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February 16, 2016

映画『あん』を観て

帰国便の機内で河瀬直美監督の「あん」という日本映画を見ました。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品のあん作りを伝授する、というお話です。

美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思う頃に、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はほど遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになり、その噂で客足も遠のくことになるのです。

心にしみる佳作です。お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして映画は観客の心に何らかの種子を植え付けて終わるのです。

一人一人の心の底に染み渡りながら、しかしその「種子」が「私」の土壌から芽吹いて「公」の議論に花開くことはあるのだろうかと思ったのは、翻ってアメリカの大統領選挙のことを考えたからでした。米国では4年に1度、全国民レベルで「私」たちが「公」の議論を戦わせる大いなる機会があります。というよりむしろ米国という国家そのものが、「私」の領域を「公」の議論に移し替えて成立、発展してきたものでした。

黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが「公民権」という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には個人的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。顧みれば社会問題に真っ向から取り組むハリウッド映画のなんと多いことよ。

人権や環境問題では地下水汚染の「エリン・ブロコビッチ」やシェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の「プロミスト・ランド」がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。ハンセン病に匹敵する「死病」だったエイズでもトム・ハンクスの「フィラデルフィア」などが真正面から差別を告発しています。今年のオスカーで作品賞などにノミネートされている「スポットライト」はカトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描いています。

映画としてどちらの方法が良いかという問題ではありません。アメリカはとにかく問題をえぐり出して目に見える形で再提出し、さあどうにかしようと迫る。彼我の差は外科手術と和漢生薬の違い、つまりは文化の違いなのでしょう。でも、後者は常に問題の解決までにさらなる回路を必要とするし、あるいは解決の先送りを処世として受け入れている場合さえあります。かくして差別問題は日本では今も多く解消されず、何が正義なのかという議論もしばしば敬遠され放置される……。

映画としての良し悪しではない。けれど社会としての良し悪しはどうなのでしょう? 個人の心に染み渡らねば問題の真の解決はないでしょう。しかし一方でそれを社会的な問題として言挙げしなければ、迅速な解決もない。その両方を使いこなす器量を、私たちはなぜ持ち合わせられないのかといつも思ってしまうのです。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

July 08, 2014

勘三郎の感涙

勘三郎が亡くなったこともあって7年の間が空きました。平成中村座の3度目となるニューヨーク公演は、その勘三郎が平成に復活させ、亡くなる1年前に勘九郎(当時・勘太郎)に継がせた『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』でした。

初日を見てきました。自分の死を知っていたとは思いません。けれど04年の『夏祭浪花鑑』と07年の『法界坊』と、そして三遊亭円朝の怪談噺が原作の今回の演し物と、この手を替え品を替えの構成はまさに勘三郎の仕掛けた歌舞伎披露の壮大な計画だったように思えてなりませんでした。

最初の『夏祭浪花鑑』で、勘三郎(当時・勘九郎)は歌舞伎狂言の濃厚なダイナミズムを大捕り物に託して娯楽芸術の極みを提示してくれました。NYタイムズは「ハリウッド映画より刺激的で面白い」と絶賛しました。しかし次の『法界坊』で勘三郎はそんな芸術性への期待を見事に裏切ります。

このときのNYタイムズの事前記事で彼はこう説明しています。「能は時の権力者によってつねに保護されてきた。しかし歌舞伎は一般大衆が支えてきたものだ」。「ハイ・アート」を期待してきたニューヨーカーに彼は、歌舞伎はそんな気取ったもんじゃねえ、とばかりに猥雑な喜劇を見せつけたのです。

あのとき私の席の近くには10歳くらいの息子にタイとブレザーを着せた父親が座っていました。きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出してきたんでしょう。

でも幕が開いてやがて登場した笹野高史の「山崎屋勘十郎」、なんと美女「お組」を目にしてすぐにおニンニンをぴょこぴょことおっ勃てたわけです。袴がそれでぴょんぴょんはねる。禅と茶道と礼儀作法の国から「まさかこんな……」。あのお父さんも固まってしまっていました。

ただ、「猥雑」と言いましたがそれを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極みでした。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリン。いやチャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのか。

勘三郎は庶民のそんな野卑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎に注入したかったのでしょう。いつのまにか「優等生」扱いの歌舞伎に、原初的な破天荒さを取り戻す。その目論見は見事に勘三郎でした。

そして今回、私たちは勘三郎の“仕組んだ”歌舞伎そのものの力を目にすることになりました。勘九郎と獅童の若い2人の演技に勘三郎と橋之助の熟れと遊びを見ることはできません。けれど生真面目でまっすぐな勘九郎と獅童を、この芝居は「歌舞伎」という技術がしっかりと支える作りになっていたのです。それは前2回の作品とは異なる歌舞伎の形でした。

隣のアメリカ人カップルは勘九郎の早替わりのたびに、いやそれがどんどん増すごとに「おお」という感嘆の声を大きくしていきました。本来は数時間かかるこの大作を2時間半に刈り込んだ演出も切れの良い枠組みとして演技を支えました。それはまるで、勘三郎自体がこの舞台世界となって、その中で息子たちを動かしているような気がしたのです。いつしか私も身を乗り出して「おお」「おお」と声を出していました。

じつは私は勘三郎さんとは誕生日も9日違うだけの同い年でした。あのいたずら好きな、しかも計算しつくしたかのようなトリックスターだった勘三郎さんが、今日の息子さんたちを見て感涙にむせぶ姿を私はいま容易に想像できます。楽しかった。勘九郎さん、次回4回目のNY公演をまた楽しみにしていますよ。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

February 04, 2014

ソチ五輪の華やかさの陰で

ロシアで15歳の少女が反ゲイ法に抗議して学校の友だちの前でカムアウトしました。父親は少女を激しく殴打し、頭部に重傷を負った少女は入院しました。裁判所は有罪を言い渡しました。父親ではなく、少女に対して──同性愛を「宣伝」することが犯罪になるロシアでも、未成年に対する初の法適用だそうです。

ソチ五輪が始まります。スポーツの祭典といわれるオリンピックがこれまでさまざまな政治論争に利用されてきたことは多くの人が知っているでしょう。今回も開会式に欧米首脳が一斉欠席。冒頭の同性愛宣伝禁止法が人権弾圧法であり、その影響でロシア全土でLGBTQへの虐待や暴力、殺人行為までもが急速に広まっているのにロシア政府は何ら手を打たない。それに反発する欧米の世論が、自国のトップの開会式出席を許さなかったのです。

ソチではフィギュアやスキーのジャンプなど日本選手の活躍もおおいに期待されています。それはそれ。だがしかし、そんな面倒くさい政治が、このスポーツの祭典には付き物なのです。

例えば6年後の東京オリンピックでは8千億円以上の公的予算、つまりは税金からの拠出が組まれ、経済効果は3兆円ともいわれます。さらにこれを主催する国際オリンピック委員会(IOC)という組織には、テレビ放映権や公式スポンサー企業からの収益で2千億円近くのおカネが入ります。

夏に比べ冬の五輪は規模は小さくなりますが、それでも国家と企業とがこれだけおカネを出しているのですから、五輪がその国の政治や経済、そしてスポンサー企業の宣伝に利用されるのは当然、というよりもむしろそのためにこそ五輪を開いていると言ってもよい。そしてソチ五輪はロシア国家の威信をかけて、なんと5兆円もの予算規模で行われるのです。これは夏の北京五輪の4兆円をも上回る巨費です。五輪が「純粋なスポーツの場」というのは、その競技を見て楽しむ私たちの頭の中だけの話。オリンピックは「村おこし」ならぬ、「国おこし」「企業おこし」の超巨大イベントなのです。

なので過去の五輪メダリストやソチに出場する12人の現役選手を含む計52人の五輪選手たちが、LGBTQ迫害のロシア政府、そしてそれを黙認するIOC、そしてソチ五輪スポンサー企業を批判する声明に署名しているのも無理もありません。そんな人権弾圧国の「国おこし」には加担したくないのです。ちなみにそれに「加担している」と批判されている世界スポンサー企業にはコカ・コーラ、マクドナルド、ビザ、サムスンなどに混じって日本のパナソニックもいます。

この声明運動は五輪憲章にある「オリンピズムの根本原則」第6条にちなんで「第6原則(principle six)キャンペーン」と呼ばれています。その第6条には「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック運動とは相容れない」とあって、差別はダメなんじゃなかったの?というわけです。

署名者には米スノーボード金メダリストのセス・ウエスコット、ソチ出場のカナダ選手ロザンナ・クローフォード、オーストラリアの男子4人乗りボブスレーチームが含まれます。他にも国際的スポーツ選手で史上最初にカムアウトした1人であるテニスのマルチナ・ナブラチロワやイングランドのサッカーチーム「リーズ・ユナイテッド」の元選手ロビー・ロジャーズらそうそうたる名前が並びます。残念ながら、日本人選手の名前は見当たりません。

きっとこの抗議運動自体を知らないのでしょう。冒頭の事件などを教えてやれば必ず署名してくれる選手が多いはずだとは思うのですが、日本社会の世界情報遮断力はとても大きい。なにせ国のトップが、そういう情報をまったく意に介さない人ですから。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

July 29, 2012

スズキという選手

日本に2カ月ほど滞在していてすっかりブログ更新からも遠ざかってしまいました。で帰って来たとたんにイチロー移籍のニュースです。しかもニューヨークに来るというので、小さなマンハッタンですからどこに住むのだろうとかどのレストランに現れるだろうとか、ここのところ日本人社会は大騒ぎ。さっそくヤンキー・スタジアムの残り試合を物色した人も多いんじゃないでしょうか? ところがこの街のメディアはわりと冷めた分析をしていてその温度差にちょっと驚きました。

NYポストは「名前だけビッグなイチローをトレード獲得」という見出しで彼を「マドンナやシェールと同じで、いまも名声はあるが以前とは中身は違う」と形容し「スターじゃなくなってもスターのイチローは、有名という部分を補強するサプリメント。ヤンキーズにはそれでも充分いい」と断じています。

NYデイリーニューズも「来季はフリーエージェントだから2013年、イチローがブロンクスにいることはないだろう」、NYタイムズまで「イチローはレンタル移籍」などと書いたりしています。昨年来の2割7分前後の打率の低迷を38歳という年齢に重ねての論評でしょう。

かように「もう年だ、バットスピードも落ちている」というのと、「いやいや、プレイオフ常連のチームに入ってまたモチベーションを高めて魔法を取り戻す」というのと、評論家の見方も2つに分かれています。

ヤンキーズ側にも事情はありました。左翼手のガードナーという若くて俊足の盗塁王が右ひじの故障で今季は絶望。そのスピードと守備の穴埋めが欲しいヤンキーズがイチローに白羽の矢を当てた、というわけです。さらにイチローはマリナーズとの5年契約の最後の年。年俸1700万ドルとされているので、ヤンキーズは移籍後の今季残り試合分の225万ドル、日本円で1億8000万円ほどを支払えば済む計算。これはじつに「安いギャンブル」(デイリーニューズ)なのです。

ただ、私の周りの一般的なニューヨーカーの反応はというと、大リーグのTV中継が徹底した地元主義のせいでほとんどヤンキーズとメッツの試合しか見られないからでしょうね、だから松井のことならだいたいみんな知っているけれど、イチローとなると野球好きの人たち以外は実を言えばまだあまりよく知らないみたいです。だからNYタイムズやデイリーニューズなどはイチローのことを記事の中では「スズキ」と表記しているほど。私たち日本人には「へえ、そうなんだ」と、ちょっと異和感があったりします。

ただし電撃移籍が決まった翌日のNYタイムズのスポーツ記事で最も読まれたのはその松井と「スズキ」の関係を書いたものでした。

その記事ではこの2人を「性格も才能もまったく違うが、ともに北米で成功した最良の日本の選手、とてもよく似ている」とし、いろんなエピソードを紹介した上で、いつも礼儀正しくメディアの質問に誠実に答えていた松井を「日本のお婆ちゃんたちが抱きしめてやりたくなるような、慎ましやかで思い入れしやすい古くさい男」と紹介しています。松井はメディアにもけっこう透かれていたんですね。

一方で「スズキはクールで自信家で無口でクリント・イーストウッドを野球選手にしたような人物。彼がバットを持てばダーティーハリーだ」と書いています。面白い比較です。

冒頭部分で紹介したNYメディアのシビアな論調も、まだイチローがニューヨークによく知られていないからかもしれません。「スズキ」が「イチロー」に変わる時がきっとその潮目なんでしょう。もちろんそれが今季中に来なければ、来季の「スズキ」の居場所はないというとてもシビアな世界なのですが。

August 27, 2011

男の美学

骨董などの査定をする「なんでも鑑定団」が好きで島田紳助のしゃべくりの妙にいつも感心していました。なので彼の引退会見を見て、とても残念な気分になりました。残念だったのは引退ではありません。彼の認識についてです。

芸能界が興行の出自としてそのスジの人たちと無縁ではないことは知っています。それは相撲界も同じ。文化というものはどこか薄暗さを伴って初めて厚みを増すし、現代社会が近世近代のいかがわしさを一掃して清潔一辺倒になるのもなんとも味気ない。

そんなこともあってかこの突然の引退に「犯罪や事件を起こしたわけでもないのに潔い」だとか「男の美学だ」とかいう反応もありました。私もどちらかというと「付き合いは大切にする」派なので、紳助もそんな人付き合いの義理を理解せずにうるさいことを言う吉本にキレて「なら辞めちゃる!」となったのかな、とも思ったのです。

ところがよく聞くと話に出てくるAさんBさんというのが恐喝未遂で上告中の元ボクサー渡辺二郎被告と山口組ナンバー4の筆頭若頭補佐で極心連合会の橋本博文会長。付き合いの発端は十数年前に関西テレビの自分の番組で右翼の街宣車をおちょくり、それに怒った稲川会系の右翼団体が連日同局に街宣車で乗り付ける騒ぎとなって、その解決を渡辺被告経由で橋本会長に依頼したということのよう。

紳助は会見で「僕の中ではセーフだと思っていた」「この程度で引退しないといけない。芸能人は注意してほしい」と呼びかけていましたが、これって本当に「セーフ」で「この程度」と言うべき話なのでしょうか?

ヤクザには美談がつきものです。曰く、終戦直後の混乱期に誰も相手にしてくれなかった孤児の自分に「坊主、これで飯でも食えや」と優しくしてくれたのはあのヤーさんだけだった、とか、阪神・淡路や東日本大震災でもいち早く炊き出しをしてくれたとか問題を解決してくれたとか、確かに義理堅い任侠心に溢れているふうに見える人もいるでしょう。でも、彼らの義侠を支えるそのカネはいったいどこから出ているのでしょう。

紳助が橋本会長に口利きしてもらって解決した稲川会系右翼の問題だって、これはつまりは山口組と稲川会の貸し借りの話。言ってみればグル、仲間内の出来レースです。そんなものに恩義を感じているのだとすれば、それはあまりにナイーブに過ぎる。

会見では「Bさん」に言及するときの紳助の実に丁寧な言葉遣いが耳につきました。それを見ながら私が思い出していたのは故人、伊丹十三のことでした。

『ミンボーの女』(92年)で伊丹は日本映画でタブーだった暴力団批判を真っ向から展開しました。もちろん彼一流のウィットとともに。

結果、彼は暴力団に付け回され、映画公開直後に自宅近くで5人組に襲撃されて顔や両腕を切られる重傷を負いました。これはやはり山口組系後藤組の犯行でした。その後も彼は別の映画のスクリーンを切り裂かれたり数々の脅迫や嫌がらせを受け続けました。しかし彼は「私はくじけない。映画で自由を貫く」と宣言してどこのだれにも口利きを依頼したりはしませんでした。

「潔さ」とか「男の美学」とか言うならこの伊丹十三の方であって、島田紳助ではないでしょう。伊丹十三とは私はなんの面識もありませんが、エッセーや映画からは多くを学びました。私からの一方的な友誼ながら、その故人との付き合いを裏切らないためにも、私は今回の紳助引退にはいっさいの同情をしないと決めます。

June 15, 2011

演劇もまた語れよ

今週発表されたトニー賞でベスト・プレイ賞を受賞した「ウォー・ホース(軍馬)」も、ベスト・リバイバル・プレイを獲った「ノーマル・ハート」も、見ていて考えていたことはなぜかフクシマについてでした。

ウォーホースは、第一次大戦中に英国軍の軍馬として戦地フランスに送られたジョーイと、その元々の飼い主アルバート少年の絆を描いた劇です。舞台上を動き回る実物大の模型の馬は人形浄瑠璃のように3人で操られるのですが、次第に操り師たちの姿が気にならなくなり、いつしかそんな馬たちに感情移入してすっかり泣いてしまいました。

それは、敵味方の区別なくひたすら人間に仕える動物の姿を通し、戦争という人間の罪業を描く試みでした。健気な馬たちを見ながら私がフクシマの何を思い出していたかというと、あの避難圏内に取り残された動物たちのことです。

荷物の取りまとめに一時帰宅を許された住民たちは、帰宅してすぐにペットフードを山盛りに与えて連れて行けない犬や猫をいたわります。それらを記録したTVドキュメンタリーでは、時間切れで再び圏外へと去ってゆく飼い主をどこまでも必死に追いかけ走る犬を映し続けていました。それが、劇中のジョーイのひたむきさに重なったのです。

ノーマルハートは80年代前半のエイズ禍の物語ですのでこれもまたぜんぜんフクシマと関係ないのですが、全編、無策な政治と無関心な大衆への怒りに満ちていて、あの時代の欺瞞を鋭く弾劾し検証する作品でした。それが、見ている私の中でまた原発を取り巻く同様の欺瞞と無為への怒りに転化していたのです。

エイズの話など、いまはぜんぜん流行らないのに、どうしてかくも力強くいまもまだこの劇が観客の心を打つのか、わかるような気がしました。それは演劇人の、時代を記すという決意のようなものに打たれるからです。

エイズ対策を求めてやっと市の助役とミーティングを持てた場面で、遅れてやってきた助役は主人公のネッドに「いちいち小さな病気の流行にまで我々がぜんぶ対応できるものではないんですよ」と言います。「それより、あなた、少しヒステリックになってるのを抑えてくださいな」

「わかった」とネッドは言います。「サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ボストン、シカゴ、ワシントン、デンバー、ヒューストン、シアトル、ダラス──このすべての街でいま新しい患者が報告されている。それはパリやロンドンやドイツやカナダでも発生している。でもニューヨークだ。おれたちの街、あんたが守ると誓った街が、それらぜんぶの半数以上の患者を抱えてる。1千人の半分だ。そのうちの半分が死んでいる。256人が死んでるんだ。そしてそのうちの40人は、おれの知ってるやつらだ。もうこれ以上死ぬやつを知りたくない。なのにあんたはこれっぽちもわかってない! さあ、おれたちはいつ市長に会えるんだ? ランチに出てます、ランチに出てますって、市長は14カ月もずうっとランチしてるわけか!」

ここにあるのは過ちと誤りの清算の試みです。時代に落とし前を付けてやるという気概です。演劇とは、それを通して自分たちで歴史の不正義を記録してゆくのだという、責任と覚悟の表明なのです。

そう思いながらこれを書いていると、HBOであのリーマンショック後の政財界の内幕を描いた「Too Big To Fail(破綻させるには大き過ぎる)」がウィリアム・ハートの主演で放送されていました。NYタイムズの記者によるノンフィクションを、こんな短期間で上質のドラマに仕上げた。

こういうのを見ると本当にかなわないなと思ってしまいます。 AKB48の「総選挙」を責めるわけじゃないけれど、あれをどの局もそろってニュースの一番手に持ってくるならその一方で、テレビも演劇もジャーナリズムも、もっともっと社会への取り組みがあってもいいじゃないかと思ってしまう。

東電と政府の欺瞞と怠慢とを、日本の演劇や映画やテレビは必ず作品に昇華してもらいたいと思います。どこでどういうウソがつかれ、どこでどういう悲劇が生まれたかを、ドラマもまた語ってほしいと切に願います。

ブロードウェイという華やかな娯楽の街で、拍手を忘れるほどの怒りが渦巻き、涙ながらの喝采が渦巻くのはなぜなのか? それは人間の言葉の力です。すべてを語ることで対処しようとする文化と、すべてまで語らぬことをよしとする文化の膂力の違いを、フクシマを前にした今ほど恨めしいと思ったことはありません。

でも恨めしく思っているだけでは埒も開かないので、とりあえず、私はこの「ノーマル・ハート」を翻訳してみようと思います。いつの日か日本で上演できることを画策しながら。

February 11, 2011

近代と現代のガチンコ

私が毎日新聞の支局記者だったとき、読売新聞の同期の新人記者が交通人身事故を起こしました。そのときデスクは「武士の情け」と言って記事中の彼の肩書きをただ「会社員」とした。まあ間違いではないですが、身内かばいと取られてもしょうがありません。なぜなら被疑者が大企業の社員の場合は「それもまたニュース」としてその企業名を出していたのですから。

でも新聞社はそういう身内かばいはやはりまずいだろうと軌道修正してきました。公に反省したり謝罪したりはしなかったにしろ、こっそりと内部的に反省して現在に至っているのです。それが近世の「瓦版」が知らず知らずのうちに紳士面したいまの「新聞」になっている経緯です。もちろんいまも政局情報や検察・警察情報至上主義みたいな「ヤバい」ところはまだままありますが、おそらくいま新聞社内ではその種のガラパゴス・ジャーナリズムへの反省が秘密裏に進んでいるのではないかと希望的に推測します。

まあ、それを自浄能力と威張って言えるかどうかは別にして、「社会の公器」と奉られた新聞としては変わらねばならないという内的な圧力もあることはあるんだと思うのですね。チクッと刺さったままになっているトゲをいずれはどうにかしなくてはならないだろう、みたいな。しかし翻ってそういう後ろめたさに衝き動かされたささやかな取り繕いの意志すらもが、八百長問題の相撲協会にはなかったということなんだと思います。

相撲の八百長問題は板垣退助の明治時代から表沙汰になっていますが、60年代、70年代にもあって、記憶に新しいのは96年に週刊ポストがやった告発キャンペーン。次は07年の週刊現代での告発でしょうか。つまり協会は最近だけでも2度3度は内部的に出直しのチャンスがあったということです。けれど協会はそれを出直しのモメンタムにするのではなく、まずは組織防衛に回った。後者の、講談社を訴えた民事裁判では大鳴門部屋の板井が84年の北の湖との対戦について証言した「50万円もらって自分が負けるという八百長だった」という告発に対しても、当時理事長だった北の湖自身が「なぜこんな話をするのか理解できない」と全面否定しました。物証がないので結果はもちろん相撲協会側の勝訴でした。

おまけにその裁判の途中でロシア出身の若ノ鵬の大麻吸引事件が起きました。その若ノ鵬が記者会見を開いて八百長問題を告発。けれど大麻を吸うやつが何を言うか、という聞く耳持たずの反応で、若ノ鵬は「八百長告発はウソでした」と引っ込めた。しかしそれも先日、テレビ朝日がその元若ノ鵬に電話をつないで「ウソだと言えば協会が退職金を出してやる」と言われたからだったという内幕を証言させていました。

協会としてまず組織防衛に回るのはわからないでもない。しかしそこでたとえ勝訴したとしても、これは本当はまずいと思った人間は相撲界内部にはいなかったのか? ただ単にバレなくてラッキーと捉えたのだとしたらとんでもないバカ者です。裁判所もマスコミもチョロいもんだと思ったかどうかは別にしても、そのときに後顧の憂いのないように内部的に秘密裏にでも悪しき慣習を絶とうとすることはできたはずだからです。

メディアに登場して八百長問題を語る相撲関係者すべての歯切れが悪いこと悪いこと。だいたい放駒理事長(元大関魁傑)にしても、調べる前から「過去には絶対なかった」と断言するってのはむしろ、真実を糊塗してますって力んでるような印象です。

メディアもメディアです。朝や午後の情報番組で登場する「元力士」たちのコメンテーターに、ズバリ「八百長はあったのか、自分はやったことがあるか、そんな話を持ちかけられたことがあるか、そんな話は聞いたことがあるか」となぜ一言も聞かないのでしょう。みな遠回しに「どう思われますか?」とあいまいに振るだけの遠慮ぶり。噂になった北の湖にだって直接聞けばいいのです。というか、いま行われている力士たちへの聞き取り調査ですけど、そんなことする前にまずは相撲協会の理事たち、親方たちに事情聴取すべきでしょう。だって、彼らの方がいまだけでなく過去も知っている歴史の「生き字引」なんですから。それを、現役の力士たちからだけ事情聴取して罰しようとするなんて、なんとまあ卑怯な。だいたい携帯電話を提出させるなんて、小学生への対応でしょう。なさけない。

グローバル・スタンダードと、すべてを身内で処理できると妄信するガラパゴスな日本的行動規範とのガチンコ。以前も書きましたが、相撲界で起きているここ数年の不祥事とはつまり、ことごとく現代と近代との齟齬のことなのですね。

新聞とかメディアは絶対にグローバル・スタンダードに法らねばならないのは明らかです。でも相撲界は違うだろうなあというのがあります。国技かどうかなんてどうでもいいけど、世界規範に合わせたら相撲もタダのスポーツ……それじゃあなんか寂しいなあ、という思いが日本社会の中にあるのは確かでしょう。ではどうすればよいのか?

八百長をやってきたのにはやってきただけの理由があります。その背景を改善しないでやるなと言うだけではダメでしょう。1つは幕下以下ほぼゼロという給与体系を変えてやることです。そうすれば互助会的な星のやり取りで生活費を心配することもなくなる。また年間90回という過酷な本場所取り組みを減らすことも必要でしょう。真剣勝負での巨体の衝突がそんなにあっては耐えられるはずがありません。地方巡業は「無気力相撲」もまあ大目に見て、しかし本場所は真剣勝負という形にしていけばよいのではないか。

「十両にならなければカネが入らないからこそ懸命に稽古をするんだ」と言ってテレビのコメンテーターとして給与体系の見直しに反対してた元力士もいましたが、そんなことで稽古をしなくなるようなやつならもともと相撲取りにならなきゃよいのです。そんな過酷な給与でしか維持できない星取りの意欲なら、大相撲なんか滅びて当然でしょう。

December 31, 2010

不思議な街

私が台本を翻訳したブロードウェイ・ミュージカルの東京公演が12月にあり、それを見るために一時帰国していたのですが、一通り用事を済ませて帰米する前夜に入った四谷・荒木町のお鮨屋さんで、隣に座ったのが鈴木大介さんというクラシック・ギタリストでした。なにやら鈴木さんも明日にニューヨークに飛ぶとか話してらして私もそうなんですと告げると、じつはカーネギーホールのザンケルホールで武満徹の生誕80年記念のコンサートを行う予定なのだとおっしゃる。私も武満は大好きな作曲家なので酒の席もあって話が弾み、鈴木さんがなんと私を招待してくれる運びになったのでした。

さてコンサートは帰米後2日目の夜でした。酷寒のニューヨーク、カーネギーの中ホールであるザンケルホールはほぼ満員でした。大ホールでは例の小澤征爾の復帰コンサートが中日の休みを迎えていた日です。「日本週間」の趣きの中、鈴木さんとクアルテットを組むのはジャズギターの渡辺香津美、アコーディオンのcoba、パーカッションのヤヒロトモヒロの面々。錚々たるもんでしょ。

武満は96年に亡くなりましたが、世界に誇る現代音楽の作曲家です。私は大江のエッセーで彼のことを知りました。高校か大学のころです。で、最初に聴いたのが「エクリプス」。たしかNHKで見たのです。ジャズしか聞いていなかったそのころの私に、それはなによりも先進的で衝撃的でした。エクリプスという言葉の意味も、そのときに辞書を引いて知って、それ以後、忘れられない単語になった。ディカプリオにもそんな映画があって、しかもベルレーヌとランボーですから、なんか、武満から運命的に教わった気さえしたほどです。

さて彼を難解だと敬遠する向きもありますが、ザンケルのこの日は「伊豆の踊り子」や「どですかでん」「他人の顔」などのわかりやすい映画音楽をおおいにアレンジしてたいへんに熱く鋭い演奏会となりました。

鈴木さんもクラシック・ギタリストとは思えぬノリようで、ストロークの音の切れること切れること。それまでテレビでしか知らなかった金髪のアコーディオニストのcobaさんは、テレビから受けた印象とは大違いで鬼気迫る見事な詠いようでした。私もまさかカーネギーで体を揺すり足を鳴らして音楽を聴くことになろうとは思ってもいませんでした。

予定の曲がすべて終了した後はアンコールですが、アメリカ人のクラシックファンをナメていたのか(笑)1曲しか用意していなかったようです。もちろん総立ちの観客はそれが終っても拍手を続けて帰ろうとはしません。その熱い反応に4人はものすごくうれしそうでした。

終演後の楽屋にもお邪魔すると、武満と親交のあった詩人の谷川俊太郎さんもいらしてました。帰宅後、谷川さんのツィッターを覗くと「カーネギーホールで(略)息の合った武満徹を聴いてホテルに戻ったところ、聴衆総立ち拍手鳴り止まず、武満に聴かせたかった。NYは零下、露出している顔が冷たいけど気持ちは元気です。 俊」と呟いていらっしゃいました。

ここは不思議な街です。
「ニューヨーク」という魔法の言葉が、日本の鮨屋でも私と鈴木さんを結びつけてくれました。このコンサートはあまり新聞に載りませんでしたが、私には2010年に出逢ったものの中でベスト3に入る名演奏でした。きっと、生涯でもトップ10に入るはずです。

November 04, 2010

田中ロウマ SHELTER ME

田中ロウマ、米国で頻発する十代のゲイの自殺、その予防呼びかけキャンペーン「It Gets Better」に寄せたPVっすよ。日本でも同じ状況はあるわけで、何で日本人アーティストが作ってはいけない理由があろうか、というわけでしょう。素人っぽいモデルの2人、急ごしらえ的な作りですが、逆にそれがリアリティを持ってるようでわたしにはとても微笑ましいかった。この2人、これに出ること自体、大変な勇気がいたと思います。まだまだそういう社会なのですから。

最後の最後にメッセージが出ます。
そう、必ずこれからよくなるから。
このPVを作った田中ロウマをわたしは誇りに思います。

この自殺問題、時間のあるときにまとめておきたいのですが。ああ、怠惰な自分。



shelter me
 シェルターになって
by ROMA Tanaka 田中ロウマ (訳詞はわたしのです。非公認ですけどw)



its raining out side 外では雨が降っている

can I come in just for a little while ちょっとだけ入っていいかな

inside me, there's a past I can't let go ぼくの中、忘れられない過去があって

and now consumes my soul

 それがぼくの魂を食い尽くす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who'll tear down these walls この壁を壊してくれるだれか

will you show me how to love

 どうやって愛したらいいか教えてください

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷をみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



patiently you waited じっと長いこときみは

for the perfect moment to come steal my heart ぼくの心を奪いに来る最高の瞬間を待ってたんだね

like sun warms the spring air, your words, your touch
 ちょうど太陽が春の大気を暖めるように きみの言葉が、きみの指が
you fill me to the core

 きみがぼくを芯まで満たす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who will stand with me ぼくの味方になってくれるだれか

never leave me with doubt ぼくを悩ませないだれか

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて

I'm still healing ぼくの傷はまだ癒えてなくて

people telling me it's not the way to live そういう生き方はダメだよって言われるけれど

but we're not so different
 ぼくらそんなに違ってるわけじゃない
breaking down to the same sad love songs 同じ悲しいラブソングに泣いたりするし

they tell me I'm not broken ぼくはまだだいじょうぶだって言われる

I'm not broken まだだいじょうぶ

I'm here holding on to you だってここできみを掴んでいられるから



you are everything I have always been waiting for
 きみはぼくが待っていたもののすべて
and someone who'll tear down these walls
 この壁を壊してくれるだれか
so I'm asking you to だからお願い



shelter me, comfort me シェルターになって 慰めて

all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



I'll shelter you comfort you
 きみのシェルターになる きみを慰める
all your scars have shown and you are here
 きみの傷もみんな見たし きみはここにいる
and I'm ready to love きみを愛する準備はできてるんだ


I'll shelter you comfort your heart きみのシェルターになる きみを慰める

it's yearning for me and only me ぼくを ぼくだけを思ってくれてる

and our lives we are ready to share
 ぼくらの人生を 分かち合う準備はできている
through all our tears shed we'll still be there... すべての流れる涙を越えて ぼくらはずっとここにいる

October 28, 2010

中村 中「少年少女」

そりゃ私は中村中を応援してはいます。デビューしたのがなんだっけ、汚れた下着? 友達の詩? そんなことはどうでもいいんですが、とにかく、久しぶりに気骨というのかなあ、歌い手としてだけではなく、歌の作り手としても、ケッと言っても動じない、押されても倒れないやつとして、こういうやつがいるんだなあ、という印象を持った。てか、まあ、それは間違いかもしれないから、いまだから言えるみたいに、あるいは後づけとして言ってるんだけど。後出しジャンケンみたいにね。

そう、いつも人を賞賛したいときには前置きと言い訳が長くなる。素直に人を褒められない時代。褒めるのにも理由がいる時代。いや時代の所為にしちゃダメだよな。ってまたここでも長くなるわね。

本日はまたよい酒を飲んできた後で、なにかというと、尾瀬の雪解けの大吟醸、これ美味いんですよ。ちょいと乳酸っぽくて。それと、満寿泉の大吟醸をアンリ・ジローの樽に6カ月入れて熟成させたやつとか、こいつはもうすごい。まるでひれ酒のような旨味が横溢(マイナス魚臭さ)。そしてもちろん、その当のアンリ・ジローのトップラインの Cuvée Fut de Chene 2000 Ay Grand Cru とかも料理に合わせて飲んできたんです。これもすごいシャンパン。

ふむ、それは関係ないか。

そしていま、中村の「少年少女」を聞いている。「今夜も僕らは、なんとか生きている」とか歌われちゃってる。

私にとってこのアルバムは、なんだか知らんが、ジェフ・バックリー以来のヘビーローテーションです。つまり5年ぶりの、いつ終わるとも知れぬリピート聴取状態。NYの地下鉄でもずっとiPhoneで聞いている。さすがに聞き過ぎだな、と思って辻伸行くんのラフマニノフとか、パトリック・コーエンのサティとかも聞いたりしてるんだけど、ふと気づくと夜中に頭の中で「少年少女」の中の何かが渦巻いてる状態。

いま、ちょうど「ごめん、私は、喉をやられてる」って歌われてます。

最初のころは、そう、このね、何たっけ? そうそう、みんな絶賛の「戦争を知らない僕らの戦争」にやられたんですが、そのうちに、もっとさりげない、最初は聞き流していた歌ね、初恋とかさ、秘密だとかさ、ともだちになりたい、や、青春でした、だとかさ、そういうののメロディーまでもが浸食してくるんだ。

まあ、これこそヘビーローテーションの為せるわざですが。

技術的なことを言うと、曲作りがすごくうまくなった。とても自然になった。メロディーにおかしな力が入っていない。味わっていると旨味がじわじわと出てくる。なのでもう3週間くらい繰り返し聞いていても全然だいじょうぶ。ヘビロテに耐えうる。前のアルバムも褒めたけど、これとは違ってる。

でね、ちょうどこれを聞いてるのと平行して、アメリカでは、ゲイの十代の男のたちがどんどん嫌がらせやいじめに遭って自殺するという事件が続発しているのです。この2カ月くらいで8人かな。わかってるだけで。ルトガーズ大学の19歳は、寮の部屋で好きな男の子とキスやなんかしてるのをSkypeで自動中継されちゃって、ジョージ・ワシントン・ブリッジから投身自殺した。あの橋、すごく高い。そこから飛び降りるよりつらいことがあったということでしょう。考えるだけでまいっちゃいます。

ついこないだ、10月13日に自殺した子はカリフォルニア・ビバリーヒルズの高校生で、学校帰りに5人の他の生徒に殴る蹴るの暴行を受けた。そして家に帰って縊死した。「何よりもつらかったのは、肋骨を折ったことじゃない。ぼくの大事な人たちからもらったものを盗まれてしまったことだ。最悪の日だ」と遺書にあった。「カミングアウトと、(ボーイフレンドの)ダリックと幸せだったことが人生で最高のことだった。でも、それが自分の死につながるとは昔は知らなかった」とも。

そう、中村中の「少年少女」を聞いていて思うのは、これをいまの十代の子たちに聞いてほしいなあということです。聞いて、何?という子はいつの時代でもいるでしょうから、そういうのはどうでもいい。そうじゃなくて、聞いて、励まされる子たちが必ずいる。励まされる? ちゅーか、ああ、自分は1人じゃないって、そう感じる子が必ずいる。そういう子たちに聞いてほしい。いや、これは変な言葉遣いだ。そういう子たちが、たまたま聞いていてほしい。

いまや、年を取った私はこのアルバムを聴いてもこれっぽちの涙も表沙汰にはならないけれど、大脳皮質の地層の奥のどこかで、15のぼくがカッと赤く熱くなっているのがわかる。そう、じゅうぶんに時は隔てているけれど、15のぼくは1人じゃないって、おぢさん、思うよ、ってな感じ。

とてもたくさんのメッセージが込められたアルバムでも、でもさ、メロディーが付いてこないとこんなに長く繰り返し聞けない。なんだか、ちょうどいいあんばいで詩と曲が流れてる。ま、それも私の感性にとって、ということだけれど、それは信じてもらわねばしょうがない。

わたしのこのぶろぐに「少年少女」が訪れているとは考えられないけど、もし読んでいるなら、アルバム、聞いてごらん。もし、そんな少年少女を知っている人なら、さりげなくその子たちにこれらの曲を聴くよう仕向けてください。ただ1人でも、そんな子たちの命を救えるなら、いや、実際に死ぬ、生きるってな話じゃなくてもね、そうなら、単なるCDとしては儲けもんじゃないでしょうか。

またぐるっとまわって「独白」になった。
中村中のセリフが、ちょいと訛ってるのはどこの言葉? ま、愛嬌だけどね。

あ、そうそう、中ちゃん、この曲の最後、私はあれは違うと思います。
「わたしを愛してくれますか?」じゃないだろう。

あそこはさ、

「わたしを愛したり、できますか?」

あるいは、もっと直截に

「私を、愛せますか?」

っていう投げかけ、詰問じゃないか?

不満っていえばそれくらいでしょうか。

おやすみなさい。寝ます。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

December 20, 2009

中村中〜阿漕な土産〜

渋谷CCレモンホールでの中ちゃんのコンサート、昨晩行ってきた。
アクースティック4人編成をバックのものだったが、中村中、この1年でずいぶんとすごくなった。まあ、声の出ること出ること。出だしはまだ緊張してるみたいだったけど、それがどんどん観客のエネルギーを吸い取るみたいにノリはじめ、ああいう状態は歌っている方もものすごくいい気持ちなんだろうなあと思うような歌になっていった。私も歌ってた頃があるから、なんとなくわかる。えー、こんなのも出るんだって、自分でもびっくりしちゃうくらいなときが訪れることがあるのだ。昨晩はきっとそんな感じだったんだろうって思う。

アクースティックだったから歌い方も変わったのかもしれない。ブレスの仕方が変わった。前回は4月に彼女のコンサートにいったんだが、まあ、ホールの大きさも違うし構成も違うから一概には断じられないけれど、前回はブレスまでをも効果音にしちゃうみたいな感じの歌い方。今回はもっとナチュラルなブレスだった。

そして、歌が確実にうまくなっていた。
だんだん、私の論評が届かないところにまで上がっていくような予感がする。

基本的に、ぼくはぼくが自分でできることと比べることでしか批評ができないのだ。

今年は彼女、事務所を変わったりでいろいろとあったみたいだけど、20代でいろいろと大変なことを経ていくのは彼女にとってきっと良いことなんだと思う。良いことにしていけなければ、もともとだめなんだとも思う。

いっしょに行ったトーちゃんとその夜遅く、さてそこで、プロデューサーとしていったいどういう道を彼女に用意すればよいののかということを考えた。ふうむ、と言ったきり、ふたりともその答えを言葉にすることはなかったけど、歌謡曲歌いの彼女としてと、歌謡曲作りの彼女としてと、どんな未来があるのだろうか。トーちゃんには先日からちあきなおみが頭の中に宿っていたせいもあって、なんとなく2人を比べているような節もあったのだが。

「友達の詩」は名作だが、これはできるべくしてできちゃった歌だろうから、そうじゃなくてモノ作りとして意識的に作り上げる歌がどういうものであるのか、ぼくにはまだ腑に落ちるものが聞こえていない。それは詩の問題だろうか? 彼女はもっともっと本を読むべきかもしれない。詩とか、俳句とか、短歌とかでもいい。寺山とか、ギンズバーグとか、そういう母恋いの詩とかも。そうして盗むところから再開してもいいと思う。

昨晩のコンサートを見ながら、彼女の40歳の、50歳のコンサートに行きたいとちらと思っていた。
それまで生きていようと思った。

November 13, 2009

宣伝──ヘドウィグ再降臨

考えてみたら、わたし、自分の本とか講演とかあんまりほとんど宣伝したことがないんだけど、山本耕史のヘドウィグはかなりプッシュしました。

へど2.jpg

まあ、ミュージカル(といってよいのかどうか、これはけっこう演劇とロックコンサートのコラボみたいなステージ)の翻訳はこの作品が最初だったせいもありますが、山本耕史のヘドウィグをやったのは、山本耕史という役者のすごさを知ったという点でもよかったです。この人の仕事ぶりのすごさは、テレビではなかなかわからんと思う。そこら辺のいい加減な兄ちゃんかと思ってたら大間違い。プロというのはすごいと彼と会って思ったもん。

ヘド3.jpg

というわけで、山本ヘドの再々演が今月末から始まります。
お勧めします。
今までヘドを見逃してきたなら、これを見逃すでありません。
今回は短期決戦。
なんか、衣裳とか、変えるとかって言ってるだけどどうなるんだろ。
じつは私もなにも聞いてない。
それに伴ってすこし演技も変わるのかしら? ちょっとたのしみ。

へど1.jpg

相手役のソムン・タクは、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックを足して2を掛けたような歌い方をします。たとえが古いといわれますが、現代の歌手でそいつらに匹敵するようなわかりやすい例は、あるんだろうか?

わたし、これを宣伝しても一銭にもなりませんが、お勧めします。

見なさい。見て、震えなされ。


詳細は以下にあります。

http://www.lovehed.jp

初めての方はぜひここでストーリーや歌詞の訳をおさらいしてから行った方がわかると思います。歌は字幕なしの英語で歌うの。


大阪はたった1回だけの公演。
前回、キャンセルになったからね。
11月27日(金)午後7時から、渾身の大阪厚生年金会館芸術ホール。

東京は12月2日(水) ~12月6日(日) ゼップ東京(お台場)
こちらは昼と夜の公演がいろいろ。

http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1

よろしく。


September 16, 2009

セメンヤ

あの、「両性具有」だとアウティングされた南アフリカの陸上選手キャスター・セメンヤ、24時間自殺監視措置になった。だれとも会いたがらないそうだ。18歳の子に、なんとひどいことをしたんだろう。

あれはリークだったんだね。
メディアがそれに飛びついた。なんのために?
表向きは世界陸上の公正性のために。しかし、心理的には化け物がいると言いふらしたかったゆえに。

公式な、違う内容と違う形での発表が出来たはずなのに。
こんな残酷なことはない。

Gender Row Runner Semenya Placed On Suicide Watch

Monday, September 14, 2009 at 5:54:53 PM

South African runner Caster Semenya, who is at the center of a gender row, has been placed on suicide watch amid fears for her mental stability.

The Daily Star quoted officials as saying that psychologists are caring the 18-year-old round-the- clock after it was claimed tests had proved she was a hermaphrodite.

Leaked details of the probe by the International Association of Athletics Federations showed the 800m starlet had male and female sex organs - but no womb.

Lawmaker Butana Komphela, chair of South Africa's sports committee, was quoted as saying: "She is like a raped person. She is afraid of herself and does not want anyone near her. If she commits suicide, it will be on all our heads. The best we can do is protect her and look out for her during this trying time."

South African athletics officials confirmed Semenya is now receiving trauma counselling at the University of Pretoria.

Caster has not competed since the World Athletics Championships last month when the IAAF ordered gender tests on her amid claims she might be male.

Source-ANI
SRM

July 14, 2009

代弁者のいない死

死んだという事実すらもがなんだかステージ・パフォーマンスのようにメディアに横溢して、なにをどう考えればよいのかしばらくじっとしているしかなかった。それはまだ続いているけれど、さっきYouTubeでマドンナの欧州ツアーのステージを覗き見たらマイケルのそっくりさんの日本人パフォーマーが登場していて驚いた。そのうち、あ、こういうことなんだと気づいた。

ぼくは70年前後のスーパーハードなロックの時代に思春期を過ごしてきたせいで、80年代に入ってからのミーハーで商業主義なポップの時代にはほとんど同時代の音楽を聴かなくなった。それでもマイケルの「スリラー」のカセットテープ(!)はちゃんと買っていて、新人新聞記者としてかけずり回る中古車の中でほとんどエンドレスで繰り返し聞いていたものだ。なにせ世界で1億枚売れたんだから、ハードロックなぼくでさえその1人であってもおかしくはない。

でもだからといってMJに特別な思いがあったわけじゃなかった。みんながすごいすごいと言う「ビート・イット」にしても「バッド」にしても「ヒストリー」の短編映画にしても、コンセプトはこっぱずかしいくらいに子供っぽいし、そのうちにこの人の奇行ばかりがニュースを賑わし始めた。「キング・オブ・ポップ」だったMJは、次にどんな曲を出すのかよりも、次はどんな顔になっているのかのほうが話題になった。そうして例の男児性愛疑惑。MJは奇人変人の代名詞になった。彼のセックスにみんなが、というか、ぼくも思いを巡らせた。彼はゲイなのか、ペドフィリアなのか。まあ、それはそのうちぼくにとってはどうでもいいというか、きっと彼は性的少数者ですらなくて、少数者どころかひょっとしたら性的希有者、単独者かもしれない、とかまあ。

でもそれは社会的にはどうでもよいことではなくて、死んだ直後もテレビがそうしたゴシップをあえて無視するように彼を讃えれば讃えるほど、ぬぐい去れないスティグマ(穢れ)が影のように暗く向こうに佇んでいるような気がした。

でもさっき、現在進行中のマドンナの欧州ツアーで、マドンナの曲のメドレーの中で急にMJの「ビリー・ジーン」が流れ、日本人のMJソックリさんがそれを踊るのを見ていたら、ああ、マドンナはこうしてMJを追悼してるんだと思った。それでちょっと切なくなった。べつにマドンナもぼくにはお気に入りでもなんでもないのだが。

田村隆一はかつて「新しい家はきらい」だとしてその理由を「死者とともにする食卓もな」いからだと言った。詩人の谷郁雄はそれを引いて「詩人の仕事とは、生と死の間に境界線を引くことではなく、死者を日常の中に蘇らせることだ」と書いた。これは友人の張由起夫くんの指摘だ。

MJ以外にいま、世界中のどの世代も知っている「スター」はおそらくマドンナしか残っていない。MJもマドンナも、YouTubeもMP3もない「古い家」で育ってきた最後のスーパースターだ。マドンナはそんな同胞を「食卓」ならぬステージに蘇らせて追悼しようとしたのだろう、と張くんは言う。

YouTubeやオンライン市場はいま数限りない多くの才能に開放されているし、それらは実際に流通してもいる。でもその選択肢が多ければ多い分だけ、MJのような普遍的なスーパースターはもう誕生できない。MJですら、MJであることができない時代になっていたのだ。

オースン・スコット・カードの小説に「死者の代弁者」という長編がある。死者の思いを継ぐ者としての代弁者を描いた名作。でも、マイケルのような死者には代弁者もいない。だれが何と言おうと、あの歌と踊りは、彼以外にはできない。

代弁者のいない死。死の直前のリハーサルの動きを見て、本当にそう思った。彼は、永遠に喪われた唯一無二の何物かだったのだと今さらながら気づいた。それでいますこし、ぼくは立ちくらんでいるのだ。

April 24, 2009

草彅くんね

ミクシにも書きましたけど、かわいそう。
騒ぎ過ぎですよ、メディアで発言するみなさん。
メディアの性格上、騒ぎ過ぎるのはわかりますが、その中でも「騒ぎ過ぎ」って言ってやりつづけることはできると思いますから、そう言ってやってもらいたいです。

まあ、全裸になるってのはよく覚醒剤(アンフェタミン)をやった連中の行動パタンなので(尾崎もそれで全裸になって民家の庭先で暴れて死んだんです)、警視庁としてはそれを疑って家宅捜索までしてるんだろうけど、尿検査で出てきてないのに公然猥褻で自宅のガサまでやるなんて、それはすごくひどい話です。なんか、こないだの小沢とは全然次元が違うが、ゲシュタポとかKGBとかの跋扈した警察国家みたいな話ですよ。

酒飲んで、酔っぱらって裸になって大声で叫ぶのはぜんぜん誉められたもんじゃないけど、そんな顰め面して「最低の人間だ」「絶対にゆるさない」って大臣が公然と断罪するほどのことでもないでしょう。泥酔して国家のハジをさらした同僚大臣にはそんなこと言わなかった輩が、相手が若造だと知るとここぞとばかりに道徳親父面しやがる。こういうのを権力を傘に着て、という。まったくひどいサイテーの人間。

毎日と読売、東京(追加)がさっそく翌24日付けの一面コラムで書いてますね。

「草食系男子も楽ではなさそうだが、どうか周囲のしかめ顔は肝に銘じてほしい。」(毎日)

べつにしかめ面なんかしてないよ。あらら、と思っただけだ。酔っ払いに甘いと時に批判もある社会ではあるが、これって、公然猥褻ながら露出でも陳列でもない。そういうのとは、違うでしょ。もし薬物が出てないなら、これって、完全にストレスアウトの話だから、しかめ面する前に心配してやるべき話じゃないかって思うもん。それが人間社会ってもんじゃないですか?

「呼び捨てではなく、「クン」を付けずにはいられない清潔感と温かい人柄がにおう人に、深夜の公園での泥酔、全裸は似合わない」「才能があって、売れて、皆に愛されて、それでも法と常識を超えなくては晴らせなかった鬱屈(うっくつ)とは、何だったのやら。どれも持ち合わせぬ身は、何を脱いだらいいのか分からない。」(読売)

これもいやらしい書き方だなあ。「似合わない」って、勝手に想像してたイメージを前提にして言われたって、困っちゃうよ。人間ってのはね、他人のわからない心の襞の奥の奥を必ず抱えて生きているの。新聞記者って、まずそれを尊重することから始まるの。「似合わない」って言うのは、そういう他者という存在に対して、畏れを知らぬものすごく不遜な言い方です。おまけに読売の一面コラム子ともあろうものが「どれも持ち合わせぬ身は、何を脱いだらいいのか分からない」って、なに卑下してかっこつけてるのか。これを結語とするなど、ナルシシズムの極みです。だっておじさん、いろいろと持ってるでしょうに。大新聞の一面コラム子ですよ。それとさ、「法と常識を超えなくては晴らせなかった」と言ってますが、そんな大げさなもんじゃないのです。大げさにしてるのは、そうやって書くからで、酒飲んで酔っぱらって裸になってなんて、それ、「法と常識を超えなくては晴らせなかった鬱屈」とかいう形容詞で書くべきもんじゃあないでしょ。もっと個人的なものでしょう。

「確かに、酔っぱらうと、同じようなことをしたがる人もいないではない。だが、最もアイドルらしからぬ酒癖だろう。あの商売もあれでストレスが多いのだろうか。」(東京)

芸能界、ストレス多いって、知らないのでしょうか? いや、芸能界に限らず、どんな分野の仕事でも。
そういう視点を持たずに、よくコラムなんか書いてられる。

ああ、いやだいやだ。

しかし、どうして当日中に釈放されなかったのでしょう。
こういうのは、だいたいは、立派な大人なんだからバカなことはもうやめなさい、ってきつくお説教して、はい、じゃあ、帰りなさい、ってその日のうちに帰されるもんです。
なんかすごく変です。

まあ、出たら出たでまたものすごい騒ぎになるでしょうが、そういうのはさっさと済ませてしまうしかないでしょうね。

私はべつに草彅くんのファンでもなんでもないですが、ストレスアウトしてたかもしれない人間を無神経に論評しちらかす世間はいやなのです。

April 09, 2009

中村中という異化装置

こないだ、じつはちょっと日本に帰って、中村中のステージを2つ見てきました。1つはニッポン放送のオールナイトニッポン・コンサートで、これにはクミコだとか太田裕美だとか、中村中を含め6人が出ていて、なんと新宿厚生年金で4時間もやったんです。

ここでね、中ちゃん、「恋」を歌ったんです。松山千春の。

あれ、どういう歌だか知ってますか?
わたしね、あれ、松山千春が歌うと、ほんと、松山千春の想像する、ほんとに男にとってまっこと都合のよいオンナの歌にしか聞こえない。なんかさあ、もう二度とあんたになんかひっかからないわ、って言ってるのに、その「あんた」はそう言わざるを得ないほどのすごいいい男だった、みたいな響きなのですね。

歌詞は次のようなもんです。

愛することに疲れたみたい 
嫌いになったわけじゃない
部屋の灯はつけてゆくわ 
カギはいつものゲタ箱の中
きっと貴方はいつものことと 
笑い飛ばすにちがいない
だけど今度は本気みたい 
貴方の顔もちらつかないわ
  男はいつも待たせるだけで
  女はいつも待ちくたびれて
  それでもいいとなぐさめていた
  それでも 恋は恋

多分貴方はいつもの店で 
酒を飲んでくだをまいて
洗濯物は机の上に 
短い手紙そえておくわ
今度生まれてくるとしたなら 
やっぱり女で生れてみたい
だけど二度とヘマはしない 
貴方になんかつまづかないわ
  男はいつも待たせるだけで
  女はいつも待ちくたびれて
  それでもいいとなぐさめていた
  それでも 恋は恋

  男はいつも待たせるだけで
  女はいつも待ちくたびれて
  それでもいいとなぐさめていた
  それでも 恋は恋

  それでも 恋は恋

ね?
だいたい、最初から「嫌いになったわけじゃない」ですよ。「貴方の顔もちらつかないわ」って、ほんとにちらつかないなら「貴方の顔」のことなんか言わなくてもいいじゃないですか。それにさ、洗濯までしてるの。それを畳んで机の上にそろえて置いているのよ。で、短い手紙も書いちゃってるわけ。そんで、こうやって別れるけれど、「それでも恋は恋」だったって未練たらたらの甘いことを言っちゃって終わるわけなんですわ。

こんな男にとって都合のいい女、そうはいません。
それも、松山千春が自分でつくって自分で歌って自分でデッチ上げてるわけです。
それって、ヤラセじゃないですか。この「貴方」は松山千春なんですよ。けっきょくは自分を始めとする男たちへの讃歌の女歌なの。ああ、こういうの、長渕剛なんかの歌にも臭うよね。

でも、それを中村中が歌うと、全然違って聞こえるのです。
まあね、私の主観ですが、読み取りがまったく変わっちゃう。

中ちゃんが歌うと、「嫌いになったわけじゃない」は、いま別れていこうとする男を憐れんで、ちょっとだけ救いを与えてやってる、みたいな感じになる。「だからね、絶望したりしないでね」って感じの。

「だけど今度は本気みたい、貴方の顔もちらつかないわ」の「みたい」は、断定を避けてあげる女のやさしさ。でも、「ちらつかないわ」でやっぱり断定しちゃうんです。決意なんです。甘えていない。

机の上の洗濯物も短い手紙も、中村中の歌の中ではこの男に対する最後のやさしさで、じつはその手紙には当たり障りのないことを書いている。だって、そうでもしてやらないとあたふたして泣き出してしまいそうなダメな男なんだもん。でね、そうしてやっぱり決意として「今度生まれてくるとし」ても、「やっぱり女で生まれてみたい」と宣言するのです。「二度とヘマはしない」「貴方になんかつまづかない」という断定的な決別宣言。

そうして結論です。
「男はいつも待たせるだけで、女はいつも待ちくたびれて、それでもいいとなぐさめていた」というこれまでの恋の総括を経て、でも、そんな過去にもめげずにもういちど新しい「恋」に向けて歩き出すのです。だって、「それでも、恋は恋」なんですもの!

ふいーっ! ね? 話が変わるでしょ? って、こういう読みを可能にする歌い方をするんだよ、中村中は。松山千春の歌い方とは全然違うの。すごいよ。つまり原曲の、男による男のための未練の女歌が、中村中によって、女による女のための決意の女歌に異化するの。

中ちゃん、そういう他人の歌の異化アルバムをいつか作ってくれないかな。

で、言いたいことはって言うと、そのオールナイトニッポン・コンサートの翌日に、横浜の関内ホールで「異常気象」っていうタイトルで、新アルバム「あしたは晴れますように」のコンサートを行ったんです。これにも行ってきました。彼女の1人コンサートは初めてでした。で、確信しました。

彼女は変です。

これ、褒め言葉のつもりです。
私の経験から言うと、一流の人って、みんな、変なんです。ぜったい変。生前の白州正子に会ってインタビューしたこともあるんだけど、あの人もじつにチャーミングで変だった。彼女の話しているのを聴いてるだけで面白くて面白くて、ぼくはにこにこしてただいつまでもそこにそうやって佇んでいたくなった。

じつは中村中とも、そうやって彼女の話を聞いていたい気がします。
まだコンサートのMCは上手いとは言えないんだけれど、なんか、言いたいことがものすごくたくさんあるような、でもまだそれをしゃべり言葉としては表現し切れなくてちょっとじれてるような、でも同じことは歌では決められて、そうして1つのコンサートが出来上がっていく。

「異常気象」はそういうコンサートでした。「あしたは晴れますように」と「あしたは荒れますように」という2つのアンビヴァレンツがぶつかり合って、いやいや、不思議。そんな中心に中村中の変さが存在するのです。濃いコンサートだったなあ。

さっき、「異化」と書きました。
彼女を通して世界を映すと、世界は違って見える。

この変さは、しかしまだ未定です。未確定。
中島みゆきって変ですよね。中森明菜も変。松田聖子はちょっと違うけど。
中島みゆきなんかの変さはもう確定済みですけど、中村中の変さは、いまわたしたちが変遷を目撃できる過程にある変さです。これはいずれどこかに落ち着くんでしょうけど、わたしたちはいまのこの過渡的な変さの1つ1つを目撃できる僥倖に恵まれている。これを、見といて損はないだろうなあって思います。しかし、あの歌い出しの前の、息を吸う音の生々しさときたら!

この3枚目のアルバム、そういう意味では、なかなかすごい萌芽を感じます。

あ、日本時間のいまごろは名古屋での同じコンサートか。
明日10日は大阪厚生年金会館芸術ホール。おお、これはアルターボーイズの会場でもあったところだ。

そんで4月26日(日)には東京に戻って東京国際フォーラムで6時に開演。
空いてる人は見といたほうがよいです。

彼女のウェブサイトです。詳細はそっちに書いてるはず。どこかな。
スケジュールのところですね。

http://www.nakamura-ataru.jp/index.html

February 25, 2009

「おくりびと」を見た

オフブロードウェイで上演中のミュージカル「アルターボーイズ」の台本と歌詞を翻訳したのですが、その公演のために日本に滞在中に「おくりびと」のアカデミー賞受賞がありました。アメリカでの公開はまだ先なので滞日中に見てしまおうと、さっそく受賞翌日の大混雑の映画館に出向いて見てきました。

なるほど受賞に相応しい、時に可笑しくも泣かせどころを知っている、じつによくできた映画でした。物語はオーケストラの解散で失職したチェロ奏者が妻とともに故郷に帰り、ひょんなことから求人広告の納棺師の職に間違って応募してしまうことから始まります。くすぐりや遊びも交えた小山薫堂の脚本で主役の本木雅弘はもちろん、山崎努もいい感じです。

日本のテレビや新聞は受賞後数日はその話題で持ち切りで、さまざまに受賞の理由を分析してもいました。納棺師という特殊な仕事を通しての日本人の死生観の描写や家族の再生の物語がアメリカ人審査員の琴線に触れたのは確かでしょう。ところがその前提として、5800人の審査員が同じようなアメリカのTVドラマを知っていたことが、「おくりびと」の印象に見事なコントラストを与えたのではないかと気づきました。

01年から05年にかけてアメリカで5シーズンにわたって人気を博した「シックス・フィート・アンダー」というドラマがありました。有料ケーブル局HBOで放送されていたいたこの番組のタイトルは、米国で棺を土葬する際に土を掘る、地下6フィート(約180cm)の深さのことを意味しています。毎回、冒頭で人が死ぬシーンから始まる1時間もののドラマで、その遺体は主人公の家業である葬儀屋に運び込まれるのです。

さまざまな商品見本の棺も並ぶロサンゼルス郊外のその葬儀屋の名は「フィッシャー&サンズ」(フィッシャーとその息子たち)。そこの家族たちの物語を描いたこのドラマにはヒスパニック系の遺体整復師も登場し、「おくりびと」同様に死者の顔に化粧をしてやったりもします。

つまり、背景となる舞台設定は「おくりびと」とほとんど同じなのです。ところが何が違うかというと、「シックス・フィート・アンダー」はそのフィッシャー家の人びとの浮気や不和や病気や死など、家族の機能不全と崩壊とを描いているのに対し、「おくりびと」は死を通じた家族の再生を描いてあくまでもやさしく温かい。ベクトルが逆なんですね。

この後者を見たときの人心地は、前者の存在を知っているアメリカ人の審査員たちにはすばらしく際立った、別の地平の癒しだったに違いありません。

オスカーの受賞作はいつもその時代の、その年の、雰囲気やら匂いみたいなものを反映しています。機能不全の高度金融資本主義社会、機能不全の地球環境、機能不全の家族。そうした重苦しさからの脱却と再生を謳うオバマ政権の誕生を背景に、アメリカ人はいま、あえて理念と理想を見ようとしているように思えます。「おくりびと」はまさにそこを衝いた。本命だったとされるイスラエル制作のレバノン戦争の映画をかわしたのは、そのせいだったんじゃないのか?

それは、インドのスラム街からの脱出と希望を描いて作品賞や監督賞など8冠に輝いた「スラムドッグ・ミリオネア」や、傑出した実在のゲイの政治家ハーヴィー・ミルクを描いた「ミルク」の主演男優賞と脚本賞の受賞にも如実に現れているように思えるのです。

February 05, 2009

アルターボーイズ

このところすっかりブログを更新せずになってました。
なんというか、多忙というほどでもないんだけれど、わたわたと気ぜわしいというか、気乗りがしないというか、だいたい、これとは別の「脂肪肝」ブログもなんだかねえ、どこのレストランに行っても、なんだかみんな同じだなあって感じが付いて回ってすっかりやる気がそげている状態です。

で、じつはいま東京にいます。
オフブロードウェイの人気ポップミュージカル「アルターボーイズ」というのをわたしが翻訳し、歌詞も当てはめ、すべてを日本語の台本にして、この10日から新宿FACEというところで公演するのです。18公演あります。おかげさまでチケットはだいたいはけてしまいました。

そんでこないだからその稽古場がよいをしているのです。
というのも、全12曲ある歌の歌詞がうまくメロディーにはまっているか、セリフが噛み合っているか、いいづらくはないか、これらはやはり現場で動いている俳優たちを見ながらでないと修正できないので、それをやっているのですね。

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登場人物は5人。カソリックの教会の、神の愛を伝えるボーイバンドが日本にもやってきて、コンサート会場のファンたちの迷える魂を浄化する、という設定です。この5人がそのボーイバンドのメンバーというわけです。

不勉強にしてわたし、この5人の俳優というかダンサーというか歌手というか、知っていたのは田中ロウマくんだけでした。リーダー役のマシューには東山義久くん、マーク役に中河内雅貴くん、ルーク役に田中ロウマくん、フアン(Juan)役に植木豪くん、そしてなぜかユダヤ人のアブラハム役に良知真次くんです。

で、こんなに大量のセリフと歌と踊りがあるのに、この5人の日本の若者たちは通常の演劇の準備期間と同じ1カ月の稽古(主催のニッポン放送がタカをくくってたんでしょう)で本番に臨むという、過酷な試練に現在へろへろながらも意気軒昂です。しかしすごい子たちなんだ、これが。

一昨日、初の通し稽古2回。
2回目は衣装やマイクなどを着けての本番さながらのもの。
2回は体力的にだって相当きつい。
なのにそれからセリフと歌と仕草とダンスのダメ出しで夜は10時にもなる。

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2回目の通しで、アブちゃん役の良知真次くんは最後に涙を流しながらセリフを言い、そのセリフを書いた私を泣かせました。うーん、物書き冥利に尽きる。
良知くんっていったい何者? と思ってグーグルしたら、いろいろホームページとかあるんですね。でも、この子は写真に写っている姿形より実物が100倍いい。オンラインにある写真の彼とはぜんぜん違う。その実物のよさをアピールできたら、彼は今後どんどん人気が出て来るんじゃないだろうかって思います。

マーク役の中河内くんはこれまたじつに面白い役者です。ちょいと訳ありな役どころなんですが、きちんと自分の個性の上にその役を載せようとしている。いまどきの男の子の、その「いまどき」な感じが、ステレオタイプに陥っているNY版のマークよりずっといい。キャラが立ってるっていうのですかね。なにより歌も踊りもすごく頑張っているのが、「いまどき」感とのギャップになってじつに興味深いのです。

フアン役の植木豪くんは、見事としか言いようのない体の動きでステージを支えています。演技はもちろんうまいし。5人の中でいちばん年上だというんですが、ときどき10代の男の子に見えたりする不思議な淡さがあるんですね。きっと性格がいいんだろうな。目が合うとニコッとして、おじさんはそういうのにも感動しています。しかし、あんなすごいダンスで、ケガしないかとわたしは気が気じゃありません。本人はいたって平常心なんですが。

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田中ロウマくんは「レント」に続いての(ほぼ休みなしでの)ミュージカルで、さすがな歌を披露してくれます。というか、ソロの部分はもちろん、バックコーラスが彼の存在によって堅固になっている。ありがたいことです。「レント」の時にも指摘したんだけれど、セリフ回しに彼の素の部分が入ってきて、それはアマチュアリスティックな要素ではあるんだけど、彼の場合はなにかそれがとてもいいんだね。これも植木くんと同じく彼自身の性格の素直さなんだと思う。

東山義久くんはこのボーイズバンドのリーダー役です。じっさい、稽古でもみんなにリーダーと呼ばれていて、現実に歌よし踊りよしのオールマイティなプレイヤー。グループのみんなに代わって演出や制作にいろいろ逆提案したりして、それもこれも彼のこれまでの経験がきちんと血肉となっているからなんでしょう。植木くんとはまたひとあじ違うとてもキレの良い踊りと、このミュージカルで最もセリフが多く最も重要な舞台回しを、しっかりとこなしています。プロだねえ。NY版のマシューより色気もあって、彼が日本版のアルターボーイズ全体の日本らしさを支えています。

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この5人、そしてなにより仲が良い。東山くんはみんなへのダメ出し役も買って出ているが、ほかの4人はそれを真剣に聞いているし、そうじゃないときはみんなでじゃれ合ってて、稽古場の雰囲気がすごくいいですね。

さあ、昨日からはバンドが入っての実際の音合わせに移りました。
こまかい遊びやおかずがこれから付け加えられていく。
本番まで、もうあまり時間がなくて、5人の疲労もピークだろうけど、これはなかなかいいステージになりそうです。


October 02, 2008

和田アキ子@アポロ?

先週末からまた日本に帰っております。

で、和田アキ子、アポロシアターで念願のコンサートってんで、日本の芸能リポーターたちがこぞって同行取材してるんだねえ、すげえなあ、って昨日のワイドショー(ってまだいうの?)見るとはなしに眺めてて思いました。昼のテレビはひとしきりその話題ですもの。で、みんなすごいすごいって賞賛してる。 賞賛? なに、それ?

まあ、芸能生活何周年? ちがうか、還暦記念なんだっけ? ま、どっちでもいいけど、それはがんばったんだねとは言えるかもしれないけれど、アポロシアターでコンサートをやったことがすごいってのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。もう、そういう舶来ものってか、アメリカの本場のなんちゃらかんちゃらってのは、そりゃ、本人は感涙かもしれないが、あんなの、金払えばオレだってコンサート開けるんだよ。カーネギーホールだってそう。べつにコンサートやるのにオーディションあるわけでなし、まあ、書類審査くらいはするが、それだって申請手続きの問題。だいたいはホールが空いてればそれは貸すますわ。貸しホール業なんですからねえ。まあ、私が開いたところでそれは客が来ないってだけの話。

たとえば和田アキ子がね、NYの大R&B,あるいはソウルミュージック大会で、並みいる大御所に混じってゲスト出演とかオーディション受かって参加する、ともなれば話は違うかもしれない。しかし、プロモーターも日本人、バンドも日本人、おまけに観客だってNYの日本人および日系人コミュニティにチケット回して売ってもらったり無料で動員かけたりして、ですもん。私の知り合い、みんなチケットさばくのどうしようって困ってました。

だからこれ、べつにぜんぜん大したことない話でしょ。どうしてそこまでして和田アキ子に媚び売る必要あるのかしら。あるいは単なるネタですか?

日本のテレビ、おかしい。
勉強してないテレビタレントがニュース報道の司会してるし。「一般人の感覚でニュースを」ってのとも違う。
おまけに、うるさい。みんな、声、張り上げ過ぎ。
どうでもいい楽屋ネタでそんなに騒ぐな。
美味そうでもない普通の料理をあんなに美味そうに解説するな。
深刻ぶるだけがドラマの原動力みたいなドラマを作るな。
おじさん、腹が立ってきたぞ。

September 22, 2008

アルター・ボーイズの公演ですよ

今年2サイクル目のヘドウィグに続いて、来年2月にまたわたしの翻訳したオフブロードウェイのミュージカル『アルター・ボーイズ』公演が東京で行われます。

http://www.altarboyz.jp/

アルターボーイズ(altar boys)というのは、キリスト教会の礼拝儀式で司祭を助ける侍者の少年たちのことです。で、ミュージカルの中の物語は、このクリスチャンのアルターボーイたちが5人組ボーイバンド Altar Boyz を結成して、世界巡業で歌と踊りの公演布教活動をしているという設定。その旅公演の先々で、神の教えを説きながら聴衆の魂を救うというわけさ。まあ、だいたい全編ボーイバンドのコンサート仕立てですね。これがロックありポップありバラードありヒップホップありラテンありで楽しい楽しい。

で、これがオフブロードウェイ版のCM。

アメリカではボーイズバンドいまちょっと下火だけど、まあその辺も教会ってことでややズレ気味の流行っていう設定か。でも、韓国ではこの韓国版公演がかなりヒットしてたらしいです。あそこもいまボーイバンド全盛だしね。アメリカでもシカゴやLAなどでツアー大盛況、ヨーロッパにも飛び火して、なんとハンガリーとかでもやってるんだわね。その世界サークルの中にこんどは日本も加わる、というわけです。

さてそして、今度こそ、今回こそ、歌はぜんぶ日本語です(笑)。
私がニューヨークの深夜にひとり、毎夜このiMacのキーボードの前でオルターボーイズのオリジナルCDを聞きながら、メロディーとリズムに合わせて日本語の音韻を1つ1つ振り分け、しかもCDといっしょに自分で日本語で歌ってみもしながら、書いては直し歌っては直しして日本語に当てはめた歌詞です。大労作! はあ〜、疲れた。

いやしかし歌詞は難しいわ。英語と日本語では一音節の情報量がぜんぜん違うんだもん。でもそこはあーた、言語フェチのわたし。ほとんど情報をそっくり入れ込んで、なおかつ日本語にして無理のない歌詞に仕上げた。そのへん、適当なところで諦めて原語の意味をばっさり削ぎ落として“意訳+超訳+捏造”してしまうそこらの輩とはわけが違います。えへん。

で、出演者はこの5人。

やたらと脱いでしなってのはレスリー・キーがまたこの宣伝用の写真を撮ってくれたからです。レスリーはとてもいい。
でもおぢさん、正直いうと田中ロウマくんしか知りません……とほほ。
なんせ、NYに住んでるんで日本の芸能界知らないの。
しかしプロデューサーたちに聞いたところによれば、あまりテレビの露出はないけどステージで活躍してるダイヤモンドドッグスというグループのメインの子だとかもいて、なかなか伸び盛りの面白い才能たちらしい。もうすぐわたしも実際に彼らに会ってみます。若い才能が、またこのミュージカルをきっかけに新しく伸びていってほしいです。

ところで、「神の教えを説きながら聴衆の魂を救う」って紹介しましたが、わたしはこの「神」ってのがダメなのですね。まあ、赦してやってるけど。

そのわたしがなぜにこのような物語を翻訳したか、というと、まあ、これ、表向きはキリスト教を題材にしてるけど、随所にいろいろひねりがあって、わかるでしょ、ちょっと違うのです。不信心者の多いニューヨークでヒットしてるってのも、その証左ではありましょう。たとえば、この5人組の中にユダヤ人が1人いるんだよね。ユダヤ人ってのはキリスト教ではなくてユダヤ教なのだ、本来は。その彼が、歌詞を作る才能を買われてこのバンドにリクルートされてる。それからもう1つ、キリスト教といっても、アメリカはプロテスタントが多いんだが、この5人は少数派であるカトリックのボーイ・バンド。ね、ちゃんとマイノリティ問題が入ってるでしょ? そして、そうなれば言わずもがなですが、もちろん、ゲイのテーストも。すべてのマイノリティ問題がこれにかぶさって表現されるわけ。うふふ。キリスト教にはゲイってのはタブーなんだけど、いまどきのショーはTVも演劇も映画もミュージカルも、すべてこのゲイな感じが入らなければ成立しないのかもしれませんね。

いやしかしこれはキリスト教をおちょくったりしてるわけじゃありません。まじめに取り扱っています。でも、それをちゃんとショーにしてる。現代のエンターテインメントとして取り上げているわけで、やはり裏方はかなり知的なんだろうなって思います。まあ、日本ではその辺の宗教的背景も共有されていないから受け取り方もやや違うだろうけど、そのあたりはわたしの翻訳台本でまたちゃんとわかるようになっていますことよ。

まあ、ご覧あれかし。
公演間近になったらリマインダーとしてまた告知します。

August 24, 2008

マシュー・ミッチャムが金メダル!

北京五輪でゲイだと公言している唯一の男子選手(オープンリーレズビアンは9人いますけどね,男はカムアウトできないんだなあ)、オーストラリアのマシュー・ミッチャム(20)が、10m高飛び込みで、圧倒的な強さを誇る中国勢の一角を崩してなんと見事に金メダルを獲得しました。
現在発売中のバディに彼のこれまでの歩みを書いていますので合わせてご笑読を。

決勝は、ものすごく劇的な展開でした。
18日の3mの飛び込みではマシューは決勝にも残らない16位だったんだけど、23日の10mの決勝には2位で乗り込んでいました。「まあ、ダメ元だと思ってリラックスして、ただこの瞬間を楽しもうと思った。メダルなんて、ぜんぜん考えてなかった」と話しています。

で、決勝の第1回ダイブは平凡なもので7点台、8点台の得点で9位でスタート。先行きが危ぶまれます。
しかし第2回の飛び込みで3回転半のサマーソルトを決めて10点満点を付けたジャッジが4人も。これで一気に2位に浮上したのです。
以後5回まで1位は中国の周がキープ。マシューは2位で0.8ポイント差で追うけれど、このままでは逆転は無理かと思われました。

ところが最終ラウンドで周が痛恨のミス。なんちゅうの、3回転半後ろ宙返り? 難易度3.4のその着水で体が曲がったのね。判定は6,7,8点台とまちまち。

ここでマシューは勝負に出ます。なんと難易度3.8と周を上回る難しい飛び込みを敢えて選び、しかもひねりも空中姿勢も完璧は着水。今度もまた4人から10点満点! これで112.10点を獲得し、周を4ポイントも追い抜いてみごと金を獲得したのです。

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これはゴールドメダルを決めたマシューの飛び込みです=NYタイムズなどから。

水から上がったマシューは得点を見て両手を突き上げて歓喜、しかしすぐに膝から落ちて泣き始めました。そうだわねえ、鬱病にもなったつらい練習からの復活だもの。恋人のラクランもマシューのお母さんといっしょにもちろんこの会場で彼を見つめていました。

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今大会、中国は飛び込みで8つの金メダルを独占するつもりでいました。その夢が20歳のオープンリーゲイの男の子に破られた。

飛び込み選手の選手生命のピークはふつう20歳代半ばです。つまり、マシューは次のロンドンでも連覇を狙う、いやその次の16年の五輪でも登場してくるでしょう。

なんだか、関係ないけど、うれしい。
ダイビングの金は過去に20年前のソウル五輪で連覇のグレッグ・ルゲイナスがいるけれど、彼は金を取ってからのカムアウトでした。それに比べると、時代も世代も遅々としながらも確実に変わっています。うーん。感慨深いなあ。

August 13, 2008

うるわしき毒

スポーツというのはじつはジャーナリズムの中で最も記述の難しい分野ではないかと思っています。中立が旨である報道の中で、スポーツ記事だけがそのカセをはらってなんとも身びいきだったりします。したがって、NBCの五輪中継を見ていてもあんまり面白くないということになります。日本がさっぱり出てこないしね。主役ではないのですから。

しょせん私たちは自分の知りたい情報しか知りたくないのかもしれません。たとえば北京五輪の射撃の表彰台で、銀と銅を獲得したロシアとグルジアの女子選手が頬にキスし合って抱き合ったというニュースが朝日のウェブサイトで紹介されました。

ご存じのようにロシアとグルジアは南オセチア自治州の統治をめぐって戦闘状態に突入したばかりでした。そして朝日のサイトは2人仲好く並ぶ写真に「スポーツは政治を越える」というロシア選手のコメントを引用し、見出しも「表彰台に友情の花」と紹介していたのでした。

スポーツは政治を越え「ない」ことはだれもが知っています。それどころかスポーツはつねに政治に利用される。中国での五輪の開催はまさしく、世界の先進国社会に正式に仲間入りしたい中国の政治的思惑と、中国も五輪の体面上、国際的に反発を買うような外交決断や人権侵害は避けるようになるだろうといった西側の政治的思惑の交差したところに成立したものです。

にもかかわらず「スポーツは政治を越える」と言うのは、私たちがつかの間のそんな幻想を信じたいと思っているからでしょう。シビアな現実世界の、それは一服の清涼剤めいて、私にはそれを責める気はありません。私も新聞記者1年生のときは「読者が感動できる物語を探して書くんだ」と先輩記者に叩き込まれた口です。

かくしてオリンピック報道は往々にして選手やその周囲の美談と感動の根性物語になります。

そんなことをつらつら考えていると、今度は五輪開会式でソロを歌った「天使の歌声」の女の子がじつは口パクで、舞台裏ではその子よりも見た目のそうよくはない、しかし歌はうまい別の女の子が歌っていたのだというニュースがありました。なるほど、世界が見たいだろうと思うものを見せる、それはスポーツ報道に限らない。新聞なら美談で、テレビなら画面上の美しさ。それがなんで悪いんだ、というところでしょうか。で、同じくあの開会式の花火のCGです。ふむ、徹底していますな。

しかし日本だってエラそうなことはいえません。ヤラセと演出の違いに敏感なのは、とりもなおさずヤラセでも視聴率が取れるという現実が厳然として存在するからです。中にはヤラセとわかっていてわざとそれを楽しむなんていう高度な視聴技術さえ新しい世代には育ってもいる。

視聴者も読者も、そうやって美談という名の毒消しを求める社会は幸せな社会なのでしょうか。そしてあるとき、美談そのものが現実を直視しないうるわしい毒になって蔓延している。

新聞記者時代、もう1つ大先輩から教わったことがあります。「ときには読みたくないことも書かねばならない。その社会にとって都合の悪いことも書かねばならない。あるときは害であることですら書かねばならない。なぜかわかるか? なぜなら、それが事実だからだ」

中立とか中道とか、そういうバランス感覚の問題ではなく、あるいは社会の木鐸なんぞといった大仰な構えからでもなく、それが単に「事実だから」というだけの単純明快な基準に、若かった私はまさに目からウロコが落ちた思いでした。

五輪のドラマが続いています。NBCやNYタイムズから知る数少ない日本人選手の活躍ぶりは、あんまり面白くないし物足りなくもあるけれど、逆に熱狂的にあおられる感じもなくて、スポーツ観戦のなんだか不思議に新しい経験です。

July 23, 2008

逝く者、去る者、生きる者

ちょっと前の話になるんですがね、ある年の感謝祭に友人にサウスカロライナの実家まで招待されたことがあります。七面鳥も食べて、さて翌日は私からのお礼ということで、友人のご家族をどこかにお連れしたいと申し出ました。「せっかくですからジャパニーズレストランは?」と提案すると「ああ、あります、あります」と言われて案内されたところが「鉄板焼き」でした。

なるほど、いまでこそ「スシ、サシミ」は有名ですが、いまでもきっと南部や中西部、いやいやニューヨークから少しでも出たら「ジャパニーズ・レストラン」とは「ヒバチ・ステーキ」屋さんのことなのでしょう(こちらではあの鉄板焼きをなぜかヒバチ(火鉢)ステーキって呼ぶんです。火鉢焼きはまた別にちゃんと火鉢のがあるんですがね、謎です)。友人の甥っ子の小学生は、ナイフやスパチュラをくるくる回しながら野菜やエビの頭を宙に飛ばすニホン人ふう料理人に大喜びでした。

15年もニューヨークに住んでいるのですが、じつは私はベニハナに行ったことがありません。ロッキー青木には1、2度会いしましたが、ろくに話もしませんでした。いつかそういう機会も来るだろうとのんびり構えて、敢えてその時を作ろうとは思っていなかった。そうして先日の訃報を目にしたのです。


そんなときに野茂の引退表明も行われました。
彼がこちらに渡ってきたのは13年前の95年でした。その前年から野茂の大リーグ挑戦はメディアで取り上げられていたのですが、それは好意的なものだけではけっしてありませんでした。「世話になった近鉄を捨てて、他の迷惑も考えずに米国に行く自分勝手な恩知らず」、たしかそんな論調でした。それはむろん、そう感じる者が少なからずいたという当時の日本社会の反映でもあったのです。いまでは信じられませんが、石もて野茂を追ったと同じニホン人たちが大リーグでの活躍で掌を返して彼を絶賛したのです。

野茂は批判にもなにも反論しませんでしたが、しかしあの彼の寡黙のどこに、単身アメリカに渡って野球をしなければならないという切実さが秘められていたのでしょう。インタビューでもする機会があったら聞こうと思っていたのですが、当時、その1年後に例の伊良部がヤンキーズに入ってきて、NY駐在の私としてはそっちを取材する機会はあったものの、野茂にはけっきょくいまも会ったことのないままです。

そんなことを思い出しながら、ロッキー青木のことをまた考えました。彼が留学生として渡米したのは48年前、1960年。NYのベニハナ・オブ・トーキョーの開業は1964年だそうです。

私がベニハナに行ったことがないのは、じつはどこかであれはニホンじゃないと恥ずかしく思っていたからです。いま私たちはそういうレストランを「なんちゃってジャパニーズ」って言ってバカにしています。味がどうのこうのというより以前に、まず、コンセプトから鼻で嗤っている。それはでも、ふと思うに、野茂を「ああいうはみだし者はニホン人じゃない」と非難した“世間”と本質的に同じじゃないか?

ロッキー青木が「ニホン」を伝えるためにどんなに必死にアイディアを振り絞ったか、私はその苦労すら顧みようと思ったことがありませんでした。そりゃ大変だったろうに。

そしていまロッキー青木も野茂英雄も、彼らの渡米は、ひょっとすると職業的な野心とか野望とかいうのとはちょっと別の、もっと個人的な、やむにやまれぬ自己実現のなんらかの手段だったのではないかと思い至るのです。

先週末、東京から出張でやってきたTV局の友人と会食しました。NYでとあるイベントを行うその下準備でさまざまな関係者に会いに来たそうですが、その彼が言うには「NYの日本人はみんな濃いですね。日本では周囲の評価がその人を決めるみたいなところがありますが、NYではみんな自分で自分の評価を決めているみたいな」

なるほどそうかもしれないなあ。
自ら選んでこっちで生きている人間はみんなどこかで見果てぬ自己実現を目指し、つまりはみんななんかヘンなやつなのかもしれません。最近の駐在で日本から派遣された会社員たちは違いますが、60年代、70年代にこっちに渡ってきたようなひとたちはそりゃもうひどく濃い。

変なやつって、英語ではweirdoって言います。
もっとはっきり言えば Queer ってことですわね。ふふ。

April 16, 2008

国おこし、都市おこし、個人おこし

40日間も日本に行っていました。日本にいると、日本語に守られてるせいでしょうね、国際的な時事ニュースをぜんぜん自分に引き付けて考えられなくなります。なんかまったりしてみ〜んな他人事っぽくなる。で、ここにもなにも書かない、という結果に。てか、たんにだらんとしてただけなんでしょうけどね。

さてさて、帰ってきたとたんサンフランシスコでの聖火の混乱です。中国当局もよく続けるなあと思うのですが、開会式のボイコット気運も高まる中、この問題はどう考えればよいのでしょう。スポーツと政治、五輪と政治の問題ですわ。

私も若かったころは「スポーツと政治は別だ」などと憤慨していましたが、でもずっと以前から五輪と政治はじつは同じものだったんですよね。というか、五輪はその国際的な注目度から、世界に向けて政治的メッセージを送る絶好の檜舞台でありつづけているのです。

ベルリン大会は国威発揚というナチスの政治的思惑の場だったですし、メキシコでは黒人差別に抗議する米国選手2人が表彰台で黒手袋の拳を突き上げました。続くミュンヘンではパレスチナゲリラのイスラエル選手襲撃が行われ、76年のモントリオールでは南アフリカの人種差別問題でアフリカ諸国の大量ボイコットが起こった。80年のモスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側のボイコット、続くロサンゼルスはその報復的な東側の逆ボイコットと、五輪はまさに常に政治とともにありました。

だいたい中国自体も五輪と政治を結びつけて国際社会にいろいろとメッセージを発してきたんですよ。56年のメルボルンから、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワと、なんと7大会連続で五輪ボイコットです。モスクワ大会を除いて6回はぜんぶ台湾の国際認知問題が背景でした。

そもそもどうして五輪を招致するのか? それは五輪という由緒ある国際大会を主催することで国際社会の責任の一端を担う、一丁前の国家として認められたいという思いが基になっています。同時に、関連施設の建設によって国内の景気浮揚を図りたいというハコモノ行政的な意図もあります。つまり五輪は村おこしならぬ「国おこし」のネタだったのですわね。つまり。ズバリ政治そのもののイベントなわけで。

これは64年の東京五輪もそうでした。あのとき東京は高度成長のまっただ中で、日本は戦後復興の総仕上げをして国際社会への復帰を果たそうと五輪を招致したのです。そこではスポーツはたんなるダシでした。もちろん、日本の復権はスポーツ選手個人の頑張りに投影されてじつに感動的だったのですが、ほんとうの主眼はスポーツ選手個人の威信ではなく、国家としての威信にあったのです。それはまさに政治的思惑でした。

すでに五輪が2周目以降に入っている先進国では、長野やアトランタがそうだったように五輪は国おこしを経ていまはホントに開催都市の村おこしイベントです。一方、周回遅れの中国にとっては(今後のアフリカ、中東諸国なども含め)五輪は遅れてきた第二次「国おこし」運動の原動力なのです。今回の北京五輪も、中国政府のそんな思惑と欧米諸国の、五輪開催を機に中国の人権・民主化改善を促そうという思惑が合致して決まったものですからね。

そんな政治の舞台なのですからチベットが登場してもだれも文句なんか言えない。中国が「スポーツと政治は別だ」だなんて、どの口で言えるのか、です。

そう、「スポーツの祭典だから政治はタブーだ」と言うからややこしくなるのです。どうせならもうこれは政治だと開き直って五輪を機にどんどん主張をぶつけ合えばいいんですわ。それで大会がつぶれるようならつぶれちゃえ。そうなったらでも中国だって面目丸つぶれ、欧米だって思惑外れ、チベットは墓穴を掘る。そういうところにしか反作用としての収拾努力のベクトルは生まれないんじゃないの? じっさいの政治としてはいささかドラスティックにすぎるけどね、ま、思考実験としてはだからこそいまと違った落としどころが見つかるかもしれない。まあ難しいでしょうけどねえ(他人事っぽいなあ)。

ところで再びの東京五輪招致が進んでいます。これはすでに国おこしでもなく都市おこしとしても新味に乏しいやね。何のためにやるんでしょう。私には、自己顕示欲が脂汗になってるあの都知事の「自分おこし」のために見えるんですわ。彼個人の人生最後のステージにとっては格好の大イベントですもん。しっかし、そんな個人行事に付き合うのはまっぴら。

だいたい、新銀行東京にしても、解決にはもう何年もかかるけど、やつの物理的寿命はその前に終わるでしょう。未来のないやつ、つまりあの都知事に、「責任を取る」という考え自体が通用しないんです。死を前にしたら、無敵だなあ。だから政治家は若くなきゃダメなの。あと30年生きてると思ったら、ヘタなことできないもんねえ。

February 25, 2008

オスカー、レッドリボン、同性カップル

つらつらと横でアカデミー賞授賞式をつけながら原稿書きをしていると、時折映る会場の列席者の襟元にちらほらとレッドリボンがつけられているのに気づきます。日本ではなんだかすっかり流行り廃りのなかで忘れ去られてしまっている感のあるこの赤いリボンはもちろんエイズ禍へのコミットメントを示すもので、そりゃたしかに歳末の助け合い共同募金の赤い羽根のように政治家が襟元につけて国会のTV中継で映るようにする、みたいな善意のアリバイみたいなところもあるけれど、しかしハリウッドが被ったエイズ犠牲者の多さを考えればきっと、これらの人びとにとってはけっしてアリバイ作りのための仕草ではないのだろうなと思い至るのです。

思えばアカデミー賞の授賞式はこれまでも戦争や宗教や社会問題へのハリウッドの若い世代からのメッセージの場でもありつづけてきました。たしかにみんな大した俳優や制作者ではあるんだけど、よく見れば20代とか30代とかも多くて、そんな人びとの若い正義感のほとばしりが現れてもなんら不思議ではない。で、レッドリボンをつけている人たちは80-90年代は若かったけれど、いまは決してそう若くはないなあってことにも気づくのです。

エイズが死病ではないという謂いは、1995年のカクテル療法の成功から生まれてきました。当初はそれはやっとの思いの祝辞として、あるいはエイズ差別への対抗言説として宣言されたものだったのですが、人間というものはなかなか深刻だらけでは生きられないもんで、いつしか「死病ではない」が「恐れるに足らず」と翻訳され、「べつに大したことのないこと」となって、まあ、安心して生きたいのでしょう。いま、日本ではエイズ教育はどうなっているのかなあ。政府による啓発広報はなんだかいつもダサくておざなりで、いまも続いているのだろうか。ゲイコミュニティの中では善意の若者たちがいまも懸命にいろいろな形の啓発活動を模索しているけれど、その間にも日本のHIV感染者は特に若い世代で静かに確実に増えています。だって、社会全体が騒いでいないんだもの、ゲイコミュニティだけで笛を吹いたって気分はあまり踊らない。

学校で、エイズ教育してるのかなあ。あるいは性感染症に関することも。
ずっとエイズ啓発は教育現場で地道に続けることこそがゆいいつの方法論だって言い続けているのですが、でもね、そういうものはとりもなおさず性教育のことであり、セックスのことって、よほど信頼しているひとからじゃないと真面目に聞く耳なんか持てないもんなのです。だれが尊敬もしていない先生からセックスの話題なんて聞きたいもんか。だから大変なんですよね、性教育って。それを教える人間の、人間性の全体重が測られるから。

まあ、そんなアメリカだってエラいことは言えません。こっちだって若年層のHIV感染者は増加傾向にあるんですから。

今年のオスカーは、じつは候補作で私の見たのは「ラタトゥーユ(レミーの美味しいレストラン)」と「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(クリックしたら感想ブログに飛びますよん)くらいで、あまり関心がなかったのですが、両作とも健闘して受賞してましたから(特にマリオン・コティヤールの主演女優賞はアメリカの人びとには驚きだったようです)なかなか効率の良い見方でしたね。

ところで短編ドキュメンタリーで受賞した作品「Freeheld」は不覚にも知りませんでした。ダメだなあ。

ローレル・ヘスターはニュージャージー州で25年間、警官を務めて警部補になった女性です。映画制作(2006年)の6年前からパートナーを得てともに家庭を築いてきました。パートナーはステイシー・アンドリーという女性です。ところがローレルはそこで肺がんと診断されます。ローレルの願いは、自分の死後もステイシーが自分の遺族向けの死亡見舞金を得られるようにということでした。計13,000ドル(140万円)ほどの金額はけっして以後の生活に十分な金額というものではありませんが、少なくとも2人の思い出の家を維持してゆくだけの助けにはなる。ところが、居住地のオーシャン郡の代議員会はその死亡見舞金の受給資格を否定するのです。余命6カ月のローレルとステイシーは、もはやレズビアンであることを隠すことなく公の場で戦いに出る道を選びます。

こんなに愛し合っている2人を、否定する、否定できる人間がいるということは知っています。だからこそ、この38分のドキュメンタリーは作られたのでしょう。私たちには、それを見て受け止める作業が差し出されているのです。

この訴訟が1つのきっかけとなり、ニュージャージー州では6つの郡が法律を変えて同性パートナーにも年金受給資格を与えるようになりました。そしてローレルの死後9カ月後に、ニュージャージー州は州としてシヴィルユニオン法を可決したのです。

監督のシンシア・ウエイドの受賞スピーチです。

彼女自身はヘテロセクシュアルの既婚女性です。でも、スピーチでは「結婚している女性としての私は直面することのない差別に、この国の同性カップルが直面している」として、この映画をローレル・ヘスターの生前の遺言だと紹介しています。会場にはもちろんステイシーもやってきていたんですね。

今回のオスカーでも受賞コメントでのさりげないカムアウトがいくつかありました。ビデオを撮ってなかったので正確に確認できないのだけれど、作品賞も取った「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」のプロデューサーは、ステージ上で感謝する相手として最後に自分のパートナーとして「ジョン・なんとか」って名前を出し「ハニー」と呼びかけたのだけれど、「ジョン」だったのか「ジョーン」だったのか。なにせながら族でしたのでちょっといまは確認できず。
(確認しました。そのプロデューサーはスコット・ルーディンScott Rudinで、たしかにパートナーのジョンに向けて最後の最後にどさくさ紛れで「ハニー」って叫んでました。うふふ、よかったねスコットちゃん)

司会のジョン・スチュワートはゲイジョークとして楽屋裏で受賞した喜びでオスカー像同士をキスさせようとしている受賞者同士の会話を紹介してました。「でも、オスカーって男性よ」と1人。「そうね、でも、ここはハリウッドだから」と相手が言っていた、というもんです。ま、ネタでしょうけどね。

そうやって今年のオスカーも終わりました。地味目でしたね。
恒例の鬼籍に入った映画関係者の映像の最後に、ヒース・レッジャーが映りました。
なんだか胸が詰まりました。
でも例年になく、一人一人の映像が短かったような気がします。
で、ブラッド・レンフロがこの追悼映像リストになかったのは、どうしてでしょうね。忘れられちゃったんだろうかなあ。

January 23, 2008

追悼 ヒース・レッジャー

昨晩午後5時過ぎにexからメールが来てヒース・レッジャーの死を知った。死亡確認が3時30分ごろだからほとんど速報。

そして一夜が明けた。

俳優に個人的に思い入れはないが、さすがにアパートから黒いバッグで遺体が運び出されるところを目にしたら、いっしゅん息をのんだ。

28歳か。
こちらの男は28でずいぶんと大人に振る舞うが、しかしそれは建前。28歳は28歳なのだろうと思う。バカもして、寂しくて、甘えたくて、でももう大人でなくてはならず。そういうプレッシャーはアメリカ社会ではかなり大きい。

ニューヨークタイムズが長文の追悼記事を掲載している。なかなかよく書けている。訃報にはヘタなことは書かないが、文面から、このヒースクリフ・アンドルー・レッジャー(Heathcliff Andrew Ledger)はなかなかの好青年だったことがうかがえる。

Heath Ledger, Actor, Is Found Dead at 28

最後にこうある。

In a recent interview with WJW-TV, a Fox affiliate in Cleveland, about “I’m Not There,” in which he was one of several actors playing the music legend Bob Dylan, Mr. Ledger struck a philosophical note. He responded to a question about how having a child had changed his life:

“You’re forced into, kind of, respecting yourself more,” he said. “You learn more about yourself through your child, I guess. I think you also look at death differently. It’s like a Catch-22: I feel good about dying now because I feel like I’m alive in her, you know, but at the same hand, you don’t want to die because you want to be around for the rest of her life.”

数人の俳優がボブ・ディランの分身を演じた新作「I’m Not There」に関する最近のTVインタビューで、ミスタ・レッジャーは哲学的なコメントを残している。子供ができてどう人生が変わったかという質問に、彼はこう答えた。

「なんていうか、自分をもっと大切にしなくちゃと思わせられる。自分の子供を通してもっと自分のことがわかってくるんだ。死ぬことに関しても違ったように見えてくる。キャッチ22のジレンマみたいな話だけど、死んでもだいじょうぶという気にもなる。娘の中で自分がずっと生きていくような感じがするから。でも同時に、死にたくないとも思う。彼女のこれからの人生でもずっといっしょにいたいという気になるから」

私の友人の1人は、ジャックも死んで、そしていまエニスが死んだ、と書いた。
なるほど、そういう感じもあるか。

合掌。

October 30, 2007

時野谷浩というアホ

ひさしぶりにとんでもないタワケを見つけました。

時野谷浩.jpg

こいつは何者なのでしょう?
しかし、こんな記事を載せるゲンダイネット(って日刊ゲンダイ?)ってどういうタブロイド紙に成り下がったのかしら?

まずは以下をゲンダイネットから引用しましょう。

**
おネエキャラ“全員集合”はメシ時に放送する番組か
2007年10月29日10時00分

 23日に注目の「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」(日本テレビ、火曜夜7時〜)がスタートした。昨年10月から土曜日の夕方に放送され、今月からゴールデンタイムに格上げされた全国ネットのバラエティーだ。

 番組の内容はタイトル通りで、“おネエ”言葉を話すおかまキャラの出演者が大騒ぎするというもの。レギュラーはIKKO(美容)、假屋崎省吾(華道)、植松晃士(ファッション)ら9人。

 23日の放送で特に目立っていたのはIKKOで、胸がはだけた黒いドレスを着て、ハイテンションで「どんだけ〜」を連発していた。視聴率は11.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これを世帯数にすると関東だけで200万世帯近くが見た計算になる。

 東海大教授の時野谷浩氏(メディア効果理論)がこう言う。
「私は番組の冒頭を見て、夕食時に見る番組としてふさわしくないと判断したので、チャンネルを変えました。アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させないし、もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします。日本のテレビ局にもそういった配慮が必要だと思います。特にゴールデンタイムは子供もテレビを見るし、夕食をとる人が多い時間帯だからなおさらです」

 メシがまずくなる。それが問題というわけだ。

***

>アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させない

どこのアメリカなのでしょう?
すくなくとも私の住んでいるアメリカではホモセクシュアルの男性はかなりの番組で、ネタかとも思えるほどに出ているんですが……。

と思いながら再読すると(再読なんかに値するようなテキストではないのですが)

>もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします

あ〜、わかった、こいつ、ドラァグクイーンのことを「ホモセクシュアルの男性」だといってるんだ!
ひえー。いまどき珍しい、すげえアナクロ。
ドラァグクイーンというのはトランスヴェスタイトの商売版みたいなもんで、いわゆる女装しているプロたちですね。こういう基礎的なことも誤解しているようなひとを、東海大学はよう雇い入れてますな。

この時野谷、じつは先日も産経にこんなコメントを寄せていました。
記事はゲンダイネットのそれとじつは同じネタです。ふーむ。おもしろいねえ。

***
性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?
2007.10.7 21:50

 性差を超えたエンターテインメントが世界的なブームだ。日本では中性的な男性タレントが大挙して出演するテレビ番組や、女性歌手のヒット曲を男性歌手がカバーした企画盤が人気を獲得。米ハリウッドでは男優が太った中年女性、女優が男性ロック歌手を演じ話題だが、「テレビ文化がけじめなき社会を作り上げた証明」と批判する専門家もいる。(岡田敏一)

 流行語「どんだけ〜」の生みの親で知られる美容界のカリスマ、IKKOさんや、華道家、假屋崎省吾さんら大勢の中性的な男性タレントが、最新ファッションや美容、グルメ情報などを紹介する日本テレビ系のバラエティ番組「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」。

 昨年10月から毎週土曜日の午後5時半から約30分間放映しているが、「普通、女性ファッション誌によるテレビ番組の取材は皆無なのに、この番組には取材が殺到しました」と日本テレビ。

 夕方の放送にも関わらず若い女性の支持を獲得し、今月末から放送日時が毎週火曜の午後7時から約1時間と、ゴールデンタイムに格上げ、全国ネットに登場する。

 音楽の世界では、ベテラン男性歌手、徳永英明さんが、小林明子さんの「恋におちて」や、松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」といった有名女性歌手のヒット曲をカバーした「VOCALIST(ボーカリスト)」のシリーズが人気だ。

 男性歌手が女性歌手の楽曲に真正面から挑むという業界初の試みだが、平成17年9月の第1弾以来、毎年ほぼ同時期に発売。今回の第3弾(8月発売)までの売り上げ累計は計約150万枚。

 発売元であるユニバーサルミュージックの邦楽部門のひとつ、ユニバーサルシグマでは「主要購買層は20代から30代の女性ですが、予想以上の売り上げ」と説明する。

 ハリウッドでは「サタデー・ナイト・フィーバー」などでおなじみのスター、ジョン・トラボルタが、人気ミュージカルの映画化「ヘアスプレー」(日本公開20日)で特殊メイクで太った中年女性を熱演。

 また、ヒース・レジャーやリチャード・ギアら6人の俳優が米ロック歌手ボブ・ディランを演じ分けるディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(米公開11月)では、オスカー女優ケイト・ブランシェットが男装し、エレキギターを抱えて1960年代中期のディランを演じる。

 こうしたブームについて、松浦亜弥さんのものまねなどで人気のタレント、前田健さんは「歌舞伎や宝塚歌劇のように日本では男が女を演じる文化があるが、最近のブームは女性受けを狙ったもの。今の芸能界では女性の人気を獲得しなければスターになれないですから」と分析する。

 一方、メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

****

もう、いかがなもんでしょうと問うのもバカ臭くなるような情けない作文です。

岡田というこの記者はたしかロサンゼルスでオスカーを取材したりしていた芸能記者だったはずです。ブロークバック・マウンテンとクラッシュのときのオスカーの授賞式(2005年?)ではもちょっとまともなことを書いていたように記憶していますが、なんでまたこんな雑な記事を書くようになってしまったんでしょう。いずれにしても東京に帰ったんですね。

だいたい、日本では徳永以前から演歌界では女歌を男が歌うというジェンダーベンディングの伝統があって、それはまあ、歌舞伎から続く男社会の伝統とも関係するのですが、そういうのをぜんぶホッカムリしてこういう作文を書く。大学生の論文だってこれでは不可だ。

いやいや、時野谷なるキョージュの話でした。

>テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。

口から出任せ?
こいつ、ほんとに博士号を持ってるんでしょうか?
恥ずかしいとかいう以前の話。
反論の気すら殺がれるようなアホ。
どういう歴史認識なのでしょうねえ。

テレビの登場以前は、云々、と書き連ねるのも野暮です。ってか、なんで小学生に教えてやるようなことをここで書かねばならないのか、ま、いいわね、どうでも。

しかし、いま私がここで問題にしたいのは、じつはこの時野谷なる人物が、同じ論調の、同じネタで同じように登場してきたというその奇妙さです。もちろん同じネタとコメンテーターのたらい回しという安いメディアの経済学というのは存在します。でも、あまりにも露骨に同じでしょう、上記の2つは?

同じ論調、同じバカ、ってことで思い出したのは、あの、都城や八女市での男女共同参画ジェンダーフリーバッシングのことです。これ、似てませんか? 後ろに統一教会、勝共連合でもいるんでしょうかね。時野谷ってのも、その子飼いですかな。しかし、それにしてもタマが悪いやね。

<参考>
安倍晋三と都城がどう関係するか

October 11, 2007

出たか、妖怪!

毎日新聞.jpから抜粋
つまり、レゲエ音楽の流れるCMにIKKOというオネエ(TG? TV?)キャラが出てるのがとんでもないって、レゲエファンがマツリをしたって話ですわ。
西村綾乃記者、よくこのネタを見つけたね。面白い。(ちょっと文章が回りくどくてわかりづらいけど)

MINMI:楽曲提供CMにIKKO出演でバッシング ブログで反論

MINMIさん
 人気レゲエグループ「湘南乃風」の若旦那さん(31)との子供を妊娠中で、12月に出産を控えているソカシンガーのMINMIさん(32)が楽曲提供した化粧品のCMに、美容研究家のIKKOさん(45)が出演していることが、一部のレゲエファンの間で異論を呼び、MINMIさんの公式ブログの使用が一部制限される騒ぎになっている。

 CMは、8月から放送された美禅の「トリートメント・リップ・グロッシー」で、7月に発表したシングル「シャナナ☆」に収録した「MY SONG」が起用されている。だが、MINMIさんが歌う「ソカ」という音楽のルーツとなるレゲエ音楽では、同性愛を認めないというルールがあると解釈している人もおり、ソカシンガーとして世界からも注目されているMINMIさんの楽曲が使用されたCMに、“おねえキャラ”として人気を集めているIKKOさんが出演していることに対し反発した人たちが、MINMIさんのブログに中傷の書き込みを続けたという。そのため、ブログの書き込み機能を制限している。

 MINMIさんは、3日のブログで「CMを創ってる“美禅さん”が曲を気に入ってくれてmy song を使ってくれた。ギャラも発生してないし、出演者のキャスティング、内容とかは、もちろん向こうの制作の方やスタッフが決めて、私の仕事のはんちゅう じゃない」と再反論。続けて「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」とつづっている。

 MINMIさんは、02年8月、50万枚を売り上げたシングル「The Perfect Vision」でデビュー。ソカアーティストとして楽曲制作・提供のほか、イベントプロデュースなど幅広く活動している。【西村綾乃】

ソカはたしかに、ってかジャマイカそのものが土着宗教的にアンチゲイだし、元をただせばアフリカ諸国がそうだからしょうがない(ってわけじゃねえが)。つまりアンチゲイだから唄もそうなるってことです。
それを、日本のこのホモフォウブたちゃ唄とかミュジシャンがそうだからアンチゲイになるって、そりゃあまりに安易に主客転倒じゃねえの、ったく。頭使って考えろよなあ。それ、モジャモジャにするためにくっついてんじゃないんだってえの。

先日、産經新聞にもおバカなジェンダー境界曖昧バッシング作文記事が載ってたようだけど、ほんと、どーしてくれよう。

それにしてもこのMINMIさんとやらのコメントも、前半は及び腰ながら(ってかそれが事実だってことでしょうが)後半は意味やや日本語になってないがなかなか立派。

「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」
=翻訳=
「あんたら、そんなくだらんこと言ってるひまあったら、もっと戦うべき相手や訴えるべき事がこの日本社会の中にはたくさんあるでしょ。それを考えれや、なあ。IKKOがどうだとかは知らんけど、自分に正直でいるってすごい勇気だし、そういうタフさとリアルさとがわたしにとってレゲエから学んだもんだい。そのスピリッツを、あんたらがこのブログサイトを祭ったくらいで、あたしゃぜったいに手放したりはしないよ、あほ!」ってことですわね。

応援コメントは次の彼女のブログ・サイトからどんぞ。
http://blog.excite.co.jp/minmiblog/
って書いてから、上記ブログ、コメント制限してる事に気づきました。失礼。
どうにか、でも、彼女に応援コメントを伝えたいね。

それと、その化粧品メーカーのサイトはどうなんでしょ。
こりゃきっと、そのファッショ・ラスタファ連中がアンチゲイメールを殺到させてるかもしれない。
そうなったら、マジ、これはバカのたわ言じゃなくなるわ。

September 13, 2007

北の湖という男

朝青龍のときに書こうかどうかと迷っていてけっきょく書かずじまいだったのは、北の湖というのが私の中学時代からの親友の親戚だったということもあるんですけど、今回はやっぱり書かねばと思います。

この話です。nikkansports.comからの転載です。

「評論家」改め「会友」で杉山氏に取材証
(日刊スポーツ - 09月13日 10:04)

 日本相撲協会の北の湖理事長(54=元横綱)が、元NHKアナウンサーの杉山邦博氏(76)の「取材証」を10日に没収した問題で、同理事長は12日、杉山氏への措置を撤回して取材証を本人に返還した。

 両者はこの日午後1時30分から両国国技館内の理事室で約10分、話し合った。北の湖理事長は、前日11日に東京相撲記者クラブの抗議文への回答で示した没収理由の1つ「本場所で取材証を持って取材できるクラブの会友であるのに、相撲評論家などの肩書でテレビに出ていた」をあらためて主張。杉山氏が「その点は配慮を欠いた。これからは会友として出演する。今後も相撲協会の応援団の一員です」と返すと、あっさり取材証を返還した。

 一方で、もう1つの理由「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという。その上で、東京相撲記者クラブには「協会への批判等は真摯(しんし)に受け止める」などと回答した。また、杉山氏に対して10日に十分な説明もなく取材証を没収した行為への抗議については「今後、取材者に返還要求をする際は、事前に東京相撲記者クラブに相談する」と約束した。【柳田通斉】

この北の湖という男に関しては、実は個人的な思い出があります。
2000年のことでしたか、じつはこれも友人のドキュメンタリー映画作家が日米関係における「相撲」の文化的考察を撮りたいというので、私に日本でのロケの手伝いを頼んできたことがありました。それでぜんぜん畑の違う話ではあったけれど、私が相撲協会から学識者から相撲部屋からいろいろと取材と撮影のアポを取って日本各地で数週間にわたるロケを敢行したわけです。

北の湖は当時まだ、理事長ではなく、本場所でも順番持ち回りで花道の警備みたいなことをしていました。そこに私たちがカメラを抱えて土俵を撮影する構えに入っていたのです。そのとき、近くにいた北の湖があの大きな体で無言でカメラの前に背を向けて立ちはだかったのでした。通訳もしていたのでそういうところにも立ち会っていた私はいっしゅん、こいつが何をしようとしているのかわかりませんでした。もちろん撮影は相撲協会の許可を取って、花道の撮影場所まで届けてあります。その日だって別に初めての日ではなく、北の湖だってそれまでも何度も本場所を写している私たちの姿を見ていたはず。で、その日はたまたま自分の近くに私たちがやってきたというわけでした。

北の湖は、その背で、わざとカメラを邪魔していたのです。アメリカ人のカメラマン(女性)も相手が何をやっているのか理解できず、邪魔だというのも日本式には礼を失するかもしれないと変に心配して(とあとから言っていました)右にずれてカメラを構えます。すると北の湖も右にずれてきます。左にずれる、すると北の湖も左に一歩。困っている彼女の顔が見えます。

私はとうとうたまらずに「北の湖さん、撮影してるんですが、よろしいですか?」と声を掛けました。
すると彼は「何だ? 撮影?」と振り返りました。アメリカ人の制作スタッフの方は見ません。私がもういちど「ドキュメンタリー映画を撮影してるんです」と言うと、彼は「そんな話、聞いてない」と言います。「協会に許可は取ってありますが」と言葉を返すと、「知らん」と言ってまた背を向けました。

知らないはずはないのです。それまで協会事務所でも顔を見ていますし、なにせこちらはアメリカ人。カメラやマイクを抱えた外人の姿など、両国の国技館には私たち以外にはいないし、ほかの理事へのインタビューや相撲学校の取材でもう何日も両国に通っていました。北の湖は、ただ、自分へ取材がない,挨拶がないのが面白くなかったのでしょう。それもガキだが、それでそんな嫌がらせをして憂さを晴らそうとしているのも呆れるガキです。そうわかったときに、なんとまあ、相撲協会というのはダメなやつばかりで作られているのだと思ったものでした。はっきりいって北の湖だけではなかったですからね、取材対応のできていないのは。協会の職員までもが同じ体質。相撲の外の世界のことが何も見えてない。協会の内部の論理だけで生きていられると思っている。というかもっと簡単なこととして、一個の大人としてまともに話せるやつがほとんどいないのです。おまけにカネにものすごく汚い。よっぽど困ってたんでしょうかね。

で、さきほどの花道での顛末は、私がやや声を強めて「協会の許可があなたに届いていないということですね」と念を押したら、「いや、知ってるよ」と急にニタニタ顔になって脇に寄って終わり、というものでした。おいおい、これって50になりなんとする男(当時)のやることか?

ああ、こいつはダメだと思ってたら、その何年か後に理事長になった。

で、こないだの朝青龍です。

朝青龍も朝青龍ですが、北の湖が理事長をやっているんだから、あの協会決定の懲罰も公正なものというより子供っぽい報復とか嫌がらせとかいじめとかいう要素があるんだろうなあというのが私の印象でした。くだらなくて、コメントすらバカ臭い。国技とかいってるが、そんなもんです。

そして今回のこの「記者証」問題。

「評論家に取材証は出せない」って、どういう論理でしょう。記者だって評論します。コメントを求められれば評論です。嫌がらせでしょう、これ。同じなんですよ。

また、「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、何をか言わんやです。自分のことをなんだと思ってるんだ。フセインか、金正日か? 協会批判をした記者は取材証を没収されるということなのでしょうか。「杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという」のは、いったい、どう片を付けたということなのでしょうか? これも私たちに「いや、知ってるよ」と急に掌を返したように対応を変えて、それでなかったことにしたのと、まったく、呆れるほど同じパタンです。で、協会批判は記者証没収の要件なのかどうなのか、東京相撲記者クラブはこの白黒をはっきりさせるべきですわね。

一事が万事。北の湖という下司のアタマの中は、そういう短絡でごちゃごちゃです。朝青龍問題でもけっきょく一度もまともに言葉を発して説明していない。説明できないのでしょう。何度も言うようですが、なにせ嫌がらせといじめが動機なのですから。

そういうことですので、相撲協会のことなどまともに考えるのもバカらしい。だいたい税金もろくに払わないような連中ですよ。7年前の経験からいうと、まともな人も多くいましたが、そういう人たちはほとんど協会では傍流でしたね。惨憺たるものです。

朝青龍の件はどっちもどっちですからどうでもよかったが、今回の杉山さんの件は、ことは言論の自由の問題なのです。

July 22, 2007

いよっ、中村屋!

このところ、翻訳の締め切りに追われて(ってか、もうとっくに追い越されてしまったんですが)ぜんぜんブログのアップデートをしてません。申し訳ない。

とはいえ、いろいろと人生は過ぎていくわけで、とりあえず今回は19日に見た、平成中村座のリンカーンセンター公園について書き留めましょう。

ええ、ええ、そうです。3年前の夏のあの素晴らしい舞台の印象を引きずりながら、今回も観に行ったわけです。いやはや見事なエンターテインメント。しかし、それ以上に、私はこの「法界坊」を演目に選んだ勘三郎の大胆さに畏敬すら覚えました。

破戒僧「法界坊」は米国人が、いや現代の日本人もがなんとなく歌舞伎に抱いている「芸術性」を真っ向から裏切る喜劇なんですね。幕が開いて間もなく、事前のNYタイムズの記事で勘三郎が能と歌舞伎の違いを「能は時の権力者によってつねに保護されてきたが、歌舞伎を支持してきたのは一般大衆だ」と断じていたのが思い出されました。

なんせ端から話題はセックスなわけです。
おいおい、リンカーンセンターでポルノかよ、です。まいっちゃいました。
ざっと登場人物と物語の背景を説明して芝居は始まるのですが、三枚目「山崎屋勘十郎」が登場早々美女「お組」を目にしたとたん、おにんにんをぴょこぴょことおっ勃てるわけですよ。袴がそれでぴょんぴょんはねる。私は隣の席に座る、十代の息子たちをネクタイとブレザー姿で連れて来ているいかにもお金持ちそうな家族連れのことが気になってしょうがありませんでした。このお父さん、きっと「日本の歌舞伎という伝統芸術をこの機会だ、ちゃんと見ておきなさい」とでも言って連れ出したんでしょうね。

ところがこれは(おにんにんぴょこんぴょこんは)、英語ではいわゆる「ヴァルガー(野卑、下品)」と言われる表現です。日本という禅と茶道と礼儀作法の国から、まさかこんな、ときっととなりのお父さんも思ったでしょう。会場にだって一種、どう反応したらよいのかわからない、しかしこれは400年も続く伝統芸能だと自分に言い聞かせる、キリスト教的ジレンマからの失笑というか微苦笑というか、とりあえずはスマイルね、というべきビミョーな感じが漂っていました。だってこれは、どうかんがえても、というか後半の刃傷沙汰に及ぶにつれ、なおさらに絶対「R指定」の芝居なのでした。

そのときもういちど「歌舞伎は大衆芸能」という勘三郎の言葉を思い出した、というわけ。これでガーンと一発やられたような気がしました。

だってそういえばこうした野郎歌舞伎は、それも「隅田川物」と呼ばれるこの世界は、ことに爛熟の江戸町民文化の中で奔放で雑多な庶民のエネルギーそのものを写し取ったものですわね。
色恋、嫉妬、痴話げんか、詐欺に間男、贋金、不貞、誘拐、人斬り、誤解に恨み、そして最後は幽霊の、復讐譚まで発展し(七五調ですけど、わかりました?)、そして大喜利、大団円。

盛り沢山とはこのことで、前回3年前の「夏祭浪花鑑」のようなドラマ性には欠けるものの、「歌」あり「舞」あり「伎」ありの3時間。「野卑」とは言いましたが、それを表現する所作は見事に芸に裏打ちされた洗練の極み。法界坊のドタバタもじつにミニマルで流麗でまるでチャップリンのそれにも通じていました。いや、チャップリンの方が歌舞伎を真似ていたのかね。

勘三郎は庶民のそんな猥雑で生々しいエネルギーをもう一度現代の歌舞伎にも注入したかったのでしょう。いつのまにか「ハイ・アート」のように振る舞っている優等生に、原初的な破天荒さを取り戻す。そうやって見ると、今回の舞台は女形がまさに女形であるジェンダー・ベンディングな歌舞伎本来のクイアさもより透けて見えるようでした。上澄みばかりが賞賛されている海外での日本文化ブームを、勘三郎は「ほらよっ、ならこれはどうでえ?」と混ぜっ返しているいたずらな確信犯、トリックスターにさえ見えます。ちょうどマグロやイカをマスターした鮨好きの外国人に、奥から酒盗やクサヤを出してくるみたいに。

英語での観客いじりはやや安易に流れた嫌いもありましたが、歌舞伎を通しての人間復興のような、勘三郎のそんな壮たる目論見も理解できる、アメリカ人だけではなく私たち日本人にとってもの日本ブームの重層的な第二幕がここから始まってほしいもんです。

しかし、勘三郎、どこまで計算してるんだろうね。プロテスタントのこのアメリカに、よりによって「法界坊」で乗り込むなんて。ますます彼が好きになったわ。

July 06, 2007

中村中「リンゴ売り」

リンゴ売り

別に好きでこんな服を着てるわけじゃない
別に好きでこんな顔をしてるわけじゃない

だって派手な衣装で隠さなきゃ
だって派手な化粧で隠さなきゃ
だって剥げた心を指差して
貴方たち笑うじゃないの

誰にだって優しい事を言いたいわけじゃない
誰にだっていい顔ばかりしたいわけじゃない

だけど軽い口調で流さなきゃ
だけど軽く笑顔で答えなきゃ
勝手な事 散々言っといて
貴方たち笑うじゃないの

私を買って下さい
一晩買って下さい

つまずくだけじゃ血も流れない
涙すら流れない

私を抱いて下さい
一晩抱いて下さい

淋しさだけじゃ夢も見れない
愛は在りませんか

私を抱いて下さい
いつまでも抱いてください

 「私を買って下さい」って、唄の中で言いのけたディーヴァというのはいままでいただろうか。藤圭子? 北原ミレイ? 浅川マキ? ちあきなおみ? 中島みゆき? 椎名林檎? みんな、なんとなく唄っていそうで、でも、中村中の「リンゴ売り」とはなんとなく違う。

 歴代の女唄というものにはだいたい恋い焦がれる相手が存在していて、恨みもツラミも愛も肉も怒りも、「わたし」と「貴男」という個々の関係性を糧に成立している。そのひとに向かって唄っている。あるいはそのひとを思って唄っている。あるいはそんな過去を思って唄っている。なのに、この「リンゴ売り」には誰もいない。いるのはリンゴ売りの前を通り過ぎる、誰とも知れない「笑う」「貴方たち」だけ。過去も未来もない、点でしかない時の消息。

 中村中の唄を聞くと、いつも「あらかじめ失われた恋人たち」というリルケの詩の一節を思い出している自分がいる。そしてそれはきっと、リルケが言ったよりもさらに深い意味で失われている。だからこれは、歴代のディーヴァたちの唄えなかったことじゃない。唄わなかったのは、唄う必要がなかったからだ。なぜなら、ディーヴァたちの唄う女唄には、あらかじめだれかがいたから。あらかじめ、だれかがいることを前提にできたから。あらかじめは、そんなに失われているわけじゃないから。でも中村の唄は、あらかじめ拠って立つ地面もない、女唄ですらない底なしの奈落に浮かんでいる孤独。

 思い溢れてシャープした最後の「私を抱いて下さい/いつまでも抱いて下さい」はなんだか、落下を支えて張り渡した命綱みたいだ。持てる声の種類すべてを動員して抗っている、そんな切羽。そしてそれはきっと、敬愛するディーヴァたちに突きつける、めいっぱいの彼女からのリンゴだ。

 思い出した。通底する歌詞を聞いたことがある。スティングの「Tomorrow We'll See」という唄。どこかの都会の街娼を唄った唄。街娼は「あたし」。でも英語の歌では、男が女唄を唄うことはぜったいにない。だから聞いているとわかってくる。この唄のストーリーは、主語がスティングなんだ。だからこれもじつは女唄ではない。「あたしの友だちは結局死んじゃって/彼のドレスは赤く染みになった/親戚も住所もなくて/この通りのもう1人の犠牲者/警察が彼を運び去れば/次の日には誰かが彼の場所に立っていた/感謝祭までには故郷に帰れるわね/生きてではないけれど」。そうしてスティングは言うのだ。「だれかがあたしのことを心配してくれるなんて/そんなのはあたしの計画にはない」「ねえ、ひとりにしないで、悲しくさせないで/いままでで最高の5分間をあなたにあげるから」って。

 この「あなた」も、誰でもない。この「あたし」も、あとにもさきにも誰かとの個々の関係性を「計画」しているわけではない。

 かつて寺山修司は、「悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず」と歌った。きっと手渡しではなく、その果実は中村中の「リンゴ」にあらかじめ乗り移ったのだろうと思う。

April 20, 2007

サンジャヤがついに落選

いやいや、昨夜、とうとうサンジャヤが落っこちてしまいましたねー。
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相変わらず視聴率全米1位を独走する怪物番組「アメリカン・アイドル」第6シーズンの話であります。最終選考7人にしぼられて、私は今シーズン初めてちょくちょく見ていたのですが、動機はちょっと違って出場者の1人をめぐって全米を二分する論争が起きているのが面白かったから。

話題の中心がその最年少決勝進出者のサンジャヤ・マラカーくん(17)でした。
知らない人のためにざっと説明すると、この「アメリカン・アイドル」はタレント発掘のオーディション番組なんですが、歴代、優勝者ばかりか落選者すらレコード会社と契約するほど歌唱力第1の選考で知られていて、映画「ドリームガールズ」でオスカーを獲得したジェニファー・ハドソンもこの番組のファイナリスト(先に「準優勝者」と書きましたが、あずささんの指摘で間違いが判明。12人中、7週目に落とされたので6位とかの説もあり。すんません、このシーズン、気を入れて見てなかったの)。

んで審査員の1人に辛口のプロデューサー、サイモン・カウエルってのがいて、こいつのイギリス英語の酷評が呼び物でもあるんですが、サンジャヤはこのサイモンに「人気があっても歌も歌えないサンジャヤが勝ち進んだら審査員を辞める」とまでこき下ろされ続けながら今週まで来ていたわけですよ。視聴者投票では毎回抜群の人気だったし例のYouTubeでも圧倒的に再生数が多い。ブログ界もサンジャヤへの賞賛とこき下ろしで真っ2つに分かれて増殖を続けていた始末。もうすごいもんでした。「サンジャヤはアメリカン・アイドルの恥だ」とか「国家的陰謀だ」とか、酷評派は言いたい放題の2チャンネル状態。ま、ちょっとサンジャヤのなよなよしたところがホモフォビアを誘発してる気もしましたがまあそれは今回の話題ではないんで。

でね、「歌がヘタ」とは言われるものの、はっきり言ってジャパニーズ・アイドルたちを聞き慣れている私には「けっこううまいじゃないの」とかって感じなの。ちょっと音程が外れてふにゃらふにゃらした歌い方をするんだけど、まあそれも個性といえば個性かも、とかって。見ようによってはかわいくないこともないと思う人もいないことはないだろうし(それか結局!)。

しかしアメリカってのは、日本と違ってティーンズ・アイドルが一般エンタテインメント市場とは画然と異なる子供向け市場で住み分けているんですね。ガキのマーケットはぜったいにメインストリームには出てこれない。ガキが高級レストランに入れないのと同じです。ですんで、そんな米国のオトナというか一般向けの芸能市場では、毎回髪型を変えたり子供っぽく受け答えするサンジャヤの活躍は異常に映っていたわけです。

その結果、もうテレビやラジオのトークショー番組やニュースでもこの不可思議なサンジャヤ人気で花盛り。「サタデイ・ナイト・ライブ」でも面白可笑しいパロディになったし、ニューヨーク・タイムズなんぞは「勝利を第1の価値観とすることへの市民の反発の現れでは」と硬派に分析したりね。こないだのあるラジオ番組ではヒラリー・クリントンがサンジャヤ現象へのコメントを求められ「ここ最近で最高の質問ね」と笑いながら、「人間は投票したい人に投票できるもの。私の選挙もアメリカン・アイドルの投票も同じことよ」と答ってました。
だいたい、昨夜の落選は夜11時台の各局のニュースばかりか今朝のニュースでも取り上げられたんですよ。落選がニュースになる、そんなことってかつてないことでしたね。

思えばそう遠くない昔、たしかアメリカは「かわいらしさ」というものに日本とは違う基準を持っていました。それに気づいたのは例のキャベツ畑人形を初めて見た20年以上前なんですが、あのときアメリカ人の友人に「なんでこんなへちゃむくれの顔をした人形が可愛いのか」と問いつめたことがあります。ペットにする犬だってブルテリアだのフレンチブルドッグだのパグーだのと不細工な方が「可愛い〜!」と叫ばれていたんですよね。ま、それはいまもそうだけど。

それが最近はなんとなく変わってきてる。まずはあのポケモンかしら。それからキティちゃんでしょ、おまけにあのわけのわからん村上隆のデザインまで、どんどん日本的な、子供にもわかる「ど真ん中の可愛さ」が文化の本流に浸透してきている気がします。べつにどうでもいいことだけど、なんだか日本的な「子供文化」、はっきりいえば「ガキ文化」がこれからこの国にも上陸してきてるんじゃないかなと……。

そこにこのサンジャヤ旋風でした。彼の昨日の敗退を、さて、オトナ文化安泰の徴と見るか、それともガキ文化擡頭の序章と見るか。今回のアメリカン・アイドルは単なるタレント発掘というだけではなく、そういうオトナ文化とガキ文化の潮目、時代の変化の兆候と見るとなかなか考えさせられるものがありましたわ。

サンジャヤはきっとどっかのレコード会社が拾って、まあティーン向けの、それこそ日本的な意味でのアイドルCDを出すかもしれません。サンジャヤがあの屁みたいな声でジャズを軽く歌った回を見てて、あら、いいじゃないの、この子、とかって思っちゃった私は、きっとそのCDもチェックしてここでご報告することになるんでしょうか。はは。

March 30, 2007

オーディナリーという言葉

NHKで「夢見るタマゴ」って番組、ニューヨークでもTV Japanで放送されていて、例のあのダウンタウンの浜田が司会で、きのうは男性美容員っていう、デパートの化粧品売り場で客たちの化粧品相談やメーキャップ相談や実地をやってる男の子が出てきました。で、思ってたとおりの展開になるわけですね。つまり、浜田が「そっちのほうに間違えられへん? その世界、メケメケが多いやろ」ってなふうにいじって、あ〜あ、と思ってたら、その美容員も控えめながら「ぼく、あの、ノーマルです」って返事して、予定調和というか何というか sigh...。(この辺のノーマルのニュアンスへの引っかかりは、すでに10年近く前に書いたマジためゲイ講座の第一回目をご参考に)

まあ、きっと「ノーマル」という言葉は日本では外来語ボキャブラリーの偏狭さから「ストレート」という意味で使ってるんでしょうが、それでスタジオはまたパブロフの犬に成り果てたごとくお嗤いで反応して、いったいこの人たちっていつまでこういうことを続けてれば気づくんだろうとすでにパタン化した暗澹たる思いを横目に、そういやNHKだからってんで浜田もオカマを「メケメケ」と言い換えてるのか、その辺の放送コードはすでに確立してるのかねとか思うものの、言い換えててもけっきょくは同じだけどね、とか思いつつ、はたと膝を打ったのでした。

その膝を打ったことはあとで述べますので、まずは次のクリップを見てくださいな。
これは「2人の父親 Twee Vaders」ってタイトルの歌です。
どうもオランダのテレビ番組らしく、毎回、このKinderen voor Kinderen(子供たちのための子供たち?)という子供たちのグループが、いろんなメッセージソングを作って歌う番組らしい。


さて、英語の字幕によれば、歌の主人公の男の子はバスとディードリックという2人の男性カップルに1歳のときに養子にもらわれたと歌います。で、バスは新聞社で働く人で、ディードリックは研究所で働いてる人です。
歌詞は次のように続きます。

「バスはぼくを学校に送ってくれるし、ディードリックはいっしょにバイオリンを弾いてくれる。3人で家のTVでソープオペラを見たりもする。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、でもすごくうまくいってる。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる」

2番以降は以下のごとし。
**
ぼくがベッドに入るとき、
ディードリックが宿題をチェックしてくれる。
バスは食事の皿を洗ったり、洗濯をしてたり。
病気になって熱があるときなんか
ディードリックとバス以上に
ぼくのことを心配してくれる人なんかだれもいない。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。

ときどき学校でいじめられもする。
もちろんそんなことはイヤだけど。
おまえの親、あいつらホモだぞって。
それをヘンだって言うんだ。
そんなときはぼくは肩をちょっとすくめて
だから何だい? おれ、それでも父さんたちの息子さ。
そういうのはよくあることじゃないけど
ぼくにとってはぜんぜんオッケーさ。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。
**

これを見たあとでも浜田は「メケメケ」といって嗤えるんだろうか。(反語形)
ただたんに浜田は、このような情報を持っていなかったためにこういうことをお嗤いにしてしまえるのでしょう。(斟酌癖)
それを思うとそうした愚劣さを気づかずにさらしている彼が哀れでもありますが。(ちょっと本音)

さて、この歌詞の3番に、学校でおそらく浜田のようなガキどもから「あいつらホモだろ」といじられた主人公の少年が、「It's not ordinary」と述懐する部分があります。「But for me, it's quite ok」(でもぼくにとっちゃそんなのぜんぜんオッケーさ)と。

このオーディナリー、「それって普通じゃないけれど」と訳すとうまく伝えきれないものがあります。「普通」という言葉だと、多数決に基づく「正常さ、標準さ、規範的さ=ノーマル」という意味にもとられてしまうので。
で、ここはordinaryですので、日本語では「よくあること」と訳したほうがニュアンスが近い。
で、「はたと膝を打った」のは何かというと、父親が2人いることは「It's not ordinary」と歌うのを聞いてて、ああ、これ、使えるかも、と、さきほどの「ノーマル」に対比して思ったということなのです。

これから、ヘテロセクシュアルの人は、自分のことを「ノーマル」の代わりに「オーディナリー」です、って言えばいいんじゃないのかしら。(意地悪、入ってます)

で、ゲイはオーディナリーじゃないのね。
何か?

エクストローディナリー Extraordinary に決まってるんじゃないですか! (笑)

(付記)
じつは、この番組でプチッとキたのはほんとは上記の部分じゃなくて、「子供が言うことを聞かないときに浜田さんはどうしますか」という出演者からの問いに、浜田が「ぶん殴るよ、男だから」とかいうことを平気で口にして、それに合わせてスタジオのゲストの中尾彬だの加藤晴彦なのが「そうだそうだ」「すばらしい」と平気で賛成してたことでした。

いま日本のあちこちで頻発している児童虐待で死者まで出してることを、この人たち、どう思ってるのかなあ。そう言えば「オレの言ってる意味はぜんぜん違う」って返ってくるのは予測できるけれど、それとこれとが根でつながっていることには気づいていない。
ニュース見てないのかもしれないけど、ま、こういう輩はニュース見てても同じか、プライベートで言うことと、テレビでパブリックに言えることとの、場合分けがない。それは子供のすることです。まあ、「子供」とはいえ、上記ビデオで紹介した子供たちはそういうことはしないでしょうけどね。
だとすれば浜田以下のこの人たちは、きーきー騒いではしゃぐだけの猿と同じじゃねえか。
恥ずかしいなあ。

そしてもう1つ、こういうのを平気でオンエアーするのは、これが「将来の夢をひたむきに追いかける若者たちを紹介するバラエティー」と紹介しているように、なんでもありのジャンルの番組だというふうに思ってるからなのでしょうかね、NHK。
情けないことです。

追記)

しっかし、いまやってたんだけど、子供向けロボットドラマ「ダッシュマン」ってのでさ、悪者役の紫色の口紅塗ってる宇宙人みたいなのが、これまたオカマ言葉でしゃべってるのって、いったい何なのでしょう。

なんだかこれだけ続くとウンザリというか、ゲンナリというか。
いやがらせかよ、おい。
まいったなあ。

March 20, 2007

ロミオ、ロミオ

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男たちによる「白鳥の湖」(トロカデロじゃないほう。アダム・クーパーのです=写真上)で私たちにまったく違うバレエの地平を見せてくれたマシュー・ボーンが、今度はシェイクスピアのロミオとジュリエットを男ふたりに踊らせる企画をイギリスのサンデイ・タイムズのインタビューで明かしました。
その名も「ロミオ、ロミオ(Romeo, Romeo)」。

「スワン」はニューヨーク版(ウィル・ケンプのです)しか見てないけどすごかったです。バレエ好きのとーちゃんといっしょに観に行ったんですけどね、そうそう、気づいたのは、ダンサーたちがね、クラシック出身者とダンス出身者といて、踊り方が微妙に違っていたのが興味深かった。でも主役級はやっぱりクラシックね。姿勢が違う。

で、この「ロミオ、ロミオ」、マシュー・ボーンは「伝統的な男女のパートナーシップの踊りのダイナミズムに対抗するわけだから、大変なチャレンジになる」と覚悟してるようですね。彼は次のように言っています。

"It’s more to do with dancing than with sexuality.
「これは、セクシュアリティというより踊りに関係するチャレンジなんだよね。
A male dancer, whether he’s gay or straight, fits into a relationship with a female partner very happily.
ゲイかストレートかに関係なく男のダンサーってのは女性のパートナーのときがちゃんとハッピーにぴったりしているわけだ。
Getting away from that, making a convincing love duet, a romantic, sexual duet, for two men that is comfortable to do and comfortable to watch — I don’t know if you can.
それを別にしてもだれにも信じられる愛のデュエット、ロマンティックでセクシュアルなデュエット、それを2人の男の間で作ること、それも踊っていて心地よく、見ていても心地よいものを作るのは大変だ──わかんないよ、できるかどうか。
I’ve never seen it done...I have a way of approaching it so as to make it — I hate to say ‘acceptable’, it’s a terrible thing to say — but so that people don’t run screaming from the theatre.
だって、そんなのやったの見たことないし……ただぼくはそれに近づく方法は知っていて、だからそれを──「受け入れられるように」という言い方は嫌いだけど、ひどい言い方だろ──でもまあ、劇場からみんな叫び上げながら逃げてくなんてことのないようには作れる。
I let them find their own way with it, take it as far as they want in their own heads."
それぞれがその人なりにそれと立ち会う方法を見つけるような、それを頭の中でそれぞれの思いどおりに膨らませることができるような、そんなふうにするよ」

今年の夏に何人か少人数でシーンのテストをしたり即興的に組み立てを試したりして、実際のリハーサル開始は来年早々を予定しているそうです。すごく楽しみです。

March 19, 2007

中国人を犯人にしない

いまに始まったことではないんだけどさ、ということではなく、いまもまだこんな体たらく、という感じですかね。TVジャパンの日曜番組で水谷豊の「相棒IV」ってのをやってて、今日のは「殺人生中継」なるタイトルでテレビ局の女子アナ殺人事件だったんですが、犯人はその女子アナを恋い慕って局に入った新人お天気キャスターのアナウンサー。「こんなに愛しているのに報われないなら、いっそこの手であなたを殺す」っていうストーカーまがいの脅迫状ってことは、つまりレズビアンのねじれた愛憎の結末、ってわけですか。
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女子アナ、レズビアン、愛憎、殺人、ともう、このとてもわかりやすい妄想世界はまさに世の“普通”の男性たちの典型ものなのかしら。ところがドラマのセリフではレズビアンも同性愛も単語としては出てこなくて、水谷豊の「相棒」である寺脇なんちゃらっていう刑事がもっともらしく愛ってもんを諭す場面まであってですね、なんだかその「倒錯性」はスルーなんです。べつに問題にもならない。ふうん、それって、人権遠慮? でもしっかりとレズビアンの関係性には殺人というスティグマをベタ塗りしてしまってるのにさ。

ま、それだけだったら私も見流してたんだけど、そのドラマが終わったら今度は続いて「アウトリミット」っていう、これまたへんてこなドラマ。元はWOWOWのドラマだったんですか? 岸谷五朗が主演のめちゃくちゃな刑事ドラマ。ここでもさ、麻薬密売のヤクザなんだかギャングなんだか、へんてこなスキンヘッド+タトゥーの兄貴と茶髪のチンピラが突然のホモ関係。よくわからんねえ。なんなんですかね。
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なんたっけ、あの芥川賞、蛇にタトゥー、か。ちがった。蛇にピアスだ。あれでも殺人犯が限りなくサド趣味の男性同性愛者に設定されていて、そのときも「おいおい」って書いたんですが、またこれですもんね。ちょっとメモとして書いておいてもよいかな、と。

人権メタボリックともいちぶでいわれる日本には、すでに謂れのないスティグマを負われている社会弱者に、さらに犯罪者という別のスティグマを塗り付ける惰性と安易が無自覚に繰り返されています。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、死者に鞭、ですよ。そうでなくてもパンチドランクでヘロヘロしてる同性愛という関係性を、またさらにそんなにいじめて、どうしたいのよ? 同性愛という言葉の持つ「変態性」「倒錯性」の雰囲気という先入観に寄り掛かったストーリーって、いい加減、拙いって気づきましょうよ。当のプロデューサーたちに「いじめってどう思います?」と訊けばしたり顔で「赦せません」って言うだろうくせに、これ、いじめですよ。どう? そうじゃない?

最近は「うたう警官」や「警察庁から来た男」などで注目の作家、佐々木譲さんと2年前にそんなことを話したときに、「そういえば、アメリカの推理小説ではかつて、中国人は犯人にしない、という暗黙のルールがあったんですよ」って教えてくれました。50年代、60年代かな、人種マイノリティだった中国移民への偏見と差別が蔓延してた時代、プロの作家たるもの、そういう偏見に安易にのっかって彼らを真犯人に設定するのは沽券に関わったんでしょうね。

どうなのよ、日本のプロデューサーたち。きみたちの沽券はどこよ?

March 01, 2007

オオバケしてきたヘドウィグ

昨夜は公演後にFACE近くの飲み屋さんで30人ほどで「繰り上げ」の「打ち上げ」でした。舞台の場合は最終日は片付けとか忙しいのでこういう繰り上げての打ち上げ会はよくあるそうです。

もう夜10時近くなってからの、あまり打ち上げ感のない(まだ5回もステージが残ってるんですしね)始まりでしたが、徐々に話も弾み、わたしも山本君らといろいろ話をしました。もう、あのハイヒールがやはり大変らしく、おまけにあの絶唱です。この2日間は点滴をし注射をし鍼を打ちマッサージにいってフルコースで体調をハイにとめおくというすごさ。そのせいか、昨晩は資料用に撮っていたビデオスタッフが「山本耕史が命を削って演じている姿が撮れた」といったとか。こういう舞台は、商業的にはそんなに儲かるものでもなく、ギャラだってテレビに比べれば微々たるもの。でもヘドを演じたかったその時代の震えを、山本君も感じているようでした。尖っていたいんだなあ。

ヘド、ほんと、オオバケしてきています。歌とセリフが一体化してきて、セリフが歌詞のように聞こえている。わたしのゲネプロと初日からの予想が、こんなにも早く具現化するとは、ステージにはまさに魔物が棲んでいるのでしょうね。それを感じられる俳優の才能に幸あらんことを。

中村中ちゃんは打ち上げでもひとり懸命に明るく挨拶して回っていて、ほんと、かわいい子だわん。おじさん、なんだかちょっと緊張して小難しいこと口にしてた。うぅぅっ。もっとふつーにお話がしたいよーってときに限ってこうなってしまう不徳。とほほ。

ヘドヘッドの方からも、さいきん、お褒めのメッセージを頂くようになりました。最初は賛否両論というか、「否」のほうが表面化するのはまあ常のことですが、どんどんポジティブな反応が増えてきたのはやはりステージが深化してきているからでしょう。

わたしがあれを翻訳しながら思っていたことは、これはそう、どうしようもなくオキャマの劇なのだ、ということでした。ヘンタイたちの、フリークスの、オトコオンナの、ゲイの、トランスジェンダーの、ロック・ミュージカル。これをどこまで観客の女性たち男性たちが理解できているのかはわからないけれど、まあ、かんたんにわかってもらっても困るし、わかるものでもない。三上ヘドはノリノリであれはあれですごかったけれど、今度のヘドは、あの悲しみの根源に何があるのか、考えようと思えば答えは見つかる、そういう仕上げになっています。

英語の歌詞は、あれはぼくは、そんなヘンタイでもフリークスでもゲイでもオトコオンナでもトランスでもない観客たちへの、ひょっとしたら、理解へと進んでほしいための挑発として提示されたのかもしれないと思っております。ま、演出の鈴勝さんはそんな意地悪を意図したわけじゃないだろうけど、わたしとしては結果としてのそんなちょっとした挑発と宿題が、ありがたいと思ってる。 山本君はバリバリのストレートだけどね、彼もこのヘドウィグに「なる」ことで、きっとそのことを理解してきていると思います。ヘンタイと言われること、オトコオンナとからかわれること、オキャマと蔑まれること、その無意味さと獰猛な残酷さとを。そしてそれゆえの愛の非情と強さとを。ぼくはそれだけでもこの劇に加担してよかったと思っている。

わたしの帰米ももうすぐですが、4日の最終日までにもう一回は見に行きたいなと思っています。

February 17, 2007

ヘドウィグ訳詞集

M1 TEAR ME DOWN=あたしを倒してみるがいい

あたしを生んだのはあっち側よ
二つに裂かれた町のあっち側
それでもあの分断の壁を乗り越えて
あんたのとこに行くわ

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

あの医者の手術台から立ち上がったのよ
墓の穴から立ち上がったラザロみたいにね【訳注:イエスが死からよみがえらせた】
そしたら今度はみんなが立ち上がって
あたしをナイフで彫り込んだりするの

血と唾にまみれた落書きで

敵やら何やら押し寄せて
よってたかって引き裂こうとするの
あたしがほしい? ベイビー、だったら
やってみてよ、引き倒してみてよ

***

M2:愛の起源(THE ORIGIN OF LOVE)

地球がまだ平らで
雲は火でできていて
山が空に向かって背伸びして
ときには空よりも高かったころ
人間は地球をゴロゴロと
大きな樽みたいに転がってた
見れば腕が二組と
脚も二組あって
大きな頭には顔も二つ
付いていて
それであたりが全部見渡せて
本を読みつつ話もできて
そして愛については無知だった
愛がまだできる以前のこと

愛の起源

そしてそのころ性別は三つ
ひとつは男が二人
背中と背中でくっついたやつ
そいつらの名前は太陽の子たち
それと同んなじ形して
地球の子らというのもいたの
見た目は二人の女の子
それが一つになったもの
それから月の子供たち
ちょうどスプーンに挿したフォークみたいで
はんぶん太陽はんぶん地球
はんぶん娘ではんぶん息子

愛の起源

そのうち神々が怖れだした
人間の強さと不敵さに
それでトールがこう言った
「おれが皆殺しにしてやろう
このおれの大槌(おおづち)で
あの巨人どもを倒したときみたいに」
そしたらゼウスが言葉を継いで
「いやいやおれにやらせておくれ
この雷(いかづち)をハサミに使って
クジラの足をちょん切ったときみたいに
恐竜たちを小間切れトカゲに変えたときみたいに」
それからおもむろに稲妻をつかみあげ
一回、ガハハと笑ってから
いわく「おれがやつらをまっぷたつにしてやろう
上から下に引き裂いて半分にしてやろう」
そしたら頭上で嵐の雲がもくもくと
集まりやがて大きな火の玉

そこから炎が稲妻になって
真っ逆さまに落ちてきた
光はじけるナイフの
刃(やいば)
それが切り裂く
一直線の肉体
太陽の子ら
月の子供ら
地球の子供ら
そこにインドの神まで現れて
傷口を縫って寄せて穴にして
おなかの真ん中にもってきた
この罰の大きさを忘れないように
次にオシリスとナイルの神々が
雨風をまとめあげて
ハリケーンを巻き起こし
あたしら人間をちりぢりに吹き飛ばした
風と雨は荒れ狂い
高波までが襲ってきて
人間はもう流されバラバラ
それでもよい子にしてないと
またまたもっと切られてしまう
しまいにゃ一本足で飛び跳ねて
目玉一つで見なきゃならなくなる

このまえあなたを見たときは
あたしたちはちょうど二つに裂かれたばかり
あなたはあたしを見つめてて
あたしはあなたを見つめてた
なんだかすっごく懐かしい感じがしたけど
でもそれがなんだか分らなかった
だってあなたの顔は血みどろで
あたしの目にも血がしみて
でもぜったいに分ったの、あなたのその感じで
あなたの心の底にある痛みは
私のここにあるのと同じもの
この痛み
一直線の切り込みが
心臓をまっぷたつに貫いてる
それをあたしたち、愛と呼んだわ
だからたがいに腕をまわして
どうにか元どおりに一つになれないかと
けんめいに抱き合い愛を交わした
愛を交わした
冷たく暗い夜だった
もうあんなにむかし
ユピテルの無敵の手でもって
あたしたちがどうやって
二本脚のさみしい生き物になったのか
それは悲しい物語
それは愛の
起源の物語
それが愛の起源
愛の起源

***

M3 シュガーダディ

あたしはめっちゃ甘党で
リコリスドロップ、ジェリーロール、大好き
ねえ、シュガダディ
ハンセルはボウルにシュガーが欲しい
テーブルクロス敷いて上等の陶器を並べ
クローム銀器をこすってあげる【訳注:ベッドの上でのセックスを暗喩】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

黒くドロドロしたモラーシス(糖蜜)
あんたはあたしの蜂蜜クマさん
あたしにヴェルサーチのジーンズを買って
下着はデザイナーズの黒がいいな
ドレスはミラノやローマの
ディスコ狂いのジェット族ふうに【訳注:自家用ジェット機で遊び回る金持ち連中のこと】
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの興奮と同じ
最高に甘い陶酔ね
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ミツバチたちがお買い物
そいつは見もの
野の花たちに群がって
女王様のために蜜を集める
もらえるものなら何ででも
あたしは蜂蜜みたいにとろけちゃう
もしシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

オー、人を操るスリル
ロックンロールの電撃と同じ
最高に甘い陶酔ね
もしシュガーが手に入ったら、あたしのとこまで持ってきて
だからがんばってよ、シュガダディ、持ってきて

ウイスキーにフランス煙草
高速ジェットエンジン付きオートバイ
電動歯ブラシにフードプロセッサーも必要
それにアレルギー処理したわんちゃんも欲しい
現代の贅がすべて欲しい
リリアンヴァーノンの通販カタログ【訳注:家庭用品全般の通販ブランド】
全ページ全商品をあたしにちょうだい

ルーサー:「ベイビー、一つ考えた。おまえにバッチリ似合うはず。ヴェルヴェットのドレスにハイヒール、それにアーミンの毛皮のストールなんてどうだい?」

ハンセル:「オー、ルーサー、ダーリン。言っとくけど、ぼく、女の服なんか着たことないよ。たった一回、ママのキャミソールは着たことあるけど」

じゃあ男を本当に愛せるのは
女だけだっていうわけ?
じゃああたしにドレスを買ってよ
女以上になってやる
あんたみたいな男だっていちころ
チョコレートの貝殻に立ってるあんたのヴィーナスよ
マシュマロの泡々の上にあたしの姿よ
だからシュガーが手に入ったら
シュガダディ、あたしのとこまで持ってきて

人を操るのがあたしらの伝統
エリック・ホーネッカーやヘルムート・コール【訳注:前者は東ドイツの国家元首、後者は西ドイツの首相だった人】
ウクライナからローヌ地方まで
優しき祖国はすべてを支配する
主よ、あたしもいまその仲間!
だからさ、シュガダディ、あたしを祖国に連れ帰って!

***

M4 怒れる1インチ THE ANGRY INCH

あたしの性転換は大失敗
あたしの守護神は居眠りしちゃって見逃した
そんであたしのお股はバービーの穴なしお股
おまけに怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

あたしの出身は嘆きの国
あたしはうんざり、ぜんぶを切り離したかった
そんであたしは名前を変えて変身を試した
そしたら怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

母は粘土で乳首を作ってくれた
彼氏はあたしを連れ去ってくれると言った
そんであたしは医者に引きずって行かれ
けっきょく怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ
6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
だから……だから怒れる1インチ

手短に話すわ
まんまの意味で
手術を終えて目覚めると
下のほうから血が出てた
お股のあいだの裂け目から血が出てた
あたしの最初の女の日が
いきなり初潮の日になった
でも二日したら
穴は閉じて
傷は治って
そしてあたしの
お股に1インチのお肉の突起
あたしのペニスがあったところ
あたしのワギナがないところ
お肉の1インチの突起、傷がズッパリ入ってて
まるで目のない顔の
そっぽを向いたしかめっ面みたい
ちょっぴり突起
それが怒りのアングリーインチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
列車がもう来るっていうのにあたしは線路に縛られて
起き上がろうとするんだけどぜんぜん緩まない
だから怒れる1インチ、怒れる1インチ

6インチの出っ張りを5インチしか引っ込めなかった
隠れてるんだ、夜が真っ暗になるまで
あたしには1インチ、攻撃準備完了
だから怒りのアングリーインチ、アングリーインチ

***

M5 箱の中のカツラ WIG IN A BOX

こんな夜には
世界もちょっとずれちゃって
明かりも消えて
真っ暗なトレーラーパーク
横になれば
だまされた感じがして
気が狂いそうになって
そのときタイムカードにパンチの時間
メークをして
テープを流して
そんでまたカツラを頭に戻す
はい、ミス中西部の出来上がり
真夜中のレジの女王
それが家に帰るまで
ベッドに潜るまで

出てきたところを振り返る
出来上がった女の自分を見ている
世にも奇妙なことが
いつかふとありきたりに変わる
ベルモットのオンザロックから目を上げれば
ギフトラップのまんまのカツラが
ヴェルヴェット模様のひょろ長い箱の中

お化粧をして
ラヴァーン・ベイカーをかけて【訳注:R&Bの歌手】
棚からカツラを引っぱり降ろしてくれば
はい、ミス・ビーハイブ1963年の出来上がり
目が覚めて我に返るときまで

普通の女の子ならお気楽に
好きなようにカツラをつける
フレンチカールで派手にして
香水付き雑誌も手に持って
かぶるのよ
載っけなさい
それがいちばんいい方法
すてきに見えるベストウエイ

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っはりおろせば
はい、ミス・ファラ・フォーセットの出来上がり
テレビでおなじみ
目が覚めて
我に返るまで

シャギーカット、段カット、ボブヘア
ドロシー・ハミル・スタイル
ソーセージ巻き、チキンウィング結び
それもこれもあなたのため
ドライアーをかけて、フェザーバックにして
トニ・ホーム式ウェーブもかけて
フリップヘア、アフロヘア、ちりちりカール、フロップヘア
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため
それもこれもあなたのため

メークをして
テープをかけて
棚からカツラを引っぱりおろせば
はい、パンクロックのスターの誕生
ステージや映画の
もう戻らない
あたしは前には戻らない

***

M6 邪悪なこの街 WICKED LITTLE TOWN

きみの瞳には太陽が宿る
ハリケーンも雨も
暗雲たれ込める空も

あの丘を駆け上がったり駆け下りたり
気分次第でノッたりダレたり
夢中になれるもんなんてここにない
落ち込む理由もないけど
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、レディー、運命がきみを連れてきた
やつらはひどくねじれてるから
きみをダメにしないか心配だ

信仰、憎悪、献身的
きみは裏返っちゃうまで客を取り
風は焼けるように冷たい
きみはやけくそ、くわえ回り
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

運命は意地悪、冷酷至極
きみは覚えが悪いから願いは二つ使ってしまった
バカみたい

そのうちきみはきみでなくなる
ジャンクションシティは意味がなくなる
ソドムのロトの奥さんみたいに
振り返って塩の柱になっちゃったあの女みたいに
ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいい
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

***

M7 長いインチキ THE LONG GRIFT

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
あたしが惚れてたのを知ってるくせに、ハニー
知りたくなかった
あんたのクールな
そそられるセレナーデが
あんたの商売道具
だったなんて
くそジゴロ野郎

調べ上げた金持ち連中
巻き上げられるものみんな
つまりあたしってただの金づる
ずいぶん長いインチキだわね

あんたがしてくれたこと
このジゴロ野郎
またまたカモろうとしてるわけ
でも今度は知るべき
このカモはもう
意のままにはならない
あんたの商売道具
になんて、もう
くそジゴロ野郎

あたしはただの次の金づる
あんたのペテンの次のカモ
台本どおりのいちころのエサ
長い長い詐欺の手の中
あたしをとりこにした愛は
ただの長い長いペテン

***

M8 ヘドウィッグの悲嘆

あたしが生まれたのはあっち側
二つに裂かれた町のあっち側
どんなに懸命にがんばっても
傷と痣とで終わるだけ

あの手術台から立ち上がったの
心の一部をなくしながら
でもいまみんながナイフを手に
あたしをバラバラに切り刻む

かけら一つを母にあげた
かけら一つは男にあげた
かけら一つをロックスターにあげた
そしたら心も取られて逃げられた

***

M9 優美な屍骸

オー、神さま
あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

針と糸とのランダムパターン
病気の流行図と重なる道筋
竜巻模様の体を走り
手榴弾模様の頭にも
脚には恋人二人が絡み合う

中身は空っぽ
外身は紙の張り子
それ以外はぜんぶ幻想
意思と魂があるってのも
運命を操れるなんてのも幻想
混沌と混乱にゃお手上げよ

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

オートマティストほぐれてく
世界のねじも緩んでく
時間がつぶれ空間もゆがみ
崩壊と廃墟が見えてくる
「だめだめだめだめ、
そんな優美な屍骸じゃダメ」

あたしはつぎはぎだらけ
無情のメスの切り口
体中に傷の地図
その線をたどれば
惨めさの見取り図を越えて
あたしの体を横切る地図

コラージュ
つぎはぎだらけ
モンタージュ
つぎはぎだらけ

***

M10 邪悪なこの街(再)

許して
知らなかったんだ
だってぼくはただのガキで
きみはずっと大きかった

神が意図したよりも大きく
女よりも男よりも大きかった
いまわかった、ぼくが盗んだものの大きさも
すべてが崩れ始めるいま
きみはそのかけらを地面からはがし
この邪悪な街に見せる
美しく新しいその何かを

運命がきみを
そこに置き去りにしたと思ってる
でもきっと空には
空気しかないんだ

神秘的なデザインもない
運命で結ばれた宇宙の恋人たちもいない
見つけられるものはない
見つけられないものもない
だって、きみのここまでの変化は
きみ自身がつねに他人だったってこと
またひとりぼっちの、新しい
この邪悪な街で

だから、ほかにしようがないなら
ぼくの声をたどればいいんだ
暗がりの向こう側
邪悪なこの街の騒音を越えて

オー、ここは邪悪な街
グッバイ、邪悪な街

***

M11 真夜中のラジオ MIDNIGHT RADIO

雨が強い
燃やしてく
夢を
歌を
そのせいできみが
期待しては打ちのめされた
ものたちを

息をして感じて愛して
自由を与えて
魂を探って
流れる道を知る血のように
心から頭まで
自分は一つだと知って

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ
きみはくるくる回って
まるで45回転レコード
きみのロックに
合わせるバレリーナみたいに

パティ(スミス)のために
ティナ(ターナー)に
ヨーコ(オノ)に
アリサ(フランクリン)に
ノナに
ニコに
そしてあたしに
すべてのへんてこロックンローラーに
それでいいの、正しいの
だから手をつないで
今夜は歌い続けなきゃ

いまきみは輝いて
夜空の星みたい
トランスミッション
真夜中のラジオ

きみはくるくる回って
新しい45回転レコード
みんなはみ出しもの、落ちこぼれ
そうさ、だからみんなロックンローラー
回るんだ、自分のロックンロールに乗せて

手を掲げろ!

***
(All lyics are translated by Kitamaru Yuji)

(了)

February 15, 2007

いや、今度のヘドウィグは、よい!

ぼくは17のときにジーサス・クライスト・スーパースターをNYのブロードウェイで見て人生観を変えたってえ世代なんですよね、ぶっちゃけ。いや、それ以前にもいろいろほかにもファクターを得てはいました。ウッドストックもそうだし、コルトレーンはいたし、ジャニスもジミヘンも生きてたし。で、プロってもんの恐ろしさをそのときから知った、というか崇拝した。

で、です。そのときからプロじゃないものは見たくないと、いろんなものを見るたびにその思いが重なった。そんで、劇団四季のジーザス・クライストを見たときに、ものすごく怒ったわけですわ。ロンドン、ニューヨークでやったジーザス・クライストで世界中の劇団がこれを自分たちでもやりたいと思った。ところがどうだ、劇団四季のジーザス・クライストを見たら、世界中の劇団が、これはもう、どこでもやらなくてもよいと思うのではないか。

以来、基準にしたことがある。
自分の歌よりうまくないミュージカルは、見るべきではない。

わたし、じつはロック少年で、高校・大学までロックのバンドをやっていました。ドラムでしたがね。高音が出たんでバックコーラスというか、リード・ヴォーカルのラインから外れる部分をオレが歌う、みたいなこともやってたの。で、いまも、はは、ものすごく歌、うまいのよん。ハイウェイスター、歌えるんだぜ、へへ、みたいな。

また今回も前置き長いな。
本題に入ります。
もう昨日ですが、ヘドウィグのゲネプロ(舞台総練習)、見てきました。ええ、わたし昨日まで札幌でぎっくり腰で1週間寝てて、そんできょうやっと東京に着いたわけです。そんで最初のオーダーが、このゲネプロだったのです.

感想。
これは楽しみだ!

それじゃわからんな。まあつまりあのね、これは三上ヘドとはぜんぜん違います。三上のときは三上ですごかったけど、あれはいい意味でもそうでなくても三上のショウだった。彼の圧倒的なパワー。でも今度の山本ヘドは、山本だけのヘドではなく、中村中の絡むヘドであり、鈴かつさんのヘドであり、ジョン・キャメロン・ミッチェルの悲しみを背負ったヘドだったということだった。おまけにそれは日本のヘドだった。

しみじみするのはきっとセリフのせいでしょう(ちょっと自画自賛。えへへ)。
1つ1つのセリフがまるで詩のように響く。どうしてヘドウィグが書かれなければならなかったのか、それがわかる。ジョン・キャメロン・ミッチェルがなにを言いたかったのか、それが響いてくる。つまり、このヘドウィグは、悲しいの。これはショーじゃない。演劇なんだ。三上バージョンのように、ヘドウィグはオカマ笑いを笑いながら喋ったりはしない。酔っぱらって訥々と自分を語りだす。

で、なにはさておき、山本君、歌、うめえじゃないの、こいつ、って思いました。
中村中ちゃんはもちろん歌、うまいです。で、この2人の声のアンサンブルが、声質の差とその重なり具合がすごく気持ちいいんだなあ。そんでもって中村君のイツァークの出番、すごく工夫されていて、鈴木さん、これは考えたんですねー。ジョン・キャメロンがいまもう一度ヘドウィグをつくったら、やっぱりイツァークをこうするだろうって思った。いや、もっと正確に言うと、ジョン・キャメロンの気づかないイツァークを、鈴木さんはジョン・キャメロン本人に代わってジョン・キャメロン本人に気づかせてあげた、みたいな。こういうの、演出家やってて醍醐味だろうなあ。力量です。昨晩、初めてお会いしたけど、プロの顔をしてた。

でね、ヘドウィグの山本耕史、化粧その他、女装部分、すごいですわ。なんでこんな? って感じ。でも、言わせてください。ネタバレですけど。これが最後の転換ではじける。彼、すごく綺麗なの。
神々しいのでです。
うわ、芸能人って、こんなに綺麗なんだ、って、思ったです。
しかしなんであんな躯してるんだろ。ってか、あの肌。
思わず手を伸ばして、あ、すんません、ちょっと触っていいですか、ってお願いしたくなっちゃう。
それがわかるステージになってる。あの綺麗さにはひれ伏します。

でね、わたし、ゲネプロ見て、不覚にも左の目から涙が一粒こぼれました。
もう最後に近く、

(トミーの歌:)「LOOK WHAT YOU DONE. YOU MADE ME WHOLE. BEFORE I MET YOU, I WAS THE SONG. BUT NOW I'M THE VIDEO.(きみがしてくれたこと。ぼくを完全にしてくれた。きみ会う前、ぼくは歌でしかなかった。それがいまはビデオだ」

(ヘドウィッグの歌:)「LOOK WHAT I'VE DONE. I MADE YOU WHOLE. YOU KNOW THAT TOU WERE JUST A HAM. THEN CAME ME, THE DOLE PINEAPPLE RINGS...(あたしがやってあげたこと。あなたを完全にしてやった。ただのハムだったあなたのもとに、あたしが来たの、ドールのパイン缶の穴開きパインが)」

*****
ね、すごいでしょ。

悲しいヘドウィグを、ぜひ見てください。この劇が何を言おうとしていたのかを、山本君のことばで聞いてみてください。これは、おそらく、回を重ねるごとによくなってくるはずです。本日のこけら落とし、観客の入った中で山本、中村の2人が、どう化けるか、ものすごく楽しみです。この劇、翻訳してよかった、って昨晩、舞台を見ながら思いました。わたしの日本語がプロによってこなされ、配置され、語られるさまを見て、ゾクゾクしたもんね。はは。これは4月の新宿コマも見たくなってきた。そんときもまた日本に帰ってこようかしら。

****

で、ここで業務連絡。
あした金曜日の新宿FACEのチケットが何枚か別枠で出るそうです。
新宿FACE、ほんとは完売だったんですけど、十数枚かしら、会場の中央部分の席があるって。

わたしのこのブログで告知です。
早い者勝ち。
販売のサンライズ・プロモーション東京
0570-00-3337
ここに電話したら、買えるって。
16日のヘドウィグ、あるんですか? って電話で言ってみてください。

では、

February 13, 2007

元NBAスターのカムアウト

日本・札幌に帰っております。ところがインフルエンザと(急な雪かきによる)ぎっくり腰でこの1週間、ほとんどなにもやる気なしで過ごしてしまいました。その間、いろいろなことが起きたようです。

まず大きなニュースだったのは7日水曜日のジョン・アミーチ(36)のカムアウトでした。これはESPNというアメリカのスポーツ専門チャンネルで「Outside of the Lines」というタイトルを付けて特別枠で放送されました。

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=2757105
(冒頭のYouTubeが削除されても上記のESPNサイトで動画が見られるかもしれません)

もっとも、このカムアウトは近々出版される彼の自伝「Man in the Middle」(ESPN Books)の中でなされているのですが、その前触れという形ですね。
amachiebook.jpg

彼のカムアウトの何がニュースかというと、米国4大プロスポーツの1つ、全米バスケット協会(NBA)ではこれが初めてのカミングアウトだということなのです。4大スポーツ(NBA, MLB, NFL, NHL)では6人目のゲイ男性、ということ。で、APなどが一斉にこれを報じることにもなっています。ここでも紹介したことのあるゲイ人権団体「ヒューマンライツ・キャンペーン(HRC)」は、例の「カミングアウト・プロジェクト」(カムアウトを呼びかける活動)でアミーチにスポークスパーソンになってくれるようお願いしているそうです。

アミーチはペン州立大学からオーランドー、ユタ、クリーブランドという名門チームでプレーして3年前に引退、現在はロンドンで暮らしています。さて、カムアウトのいきさつはまあ、だいたい同じです。現役時代には考えられなかったということ。しかしユタ・ジャズ時代からすこしずつゲイとしての生き方を受け入れてきたこと。2人のチームメートが、おそらく最初から彼がゲイであることをわかっていただろうということ。

その1人がグレグ・オスタータグ。彼だけがアミーチにゲイかと訊いてきたといいます。その彼に、アミーチは「You have nothing to worry about, Greg」と答えた。「そのことで、心配することはないもないよ、グレグ」。

もう1人は彼が「マリンカ」と呼ぶチームメートでした。これはロシア語で「おちびちゃん」という意味だそう。ロシア出身のアンドレイ・キリレンコという選手のことでした。質問されたわけではないが、おそらく彼もアミーチのセクシュアリティを知っていた。ユタ・ジャズでの最後のシーズン、クリスマスが終ったあるときのことだそうです。「マリンカがインスタントメッセージでぼくを大晦日のパーティーに招待してくれたんだ。自分は気に入った友達しか招待しない、と断りながらね。で、次のメッセージを読んだとき、ぼくは涙が出てきた。『ぜひ来てくれ、ジョン。もしいるなら、もちろんきみのパートナーも大歓迎だ、きみにとって大切なひとのことだ。連れてこいよ。それがだれであっても、ぼくはかまわない』」

その日は自分でパーティーを開くことになっていたので招待は断わらざるを得なかったそうですが、アミーチは代わりに500ドルもするジャン・ポール・ゴルティエのボトルのシャンパンをキリレンコに届けました。いい話だね。

さて、かつてのチームメートやコーチなどから、彼のカミングアウトへの反応が表に出てきています。
いろいろあって面白いです。

ダラス・マーヴェリックスのオーナー、マーク・キューバン「マーケティングの見地から言うと、たまたまゲイだった選手は、とんでもなく金持ちになりたいんならそりゃカムアウトすべきだな。マーケティング(商売)とエンドースメント(スポンサーの獲得などの社会的認知のこと)の話で言えばこんなに最高のことはない。単にスポーツ選手だっただけでは得られないくらい、多くのアメリカ人にとっての最高のヒーローになれる。で、金がポケットに入ってくるってわけだ。逆に言えば、だれかがゲイだからっていってそれで非難するようなことをしたら、そりゃつまはじきだ。抗議のデモはされるしいま持っているスポンサーまで失うことになる。なんでもいま世界中が、そりゃ難しいことだ、困難なことだって思うようなことをそれこそ自分が自分であるために困難をものともせずに立ち上がって克服しようとしたら、それがなんであろうとそれはもうアメリカン・ヒーローなんだ。それがアメリカの精神ってなもんだ。逆境に立ち向かい、自分が何者かであるために闘う、それがたとえ多くのひとには分かってもらえないようなもんでもだ、それは強い意志を持ってなくちゃできないってもんだ。苦しいことにも耐えてな。まあ、そうはいっても彼(アミーチ)をジャッキー・ロビンソン(黒人で最初の大リーガー)に喩えるつもりはないけど、しかしいろんな点で似たような部分もある。やつはロールモデルになるよ」

キューバンの上記のコメントはthe Fort Warth Star Telegramという新聞に載っていたものですけど、ま、そのまま受け取るにはちょっと理想的すぎますけどね。でもしかし、おそらく彼はそう言わねばならない、そう言うことでそういう理想に近づくべきだ、という思惑をしっかり意識して発言しているのだと思います。まあ、エール半分だな。いいやつだ。

ではほんとうのところは、ってんで次のコメントを。

ユタ・ジャズのコーチ、ジェリー・スローン(反ゲイの侮蔑語でアミーチを呼んだことがある輩らしいです)
「(侮蔑語で呼んだことは)ああ、そりゃきっと問題あったかもな。はっきりとは知らんが、だいたいおれはいつも人の心がわかるんだ、言葉じゃなくて。人間ってのはやりたいことをやるんだ。べつにそれが悪いとは思わんよ」(訳者注;英語でも言ってることがよくわからないのです=Oh yeah, it would have probably mattered. I don't know exactly, but I always have peoples' feelings at heart. People do what they want to do. I don't have a problem with that.)

クリーヴランド・キャヴァリアーズのレヴロン・ジェイムズ(現在の若手NO.1スタープレーヤー)
「チームメートってのは信頼が置けなくちゃダメだ。もしだれかがゲイでそのことを自分で認めてないとしたらそれはそいつが信頼が置けないやつだってことだ。チームメートの条件としてそれが第一のこと。みんな信頼してやってる。部室内、ロッカールーム内の規則てのを知ってると思うけど、ロッカールームで起きたことはそこから出してはいけない。それが信頼ってことだ、マジで。そういう信頼の問題ってすごく大きなもんだ」
(訳者注;これも何が言いたいんだかよくわからんね。カムアウトのパラドクスに関して、もうすこし理解があってもよさそうなもんだけど、高校卒業後すぐにキャヴァリアーズにドラフト1位で入ったもんだからいまもあまり世間のことを知る機会がないんだと思う。「カムアウトのパラドクス」ってのは、カムアウトしなかったら嘘つきになり、カムアウトしてもいままでずっと嘘つきだったということになること、あるいはカムアウトしたら嘘つきよりひどいゲイだということになるということ;したがって、ゲイであることはいずれにしても信頼の置けないやつであるという結論になるわけです)

オーランドー・マジックの選手グラント・ヒル
「ジョンがそうしたことで、きっと現役っでプレーしてる選手でも引退してる選手でも、励まされ自信を得て、これからカムアウトしやすくなるはずだと思う」

NBAのコミッショナー、デイヴィッド・スターン
「わがリーグはじつに多様性に富んでいる。NBAで問題なのはつねに「試合に勝ったか?」ということであり、それだけだ。それ以上の詮索は不要」

フィラデルフィア・シクサーズ、シャヴリック・ランドルフ
「おれにゲイだって寄ってこない限りおれは大丈夫さ。ビジネスの問題である限りいっしょにプレーすることに問題はないよ。まあ、でもロッカールームじゃちょっとぎくしゃくした感じになるだろうけどな」

トロント・ラプターズのコーチ、サム・ミッチェル
「スポーツってものの何たるかを考えると、それにロッカールームってのもあるしね、なかなか難しいものがあるな。タフな問題だよ。まあ、そんなにたくさんだとは思わないが、チームの1人か2人は(いやだってやつが)いるだろうね」

フィラデルフィア76サーズ選手、スティーヴン・ハンター
「マジかよ? やつがゲイだって? いまの時代、ダブル・ライフを送ってるやつっているからなあ。オレ、テレビたくさん見てるからわかるけど、結婚してる男がゲイの連中と遊び回っていろんなバカなこととか気持ち悪いこととかヘンタイなこととかたくさんやってるのを知ってるさ。まあ、オレに言い寄ってこなけりゃオレは関係ないけどね。男らしくバスケットボールをプレーしてちゃんとした人間として振る舞うなら、オレのほうには問題はないけど」

スポーツ界の抱える困難が、これらのコメントに如実に現れているようです。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

g2007012207geiba.jpgg2007012207higasiouen.jpg

 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

January 16, 2007

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ、再び

hedwig.jpg


2月15日の「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」の公開に向けて、1と月前にあたる15日からとうとう本格的舞台稽古が始まったようです。山本耕史くん、中村中ちゃんらが演出の鈴木勝秀さんらスタッフと顔合わせをしたよとの連絡が入りました。
中ちゃんのブログもちょっとそのことに触れているようで。
http://www.nakamura-ataru.jp/blog/index.html

でも、新宿FACEの公演はなんだかとっくに完売らしい。(仙台、大阪、名古屋、福岡でもやるけどわが故郷、札幌は残念ながら公演、ないですねえ)
で、急きょ、新宿厚生年金で4月7、8日に追加公演決定と。厚生年金って、箱デカすぎでないですか? でもFACEの舞台とはまたかなり違ったものになるだろうから、それもまた面白そう。

わたしは2月15日のこけら落としを観に行きます。4月も日本に行けるだろうか?
お時間とお金とご興味のある方はチケット買ってくだされ。 詳細は以下に。

ヘドウィグ公式サイトへはここをクリック

以下、わたしの提供したコピーっす。

ミュージカルと侮るな。ロックと蔑むな。これは東西分断とジェンダー分裂の20世紀末文学と音楽の和合的偉業。ここを過ぎてこそのかなしみの21世紀。しかもここを過ぎねば、かなしみが「愛しみ」と書かれることも知り得ない。

December 30, 2006

デップがマーキュリーに

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ジョニー・デップが91年にAIDSで死んだクイーンのヴォーカリストのフレディ・マーキュリーの伝記映画に主役することになったらしいです。製作はロバート・デニーロのトライベッカ・プロダクション。クイーンのギタリストのブライアン・メイが英インディペンダント紙に明らかにしました。

フレディは当時、最後まで自分がゲイだとは言わなかったし、AIDSだと関係者が明かしたその翌日にロンドンで亡くなりました。おまけにインド人の血を引いていたこともほとんどだれにも話していなかった。いろんな意味でがんじがらめになっていたんでしょうね。でも一方ではものすごいパーティー好きで色恋沙汰も数えきれず。

わたしが生前も死後も彼にあまり感情移入できなかったのはでもそういう意味ではなくて、クイーンの音楽自体どうも好きじゃなかったせいですけど。80年代のロックって好きじゃなかったんですよね。おまけに当時のわたしは「クイーン」という意味すら知らなかった。ウブと言えばウブでした。はは。

November 02, 2006

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

一部スポーツ紙などですでに紹介記事が載りました=写真=が、NY発のグラムロック・ミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」が来年2月15日から新宿歌舞伎町のライヴハウスFACE、および大阪、名古屋、仙台、福岡で再々上演されることになりました。

その公式サイトが昨日、オープンしました。
http://www.hedwig.jp/

わたしが原作の台本を歌詞まで含めてすべて忠実に、なおかつ発語してもリズムが乱れないよう語呂よく翻訳しました。ってか、舞台セリフなんでかなり難しいんで、日本語の脚本は演出家の鈴木勝秀さんに改竄自由に任せています。

昨年まで三上博史でパルコ劇場で2年続きで公演が行われていますが、今回はより若い、原作に近いヘドウィグをねらってるそうです。で、そのヘドウィグは山本耕史が半裸になってやるの。そのジェンダー混乱のパートナー、イツァークを中村中ちゃんが演じます。

まあ、原作は90年代初めのジェンダーベンディングの傑作。あの当時の時代性、政治性もおおいに感じる。東西分裂と男女分裂とその和解と融合と。つまりはすごく深読み(もちろんクイアリードですがね)もできる物語です。ミュージカルというより、ロックのライブコンサートに近い舞台構成ですんで、タテノリ好きのひともどーぞ。

チケットは今月18日から電子チケットぴあとかローソンとかで発売になるそうです。

ロッキーホラーショーじゃないけど、ヘドウィグ・フリークという大ファン層が日本にもすでに存在してるそうなんで、会場はきっと若い女の子が圧倒的でしょうけど、冬の寒いさなか、熱い狂乱のステージの炎をあなたの心に点してください。

October 11, 2006

全米カミングアウトの日

本日、10月11日は米国では「ナショナル・カミングアウト・デイ」です。

このリンクで、各界の著名人がゲイの人権とカムアウトを奨励するスピーチを行ったのがまとめられています。

これはゲイの最大の人権団体の「ヒューマンライツ・キャンペーン」という組織の総会とか表彰式とかでのビデオクリップ。最初はナブラチロワ姐さん。「メッセージはシンプルなたったひとつのこと。アウトなさい。カムアウトよ」。

ボーイスカウトでゲイ差別があって、ゲイのスカウトが追放されたときに「そんな差別をする組織になんかもう寄付しない」と表明したスティーヴン・スピルバーグも話してます。テレビのドラマでカムアウトしたときのエレン・デジェネレスも。

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アン・リーももちろんあの今年の人権大賞の授賞式のスピーチからの抜粋ね。同じくジェイク・ジレンホールもいます。彼はブロークバックに触れて「あの物語は、他のどの愛の物語とも平等だ」って言った部分をクリップされてますね。

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アン・ハザウェイなんか、自分のお兄ちゃんのマイクがこの秋に(今年のことか?)5年間付き合ったパートナーのジョシュと結婚するの、ってカムアウトしてる。「あたし、花嫁の付き添い役(ブライズ・メイド)よ!」だって。ふうん、兄ちゃん、嫁のほうなんだ(笑)

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「トランスアメリカ」のフェリシティ・ハフマンは、ヘテロセクシュアルから見るLGBTの問題ってものを「それって最初は、あなたかわたしか、という問題。次に、あなたとわたし、という問題。それから最後には、あなたはわたし、という問題」と、とても哲学的に語っている。これはなるほど、素敵な言い回しですわね。氷の微笑のシャロン・ストーン姐さんも、「わたしたちみんな、カムアウトしなきゃダメなの」って怖い顔だぞ。

クリントンは夫も妻も両方。撮影時に時間差はあるけどね。
今回のアルバムを出す前のとんでもなく太っていたころのジャネット・ジャクソンもいますね。わたしゃアリサ・フランクリンかと思った。

で、これを見ていて、というか最近、あの中村中ちゃんの出た「僕らの音楽」で、安藤優子さんがインタビューアーでよかったという話を聞いたりもしながら、来年の東京パレードとかには、こういう有名人を巻き込む努力もしてみたらどうだろうと思いました。

ねえ、安藤優子をパレードに誘うとかどうでしょう。彼女、わたしの大昔の「フロントランナー」を自分のニュース番組で宣伝してくれたくらいにゲイフレンドリー(なはず)。もちろん中村中ちゃんといっしょに歩いてもらう、という話で。そのころには彼女もビッグになってるでしょう。あるいは、こんどヘドウィグをやる山本耕史も歩かせる。あ、その話はまだここで書いてませんでしたが、来年2月、ヘドウィグの再々公演を、全面書き直しでやるのです。その翻訳をわたしが担当しています。詳細は別の書き込みで、後ほど。

話を続ければ、ほかには文化人から山田詠美はいかがでしょう? 村上龍といっしょに出てもらおう。あるいは詠美ちゃんを口説き落とした後で龍にもプッシュして、と頼む。あとは政治家も。自民も民主も関係なく巻き込んで、社民の福島瑞穂なんかは出てくるはずよ。辻元だってね。党派性とか政治利用とかうるさいやつがいるだろうけど、関係ないわ。

そんな人選を考えてるだけでも楽しいわ。

そんでかならず専門の担当係を付けて、失礼のないようにしてね。謝礼なんか必要ないから、このLGBTの問題がいかにヒップかということとわれらの熱意を伝える。さすればかならずや出てくれると思うけどね。とにかくより広い社会性を持たせることだ。

いかがなもんでしょう?
有名人って、こういうふうに利用されるために存在してるようなもんだしさ。
ぜひご一考を。

September 23, 2006

ふたたび「友達の詩」について

いつか右手で書いていたものを左手に移し、右腕に筋肉をつけて左手をかばい、傷つきやすい心のかさぶたをはがしては心ではないところの皮膚を移植し、けんめいに、けんめいに、もう泣かないように、もう傷つかないように、もう死にたくならないように、いろんなものを弾き返せるように、鎧をまとい、剣を取って生きていく。おとななんてのも、一皮むけばそんなもんだ。

でも、土の中に埋めた、大昔の心のかけらの化石が、ときどき身を震わせて号泣したがる。
あのときの自分が、地層の奥で身悶えして泣きわめく。

そんなきっかけはいつもだいたいなにかの歌だ。

触れるまでもなく先のことが
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋をずいぶん
続けてきたね

胸の痛み治さないで
べつの傷で隠すけど
かんたんにばれてしまう
どこからか流れてしまう

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

忘れたころに
もいちど
会えたら
仲良くしてね

手をつなぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な
人は友達くらいでいい
友達くらいがちょうどいい

中村中が15のときにかいたというこの詩は、おそらく、巧まざる心の動きのたぐいまれに巧みな描写だ。こうした複雑に折り畳まれた心象を、彼ら/彼女らはあらかじめ敷かれた鉄路のような強引さで運命的に手にしてしまう。そうした道筋しかないような袋小路。迷路とはいえしっかりと矢印の示されている十五夜。「先のことが見えてしまう」「そんなつまらない恋をずいぶん続けてきたね」と中村中は自分に向けてこともなげに言い切る。15歳の中村中の、「ずいぶん」とはどれほどの数を指すのだろうか。あるいはいまやっと21歳だという中村中の。

いやこれは、「触れるまでも」経験するまでもなく「先のことが見えてしまう」と知った15歳の中村中の、その15歳にとっての過去形ではなく、いずれの未来においてもこれからずっとすでに定まってしまっている先取りの過去のことなのだ。

誤読の罠にはまるのはそこばかりではない。

この詩で最も印象的なフレーズ、「手をつなぐくらいでいい」に耳を奪われ、わたしたちは中村中の、好きなひとへの最も適度な願いがまずどうしても、ふつうに考えれば最小限にささやかな願いと聞こえる、「手をつなぐ」ことだと言っているように読み取るのである。

だがこれは誤りである。
なぜなら、中村中は直後にその願いをさらに縮小し、望むことはじつは手をつなぐことではなく、ただたんに「並んで歩く」ことだと訂正するのだ。

そうしてそれすらもふたたび思い直す。
それすらも「危ういから」と、横に並び歩く距離ですらなく、はるかに遠い、ただ「見えてい」ることだけで満足するように、と、自分にとってはそれで「上出来」なのだ、と言い聞かせるのである。しかもそれもいまそこで具現している現実ではなく、「見えていれば」という形の、ここにいたってもまだあえかな希望としてのつつましやかな仮定法で。

接続詞のない、箇条書きのように並べられる3つの願い事はだから並列ではない。それはそっと提示された、譲歩と諦めと退却の、縮んでゆこうとする時系列だ。

だが、好きになればなるほど、その事実を思えば思うほど相手から遠く身を退かねばならない事情とはいったい何なのか。「並んで歩く」ことすら「危うい」状況とは何なのか。さらに続く、「忘れたころにもいちど会えたら、仲良くしてね」というさりげない謙譲は、何を忘れ、誰を主語とすることを前提としているのだろうか。

忘れることなど、じつはないのだ。なのに、「仲良く」というせめてもの願望は、忘れない限り成立し得ない。そうしてそれこそが、「友達」という中立性への、あらかじめ不可能な希求なのである。

その事情に共感できる経験を、わたしたちのだれが、どれほどが、共有しているのだろう。
「友達の詩」は、取っ付きやすいそのタイトルや、ともすればつねに微笑んでいるようにすら聞こえるその歌唱とは裏腹に、じつは安易な共感を求めていない。そんな有象無象を相手にしてはいない。「友達」へと向かうヴェクトルは、希望というよりもむしろ、退却しつづけた果ての絶望をあらかじめ先取りしたものだからだ。

大切な人が見えていれば、それだけでたしかに上出来だった。
そのひとはじつは「友達」ですらなかった。
「友達ぐらいでいい」のその「ぐらいで」とは、ただその程度を曖昧さで広げるものではなく、「ほんの〜だけで」「せめて〜ばかりで」とのニュアンスの、おおく自嘲的な否定さえ伴うむしろ小心な副助詞なのである。

中村中と、それらを共有する者たちはみな、そんな季節からの生き残りだ。
そうして肝心なことは、生き残りに恥じず、中村中の「友達の詩」はけっして嘆き節に陥らない、ということである。生き残るためにはつん抜けざるを得なかったようなその歌唱の決意的な明るさによって、いま、新しく生き残ろうとしている者たちは絶望を突きつけられつつもおそらくこれに励まされる。こんどこそこの詩を逆に、先取りの過去として嘆くのではなく消化するために。
中村中はこの絶望を消化して生き残った。だから、歌に凝結させ得た。このじじつは大切だ。
そこまで知ったとき、この詩を歌えるのは、おそらく中村中以外にはいないのだろうということにわたしたちは気づくのである。

中村中は、現代だ。
21歳にしての、この命の強さと美しさを、言祝がない手はない。

September 10, 2006

エレンがオスカー司会者に

アウト・レズビアンのエレンが来年のオスカーの司会に決まりました。女性としてはウーピー・ゴールドバーグに次いで歴代2人目。エレンって、このところ毎日午前10時から1時間のトーク番組「エレン・デジェネレス・ショー」が人気で(私も見とります)、これをトークショー王者オプラ・ウィンフリーの「オプラ」にぶつけて午後4時からに編成替えになったばかり、というノリノリムード(昭和語)。

エレンって、日本だと彼女が話しているのを見たことのある人は少ないでしょうし吹き替えじゃ意味がないんだけど、見ていてほんとに嫌味がないっていうか、ジョークもすごくさらっとしているしなんとなくほんわかしていてきれいなのです。ゲストとのトークも粘着質じゃない、むしろはずしている部分がおもしろい、しかもしっかりエッジーなんだが意地悪じゃない、という感じ。そういう意味でもじつに頭のよいチャーミングな女性です。見た目どおりっていえば見た目どおりですわ。

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司会業でもね、2001年の9/11の直後のエミー賞の司会をやって、で例の、その年のオスカーで白鳥の変なドレスを着て登場したビョルクをパロってとんでもなく大きな白鳥の首巻きドレスを着て登場してみせて、うちひしがれていた観客・視聴者を笑わせた。あのとき、ああ、こんなときの笑いはこれしかないなって思ったもんです。いま、48歳。何度か顔を引っ張ってるけど(白人の女性は特に大変なんだよね)、いまでもとてもキュート。

さあ、今度は何を着て司会するんでしょうね。エレンは「タキシードにキュロットかしら? なんていうの、あれって、スコート?」とコメントした後で、「そういや、まだあの白鳥のドレスをもってるわ」と言ってました。ま、そんなことはないでしょうけど。

オスカーの司会はこのところ、ロビン・ウィリアムズからビリー・クリスタル、ウーピーにデイヴィッド・レターマン、そしてこないだのクリス・ロックと続いてたけど、これをするってのはアメリカの当代きっての人気コメディアン・コメディエンヌってことです。

最近のビアンはナブラチロワが全米オープンでダブルス優勝、モレスモのウィンブルドン優勝(全米じゃシャラポワに初敗戦だったけど)と、頑張ってるねえ。日本でも尾辻さんだし。

July 22, 2006

トランスアメリカ

日本でもついに公開になりましたね。「トランスアメリカ」。
これは、“父”と息子のアメリカ横断(トランスアメリカ)の物語と同時に、トランスセクシュアルを取り巻くアメリカ(トランスアメリカ)の現状と希望とを描いた佳作です。

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監督のダンカン・タッカーに、この5月、日本公開に先駆けてマンハッタン・グリニッジヴィレッジの老舗カフェ「ラファエラ」でインタビューをしました。その内容をここで公開しますね。映画鑑賞の参考にしてください。

**

●赤ん坊が生まれるって?

DT そうエージェントを通して捜した代理母で。名前は知らされてない。もう38週目でいつ生まれてもおかしくない。生まれたって連絡が来たらすぐにカリフォルニアに飛ぶんだ。

●オープンリー・ゲイだって聞いたけど、赤ん坊って?

DT ゲイっていうか、ぼくはぼくに優しくしてくれる人とだったらだれとでも寝るよ(笑)。区別しないようにしてるのさ。この映画を作っていて学んだことの1つは、残忍性ってのは最近ではどの社会層にも見られるってことで、区別はない。男でも女でも保守派でもリベラルでも、黒人でも白人でも。人種って、アジア人とかヒスパニックのことも最近は話すけど、とにかくいろんな肌の色がある。セクシュアリティとかジェンダーってのも同じ数だけいろんな色があるんだってこと。ジェンダーって、ボートみたいなもんだと思う。ある人たちはボートの中心部に座っていて、真ん中だからあんまりボートも揺れない。でも縁の方にいる人たちにはボートは揺れてるんだ。すごく縁の人はそれで勢いあまってひっくり返って転げ落ちちゃうみたいにね。男も女もゲイとかストレートとか言ってるけど、そんな簡単なものじゃなくて、でも簡単に言っちゃえば僕らはただの性欲いっぱいのアニマルってことだよ。男で20歳だったりしたら、それこそ木の股とだってやれちゃうんだからね(笑)。
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●アメリカ人って、すぐにレーベル付けたがるからね。さて、赤ん坊に絡めて、もうすこし「家族」ってものについて話を聞かせて。これからあなたが持つ「家族」は一般に言う伝統的な「家族」とはちょっと違うでしょ?

DT たくさん親しい友だちがいて、彼らが家族を持っていて、あるいはいま付き合ったりしていて、そういうの見てて、このまま一人で待っていてもしょうがないなと思ったんだ。映画が出来上がって去年、マーケティングもとてもうまくいって、最後にはこうやって日本まで買ってくれたわけだしね、日本は最後の買い付け国の1つなんだよ。うれしかったね。で、映画がうまくいった。じゃあ次は何だってことになって。そうか、この映画で借金することもなくなったし、家も買えるし、子守りだって雇えるじゃないの、って気づいたわけ。で、ずっと長いこと自分の子供が欲しかったからね。よーしって。そんで、昨年の8月には代理母の女性が妊娠してくれたというわけ。

●この「トランスアメリカ」の制作自体が、家族を持とうと決心させてくれたというところもある?

DT その2つはいっしょだね。この映画、ずっと何年も作りたかった映画だし。

●ブロークバックマウンテンは7年かかってっていうのは有名だけど、この映画は?

DT 5年かな。で、いまでもまだこうしてインタビューで忙しくしてる(笑)。昨日なんて、カンヌでケヴィン・ジーガーが新人賞をもらったし、まだ続いてるものね。

●ケヴィン、よかったね。でも、とてもハンサムなんで、トビー役にはハンサムすぎて最初は採用しないつもりだったんだって?

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DT ああ、ほんとに彼は使うつもりじゃなかったんだ。彼はカナダのトロントの出身で、自分でこの役を取るためにリサーチをしてきてね、街に立つ若いハスラー(男娼)たちに話を聞いたりしたらしい。僕もこの役を作るためにいろんな若い連中に話を聞いたりしてたからね。で、リハーサルをやったんだけど、とにかく彼、あきらめないんだ。ダメだったらまた別のやり方を試すみたいな、全力で役作りをしてた。この役を取るという決心はすごいもんだったよ。で、彼に決めたんだ。

●あなた自身も、このニューヨークにある家庭や地元から疎外されたLGBTのための高校、ハーヴィー・ミルク・ハイスクールでリサーチをしたんでしょ?

DT いや、あそこはリサーチじゃなくて、あそこでボランティアで教えたりしてたんだよ。だからLGBTの若い子たちのことはわかる。それにあそこにはハスラーをやってる子がいるわけじゃないしさ。で、リサーチというか取材は別の場所でいろいろしたね。基本的にこれは、社会にミスフィットしてる人間を描いた映画なんだ。むかしジェイムズ・ディーンが「理由なき反抗」でやったのと同じなんだ。あれも社会に合わない、はじかれた若者の話だった。で、ジェイムズ・ディーンの役をもっとボリュームアップして、この「トランスアメリカ」のフェリセティ・ハフマンのブリーの役が、いまの社会の、べつの種類のだけど、ミスフィットということなんだよ。基本的に、このストーリーは、社会に誤解され、疎外されている人間が、いかに大人になるかを探す物語なんだよね。トランスセクシュアリティそのものが、いかに大人の自分に変身するかという問題だから。

●なるほど、そうか。性別適合手術までの話というのは、成長した自分になるための成長譚なんだ。

DT ぼくのいちばん好きな物語は何かというと、「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」なんだ。15歳のころに、あの本は7回も読んだ。で、自分の自由にできる予算内で「ロード・オブ・ザ・リング」を作るにはどうしたらいいかって考えたわけだ。そのためにはまず登場人物は、架空の存在じゃなくて実際の人間にしようと。で、それからそいつが探求の旅に出る。で、友だちに出遭い、敵に出遭い、故郷に帰ってきたときには別の人間に成長している。で、主人公は社会にミスフィットの存在で、どこにも自分が帰属していないと考えていて……そうやって組み立てていって、だからブリーとトビーは、どこかサムとフロドに似てるでしょ? ブリーはサムのように捨てにいく宝物を携えながら旅をしている。

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●ははあ、すごいなあ。で、トビーがブリーにセックスを提供しようとする場面も出てくるわけか。サムとフロドの2人の関係が、逆にトランスアメリカでは明示的にそこにかぶってくるね。面白いなあ。

DT トビーはセックスでしか他人と関われないからね。それ以外に方法を知らないんだ。

●あのシーンはどういうふうに演技指導したの?

DT ケヴィンにはとにかくシンプルに演じるようにって言った。「マイ・プライヴェート・アイダホ」で、リヴァー・フィニックスがキアヌに「I really love you, man」って言うシーンがあるだろ? あんなふうに、飾りのない、朴訥で裏のない正直な、まんまの感じで演じてくれっていったんだ。で、それがあのブリーに背を向けながら「It's like...I see you(見えるよ、本当のあんたが)」って言うシーンになった。

●あれはほんとうに胸がつぶれるシーンだった。

DT そう、あのシーンで、みんなに、居心地の悪さや悲しさや可笑しみや共感や、そうね、オエッていう感じとかも、そういうものすべてを同時に感じてほしかったんだ。肝心要のシーンだし。

●フェリシティ・ハフマンにしても、ブリーのこの役はまったく新しい経験だったんじゃないかな。

DT ホルモン剤の副作用でおしっこが近くなるせいで、夜に車を停めて路肩で用を足さなくてはいけなくなるシーンがある。道路を離れて草の生える場所でしゃがみ込んで用を足すにはヘビが恐くてダメ。で、やむなく立ち小便をするというシーンでね、これはいわば真実の暴露という場面で、いかに本物らしく撮るかがカギだと思って、医療用の模造ペニスを用意しようとしたら2万ドル(220万円)もするっていうんだ。それで12ドル95(1400円)で代用品を用意して小道具の人たちに中央に孔を通してプラスチックボトルからお湯が流れて出てくる仕組みにしたんだ。で、メイキャップの女性スタッフには本物らしく色を塗らせて、これは男性陣がボランティアでポーズをとってモデルになって(笑)。で、撮影の夜だったけど本番前にフェリシティがそれを付けるっていうんでトレイラーのトイレの中に入って、そうしたら蛍光灯の光ですっごく生々しく見えたんだそうだ。そえでフェリシティは「オー・マイ・ゴッド!」って言ってね、それで出てきて、泣き出したんだ。ただただ泣くだけだった。この映画の撮影はだいたい時系列に沿って順番に撮っていたから、彼女、そのころにはブリーにかなり自分をだぶらせていたんだと思う。で、そのとき初めてわかったんだって。ブリーがどんな荷物を抱えていたのか、ペニスを持っている女性が、どんなに辛い人生を送っているのかってことをね。ぼくはブリーを慰めるみたいにフェリシティを慰めてた。それからぼくらはもっと深い友だちになった。

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●トランスジェンダー、トランスセクシュアルの問題って、アメリカでもかなり最近になってやっと取り上げられてきたもので、LGBTコミュニティの中でも関心は90年代なんかぜんぜん高くはなかったよね。その意味では彼ら彼女たちはマイノリティの中のマイノリティでもある。

DT そうだね。ゲイ・コミュニティでもトランスジェンダー、トランスセクシュアルの人たちのことを理解していなかった。ものすごく極端なゲイな連中がトランスになるんだとか冗談みたいに言ったりしてた。彼らは心の中は本当の異性愛の男性と女性なんで、ゲイとは別の辛さがある。ゲイの人権運動の中でも救ってこなかった人たちだ。結婚しているせいで見えてこない人たちもいまもたくさんいるし。

●アメリカより先に、ベルギーとフランスだったか、ヨーロッパの映画で「ma vie en rose(ぼくのバラ色の人生)」というキュートな映画があったよね。ヨーロッパの方がこなれているというか寛容というか、同性婚の制度も進んでいるしそういう点では柔軟だなあと思う。

DT 「ぼくのバラ色の人生」に比べて、「トランスアメリカ」はもっと現実的でシビアで暗くてぐったりする映画だっていうわけじゃないよ。これは究極的にはコメディだし、人生を祝福する映画だと思う。泣いたり、いろんな感情も高まったりするかもしれないけれど、コメディというのは人びとに一体感を与え、希望を与えるものだ。差別されるマイノリティを描いた映画には古くは黒人差別の「アラバマ物語(To Kill a Mockinbird)」があり、最近では「ボーイズ・ドント・クライ」があるよね。「ボーイズ」はすごい映画だけど、異端者やはみ出し者は殺されるべきだと誤解される話だ。でも、この「トランスアメリカ」はアメリカで初めてトランスセクシュアルを主人公として、「死ぬ」のではなく「生きていく」話を提示した映画だよ。ハリウッド的なストーリー展開と冒険とコメディと、それからちょっと知的で人生の真実を伝える、自分が何ものかを教える、そんな要素とが融合した映画であってほしいと自分でも思ってるんだ。

●偶然だけど、ちょうど日本で、7歳の男の子が、自分が男の子であることを嫌がって女の子として小学校に通っているというニュースがあったんだよ。

DT ええ? それで、学校とか大人たちとかは受け入れてるの?

●学校はそのようだけど、周囲の大人たちにはそのことを知らない人もいて、匿名でのニュースだけど、こういうニュースになったらまたいろんな違った反応も出てくるかもしれない。

DT 日本の学校ってのは、とても画一的だって聞いたけど……。

●この映画の日本での公開がそういうところにもよい形で影響を与えてくれるといいなと思ってる。

DT あるトランスの人の話を聞いたんだけど、家族が10年以上も話をしてくれなかったんだって。でもこの「トランスアメリカ」を見てまた話をしてくれるようになったんだって聞いた。これはすごくいい話だと思う。ただ、言っておきたいけど、映画ってそれ自体はべつに「社会宣言」ではないんだから、それ自体に語らせるというかね。

●しかし、出来上がるまでが大変だったでしょう?

DT 永遠に出来ないんじゃないかと思った。借金は両親、兄弟、友人、クレジットカード会社と山のようにたまるし、これから10年はこの映画の借金返済に追われると思ってた。だれもこの映画が成功するなんて思ってなかったし、映画祭だってこれがコメディなのかドラマなのかわからないってなかなか受け付けてくれないし、そうしたらベルリン映画祭で賞をもらって、そこからバラエティ誌の映画評で褒められて、それからあれよあれよって間にみんなが注目ってことになってね。作り手側としてはね、アーティストとして俳優も撮影監督もメイキャップも衣装もほんとうに協力的でさ、給料を少なくしてもとにかく完成させようとして頑張ってくれたんだ。ただしビジネス側、制作陣、販売エージェントだとか配給会社だとか財務関係だとか、そっちはすごく保守的で偏狭で、大変だった。
ベルリンですらそうでね、「トランスアメリカ」は600席とか800席の会場で上映して、ベルリンの人たちで売り切れ状態だったんだけど、ハリウッドの関係者はだれも来なかった。たまたま知り合いのプロデューサーに会って聞いたら、「みんなトラニー(トランスセクシュアルへの蔑称)の映画なんて見ないんだよ。商売にならんから」と言うんだ。にもかかわらず賞をもらってバラエティに出たら掌を返したように殺到してきたってわけ。で、ビル・メイシー(エグゼクティヴ・プロデューサーでハフマンの夫)が「こいつらには見せるな。トライベッカ(NYで春に行われる映画祭)でやろう」って言ってきてね(笑)。で、トライベッカ映画祭でいくつかのオファーを獲得したんだ。だがまだそう大した数ではなかった。まあ、大都市でしか上映できないような映画だということで。ぼくとしては「愛と追憶の日々(Terms of endearment)」とか「黄昏(On Golden Pond)」とかを見て泣いたり笑ったりした家族層なんかもを狙って作ったつもりだったんだが、配給会社側も広告代理店側も、その辺がよくわかってなかったんだよね。だって、トビー役のケヴィン・ジーガーがいるんだぜ。こんなにきれいな男の子が出てて、女の子たちを初めとして女性層が来ないわけがない。ゲイだって来るさ。それにフェリシティ・ハフマンだよ、「デスパレート・ハウスワイブズ」の。ねえ、あんたらバカじゃないの、って言ってやったら、「でも、ストーリーがねえ」って言いやがってさ。

●そういう、性的少数者を描いた作品に対するマーケットの偏狭さってのは、そうすぐには変わらないかな?

DT これをやって気づいたことはね、ハリウッドでもどこでも、この世の中は政治だってことだね。ってことはまた、だれかひとりでもわかるやつがいれば、ルーズベルトでもチャーチルでもいいけど、大きく変わるチャンスもあるってことだ。ただ、なかなかそういう人物はいない。みんなわかってないんだ。この「トランスアメリカ」でゆいいつ、実際の人物をモデルにして描いた役柄がある。それはフィヌオラ・フラナガンが演じた、ブリーの母親役のエリザベス。ほんとに可笑しいしすごいキャラだし、最高。で、彼女は、実在する人物なんだ。でも、何人か評論家たちは「ありゃ,やり過ぎで、真実味がない」って言うんだよね。でも、あれは本当なんだ。ぼくの弟だって見たとたん「ダメだよ、ママを出しちゃ」って言ったくらいだから(笑)。

●この映画は、「家族」をもういちど作ろうとする映画でもあると思う。トビーは家族を知らない。ブリーは自分と家族を作り直そうとしている。あなたにとって、「家族」の定義って何です?

DT 家族って、だれもしないような世話をしてくれる人のこと。自分の欠けている部分を補ってくれる人。たとえば事故とかで手を失ったらさ、代わりにお尻を拭いてくれる人のことだよ(笑)。血とかじゃないね。そんなの、知らなければわからないもの。努力というか、コミットメントというか、自分を愛してくれていつも見ていてくれる人のことだな。

●次のプランは?

DT この夏にハリウッド・ミュージアムで「ブロークバック・マウンテン」と「トランスアメリカ」の両方のコスチュームを展示する展覧会があるんだ。フィヌオラとかトビーの服とか。それの運び出しを今週中にやらないと。

●映画は?

DT 赤ん坊が出来るから、1年は消えてるね。それで、本当にやりたい脚本を見つけてからだな。オファーはたくさんあるけど、やらなくちゃいけないってものはないから、まだ次のは考えてないよ。

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(了)

July 04, 2006

中田はさ

くっだらねえなあ、と思ってやめたんだよなあ。移動のバスん中でゲームボーイして遊んでるチームメイトにゃ、そりゃあ何じゃらほいと思うでしょう。絶望というよりもまあ、もうやってられないわ、一抜けた、って感じかしら。すべきことはしつ、かね。

あの引退宣言を、自らの商品価値を高めるためとかなんだとか非難がましく解説している御仁もいるが、いいんじゃないかね、それだけのことをやってもいいだけのことを、中田英寿はやってきたと思う。

18だか19だかで私の目の前に現れたあの少年は、しなやかで伸びやかで、ただひとり、つるつるっとした、まるでバターみたいなサッカーをしていた。それまでの泥臭く百姓一揆みたいなサッカーとはまるで違っていた。久しぶりに帰った日本でテレビを見たとき、「だれ、あれ?」と思わず訊いていたもんだ。

くっだらねえ最右翼はまたまた「産経抄」である。

**
伝えられるチーム内での孤高ぶりが、理解してくれない相手に話をしても仕方がないという生き方からきているとすれば、こんな不幸なことはない。▼いや、やめよう。半可通記者の推測ほど中田選手が忌み嫌うものはない。ただ、これだけはいいたい。日本の中心選手として、心情を吐露するだけでなく、敗因をもっと具体的に語ってほしいのだ。なぜ決勝トーナメントに行けなかったのか、チームに何が足りないのか。
**

バカじゃないのか、こいつ。
何が足りないのか、分からないから負けたんだ。
敗因を具体的に語っても、何にもならないから語らないのだよ。
甘えるのもいい加減にしろって感じだわ。
まったく、ふだんは強面の右翼のくせに、こんなときだけなよなよしいのね。

June 13, 2006

ちょっとまずい本当の話

 サッカー、こっちでも生中継されていて、見ましたよ。ニホン、いやいや、こっちのアナウンサーまでも川口のあの同点ゴール直前のフリーキックの止め方なんか、「ワールドトップクラス!」なんて褒めちぎってから、あやや、危ねえなあ、こういうときにぽろっと入れられちゃうんだよって思ってたらあっというまに入れられました。ひー。で、その後はぼろぼろと逆転追加点。

 あれ、なんだかんだいっても体力差でしたね。後半のシュート数も負けていたし、というか、攻め込むんだけど最後のシュートにまでつながらない。へなへなでした。あれほど戻りの速かったディフェンスも同点にされてからは気ばかり焦って攻め込んでカウンターアタックに戻ってこられなかった。

 ああいうときはみんな、精神力だとか気力だとかいうけど、大いなる間違いでね、私もずっとサッカーをやっていたからわかるんだけど、気力ってのも体力の一部でして、躯が動かないと頭もぜんぜん働かないんですよ。肉体はつながっているわけです。躯が動いてるから気力ってのも間に合うわけで、だから、精神論をぶつスポーツコーチなんてのは信用できんの。それはあくまでフィジカルな力と技が土台にあってこそのお話です。

 まあ、ニホン全国、サッカー熱に浮かれているようですが、この敗戦ですこしは冷めてくれるといいのですが。サッカーなんか知らないって人もかなりいると思うんだけど、そういうところに目が行かずにワーってなっちゃうファッショがありますわよね。そういうの、アメリカって、まあサッカーはそんなに人気があるわけじゃないけど、野球だってバスケットだってアメフトだって、わーっとなるところはなってるけどなってないところはなってないって感じで、怒濤の熱狂というのがないところは何だろうねって思います。大人なんだろうか?

 って,ここまでが枕でして、本日のお話はそういうのとはぜんぜん違って、映画を見てきたって話です。
 巷で評判のアル・ゴア“主演”の「an Inconvenient Truth」ってやつです。地球温暖化のドキュメンタリー。で、ドキュメンタリーだって聞いてたからそのつもりで見始めたんだけど、ドキュメンタリーというよりはアル・ゴアの地球温暖化に関する講義を映した映画なんですね、これが。

 冒頭の、うららかな陽射しを浴びて川の流れるシーンのナレーションからしてアル・ゴアの声で、おっと、こりゃアル・ゴアのプロモーション映画かって思いました。まあ、そういういともあるのかもしれないけど、そのうちにそんなことがどうでもよくなるくらいに大変な事態が起きているのだって教えられる、そういう映画です。

 さまざまなものの歴史に転換点というものがあります。大規模な戦争ではヒロシマ・ナガサキがそうでしたし、テロリズムではもちろん9・11がそうでしょう。そんな中で昨年のハリケーン・カトリーナもまた、アメリカ人の意識を根幹から変えそうな“事件”だったんでしょう。というのも、地球温暖化とか環境保全とかは、カトリーナ以前に口にしてもどこか他人事でそう切実さはなかった。けれどいまはガソリン高騰も相俟って、あれほどCO2を放出しまくっていたアメリカ人でさえもちょっとこりゃまずいかなと思い始めているような気がします。

 前述したように、映画は温暖化に関するアル・ゴアの講義をそのままなぞるようにして進みます。講義の冒頭での自己紹介で、彼はまず自分の肩書きを「the Former Next President of the United States(前・次期合衆国大統領)」とイッパツ笑わせてから、地球温暖化の凄まじい推移と影響とを写真やグラフを多用して視覚的にわかりやすく解説してゆくわけです。

 その語り口は映画脚本顔負けにユーモアに富みかつ真剣で、途中、暗い映画館の中でわたしゃいま自分がノートを取っていないことを後悔したくらいです。そのくらいネタが満載。なかにはすでに知っていることもありますが、しかしこうまとめて編年体・紀伝体、時間の縦軸と横軸を切り取りながら目の前に提出されると、あらら、こりゃほんと、Inconvenient(まずい)だわ、って気持ちがどんどん募ってくる。

 どんなことが起きているか? 「キリマンジャロの雪」として有名だったあの雪はもうないのです。カナダやヨーロッパのあの美しい氷河はすでに多くが消えています。太陽熱の反射板の役目を果たしてきたそんな氷面が小さくなって海はますます加速的に水温を上昇させています。ですからカテゴリー4とか5とかの強力ハリケーンはこの30年で倍増しています。気温上昇で蚊がアンデスの中腹まで飛んでいけてマラリアの被害地域が広がっています。一方で内陸部は日照りで干ばつが続き、シベリアでは永久凍土層が融けて居住地が崩壊しているのと同時に、湖が次々に消滅しています。そしてなによりもぞっとするのは、そうして融けた陸地の淡水が大量に海に流れ込むことで、塩水濃度のバランスが崩れて太平洋や大西洋の大きな海流が迷走するか止まってしまいそうなのです。「カタストロフィーちょっと好き」の私ですが、やっぱ、ちょっとぞっとします。

 もちろんこれらは「警告」ですからショッキングに編集されているかもしれません。スクリーンで示されるグラフだって縦の軸の単位がよく見えないので変化の度合いが劇的に強調されているかもしれない。しかしたとえ話半分だとしても「話半分であってほしい」と思えるくらいにこれは、ちょっとインコンヴィニエントな話なのです。

 そういや富士山の万年雪も最近は夏は融けていますよね。

 なんともぐったりします。でも、とてもアメリカ人的というか、最後にきちんと「いま自分に出来ること」が示されます。普通の電球を蛍光灯に変えるとかリサイクルするだとか木を植えるだとか、そういう当たり前のことなんだけど、ってか、遅すぎるよ、あんたら、って感じもしないではないが、中には冷凍食品を買わない、肉食を減らす、可能ならハイブリッドカーを買う、なんてのもあります。そしてもちろん連邦議員に手紙を書くなんてのも。

 こりゃ、日本で公開されるんでしょうか? 公開されたら、ぜひご覧になることをお勧めします。下手なスリラーなんかよりずっとドキドキします。

 もしくは、大学とか市民団体とか、そういうところで自主上映界なんか企画してはいかがでしょうかね。きっと、そういう趣旨を伝えたら安く貸し出してくれるんじゃないでしょうか? えっと、ウェブサイトは次のとおりです。

An Inconvenient Truth Oficial Site


 ブッシュ政権のこの6年で疲弊したアメリカ人の理想主義が、11月の中間選挙にどう影響するのかにもこの映画は一役買いそうです。それは人気凋落の現大統領に、さらにちょっとまずい話ではありましょう。

March 24, 2006

アメリカが公正になるとき

 日本にとっては終わりよければすべてよしだったWBC。わたしはサッカー少年だったので野球というのはいつもグラウンドの奪い合いで目の敵にしていたスポーツ。どうでもいいといえばどうでもいい。しかしまあ、いろいろ書かねばならぬこともあるので決勝トーナメントくらいは見てました。このWBC、アメリカでの注目度が今イチだったのは、わざわざ「ワールド・ベースボール・クラシック」と銘打たなくともアメリカこそが「世界」の「ワールド・シリーズ」があるからですが、やや興味を引いたのはそんな唯我独尊のアメリカで、そのニュース報道や中継のアナウンスや解説の仕方にいままでにない謙虚さが目についたことです。

 あのタッチアップ得点のなかったこと問題や幻のポール直撃本塁打といった誤審のニュースやコラム、さらにアメリカチームの敗退報道だけではなく、それは日本の監督の王さんの紹介の仕方でも象徴的でした。アメリカでは日本のミスター・ベースボールたる長嶋茂雄はほとんど無名なんですが、世界最多ホームラン記録保持者が「サダハル・オー」であることは野球通には周知の事実なんですね。ただし王さんの868本という記録は、これまではあくまで日本における記録という紹介のされ方だった。で、アメリカの認める「ワールド」記録というのは、王さんよりも113本も少ないハンク・アーロン氏の755本だったわけです。

 ところが今回のWBCの報道では王さんの肩書きにNYタイムズ紙のスポーツライターが2人とも「プロ野球史上最多ホームラン打者」だとか「メジャーリーグ・ベースボールのナンバー1ホームラン打者」という言葉を使い、日米の野球に区別を付けていなかったのです。

 スポーツ界という最も保守的で愛国的な世界でも、新しい波は無視できません。いまやメジャーリーグでさえベースボールは野茂、イチロー、ゴジラ松井のエピソード抜きには語れない。王さんが現役の時代、一世代や二世代上のアメリカ人にとってはベースボールはヤキュウとは違うという矜持もあったのでしょうが、若い世代にとっては、ベースボールはまさにインターナショナル。中南米の出身者は活躍するは、韓国、台湾、日本人もいるはで、かつての狭量な「世界」観は確実に変わってきているのです。

 旧世代とは違う謙虚なアメリカ人が生まれてきている──これはどうも、あの9.11テロとも関係してるのじゃないかと思われます。ポスト9.11世代ともいうべき世代に、アメリカってどうしてこんなに嫌われてるんだと、世界をもっと謙虚に見直そうという空気が再度盛り返しているのは確かなのです。その雰囲気は、ブッシュさんへの支持率がいまや35%前後という危険深度にまで落ち込んでいる現状とも共鳴しています。

 もっとも、これらを指して「アメリカはどうでもよいときだけ公正になるんだよ」という批判もあります。同じ時期にニュースになった、例のBSEの牛肉問題の米国回答書なんかそのよい例です。

 回答は日本向け牛肉の脊柱混入を「特異な事例だった」と繰り返すだけのもので、じつは3月になって同じ脊柱混入事件が香港向け牛肉でも発生しているのですが、2例も3例も続くものが特異な事例か、という不信感は拭えません。おまけに輸入禁止に科学的根拠はないとして「米国産牛肉を食べて病気になるより牛肉を買いに行くときに交通事故に遭う確率のほうが高い」と解説してくれるにいたっては、人の神経を逆撫でるような、表現は悪いが「盗人猛々しい」という謂いを連想してしまったほどです。

 どうもアメリカは、どんな問題にも(とくに、どうでもよくはない問題に関してはより)自分こそがジャッジだと思い込む癖があるようですね。

 それはやはり同じころ3月20日に丸3年を過ぎたイラク侵攻に関してもいえたことです。これもサダム・フセインを無理矢理テロに関連するものに仕立て上げ、どうでもよくない問題にしてしまったせいで逆に泥沼にはまっています。不幸にもこれは、開戦前に最悪の事態として予測していたこととまったくそのとおりの展開になってしまっているのです。

 国益に関してカッカするとロクなことはない。WBCと違って、米国が牛肉とイラクに冷めた批評眼と公正さを取り戻すのは難しいでしょうが。

 愛国心というのは自分の国だとべつに気にも止めないのですが、他国の愛国心はときにひどく気味が悪い。イビキと同じでね、自分のは気にならないが、隣のヤツのはうるさくてしょうがないわけで。勝手なもんですね。

 そういえば今回のWBCでは、イチローがやけにカッカしていました。韓国に対して「向こう30年は日本に手は出せないなと思わせる勝ち方」だとか「ブーイングは好きだ」とか。

 味方や自分自身を発奮させるためのセリフだとしても、なんだかアメリカ的な力の入り方で、わたしは嫌な感じがした。王さんのことを「品格に長けた人だ」と賞賛できるような輩が、まったく品格に欠けるような煽り方をした。で、そのときは負けちゃった。

 やっぱり煽りすぎるとロクなことはないのです。

March 10, 2006

ブロークバックはただじゃ終わらない

オスカーに抗議して、「我々の作品賞はブロークバック・マウンテンです」という新聞一面広告=写真参照=を出そうという運動が始まりました。 「ありがとう;ブロークバック・マウンテン」という、ファンたち自身からの最優秀作品賞の授与ですね。

これがブログで紹介されるや、48時間で400人以上から17500ドル(200万円)が集まった。

呼びかけはアメリカでの熱狂的ファンサイト「the Ultimate Brokeback Forum」。落選の怒りをあたりかまわずぶちまけたりひたすら落ち込んだりという非生産的な行為の代わりに、この映画への制作陣への敬意と賞賛とを表明しようと新聞広告を打とうというわけです。画像にもあるように、2005年のベスト作品賞受賞映画賞を網羅して圧巻です。ただ1つ、オスカーだけがない。アカデミー会員のじいさんたちはこれをみて畏れ多くないか、ってわけですね。

言い出しっぺは私もこの欄とか自分のサイトとかでいろいろとネタ元にしていたDave Cullenくん。ふーん、本物だ、このブロークバック好きさ加減は。

こんなことはハリウッド映画史上かつてありませんでした。
面白いねえ。

ジャックとエニスの愛が社会によって否定されていたことに関する映画が、再び社会によって否定された(作品賞の落選)に我慢がならんというわけですね。アメリカ人の行動力って、ほんとこういうときに凄いと思います。

まずはハリウッドで最も読まれている映画関連新聞の「デイリーヴァラエティ」紙の本日10日付けで全面広告を打つとのこと。

さらに寄付を集めて他の雑誌や新聞にも、同様の広告を打つようです。
で、コピーは
「We agree with everyone who named 'Brokeback Mountain' best picture」
「わたしたちは、ブロークバック・マウンテンを最優秀映画賞に決めたすべての人々に賛同します」

で、日本からももちろん寄付できます。
http://www.davecullen.com/brokebackmountain/adcampaign.html
に行って、peypalのところをクリックして寄付が出来ます。
10ドルでもいいわけ。もちろん1ドルでもね。
でも、ビザかマスターカードを持ってないと難しいかも。

日本の新聞社にも教えましょうね。
こりゃぜったいに面白いネタだ。

March 08, 2006

ブロークバックの衝撃2

 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」が作品賞を獲ったということより「ブロークバック・マウンテン」がそれを獲らなかったということのほうがニュースになっています。昨年12月の公開以来アメリカ社会にさまざまな「衝撃」を与えてきた「ブロークバック」ですが、作品賞を「クラッシュ」に横取りされた別の「衝撃」が返ってきちゃいました。記事の見出しも「アカデミー賞でのドンデン返し」とか「ブロークバックのバックラッシュ」とかですものね。

 アカデミー賞はその選考投票の内容を明らかにすることはありませんが、新聞各紙やロイターやAPなどがさまざまな見方を示しています。

 NYタイムズは作品賞を逃したことを;
 ブロークバックをだれも止められないと思っていた。だが最後に思わぬ事故(クラッシュ)が待ち受けていた。再びの屈辱的な教訓。アカデミーはだれかにどうこうすべきと言われるのが好きではないのだ。ジャック・ニコルソンが最後の封筒を開けたとき、すべての賭け金、一般の思惑、これまでの受賞暦が無に化した。「ホワー」とニコルソンは言った。

 たしかにニコルソンの反応は面白かった。「何たること!」という感じでしたものね。

 クラッシュはロサンゼルスのある交通事故が、いろんな場所のいろんな人々のいろんな話をない交ぜて思わぬ展開を見せていくというものです。そこには人種問題、貧富の問題、階級の問題、職業の問題、いろいろあって、オリジナル脚本賞も取っただけあってじつによく書けている。

 ところが、これが「今年の映画」かというと、正確にはアカデミー賞は去年の映画を対象とするのですが、その「いまのこの年の映画か」というと違うんじゃないか、というのが正直な印象です。「クラッシュ」のこの手法というのは「群像劇」の手法で、たとえばロバート・アルトマンの「ショートカッツ」(94年)なんかの手法なのです。またかよ、という感じ。

 さてそのうえで、NYタイムズとかAPでも共通しているブロークバックの敗因は、まず、ロサンゼルスという地の利/不利のことでした。NYタイムズの見出しは「ロサンゼルスがオスカーの親権を維持した」でしたし。
 つまりクラッシュはお膝元のロサンゼルスが舞台で、しかも登場するのはものすごい数の有名俳優たち。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックの役などほんのちょいでなくてもかまわない、マット・ディロンもこれで助演男優賞候補?ってぐらいに出演時間もちょっと。そういう使い方をしてる。でもこれはハリウッドの俳優陣総出演というか、見事にむかしの東宝東映大映松竹オールスター大江戸花盛り、みたいな映画で、まさに化粧直しした新型ハリウッド映画なのです。対してブロークバックはカナダで撮影され、ロサンゼルス=西海岸資本が作った映画ではなくて、ニューヨーク=東海岸の資本が作った映画なんですね。これはいわばボクシング試合などのホームタウン・デシージョンではなかったか、そういう分析です。

 あるいはかねてから言われていたように、「ブロークバック」を、アカデミーの会員のご老人たちは観てもいないのではないか、という説。
 アカデミーというのは映画に関係するすべての職業の人から構成されていて、現在の会員は6000人くらい。そのうち投票するのは4500人とか5000人なんですが、ほかの賞のグループ、監督協会とか評論家協会とかよりも高齢化が進んでいて、そこに候補作品のDVDが送られてくるという仕組みです。それで自分で見る。日本にも何人も会員はいて、そこに字幕付きのも送られてます。
 だが、このカウボーイ同士のゲイの恋愛もの、そういうご年配の会員たちにとって、黙ってても観てくれる種類のものだろうかというと……。 「クラッシュは私たち自身が生きて働くこの業界をよく体現した映画だ( 'Crash' was far more representative of the our industry, of where we work and live)」とあるハリウッド関係者がNYタイムズの記事でコメントしています。対してブロークバックは「神聖なハリウッドのアイコン偶像に挑戦した、アカデミーのご年配方がそういうアメリカのカウボーイのイメージが壊れるのを観たいだろうかというと、答えは明らかだろう('Brokeback' took on a fairly sacred Hollywood icon, the cowboy, and I don't think the older members of the academy wanted to see the image of the American cowboy diminished.)」ということです。
 脚本を書いたラリー・マクマートリーもまた「Perhaps the truth really is, Americans don't want cowboys to be gay,(きっと真実はたぶん本当に、アメリカ人はカウボーイがゲイであってはほしくないということなんだろう)」と「bittersweet」なオスカーの夜を振り返っています。

 でも肝心なのはそれだけではないようです。
 クラッシュの配給会社は大手のライオンゲートですが、ここがクラッシュが候補に上ったとたん、じつはものすごいキャンペーンを展開したというんですね。というのも、その時点でもうクラッシュのアメリカでの劇場公開は終わっていて、DVDが発売されていた。このDVDを映画関係者に13万本以上もバラまいたというのです。対してブロークバックはDVDは市販用にはまだ出来ていない。だからバラまきようがない。13万本も作ったら破産してしまう。ふつう候補作は1万本とかが郵送されるようですが、クラッシュはその10倍以上です。ライオンゲートはほかの三流映画で稼いだお金をぜんぶつぎ込んでこのクラッシュをプロモートしました。何度も何度も、いろんな賞のたびに送るんです。そりゃ家に10本もたまったら観ますよね。クラッシュはこのプロモーションで数十万ドルつまり1億円近く使っています。そのほかにもパーティーはやるわ、贈り物はするわ、で、選挙運動じゃないですからそういうの、べつに逮捕されたりしませんからね。そういう背景があった。これはかつてあのイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のときに問題になったやり方です。あの映画もものすごいパーティーをやり、アカデミー会員に贈り物攻勢をかけ、あの主役のなんとかっていうコメディアンが愛嬌を振りまいた。で、オスカーを獲った。まるでオリンピックの招致合戦のような様相を呈しているわけですね。

 おまけに、クラッシュは「街の映画」でテレビ画面で見てもあまり印象は変わりませんが、ブロークバックは「山の映画」で、たとえ幸運に見てもらったとしても、あの広大な自然の美しさをバックに描かれる愛が、テレビの画面ではいまいち伝わらない。そういう不利もあったろう、と。

 つまり、今回の作品賞の顛末は、クラッシュが作品賞を獲る理由と、ブロークバックが作品賞を獲らない理由が、うまく二重合わせになった結果なのだろうということです。

 ま、しかし、冷静に考えるとBBMはいかにそれがエポックメーキングだとはいえ、アメリカ国内での興行成績はまだ8000万ドルに過ぎません。ゲイ関連の映画で、1億ドルを超えたのは過去にあのロビン・ウィリアムズの「バードケージ」(フランス版「ラ・カージュ・オ・フォー」のリメーク)だけなのです。BBMの観客数はこれまでで米国内1500万人くらいでしょうか。で、リピーターも多いから、つまりアメリカ人の95%以上はこの映画を観てもいないのですね。映画というのはそういう媒体です。テレビのヒット作なんか一日の1時間の番組で3000万人が見たりするのに。だから4200万人が視聴する中、94年4月にエレン・デジェネレスがテレビのコメディドラマでカムアウトしたときのほうがインパクトは強かったのかもしれない。

 あれから12年、時代の先端部分はたしかにBBMのような映画を作れるようにはなってきました。
 ただし、ジェイク・ジレンホールとヒース・レッジャーもインタビューで自分たちで言っていたように、「キスシーンでは最初、どうしても笑ってしまった」のですね。彼らですらそうなのですから、映画館であの男同士のキスシーンを見て笑ってしまわざるを得ない男たちというのはまだまだ相当数いるわけです。笑うだけではなく、「オーゴッド!」とか「カモン(やめてくれ)!」とか「グロース(キモイ)!」とか茶々を入れなきゃ見てられない連中だって。この映画を観た男性たちの中には、あえて「そんなに大した映画じゃなかった」という感想を、あえて表明しなければならない、というプレッシャーを感じている輩も多いのです。
 それはもちろんそういうホモセクシュアルな環境に耐えられない自分の中のホモセクシュアルな部分をごまかすためであり、あるいは一緒に映画を見ている仲のよい友人たちとの相互のピアプレッシャーでもあり、そういうのはさんざんわかっているのですが、やはりそういうのはまだ強い。ましてや、社会から隔絶して引退生活を送っているアカデミーの終身会員のお歴々がBBMに関して何を思っているのか、いや、なにも思っていない、ということは、つまりは見る必要性を感じない、というのは、ある意味当然ではあるのでしょう。

 歴史というのは、手強いのです。

 ただし、わたしには確実に空気が変わったのは感じられるのです。
 日本の配給会社ワイズポリシーの用意した掲示板に行ってみると(すこしでも映画にネガティブなことを書くと速攻で削除されるという恐ろしい掲示板らしいですが)、さまざまな人たちがゲイのことについて、あるいは自分はゲイであると明かして、さまざまに書き込みをしています。こういうことは「メゾン・ド・ヒミコ」でもあったようですが、あのときはオダギリ・ジョーのファンの女性たちに気圧されて掲示板でそう主人公にはなれなかった。でも、今回はBBMファンの女性たちと渡り合って余りある勢いや思いも感じられます。

 こういうのは「クラッシュ」には起きない。BBMの崇拝者は生まれていますが、クラッシュの崇拝者というのは聞いたことがない。
 ですんで受賞を逃したのはそれはそれでいいんじゃないかと。それが2006年という時代の断層なのではないかと思うわけです。BBMが、今後のハリウッド史の中で「アカデミーに作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画であることは間違いないのですから。

March 03, 2006

先行公開スタートですか?

 えっと、日本では4日に、渋谷だけなんでしょうか? ブロークバックの先行公開。
 で、一般のブログサーファーの方向けに、文章を書いてみます。こちらではこの日曜にアカデミー賞の発表および授賞式です。

 で、今年のアカデミー賞で最多8部門でノミネートされているのがその「ブロークバック・マウンテン」です。この映画はでも、オスカー云々以前、はるか12月初めの公開直後からアメリカではすでに社会現象になっていました、という話。というか、観てほしいのです。

 アメリカではすで公開から3カ月なんですが、この映画に関するブログやパロディサイトは数限りなく立ち上がり、新聞各紙は映画評から離れて「ガールフレンドにブロークバックを観に行こうと誘われて『いや』と応える男はクールじゃない」とかいう社会分析を載せたりしました。パーティーの席などで「ブロークバックは見た?」という会話は、自分がいかに差別や偏見を持たない人間であるかを示す格好のリトマス試験紙になっています。

 というのも、これは1963年から20年間にも及ぶ,米国中西部に生きるカウボーイ同士の恋愛の映画だからです。そう、男同士の愛。ただし、一般に信じられているステレオタイプの同性愛とは違いました。そこがミソだったのです。多くの人が知らなかった「愛」の、その愛の形と悲しみとがあらわになるこの映画で、「これが同性愛なら私はいままで大きな勘違いをしてきた」と思いはじめる人が出てきた。まるであの黒人差別をえぐったシドニー・ポワチエの映画「招かれざる客」のような真摯な議論を現代に持ち込んでいるのです。

 興味深いのはキリスト教右派とされる人たちの反応でした。欧州諸国やカナダなどの同性婚受容の動きの反動で、アメリカではいまこの同性間パートナーシップにあちこちで厳しい不寛容が表面化してきています。その不寛容の急先鋒である宗教団体の人たちまでも、ところが「この映画はとてもよい映画だけに、間違ったメッセージを送る恐れがある」となんとも及び腰の批判ぶりなのです。

 ここに至ってすでにゲイだなんだというのはあまり問題ではなくなりました。保守的とされる中西部や南部でさえもかなりの観客を動員しており、初めはプロモーションのために配給会社側もゲイ色を出さず「普遍的な愛の物語」と曖昧にプッシュしていたのですが、いまや観客のほうから「ゲイの恋愛だって普遍的なもの」との見方に自然にシフトしてきました。男性主義の米国社会にとって、それは実に衝撃的な問題提起なのでした。

 でも、一方でさきほど、こんなニュースを見つけました。

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【第78回アカデミー賞】ミシェル・ウィリアムズ、“ゲイ映画”に出演したとして母校から縁を切られる

 アカデミー賞8部門でノミネートされている『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズが、映画の内容のせいで母校から縁を切られた。カリフォルニア州にあるウィリアムズの母校サンタフェ・クリスチャン・スクールの校長は、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快。彼女の行動は当校の価値観とは異なり、一切関わりは持ちたくない」とコメントしている。   (FLiX) - 3月3日13時19分更新

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 ふむ、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快」なわけなんですか?

 つまりゲイをテーマにした映画で、「そんなふうに苦悩してはいけません。それは世間では「ホモフォビア」といわれます。恐怖症という病気なのです」ってことなのかしら? でそれが「当校」の価値観とは異なる、というのでしょうか?

 ええ、わかってますよ。もちろんそうじゃない。はいはい。
 そう、つまり、いまになってもこうなんですから、それだけコントラヴァーシャルな、ってことですね。なんだかんだいっても、「ゲイだなんだというのはあまり問題では」まだ、やはり、あるわけです。だからこの映画が人口に膾炙するわけで。

 しかし時代の変わり目というのでしょうか、ブッシュ政権下での9.11やその後のイラク戦争など、このところずっと政治的に息苦しかった風潮を打破しようとする意志が、今年のオスカー候補の面々には感じられます。テロ(ミュンヘン)や人種軋轢(クラッシュ)、政治による言論弾圧(グッドナイト&グッドラック)や同性愛(ブロークバック、カポーティ)──政治的議論の噴出する話題を映画が再び語りはじめました。時代のこの潮目を、「ブロークバック・マウンテン」を観てぜひ日本でも感じ取ってください。また、その感想はぜひこの「コメント」のところにもどうぞお書き込みください。わたしもみなさんの意見が聴きたいです。

December 20, 2005

千葉香奈子という売文奴

日刊スポーツ、12/20日付ハリウッド直行便に映画「ブロークバックマウンテン」のコラムが載っていました。

ゲイ恋愛映画がアカデミー賞本命に急浮上

千歳香奈子っていうロサンゼルスに住んでる自称「ライター」が、みすぼらしい文章をさらけ出しています。

たとえば、冒頭から
「いくつかの州では同性婚が認められており、日本に比べると同性愛がオープンなお国柄とは言え、「ゲイの恋愛」を真正面から描き、男性同士の濃厚ラブシーンもあるこのような作品が、アカデミー賞の本命となるのは少々驚きです。」

いくつかなんかありません。マサチューセッツ州だけです。「少々驚」いているヒマがあったら取材しなさい。プロなのですか、あなた、ほんとに。アルバイト気分でえらそうにコラムなんか発表していると怪我をしますよ。

さらにこれ、
「ゲイのカップルを演じるヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールは、共にもちろんストレート。」「しかし、作品の中での2人のラブシーンは、愛し合う恋人そのもの。ハリウッドにはゲイと噂される俳優も多いのですが、あえて完ぺきにストレートの2人をキャスティングしたことがうまく行ったように思います。もし、ゲイ疑惑のある俳優を起用すれば、観客は生々しさを感じ、思わずプライベートを想像してしまったことでしょう。」

ロサンゼルスに住んでるのに、「ギレンホール」って呼び間違えてはいけません。英語、話せるし、聞けるんでしょう? 毎日芸能ニュースで「ジレンホール」「ジレンホール」っていっているのを耳にしていないんですか? 日本で間違ってるのをそのまま使わないこと。正しく伝えることが物書きの第一歩。ほんとにあなた、LAで「ハリウッドスターのインタビューや映画情報を取材」してるのですか?
それと、「共にもちろんストレート」「完ぺきにストレート」って何でしょう、それ。ロック・ハドソンなんかも、あなたからいわせても「もちろん完ぺきにストレート」だったんです。で、この「もちろん」の自信は、取材の結果? それとも間接情報? 噂?  セクシュアリティに関するその揺るぎない自信はどこから来るのです? そもそもストレートって何? 知ってるの、その「完ぺきに」曖昧な定義を? 男なんてね、木の又とでもできるんだよ。ま、「完ぺきに」ストレートな連中だけど。
それとさ、もう、あいもかわらず「ゲイ疑惑」って何でしょう。耐震構造計算偽装疑惑じゃないんですから、「疑惑」って日本語、使えますか、こういうときに? 文筆業やってるんでしょ。恥ずかしいでしょ? わかりますか、いってること?
さらに、「思わずプライベートを想像してしまったことでしょう」ってさ、それ、あなた、下品というんですよ、そういうの。下司っていうんです(漢字、読めるかな?)。そういう人に限って、ゲイ「疑惑」なんかなくても、想像してるんです、スケベなこと。ま、スケベでもぜんぜんいいんですけどね、それをニヤけて書くのはとてもみっともない。人間の知性と品性の問題です。

おまけに、
「さらに、ヒースもジェイクもなかなか良い! 特にジェイクのヒースを見つめる目は、本当に恋する目をしているのです。うっとりとした目で互いを見つめあい、キスを交わす。純愛であり、儚い恋だけにその悲恋ぶりがたまらない。淡々と雄大な自然の風景と共に描く手法も、作品を清々しさを与えています。」 ときた。

ほら、やっぱり想像してる。これ、ボーイズラブとかやおいの感想文と同じ、「夢見る乙女文体」ですもんね。
エッチな純愛を想像してるから、「悲恋ぶり」と「清々しさ」って、それ、いってること、整合しないでしょ、あなた、頭ん中。困ったもんだ。

千歳さん、「1972年3月29日 札幌生まれ。92年に渡米」ってさ、きみ、なに13年間もアメリカで見てきたの? ゲイの友達、いないの? いる? いたら、あんた、この文章、そいつに読ませられるか?

恥を知りなさい。
物書きは売文業ではあっても、無神経でいいはずはないのです。

February 06, 2005

スーパーボウル

いまハーフタイムショーやってます。去年のジャネットの乳首パッチポロリ“事件”に懲りて、今年はポール・マッカートニーだってさ。「胸ポロリをしないように気をつける」とかって、彼が言うのはご愛嬌としても、しかしなんでいまさらビートルズかね。

「ゲットバック」とか、007の「Live and Let Die(だっけ?)」だとか「Hey Jude」だとかですよ。わたしはまるで共和党大会でも見ているような気がしてきました。かつては先進的な曲だったものが、いまでは無難な曲として全米放送される。改めてアメリカの保守化をひしひしと感じます。なんたって、生きのいい連中はぜんぶケリー応援で登場していたから、スーパーボウルを見るような血気盛んなスポーツ野郎どもはそういう連中を見たくないだろうという計算もあったに違いない。さらに、ことしの独占放送局は、なんといってもブッシュ大好きFOXテレビなのですから。

かくしてハーフタイムショーは、なんだかまったくエキサイティングじゃない懐メロ大会として終了したのでした。チャンチャン。