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November 27, 2008

ウニタの遠藤さん、死去

ウニタ書舗の元店主遠藤忠夫さんの訃報があった。

エリカっていう神田の薄暗い喫茶店で、よく話を聞いたなあ。
あの店、まだあるのかしら。

20年前の当時のぼくは警視庁の公安担当で、遠藤さんには取材で会う必要があったのだけれど、この歴戦の目撃者は妙にひょうひょうとしていてタバコなんぞをくゆらしながら新左翼の連中を温かく批判していた。当時は彼がゆいいつ重信房子なんかの日本赤軍とのパイプ役で、「こないだ重信に会いに行ってきたんだけど」と彼の語るベカー高原だとかゴラン高原だとかは、いまよりもはるかに少ない情報の中で妄想に近い地形となってぼくの頭の中で黄土色の風を吹かせていた。

そういえば彼は北朝鮮の赤軍の連中ともパイプを持っていた。あの大韓航空機爆破事件の蜂谷真由美こと金賢姫の一件でもずいぶんと裏の話を聞いた。あのころの公安は丸岡の逮捕とか泉水の逮捕とか、中核の圧力釜爆弾とか革労協のロケット弾とかスパイ事件もあって、なんでとつぜん思い出したように忙しかったんだろう。 そういえばあれが昭和の終わりだったんだ。

新聞記者のいいところは、新聞記者であるってことだけで業務と関係なくともいろんな人の話を聞けたことだった。記事にならない百万のエピソード。むしろそのほうが大切だったような気がする。

そういう意味では会社勤めのジャーナリストというのはかなり恵まれている。書かないときでも給料をもらえるんだから。わたしもその恩恵をずいぶんと受けてきた。いまでもそれが貯金だし。減らないし。ただ、アップデートは難しいかな。

遠藤さん、享年83歳。
そうか、あのころ遠藤さん、62、3だったんだ。
合掌。

September 22, 2008

アルター・ボーイズの公演ですよ

今年2サイクル目のヘドウィグに続いて、来年2月にまたわたしの翻訳したオフブロードウェイのミュージカル『アルター・ボーイズ』公演が東京で行われます。

http://www.altarboyz.jp/

アルターボーイズ(altar boys)というのは、キリスト教会の礼拝儀式で司祭を助ける侍者の少年たちのことです。で、ミュージカルの中の物語は、このクリスチャンのアルターボーイたちが5人組ボーイバンド Altar Boyz を結成して、世界巡業で歌と踊りの公演布教活動をしているという設定。その旅公演の先々で、神の教えを説きながら聴衆の魂を救うというわけさ。まあ、だいたい全編ボーイバンドのコンサート仕立てですね。これがロックありポップありバラードありヒップホップありラテンありで楽しい楽しい。

で、これがオフブロードウェイ版のCM。

アメリカではボーイズバンドいまちょっと下火だけど、まあその辺も教会ってことでややズレ気味の流行っていう設定か。でも、韓国ではこの韓国版公演がかなりヒットしてたらしいです。あそこもいまボーイバンド全盛だしね。アメリカでもシカゴやLAなどでツアー大盛況、ヨーロッパにも飛び火して、なんとハンガリーとかでもやってるんだわね。その世界サークルの中にこんどは日本も加わる、というわけです。

さてそして、今度こそ、今回こそ、歌はぜんぶ日本語です(笑)。
私がニューヨークの深夜にひとり、毎夜このiMacのキーボードの前でオルターボーイズのオリジナルCDを聞きながら、メロディーとリズムに合わせて日本語の音韻を1つ1つ振り分け、しかもCDといっしょに自分で日本語で歌ってみもしながら、書いては直し歌っては直しして日本語に当てはめた歌詞です。大労作! はあ〜、疲れた。

いやしかし歌詞は難しいわ。英語と日本語では一音節の情報量がぜんぜん違うんだもん。でもそこはあーた、言語フェチのわたし。ほとんど情報をそっくり入れ込んで、なおかつ日本語にして無理のない歌詞に仕上げた。そのへん、適当なところで諦めて原語の意味をばっさり削ぎ落として“意訳+超訳+捏造”してしまうそこらの輩とはわけが違います。えへん。

で、出演者はこの5人。

やたらと脱いでしなってのはレスリー・キーがまたこの宣伝用の写真を撮ってくれたからです。レスリーはとてもいい。
でもおぢさん、正直いうと田中ロウマくんしか知りません……とほほ。
なんせ、NYに住んでるんで日本の芸能界知らないの。
しかしプロデューサーたちに聞いたところによれば、あまりテレビの露出はないけどステージで活躍してるダイヤモンドドッグスというグループのメインの子だとかもいて、なかなか伸び盛りの面白い才能たちらしい。もうすぐわたしも実際に彼らに会ってみます。若い才能が、またこのミュージカルをきっかけに新しく伸びていってほしいです。

ところで、「神の教えを説きながら聴衆の魂を救う」って紹介しましたが、わたしはこの「神」ってのがダメなのですね。まあ、赦してやってるけど。

そのわたしがなぜにこのような物語を翻訳したか、というと、まあ、これ、表向きはキリスト教を題材にしてるけど、随所にいろいろひねりがあって、わかるでしょ、ちょっと違うのです。不信心者の多いニューヨークでヒットしてるってのも、その証左ではありましょう。たとえば、この5人組の中にユダヤ人が1人いるんだよね。ユダヤ人ってのはキリスト教ではなくてユダヤ教なのだ、本来は。その彼が、歌詞を作る才能を買われてこのバンドにリクルートされてる。それからもう1つ、キリスト教といっても、アメリカはプロテスタントが多いんだが、この5人は少数派であるカトリックのボーイ・バンド。ね、ちゃんとマイノリティ問題が入ってるでしょ? そして、そうなれば言わずもがなですが、もちろん、ゲイのテーストも。すべてのマイノリティ問題がこれにかぶさって表現されるわけ。うふふ。キリスト教にはゲイってのはタブーなんだけど、いまどきのショーはTVも演劇も映画もミュージカルも、すべてこのゲイな感じが入らなければ成立しないのかもしれませんね。

いやしかしこれはキリスト教をおちょくったりしてるわけじゃありません。まじめに取り扱っています。でも、それをちゃんとショーにしてる。現代のエンターテインメントとして取り上げているわけで、やはり裏方はかなり知的なんだろうなって思います。まあ、日本ではその辺の宗教的背景も共有されていないから受け取り方もやや違うだろうけど、そのあたりはわたしの翻訳台本でまたちゃんとわかるようになっていますことよ。

まあ、ご覧あれかし。
公演間近になったらリマインダーとしてまた告知します。

September 15, 2008

再び9.11です。

前回のブログで紹介した9.11の再現リポートですが、ほかの原稿も取りまとめて「Still Wanna Say?」のページで載録しました。

ここをクリック

あの事件から1年後にあちこちを取材して再現したものです。
証言集、被害データ、コラムなどもいっしょにしてあります。
写真もあるのですが、サイズの変更など面倒くさいので、それはいずれぼちぼちと。でも、まあ、あまり期待しないで待っててください。

September 12, 2008

9.11ーリプレイ

あの日は朝の7時近くまで仕事をしていて、それからベッドに入ってちょうどいい感じで寝ているところに東京からの電話が入って叩き起こされたのでした。それは新聞記者の後輩で、また与太話でもしようと電話をかけてきてるんだと思って「いま寝たばっかりなんだよ〜」と愚痴ったものです。そうしたら「起きてテレビをつけてみてくださいよ」と言います。「なんで?」「とにかく、テレビをつけて。大変なことになってるんですよ」。
そこでベッドからはい出してテレビをつけると、WTCが映っています。煙が出ている。見ると側面に斜め一文字に穴があいている。

ことがそれほど大事だと思わなかったのは、CNNのアナウンサーも、どの局のアナウンサーも、(こちらのアナウンサー、リポーターはみなそうなのですが)ぜんぜん興奮したそぶりを見せないで淡々とリポートしていたからです。そのうちになんか別の黒いものが画面に現れ、それが背後からもう一棟にぶつかった。

テレビは小さく「あ」とでも言ったのだったろうか。
寝ぼけているわたしには何が起きているのか即座には理解できませんでした。それが生放送であることもじつはよくわかってなかったのかもしれません。

以下が、翌年までに私が取材し、まとめた、あの日に起こったことです。

***

◆09/11 08:46am 
●ブルックリンの緊急通信センター 通信専門員ジャネット・ハーモン

 いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン(53)はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。

 緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。1日平均3万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。

 そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター!」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで!」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの?」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747(実際はボーイング767型機)がぶつかったの! ビルが火の玉なの! わざとぶつかったように見える!」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ! とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ!」。

 ジャンボ機がぶつかった? 確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。

◆09/11 08:55am
●ブルックリン橋 NY消防長官トーマス・ヴォン・エッセン

 前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを8時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道FDRドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。

 夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。

 「あれは、雲かな?」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。

 いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。

 「なんてこった! 貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ!」とエッセンは叫んでいた。

 そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第2次出動命令が発信された。それは十数秒後には第3次、第4次出動に、そしてたちどころに最大動員の第5次出動に変わった。

 マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第5次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。

◆09/11 08:58am
●FDNY ニューヨ−ク市内に位置する212消防署

 NY消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計1万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の9時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。

 NY市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち(Finests)」と呼ばれる。対してNY消防本部(FDNY)の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち(Bravests)」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長2人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。

 最初の出動命令は世界貿易センター(WTC)にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「WTCで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。

 通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊(バタリオン)」として派遣される。それでもだめならより大きく地域(ディビジョン)全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。

 第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもWTCに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の2倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前9時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。

 まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。

◆09/11 09:03am
●2機目が南タワーに突入

 消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第2弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は1機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。3万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。3分の1が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り3分の2がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。

 南タワーにも即座に第5次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。

 だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。

 熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。

◆09/11 09:59am
●南タワー、「もっと部隊をよこせ!」

 2機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに1機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。

 そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年8月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。

 午前9時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。

 南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ!」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。

 14分後、午前9時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。

 その直前、ワシントンDC郊外では国防総省にボーイング757が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。

◆09/11 10:28am
●北タワーも……2万5000人を退避させて

 午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるPASS(個人警報安全システム)モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。

 消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。WTCの計6棟が崩落または炎上していた。約2万坪が燃え上がっていたのだ。

 ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助(レスキュー)本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第1レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は7人、第22消防車隊は4人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル(当時レートで5700億円)に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの2塔からは計2万5000人が脱出できたのだ。

 火は以後、崩壊した地下で4カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。

July 23, 2008

逝く者、去る者、生きる者

ちょっと前の話になるんですがね、ある年の感謝祭に友人にサウスカロライナの実家まで招待されたことがあります。七面鳥も食べて、さて翌日は私からのお礼ということで、友人のご家族をどこかにお連れしたいと申し出ました。「せっかくですからジャパニーズレストランは?」と提案すると「ああ、あります、あります」と言われて案内されたところが「鉄板焼き」でした。

なるほど、いまでこそ「スシ、サシミ」は有名ですが、いまでもきっと南部や中西部、いやいやニューヨークから少しでも出たら「ジャパニーズ・レストラン」とは「ヒバチ・ステーキ」屋さんのことなのでしょう(こちらではあの鉄板焼きをなぜかヒバチ(火鉢)ステーキって呼ぶんです。火鉢焼きはまた別にちゃんと火鉢のがあるんですがね、謎です)。友人の甥っ子の小学生は、ナイフやスパチュラをくるくる回しながら野菜やエビの頭を宙に飛ばすニホン人ふう料理人に大喜びでした。

15年もニューヨークに住んでいるのですが、じつは私はベニハナに行ったことがありません。ロッキー青木には1、2度会いしましたが、ろくに話もしませんでした。いつかそういう機会も来るだろうとのんびり構えて、敢えてその時を作ろうとは思っていなかった。そうして先日の訃報を目にしたのです。


そんなときに野茂の引退表明も行われました。
彼がこちらに渡ってきたのは13年前の95年でした。その前年から野茂の大リーグ挑戦はメディアで取り上げられていたのですが、それは好意的なものだけではけっしてありませんでした。「世話になった近鉄を捨てて、他の迷惑も考えずに米国に行く自分勝手な恩知らず」、たしかそんな論調でした。それはむろん、そう感じる者が少なからずいたという当時の日本社会の反映でもあったのです。いまでは信じられませんが、石もて野茂を追ったと同じニホン人たちが大リーグでの活躍で掌を返して彼を絶賛したのです。

野茂は批判にもなにも反論しませんでしたが、しかしあの彼の寡黙のどこに、単身アメリカに渡って野球をしなければならないという切実さが秘められていたのでしょう。インタビューでもする機会があったら聞こうと思っていたのですが、当時、その1年後に例の伊良部がヤンキーズに入ってきて、NY駐在の私としてはそっちを取材する機会はあったものの、野茂にはけっきょくいまも会ったことのないままです。

そんなことを思い出しながら、ロッキー青木のことをまた考えました。彼が留学生として渡米したのは48年前、1960年。NYのベニハナ・オブ・トーキョーの開業は1964年だそうです。

私がベニハナに行ったことがないのは、じつはどこかであれはニホンじゃないと恥ずかしく思っていたからです。いま私たちはそういうレストランを「なんちゃってジャパニーズ」って言ってバカにしています。味がどうのこうのというより以前に、まず、コンセプトから鼻で嗤っている。それはでも、ふと思うに、野茂を「ああいうはみだし者はニホン人じゃない」と非難した“世間”と本質的に同じじゃないか?

ロッキー青木が「ニホン」を伝えるためにどんなに必死にアイディアを振り絞ったか、私はその苦労すら顧みようと思ったことがありませんでした。そりゃ大変だったろうに。

そしていまロッキー青木も野茂英雄も、彼らの渡米は、ひょっとすると職業的な野心とか野望とかいうのとはちょっと別の、もっと個人的な、やむにやまれぬ自己実現のなんらかの手段だったのではないかと思い至るのです。

先週末、東京から出張でやってきたTV局の友人と会食しました。NYでとあるイベントを行うその下準備でさまざまな関係者に会いに来たそうですが、その彼が言うには「NYの日本人はみんな濃いですね。日本では周囲の評価がその人を決めるみたいなところがありますが、NYではみんな自分で自分の評価を決めているみたいな」

なるほどそうかもしれないなあ。
自ら選んでこっちで生きている人間はみんなどこかで見果てぬ自己実現を目指し、つまりはみんななんかヘンなやつなのかもしれません。最近の駐在で日本から派遣された会社員たちは違いますが、60年代、70年代にこっちに渡ってきたようなひとたちはそりゃもうひどく濃い。

変なやつって、英語ではweirdoって言います。
もっとはっきり言えば Queer ってことですわね。ふふ。

July 09, 2008

ずいぶんと間を空けてしまった

お久しぶりでございます。(ってだれにいってるんだか)

こういうときに問題なのは、現在いろいろと書くことがあってもまずは順番にこの空白期のことを書き記さねば次に行けないと思ってしまうことで、そうやってウダウダしているうちにいま書かねばならないことも古くなって書く機を逸してしまって、けっきょくは空白期も現在もペンディングのまままた次の月になってしまうってことです。そうして3カ月近くが真っ白いまま。

ということでもうしょうがないからこの間のことをかいつまんで報告しますと、5月は所用で忙しく過ぎ、そんで5月27日から札幌に帰って、ヘドウィグ&アングリーインチの札幌公演を見てきました。わたしの翻訳したこのクイアミュージカルは山本耕史がこの札幌公演でとんでもなく緊張感を持ったパフォーマンスをやってくれて、わたしは自分が訳した自分の決め言葉が彼の口から出るたびに涙を流していました。山本耕史はその月、じつは大阪公演で相手役のソムン・タクが韓国に一時帰国後書類不備で再入国できないという事故に見舞われて、急きょ代役を立てたもののほとんどこの劇を一人芝居にして演じるという、ぎりぎりの選択を迫られていたのです。

結果、わたしはこの俳優をこころから畏怖することになりました。ふだんはほんと、いまどきの若者、なんですがね、さすが子役から鍛えられているというか、プロフェッショナルとして背骨というか気骨というか、そういうものを持ち合わせた役者でした。歌もビックリするくらいうまいし。これは日本の役者としてじつに珍しい資質です。

ということで北海道で母親と一週間を過ごし、それから3日に東京に移動して、こちらではメリル・リンチ・ジャパンで2度、社内講演を行いました。「ダイヴァーシティ委員会」というものを社内に設置したのだが、その中でLGBT問題だけがきちんと説明してくれる人がいなかった、ということで私に白羽の矢が立ったわけです。この講演の内容はいずれアップします。

それからヘドウィグの東京公演ファイナルを厚生年金で行い、あ、そのまえにわたしの大切な人の芝居をこれもやはり2度ほど友人たちを誘って観に行って、それからオリジナル・ヘドウィグであるジョン・キャメロン・ミッチェルを迎えるためにまずはソウルに一泊で出向き、そして成田で彼らの一行3人を出迎えて、ヘド・コンサートのために通訳として東京でアテンドしておったわけです。

ヘド・コンサートは中野サンプラザで21日の土曜日に行われましたが、大変な盛り上がりと劇的な構成で大好評でした。詳細はきっとあまたあるヘドファンたちのブログで明らかになっていると思います。

ということで、キャッチアップ終わり。

おまけ写真。ヘドコンサート後の打ち上げパーティー。左から中ちゃん、ジョン、耕史くん。

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©北丸雄二(無断で転載はしないでください。法律違反になりますよ)

September 20, 2007

おもうわよ!

毎日チェックしているブログの中でも、なんといっても舌を巻くのは「きっこの日記」です。

ほかのチェック先はだいたい学者のとかジャーナリストとかので、まあ、そいつらは立派なこと書いてあってもそれでカネもらってる職業上の延長の話だからそうだろうそうだろうと思うだけなんだけど、「きっこの日記」はそうじゃないんだわね。一介のフリーの美容師のおねえちゃんが、とんでもないネタを披露する。ネタだけじゃなくて俳句からパチンコから釣りからF1からキュウリのキュウちゃんまで信じられないくらい幅広いのね。ご存知でしょうけど。

尊敬する人の欄に私は「きっこ」と書きたいくらい(母親の名前と同じでもあるの、はは)。

で、ふつうは意地でも(笑)むやみに引用したりはしないのですが、本日の日記には泣きました。

http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070919

東京の離島、青ヶ島では、お別れのとき、「さようなら」とはいわないらしいです。別れの挨拶は「おもうわよ」っていうんだってさ。きみと別れて離れても、きみのことを「おもうわよ」。ずっとずっと「おもうわよ」。

思う、想う、憶う、念う、面う。

「おもう」の語源はあなたの顔=面(おも)なんだということも民俗学者の菅田正昭さんのサイトを挙げて紹介しています。
つまり、きみの顔を頭に描くこと、きみのことを念うこと。
死んでゆく人にだって、「さようなら」じゃなくて「おもうわよ〜!」だ。

離れ小島で、島を出て行く人には本当にもう二度と会えないかもしれない、そんな環境がこの言葉を産んだんだろうかなあ。別れとは、引き裂かれる思いを記憶によって繋ぎ止める始まりのことを指すのかもしれないね。

これから、「さよなら」とか「じゃあね」とか「バイバイ」とかの代わりに、「おもうわよ〜」って言うことにしようと、心に強く誓う私であります。

美しい言葉。「美しい」というのは、こういうときに使う。

** 蛇足**「おもうわよ」のエピソードで思い出した詩。たしか、寺山がどっかで紹介していたのを憶えたんだっけ……。

夜のパリ
     ジャック・プレヴェール

夜のなか つぎつぎ点ける三ぼんのマッチ
最初のはすっかりきみの顔を見るため
二ほんめはきみの目を見るため
最後のはきみの唇を見るため

のこった闇はそれらすべてを思い出すため
この腕にきみを抱きしめて。

May 10, 2007

瀬戸内寂聴と小田実

寂聴さんが、こんなことを書いていた。
涙が止まらない。くそ。酔っぱらってるせいだろう。
同時に、寂聴に、嫉妬している。こんな文章。こんな手向けを書けるのだなあ。

東京新聞からの引用。ほんとは著作権のことでこういうことはだめなんだと思う。でも、人の死の前で、著作権も何もないだろう。

無断引用御免。

東京新聞_2007年05月02日 夕刊文化面

あしたの夢 瀬戸内寂聴

小田実さんとの仲

 小田実さんとの交友は旧(ふる)い。小田さんが『何でも見てやろう』のベストセラーをだしたころ、もうお友だちの一人だった。今でも鮮明に覚えているのは、私が東京・御茶ノ水の駅から駿河台の坂を下りていったら、下の方から小田さんが上がってくるのに、ばったり出逢(であ)った。
 坂を上がってくる若き日の小田さんがとてもいきいきと魅力的だったことも忘れていない。ベ平連の運動で代表者として華々しく活躍しているころは小田さんの周りは若い知的な女性たちが群れ集っていて、時代の思想的ヒーローのように見えた。

 巨(おお)きな体に無造作に服を着て、マフラーを巻きつけただけのスタイルが、粋に見えたのである。女性のファンは小田さんの文学より、存在感に憧(あこが)れている人の方が多いように見えた。つまり、七〇年安保時代の市民の良心の象徴として、大げさにいえば神さまであった。すでに混迷の相を表していた世相の中で、若者たちは、力強い指導者を求めていたのだ。大きな声で、自分の信念を自信を持って語る小田実は、その頼もしい風貌体躯(ふうぼうたいく)とともに、頼りがいのある男として、安心感を人に、特に女に与えた。そして全身に不思議な色気があった。

 この魅力的な小田実と大方半世紀に及ぶつきあいの中で、一度も艶(つや)めいた関係に及んだことはない。いつでも相方に恋人がいたためでもあろうが、恋の相手より、もっと肉親的な友情につながっていた。

 映画界で最高の人気スターの岸恵子さんが、小田さんの本を読んで感激して、逢いに行ったことがある。その時、小田さんは病気で、徳島のお兄さんの病院に入院していた。恵子さんは東京から徳島まで飛んで行ったのだ。岸恵子さんは文学好きで読書家だったから、小田さんの本に興奮したのだろう。

 さて、病室に入って恵子さんはいかに小田さんの本に感激したかを、熱っぽく伝えた。一時間もいたのか、やがて暇(いとま)を告げた岸恵子さんに向かって、ベッドの小田実が言った。

 「ところで、あなたはどなたですか」

 この話は、たしか、小田さんからじかに聞いた。その後、フランスの岸さんのところへ小田さんが訪ねている。帰国した小田さんと、また街角でばったり逢った。小田さんの服は、ぐっとセンスがよくなって別人のようだった。

 「わっ、岸恵子に磨かれて変身しちゃった!」

 私の言葉に、にやっとして、小田実は幸福そうな笑顔を見せた。

 小田さんが玄順恵さんと結婚した時、たくさんの女たちが失望したのを聞いている。小田実が普通の男のように結婚するなんて! 彼女たちは怒っていた。

 新妻を私は小田さんから紹介された。美しい聡明(そうめい)な若い彼女は、小田さんを惚(ほ)れきったまなざしでうっとり見つめ、幸せそうだった。小田さんの甘い表情も幸福そのものだった。二人の間にならちゃんが生まれた。

 私が敦賀の女子短大の学長をしていたころ、講演会の講師として小田さんにお願いした。小田家三人家族がそろって敦賀入りしてくれてとてもうれしかった。

 先年、岩波書店から、同じ一九二二(大正十一)年生まれの鶴見俊輔さん、ドナルド・キーンさん、私の鼎談(ていだん)形式で『同時代を生きて』という本が出版された。その時、鶴見さんとキーンさんが小田実について、実に熱烈な好意を持って、文学と人となりを語ってくれた。私はなぜか自分の出来のいい弟か息子をほめられているようで幸福な気分で聞いていた。

 小田実から突然、長いファクスが届いた。体調の悪い中、フィリピンで起きている民衆の弾圧を告発する「恒久民族民衆法廷」の判事の一人としてオランダのハーグに出かけたり、古代ギリシャの民主主義と自由を裏から支えた植民都市を訪ねてトルコに出かけたりしていた小田さんが、がんの宣告を受けたという。私はあわてて電話をいれた。

 「もう手遅れと医者はいうんや、もっと生きたいよう、死にとうないわ。寂聴さん、元気になるお経あげてや」

 声は明るく冗談めいていた。私は絶句して、泣いていた。(せとうち・じゃくちょう=作家)

May 09, 2007

小田実のことなど

小田実があと数カ月で死ぬのだという。胃がんが、けっこう末期のものが、見つかったとニュースになっていた。小田が死ぬのか。そういう時代になっていたんだ、と思った。物理的にも、思想的にも。

そう思ったのは数日前にこのニュースが報じられたときに、ミクシの中でその死に関して言挙げされたさまざまな連中の言辞の醜さからだ。こういうのはいまに始まったことではないから特筆するようなことでもないだろうけれど、小田は90年代か、「朝まで生テレビ」に出ていたらしく、それで新しい世代を、いい意味でよりも悪い意味で引っ付けたんだろう。きっと連中は、「実」が「まこと」と読むことも知らなかったりするんだろう。悪貨は良貨を駆逐する。

学生時代、東京に出たてのころは何でも珍しくてよくいわゆる有名人文化人知識人の講演会なんぞに出かけていたものだ。小田はそのころ岩波から「状況から」という同時代時評を出して、それは大江の「状況へ」という本とカップリングになっていて、この「から」と「へ」の助詞の相違がこの2人の立場の相違を表しているようで面白かった。「状況から」はとにかく現場主義だった。具体例にあふれた行動主義の本だった。そんな小田の話を何度か直に聴きにいった。

小田実の思想はアメリカの草の根民主主義のいちばんの実践主義的な理想を体現したものだった。日本の戦後民主主義の文化人がみんな、というかほとんどが、青っちろいアカデミアからのそりと首を出して何かを言っては言いっぱなしだったのに対して、このひとはとにかく体を張ってた。知識人が男らしくても、いや、こんなに雄々しく熱く勇ましく怒りに満ちていてもいいのだということを教わったのはこのひとからだった。「世渡り」ではなく「世直し」だということも、このひとの本から発想した。このひとは言うことはみごとに人道的な優しいものなのに、「殺すな!」というその柔さの背後にじつに硬派なマチズムがあったわけだ。マチズムはふつう、「殺せ!」に向かうはずなのにね、このひとのマチズムに裏打ちされた「殺すな!」は、だからいまでもだれも論破できない。というか、それを見越して発されたタイトルだからさ。そのことをいま、どれほどの日本人が知っているんだろう。小田に匹敵するのは、いまじゃ一水会の鈴木邦男くらいかもしれんなあ(笑)。

あの当時、喧嘩の仕方はこの人と中上健次と吉本隆明から教わった。3人とも個人的にはとてもやさしい人で、照れ屋で私語がへただった。なのにいったんペンを取って敵を叩くときはじつに徹底していた。中上さんはペン以外でも叩いてたけど。そうして完膚なきまでに、逃げ道もすべて塞いで追いつめる。それは呆れるほどに爽快な職人芸だったし。んで、この3人はそう仲がよいわけではないというのも知っていた。大人って面白いなあって彼らを眺めながら思ってたもんだ。あはは。

小田のニュースがあったと同じ日、朝日のニュースで次のようなのがあった。

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後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ
2007年05月05日13時13分

教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しかった──。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自由に座席を選べる講義では、前に座る学生ほど勉強に取り組む姿勢も前向きのようだ。
(中略)

試験では、前方の平均点が51.2点だったのに対し、後方は30.9点と、20点以上開いた。一方、授業評価では、「配布資料の役立ち具合」「教員の熱意」「理解度」など全項目で前方より後方の方が厳しい評価をした。後方グループには、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる。
(後略)

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なんだかネットでギャーたれているやつらの印象と重なる。挑発の言葉だけがお上手。ところがみなさん二の句が続かない。映画のセットと同じ。看板やファサードのカッコよさだけを気にして、組み立てを気にしない。四六時中パンチラインだけを拾い集め、単文でしか話が出来ない。まるで玄関の呼び鈴押しのイタズラみたいに一発ぶちかましてさっと身を隠す。そうやって相手をけなすことだけで自分が何者かであるような、その効果だけに縋って生きている。

そうせざるを得ない生き方というのもあるのだろう。もうやり直しのきかない人生。そうやって憂さを晴らすしかない人生。

話はどんどん飛ぶけれど、やはりこれも昨日TVジャパンでやっていたNHKの憲法9条をめぐるドキュメンタリーで、若者たち、フリーターたちで戦争を望む連中たちの声を紹介していた。もうこんなにガチガチに社会が決まっていて自分たちはもう浮き上がる術もない。あとは戦争にでもなってみんなめちゃくちゃになればその暁にはどうにかなるのではないか、という見通し。

そういうのはむかしからある。一発逆転願望。ただし戦争の影がまだ長く伸びていたころにはそれは革命願望だったりした。それから終末願望。勉強していないテストの前夜に大地震が来て学校が壊れればいいのにと妄想したり、核ミサイルで世界が終わりになればどうにかなるんじゃねえかと思ったり。

でも、自分から進んで戦争にするというのはなかったなあ。
マイクを向けられていた30くらいのフリーターの1人は9条が変わったら軍隊に入って職業訓練にもなるし、とか言っていた。いますぐにでも自衛隊に入ればそんなのもすぐに手に入るという選択肢は彼にはないんだろうか。

戦争、戦争。
戦争はするまでが花。
してしまったらみんな後悔する。
だいたい、死体も見たことのない連中がいちばん勇ましく、死体への想像力がないものだから実際にそれを目の当たりにしたら吐く。
あるいはショックで思考停止になる。
で、その後は死体愛好になるか、というと、あまりそううまくは事は運ばない。みんな心に傷を負って壊れていくのだ。そうしてその回復途上で反戦を唱えるようになる。そのときは遅い。あるいはすでに時代はぐるりと一巡してる。あわよく生き延びたひとびとの周りで友人たちはもう亡くなっている。石原慎太郎が制作総指揮をしたという「俺は、君のためにこそ死ににいく」とかいう戦争映画のタイトルの、すでに破綻したはずの論理のゾンビさ具合よ。やれやれ。
まあ、この映画がヒットするほど日本人はどうしようもないとは思っていないが。しかし岸恵子もなんでこんなのに出たんだろう。私が愚劣だと言っているのは「特攻の毋」のことではない。この映画を作る連中の意図のことだ。

しっかし、小田も体調悪いときにどうして病院行かなかったかなあ。胃がんなんて定期検査して早めに見つけられるのに。早めに見つかれば治せるのに。まったく、なあ。残念だなあ。手術も出来ない状態だって、どうしてそれまでほうっておいたかなあ。

小田は、人間は畳の上で死ななければならないって言っていた。それが人間の死だ、と。しかもそれは畳の上で胃がんで死ぬことではなくて、きちんとしっかり平和に死ぬということのはずだったんだよね。

無念だなあ。
本人はそんな素振りはおくびにも出さぬだろうが。

May 07, 2007

World Index 更新しました

先月発売のバディ連載コラム掲載のワールドインデックス、更新しました。
上のバナーの「World Index」をクリックして飛んでください。

今回は、NBAでカムアウトしてCM契約を獲得した元選手アミーチと、そのカムアウトに対してホモフォビックなコメントを発してCMばかりかイベントの参加も降ろされた元選手との比較考察です。

April 05, 2007

ワールドインデックス更新しました

今回は目前の統一地方選挙、および7月の参院選挙を前に、LGBTと政治との歴史と意義を書いてみました。
上のバナーの「World Index」をクリックして飛んでください。

March 07, 2007

ニューヨーク帰還

ほぼ1カ月の日本滞在からさきほどNYの自宅に戻りました。
今回は今年秋と来年に出す本のこと(LGBTとはぜんぜん関係ない本なんですが)と、ヘドウィグの公演と、それと4月の統一地方選に出る候補に関連して、いろいろと忙しく過ごしていました。

そんな中、ヘドウィグの歌詞に関して、「あるヘドヘッドな方」から私の訳詞の一部について次のような貴重なご指摘がありました。

ヘドウィグの訳詞の中、Midnight Radioの部分で一カ所、気になる部分がございました。
Here's to Pattiのパティは、パティ・ラベルではなく、パティ・スミスのことではないでしょうか?
なぜかというと、ジョン・キャメロン・ミッチェルは色々な取材に対して、パティ・スミスのことを語っておりますので。たとえば、この記事などです。
http://www.amazing-journey.com/htm/hedwig/h-vv-398.htm


いやはや、頭が下がります。
たしかにこれを読むと限りなく「パティ・スミス」ですね。
パティ・ラベルもものすごいゲイ・アイコンの歌手で、私はてっきりラベルのほうだと思い込んでいてパティ・スミスの名前は横切りもしませんでした。ごめんなさい。
さっそくブログにあげた訳詞を差し替えておきました(差し替えが反映しない人はキャッシュが残っているせいです。reloadしてみてください)。
ご指摘くださったNさん、ありがとうございました。ほんと、翻訳って全方位の情報が必要っす。

でね、甘えついでに次に続く「ノナ」と「ニコ」についてもご存じではないかとNさんにお訊きしたところ、

一方でノナとニコについては、まだジョン本人の言葉がみつからないので、何とも。推測では、Nona Hendryx?とか(とすると、パティ・ラベルとも近いですね)思いますし、Nicoはおそらくかなりの確率でVelvet UndergroundのNicoに違いないだろうな、とも思うのですが、断定するのはちょっと怖いです(特に、Nonaはほかに見当たらない、という程度の類推でしかありませんので)。

とのご回答。すばらしい。
これもみなさん、参考になさってください。

えっとー、それから、中野で「石坂わたると多様性のある中野を作る会」という、石坂さんの中野区議選への意欲を受けた学習会があってね、そこで「セクシュアリティと政治」というテーマで1時間ほど話をしましたが、それがakaboshiさんという(ビデオ)ブロガーの方の尽力でYouTubeにアップされています。「北丸」で検索すれば出てくるのかな?
ってか、以下のakaboshiさんのブログでもまとめて見られますね。

フツーに生きてるゲイの日常

興味のある方はお時間おあるときにでもどうぞ。

ニューヨークはただいま零下10度です。信じられない寒さ。ひー。