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November 05, 2008

オバマ勝利と日本の外交

オバマの勝利演説を聴きながら、選挙ウォッチパーティーを開いていた友人たちが静かに涙を流していました。ボストン大学で先生をやっているやつが私の横に来て「この国もまだ捨てたもんじゃないだろう」と言います。それにうなずきながら、こういう演説のできる大統領を持つアメリカを少しうらやましく思いました。日本にはこんな政治家はいないなあ。小泉は私語がうまかっただけで、演説はうまくはなかったし。

アメリカというのはこうして4年に1度、やり直しのチャンスというか、ダイナミズムの更新というか、そんなモメンタムを作るわけですね。政体自体がそっくり入れ替わるんですから、そりゃすごいもんです。ただ米民主党政権というのは歴代どうも「日本に冷たく中国を重視する」傾向にあると言われてまして、それを心配する向きもあります。しかし考えてみてください。共和党ブッシュの8年間だって小泉政権の時は9・11の余波のゴタゴタの中でなんだかうまく行っていた、ように見えただけで現在は結局、対北朝鮮宥和政策への転換で面目丸つぶれです。米国が日本のご機嫌を見ながら外交政策を変えたことなどいちどもありません。米国はあくまで時刻の国益でしか動きません。そのアメリカの国益を、日本はさっぱり誘導できてこなかったのです。外交官たちの説得下手というか、ディベイト下手というか、しかしこれはよくよく考えれば元は日本の自民党政権の問題なのだと思います。

日本の外務省ももちろん現在、ワシントンを中心に次期政権のブレインになると目される人たちに盛んに接触中です。オバマの対日ブレインには東アジア専門家のジェフリー・ベイダーや日本の防衛研究所にいたマイケル・シファー、日本生活も長くボーイング・ジャパン社長だったロバート・オアーらがそろっています。経済分野ではブルッキングズ研究所にいたジェイソン・ファーマンなんかもいます。さらにはオバマのこと、超党派で共和党もブレインも入ってくるかもしれません。

しかし日本側の政権がこうもコロコロ変わるせいで米側には彼ら外務官僚たちの背後に控えているはずの政治家たちがよく見えない(もっとも、見えたところでロクでもないやツラばかりですが)。そんなことで外交官だけを相手にまともに話し合おうと思うか? ふつう、思いませんわね。それも、こういうのってものすごく個人的な力量ってのが必要で、パーティーに行ってうまく話せるか、演技できるか、っていうような人間性にも関わる才能が必要なんですね。そういうの、できない役人が多すぎる(役人だけじゃなく日本人全般がそうなんですが)。その間に日米関係はそうして私的な斟酌や腹芸の取り入るスキなく、どんどん建前の議論で(これをやらせたらああ言えばこう言うのアメリカ人にかなう者はきっといません)米国主導で押し切られることになるのが常なのです。


新政権はまずは米国内の経済危機に取り組むでしょうが、その一方でイラク戦争撤兵からアフガン戦争増派へのシフト、テロ対策などは公約のタイムテーブルどおりに進めなくてはなりません。

この場合、外交とは米国にとっては安全保障の問題にほかならないのです。それは日本にとっては思いやり予算などを含む従来の基地問題やアフガン戦争支援のインド洋給油問題です。これらはたとえオバマ政権になったとしてもなんら変更を認めないでしょう。さっきも書いたようにアメリカはアメリカのことしか考えていませんから、あるいはこの財政危機でさらなる物的・人的支援だって要求してくるでしょう。オバマはブッシュ政権の一国行動主義からの転換を謳って「国際協調」という名の責任分担を図るでしょうから。

そんな中で、日本の対米外交はどう対応すればよいのでしょう。米国に押し切られるばかりなのでしょうか?

ここに来て、どうして日本がいつも米国の言いなりにならざるを得ないのかわかってきます。それは日米同盟、日米安全保障という政治的取り決めが、日本国憲法を上書きしているという倒錯のせいなのです。

日本は、日本の平和憲法を対欧米外交の切り札として使ったことがありません。海外への自衛隊派遣の困難の「言い訳」「言い逃れ」として使ったことは何度もありますが、外交の「背骨」として使ったことは一度もない。憲法のことになると遠慮がちに口ごもる、そんな外交なのです。で、安全保障に関してはその都度の対症療法で逃れてきたわけですよ。

こんなんでまともな外交ができるわけがありません。これは自民党が平和憲法をなおざりにしてきたそのツケが貯まったものです。そんなヘドロの中で泳がねばならない外務官僚にはお気の毒と言うしかありません。

この倒錯を解消する道は2つあります。平和憲法を正々堂々と盾にして、環境対策と復興支援を安全保障の中心に据える新機軸を構築・宣言すること。それは20世紀的ではないので旧態依然の国際政治においてとても受けは悪いでしょうが、可能なのです。倒錯解消のもう1つの道は、平和憲法そのものをやめちゃうことです。こっちの方が簡単だが、その以後がかえって大変で、簡単そうに見えてじつはこれは不可能なのです。

それともまだのらりくらりで乗り越えようとするのでしょうか。
まったく、自民党政治までが役所仕事のようになっているんですね。

米国はオバマに変革の希望を託しました。
日本の政治変革はいつ起きるのでしょう。
で、総選挙、どこに行っちゃったんでしょうか?

October 14, 2008

テロ国家指定解除の欺瞞

どの国もそうなんですが、外交というものはあくまで国益を第一に考えるものです。
ブッシュ政権はつねに、最近ではライス国務長官も「日本の立場は理解している」あるいは「拉致問題の重要性は認識している」という言い方しかしませんでした。「テロ国家指定の解除はしない」とはひと言も言っていなかったのです。その結論はどうなるか、そんなことはわたしでもわかる。つまり外交のプロたる外務省の役人たちがわからないはずがない。

アメリカは指定解除をするだろうというのは読めていたわけです。それを、まるで「寝耳に水」と驚いてみせるのは、これは日本国民に対する欺瞞です。そんなはずではなかった、という言い方ですよね。われわれは十分に努力してきてアメリカもそれを理解していたはずなのに、急に寝首をかかれた、という言い方。

これは責任逃れのへりくつです。知っていたんですよ。それを、それじゃ日本国民に格好がつかないから「知らなかった」「予想外だった」と言っている。一番正直なところは中曽根外相あたりの言っていた「一両日中はないと思った」というセリフでしょう。一両日中はないはずだったが、その次の日にはあるかもしれない。そういうこと。

ブッシュは、史上最低の大統領として名を残すことになるのはすでに明らかです。まあ、イラク戦争しかり、イラン政策しかり、イスラエル・パレスチナ問題然り、それは確実なんですが、せめて北朝鮮でどうにか格好を付けたかった。それが正直なところでしょう。

ただし、今回は時間の問題があった。
北が核施設運転再開をちらつかせるのはいつものことです。
どっちが我慢できるか、そのチキンゲーム。
ところが今回はブッシュ政権の命脈が尽きるというタイムリミットがあった。
ただそれだけのことです。いつもなら、むこうが核施設の無効化をしてから、解除です。それが待ちきれなかった。どうにかして先に進める必要があったということです。で、テロ国家指定解除を先出のエサにした。

麻生としては、拉致問題にいささかも影響はない、カードを失ったというわけではない、という言い方しか出来ません。ならば、「はじめから拉致問題とは関係ない。指定解除どうぞどうぞ」と言ってればよかったようなもんですがね。しかしカードを失ったのは確かなのです。麻生は先月の国連総会の訪米でもブッシュに会えなかった。アメリカも北朝鮮も、出ては消える日本の自民党政府を本格長期政権として相手にしていないということです。困ったもんです。

冒頭に言いましたが、今回のテロ国家指定解除は、日本との関係を損なっても、北との核問題解決がアメリカの国益、いや、ブッシュの個人の利益にとって重要だったという判断なのです。簡単なことです。

August 31, 2008

頭打ちとなる石油

日本に帰る飛行機代に多額の燃料費なるものが加算されるようになったのはいつからでしたっけ? この燃費サーチャージ、10月からまた1万円ほど上がるんですね。つまり日航や全日空なら通常の航空運賃の他に燃費追加でさらに6万6千円を払う計算です。これって、ちょっとまえの往復格安航空券そのものの代金だった。いまはそれが倍以上出さないと日本に帰れないのです。参ったなあ。

それもこれも原油の高騰に原因があるのですが、石油がこのままなくなってしまった世界を考えるとぞっとしてしまいますわね。


石油がなくなったら、おそらく私たち人類は重力の呪縛に捕われてもう二度と長時間にわたって空を飛ぶことはできなくなるんじゃないでしょうか。ハンググライダーなんかは別ですが(とはいえあの羽根も石油からできた繊維でしたっけ?)、アメリカから日本に帰ること自体が不可能に近くなる。帆船はあるでしょうけれど石油エネルギーがなくてどうやって船自体を、工具を、釘を作れるのか? おまけに温暖化の気候変動で海は大荒れです。

自動車はかろうじて自然エネルギーから得た電力や天然ガスなどで動くかもしれないので「江戸時代みたいな生活」というわけではないでしょうけれど、それにしても通信や情報を含めてすべての分野の産業が極端なほどに縮小するのは間違いありません。あ〜、こりゃ大変だ。気づけば周りは何から何まで石油エネルギー頼りなのです。

さて、石油はほんとうになくなるんでしょうか。いえ、なくならないんですって。どういうことかっていうと、なくなるよりもずっと以前に、石油が使えなくなる日が来るのです。そっちのほうが差し迫った危機です。

というのは、埋蔵石油はまだあっても、採り出しやすい石油は採ってしまって、残っているのは、その石油を採り出すのに、その石油の持つエネルギー以上のエネルギーが必要になるような石油だけ、という時がいずれ来るってことです。そうすると石油を採取する意味がなくなってしまう。

これって、すごいことではないでしょうか。この世に金で買えないものはない、っていう前提で資本主義が発展してきているのだけど、その下支えになっているのがエネルギーです。よくわかんないけど、エネルギー本位制? 金10gを買うのに、金12gが必要、っていうのは論理矛盾だけど、石油10バレル掘るのに石油12バレルが必要という破綻が訪れるわけですね。

そういう、掘り出せない石油が増えてくると、石油生産がいずれ頭打ちになります。その生産のピーク、つまり後は年々産出量が減るしかないという「頂点」が、じつはもうすでに来ているのではないかという説があります。実際、埋蔵石油の発見は40年以上前の1960年代半ばにピークを迎え、その後の発見は減る一方。つまり私たちはいま、60年代以前に発見された石油のストックをどんどん食いつぶしているだけなわけです。増産はできるけど、その分、あとが続かなくなる。

いやまだ石油生産のピークには至っていない、とする石油会社などの研究結果もあります。しかしその研究にしても多くが石油生産はあと10年ほどで、天然ガスもあと20年ほどで頭打ちになる、と結論づけているのです。

そんなに早く? ならばもっとメディアが騒いでもよいのにとも思いますが、騒いでも事実が変わらないのだとすれば、パニック回避のためにも敢えて看過しているのかもしれません(あるいは事の重大さにほんとうに気づいていないか)。

すると……そう、冒頭の私の心配は杞憂ではなくなります。原油の現在の高騰はもちろん、石油の値段が実需によって決まっているのではなく、金融商品化しているせいです。つまり々として取引されているからなのですね。でも、単にそんな投機筋の一時的な利益狙いではなく、ともするともうほんとうに石油はなくなるのだという“インサイダー”情報が背景にあるのかもしれない……航空運賃への燃費加算は今後も廃止されることなく慣例化し、その額も増大する一方──それは究極の格差社会が訪れる前触れかもしれません。つまり、お金を持つものだけが石油エネルギーを享受できる社会です。

なんだか、「格差」なんていうなまっちょろい言葉じゃ捉えきれない新しい時代が来るような気もします。世の金持ちたちはいま、そんなときのためにせっせとカネを溜め込んでいるんじゃないか? 自分たちだけは生き残る、という本能。

「頭打ちとなる石油」を意味する「ピーク・オイル(Peak Oil)」というキーワードを憶えておいたほうがよいかもしれません。

August 13, 2008

うるわしき毒

スポーツというのはじつはジャーナリズムの中で最も記述の難しい分野ではないかと思っています。中立が旨である報道の中で、スポーツ記事だけがそのカセをはらってなんとも身びいきだったりします。したがって、NBCの五輪中継を見ていてもあんまり面白くないということになります。日本がさっぱり出てこないしね。主役ではないのですから。

しょせん私たちは自分の知りたい情報しか知りたくないのかもしれません。たとえば北京五輪の射撃の表彰台で、銀と銅を獲得したロシアとグルジアの女子選手が頬にキスし合って抱き合ったというニュースが朝日のウェブサイトで紹介されました。

ご存じのようにロシアとグルジアは南オセチア自治州の統治をめぐって戦闘状態に突入したばかりでした。そして朝日のサイトは2人仲好く並ぶ写真に「スポーツは政治を越える」というロシア選手のコメントを引用し、見出しも「表彰台に友情の花」と紹介していたのでした。

スポーツは政治を越え「ない」ことはだれもが知っています。それどころかスポーツはつねに政治に利用される。中国での五輪の開催はまさしく、世界の先進国社会に正式に仲間入りしたい中国の政治的思惑と、中国も五輪の体面上、国際的に反発を買うような外交決断や人権侵害は避けるようになるだろうといった西側の政治的思惑の交差したところに成立したものです。

にもかかわらず「スポーツは政治を越える」と言うのは、私たちがつかの間のそんな幻想を信じたいと思っているからでしょう。シビアな現実世界の、それは一服の清涼剤めいて、私にはそれを責める気はありません。私も新聞記者1年生のときは「読者が感動できる物語を探して書くんだ」と先輩記者に叩き込まれた口です。

かくしてオリンピック報道は往々にして選手やその周囲の美談と感動の根性物語になります。

そんなことをつらつら考えていると、今度は五輪開会式でソロを歌った「天使の歌声」の女の子がじつは口パクで、舞台裏ではその子よりも見た目のそうよくはない、しかし歌はうまい別の女の子が歌っていたのだというニュースがありました。なるほど、世界が見たいだろうと思うものを見せる、それはスポーツ報道に限らない。新聞なら美談で、テレビなら画面上の美しさ。それがなんで悪いんだ、というところでしょうか。で、同じくあの開会式の花火のCGです。ふむ、徹底していますな。

しかし日本だってエラそうなことはいえません。ヤラセと演出の違いに敏感なのは、とりもなおさずヤラセでも視聴率が取れるという現実が厳然として存在するからです。中にはヤラセとわかっていてわざとそれを楽しむなんていう高度な視聴技術さえ新しい世代には育ってもいる。

視聴者も読者も、そうやって美談という名の毒消しを求める社会は幸せな社会なのでしょうか。そしてあるとき、美談そのものが現実を直視しないうるわしい毒になって蔓延している。

新聞記者時代、もう1つ大先輩から教わったことがあります。「ときには読みたくないことも書かねばならない。その社会にとって都合の悪いことも書かねばならない。あるときは害であることですら書かねばならない。なぜかわかるか? なぜなら、それが事実だからだ」

中立とか中道とか、そういうバランス感覚の問題ではなく、あるいは社会の木鐸なんぞといった大仰な構えからでもなく、それが単に「事実だから」というだけの単純明快な基準に、若かった私はまさに目からウロコが落ちた思いでした。

五輪のドラマが続いています。NBCやNYタイムズから知る数少ない日本人選手の活躍ぶりは、あんまり面白くないし物足りなくもあるけれど、逆に熱狂的にあおられる感じもなくて、スポーツ観戦のなんだか不思議に新しい経験です。

July 10, 2008

いまの子供と50年後の子供

温室効果ガスの世界全体の排出量を「2050年までに半減する」ではなく、さらには「半減するという長期目標を共有する」ですらなくて、「2050年までに半減するという長期目標を共有することを目指す」っていう、この、動詞が3つも入ったヘタクソな日本語の3重に薄められた「G8宣言」というのはまさにいまのアメリカの断固たる及び腰と日本政府の遠慮とを象徴していて興味深いものでした。

いや、じつはこういう何重もの言質回避の表現は国連の安保理決議などでも蔓延しているので、政治宣言としては驚くほどのことでもないのですが、米国シェルパ(実質的な議論を担う交渉代理人)のダン・プライス大統領補佐官が「素晴らしいG8宣言文」と自画自賛するのを聞けば、さすがは弁護士出身、そりゃつまり自分に有利に導けたって意味ね、とすぐにわかるというもんです。

日本政府も自画自賛していますが、こちらは欧州勢と米国との板挟みになって、それでもいちおう文言をまとめあげるのに成功したという意味でしょうか。しかしなんだかこれも、安易に「自分をほめてあげたい」と言いのける今時の甘ったれ風潮そのもの。欧州勢から「日本のリーダーシップが見えない」とさんざん呆れられているのを、米国しか見ていないので気づかなかった、あるいは政治理念もなくただまとめることしか考えていなかったってことです。

たしかにまとめあげたことは認めます。それもたしかにひとつの政治でしょう。そのようにしかものごとは進んでいかないのもわかります。だが、このなんとはなしの「切羽詰まっていなさ」は、政治的想像力の不在というか、つまりはこのサミットに出席しているすべての人間たちが、おそらくは50年後にはもうこの世にはいない、ということに関係しているのではないかと、ふと思ったりもするのです。

まあ、そんなことを言うのはエキセントリックだと思われてしまう、われわれのいまの有り様もあるのですがね。

とどのつまり、今回のG8はエコロジー(生態系)とエコノミー(経済)の兼ね合いをどうするかという人類の宿命に関する議論の場でした。つまり50年後の子供たちといまの子供たちの、両方を救うにはどうすればよいかということです。アフリカなどでの食糧危機を見ればそれはより切羽詰まった課題として目の前に立ち現れます。

もちろん、いまの子供たちに心配のない先進国では50年後を考える余裕もありますが、いま現在飢えている国ではいかに産業をおこしそれを基に人びとが食べていけるかを探るに精一杯です。そんなときに温暖化ガス排出規制など気にしている余裕はない、いま生き延びなければ50年後もないのだ、という論理になります。それもまたもっともで、新興国も交えた8日の会議では先進国側が先に80-95%の排出ガス削減を行えといった主張もなされました。それももっともなことなのです。

ところがそれではアメリカは産業が立ち行かなくなる。ガス排出規制のすくない新興国に産業が移行してしまう。そうすればアメリカの50年後もない。それがこの洞爺湖宣言に及び腰だったアメリカの、いまのブッシュ政権の論理です。しかしブッシュは洞爺湖で終始緊張感のない顔をしていましたね。はっきりいって大統領職を投げ出しているような顔だった。北朝鮮問題といいこのG8といい、とにかく任期内でいろんなことをとにかくまとめればよいという、冒頭の日本政府の交渉役みたいな心情なんでしょうか。自分の任期のことだけしか頭にないような。

しかし次のオバマあるいはマケイン政権がどう出るかはまた別の話になると思います。特にオバマ政権になれば、あのゴアが環境関連の特命大臣に任命されるということですし。日本も次の選挙で民主党が勝利して小沢政権になったら果たしてどう変わるかわかりません。不明なところも多いのですが、環境問題でも新味を出してくるはずです。

しかしそれまではおそらくこの問題に関する政治の力の不在が続くかもしれません。
そうしてその間にも刻々と地球環境はいま現在のわたしたちの生態系を破壊するように変化しているのです。
世界の食糧危機を深刻に憂慮すると言ったその舌の根も乾かぬうちに18コースもの豪華な晩餐を囲むサミットリーダーたちを見ていると、まさに人間の活動そのものが宿命的に持つ反生態系の害毒を思わずにはいられません。エコノミーとエコロジーは、だれがなんといったって対立する項目なのです。そこを誤魔化さずに折り合いを見つける、といっても、しょせんそれは破滅を先送りする手段を講じているだけのような気もします。

April 16, 2008

国おこし、都市おこし、個人おこし

40日間も日本に行っていました。日本にいると、日本語に守られてるせいでしょうね、国際的な時事ニュースをぜんぜん自分に引き付けて考えられなくなります。なんかまったりしてみ〜んな他人事っぽくなる。で、ここにもなにも書かない、という結果に。てか、たんにだらんとしてただけなんでしょうけどね。

さてさて、帰ってきたとたんサンフランシスコでの聖火の混乱です。中国当局もよく続けるなあと思うのですが、開会式のボイコット気運も高まる中、この問題はどう考えればよいのでしょう。スポーツと政治、五輪と政治の問題ですわ。

私も若かったころは「スポーツと政治は別だ」などと憤慨していましたが、でもずっと以前から五輪と政治はじつは同じものだったんですよね。というか、五輪はその国際的な注目度から、世界に向けて政治的メッセージを送る絶好の檜舞台でありつづけているのです。

ベルリン大会は国威発揚というナチスの政治的思惑の場だったですし、メキシコでは黒人差別に抗議する米国選手2人が表彰台で黒手袋の拳を突き上げました。続くミュンヘンではパレスチナゲリラのイスラエル選手襲撃が行われ、76年のモントリオールでは南アフリカの人種差別問題でアフリカ諸国の大量ボイコットが起こった。80年のモスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側のボイコット、続くロサンゼルスはその報復的な東側の逆ボイコットと、五輪はまさに常に政治とともにありました。

だいたい中国自体も五輪と政治を結びつけて国際社会にいろいろとメッセージを発してきたんですよ。56年のメルボルンから、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワと、なんと7大会連続で五輪ボイコットです。モスクワ大会を除いて6回はぜんぶ台湾の国際認知問題が背景でした。

そもそもどうして五輪を招致するのか? それは五輪という由緒ある国際大会を主催することで国際社会の責任の一端を担う、一丁前の国家として認められたいという思いが基になっています。同時に、関連施設の建設によって国内の景気浮揚を図りたいというハコモノ行政的な意図もあります。つまり五輪は村おこしならぬ「国おこし」のネタだったのですわね。つまり。ズバリ政治そのもののイベントなわけで。

これは64年の東京五輪もそうでした。あのとき東京は高度成長のまっただ中で、日本は戦後復興の総仕上げをして国際社会への復帰を果たそうと五輪を招致したのです。そこではスポーツはたんなるダシでした。もちろん、日本の復権はスポーツ選手個人の頑張りに投影されてじつに感動的だったのですが、ほんとうの主眼はスポーツ選手個人の威信ではなく、国家としての威信にあったのです。それはまさに政治的思惑でした。

すでに五輪が2周目以降に入っている先進国では、長野やアトランタがそうだったように五輪は国おこしを経ていまはホントに開催都市の村おこしイベントです。一方、周回遅れの中国にとっては(今後のアフリカ、中東諸国なども含め)五輪は遅れてきた第二次「国おこし」運動の原動力なのです。今回の北京五輪も、中国政府のそんな思惑と欧米諸国の、五輪開催を機に中国の人権・民主化改善を促そうという思惑が合致して決まったものですからね。

そんな政治の舞台なのですからチベットが登場してもだれも文句なんか言えない。中国が「スポーツと政治は別だ」だなんて、どの口で言えるのか、です。

そう、「スポーツの祭典だから政治はタブーだ」と言うからややこしくなるのです。どうせならもうこれは政治だと開き直って五輪を機にどんどん主張をぶつけ合えばいいんですわ。それで大会がつぶれるようならつぶれちゃえ。そうなったらでも中国だって面目丸つぶれ、欧米だって思惑外れ、チベットは墓穴を掘る。そういうところにしか反作用としての収拾努力のベクトルは生まれないんじゃないの? じっさいの政治としてはいささかドラスティックにすぎるけどね、ま、思考実験としてはだからこそいまと違った落としどころが見つかるかもしれない。まあ難しいでしょうけどねえ(他人事っぽいなあ)。

ところで再びの東京五輪招致が進んでいます。これはすでに国おこしでもなく都市おこしとしても新味に乏しいやね。何のためにやるんでしょう。私には、自己顕示欲が脂汗になってるあの都知事の「自分おこし」のために見えるんですわ。彼個人の人生最後のステージにとっては格好の大イベントですもん。しっかし、そんな個人行事に付き合うのはまっぴら。

だいたい、新銀行東京にしても、解決にはもう何年もかかるけど、やつの物理的寿命はその前に終わるでしょう。未来のないやつ、つまりあの都知事に、「責任を取る」という考え自体が通用しないんです。死を前にしたら、無敵だなあ。だから政治家は若くなきゃダメなの。あと30年生きてると思ったら、ヘタなことできないもんねえ。

September 25, 2007

安逸を求める

イランのアフマディネジャドが国連総会出席でNYに来ています。
今日の午後にはコロンビア大学で講演を行いました。
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もちろんQ&Aの時間が設けられていて、聴衆の1人はイランにおけるゲイの人権と死刑執行について質問しました。これに対して彼は性的指向の観点はまったく無視して米国でも死刑制度があることを指摘して直接の回答を回避しました。しかし司会役の学務部長はさらに回答を促しました。その結果の彼の返答はこうです。

「イランにはあなたの国とちがってホモセクシュアルたちはいません。私たちの国にはそういうのはないのです。イランには、そうした現象はない。私たちの国にもあるのだと、だれがあなたに言ったのか知りませんが」

アフマディネジャドはもちろん聴衆から失笑とブーイングを浴びました。まあ、彼の言いたかったことは、「われわれはホモセクシュアルたちを殺しているからイランにはそういうのはなくなっているのだ」ということだったのでしょう。2年前の2005年7月に行われた少年2人の絞首刑を、私たちは忘れてはいません。
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宗教というのは、答えの用意されている教科書です。巻末を見れば練習問題の答が書いてあるから、それを憶えればいちばん手っ取り早いし神様・お坊さま・司祭さまにも誉められる。それでめでたいので自分で考える必要などありません。はたまた質問そのものの正当性、さらには答えの真偽を疑うということもありません。なぜなら、それは「信じる」ことをすべての基本においているからです。「信じる」は「疑う」の対義語です。そうして「疑う」は「考える」の同意語です。宗教に「なぜ?」は必要ない。むしろ、邪魔で、いけないことです。

なぜ? と考えずに済む人生は、なんと安逸なものでしょうか。もっとも、宗教的生活を送っている人たちも、誠実であればあるほど宗教的回答を突き超えて必ず「なぜ」を考えてしまうものですが。

その辺のことは2005/02/22の「生きよ、堕ちよ」でも書いていますが、思えば、日本語訳ではいまいちその過激さが伝わっていないジョン・レノンの「イマジン」も、じつはすごい宗教否定の歌なのです。多くの戦争の背景に宗教があるということがわかりきっているとして、頭の上には天国なんてない、ぼくらの下にも地獄なんてないんだ、と宗教的迷妄を唾棄して歌は始まるのです。レノンにはもう1つ、「God」というすごい歌があって(というかそのままなんですけど)、そこでははっきり「神なんか、自分の痛みを測るためのメジャーでしかない」と宣言しているんですよね。

しかしアフマディネジャドなるものに対抗するには、どうすればいいのでしょう。
憎悪と嫌悪にまみれた、聖という名の邪悪。
しかも、われわれには憎悪と嫌悪という武器はないのです。手ぶらで、丸腰で、身1つで、戦わねばならない。こまったもんです。

August 27, 2007

恥で倒れた仏像

民主党の小沢代表が「アフガン戦争はアメリカの戦争」と言ってテロ特措法の延長に反対していますが、アフガン戦争とイラク戦争とを明確に区別できる人がいまどれくらいいるかというと、当事者のアメリカ人でさえあまりいないんじゃないかというのが正直な印象です。

日本だってそうでしょう。いまさっきもテレビで評論家諸氏がしっかりと「イラク戦争」と言い間違えてましたし。じつは小沢は、そんな“混乱”をうまく利用してテレビ中継までさせてシーファー大使に直かに反対を伝える政治演出を見せたんだと思ってるんですが、さて、どうなんでしょうね。

そもそも小沢の今回の特措法延長反対の宣言の真意は、確かに「アメリカにノーと言える政治家であるということの演出」ではありながらも、じつはアメリカそのものへの強気の「ノー」ではなくて、ブッシュ政権への「ノー」なのですね。ブッシュ不人気はもう米国内だけの現象ではなく、そうした国際的な「脱ブッシュ」の列に加わってみせたからといって日本の国益はそう損なわれまい。もし損なわれたとしても次のヒラリー率いる民主党政権(?)との関係でいくらでも修復できる、そうふんでの小沢一流の政治演出なのではないかと思えました。日本じゃテレビに登場する評論家たちのだれもそんなこと言ってないけど。

ただしこの小沢演出には落とし穴があるのです。

おさらいしてみましょう。
アフガン戦争のきっかけはイラク戦争と同じく例の9・11でした。ブッシュは世界貿易センタービルを破壊されて拳を振り上げた。それはよいのですが、さあさてそれをどこに振り落とせばよいのか、なにせ相手は国家ではなくて流浪のテロリスト、どこに拠点があるかも分からない。で、9.11の下手人としたオサマ・ビン・ラーディン率いる武装組織アルカイダを、アフガンのイスラム原理主義政権党タリバンがかくまっているとして、それでアフガニスタンに拳を振り下ろすことにした、というのが始まりでした。これで体裁は対アルカイダ=対タリバン=対アフガンという国家間の戦争になったのです。思い出してください。当時、アフガン空爆が「これは戦争か?」とさんざん議論されていたことを。

ところが数億ドルもかけて空爆・ミサイル攻撃しても破壊するのが数百円の遊牧テントだった。世界最貧国への攻撃というのは、じつにどうにも“戦果”が上がらない。箱モノ行政の逆ですね。おまけにどこに行ったかビン・ラーディンもさっぱり捕まらない。そこで国民の目をイラクの独裁者フセイン大統領に逸らせた、というのが次のイラク戦争でした。

米国では現在、撤退論かまびすしいイラク戦争に対して、アフガン戦争はあまり話題に上っていません。というのも、アフガン戦線はじつは昨年7月から軍事指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移行し、英・加・蘭・伊・独が主力構成軍です。米国はそうしてイラク戦とアフガンでのビン・ラーディン狩りに戦力を傾注した。なもんで、アフガン戦争を「アメリカの戦争」と言い切ってそれで済むかというと、それはちょっと違うのです。

しかもアフガニスタンは米国の石油戦略にとって重要な中央アジアからの天然ガス・石油パイプラインの敷設予定ルートでもあって、見捨てるわけにはいかない土地です。次期大統領を狙うヒラリーにしても撤退などは口にしていません。NATO諸国にとっても同じでしょうし、日本だってテロ特措法を成立させた当時の小泉政権は日米同盟と同時に石油のことも考えていたに違いありません。

そういう意味で、小沢のテロ特措法延長反対=アフガン戦線からの離脱宣言は、国内向けには演出で済むが、国際的にはよほど裏ですり合わせしなければならない事案なのです。日本の民主党は一刻も早く米民主党およびNATO諸国とそのあたりについてきちんと協議できるパイプを敷設すべきでしょう。

ただし、そこには問題があります。アフガン戦線はイラク戦争と同様に泥沼化してとんでもないことになっています。カルザイ政権も弱体のままです。アフガンへの関与は本来、自衛隊による給油活動などといった程度では済まされないはずのものです。もちろんそれは軍事後方支援などという単純なものではない。日本にはそうしたコミットメントの十全の覚悟があるのかどうか。

アフガンのあのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたとき、私たちはそれ以上に多くの人間の生と生活の破壊があったことも知らずに憤慨してみせました。あのときイランの映画監督マフマルバフはこう言ったものです。「あの仏像は誰が破壊したのでもない。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて」──私たちはまだ無知なままなのです。

August 26, 2007

転載;署名のお願い

現在イギリスに住むイラン人女性、ペガー・エマンバクシュさんは、レズビアンであることをカムアウトしている方です。パートナーが逮捕、拷問、死刑に処せられてから本国を脱出し、2005年にイギリスで難民申請を行いましたが却下され、あさって火曜日にイランに強制送還されることになりました。

イランは同性同士の性交渉を罰するいわゆるソドミー法があり、送還されればむち打ちと投石の刑を受けます。事実上の死刑です。

現在、強制送還に反対し、恩情的にイギリスに滞在する権利をペガーさんに与えるよう、世界的な署名活動が行われています。その呼び掛けが私のところにも来ました。

以下、転載します。

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3分あれば出来るアクションです。
レズビアンがイランへ強制送還=鞭打たれて死刑、という事態をとめるためのネット署名(英語)はこちらから。
1分あればすぐ出来ます。
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html

お願いします!!

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 【緊急コクチ】
 たくさんの方々にひろめてください。
 28日火曜日まで目が離せません。
 
 ーー以下記事要約/転送歓迎ーー

ペガー・エマンバシュクさん、イラン人女性、40歳。2005年にイランを脱出し、イギリスで難民申請をしたが、それが認められずにあと数日で故郷のイランに強制送還されようとしている。彼女は、レズビアン。レズビアンであるということは、イスラム法の下、イランでは死を意味する。石打ちの刑に処されることもある。

殺される確率が高いとわかっていて、彼女をこのまま強制送還させていいのか。国際難民法の述べる難民の定義を引用するが、「…人種、宗教、国籍もしくは 特定の社会的集団の構成員であるということ又は政治的意見を理由に迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる 者」(難民条約第1条)とは、彼女のことではないのか。

彼女の強制送還は、国による殺人である。これは許しがたい犯罪であり、人命の冒涜だ。国際社会は黙って見すごしていけない。ペガーさんのために一人一人のアクションを求めたい。

【英語サイト】
インディーメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/2007/08/379580.html

シェフィールドのメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/regions/sheffield/2007/08/378415.html

ネット署名(英語):
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html


【日本語訳ブログ】:
http://pega-must-stay.cocolog-nifty.com/blog/

※記事は刻一刻と更新されて、新しい記事が出ていますので、トップから別の記事も見られます

June 22, 2007

従軍慰安婦、全面広告の愚

何か問題があったときにその問題を指摘した相手のことを同罪じゃないかと責めても問題解決にはまったくなりません。「◎×君は廊下を走りました」と言われて「△◆君も走ったじゃないか」と言っても帳消しにならないばかりか、そういう抗弁はとても子供じみたものに受け取られるのが普通です。

それを大人が、それも国を代表する国会議員やジャーナリスト、大学の先生までが真顔で言ったら「子供じみた」では済みません。私が14日付のワシントンポスト紙に掲載された「THE FACTS(事実)」と大書された全面意見広告を見て、これはまずいことになるぞと思ったのはそういうことです。

この広告は、いわゆる従軍慰安婦問題で櫻井よしこや元産経の花岡信明、すぎやまこういちらの呼びかけに応じた日本の国会議員らが連名で「第二次大戦中に日本軍が強制的に従軍慰安婦を徴収したことを示す歴史文書は存在しない」と訴えたものでした。「米国民と真実を共有する」とうたった同広告は、「慰安婦は『性奴隷』ではなく、当時の世界では一般的だった公娼制度の下で行われていて大切に扱われていた」「多くの慰安婦女性は佐官級将校やあるいは将軍級よりもはるかに多い収入を得ていた」などとする5つの「事実」を列挙しています。それだけでも言い訳がましく響くのに、ダメを押したのが次の文章です。

「事実、多くの国が自国兵による民間人強姦を防ぐために軍用の娼館を設置していた(例えば1945年には占領当局はアメリカ兵による強姦を防ぐため、日本政府に対し衛生的で安全な“慰安所”の設置を求めた)」

いったい、どういう神経がしれっとこういう文章を書くのか。この記述内容が間違いだとは言っていません。問題は書き方です。「言い訳がましく響く」どころか、これはまるで「おまえの母ちゃんデベソ」ではないか。こんなふうに言われて、アメリカが「ああ、そうでした」と銃をしまうとでもお思いか。

これは本来、膝を突き詰めて腹を割って直談判しているときに出てくる話でしょう。説得とはそうやってするものだ。複雑に入り組んでいる国際問題ならなおさら。ところがブッシュ一辺倒で来た自民党は、米議会で勢力を得た米民主党のキーパーソンとの親密なパイプをだれも持っていなかった。だれもこういう話が出来ないのです。そうして、何を勘違いしたか、本来ならば密室でのせめぎ合いの一端を新聞紙上でかくも公然と高圧的に講釈したもうた。バカじゃないのか。

案の定、これが火に油を注ぐことになりました。副大統領のチェイニーもこれに目を剥き、4月の安倍訪米での謝罪でなんとなく鈍化していた米議会も一気に日本非難決議採択でまとまりました。掲載がNYタイムズではなくワシントン・ポストでまだしもよかった。NYタイムズならあっというまに一般市民にまで反日気運が広まったかもしれません。

思えばこのすり替えの論理は従軍慰安婦に限ったものではありません。故松岡農相のナントカ還元水に始まる事務所費乱用問題では「(民主党の)小沢さんの使い方はどうなんですか」と気色ばみ、年金問題では「そのときの厚生大臣は菅(直人)さんじゃありませんか」といずれも相手の責任に問題をずらす総理大臣がいます。

見逃せない点がもう1つ。「強制はなかった」という言い方は、沖縄戦での集団自決に関して「日本軍の強制はなかった」という論理とじつに似通っている。問題は、従軍慰安婦も集団自決も、それを「強制した文書が存在する、しない」ということではないのに。

あの沖縄戦で、日本軍の基地建設にも関わった沖縄島民は米軍にとらわれて軍事機密を明かしてしまうことを懸念されていた。それで日本軍は鬼畜米英を強調し喧伝し、重要な軍事物資であった手榴弾を島民たちに手渡す。たとえそこに言葉や文書による命令がなかったとしてもそれは自決への明確な誘導であり、その体制での誘導とは精神的な強制以外のなにものでもなかったことは想像に難くありません。ふだんは「すべてを言わずにそれを斟酌するのが日本語の美徳」などと言っておきながら、右翼保守派はこういうときに限って「具体的な言葉がなかった」と逃げ道に使う。まったく、汚いことこの上ない。

同様に、従軍慰安婦でも問題はそれを生み出した戦時体制全体なのであって、慰安婦はその中の一具体例でしかないのです。強制を示す文書がなかったといって鬼の首でも取ったかのようにはしゃいで新聞に全面広告を出すなど、やぶへび以外のなにものでもありません。そんなことを証拠立てたって本質としての軍国体制そのものが赦されるものではない。ここには例の靖国問題の本質も通底しているのです。

こうした一連の自虐史観の書き換えは安倍政権にとっては「戦後レジームからの脱却」の作業の一環かもしれませんが、米国では「第二次大戦の敗戦の否定」「戦時体制の肯定」として映っています。そこを相手にせずに慰安婦は強制しなかったと言っても、「だから何だって言うんだ」なのです。

今回の非難決議は、端緒はたしかに一議員の選挙区事情に動機付けされた側面もあったでしょうが、しかし現在ではすでに、いまの安倍政権を右翼政権ととらえる米民主党の政治的警戒感の表れへと変容しているのです。憲法改正や靖国参拝など、安倍晋三の体質を祖父の岸信介にまで遡って右翼や宗教右派と結びつけて論じるのが米国の民主党系知識人の傾向です。ですから慰安婦問題を足場に自民党の右傾化を阻もうというもうひとつ大きな政治的意図──まさに米民主党からの、米次期政権からの、これは申し置き状だと思って対処したほうがよいのでしょう。米民主党とのパイプをないがしろにしてきたツケが回ってきているのです。