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September 25, 2007

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」 鳩山法相が考え

ってえashi.com早版での見出しが、いま見たら変わってた。

「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言

と。
記事内容は以下のごとし。

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2007年09月25日11時41分
 死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。

 現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。

 鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「だれだって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。

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「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが」というところのこの「言っちゃいけないが」があるんで救われた格好。しかし、これ、言外の意味では「言っちゃいけないが、そんな感じの方式で」という意味でしょう。それを酌んで変更後の文言も「自動的に進むべき」となった。ということは最初の見出しだって、鳩山さんの言いづらいところを代わって言ってあげた、ってことでしょうがねえ。でも、「言っちゃいけない」って言っている比喩を「言った」こととして見出しにするのは言葉尻というか揚げ足というか、意地悪じゃないかね、と夕刊早版デスク会議で朝日社内のだれかが言ったんだろうねえ。 まあ、鳩山側から文句出てくるでしょうねえ、と。

しっかし問題は、その鳩山の口から「ベルトコンベヤー」という単語が出てくることそれ自体なのだ。思考の歩幅のとんでもない雑さのことです。自民党にはほんと(民主党にもいますがね)、往々にしてこの手の輩がうんざりするほど多いんだわ。

一昔前までは「死刑制度があってもなくても凶悪犯罪の発生率は変わらない」という調査結果が主流で、私も、それじゃ死刑があったってそれは報復のためでしかなくて、未来のためにはなんにもならんじゃん、という意味で死刑廃止論者だった。しかしいまでは死刑制度が確実に凶悪犯罪への抑止効果を持つという調査結果が出て来ていて、さていったいどういうことなのか。

もしそれが本当なら死刑反対論の背骨はほぼ冤罪の可能性だけとなり、私のスタンスも変わらざるを得なくなる。殺人は、とにかくまずは死刑。デフォルトとしてそこから始まる。そんで、どんなけ情状を酌量できるか、そのよほど特別な例外点を引き算していく。もちろん冤罪の恐れのある場合は……云々、クンヌン、と。アメリカ生活が長くなったせいかなあ。刑罰は懲罰ではなく、更生のためだという、そういう理念だけじゃダメなやつも、たしかにいるんだものさ。そういうやつを国家が殺してくれなければ、被害者の遺族なりがそいつを報復として殺してしまって、新たな不要な殺人犯を生み出すことも想定される。国家が裁くこと=殺すことで、建前上は恣意的な仇討ちがなくなったということになっているわけだからして……。うーん、わからん。

しかし、ベルトコンベアとか乱数表とかって、それって屠殺場の発想でしょう。そういう連想、そういう言葉を死刑執行の比喩としてだって口に出せるやつは、なんか、どっかすごく重大なところで間違ってるわってまずは思うわけですわ。肝心なのは、上記の、「うーん、わからん」ということなのだと。

法相は、国民の名において死刑を執行するのです。上記の「うーん、わからん」を含め、死刑制度自体が内包する自家撞着のジレンマに、1億2千万の人間としての苦渋を込めて、判をつく、あるいは逆に判をつかない決断をするってのが当然でしょうが。死刑ってのはそういうところでかろうじて成り立っているもんだろうし、それを司る代表者ってのはそういう責任と重圧と(死刑に判をつかないことも含めて)に耐えるもんであることがアプリオリに求められる。だから安倍だって頓死したんだろうに。

そこを簡単に済ませてもらっちゃ違うんだってことを、どうしてこのバカはわからんのだろう。ってか、そういう機微についてバカだから政治家になれたんでしょうね。私がいつも感じる政治家という存在の、思考形態の空虚さというのの、典型がまた簡単に例示されてしまう形です。情けないというか呆れるというか。

安逸を求める

イランのアフマディネジャドが国連総会出席でNYに来ています。
今日の午後にはコロンビア大学で講演を行いました。
ahmadinejad.jpg

もちろんQ&Aの時間が設けられていて、聴衆の1人はイランにおけるゲイの人権と死刑執行について質問しました。これに対して彼は性的指向の観点はまったく無視して米国でも死刑制度があることを指摘して直接の回答を回避しました。しかし司会役の学務部長はさらに回答を促しました。その結果の彼の返答はこうです。

「イランにはあなたの国とちがってホモセクシュアルたちはいません。私たちの国にはそういうのはないのです。イランには、そうした現象はない。私たちの国にもあるのだと、だれがあなたに言ったのか知りませんが」

アフマディネジャドはもちろん聴衆から失笑とブーイングを浴びました。まあ、彼の言いたかったことは、「われわれはホモセクシュアルたちを殺しているからイランにはそういうのはなくなっているのだ」ということだったのでしょう。2年前の2005年7月に行われた少年2人の絞首刑を、私たちは忘れてはいません。
hamjens_1.jpg

宗教というのは、答えの用意されている教科書です。巻末を見れば練習問題の答が書いてあるから、それを憶えればいちばん手っ取り早いし神様・お坊さま・司祭さまにも誉められる。それでめでたいので自分で考える必要などありません。はたまた質問そのものの正当性、さらには答えの真偽を疑うということもありません。なぜなら、それは「信じる」ことをすべての基本においているからです。「信じる」は「疑う」の対義語です。そうして「疑う」は「考える」の同意語です。宗教に「なぜ?」は必要ない。むしろ、邪魔で、いけないことです。

なぜ? と考えずに済む人生は、なんと安逸なものでしょうか。もっとも、宗教的生活を送っている人たちも、誠実であればあるほど宗教的回答を突き超えて必ず「なぜ」を考えてしまうものですが。

その辺のことは2005/02/22の「生きよ、堕ちよ」でも書いていますが、思えば、日本語訳ではいまいちその過激さが伝わっていないジョン・レノンの「イマジン」も、じつはすごい宗教否定の歌なのです。多くの戦争の背景に宗教があるということがわかりきっているとして、頭の上には天国なんてない、ぼくらの下にも地獄なんてないんだ、と宗教的迷妄を唾棄して歌は始まるのです。レノンにはもう1つ、「God」というすごい歌があって(というかそのままなんですけど)、そこでははっきり「神なんか、自分の痛みを測るためのメジャーでしかない」と宣言しているんですよね。

しかしアフマディネジャドなるものに対抗するには、どうすればいいのでしょう。
憎悪と嫌悪にまみれた、聖という名の邪悪。
しかも、われわれには憎悪と嫌悪という武器はないのです。手ぶらで、丸腰で、身1つで、戦わねばならない。こまったもんです。

September 23, 2007

マッチポンプ

年金も、格差も、外国からの(軍事的)信用も、障害者自立支援法のとんでもない欠陥も、シャッター通りの疲弊も、農業の衰退も、環境悪化も、山野の荒廃も、珊瑚礁の死滅も、安倍の頓死も、政治不信も、そうして郵便ポストが赤いのも、みんなみんな、自民党の政治の下で起こったことで、それをネタにして「これじゃいけない」「改革だ」「私が全力を尽くして打ち込む」というのは、どーなんでしょう、そういうの、茶番というか、もっとはっきり言って、マッチポンプとかいうんじゃないでしょうか?

自分で火をつけて、火元にいちばん近いこの私が消してみせますと言って歓心を買う放火犯と同じということです。そういうの、通用するんですか? するんだろうねえ、この流れじゃ。でも、メディアがそれに対して無批判なのはどういうことなのでしょう。まあ、テレビは言論機関ではないからしょうがないのか。

日本にいないのでよくわかりませんが(これはじつに都合の良い便利なエクスキューズですわね)、メディア、とくにこちらで放送されているNHKもフジも、ニュースはいつも最初がこの自民党の総裁選挙でした。まるで朝青龍問題にすっかり取って代わったスクラム状態です。まあ中学生なら総裁と総理がどう違うのかよくわからないのも宜なるかな。しかしねえ。

もちろん自民党総裁が日本国総理大臣に直結するというのが集中報道の言い訳なんでしょうが、しかし、政治状況の変化の割には総裁選の報道のあり方があまりにお祭り的に旧態依然であって、現在のこの火急の時勢にまったく、無神経という印象です。だって、それこそ冒頭で書いた、放火消火犯そのものの演説を無批判に垂れ流ししているだけですからね。(でも、日本記者クラブでの福田・麻生両者の突っ込み合いはドキドキするくらい恥ずかしくて面白かったわ)

それも今日で終わって、福田の選出となるわけですが、時事がさきほどこんなニュースを配信しました。

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米艦、イラク戦使用の可能性=インド洋の海自給油活動で−自民・福田氏
(時事通信社 - 09月23日 13:11)

 自民党総裁選に立候補した福田康夫元官房長官は23日午前のテレビ朝日の番組で、テロ対策特別措置法に基づき海上自衛隊がインド洋で給油した米国艦艇が、イラク戦争に参加した可能性があるとの見解を明らかにした。
 福田氏は「インド洋(で活動する米艦)と思っていたものが途中から『イラクに行ってくれ』ということも、あったかもしれない」と述べ、米国に情報提供を求める考えを示した。 
[時事通信社]

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このひと、いったいどこまで本気なんでしょうかね。テレビ中継されてた、二度繰り返しの「ねえ、麻生候補もおなじですよね、ね」という、あの、言うに事欠いて同意を求めるような哀願しどろもどろの結句といい、いやはや、この人に任せていたら、たしかに日本は軍事強硬策には出ないだろうなあという、平和ボケならぬボケ平和的な政治姿勢。

ひょっとしたら、福田の方が総理大臣にはいいかもしれませんね。イラク給油暴露発言も、あるいは確信犯なのかも。

さて、総裁選投票箱がいま開けられました(同時中継)。
ちょっと見ていましょう。

出ました。
総数528票 無効1票
福田 330票(うち地方76票 議員票254票)
麻生 197票(  同 65票  同 132票)

ということでした。
ふむ、やっぱり麻生、予想より取りましたね。
さて、福田総裁政権、いつまで持つのでしょうか。

September 21, 2007

強きもの、その名は親

カリフォルニア州サンディエゴ市の市議会が19日、同性婚を禁止しているカリフォルニア州に対して、州最高裁判所がそれを違憲として覆すようにと求める決議を採択しました。まあ、それはよくあることで、それにカリフォルニア州は今月初めに州上院が賛成22反対15で同性婚法案を可決し、それにシュワルツェネッガー知事がまたまた拒否権を発動の構えという状況がつづく場所でもあって、米国における同性結婚問題の最前線でもあるのですが、今日のお話はそれをふまえて、じつは、そのサンディエゴ市長(共和党)が、その市議会の決議にやはり拒否権を発動すると思われていたところ、それをしないばかりか驚きの声明を会見で明らかにしたというお話です。

市長さんは共和党所属の人ですんでもちろん同性婚には反対の立場で、でもカリフォルニア州という土地柄もあってその代わりに「シビル・ユニオン」制度の導入をしようという立場の人でした。

昨晩の記者会見に出てきた市長はこう言いました。

sanders_daughters.jpg

「Two years ago, I believed that civil unions were a fair alternative. Those beliefs, in my case, have since changed. The concept of a 'separate but equal' institution is not something that I can support.」
(2年前、私はシビルユニオンなら公正な別オプションだと信じていた。そうした信念はしかし私の場合、変わった。「別物の、しかし平等ではある」制度という考えは、私が支持できるものではない)

ん? どういう意味? シビルユニオンじゃなく、結婚じゃないと公正じゃないってこと?

そうなんです。
理由は?
サンダーズ市長の娘さん、リサさん(上記写真中央)、レズビアンなんですね。で、そのことを4年前に父親に打ち明けた。自分には大切な女性がいるとも。そうして、お父さんはずっとそのことを考えてきたんでしょう、「もうこれ以上、私にはこの国ですべての人に与えられている権利を彼女には認めないというわけにはいかなくなった」という結論に達したわけです。

市長さん、続けて曰く、「とどのつまり、私には彼ら彼女らの顔を見て、きみらの関係は、そしてきみらのまさに人生それ自体も、私が私の妻ラナと分かち合っているこの結婚と比べて無意味なものだとはとても言えるもんじゃないということだ」

サンダーズ市長は、この決定に当たって「ゲイである自分の友人たちやスタッフたちのことを考えた」といいます。

「I just could not bring myself to tell an entire group of our community they were less important, less worthy or less deserving of the rights and responsibilities of marriage than anyone else, simply because of their sexual orientation...I want for them the same thing that we all want for our loved ones. For each of them to find a mate, whom they love deeply and who loves them back. Someone who they can grow old together and share life's experiences.」
(我々のこのコミュニティのグループ全体に、彼らの重要性、彼らの価値、彼らの権利適性、彼らの結婚への責任感が、ただその性的指向を理由に、他の誰彼と比べて劣るものだとは、私にはどうしても言えなかった……私は、私たちのすべてが私たちの愛する者のために欲するのと同じものを彼らが得られるように求める。それは彼らが、深く愛し、同じように愛を返してくれる伴侶を見つけられるということだ。彼らがともに年を重ね、ともに人生の経験を重ねられるようなだれかを得られるということだ)

sanders.jpg

サンダーズさん、共和党ってだけじゃなく、元は警察署長だった人だそうです。

子を思う親の気持ちってのは強いなあ。
福岡の、あの飲酒運転で3人の子供を失ったあの若いお父さんお母さんの思いも。
少年に、妻と子を殺された山口県光の旦那さんも。

September 20, 2007

おもうわよ!

毎日チェックしているブログの中でも、なんといっても舌を巻くのは「きっこの日記」です。

ほかのチェック先はだいたい学者のとかジャーナリストとかので、まあ、そいつらは立派なこと書いてあってもそれでカネもらってる職業上の延長の話だからそうだろうそうだろうと思うだけなんだけど、「きっこの日記」はそうじゃないんだわね。一介のフリーの美容師のおねえちゃんが、とんでもないネタを披露する。ネタだけじゃなくて俳句からパチンコから釣りからF1からキュウリのキュウちゃんまで信じられないくらい幅広いのね。ご存知でしょうけど。

尊敬する人の欄に私は「きっこ」と書きたいくらい(母親の名前と同じでもあるの、はは)。

で、ふつうは意地でも(笑)むやみに引用したりはしないのですが、本日の日記には泣きました。

http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070919

東京の離島、青ヶ島では、お別れのとき、「さようなら」とはいわないらしいです。別れの挨拶は「おもうわよ」っていうんだってさ。きみと別れて離れても、きみのことを「おもうわよ」。ずっとずっと「おもうわよ」。

思う、想う、憶う、念う、面う。

「おもう」の語源はあなたの顔=面(おも)なんだということも民俗学者の菅田正昭さんのサイトを挙げて紹介しています。
つまり、きみの顔を頭に描くこと、きみのことを念うこと。
死んでゆく人にだって、「さようなら」じゃなくて「おもうわよ〜!」だ。

離れ小島で、島を出て行く人には本当にもう二度と会えないかもしれない、そんな環境がこの言葉を産んだんだろうかなあ。別れとは、引き裂かれる思いを記憶によって繋ぎ止める始まりのことを指すのかもしれないね。

これから、「さよなら」とか「じゃあね」とか「バイバイ」とかの代わりに、「おもうわよ〜」って言うことにしようと、心に強く誓う私であります。

美しい言葉。「美しい」というのは、こういうときに使う。

** 蛇足**「おもうわよ」のエピソードで思い出した詩。たしか、寺山がどっかで紹介していたのを憶えたんだっけ……。

夜のパリ
     ジャック・プレヴェール

夜のなか つぎつぎ点ける三ぼんのマッチ
最初のはすっかりきみの顔を見るため
二ほんめはきみの目を見るため
最後のはきみの唇を見るため

のこった闇はそれらすべてを思い出すため
この腕にきみを抱きしめて。

September 16, 2007

自民党総裁選立会演説会

立会演説会がNYでもTVジャパンでいま現在、生中継されています。

福田の呂律がじゃっかん回ってない。緊張のせいでしょうか。それとも年齢のせいか。つばが出てないようです。口の中が乾いている感じです。

思えば1年前、安倍の総裁選演説で、眼球振盪があったのを覚えています。この眼振はその後、つねにストレスが強まると出てきた。

福田の呂律は何を意味しているんでしょうね。
71歳。
まあ、年だわねえ。

福田が総理になれば、安倍みたいに余計なことはしないだろうからその意味ではまあいいかなとも思うのもわかる。民主党も福田では違いを打ち出していくのも難しいから戦いにくいでしょう。

でもね、福田がどうだ、小沢がどうだ、という問題ではないのですわ。問題は、二大政党という、政治の流動的な力学、ダイナミズムを作らねば日本の政治はどうにもよくならないということなのです。民主は、そこをどうわかりやすく国民に訴えていけるか。それが鍵でしょうね。

おっと、麻生の演説が始まった。
文節の終わりの音節が長く伸びる変なしゃべり方ですねえ。
変なリズム。
「危機に〜、臨んで〜っ、」「その〜、二文字とは〜、希望で〜あります」。

だんだん、演説がおかしな歌みたいになってく。紋切り型の単語と熟語が増えてきた。

「世界が〜、それに〜、耳を〜、傾けます」
「40,50にもなれば〜、己の顔に〜、自信を持てと〜、言われます」

両候補とも、言葉の力を、あまりに矮小化した演説。譬え話もあまりに陳腐。こんなブルシットしか開陳できない。

なさけないねえ。

と思って聞いてたら、麻生、後半10分の演説、印象が変わりました。
俄然説得力があったわね。リズムも変わった。言いたいことを言ったし、具体的でした。ふむ。

「インド洋をテロリストの勝手にさせない」という部分だけは事実誤認のミスリードですが。あの貧乏なテロリスト連中がインド洋をどうにかできるもんではない。

しかしこの演説の後半部で、派閥の数だけでなくもうちょっと票が伸びるかもしれんな、こりゃ。

September 14, 2007

けっきょく福田だ

また派閥の数関係ですぐに結果の予想できる自民党総裁選となりましたね。

麻生はいかにもお調子者でハシャギ過ぎの、北海道弁で言えば「すぐにおだつ奴」で、安倍とは別のタイプのお坊ちゃん。オタクだのマンガだの、しゃーしゃーと恥ずかしいことを得意になって言っちゃうのは、子供時分から周囲に「恥ずかしい」と進言してやるやつがいなかったからでしょう。したがってこいつもまた、空気の読めないやつである。頭よくないのかなあ。

福田は、見るからに他力本願。新聞記者たちもやりづらいでしょうねえ。こいつは肝心なことは話さない。でも、話さないのは、じつは自分で独自に考えていることがないからなんです。今回の総裁選も、自分に勝機があるというだけで出馬を決断した。政策は「これから執行部やみなさんと相談して考える」というタイプ。企業のラインを務め上げるそつのない日本のサラリーマンですわね。

自民は福田のそつのなさで(言い方を変えれば、面白味のなさで)、民主の攻勢を真綿で受け止めるようにして(言い方を変えれば、だらっとした気分をよみがえらせ)世論の熱気を冷まそうとするでしょう。で、解散総選挙はできるだけ先延ばしにする。で、元の木阿弥。

そうしておいて勢いをそがれた民主に大同団結を持ちかけて、憲法改正翼賛会。自民のハト派が盛り返すなんてこともありそうにないですからね。逆に民主の松下政経塾の連中がそんな自民に秋波を送るでしょうし。

以上が最悪のシナリオ。
いやもっと悪いのもありそうですが。

そうならないためには、とにかく早く解散・総選挙ですよ。

September 13, 2007

北の湖という男

朝青龍のときに書こうかどうかと迷っていてけっきょく書かずじまいだったのは、北の湖というのが私の中学時代からの親友の親戚だったということもあるんですけど、今回はやっぱり書かねばと思います。

この話です。nikkansports.comからの転載です。

「評論家」改め「会友」で杉山氏に取材証
(日刊スポーツ - 09月13日 10:04)

 日本相撲協会の北の湖理事長(54=元横綱)が、元NHKアナウンサーの杉山邦博氏(76)の「取材証」を10日に没収した問題で、同理事長は12日、杉山氏への措置を撤回して取材証を本人に返還した。

 両者はこの日午後1時30分から両国国技館内の理事室で約10分、話し合った。北の湖理事長は、前日11日に東京相撲記者クラブの抗議文への回答で示した没収理由の1つ「本場所で取材証を持って取材できるクラブの会友であるのに、相撲評論家などの肩書でテレビに出ていた」をあらためて主張。杉山氏が「その点は配慮を欠いた。これからは会友として出演する。今後も相撲協会の応援団の一員です」と返すと、あっさり取材証を返還した。

 一方で、もう1つの理由「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという。その上で、東京相撲記者クラブには「協会への批判等は真摯(しんし)に受け止める」などと回答した。また、杉山氏に対して10日に十分な説明もなく取材証を没収した行為への抗議については「今後、取材者に返還要求をする際は、事前に東京相撲記者クラブに相談する」と約束した。【柳田通斉】

この北の湖という男に関しては、実は個人的な思い出があります。
2000年のことでしたか、じつはこれも友人のドキュメンタリー映画作家が日米関係における「相撲」の文化的考察を撮りたいというので、私に日本でのロケの手伝いを頼んできたことがありました。それでぜんぜん畑の違う話ではあったけれど、私が相撲協会から学識者から相撲部屋からいろいろと取材と撮影のアポを取って日本各地で数週間にわたるロケを敢行したわけです。

北の湖は当時まだ、理事長ではなく、本場所でも順番持ち回りで花道の警備みたいなことをしていました。そこに私たちがカメラを抱えて土俵を撮影する構えに入っていたのです。そのとき、近くにいた北の湖があの大きな体で無言でカメラの前に背を向けて立ちはだかったのでした。通訳もしていたのでそういうところにも立ち会っていた私はいっしゅん、こいつが何をしようとしているのかわかりませんでした。もちろん撮影は相撲協会の許可を取って、花道の撮影場所まで届けてあります。その日だって別に初めての日ではなく、北の湖だってそれまでも何度も本場所を写している私たちの姿を見ていたはず。で、その日はたまたま自分の近くに私たちがやってきたというわけでした。

北の湖は、その背で、わざとカメラを邪魔していたのです。アメリカ人のカメラマン(女性)も相手が何をやっているのか理解できず、邪魔だというのも日本式には礼を失するかもしれないと変に心配して(とあとから言っていました)右にずれてカメラを構えます。すると北の湖も右にずれてきます。左にずれる、すると北の湖も左に一歩。困っている彼女の顔が見えます。

私はとうとうたまらずに「北の湖さん、撮影してるんですが、よろしいですか?」と声を掛けました。
すると彼は「何だ? 撮影?」と振り返りました。アメリカ人の制作スタッフの方は見ません。私がもういちど「ドキュメンタリー映画を撮影してるんです」と言うと、彼は「そんな話、聞いてない」と言います。「協会に許可は取ってありますが」と言葉を返すと、「知らん」と言ってまた背を向けました。

知らないはずはないのです。それまで協会事務所でも顔を見ていますし、なにせこちらはアメリカ人。カメラやマイクを抱えた外人の姿など、両国の国技館には私たち以外にはいないし、ほかの理事へのインタビューや相撲学校の取材でもう何日も両国に通っていました。北の湖は、ただ、自分へ取材がない,挨拶がないのが面白くなかったのでしょう。それもガキだが、それでそんな嫌がらせをして憂さを晴らそうとしているのも呆れるガキです。そうわかったときに、なんとまあ、相撲協会というのはダメなやつばかりで作られているのだと思ったものでした。はっきりいって北の湖だけではなかったですからね、取材対応のできていないのは。協会の職員までもが同じ体質。相撲の外の世界のことが何も見えてない。協会の内部の論理だけで生きていられると思っている。というかもっと簡単なこととして、一個の大人としてまともに話せるやつがほとんどいないのです。おまけにカネにものすごく汚い。よっぽど困ってたんでしょうかね。

で、さきほどの花道での顛末は、私がやや声を強めて「協会の許可があなたに届いていないということですね」と念を押したら、「いや、知ってるよ」と急にニタニタ顔になって脇に寄って終わり、というものでした。おいおい、これって50になりなんとする男(当時)のやることか?

ああ、こいつはダメだと思ってたら、その何年か後に理事長になった。

で、こないだの朝青龍です。

朝青龍も朝青龍ですが、北の湖が理事長をやっているんだから、あの協会決定の懲罰も公正なものというより子供っぽい報復とか嫌がらせとかいじめとかいう要素があるんだろうなあというのが私の印象でした。くだらなくて、コメントすらバカ臭い。国技とかいってるが、そんなもんです。

そして今回のこの「記者証」問題。

「評論家に取材証は出せない」って、どういう論理でしょう。記者だって評論します。コメントを求められれば評論です。嫌がらせでしょう、これ。同じなんですよ。

また、「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、何をか言わんやです。自分のことをなんだと思ってるんだ。フセインか、金正日か? 協会批判をした記者は取材証を没収されるということなのでしょうか。「杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという」のは、いったい、どう片を付けたということなのでしょうか? これも私たちに「いや、知ってるよ」と急に掌を返したように対応を変えて、それでなかったことにしたのと、まったく、呆れるほど同じパタンです。で、協会批判は記者証没収の要件なのかどうなのか、東京相撲記者クラブはこの白黒をはっきりさせるべきですわね。

一事が万事。北の湖という下司のアタマの中は、そういう短絡でごちゃごちゃです。朝青龍問題でもけっきょく一度もまともに言葉を発して説明していない。説明できないのでしょう。何度も言うようですが、なにせ嫌がらせといじめが動機なのですから。

そういうことですので、相撲協会のことなどまともに考えるのもバカらしい。だいたい税金もろくに払わないような連中ですよ。7年前の経験からいうと、まともな人も多くいましたが、そういう人たちはほとんど協会では傍流でしたね。惨憺たるものです。

朝青龍の件はどっちもどっちですからどうでもよかったが、今回の杉山さんの件は、ことは言論の自由の問題なのです。

September 12, 2007

総理という重圧

朝起きたらこれだもの、びっくりしたというか、呆れたというか。
しかし、ロバの背を折る最後の藁はどうも健康と自身の金の問題のようですね。

「なんでこんな時期に」というのはみんな同じ反応で私もそうだったんですが、よく考えればそれは安倍自身もそうなわけで、つまりこれはこうせざるを得なかった要因があるんだと思います。それは「党首会談を断られた」などとかいう政治的たわ言なんかではなくて、つまり、ぶっ倒れたってことなんでしょう。

総理大臣ってのはたしかにすごい重圧で、小渕はこれで死んでしまった。大平もそう。あの竹下ですら時限爆弾のように頓死です。角栄だって口が曲がったのは元をただせば総理時代。そんなところに、お坊ちゃんの安倍が就いたこと自体、そもそもの日本の不幸だったのかもしれません。

だいたい、この人、興奮すると呂律が回らなくなり、声がうわずるという、普段のオットリ顔と相反するジキル・ハイド型の政治家。しかもそれに自身が対応できないので、ストレスをためるしかない。「職責にしがみつく」なんていう、意味の通じない日本語が出てくるのも、総身に知恵が周り兼ね、のチグハグさ、精神の一体感の喪失の現れなんだと思います。そもそも、「美しい国」だなんて、字面だけはいいものの内容がさっぱり美しくない彼のビジョンの、国民の意思との一体感の喪失がじわじわと覆いかぶさってたわけですし。ボディブローですよ。

で、そうした精神ストレスが極限に達した。そりゃ達しますわね。医者じゃないんで専門的なことはわからんが、で、下痢が止まらない。胃腸がギタギタになってるんだわ。そこに自身のカネのスキャンダルが出てきそうになってる。もうこりゃたまらんでしょう。

ストレス死ですね、これは。TKOですよ。
坊ちゃんがマッチョを気取るとろくなこたあない。
ってか、マッチョを気取ると誰にしてもろくなこたあないのでしょう。

岸信介は総理を辞したあとも昭和の妖怪として汚い蓄財と裏政治への介入を続けていました。
安倍にはそういうことをさせますまい。まあ、彼の政治生命はほとんど終わりでしょうが、安倍的なものにもトドメをうちたいものです。(うっ、マッチョ発言……すんません)

September 09, 2007

エディット・ピアフ〜愛の讃歌

9月29日から日本で公開される「エディット・ピアフ〜愛の讃歌」の試写会、8月の炎夏の東京で行って参りました。観ていて、最後のところで頭が爆発するかと思った。まいったね。

piaf-1.jpg

この映画を観て思ったのは時間のむごさでした。いや、時間ではないな、なんだろう、歴史? うーん、そんな大層なものではなくて、運命? いや、事実、か。事実のむごさ。すでに起こった事実への、どうにもしようのなさにうちのめされるのです。

冒頭のシーンがそれを示します。最初にピアフの晩年の姿が映し出されるのです。ぼろぼろになって、ベッドチェアに座っている。そこで私たちはなんとなく気づく。あ、これはもうすでに起きてしまったことなんだ。換えようのない事実なんだ、と。これから始まる映画は、ここへ至る物語なんだ、ってね。もちろん、映画で描かれるのは虚構ではありますがね。

そのうちにその予感は確信へとかわっていきます。一つ一つのシーンがうねりながらあの冒頭のシーンへと雪崩れ込もうとするのです。それはもうどうしようもなく止めることのできない事実で、すでに決まっている、既定の道筋なのです。それ以外に逸れようもない運命なのです。伝記映画のむごさではありません。それは私たちに普遍の事実なのです。

その冒頭のシーンの直後から、時間は縦横無尽に飛び回りはじめます。ステージに、子供時代に、アマチュア時代に、幸せと不幸せが織物のように交錯して。

むごいなあ──と、そんな思いを植え付けられ通底させて、彼女の人生は語られていきます。でね、ピアフは交通事故後にモルヒネ中毒になるって示されるので、前半の時間のぶっ飛びは麻薬のフラッシュバックのようにも見えちゃいます。しかし後半にかけてはこれが、懐古というか、過去への望郷というか、楽しかった日々を思い出す彼女の意志的なイメージへとじつに自然に変化していくようなのです。

さて、「幸せと不幸せが織物のように交錯して」と書きましたが、ですからここにはもう一つ、交錯する二方向の時間の流れもあるのです。一つは最初に言った、結末へと、晩年へと止めどもなく押し寄せるベクトル。もう一つは、それに抗するかのように、彼女の頭の中での、過去へと遡ろうとするベクトル──ティティンとの生活、デビューの時、レコーディングの時、コンサートの時、デートリッヒとの邂逅、そしてマルセルとの恋。こうして物語は相反する二組の要素を絡ませ紡ぎながら、すでに定まっているもののどうしようもなさを積み上げていくのです。それは不可避と可避との格闘です。取り返しのつかないものへの、思い出の反逆です。もちろん、はなから勝者は決まっているのですが。

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それにしても、主演のマリオン・コティヤールはピアフの降臨のように見えます。というか、スクリーンに映る彼女の顔を、私はフェリーニの「道」のジュリエッタ・マシーナに重なるものとして見ていました。存在自体がしだいに悲しみそのものとなってゆく女性。映画史上、あのジェルソミーナ以外にそんな女性は見たことがなかったのに。

歌は多く吹き替えでしょうが、一つ、オランピア劇場のステージで倒れる直前の「パダン・パダン」は誰が歌ったのでしょう。あの「パダン・パダン」はすごいです。あれがコティヤールの歌なら、ピアフも彼女に演じられて本望だと思います。

もう一つ、ラストで歌われる歌は、日本語では「水に流して」というタイトルになっていますが、これはそんな甘っちょろい歌ではないんだって気づかされました。原題は「Non, Je ne regret」つまり「いいえ、私は後悔しない」という宣言です。水に流して、という、どうでもいい感じではない。むしろ「水に投げ捨てて」といったほうがよいような、強い意志なのです。そして繰り返される歌詞は「Non, rien de rien」。「rien de rien」は英語では「nothing」、つまり「なんにも」「決して」という単語を重ねたものです。まるでぜんぜん、これっぽっちも、という強調です。

私たち観客は、そうして最後の最後に、この歌によって救われるのです。観客だけは。ラストで。
ピアフは、救われたのでしょうか──そう思ったとき、私の頭は爆発しそうになった。

これはそういう映画です。まいりました。

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原題は「LA MÔME」。「女の子」という意味です。ピアフは身長、142cmしかなかったんですね。それでこのあだ名がついた。ちなみに「ピアフ Piaf」は「雀」の意味。美空ひばりの「ひばり」みたいなもんですね。それが英語のタイトルでは「La Vie En Rose」となり、日本の題では「愛の讃歌」となった。「愛の讃歌」は、映画の中で流れますが、ピアフが歌うシーンはありません。

September 05, 2007

ビリーズ・ブートキャンプ

ビザ更新のために1カか月ほど日本に帰っていましたが、帰るなり友人たちに聞かれたのが「ビリーズ・ブートキャンプって知ってる?」という質問でした。「は?」と聞き返すも相手は「アメリカで大流行のエクササイズだよ」という説明で、こちらとしてはさっぱりわかりません。「そんなの流行ってねえよ」と抗弁しようにも断言できるほどの自信はなく、しまいにはアメリカに住んでるのになにも知らないんだと憐れんでくれる輩も。

テレビつけたらすぐにわかりました。ブートキャンプとは泣く子も黙る海兵隊新兵用の猛烈特訓キャンプのことなんだけど、テレビ画面にはどこかで見たことのある黒人インストラクターが日本語のアテレコで、インフォマーシャルっぽいプロモーションをやたらとやっているわけ。つまり彼のワークアウト・ビデオのことだったのですね。

で、思い出しました。この男、10年くらい前にテコンドーとボクシングを合わせた「テイ・ボウ」なるトレーニング法を考案してアメリカのパブリックチャンネル枠を買い込んでやはり盛んにインフォマーシャルを流していた人。しかしあのころはポニーテールの人だとかモジャモジャ頭の人だとか、いろんなワークアウトのインストラクターがいたなあ。アブなんとかという腹筋器具も手を替え品を替え売っていたっけ。

で、ビリーズ・ブートキャンプ、知らないのは私ばかりかと思ってアメリカにいる友人たちにも聞いてみたのですが、やはり誰ひとりとして知らなかったぞ。しかし日本ではみんな知っていた。なにせ75歳の、実家で一人暮らしの私の母親まで知っていたくらいです。日本側にだれかうまい仕掛人がいたんだろうけど、それにしても日米のこの温度差はいったい何なんでしょうね。

思えばアメリカに来てそういうことがままありました。日本ではかまびすしく「全米で大人気」とか喧伝されているものが、こちらでは「え?」という感じなことがざら。ニューヨークでヒットしたものなんてこの15年で、そうねえ、まずはローラーブレードとスポーツジムかなあ、そんで95年以降にエスプレッソバーが林立し始めたと思ったらそれがあっというまにスターバックスにぜんぶ変身し、それからiPodだね。そんでもって、スシもそうか。それくらいのもんじゃないでしょうか……。

そういえば日本で公開される映画に「全米ナンバー1の大ヒット」とあおられるのがやけに多いと思っていたら、それは毎週明けに発表される週末の映画興行収入ランクでの瞬間風速だというカラクリもこちらに来てから知りました。

それにしても瞬間的な「なんとかブーム」というのが日本には多過ぎるような気がします。(あるある大事典の)寒天とか納豆とかはすぐに売り切れるし、ティラミスからナタデココからたまごっちから、なにかに火がつくと全国的に猫も杓子もそれ一色になってしまう。まあ、アメリカでも最近はゲーム機やアイフォンに行列ができるなど、なんだかオタク化、日本化の進む消費者層も生まれてきましたが。

これにはマスメディア、とくにテレビの影響があるのでしょう。どのチャンネルも同じ内容の横並び。8月は朝青龍一色でうんざりでした。朝青龍よりメディア・スクラムの問題の方が重大です。大袈裟だけど、こりゃあ大政翼賛ファッショと同じメカニズムなんですわいな。国土の狭さと、TVネットワークの東京集中のせいかなあ。朝青龍なんてどうでもいいでしょう。だいたい、相撲協会なんてものすごくくだらない連中が運営してるわけで、国技とはいえ、朝青龍の傍若無人とどっちもどっちなんです。しかも仮病疑惑が尽きないとはいえ、いちおう精神疾患(神経疾患?)と診断された人物をああやって自宅から空港から、飛行機内まで、追いかけ回していいものですか? ひでえよ、テレビ局。

テレビ、電話、漫画はクールメディアだって40年も前にマクルーハンは言いましたが、あのころからよく言ってる意味わからなかったんだけど、時代を経てその分類はすべて逆転したみたいです。当時ホットメディアとされた新聞やラジオ、映画などはいまや受容者の頭を冷やすクールメディアのようです。

思えば、それって単に当時はテレビや電話や漫画が日常にそんなに即してなかったからじゃないのかなあ。マクルーハンはえらく御託を並べてたが、あれは当時もブルシットでしたものね。いまやテレビと携帯と漫画くらい人を熱くするものはない。えらい迷惑です。

ということで、書きなぐりの感のある今回のこれにオチはありません。はは。悪しからず。