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September 15, 2008

2001/09/11 再現

9.11WTC攻撃

◎あの日、何が起こったのか?

◆09/11 08:46am 
●ブルックリンの緊急通信センター 通信専門員ジャネット・ハーモン

 いつもと同じくよく晴れたきれいな朝だった。ニューヨ−ク市マンハッタン区の東対岸、ブルックリン区にある緊急通報センターで、通報受信オペレーターを15年間務めてきたベテラン通信員ジャネット・ハーモン(53)はいつもの朝のシフトで受信モニターに向かっていた。

 緊急通報センターは日本の110番と119番を統合したすべての種類の緊急電話を受け取る。米国の緊急電話番号は911番。1日平均3万2000件、年間では1200万件近い電話がかかってくる。受信装置はコンピュータと直結した105台。そこに常時最低でも60人が待機している。その背後には多民族都市ニューヨークならではの140カ国語に対応する通訳も控えている。

 そのとき、一本の電話が鳴る。70人ほどがシフトに入っていただろうか、たまたまハーモンがその電話を受けた。そのとたん、「オペレーター、オペレーター!」と緊迫した女性の声がヘッドフォンから飛び込んできた。「お願いだから、どんなことがあってもこの電話を切らないで!」。事件事故の通報を受ける場合、最も肝心なのは相手を落ち着かせることだとハーモンは知っている。「マダム」とあえて低い声でハーモンは応対する。「落ち着いて。どこからかけているの?」。女性が答える。「いまブロードウェイを車で下っているところ。いま、目の前で、世界貿易センターのタワービルに747(実際はボーイング767型機)がぶつかったの! ビルが火の玉なの! わざとぶつかったように見える!」。予断を挟まないこと、聞いたことそのままをコンピュータに打ち込んで、主観を交えないこと。車内での携帯電話なのだろうその女性の声の向こうから、同乗しているらしい男性の声が叫んでいるのが届いた。「全員をよこせと言うんだ! とにかく、警察も消防も全員を出動させてくれと言うんだ!」。

 ジャンボ機がぶつかった? 確認する自分の声がうわずっているのが自分でもわかった。そのとき、周りの受信モニターが連鎖反応のようにいっせいに鳴り出した。当の貿易センターの高層階から「閉じ込められた」と助けを求める電話もあった。応答する70人のオペレーターの声が受信センターのフロアで低く強く渦を巻きはじめた。

◆09/11 08:55am
●ブルックリン橋 NY消防長官トーマス・ヴォン・エッセン

 前夜やや夜更かしをしたせいもあってトーマス・ヴォン・エッセン消防長官はその日の朝のピックアップを8時半でいいと運転手に告げていた。自宅から消防本部のあるブルックリンには、マンハッタン島の東岸を南北に走る高速道FDRドライブを通ってブルックリン橋を渡る必要がある。

 夜更かしをしたのは31年前、初めて消防士になったときに赴任したサウス・ブロンクス区の第42はしご車隊で懇親会が催されたからだ。かつての同僚や師と仰いだ先輩たちと旧交を温めた翌朝の空は、やっとやや秋めいてきたようで爽快だった。そうしてブルックリン橋にさしかかろうとしたとき、何気なく見上げた窓の外に、何かが見えた。

 「あれは、雲かな?」とエッセンは運転手のジョン・マクラフリンに声をかける。ちらと視線を上げたマクラフリンはハンドルを握ったまま「いや、仕事のようですな」と答えた。だが、そのときはまだマンハッタン・ダウンタウンのビル群が視界を遮り、その黒い雲の立ちのぼる場所がどこなのか、見当はつかなかった。

 いったいどこなんだ、と見つめる西の空がビル群の間から覗いた。目を疑った。世界貿易センターの北タワーにぐっさりと穴が開き、そこから炎と黒煙が立ちのぼっていた。

 「なんてこった! 貿易センターに飛行機がぶつかったみたいだ!」とエッセンは叫んでいた。

 そのころすでに、ブルックリンの緊急通報センターのジャネット・ハーモンの打ち込んだコンピュータ情報は出動センターのモニターに流れ、消防本部の指令系統から第2次出動命令が発信された。それは十数秒後には第3次、第4次出動に、そしてたちどころに最大動員の第5次出動に変わった。

 マクラフリンは長官専用車の消防無線のスイッチを入れた。「ワールドトレードセンター、北タワーで爆発」。交信が錯綜する。第5次出動。エッセンは寒気を覚えた。黒く不吉な煙の噴出を見つめながら、「1000人単位の犠牲者……」とつぶやいたことを彼は憶えている。

◆09/11 08:58am
●FDNY ニューヨ−ク市内に位置する212消防署

 NY消防本部は全部で消防車隊が203隊、はしご車隊が143隊、ほかにも泡消火部隊の10隊などで構成され、人員は計1万1500人。その朝の勤務者はおよそその半数だった。夜勤と朝番との交替シフトは朝の9時。だがその日、朝のシフト交替はついに終わらないままだった。

 NY市警の警察官らは「ニューヨークの最たる精鋭たち(Finests)」と呼ばれる。対してNY消防本部(FDNY)の消防士たちには「ニューヨークで最たる勇者たち(Bravests)」という尊称が付いている。あまたの大火災にも恐れることなく立ち向かい、幾多の犠牲者を出してもつねに生活者の味方でありつづける消防士たち。1966年にはマンハッタン・ダウンタウンの「23丁目大火」で一度に消防署長2人を含む12人の消防士が殉職したこともあった。それが過去最悪の出来事だった。

 最初の出動命令は世界貿易センター(WTC)にほど近いグリニッチ・ストリートにある第10消防車隊に出された。「WTCで爆発」との報。その出動命令はすぐさま市内全域に拡大した。ニューヨーク中にけたたましいサイレンとクラクションの音が鳴り響いた。

 通常の火災はまず担当地区の消防車隊が対応し、そこにはしご車隊などが増員される。それで対応できないときはその地区全体の消防隊が「大隊(バタリオン)」として派遣される。それでもだめならより大きく地域(ディビジョン)全体の消防署の出動となる。そしてそれでも困難なら、市内全域の消防士が現場に急行する。しかしそんなことはかつてなかった。

 第一陣の現場到着隊は第10消防車隊を含みいずれもWTCに隣接する地区の消防署だった。夜勤を終えて交替して帰宅するはずだった60人の消防士たちもその中に加わっていた。現場に急行する消防車には通常の2倍の消防士たちが乗っていた。もっとも、午前9時29分には非番を含め市内の全消防士に出動および待機命令がかかったから、すでに非番もなにもあったものではなかった。現場ではだれが出てだれが出ていないかを点呼するゆとりもなかった。無線機も持たずに急行する者も多かった。周辺ビルまでもが炎上しはじめていた。どこから手を付ければいいのか、この道数十年のベテランたちでさえもたじろいでいた。現場は混乱を極めた。だが、混乱を見せてはいけなかった。逡巡を振り切るように、勇者たちは各自行動を起こしたのだ。ある者たちは自分の経験だけを頼りに果敢にタワービル上層階へと階段を駆け上っていった。数千人が避難を待っているのだ。

 まさか、この世界最強のビルがすぐにも崩壊しようとは、その時点ではだれも考えていなかった。

◆09/11 09:03am
●2機目が南タワーに突入

 消防、警察、救急隊の全体が事態の重大さに対応しはじめたとき第2弾が待ち受けていた。マンハッタンの南側から轟音とともに超低空飛行してきた航空機が、今度は無傷だった南タワーに激突したのだ。こちらの衝撃は北タワーよりも甚大だった。飛行機の速度は1機目よりも160キロ速い時速800キロ。総重量160トンのボーイング767は南タワーの78〜84階部分の南東のコーナーを切り裂くようにぶち抜いた。3万6000リットルものジェット燃料がビル内部に注ぎ込まれた。3分の1が衝突時に一瞬のうちに引火し大爆発を起こし、残り3分の2がビル内部で気化して充満するか火とともに伝い落ちていった。おそらく、そのとき何十人という人間たちが熱と圧力で蒸発した。

 南タワーにも即座に第5次出動命令が発動された。北タワーに展開していた消防士たちがここにも駆け込んでいった。数千段もの階段を駆け上がり、内部の数千人を安全に避難誘導するために。

 だが、その時点で両タワービルの火災温度は1100度にも達していた。フロアを支える鋼鉄のトラス群が熱にやられて溶けはじめていた。

 熱と煙に耐えきれず、高さ300メートル以上の上層階から自ら飛び降りる人も続出した。消防士にもすでに負傷者が出ていた。なにより、トラック大の瓦礫が断続的に地上に降り注ぎ、後続隊は燃えさかるタワーに近づくことも難しくなっていった。

◆09/11 09:59am
●南タワー、「もっと部隊をよこせ!」

 2機目でこれはテロだと断じられた。北タワーに1機目が突入した際、南タワーではこちらは被害がないから各自自分のデスクに戻るようにと館内アナウンスが行われていた。だから南タワー上層階で相当数の人々が閉じ込められてしまったのだ。

 そこに真っ先に飛び込んでいったオリオ・パーマー大隊長とロナルド・ブッカ消防隊長が、40分をかけていまやっと78階まで徒歩でたどり着いていたのだった。これまで消防士がたどり着いたのはおそらくせいぜい50階までだったろうと思われていた。だが、翌2002年8月に見つかった無線交信のテープに、激突部分であるまさにその78階で、多数のけが人の救出にあたる彼らの声が分析されたのだ。

 午前9時45分ごろの録音。パーマー大隊長が78階にいたけが人数人を含む10人のグループを41階のエレベータまで向かわせたと連絡している。そのエレベーターが、最後まで動いていたただ一基のものだった。

 南タワーを担当したドナルド・バーンズ指揮官の声も残っていた。「もっと部隊をよこしてくれ!」と何度も繰り返し叫んでいた。しかし、救助に向かった消防士たちは階段を降りてくる避難者たちに行く手を阻まれ、さらにいったいどちらのタワーのどこに行けばよいのかも混乱したままだった。

 14分後、午前9時59分、南タワーが内部へ向けて沈み込んでいった。崩壊速度は時速320キロ。ビル全体が崩落するのに10秒しかかからなかった。パーマー大隊長らの交信はそこで途絶える。41階に向かっていたはずの被救助者たちにとっても、14分という時間は外に出るにはあまりにも短すぎた。

 その直前、ワシントンDC郊外では国防総省にボーイング757が突入していた。さらに午前10時10分、ピッツバーグ郊外では別のハイジャック機が、明らかに乗客の抵抗に遭って突入目標に達することなく墜落した。

◆09/11 10:28am
●北タワーも……2万5000人を退避させて

 午前10時28分、そして北タワーもついに崩落した。立ちのぼる粉塵と炎の下でなおも消防士間の無線交信は雑音混じりで続けられていたが、それらもいっせいに静まりかえった。動けなくなった携帯者の位置を知らせるPASS(個人警報安全システム)モニターの音だけが瓦礫の下から聞こえていた。だが、崩壊とともにそれらは消防士たちの手から放れていた。音の聞こえるところに消防士はいなかった。

 消火用水を供給する水道本管ももう破断されて機能していなかった。近接のハドソン川から消防船が水を供給していたが、それではもちろん十分ではなかった。WTCの計6棟が崩落または炎上していた。約2万坪が燃え上がっていたのだ。

 ピート・ガンチ消防本部長、ウィリアム・フィーハン消防第一副長官、レイモンド・ダウニー救助(レスキュー)本隊長が殉職した。大隊長の18人、消防副隊長の77人も殉職した。第1レスキュー隊は消防士11人を一度に失った。第20はしご車隊は7人、第22消防車隊は4人を失った。消防全体では343人が亡くなった。消防車など装備の損壊損失は4800万ドル(当時レートで5700億円)に及ぶ。しかし、彼らの犠牲によって世界貿易センターの2塔からは計2万5000人が脱出できたのだ。

 火は以後、崩壊した地下で4カ月間にわたって燃え、くすぶりつづけることになる。


◎WTC崩壊その後〜救助作業から撤去作業へ

▼NY市の緊急司令センターはタワー北隣のWTC7番棟にあった。このビルも炎上の末11日午後5時20分に崩落した。市長ジュリアーニは現場の司令センターとして無線指令車を導入した。

▼テロリストたちが突入させた航空機に化学兵器、生物兵器が搭載されていなかったか、市はその日のうちにWTC近隣3カ所に空気サンプルの採取装置を設置して化学分析に回した。結果はいずれも陰性だった。

▼テロの夜が明けて2日目からグラウンドゼロは連邦緊急事態管理庁(FEMA)の管轄となった。同庁から1300人が派遣され、そこに米国赤十字、連邦捜査局(FBI)、NY市警(NYPD)、NY消防(FDNY)から2000人が加わって生存者の救出作業が続けられた。24時間以内に、現場には260台の特殊重機が運び込まれ、240台のトラックが稼働しはじめた。

▼NY都市圏から若者たちのボランティアも集まりはじめた。その数はたちまち数万人にふくれあがり、FEMAの組織管理力をはるかに越える数になった。

▼全米およびカナダの各地の消防隊も陸路NYに到着しはじめた。飛行機はすべて発着禁止だったのでみな自前のトラックやバスや列車でやってきた。グランドセントラル駅ではそんな応援隊の到着のたびに周囲から拍手と歓声が挙がった。カリフォルニアからは、同地に多い地震で活躍する土中の生存者探索班が到着した。各地の消防署長の多くは、NYに助けに行きたいという彼らを有給扱いで送り出した。

▼陸軍工兵隊も投入された。しかし陸軍のベテランたちにもこの光景は初めてだった。「1995年のオクラホマ連邦ビル爆破事件の悲惨さも、この壮絶さの比ではなかった」と工兵隊のジョン・オダウド大佐は話している。

▼瓦礫の撤去は初め、手作業でバケツで行われた。重機の投入はいるかもしれない生存者の命を危険にさらす恐れがあったためだ。しかし結局、生存者は事件発生後48時間で5人しか見つからなかった。

▼1週間で7万トンの瓦礫が撤去された。1日75台のトラックが20マイル先のスタッテン島の瓦礫選別所にそれらを運んだ。そこでもまた人骨の収集が行われていた。同時に、WTC崩落のメカニズムを探るために大学や研究所から専門家が送り込まれ、鉄骨やコンクリートブロックの断裂の実態を詳細に調査していった。

▼現場の2万坪の瓦礫の山は部分部分に落とし穴があり弱い構造があり、さらに地下へと潜れる隘路があった。しかし危険なことに、正確な全体の位置関係はだれも把握できていなかった。そこで1500メートルの上空から航空機で地表にレーザーを照射し、コンピュータによる解析で3Dマップを作成する方法がとられた。「光探知測量(Light Detection And Ranging)」、または頭文字を取って「LIDAR(ライダー)」と呼ばれる最新技術だった。3次元で描かれたコンピュータ・グラフィクスの現場地図を見て、実地でそれを知っている消防士たちは「ここがあれだ」と即座に位置関係を飲み込んでいった。LIDARの誤差はわずか±15センチだった。

▼WTCからわずか数ブロックしか離れていないウォール街のNY証券取引所は17日の月曜に再開した。テロからわずか1週間の間に、不通だった電話も電話会社ヴェライゾンが3000人の人員を投入して4万回線を復旧させた。停電だった電気も1900人の作業員が延べ60キロに及ぶ仮ケーブルを敷設して19日には供給を再開した。それはおそらく、アメリカ人の意地だった。

▼9月24日、ジュリアーニ市長は「これ以上生存者を発見することは不可能だろう」と苦渋の宣言を行った。この時点から、作業は公式に救助から遺体収集、瓦礫撤去へと変わった。

▼WTCは地下に駐車場や地下鉄駅や商店街などが7層にわたって配置されていた。地下へと潜ってゆく消防士たちにはこの現場に特化したGPS(衛星測位システム)装置が配布された。グラウンド・ゼロはすでにそのころ、消防士たちの間では「ザ・ピット(奈落)」と呼ばれていた。

▼現場からは瓦礫の下に埋まったおびただしい数の車両も回収された。その中には消防車両91台、警察車両は144台もあった。修復はいずれも不可能な状態だった。

▼事件後6カ月の2002年3月11日、WTC跡地に強力なサーチライトが88基用意された。その夜から32夜にわたって、サーチライトはニューヨークの夜に鎮魂の光のタワーを2本浮かび上がらせつづけた。それは十数キロ先からも見える幻の塔だった。

▼2002年5月30日、瓦礫の撤去作業は正式に終了した。要した人員と時間は150万人・時間、瓦礫の総量トラック10万7000台分180万トン。


◎証言集

■WTC現場で取材していたNYデイリーニューズ・カメラマン、デイヴィッド・ハンシャー
 南タワーの崩落で生き埋めになった。もう息ができず、死ぬんだと覚悟した。ヘルプと何度も叫んだ。どのくらい経ったか、そのとき声が聞こえた。「心配するな、ブラザー、すぐに助け出してやる」。その声を忘れない。消防士たちが互いに「ブラザー」と呼び合っていることを知っていた。近くに何人も消防士たちがとを思い出した。助かる、とそのとき思った。

■FDNYカメラマン、ジョージ・ファリナーチ
 現場に到着したときはすでにカオスだった。無線も聞こえなかったし、この混沌に見合う装備も何もなかった。手にしていたのは斧とかハンマーとか。何も持っていない者はすでに潰れた消防車から使えそうな物を引っ張り取っていた。しかしそれもゴミ漁りにしか役立たないような代物だった。それで作業を始めなければならなかった。しかもあの日は消防学校の卒業式から間もなく、9月11日はまさに現場に出るのがまったく初めての消防士たちも多かったんだ。

■フリーランスジャーナリスト、ピーター・フォーリー
 タワーが倒れた後でさえも、数百人の消防士たちが現場に駆け戻っていった。足下には落とし穴が待ち受け、周囲のビルからもガラスや窓枠の金属などが断続的に降り注いでいた。逃げるではなく進んでゆく人々。救急隊も恐れを知らなかった。現場はものすごい熱だった。彼らを見ていて、感動に心臓が止まりそうだった。

■消防船「ジョン・J・ハーヴィー」号船長。ハントリー・ギル
 ハドソン川沿いの現場に到着したのは2つ目のタワーが崩壊してまもなくだった。ちょうど沿岸警備隊の無線がイースト川やバッテリー公園沖のすべての船舶に協力を要請しはじめた。WTCの現場近くでは逃げようもなく川沿いに押しやられた人々でいっぱいだったから。あの日、民間も含めてボートが大変な威力を発揮した。トンネルも閉鎖、橋も閉鎖、道路もままならにときに、1万人から2万人もの人々がニュージャージー側に逃げようとしていた。ボートだけが逃げる手段だった。旅客運航などしたこともないボートが数十台もハドソン川を猛スピードで行き来していた。

■海兵隊安全局大尉、スコット・シールズ
 水がなかった。供給システムがダウンしていた。それでもまだ火は燃えつづけていた。我々を取り囲む周辺のビルもすべて同様に燃えはじめ、トラックの大きさの瓦礫があちこちで落ちてきていた。火と戦う水がほしかった。そのとき、消防船がやってきた。ジョン・J・ハーヴィー号だ。あれは古くてもうスクラップだというのでNY市が5万ドル(当時レートで600万円)で消防に払い下げた船なんた。でも、ハーヴィーは他のどの消防船よりも水を大量に汲み上げられた。WTC北西の岸辺に停泊して水を供給してくれたハーヴィーは我々のヒーローだった。

■連邦緊急事態管理庁(FEMA)、マイケル・リーガー
 あのとき救助の人々を衝き動かしていたものはただ、希望だった。だが、その希望も色あせていった。おぼえているが、3日目だ。もう生存者はいないとどこかでわかったのは。実際、翌12日の朝に5人の生存者が見つかっただけで、それ以後はだれも生きて発見されなかった。

■星条旗を掲げる3人の消防士を撮影した「ザ・レコード」紙のカメラマン、トーマス・フランクリン
 もうフィルムが残っていなかった。最後の40枚を撮ってから帰ろうと現場を振り返ったときに、30メートルほど先で3人の消防士が星条旗を揚げようとしているのが目に入った。淡々と、儀式めいたところも何もなく、ただ黙って、仕事のように旗を揚げようとしていた。写真を撮りながら、ジョー・ローゼンタールの硫黄島の写真を思い出していた。これが私たちの連帯と誇りとを示すポジティヴな写真と受け取られていることをうれしく思う。

■第5はしご車隊、スティーヴン・ナポリターノ
 あの現場でおぼえているのはバケツだね、バケツ・リレー。あんな巨大な作業で、そんな小さな道具を使っていたんだ。何百人もが何百個ものプラスチックのバケツで延々と土砂を取り除いていた。皮肉なもんだね。そんなことが頭を去らないんだ。

■第4はしご車隊 ジェイムズ・ダフィー
 南タワーが崩れたとき、ぼくは北タワーのロビーにいて、生まれて初めてあんな大きな音を聞いた。一瞬のうちに10メートルくらいぶっ飛んだよ。そのとき手に持っていた斧もハロゲンランプもなくしてしまった。でも、ハロゲンは翌日、他の人に見つけられて戻ってきた。

■第1消防車隊 ネルソン・ロス・ジュニア
 救助作業の現場で足場に目を落とすと、隙間から地下が覗けたんだ。見ると自分の足の下に車やらバスやらが埋まっていた。これはきっと駐車場だと思って他の仲間を呼ぶと、これは駐車場じゃない、ここは道だったところだと言われてね。そのときわかったね、これが110階のビルが潰れた跡なんだって。道であろうが公園であろうが関係なく覆い被さっている。そのときのショックはいまでも忘れられない。

■NY市警副調査官 ジェイムズ・ルオンゴ
 瓦礫、残骸が一時集積されるフレッシュキルで遺品などの回収を担当していた。ところがね、あれほどの残骸の中で、物の無さが私にとってはショックだった。あんなにたくさんの残骸の中に、ドアがない、電話機もない、コンピュータもない。ドアノブさえないんだ。みんな溶けてなくなったか溶けて塊になってしまったか。でもなぜかプラスチックのIDカードがたくさん回収されたね。革の財布にでも入っていたからだろうか。そう、現金も全部で7万5000ドルほど回収された。だれのものかは永遠にわからないだろうが。

■第5はしご車隊副隊長 ケネス・クリスチャンセン
 おぼえているのは現場の静かさだ。ひどく静かだった。きっと混乱してすごいだろうと思っていたが、実際に到着してみると、あるのは粉塵と金属の塊だった。なにもなかった。椅子もない。全部つぶされて何が何だか分からなかった。

■第24消防車隊 ジョン・オトランドー
 スミソニアン博物館や港湾委員会、NY歴史学会などは事件発生当初からこのテロを記憶するためにさまざまな遺品や遺物を収集している。そういう物は博物館に飾れるからいいよね。でも、本当に後世に伝えたいものは、あの時のみんなの働きぶりだよ。みんなが力を合わせて懸命に救助作業を続けていた。私の見たその努力と善意を博物館に飾ることができたらどんなにすばらしいことか。

◎「英雄たちのカレンダー」

 全米大都市の消防本部では選りすぐりのハンサムな消防士たちをモデルに毎年カレンダーを作っている。収益金を地域の消防教育や啓蒙基金に回しているのだ.

 FDNYも例外ではない。しかし02年版のそのカレンダーは昨年9月28日の発売を前に急きょ中止になった。343人の犠牲者を出したばかりでなく、モデルになった中にもロバート・コルディス、トーマス・フォーリー、アンヘル・フアルベの3人の殉職消防士が含まれていたからだ。

 だが今年、さまざまな追悼を経て殉職者のためにもぜひそのカレンダーを復刊させてほしいとの思いが寄せられた。そうしてFDNYはこれを来年03年版カレンダーとして復活させたのだ。

 これまで同カレンダーは「消防署のハンク(マッチョマン)たち」という名だった。が、今回の03年版はまさに「ヒーローたちのカレンダー」と改名。カバーも世界貿易センターだった昨年版の背景をエンパイアステート・ビルに差し替えた。3殉職者の1月、5月、10月のカレンダー写真には黒いリボンが喪章として添えられている。
(了)

◎「トゥー・マッチ以上」の心の傷を抱えつつ、逝った仲間たちを忘れず
                    ──第152消防署インタビュー


 マンハッタンの南端からさらにフェリーで25分ほど南下したニューヨーク湾上にニューヨーク市の5番目の区、スタテン島がある。人口は40万人ほど、面積はマンハッタン島の3倍近い150平方キロ。そこにももちろん20の消防署がある。その中の、隊員わずか17人の第152消防車隊もまた愛する仲間を失った。ロバート・コルディス消防士(当時28)。じつは彼は9.11のちょうど2週間前にブルックリン区の第1スクワッド(特別救助)隊に異動になっていた。しかし隊舎2階にはいまでも彼のロッカーが当時のまま残っている。ピーター・デフィーオ署長(51)、スティーヴ・ザザ主任消防士(43)、アンソニー・フラッシオーラ消防士(38)に話を聞いた。

       *
Qロバートの異動したスクワッド隊というのは?

デフィーオ署長 あれはレスキュー隊のもっと機動的なものでね、いちばん忙しくて危険なエリート部隊みたいなもんだ。ロブ(ロバート)はここで2年働いていたんだが、いつももっと忙しくて注目を浴びるようなところで活躍したいと思ってた。だからあの現場で真っ先にタワーに飛び込んでいったと聞いても、まあ、あいつならそうするだろうなと思ったよ。

Q異動は喜んでいた?

デ署長 ああ、これでまた女にモテるってな(笑)。若かったから仕事以外はぜんぶ女だ(笑)。とにかくうちにいた2年間、なんにでも積極的だった。オフの日は近くのバーでバーテンもしてたくらいだ。人気者だったよ。町のみんながやつを知っていた。

フラッシオーラ消防士 おれもよくあいつに遊びに誘われてたんだが、こっちは女房持ちだしね、なかなか付き合いきれなかった。あいつはよくマンハッタンまで出かけて飲んでたな。それに、2002年のFDNYのカレンダーにもモデルとして採用されて、それもとても喜んでいた。2階のワークアウト室でいつも体を鍛えてたからそれは誇りにしてたよ。もちろん、またこれでモテるぜってのもあったろうが(笑)。

ザザ主任 カレンダー、見たか? ウォールストリートの雄牛の像に上半身裸でまたがってるやつさ。

デ署長 そうそう、そういえばロブのガールフレンドだっていう若い娘さんがあの事件の後でうちの署にやって来たよ。3人も、だ(笑)。

フ消防士 あいつは料理も上手でね。パスタなんか、最初に作ってくれたのはチキンが載ってるやつでこれが美味かった。褒めてやったら照れてたけどな。

Q死んだと知らされて?

フ消防士 ……そうだな、なんだか……頭が熱くなった。やつだけじゃなく、他の親友も死んだんだ。ロブの報せを受けたのは14日だったかな。それまでだれが死んだのかもわからなかった。ぽつりぽつりと噂のように死者の名前が伝わってきた。毎日増えていった。トゥー・マッチ(ひどすぎる)だと思った。トゥー・マッチ以上だ。

Qショックはいまでも?

フ消防士 正直言って、ぶり返すね、ときどき。

デ署長 われわれは四六時中いっしょにいるからね。シフトは朝の9時から夕方の6時までの9時間と、その夕方6時から朝9時までの15時間の2交替。仕事もメシも風呂もその間ずっといっしょだ。家族? 家族以上だよ。

Qセラピーは?

フ消防士 受けてるやつもいるが、おれはやってない。家に帰って犬を蹴飛ばしてストレス解消だ(笑)。

デ署長 おいおい、女房は蹴飛ばすなよ(笑)。

ザ主任 死んだということもじつはどこかで認めたくないんだな。死んだって言葉を、言いたくないんだ。

Qあの朝はどうやって?

ザ主任 第一報を受けて大隊長を乗せてすぐにフェリー桟橋まで隊の車で飛んでいった。真正面にマンハッタンの南端が見えるから。1機目の突入後間もなくで煙はまだ白かった。そうしたらおれたちのすぐ頭の上をものすごい低空飛行で別の旅客機が飛んでいったんだよ、そのマンハッタンの方に向かって。何だ、と思って見ているとそれで見ている前でまたビルにヒットした。信じられなかった。これは大変だって目が覚めた。それでそのまま車で橋を使ってブルックリンに渡り、そこからトンネルを通って現場に急行したんだ。途中でもう一人大隊長を拾ってね。

フ消防士 おれはたまたま非番でブルックリンにいてね、橋が閉鎖されてスタテン島には戻れなかった。現場急行の指令が出ていたので近くにいたスクールバスに頼み込んで他の消防士たちといっしょにとにかくマンハッタンに向かったんだ。現場はすごかった。到着したときは2棟目も崩れた後でどこもかしこもぜんぶ粉だらけになっていた。あとは鉄の塊。何をしていいのか、どこから手を付ければいいのかわからない。とにかく近くにいた隊に合流してホースラインを引いて、それからけが人を捜した。

ザ主任 1棟目は爆発したんだ。ものすごい音だった。あの上層階部分が落っこちてきたんだ。一瞬のうちにあたりはみんな煙だな。雲が襲ってきた感じだ。そして気づくと音が消えてた。何も聞こえない。雲の向こうに消防車の点滅する明かりは見えたが、逃げる途中で道具もマスクもなくなっていた。いっしょにいた別の主任消防士は血だらけだった。煙がうっすらと晴れてあたりを見ると、そこにはちょうど飛行機の残骸がちらばっている場所だった。タイヤとか飛行機の窓とか。すごい光景だった。生きている人間はおれたち以外にはだれもいないんじゃないかと思った。

Q2棟目は?

ザ主任 あれは潰れ込むようだった。爆発音ではなく、地響きのようなとどろきが上の方から聞こえてきた。これは死ぬと思った。逃げても逃げても巨大な鉄の桁や梁が降ってくるんだ。それにつぶされてみんな死んでるんだ。よく生きてたと思う。何なんだろうな、その違いってのは。

フ消防士 現場でおぼえているのはフラストレーションだ。無力感。

ザ主任 1年前にいっしょに現場に行った車はいま署の中にあるよ。窓は破れてボンネットもぼこぼこだったんだが、それでもみんな修理が済んで復帰してきた。

デ署長 ロブのロッカーもまだ2階に残してあるよ。

フ消防士 ヴィン・ディーゼルっていう最近人気のマッチョ俳優を知ってるか? あれがロブに似ているってんでロッカーの扉にはその俳優の写真が貼ってあるんだ。後で見せるよ。

デ署長 あいつは一人息子でね、母さんは去年の感謝祭(11月下旬)にこの署に挨拶に来たが、つらそうだったな。毎年感謝祭には署で七面鳥を焼くんだが、さすがに去年はいつもと違った。事件から1年が経ったと言ってもな、まだまだ忘れることはできないし忘れようとも思わないよ。むしろ忘れないようにしてるんだ。
(了)

◎FDNYフットボールチームの再建

 ニューヨークでは警察と消防は永遠のよきライバルでもある。とくに両者間では毎年、各種のスポーツ競技会がチャリティー名目で開催される。NYPDの精鋭(ザ・ファイネスト)たちとFDNYの勇者(ザ・ブレイヴェスト)たち。だが、ことしのアメフト大会はやや様相を異にした。

 9.11から間もない昨年10月初め、FDNYの「ザ・ブレイヴェスト・フットボール・クラブ」のメンバーの間で熱い議論が起こっていた。30年間続いたこの伝統のチームを解散させるのか否か。343人の殉職者の中にこのチームの中心メンバー22人も含まれていたのだ。チームの二本立てのクォーターバックであるパット・ライオンズとトム・カルンの2人も亡くなった。「パットのためならなんでもやってやるという気になったんだ」とチームメイトのウッディー・マッケイルは言う。「ハドルの中にパットが入ってくると、彼の自信がおれたちみんなに乗り移ってきたんだ」

 このままではチームの士気も運営もままならなかった。精神的ショックから立ち直れなかった。アメリカの消防士たちはほとんど家族にも似た同胞愛で結ばれている。一日いっぱいを共に過ごし、共に料理をし、共に働き、共に教え合い、共に学び合う。一人の人生はみんなの人生とつながっている。

 フルバックのトム・ナルドゥッチが訴えた。「今年、おれたちは120人もの新人の加入サインを受けてるんだ。こんなことは前にはなかったことだ。みんな、生きるってことの意味が変わったんだ。フットボールは、おれたちにとってもう単なるスポーツじゃないんだ」

 FDNYチームは例年、全米の消防や救急隊からなる公共安全機関フットボールリーグなどで試合を続け、それから5月のNYPDとの恒例の対抗試合に臨む。それがメイン・イヴェントだ。「今年の試合の意味は、前と同じことをやるということなんだ」とNYPD側の監督ピート・ムーグも言う。「テロで変えられてたまるか。これがアメリカのやり方なんだ、というところを見せてやらなくてはならない」

 5月19日、ニューヨークのお隣ニュージャージー州のジャイアンツ・スタジアムで、第30回「ファン・シティー・ボウル」が1万2000人の観客を集めてキックオフされた。22人のチームメイトの遺族も招待されていた。殉職したプレイヤーのジャージーが一枚一枚額に入れられてその遺族に贈呈された。そこには「我らがチームの永遠のヒーロー」とのプレートが付いていた。

 試合は10対0でNYPDの勝利に終わった。FDNYでMVPに輝いたディフェンスのスティーヴン・オーは言う。「去年は一緒に戦った仲間が今年はいない。それは変な気持ちだ。だがひとたび試合が始まればあとは勝つことしか考えないからいい」
(了)


◎マイケル・ジャッジ通り(31st Street between 6th and 7th Avenue)

 全米の消防署にはそれぞれ所属の司祭がいる。被災現場で犠牲者を弔い遺族をいたわり、殉職消防士の葬儀も司る。FDNYにはマイケル・ジャッジ神父(当時68)がいた。ブルックリン生まれのちゃきちゃきのニューヨーカーで子供のころは靴磨きもした。気さくで冗談が好きでやさしく温かく、だれもにファーザー・マイクとファーストネームで呼ばれるニューヨークの名物神父だった。消防士たちといっしょにどんな現場にも真っ先に駆けつけた。昨年9月11日の朝も同じだった。燃えさかる北タワーの現場に神父はいた。安全なところに避難してくださいと若い消防士たちに促されても頑として彼らとともに行動していたのだ。

 瀕死の重傷を負った消防士が仮指揮所を設けたロビーに運び込まれた。神父は彼に駆け寄った。彼に最後の祈りを与えてやらねばいけなかった。そのために神父はヘルメットを脱いだ。そのとき、南タワーが崩落した。北タワー・ロビーに飛び込んできた瓦礫の一片が神父を直撃した。即死だった。世界貿易センターテロで、公式に名前の確認された最初の殉職者の一人がこのファーザー・マイクだった。

 ファーザー・マイクの居所はマンハッタン中心部、西31丁目のアッシジ聖フランシス教会だった。通りを挟んで目の前がFDNYの第1消防車隊兼第24はしご車隊だ。ここにいるだれもがファーザー・マイクを悼み、いまも神父の写真を署に掲げている。

 NY市議会議長と当時のジュリアーニ市長が共同提案者という異例の扱いで、神父のいた31丁目の六番街と七番街までの間が「ファーザー・マイケル・ジャッジ通り」と命名された。それだけではない。神父の人生をしのぶ1時間枠のドキュメンタリー番組も制作され、東90丁目とウォールストリートを結ぶ通勤フェリーも「ファーザー・マイク」号と改名された。

 消防に尽くしただけではなかった。神父はゲイ男性でもあり、エイズ禍の最初期から他の教会にも見捨てられたエイズ患者の世話を見てきた。クリントン前大統領夫妻も神父と親友づきあいをしていた。

 神父をよく知るデイヴィッド・フューラム消防士は「神父が大好きだった」と話す。「私と妻の結婚式も長女の洗礼式もみなファーザー・マイクがやってくれた。神父は私の人生の一部だった。あんなに大きな心を持った人はいない。彼を知っている人はみんな彼に感動していたんだよ」
(了)


December 23, 2004

2004年のクリスマス

 クリスマスの週の夕食会の後、友人とさらに飲み直そうといことになってミッドタウンのバーに入った。カウンターで飲んでいるうちに右どなりの男性の話が耳に入ってきた。イラクから帰ってきて、来週またイラクに戻るのだという。
 その彼はジェリーさんといった。39歳、離婚したが2歳と4歳の子供がいる。その子らに会うのが今回のクリスマス休暇の目的だ。
    *
 米兵ではない。例のハリバートンの子会社KBRのイラク建設事業に、自分で建設請負会社を設立して参画し、04年3月からバグダッドに入っている。危険は厭わない。
 「ニューヨークで生きてきたんだ。いまじゃここもアメリカで最も安全な街の一つになったが基本は同じ。後ろに注意する。周りをよく見る。知らないやつは信じない」
 イラクで仕事をするには3つの「P」があるという。「Be Professional(プロであること)」「Be Polite(地元の人間に丁寧に接すること)」、そして「Be Prepared to kill(ひとを殺さなければならないときは躊躇なく殺せるようにいつでも心構えしておくこと」。この3Pを怠ったときは、自分が殺される(かもしれない)ときだ。
    *
 そんなところに身を投じたのは、90年代の証券市場やレストラン事業での失敗を「イラク」という大きなビジネスチャンスでオセロゲームよろしく一発逆転させるためだった。「イラク」はいま、どんなものでも求めている。そこに入り込めれば、一攫千金は夢ではない。危険は頭を使えば回避できる。
 日本人が殺されたのも知っている。斬首されたアメリカ人の通信技術者も、仕事仲間から聞いた話では「いいやつ過ぎた」らしい。「だめなんだ、それじゃ」と彼はいう。
 至る所に反米勢力のスパイはいる。仕事を通じて親しくなったイラク人に結婚式によばれたこともある。行かなかった。信じていないわけではない。しかしそういうときは万が一のリスクでも回避する方を取る。それだけのことだ。だいたい、危険だといっても2年近く戦争をしてきて米軍側の死者が1300人というのはけっこういい数字じゃないかと彼はいう。アメリカでは交通事故で年間4万人以上が死ぬのだ。
    *
 バグダッドでは米軍基地に暮らす。軍関連の仕事を請け負うハリバートンの関係だ。イラク復興事業に関与するイギリスやトルコなど数カ国の民間事業者もその米軍基地を拠点として活動するようになっている。ほかに安全なところがないからだ。危険なところに放置して拉致され、救出しなければならないとなったらなおさら厄介だからだ。
 橋やビルや学校など建設事業はKBRが一括管理し、その都度下請けの入札や談合が行われる。そこにジェリーさんのようなさまざまな中小事業者が仕事を求めて群がる。
 ジェリーさんの会社がビル建設を落札したら、そこから地元バグダッドの個人建設会社を孫請けにしてイラク人労働者を雇い入れ、工事に着手する。1万ドルあれば引退して悠々自適の生活ができるというイラクで、今年初めの労賃は1日3ドル以下だったのが、その後5ドルになり、10ドルになり、いまでは20ドルに近づいているという。
    *
 イラクの人々は「スウィートだ」とジェリーさんはいう。やさしい人びと。だが、そうやって割のいい仕事を求めて群がる彼らが、子供までもが物乞いのように雇用を懇願する。それを見るのは忍びない。だが、それが現実だ。
 「現実ってのは、これからどうするかってことだよ。アメリカ人がイラクにいる権利は本当はないのかもしれない。だが、もういるんだ。もしいまアメリカが手を引けば、この無政府状態のイラクにイランが侵攻してくるだろう。するとトルコもイランに攻め込むかもしれない。するとヨルダンがどう動くか。そんなことになったらまたアメリカがイラクに戻ってこなくてはならなくなる。そうなったらいまよりひどい混乱が起きるだけだ」
    *
 砂嵐は二度経験した。外になど出ていられない。それよりも怖かったのはゴルフボール大の雹(ひょう)の嵐だ。米軍宿舎がごんごんごんごん音を立てるものだから何だと思ったら雹だった。その雹よりいやなものが虫だ。凶暴なハエ。透明なサソリ。そして毒蛇。「おれはやっぱりニューヨーカーなんだ」と笑う。
 この経験は自分にとって何になるかと聞いてみた。「よりよい人間になると思う」と即答された。
 よりタフな人間?
 「いや、ベターな人間さ。ものをよく考え、状況を判断し、そして、ひとを裏切らない人間」。なぜなら、「なんといっても、イラクでの仕事の魅力は友情、同志愛なんだ。あそこくらい男の世界はないからな」
 すべて仕事が終わったら金を持ってニューヨークに戻ってくるのか? 「次はイランだな、イランに行く」
 そこまで聞いて零下11度の未明に別れた。
    *
 まだ酔いの残る翌朝、ベッドから起き上がってニュースをチェックすると、イラク北部、モスルの米軍基地がロケット弾で攻撃されたという記事が飛び込んできた。昼食中の米兵ら22人が死亡。ハリバートンの子会社KBRの社員4人も死亡していた──バグダッドではないとはいえ、それはジェリーさんの語った軍とKBRの話そのものだ。その話をしていた1時間後、時差8時間先での出来事だった。
    *
 ジェリーさんの話には数字のウソがある。
 米国の交通事故死は3億人の総人口に対する値だ。イラク派兵数は15万人。15万人当たりの交通死者は年20人に過ぎない。
 そしてもうひとつ。「P」はおそらく3つでは足りない。
 新しい年はイラクにもやってくる。ただしそれは、私たちの新年とは違うのも確かだ。

December 20, 2003

2003/12「ギャンブルで未来を占う」

 「ブッシュ政権はわれわれにジョージ・オーウェル式の、みだりにプライバシーに立ち入るビッグブラザー国家への道をたどらせている」──11月9日、ワシントンに集まった全米のリベラル派法曹関係者2500人を前に久しぶりに講演したゴア前副大統領は厳しいブッシュ批判を展開した。

 攻撃の的は特に9.11後の混乱の中でできた米国愛国者法。連邦捜査局(FBI)はこれで市民の個人情報を容易に入手できる権限を持ち、市民は捜査されたことさえ外部に明かせない。隣人が互いに不審な目撃情報を申告し合いその情報をデータベース化する「魔手(Talon)」というコード名の、まるで密告のシステム化のような計画の存在も明るみに出た。背後にはアシュクロフト司法長官やウォルフォウィッツ国防副長官らネオコン閣僚の指示があった。

 そんな政権を、逆に市民が監視するシステムを作ろうじゃないかというリベラル派の巻き返しが出てきても不思議ではない。

 夏以降、まずマサチューセッツ工科大学(MIT)メディア研究所のチームがブッシュ政権の行動予測を行う「政府情報認知(Government Information Awareness)」というサイトを開設した。

旅行、クレジットカード、医療などの個人データにアクセスしてテロ行動の予測を図る国防総省の「テロ情報認知」プログラムに対抗するものだった。同じくMITやイェール、ニューヨーク大学などの研究者たちによる「アメリカン・アクション・マーケット(AAM)」という情報先物市場の開設も進行中だ。そこではホワイトハウスが次に何をするかという予測を“売買”する。

 「すべては国防総省のテロ情報先物取引市場の計画がきっかけだ」とAAMで広報役を務めるボブ・オスタータグ氏は説明する。

 7月に明るみに出た国防総省のこの計画は、テロ攻撃や指導者暗殺の可能性についての情報先物市場をネット上に設置する構想だった。そのための準備サイトでは当時、取引例として「アラファト議長暗殺」や「北朝鮮のミサイル攻撃」の可能性といったものまでが掲載されていた。

 仕組みはこうだ。次の1年を四半期に区切り、それぞれの期間にテロや政権転覆などの「ある事柄」が起きるかどうかを売買する。例えば「04年第1四半期内でサダム・フセインは米軍に捕捉もしくは殺害される」あるいは「されない」という上場先物の売買が行われる。契約額の多寡は投機家が各自で決める。

 「される」の買いが全体の7割になれば、その起こる可能性も7割あるという見方もできる。その期ごとに決済が行われ、実際に起きた(あるいは起きなかった)結果を先物契約していた投機家が、予測の外れた契約金分を総取りするという仕組み。情報の売買ではあるが、契約金はギャンブルでの賭け金に近い。

 賭け金を張る以上、トレーダーたちは世界中の情報網を駆使するだろう。その結果、賭けの内容という形でさまざまな情報が集積される。賭け金が上がれば上がるほどその情報の確度も増す。石油価格やオレンジ価格など、従来から先物市場の情報収集能力は折紙付きだ。「先物」が「テロ情報」に変わっても原理は同じ。米国政府もこうした市場情報の公開がテロを牽制・察知する契機になるとふんでのことだった。

 とはいえ、資金豊富なテロ組織自体がトレーダーとなって市場をかく乱したらどうなるか。暗殺に賭けた投機家がテロリストでもないのに暗殺者を雇いはしないか。そもそも殺人とか破壊とかで賭場を開くことは正しいことか||非難が渦巻いて計画はあっというまに中止に追い込まれた。

 それでも現政権に対するリベラル派の不信は募る一方だ。AAMの先物情報の取引システムはテロ先物市場と同じだが、内容は逆に「ブッシュが次に最後通牒を突きつけるのはどの国か」「中央情報局(CIA)との関係を断って次にお尋ね者リストに入れられる外国元首は誰か」など。AAMではこうした予測情報の先行によってネオコン政権の独断専行自体に抑制が働くことを期待している。

 もっとも、市場は政治的思惑に関わりなく動く。開設予告からこの4カ月ほどで、AAMの準備サイトには日本人も含む世界各国の投機家から数千件も問い合わせが殺到した。同様の情報先物市場はほかにも「オピニオン・エクスチェンジ(OX)」が来年半ばに開設予定。国防総省の挫折したテロ先物市場も、共同計画していた民間企業が来年3月に独自に開設すると発表した。

 ただし、米国ではオンライン・ギャンブルは禁止。スポーツばかりか政治問題でも賭けを行う「トレードスポーツ・コム」などの現存サイトはいずれも英国などの外国籍。米国の各選挙結果を予測するアイオワ大学の「アイオワ電子市場」は非営利だ。

 AAMのオスタータグ氏は「テロ先物市場を構想したペンタゴンは少なくともそれを違法とは思わなかった。ならばわれわれも法の下で平等だ」とは言うが、実際は売買を第三者に迂回させるなどの方策を検討中だという。

 MITの「政府情報認知」サイトにはフランクリン・ルーズベルトの言葉が掲げられている。「自由を保持するための唯一確固たる土塁は国民の利益を守るに十分な強さを持った政府と、そしてその政府を主権者として管理し続けるに十分な強さと情報を持った国民なのである」。

 「情報」売買をめぐる代理合戦めいたリベラルvsネオコン攻防の表面化。これももちろん、来年の大統領選挙をにらんでのことだ。

November 20, 2003

2003/11「ボギーの時代」

 シュワルツェネッガーの加州知事選圧勝で喉に引っかかった小骨のように気になったのは、もはや「セクハラ」も「ヒトラー礼讃」も大した問題ではないのかなあという思いだった。

 この2点はとても象徴的で、シュワちゃんに否定的な人はまさにそんな2つに象徴される彼の「男オトコした単純さ」が苦手なのだ。逆に言えば彼の圧勝は、巷間いわれるような「政治のアウトサイダーへの期待」とか「変化への期待」とかとは別に、そんな「男オトコした単純さ」が望まれたということでもあるのだろうか。

 「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」とジュリーが歌ったのは25年も前である。思えば阿久悠もすごい歌詞を書いたもんだ。アメリカはそれからいわゆる「PC(政治的正しさ)の時代」を通り抜けた。「聞き分けのない女の頬をひとつふたつ張り倒して」なんて滅相もない。それは歴とした犯罪、不正義になった。

 だが、あるいはだからこそ、「女どもは小賢しいことを言いはじめ、おまけにゲイなんて連中も人権だの性的指向だのとワケのワカランことを言うようになった」みたいな、七面倒くさい理屈から来る鬱憤が溜まりに溜まって、「ええい、面倒くせえっ!」とばかりに「男オトコした単純さ」の逆襲がいま始まっているのだろうか。

 いや、それは「いま」に始まったことではない。ヒトラー礼讃のネオナチは欧州で1970年代から台頭し、フェミニズムへの逆風はフェミニズムの誕生時から顕在していた。ブッシュ政権への高支持率もこれにつながるところがある。

 複雑なことは言わない。世界は善と悪、男と女に2分され、やかましいことを言うやつはなんでもテロリストとして先制攻撃。あとのことはあとになってから考えればいいーーそうしてイラク情勢は、「だから言っただろ」という決まり文句がはまりすぎるほど見事に予告的に、ゲリラ化・泥沼化の様相を呈しはじめている。「テキサスの男らしさ」を看板に掲げた、その実、ネオ・コンサヴァティズムの性急な力業の落ち着き先がこれである。

 翻って日本でも、千羽鶴が焼かれたのも記憶に新しい広島で、今度はまた原爆ドームの石碑が手形で汚された。「セクハラ」や「ヒトラー」同様、「ヒロシマ」も大した問題ではなくなっている。そういや「憲法」なんてものも、自民党による「改正」の道筋が決まる。狙いはもちろん、憲法第9条である。対立軸であるべきはずの民主党にしても改憲派が多数を占めるのだから。

 かつては確かに存在していたはずの、大きな「正しさ」の象徴だったものたちの空洞化。というか、大きな「正しさ」だけを掲げてその実地を育み維持する努力を怠ってきた(いやむしろ自民党政権にとっては「はぐくみ維持する努力こそが邪魔だった」その)結果が、理念とか倫理とかいうもののスカスカの骨抜き状態であることは自明の理なのだ。

 その空っぽになった空間を、いまからふたたび埋め直す作業というのは、はて、可能なのだろうか。それとも何かまるで別の道を行くべきなのだろうか。

 かつて、ヒトラーの国家元帥にまでなりつめ失脚したヘルマン・ゲーリングが、戦後の戦勝国連合によるニュルンベルグ裁判で次のようにうそぶいた。

 ◆◆Naturally, the common people don't want war, but after all, it is the leaders of a country who determine the policy, and it is always a simple matter to drag people along whether it is a democracy, or a fascist dictatorship, or a parliament, or a communist dictatorship. Voice or no voice, the people can always be brought to the bidding of the leaders. This is easy. All you have to do is to tel them they are being attacked, and denounce the pacifists for lack of patriotism and exposing the country to danger. It works the same in every country.

(当然のこととして、庶民というものは戦争など望まない。しかし、とどのつまり国家の方針を決めるのはその国の指導者たちである。そうして民主制度であろうとファシストの独裁政権であろうと、あるいは議会制であろうと共産主義独裁であろうと、人々を引きずり動かす事情というのは常に単純なことがらだ。声を出そうが出すまいが、国民というものはいつだって指導者層の命令に従うよう仕向けることができる。簡単なことだ。国民たちに、おまえたちは攻撃されようとしていると言う、ただそれだけでよい。そうして平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難すればよい。これはすべての国家で等しく通用する)
        

 「おまえたちは攻撃されようとしている」というのはさしづめ、いまの日本にとっては北朝鮮だろうか。いや、「日本が北朝鮮にミサイル攻撃されようとしている」という関係だけでなく、北朝鮮の「庶民」にとってはおそらく「北朝鮮が日本に攻撃されている」という反転した関係になっている、その相互の意味においても。

 自民党の自称「危機管理派」は、今まさに「こんな時にも平和だ平和が大事だと言っている脳天気がいる。平和が大切なのは当たり前です。その平和のためにも自衛のための軍備が必要なのです」として、「平和主義者たちを愛国心に足りず国家を危険に晒している者たちだと非難」しているのだから、北と日本のどちらがゲーリングの講釈した煽動なのか。

 まあ、どっちもどっちだろうと分かっていながら、こういうのはたしかに「すべての国家で等しく通用する」謂いであるには違いない。

 さて、憲法第9条というのは、戦争など望まない普通の庶民が戦争へと向かう上記ゲーリングの披瀝したからくりを充分に咀嚼(そしゃく)した上での、一つの結論だった。それは「単純な男っぽさ」をけっして志向しないという、新たな時代の意志だった。

 しかし、それもそろそろまたもう一度、そうした意志を共有するためにはそんなばかげたからくりにまたもや自ら騙されてみなければならないという、痛みの体験が必要になるほどの時間が経ってしまったのかもしれない。

 「だから言っただろ」と言わなくて済むように、何を、今すればよいのだろうか。とりあえず選挙である。ひとつ言えることは、「政権交代の可能性」というのはそれ自体、それだけでも政治をよりシャンとさせるということである。

 聞き分けのないやつはひとつふたつ張り倒せばいいという時代は、逆行であろうが進歩であろうが、どちらとも勘弁ねがいたい。

October 20, 2003

2003/10「お客様」の領域

 前回も触れたが、先月3週間ほど日本に行っていたのはまずは北大医学部のエイズに関するワークショップに招かれて札幌で講演を行ってきたためである。題目は「若者のエイズ予防におけるメディアの役割」。米国の例を挙げてマスメディアがいかにこの問題に取り組んできたかを紹介し、日本のメディアとの差を検証してみた。

 それにしても、エイズに対する、いやエイズに限らずおそらくほとんどの社会事象に対する人びとの向き合い方の、日米間にある種ぬぐい去りがたいこの温度差の正体はいったい何なのだろうかと飛行機の中でもつらつら考えていて、成田空港に降り立ったときに、ああ、これなんだと気づいた。なんと清潔で、かつすみずみまで接客の行き届いた場所なのだろう!

 日本ではしばしばパブリックとプライベートが混同される。公的な話と私的な話とが見境なく混じり合う。「他人」行儀が疎まれ、「身内」になることが他人との関係性の究極の目標とされる。つまり、この世には「身内」と「それ以外の人」しかいないのである。

 身内付き合いが究極の目的なのでセクハラもどきの軽口さえ「身内の証拠だ」と信じている人がいる。政治家の失言も同じくこの種の身内話の延長にある。身内だけのジョークとして言ったのに新聞なんかが書くからああいうことになる、といまでも勘違いして自分は悪くないと思っている日本の政治家はじつはかなり多い。

 他人と個と個として向き合う、真っ当というかそれゆえに頭を使う対等の付き合いは敬遠され、それが高じて身内になり得ない、関係のないやつらは目に見えなくなる。どうでもよくなるのだ。

 こうして電車内で傍若無人に振る舞い、人混みでぶつかっても「失礼」とさえ言わずに立ち去る輩が出てくる。パブリックな場、他人と客観的に向き合う公の場での立ち振る舞いが蔑(ないがし)ろになるのである。「他人」とは「関係ないやつら」に他ならないからである。

 では日本には他人と付き合う場はないのかというと、成田空港に降り立って気づいたのは「お客様の領域」というべきものなのである。これはアメリカにはない。いや、大富豪や貴族階級を相手にする「お得意様の領域」というのは欧米にも存在するのだが、一般を相手にこれほど気配りの行き届いた「場」はまずない。

 空港はきれいだ。デパートの接客は丁寧だ。銀行の窓口もすばらしい笑顔。対して、米国の空港はなんとも殺伐とし、デパートの売り子は怖いほど。銀行もつっけんどんでスーパーなんぞ買った品をショッピングバッグに投げ入れられる始末。日本に帰ってきて「お客様」扱いされると、それだけで「ああ、なんていい国なんだ!」と思ってしまう。

 しかし、なぜまた「エイズ」の話でこんなことを考えたかというと、ところがただし、「お客様の領域」では議論が成り立たないということからである。

 「お客様」とは議論できない。「お客様」にはひたすら謝るのみである。そうしてとにかくお引き取り願って、その後でアッカンベエだ。かつ「身内」でも議論はじつは成り立たない。「まあまあ、おたがい仲間なんだから」ということで対立は(対立ではなく建設的な叩き台ですら)触れる前から回避されてしまうのである。

 そうするとどうなるか。議論とか話し合いとか、そういう「他者」との客観的なつながりを作るための行為がないと「社会」は形成されない。この社会がじつは多くの他人が存在する「公」という部分なのである。日本では「公」と「私」が混同されるというが、じつは混同ではなくて「公」がないのだ(「官」はありつづけているが)。そしてその「公」の部分が「お客様の領域」で置き換わっている。

 「他人」とは「関係ないやつら」と書いたが、「お客様」とはそんな中でゆいいつの「関係ある他人」だ。というか、他人との関係性を「客」か「客でない」かでしか計れない、日本人はそういうところに陥ってしまっているのではないか。

 個と個が対等に付き合える「公」がなければコミュニティーとしての強さは出てくるはずもない。そんな社会は、エイズでもなんでも、さまざまな脅威にとても弱い社会である。「若者のエイズ予防」だなどと言っても、それはゆいいつ心に届く(?)「身内話」にはなりようがないから、端から耳に入ってこない。そんなからくり……。

 アメリカで暮らしていて、時々とても疲れるのはどこでも議論が成立してしまうせいでもある。ある意味それが煩わしさよりも理に適って割り切りやすさにもつながるのだが、ところがスーパーマーケットの店員やタクシーの運転手とも議論しなくてはならないときがあってそんなときはまったく腹立たしい。こっちは客なんだぞと捨て台詞のつもりで言ってみてもそれは議論をなおさらややこしくさせるだけだ。

 対して日本はこの「お客様の領域」へのこだわりを活かして産業も成功した。いかにお客様を喜ばせるかを徹頭徹尾考えて、ウォークマンも生まれたし、レクサスも世界の最高級車に進化した。コンビニ弁当を含めマクドナルドやKFCまで日本のファストフードははるかに美味しいし、デパ地下の商品バラエティーなどアメリカのプロの料理人が見たら卒倒しかねない。

 とても心地よい「身内の領域」と世界的にもユニークなその「お客様の領域」の二つながらをきちっと残しながら、それでいて個と個とが対等に接し合えるもう一つの「公」という場も育てられたら、日本は実にやさしくかつ心強い、世界に誇れる社会になれるのに、というのが、今回のワークショップでの私の講演の結論だった。

 それはおそらく、来月の日本の総選挙での投票でも肝心な点だ。「身内」ではなく、いかに「公」を知っている候補者を選ぶか。議論が成立する場としての、日本の「公」を育てるのにどの候補がよいのか。それを基準に私も海外投票を行いたい。

September 20, 2003

2003/09「座頭市」が受賞した理由

 一時帰国の日本で「座頭市」を見た。尊敬するニッポン放送のKくんに「ぜったいに見てください。ぼくは涙が出ましたよ」と薦められたからで、ふつうなら見ないで過ごすところだった。

 北野武の映画はこれまで、いずれもなんだかとてもわざとくさくて好きになれなかった。あの、まったく話さない演出とか、ほとんど話さない演出とか、むやみな暴力の噴出とか、作り手の意図がいかにもあからさまに透けて見えるのがどうもいやだった。

 それが「座頭市」では端からチャンバラ劇である。わざとらしさ、作り物っぽさはすでに前提だから、そのぶん北野映画の“臭さ”が気にならなかったのかもしれない。しかしそれだけでヴェネチアで、トロントで、賞が取れるだろうか。

 「座頭市」は米国でもリメイクがある。「ブレードランナー」のルトガー・ハウアーが盲目の刀使いを演じた「ブラインド・フューリー」(1989)は三隅研次監督の「座頭市・血煙り街道」(1967)を下敷きにしたものだ。

 「北野座頭市」自体もリメイクだから、盲目の居合の達人というこの映画の基本コンセプトは欧米の映画通にもすでに既知のものだった。結局はおおいにそれに乗じていて、物語の巧みさといっても悪党たちの秘密はすぐにわかるし、浅野忠信の窮状もストーリー上の目新しい背景ではない。

 「最強」を謳うヒーロー性にしても、最強がカギならば「ゴジラ」が受賞してもおかしくはないし、時代劇としては往年の人気TVドラマ「必殺・仕掛け人」の方が爽快で入り組んでいるほどだ。ではどうしてこの娯楽アクションが外国で大きな賞を取れたのか。

 それは、最後のシーンに近いただ2つの台詞のせいである。一つは橘大五郎演じる「おせい」の一言。もう一つはこの「北野座頭市」その人の台詞である。(作品を観て、その台詞を見つけて下さい)

 この2つの台詞のせいで、北野「座頭市」はジェンダーとマイノリティーと、そしてアイデンティティー・ポリティクスという、欧米でいまも旬でありつづけているポストモダンの意匠をまとった。

 「主体は変幻できる」。それが受賞の理由である。さらにKくんの「涙」の理由でもある。欧米の観客や評論家はそこに反応する。痛快な娯楽アクションがオセロゲームの見事な一手のように不意に遡及的に知的な装いをまとうのである。

 「そんなに複雑な話じゃないさ」と、この映画をくだらないと唾棄した友人に言われたが、そのとおり。べつに複雑な話ではない。むしろそのことを実に単純な図式で示してしまった簡潔性は娯楽映画