路端のゴミ箱になります。逆上する警官隊に対抗して「ゴー、ガールズ!」と号令が上がります。すると女装のゲイたちやレズビアンの勇者たちがいっせいに警官隊に歯向かいはじめたのです。道路のアスファルトが剥がされ、駐車メーターのネギ坊主も引き抜かれ投げつけられ、「反乱」はやがて数千人を巻き込んだ大暴動になりました。なにも失うもののないなにもかもを奪われていた者たちが、その夜初めて奪われたくないものに気づいて拳を握り立ち上がったフでした。

  暴動は、昼間はバー側がタダ酒を振る舞う酒宴となり(酒を売るのは違法でしたから)、夜には警官隊との衝突を繰り返して3日3晩続きました。これがその後に「ストーンウォールの反乱」と呼ばれるものでした。

  これがどのくらいゲイの人権運動に影響があったかといえば、ストーンウォール以前にはゲイの人権デモはせいぜい50人も集まればよかったのに、それが翌年のストーンウォール記念デモでは3千人のゲイがクリストファー・ストリートを練り歩いた、と言えばわかるでしょうか。ゲイ団体も事件前は全米でわずか50ほどしかなかったのが1年半で200団体にも増えました。73年末までには、大学や教会や市単位などでその数、全米で合計1100団体以上にも膨れ上がったのです。

  ところで、この「ストーンウォール」というバーのことを、この事件前に知っている著名な日本人がいました。
  作家の三島由紀夫です。

  あのストーンウォールの反乱の1、2年前の夏だったそうです。日本からやってきた三島にそこで出遭った、現在はニューヨーク大学で映画研究コーディネーターを務めるジェレマイア・ニュートン氏(50)に話を聴きました。
  三島は当時のニューヨーク文壇の関係者らと数人でヴィレッジに来ていました。まずジュリアスというゲイバーで軽く飲み、それから隣りのブロックのストーンウォールに向かいました。しかし三島はその入口チェックで入店を断られたそうなのです。

  「日本の偉い作家なんだって一生懸命説明したが、あのころアジア人なんてだれも鼻にもひっかけなかった。人種差別もひどい時代だったから」とニュートン氏は言います。日本学者フォービヨン・バワーズが、三島の自決直後の70年12月3日付ヴィレッジ・ヴォイス紙に追悼文を寄せています。そこに「ある夜、三島はただセックスだけのために渡米してきた。一緒に食事をとり、私に細かく自分の求める相手を描写したあと、どこか適当な場所に連れて行ってほしいと頼まれた」とあります。それがニュートン氏の語るのと同じ夜のことだったのかは確認できません。バワーズは自分は役不足で、三島をタクシーに乗せたとしか書いていず、その後でどうなったか不明です。ただしニュートン氏の語る「その夜」、白いスーツを着て意気込んで向かった三島のダウンタウンでの男漁りは、けっきょく虚しかったそうですが。

  三島とストーンウォールとのこの背離は、いまから思えばとても象徴的です。三島は自分が入店を断られたあのゲイバーからその翌年に画期的なゲイの人権運動が始まっていたのだとも知らぬままに死んでいったのでしょう。日本では同性愛は多く情緒的批判者から右翼思想や天皇制と結びつけられエセ病理学的にも揶揄されてきました。つまりオカマはオカマのままだったわけです。が、ここアメリカではオカマは次第に誇り高き「ゲイ」になっていきます。それは民主主義と結びつく運動です。6月の「ゲイ・プライド」とはそういう意味なのです。民主主義にはなんらの感情移入もできなかった作家三島由紀夫は、その意味でストーンウォールとは無関係です。彼はゲイではなく、ただのヘンタイ男色者として死んだのでした。もちろんここでいう「ヘンタイ」とは、自分が同性愛者であることを恥じている、その「恥」の意識の変態性を指しています。
(続く)

『We Are Everywhere』

 先日、AP通信が興味深いニュースを流しました。テキサス州議会ただ1人のオープンリー・ゲイ(ゲイであることをべつに隠したりしていない人を「オープンリー・ゲイ」と呼びます)の議員グレン・マクシーさんが、ある日のジョージ・W・ブッシュ州知事との会話を披露したのがニュースになったのです。

  ──「知事が私の肩に手を掛けて、ぐっと顔を近づけてきてこう言うんだ。『グレン、私はきみを個人として人間として尊重している。だからわかってもらいたいんだが、これから私がゲイに関して公的に発言するその内容は、きみ個人とはなんら関係のないものと受け取ってほしいんだよ』」。

  ことし4月にテキサス州議会で子供の保険法改正案が可決された際の話です。知事が同改正案の提案者でもあった彼のもとにお祝いに歩み寄ってきて、ついでにそういうことを口にしたのですね。話はまだ続きます。
 ──「それでもちろんこう返答したよ。『知事、あんたがゲイのやつらは子供の親としてふさわしくないと言うなら、それはあんた、つまり私のことを指して言ってるんだよ』。そうしたら知事は近くの別の議員のところに声をかけに行ったがね」。
  来年の大統領選でのフロントランナーであるブッシュ知事ならではの暴露話ですが、さて、このニュースからいろいろなことが読み取れます。

  その最初はもちろんマクシー議員が意図したように共和党の反ゲイ姿勢、あるいは「そんな反ゲイ政策も一皮むけばこんなまやかしでしかない」というメッセージです。

  キリスト教保守派を主要な支持基盤とする共和党はむかしから、「聖書の教えに反する」とされる同性愛者たちを「ライフスタイル」すなわち選択可能な「趣味の問題」(つまり快楽のために敢えてこうした“悪徳”を選んだ人びと)として非難していますが、もう1つは、そんな「背徳者」に対して「個人」的には「尊重している」と発言したブッシュ氏の思惑です。
  氏は人柄の人としても知られていますからこれはそのまま、ほんとうに政治家としての建前と個人としての友情との狭間での彼の苦衷を察してくれという意味だったのかもしれません。あるいはもっとうがった見方をすれば、そんな共和党候補でも最近のゲイたちの政治力の増大は無視できず、それを牽制する意図があったかもしれないということです     
  ゲイの政治力というのはそれほどに強いものなのでしょうか? 日本のメディアでは同性愛者に関するニュースはほとんど皆無です。取り上げられる同性愛者はお笑いやスキャンダルの対象だったりするだけで、したがって「日本には本当のホモはいない」と本気で思っている人も少なくありません。「エイズは外国人の病気で日本人だったら感染しにくい」と思っている人さえまだいるほどですから。

  ところがアメリカに住んでいると前述のAP通信ばかりかニューヨーク・タイムズ、CNNといった主要ニュースメディアにゲイの話題が登場しない日はありません。

  1999年8月のゲイ関連のニュースには▽ジェニー・ジョーンズ・ショーでのゲイ殺人事件の再審詳報▽宗教界でのゲイ容認の動きとそれへの抵抗▽ゲイ向けの広告が増加中という話題もの▽米軍でのゲイ兵士殺人事件続報▽国防総省が兵士たちにゲイ容認教育を行うとの方針▽ボーイスカウトでのゲイ差別禁止判決−−など、APやロイターで1日平均10種類ほどものニュース配信がありました。

  その中で目に付いたのがやはり大統領選にらみの共和党の動きです。前回のドール共和党での大統領選挙の際には同党がゲイからの献金を返還したということが大ニュースになりました。が、今回は同党も早々と「ゲイからの献金歓迎」という声明を出したのがニュースになっています。

  「ゲイが共和党に寄付?」と思われるかもしれませんが、カトリックにも隠れゲイの司祭がいるくらいです、同党非公認ながらも全米で1万人以上の会員を持つ「ログキャビン(丸太小屋)・リパブリカンズ」という名前のオープンリー・ゲイの共和党員組織があるのです。前述したようにここは94年の中間選挙で共和党候補に計20万ドルの政治献金を行っていて、96年にもドール候補に寄付をしたらそのカネを突き返された。もっともドール候補はその後に平謝りに謝りましたが。ゲイの共和党議員だっています。最近も「実はゲイだった」とやっとのことで告白した上院議員もいました。
  オレゴン州議会でオープンリー・ゲイの共和党議員チャック・カーペンター氏は「ゲイで共和党員だなんて、しばらくはまるでナチス党員のユダヤ人みたいに思われてたがね」と回想しています。

  ところで具体的に、いったいゲイというのはどのくらいの政治勢力なのでしょう? ニューヨークタイムズによれば、前回96年の大統領選出口調査で、じつは5%もの人たちが自分のことをゲイであると明らかにしています(ゲイというのはレズビアン女性のことも含む用語です)。これは全米のヒスパニック系の投票翼窒ニほぼ同じです。またユダヤ系と比べても2倍近い数字でもあります。

  さらに考慮しなくてはならないのは、ここで5%というのは、自分で自分をゲイだと言える人たちだけの割合だということです。いまでも抑圧や差別の多いキリスト教社会では、自分をゲイだとはっきり言えない人たちがその陰にそれこそごまんと控えています。すると、ゲイというのは潜在分を含めてやはりかなりの勢力になる。

  しかもゲイと自称している人たちはもちろん自分たちの置かれている政治的状況にきわめて敏感な人たちでもあります。ゲイであることに誇りと自信を持っている人たちです。それは例えば、ゲイ人権団体から寄付を呼びかけるダイレクトメールが届いたら、ほかのどの社会層よりもはるかにそれに呼応する人たちの数が多い、ということでもあります。アメリカのゲイ団体の集金力は、一時期のエイズ関連寄付の多さとともに特筆に値するものです。

  ちなみに7月中旬、民主党の筆頭大統領候補ゴア副大統領はゲイ団体から15万ドルの寄付を受けました。
     
  このゲイのネットワークはかなりのものです。おまけにこれは人種などほかのマイノリティ層と異なり、すべての人種、すべての民族、すべての職種、すべての階級、すべての地域、すべての宗教、すべての(思春期以降の)年齢層を横断するネットワークなのです。こういうカテゴリーは人類史上、ゲイ以外に存在したことがありません。

  いや、そうとも言えないか……あえて言えば「左利きの人」とか「太った人」とか「近視の人」、逆に言えば「目のよい人」「かっこいい体型の人」とかいうカテゴリーも同じですね。こういうのはたしかに地球上のどの層にもどの時代にも存在する。
  話は横道に逸れますが、例えば知識人や芸術家にゲイが多いという“俗説”があります。たしかにチャイコフスキーやヘンデルなど歴史的に同性愛者の大音楽家はいますし、近場ではレナード・バーンスタインなどもゲイでした。画家のフランシス・ベイコンもゲイでしたし、哲学者のミシェル・フーコーとかヴィトゲンシュタインもそうですね。みんなが知っているウォルト・ホイットマンやテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティなど、作家業にもたくさんゲイはいます。『ファルコナー』を書いたジョン・チーヴァーも同性愛者だったことを実の娘が彼の死後に明かしています。

  しかしだからといって芸術家にホモセクシュアルが多いとは言えない。たまたま有名人だから同性愛者だと暴露される率が多いというだけの話かもしれないし、たとえば芸術家とはちょっと違うかもしれないけれど「ヘアメイク・アーティストってゲイが多いですよね」と同意を求められても私には「そうとも言えないんじゃないか」としか答えられません。「だってゲイの人って美的感覚に優れてるっていうじゃないですか?」と返されたりしますが、そういうのは才能もあるけれど基本的には努力した結果の獲得形質であって、抑圧のある社会でゲイの人がしっかり生きていきたいと願うときに、美的感覚とか芸術的技術とかそういうものを糧にしてしか生きられなかった、だから努力した、そういうことの単なる結果なのかもしれませんよね。

  つまり芸術家とか美的感覚を必要とする職業とかというのは、「ゲイだからなれた」のではなく、もともとの自分の美的・芸術的感覚と才能とをよりよく培っているかどうかの問題であって、それはむしろ「ゲイでもなれた」ということだったのではないかと思う。知識人だって成就の条件はゲイネスではなくてその知能と精進ですし。

  いずれにしてもどこにでもどの時代にでもどの層にでもゲイはいます。「オンナっぽいやつ」だけがゲイだ(レズビアンの場合はその逆です)と思ったら大間違いです。「オンナっぽい」とゲイだとすぐ知られるかもしれませんが、この世にはそれと同じ分だけ(あるいはそれ以上に)「オトコっぽい」ゲイもたくさんいます。彼らは「オトコっぽい」分だけ周囲に気づかれずに済んでいるだけの話で、ひょっとするとコソコソしている分だけ「オンナっぽい」ゲイたちよりも「オトコっぽくない」のかもしれない、という面白い逆説まで読み取れたりします。    

 閑話休題。さてそのような強力なゲイのネットワークは最初から存在したたわけではもちろんありません。
  前回の『三島由紀夫のストーンウォール』でも紹介したように、ゲイたちが政治意識を持って本格的に活動を始めたのは1970年代に入ってからです。72年の民主党の党大会から同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。そのときはゲイとレズビアンは差別撤廃の対象とはなりませんでしたが、ウォルター・クロンカイトは当時のニュースで「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

  さすがです。やはり彼は一級のニュースマンだった。日本のジャーナリストで同性愛のことを揶揄や嫌悪なく普通の顔で普通に話題にできる人はY2Kを迎えようとする現在でさえも数少ない。

  もちろんジャーナリズムの中にもゲイは同じ割合だけいます。90年には「全米レズビアン&ゲイ・ジャーナリスト協会(NLGJA)」という組織もできました。NYタイムズやウォールストリート・ジャーナルといった大マスメディアの記者たちから大学でジャーナリズムを専攻している学生まで、もちろんTVジャーナリストも含めて現在は全米で1000人が会員です。中にはピュリッツァー受賞ジャーナリストもいます。

  さて、これがゲイたちが「We Are Everywhere(私たちはどこにでもいる)」と豪語する実態です。
  かつて同性愛者であることは最高の脅しのタネでした。だから同性愛者たちは国家機密に関する職には就けなかった。しかしこれは簡単なことです。同性愛が秘密でもなんでもなくなれば済むことなのですから。クリントン政権では、ゲイネスがすでに恥ではなくなったという認識のもとに今年こうした国家公務員のゲイ排除の職種差別も撤廃しました。
  日本の朝・毎・読・日経・産経・東京・共同・時事、及びすべてのテレビ局、そのいずれの組織にも私が個人的に知っているゲイの記者がいますが、ゲイであると知られるのを怖がってひた隠しに隠している人がほとんどです。それは傍で見ていてかわいそうなくらいです。優秀な記者も少なくないのですが。

  ゲイのジャーナリストも、じつはゲイであることを隠しているほうが逆に危ないのです。隠すからそれをネタに脅すやつがいる。前回も書きましたが、「隠す」という行為はそれほどまでに不健康で危険なことなのです。
  わかっているけど……彼らはそう言います。それほどまでにホモフォビアの呪縛は厳しい。次回はそのあたりを説明しましょう。
(続く)

『男社会のホモフォビア』

 1999年9月5日付ニューヨーク・タイムズ日曜版に、元大リーガーでサンディエゴ・パドレスを最後に96年に引退したビリー・ビーン氏(35)の大型インタビュー記事が掲載されたのに気づいた人もいらっしゃるでしょう。ビーン氏はこの夏、自分がじつは同性愛者だったとマイアミ・ヘラルド紙のインタビューで明かしました。今回のNYタイムズの記事はいわばその掘り下げ詳報ですね。

  前回、同性愛者がどこにでもいるということを書きましたが、それは「男らしさ」が支配するアメリカのスポーツ界でも同じです。しかしじつのところ、スポーツ選手で現役時代に自分がゲイだと公表した男性は、いままでにただ1人、フィギュア・スケートのルディ・ガリンド選手しかいません。女性のほうはテニスのマルチナ・ナヴラチロヴァやゴルフのマフィン・スペンサーダヴリン、自転車のミッシー・ジオーヴらがいるのですが。

  ただし現役引退後にゲイだったと公表した男性選手はかなりいます。フットボール界でもデヴィッド・コペイやロイ・シモンズがそうでした。飛び込みの連続五輪金メダリスト、グレッグ・ルゲイナスもゲイでした。レッドスキンズのタイトエンドだったジェリー・スミスは86年にエイズになって初めて自分がゲイだったと打ち明け、その7週間後に亡くなりました。
  現役時代にカムアウト(ゲイであることを公表することをこう言います)するのが難しいのは、とくにチームスポーツで著しいようです。それはもちろんチームメイトたちからの拒絶を恐れてのことでしょう。仲間から嫌われてはチームスポーツは成立しませんから。

  ビリー・ビーン氏はメジャーリーグでの9年間を「片足は大リーグに置きながらももう片足ではバナナの皮を踏んでいるような気持ちだった」とタイムズの記事の中で述懐しています。それを裏打ちするように、同紙での他選手の反応の1つにヤンキーズのチャッド・カーティス外野手のコメントも載っていました。「このロッカールームの全員にアンケートをとったら、きっとみんな、だれかチームメイトの1人が自分のことを(性的に)品定めしてるなんて、考えるだけでもいやだと答えるだろう」。

  これはじつに「男性」的な感想でしょうね。いつもは女性を「性的に品定め」してはばかることない男性異性愛者たちが、自分たちが「品定め」されることになるなどとは思いもしなかった、あるいは思いもしたくない。なぜなら、そんなふうになったら彼の拠って立つところの「世界と歴史の主人公」たる「男性」性が否定されてしまうからです。さまざまな物語の中でいつも「主語」として君臨してきた自分が、その同性愛者のテキストの中ではいつのまにか「目的語」になって存在する。そのことへの恐怖。それはまさしく男性としての「主体性」を揺るがす大問題なのです。

  しかし、それにしても同性愛者はただそんなことだけでほかの男性異性愛者たちの脅威なのでしょうか? 「主語」とか「主体性」とか、そういう“哲学”的な話題のほかに、じつはとても興味深いデータがあります。

  「同性愛」という言葉を聞いてふつうでなく反応してしまう人たちがいます。これを心理学者のジョージ・ワインバーグ博士が72年に「ホモフォビア(同性愛恐怖症)」と名付けました。高所恐怖症とか閉所恐怖症とか広場恐怖症とか、そういう一連の恐怖症の1つです。むろんこの場合、治療の対象は高所や広場でないのと同じように同性愛ではありません。治療の対象は同性愛をそうやって病的に嫌悪する人たちのほうなのです。

  さて、そのホモフォビアの研究で米国の学会誌「異常心理ジャーナル」が97年にジョージア大学の研究者の実験を紹介しました。
  実験は異性愛者を自称する被験男子学生64人を対象に、まず彼らを同性愛を嫌悪する者とべつに気にしない者たちとに分類して行われました。それで何をどうしたのかというと、その彼らのペニスに計測器を装着して、双方のグループにともに男同士の性交を描いたゲイ・ポルノのヴィデオを見せたわけです(すごい実験ですよね)。すると2グループの勃起率に明らかな差異が認められました。

  なんと、ホモフォビアの男子グループの80%の学生に明らかな勃起が生じ、その平均はヴィデオ開始後わずか1分でペニスの周囲長が1センチ増大。4分経過時点では平均して1・25センチ増になったというものでした。
  対してホモフォビアを持たない学生では勃起を見たのは30%。しかもその膨張平均は4分経過時点でも5ミリ増にとどまったのでした。

  これはいったい何を意味しているのでしょうか?
  この実験結果に通底する事例をインターネットのニューズグループの書き込みにも見ることができます。ゲイの話題を扱ったニューズグループの書き込みの中に、毎日必ずといってよいほどゲイたちを罵倒する言葉がアップされています。彼らは同性愛者たちを「異常」「病気」「変態」と罵り、「地獄に堕ちろ」とか「銃で撃ち拾してやる」とか書き込んでは素性を明かさずに消えていきます。

  ニューズグループというのはもとよりあるテーマでの情報交換を目的に開放されたネット上の架空空間ですから、したがって同性愛に関するグループにはほんらい同性愛者たちしかアクセスしません。そんなにも同性愛が嫌いな輩が、わざわざそんな場所を調べ出してアクセスしては貴重な時間まで費やして1件1件「ホモ」たちの書き込みを読み写真をダウンロードし、ヘドが出るとかいった感想や憎悪の殴り書きをしては立ち去っていくのです。

  この執拗さはどう考えても普通じゃない。
  さて、なんとなくホモフォビアの正体がわかってきたでしょう? つまりホモセクシュアルを嫌悪する男性に限って、じつはホモセクシュアルのことが気になって気になってしょうがないのだということ。もっと言ってしまえば、彼らはホモセクシュアルなことに性的に興奮すらするのだということです。
  そうです。同性愛者の存在は、異性愛者たちの内なる同性愛性を目覚めさせてしまうという意味でも大きな脅威なのです。ホモフォビアとはつまり、自分の中の無意識のホモセクシュアルな欲望への否定なのです。この解釈は実にフロイド的ですね。

  フロイドは人間はもともと両性愛的に生まれてくると指摘しましたが、たしかにまったく「ホモっ気」がなければ「ホモ」のことなど気にもならないし「ホモ」から「性的に品定め」されても動じる必要などありません。「ホモ」の話題でぎゃーぎゃー騒いだり罵ったりする男ほど“怪しい”とすれば、なんだか世の中の男性はみんな「隠れホモ」みたいに見えてきそうです。
  じつはそういう状態を表す言葉も社会学とジェンダーの学問領域からすでに生まれています。「ホモソシアル」という形容詞がそれです。日本語にするのはなかなか難しいのですが、要するに「男同士が社会の中で徹底的にツルんでいる状態」をイメージすればよいでしょう。日本語にはなりにくいがその意味するものはとても日本的な男たちの光景でもありますから、私たちにもけっこう容易に理解できるのではないでしょうか。このホモソシアリティには大きな特徴があります。
  1つは、ホモソシアルな関係というのは精神的にはとてもホモセクシュアルな関係なのですが、じっさいにはホモセクシュアルを極端に忌避するというものです。男同士ツルんでいても、ホモじゃないぜ、ということを見せつけるために異常な強さで同性愛的なものを排斥するわけです。

  忌避されるのはホモセクシュアルだけではありません。じつはホモソシアルな男性中心社会では、女性もまた彼らの異性愛性を証明するアリバイ的な道具でしかありません。ときには女性たちは男同士の絆の強さを示す、あるいはその絆を補強するだけのために、当の男たちの間で通貨のように交換されたりもするのです。それは男同士の付き合いのときにたとえば単なる「お茶くみ」に変身させられるどこかの奥さんとか、もっと極端に言えば同じ女性と寝たと言って「アナ兄弟だな」とか言って喜ぶ男どもなどに如実に現れています。

  つまりホモソシアルな社会というのは、そうした権力の中心にいる男性異性愛者以外の者たちにとってはたいへんな抑圧装置として働くということです。ゲイのことを考えることは、じつはそんな非情なシステムの在り方を変えていこうという試みでもあるわけなのです。

  スポーツ界というのはそうした「男らしさ」の権化の世界でもありますから、ホモフォビアが強いのもまあ頷けはします。そういえば「男の世界」である軍隊もまた似たようなメカニズムですね。米軍のホモフォビアはとても有名で、例の「(ゲイであることを)聞かない、言わない」原則はほとんど機能していません。ついでに言えば、軍隊にはホモフォビアだけでなく男の世界に割り入ってきた女性兵士に対する女性嫌悪(ミソジニー)さえ存在しています。まさに前述のホモソシアルの特徴そのものでしょう?

  さて、それをひっくり返そうとするゲイたちの試みの1つが「ゲイ・ゲームズ」です。82年にサンフランシスコで始まった4年に1度のこのスポーツの祭典は発足当初は「ゲイ・オリンピック」と名付けられ、その後に本家の米国オリンピック委員会に名称権の問題で訴えられて名称を変更しましたから、その騒ぎなどを記憶している人も多いでしょう。
  このゲイ・ゲームズは以来着実に参加者を増やし、94年にニューヨークで行われた第4回大会では8日間の期間中、競技参加者は世界44カ国から1万5千人。31種類の競技が行われて観客動員50万人を記録し、アマチュア・スポーツ大会ではそれこそ本家オリンピックを抜いて世界1の規模を誇るまでに成長しました。98年にはついに海を渡ってアムステルダムで開催されました。競技出場者も2万人に膨れ上がりました。

  「男らしさ」とか「より強く」とか、そういった旧来のスポーツの価値観を捨てて、参加する楽しさを原則にしていることも最近の商業主義的五輪よりある意味で本来の近代五輪の理想的イメージに近いような印象を受けますね。
  このゲイ・ゲームズを考えたのがメキシコ五輪で十種競技の6位に入賞した、薬学博士でもあるトム・ワデルでした。彼は68年のそのオリンピックで、アメリカの黒人人権運動の示威行為として手を突き上げて表彰台に立った米国黒人スプリンター2人への非難渦巻く中、その2人への支持声明を出したことでも知られています。
  そんな彼も86年にエイズと診断され、翌年に49歳の若さで亡くなりました。ですが、彼の遺志はいまでもゲイ・ゲームズに結実しています。

  かつてオリンピックの名称使用をめぐって争った米国オリンピック委員会も、90年に初めてのオープンリー・レズビアンの委員を採用したころからこのゲイ・ゲームズに協力を開始しています。同委の年間スポーツ・イベントのリストにも掲載するようになりましたし、ゲームズに参加しに訪れる外国選手たちのためにビザ取得で協力してやっています。日本からももちろん毎回、何十人もの選手団が参加しています。

  でも、この世界最大のスポーツの祭典「ゲイ・ゲームズ」が日本国内できちんと報道されたという話は、例によってまだ聞いたことがありません。日本という国がじつにホモソシアルだということを考えれば、日本という国そのものが見事にホモフォビックだというのも先ほどからの論理から言って当然といえば当然なのですが……。
(続)

『ゲイが集まりゃ桶屋が儲かる?』

 最近、マンハッタンのチェルシー地区を歩いたことがありますか? とくに八番街の15〜22丁目周辺です。つい数年前までは殺風景な茶色いビルの建ち並ぶだけの通りだったのですが、いまはやたらとカラフルでおしゃれなレストランやカフェが並んでいます。見ればいたるところにレインボウ・フラッグのワッペンが貼ってあったりします。

 この虹色の旗はゲイのシンボルマークです。いろんな色がともに1つの美しい虹を作る、というのが、性的にさまざまな人間の多様性を受容しようという訴えのシンボルになっているのです。つまりチェルシーはいまやすっかり「ゲイな」場所に様変わりしてしまっているわけです。

 「ゲイ地区」といえばかつてはニューヨークではグリニッジ・ヴィレッジでした。昔から自由人の住む「リトル・ボヘミア」として栄え、最初のゲイバー(当時はゲイという言葉はなかったので、花の名の「パンジー・プレイス」というのがゲイバーの婉曲隠語でした)も1919年にできています。この連載の初回に記したゲイ人権運動の嚆矢たるストーンウォール・インも七番街からクリストファー・ストリートをすぐ東に入ったところにあります。

 しかしビレッジは基本的には住宅地域で、道路も狭く商業施設のスペースも限られています。おまけにどんどん瀟洒になって家賃も高くなり、年齢層も高い金持ちゲイしか住めない場所になってきました。ゲイたちがチェルシーに移りはじめたのはそんなころです。チェルシーはそれまで特に八番街から西ではなんだか危険な感じもする地区でした。だから家賃も安くて、だから若いゲイたちも住むことができたのですが、そうやってゲイたちが入り始めてから街はどんどん明るく安全になってきて、今ではすっかりニューヨークでいちばんトレンディーな地区になってしまいました。

 そういえばサンフランシスコのカストロ地区も「ゲイの街」になってから見違えるほどきれいになりました。ウェストハリウッドもゲイ地区が最も輝いています。ケープコッドのプロヴィンスタウンやフロリダのサウスビーチ、キーウェストなど、ゲイのリゾート地は不況時でさえも賑わっていました。ゲイたちが来れば街はそんなにも様変わりするのでしょうか。

 チェルシーが注目されはじめたのはちょうどストーンウォールの25周年記念イヴェントが行われ、ニューヨークでゲイ・ゲームズが開催された94年ころからです。前後してヴィレッジにあったゲイ専門書店「ディファレント・ライト」が3倍の店舗面積を求めてチェルシーに移転しました。モデルみたいなかっこいいお兄ちゃんたちがウェイターをする「フード・バー」というおしゃれなレストランが出来たのもこのころですね。そういえば「マッスル・クィーン」「ジム・クィーン」(ジム通いと筋肉造りに夢中のゲイの若者たちを冷やかしてこういいます)の変形の「チェルシー・クィーン」「チェルシー・クローン」なる言葉が生まれたのも90年代半ばころからでしょうか。まるで絵に描いたようなきれいな肉体を誇り、ぴったりしたシャツを着てブランド志向で短髪で、「かっこいい」「トレンディー」という意味から「アンドロイドみたい」「頭悪そう」「お高くとまってる」といったマイナスイメージも抱えた言葉です。

 じつはゲイ男性たちのこの「筋肉づくり」は、80年代のエイズ恐怖から始まったものでした。陽に焼けた健康的な肉体は、たとえそれが人工的に作られたものであっても、あるいはそれだからこそ意志的な、エイズに対するアンチテーゼだったのです。

 その作られた美しい肉体がファッションとしての単なる記号になってくるのは、エイズ危機がどういう誤解からか「薄れた」と感じられてきた時期に一致します。もちろんこの「薄れた」という感覚はエイズ患者/感染者に対する同情や思いやりが「トレンド」になったことにもよります。例の、患者/感染者への「友情・支援」を示すレッドリボンなんてものが流行りだし、そういうふうにエイズ・フレンドリーであることを「エイズ・シック(chic)」と呼ぶ傾向さえ生まれました。レッドリボンが高給宝飾店からとんでもない高額なアクセサリーとして売り出されたのもこのころでしたね。

 92年ごろから94年ごろにかけてこうしてエイズ危機がファッションによって薄められて行く中、それまでエイズの汚名をまとっていたゲイたちの反撃もまた始まります。6月のストーンウォール記念イヴェントのテーマは93年には「Be Visible(目に見える存在になれ)」になりました。エイズによって二重の差別を受け、ふたたびクローゼット(ゲイであることを隠している状態)に閉じ籠もりがちになった傾向に対し、もう一度原点に戻って「カムアウトせよ」と訴える。エイズの汚名を脱ぎ捨てて、その暗いクローゼットから出てきたゲイの新世代は、エイズへのアンチテーゼではない、単なるファッションとしての美しい肉体の鎧をまとっていた、というわけです。

 もちろん、これはあまりに戯画化しすぎた分析です。ゲイといっても美しくない人のほうが圧倒的に多いし(失礼!)、チェルシーの風潮が全米に通じるかといえばカリフォルニアのゲイはまた違うしという具合にそれぞれさまざまです。忘れてならないのは、エイズに苦しむゲイはエイズに苦しむ異性愛者たちと同じくいまもたくさんいるということです。

 それでもこの歴史の戯画化と単純化をもう少し敷衍してみましょう。

 さて、よりヴィジブル(目に見えるよう)になって元気なゲイたちを(正確に言えばそれはゆいいつ白人ゲイ男性層だったのですが)生き馬の目を抜く米ビジネス界が見逃すはずはありません。

 やはり90年代に入ってから、メディアはこぞってゲイたちの可処分所得の多さを喧伝しはじめます。その先駆けとなったのはウォールストリート・ジャーナルの1991年6月18日付けの大々的な統計記事でした。米商務省国勢調査局と民間調査機関の共同調査によるその統計数字は、ゲイの世帯がアメリカの一般世帯よりはるかに年間所得や可処分所得が大きく高学歴で、旅行や買い物に多大な興味を示しているというものでした。

 その当時の統計結果を少し抜き出してみましょう。

  ▼一世帯平均年収はゲイ世帯で5万5430ドルで、全米平均より2万3千ドル多い
  ▼米国人平均個人年収1万2166ドルに対し、ゲイ個人は3万6800ドルと3倍
  ▼大卒者は米国平均では18%なのに対しゲイでは59・6%とこれも3倍以上
  ▼年収10万ドル以上の高額所得者はゲイで7%を占め、アメリカ平均の4倍
  ▼回答レズビアンの2%は年収20万ドルを超え、これはゲイ男性中の比率より多い
  ▼全米でゲイ男性とレズビアン女性が獲得する所得は年間で5140億ドル
  ▼海外旅行経験者はアメリカ人全体では14%だが、ゲイでは65・8%
  ▼航空会社のフリークエント・フライヤーズのメンバーも米国人全体で1・9%だった当時に、ゲイはその13倍以上の26・5%

 これを知ってアメリカの大企業がゲイたちをひそかに「上客」として狙いはじめたのです。(じつはこのゲイ金持ち説というのも私には大変戯画化されたものに見えるのですが、重要なのは事実がどうかというよりも、この場合はそんなマンガにもビジネス・マーケティング界というのは乗るものだ、という、そちらの事実のほうです)。

 そのときのWSJ紙の見出しは「根深い敬遠を捨て、ゲイ社会への企業広告増加」。同じころに《サンフランシスコ・クロニクル》紙も「隠れた金鉱ゲイ・マーケット」と書きました。「だれもがゲイ・ビジネスに乗り出そうとしている。ストレート(異性愛者)社会の気づかないところで、一般企業までもがみんなゲイ市場になだれ込んでいる」とのマーケッターの分析コメントがニューヨーク・タイムズ紙で紹介されたのは92年3月のことでした。

 90年代半ばにかけ、大企業がこうしてゲイ向けのマーケティングを本格化させていきます。アメックスは顧客の財形部門にゲイとレズビアンの担当員を置いてゲイの老後の資産形成などきめ細かな相談に乗りはじめました。アメリカン航空は94年からゲイ専門部門をつくってゲイ・イヴェントへの格安航空券の提供やゲイの団体旅行割引販売などを企画し成功します。そして95年4月にはニューヨークで初めて「ゲイ・ビジネス・エキスポ」が開かれ、チェイス・マンハッタン銀行やらメットライフ(保険)、メリルリンチ(証券)など、特段ゲイフレンドリーでもない企業の投資部門までが出展もしました。ジュリアーニNY市長も開会式に出席して「ニューヨークがこの素晴らしいエキスポの恒常的な拠点都市になることを希望する」と祝辞を述べました。石原都知事がそうしたことをするとは想像すらできませんが。

 つまりこういうことです。
 ゲイが集まればお金が落ちる。お金が落ちるところにはビジネスが発生する。発生するビジネスも「おしゃれなゲイ」という幻想に自らもオシャレになろうとする。するとそこにおしゃれな空間が誕生する。するとまたゲイたちが集まってくる。

 なんだか「風」と「桶屋」の循環関係みたいな話です。冒頭からの話に戻れば、チェルシーという地区の変身譚はこうしたじつに90年代的なお話なのです。(もっとも、ゲイたちはすでにいま現在家賃高騰気味のチェルシーから、その北のミッドタウン最西部クリントン地区に移りはじめているそうですが)。

 政治うんぬんが宗教的な思惑や偏見で煮詰まったりするときに、この企業の論理、はっきりいえば「おカネ」の論理はじつにすっきりとわかりやすい。おまけにここにゲイの投資家なんてものも登場してきますから、企業は、家族手当や扶養手当などゲイの社員を対象にした福利厚生にも目配りをしなくてはならなくなりました。なんといってもゲイの社員を差別すれば優秀な人材を逃すことにもなりかねませんし。

 かくしていまやゲイ雑誌などには高級時計や自動車、ファッション企業など、ふと見ると何という高級誌だろうと思うほどの一流広告主が並んでいます。それもゲイ・メディア向けにモデルを男2人にしたり女2人にしたり、ゲイのシンボルマークのレインボウ・フラッグを飾ったり逆三角形をあしらったりと、さすがプロの仕事です。ゲイの活字メディアへの広告の出稿量も、某コンサルタント会社が統計を取りはじめて4年連続で上昇中で、昨年は対前年比20%以上も増えたことがわかっています。好況を背景に他メディアも数字を伸ばしているのですが、主要新聞の広告量は5・6%、主要雑誌は9%の伸びでしたから、単純に成長率だけ比べればとんでもない数字だとわかります。

 先に私は「ゲイ金持ち説」を、これもまた戯画化されたものと書きました。簡単に理由を言えば、自分がゲイだと言える人は、自分にある程度自信を持っている人だからです(それは連載第2回の原稿でも少し触れました)。その陰に、いったいどれほど多くの、自分をゲイだと言えない人がひそんでいるか、どれほど多くの、自分がゲイであることを認めたくないと思ってしまう人が隠れているか、それを思えばゲイは一様に金持ちで美しくてオシャレで洗練されていて、などということは言えるもんじゃありません。だとすれば、この「ゲイ金持ち説」もあれもこれも全部がまた、じつはゲイの側からのとても戦略的なプロパガンダだということも疑えるわけです。

 ただし、そう戦略を張り巡らさねば戦えない状況が、今もまだゲイを取り巻いて存在しているのだということは、これまでの連載でわかっていただけたのではないかと思います。その状況とはまさに、圧倒的多数を誇る異性愛者である「あなた」たちの、強制異性愛的存在そのものなのです(そんなこと言われても困ってしまいますけどね)。

 そうした「あなた」たちに取り囲まれて、アメリカの青少年では同性愛を理由にした自殺が全体の30%もあります。言葉を換えれば、ゲイやレズビアンである子供たちは、そうではない子供たちより3倍も死を選ぶ確率が多いということなのです。

 それを知ってもまだ「あなた」が笑っていられるのだとしたら、「異常」とはどちらを指して呼ぶ言葉なのか・・それを知っていただくだけでもこの連載を行った甲斐はあります。
(終わり)

『反自然的な変態は殺されるべきか?』

 先日、4回の連載が終了したばかりだというのにまたまた登場ということになってしまいました。読者の方々からの反響が予想以上に大きく、まだ書いていないことがたくさんあるとお叱りすらいただいたからです。ゲイに関することを書き始めたら本が何冊あっても足りないことは承知の上です。なお、日本のゲイのことに関する状況論・哲学論的な論考としては、わたしが全面的に監修した『ゲイ・スタディーズ』という本が昨年、青土社から出版されています。かなり本格的な(つまりは読むのがけっこう面倒な)本ですが日系書店に頼めば取り寄せてくれるでしょう。なかなか刺激的なことが書いてあって、ご自分の人生観に「揺らぎ」を欲する人には最適な本かとも思います(ちなみにお買い求めになってもわたしには一銭も入りませんからこれは宣伝ではありませんよ)。さて、今回は3回の連載です。まずは最新のホットな話題からお話ししていきましょう。

 いま、日本のゲイの人たちの間でものすごく話題になっていることがあります。それは、この(1999年)9月と10月に日本のTBS系列で全国放送された「ここがヘンだよ日本人」という番組が発端です。

 スタジオに日本人を50人、さらにその対面に在日外国人をやはり50人集めて、ある一つのことに関して外国人たちが日本人にいろいろと文句をつける、というのが番組コンセプトです。番組ホストが北野たけしですから、面白おかしく、しかも刺激的に、かつでき得るならばちょっと知的にといったところを狙っているのでしょう。

 で、そこで同性愛のことがテーマになりました。日本人の席に集まっているのはもちろん日本のゲイとレズビアンの50人です。いままで2回にわたって激論が繰り広げられているのですが、日本人のゲイがこんなにあからさまに真剣に怒っているのが放送されたのは、おそらく日本のテレビ史上初めてのことです。そこで外国人の側から「ホモの子供が産まれたら殺す」という発言が飛び出して、スタジオが騒然となったのでした。

 その発言内容を一部ですが再録しましょう。これは日本で同性愛への理解を深めようと講演や執筆活動などを行っている「すこたん企画」というゲイのサイトで聞き取り掲載したものの転載です。第2回放送の内容で、第1回で問題になった「アフリカには同性愛者はぜったいにいない」とするアフリカ人の発言から話題は始まります。司会陣にはたけしのほかにテリー伊藤やサッカーのラモス、タレントの加藤和彦らがいます。

ガーナ人「(同性愛者など)いないものはいない。いないと言ったらいない」
加藤和彦「なぜ黒人差別に怒るのに、ゲイを認めようとしないの」
ナイジェリア人「(ゲイなど)見たことない」
テリー伊藤「社会的に抹殺されるから(自分がゲイだと)言えないんでしょ」
日本人ゲイの席に座る東城さんという男性「(ゲイ向け旅行ガイド本の)『スパルタカス』によれば、ほとんどのアフリカ(の大都市)にゲイバーがある」
イラン人「(同性愛という)フツーじゃないこと、なんで自慢してるの」
東城さん「魂の叫び。苦しいことを伝えてる」
米国人1「病気の人でも差別しないのに……」
パキスタン人「(病気の人は)治療受けるでしょ」
米国人1「さまざまな生活を肯定しないのは、時代遅れ」
キューバ人(パキスタン人へ)「前に日本で外国人だからって仕事上差別されたって言ったでしょ。マイノリティがマイノリティを否定しちゃいけない。キューバでも同性愛というだけで優秀なのに共産党員になれない人がいた」
パキスタン人「否定してない。ちゃんと治療受けなきゃいけない」
中国人(女)「病気じゃないけど変態」
東城さん「どこまでを変態だとして線引きするの」
ガーナ人「男と男でどうやってエッチするの?」
テリー伊藤(ガーナ人に向かって)「ケツ出せ、ケツ出しゃ、教えてやる」
たけし「人間はパンツをはいた時点で変態。繁殖期以外もセックスする人間そのものが変態」
東城さん「子どもが同性愛者だったら?」
インド人1「子どもがホモになったら殺す。男同士女同士セックスするなんて許さない。(東城さんに向かって)あなたが親戚だったらあなたも殺すよ。お尻の穴から子どもは生まれない」
インド人2も賛成。
(会場騒然)
ラモス「人の命をなんだと思ってる。アンタたち、子どもを殺すのか。自分の息子を殺すのか。そういう子どもを見たくなきゃ、自殺しろ」
インド人1「自分の人生殺してるよ。殺人者だ。なんで男で女になるの」
ナイジェリア人「生きる資格ない。子ども殺す」
ラモス「オマエにそんなこと言う資格ない」
インド人2「家族や親戚に迷惑かける」
テリー「かけても守るのが親だろう」
米国人2「こういう殺してもいいという人がいるかぎり、同性愛者にはふたつの選択しかなくなる。ウソの人生を送るか安全な場所に移るかだ。アメリカでも田舎にいると殺されかねないから、みんなサンフランシスコやニューヨークへ行く」

 字面だけを読んでもかなり激しい内容だということがわかるでしょう。日本人だけではこんなにあからさまなゲイ否定論は出てこないでしょうから、話題を盛り上げようという番組プロデューサーの思惑は的中したわけです。

 ゲイ攻撃の先頭に立っているのはアフリカ系の人、及びインド、パキスタン人などです。とはいえこれはスタジオ内の話だけでは済みません。ちょうど同じころ、9月末にはアフリカのウガンダで大統領ヨウェリ・ムセヴェニが刑事警察局に対し、同性愛者を「忌まわしい行為」のかどで一斉逮捕せよと命じました。

 対してアメリカ国務省が10月15日、ウガンダ政府に強い警告を行っています。いわく「性的指向に基づく個人の逮捕及び収監は、ウガンダ国内法に定められていようがいまいが深刻な人権侵害であるとわれわれは考える。ウガンダの政府高官は自国が国際的人権宣言国の一つであることを想起すべきである。たとえそれら人権宣言及び国際協定がとくに性的指向に触れていずとも、これらへの参加は必然的に各個人の人権を尊重することを伴うものである」

 ところがその数日前には今度は中国が北京の地区裁判所で同性愛を「アブノーマルで受け入れがたいもの」と近代中国史上初めて規定したというニュースが流れています。

 中国は人口12億。インドも10億を突破したばかりです。アフリカ全体の人口増加も著しい。そういう中で同性愛者たちが21世紀をどう生き残れるのか、という問いには、いままでこつこつと懸命に築いてきた欧米での民主的なゲイ人権運動が、ともすると圧倒的な数の論理でたちどころにつぶされてしまうかもしれない、というまさに生命に関する具体的な危惧が潜在しているのです。ことは、TBSの番組でゲイの人たちが真剣に怒っていた以上に深刻な事態なのかもしれません。

 さて、いみじくもあの番組の中では「病気じゃないけど変態」「男と男でどうやってエッチするの」「お尻の穴から子どもは生まれない」などといった発言が登場していました。こうしてみると「反自然」というのが世界的に同性愛者に対する敵対や虐待の口実になっています。これがもう少し進むと「わざわざ快楽のためにそういう反自然な性に耽溺している」という論理になります。これは宗教的な断罪にもつながります。

 でもね、セックスしないゲイだっているんですよ。「快楽だなんてもう面倒くさくて嫌い」という人は、どうしてそれでもまだゲイをやってるんでしょうか。わざわざ「反自然な性に耽溺」するなんてのもけっこうしんどいはずです。おまけに人からバカにされたり場所や時代によっては懲役や鞭打ちや火あぶりまで待っていたんですよ。そうしてまでして「溺れよう」なんて思うかなあ。それもまだ性の何たるかを知らない思春期のゲイの子供たちまで。

 それとも、同性愛というのがそれほどまでに「蠱惑的」だと異性愛者のあなたが考えるのなら、それはまさに性に対する「あなたの願望」を語っているのであって、同性愛者の性の実体をではない、ということになる論理の落とし穴すら待っているのです。

 いえ、わたしはべつに「同性愛は自然だ」と言い張りたいわけではありません。
  前回の連載第一回で「同性愛は人間以外の自然界を見ても異常でも病気でもない」として、その説明を省いてただ「その議論の論理的帰結はすでに定まっています」とだけ書きました。そうするとある読者の方から「説明もなしに同性愛が正しいと言われても納得できない」というご指摘をいただきました。

 わたしは、「同性愛が正しい」とは言っていないのです。さらに言えば「異性愛こそが正しい」とも証明されてもいないのに、わざわざ「同性愛は正しい」ということを証明する必要もないとも思っています。

 「正しい」「正しくない」といった議論にはその言葉の定義の問題とともに価値観も働きます。しかし、それ以前に、生きた同性愛者を目の前にして、正しいも正しくないもあったもんじゃないだろう、というのがわたしの第1の論点です。

 これは「正しい」を「自然だ」に置き換えても結構です。その「自然」にはしばしば人間の勝手な「功利主義」が付随します。同時に中途半端な「合理主義」も働きます。それ以外のものを切り捨てるのは、じつはナチスのやり方なんですよ。気づいていましたか?

 「女は子供を産むもの」というのが自然だと考えれば、不妊症の女性は生きている価値がなくなります。「男は子供を産ませるもの」だから、無精子症の男性はバカにされて当然とお考えですか? それとまったく同様の論理で、五体不満足な身障者は「自然」ではないから殺すべきですか? いったいどこからどこまでが「普通」ですか? あなたの身長は「普通」ですか? あなたの年齢は「普通」でしょうか? 肝機能やら視力やら「普通」ではない年寄りは捨ててもよいのですか? いったい、だれが「自然」なのですか? あなたはその基準を適用しても自分は排除されないという自信がありますか? そして、自信があるならほかの人間はどう排除されてもいいとお考えですか? それが、たとえば、たまたまあなたの愛してしまった人だったとしても?

 その意味で「人間はパンツをはいた時点で変態。繁殖期以外もセックスする人間そのものが変態」と北野たけしがあの番組で言っていたことはとても「正しい」のです。論理学で「前提が偽なら結果はすべて真」という定理がありますが、人間の存在がそもそも「反自然の変態」なら、やってることはどうせみんな「どうでも正しい」のかもしれません。もっとも、それでも「殺せ」と叫ぶ人は後を絶たないのですが……。

 「神はアダムとイヴをお造りになった。男と男をではない」というのが例の同性愛者逮捕令を出したウガンダの大統領ムセヴェニの弁です。

 そのウガンダの首都カンパラの有力紙に最近、ゲイ読者からの匿名の投書が初めて掲載されました。「同性愛も自然なことだとは、あなた方の偏見の中では思いも寄らないでしょう。しかし必要な科学的根拠抜きにそれを反自然だとしてしまう意見こそ、じつはとても疑わしいものなのです」。投書氏は問います、「警察は、オーラルセックスやコンドームを使用している人たちをも、自然に反した肉欲に走っている者たちとして逮捕するつもりですか?」
(続く)

December 01, 2006

『目に見える暴力、見えない暴力』

 「ビレッジを歩いているとびっくりさせられるあるビルボードに出くわす。それは2人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっているどでかい写真だ」「クリストファーストリートの周辺などにはゲイのパーティーを知らせるあからさまなポスターが街角のあちこちに貼ってあるし、ニューススタンドの店先には男性のヌード雑誌が見事なほどずらりと並べられている」「アメリカではゲイの人口が全体の10%を越えたといわれておりゲイの人たちの人権も確立されつつある」

 さて、これらの文章はじつはわたしのこのOCSの連載を読んで、東京のあるテレビプロダクションが「ニューヨークのゲイの世界をドキュメンタリーで放映したいのだがいろいろと教えてくれないか」と言ってきたときの、彼らの事前に用意していた台本の一部です。

 わたしは頭を抱えてしまいました。「参考までに」と渡されたこのスクリプトを、彼らの思考回路を測るための、本当に参考にしてもよろしいものなのか?

 じつはこういうことは以前にもかなりの頻度でありました。若い人たちにとても人気の『地球の歩き方』というガイドブックがあります。たとえばつい数年前まで、この本にはグリニッジビレッジが「クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」というふうに描写されていました(さすがに現在の版ではこうした物言いは削除されていますが)。

 これらの表現を「ヘンだ」と感じないとしたら、あなたはかなりヘンです。ゲイの街として「有名になってしまった」と書くときの、その、わかったふうな道徳顔。「2人の男性がいちゃいちゃ寝そべって」とか「あからさまなポスター」とか、そんな非難がましい語句をなんの抵抗もなく書き連ねられる神経。

 この2つの根っこにあるのはおそらく同じものです。つまり「自分たちの読者/視聴者にはゲイはいない」という妄信です。だから、極端に言えば「どんなことでも言える」。だって、あいつらはいつもどこかほかの場所にいて、ここでこんなものを読んだりはしないんだから。

 それが「アメリカではゲイの人口が全体の10%を越えたといわれており」という表現につながります。
 そう、アメリカではホモが10%以上もいる。日本では考えられないことだ。

 そうなんですか? と思わず電話口で訊いてしまいました。するとディレクター氏は「え? なんせデータがないもので」。

 データがないのにこの人はアメリカと日本の同性愛者の比率は違うと、なぜか(データもないくせに)決めてかかっているのです。

 「自分たちの読者/視聴者にはゲイはいない」という妄信は、すなわち自分の知ってるやつには同性愛者などいないという無意識の思い込みにもつながります。いちばん最初の連載でも書いたことですが、同性愛者たちは隠れるのが得意です。隠れることに真剣です。そんじょそこらのことじゃ正体なんか見せてはやらないと思っているほどに。

 で、じつはある程度の確率で、あなたの周囲にいた、これまで最もやさしく寛大で、あなたのことをいつも好きでいてくれた友人のだれかは、おそらく同性愛者です。そしてあなたはそれに気づいていない。気づいていないばかりか彼/彼女を、傷つけるようなことを(なにげもなしに)あなたはしてきた。
 でも安心してください。彼/彼女はあなたのその無神経さをあらかじめ赦してすらくれていますから。
       *
 そんな例を、わたしたちは今月(1999年11月)のある裁判で知ることができます。
 それはいまからちょうど1年ほど前、ワイオミング州ララミーという町で、1人の同性愛者の大学生が殺された事件の裁判でした。

 殺された青年はマシュー・シェパードといいます。21歳でした。マシューは大学でもオープンリー・ゲイで通していました。身長156センチ、体重52キロの小柄な彼はしかしゲイバッシングの格好の対象だったようで、何度かいじめにも遭っています。その彼が昨年10月、地元のバーから「自分たちもゲイだ」とウソをついた2人の若者に連れ出され、ひとけのない牧草地の柵に十字架の形で縛り付けられ殴りつけられ、20ドルを奪われた上に零下の現場で意識不明のまま放置され、通行人の発見から5日後に、いちども意識を取り戻さないままに死亡したのでした。拳銃の銃座で18回も殴打された彼の頭蓋骨は陥没し、血が乾くよりも先に凍りついた彼の頬には、発見時に、涙の跡だけが白かったといいます。

 犯行の動機は、マシューがゲイであったことです。犯人の1人はすでにこの4月に2回の終身刑を言い渡されました。残った主犯のアーロン・マッキニー(22)にも今月4日、死刑だろうという大方の予想を裏切って同じく終身刑2回が言い渡されました。

 じつはこのマッキニーが死刑に処されるべきかで、米国のゲイたちの世論は見事なほどに真っ2つに分かれました。死刑に賛成は42・9%、反対は44・4%。米国の死刑賛成派は通常60%とか70%に上ります。ところがゲイたちは「それでも殺すな」と言っているようなのです。

 べつに怒っていないわけではないのです。むしろゲイたちはものすごく怒っている。マンハッタンに住んでいる方なら去年1998年、この事件が起こった後のプラザホテル前でのマシューを悼む「祈りの夜」にゲイやレズビアンら5千人もの人たちが集まり、それが結局はデモ届けをしていないということで規制を行おうとしたNY市警との間で久々の暴動騒ぎにまで発展したことを憶えているかもしれません。

 このところ社会的容認度も増えたかのようで脳天気に構えていたゲイたちが、本当に久々にマジに怒ったのがこのマシューの事件でした。でもその犯人をすら「殺すな」と言うゲイたちがいる。

 終身刑の判決後、マシューの父親が次のような声明を発表しました。
 「私はきみが死ぬこと以上にふさわしいことはないと思っている、ミスター・マッキニー。けれどもいまは癒しの始まりの時だ。いまはいかなる慈悲も示そうとしなかった者にも慈悲を与えるときだノノミスター・マッキニー、私はきみに命を許す。そうするのは私にはとても難しいことだが、それはマシューの遺志なのだ」
 マッキニー被告の死刑回避を働きかけたのは、じつは、マシュー・シェパードの両親でもあったのです。

 わたしのあるゲイの友人の1人も、たとえマッキニーに死刑判決が出ても、あるいは出たとしたらそれだからこそ、死刑減刑の嘆願がゲイたち自身から起きていたかもしれないと言います。それこそがむしろ「殺すな」のメッセージなのだ、という意味を込めて。

 そういう話を聞くと、わたしは人類にゲイという心強くやさしき人たちがいることがとても大きな誇りに思えてきます。人間もまだ捨てたもんでもないというような、そんな気になります。でも、彼らより、彼らを殺そうとする人間のほうが目立つのもまた事実なのです。ゲイだからという、そのことだけで殺される人はいまでも後を絶ちません。それが現在の民主党の、性的指向までをも視野に入れた連邦規模での「ヘイト・クライム(憎悪犯罪防止法)」法案の成立努力につながっているのです。
       *
 さすがに日本には、このマシュー・シェパード事件のようなことはありません、と書ければよいのですが、わかりません。なぜなら、表だった暴力は見えないかもしれませんが、表だたない暴力なら同じように蔓延しているからです。アメリカでは5時間に1人の割合で思春期の同性愛者が自殺すると推計されています。ある1つの命を救うために、私たちに与えられた時間はたったの5時間もないということです。

 では日本ではどうなのか。残念ながら思春期の少年少女の自殺の原因に、「同性愛」があるということすら日本では認識されていません。だってほら、「同性愛」とか「エイズ」とかって、「外国のもの」ですから。
       *
 95年の春に、日本の新聞各紙に、関東地方のある男子中学生の自殺記事が掲載されていました。ある新聞は動機について「日記に『好きな相手に冷たくされた』などの記述」があったと書いてありました。そこで別の新聞を見るとそこにも「日記に恋愛についての悩みが書かれており」とありました。

 この時代、思春期の恋破れくらいで自殺するとははて面妖な、とも思いつつさらにまた別の新聞を開くと、そこには「残された日記には男の友達に冷たくされたと思い込み、悩んでいる心境がつづられていた」とあったのです。

 それぞれに、なにかを記述することを回避するようなキーワードを束ね合わせれば、「冷たくされた」「好きな相手」が友情ではなく「恋愛」の対象で、さらに「男の友達」だったムムという新聞報道、あるいは警察発表がどこまで、またどれほどの事実なのかは、当時、わたしはそれ以上を確認しませんでした。したがって自殺した当の男子中学生その子本人が同性愛者だった、とは、ここでは言いません。

 しかし、同じような子で同性愛者の子は必ずいるでしょう。彼は、ちまたに蔓延する「2人の男性がいちゃいちゃ砂浜に寝そべっている」といった何気ない言説の積み重ねによって、「同性愛」というものが非難されるものであるという思いを募らせるのです。そしていやがおうにもやがてその重みにつぶされる。

 日本にはゲイに対する目に見える暴力がないだけマシだと言う人がいます。そういう問題ではありません。目に見えようが見えまいが、暴力なんぞ両方ともまっぴらだということなのです。

 頭を抱えているだけではだめなのでしょう。かのディレクター氏らのそんな暴力的な「同性愛」観をこれ以上たれ流しにさせないためにも、わたしは冒頭のテレビ番組の監修を引き受けるべきなのかもしれません。頭を抱えたくもなります。
(続く)

『いまさら訊くのも恥ずかしかったこんな質問への回答』

 とうとう今回が最終回です。いろいろごたくを並べてきましたが、先日、読者の方から、じつは同性愛についてまだ肝心の、ほんとに基本的なところがよくわからない、と言われました。「肝心なところ」はやはり最後に書きましょう。いろんな面倒臭い話を知った上で「基礎知識」に触れるというのもいいですよね。というわけで、最終回はQ&A形式で進めます。
       *
Q ホモとオカマとゲイは違うんですか?

A これらの言葉が指示しているものはどれも同じもの、つまりは同性愛者です。
  よく「オカマは女装してるホモのこと」とか「着流しや着物を着ているやつ」とか「ホモは男の格好のままのオカマ」「ゲイはファッショナブルで知的」とか、わけのわからん分類をする人が同性愛者の中にもいますが、それらはみんなブルシットです。

  差があるとしたら侮蔑語か侮蔑語でないかの違いです。
  ホモはホモセクシュアルの短縮で、英語で「Homo」と口にしたら(付き合う人たちの質にもよりますが)NYなどでは口にしたあなたのほうが人格を疑われる確率が高いでしょう。日本人だから人権意識が低いのだと大目に見られるかもしれませんが、それはあなたの知性や品性に関わる評価となるはずです。

  ホモと同じ侮蔑語は英語ではクイア、ファゴット(ファグ)、フェアリーなどがあります。これらも自称でない限り(つまりあなたがゲイでない限り)口にしないほうが無難です。口にするときは同性愛者を罵倒するのだという明確な意思を持ってください。

  オカマというのは日本語で「尻」の俗語です。肛門性交から連想された言葉で、「ケツに入れられるヤツ」という意味。ですからこれも侮蔑語です(なぜ侮蔑になるかはかなり複雑な問題ですのでここでは省きます)。日本でも最近はこの「ホモ」「オカマ」をマスコミがほとんど使わなくなりました。90年代後半からの変化です。日本の同性愛者たちがけっこう「うるさく」なってきてすぐ抗議したりするので、マスメディア側が「触らぬ神に祟りなし」で自主規制したのです。で、みんな「ゲイ」になってしまいました。どんなにバカな扱いでも、まるでゲイとさえ呼んでおけば問題はクリアできるとでも思っているかのように。
  たしかに「ゲイ」はもう侮蔑語ではありません。ゲイたちが自分たちを示す言葉として選んだのが「ゲイ」です。

Q ゲイは女装したいと思っているんですか? 女になりたいんでしょうか?

A 同性愛と異性装は次元の異なるものです。もちろん、ゲイ男性の中には女装者もいますしゲイ女性にも男装者がいます。しかし、それは異性愛者も同じで、異性愛男性にも女装願望を持っている人や実践者がたくさんいます。
  服や化粧というのは教育や環境によって後付けとして構成された文化的な性(ジェンダー)差です。ですからそのトランスジェンダー(ジェンダー転換)願望のどこまでが先天的な性指向と関係するのか、どこまで後天的な性嗜好から発展したものなのかはじつはよくわかっていません。
  いずれにしても「同性愛者は女装/男装したいと思っている」のではなくて、女装/男装者は同性愛・異性愛の差なく両者にともに存在するということです。
  男性の肉体を持って生まれたひとが「女になりたい」と願うのは、文化的な装いの性、つまりジェンダーとともに、肉体的な性、つまりセックスを変えたいということですからこちらは厳密にはトランスジェンダーよりもトランスセクシュアルという言い方をすることがあります。これも同性愛とは別次元で考えるものです。同性愛とは愛する相手のことで規定される概念で、トランスセクシュアル願望とは自分の肉体への思いによって規定される概念だからです。
  そこで問題になるのが「性同一性障害」という、今年(1999年)、日本の性転換手術(2006年現在では性別適合手術、または性別再判定手術と呼ぶようになりました)のニュースなどでも話題になった言葉です。これは、自分の心が女もしくは男なのに、自分の肉体がその逆の性だということに耐えられない、という齟齬の症例なのですが、それが同性愛に対する抑圧や差別の大きな社会に生きているせいで外因的にそう思ってしまうのか、それともより内因的にもともと女の脳と男の肉体で生まれてきてしまったせいなのか、その辺の判定はとても難しくわからないことが多すぎるのです。しかし、そのどちらにしても実際にそういう人が存在するのだから、性転換手術(性別適合手術)とはとりあえずはその苦しみを取り除くようにしよう、という、その「とりあえず」の処置なのです。自分でなかった自分が自分にふさわしい自分になるためには、手術以外にもおおくの作業が必要になります。
 (性同一性障害=GID=に関しては2003年、「日本で性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(通称・性同一性障害特例法)」が成立、翌年7月に施行されました。この法律にも多くの問題がありますが、日本社会のみならずGIDの人びとに関してはいまだ一般にも情報が行き渡らず、無理解と無知を基にした差別が絶えません)

Q ゲイの人たちってどんなセックスをするんですか?

A あなたはどんなセックスをしますか? また、あなたはどんなセックスをしてみたいですか? それを頭の中で想像してください。ものすごくエッチなアレとかコレとかぜんぜんエッチじゃないけどほんわかするナニまでいろんな形のいろんな気持ちのセックス。そう、人に言えないようなことまでを。
  で、とつぜん、あなたはどんなセックスをしていますかと訊かれたとします。興味本位で「人に言えないようなこと」まで教えてよと言われたらどう対応するか?
  この質問には、ですから回答は2つあります。
  あなたがほんとうに気のおけない友人で、それで打ち明け話の延長としてそう訊いてきたら「人の考えるすべての種類のセックスをしている」というのが答えです。もちろん1人で全部をやっているという意味ではなくて。人間って、ゲイであろうがストレートであろうが思ったことはほとんどぜんぶ実行してみちゃう生き物なのです。あなたがやってなくても、必ずだれかがソレをやっていますもの。
  もう1つの回答はこれとは違います。つまり、あなたがまるで「未開の土人」の性器までをも調べる資格があると思い上がっている「白人侵略者」のようならば、あるいは知的探求という大義名分でその実スケベ心を満たすためだけに質問してきたのなら、「だれがそんなプライヴェートなことに答える義務があるか」なのです。それこそそんなことを訊くなんて「なんと失礼な!」、ですよね。

Q でも、男役とか女役とかあるんでしょう?

A あります。英語では「トップ」と「ボトム」といいます。しかしこれは必ずしも固定してはいません。固定したカップルもいますが、ときには反対になるカップルもいます。また、いわゆる男でも女でもないセックスの形もあります。これは想像力の及ぶ限りに人それぞれです。それはストレートのカップルでもまったく同じでしょうね。
  ちなみに、外見がマッチョだからといってベッドでもそうかというとそうとも限りません。見た目が亭主関白でもベッドでは奥様の言いなりになるのが好きなストレート男性がいるのと同じです。

Q ゲイもストレートも同じだと強調しますが、同じじゃないところもあるでしょう?

A 「同じ」という説明の仕方は、じつは多分に戦略的なものです。「あいつらは変態だ」「オカマはヘンだ」と言われる社会の中で基本的な人権を獲得してゆくためには、まずは「私たちも同じ人間だ」というところから始めなくてはならないという戦略。
  ところが一方でゲイたちには「同じ」という平板な概念を嫌うよう意図的に先鋭化している部分もあります。「違う」ことこそがゲイがゲイである所以だ、という具合に。
  「わざとフツーじゃなく」振る舞うスタイル、「ひとひねり」する感性などをもひっくるめて「ゲイ」の文化および在りようが登場してきているのです。そこでマスコミが「ゲイ」という言葉を多用するようになってから、その偽善を衝くかのように逆に自分たちをあえて「クイア」と呼ぶゲイたちも登場しています。「何おっかながってんだよ。ほら、オカマと呼んでみろよ」と挑発するかのように。「オカマで何が悪い!」と言うように。でも、この挑発に乗って彼らを「クイア(オカマ)」と呼んだら痛い目に遭いますからご注意を。
  「多様性」を認めるところから文化は強くやさしく豊かになります。ですから同じでなくたってぜんぜんかまわない。むしろ違ったほうが面白い。「同じ」であらねばならぬことの脅迫から自由になること、これもゲイという概念の教えてくれるものです。

Q でもやっぱり男が男を愛するのは不自然では?

A 異性を好きになる人だって偉そうなことは言えないでしょう。異性を好きになるのはあなたが努力してそうしたのではない。遺伝子によってあらかじめそうプログラムされていたからで、あなたの大脳の「意志」の成果じゃない。それをまるで自分の手柄のように語るのは「ぼくのパパは偉いんだぞ」と自慢するかわいい子供のようです。
  それと同じく同性を好きになるのもその人の努力の結果ではありません。大脳がそのようにあらかじめプログラムされているからです。もちろんそれが「姿を現す」には環境とか文化的・宗教的制約とかいった外的な要因が関係してはくるでしょうが、まあ、種がなければ芽は出ない、と同じことです。
  じつは人間には生物学的に一〇〇%ヘテロセクシュアルの人も一〇〇%ホモセクシュアルの人もそんなに生粋のメ純血種モはあまりいないのです。「ホモっ気」があるとかないとかよく冗談めかして言いますがじつはホモっ気はみんなある。それを「性指向のスペクトル」といいます。
  ほら、光をプリズムに通すといろんな色が順々に分かれて出てくるでしょう。そのグラデーションのように、人間の性的指向もホモっ気やヘテロっ気などいろんなものが混じり合って成立している。
  ホモっ気が10%の人はそれを抑えつけていてもべつに問題は生じないでしょう。抑えているという自覚すらないかもしれません。なぜってほら男性主義の社会ってホモソシアルな社会だから男同士で発散できる機会はけっこう備わっているわけで、それで10%程度の欲望なら簡単に解消されるからです。
  でも30〜40%になってくるとちょっと気になっちゃうかもしれません。60%とかでこの社会の中ではきっと困り始めます。でもまだだいじょうぶかもしれない。でもそれが70とか80%以上になったら、これは隠しているといずれ爆発します。気が狂うかもしれない。自殺する人も多い。無理して結婚して、奥さんを虐待したり無視したり、ほんとうにひどいことをする隠れ同性愛者たちもいます。
  女性の場合だって男性とのセックスをいやいや我慢している人もたくさんいます。女性の同性愛者は、この男社会で女であることで、よりつらい思いをしているでしょう。
  「自然」「不自然」でいえば、ぜんぜん社会的制約のない文化では男は男とやっても「自然」です。10%しかホモっ気のないやつでも、ヤル機会があったらヤルかもしれません。日本の江戸時代までがまさにそうでした。
  また現代でも、少年が成人になるときに年長の青年に肛門性交もしくは口を通して精液を注入してもらわねばならないという「通過儀礼」習慣を維持する民族もいます。
  「自然」「反自然」という分類も、ですからじつはとても文化的な「洗脳」の結果の価値判断なのです。

Q そんなことを言われると男はみんなホモみたいです。

A ええ、おそらく半分くらいの男性はどの民族でも(いろんな意味で)ホモセクシュアルになりうるかもしれません。ただしこういう社会ですから、そんな抑圧の中でも自分をゲイだと自認している人は、もしくは認めざるを得ないほどにホモセクシュアルな人は、だいたい全人口の10%前後ではないかとされています。さらにそれを他人に公言できるほどにプライドを持ったゲイの人はもっと少なく、アメリカでもその半分の5%前後でしょうか。日本ではさらに少ないですが、それは同性愛者の比率が少ないということではありません。
       *
  99年初めに発行された『生物学的豊饒』という本では「哺乳類と鳥類の80%の種でオス同士の、55%でメス同士の関係が観察されている」として「同性愛的関係の発生の確率は、推論すればこの地上に存在するとされる百万種類の生物学的種で15%から30%にのぼる」と記しています。
  まさにそれを裏打ちするようにオーストラリアの自然保護区で99年夏、同じ巣でいっしょに暮らしながら7羽のヒナを育てている2羽のオスのエミューのカップルが確認されました。そこの保護区職員が「これは超モダンな家族だ。でもホモセクシュアルってんじゃないと思う。1羽がちょっと混乱してるだけだと思う」とコメントしています。そういうコメントをひねり出さざるを得なかったその彼の混乱ぶりこそがおかしいですよね。
  生物の在りようとは、ダーウィンの説いたような種の保存とか自然淘汰とかの単純な結果ではないようです。この連載で言いたかったことも、とどのつまりはそういうことなのです。
(了)

この項、一部2006年11月に追記。