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October 02, 2008

和田アキ子@アポロ?

先週末からまた日本に帰っております。

で、和田アキ子、アポロシアターで念願のコンサートってんで、日本の芸能リポーターたちがこぞって同行取材してるんだねえ、すげえなあ、って昨日のワイドショー(ってまだいうの?)見るとはなしに眺めてて思いました。昼のテレビはひとしきりその話題ですもの。で、みんなすごいすごいって賞賛してる。 賞賛? なに、それ?

まあ、芸能生活何周年? ちがうか、還暦記念なんだっけ? ま、どっちでもいいけど、それはがんばったんだねとは言えるかもしれないけれど、アポロシアターでコンサートをやったことがすごいってのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。もう、そういう舶来ものってか、アメリカの本場のなんちゃらかんちゃらってのは、そりゃ、本人は感涙かもしれないが、あんなの、金払えばオレだってコンサート開けるんだよ。カーネギーホールだってそう。べつにコンサートやるのにオーディションあるわけでなし、まあ、書類審査くらいはするが、それだって申請手続きの問題。だいたいはホールが空いてればそれは貸すますわ。貸しホール業なんですからねえ。まあ、私が開いたところでそれは客が来ないってだけの話。

たとえば和田アキ子がね、NYの大R&B,あるいはソウルミュージック大会で、並みいる大御所に混じってゲスト出演とかオーディション受かって参加する、ともなれば話は違うかもしれない。しかし、プロモーターも日本人、バンドも日本人、おまけに観客だってNYの日本人および日系人コミュニティにチケット回して売ってもらったり無料で動員かけたりして、ですもん。私の知り合い、みんなチケットさばくのどうしようって困ってました。

だからこれ、べつにぜんぜん大したことない話でしょ。どうしてそこまでして和田アキ子に媚び売る必要あるのかしら。あるいは単なるネタですか?

日本のテレビ、おかしい。
勉強してないテレビタレントがニュース報道の司会してるし。「一般人の感覚でニュースを」ってのとも違う。
おまけに、うるさい。みんな、声、張り上げ過ぎ。
どうでもいい楽屋ネタでそんなに騒ぐな。
美味そうでもない普通の料理をあんなに美味そうに解説するな。
深刻ぶるだけがドラマの原動力みたいなドラマを作るな。
おじさん、腹が立ってきたぞ。

September 22, 2008

アルター・ボーイズの公演ですよ

今年2サイクル目のヘドウィグに続いて、来年2月にまたわたしの翻訳したオフブロードウェイのミュージカル『アルター・ボーイズ』公演が東京で行われます。

http://www.altarboyz.jp/

アルターボーイズ(altar boys)というのは、キリスト教会の礼拝儀式で司祭を助ける侍者の少年たちのことです。で、ミュージカルの中の物語は、このクリスチャンのアルターボーイたちが5人組ボーイバンド Altar Boyz を結成して、世界巡業で歌と踊りの公演布教活動をしているという設定。その旅公演の先々で、神の教えを説きながら聴衆の魂を救うというわけさ。まあ、だいたい全編ボーイバンドのコンサート仕立てですね。これがロックありポップありバラードありヒップホップありラテンありで楽しい楽しい。

で、これがオフブロードウェイ版のCM。

アメリカではボーイズバンドいまちょっと下火だけど、まあその辺も教会ってことでややズレ気味の流行っていう設定か。でも、韓国ではこの韓国版公演がかなりヒットしてたらしいです。あそこもいまボーイバンド全盛だしね。アメリカでもシカゴやLAなどでツアー大盛況、ヨーロッパにも飛び火して、なんとハンガリーとかでもやってるんだわね。その世界サークルの中にこんどは日本も加わる、というわけです。

さてそして、今度こそ、今回こそ、歌はぜんぶ日本語です(笑)。
私がニューヨークの深夜にひとり、毎夜このiMacのキーボードの前でオルターボーイズのオリジナルCDを聞きながら、メロディーとリズムに合わせて日本語の音韻を1つ1つ振り分け、しかもCDといっしょに自分で日本語で歌ってみもしながら、書いては直し歌っては直しして日本語に当てはめた歌詞です。大労作! はあ〜、疲れた。

いやしかし歌詞は難しいわ。英語と日本語では一音節の情報量がぜんぜん違うんだもん。でもそこはあーた、言語フェチのわたし。ほとんど情報をそっくり入れ込んで、なおかつ日本語にして無理のない歌詞に仕上げた。そのへん、適当なところで諦めて原語の意味をばっさり削ぎ落として“意訳+超訳+捏造”してしまうそこらの輩とはわけが違います。えへん。

で、出演者はこの5人。

やたらと脱いでしなってのはレスリー・キーがまたこの宣伝用の写真を撮ってくれたからです。レスリーはとてもいい。
でもおぢさん、正直いうと田中ロウマくんしか知りません……とほほ。
なんせ、NYに住んでるんで日本の芸能界知らないの。
しかしプロデューサーたちに聞いたところによれば、あまりテレビの露出はないけどステージで活躍してるダイヤモンドドッグスというグループのメインの子だとかもいて、なかなか伸び盛りの面白い才能たちらしい。もうすぐわたしも実際に彼らに会ってみます。若い才能が、またこのミュージカルをきっかけに新しく伸びていってほしいです。

ところで、「神の教えを説きながら聴衆の魂を救う」って紹介しましたが、わたしはこの「神」ってのがダメなのですね。まあ、赦してやってるけど。

そのわたしがなぜにこのような物語を翻訳したか、というと、まあ、これ、表向きはキリスト教を題材にしてるけど、随所にいろいろひねりがあって、わかるでしょ、ちょっと違うのです。不信心者の多いニューヨークでヒットしてるってのも、その証左ではありましょう。たとえば、この5人組の中にユダヤ人が1人いるんだよね。ユダヤ人ってのはキリスト教ではなくてユダヤ教なのだ、本来は。その彼が、歌詞を作る才能を買われてこのバンドにリクルートされてる。それからもう1つ、キリスト教といっても、アメリカはプロテスタントが多いんだが、この5人は少数派であるカトリックのボーイ・バンド。ね、ちゃんとマイノリティ問題が入ってるでしょ? そして、そうなれば言わずもがなですが、もちろん、ゲイのテーストも。すべてのマイノリティ問題がこれにかぶさって表現されるわけ。うふふ。キリスト教にはゲイってのはタブーなんだけど、いまどきのショーはTVも演劇も映画もミュージカルも、すべてこのゲイな感じが入らなければ成立しないのかもしれませんね。

いやしかしこれはキリスト教をおちょくったりしてるわけじゃありません。まじめに取り扱っています。でも、それをちゃんとショーにしてる。現代のエンターテインメントとして取り上げているわけで、やはり裏方はかなり知的なんだろうなって思います。まあ、日本ではその辺の宗教的背景も共有されていないから受け取り方もやや違うだろうけど、そのあたりはわたしの翻訳台本でまたちゃんとわかるようになっていますことよ。

まあ、ご覧あれかし。
公演間近になったらリマインダーとしてまた告知します。

July 10, 2008

石田衣良の「娼年」という小説

石田衣良という作家を論じるにこの「娼年」という作品を通じてでいいのか、これしか読んだことがないのでわたしはまったくわからないけれど、どうなんでしょうね。昨晩、地下鉄の中でこれを読み終えての感想は、うーん、なんというか、そつのなさで終わっちゃってるなあ、という感じのものでした。

ヘタクソじゃあまったくないんだけど、いやむしろ文章としてはいろいろと頑張って記述してるなという感じもあるのだが、いかんせん、主人公を20歳の男の子にして、それをずいぶんともったいつけて大人なふうにも描いているのにもかかわらずやはりしょせんはガキなんですね。「女もセックスも退屈でつまらない」といわせているんだけど、それもカッコつけだけみたいな感じがする。底が浅いんだ。

こういうとき、この主人公に、他のいろんな傑作の同じような年頃の男の子をぶつけてみるとわかることがあるの。たとえばこの主人公の「リョウ」くんに、大江のバードをぶつけてみる、とか。するとさ、「リョウ」くん、微塵もなくなるのよ。薄っぺらな仮面がはがれる。どうでもいいじゃん、そんなこと、ってなる。

じつはわたしもむかし20代の終わりに、こうした秘密売春クラブを描いた短編を「新潮」に発表したことがあって、そこでもやはり精一杯、主人公の男の子を大人びた人物に仕立て上げたのね。わたしのそれはたしかぜんぜんセックスを描かなかったんだけど、それはセックスをたいそうなものとは思ってない主人公だったからで、しかもそのセックスってのはほかの人にはたいそうなものだっていうのを利用して秘密クラブが運営されているってことに自覚的だったからなのです。

でね、その思いはいまも正しかったんじゃないかって思うのだ。セックスって、たいそうなものだって描くにはほんと、大江みたいに徹底しなきゃならんでしょ。でもそれは虚構の粋を極めて真実にたどり着く、みたいな方法なんですね。でも、いまも(あるいはいまになって)思うに、売春に罪悪感とかを感じるのって、ちょっとセックスを買いかぶり過ぎなんじゃないかって思うわけさ。

これを意識化できたのはハスラー・アキラの「売男日記」っていうジャーナルを読んでからなんだけど、売春夫にとってセックスってのは相手が売春セックスにどう罪悪感を持っていようが、清らかで生温かい癒しの商品だってことなんですね。

愛のないセックスって言うけど、セックスを生殖から独立させたら、セックスそのものがコミュニケーションの手段になり得る。愛がなくたって、というか、ときどき、セックスに愛が邪魔だったりしません? その辺の意識操作というか、そういうのを経てしまうと、セックスを、愛といっしょでないと成り立たないとする卑下から解放してあげることができるのだ。友情でするセックスってのも、またいいもんなんじゃないかって思ったりするのよ。もっとも、相手の気持ちもあるのでなかなかそういうのは難しかったりするけどね。

そういうところまで考えないと、小説として成立しないんじゃないのかなあ。セックスをそうたいそうなものとして描くのって、ちょっと違うような気がします。いや、この「娼年」に描かれるセックスはそれじたいとしてはいいんですが、それを「リョウ」くんが感心してしまってはお里が知れる。そういう印象。

石田衣良って、どうなんでしょう。
小説は予定調和的に上手な書き手だっていう印象を持ちました(さっきから言うようにこれ一冊しか読んでないんだけどね)。それに目線がとってもやさしいふう。てか、やさしいでしょうって言ってるようなふう。偏見ないよ、って。そして、いろんなことにちゃんと答えが出るふう。そんでもって、このそつのなさっぽさのせいで、なんとなくうさん臭い感じがするんだよね。なんでも教えてあげますよ、ってな感じが災いしてるみたいな気がするのですわ。

さて、わたしのこの勝手な読後印象、間違っているならごめんなさい。
もう1冊くらい読むべきかな。
ま、縁があったら……。
失礼しました。

April 22, 2008

ゲイのペンギンのカップルの絵本

次のような文章を、3年前に、いつか書くかもしれない小説かなんかの挿話として書き置いたことがあります(ってか、ずいぶんと小説、書こうという気が起きてないなあ)。その絵本を読んだいつかの幼稚園児が、いずれ時がたって次のように気づくことを願って。

 同性愛のひとのカップルをこの目で初めて見たとき、ぼくはなぜかペンギンのカップルの姿を連想をした。で、それからも彼らに会うたびにずっと二羽のペンギンの姿が頭に浮かんだ。なぜだったのか、それからしばらくしてからわかった。ずっとずっとまえ、幼稚園のときに見た絵本のせいだ。そこにはオス同士のペンギンのカップルが仲良く二羽で暮らして、捨てられた卵まで孵したっていう物語が描かれていた。

 そう思い出したとき、同性愛のひとのカップルを見たのは彼らが最初ではなかったんだと気づいた。あの幼稚園の園長先生と若先生、ナギ先生とかいったっけ、あの2人も、カップルだったんじゃなかったのかって。

 そのとき、ぼくの頭の中でなんだかいっせいに世界の見え方が変わった。吹雪の中でぴったり身を寄せて立ち尽くす、目に見えない牡ペンギンや牝ペンギンのカップルが、あちこちにいっせいに見えだしたような気がしたんだ。

そのエピソードはたしか、アメリカで次のような絵本が出版されたのに触発されて書いたもんだったんですね。
tango_USA.jpg
その本は翌年2006年に、スペイン語にも翻訳された。
tango_spanish.jpg
それがいま、日本語にもなりました。

tango.jpg

この物語の基になってるのはじつは実話なんですね。あのころ、ニューヨークではセントラルパークの動物園やコニーアイランドの水族館でオス同士のペンギンカップルが大きなニュースになりました。まあ、自然界には、とくに鳥類には同性同士のカップルがよく見られているんですが(同性愛は反自然というテーゼはすでに科学的には破綻してるんです)、そのセントラルパークのペンギンカップル、ロイとシロが、卵によく似た石を何日も温めるので、見かねた飼育係が別に産み落とされて親ペンギンに捨てられてしまった卵を彼らの巣に入れたところ、ひな娘のタンゴが生まれたんです。「and Tango makes three」はつまり、It takes two to tango (タンゴを踊るには2人が必要)というフレーズがあるんだけど、そのタンゴを踊ったら3人になっちゃった、っていう意味なんですよね。ちょっといい話。

翻訳したのは去年の参院選に民主党から立候補した前大阪府議、尾辻かな子さんら。
出版社はポット出版。

アマゾンでも買えるよ。

http://www.amazon.co.jp/タンタンタンゴはパパふたり-ジャスティン-リチャードソン/dp/478080115X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208797882&sr=8-1

また、東京・大阪で出版記念パーティーも予定されているようです。

◇【東京開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年4月27日(日)17:00~19:00
会場:九州男(くすお)
   新宿区新宿2-17-1サンフラワービル3F  
   電話03-3354-5050
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇【大阪開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年5月11日(日)15:00~17:00
会場:Village(ビレッジ)
   大阪市北区神山町14-3アド神山2F
電話 06-6365-1151
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

会費:3,000円(絵本+1ドリンクつき)
主催:尾辻かな子とレインボーネットワーク

翻訳の尾辻かな子、前田和男両氏の挨拶の他、ゲストを交えてのトークショーも予定しているらしいです。時間と興味があったらどうぞ。

April 21, 2008

東京湾景

日本に行ったことで中断していた「東京湾景」を読み終える。
吉田修一の、この、なんともいえない適度感というのは何なんだろう。
深みにはまっていかない。とはいえ軽いわけではない。
喫水線あたりで紡がれる物語。

この小説の収穫は、ここに描かれる「亮介」という肉体労働者だろうな。とはいえ、これも従来の小説に登場してきたような肉体労働者とは違って喫水線上の男。なんともヘテロセクシュアルなんだが、たしかにゲイ視線、オンナ視線、作者視線では面倒くさい頭を持ってない、「癪に触るけど惹かれちゃうんだよねえ」「いいよねえ、こういうの」という、愛玩物的、描き方。惚れられようがられまいがおれの知ったこっちゃねえ、という自意識の未分化的生物。

文学に弱点があるとしたら、それは、「書いてるやつは所詮、書けるやつじゃねえか」ということだと思っているのだが、こういう亮介みたいな、亮介自身は自身を書けない男、を提出されるとなるほどねえと納得してしまう。書き手というのは、だから必要なのだ、と。

終盤、というか終始、三文恋愛小説の装いを捨てないのでノルウェイの森なんかのことを思い出しもしたが、ノルウェイの森はぜんぜんわが琴線に触れなかったのは、そうね、みんな自意識ごっこやってたからか。

東京湾景、痛いセリフが出てくる。まるで読むのをいままで先延ばしにしていたのはそのせいだといわんばかりの。


「どうして? とつぜん別れてくれなんて残酷なこと、平気で言えるくせに、どうして二股かけるくらいのことができないのよ!」

「あんなに愛してたのに……、それでも終わったんだよ。人って何にでも飽きるんだよ。自分じゃどうしようもないんだよ。好きでいたいって思ってるのに、心が勝手に、もう飽きたって言うんだよ」

February 20, 2008

最高裁は失礼だ

ロバート・メイプルソープの写真集が「猥褻ではない」とのお墨付きを日本の最高裁からいただいて、そりゃそうだ当然だと反応するのはちょっと違うんでないかいと思います。

以下、朝日・コムから


男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分

 米国の写真家、ロバート・メイプルソープ氏(故人)の写真集について「男性器のアップの写真などが含まれており、わいせつ物にあたる」と輸入を禁じたのは違法だとして、出版元の社長が禁止処分の取り消しなどを国に求めた訴訟の上告審判決が19日あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「写真集は芸術的観点で構成されており、全体としてみれば社会通念に照らして風俗を害さない」とわいせつ性を否定。請求を退けた二審・東京高裁判決を破棄し、輸入禁止処分を取り消した。

 同じ作品を含む同氏の別の写真集について、最高裁は99年に「わいせつ物にあたる」として輸入禁止処分は妥当と判断していた。今回の判断には、わいせつをめぐる社会の価値観が変化したことが影響しているとみられる。

 堀籠幸男裁判官は「男女を問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。多数意見は写真集の芸術性を重く見過ぎている」との反対意見を述べた。

 訴訟を起こしていたのは東京都内の映画配給会社「アップリンク」の浅井隆社長(52)。99年に浅井さんがこの写真集を持って米国から帰国した際、成田空港の税関から関税定率法で輸入が禁じられた「風俗を害すべき書籍、図画」にあたるとされ、没収された。

 写真集は384ページに男性ヌードや花、肖像など261作品を収録。税関はこのうち計19ページに掲載され、男性の性器を強調したモノクロの18作品を「わいせつ」とした。

 この判断に対し、02年1月の一審・東京地裁判決は「芸術的な書籍として国内で流通している」と処分を取り消し、70万円の賠償を国に命じた。しかし、03年3月の二審・東京高裁判決は「健全な社会通念に照らすとわいせつだ」として原告の逆転敗訴としていた。

 第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い——などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。

****

うーむ、アップリンクの浅井さんは、じつはこれを裁判を起こそうと思って仕組んだのですね。わざと国内での5年もの販売実績を作り、この写真集が公序良俗を紊乱していないという土台を築いてから外国に持ち出して再度入国した際にこれを摘発させるという手の込んだ作戦を練っていた。これは見事です。ですから、政治的にはこの最高裁の判断を導いた浅井さんには「でかした!」の賛辞を贈るにやぶさかではありません。

そのうえで、でも、本来は猥褻とはどういうものなのか、という点も浅井さんはわかっていらっしゃると思います。国家権力が定義するなんて、しゃらくせえ、って思ってらっしゃるわけだ。だから、これはあくまでも社会的な価値判断の変革を形にするための戦略的権謀術数なわけで。

では本質的にはどういうことなのか。
メイプルソープが、男性器とともに、どうしてああも多くの花の写真を撮ったか、というのは、それは美しいからです。
でも、花がどうして美しいのか?
それはあれが性器だからです。そう、最高裁まで争った人間の男性器と同じものなのですね。
あんなに卑猥な写真集はありません。まさに堀籠幸男裁判官がいうように「おしべめしべを問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。写真集の芸術性に誤魔化されてはいけない」のです。

ですからあれは、猥褻なものをそのまま提示して美しいと感じさせているのです。
メイプルソープは、猥褻なものを提示して、猥褻って、なんて美しいんだっていっているのです。
それを、「猥褻ではない」って、本来は、最高裁はじつに失礼じゃないか、ってことです。

メイプルソープは、花と同様に、男性器を猥褻で美しいと思った(あるいはその逆の順番か)。その美しさはもちろん彼のセクシュアリティに結びついている美しさの感覚です。もっといえば人間であることに関係する美への感覚です(犬は人間の性器を美しいとは思わないでしょうし)。さらによくある70年代的言い方でいえば、彼は己の猥褻さへの欲望を解放しようとした。彼の写真を見ていれば、いまにも彼があの男性器に触れたい頬ずりしたいキスしたい口に含みたい、でもその代わりに写真に撮った、他人と共有したというのが伝わってきます。一見無機質にも思えるあの黒い男性器の鉱物のような銀粉のような輝きを、彼がまんじりと視姦しているのがわかるのです。それは花への視線と同じです。

じつは、花が性器だと気づいたのは、不覚にも私も、大昔にメイプルソープの写真集を目にしてからでした。ほんと、ありゃ、思わずあちゃーとかひえーとか呻いてしまいそうな、ときには赤面するほどいやらしくもすごい写真集ですものね。一部をご覧あれ

そうですよ、みなさん。

「何かご趣味は?」
「ええ、ちょっとお花を」
「あら、まあ……」

爾来、上記の会話の意味は、私にとって永遠に変わってしまったわけです。
蘭を集めております、とか、よくもまあ羞ずかしげもなく公言できるもんだ、と。
少しは赤面しながらおっしゃいなさいな、と。

卑猥とは何か、猥褻とは何か。
劣情を刺激するものでしょうかね。
劣情という言葉自体、価値観の入ったものだからわけわかんないですけど。

むかしね、「エマニエル夫人」って映画あったでしょ。高校か大学時代だったよなあ、あれ。
ボカシがかかるでしょ。あのボカシほど劣情を刺激するものはありません。いったい何が映っているのか、気になって気になって妄想がふくれます。ああ、そうだ、あの「時計じかけのオレンジ」もそうでした。ボカシが気になって、性ホルモン横溢の、脳にまで精液が回ってるような年齢でしたからね、もうおくびにも出さなかったが悶々と妄想を重ねていた時期ですね。

で、仕事でハワイに行ったときにヒマ見つけて当時まだあったタワーレコードでビデオを買ったんですよ、昔年の妄想を解決するために。

そうして見てみた。
ああ、オレはこんなものに欲情していたんだ、って、もう、ほんと、がっかりするような、なさけないようなものしか映ってませんでした。オレの青春を返せ、ってな感じです。

何だったんでしょう、あの「劣情」は。
ボカシは、罪だと思います。健全な欲望を、淫らにひねりまくります。
もちろん、罪もまたちょっとソソルものでもあるのですがね。はは。

何の話でしたっけ?
ま、そういうこってすわ。
失礼しました。

January 26, 2008

クローバーフィールド

火曜日に、噂の映画「Cloverfield」を観に行った。
ら、風邪引いた。フルーかもしれないが、日本人の私には風邪とインフルエンザの違いがまったくわからない。
悪寒がし、薬を飲んで寝ることに決めたら、あっというまにいま土曜日の朝の6時過ぎである。丸3日以上、寝てた。
おかげで治ったようだ。まだ頭がかんぜんには活動していないが。

で、クローバーフィールドである。
うーむ、やられた。
感興もクソもないが、怖い、というか、ものすごくカネがかかってるC級映画というか、とグダグダ相反するコメントでしか表現できないような映画である。


巷間言われているように、これは「ブレアウィッチ・プロジェクト」の手法で「9.11」めいた出来事を映画にしたものだ。

つまり、カメラはハンディカメラ1個。すなわち、主観的な視点しかないので、何が起こっているのかまったくわからない。これは事件の現場に閉じ込められたときに起こることだ。取材においては現場主義とか言われるが、じつは現場にいてはなにもわからない。情報は統合されて初めて意味をなすのだが、現場では部分部分の積み重ねのその要素が断片としてしか示されない。したがって、つうじょうは、なにが起こっているのかいちばんよくわかるのは現場にいる人間ではなくて、テレビの前で解説を見ている人間だ。

クローバーフィールドは、本来ならこのテレビ画面(スクリーンでも可)の前にいるはずの観客を「現場」に縛り付ける。他の視点、他の情報はいっさいない。したがって情報は焦点を結ばない。この辺が恐怖映画としてじつにcleverである。だから、なんで自由の女神の首っ玉が飛んできたのか、なんでダウンタウンで爆発が起きているのか、あの不気味な鳴動音が何なのか、軍が何をどう展開してしているのか、観客はさっぱりわからないのだ(ほんとはわかるけどね)。 これは、正確には恐怖というよりも不安というか、混乱というか、そういうものの総体としての居心地の悪さに近い。stress, irritation, annoyance, upset....そういうものを恐怖にくっつけて提供するのさ。cleverです。

でも、cleverなのはそれだけで、あとはカネに任せたCG特撮で80分をしのぐ(正確には60分ほど)。脚本は、無理がある。なにせ、カメラは1個。そのカメラをずっと写し続けなければならないが、現場にいる人間はふつうはカメラを放り出して逃げるだろ。おまけに、カメラが一カ所にいたら物語は進まないので、やたらと主人公たちはマンハッタンの中を動くことになる。ふつうは足がすくんで動けないだろ。

しかし、主人公はやはりアメリカン。すなわちヒーローなのだ。それも、恋人を救うためだけという、じつにポストモダンなこじんまりとしたヒロイックな行動でカメラを移動させる。これがC級映画のC級たる所以である。

だが、9.11を知っているわれわれとしては、いや、胸が苦しくなる恐怖感。それは最後まで続く。

とはいえ(ほらまた相反するコメント)、この「最後」がじつはわかっているのである。それは、私はこの映画の最大の失敗だと断言するのだが、もう、最初の最初に、なんとテロップで、この「最後」を“予告”してしまっているのだ。これはなんとも興醒めではないか? しかも「Cloverfield」という謎の言葉まで、何かを明かしてしまっちゃうのよ! そんな、自分でネタバレさせてどーすんの、と私なんぞ、冒頭でカネ返せと思ってしまった(とまでは思わなかったが、後にそう思った)。

この最初のテロップは、もう最後の最後に持ってきてもなんの不具合もなかったはずである。いやむしろそうでなければならなかった(力、入ってるね)。

そうしてそのテロップの後に、私たちは初めてこの映画のテーマ音楽が劇場に流れるのを聞き、おおおおお、と震撼するのである──どうしてそうしなかったかなあ。それだったら最後にまたヒエーッとなって笑うしかなかったのに。

日本でも春に公開予定。みなさん、タイトルロールが流れても席を立たず、じっとその音楽を聴いて、制作者のオマージュの対象に思いを馳せるべし。そう、あの映画は、本来はこうやって撮られてこそアメリカ版だったのである。

うーん、映画としての点数は50点。
でも、見て損はなし、って感じ。
相反する評価ですが、そうとしか言えませ〜ん。

September 09, 2007

エディット・ピアフ〜愛の讃歌

9月29日から日本で公開される「エディット・ピアフ〜愛の讃歌」の試写会、8月の炎夏の東京で行って参りました。観ていて、最後のところで頭が爆発するかと思った。まいったね。

piaf-1.jpg

この映画を観て思ったのは時間のむごさでした。いや、時間ではないな、なんだろう、歴史? うーん、そんな大層なものではなくて、運命? いや、事実、か。事実のむごさ。すでに起こった事実への、どうにもしようのなさにうちのめされるのです。

冒頭のシーンがそれを示します。最初にピアフの晩年の姿が映し出されるのです。ぼろぼろになって、ベッドチェアに座っている。そこで私たちはなんとなく気づく。あ、これはもうすでに起きてしまったことなんだ。換えようのない事実なんだ、と。これから始まる映画は、ここへ至る物語なんだ、ってね。もちろん、映画で描かれるのは虚構ではありますがね。

そのうちにその予感は確信へとかわっていきます。一つ一つのシーンがうねりながらあの冒頭のシーンへと雪崩れ込もうとするのです。それはもうどうしようもなく止めることのできない事実で、すでに決まっている、既定の道筋なのです。それ以外に逸れようもない運命なのです。伝記映画のむごさではありません。それは私たちに普遍の事実なのです。

その冒頭のシーンの直後から、時間は縦横無尽に飛び回りはじめます。ステージに、子供時代に、アマチュア時代に、幸せと不幸せが織物のように交錯して。

むごいなあ──と、そんな思いを植え付けられ通底させて、彼女の人生は語られていきます。でね、ピアフは交通事故後にモルヒネ中毒になるって示されるので、前半の時間のぶっ飛びは麻薬のフラッシュバックのようにも見えちゃいます。しかし後半にかけてはこれが、懐古というか、過去への望郷というか、楽しかった日々を思い出す彼女の意志的なイメージへとじつに自然に変化していくようなのです。

さて、「幸せと不幸せが織物のように交錯して」と書きましたが、ですからここにはもう一つ、交錯する二方向の時間の流れもあるのです。一つは最初に言った、結末へと、晩年へと止めどもなく押し寄せるベクトル。もう一つは、それに抗するかのように、彼女の頭の中での、過去へと遡ろうとするベクトル──ティティンとの生活、デビューの時、レコーディングの時、コンサートの時、デートリッヒとの邂逅、そしてマルセルとの恋。こうして物語は相反する二組の要素を絡ませ紡ぎながら、すでに定まっているもののどうしようもなさを積み上げていくのです。それは不可避と可避との格闘です。取り返しのつかないものへの、思い出の反逆です。もちろん、はなから勝者は決まっているのですが。

piaf.jpg
それにしても、主演のマリオン・コティヤールはピアフの降臨のように見えます。というか、スクリーンに映る彼女の顔を、私はフェリーニの「道」のジュリエッタ・マシーナに重なるものとして見ていました。存在自体がしだいに悲しみそのものとなってゆく女性。映画史上、あのジェルソミーナ以外にそんな女性は見たことがなかったのに。

歌は多く吹き替えでしょうが、一つ、オランピア劇場のステージで倒れる直前の「パダン・パダン」は誰が歌ったのでしょう。あの「パダン・パダン」はすごいです。あれがコティヤールの歌なら、ピアフも彼女に演じられて本望だと思います。

もう一つ、ラストで歌われる歌は、日本語では「水に流して」というタイトルになっていますが、これはそんな甘っちょろい歌ではないんだって気づかされました。原題は「Non, Je ne regret」つまり「いいえ、私は後悔しない」という宣言です。水に流して、という、どうでもいい感じではない。むしろ「水に投げ捨てて」といったほうがよいような、強い意志なのです。そして繰り返される歌詞は「Non, rien de rien」。「rien de rien」は英語では「nothing」、つまり「なんにも」「決して」という単語を重ねたものです。まるでぜんぜん、これっぽっちも、という強調です。

私たち観客は、そうして最後の最後に、この歌によって救われるのです。観客だけは。ラストで。
ピアフは、救われたのでしょうか──そう思ったとき、私の頭は爆発しそうになった。

これはそういう映画です。まいりました。

Lamome.jpg

原題は「LA MÔME」。「女の子」という意味です。ピアフは身長、142cmしかなかったんですね。それでこのあだ名がついた。ちなみに「ピアフ Piaf」は「雀」の意味。美空ひばりの「ひばり」みたいなもんですね。それが英語のタイトルでは「La Vie En Rose」となり、日本の題では「愛の讃歌」となった。「愛の讃歌」は、映画の中で流れますが、ピアフが歌うシーンはありません。

August 30, 2007

北大路魯山人

じつは北大路魯山人についてはいろいろ思うところがあって、でも、思うところをそのまま書いてもそれは「魯山人」という現在の名声への対抗というバイアスを纏うところがあり、どうしたって中立的というかニュートラルな評価を下せないかもしれない恐れはつきまとうわけです。

で、日本橋三越、8月14日から10日間にわたる「北大路魯山人展」に行ってみて、まあ、これは「吉兆庵美術館蒐蔵」というわりとちゃんとしたものが出ていたショーなのではありますが、なかなかいいものでした。

魯山人という人は、いまでこそすごい「大家」としてかなりショーアップされてしまっている部分もあり、でも、そのショーアップの根本的な基盤は、おそらくその彼の文体だと思うのです。彼のテキストを読むと、これは洗脳の文体なのですね。というか、じつに自信にあふれた「オレについてこい」なわけです。おれの言うことを聞いていればよい、おれの言うことを憶えておけば恥はかかない、そういうことをサブテキストとして示している文体なんだなあ。

で、私は、べつに魯山人の言っていることがウソだと言いたいのではないのです。
魯山人先生の言うことはきわめて真っ当だし、ときには素晴らしい。

そうやって思っていつつ、でも、彼も作品としてはいつもいつも面白いものを作っていたわけではない。なかには面白いものもあるけど、それはテキストの重厚さとやや不整合だな、というのが兼ねてからの私の思い込みであったわけです。

そうして今回、三越に行ってまいりました。
私の思い込みは、そう間違ってもいないんじゃないか、というのが結論です。

魯山人を一言で言い表してよい、と言われたら、私は彼は「元祖ヘタウマ」だって感じがします。
これね、私の世界観なんですからどうしようもないんですが、美術工芸品のジャンルで、というよりもなによりも、私はとにかく「天才」ってもんにイーハンもリャンハンもあげちゃう質なんですね。たとえばピカソをやはり天才だと思う。彼は、ヘタウマではなく天賦の才能としての「上手ウマ」から始まるわけです。それはどうしたって拭い去ることのできない運命的なスタート地点なわけです。そうしながらもなおもヘタウマを目指していく。それがピカソなんですね。

ところが魯山人は、ヘタから始まるわけです。そんでどんどん上手くなる。晩年の備前なんかは、ほんと、素人じゃない。にもかかわらず、彼は「匠人」趣味に堕してはいけない、というわけです。つまり、ハイアートではなくて、つねに日常にとけ込んだアートを目指すべきだ、と。

まさにそれは文句の付けどころがない論点です。でも、ヘタウマなんだなあ。
ヘタウマの集大成のようなものに彼の真骨頂があります。たとえば5枚セットの手塩皿というのも何種か出ていましたが、その中の櫛目十文字の5人(5枚セット)なんてのは、すごく豪胆でシンプルで好きです。(彼の文体を使えば、「節目十文字手塩皿五人は、辿々しき日常の妙を得て愛すべき一品」、と断じるのね。)

乾山風中皿五人というのも、山の景色をうかがわせて好ましい。花が浮かんでいるような文様の黄瀬戸の菓子鉢も、藍を吹き付けたような吹墨向付の五人もよろしい。丈の高い草の文様のタタラ成形の志野若草四方平向付も思わず立ち止まりました。

ただ、書や篆刻は、むずかしいなあ。
画はね、野菜籠を描いたものやあさがお図なんか、うまいんだ。でも、それは天才というのとは違う。上手くなったんだなあ、という感じなのです。

つまりね、このひと、とびきりの特急のアマチュアだったんでしょうね。
すべての分野で。そういう印象なのです。
料理のことを書いてあるのも、そういう意味では文体が勝負なんだと思います。こればかりは書や絵や焼き物などと違って後世に残らないんでどうとでもわからんのですわけど、でもまあ、食い物の話に関してはなにも反論できません。いちいちお説ごもっともです。

で、言いたいことは何か?

魯山人は晩年、不遇だったようです。「海原雄山」とは違うのね。
文体に誤摩化されがちですが、すごいもひどいももっと構えずに評価をしてやれば魯山人も浮かばれるんじゃないかなあって思います。魯山人の究極の願いは、いってみれば「普段使い」なんですね。ですんで、魯山人先生もそんな崇め奉るってんじゃなくてさ、元祖ヘタウマにふさわしく普段使いの妙手として仲良くしてやればいいんじゃないかなあって、思います。

July 22, 2007

いよっ、中村屋!

このところ、翻訳の締め切りに追われて(ってか、もうとっくに追い越されてしまったんですが)ぜんぜんブログのアップデートをしてません。申し訳ない。

とはいえ、いろいろと人生は過ぎていくわけで、とりあえず今回は19日に見た、平成中村座のリンカーンセンター公園について書き留めましょう。

ええ、ええ、そうです。3年前の夏のあの素晴らしい舞台の印象を引きずりながら、今回も観に行ったわけです。いやはや見事なエンターテインメント。しかし、それ以上に、私はこの「法界坊」を演目に選んだ勘三郎の大胆さに畏敬すら覚えました。

破戒僧「法界坊」は米国人が、いや現代の日本人もがなんとなく歌舞伎に抱いている「芸術性」を真っ向から裏切る喜劇なんですね。幕が開いて間もなく、事前のNYタイムズの記事で勘三郎が能と歌舞伎の違いを「能は時の権力者によってつねに保護されてきたが、歌舞伎を支持してきたのは一般大衆だ」と断じていたのが思い出されました。

なんせ端から話題はセックスなわけです。
おいおい、リンカーンセンターでポルノかよ、です。まいっちゃいました。
ざっと登場人物と物語の背景を説明して芝居は始まるのですが、三枚目「山崎屋勘十郎」が登場早々美女「お組」を目にしたとたん、おにんにんをぴょこぴょことおっ勃てるわけですよ。袴がそれでぴょんぴょんはねる。私は隣の席に座る、十代の息子たちをネクタイとブレザー姿で連れて来ているいかにもお金持ちそうな家族連れのことが気になってしょうがありませんでした。このお父さん、きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出したんでしょうね。

ところがこれは(おにんにんぴょこんぴょこんは)、英語ではいわゆる「ヴァルガー(野卑、下品)」と言われる表現です。日本という禅と茶道と礼儀作法の国から、まさかこんな、ときっととなりのお父さんも思ったでしょう。会場にだって一種、どう反応したらよいのかわからない、しかしこれは400年も続く伝統芸能だと自分に言い聞かせる、キリスト教的ジレンマからの失笑というか微苦笑というか、とりあえずはスマイルね、というべきビミョーな感じが漂っていました。だってこれは、どうかんがえても、というか後半の刃傷沙汰に及ぶにつれ、なおさらに絶対「R指定」の芝居なのでした。

そのときもういちど「歌舞伎は大衆芸能」という勘三郎の言葉を思い出した、というわけ。これでガーンと一発やられたような気がしました。

だってそういえばこうした野郎歌舞伎は、それも「隅田川物」と呼ばれるこの世界は、ことに爛熟の江戸町民文化の中で奔放で雑多な庶民のエネルギーそのものを写し取ったものですわね。
色恋、嫉妬、痴話げんか、詐欺に間男、贋金、不貞、誘拐、人斬り、誤解に恨み、そして最後は幽霊の、復讐譚まで発展し(七五調ですけど、わかりました?)、そして大喜利、大団円。

盛り沢山とはこのことで、前回3年前の「夏祭浪花鑑」のようなドラマ性には欠けるものの、「歌」あり「舞」あり「伎」ありの3時間。「野卑」とは言いましたが、それを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極み。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリンのそれにも通じていました。いや、チャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのかね。

勘三郎は庶民のそんな猥雑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎にも注入したかったのでしょう。いつのまにか「ハイ・アート」のように振る舞っている優等生に、原初的な破天荒さを取り戻す。そうやって見ると、今回の舞台は女形がまさに女形であるジェンダー・ベンディングな歌舞伎本来のクイアさもより透けて見えるようでした。上澄みばかりが賞賛されている海外での日本文化ブームを、勘三郎は「ほらよっ、ならこれはどうでえ?」と混ぜっ返しているいたずらな確信犯、トリックスターにさえ見えます。ちょうどマグロやイカをマスターした鮨好きの外国人に、奥から酒盗やクサヤを出してくるみたいに。

英語での観客いじりはやや安易に流れた嫌いもありましたが、歌舞伎を通しての人間復興のような、勘三郎のそんな壮たる目論見も理解できる、アメリカ人だけではなく私たち日本人にとってもの日本ブームの重層的な第二幕がここから始まってほしいもんです。

しかし、勘三郎、どこまで計算してるんだろうね。プロテスタントのこのアメリカに、よりによって「法界坊」で乗り込むなんて。ますます彼が好きになったわ。

July 06, 2007

中村中「リンゴ売り」

リンゴ売り

別に好きでこんな服を着てるわけじゃない
別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない

だって派手な衣装で隠さなきゃ
だって派手な化粧で隠さなきゃ
だって剥げた心を指差して
貴方たち笑うじゃないの

誰にだって優しい事を言いたいわけじゃない
誰にだっていい顔ばかりしたいわけじゃない

だけど軽い口調で流さなきゃ
だけど軽く笑顔で答えなきゃ
勝手な事 散々言っといて
貴方たち笑うじゃないの

私を買って下さい
一晩買って下さい

つまずくだけじゃ血も流れない
涙すら流れない

私を抱いて下さい
一晩抱いて下さい

淋しさだけじゃ夢も見れない
愛は在りませんか

私を抱いて下さい
いつまでも抱いてください

 「私を買って下さい」って、唄の中で言いのけたディーヴァというのはいままでいただろうか。藤圭子? 北原ミレイ? 浅川マキ? ちあきなおみ? 中島みゆき? 椎名林檎? みんな、なんとなく唄っていそうで、でも、中村中の「リンゴ売り」とはなんとなく違う。

 歴代の女唄というものにはだいたい恋い焦がれる相手が存在していて、恨みもツラミも愛も肉も怒りも、「わたし」と「貴男」という個々の関係性を糧に成立している。そのひとに向かって唄っている。あるいはそのひとを思って唄っている。あるいはそんな過去を思って唄っている。なのに、この「リンゴ売り」には誰もいない。いるのはリンゴ売りの前を通り過ぎる、誰とも知れない「笑う」「貴方たち」だけ。過去も未来もない、点でしかない時の消息。

 中村中の唄を聞くと、いつも「あらかじめ失われた恋人たち」というリルケの