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August 20, 2018

LGBTバブルへの異和感

私がこれから書く異和感のようなものは、あるいは単なる勘違いかもしれません。

現在のいわゆるLGBT(Q)ブームなるものは2015年の渋谷区での同性パートナーシップ制度開始の頃あたりからじわじわと始まった感じでしょうか。あるいはもっと以前の「性同一性障害」の性別取扱特例法が成立した2003年くらいにまで遡れるのでしょうか。とはいえ、2003年時点では「T」のトランスジェンダーが一様に「GID=性同一性障害」と病理化されて呼称されていたくらいですから、「T」を含む「LGBT」なる言葉はまだ、人口に膾炙するはるか以前のことのように思えます。

いずれにしてもそういう社会的事象が起きるたびに徐々にメディアの取扱量も増えて、25年前は懸命に当時勤めていた新聞社内で校閲さんに訴えてもまったく直らなかった「性的志向/嗜好」が「性的指向」に(自動的あるいは機械的に?)直るようにはなったし(まだあるけど)、「ホモ」や「レズ」の表記もなくなったし、「生産性がない」となれば一斉に社会のあちこちから「何を言ってるんだ」の抗議や反論が挙がるようにもなりました。もっとも、米バーモント州の予備選で8月14日、トランスジェンダーの女性が民主党の知事候補になったという時事通信の見出しはいまも「性転換『女性』が知事候補に=主要政党で初-米バーモント州」と、女性に「」が付いているし、今時「性転換」なんて言わないのに、なんですが……。

そんなこんなで、ここで「LGBTがブームなんだ」と言っても、本当に社会の内実が変わったのか、みんなそこに付いてこれているのか、というと私には甚だ心もとないのです。日本社会で性的指向や性自認に関して、それこそ朝のワイドショーレベルで(つまりは「お茶の間レベル」で)盛んに話題が展開された(そういう会話や対話や、それに伴う新しい気づきや納得が日常生活のレベルで様々に起きた)という記憶がまったくないのです。それは当時、私が日本にいなかったせいだというわけではないでしょう。

そんなモヤモヤした感じを抱きながら8月は、例の「杉田水脈生産性発言」を批判する一連のTVニュースショーを見ていました。そんなある時、羽鳥さんの「モーニングショー」でテレ朝の玉川徹さんが(この人は色々と口うるさいけれどとにかく論理的に物事を考えようという態度が私は嫌いじゃないのです)「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」と言って結論にしようとしたんですね。その時に私は「うわ、何だこのジャンプ感?」と思った。ほぼ反射的に、「もうそういう時代じゃない」という言葉に納得している人がいったい日本社会でどのくらいいるんだろうと思った。きっとそんなに多くないだろうな、と反射的に突っ込んでいたのです。

私はこれまで、仕事柄、日本の様々な分野で功成り名遂げた人々に会ってもきました。そういう実に知的な人たちであっても、こと同性愛者やトランスジェンダーに関してはとんでもなくひどいことを言う場面に遭遇してきました。40年近くも昔になりますが、私の尊敬する有名な思想家はミシェル・フーコーの思索を同性愛者にありがちな傾向と揶揄したりもしました。国連で重要なポストに上り詰めた有能な行政官は20年ほど前、日本人記者たちとの酒席で与太話になった際「国連にもホモが多くてねえ」とあからさまに嫌な顔をして嗤っていました。いまではとてもLGBTフレンドリーな映画評論家も数年前まではLGBT映画を面白おかしくからかい混じりに(聞こえるような笑い声とともに)評論していました。私が最も柔軟な頭を持つ哲学者として尊敬している人も、かつて同性愛に対する蔑みを口にしました。今も現役の著名なあるジャーナリストは「LGBTなんかよりもっと重要な問題がたくさんある」として、今回の杉田発言を問題視することを「くだらん」と断じていました。他の全てでは見事に知的で理性的で優しくもある人々が、こと同性愛に関してはそんなことを平気で口にしてきました。ましてやテレビや週刊誌でのついこの前までの描かれ方と言ったら……そういう例は枚挙にいとまがない。

それらはおおよそLGBTQの問題を「性愛」あるいは「性行為」に限定された問題だと考えるせいでしょう。例えば先日のロバート・キャンベル東大名誉教授のさりげないカムアウトでさえ、なぜそんな性的なことを公表する必要があるのかと訝るでしょう。そんな「私的」なことは、公の議論にはそぐわないし言挙げする必要はないと考えるでしょう。性的なことは好き嫌いのことだからそれは「個人的な趣味」とどう違うのかとさえ考えるかもしれません。「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うしたり顔の人もいるはずです。

でも「そういうの」ではないのです。けれど、「『そういうの』ではない」と言うためのその理由の部分、根拠の空間を、日本社会は埋めてきたのか? 「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを詰めることなく素通りしてきて、そして突然黒船のように欧米から人権問題としてのLGBTQ情報が押し寄せてきた。その大量の情報をあまり問題が生じないように処理するためには、日本社会はいま、とりあえず「今はもうそういう時代じゃないんだから」で切り抜けるしかほかはない。そういうことなんじゃないのか。

「生産性発言」はナチスの優生思想に結びつくということが(これまでの戦後教育の成果か)多くの人にすぐにわかって、LGBTQのみならず母親や障害者や老人や病人など各層から批判が湧き上がりました。それは割と形骸化していなくて、今でもちゃんとその論理の道筋をたどることができる。数学に例えれば、ある定理を憶えているだけではなくてその定理を導き出した論理が見えていて根本のところまで辿り帰ることができる。けれど「生理的にムリ」「気持ち悪い」「所詮セックス」発言には、大方の人がちゃんと言い返せない。そればかりか、とりあえず本質的な回答や得心は保留して「でも今はそういう時代じゃないんだ」という「定理」だけを示して次に行こうとしている。でも、その定理を導き出したこれまでの歴史を知るのは必要なのです。それを素通りしてしまった今までの無為を取り戻す営み、根拠の空白を埋める作業はぜったいに必要。けれどそれは朝の情報番組の時間枠くらいではとても足りないのです。

この「とにかく今はもうそういう時代じゃないんだから」は、私が引用した玉川さんの言とはすでに関係ない「言葉尻」としてだけで使っています。前段の要旨を言い換えましょう。この言葉尻から意地悪く連想するものは「LGBTという性的少数者・弱者はとにかく存在していて、世界的傾向から言ってもその人たちにも人権はあるし、私たちはそれを尊重しなくてはいけない。それがいまの人権の時代なのだ」ということです。さらに意訳すれば「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている。そういう時代なのだ」

近代の解放運動、人権運動の先行者であるアメリカの例を引けば、アメリカは「そういう弱者をも庇護し尊重する時代」を作ってきたわけではありません。これはとても重要です。

大雑把に言っていいなら50年代からの黒人解放運動、60年代からの女性解放運動、70年代からのゲイ解放運動(当時はLGBTQという言葉はなかったし、LもBもTもQもしばしば大雑把にゲイという言葉でカテゴライズされていました)を経て、アメリカは現在のポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ=PC)の概念の土台を築いてきました(80年代を経るとこのPCは形骸的な言葉狩りに流れてしまいもするのですが)。

それはどういう連なりだったかと言うと、「白人」と「黒人」、「男性」と「女性」、「異性愛者」と「同性愛者(当時の意味における)」という対構造において、その構造内で”下克上"が起きた、"革命"が起きたということだったのです。

「白人」の「男性」の「異性愛者」はアメリカ社会で常に歴史の主人公の立場にいました。彼らはすべての文章の中で常に「主語」の位置にいたのです。そうして彼ら「主語」が駆使する「動詞」の先の「目的語(object=対象物)」の位置には、「黒人」と「女性」と「同性愛者」がいた。彼らは常に「主語」によって語られる存在であり、使われる存在であり、どうとでもされる存在でした。ところが急に「黒人」たちが語り始めるのです。語られる一方の「目的語=対象物」でしかなかった「黒人」たちが、急に「主語」となって「I Have a Dream!(私には夢がある!)」と話し出したのです。続いて「女性」たちが「The Personal is Political(個人的なことは政治的なこと)」と訴え始め、「同性愛者」たちが「Enough is Enough!(もう充分なんだよ!)」と叫び出したのです。

「目的語」「対象物」からの解放、それが人権運動でした。それは同時に、それまで「主語」であった「白人」の「男性」の「異性愛者」たちの地位(主格)を揺るがします。「黒人」たちが「白人」たちを語り始めます。「女性」たちが「男性」を語り、「同性愛者」が「異性愛者」たちをターゲットにします。「主語(主格)」だった者たちが「目的語(目的格)」に下るのです。

実際、それらは暗に実に性的でもありました。白人の男性異性愛者は暗に黒人男性よりも性的に劣っているのではないかと(つまりは性器が小さいのではないかと)不安であったし、女性には自分の性行為が拙いと(女子会で品定めされて)言われることに怯えていたし、同性愛者には「尻の穴を狙われる」ことを(ほとんど妄想の域で)恐れていました。それらの強迫観念が逆に彼らを「主語(主格)」の位置に雁字搦めにして固執させ、自らの権威(主語性、主格性)が白人男性異性愛者性という虚勢(相対性)でしかないことに気づかせる回路を遮断していたのです。

その"下克上"がもたらした気づきが、彼ら白人男性異性愛者の「私たちは黒人・女性・同性愛者という弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」というものでなかったことは自明でしょう。なぜならその文章において彼らはまだ「主語」の位置に固定されているから。

そうではなく、彼らの気づきは、「私たちは黒人・女性・同性愛者という"弱者"たちと入れ替え可能だったのだ」というものでした。

「入れ替え可能」とはどういうことか? それは自分が時に主語になり時に目的語になるという対等性のことです。それは位置付けの相対性、流動性のことであり、それがひいては「平等」ということであり、さらには主格と目的格、時にはそのどちらでもないがそれらの格を補う補語の位置にも移動可能な「自由」を獲得するということであり、すべての「格」からの「解放」だったということです。つまり、黒人と女性とゲイたちの解放運動は、とどのつまりは白人の男性の異性愛者たちのその白人性、男性性、異性愛規範性からの「解放運動」につながるのだということなのです。もうそこに固執して虚勢を張る必要はないのだ、という。楽になろうよ、という。権力は絶対ではなく、絶対の権力は絶対に無理があるという。もっと余裕のある「白人」、もっといい「男」、もっと穏やかな「異性愛者」になりなよ、という運動。

そんなことを考えていたときに、八木秀次がまんまと同じようなことを言っていました。勝共連合系の雑誌『世界思想』9月号で「東京都LGBT条例の危険性」というタイトルの付けられたインタビュー記事です。彼は都が6月4日に発表した条例案概要を引いて「『2 多様な性の理解の推進』の目的には『性自認や性的指向などを理由とする差別の解消及び啓発などを推進』とある。(略)これも運用次第では非常に窮屈な社会になってしまう。性的マイノリティへの配慮は必要とはいえ、同時に性的マジョリティの価値が相対化される懸念がある」と言うのです。

「性的マジョリティの価値が相対化される」と、社会は窮屈ではなくむしろ緩やかになるというのは前々段で紐解いたばかりです。「性的マジョリティ(及びそれに付随する属性)の価値(権力)が絶対化され」た社会こそが、それ以外の者たちに、そしてひいてはマジョリティ自身にとっても、実に窮屈な社会なのです。

ここで端なくもわかることは、「白人・男性・異性愛者」を規範とする考え方の日本社会における相当物は、家父長制とか父権主義というやつなのですね。そういう封建的な「家」の価値の「相対化」が怖い。夫婦の選択的別姓制度への反対もジェンダーフリーへのアレルギー的拒絶も、彼らの言う「家族の絆が壊れる」というまことしやかな(ですらないのですが)理由ではなく、家父長を頂点とする「絶対」的秩序の崩れ、家制度の瓦解を防ぐためのものなのです。

でも、そんなもん、日本国憲法でとっくに「ダメ」を出されたもののはず。ああ、そっか。だから彼らは日本国憲法は「反日」だと言って、「家制度」を基盤とする大日本帝国憲法へと立ち戻ろうとしているわけなのですね。それって保守とか右翼とかですらなく、単なる封建主義者だということです。

閑話休題。

LGBTQに関して、「わかってるわかってる、そういうのは昔からあった、必ず何人かはそういう人間がいるんだ」と言うのは、この「わかっている」と発語する主体(主語)がなんの変容も経験していない、経験しないで済ませようという言い方です。つまり「今はもうそういう時代じゃないんだから」と言いながらも、「そういう時代」の変化から自分の本質は例外であり続けられるという、根拠のない不変性の表明です。そしてその辻褄の合わせ方は、主語(自分)は変えずに「LGBTという可哀想な人たちがいる。私たちはそういう弱者をも庇護し尊重することで多様な社会を作っている」という、「LGBTという可哀想な人たち」(目的語)に対する振る舞い方(動詞)を変えるだけで事足らせよう/乗り切ろう、という、(原義としての)姑息な対処法でしかないのです。

これはすべての少数者解放運動に関係しています。黒人、女性、LGBTQに限らず、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、もっと敷衍して老人、病者、子供・赤ん坊、そして障害者も、いずれも主語として自分を語り得る権利を持つ。それは特権ではありません。それは「あなた」が持っているのと同じものでしかありません。生産性がないからと言われて「家」から追い出されそうになっても、逆に「なんだてめえは!」と言い返すことができる権利です(たとえ身体的な制約からそれが物理的な声にならないとしても)。すっかり評判が悪くなっている「政治的正しさ」とは、実はそうして積み上げられてきた真っ当さの論理(定理)のことのはずなのです。

杉田水脈の生産性発言への渋谷駅前抗議集会で、私は「私はゲイだ、私はレズビアンだ、私はトランスジェンダーだ、私は年寄りだ、私は病人だ、私は障害者だ;私は彼らであり、彼らは私なのだ」と話しました。それはここまで説明してきた、入れ替え可能性、流動性の言及でした。

ところで"下克上""革命"と書いたままでした。言わずもがなですが、説明しなくては不安になったままの人がいるでしょうから書き添えますが、「入れ替え可能性」というのはもちろん、下克上や革命があってその位置の逆転がそのまま固定される、ということではありません。いったん入れ替われば、そこからはもう自由なのです。時には「わたし」が、時には「あなた」が、時には「彼/彼女/あるいは性別分類不可能な三人称」が主語として行動する、そんな相互関係が生まれるということです。それを多様性と呼ぶのです。その多様性こそが、それぞれの弱さ強さ得意不得意好き嫌いを補い合える強さであり、他者の弱虫泣き虫怖気虫を知って優しくなれる良さだと信じています。

こうして辿り着いた「政治的正しさ」という定理の論理を理解できない人もいます。一度ひっくり返った秩序は自分にとって不利なまま進むと怯える人もいます(ま、アメリカで言えばトランプ主義者たちですが)。けれど、今も"かつて"のような絶対的な「主語性」にしがみつけば世界はふたたび理解可能になる(簡単になる)と信じるのは間違いです。「LGBTのことなんかよりもっと重要な問題がある」と言うのがいかに間違いであるかと同じように。LGBTQのことを通じて、逆に世界はこんなにも理解可能になるのですから。

さて最後に、「ゲイ? 私は生理的にムリ」とか「子供を産めない愛は生物学的にはやはり異常」だとか「気持ち悪いものは気持ち悪いって言っちゃダメなの?」とか、「所詮セックスの話でしょ?」とか、そういう卑小化され矮小化され、かつ蔓延している「そこから?」という疑問の答えを、先日、20代の若者2人を相手に2時間も語ったネット番組がYouTubeで公開されています。関心のある方はそちらも是非ご視聴ください。以下にリンクを貼っておきます。エンベッドできるかな?

お、できた。



August 08, 2018

「生産性」という呪縛

安倍首相自らのリクルートによって比例代表で当選した自民党の杉田水脈衆院議員が「LGBTは子供を作らない。つまり『生産性』がない」と「新潮45」に寄稿して大きく物議を醸しています。少子化対策という大義名分に照らしても「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と反語で疑問を呈していて、この発言はインディペンダントやガーディアン、CNNなどの海外ニュースでも問題視されています。その中でも最も厳しい論調だったのが、若者に人気のある米国のニュースサイト「Daily Beast デイリービースト」のTOKYO発8月4日付の記事でした。

JAKE ADELSTEINとMARI YAMAMOTOの共同執筆となるそれは、見出しからして「Ugly, Ignorant, Pathological Anti-LGBT Prejudice Reigns in Japan's Ruling Party(醜悪で無知で病的な反LGBT偏見が日本の支配政党に君臨する)」とかなりキツイ。そして「日本の、そう自由でもそう民主的でもない自由民主党が、2012年の安倍政権発足以来、ヘイトスピーチで問題になっている。ここ何年もの間、日本の問題は少数派の「在日韓国・朝鮮人」へ向けられてきたが、ここ数週間で、出生率の低下や社会問題の新しいスケープゴートが生まれた。LGBTコミュニティである」と書き始めます。

注目すべきは、日本のメディアではほとんど指摘されていませんが、ここではすぎた発言を明確に「ヘイトスピーチ」と断じている点です。これは国際基準でいえば明らかに憎悪発言であり、政治家ならば一発でアウトの事例です。もっとも、トランプ時代のアメリカにあってはその大前提も揺らいではいますが。

記事はそこから、安倍首相自らがリクルートして自民党に入った杉田議員の今回の発言内容を紹介します。しかし問題の核心は杉田個人の発言にとどまりません。まさに彼女を許してきた自民党だと切り込みます。

For weeks, Sugita’s party seemed to condone her views. But the Japanese people and even the self-censoring media are not letting this one slide, and now even within the LDP there have been angry and pointed exclamations of disgust.
「杉田の党は数週間にわたって彼女の見解を問題視しないでいたが、日本人およびセルフセンサリング・メディア(政権批判を自己検閲する日本のメディア)も今回は見逃さなかった。自民党の内部ですらも怒りと非難の声が上がった」

But were any lessons learned?
「しかし、教訓は学ばれたのか?」

杉田議員はこの寄稿の中で「リプロダクティヴィティ(生殖・再生産性)」を「プロダクティヴィティ(生産性)」と故意か無学か混同し、論理を飛躍させているのですが、言うまでもなく人間を「生産性」で語ることは、ナチスの優生思想です。アウシュビッツなどの強制収容所では連行したユダヤ人を「手に職を持つ者」と「持たない者」に分け、後者は「ノミ・シラミを洗い落とすためのシャワー室」という名のガス室に送り込みました。そこには当然、老人や病人や女・子供が含まれます。

同時に杉田議員の言う通り、ナチスは「生産性のない」身障者や同性愛者(当時はLGBTという細分化した言葉がなく、みなホモセクシュアルで一緒くたにされていました)たちをも数十万人規模で"処理"したのです。

デイリービーストは性的少数者を取り巻く日本での現状も説明します。

Currently, roughly 8 percent of the population identify themselves as LGBT. While Japan does not legally recognize same-sex marriage at a national level, local governments, including the Shibuya and Setagaya wards of Tokyo, have used ordinances to recognize same-sex partnerships. Other prefectures are taking similar measures.
「自らをLGBTとする人々は現在およそ8%だが、日本では同性婚は法的に認められず、渋谷や世田谷などの地方レベルで同性パートナーシップが条例で認知されるだけだ」

Beverage maker Kirin, e-commerce giant Rakuten, and some other Japanese corporations are moving ahead with policies to provide the same paid leave for marriage, childbirth, and other life-changing events to same-sex couples. (Note that even Japan’s stodgy corporations are able to conceive something that LDP politicians can’t seem to grasp: yes, even same-sex couples can have children.)
「キリンや楽天など日本の大企業には同性カップルの従業員にも結婚・出産やその他人生の大事なイヴェントにおける有給休暇など福利厚生を拡大している。(注:日本の野暮な企業でさえ自民党の政治家が考えられないこうした事例を考えつける。そう、もちろん同性カップルでも子供を持つことは可能だから)」

その上で国際アムネスティの言葉を借りて、「日本でLGBTピープルは家庭内、職場、教育現場、医療サービスで差別を受けている」「政治家や政権幹部が公の場で極めてホモフォビックな発言をしさえする」と紹介。それを安倍総裁率いる自民党の体質として次のように分析しています。

興味深いのは今回の杉田寄稿文は朝日新聞攻撃の文章だと説明してからの安倍首相の人物像です。

The Asahi Shimbun is one of the more liberal newspapers in the country and has been compared to the New York Times. The Asahi is strongly disliked by Prime Minister Abe, who has publicly attacked the paper, and who has in his meetings with President Donald Trump told him, “I hope you can tame the New York Times the way I tamed the Asahi.”  Long before Trump was calling the press, “the enemy of the people,” Abe was making effective use of that tactic. (When Steve Bannon called Abe, “Trump before Trump” he wasn’t far off the mark.)
「朝日はニューヨークタイムズに例えられる日本のリベラル紙だ。安倍首相にひどく嫌われている新聞で、彼はこれまでも公然と同紙を攻撃してきた。トランプとの最初の会談【訳注:2016年11月の、当選直後のトランプタワーでの会談】で彼は「私が朝日新聞を飼いならしたようにあなたもニューヨーク・タイムズを飼い慣らせるよう望んでいる【訳注:正確には「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私も朝日新聞に叩かれたが勝った。あなたもそうしてくれ」と言ったとされる】」と伝えた。。トランプがメディアを「国民の敵」と呼ぶようになるずっと以前から、安倍はこの戦略を有効に使ってきたのだ。スティーブ・バノン(元大統領首席戦略官)は実際、安倍を『トランプ以前のトランプ』と呼んでいた。その言いはそう間違ってはいない」

デイリービーストはここから「同性婚を認めたら兄弟婚や親子婚、ペット婚まで行くかもしれない。海外ではそういう人も現れている」という杉田の発言を詳報して、そこにネット上で反対の声に火がつき、さらにそれに反対するネトウヨの自民党支持者が参戦してきた様子を紹介する。7月27日夜に行われた自民党本部前での大抗議集会の様子も描写し、若い女子大生ら参加者の声も拾っています。つまりこれは自民党自体の体質への、LGBTのみならず広い層からの異議申し立てなのだということにまで踏み込むのです。

Mio Sugita, who was not available for comment, is, like many female politicians welcomed into the LDP, an extreme right-winger and fiercely loyal to Abe. This is important to understand because she is a microcosm of the few women that manage to gain power within the LDP, which has more or less been ruling Japan since the party was founded in 1955. Even when LDP lawmakers are female in gender they are rarely feminists and often echo the sexist and extremist views of Nippon Kaigi, the right-wing Shinto cult, or are members of it. This group helped Abe stage a political comeback after his bumbling exit from power in 2007; most of his handpicked cabinet members belong to the group.
「杉田はコメントを出していないが、自民党に歓迎されて入った多くの女性政治家たちと同様、極端な右翼思想の持ち主で安倍に強烈な忠誠を尽くす。ここを理解することが重要だ。なぜなら彼女は、自民党で権力を握る少数の女性たちのマイクロコズム(小宇宙=縮図)だからだ。自民党の女性政治家たちはジェンダーこそ女性だが、フェミニストであることはまずなく、むしろしばしば性差別主義者で日本会議や神社本庁などの極端な右翼の声を反映し、あるいはそのメンバーであったりする。これらの組織が安倍のカムバックを演出し、安倍は彼らのメンバーから閣僚人事を行っている」

The tone-deaf attitude towards the LGBT community by Japan’s ruling party is part of a pattern of picking on the weak in society, blaming them for being weak and then for society’s wider problems. When people dare to assert they have rights, the LDP pushes back even harder, whether against LGBT people, or foreign workers, or women, or third-generation Korean-Japanese, or the press –– when things go wrong the minorities get blamed.
「日本の支配政党のLGBTへのこの無知な=音が聞こえていない=態度は、日本社会の弱い者いじめ、弱者攻撃のパターンの一部だ。その弱者、少数者たちがより広い社会問題の元凶だと非難するのだ。そういうグループが果敢に権利を主張すれば、自民党の反撃はさらに酷いことになる。LGBTだけでなく、外国人労働者、女性、在日韓国人朝鮮人三世、そして報道機関にすらもそれは向けられる。よくないことが起きればそれはマイノリティのせいなのだ」

Partially blaming LGBT for Japan’s declining birth-rate is not as difficult as addressing the real reasons people don’t have children: a lack of real job opportunities for women, gender inequality, single-parent poverty, the destruction of labor laws so that lifetime employment is a pipe-dream, endemic overtime resulting in (karoshi) people working to death, sexual harassment on the job, maternity harassment. The wealthy old men who run the party don’t have any conception of working hours so long and wages so low that dating is difficult, getting married a challenge, and raising children is impossible. All of this while there is rising poverty as Abenomics fizzles out.
「日本の出産率低下でLGBTを攻撃するのは、子供を持たない本当の理由を解決するよりも簡単だからだ。日本では女性たちの仕事の機会が欠けている。男女格差、性差別、シングルペアレントの貧困、終身雇用制の崩壊、過労死、職場のセクハラ、マタハラ。この政党を運営する裕福な老人男性たちは、労働時間がひどく長くて賃金がひどく低くてデートすることも難しく結婚することはチャレンジで子供を育てることが不可能だということをさっぱり理解していない。これら全てがアベノミクスが立ち消えになろうとする中、立ち現れる貧困の一方で起きていることだ」

そして、結語が次の一文です。

It’s a lot easier to wage a war on LGBT people than it is to wage a genuine war on poverty.
「貧困問題に本当の戦争を仕掛けるよりも、LGBTを叩いている方がずっと簡単なのだ」

デイリービーストは報道と同時にオピニオン誌の傾向も強いのは確かです。しかし、杉田発言への今回のこの抗議のかつてない盛り上がりは確かに、LGBTのみならず、不妊の夫婦や障害者や病人や老人を含めた多くの「生産性がない」とされる人々を巻き込んでいること、そしてその背景に日本の自民党が見逃している、あるいは故意に見捨てている大きな政治的空白が存在していることを指摘するこの記事は、かなり正鵠を射ていると思います。自民党とその周辺の日本のオトコ社会だけを見ていたら、これほどの抗議拡大の理由はわからないままなのです。

May 16, 2018

『君の名前で僕を呼んで』試論──あるいは『敢えてその名前を呼ばぬ愛』について

これは男性間の恋愛感情に関する映画です。その恋愛感情に対する是非はあらかじめ決まっていて、そこに向かって進んでゆくストーリーになっています。この映画は、その答えを提示したかったがための映画かもしれません。その答えというのは、最後に近い、エリオが一夏の別れを経た部分で、父親が彼に向けて説く「友情」あるいは「友情以上のもの」と呼んだこの恋愛感情への是認、肯定です。この映画の影の主人公は、その答えを差し出してくれるエリオのこの父親と言ってもよいかもしれません。

まだ原作を読んでいないのでこれが原作者の意図なのか、あるいは脚本を書いたジェイムズ・アイヴォリーの企図なのかじつは判断しかねるのですが、しかしいずれにしてもこれを映画の中でこういう形で提示しようとアイヴォリーが決めたのですから、アイヴォリーの思いであるという前提の上で考えていきましょう。この父親は、アイヴォリーです。だからこの映画の影の主人公も、じつはアイヴォリーなのです。

映画の設定は1983年の夏、北イタリアのとある場所。ご存知のようにJ.アイヴォリーは1980年代に『モーリス』という映画の脚本を書き、自ら監督しました。こちらはE.M.フォスターが1914年に執筆した同性愛小説が原作です。

片や1900年代初頭を舞台に1987年に製作された『モーリス』。
片や1983年を舞台に2017年に製作された『君の名前で僕を呼んで』。

この2つの時代、いや、正確には4つの時代は、とても違います。違うのは、先ほど触れた「男性間の恋愛感情」への是非の判断です。20世紀初頭は言うまでもなく男性間の恋愛は性的倒錯であり精神疾患でした。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との恋愛関係で裁判にかけられ、有罪になったのはつい20年ほど前、1895年のことでした。20世紀初頭、E.M.フォスターはもちろんそれを深く胸に(秘めたトラウマとして)刻んでいたはずです。一方で『モーリス』が作られた1980年代半ばはエイズ禍の真っ最中です。『モーリス』には、その原作年、製作年のいずれにおいても、男性間の恋愛を肯定的に描く環境は微塵もなかった。

対する『君の名前で〜』の1983年は、かろうじて北イタリアの別荘地にまでエイズ禍がまだ届いていなかったギリギリの時代設定です。聞けば原作では時代設定が1987年だったのを、アイヴォリーが83年に前倒ししたのだとか。男性間の恋愛が、秘めている限りまだ牧歌的でいられた時代。まさにエイズ禍の影を挿し挟みたくなかったがゆえの時代変更かもしれません。そして2017年という製作年は、もちろん欧米では同性婚も認められた肯定感のプロモーションの時代です(おそらく企画段階ではトランプの登場も予測されていなかったはずです)。

アイヴォリーは、この『君の名前で〜』によって、『モーリス』(の時代)には描けなかった「男性観の恋愛感情」への肯定感を、(『モーリス』製作の後でいつの間にかゲイだとカミングアウトしていた身として)自分の映画製作史に上書きした(かった)のだろうと思うのです。

もっとも、この映画には『モーリス』の上書き以上のものがあります。アイヴォリーは同性愛映画の名作の手法をさりげなく総動員させています。いたるところに散りばめられている『ブロークバック・マウンテン』へのオマージュ、そして『ムーンライト』のタイムライン。

アイヴォリーの(あるいは監督のルカ・ グァダニーノの)描いた「肯定感」の醸造法は『ブロークバック』からの借用です。『ブロークバック』ではエニス(ヒース・レッジャー)とジャック(ジェイク・ジレンホール)の逢瀬にはいつも水が流れていました。大自然の水辺という清澄な瑞々しさが彼らの関係を保障していたのです。一方でエニスとその妻アルマ(ミシェル・ウィルアムズ)の情交は常に埃舞うアメリカの片田舎での、軋むベッドの上でした。

それは『君の名前で〜』に受け継がれています。エリオとオリヴァーはいつも別荘のプールで泳ぎ、その脇で本を読み、思索をして過ごします。その水辺でエリオのオリヴァーに対する思いはスポンジのように(!)膨らみ、やがて初めて辿り着くキスはエリオが「秘密の場所」と呼ぶ清冽な池のほとりです。一方でエリオとマルシアの、成功した2度目の性交は使われていない物置部屋の、やはり埃舞い上がるマットレスの上でした。

それにしても男性観の恋愛への肯定感を醸成するために『ブロークバック』でも『君の名前で〜』でもこうして女性との関係性をそれとなく汚すのはたとえ対比とは言えなんとも不公平というかズルい気がするのですが……。

ズルいのはもう1つ、エリオの17歳という年齢です。男性なら(あるいは女性でも)わかると思いますが、17歳の男の子というのは頭の中まで精液が詰まっているような、身体中がそんな混乱した性の海に浸かっています。意識するしないに関わらず何から何までもが性的なものと関係していて、時に友情と友情以上のものとの狭間もわからなくなったりします。自分の欲望の指向するものがなんだかわからなくなって、その人が好きなのか、その人とのセックスが好きなのか、それともセックスそのものが好きなのかもわからなくなって、自分は頭がおかしいのかと本当に気が狂いそうになったりもするのです。

だって、アプリコットですよ。桃ほどに大きなアプリコットを相手に自慰をして(そしてそれは日本で巷間言われるコンニャクとか木の股とかとは違ってとてもお尻=肛門性交に似ているのです)、その後で眠ってしまった自分のおちんちんをフェラしてきたオリヴァーに「何をしたんだ?」と冗談混じりに訊かれるわけです。エリオは真剣に打ち明けます。「I am sick(僕はビョーキだ/頭がおかしい)」と。

もうそういう年齢を過ぎているオリヴァーはその告白の深刻さを真に受けません。「もっと sick な(気持ち悪い、頭の変な)ことを見せてあげる」と言ってそのアプリコットを食べようとまでする。そこでエリオは本当に泣くのです。「Why are you doing this to me?(なんで僕にそんなことをするんだ)」。それはオリヴァーにとってはお遊びですが、17歳の真剣に悩むエリオにとっては自分の「ビョーキ」を当てこする「辱め」「ひどい仕打ち」なのです。彼はそれほど自分のことがわからなくなっている。そしてオリヴァーの胸に顔を埋めながら(でしたっけ?)「I don't want you to go....(行かないで)」と絞り出すように呟くのです。

この「17歳」の告白を、性的混乱として受け取るのか、性的決定として受け取るのか、その選択をアイヴォリーは表向き、観客に委ねているように見えます。というのも、この年齢的な局面は『ムーンライト』(2016年)にも描かれていましたから。

『ムーンライト』はシャイロンという1人のゲイ男性の少年期、思春期、そして成年期の3部構成で描かれ、ティーネイジャーの第2部で描かれるシャイロンは同級生のケヴィンとドラッグをやりながら(これも海辺で)キスをし、ケヴィンから手淫を受けます。シャイロンはその優しいケヴィンとの思い出を胸に、以後、第3部で筋骨隆々のドラッグディラーとなってケヴィンと再会したその時まで、誰とも触れ合わず、誰とも抱き合いもせずに生きていたのです。

私たちは過去の何かから変化して大人になっていくのではありません。過去の何かは大人になってもいつも自分の中にあります。まるでマトリョーシュカ人形のように、過去の何かの上に新たな何かを作り上げ、それが以前の自分に覆い被さって大きくなっていくのです。シャイロンはゲイですが、ケヴィンはゲイではありません。大人になった2人には本来ならあの青い月明かりの海辺での、思春期の関係性は戻ってこないはずです。けれど、いまのシャイロンの筋骨隆々のあの肉体の下に、おどおどした十代のティーネイジャーのシャイロンも生きていて、同時にマイアミでダイナーのシェフとして働く様変わりしたケヴィンの中にもその皮膚の何層か下にあの海辺のケヴィンが生きていて、そのケヴィンはまるでマトリョーシュカの一番上から何個かの人形を脱ぎ捨てるようにして、逞しい今のシャイロンの下にいるひ弱なシャイロンを抱きしめるのです。そう、私たちは私たちの中に、今も17歳の自分を飼っている。

十代のそれらは性的混乱なのでしょうか? あるいはそれは思春期に起こりがちな性的未決定なままの性の(そしてその同義としての愛の)横溢だったのでしょうか? アイヴォリーがその判断を観客に委ねるふうに提示しているのは、私はズルいと思います。ここから例えば、「これはゲイ映画ではない」という言説が生まれてきます。「これはLGBTの話ではなく、もっと普遍的な愛の物語だ」という、お馴染みのあの御託です。

実際、3月初めの東京での『君の名前で〜』の試写会では、試写後に登壇した映画評論家らが「僕はこの作品を見て、LGBTを全く意識しませんでした。普通の恋愛映画と感じました」「ブロークバックマウンテンは気持ち悪かったけど、この映画は綺麗だったから観易かった」「この作品はLGBTの映画ではなく、ごく普通の恋人たちの作品。人間の機微を描いたエモーショナルな作品。(LGBTを)特別視している状況がもう違います」云々と話していた、らしい(ネット上で拾った伝聞情報です)。

それはどうなんでしょう? どうしてそこまで「ゲイでない」と言挙げするのでしょう? まるでそれを強調することが、より普遍性を持った褒め言葉であるかのように。

私はむしろ、「17歳」は「ゲイでもあるのだ」と捉える方が自然だと思っています。精液が爪先から頭のてっぺんにまで充満しているような気分の、そして知らないうちにそれが鼻血になってのべつまくなし漏れ出てしまうようなあの時代は、混乱とか未決定とかそういうものではなくむしろ、すべての(変てこりんさをも含んだ)可能性を持ち合わせた年齢だと見据える。そこでは友情すらも性的な何かなのです。そう捉えることこそがありのままの理解なのではないか? 社会的規範とか倫理観とか制約とか、そういうものに構築された意味を剥ぎ取ってみれば、それも「ゲイ」と呼ぶことに、何の躊躇があるのでしょう?

いま90歳のアイヴォリー自身に、そこまでの肯定感があるのかはわかりません。アイヴォリーの分身であるエリオの父親のあの長ゼリフは、自らはその肯定感を得る前に身を退いてしまった後悔とともに語られます。この映画自体、「未決定」で「混乱」するエリオの自己探索の、一夏の出来事のように(表向き)作られてはいるのですから。

自己探索──それは冒頭の、エリオが目を止めるオリヴァーの胸元の、ダヴィデの星、六芒星のペンダントによって最初に暗示されます。それは自らのアイデンティティの証です。そしてそのペンダントの向こうには胸毛の生えた大人の厚い胸があります。オリヴァーは知的で、自分が何者かを知っていて、しかも胸毛のある大人です。それらは今のエリオにはないものです。オリヴァーは到着した最初の日に疲れて眠りたくて夕食をパスするような、礼儀知らずの不遜なアメリカ人として描かれます。それもエリオが持ち合わせていないものです。なんだか気に食わないけれどとても気になる存在として、エリオはオリヴァーに憧れてゆく。「自己」をすでにアイデンティファイしている(と見える)24歳のオリヴァーに惹かれるのです。

そう、これはエリオにとっては自己探索の映画でもあります。けれど視点を変えれば、これは実は、オリヴァーにとってはとても苦しい言い訳の映画であることもわかってくるのです。

それを象徴するのが「Later(後で)」という彼の口癖の言葉です。

なぜか?

オリヴァーがエリオに「Grow up. I'll see you at midnight(大人になれ。今夜12時に会おう)」と告げたあの初夜のベッドで、この映画のタイトルにもなる重要な言葉、「Call me by your name, and I call you by mine(君の名前で僕を呼んで。僕は僕の名前で君を呼ぶ)」と提案したのが、エリオかオリヴァーか、どちらだったのか憶えていますか?

これを「2人で愛を交わし、お互いの中に自分を差し出した関係において、君は僕で、僕は君なのだ」というロマンティックな意味だと捉えることは可能でしょう。そしてエリオにとってはもちろんそうだった。エリオはそういう意味だと受け取ったのだと思います。けれどオリヴァーにとって、この呼称の問題はそんなに単純にロマンティックなものではないのです。

この呼称はオリヴァーからの提案です。そしてそのオリヴァーは、すでに自己探索を終えたクローゼットのゲイ男性なのです。

この映画の早い段階で、オリヴァーはエリオの危うい感情に気づいています。初夜の後でいみじくも告白したように彼はあのバレーボールのとき、半裸のエリオの肩を揉んで「リラックス!」と言ったときに、すでに彼に狙いをつけていたのでした。さらに2人で自転車で街に行って、第一次世界大戦のピアーヴェ川の戦いの戦勝碑のところでエリオに告白されようとしたとき、それが何かを聞く前に「そういうことは話してはいけない」とエリオを制したのです。さらにさらに、その後のエリオの「秘密の場所」への寄り道でキスをしたとき、それ以上のことを拒んで自分の脇腹の傷の化膿のことに話を逸らしました。これらは自制心の表れではありません。これらは、自制心を失ったらどうなるかを知っているクローゼットのゲイ男性の恐怖心です。クローゼットのゲイ男性として、彼はその種の決定をいつも「Later」と言って先送りにしてきたのです。

それらの伏線となるのが、ピアーヴェの直前のシーンの、エリオの母親の朗読による16世紀フランスの恋愛譚『エプタメロン』のストーリーです。ドイツ語版しか見つからなかったその本は、ルネサンス期に王族のマルグリット・ド・ナヴァルによって執筆された72篇の短編から成る物語で、母親はその中から王女と若きハンサムな騎士の物語を英語に訳しながら読み聞かせます。騎士と王女の2人は恋に落ちるのですが、まさにその友情ゆえに騎士は王女にそのことを持ち出して良いのかわからない。そして騎士は王女に問うのです。「Is it better to speak or to die? (話した方がいいか、死んだ方がいいか?)」と。エリオは母親に自分にはそんな質問をする勇気はないと言います。けれど横でそれを聞いていた父親は(ええ、あの父親です)エリオに「そんなことはないだろう」と後押しするのです。

ちなみにエリオの父親はエリオのオリヴァーに対する友情以上の感情を「母さんは知らない」と言うのですが、母親はもちろん知っています。すべての母親は、もちろん息子のそのことを知っているのです(笑)。

この母親による『エプタメロン』の朗読の力(to speak or to die=まるでシェイクスピアのセリフのような「話すべきか、死ぬべきか」の命題)で、その直後のエリオはあのピアーヴェの戦勝碑のところでオリヴァーに告白しようと勇気を振るうわけです。告白の決心とともに、カメラは一瞬、頭上の胸懐の十字架を見上げるエリオの視線をなぞるように映します。そうしてからオリヴァーに向き合うエリオに対し、ところがすでにその素振りを察知しているオリヴァーは「そういうことは話していけない」と制止するのです。また Later と言うかのように。

これは自制心ではなく恐怖心だと書きました。なぜか?

ここに繰り返し現れる「話す/話さない」という命題は、ゲイへの迫害の歴史を知っている者には極めて重要かつ明白なセンテンスを想起させるのです。それは先でも触れたオスカー・ワイルドの有名なフレーズ、「The love that dare not speak its name」です。「敢えてその名を言わぬ愛」──ワイルドは、ダグラス卿との男色関係を問われた1895年の裁判で自分たちの恋愛をそう形容し、結果、2年間の重労働刑に処せられたのでした(このことは結局、オスカー・ワイルドの名声を破壊し、彼は悲惨な晩年を送ることになるのです)。知的なオリヴァーがワイルドの人生の恐ろしい顛末を知らないはずがありません。しかも1983年は、北イタリアの別荘地でこそエイズの影はありませんが、オリヴァーのアメリカではすでにレーガン政権の下、エイズ禍の表面化と拡大と、それに伴う大々的なホモフォビア(同性愛嫌悪)が進行していました。ゲイであることはまさに「話すか、死ぬか」の二者択一でしかないほどの恐怖でした。彼がクローゼットである事実は、誰もがクローゼットに隠れていた時代を示唆しているにすぎません。「敢えてその名を言う」者とは、つまりクローゼットからカムアウトするゲイたちのことです。そしてあの時代、彼らはほぼ、「エイズ禍と闘う」という社会的な大義名分を盾としなければ敢えてその愛の名前など口にできなかったのです。

そう、「君の名前で僕を呼んで」と提案したのはオリヴァーです。それは実は「敢えてその名前を呼ばぬ愛」の方法なのです。相手の名前を呼べば、それが「同性愛」という名前のものだと知られてしまうからです。だから彼は自分の名前で相手の名前を代用させた……その底に流れているのは恐怖心なのです。エリオが母親から『エプタメロン』の話を聞かされたと話したときに、オリヴァーが、騎士が王女にその思いを話したのか話さなかったのか、その結果を妙に気にしたのもそのせいです。

ピアーヴェの戦勝碑のシーンから、エリオの心はオリヴァーに決めています。その時のエリオはいつの間にかオリヴァーのダヴィデの星のペンダントを自分のものにしています。自分のアイデンティティを選び取り、身に着けたのです。けれど肝心のオリヴァーがそこからビビり始める。だから「Trator! (裏切り者!)」と罵りたくもなるのです。なにせ、オリヴァーはエリオとの性的な場面ではまるで日常を転換するように普段は吸わないタバコを吸うのですから。あたかも酔わなければ性交できない弱虫のように。

ラストシーンに向かってまた『ブロークバック・マウンテン』が出てきます。ジャックが隠し持っていたエニスのシャツのように、エリオはオリヴァーが到着した初日に着ていた青いシャツも手に入れています。そしてとうとう帰米することになる前に、2人で旅行したベルガモでいっしょに緑濃い山に登るのです。そこには滝が流れてもいます。一心不乱にこの「ブロークバック・マウンテン」を駆け上がるエリオの後ろで、ところがオリヴァーは一瞬その足を止め、山と反対方向に向き直って遠くを見つめるのです。それが何を意味しているのか、そのとき彼が何を見ていたのか。もう言わなくてもわかりますよね。その年の冬、電話の向こうからオリヴァーはエリオに結婚することを告げます。彼女とはもう2年前から付き合っていたのだと。

そして最後の3分半の長回しがスタートします。エリオの顔には、彼が見つめている暖炉の炎の色が反射しています。それは赤く燃える彼の性愛の象徴です。その向こう、エリオの背後の窓の外には雪が降っています。そしてその雪とエリオの間に、ハヌカの食卓の支度をする家庭が介在しています。

この三層構造も、実は『ブロークバック』のラストシーンと呼応しています。時が経ち、老いたエニスのトレイラーハウスの中、そこにはエニスの性愛の象徴のブロークバック・マウンテンを写した絵葉書が貼ってありました。それが貼られているのはトレイラーハウスに置いたクローゼットの四角い扉でした。そしてクローゼットの横には窓があり、その窓からはうら寒い外の世界が見えていたのです。その三層構造。

エリオの見つめる炎、温かい室内、そして外の雪世界──アイヴォリーが提示したのは、『モーリス』で描けなかった肯定感だと最初に書きました。そのためにこの最後の三層構造は、『ブロークバック』のラストシーンの三層構造と1つだけ違っています。それは『ブロークバック』での「クローゼットの四角い扉」が、「温かい家庭」に置き換わっていることです。エニスの性愛を守ったのがクローゼットだったのに対し、エリオの性愛を守るのは家庭なのです。

『ブロークバック』のラストシーンは1983年の設定です。スタートは1963年でした。1963年からの20年間を引きずるエニスの破れなかった「クローゼット」。それをアイヴォリーはその同じ年の冬に「温かい家庭」に置き換えて、2017年からエリオを鼓舞しているのです。


****
註)まだ1回しかこの映画を観ていないので、記憶違いや細部に関して見逃している部分がいくつもあると思います。
例えば、半ばごろに登場するヘラクレイトスの『Cosmic Fragments』という本。これは福岡伸一さんも敷衍した「動的平衡」の考え方の土台である「万物は流転する」というテーゼの本です。「同じ川に2度と入ることはできない」という有名な譬え話に象徴されますが、これは私が持ち出した「マトリョーシュカ」の話と矛盾します。それはどう解決するのか、私にはまだわかりません。
もう1つ気になったのは、画面に何度か登場するハエです。あれは何なのでしょう? 確かエリオがオナニーをしようとするシーン、それと最後の長回しのシーンでもハエが映り込んでいました。あのハエに何か意味を持たせようとすると(いろんな可能性を考えて観ましたが、そのいずれも)変なことになります。その1つが迫り来るエイズ禍の影の象徴というものです。その読みは可能だけど、安易すぎるし表層的なホモフォビアにつながります。もしこのハエの映り込みが意図的ではないならば、あるいは意図的であったとしたらなおさらあれは無意味かつ有害ですので、事後の画像処理で消すべきじゃないかと強く思います。
あと、ヘーゲルの引用にどういう意味があるのかはまだ考えていません(笑)。

しっかし、本文には書かなかったけど、シャラメくん、あのオドオド感、行きつ戻りつ感、意を決した感、わけわかんなくなっちゃった感、こんなこと言っちゃった感、全てを自分の引き出しから出して、というか出せるんだから、すごい俳優だなあ。オスカーのノミネート宜なるかな、でありました。

January 04, 2018

性と生と政の、聖なる映画が現前する

新年最初のブログは、先日試写会で観てきた映画の話にします。『BPM ビート・パー・ミニット(Beat Per Minute)』。日本でも3月24日から公開されるそうです。パリのACT UPというPWH/PWA支援の実力行使団体を描いたものです。元々はニューヨークでエイズ禍渦巻く80年代後半に創設された団体ですが、もちろんウイルスに国境はありません。映画は昨年できた新作です。2017年のカンヌでグランプリを獲ったすごいものです。私も、しばらく頭がフル回転してしまって、言葉が出ませんでした。やっと書き終えた感想が次のものです。読んでください。そしてぜひ、この映画を観ることをお薦めします。

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冒頭のAFLS(AGENCE FRANCAISE DE LUTTE CONTRE LE SIDA=フランス対エイズ闘争局)会議への乱入やその後の仲間内の議論のシーンを見ながら、私は数分の間これはドキュメンタリー映画だったのかと錯覚して混乱していました。いや、それにしては画質が新しすぎるし、ACT UPミーティングのカット割りから判断するにカメラは少なくとも3台は入っている。けれどこれは演技か? 俳優たちなのか? それは私が1993年からニューヨークで取材していたACT UPの活動そのものでした。白熱する議論、対峙する論理、提出される行動案、そして通底音として遍在する生と死の軋むような鬩ぎ合い。そこはまさに1993年のあの戦場でした。

あの時、ゲイたちはばたばたと死んでいきました。感染者には日本人もいました。エイズ報道に心注ぐ友人のジャーナリストは日本人コミュニティのためのエイズ電話相談をマンハッタンで開設し、英語ではわかりづらい医学情報や支援情報を日本語で提供する活動も始めました。私もそれに参加しました。相談内容からすれば感染の恐れは100%ないだろう若者が、パニックになって泣いて電話をかけてくることもありました。カナダの友人に頼まれて見舞いに行った入院患者はとんでもなくビッチーだったけれど、その彼もまもなく死にました。友人になった者がHIV陽性者だと知ることも少なくなく、そのカムアウトをおおごとではないようにさりげない素振りで受け止めるウソも私は身につけました。感染者は必ず死にました。非感染者は、感染者に対する憐れみを優しさでごまかす共犯者になりました。死はそれだけ遍在していました。彼も死んだ。あいつも死んだ。あいつの恋人も死んだ。みんな誰かの恋人であり、息子であり、友だちでした。その大量殺戮は、新たにHIVの増殖を防ぐプロテアーゼ阻害剤が出現し、より延命に効果的なカクテル療法が始まる1995年以降もしばらく続きました。

あの時代を知っている者たちは、だからACT UPが様々な会合や集会やパーティーや企業に乱入してはニセの血の袋を投げつけ破裂させ、笛やラッパを吹き鳴らし、怒号をあげて嵐のように去って行ったことを、「アレは付いていけないな」と言下に棄却することに逡巡します。「だって、死ぬんだぜ。おまえは死なないからそう言えるけど、だって死ぬんだぜ」というあの時に聞いた声がいまも心のどこかにこびりついています。死は、あの死は、確かに誰かのせいでした。「けれどすべて政府のせいじゃないだろう」「全部を企業に押し付けるのも無理があるよ」。ちょっとだけここ、別のちょっとはこっち──そうやって責任は無限に分散され細分化され、死だけが無限に膨張しました。

誰かのせいなのに、誰のせいでもない死を強制されることを拒み、あるいはさらに、誰かのせいなのに自分のせいだとさえ言われる死を拒む者たちがACT UPを作ったのです。ニューヨークでのその創設メンバーには、自らのエイズ支援団体GMHCを追われた劇作家ラリー・クレイマーもいました。『セルロイド・クローゼット』を書いた映画評論家ヴィト・ルッソもいました。やるべきことはやってきた。なのに何も変わらなかった。残ったのは行動することだったのです。

そう、そんな直接行動主義は、例えばローザ・パークスを知らないような者たちによって、例えば川崎バス闘争事件を知らないような者たちによって、どの時代でもどの世界でも「もっと違う手段があるんじゃないか」「もっと世間に受け入れられやすいやり方があるはずだ」との批判を再生産され続けることになります。なぜなら、その批判は最も簡単だからです。易さを求める経済の問題だからです。ローザも、脳性麻痺者たちの青い芝の会も、そしてこのACT UPも、経済の話をしているわけではなかったのに。

「世間」はいちども、当事者だった例しがありません。

この映画には主人公ショーンとナタンのセックスシーンが2回描かれています。始まりと終わりの。その1つは、私がこれまで映画で観た最も美しいシーンの1つでした。そのシーンには笑いがあって、それはセックスにおいて私たちのおそらく多くの人たちが経験したことのある、あるいは経験するだろう笑いだと思います。けれどそれはまた、私の知る限りで最も悲しい笑いでした。それは私たちの、おそらく多くの者たちが経験しないで済ませたいと願うものです。それは、愛情と友情を総動員して果てた後の、どこにも行くあてのない、笑うしかないほどの切なさです。時間は残っていない。私たちは、その悲しく美しい刹那さと切なさとを通して性が生につながることを知るのです。それが政に及び、それらが重なり合ってあの時代を作っていたことを知るのです。

彼らが過激だったのはウイルスが過激であり、政府と企業の怠慢さが過激だったからです。その逆ではなかった。この映画を観るとき、あの時代を知らないあなたたちにはそのことを知っていてほしいと願います。そう思って観終わったとき、ACT UPが「AIDS Coalition to Unleash Power=力の限りを解き放つエイズ連合」という頭字語であるとともに、「Act up=行儀など気にせずに暴れろ」という文字通りの命令形の掛詞であることにも考えを及ばせてほしいのです。そうして、それが神々しいほどに愛おしい命の聖性を、いまのあなたに伝えようとしている現在形の叫びなのだということにも気づいてほしいのです。なせなら、いまの時代のやさしさはすべて、あの時代にエイズという禍に抗った者たちの苦難の果実であり、いまの時代の苦しさはなお、その彼ら彼女たちのやり残した私たちへの宿題であるからです。この映画は監督も俳優も裏方たちもみな、夥しい死者たちの代弁者なのです。

エンドロールが流れはじめる映画館の闇の中で、それを知ることになるあなたは私と同じように、喪われた3500万人もの恋人や友人や息子や娘や父や母や見知らぬ命たちに、ささやかな哀悼と共感の指を、静かに鳴らしてくれているでしょうか。

【映画サイト】
http://bpm-movie.jp/


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June 26, 2015

アメリカが同性婚を容認した日

2015年6月26日、連邦最高裁が同性婚を禁止していたオハイオ州など4州の州法を、法の下での平等を保障する連邦憲法修正14条違反と断じました。これで一気に全米で同性婚が合法となったのです。

聖書によって建国されたアメリカには戸惑いも渦巻いています。28日に全米各地で行われた性的少数者のプライド・パレードにも眉をひそめる人が少なからずいます。その「嫌悪」はどこから来るのでしょう? そしてアメリカはその嫌悪にどう片を付けようとしているのでしょう?

それを考えるには、1973年、1993年、2003年、2013年という節目を振り返ると良いと思います。

▼それは22年前のハワイで始まった

じつは「法の下での平等」というのは1993年にハワイ州の裁判所が全米で初めて同性婚を認めた時にも使われた論理です。ところがそれは当時、州議会や連邦政府に阻まれて頓挫します。それから22年、今回の連邦最高裁の判断までに何が変わったのでしょう?

これを知るには46年前に遡らねばなりません。69年6月28日にビレッジの「ストーンウォール・イン」というゲイバーで暴動が起きました。警察の摘発を受けて当時の顧客たちが一斉に反乱を起こしたのです。

そのころのゲイたちは「性的倒錯者」でした。三日三晩も続いたそんな大暴動も、新聞記事になったのは1週間経ってからです。それは報道に値しない「倒錯者」たちの騒ぎだったからです。

▼倒錯じゃなくなった同性愛

ところがその4年後の1973年、アメリカの精神医学会が「同性愛は精神障害ではない」と決議しました。同性愛は「異常」でも「倒錯」でももなくなった。では何なのか? 単に「性的には少数だが、他は同じ人間」なのだ、という考え方の始まりです。

その20年後の1993年には世界保健機関(WHO)が「同性愛は治療の対象にならない」と宣言しました。これで世界的に流れは加速します。ハワイが同性婚容認を打ち出したのもこの年です。

そして2000年以降オランダやベルギーなど欧州勢が続々と同性婚を合法化し始めました。

▼犯罪でもなくなった同性愛

そんな中、アメリカ連邦最高裁が歴史的な判断を下します。2003年6月26日、13州で残っていた同性愛性行為を犯罪とするソドミー法を、プライバシー侵害だとして違憲と断じたのです。これでマサチューセッツ州が同年、同性婚を合法と決めたのでした。

しかし2州目はなかなか現れませんでした。それが変わったのが2008年です。オバマ大統領が選ばれた年です。その原動力だった若い世代が世論を作り始めていました。

彼らの世代は性的少数者が普通にカミングアウトし、「異常者」ではない生身のゲイたちを十全に知るようになった世代でした。結果、2013年には「自分の周囲の親しい友人や家族親戚にLGBTの人がいる」と答える人が57%、同性婚を支持する人が55%という状況を作り出したのです。

▼だから法の下での平等

その年の2013年6月26日に再び連邦最高裁は画期的な憲法判断をします。連邦議会が1996年に決めた「結婚は男女に限る」とした結婚防衛法への違憲判断です。そして2年後の先週6月26日、さらに踏み込んで同性婚を禁止する州法自体が違憲だと宣言したわけです。

結論はこうです。1993年時点では、そしてそれ以前から、同性愛者は「法の下での平等」に値しない犯罪者であり精神異常者でした。それがいま、「法の下での平等」が当然の「普通の」人間だと考えられるようになったのです。人々の考え方の方が変わったのです。

ところで1973、1993、2003、2013年と「3」の付く年に節目があったことがわかりましたが、途中、1983年が抜けているのに気がつきましたか? そこに節目はなかったのでしょうか?

じつは1980年代は、その10年がすべての節目だったのです。何か? それはまるごとエイズとの戦いの時代だったのです。同性愛者たちは当時、エイズという時代の病を通じて、差別や偏見と真正面から戦っていた。その10年がなければ、その後の性的少数者たちの全人格的な人権運動は形を変えていたと思っています。

興味深いのは昨今の日本での報道です。性的少数者に関する報道がこの1〜2年で格段に増えました。かつて「ストーンウォールの暴動」が時間差で報道されたように、日本でもやっと「報道の意義のある問題」に変わってきたということなのかもしれません。

June 22, 2014

永遠の記憶ゼロ

【以下の文章はこれまでも繰り返し言ってきたものですが、都議会性差別ヤジの一件に絡めて再構成してみます。なお、ここでは黒人、女性、同性愛者と書くのみですが、他の人種や性自認、性指向を排除しているものではありません。それらを含むともっと字数もいるので、これはモデル化した、きわめて単純化したエッセーだと考えてください(=表題含めて書き直しました)】


「おまえが早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」。東京都議会で、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援の必要性を訴えた女性都議に対し、議場の自民党席からこんなヤジが飛びました。日本ではこれをセクハラと呼びますが、英米メディアは「セクシスト(女性差別)の暴言 sexist abuse」(英ガーディアン紙)などとより強い言葉で糾弾しています。

世界はつねに白人で異性愛者の男性によって語られ(決められ)てきました。彼らはすべての語りの「主語」でした。黒人も女性も同性愛者もその彼らによって語られる(決められる)「目的語」の位置にいました。

ところが米国では50年代あたりから黒人たちが、60年代から女性たちが、70年代から同性愛者たちが、下克上よろしく「主語」の地位を獲得しだします。するとどうなるか? 黒人たちが白人について、女性たちが男たちについて、同性愛者たちが異性愛者たちについて語りだす主客転倒が起こるのです。異性愛白人男性は急に自分たちが「語られ(自分の意に関係なく勝手に意味を決められ)」て、なんとも居心地の悪い受け身の状態に陥るわけです。今までは勝手に語ってきたのに、今度は勝手に言われる立場に逆転する。

一番の脅威は性的問題でした。黒人たちは性器の大きさを、女性は性交の巧拙を話題にする、極めつけは同性愛者たちで彼らは文字通り自分たちを「目的」にしている!(ような気がする)。

この「目的語」の恐怖は、彼らに2つの道を選択させます。1つは再びの絶対的主語奪還をはかるやみくもな実力行使です。さらなる男性至上主義、父権主義、セクシズムへの固執です。前提や環境が変わっていてすでに「絶対」は存在し得ないにもかかわらず、それを理解できないのです。

もう1つは主語と目的語の平準化、交換可能な交通化です。すなわち、主語でも目的語でもその間を自由に行き来して相対的な自我を意図的に(これは、わざとじゃないとなかなか出来ないことです)構築していく道です。ここでは世界の主語でないからと言って怯える必要はありません。

さてそこで例の都議会女性差別暴言ヤジ問題を考えてみましょう。当初この問題を取り上げたTVインタビューである自民党都議は「こんなヤジよくあること」と答えたのです。これはまさに50年代以前の、絶対的主語幻想が生きていた時代の言辞です。

ところが翌朝の新聞での自民党の反応は「まさか大ごとになるとは」。

これは自分たちが他の主語たちによって語られていることへの気づきと驚きです。自民党のセクシズムが世間の「目的語」として受け身にさらされるという、予期せぬことへの呆然です。だって今までの地方議会では「今日はパンツスーツだけど生理なの?」(千葉県我孫子市議会)「痴漢されて喜んでるんだろ」(2010年都議会)などと発言しても「よくあること」として問題視されなかったのですから。

さて、自民党はどちらの道に進むのでしょう? 再びの男性至上主義、セクシズムへの固執か、それとも……?

まあ、一番の可能性は遅ればせながら犯人のクビを差し出し、とりあえずは謝っておいて(週明けにでもそうなるでしょうかね)でも時間が経てばまた「なかったことにする」という記憶障害の再発でしょう。

ただしそれは自民党が知的鎖国状態にあることの証左であって、その限りでは今後も諸外国のメディアの、そして日本国内の、遅ればせながらいまとうとう主語の地位を獲得し始めた“元・目的語”の人たちの、批判対象、外圧対象であり続けるということです。それを逃れる道はなく、抜本的に脳髄を入れ替えないと永遠の記憶ゼロを繰り返さねばならぬはめになります。

May 12, 2014

日系企業のみなさんへ〜任天堂事件の教訓

記憶に新しいところではこの4月、ファイアフォックスのモジラ社の新CEOがかつてのカリフォルニアでの反同性婚「Prop8」キャンペーンに1000ドルの寄付をしていたために就任10日で辞任に追い込まれました。東アジアのブルネイが同性愛行為に石打ち刑を適用することに対し全米でブルネイ国王所有のホテルチェーンにボイコットが起きていることも大きなニュースです。そういえばロシアの反同性愛法への抗議でソチ五輪で欧米諸国がそろって開会式を欠席したのもまだ今年の話でした。

性的少数者への差別や偏見に対してかくも厳しい世界情勢であるというのに、どうして大した思想も覚悟もあるわけでない任天堂米国社が、6月に発売するソーシャルゲーム「Tomodachi Life(日本名ではトモダチ・コレクション=先にコネクションとしたのを書き込み指摘により修正しました)」の中で同性婚が出来なくなっているのでどうにかしてほしいと言うファンからの要望に対して「任天堂はこのゲームでいかなる社会的発言も意図していません」「異性婚しかないのは、現実世界を再現したというよりは、ちょっと変わった、愉快なもう1つの世界だからです」と答えてしまったのでしょうか。

実は同じことは日本版リリース後の昨年暮れにも起きました。このときは日本国内での話題で、一部外国のゲームファンの中からも問題視する声がありましたが、任天堂はこれを「ゲーム内のバグ」と言いくるめて押し通し、肝心の同性間交際の問題には正面からはまったく対応しませんでした。そして今回に至ったのです。

これはマーケティング上の大失敗です。なぜならこれは、米国では誰から見ても明白に「大きな問題」になることだったからです。そして、同性婚を連邦政府が認めているアメリカで「異性婚しかないのは」「現実世界」とは違ってそれ「よりはちょっと変わった愉快なもう1つの世界」の話だからだと言うことは、まるで同性婚のある現実世界はその仮想世界よりも楽しくないという、大いなる「社会的メッセージ」を発することと同じだったからです。

果たしてこれをAP、CNN、TIME、ハフィントンポストなど、米国のほぼ全紙全局が一斉に報じました。AP配信の影響でしょうか、アメリカのゲーム関連のニュースサイトもちろん速報しました。「任天堂は同性婚にNO」という批判文脈で。それでもまだ任天堂は気づいていなかった。というのもハフィントンポストからの取材に対して日本の任天堂は「すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたい」とコメントしたのです。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html
「日本では昨年発売されたものですし、お客様にも大変喜んでいただいています。
 ゲームの中で、結婚したり、子供を作ったりという部分が特徴的なのは確かですが、それだけではありません。いろいろなことができるゲームですし、その部分のみが取り上げられるのは、ゲームの中身が理解されていないのかな、という印象です。まだ海外では発売すらされていないので、そういった報道になるのかもしれません。すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたいと思います。」

そして翌9日、任天堂は謝罪に追い込まれました。「トモダチ・ライフにおいて同性間交際を含めるのを忘れたことで多くの人を失望させたことに謝罪します」と。

We apologize for disappointing many people by failing to include same-sex relationships in Tomodachi Life.

TIMEは次のようにこの謝罪も速報しました。

The company issued a formal apology Friday and promised to be "more inclusive" and "better [represent] all players" in future versions of the life simulation game. The apology comes after a wave of protests demanding the company include same-sex relationships in the game

もっとも、任天堂は例の「社会的発言」云々のくだりなど、それ以前のコメントの「間違い」への反省の言及は一切ありませんでした。

LGBT(性的少数者)の人権問題に関してどうして日系企業はかくも鈍感なのでしょう。そもそもアメリカに進出していてもLGBTという言葉すら知らない人さえいます。かつて日系企業の米国進出期には女性差別やセクハラ、人種差別やそれに基づくパワハラが訴訟問題にも発展し、多くの教訓を得てきたはずです。にもかかわらず今度はこれ。実際は何も学んでこなかったのと同じではありませんか。

性的「少数者」として侮ってはいけません。米国社会では親しい友人や家族の中にLGBTがいると答えた人は昨年調査で57%います。同性婚に賛成の人は先日のCNN調査で59%にまで増えました。所謂ゲーム世代でもある18歳〜32歳の若年層に限ると、同性婚支持の数字は68%にまで跳ね上がるのです(ピューリサーチセンター調べ=2014.3.)。

つまり、LGBTに関して「あいつオカマなんだってさ」「アメリカにはレズが多いよな」などという言葉を吐こうものなら、あなたは7割の若者から差別主義者の烙印を押されることになるのです。それで済めば良いですが、もしそれが職場や仕事上の話題ならば、訴訟になり巨額のペナルティが科せられます。冒頭に挙げた例はビッグネームであるが故の社会制裁を含んだものですが、アメリカでは最近、せっかく新番組のTVホストに決まっていた双子の兄弟が過去のホモフォビックな活動を問題視されて番組そのものがあっというまにキャンセルされてしまった例もあります。こう言ったらわかるかもしれません。アメリカ社会で黒人にニガーという言葉を投げつけただけであなたは社会的にも経済的にも大変困ったことになります。その想像力をそっくりLGBTに対しても持つ方がよい。ホモフォビックな性的少数者に差別と偏見を向ける人は、よほどの宗教的な確信犯ではない限り、すでにそちらこそが少数派の社会的落伍者なのです。

そんなこんなで任天堂問題がツイッターなどを賑わしているさなかに、大阪のゲーム会社がまた変なことをやらかしていることが発覚しました。

ノンケと人狼を見分けて「(ホモ)人狼」を追放する「アッー!とホーム♂黙示録~人狼ゲーム~」だそうです。

こうなるともうわけがわかりません。

これがアップルやグーグルのゲームアプリとして発売されるというので、いまツイッターなどでみんながアップルとグーグルにこんなホモフォビックなゲームは販売差し止めにしてほしいという運動を起こしています。なにせアップルもグーグルも世界的にLGBTフレンドリーを公言している企業だから尚更、というわけです。

このゲーム会社、大阪のハッピーゲイマー(Happy Gamer)というところらしいですが、ツイッターで抗議されて慌ててこのゲームのサイトに「表現について」という急ごしらえの「表現について」http://ahhhh.happygamer.co.jp/expressというページを追加してきました。そこで「このゲームにおいて「性的少数者=人狼」のように表現はされておりません」と釈明したのです。でも、それ以前にこの会社、ツイッターで「#ホモ人狼 あ、ハッシュタグ作ったんで使ってくださいね!」という「人狼=ホモ」という何とも能天気な自己宣伝をばらまいていたんですね。頭隠して尻隠さずというのはこういうことを言うのです。あまりに間抜けで攻めるこちらが悲しくなってきます。

というわけでこの会社が両販売サイトから差し止めを食らうのも時間の問題です。おそらく零細企業でしょうし、「ホモ人狼」などと堂々と宣伝してしまうところから見てもまったく意識がなかったのは明らかですが、「差別するつもりはなかった」という言い訳が通用するのは小学生までです。ユダヤ人に、黒人に、世界中でどれほどそういう名目での差別が行われてきたか、「差別するつもりはなかった」ということをまだ恥ずかし気もなく言えるのもまた日本社会の甘やかなところなのだと、とにかく一刻も早く気づいてほしい。並べて日本の会社はこの種のことにあまりに鈍感過ぎます。

「差別するつもりはなかった」という言葉で罪が逃れられると思っているひとは、「殺すつもりはなかった」という言葉があまり意味のない言い訳であるということを考えてみるといいと思います。こんなことが差別になるとは知らなかったと言って驚く人は、こんなことで死ぬとは思っていなかったと言って驚く人と同じほど取り返しがつかないのです。LGBTに関して、いま欧米社会はそこまで来ています。

ゲイやレズビアンなどの市民権がいまどうして重要なのか。いつから彼らは「ヘンタイ」じゃなくなったのか。私はもう20年以上もこのことを取材し書いてきました。日本企業のこの状況を、ほとほと情けなく思っています。この問題について企業研修をやりたいなら私が無料で話してさしあげます。連絡してください。

April 20, 2014

LGBTコミュニティ内の、LGBとTとの亀裂

ハフィントンポストにアダム・ハントという活動家の以下のようなポストがなされました。
The LGB/T Divide From a Cisgender, White Gay Male of Privilege
アメリカのLGBTコミュニティ内にあるレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル(LGB)とトランスジェンダー(T)との間の亀裂についての彼の思いを綴ったものです。

性的少数者はさまざまなカテゴリーに別れますが、「LGBT」と一括りにまとめたりされるコミュニティの中でも、じつはその間には「シスジェンダー」と「トランスジェンダー」という重大な差異があります。「シスジェンダー」と言うのは、自分の肉体的性別(セックス)と、精神的性別(ジェンダー)とが一致している(シス)ことです。

たとえばゲイ男性(G)は、自分が肉体的に男であり、精神的にも男であることで、そこに不一致はありません(シス)。それはヘテロセクシュアルの男性たちと同じです。つまり「シスジェンダー」なのです。そうして性と愛の対象がヘテロセクシュアルとは逆転している。つまり向かう先が同種(ホモ)の性(セックス)の男であるという人たちです。レズビアン(L)も同じく自分が心身共に女性ということで「シスジェンダー」であり、性愛対象がヘテロ女性とは逆転する同種の性の女性ということです。これはつまりゲイ男性と鏡の位置にある存在です。バイセクシュアル(B)も心身の性は一致していて(シスジェンダー)、性愛の対象だけが単一の性ではなく両方(バイ)の性にまたがるという人たちです。

対して、「T」で表される「トランスジェンダー」は、後段の「性愛の対象」が問題なのではありません。心身の性が転換(トランス)していること、つまり前段2つのありようがまずはLGBシスの三者とは違うのです。つまり肉体が男性で心が女性、あるいはその逆、これをトランスジェンダーと言います。それが自分の中で「障害」と感じられるほどに異和感があってどうにかその齟齬を解消したいと思うときに、それを医学的臨床的に「性同一性障害(GID)」と呼びます。日本では「障害」と名付けないと性再判定手術(いわゆる性転換手術とかつて呼ばれたもの)が受けられないのでその呼び名が法律で定義され、かつ社会的に一般に流通しました。もちろんジェンダーとセックスの不一致があってもそれを「障害」と考えていない人たちもいます。

なので、カテゴリー的には(簡略化して言うと)、自分の肉体、自分の精神、相手の肉体の3つが問題となります。

仮に「男」をM、「女」をF、で表すと、
異性愛の男性は(肉体)M(精神)M(相手)Fです。
同性愛の男性は(肉体)M(精神)M(相手)Mです。
異性愛女性は同じ順番だとFFMです。
同性愛女性はこれがFFFになります。
両性(mfと併記しましょう)愛男性は同じくMMmf。
両性愛女性はFFfm。

何れにしても最初の2つの記号は同じMMやFFで不一致はない。これが「シスジェンダー」です。

対してトランスジェンダーは、最初の2つの記号、肉体と精神の性が転換(トランス)しているのでMFもしくはFMになります。
その上で;
MFF(肉体的に男性M、精神的に女性F、性愛対象が女性F)ならば、後者2つが同じ(ホモ)なので同性愛者で、つまり肉体は男性だけれど精神は女性で、性愛の対象が女性だから、表向きには「男性」が「女性」を愛しているようには見えるけれど、その実はトランスジェンダーの「ホモセクシュアル(女性同性愛者=レズビアン)」である、ということになります。
さらにMFMならば、肉体はM、精神はF、性愛対象はM、なので、表向きは男性Mが男性Mを愛しているように見えますが心が女性なのでこれはトランスジェンダーの「ヘテロセクシュアル(異性愛者)」です。
同様に、FMMも、FMFも、さらにはトランスジェンダーでバイセクシュアルのMFfmもFMmfも存在します。
(実際はもっと複雑ですが)

そこで、一概にLGBTでは括れないさまざまな問題の差異が生まれてきます。かつてはすべて「ゲイ」と大雑把にまとめられてきたのですが(それ以前は全員「ヘンタイqueer, faggot...etc.」で十把一絡げでした)、それぞれが主体となって声を挙げ始めて問題の差異が浮き彫りになってきたのです。

それをふまえた上で、冒頭に紹介したLGBTの間の亀裂に関するブログをここで紹介しておきます。

ここではトランスジェンダーへの英語の揶揄語・侮蔑語である「トラニー tranny」という言葉の問題を第一に置いています。しかし問題はそこから派生して実際には物凄く多岐にわたります。LGという「同性愛」コミュニティの中では、トランスジェンダーの人たちの中にいる「異性愛」(つまり女性に見えてもじつは男性で、そしてしかもその男性異性愛者の心で女性を愛している)という部分が「理解できない」という人もいます。もしくはそこらへんをさっぱり勉強していないしするつもりもない、という人も。つまり、トランスジェンダーの人たちはLGBTコミュニティと一括りにされる性的少数者の中でも、一層の少数者になっているわけです。そうして、そんな性的少数者のコミュニティ(というものが確立しているのだとすればその)内部でのヒエラルキーや、それに基づく無視や軽視や偏見や差別も当然存在するわけです。それがトランスジェンダーの人々にとっては何とも面白くないし不満だし苛立つし腹立たしい。差別の酷さがわかっているはずのLGBが、さらにTを無視している、という状況です。

このアダム・ハントのブログはそのとっかかりをなぞっただけにすぎない印象ですが、しかしまずはそうした状況を理解する第一歩として掲出・訳出しておきます。

*****

The LGB/T Divide From a Cisgender, White Gay Male of Privilege
特権階級であるシスジェンダーの白人ゲイ男性から見たLGBとTとの分裂

Adam Hunt
Nonprofit and corporate special event planner; activist for social justice and equality
アダム・ハント
非営利・法人特別イベントプランナー:社会正義と平等を目指す活動家


Posted: 04/18/2014 5:13 pm EDT Updated: 04/18/2014 9:59 pm EDT


Disclaimer: I usually avoid using slurs of any kind, but for the sake of getting this point across, I'm abandoning that for this blog post. Please do not take offense.

先に免責願い:普段は誹謗中傷の言葉はいかなるものも使わないようにしているが、論点を理解してもらうためにこのブログの投稿に限ってその禁を解くことにする。ご寛恕のほど。

There's a conversation happening right now that's long overdue. With growing tensions between the LGB and T components of our community, we are doing little to bridge the gap -- quite the opposite in fact. Instead of binding together to respect one another's viewpoints and have a meaningful discussion about language in our culture, we're jumping on the defense every chance we get -- further hurting the historic bond we have. It has to stop.

もっと早くに取り上げるべきだったけれどいまやっと話が始まろうとしている。私たちLGBTのコミュニティの構成員であるLGBとTとの間にぴりぴりした空気が広がっているのだが、その亀裂を埋めるためのことを私たちはほとんどやっていない──というか、真逆のことが行われているのだ。一緒になって互いに違う互いのものの見方に敬意を払い、自分たちの文化の言葉遣いについて意義ある議論を持つ代わりに、ことあるごとに私たちは自分の身を守ることだけに躍起だ──いや、そうやって私たちが有している歴史的な絆を傷つけてもいる。こんなことは終わりにしなければならない。


Gay men: Telling trans people to stop being so touchy and sensitive over language is wrong. For too long they've stood in the dark supporting you for your fight for marriage equality and protections under the law, while you make little attempt to understand their struggles. Why are you jumping to assume this is a new sensitivity or cry for attention? Why aren't you attempting to understand that MAYBE the trans community finally feels like it has enough clout in our society to speak up for themselves? Why are we trying to stifle that and treat them as if their opinions and feelings don't matter? Was there ever a time you walked by a group of straight dudes in high school, calling one another faggots and a little piece of you died inside? It doesn't matter to you that those guys take pleasure in using the word because to you -- it sucks. THAT's what it feels like to trans men and women when you throw around "tranny," like Rhianna's new single. You may use it as a term of endearment, but to others it hurts. And rather than get defensive over using it, maybe we should start exhibiting some compassion and understand how others are affected. Maybe you weren't negatively affected by the word "faggot." I'm happy for you, but there are people who have, so maybe take a moment to understand someone else's experience.

【ゲイ男性たちへ】トランスの人たちに、そんなのは言葉の問題だからそう過敏になるなとか考え過ぎだというのは間違いだ。じつに長すぎるほどにわたり、彼ら/彼女らは同性婚や法の下での保護の問題でも君と君たちの戦いとを陰から支えてきた。にもかかわらず君らは彼ら/彼女らの苦闘をほとんど理解しようとしてこなかった。どうしてこのことを、急に過敏に反応しだしただとか、注目を浴びたくて大声を出しているだけだとかと簡単に決めつけるのか? これが、ひょっとして彼ら/彼女らトランスジェンダーのコミュニティが、私たちの社会でやっと十分なだけの力を持ち始めてついに自分たちのためにも声を挙げようとしているのかもしれない、とは考えようとしないのか? なぜその声を抑え込み、まるでそんな意見や感情などどうでもいいといわんばかりに彼ら/彼女らを軽んじるのか? 高校時代、君は、学校でストレートの男たちのグループの横を通ったとき、彼らが互いに「オカマ野郎 Faggots!」とかと言い合っているのを聞いて、自分の中の小さななにかが死んだような気になったことがあるだろう? そういう連中は、わざと君に聞こえるように、君の嫌な言葉を口に出して喜んでいる。リアーナの新しいシングル曲みたいに。だとしても君は気にしないんだね。でもそれがトランスの彼ら/彼女らが、君が「トラニー tranny」という言葉を言いふらすときに感じることだ。君はそれを親愛の言葉として使っているのかもしれない。でもそれは聞くものにとっては傷つく。だからそれを使うことの言い訳をするより、きっとなんらかの思いやりを示したり、それを聞いてどう感じるかを理解した方がいいんだと思う。ひょっとしたら君は「オカマ faggot」という言葉を聞いても傷つかなかった人なのかもしれない。それはいいことだと思う。でもそうじゃない人もいる。だからちょっと時間を割いて、自分とは違う人間の気持ちを理解してほしいのだ。


Non-trans drag queens: You are not trans. You don't get to throw around hateful terms, either, even if you feel you're reclaiming the word. It's not yours to reclaim. There are women who get beaten by their boyfriends or random strangers, left for dead, where tranny is the last word they hear. It's not a word that represents frivolity and flamboyance or whatever you want it to mean. It's not a joke, and trans people aren't a spectacle. When someone tells you they're offended by your language, instead of jumping to defend your free speech, take a moment to educate yourself on why it means so much to this person that you change your behavior. It's time we start considering each other's stories before assuming our own experiences trump those of others. RuPaul is a poor representative of this ideal. It's one thing to take pride in a term that may hurt other people, but it's another to blatantly fight the understanding of and compassion for those who are negatively affected by it.

【トランスではないドラァグ・クイーンたちへ】君はトランスジェンダーじゃない。でも不快な言葉をまき散らす必要もない。たとえその言葉を違った意味で使っていようとも。問題は君の意図ではない。自分のボーイフレンドに、あるいは見知らぬ他人たちに、殴られ、放置されて死ぬ間際に、最後に聞く言葉が「トラニー tranny」という言葉である女性たちがいるのだ。それはちょっとした軽口のつもりの、わざと浮かれた調子の、なんでもいい、君が意図するところの、そういう言葉ではない。それはジョークではないしトランスの人たちは見せ物でもない。だから誰かが君の言葉遣いに傷ついたと言ったら、自分の表現の自由を守ろうと躍起になるのではなく、どうしてそれがこの人にとってそんなに大ごとなのかを思いやって、自分の行いを改めるようにしてほしい。自分の経験してきたことが他の人間のそれより勝ると思い込む前に、そろそろお互いの物語を忖度し合うときなのだ。ルポールがこの理想を体現しきれているとは思わない。ほかの人々を傷つけるかもしれない言葉を敢えて誇りを持って使うことはある。けれどそのことと、その言葉で傷つく人々への理解や思いやりをこれ見よがしに拒むこととは別のことなのだ。


Trans people: Please understand that there are cisgender gay men who are on your side, and please continue to have this dialogue. I understand you're frustrated, hurt, annoyed, angry, etc. on how you've been treated, and for me to ask patience of you is probably insensitive, but I do ask that you help us be better allies by calmly and eloquently continuing to call us out. Continue to let us know when our words, behaviors and micro-aggressions get to you, but please forgive those of us who make mistakes unknowingly as we work to change our language and understandings to reflect yours. Please don't assume all gay men are ignorant fools, and please -- no more rebuttals beginning with: "Easy for you, cisgender white men of privilege to say..." it doesn't promote healthy discussions either. Being an ally is a constant process of empathy and understanding, and trust me, we will make mistakes -- but it doesn't make us bad people.

【トランスの人々へ】憶えておいてほしいのは、君たちの側に立つシスジェンダーのゲイ男性たちもまたいるということだ。だからこうした対話を持ち続けてほしいと思う。自分たちがどう扱われているか、そのことで君たちが不満に思っているのはわかっている。傷つき、苛立ち、怒っていることも。だから私が君たちに我慢してほしいと頼むのはきっと無神経なことだ。しかしお願いだ。私たちがより良きアライ(同盟者)になれるよう、落ち着いてかつ雄弁に私たちに挑み続けてほしい。私たちの言葉が、行いが、些細でもそのトゲが気に障ったときにはそれを知らせ続けてほしい。しかし君たちのことを表現するために言葉遣いや考え方を変えようと努力しているときに、それでも私たちの中に知らず知らず間違いを犯してしまう連中がいたら赦してほしい。どうかゲイの男たちはみんなバカで無知だと決めつけないでほしい。そしてもう1つ──「あなたたち、シスジェンダーの白人男という特権階級には簡単に言えるでしょうけれど……」で始まる反駁は止めにしてほしいのだ。それは健全な議論には進まない。アライであるということは共感と理解の不断のプロセスのことだ。そして、絶対に、私たちはこれからも間違える──でもそれは私たちが悪人だということじゃない。


We have made tremendous strides as a community together. We often think of the Stonewall riots as a momentous time in gay activism, and in many ways it was, but we can't forget that it was a collaborative effort led by LGBT people across the board. People like Sylvia Rivera -- a trans bisexual woman, helped make this happen. In our alienation of our taboo lifestyles, we bound together and created a movement. What happened? At what point did we stop considering the contributions and experiences of others outside of our own? When did arrogance and defensiveness take over our inclination for empathy?

1つのコミュニティとして私たちはともに途轍もない歩みをなしてきた。ストーンウォールの暴動はゲイの行動主義における重大な転機だったとしばしば考えられているが、そして多くの意味で確かにそうだったのだが、私たちが忘れてならないのは、あれがLGBTのすべての構成員によって導かれた共同作業だったということだ。トランスジェンダーのバイセクシュアル女性シルヴィア・リヴェラ Sylvia Rivera のような人たちがいて初めてストーンウォールは起きた。タブーだった私たちのライフスタイルの疎外の中で、私たちはともにつながり、運動を創った。そして何が起きたのか? いったいどの時点で、私たちは自分たち以外の人々の貢献と経験とに思いを馳せることを止めてしまったのか? 傲慢と自己弁護とがいつ共感への意欲に取って替わったのか?


Finding middle ground in a community as diverse, artistic, and expressionistic as ours is tough. BUT what we CAN do is respect one another and educate ourselves on how words affect us. It's high time compassion and authenticity and an attempt to understand one another be our goals in this fight for equality. Who knows? Maybe it could be the beginnings of a real revolution.

私たちのような多様で人工的でだれでも何かを言いたげなコミュニティの中で、中立的な妥協点を見つけることは難しい。けれど私たちは、互いを尊敬し合うこと、言葉がいかに重大であるかを学ぶことはできる。共感と誠意、そして互いに理解し合おうと努めること、平等を求めるこの戦いの中でそれらが私たちのゴールであるべき時なのだ。ひょっとしたら、それがきっと本当の革命の始まりになるかもしれない。

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February 04, 2014

ソチ五輪の華やかさの陰で

ロシアで15歳の少女が反ゲイ法に抗議して学校の友だちの前でカムアウトしました。父親は少女を激しく殴打し、頭部に重傷を負った少女は入院しました。裁判所は有罪を言い渡しました。父親ではなく、少女に対して──同性愛を「宣伝」することが犯罪になるロシアでも、未成年に対する初の法適用だそうです。

ソチ五輪が始まります。スポーツの祭典といわれるオリンピックがこれまでさまざまな政治論争に利用されてきたことは多くの人が知っているでしょう。今回も開会式に欧米首脳が一斉欠席。冒頭の同性愛宣伝禁止法が人権弾圧法であり、その影響でロシア全土でLGBTQへの虐待や暴力、殺人行為までもが急速に広まっているのにロシア政府は何ら手を打たない。それに反発する欧米の世論が、自国のトップの開会式出席を許さなかったのです。

ソチではフィギュアやスキーのジャンプなど日本選手の活躍もおおいに期待されています。それはそれ。だがしかし、そんな面倒くさい政治が、このスポーツの祭典には付き物なのです。

例えば6年後の東京オリンピックでは8千億円以上の公的予算、つまりは税金からの拠出が組まれ、経済効果は3兆円ともいわれます。さらにこれを主催する国際オリンピック委員会(IOC)という組織には、テレビ放映権や公式スポンサー企業からの収益で2千億円近くのおカネが入ります。

夏に比べ冬の五輪は規模は小さくなりますが、それでも国家と企業とがこれだけおカネを出しているのですから、五輪がその国の政治や経済、そしてスポンサー企業の宣伝に利用されるのは当然、というよりもむしろそのためにこそ五輪を開いていると言ってもよい。そしてソチ五輪はロシア国家の威信をかけて、なんと5兆円もの予算規模で行われるのです。これは夏の北京五輪の4兆円をも上回る巨費です。五輪が「純粋なスポーツの場」というのは、その競技を見て楽しむ私たちの頭の中だけの話。オリンピックは「村おこし」ならぬ、「国おこし」「企業おこし」の超巨大イベントなのです。

なので過去の五輪メダリストやソチに出場する12人の現役選手を含む計52人の五輪選手たちが、LGBTQ迫害のロシア政府、そしてそれを黙認するIOC、そしてソチ五輪スポンサー企業を批判する声明に署名しているのも無理もありません。そんな人権弾圧国の「国おこし」には加担したくないのです。ちなみにそれに「加担している」と批判されている世界スポンサー企業にはコカ・コーラ、マクドナルド、ビザ、サムスンなどに混じって日本のパナソニックもいます。

この声明運動は五輪憲章にある「オリンピズムの根本原則」第6条にちなんで「第6原則(principle six)キャンペーン」と呼ばれています。その第6条には「人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック運動とは相容れない」とあって、差別はダメなんじゃなかったの?というわけです。

署名者には米スノーボード金メダリストのセス・ウエスコット、ソチ出場のカナダ選手ロザンナ・クローフォード、オーストラリアの男子4人乗りボブスレーチームが含まれます。他にも国際的スポーツ選手で史上最初にカムアウトした1人であるテニスのマルチナ・ナブラチロワやイングランドのサッカーチーム「リーズ・ユナイテッド」の元選手ロビー・ロジャーズらそうそうたる名前が並びます。残念ながら、日本人選手の名前は見当たりません。

きっとこの抗議運動自体を知らないのでしょう。冒頭の事件などを教えてやれば必ず署名してくれる選手が多いはずだとは思うのですが、日本社会の世界情報遮断力はとても大きい。なにせ国のトップが、そういう情報をまったく意に介さない人ですから。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

December 27, 2012

LGBT票が決めたオバマ再選

オバマ再選はすっかり昔のニュースになってしまいましたが、2012年の総括として、LGBT票が彼の再選に果たした役割についてはここに記しておいたほうがよいでしょう。

アメリカでは今回の選挙では、出口調査によれば全投票者中ほぼ5%が自らをLGBTと公言しました。今回は1億2千万人ほどが投票しましたから、5%というのは600万票に相当します。これが激戦州で実に雄弁にモノを言ったのです。

オバマは選挙人数では332人vs206人とロムニーに大勝しましたが、実際の得票数では6171万票vs5850万票と、わずか321万票差でした。つまり2.675%ポイント差という辛勝だったのです。

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)法科大学院ウィリアムズ研究所のゲーリー・ゲイツ博士とギャロップの共同調査によると、オバマとロムニーはストレートの投票者数ではほぼ拮抗していました。しかも、選挙を決めた最重要州のオハイオとフロリダの両州では、実はロムニーの方がストレート票では勝っていたのです。

ちょっと数字が並んで面倒くさいけれど、最後まで読んでください。オバマに勝利をもたらしたのがLGBTの票だったということがわかりますから。

もともと民主党(オバマの党)はゲイ票やアフリカ系、ラテン系、アジア系米国人の票、さらにユダヤ系の票にも強い党です。それぞれはそう大きくはないグループですが、これらマイノリティ層を全部合わせると全有権者の3分の1を占めます。対して共和党は残り3分の2の層で優位に立たねば選挙に勝てません。ここで支持者層の核を形成するのはキリスト教福音派と呼ばれる白人の宗教保守派層です。この人たちは全有権者数の4分の1を占めます。

ラテン系、アジア系の人口比率はここ最近拡大しています。これは移民の増加によるものです。同時に、ゲイだと公言する有権者も増えています。ギャロップの出口調査によると、65歳以上ではLGBTを公言する投票者は1.9%に過ぎませんでしたが、30歳から49歳の層ではこれが3.2%に上昇し、18歳から29歳層ではなんと6.4%に倍増します。もちろん年齢によって性的指向に偏りがあるはずもありませんから、これはもっぱらカムアウトの比率の違いなのでしょう。そしてそのLGBT層がニューヨークやロサンゼルスといった大都市部を越えて、いま激戦州と呼ばれるオハイオやフロリダなど複数の州でも拡大しているというのです。

共和党はヒスパニックやアジア系の票を掘り起こそうとしていますが、さて、ゲイ票はどうだったのか?

出口調査ではゲイと公言する有権者の76%がオバマに投票していたことがわかりました。対してロムニーに投じた人は22%でした(投票先を答えなかった人もいます)。ストレート票はオバマvsロムニーでともに約49%とほぼ同率だったのに、です。つまり、オバマに投票したLGBTの有権者は600万票のうちの76%=474万人、対してロムニーには22%=120万人。その差は354万票になります。

思い出してください。これは、全得票数差の321万票を上回る差です。つまり、ストレート票だけではオバマは負けていたのに、このLGBT354万票の差で逆転した、という理屈になるのです。

じつは共和党の内部にも「ログキャビン・リパブリカンズ」というゲイのグループがあります。ゲイの人権問題以上に、共和党のアジェンダである「小さな政府」主義に賛同して共和党支持に回っている人がほとんどなのですが、その事務局長を務めるR・クラーク・クーパーは「反LGBT、反移民、反女性権といった社会問題に関する不協和音の大きさに共和党はいま多くの票を失っている」と分析しています。

実際、同性婚に関してはすでに全米規模で賛成・支持が過半数を超えて多数派になりました。共和党支持者ではまだ同性婚反対に回る人が多いですが、それでも今年5月のオバマによる同性婚支持発言に対して、共和党の指導的な政治家たちはそろって静かでした。以前ならば声高に非難していたところなのに、有権者の支持を得られないとわかってその問題に反対するよりもその話題を避けるようにしたのです。とてもわかりやすい時代の変化でした。クーパー事務局長も「それが時代の進むべき方向なのだと(共和党の)議員たちもわかってきている」と話しています。「もっとも、それを公式に表明することはしないだろうが」

翻って日本の総選挙です。同性婚どころかLGBTの人権問題の基本事項すら国政の表舞台ではなかなか登場してきません。得票数では前回の民主党の政権交代が実現した選挙よりも減らしているくせに議席獲得数では大勝した今回の自民党は、ある選挙前アンケート調査ではLGBTの人権問題に関しては「考えなくともよい」「反対」とこたえたそうですね。

LGBT票は日本でも世界の他の国と等しい割合で存在しています。つまりそれが政治の行方を変える力は、いまこの時点でも日本に潜在しているということなのです。それがいつ顕在化するのか、そしてどういうふうな政党に何を託す形で姿を現すのか、長い目で見なくてはならないかもしれませんが、私はそれが少し楽しみでもあります。

May 13, 2012

オバマのABCインタビュー

日本の新聞やTV報道ではあまり大きな扱いになっていないかもしれませんが、オバマが米国大統領として史上初めて同性婚を支持するという発言をした5月10日に放送した(収録は9日)ABCのインタビューから抜粋を紹介します。もちろんこのインタビューは経済やテロの話題にも及びましたが、最初にこの同性婚の話から始まりました。

ちなみに、日本のニュースでは「同性婚を容認」としているところもありますが、これは「容認」するとかしないとかの問題ではありません。大統領が容認しようがしまいが「結婚制度」はいまは州政府の管轄であって直接の影響は与えられないことが1つです。それに「容認」って、なんか上から目線に聞こえません? 実際、オバマはそんなふうなしゃべり方はしていません。とても慎重に言葉を選びながら、しかも「for me, personally」とか「important for me」と、これが個人的な思いであることを強調した上での発言でした。

この中で、自分の同性婚に関する考えが「進化」したと言ってますが、まあ、そりゃ「戦略的に変化してきた」ということだと思います。今年が大統領選挙の年だということも忘れてはいけません。オバマも政治家です。詳細はまた別に書きます(と思います)が、ウォールストリートのおカネがロムニーに流れているいま、それに対抗するカネヅルは裕福なゲイたちのピンクマネーであることも確かなのです。もちろん理想や変革への意志はありましょうが、一方で政治家としての選挙戦略を計算していないわけではないということです。さて、しばしば言葉を慎重に選びつつも、オバマはしっかりとはっきりと受け答えしています。以下がインタビューの内容です。翻訳しましたが、面倒臭くてブラシュアップも推敲もしてません。だって、思ったよりけっこう長かったんです。ひゅいー。

()内は意味の補足で私が付け加えています。その他説明は【訳注:】で示しました。

では、どうぞ。

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ROBIN ROBERTS: Good to see you, as always--

ロビン・ロバーツ:お会いできていつも嬉しいです。

PRESIDENT OBAMA: Good to see you, Robin.

オバマ大統領:こちらも嬉しいですよ、ロビン。

ROBIN ROBERTS: Mr. President. Thank you for this opportunity to talk to you about-- various issues. And it's been quite a week and it's only Wednesday. (LAUGH)

ロビン:ミスター・プレジデント、こうして様々な問題について話しを伺う機会をありがとうございます。今週は大変でした、しかもまだ水曜日です。

PRESIDENT OBAMA: That's typical of my week.

オバマ:私にはいつもこんな感じの1週間ですから。

ROBIN ROBERTS: I'm sure it is. One of the hot button issues because of things that have been said by members of your administration, same-sex marriage. In fact, your press secretary yesterday said he would leave it to you to discuss your personal views on that. So Mr. President, are you still opposed to same-sex marriage?

ロビン:そうでしょうね。いろいろ物議を呼びそうな話題の1つに、政権の内部からもいろいろ発言があるようですが、同性婚の問題があります。実際、報道官が昨日、その件に関しては大統領個人がお話しするのに任せると言っていました。ですんでミスター・プレジデント、あなたはまだ同性婚に反対の立場ですか?

PRESIDENT OBAMA: Well-- you know, I have to tell you, as I've said, I've-- I've been going through an evolution on this issue. I've always been adamant that-- gay and lesbian-- Americans should be treated fairly and equally. And that's why in addition to everything we've done in this administration, rolling back Don't Ask, Don't Tell-- so that-- you know, outstanding Americans can serve our country. Whether it's no longer defending the Defense Against Marriage Act, which-- tried to federalize-- what is historically been state law.

オバマ:まあ、そう、言っておかなければならないのは、前にも話したように私は、私はこの問題については進化を経てきたということです。前からずっと変わらず言ってきたのは、ゲイやレズビアンの、アメリカ人は公正に平等に扱われるべきだということです。ですからこの政権になって我々がいろいろやってきたことに加えて、ドント・アスク、ドント・テル【訳注:同性愛者だと明らかにしない限り米軍で働けるという施策】を廃止して、それでご存じのように、傑出した人材のアメリカ人がこの国のために(性的指向による除隊を心配せずに)働けるようになりました。それに政権としてはもう(連邦法の)結婚防衛法【訳注:オバマはDefense Against Marriage Actと言いマツがえているが、正確にはDefense of Marriage Act=DOMA】を擁護することはやめました。この法律は、結婚を連邦法で規定しようとしたものですが、これは歴史的にも州法の問題ですから。

I've stood on the side of broader equality for-- the L.G.B.T. community. And I had hesitated on gay marriage-- in part, because I thought civil unions would be sufficient. That that was something that would give people hospital visitation rights and-- other-- elements that we take for granted. And-- I was sensitive to the fact that-- for a lot of people, you know, the-- the word marriage was something that evokes very powerful traditions, religious beliefs, and so forth.

私の立場は、LGBTコミュニティのためのより広範な平等をというものです。かつて私は同性婚に関しては躊躇していました。ある意味なぜなら、シビル・ユニオン【訳注:結婚から宗教的意味合いを取り去った法的保護関係】で充分だろうと思ったのです。その、病院に見舞う権利とか、それとその他の、要素などを与えることで。それと、この事実にも敏感にならざるを得なかった、つまり多くの人にとって、知ってのとおりその、結婚という言葉はなにかとても強力な伝統や宗教的信念や、そういったいろいろを喚起するものだということです。

But I have to tell you that over the course of-- several years, as I talk to friends and family and neighbors. When I think about-- members of my own staff who are incredibly committed, in monogamous relationships, same-sex relationships, who are raising kids together. When I think about-- those soldiers or airmen or marines or -- sailors who are out there fighting on my behalf-- and yet, feel constrained, even now that Don't Ask, Don't Tell is gone, because-- they're not able to-- commit themselves in a marriage.

しかしこれも言わなくちゃならないんですが、ここ数年の間に、友人たちや家族や近しい人には話していますが、自分のスタッフたちのことを考えると、モノガマスの関係【訳注:付き合う相手は1人と決めている関係】をものすごく真剣に続けていて、同性同士の関係でですね。それと兵隊です、陸軍も航空兵も海兵隊もそれから水兵も、彼らは外に出て私の代わりに戦ってくれている、なのにまだ制約があるわけです。いまはもう「ドント・アスク、ドント・テル」はなくなりましたが、それでもまだ、結婚という形で、互いに結びつくことができないからです。

At a certain point, I've just concluded that-- for me personally, it is important for me to go ahead and affirm that-- I think same-sex couples should be able to get married. Now-- I have to tell you that part of my hesitation on this has also been I didn't want to nationalize the issue. There's a tendency when I weigh in to think suddenly it becomes political and it becomes polarized.

そしてある時点で、結論するに至った。つまり私にとっては、個人的にですが、私が思う、同性カップルが結婚できるようになるべきだということを、先に進め肯定することが私にとっては重要なことだとそう決めたんです。それから、これに関しては躊躇もあって、その1つはこの問題を全米的なものに広げたくなかったというのもあります。この件は考えようとすると突然政治的になるし対立問題になる傾向がありますから。

And what you're seeing is, I think, states working through this issue-- in fits and starts, all across the country. Different communities are arriving at different conclusions, at different times. And I think that's a healthy process and a healthy debate. And I continue to believe that this is an issue that is gonna be worked out at the local level, because historically, this has not been a federal issue, what's recognized as a marriage.

それでいま行われていることは、思うにアメリカ中で、この件に関しては各州で、断続的にですが、いろいろやっているということです。それぞれ異なったコミュニティがそれぞれ異なった結論に達している。それは健全なやり方ですし健全な議論だと思います。私もこれは地元のレベルで考えられる問題だとこれからも信じています。なぜなら歴史的にもこれは、結婚として何が相応しいかということは連邦政府の問題ではなかったわけですから。

ROBIN ROBERTS: Well, Mr. President, it's-- it's not being worked out on the state level. We saw that Tuesday in North Carolina, the 30th state to announce its ban on gay marriage.

ロビン:ええ、ミスター・プレジデント、州のレベルではうまく行っているわけではありません。8日の火曜日にはノースカロライナが同性婚を認めないとした30番目の州になりました。

PRESIDENT OBAMA: Well-- well-- well, what I'm saying is is that different states are coming to different conclusions. But this debate is taking place-- at a local level. And I think the whole country is evolving and changing. And-- you know, one of the things that I'd like to see is-- that a conversation continue in a respectful way.

オバマ:まあ、その、その、つまり異なる州は異なる結論に至るということで。しかしその議論は行われている、地元のレベルで。そしてこの国全体も進化し変わってきていると思います。それにご存じのように、私が望んでいることの1つは、互いを尊重する形で対話が続いていくことです。

I think it's important to recognize that-- folks-- who-- feel very strongly that marriage should be defined narrowly as-- between a man and a woman-- many of them are not coming at it from a mean-spirited perspective. They're coming at it because they care about families. And-- they-- they have a different understanding, in terms of-- you know, what the word "marriage" should mean. And I-- a bunch of 'em are friends of mine-- you know, pastors and-- you know, people who-- I deeply respect.

そして、その、結婚というものは厳密に定義されるべきだと、男と女の間に限って、と、非常に強く思っている人たちは、その多くはべつに意地悪な気持ちや考え方でそう思っているわけじゃない。彼らがそう感じているのは、家族のことを大切に思っているからです。そして、その、そうした人たち、その人たちは異なった理解をしている。つまりその、「結婚」という言葉がどういう意味なのかという点において、です。私はその、そういう人たちは私の友人の中にたくさんいます。牧師さんとか、ほかにも私の深く尊敬している人たちとか。

ROBIN ROBERTS: Especially in the Black community.

ロビン:特に黒人コミュニティの中に。

PRESIDENT OBAMA: Absolutely.

オバマ:おっしゃるとおり。

ROBIN ROBERTS: And it's very-- a difficult conversation to have.

ロビン:そしてそれは、話すのはとても、難しい。

PRESIDENT OBAMA: Absolutely. But-- but I think it's important for me-- to say to them that as much as I respect 'em, as much as I understand where they're comin' from-- when I meet gay and lesbian couples, when I meet same-sex couples, and I see-- how caring they are, how much love they have in their hearts-- how they're takin' care of their kids. When I hear from them the pain they feel that somehow they are still considered-- less than full citizens when it comes to-- their legal rights-- then-- for me, I think it-- it just has tipped the scales in that direction.

オバマ:ほんとうに。ただ、私は、そういう人たちにも、私が彼らを尊敬しているのと同じくらい、私が彼らの拠って立つところがどこかを理解していると同様に、こう伝えることが私にとって重要なのことだと思うのです。つまり私がゲイやレズビアンのカップルに会うとき、同性同士のカップルに会うとき、そこに、私は、なんと彼らが互いを大切に思い、なんと大きな愛をその心に宿しているのか、そして自分たちの子供のことをなんとじつに大切に思っているのか、ということを。彼らから私は、彼らの感じている苦悩を聞くのです。たとえば法的な権利に関して、そういう話になると彼らは、完全な市民というものよりも自分たちが劣った者として考えられている、そういうふうに感じるわけです。だから私が思うにそれが、そちらの方向に舵を切るきっかけだったのです。

And-- you know, one of the things that you see in-- a state like New York that-- ended up-- legalizing same-sex marriages-- was I thought they did a good job in engaging the religious community. Making it absolutely clear that what we're talking about are civil marriages and civil laws.

それと、あれです、ニューヨークのような州で、結局、同性婚が合法化されたのを見て、私が思ったのが、彼らが宗教のコミュニティとじつにうまく折り合いを付けたということでした。自分たちの言っているのが明確に公民としての結婚、民法上のものだということをはっきりさせて。

That they're re-- re-- respectful of religious liberty, that-- you know, churches and other faith institutions -- are still gonna be able to make determinations about what they're sacraments are-- what they recognize. But from the perspective of-- of the law and perspective of the state-- I think it's important-- to say that in this country we've always been about-- fairness. And-- and treatin' everybody-- as equals. Or at least that's been our aspiration. And I think-- that applies here, as well.

つまり、その、その、宗教の自由を尊重していて、つまりそう、教会とかその他の宗教的団体ですね、そういうところはいまでもまだ何が聖なるものなのか、何をそう認めるのか、自分たちで決められるのです。ただしかし、法律上の、国家としてのものの考え方から言って、重要なのは私が思うに、この国では私たちはいつも公正さというものを旨としてきたということです。そしてすべての人を平等に扱う、ということ。あるいは少なくともそれは私たちの目標でありつづけてきた。だから私が考えるのは、それをここでも適用するということなんです。

ROBIN ROBERTS: So if you were the governor of New York or legislator in North Carolina, you would not be opposed? You would vote for legalizing same-sex marriage?

ロビン:ではもしあなたがニューヨーク州の知事だったり、あるいはノースカロライナ【訳注:このインタビューの前日に同性婚は認めないという州憲法変更提案を住民投票で可決した州】の州議会議員だったとしたら、あなたは反対しない? つまり、同性婚を合法化することに賛成票を投じるわけですか?

PRESIDENT OBAMA: I would. And-- and that's-- that's part of the-- the evolution that I went through. I-- I asked myself-- right after that New York vote took place, if I had been a state senator, which I was for a time-- how would I have voted? And I had to admit to myself, "You know what? I think that-- I would have voted yes." It would have been hard for me, knowing-- all the friends and family-- that-- are gays or lesbians, that for me to say to them, you know, "I voted to oppose you having-- the same kind of rights-- and responsibilities-- that I have."

オバマ:そうするでしょう。それが、それが私の、通ってきた進化の一部です。私は自分に問いただしました、あのニューヨークの投票が行われた直後です。もし自分が州上院議員だったら、一時そうだったこともありますが【訳注:シカゴのあるイリノイ州上院議員だった】、どっちに投票していただろうか? そうして自分にこう言い聞かせたんです。「おいおい、つまり、賛成に投票してたよ」ってね。私にとって、ゲイやレズビアンの友人たちやその家族を知ってるわけですから、そんな、彼らぜんぶに向かって、「きみらが、私が持っているのと同じ種類の権利と責任を持つことに、反対する票を投じたよ」と言うのは私にはできかねたろうと。

And-- you know, it's interesting. Some of this is also generational. You know, when I go to college campuses, sometimes I talk to college Republicans who think that-- I have terrible policies on the-- the economy or on foreign policy. But are very clear that when it comes to same-sex equality or, you know-- sexual orientation that they believe in equality. They're much more comfortable with it.

それに、ね、面白いことに、これに関しては、ある部分は世代で違うんですよ。ほら、私も大学のキャンパスに行くことがあります。そこでときどき大学生の共和党支持者たちと話すんですが、彼らはその、私の政策をひどいと、経済政策とか外交とかですね、思っている。しかし話が同性カップルの平等の問題、つまりあの、性的指向の問題になると、明確に彼らはそれに関しては平等であるべきだと信じているんです。それがもう当然だと思っているわけです。

You know, Malia and Sasha, they've got friends whose parents are same-sex couples. And I-- you know, there have been times where Michelle and I have been sittin' around the dinner table. And we've been talkin' and-- about their friends and their parents. And Malia and Sasha would-- it wouldn't dawn on them that somehow their friends' parents would be treated differently. It doesn't make sense to them. And-- and frankly-- that's the kind of thing that prompts-- a change of perspective. You know, not wanting to somehow explain to your child why somebody should be treated-- differently, when it comes to-- the eyes of the law.

そう、そしてマリアとサーシャですが【訳注:オバマの2人の娘のこと】、友だちの親たちが同性のカップルという子もいるわけです。私は、何度もミシェルと一緒に夕食のテーブルを囲みながら話したりするわけです、その、娘たちの友だちやその親たちのことを。それでマリアもサーシャも、どうしてか彼女たちの友だちの親たちが異なる扱いを受けているということがわからないんですよ。そのことは彼女たちには意味不明なんです。そして、率直に言うと、そういうことが私の物の見方を変えるきっかけだったんですね。わかるでしょう、どうしてある人たちが異なる扱いを受けなければならないのか、そのわけを自分の子供に説明なんかしたくない。──法的見地の話ですが。

ROBIN ROBERTS: I-- I know you were saying-- and are saying about it being on the local level and the state level. But as president of the United States and this is a game changer for many people, to hear the president of the United States for the first time say that personally he has no objection to same-sex marriage. Are there some actions that you can take as president? Can you ask your Justice Department to join in the litigation in fighting states that are banning same-sex marriage?

ロビン:おっしゃってきたこと、そしていまおっしゃっていること、つまりこれは地元のレベル、州のレベルの問題であるというのはわかります。しかし合衆国大統領として、これは多くの人たちにとって、合衆国の大統領が初めて個人的にではあるにしろ自分は同性婚になんら異議はないと発言することは、これはこれまでの流れを変える大変な出来事です。

PRESIDENT OBAMA: Well, I-- you know, my Justice Department has already-- said that it is not gonna defend-- the Defense Against Marriage Act. That we consider that a violation of equal protection clause. And I agree with them on that. You know? I helped to prompt that-- that move on the part of the Justice Department.

オバマ:そうですね、私はほら、私の政府の司法省はすでにその、もう結婚防衛法の正当性を主張することはしないと言っています。これは法の平等保護条項に違反するものだと考えているわけで、私もその件に関しては司法省に賛成します。だから、ね? 私も司法省の一部にそう、そう動けと仕掛けたんですよ。

Part of the reason that I thought it was important-- to speak to this issue was the fact that-- you know, I've got an opponent on-- on the other side in the upcoming presidential election, who wants to-- re-federalize the issue and-- institute a constitutional amendment-- that would prohibit gay marriage. And, you know, I think it is a mistake to-- try to make what has traditionally been a state issue into a national issue.

この問題に言及することが重要なことだと思う理由の一部はつまり、知ってのように、来るべき大統領選挙で敵対する相手方は、この問題を再び連邦政府の問題にしたいという、つまり憲法の修正を行って同性婚を禁止しようとしている事実があるからです。それは、伝統的に州の問題だったものを連邦の問題にしようというのは私は間違いだと思う。

I think that-- you know, the winds of change are happening. They're not blowin'-- with the same force in every state. But I think that what you're gonna see is-- is-- is states-- coming to-- the realization that if-- if a soldier can fight for us, if a police officer can protect our neighborhoods-- if a fire fighter is expected to go into a burning building-- to save our possessions or our kids. The notion that after they were done with that, that we'd say to them, "Oh but by the way, we're gonna treat you differently. That you may not be able to-- enjoy-- the-- the ability of-- of passing on-- what you have to your loved one, if you-- if you die. The notion that somehow if-- if you get sick, your loved one might have trouble visiting you in a hospital."

風向きが変わってきていると思うんですね。ただ、すべての州で同じ向きに風が吹いているわけでもない。しかしこれから起きることは、その、州というものもだんだんわかり始める時が来る。その、私たちのために戦う兵士がいる、私たちの住む地区を守ることのできる警察官がいる、そして燃え盛るビルに飛び込んでゆく消防士がいる、私たちの持ち物や子供たちを救うためにです。 そこでそんな仕事を終えた彼らに私たちはこう言うんです、「ああ、ところできみに関しては扱いが違うんだ。きみはその、もしきみがその、仮に死んだとしても、きみの持っている物をきみの愛する人に譲り渡すことが、できる権利を、その、享受できないかもしれない。それからその、なぜか、きみが病気になってもきみの愛する人はきみを病院に見舞おうとして厄介なことになるかもしれない」と。

You know, I think that as more and more folks think about it, they're gonna say, you know, "That's not who we are." And-- and-- as I said, I want to-- I want to emphasize-- that-- I've got a lot of friends-- on the other side of this issue. You know, I'm sure they'll be callin' me up and-- and I respect them. And I understand their perspective, in part, because-- their impulse is the right one. Which is they want to-- they want to preserve and strengthen families.

ですから、そのことを考える人がだんだん増えてきていると思うんですよ。でそのうちに彼らは、ね、こう言うんだ。「それって私たちの思いとは違う」と。そして、そして、すでに言ったように、私は、私は強調したいんですけれど、私には多くの、この問題で違う立場を取る友だちもたくさんいます。そうきっと彼らは私にいろいろ言うのは知っています。そういう彼らを尊重もします。それにその考え方をある部分理解もできる。なぜなら、彼らのショックも当然だからです。彼らは家族というものを守りたい、強固なものにしたいのです。

And I think they're concerned about-- won't you see families breaking down. It's just that-- maybe they haven't had the experience that I have had in seeing same-sex couples, who are as committed, as monogamous, as responsible-- as loving of-- of-- of a group of parents as-- any-- heterose-- sexual couple that I know. And in some cases, more so.

彼らは心配してるんだと思います。家族ってものが壊れつつあるのが目に入らないのか、と。それは、ただ、たぶん、彼らは、私が同性カップルを見て知って経験したような、同じような経験をしていないんです。私の見てきた同性カップルは、自分の付き合いに同じように真剣で、モノガマスで、同じように責任を持っていて、同じように、私の知るヘテロセクシュアルのカップルと同じように愛情に溢れた親たちの一群なのです。ときには、より以上にそうでした。

And, you know-- if you look at the underlying values that we care so deeply about when we describe family, commitment, responsibility, lookin' after one another-- you know, teaching-- our kids to-- to be responsible citizens and-- caring for one another-- I actually think that-- you know, it's consistent with our best and in some cases our most conservative values, sort of the foundation of what-- made this country great.

そして知ってのように、家族や、互いの思いやりや、責任や、互いへの労りなどを考えるときに、それにそう、子供たちに、責任ある市民になることやみんなを大切に思うことを教えることもそうです、そういうときに私たちがじつに大切だと考える基本的な価値、彼らの思っているその価値は、私たちの最良のその価値と、ときにはまた私たちの最も保守的なそれとさえ、矛盾しないものなのです。いわば、この国を偉大にしてくれているもののその基礎と同じなのです。

ROBIN ROBERTS: Obviously, you have put a lot of thought into this. And you bring up Mitt Romney. And you and others in your administration have been critical of him changing positions, feeling that he's doing it for political gain. You realize there are going to be some people that are going to be saying the same with you about this, when you are not president, you were for gay marriage. Then 2007, you changed your position. A couple years ago, you said you were evolving. And the evolution seems to have been something that we're discussing right now. But do you-- do you see where some people might consider that the same thing, being politics?

ロビン:あなたは明らかにこの問題に関して多くのことを考えてきたようです。そしてミット・ロムニーのことも持ち出しました。あなたもあなたの政府の他の人たちも、彼が立場を変えたことを政治的な利益を得るためのものと見て、批判的ですね。でもこのことに関しては、あなたに対しても同じようなことを言う人たちもまたいるだろうことをご存じのはずです。あなたが大統領でなかったとき、あなたは同性婚に賛成でしたから。それで2007年になって、あなたは自身の立場を変えた。2年前、あなたは進化の途中だとおっしゃいました。そしてその進化というのは、いまここで話していることですよね。でも、それをそこで、同じことだと感じているかもしれない人がいるとは思いません? つまり、これも政治的(な一手)だと。

PRESIDENT OBAMA: Well, if you-- if you look at my trajectory here, I've always been strongly in favor of civil unions. Always been strongly opposed to discrimination against gays and lesbians. I've been consistent in my overall trajectory. The one thing that-- I've wrestled with is-- this gay marriage issue. And-- I think it'd be hard to argue that somehow this is-- something that I'd be doin' for political advantage-- because frankly, you know-- you know, the politics, it's not clear how they cut.

オバマ:そう、もし、もしここで私のこれまでの軌跡を見てくれたら、私はいつでも常にシビル・ユニオンを強く支持してきたということがわかるはずです。いつでも常にゲイとレズビアンに対する差別に強く反対してきました。その全体としての軌跡は首尾一貫しています。ただ1つ、私が苦慮してきたのがこの同性婚の問題です。そして、これがともかく私が政治的利益のためにやっていることだと言うのは、どうかなと思います。というのも、正直言うと、わかるでしょう、政治って、何がどうなるか、わからないんですから。

In some places that are gonna be pretty important-- in this electoral map-- it may hurt me. But-- you know, I think it-- it was important for me, given how much attention this issue was getting, both here in Washington, but-- elsewhere, for me to go ahead, "Let's be clear. Here's what I believe." But I'm not gonna be spending most of my time talking about this, because frankly-- my job as president right now, my biggest priority is to make sure that-- we're growing the economy, that we're puttin' people back to work, that we're managing the draw down in Afghanistan, effectively. Those are the things that-- I'm gonna focus on. And-- I'm sure there's gonna be more than enough to argue about with the other side, when it comes to-- when it comes to our politics.
たいへん重要になるいくつかの場所で、今回の選挙区のことですが、これは私に凶と出るかもしれません。それでも、その、この問題がここワシントンでもどこでもどれだけ関心の的になるかを考えれば、前に出て「はっきりさせよう。これが私の信じていることだ」と言うことは私にとって重要なことだったんです。でも、私はこのことに自分の時間の大半を割くわけにもいきません。というのも率直に言って、大統領としての私の仕事はいま、私の最大の優先事項は経済を成長させること、国民を職場に戻すこと、アフガニスタンからの撤兵を効果的にやり遂げること、それらを確実なものにすることなのです。そういうことに私は焦点を定めています。それが我々の政治問題となるときには、共和党側とは十二分に議論することがあると思います。

(以下、経済問題などに話題は移りますので、ここまで)

April 29, 2012

NYタイムズの記事をご紹介

ずっと昔、10年以上前かな、ホモフォビアの強い学生たちとゲイでも全然だいじょうぶって言う学生たちの2つのストレート男子グループを集めておチンチンに計測器を装着し、ゲイのポルノを見させて反応を測るって実験があったことを紹介したことがあります。どこの大学の実験だったか、でもいずれにしてもすごい実験でしょ。そのときに、やはり、ホモフォビアの強い学生たちの方がおチンチンが大きくなって勃起したっていう結果が出たのです。じゃあ、ゲイたちによる反ゲイ主義者たちへの反撃は、所詮ホモ同士の諍いに過ぎなくなるのかっていう立論までして、いやそうじゃないんだ、ってことを書いた記憶があるのですが、その文章、どこに収録したか、ちょっとすぐには見つかりませんでした。この私のウェブサイトのどっかにあるはずなんですが……。

ま、それは置いといて、このニューヨークタイムズの投稿記事も、上記のが肉体的実証(とはいえやはり神経作用と結びつく脳や意識の問題なのですが)とすれば、今回のこれはより心理学的な実証でもあるようです。

興味深い話なので、ちょっと時間のあった土曜日の昼下がり、日本語に訳してみました。
どうぞお読みください。

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Homophobic? Maybe You’re Gay
同性愛が大嫌い? きっとそれはゲイだから

By RICHARD M. RYAN and WILLIAM S. RYAN
Published: April 27, 2012


WHY are political and religious figures who campaign against gay rights so often implicated in sexual encounters with same-sex partners?

ゲイの人権問題に反対の論陣を張る政界や宗教界の人たちがなぜこんなにもしばしば同性相手の性的経験に関係してしまうのか?

In recent years, Ted Haggard, an evangelical leader who preached that homosexuality was a sin, resigned after a scandal involving a former male prostitute; Larry Craig, a United States senator who opposed including sexual orientation in hate-crime legislation, was arrested on suspicion of lewd conduct in a men’s bathroom; and Glenn Murphy Jr., a leader of the Young Republican National Convention and an opponent of same-sex marriage, pleaded guilty to a lesser charge after being accused of sexually assaulting another man.

ここ数年だけで、同性愛は罪だと説教してきた福音派の指導者テッド・ハガードが元売春夫に関係するスキャンダルの後に辞職し、憎悪犯罪の法制化に際して性的指向をその対象に含めることに反対してきた米上院議員ラリー・クレイグは男性トイレでの猥褻行為の疑いで逮捕され、青年共和党全国大会の代表で同性婚への反対者であるグレン・マーフィー・ジュニアは男性に対する性的暴行の罪で司法取引に応じて、より微罪での自身の有罪を認めた。

One theory is that homosexual urges, when repressed out of shame or fear, can be expressed as homophobia. Freud famously called this process a “reaction formation” — the angry battle against the outward symbol of feelings that are inwardly being stifled. Even Mr. Haggard seemed to endorse this idea when, apologizing after his scandal for his anti-gay rhetoric, he said, “I think I was partially so vehement because of my own war.”

1つの説として、ホモセクシュアルな衝動は、恥や恐怖の思いで抑圧されてホモフォビア(同性愛嫌悪症)として発現し得るというものがある。フロイトの言った有名な「反動形成」の現れ方だ──心の中で窒息している感情が外に出るのを押しとどめようとする怒りに満ちた戦い。ハガード氏でさえこの考え方に賛同しているようだ。自身のスキャンダルの後でこれまでの反ゲイ・レトリックを謝罪したとき、彼はこう言っている。「私が公平さを欠いてああも(反ゲイで)激しかったのは、それは私自身の(内なる)戦争のせいだった」

It’s a compelling theory — and now there is scientific reason to believe it. In this month’s issue of the Journal of Personality and Social Psychology, we and our fellow researchers provide empirical evidence that homophobia can result, at least in part, from the suppression of same-sex desire.

これは説得力のある考え方だ──そしていまそれは信じるに足る科学的な根拠を得ている。今月号のJournal of Personality and Social Psychology(『人格と社会心理学ジャーナル』)で、私と同僚の研究者たちは、ホモフォビアが、少なくともある程度以上に、同性への欲望の抑圧の結果であるという検証結果を提示している。

Our paper describes six studies conducted in the United States and Germany involving 784 university students. Participants rated their sexual orientation on a 10-point scale, ranging from gay to straight. Then they took a computer-administered test designed to measure their implicit sexual orientation. In the test, the participants were shown images and words indicative of hetero- and homosexuality (pictures of same-sex and straight couples, words like “homosexual” and “gay”) and were asked to sort them into the appropriate category, gay or straight, as quickly as possible. The computer measured their reaction times.

我々の論文では784人の大学生の参加を得て米独両国で行われた6つの研究をまとめてある。実験参加者はまず自分の性的指向をゲイからストレートまでの10段階に分けて位置づける。それから今度は、明らかには現れていない潜在的な性的指向を計測するよう設計されたコンピュータ処理によるテストを受ける。同テストでは、参加者は異性愛もしくは同性愛のどちらかを表象するような画像や言葉(たとえば同性同士や異性カップルの写真、「ホモセクシュアル」や「ゲイ」といった言葉など)を見せられ、できるだけ素早く、それがゲイとストレートのどちらなのか分類するように指示される。コンピュータは彼らのその反応時間を計測するのである。

The twist was that before each word and image appeared, the word “me” or “other” was flashed on the screen for 35 milliseconds — long enough for participants to subliminally process the word but short enough that they could not consciously see it. The theory here, known as semantic association, is that when “me” precedes words or images that reflect your sexual orientation (for example, heterosexual images for a straight person), you will sort these images into the correct category faster than when “me” precedes words or images that are incongruent with your sexual orientation (for example, homosexual images for a straight person). This technique, adapted from similar tests used to assess attitudes like subconscious racial bias, reliably distinguishes between self-identified straight individuals and those who self-identify as lesbian, gay or bisexual.

ちょっと普通と違うのは、そうした言葉や画像が表示される前に、「自分(me)」「他人(other)」という単語が画面上に35ミリ秒(千分の35秒)だけフラッシュのように現れるということ──参加者にとってサブリミナル(意識下)ではその単語を処理できるが、意識上では見たとは感じられない長さだ。これは「意味的連想」として知られるもので、自分の性的指向を反映する言葉や画像(たとえば異性愛者の人にとっては異性愛を表象する言葉や画像)の前に「自分」という単語が現れたときには、そうしたものを、自分の性的指向と合致しない言葉や画像(たとえば異性愛者の人にとっては同性愛を表象する言葉や画像)の前に「自分」という単語が現れたときよりも、速い反応速度で正しいカテゴリーに分類できるという考え方に基づく。このテクニックは潜在意識における人種偏見の有無などを調べる同様のテストから応用したもので、ストレート(異性愛者)だと自認している人たちとレズビアンやゲイ、バイセクシュアルとして自認している人たちとをきちんと識別できるとされる。

Using this methodology we identified a subgroup of participants who, despite self-identifying as highly straight, indicated some level of same-sex attraction (that is, they associated “me” with gay-related words and pictures faster than they associated “me” with straight-related words and pictures). Over 20 percent of self-described highly straight individuals showed this discrepancy.

このやり方を使って私たちは参加者をもう1つ下位のグループに分類した。つまり自分ではとてもストレートだと自認しているにも関わらずなんらかの度合いで同性に惹かれる感情を示した集団だ。(つまり、「自分」という表示の後のゲイ関連の言葉や画像に、ストレート関連の言葉や画像に対してよりも、より速く正しい反応を示した人たち)。高度にストレートだと自認している人たちの20%以上に、この矛盾が見られたのである。

Notably, these “discrepant” individuals were also significantly more likely than other participants to favor anti-gay policies; to be willing to assign significantly harsher punishments to perpetrators of petty crimes if they were presumed to be homosexual; and to express greater implicit hostility toward gay subjects (also measured with the help of subliminal priming). Thus our research suggests that some who oppose homosexuality do tacitly harbor same-sex attraction.

ここで見落とせないのは、こうした「矛盾した」人たちは同時に、他の参加者たちよりもっと顕著に反ゲイの行動様式に賛同する傾向があるということだ;たとえば軽犯罪であってもその人が同性愛者だと推認されたらより著しく厳しい刑罰を与えようとしたり、またはゲイ的なものに対してより激しい隠然たる敵意を示したりする(これも潜在意識を刺激して反応を測る閾下プライミング法 subliminal priming を使って計測した)。結果、私たちの調査は、ホモセクシュアリティに反感を抱くある人々はひそかに同性に惹かれる心を宿していることを示したのである。

What leads to this repression? We found that participants who reported having supportive and accepting parents were more in touch with their implicit sexual orientation and less susceptible to homophobia. Individuals whose sexual identity was at odds with their implicit sexual attraction were much more frequently raised by parents perceived to be controlling, less accepting and more prejudiced against homosexuals.

何がこの抑圧へとつながるのだろうか? 私たちにわかったことは、いろいろと自分を励ましたり受け入れたりしてくれる親たちを持っていると言う参加者たちは、自分の潜在的な性的指向ともより折り合いがよく、ホモフォビアに染まることもより少なかったということだ。一方で、自認している自分の性的なあり方が潜在的に性的魅力を感じる対象と一致しない参加者は、ずいぶんと大きな確率で、支配的であまり言うこともすることも認めてくれない、そしてホモセクシュアルの人々により偏見を持つと認められる親たちによって育てられている傾向があった。

It’s important to stress the obvious: Not all those who campaign against gay men and lesbians secretly feel same-sex attractions. But at least some who oppose homosexuality are likely to be individuals struggling against parts of themselves, having themselves been victims of oppression and lack of acceptance. The costs are great, not only for the targets of anti-gay efforts but also often for the perpetrators. We would do well to remember that all involved deserve our compassion.

自明のことだが強調しておくことが重要だ;ゲイ男性やレズビアンに対して反対の論陣を張るすべての人々が秘密裏に同性に魅力を感じているわけではない。しかし少なくとも同性愛に反対する人々の何人かは、自分の中のある部分と苦闘している人、自分で重圧と受容の欠如の被害者になってきた人であることが多い。代償は甚だしいものだ。たんに反ゲイ行動の標的になる犠牲者たちにとってだけでなく、反ゲイ行動を行う加害者たちにとってもしばしば。憶えておいた方がいいのは、私たちはこの件に関するどちらもすべてに思いやりを持たねばならないということだ。

Richard M. Ryan is a professor of psychology, psychiatry and education at the University of Rochester. William S. Ryan is a doctoral student in psychology at the University of California, Santa Barbara.

リチャード・M・ライアンはロチェスター大学の心理学、精神医学、教育学教授。ウィリアム・S・ライアンはカリフォルニア大学サンタバーバラ校の心理学博士課程の学生。

April 28, 2012

ガラパゴスのいじめっ子たち

昨夏以来、米国では10代の少年少女たちの相次ぐいじめ自殺が社会問題化しています。米国では毎年、1300万人の子供たちが学校やオンラインや携帯電話や通学のスクールバスや放課後の街でいじめに遭っています。300万人がいじめによって毎月学校を休み、28万人の中学生が実際にけがをしています。しかしいじめの現場に居合わせていても教員の1/4はそれを問題はないと見過ごしてしまっていて、その場で割って入る先生は4%しかいません。

米国のこの統計の中には日本の統計には現れてこない要素も分析されます。いじめ相手を罵倒するときに最もよく使われる言葉が「Geek(おたく)」「Weirdo(変人)」そして「Homo(ホモ)」や「Fag(オカマ)」「Lesbo(レズ)」です。そのいじめの対象が実際にゲイなのかトランスジェンダーなのかはあまり関係ありません。性指向や性自認が確実な年齢とは限らないのですから。問題は、いじめる側がそういう言葉でいじめる対象を括っているということです。また最近はゲイやレズビアンのカップルの下で育つ子供たちも多く、その子たちが親のせいでいじめられることも少なくありません。LGBT問題をきちんと意識した、具体的な事例に対処した処方がいま社会運動として始まっています。

ところで日本のいじめ議論でいつも唖然とするのが「いじめられる側にも問題があるのでそれを解決する努力をすべきだ」という意見が散見されることです。この論理で行けば、だから「ゲイはダメだ」「同性婚は問題が多い」という結論に短絡します。「あいつはムカつく。ムカつかせるあいつが悪い。いじめられて当然だ」と言う論理には、ムカつく自らの病理に関する自覚はすっぽりと抜け落ちているのです。

問題はいじめる側にあるという第一の大前提が、どういう経緯かあっさりと忘れ去られてすり替えられてしまうのはなぜなのでしょう。先進国で趨勢な論理が日本ではなぜか共有されていないのです。

先日もこんなことがありました。あるレズビアンのカップルが東京ディズニーリゾートで同性カップルの結婚式が可能かどうかという問い合わせを行いました。なぜなら本家本元の米国ディズニーでは施設内のホテルなどで同性婚の挙式も認めているからです。ところが東京ディズニーの回答は同性カップルでも挙式はできるが「一方が男性に見える格好で、もう一方が女性に見える格好でないと結婚式ができない」というものでした。

これだとたとえば男同士だと片方がウェディングドレスを着なくちゃいけなくなります。それもすごい規定ですが、ディズニーの本場アメリカではディズニーの施設はすべてLGBTフレンドリーであることを知っていた件のカップル、ほんとうにそうなのかもう一度確認してほしいと要望したところ、案の定、後日、「社内での認識が不完全だったこともあり、間違ったご案内をしてしまいました」というお詫びが返ってきました。「お客様のご希望のご衣装、ウェディングドレス同士で結婚式を挙げていただけます。ディズニー・ロイヤルドリームウェディング、ホテル・ミラコスタ、ディズニー・アンバサダーホテルで、いずれのプランでも、ウェディングドレス同士タキシード同士で承ることができます」との再回答だったそうです。

米国ディズニーの方針に対して「社内での認識が不完全だった」。しかし今回はそうやって同性婚に関する欧米基準に日本のディズニー社員も気がつくことができた。しかし、ではいじめに関してはどうか? 他者=自分と異なるものに対する子供たちの無知な偏見が、彼らの意識下でLGBT的なものに向かうという事実は共有されているのでしょうか? どうして欧米では同性婚を認めようとする人たちが増えているのか、その背景は気づかれているのでしょうか? 議論を徹底する欧米の人たちのことです、生半可な反同性愛の言辞はグーの音も出ないほどに反駁されてしまうという予測さえ気づかれていないのかもしれません。

大統領選挙を11月に控え、米国では民主党支持者の64%が同性婚を支持しています。中間層独立系の支持者でも54%が支持、一般に保守派とされる共和党支持者ではそれが39%に減りますが、それでも10人に4人です。この数字と歴史の流れを理解していなければ、それは米国のいじめっ子たちと同じガラパゴスのレベルだと言ったら言い過ぎでしょうか。

July 30, 2011

宗教の罪

ニューヨーク州で同性婚を合法とする法律が施行された7月24日は、一方でまだ2日前に起きたばかりのノルウェーの爆破テロと銃撃テロの余波が続いていて、ニュースもおめでたい話と悲惨な事件とが交叉するめまぐるしい1日でした。

多くの報道は当初、ノルウェーの事件をイスラム過激派によるテロだと断じていました。英紙サンは一面で「アルカイダの大虐殺:ノルウェーの9・11」と見出しを打ち、ウォール・ストリート・ジャーナルも「ノルウェーは欧米の規範に忠実であったから標的にされた」として犯行を「ジハーディスト(聖戦主義者)たち」によるものと推断したのです。

でも結局イスラム教徒は関与していませんでした。関与したのはキリスト教原理主義者でした。

そうわかるとメディアは今度は一斉に「テロ」という言葉を使うのをやめ、犯人を異様な反イスラム・反移民思想を持つ「極右の国粋主義者」と説明し始めました。

このテロ事件がニューヨーク州での同性婚開始に影を落としたのは、私にはとても象徴的なことだと思えます。理由は2つ。この両者がともに「マジョリティが犯罪をなすとその罪は個人に帰属し、マイノリティが犯罪をなすとその罪は集団全体に帰属すると見なされる」という法則を想起させるからです。

ツイッターで、ノルウェー事件を次のようにつぶやいた人がいます。「イスラム教原理主義者がテロを行えば世界中のイスラム教徒がみな悪者のように糾弾される。だがキリスト教原理主義者の白人が大量に人を殺しても、他のキリスト教徒たちは誰に責められるでもなく平気なままだ」

片や欧米におけるキリスト教とイスラム教の関係、片や世界中の性的多数派と少数派の関係。

ゲイの場合はこう。たとえば猥褻行為やポルノ絡みで逮捕されたとすると「やっぱりゲイは変態だ」となるし、殺人でも犯そうものなら「やっぱりホモの連中は異常だ」となります。対して多数派である異性愛者の痴漢や殺人者はその犯罪を取り立てて性的指向と絡めて論難されることはありません。単に単独の、よくある犯罪の一例として忘れ去られるだけです。

もう1つ、同性婚のニュースではこれに反対する人たちも紹介されていました。彼らの代表者の1人は、同性婚を違法なものに戻すと宣言して「ニューヨーク州はこれから血みどろの混乱状態(Bloody Mess)になるだろう」と恫喝していました。

その反対団体はキリスト教の団体でした。この「血みどろの混乱」と、ノルウェーの銃撃犯のあの血みどろの銃撃とは、違うものなのでしょうか? あの日、同性婚開始のニュースの直後にノルウェーの犯人の背景を説明しながら、このキリスト教原理主義の2人が、じつは深くどこかでつながっているのだということを、キャスターの誰ひとりとして指摘しなかったのが私には不思議でした。

片や1500ページものマニフェストで移民とイスラム教徒への宣戦布告をした犯罪者、片やニューヨークが血みどろになると予言する団体代表。もちろん彼らの残酷はキリスト教者たちの全体に帰属するものではありません。しかし、この2人が攻撃対象とする集団全体にテロル(恐怖)を植え付けようしていることは明白です。その意味でこの2人は等しくテロリストであり、キリストの名の下に憎悪を広めている…キリストは迷惑しているのでしょうか? それとも、彼にも責任の一端はあるのでしょうか?

宗教自体の持つ先験的な罪業を考えています。

June 07, 2011

6月はLGBTプライド月間

オバマ大統領が6月をLGBTのプライド月間であると宣言しました。今月を、彼らが誇りを持って生きていけるアメリカにする月にしようという政治宣言です。その宣言を、この末尾で翻訳しておきます。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの性的少数者たちのことを指す頭字語です。

私がジャーナリストとしてLGBT問題を日本で広く伝えようとしてからすでに21年が経ちました。その間、欧米ではLGBT(当初はLGだけでしたが)の人権問題で一進一退の攻防もありつつ結果としてじつにめざましい進歩がありました。日本でもさまざまな分野で改善が為されています。性的少数者に関する日本語での言説はかつてはほとんどが私が海外から紹介したもののコピペのようなものだったのが、いまウィキペディアを覗いてみるとじつに多様で詳細な新記述に溢れています。多くの関係者たちが数多くの言説を生み出しているのがわかります。

この大統領宣言も私がクリントン大統領時代に紹介しました。99年6月に行われたのが最初の宣言でした。以降、ブッシュ共和党政権は宗教保守派を支持基盤にしていたので宣言しませんでしたが、オバマ政権になった09年から再び復活しました。

6月をそう宣言するのはもちろん、今月が現代ゲイ人権運動の嚆矢と言われる「ストーンウォール・インの暴動」が起きた月だからです。69年6月28日未明、ウエストビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」とその周辺で、警察の度重なる理不尽な摘発に爆発した客たちが3夜にわたって警官隊と衝突しました。その辺の詳細も、今では日本語のウィキペディアで読めます。興味のある方はググってみてください。69年とは日本では「黒猫のタンゴ」が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、米国ではニクソンが大統領になりウッドストックが開かれ、アポロ11号が月に到着した年です。

このストーンウォールの蜂起を機に、それまで全米でわずか50ほどしかなかったゲイの人権団体が1年半で200に増えました。4年後には、大学や教会や市単位などで1100にもなりました。こうしてゲイたちに政治の季節が訪れたのです。

72年の米民主党大会では同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。米国史上最も尊敬されているジャーナリストの1人、故ウォルター・クロンカイトは、その夜の自分のニュース番組で「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

ただ、日本のジャーナリズムで、同性愛のことを平等と人権の問題だと認識している人は、40年近く経った今ですらそう多くはありません。政治家も同じでしょう。もっとも、今春の日本の統一地方選では、史上初めて、東京・中野区と豊島区の区議選でゲイであることをオープンにしている候補が当選しました。石坂わたるさんと、石川大我さんです。

オバマはゲイのカップルが養子を持つ権利、職場での差別禁止法、現行のゲイの従軍禁止政策の撤廃を含め、LGBTの人たちに全般の平等権をもたらす法案を支持すると約束しています。「それはアメリカの建国精神の課題であり、結果、すべてのアメリカ人が利益を受けることだからだ」と言っています。裏読みすればLGBTの人々は今もなお、それだけ法的な不平等を強いられているということです。同性婚の問題はいまも重大な政治課題の1つです。

LGBTの人たちはべつに闇の住人でも地下生活者でもありません。ある人は警官や消防士でありサラリーマンや教師や弁護士や医者だったりします。きちんと税金を払い、法律を守って生きています。なのに自分の伴侶を守る法律がない、差別されたときに自分を守る法律がない。

人権問題がすぐれて政治的な問題になるのは当然の帰着です。欧米の人権先進国では政治が動き出しています。先月末、モスクワの同性愛デモが警察に弾圧されたため、米国や欧州評議会が懸念を表明して圧力をかけたのもそれが背景です。

6月最終日曜、今年は26日ですが、恒例のLGBTプライドマーチが世界各地で一斉に執り行われます。ニューヨークでは五番街からクリストファーストリートへ右折して行きますが、昨年からかな、出発点はかつての52丁目ではなくてエンパイアステート近くの36丁目になっています。これは市の警察警備予算の削減のためです。なんせ数十万人の動員力があるので、配備する警備警官の時間外手当が大変なのです。

さて、メディアでは奇抜なファッションばかりが取り上げられがちですが、数多くの一般生活者たちも一緒に歩いています。マーチ(パレード)の政治的なメッセージはむしろそちら側にあります。もちろん、「個人的なことは政治的なこと」ですが、パレードを目にした人はぜひ、派手さに隠れがちな地味な営みもまた見逃さないようにしてください。

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LESBIAN, GAY, BISEXUAL, AND TRANSGENDER PRIDE MONTH, 2011
2011年レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・プライド月間
BY THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES OF AMERICA
アメリカ合州国大統領による

A PROCLAMATION
宣言


The story of America's Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender (LGBT) community is the story of our fathers and sons, our mothers and daughters, and our friends and neighbors who continue the task of making our country a more perfect Union. It is a story about the struggle to realize the great American promise that all people can live with dignity and fairness under the law. Each June, we commemorate the courageous individuals who have fought to achieve this promise for LGBT Americans, and we rededicate ourselves to the pursuit of equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

アメリカのLGBTコミュニティの物語は、私たちの国をより完全な結合体にしようと努力を続ける私たちの父親や息子、母親や娘、そして友人と隣人たちの物語です。それはすべての国民が法の下での尊厳と公正とともに生きられるという偉大なアメリカの約束を実現するための苦闘の物語なのです。毎年6月、私たちはLGBTのアメリカ国民のためにこの約束を達成しようと戦ってきた勇気ある個人たちを讃えるとともに、性的指向や性自認に関わりなくすべての人々に平等な権利を追求しようとの思いを新たにします。

Since taking office, my Administration has made significant progress towards achieving equality for LGBT Americans. Last December, I was proud to sign the repeal of the discriminatory "Don't Ask, Don't Tell" policy. With this repeal, gay and lesbian Americans will be able to serve openly in our Armed Forces for the first time in our Nation's history. Our national security will be strengthened and the heroic contributions these Americans make to our military, and have made throughout our history, will be fully recognized.

大統領に就任してから、私の政府はLGBTのアメリカ国民の平等を達成するために目覚ましい前進を成し遂げました。昨年12月、私は光栄にも差別的なあの「ドント・アスク、ドント・テル」【訳注:米軍において性的指向を自らオープンにしない限り軍務に就けるという政策】の撤廃に署名しました。この政策廃止で、ゲイとレズビアンのアメリカ国民は我が国史上初めて性的指向をオープンにして軍隊に勤めることができるようになります。我が国の安全保障は強化され、ゲイとレズビアンのアメリカ国民が我が軍に為す、そして我が国の歴史を通じてこれまでも為してきた英雄的な貢献が十全に認知されることになるのです。

My Administration has also taken steps to eliminate discrimination against LGBT Americans in Federal housing programs and to give LGBT Americans the right to visit their loved ones in the hospital. We have made clear through executive branch nondiscrimination policies that discrimination on the basis of gender identity in the Federal workplace will not be tolerated. I have continued to nominate and appoint highly qualified, openly LGBT individuals to executive branch and judicial positions. Because we recognize that LGBT rights are human rights, my Administration stands with advocates of equality around the world in leading the fight against pernicious laws targeting LGBT persons and malicious attempts to exclude LGBT organizations from full participation in the international system. We led a global campaign to ensure "sexual orientation" was included in the United Nations resolution on extrajudicial execution — the only United Nations resolution that specifically mentions LGBT people — to send the unequivocal message that no matter where it occurs, state-sanctioned killing of gays and lesbians is indefensible. No one should be harmed because of who they are or who they love, and my Administration has mobilized unprecedented public commitments from countries around the world to join in the fight against hate and homophobia.

私の政府はまた連邦住宅供給計画におけるLGBTのアメリカ国民への差別を撤廃すべく、また、愛する人を病院に見舞いに行ける権利を付与すべく手続きを進めています。さらに行政機関非差別政策を通じ、連邦政府の職場において性自認を基にした差別は今後許されないとする方針を明確にしました。私はこれからも行政や司法機関の職において高い技能を持った、LGBTであることをオープンにしている個人を指名・任命していきます。私たちはLGBTの権利は人権問題であると認識しています。したがって私の政府はLGBTの人々を標的にした生死に関わる法律や、またLGBT団体の国際組織への完全な参加を排除するような悪意ある試みに対する戦いを率いる中で、世界中の平等の擁護者に味方します。私たちは裁判を経ない処刑を非難する国連決議に、「性的指向」による処刑もしっかりと含めるための世界的キャンペーンを率先してきました。これは明確にLGBTの人々について触れた唯一の国連決議であり、このことで、国家ぐるみのゲイとレズビアンの殺害は、それがどこで起ころうとも、弁論の余地のないものであるという紛うことないメッセージを送ってきました。何人も自分が誰であるかによって、あるいは自分の愛する者が誰であるかによって危害を加えられることがあってはなりません。そうして私の政府は世界中の国々から憎悪とホモフォビア(同性愛嫌悪)に反対する戦列に加わるという先例のない公約を取り集めてきました。

At home, we are working to address and eliminate violence against LGBT individuals through our enforcement and implementation of the Matthew Shepard and James Byrd, Jr. Hate Crimes Prevention Act. We are also working to reduce the threat of bullying against young people, including LGBT youth. My Administration is actively engaged with educators and community leaders across America to reduce violence and discrimination in schools. To help dispel the myth that bullying is a harmless or inevitable part of growing up, the First Lady and I hosted the first White House Conference on Bullying Prevention in March. Many senior Administration officials have also joined me in reaching out to LGBT youth who have been bullied by recording "It Gets Better" video messages to assure them they are not alone.

国内では、私たちはマシュー・シェパード&ジェイムズ・バード・ジュニア憎悪犯罪予防法【訳注:前者は98年10月、ワイオミング州ララミーでゲイであることを理由に柵に磔の形で殺された学生の名、後者は97年6月、テキサス州で黒人であることを理由にトラックに縛り付けられ引きずり回されて殺された男性の名。同法は09年10月に署名成立】の施行と執行を通してLGBTの個々人に対する暴力に取り組み、それをなくそうとする作業を続けています。私たちはまたLGBTを含む若者へのいじめの脅威を減らすことにも努力しています。私の政府はアメリカ中の教育者やコミュニティの指導者たちと活発に協力し合い、学校での暴力や差別を減らそうとしています。いじめは成長過程で避けられないもので無害だという神話を打ち払うために、私は妻とともにこの3月、初めていじめ防止のホワイトハウス会議を主催しました。いじめられたLGBTの若者たちに手を差し伸べようと多くの政府高官も私に協力してくれ、「It Gets Better」ビデオを録画してきみたちは1人ではないというメッセージを届けようとしています【訳注:一般人から各界の著名人までがいじめに遭っている若者たちに「状況は必ずよくなる」という激励と共感のメッセージを動画投稿で伝えるプロジェクト www.itgetsbetter.org】。

This month also marks the 30th anniversary of the emergence of the HIV/AIDS epidemic, which has had a profound impact on the LGBT community. Though we have made strides in combating this devastating disease, more work remains to be done, and I am committed to expanding access to HIV/AIDS prevention and care. Last year, I announced the first comprehensive National HIV/AIDS Strategy for the United States. This strategy focuses on combinations of evidence-based approaches to decrease new HIV infections in high risk communities, improve care for people living with HIV/AIDS, and reduce health disparities. My Administration also increased domestic HIV/AIDS funding to support the Ryan White HIV/AIDS Program and HIV prevention, and to invest in HIV/AIDS-related research. However, government cannot take on this disease alone. This landmark anniversary is an opportunity for the LGBT community and allies to recommit to raising awareness about HIV/AIDS and continuing the fight against this deadly pandemic.

今月はまた、LGBTコミュニティに深大な衝撃を与えたHIV/AIDS禍の出現からちょうど30年を数えます。この破壊的な病気との戦いでも私たちは前進してきましたが、まだまだやるべきことは残っています。私はHIV/AIDSの予防と治療介護の間口をさらに広げることを約束します。昨年、私は合州国のための初めての包括的国家HIV/AIDS戦略を発表しました。この戦略は感染危険の高いコミュニティーでの新たな感染を減らし、HIV/AIDSとともに生きる人々への治療介護を改善し、医療格差を減じるための科学的根拠に基づくアプローチをどう組み合わせるかに焦点を絞っています。私の政府はまた、ライアン・ホワイトHIV/AIDSプログラムやHIV感染予防を支援し、HIV/AIDS関連リサーチ事業に投資するための国内でのHIV/AIDS財源を増やしました。しかし、政府だけでこの病気に挑むことはできません。30周年というこの歴史的な年は、LGBTコミュニティとその提携者たちがHIV/AIDS啓発に取り組み、この致命的な流行病との戦いを継続するための再びの好機なのです。

Every generation of Americans has brought our Nation closer to fulfilling its promise of equality. While progress has taken time, our achievements in advancing the rights of LGBT Americans remind us that history is on our side, and that the American people will never stop striving toward liberty and justice for all.

アメリカ国民のすべての世代が私たちの国を平等の約束の実現により近づかせようとしてきました。その進捗には時間を要していますが、LGBTのアメリカ国民の権利向上の中で私たちが成し遂げてきたことは、歴史が私たちに味方しているのだということを、そしてアメリカ国民は万人のための自由と正義とに向かってぜったいに歩みを止めないのだということを思い出させてくれます。

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and the laws of the United States, do hereby proclaim June 2011 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to eliminate prejudice everywhere it exists, and to celebrate the great diversity of the American people.

したがっていま、私、バラク・オバマ、アメリカ合州国大統領は、合州国憲法と諸法によって私に与えられたその権限に基づき、ここに2011年6月をレズビアンとゲイとバイセクシュアル、トランスジェンダーのプライド月間と宣言します。私は合州国国民に、存在するすべての場所での偏見を排除し、アメリカ国民の偉大なる多様性を祝福するよう求めます。

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this thirty-first day of May, in the year of our Lord two thousand eleven, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-fifth.

以上を証するため、キリスト暦2011年かつアメリカ合州国独立235年の5月31日、私はこの文書に署名します。

BARACK OBAMA
バラク・オバマ

November 04, 2010

田中ロウマ SHELTER ME

田中ロウマ、米国で頻発する十代のゲイの自殺、その予防呼びかけキャンペーン「It Gets Better」に寄せたPVっすよ。日本でも同じ状況はあるわけで、何で日本人アーティストが作ってはいけない理由があろうか、というわけでしょう。素人っぽいモデルの2人、急ごしらえ的な作りですが、逆にそれがリアリティを持ってるようでわたしにはとても微笑ましいかった。この2人、これに出ること自体、大変な勇気がいたと思います。まだまだそういう社会なのですから。

最後の最後にメッセージが出ます。
そう、必ずこれからよくなるから。
このPVを作った田中ロウマをわたしは誇りに思います。

この自殺問題、時間のあるときにまとめておきたいのですが。ああ、怠惰な自分。



shelter me
 シェルターになって
by ROMA Tanaka 田中ロウマ (訳詞はわたしのです。非公認ですけどw)



its raining out side 外では雨が降っている

can I come in just for a little while ちょっとだけ入っていいかな

inside me, there's a past I can't let go ぼくの中、忘れられない過去があって

and now consumes my soul

 それがぼくの魂を食い尽くす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who'll tear down these walls この壁を壊してくれるだれか

will you show me how to love

 どうやって愛したらいいか教えてください

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷をみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



patiently you waited じっと長いこときみは

for the perfect moment to come steal my heart ぼくの心を奪いに来る最高の瞬間を待ってたんだね

like sun warms the spring air, your words, your touch
 ちょうど太陽が春の大気を暖めるように きみの言葉が、きみの指が
you fill me to the core

 きみがぼくを芯まで満たす

you are everything I have always been waiting for きみはぼくがずっと待っていたもののすべて

and someone who will stand with me ぼくの味方になってくれるだれか

never leave me with doubt ぼくを悩ませないだれか

shelter me, comfort me
 シェルターになって 慰めて
all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて

I'm still healing ぼくの傷はまだ癒えてなくて

people telling me it's not the way to live そういう生き方はダメだよって言われるけれど

but we're not so different
 ぼくらそんなに違ってるわけじゃない
breaking down to the same sad love songs 同じ悲しいラブソングに泣いたりするし

they tell me I'm not broken ぼくはまだだいじょうぶだって言われる

I'm not broken まだだいじょうぶ

I'm here holding on to you だってここできみを掴んでいられるから



you are everything I have always been waiting for
 きみはぼくが待っていたもののすべて
and someone who'll tear down these walls
 この壁を壊してくれるだれか
so I'm asking you to だからお願い



shelter me, comfort me シェルターになって 慰めて

all my scars have shown and I am here 傷はみんなさらけ出して ぼくはここにいる

ready to love 愛することを待ちながら

shelter me comfort my heart シェルターになって この心を慰めて

it's yearning for you and only you きみを きみだけを思ってるんだ

and this life I am ready to share
 この人生を 分かち合うのを待っている
through all my tears shed please be there 流れる涙すべてを越えて おねがい ここにいて



I'll shelter you comfort you
 きみのシェルターになる きみを慰める
all your scars have shown and you are here
 きみの傷もみんな見たし きみはここにいる
and I'm ready to love きみを愛する準備はできてるんだ


I'll shelter you comfort your heart きみのシェルターになる きみを慰める

it's yearning for me and only me ぼくを ぼくだけを思ってくれてる

and our lives we are ready to share
 ぼくらの人生を 分かち合う準備はできている
through all our tears shed we'll still be there... すべての流れる涙を越えて ぼくらはずっとここにいる

September 15, 2010

菅とオバマのシンクロ具合

「いよいよこれから政権の本格運営」と言いながらも、菅さんの政策が実はいまもよくわかりません。民主党国会議員412人の「全員内閣」というのも、はたして小沢陣営との人事面での折り合いはつくのかどうか。

そもそも告示の前後で小沢さんに人事面で配慮をすると言っていたのをいったん白紙に戻す修正を行い、その後またいつの間にか「全員内閣」と言っているのはどういうことなのか? さらに小沢さんの「政治主導」や「地方主権」という決まり文句を、選挙戦後半では菅さんも言い始める始末。いやいや、全員内閣も官僚政治打破も地方重視も実に結構なことですから、菅内閣がそれで行ってくれるなら小沢派だって大歓迎、べつに小沢総理でなくとも実を取ればそれで民主党的には大団円、めでたしめでたしでしょう。しかし菅さんの場合、ほんとにそうなの? 思いつきでパクってるだけでしょ? という感じで、どうも額面どおりには受け取ってよいものかおぼつかない。

菅さんはこれまで民主党の代表選には9回も立候補しています。ならばもっと日本を率いる具体策や理念があって然るべきなのに、どうも言葉が上滑りして「雇用、雇用、雇用」と言う「新成長戦略」も具体的に何をどうすると言いたいのかよくわからない。今回が初めて総理大臣に直結する出馬だったせいか、政策モットーはこの選挙戦を通じて紡ぎ出した感さえあります。結果、日本のマスメディアでは「政策論争が盛り上がってよかった」との論調まで出た。でも、菅さんの主張に首尾一貫さがないのは消費税10%発言を筆頭に明らかなのでした。

わたしが懸念するのは「長期本格政権を目指す」という発言が(実際、3カ月前の首相就任時にそう言ったのです。「普天間も片付いたから」と)、菅さんにとって目的化していることです。長期政権であるために必要な手っ取り早い方法は「自民党化」することです。つまり、体制を維持し、体制不安につながる抜本改革を行わないこと。つまり、政権交代を狙って民主党の掲げたマニフェストを引き揚げること、なあなあに済ますことなのです──国家戦略局なんて滅相もない。

今回の代表選で菅さんが勝利したというのは、このマニフェスト修正に民主党とその支持者がお墨付きを与えたということです。いや、そうではない、反小沢票が消極的に菅さん支持に回っただけで、マニフェストの理念そのものは否定されていない、と言う向きもいるでしょうが、民主党はそうは動かないでしょう。

菅政権は何をどうしたいのか? そしてそれはかつての自民党の政治とどう違うのか? 第2次菅政権はそれを明確に示し得るのでしょうか?

菅さんのこの3カ月の日和見ぶり、いや腰砕けを見ていると、与野党協調を謳うあまりにどっちつかずになって改革を進められないオバマ政権を見ているような気になります。「チェンジ」を掲げながら、アメリカは変わったでしょうか? イラクの戦闘部隊撤退も形だけ、アフガンは泥沼化、国内には反イスラムの連鎖が顕在化し、同時に同性愛者の従軍問題も拙速が目立つばかり。金融改革も中途半端でまたまたウォール街を利するだけですし、環境問題もメキシコ湾原油流出企業への甘い事前検査が明らかになり、なおかつ環境汚染の危険性の高い海洋油田掘削規制はまったく手つかずです。唯一の成果とされる医療改革と国民皆保険制度も実際はどっちつかずの改革に落ち着いて、大統領就任時の熱狂的ともいえた国民の変革への希求は、なんだか尻すぼみになりつつあるのです。

そこで中間選挙です。貧富だけではなく、アメリカでは保守とリベラルの両極化が進んで、とりとめがありません。リベラルなオバマ政権下で、どうして共和党のティーパーティー(お茶党)みたいな右翼が出てくるのでしょうか? それはまさに例のグラウンドゼロ・モスク問題の反イスラム感情勢力と重なります。そうしてオバマ民主党は中間選挙での敗北が予想されている。

それは、同じくどっちつかずの菅政権の道行きと重なりはしないのでしょうか? 政局ではなく、私は日本とアメリカが心配です。まあ、これまでもいつも「心配」してきたわけですからいまさらどうのという感じもありますが、しかし心配してきた一つひとつはかなりその心配に沿って現実のものになっています。いつどこでそれがロバの背を折る一本の藁になるのか、心配はその線へとシフトしていっています。

August 24, 2010

今野雄二の死去と大橋巨泉

「フツーに生きてるGAYの日常」というウェブサイトを運営しているakaboshiくんが、「今野雄二の訃報コメントがフジテレビに“添削”された顛末」を書いた大橋巨泉のことを紹介していました。

「彼の同性愛者らしい細やかなセンスを買っていただけに残念」という彼の表現が、フジテレビ側から「文章の中の『同性愛者』という表現が、死んだ人に対する表現としては使えないので、それを取って『彼らしい細やかなセンスを・・・』とさせていただきたいのですが」「上司と相談したところ、矢張りある程度同業者の中では知られていても一般的な事ではなく、人が亡くなった時という特殊な時期なので、今回はその表現を控えさせて頂きたい」という事情で書き換えられたという話です。

「人の死に“同性愛者”はふさわしくないのか?日本にはタブーが多すぎる」●今野雄二さんの訃報コメント変更で大橋巨泉さん注目発言

添削されてもブチ切れるんじゃなくて、「もう寝た後の話でどうしようもありませんでしたね。こちらは一向にかまいません。ただこのことは週刊現代に書くつもりです」と、事の顛末を自身の連載コラムで発表するというところがこの人の軽やかさ。メディアで生きてきた人ならではです。

で、わたし、藤村有弘が死んだときのこの大橋巨泉の弔辞もはっきりと憶えています。もう30年近くも前の話ですから、うわあ、すごいこと言うなあ、この人、と思ったものですが、アウティングされた本人とも「巨泉さんならしょうがないか」というような付き合いをしていた、というその自負と自信からの宣言なのでしょうね。

そんなアウティングは、その人個人の責任として為されるもので、当然それなりの覚悟もあるものです。アウティング行為にケチを付けるやつも、アウティング対象の友人にケチを付けるやつも、そういう連中はぜんぶおれんとこに来い、相手してやる、ということなんでしょう。それは世間一般でいう、他人に対するアウティングとはちょいと違います。

それをさておき、「死んだ人」を知りもしない赤の他人が、おこがましくもそこに口を挟む。今野雄二も、巨泉さんになら代弁をしてもらいたいが、フジテレビのサラリーマンに自分の代弁をしてほしいと頼んだ覚えはない、というところでしょう。ま、そのことに乗じて私たちもなんやかんや今野雄二のアウティングに対してコメントする資格もないわけですが……。

しかしいったい、ゲイだと言ったらフジテレビにどういうクレームが来るのかなあ。サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって風が吹くのにもおびえる桶屋の商売敵がほんと多すぎます。ひいてはそれが日本社会の衰退の元凶なのよね(←大袈裟)。

大橋巨泉は希代の遊び人で、むかしから1本芯の通った数寄者です。11PMでも終戦だとか原爆だとか同和だとか硬派企画をどんどんやっていて、そこにこの人の何とも不思議な「日本人離れ」したコメントが重なる。北海道の少年時代に11pmを見ていると、ジャズだとかゴルフだとか英語だとかパイプカットだとかの話題も加わって、ああ、東京の人ってすごいなあ、って唖然としたものです。

18で初めて東京に出てきたときも、わたしが怯んだのは頭のいい人たちではなくて大橋巨泉的な都会人に対してでした。なんだか、生きてきた人生がぜんぜん違うのね。だって、芸能人とか文化人とか芸術家だとかと、子供のころから親交があったりする。これはもう取り返しもつかず、ただただ口を開けるか脱帽するしかないわけで。

今野雄二のこの件も、巨泉さんのこのコラムで、歴史として残ることになりました。「事実」は、いずれにしても書き残さねばならないのです。ところで織田裕二、どうしちゃったんでしょうね。って、関係ないか。

ではごきげんよう。来週半ばからはまた日本です。


***
とまあ、上記のような「日記」を先週、ミクシで書いたところ、フジTVに務める私のマイミクさんの1人が次のようなコメントを寄せてくれました。上記の私のテキストに足りない要素が指摘・補填されていて、合わせてお読みくださると問題の重層的な部分が見えてくると思いますので、コメント者の了解を取って採録しますね。


***

2010年08月22日 04:27
僕は生憎、その件の担当ではありませんでしたが、それでも、僕はその弊社スタッフと結果的に同じ対応を取ったと思います。

僕と、そのスタッフ(たち)の思考経路がどのような展開の末に、同じ結論に至ったのかには相違があると思いますが、僕の場合、まずご遺族・存命の関係者の存在について考えたでしょう。

そして、今野さんが生前、ご自身の意思として、カムアウトしていたのか、していなかったのか、確認が既に容易には取れないその時点で、当人がもしかすると隠していたかもしれない性的指向をメディア・サイドの判断でおおっぴらにしていいものか、その権利がメディアにあるのか、ということを考えると思います。

大橋さんが自分の土俵で語ることについては、大橋さんの責任で負えばいい。大橋さんは今野さんのゲイとしてのスタンス、ご家族について、などご存じだったかもしれない。

が、そういった手がかりのない1メディア担当としては、もし当人がセクシュアリティを隠していたという可能性が少しでもあったら、遺族・関係者の手前、それをアウティングすることはできない、と判断します。

もちろん最善は、遺族・関係者に連絡を取り、このようなコメントが出ますが、問題ございませんか、などと確認を取ることだと思うのですが、自殺というショッキングな状況に対応しているご遺族に、そのタイミングで、この確認は、僕の気持ちとしてはできない。また、報道が出るまでの限られた時間の中ですべての関係者についてそれを網羅することはとうていできない。

弊社スタッフがとったと同じ対応をおそらく自分も取っただろう、というのは、アウティングということに対する僕自身の見解にもよるものでしょう。

社会的な影響力を少なからず持っている同性愛者が、反ゲイに価する言動を行う、またはその人が沈黙していることが、ゲイの立場の向上に反している、そのような限定条件下で、アウティングは行われるべきものだというのが私見です。

自分自身のセクシュアリティに悩んでいる・結論の出ていない、迷える同性愛者(及びその家族)を徒にアウティングすることには反対です。

以上、私見でした。
ご意見・ご反論ございましたら、承ります。


***
このコメントに対して、わたしもコメントを返しました。それが以下のものです。


***
2010年08月22日 06:08
なるほどなるほど、そういや、自殺だったんだ。私の上記の書き物にはその視点が一切欠けていました。つまり2重のスティグマというわけです。そうね、その場合は少しでもそれを軽減させようとするのもメディアたるものの立ち位置かもしれないね。

ただここで肝心なのは、きみの註釈したように当の担当者が思考したという跡すじが、巨泉さんのテキストを読む限りではいっこうに窺えないということです。「結果的に同じ対応を取る」ことと、その問題はまったく別のことです。おそらく巨泉サイドが、上記のきみのような意を尽くした事情説明のコメントを聞いていたら、彼はおそらくそのこともきっとコラムに書くんじゃなかろうか? 結果として、彼のコラムは変わっていたのではないか? ま、わたしも直接フジの担当者に当たったわけでもなく巨泉サイドに確認したわけでもないから、適当にしか言えんのですが。

じっさい、きみの書いた上記コメントは、十分に思考された説得力のあるものですから、たとえ結果が「添削」という同じもので終わっていたとしても、わたしはそこでは両者間にある共通認識が生まれ、これはまた次のステップに進むための一歩になり得たはずだと確信します。

それがしかし「死んだ人に対する表現としては使えない」「人が亡くなった時という特殊な時期」というようなだけの説明では、これはどこにも行き着くところのない言い訳、言い逃れに過ぎなく聞こえてしまうでしょう。じっさい、巨泉さんはそうやって聞いた。そこにはきみのコメントにある説得力はなかった。そういうことではないのでしょうか。

貴社の担当者としては、もし仮にきみのいうようにその辺の遺族への配慮が行き届いていたのだったとしら、コメントを要望した相手への配慮と事情説明もまた行き届いていて然るべきだった、と、ま、そういうことでしょうか。しかしまた、後者がそうではなかった以上、前者もまた、恐らく違っていたのではないか、と推察できてしまう。私はそれを「サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって」と非難したいのです。

いかがなもんでしょうかね。


***
かくして、再びそのコメントをくれた本人から次のような返事が。


***
2010年08月22日 07:09

そうだね。
「死んだ人間には使えない」って説明がヘンだものね。

多分、直接、巨泉さんサイドと対応したスタッフはあまりものがわかってない、ただのメッセンジャーだったのかもしれないですね。

俺としては、少なくとも、彼が相談したという「上の人間」というのは、俺と同じような考え方をした、と考えたいところだけれど。(多分、クラス的に、その「上の人間」は今の俺と同程度の職歴・年齢であるはずなのね。)

ただ、間に立っていたそのメッセンジャーくんが、それをうまく伝えられなかった、と僕は思いたい。

でも、ま、わからないですな。
差別の問題はほんと難しい。
ゲイに関しては、自分がそうだから、一応わかるんだが、同和のこととか、まったくわからないもん。
みんなが避けて、隠してしまうトピックだから、見えて来ないんだよね。だから、きちんと学べない。

もっと見える存在にならなければならない、というのは本当に、真の命題ですな。


***

テレビ局にもいろいろ考えている人間はいるわけです。
もちろんゲイもレズビアンもトランスジェンダーもいるわけですから。
というわけで、この問題に関してはこんなもんですか。
彼がコメントを寄せてくれたおかげで、わたしも問題の多面性を紹介できたと思います。

August 20, 2010

モスク建設騒動の正体

9.11で崩落した世界貿易センター跡地の2ブロック北の通りにイスラム教のモスク付きコミュニティセンターを建設する動きが表沙汰になったのはこの5月のことでした。それからまたぞろかまびすしくイスラム嫌悪症が表面化しています。とはいえよく調べると「そんな場所によくも」と気色ばんでいるのはよそに住んでいる人たちのようで、伝えられる全米調査での70%の反対に対し、当地マンハッタンでは36%の人しか反対していません(クィニピアク大調査)。もっともこれは6月末の時点での調査ですから、それ以来のメディアの報じ方次第で少し数字は変わっているかもしれません。ただ、NYのメディアは比較的冷静かつ論理的に報じていて、街頭でカメラに応える人たちもいたって寛容です。

51ParkPl.jpg
【扇型の窓のあるビルを取り壊して13階建てのモスク付きコミュニティセンターが出来る。来年のWTCテロ10周年の9.11に竣工というのも反対者の神経を刺激している要因の1つ。これは8/17日に撮影した写真。この時にも地元NYのテレビ局などがお昼のニュース用に中継車とリポーターを待機させていた】

モスクを計画するのは「コルドバ・イニシアティヴ」という6年前に出来た団体で、かつてイスラム、ユダヤ、キリスト教の3者が平和共存していたスペインのコルドバの名にちなみます。イスラム教社会と西側社会の友好的な橋渡しを行うことを趣旨とし、このコミュニティセンターの中にはイスラム教徒以外も利用できるカフェやプール、芸術センターも作る予定とか。そもそもその前身のイスラム団体がたまたま世界貿易センターの近くだったので、今回もまた近くにモスクをということでした。というかさらにもっと積極的に、9.11テロへの直截的な批判の表明として敢えてこの地を選んだそうです。
 
イスラム教徒の人口は米国でも徐々に増えていて、いまは成人では150万人ほどいるといわれます。アメリカの総人口は3億人ほどなのでまだ微々たる数字(0.7%くらい)ですが、これは20年前の3倍の数字で、しかも都市部に集中しているので、大都市圏でのモスクの建設も必要となっているわけです。でも9.11以降イスラム教への風当たりが厳しいのは確かです。同じニューヨーク市内の他の場所、ブルックリンとかスタッテン島とかでもモスク建設反対運動が表面化しています。

しかし一方でニューヨーカーというのは自分たちこそ自由の担い手だという気概も持っていて、他文化・他宗教への敬意も「政治的な正しさ」として持つべきだと考える人も多い。そういうのを意地でも理解してやる、理解しないのは野蛮人だ、みたいな強迫観念めいた信念というか傾向もあって、たとえばさまざまな分野の日本文化を世界で最初にニューヨーカーたちが注目したのもそうした傾向のおかげなんですね。先の調査でもイスラム教に関し「本流のイスラム教は平和的な宗教だと信じている」と答えた人はNY市内全体では55%もいて、モスク建設反対にもなかなか複雑な葛藤があることが窺えます。

そんな中、オバマ大統領がホワイトハウスでのイスラム教指導者を招いた恒例の夕食会で、憲法での宗教の自由を掲げてモスク建設に賛同を表明し、翌日にそれを「一般論だ」と言い訳する事態も起きました。でもたしかに夕食会ではグラウンドゼロのその場所という言い方をしてたんで、「一般論」じゃないと受け止められたのは当然なんだけど、中間選挙を3カ月後に控え、反対論の多いモスク建設に触れることは政治的にあまり賢明とは言えないと軌道修正したのです。日本の民主党の菅政権ほどではないですが、未曾有の財政危機、泥沼化するアフガン戦争と難問山積のオバマ政権も最近は(というか最初からそのケがあったのですが)、保守・革新両方に目配せをするあまりどこにもブレイクスルーが見出せない凡庸な政府に成り下がっています。

このモスク建設問題で、みんな忘れがちなことがあります。
それは、あの9.11の3000人近い犠牲者の中には多くイスラム教徒の人たちも含まれていたという事実です。

彼らの遺族もあのテロに怒っている。その憤怒を平和への祈りに変える場として、現場近くにモスクを持つことの何がいけないのか。イスラム教とテロとを直接結びつけてはいけないことは頭ではわかっていても、生理的にまだまだ抵抗があるということなんでしょうが、そういう人たちを折伏するのは信教の自由だとか表現の自由だとかの文字面のお題目ではなくて、やはり生理に訴えるしかありません。そのためにはあのテロで殺され、そして遺族にも関わらず周辺住民から白い目で見られている米国内のイスラム教徒の遺族をもっと紹介することです。その存在にもっと多くの人が気づけばいいのにと思います。

私も日本語のダイジェスト版の制作を手伝っているエイミー・グッドマンらが主宰する独立系ニュースメディア「デモクラシー・ナウ!」がこの問題を取り上げています。以下のリンクに日本語で概略が紹介されています。さらにその見出しをクリックすれば英語のオリジナルのサイトでの詳報に飛べます。

「わが米国のことが心配です」: ムスリム指導者全米のモスク建設反対を語る

NYのイスラム教コミュニティセンター建設問題 共和党と同調して数人の民主党トップが反対 関係者座談会


もっとも、宗教というものにあまり信を置いていない私としてはこの件に関してFoxの人気テレビ番組のゲイのホストが「このモスクが完成した暁には、隣にゲイバーを開く」と表明したのが面白かった。このモスクを挟んで睨み合いとなりそうなイスラム教とキリスト教右派。そこに両方から忌避されているゲイバーを開く。イスラム教、キリスト教、どちらが本当に友好的、平和的なのか、ゲイバーを作ってみればすぐにわかる、というわけです。なんせ、いまも石打ちで女性やゲイたちを死刑にする因習が残るという事実は、誰が何と言ってもそれら宗教と関係していないわけがないのですから。

ゲイというものを置いてみると、このモスク問題の底に、他者=異なる人たちへの紋切り型の人間理解と差別の問題があるということが、はからずも浮かび上がるのです。偽善の仮面を剥ぐのに、ゲイという異化装置はけっこう使えますよ。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

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クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

June 23, 2010

ハッピー・プライド!

NHK教育で「ハーバード白熱教室」という番組を12週にわたって放送していて、これがすこぶる面白いものでした。政治哲学教授のマイケル・サンデルが「正義」と「自由」を巡って大教室で学生たちに講義をするですが、このサンデルさん、学生たちが相手だからか論理が時々ぶっ飛んで突っ込みどころも満載。ところが話し上手というか、ソクラテスばりの対話形式の講義でNHKの「白熱」という命名はなかなか当を得たものです。学生たちもじつに積極的に議論していて、その議論の巧拙やコミュニタリアンのサンデルさんの我田引水ぶりはさておき、なるほどこうして鍛えられて社会に出ていくのだから、外交交渉からビジネスの契約交渉まで、種々の討論で多くの日本人が太刀打ちできないのも宜なるかなと、やや悲しくもなりました。

で、6月20日に放送されたその最終回の講義テーマが「同性結婚」でした。実は6月は米国では「プライド・マンス Pride Month」といって同性愛者など性的少数者たちの人権月間。もちろんこれは有名なストーンウォール暴動を記念しての設定で、オバマ大統領もそれに見合った声明を発表するので、NHKはそれを知って6月にこの最終回を持ってきた……わけではないでしょうね。

同性婚が政治的に大きな議論となっているのは米国に住む日本人なら誰しも知っています。ところがほとんどの在留邦人がこの件に関しては関心がない、というか徹底的に我関せずの態度を貫いています。ほかの政治的話題ならば仲間内で話しもするのに、この問題に関してはほとんど口にされることがありません。その徹底ぶりは「頑なに拒んでいる」とさえ映るほどです。

ところが日本からやってくる学生さんたちがまずは通うニューヨークの語学学校では(というのは米国に住むにはVISAが必要で、まずはこの語学学校から学生ビザをスポンサーしてもらうのが常套だからです)、ここ15年ほどの傾向でしょうか、「ハーバード白熱教室」ではないですが、だいたいどのクラスでもこの同性婚や同性愛者の人権問題が英語のディベートや作文にかこつけて必ずと言っていいほど取り上げられるのです。

日本人学生はほとんどの場合ビックリします。だって、同性愛なんて日本ではそう議論しないしましてや授業で扱うなんてこともない。お笑いのネタではあっても人権問題という意識がないからです。しかし語学学校の先生たちは、まあ、若いということもあるでしょうが、これぞニューヨークの洗礼とばかりに正義と社会の問題として同性愛を取り上げるのです。ええ、この問題は正義と公正さを考えるのに格好のテーマなのですから。

私もNY特派員時代の90年代半ば、この同性愛者問題を、黒人解放、女性解放に続く現代社会の最も重要な課題の1つだとして記事を書き続けました。もちろん当時はエイズの問題も盛り上がっていましたから、その話題とともになるべく社会的なスティグマを拭い去れるようにと書いてきたつもりです。ところが日本側の受けはあんまりよろしくなかった。で、気づいたのです。日本と欧米ではこの問題への向き合い方が違っていました。日本人は同性愛を、セックスの問題だと思っているのです。そして、セックスの話なんて公の場所で話したくない。

これは以前書いた「敢えてイルカ殺しの汚名を着て」で触れた、あの映画の不快の原因は「すべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない」ということだ、という論理にも似ています。イルカだろうがブタだろうが牛だろうが鶏だろうが、同じような手法で映画で取り上げれば、どこでもだれでもおそらくは「なんてことを!」という反応が返ってくるはずだということです。

セックスの話も同じ。同性愛者のセックスはしばしば公の場で取り上げられます。おそらく好奇心とか話のネタとかのためでしょうが、それで「気持ち悪い」とか「いやー」とかいう反応になる。しかしこれは異性愛者のセックスにしても、そういうふうに同じ公の土俵で取り上げられれば「要らない情報」だとか「べつに聴きたくないよ」だとかいった、似たような拒絶反応が返ってくるのではないか、ということ。

じつはこの米国でも、宗教右派からの同性愛攻撃は「同性愛者はセックスのことばかり考えている不道徳なヤツら」という概念が根底にあります。欧米でだって、セックスという個人的な話題はもちろん公の議論にはなりません。でも同性愛の場合だけセックスが槍玉にあがり、そしてそんな話はしたくない、となる。

ところがいまひろくこの同性愛のことが欧米で公の議論になっているのは、逆に言えばつまりこれが「セックスという個人的な話題」ではないからだということなのではないか。そういうところに辿り着いているからこそ話が挙がっているということなのではないだろうか?

しかしねえ……、と異論を挟みたい人もいることでしょう。私もこの件に関してはもう20年も口をスッぱくして言い続けているのですが、宗教とか、歴史とか、医学とか精神分析とか、もうありとあらゆる複雑な問題が絡んできてなかなか単純明快に提示できません。しかし、前段までで説明してきたことはとどのつまり「ならば、同性愛者と対と考えられる「異性愛者」は性的存在ではないのか?」という問いかけなのです。

この問いの答えは、もちろん性的ではあるけれどそれだけではない、というものでしょう。これに異論はありますまい。そしていま、同性愛者たちが「性的倒錯者」でも「異常者」でも「精神疾患者」でもないと結論づけられている現実があり(世間的には必ずしも周知徹底されていないですけど、それもまた「性的なことだから表立って話をしない」ということが障壁になっているわけで)、この現実に則って(反論したい人もいるでしょうが、ここではすでにその次元を通過している「現実の状況」に合わせて)論を進めると、同性愛者も異性愛者と同じく生活者であるという視点が必然的に生まれてくるのです。同性愛者もまた、性的なだけの存在ではない、ということに気づくのです。

そういうところから議論が始まってきた。いま欧米で起きていること、同性カップルの法的認知やそれを推し進めた同性婚の問題、さらに米国での従軍の可否を巡る問題など各種の論争は、まさに「同性愛者は性的なだけの存在」という固定観念が解きほぐされたことから始まり、そこから発展してきた結果だと言えるのです。

毎年6月の最終日曜日は、今年は27日ですが、ニューヨーク他世界各国の大都市でゲイプライドマーチというイベントが行われます。ここニューヨークでは五番街とビレッジを数十万人が埋めるパレードが通ります。固定観念を逆手に取ってわざと「性的」に挑発する派手派手しい行進者に目を奪われがちですが、その陰には警察や消防、法曹関係や教育・医療従事者もいます。学生やゲイの親たちや高齢な同性カップルもいます。

かく言う私も、じつはそういう生活者たちとしての同性愛者を目の当たりにしたのはじつはこのニューヨークに住み始めてからのことでした。90年当時、日本ではそういう人たちは当時、ほとんど不可視でした。二丁目で見かけるゲイたちは敢えて生活者ではなかったですしね。いまはずいぶんと変わってきましたが、それでもメディアで登場するゲイたちは決まり事のようになにかと性的なニュアンスを纏わされているようです。まあ、当のゲイたちもそれに乗じてより多く取り上げられたいと思っているフシがありますが、それは芸能界なら誰しも同じこと。責められることじゃありません。

とにかく、生活者としての性的少数者を知ること。同性愛者を(直接的にも間接的にも)忌避する人たちは、じつのところホンモノの同性愛者を具体的に、身近に知らないのです。そしてそのような視点を持たない限り、私たちはハーバード白熱教室にも入れないし、先進諸国の政治的議論にも置き去りのままなのだと思います。

May 02, 2010

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

2009年12月12日、大阪のJASE関西性教育セミナー講演会で話したことを要約しまとめたものを(財)日本性教育協会が『現代性教育研究月報』4月号で採録、さらにその原稿をこのブログ用に加筆したものを「Still Wanna Say」のページにアップしました。

ご興味ある方はどうぞ。

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

January 12, 2010

二人で生きる技術

2人で生きる技術.jpg

よくわからないのですが、いわゆるハウツー本が本屋さんに並んでいたりするのを見るとなんとまあ恥ずかしいなあと思ってしまいます。コンピュータとかカメラとか、育児とか料理とか、そういうツールや技術系のハウツー本ならぜんぜんいいんですけどね。でも……と書いてみて、あら、本なんてみんなハウツーものみたいなもんかもしれないなと思ったりもします。そうだよね、こうやって書いていることも、結局は書き手が考えた答えを都合よく読み手に教えてるってことだもなあ、とかって……でも言いたいのは、なんというか、ほんとうはそういうのは手っ取り早く誰かの用意した答えを知るのじゃなくて、自分でちゃんと時間をかけて考えて答えを見つけていかなくちゃダメだろ、というような物事がこの世には確実にあるような気がするんですね。答えが大切なんじゃなくて、答えにいたるまでのプロセスが大切なのに、先に答えを聞いてしまってどうするんだ、ってことが。

太宰が、数学の教科書の後ろに問題の答が書いてあるのを見つけて、「なんと無礼な」か「失礼」だったか、そう思った、ってのがどっかにあったでしょ? あれなんだよね。あれを読んだからか、私は10代のころからレコードもベスト盤を買うのを恥ずかしいことだと思ってしまった。絶対に自分はベスト盤など買わないぞと誓った。で、中年になって、iTunesストアが出来て、往年のロックやジャズの懐かしい連中のコレクションを自分のMacに再収集しようとして、めくるめくほど数多のベスト盤の山を前に思わずその1つをポチってしまったとき、私はふと辺りを見回し、目撃者のいないことに軽く安堵しつつも激しく自らを恥じたものです。(でも1回ポチるともうあとは堰を切ったようにベスト盤の嵐でしたけど。ま、経済的にも全然安上がりですし、背に腹は変えられないという事情はありますな。年を取ると寛容になるもんです)

ハウツー本とベスト盤がどうして同じ次元で語られるのかってのは、つまり、ラクしていいとこ取りしようってことで、言い訳を言えば、わたしなんぞの、もうそうは新しいことなんか起きない年代の、しかも残された時間もそうない者にはそれでもぜんぜん大勢には影響がないってことなんだけど、これから人生を作っていく人たちが、対人関係とか仕事のしかたとか、恋愛とか人生とか、そういうもので教科書の後ろを見ちゃうみたいなやり方だと、それは本末転倒でしょーってことなんです。知ったふうなことばかり言って、その実ものすごく中身がなくて、ぜんぶどっかで聞いたようなことだけを題目のように繰り返して世を渡ってるような輩も(渡れてないか)けっこういます。話しててやになっちゃう。

だから、例えばジャーナリズム学科とかで勉強したって、それはちょっと違うんじゃないかって思う。火事や殺しや交通事故の現場でないと感じられないなにかがあって、それを書くことに苦悶して、そうやってからジャーナリズム学科でもういっかい勉強できるような、そんな環境やシステムが日本の職業ジャーナリストたちにも用意されていれば素晴らしいと思うけど、最初にジャーナリズム学科で技術を教わっても、まあ、人によるだろうけど、つまり、わかったふうに思っちゃいけないってことですわね。まあ、そうね、人によるか。ジャーナリスト学科で学んでも、知ったふうには思わないやつもいるもんね。技術はあるに越したことはないし、か。

そうですね。つまり、ハウツー本を読んで、知ったふうな口をきくやつがダメなんだ。だからといって「だからそれはハウツー本が悪いわけじゃない」ってわけじゃなくて、ハウツー本は九割がたそういう連中を確実に標的にして作られてるんだから、ダメに乗っかってカネ稼ぐための本だから、いわゆる故意の教唆だわね。ハウツー本もやっぱりダメなんだよ。

……といろいろと与太が長くなったですが、何が書きたいかというと、表題の本についてです。

年をまたいで「二人で生きる技術 〜幸せになるためのパートナーシップ」(ポット出版)を読んで、2010年のブログの最初のエントリーはこの本についてにしようと決めました。著者の大塚隆史さんは70年代後半にラジオ「スネークマンショー」で15分ほどの自身のコーナーを持ち、ゲイに関する幅広い話題を広く(多くゲイの)聴取者に語りかけていた人です。寡聞にして私はその当時そのラジオのことは知りませんでしたが、大塚さんにお会いした数年前、録音の残っていたものを集めたCDをいただいて、その話題の広さと深さにちょっと、というか、かなりショックを受けました。というのも、私が90年代から書いたり言ったりしていたことのほとんどは、すでに大塚さんがそのラジオ番組で10年以上前に言い尽くしていたことだったからです。はは、こりゃまいったね、というのが正直な感想でした。

「二人で生きる技術」はその大塚さんの、個人のパートナー史というべきものを通じて、パートナーであること、パートナーであろうとするというのはどういうことなのか、を示している本です。でも、これは教科書ではありません。ハウツー本でもありません。冒頭から多くを費やして、つまり私はそのことが言いたかったのです。

でね、ここで書かれるパートナー、「二人」というのは、男同士の二人です。で、だからこれはゲイのパートナーシップのためにだけに書かれた本かというと、じつはそうじゃない気がします。これは、同性間・異性間にかかわらず、最も困難な環境の1つにいる人たちが、どうやって伴侶を見つけ、どうやってその関係を続けるのかについての、普遍的な、かつとても個人的な努力の軌跡です。

私たちはここで「大塚隆史」というある個人の、パートナーを求めて止まない人生を覗き見ることになります。彼はこれまでに5人のパートナーと付き合っているのですが、彼の心にあったのはただ1つ、おとぎ話で結ばれたお姫さまと王子様がその後、「末長く幸せに暮らしました」という絶対命題でした。つまり彼にとっての傾注の対象は、物語の主要となるドラマティックな恋愛の部分が終わったあとの、「末長く」しかも「幸せ」な「暮らし」のことなのです。著者はこの「暮らし」のために懸命に精力を傾けます。これが「二人で生きる」ということであり、そのためには技術が必要なんだという気づきがあるんですが、でも、その技術がなんなのか、この本はハウツー本のように簡単にはそれを教えてはくれません。なぜなら、それは具体的には5人のパートナーそれぞれで違うことだったのですし、私たちはそのパートナーたちとの「暮らし」の丁寧で詳細な記述の各章を読み進めることで、筆者とそのパートナーの行った努力と獲得した技術とを追体験することになるのです。そうして、そうすることでしかわからないことというものがある。

男女の、あらかじめ当たり前として用意されている“ような”関係性とは違って、ゲイの男性(あるいは女性)2人の関係というのはなんとも手探りで、だれもの目に見えるロールモデル(理想のお手本)というのもそうあるわけではありません。男女の場合は恋愛のあとに結婚というものが控えているのを多くの人が認識しているでしょうが、日本のゲイの場合は結婚もシヴィルユニオンもドメスティックパートナーシップも現実問題として自らに引き寄せて考えている人はそう多くはないでしょう。すると勢い、状況的に、ゲイ男性カップルの関係性というのは恋愛の後は何なんだ、セックスの後は何になるんだろうということになります。

著者が行ったことは、まさにその「なにか」をハウツー本もなく自ら作り上げてゆくことでした。そしてそれのすべてをいま、身を以て示してくれることだったのです。彼以前にそれを作り上げた人はもちろんいたでしょうが、それを見せてくれた人はほとんど皆無だったからです。男女の恋愛を描いた小説や映画は数限りなくありますし、それこそ「その後」の「暮らし」を追ったドキュメンタリーもたくさんあります。でもそれらはほぼ、「二人で暮らす」ことをアプリオリな大前提として始めていて、そこを疑うことについて甘い。でも、ほんとうはそこから始めなくてはならないのではないか?

そう思ったとき、じつはそのことは男女のカップルにとってもほんとうは同じなのだということに気づくのです。恋愛ってそもそも自動的に始まってしまいます。恋愛の原動力はセックスへの希求(リビドー)なんですが、というかそれは主客転倒で、リビドーがセックスへと導く儀式としての恋愛を創造したんですが、自動的に始まる恋愛は自動操縦ではどうもうまく行かないほど複雑になってしまって、あるいはお見合いによるお付き合いでもいいんだけど、人間の私たちはいつの間にかそんな自動操縦のモードを手放さざるを得なくなってしまいました。

ところが恋愛(という捏造された儀式)の余勢をかって、なるがままに任せていればどうにかなるさと思っているカップルが多いのです。そもそもいろんな分野で自動操縦をやめてしまった人間たちが、どうして愛する人とだけは自動操縦で大丈夫だと思っていられるのか。

恋愛って、人生で何回も出来るもんじゃない。恋愛にベテランというのは存在しないのです。つまり、みんないくつになっても手探りで、素人なの。だから真剣にならないとすぐに失敗するのです。

「二人で生きる技術」に書かれている数多くの実際のエピソードは、読んでいて「他者」というものの発見に満ちています。人間って、みんな違うんだって改めて気づかされます。セックスの話も包み隠さず出てきます。エイズの話も、ウソの話も、浮気の話も出てきます。おそらく、多くの読者が泣くだろうエピソードも登場します。私も泣きました。そうして、他者というのは、改めてすごいなあと思った。自分の知らなかった他者たちをこうして知った「気づき」を、有り難く思うのです。

これは、自分の愛する女性との関係を当たり前と思っている男性たちに読んでもらいたい本です。あるいは愛する男性との関係で悩んでいる女性たちにも。関係性において、何事にも当たり前というのはありません。それは奇跡なのです。それが続くのは、さらにもっと大きな奇跡なのです。それを続けさせるための「技術」がこの本には書いてあります。最後の章にいくつか箇条書きにもなっています。でも、それは大した技術ではありません。いちばん重要なのは、そこまで読み進め、何かを読み取ろうとした努力に関係するものです。この本を読み進めたように、自分たちの関係を読解してみることがまず、そんな技術を体得するためのとっかかりだろうと思います。それは、関係を諦めない、おとぎ話を信じる力なのだと思います。

December 20, 2009

中村中〜阿漕な土産〜

渋谷CCレモンホールでの中ちゃんのコンサート、昨晩行ってきた。
アクースティック4人編成をバックのものだったが、中村中、この1年でずいぶんとすごくなった。まあ、声の出ること出ること。出だしはまだ緊張してるみたいだったけど、それがどんどん観客のエネルギーを吸い取るみたいにノリはじめ、ああいう状態は歌っている方もものすごくいい気持ちなんだろうなあと思うような歌になっていった。私も歌ってた頃があるから、なんとなくわかる。えー、こんなのも出るんだって、自分でもびっくりしちゃうくらいなときが訪れることがあるのだ。昨晩はきっとそんな感じだったんだろうって思う。

アクースティックだったから歌い方も変わったのかもしれない。ブレスの仕方が変わった。前回は4月に彼女のコンサートにいったんだが、まあ、ホールの大きさも違うし構成も違うから一概には断じられないけれど、前回はブレスまでをも効果音にしちゃうみたいな感じの歌い方。今回はもっとナチュラルなブレスだった。

そして、歌が確実にうまくなっていた。
だんだん、私の論評が届かないところにまで上がっていくような予感がする。

基本的に、ぼくはぼくが自分でできることと比べることでしか批評ができないのだ。

今年は彼女、事務所を変わったりでいろいろとあったみたいだけど、20代でいろいろと大変なことを経ていくのは彼女にとってきっと良いことなんだと思う。良いことにしていけなければ、もともとだめなんだとも思う。

いっしょに行ったトーちゃんとその夜遅く、さてそこで、プロデューサーとしていったいどういう道を彼女に用意すればよいののかということを考えた。ふうむ、と言ったきり、ふたりともその答えを言葉にすることはなかったけど、歌謡曲歌いの彼女としてと、歌謡曲作りの彼女としてと、どんな未来があるのだろうか。トーちゃんには先日からちあきなおみが頭の中に宿っていたせいもあって、なんとなく2人を比べているような節もあったのだが。

「友達の詩」は名作だが、これはできるべくしてできちゃった歌だろうから、そうじゃなくてモノ作りとして意識的に作り上げる歌がどういうものであるのか、ぼくにはまだ腑に落ちるものが聞こえていない。それは詩の問題だろうか? 彼女はもっともっと本を読むべきかもしれない。詩とか、俳句とか、短歌とかでもいい。寺山とか、ギンズバーグとか、そういう母恋いの詩とかも。そうして盗むところから再開してもいいと思う。

昨晩のコンサートを見ながら、彼女の40歳の、50歳のコンサートに行きたいとちらと思っていた。
それまで生きていようと思った。

November 13, 2009

宣伝──ヘドウィグ再降臨

考えてみたら、わたし、自分の本とか講演とかあんまりほとんど宣伝したことがないんだけど、山本耕史のヘドウィグはかなりプッシュしました。

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まあ、ミュージカル(といってよいのかどうか、これはけっこう演劇とロックコンサートのコラボみたいなステージ)の翻訳はこの作品が最初だったせいもありますが、山本耕史のヘドウィグをやったのは、山本耕史という役者のすごさを知ったという点でもよかったです。この人の仕事ぶりのすごさは、テレビではなかなかわからんと思う。そこら辺のいい加減な兄ちゃんかと思ってたら大間違い。プロというのはすごいと彼と会って思ったもん。

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というわけで、山本ヘドの再々演が今月末から始まります。
お勧めします。
今までヘドを見逃してきたなら、これを見逃すでありません。
今回は短期決戦。
なんか、衣裳とか、変えるとかって言ってるだけどどうなるんだろ。
じつは私もなにも聞いてない。
それに伴ってすこし演技も変わるのかしら? ちょっとたのしみ。

へど1.jpg

相手役のソムン・タクは、ジャニス・ジョプリンとグレース・スリックを足して2を掛けたような歌い方をします。たとえが古いといわれますが、現代の歌手でそいつらに匹敵するようなわかりやすい例は、あるんだろうか?

わたし、これを宣伝しても一銭にもなりませんが、お勧めします。

見なさい。見て、震えなされ。


詳細は以下にあります。

http://www.lovehed.jp

初めての方はぜひここでストーリーや歌詞の訳をおさらいしてから行った方がわかると思います。歌は字幕なしの英語で歌うの。


大阪はたった1回だけの公演。
前回、キャンセルになったからね。
11月27日(金)午後7時から、渾身の大阪厚生年金会館芸術ホール。

東京は12月2日(水) ~12月6日(日) ゼップ東京(お台場)
こちらは昼と夜の公演がいろいろ。

http://www.lovehed.jp/UserEvent/Detail/1

よろしく。


October 26, 2009

デモクラシー・ナウ!

デモクラシー・ナウ!という米国の独立系ニュース報道サイトがあります。けっこう人気のあるメディアで、大手メディアの報道しないことをいつも丁寧に取り上げ、解説し、関係者にインタヴューして紹介しています。この6月にはゲイの従軍禁止政策に関しても放送しました。

このサイトの日本語版サイトもあって、じつはここにわたしも翻訳と監修で関係しています。その6月のゲイの従軍問題のインタビュー放送が日本語字幕付きでさきほどやっと公開されました。字幕作業で時間がかかるのでタイムラグがあるのはしょうがないのです。みんな、ほとんどボランティアスタッフが作業を進めているので、ご寛恕を。

さて、表題の話題は、10月11日にワシントンで行われた平等を求める政治行進の企画者であるあのクリーヴ・ジョーンズ(ミルクの映画でも出てきました)へのインタビューから始まります。ジョーンズのこのマーチへの思いやハーヴィー・ミルクとの関係が語られます。
http://democracynow.jp/submov/20090619-2

2回に分けて放送されています。後半が「ドント・アスク、ドント・テル(上官や同僚はその人が同性愛者であるかどうかを質問ないし、ゲイの兵士も自分からそうだと公言もしない限りにおいて、同性愛者も従軍できる)」とした従軍規定に関するものです。
http://democracynow.jp/submov/20090619-3

どうぞ時間のあるときにでも視聴してください。
米国では、メディアもこうして性的少数者の人権問題に正面から取り組んでいます。

October 13, 2009

平等を求める全米政治行進

毎年10月11日は米国では「全米カミングアウトの日 National Coming-Out Day(全米カミングアウトの日)」とされています。もっとも、これはべつに政府が定めた記念日ではありません。アメリカのゲイ・コミュニティが、まだ自分をゲイだと言えない老若男女に「カム・アウトする(自分が同性愛者だと公言する)」ことを勧めようと定めた日です。今はゲイだけでなくLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)と総称される性的少数者全体のカムアウトを奨励する日として、この運動はカナダや欧州にも広がっています。

その制定21年目に当たる今年の10月11日(日)、快晴のワシントンDCで数万人の性的少数者とその支援者を集めて「The National Equality March(平等を求める全米政治行進)」が行われました。日本ではほとんど報じられませんが、性的少数者たちの人権問題は米国では最大の国内的政治課題の1つです。

若い人たちがことのほか多く参加しています。なんか、ヒッピー・ムーヴメントみたいな格好をした人たちもたくさんいますね。このビデオの最後にはあのハーヴィー・ミルクの“弟子”であるクリーブ・ジョーンズも登場しています。インタビューアーが、このマーチが終わってみんな帰ってから何をすればよいか?と問いかけています。クリーブ・ジョーンズはすべての選挙区で自分たちの政治家に平等の希望を伝える組織を作るように勧めています。「私たちはこのマーチをするために組織化したのではない。組織化するためにマーチしたんだ」と話しています。

ところで National Equality March のこの「平等」とは、現在最大の議論の的である「結婚権の平等」をめぐってスローガン化しました。同性愛者たちも同じ税金を払っている米国民なのだから、同性婚も異性婚と同じく、平等に認められて然るべきだという議論です。そこから、これまで取り残してきた「雇用条件の平等」や「従軍権の平等」も含めて、LGBTの人権を異性愛者たちと等しく認めよという大マーチが企画されたわけです。

この行進の前日10日、オバマ大統領はLGBTの最大の人権組織ヒューマン・ライツ・キャンペーンの夕食会で演説し、選挙期間中の公約であった「Don't Ask, Don't Tell(訊かない、言わない)」政策の撤廃を改めて約束しました。

これはクリントン政権時代に法制化されたもので、それまで従軍を禁止されていた同性愛者たちが、それでも兵士として米国のために働けるように、上官や同僚たちが「おまえはゲイ(レズビアン)か?」と聞きもしないし、また本人が自分から「自分はゲイ(レズビアン)だ」とも言ったりはしない、と取り決めた規定です。つまり、ゲイ(レズビアン)であることを公言しない限り、ゲイではないとみなして従軍できる、としたもので、オバマ大統領は選挙戦時点からこれは欺瞞だとして廃止を宣言していました。ところがいまのいままでオバマ政権は、撤廃に向けての手続きを具体的にはなにも行っていなかったのです。

ノーベル平和賞とは、和平・平和への取り組みだけでなく人権問題での活躍に対しても表彰されます。まあ、まさかそれが後押ししたのでもないでしょうが、今回の公約再確認は、いつどのように具体化されるのか、見守っていきたいと思います。

ところでいまCNNが、カリフォルニア州での「ハーヴィー・ミルクの日」の制定に拒否権を行使するとしていたシュワルツェネッガー州知事が、一転、拒否権行使を否定し、制定を認めると発表したというのを報じていました。今も全米で同性婚の権利を勝ち取ろうという闘いが議会や住民投票の動きの中で続いています。

おそらく明日13日、デモクラシー・ナウ!という独立系報道メディアの'日本語版翻訳サイト'で、6月に放送されたLGBT問題のインタビューもアップされると思います。直接のリンクがわかったらここでも貼付けるようにします。

September 16, 2009

セメンヤ

あの、「両性具有」だとアウティングされた南アフリカの陸上選手キャスター・セメンヤ、24時間自殺監視措置になった。だれとも会いたがらないそうだ。18歳の子に、なんとひどいことをしたんだろう。

あれはリークだったんだね。
メディアがそれに飛びついた。なんのために?
表向きは世界陸上の公正性のために。しかし、心理的には化け物がいると言いふらしたかったゆえに。

公式な、違う内容と違う形での発表が出来たはずなのに。
こんな残酷なことはない。

Gender Row Runner Semenya Placed On Suicide Watch

Monday, September 14, 2009 at 5:54:53 PM

South African runner Caster Semenya, who is at the center of a gender row, has been placed on suicide watch amid fears for her mental stability.

The Daily Star quoted officials as saying that psychologists are caring the 18-year-old round-the- clock after it was claimed tests had proved she was a hermaphrodite.

Leaked details of the probe by the International Association of Athletics Federations showed the 800m starlet had male and female sex organs - but no womb.

Lawmaker Butana Komphela, chair of South Africa's sports committee, was quoted as saying: "She is like a raped person. She is afraid of herself and does not want anyone near her. If she commits suicide, it will be on all our heads. The best we can do is protect her and look out for her during this trying time."

South African athletics officials confirmed Semenya is now receiving trauma counselling at the University of Pretoria.

Caster has not competed since the World Athletics Championships last month when the IAAF ordered gender tests on her amid claims she might be male.

Source-ANI
SRM

June 04, 2009

Happy Pride Month

6月はプライド月間。しかも今年はストーンウォール・インの反乱から40周年のビッグイヤーです。NYでもいろいろなイヴェントが目白押しです。iTuneストアにもレインボーマークのゲイプライド・コーナーが設置されて、この辺はビジネス、さすがにうまいね。

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大統領のバラク・オバマと国務長官のヒラリー・クリントンがそれぞれ、このプライド月間を祝福する声明を発表しました。ブッシュ時代はパスされていましたが、クリントン時代から9年ぶりの復活です。

まずは大統領声明から。

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Forty years ago, patrons and supporters of the Stonewall Inn in New York City resisted police harassment that had become all too common for members of the lesbian, gay, bisexual, and transgender (LGBT) community. Out of this resistance, the LGBT rights movement in America was born. During LGBT Pride Month, we commemorate the events of June 1969 and commit to achieving equal justice under law for LGBT Americans.

LGBT Americans have made, and continue to make, great and lasting contributions that continue to strengthen the fabric of American society. There are many well-respected LGBT leaders in all professional fields, including the arts and business communities. LGBT Americans also mobilized the Nation to respond to the domestic HIV/AIDS epidemic and have played a vital role in broadening this country's response to the HIV pandemic.

Due in no small part to the determination and dedication of the LGBT rights movement, more LGBT Americans are living their lives openly today than ever before. I am proud to be the first President to appoint openly LGBT candidates to Senate-confirmed positions in the first 100 days of an Administration. These individuals embody the best qualities we seek in public servants, and across my Administration -- in both the White House and the Federal agencies -- openly LGBT employees are doing their jobs with distinction and professionalism.

The LGBT rights movement has achieved great progress, but there is more work to be done. LGBT youth should feel safe to learn without the fear of harassment, and LGBT families and seniors should be allowed to live their lives with dignity and respect.

My Administration has partnered with the LGBT community to advance a wide range of initiatives. At the international level, I have joined efforts at the United Nations to decriminalize homosexuality around the world. Here at home, I continue to support measures to bring the full spectrum of equal rights to LGBT Americans. These measures include enhancing hate crimes laws, supporting civil unions and Federal rights for LGBT couples, outlawing discrimination in the workplace, ensuring adoption rights, and ending the existing "Don't Ask, Don't Tell" policy in a way that strengthens our Armed Forces and our national security. We must also commit ourselves to fighting the HIV/AIDS epidemic by both reducing the number of HIV infections and providing care and support services to people living with HIV/AIDS across the United States.

These issues affect not only the LGBT community, but also our entire Nation. As long as the promise of equality for all remains unfulfilled, all Americans are affected. If we can work together to advance the principles upon which our Nation was founded, every American will benefit. During LGBT Pride Month, I call upon the LGBT community, the Congress, and the American people to work together to promote equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and laws of the United States, do hereby proclaim June 2009 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to turn back discrimination and prejudice everywhere it exists.

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this first day of June, in the year of our Lord two thousand nine, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-third.

BARACK OBAMA

**

次は国務長官声明。

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"Forty years ago this month, the gay rights movement began with the Stonewall riots in New York City, as gays and lesbians demanded an end to the persecution they had long endured. Now, after decades of hard work, the fight has grown into a global movement to achieve a world in which all people live free from violence and fear, regardless of their sexual orientation or gender identity.

"In honor of Gay and Lesbian Pride Month and on behalf of the State Department, I extend our appreciation to the global LGBT community for its courage and determination during the past 40 years, and I offer our support for the significant work that still lies ahead.

"At the State Department and throughout the Administration, we are grateful for our lesbian, gay, bisexual and transgender employees in Washington and around the world. They and their families make many sacrifices to serve our nation. Their contributions are vital to our efforts to establish stability, prosperity and peace worldwide.

"Human rights are at the heart of those efforts. Gays and lesbians in many parts of the world live under constant threat of arrest, violence, even torture. The persecution of gays and lesbians is a violation of human rights and an affront to human decency, and it must end. As Secretary of State, I will advance a comprehensive human rights agenda that includes the elimination of violence and discrimination against people based on sexual orientation or gender identity.

"Though the road to full equality for LGBT Americans is long, the example set by those fighting for equal rights in the United States gives hope to men and women around the world who yearn for a better future for themselves and their loved ones.

"This June, let us recommit ourselves to achieving a world in which all people can live in safety and freedom, no matter who they are or whom they love."

It will be interesting to see what, if any, statement Obama releases this month considering that most of his campaign promises to LGBT citizens remain unfulfilled.


じつはオバマ政権はいまのところLGBT問題に関しては優先順位が低いようで、すぐにも着手すると言っていた軍隊における「Don's ask, Don't tell」の撤廃もまだです。まずは経済問題、ついでアフガン、イラク、イラン問題、そして北朝鮮、というわけですが、いずれも難問であるため大変です。北朝鮮の最近の核実験とミサイル発射は、まさにそのオバマ政権の目を自分たちに向けさせるための行為なのですが、このままでは本当に核保有国として対等に対峙するという方向性なのでしょう。これは中国も許すはずがないので、次の一手、次の一手と、その都度新たな展開になる。LGBT問題は、だれかに丸投げしないと、いつまでも解決しない。するとそこから支持層に水漏れの一穴が開くかもしれません。

April 13, 2009

ブロークバックはアダルト本?(続報追記)

アメリカのアマゾン・コムがなんだかわからない基準を持ち出して、ゲイ&レズビアン文学を「アダルト」分野に分類してセールスランキングから外すという愚挙に出ています。アダルト本、つまりエロ本ですね、そうやってセールスランキングの数字がなくなったのはジェイムズ・ボールドウィンの名作「ジョヴァンニの部屋」、それにアニー・プルーの「ブロークバック・マウンテン」、ええ、そうです、あのブロークバックです。

Giovanni's room.jpg  brokebackmt.jpg

そうやって外されちゃった著者の1人が何なんだ、ってアマゾンに問い合わせたら、次のような答えともならない答えがメールされてきたそう。

"In consideration of our entire customer base, we exclude 'adult' material from appearing in some searches and best seller lists. Since these lists are generated using sales ranks, adult materials must also be excluded from that feature.
われわれの全体の顧客基盤を検討した結果、「アダルト」な物品は一部の検索やベストセラーリストから除外しています。これらのリストはセールスランク(販売数順位)を基に作られているため、アダルトな物品もまたその扱いから外されることになります。

"Hence, if you have further questions, kindly write back to us.
そういうわけで、まだご質問がある場合は恐れ入りますがまたメールをどうぞ。

"Best regards, Ashlyn D Member Services Amazon.com Advantage"
敬具、アマゾン・コム・アドヴァンテージ、メンバーサービス部 アシュリン・D

まあ、理由説明になっちゃいませんね。

というか、除外対象のアダルト分類というのもいい加減で、LAタイムズによれば

アネット・ベニング主演で映画にもなったオーガスティン・バロウズの「ハサミを持って突っ走る(Running with Scissors)」(アルコール中毒の父と夢想家でレズビアンの母が離婚、精神科医の家で暮らすことになった少年オーガスティンの奇妙な日々を描く青春回顧録)
リタ・メイ・ブラウンの現代レズビアン小説の嚆矢「ルビーフルーツ・ジャングル(Rubyfruit Jungle)」
ヴィクトリア朝のレズビアンを描いたラドクリフ・ヒルの古典的名作「孤独の泉(The Well of Loneliness)」
ミシェル・フーコーの「性の歴史、第1巻(The History of Sexuality, Vol. 1)」
E.M.フォスターの「モーリス」(2005 W.W. Norton版)
アナイス・ニンの「小鳥たち」
ジャン・ドミニク・ボービーの「潜水服は蝶の夢を見る(The Diving Bell and the Butterfly)」(1997 Knopf版)
ゲイの自伝として初めて全米図書賞を受賞(1992年)したポール・モネットの「Becoming A Man(男になるということ)」
ホモフォビアの社会的研究書である「The Dictionary of Homophobia: A Global History of Gay & Lesbian Experience(ホモフォビアの辞書;世界のゲイ&レズビアンの体験の歴史)」
等々……

ところが外れてないのは

デビッド・セダリスの「すっぱだか(Naked)」
ヘンリー・ミラーの「北回帰線(Tropic of Cancer)」
ブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」
ウィリアム・バローズの「裸のランチ(Naked Lunch)」
アナイス・ニンの「愛の日記:近親相姦(Incest: From 'A Journal of Love)」
ミシェル・フーコーの「性の歴史、第2巻〜第3巻」
E.M.フォスターの「モーリス」(2005 Penguin Classics版)
ジャン・ドミニク・ボービーの「潜水服は蝶の夢を見る(The Diving Bell and the Butterfly)」(2007 Vintage International版)
等々……

と、同じ内容で版が異なると扱いが違っていたり、異性愛ものはオッケーだったり、ミシェル・フーコーをアダルト本とするのもすごいけど、「ビカミング・ア・マン」とか「孤独の泉」なんてセックス描写なんかただのひとつもないのですよ。支離滅裂というか、まあ、ゲイとかレズビアンとか付いたものを片っ端からアダルト分類して、とにかくホモレズ徹底除外っていう姿勢ですかね?

すでにこのランキング外しに抗議する署名運動がフェイスブックで盛り上がっています。
米国メディアも騒ぎ始めました。
まあ、いずれすぐにもアマゾンの意図が(さらにはきっと謝罪撤回が)出てくるでしょう。
なんと言い訳するのかしらね。
アマゾンの内部の一部過激分子が勝手にやったこと、とか言うのかしら?
まさかシステムの不具合とかっていうんじゃないでしょうね。
こんな恣意的な不具合なんてないもんなあ。
ちょっと楽しみ。(←意地悪)

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April 08, 2009

歴史的な採決

米北東部のバーモント州の州議会が7日、歴史を作りました。米国史上初めて採決によって同性婚の合法化を果たしたのです。これまでのマサチューセッツ、カリフォルニア、コネチカットの合法化は“過激派の最高裁判事”(By G.W.ブッシュ)による決定でしたからね。

バーモント州議会はじつは3月23日には州上院で、4月2日には州下院でそれぞれ同合法化案を可決していたのですが賛成票は拒否権に対抗できる数にまでは達していませんでした。そこで知事のジム・ダグラスが6日に拒否権を行使しこれを否決。しかし翌7日には、この拒否権の無効化に回る議員が増え、上院では23対5の圧倒的多数で、直後の下院でも100対49と、拒否権の無効に必要な3分の2以上の票を得て同性婚合法化案は再可決されたのです。

下院議長シャップ・スミスがこの最終投票結果を発表すると議場は大きな拍手喝采に包まれたようです。

そしていま、アイオワ州でも4月3日に州最高裁が判事全員一致で同性婚を禁じる州法を違憲とする裁定を行って、こちらの知事は最高裁の決定を尊重すると言っています。ですからこちらも合法化されます。

こうなると、カリフォルニアでのプロップ8が、いまさらながらバカみたいに見えてきます。だってアイオワですよ、アメリカ中部の田舎の代名詞みたいなところ、ハートランドですよ。

こういう、議会での同性婚賛成はここ数カ月でニューヨーク州、お隣のニュージャージー州、メイン州、ニューハンプシャー州でも増えてきています。次はきっとニューヨークとニュージャージーで議会による合法化がなされるでしょう。いやいや、戦いは佳境に入ってきました。

でもそれはすなわち、同性婚反対派がこれでまた恐怖をあおるキャンペーンを強化してくるということです。というか、もう、していますね。

下に映像をくっつけますので見てください。

これはゾンビではありません。死にそうな顔で同性婚合法化を憂う人たちです。すごいセンスです。言ってることも、「この問題をわたしたちの私生活に持ち込もうとしている」「わたしの自由が奪われる」「同性婚を認めない教会が政府によって罰せられる」「同性婚をオーケーと私の息子に教える公立学校の教師たちを親である私はただ黙って見ていることしかできない」ってめちゃくちゃ言いよるねん。揶揄ではなく、ほんとうにこの人たち、精神を病んでるのかしらって心配です。ほんとうに、ちゃんと病院に行くべきです。


March 20, 2009

ハートをつなごう

NHKの「ハートをつなごう」という番組のプロデューサーたちに先日の滞日の際にハーヴィー・ミルクの映画「ミルク」について寄稿を頼まれたのが出来ました。以下のリンクから、選んでください。

http://www.nhk.or.jp/heart-net/lgbt/kiji/index.html

どうぞご笑読を。

4月の公開が近づいたら、このページでまたいろいろとこの映画製作の舞台裏の話を掲載するつもりです。

わが尊敬する大塚隆史さんもおっしゃってましたが、この映画は、あの、やはりオスカーを受賞したすごいドキュメンタリー「ハーヴェイ・ミルク」と対を為すものですわね。これを機に、そっちもまた多くのひとが見ることになるといいと思います。私もじつは80年代の終わりに新宿ゴールデン街の飲み屋である映画関係の若い人にそのドキュメンタリーをビデオで渡されて推奨されるまで、ミルクという人物についてはほとんど知らなかったのです。てか、情報がなかったんだよね。

おもえばずいぶんといろんな情報がいろんな人の手によって紹介されるようになったもんです。たった20年ですが、隔世の感です。

November 26, 2008

読者からのあるコメント

清野さんという、このブログを読んでいてくれている方から、先日来の同性婚問題に関連して次のようなコメントが「白い結び目」のブログのコメント欄に書き入れられました。

わたしの論評は余計でしょう。
とても考えさせられる文書です。
みなさんにも読んでいただきたく、ここに再掲してご紹介します。

**

北丸さんおはようございます。早すぎますか?少しだけ私の後悔の話を聞いて下さい。

それは私がまだ23歳で大学を卒業して東京の会社に就職した年のことです。まだ新入社員研修をしていたばかりの頃、自分の不注意の為に会社内で事故を起こし入院し、手術ということになりました。大変な手術でした。

その入院中に会社の7年先輩のSさん(男性)が何度も見舞いに来てくれました。日々不安でいた私の所に特別何も言わなかったのですがよく来てくれていつしか仲良くなっていました。退院後も飲みに連れて行ってくれたり野球に連れて行ってくれたり、寄席やボウリングなど退社後や日曜日も先輩(これ以降彼と書きます)が連れていってくれました。お金も何事もないようにすべて彼が払ってくれていました。これは私が怪我をした事に対して気の毒と思っての事なのかな?と思っていました。また薄給の新人は会社ではこのように面倒みてもらえるものなのかな?と考えていました。実際他の先輩もよく私をドライブやスナックに連れて行ってくれていたのでそのようなものだと思っていました。

恋も知らず、社会も知らない私はまるでわかっていませんでした。その後も彼とは二人で旅行にも行きましたし、彼の家にも招待されたし、私のアパートに泊まりに来たこともありましたが私の中では仲が良い先輩の域を越えなかったし彼も何ももとめませんでした。ただ私を可愛がってくれるだけでした。

怪我の治りの悪かった私は普通の勤務が大変でこのまま会社に迷惑をかけ続ける事に対しても申し訳なく1年半後に決意して辞表を出しました。彼にも相談していましたが彼が何かを示唆することはありませんでした。

彼は変わらず引越しの準備を手伝い荷物を業者に出してくれたりといつものように私のすぐ近くにいてくれました。最後まで何も語らず、彼との別れが近づいていました。

山手線の電車に乗っていました。かなり混んでいました。私と彼は向き合うように立っていました。この電車を私が降りたら彼とはもう会えないと思ったら私の心の中から嗚咽のような感情が起こりました。涙が堰をきったように流れ出し電車の中で止まらなくなりました。そうすると彼がズボンのポケットからハンカチを出し私に渡し「返さなくていいから」といいました。私はもっと激しい涙がでてきました。そうするといつのまにか私の顎が彼の左肩にのっていました。そして彼はものすごくソフトに私を抱いていました。私はいつの間にか彼を抱きかえしていました。私の降りる駅まで彼は私を抱いていました。いやではありませんでした。私の降りる駅が来ました。何も言わず彼は私を降ろしました。でもいつもと違う顔でした。降りた私は暫くホームで涙が止まりませんでした。

それから私は次の日、田舎に帰りました。怪我の事で人生を失敗したような失意となんであんな会社に入ってしまったのだろうという悔しさで、会社の事はもう考えたくなくて電話もかけず、忘れたいという思いが私を包んでいました。2ヶ月後位にふいに彼から電話がありました。「なんで電話をかけないんだ?もっと電話をかけろよ。東京に出て来い」と言いました。いろいろと話しましたが、特に私の中で気持ちの変化はありませんでした。

それ以降私はその会社の事も彼の事もちっとも考えませんでした。東京に戻る気もありませんでした。彼からはその後電話はありませんでした。2年後位に彼が結婚して婿さんになったという噂をききました。でも遠い所の話のような感じでした。

それからまた何年もたち友人達との話のなかで私が「新人の頃はよかった。先輩に面倒みてもらったし、お金を自分で払った事もない」というと友人達から「そんな事はない」と言われました。「割勘だったよ」という話でした。旅行の話にしても電車の中の話にしても「それはその先輩がお前が好きだったんだよ」と断定されてしまいました。私もそうかな?と思い始めましたがそうではないだろうとも思います。ただ私のような者の為に彼が支払った金額は膨大だったのではないか?自分がその立場だったら後輩にそこまでやってあげる気がしませんでした。不意に彼の愛情に気がついてしまいました。私は子供だったと思いました。申し訳ないと思いました。謝らなければならない、感謝の気持ちを伝えなければならないと思いました。でも彼は会社も辞めて居所もわからなくなっていました。どうぞ彼が幸せでいて下さいといつも祈っています。

もしもあの頃、同性と結婚できる世の中だったら私は彼と結婚していたと思います。彼の幸せをそっと願うこともなく、今一人で寝るベットの中には彼がいて私が朝、目を醒ますと彼が「おはよう」と言ってくれる日常があったのではないかと思うのです。

November 20, 2008

白い結び目 WhiteKnot.org

カリフォルニア、ってわけではなく、アメリカでの同性婚の権利を支持しようという運動が新たな展開を見せています。

その中で、ホワイトノット運動というのが出てきました。
www.whiteknot.org
にアクセスすると詳細が書いてあります。

whiteknotad-300x250.jpgwhiteknotad-300x250-2.jpg

つまりこれ、白い結び目を作ったリボンを胸につけて、ゲイへの平等な権利を静かに支持を訴えるもの。

whiteknot.jpg

もちろんあのレッドリボンのバリエーションです。
白いリボンを結ぶってのが、「結婚」にもふさわしいでしょ。
いままさに始まろうとしている運動です。きっと、これは流行るね。
しかし、アメリカ人はこういうの考えるのうまいなあ。

作り方ですよ。

1)長さ15cm、幅2cm〜2.5cmほどの白いリボンを用意する。
2)真ん中部分で2度結びするんだけど、最初の結びをきつくすると2度目の結びで両端がそろえやすいですって。
3)両端を三角に、チョキの形に切り取る。こうするとほつれにくいし、きれい。
4)出来上がり、あとはこれを付けて外に出るだけ。

日本じゃまだだれもやってないでしょうね。
こっちでも始まったばかり。
どうぞお広めくださいな。

November 17, 2008

オルバーマン翻訳


Finally tonight as promised, a Special Comment on the passage, last week, of Proposition Eight in California, which rescinded the right of same-sex couples to marry, and tilted the balance on this issue, from coast to coast.

最後に、お伝えしていたとおり先週カリフォルニアで可決された提案8号のことについて特別コメントをします。同性カップルが結婚する権利を廃棄する、というものです。同性婚問題に関する均衡がこれで揺るがされました。全米で、です。

Some parameters, as preface. This isn't about yelling, and this isn't about politics, and this isn't really just about Prop-8. And I don't have a personal investment in this: I'm not gay, I had to strain to think of one member of even my very extended family who is, I have no personal stories of close friends or colleagues fighting the prejudice that still pervades their lives.

前置きとしてわたしの基準を言います。これはエールを送っているのでもなく、駆け引きをしようとしているのでもなく、そして本当は単に提案8号のことでもありません。わたしにはこの問題に関して個人的な思い入れもありません。わたしはゲイではないし、自分の家族親族の中にゲイがいるかと考えると、ずいぶんと範囲を広げても考え込んでしまうほどです。近しい友人や同僚たちの中に彼らの暮らしにいまも影を落とすこの偏見と闘っている者がいる、という私的なエピソードもありません。

And yet to me this vote is horrible. Horrible. Because this isn't about yelling, and this isn't about politics. This is about the human heart, and if that sounds corny, so be it.

しかし、そうではあっても、この投票はひどい。ひどすぎる。なぜならこれはエールでも駆け引きでもなく、人間の心の問題だからです。もしこの言い方が陳腐だと言うならば、そう、陳腐で結構。

If you voted for this Proposition or support those who did or the sentiment they expressed, I have some questions, because, truly, I do not understand. Why does this matter to you? What is it to you? In a time of impermanence and fly-by-night relationships, these people over here want the same chance at permanence and happiness that is your option. They don't want to deny you yours. They don't want to take anything away from you. They want what you want—a chance to be a little less alone in the world.

もしあなたがこのプロポジションに賛成票を投じたのなら、あるいは賛成した人を支持する、あるいはその人たちの表明する意見を支持するのなら、わたしはあなたに訊きたいことがある。なぜなら、ほんとうに、わたしには理解できないからです。どうしてこの問題があなたに関係あるんですか? これはあなたにとって何なんですか? 人と人との関係が長続きもせず一夜で終わってしまうような時代にあって、ここにいるこの人たちはただ、あなたたちが持っていると同じ永続性と幸福のチャンスを欲しいと思っているだけです。彼らはあなたに対し、あなたの関係を否定したいと思っているのじゃない。あなたたちからなにものかを奪い取りたいわけでもない。彼らはあなたの欲しいものと同じものを欲しいと思っているだけです。この世にあって、少しばかりでもさみしくなくいられるようなチャンスを、です。

Only now you are saying to them—no. You can't have it on these terms. Maybe something similar. If they behave. If they don't cause too much trouble. You'll even give them all the same legal rights—even as you're taking away the legal right, which they already had. A world around them, still anchored in love and marriage, and you are saying, no, you can't marry. What if somebody passed a law that said you couldn't marry?

それをあなたは彼らにこう言う──だめだ。そういう関係では結婚は許されない。ただ、行儀よくしているならば、きっと似たようなものなら。そんなに問題を起こさないなら、あるいは。そう、まったく同じ法的権利をあなたたちは彼らに与えようとさえするんでしょう。すでに彼らが持っていた法的権利を奪い取るのと引き換えに。彼らを取り巻く世界はいまも愛と結婚に重きを置くくせに、しかしあなたたちが言うのは、ダメだ、きみらは結婚できない。もしだれかがあなたは結婚できないと断じる法律を成立させたら、どういう気持ちですか?

I keep hearing this term "re-defining" marriage. If this country hadn't re-defined marriage, black people still couldn't marry white people. Sixteen states had laws on the books which made that illegal in 1967. 1967.

ずっと聞いているのは、結婚の「再定義」ということばです。もしこの国が結婚を再定義してこなかったなららば、黒人は白人といまでも結婚できていないはずです。1967年時点で、16の州がそれを違法とする成文法を持っていたんです、1967年に。

The parents of the President-Elect of the United States couldn't have married in nearly one third of the states of the country their son grew up to lead. But it's worse than that. If this country had not "re-defined" marriage, some black people still couldn't marry black people. It is one of the most overlooked and cruelest parts of our sad story of slavery. Marriages were not legally recognized, if the people were slaves. Since slaves were property, they could not legally be husband and wife, or mother and child. Their marriage vows were different: not "Until Death, Do You Part," but "Until Death or Distance, Do You Part." Marriages among slaves were not legally recognized.

この合州国の次期大統領になる人の両親は、彼らの息子がいずれこの国の指導者になろうと成長しているそのときに、この国の3分の1近くの州では結婚できなかったのです。いや、もっとひどいことがある。もしこの国が結婚を「再定義」してこなかったなら、黒人のある人々は他の黒人ともいまも結婚できていなかった。それはほとんどの人々が見逃しがちな、われわれの悲しむべき奴隷制度の歴史の最も冷酷な部分の1つです。なぜなら奴隷は所有物だったから、彼らは法的には夫にも妻にもなれなかった。あるいは母にも子供にもなれなかった。彼らの結婚の誓いは違うものだったのです。「死が汝らを分かつまで」ではなく、「死が、あるいは売り渡される距離が、汝らを分かつまで」だった。奴隷間の結婚は法的には認められていなかったのですから。

You know, just like marriages today in California are not legally recognized, if the people are gay.

そう、ちょうど、カリフォルニアの結婚が今日、もしゲイならば、法的に認められなくなったのと同じです。

And uncountable in our history are the number of men and women, forced by society into marrying the opposite sex, in sham marriages, or marriages of convenience, or just marriages of not knowing, centuries of men and women who have lived their lives in shame and unhappiness, and who have, through a lie to themselves or others, broken countless other lives, of spouses and children, all because we said a man couldn't marry another man, or a woman couldn't marry another woman. The sanctity of marriage.

われわれの歴史の中で、世間に強いられて異性と結婚したり、偽装結婚や便宜上の結婚や、あるいは自分でもゲイだと気づかないままの結婚をしてきた男女は数知れません。何世紀にもわたって、恥と不幸にまみれて生き、自分自身と他人への嘘の中でほかの人の人生を、その夫や妻や子供たちの人生を傷つけてきた男女がいるのです。それもすべては、男性は他の男性と結婚できないがため、女性が他の女性と結婚できないがためなのです。結婚の神聖さのゆえなのです。

How many marriages like that have there been and how on earth do they increase the "sanctity" of marriage rather than render the term, meaningless?

いったいそんな結婚はこれまでいくつあったのでしょうか? それで、そんな結婚がいったいどれほど結婚の「神聖さ」を高めているというのでしょうか? むしろそれは「神聖さ」をかえって無意味なものにしているのではないのか?

What is this, to you? Nobody is asking you to embrace their expression of love. But don't you, as human beings, have to embrace... that love? The world is barren enough.

これは、あなたにとって何なのですか? だれもあなたに彼らの愛情表現を信奉してくれとは言っていません。しかしその愛を、人間として、あなたは、祝福しなくてよいのですか? 世界はもうじゅうぶんに不毛なのに。

It is stacked against love, and against hope, and against those very few and precious emotions that enable us to go forward. Your marriage only stands a 50-50 chance of lasting, no matter how much you feel and how hard you work.

愛は追い込まれています。希望もまた。わたしたちを前進させてくれるあの貴重で数少ない感情が、劣勢にあるのです。あなたたちの結婚は50%の確率でしか続かない。どんなに思っていても、どんなにがんばっても。

And here are people overjoyed at the prospect of just that chance, and that work, just for the hope of having that feeling. With so much hate in the world, with so much meaningless division, and people pitted against people for no good reason, this is what your religion tells you to do? With your experience of life and this world and all its sadnesses, this is what your conscience tells you to do?

そうしてここに、その50%の見込みに、そのがんばりの可能性に、そしてその思いを持てることの希望に大喜びする人たちがいるのです。世界に蔓延する憎悪や無意味な分裂や正当な理由もなくいがみ合う人々を目にしながら、これがあなたの宗教があなたに命じた行為なのですか? これまでの人生やこの世界やそのすべての悲しみを知った上で、これがあなたの良心があなたに命じたことなのですか?

With your knowledge that life, with endless vigor, seems to tilt the playing field on which we all live, in favor of unhappiness and hate... this is what your heart tells you to do? You want to sanctify marriage? You want to honor your God and the universal love you believe he represents? Then Spread happiness—this tiny, symbolic, semantical grain of happiness—share it with all those who seek it. Quote me anything from your religious leader or book of choice telling you to stand against this. And then tell me how you can believe both that statement and another statement, another one which reads only "do unto others as you would have them do unto you."

人生というものが、むしろ不幸や憎悪の方を味方して、私たちみんなの拠って生きる平等な機会を何度も何度も揺るがしがちだと知っているくせに、それでもこれが、あなたの心があなたにこうしろと言っていることなのですか? あなたは結婚を聖なるものにしたいのでしょう? あなたはあなたの神を崇め、その神が体現するとあなたの信じる普遍的な愛というものを栄光に包みたいのでしょう? それなら、幸せを広めなさい。このささやかで、象徴的で、意義のある、一粒の幸せを広めてください。そういう幸せを求めるすべての人たちと、それを共有してはどうですか。だれか、あなたの宗教的な師でもいい、然るべき本でもよい、そんな幸せに反対せよとあなたに命じているものがあるとしたらなんでもいい、それをわたしに教えてほしい。そうして、どうしてその教えと、もう1つの教えの、両方をあなたが同時に信じていられるのかを教えてください。「自分が為してほしきものを他人に為せ」という教えです。

You are asked now, by your country, and perhaps by your creator, to stand on one side or another. You are asked now to stand, not on a question of politics, not on a question of religion, not on a question of gay or straight. You are asked now to stand, on a question of love. All you need do is stand, and let the tiny ember of love meet its own fate.

あなたはいま、あなたの国によって、そしてたぶんあなたの創造主によって、どちらかの側に立つようにと言われています。あなたは、政治の問題ではなく、宗教の問題でもなく、ゲイとかストレートとかの問題でもなく、どちらかに立つように求められているのです。何に基づいて? 愛の問題によってです。行うべきことはただ立つこと。そうしてそのささやかな愛の燃えさしが自身の定めを全うすことができるようにしてやることです。

You don't have to help it, you don't have it applaud it, you don't have to fight for it. Just don't put it out. Just don't extinguish it. Because while it may at first look like that love is between two people you don't know and you don't understand and maybe you don't even want to know. It is, in fact, the ember of your love, for your fellow person just because this is the only world we have. And the other guy counts, too.

べつにそれを手助けする必要はありません。拍手を送る必要もない。そのためにあなたが戦う必要もない。あなたはただ、その火を消さないようにしてほしい。消す必要はないのです。最初はそれは、あなたの知らない2人の人間のあいだの愛のように見えるかもしれない。あなたの理解できない、さらにはきっと知りたくもない2人の人間の愛です。しかしそうすることはあなたの、仲間の人間に対する愛の残り火なのです。なぜなら、私たちにはこの世界しかないのですから。その中でほかの人がそれをこそ頼りにしているのですから。

This is the second time in ten days I find myself concluding by turning to, of all things, the closing plea for mercy by Clarence Darrow in a murder trial.

この10日間で、こともあろうにこのコーナーを、ある殺人犯裁判での弁護人クラレンス・ダローの、慈悲を求めた言葉で閉じるのは2度目です。

But what he said, fits what is really at the heart of this:

しかし彼の言ったことは、この問題の核心にじつにふさわしい。

"I was reading last night of the aspiration of the old Persian poet, Omar-Khayyam," he told the judge. It appealed to me as the highest that I can vision. I wish it was in my heart, and I wish it was in the hearts of all: So I be written in the Book of Love; I do not care about that Book above. Erase my name, or write it as you will, So I be written in the Book of Love."

彼は裁判官に向かってこう言っています。「わたしは昨晩、昔のペルシャの詩人オマル・ハイヤームの強い願いについて読んでいました」と。「それはわたしの想像しうる至高の希求としてわたしに訴えかけてきました。それがわたしの心の中にあったなら、そしてそれがすべての人々の心の中にもあったならと願わざるを得ません。彼はこう書いています;故に、我が名は愛の書物(the Book of Love)の中に刻みたまえ。あの天上の記録(Book above)のことは関知せず。我が名が消されようが、好きに書かれようが、ただしこの愛の書物の中にこそは、我が名を記したまえ」

November 12, 2008

キース・オルバーマン

MSNBCのニュースキャスターです。
翻訳してここに載せようとしたのですが、時間がなくて、まずはとにかく掲載したほうがよいと判断しました。
英語のわからない人も、彼の言いたい気持ちは伝わると思います。

自分はゲイでもなんでもないし、家族にもゲイはいないが、あのプロポジション8は、「ホリブル、ホリブル!(ひどい!)」と繰り返します。「これは人間の心の問題だ。この私の言葉が陳腐に聞こえると言うなら、陳腐に聞いていろ」と言います。そして「ゲイたちの愛が、あなたたちに何の関係があるんだ? あなたたちから何を奪うというのだ!」と続けるのです。どうしてそれを規制しようというのか、と。1967年に、アメリカでは黒人と白人の結婚できない州が16州もあった。奴隷は結婚を認められていなかった。あなたはそれと同じ不自由をゲイに強いているのだ、と言っています。

筑紫哲也が死にましたが、「少数派」を援護して来た彼なら、日本でも同じことを言ったでしょうか。
言ったかもしれませんね。勢いや情感は違うにしても。
この提案8号、日本ではあまり話題になっていないのでしょうか。

長いですが、まずは見てください。


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November 08, 2008

now he sings, now he sobs

こういう写真を見せられるとげんなりします。

喜ぶ禁止派1.jpg禁止派2.jpg

これは、カリフォルニアで同性婚を禁止する「プロポジション8(提案8号)」に対し、住民投票が賛成多数に傾いて快哉を叫ぶ人たちです。

オバマがアメリカの次期大統領に選ばれたとき、この国の黒人たちの多くが涙していました。黒人といってもみんながみんな同じ境遇にあるわけでもなく、それぞれに生活信条も態度も性格も思想も違うでしょうからいっしょくたに「黒人」という枠をはめることはできません。けれどこの夜、黒人たちは「黒人」だった。彼らに共通する「肌の色の歴史」を共有していた。それはぬぐい去れぬなにものかとして彼らのどこかにいまもあるのでしょう。その「負」が解放されて、彼らは涙したのです。

同じその日に、その制約を、その強制された「負」を、同性愛者たちはふたたび突きつけられました。当選したオバマが「黒人のアメリカもアジア系のアメリカも、ゲイのアメリカもストレートのアメリカもない。あるのはただユナイテッド(1つにまとまった)ステーツ・オブ・アメリカだ」と勝利宣言したと同じその日に、ストレートのアメリカがゲイのアメリカを否定したのです。

カリフォルニアではすでにこの4カ月半で1万8千組の同性カップルが結婚しています。彼ら/彼女たちの生活を、強奪する偏狭と非道とを、寛容と慈愛を説く宗教者たちが行いました。いまロサンゼルスでは、それを主導したモルモン教会に抗議のデモが続いています。モルモン教会は警官が警護する事態になっている。

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サンフランシスコでは市庁舎の前で多くのゲイたちがキャンドルを持って集まっています。まるであの、暗殺されたハーヴィー・ミルクのあの時のように。もう、ひとのよいゲイであることはやめにしたい、と。

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カリフォルニア各地で、いま抗議行動の呼びかけが飛び交っています。

同性婚禁止のこのニュースを聞いて、友人の1人が言っていました。
「悲しみ、ってきっと、大きな力になるんだね。その力が何かを変えて行くことを祈ろう。」

**

この州民投票(同性婚禁止提案)に反対運動を繰り広げていた「No on Prop 8」からカリフォルニアの友人に届いた手紙を紹介します。

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Dear Colin,
親愛なるコリンへ

We had hoped never to have to write this email.
このメールを書くなんてことがなければよいと願っていました。

Sadly, fueled by misinformation, distortions and lies, millions of voters went to the polls yesterday and said YES to bigotry, YES to discrimination, YES to second-class status for same-sex couples.
悲しいことに、偽情報と歪曲と嘘によって、数百万人の投票者が昨日、投票所に行ってこの偏見に「YES」を投じました。差別に「YES」と、同性カップルを第二級市民にすることに「YES」と投じたのです。

And while the election was close, and millions of votes still remain uncounted, it has become apparent that we lost.
開票の結果は接戦でいまだ数百万の投票が数えられていなかったながらも、だんだんと私たちの敗北は明らかになってきました。

There is no question this defeat is hard.
この敗北がつらいものであることに疑いはありません。

Thousands of people have poured their talents, their time, their resources and their hearts into this struggle for freedom and this fight to have their relationships treated equally. Much has been sacrificed in this struggle.
数千もの人々が自由のためのこの苦闘に、自分たちの関係が平等に扱われるためのこの戦いに、その才能と持てる時間と持てる資金とその心とを注ぎ込んでくれました。

While we knew the odds for success were not with us, we believed Californians could be the first in the nation to defeat the injustice of discriminatory measures like Proposition 8.
たとえいま勝算は私たちにないと知ってはいても、私たちは、カリフォルニア州民がこの国で最初にプロポジション8のような差別的な措置の不正を打ち砕くはずだと信じています。

And while victory is not ours this day, we know that because of the work done here, freedom, fairness and equality will be ours someday. Just look at how far we have come in a few decades.
たとえ今日勝利は私たちのものではないにしても、私たちは、ここでなされた私たちの努力のゆえに、自由と公正と平等がいつか私たちのものになるだろうと知っています。この数十年で私たちがどこまで来たか、それを見るだけで。

Up until 1974 same-sex intimacy was a crime in California. There wasn't a single law recognizing the relationships of same-sex couples until 1984 -- passed by the Berkeley School District. San Francisco did not pass domestic-partner protections until 1990; the state of California followed in 2005. And in 2000, Proposition 22 passed with a 23% majority.
1974年まで、同性間で親愛の情を示すことはカリフォルニアでは犯罪でした。同性間カップルの関係を認知した法律は1984年まで、バークリー学校区で可決されるまで、ただの1つもありませんでした。サンフランシスコがドメスティックパートナーの保護規定を可決したのは1990年のことでした。カリフォルニア州がそれに続いたのは2005年のことです。それに2000年には、プロポジション22は23%ポイントの差をつけて可決されていました【訳注:今回のプロップ8と同様に同性婚禁止を謳った州民投票提案。当時は61.5%対38.5%で可決】。

Today, we fought to retain our right to marry and millions of Californians stood with us. Over the course of this campaign everyday Californians and their friends, neighbors and families built a civil rights campaign unequalled in California history.
今日、私たちは私たちの結婚の権利を保持するために戦い、その私たちに数百万のカリフォルニア州民が加勢してくれました。毎日このキャンペーンを続ける中、カリフォルニア州民とその友人たち隣人たちそしてその家族たちは、カリフォルニア史上比類のない公民権運動を形作っていきました。

You raised more money than anyone believed possible for an LGBT civil rights campaign.
あなたたちはLGBTの公民権運動でだれひとり可能だとは思わなかったような多額の資金を集めてくれたました。

You reached out to family and friends in record numbers -- helping hundreds of thousands of Californians understand what the LGBT civil rights struggle is really about.
あなたたちはこれまでにない数の家族や友人たちにリーチアウトしてくれました──そのことで数十万人ものカリフォルニア州民がLGBTの人権というものがほんとうはどういうものか、それを理解する助けにできたのです。

You built the largest grassroots and volunteer network that has ever been built -- a coalition that will continue to fight until all people are equal.
あなたたちはこれまでで最大の草の根ボランティアのネットワークを作り上げてくれました──それは、すべての人間が平等になるまで戦い続ける共同体です。

And you made the case to the people of California and to the rest of the world that discrimination -- in any form -- is unfair and wrong.
そしてあなたたちが、カリフォルニアの人たちに、そして世界中の人たちに、差別はいかなる形でも不正で間違いだと教えてくれたのです。

We are humbled by the courage, dignity and commitment displayed by all who fought this historic battle.
この歴史的な戦いを戦ってくれたすべての人々の勇気と誇りと献身とに身が引き締まる思いです。

Victory was not ours today. But the struggle for equality is not over.
勝利は今日は私たちのものではありませんでした。しかし平等のための戦いは終わっていません。

Because of the struggle fought here in California -- fought so incredibly well by the people in this state who love freedom and justice -- our fight for full civil rights will continue.
ここカリフォルニアで戦われたこの苦労ゆえに、自由と正義を愛するこの州の人々によって信じられないほど果敢に戦われたこの苦闘ゆえに、完全な人権を求める私たちの戦いは続くのです。

Activist and writer Anne Lamott writes, "Hope begins in the dark, the stubborn hope that if you just show up and try to do the right thing, the dawn will come. You wait and watch and work: you don't give up."
活動家で作家のアン・ラモットが次の一節を書いています。「希望は闇の中で始まる。ただ姿を見せて正しいことをしようとすれば、それだけで夜明けは来る、と思う揺るぎない希望。だから待って、見て、頑張って。諦めてはいけない」

We stand together, knowing... our dawn will come.
私たちはともにいます。私たちの夜明けはやってくると知っています。


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Dr. Delores A. Jacobs
CEO
Center Advocacy Project

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Lorri L. Jean
CEO
L.A. Gay & Lesbian Center

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Kate Kendell
Executive Director
National Center for Lesbian Rights

GK_signature_gd.gif
Geoff Kors
Executive Director
Equality California

**

わたしからも引用を1つ。
これは、あの『Queer as Folk』でデビーが言っていたことです。

Mourn Loss's Because There's Many
...Celebrate Victory Because There's Few.

喪われたものを悼め、なぜならそれは数多いから
しかし、勝利は祝え、なぜならそれは数少ないから

August 24, 2008

マシュー・ミッチャムが金メダル!

北京五輪でゲイだと公言している唯一の男子選手(オープンリーレズビアンは9人いますけどね,男はカムアウトできないんだなあ)、オーストラリアのマシュー・ミッチャム(20)が、10m高飛び込みで、圧倒的な強さを誇る中国勢の一角を崩してなんと見事に金メダルを獲得しました。
現在発売中のバディに彼のこれまでの歩みを書いていますので合わせてご笑読を。

決勝は、ものすごく劇的な展開でした。
18日の3mの飛び込みではマシューは決勝にも残らない16位だったんだけど、23日の10mの決勝には2位で乗り込んでいました。「まあ、ダメ元だと思ってリラックスして、ただこの瞬間を楽しもうと思った。メダルなんて、ぜんぜん考えてなかった」と話しています。

で、決勝の第1回ダイブは平凡なもので7点台、8点台の得点で9位でスタート。先行きが危ぶまれます。
しかし第2回の飛び込みで3回転半のサマーソルトを決めて10点満点を付けたジャッジが4人も。これで一気に2位に浮上したのです。
以後5回まで1位は中国の周がキープ。マシューは2位で0.8ポイント差で追うけれど、このままでは逆転は無理かと思われました。

ところが最終ラウンドで周が痛恨のミス。なんちゅうの、3回転半後ろ宙返り? 難易度3.4のその着水で体が曲がったのね。判定は6,7,8点台とまちまち。

ここでマシューは勝負に出ます。なんと難易度3.8と周を上回る難しい飛び込みを敢えて選び、しかもひねりも空中姿勢も完璧は着水。今度もまた4人から10点満点! これで112.10点を獲得し、周を4ポイントも追い抜いてみごと金を獲得したのです。

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これはゴールドメダルを決めたマシューの飛び込みです=NYタイムズなどから。

水から上がったマシューは得点を見て両手を突き上げて歓喜、しかしすぐに膝から落ちて泣き始めました。そうだわねえ、鬱病にもなったつらい練習からの復活だもの。恋人のラクランもマシューのお母さんといっしょにもちろんこの会場で彼を見つめていました。

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今大会、中国は飛び込みで8つの金メダルを独占するつもりでいました。その夢が20歳のオープンリーゲイの男の子に破られた。

飛び込み選手の選手生命のピークはふつう20歳代半ばです。つまり、マシューは次のロンドンでも連覇を狙う、いやその次の16年の五輪でも登場してくるでしょう。

なんだか、関係ないけど、うれしい。
ダイビングの金は過去に20年前のソウル五輪で連覇のグレッグ・ルゲイナスがいるけれど、彼は金を取ってからのカムアウトでした。それに比べると、時代も世代も遅々としながらも確実に変わっています。うーん。感慨深いなあ。

April 22, 2008

ゲイのペンギンのカップルの絵本

次のような文章を、3年前に、いつか書くかもしれない小説かなんかの挿話として書き置いたことがあります(ってか、ずいぶんと小説、書こうという気が起きてないなあ)。その絵本を読んだいつかの幼稚園児が、いずれ時がたって次のように気づくことを願って。

 同性愛のひとのカップルをこの目で初めて見たとき、ぼくはなぜかペンギンのカップルの姿を連想をした。で、それからも彼らに会うたびにずっと二羽のペンギンの姿が頭に浮かんだ。なぜだったのか、それからしばらくしてからわかった。ずっとずっとまえ、幼稚園のときに見た絵本のせいだ。そこにはオス同士のペンギンのカップルが仲良く二羽で暮らして、捨てられた卵まで孵したっていう物語が描かれていた。

 そう思い出したとき、同性愛のひとのカップルを見たのは彼らが最初ではなかったんだと気づいた。あの幼稚園の園長先生と若先生、ナギ先生とかいったっけ、あの2人も、カップルだったんじゃなかったのかって。

 そのとき、ぼくの頭の中でなんだかいっせいに世界の見え方が変わった。吹雪の中でぴったり身を寄せて立ち尽くす、目に見えない牡ペンギンや牝ペンギンのカップルが、あちこちにいっせいに見えだしたような気がしたんだ。

そのエピソードはたしか、アメリカで次のような絵本が出版されたのに触発されて書いたもんだったんですね。
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その本は翌年2006年に、スペイン語にも翻訳された。
tango_spanish.jpg
それがいま、日本語にもなりました。

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この物語の基になってるのはじつは実話なんですね。あのころ、ニューヨークではセントラルパークの動物園やコニーアイランドの水族館でオス同士のペンギンカップルが大きなニュースになりました。まあ、自然界には、とくに鳥類には同性同士のカップルがよく見られているんですが(同性愛は反自然というテーゼはすでに科学的には破綻してるんです)、そのセントラルパークのペンギンカップル、ロイとシロが、卵によく似た石を何日も温めるので、見かねた飼育係が別に産み落とされて親ペンギンに捨てられてしまった卵を彼らの巣に入れたところ、ひな娘のタンゴが生まれたんです。「and Tango makes three」はつまり、It takes two to tango (タンゴを踊るには2人が必要)というフレーズがあるんだけど、そのタンゴを踊ったら3人になっちゃった、っていう意味なんですよね。ちょっといい話。

翻訳したのは去年の参院選に民主党から立候補した前大阪府議、尾辻かな子さんら。
出版社はポット出版。

アマゾンでも買えるよ。

http://www.amazon.co.jp/タンタンタンゴはパパふたり-ジャスティン-リチャードソン/dp/478080115X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208797882&sr=8-1

また、東京・大阪で出版記念パーティーも予定されているようです。

◇【東京開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年4月27日(日)17:00~19:00
会場:九州男(くすお)
   新宿区新宿2-17-1サンフラワービル3F  
   電話03-3354-5050
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇【大阪開催】━━━━━━━━━━━━━━
日時:2008年5月11日(日)15:00~17:00
会場:Village(ビレッジ)
   大阪市北区神山町14-3アド神山2F
電話 06-6365-1151
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

会費:3,000円(絵本+1ドリンクつき)
主催:尾辻かな子とレインボーネットワーク

翻訳の尾辻かな子、前田和男両氏の挨拶の他、ゲストを交えてのトークショーも予定しているらしいです。時間と興味があったらどうぞ。

February 25, 2008

オスカー、レッドリボン、同性カップル

つらつらと横でアカデミー賞授賞式をつけながら原稿書きをしていると、時折映る会場の列席者の襟元にちらほらとレッドリボンがつけられているのに気づきます。日本ではなんだかすっかり流行り廃りのなかで忘れ去られてしまっている感のあるこの赤いリボンはもちろんエイズ禍へのコミットメントを示すもので、そりゃたしかに歳末の助け合い共同募金の赤い羽根のように政治家が襟元につけて国会のTV中継で映るようにする、みたいな善意のアリバイみたいなところもあるけれど、しかしハリウッドが被ったエイズ犠牲者の多さを考えればきっと、これらの人びとにとってはけっしてアリバイ作りのための仕草ではないのだろうなと思い至るのです。

思えばアカデミー賞の授賞式はこれまでも戦争や宗教や社会問題へのハリウッドの若い世代からのメッセージの場でもありつづけてきました。たしかにみんな大した俳優や制作者ではあるんだけど、よく見れば20代とか30代とかも多くて、そんな人びとの若い正義感のほとばしりが現れてもなんら不思議ではない。で、レッドリボンをつけている人たちは80-90年代は若かったけれど、いまは決してそう若くはないなあってことにも気づくのです。

エイズが死病ではないという謂いは、1995年のカクテル療法の成功から生まれてきました。当初はそれはやっとの思いの祝辞として、あるいはエイズ差別への対抗言説として宣言されたものだったのですが、人間というものはなかなか深刻だらけでは生きられないもんで、いつしか「死病ではない」が「恐れるに足らず」と翻訳され、「べつに大したことのないこと」となって、まあ、安心して生きたいのでしょう。いま、日本ではエイズ教育はどうなっているのかなあ。政府による啓発広報はなんだかいつもダサくておざなりで、いまも続いているのだろうか。ゲイコミュニティの中では善意の若者たちがいまも懸命にいろいろな形の啓発活動を模索しているけれど、その間にも日本のHIV感染者は特に若い世代で静かに確実に増えています。だって、社会全体が騒いでいないんだもの、ゲイコミュニティだけで笛を吹いたって気分はあまり踊らない。

学校で、エイズ教育してるのかなあ。あるいは性感染症に関することも。
ずっとエイズ啓発は教育現場で地道に続けることこそがゆいいつの方法論だって言い続けているのですが、でもね、そういうものはとりもなおさず性教育のことであり、セックスのことって、よほど信頼しているひとからじゃないと真面目に聞く耳なんか持てないもんなのです。だれが尊敬もしていない先生からセックスの話題なんて聞きたいもんか。だから大変なんですよね、性教育って。それを教える人間の、人間性の全体重が測られるから。

まあ、そんなアメリカだってエラいことは言えません。こっちだって若年層のHIV感染者は増加傾向にあるんですから。

今年のオスカーは、じつは候補作で私の見たのは「ラタトゥーユ(レミーの美味しいレストラン)」と「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(クリックしたら感想ブログに飛びますよん)くらいで、あまり関心がなかったのですが、両作とも健闘して受賞してましたから(特にマリオン・コティヤールの主演女優賞はアメリカの人びとには驚きだったようです)なかなか効率の良い見方でしたね。

ところで短編ドキュメンタリーで受賞した作品「Freeheld」は不覚にも知りませんでした。ダメだなあ。

ローレル・ヘスターはニュージャージー州で25年間、警官を務めて警部補になった女性です。映画制作(2006年)の6年前からパートナーを得てともに家庭を築いてきました。パートナーはステイシー・アンドリーという女性です。ところがローレルはそこで肺がんと診断されます。ローレルの願いは、自分の死後もステイシーが自分の遺族向けの死亡見舞金を得られるようにということでした。計13,000ドル(140万円)ほどの金額はけっして以後の生活に十分な金額というものではありませんが、少なくとも2人の思い出の家を維持してゆくだけの助けにはなる。ところが、居住地のオーシャン郡の代議員会はその死亡見舞金の受給資格を否定するのです。余命6カ月のローレルとステイシーは、もはやレズビアンであることを隠すことなく公の場で戦いに出る道を選びます。

こんなに愛し合っている2人を、否定する、否定できる人間がいるということは知っています。だからこそ、この38分のドキュメンタリーは作られたのでしょう。私たちには、それを見て受け止める作業が差し出されているのです。

この訴訟が1つのきっかけとなり、ニュージャージー州では6つの郡が法律を変えて同性パートナーにも年金受給資格を与えるようになりました。そしてローレルの死後9カ月後に、ニュージャージー州は州としてシヴィルユニオン法を可決したのです。

監督のシンシア・ウエイドの受賞スピーチです。

彼女自身はヘテロセクシュアルの既婚女性です。でも、スピーチでは「結婚している女性としての私は直面することのない差別に、この国の同性カップルが直面している」として、この映画をローレル・ヘスターの生前の遺言だと紹介しています。会場にはもちろんステイシーもやってきていたんですね。

今回のオスカーでも受賞コメントでのさりげないカムアウトがいくつかありました。ビデオを撮ってなかったので正確に確認できないのだけれど、作品賞も取った「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」のプロデューサーは、ステージ上で感謝する相手として最後に自分のパートナーとして「ジョン・なんとか」って名前を出し「ハニー」と呼びかけたのだけれど、「ジョン」だったのか「ジョーン」だったのか。なにせながら族でしたのでちょっといまは確認できず。
(確認しました。そのプロデューサーはスコット・ルーディンScott Rudinで、たしかにパートナーのジョンに向けて最後の最後にどさくさ紛れで「ハニー」って叫んでました。うふふ、よかったねスコットちゃん)

司会のジョン・スチュワートはゲイジョークとして楽屋裏で受賞した喜びでオスカー像同士をキスさせようとしている受賞者同士の会話を紹介してました。「でも、オスカーって男性よ」と1人。「そうね、でも、ここはハリウッドだから」と相手が言っていた、というもんです。ま、ネタでしょうけどね。

そうやって今年のオスカーも終わりました。地味目でしたね。
恒例の鬼籍に入った映画関係者の映像の最後に、ヒース・レッジャーが映りました。
なんだか胸が詰まりました。
でも例年になく、一人一人の映像が短かったような気がします。
で、ブラッド・レンフロがこの追悼映像リストになかったのは、どうしてでしょうね。忘れられちゃったんだろうかなあ。

February 20, 2008

最高裁は失礼だ

ロバート・メイプルソープの写真集が「猥褻ではない」とのお墨付きを日本の最高裁からいただいて、そりゃそうだ当然だと反応するのはちょっと違うんでないかいと思います。

以下、朝日・コムから


男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分

 米国の写真家、ロバート・メイプルソープ氏(故人)の写真集について「男性器のアップの写真などが含まれており、わいせつ物にあたる」と輸入を禁じたのは違法だとして、出版元の社長が禁止処分の取り消しなどを国に求めた訴訟の上告審判決が19日あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「写真集は芸術的観点で構成されており、全体としてみれば社会通念に照らして風俗を害さない」とわいせつ性を否定。請求を退けた二審・東京高裁判決を破棄し、輸入禁止処分を取り消した。

 同じ作品を含む同氏の別の写真集について、最高裁は99年に「わいせつ物にあたる」として輸入禁止処分は妥当と判断していた。今回の判断には、わいせつをめぐる社会の価値観が変化したことが影響しているとみられる。

 堀籠幸男裁判官は「男女を問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。多数意見は写真集の芸術性を重く見過ぎている」との反対意見を述べた。

 訴訟を起こしていたのは東京都内の映画配給会社「アップリンク」の浅井隆社長(52)。99年に浅井さんがこの写真集を持って米国から帰国した際、成田空港の税関から関税定率法で輸入が禁じられた「風俗を害すべき書籍、図画」にあたるとされ、没収された。

 写真集は384ページに男性ヌードや花、肖像など261作品を収録。税関はこのうち計19ページに掲載され、男性の性器を強調したモノクロの18作品を「わいせつ」とした。

 この判断に対し、02年1月の一審・東京地裁判決は「芸術的な書籍として国内で流通している」と処分を取り消し、70万円の賠償を国に命じた。しかし、03年3月の二審・東京高裁判決は「健全な社会通念に照らすとわいせつだ」として原告の逆転敗訴としていた。

 第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い——などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。

****

うーむ、アップリンクの浅井さんは、じつはこれを裁判を起こそうと思って仕組んだのですね。わざと国内での5年もの販売実績を作り、この写真集が公序良俗を紊乱していないという土台を築いてから外国に持ち出して再度入国した際にこれを摘発させるという手の込んだ作戦を練っていた。これは見事です。ですから、政治的にはこの最高裁の判断を導いた浅井さんには「でかした!」の賛辞を贈るにやぶさかではありません。

そのうえで、でも、本来は猥褻とはどういうものなのか、という点も浅井さんはわかっていらっしゃると思います。国家権力が定義するなんて、しゃらくせえ、って思ってらっしゃるわけだ。だから、これはあくまでも社会的な価値判断の変革を形にするための戦略的権謀術数なわけで。

では本質的にはどういうことなのか。
メイプルソープが、男性器とともに、どうしてああも多くの花の写真を撮ったか、というのは、それは美しいからです。
でも、花がどうして美しいのか?
それはあれが性器だからです。そう、最高裁まで争った人間の男性器と同じものなのですね。
あんなに卑猥な写真集はありません。まさに堀籠幸男裁判官がいうように「おしべめしべを問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。写真集の芸術性に誤魔化されてはいけない」のです。

ですからあれは、猥褻なものをそのまま提示して美しいと感じさせているのです。
メイプルソープは、猥褻なものを提示して、猥褻って、なんて美しいんだっていっているのです。
それを、「猥褻ではない」って、本来は、最高裁はじつに失礼じゃないか、ってことです。

メイプルソープは、花と同様に、男性器を猥褻で美しいと思った(あるいはその逆の順番か)。その美しさはもちろん彼のセクシュアリティに結びついている美しさの感覚です。もっといえば人間であることに関係する美への感覚です(犬は人間の性器を美しいとは思わないでしょうし)。さらによくある70年代的言い方でいえば、彼は己の猥褻さへの欲望を解放しようとした。彼の写真を見ていれば、いまにも彼があの男性器に触れたい頬ずりしたいキスしたい口に含みたい、でもその代わりに写真に撮った、他人と共有したというのが伝わってきます。一見無機質にも思えるあの黒い男性器の鉱物のような銀粉のような輝きを、彼がまんじりと視姦しているのがわかるのです。それは花への視線と同じです。

じつは、花が性器だと気づいたのは、不覚にも私も、大昔にメイプルソープの写真集を目にしてからでした。ほんと、ありゃ、思わずあちゃーとかひえーとか呻いてしまいそうな、ときには赤面するほどいやらしくもすごい写真集ですものね。一部をご覧あれ

そうですよ、みなさん。

「何かご趣味は?」
「ええ、ちょっとお花を」
「あら、まあ……」

爾来、上記の会話の意味は、私にとって永遠に変わってしまったわけです。
蘭を集めております、とか、よくもまあ羞ずかしげもなく公言できるもんだ、と。
少しは赤面しながらおっしゃいなさいな、と。

卑猥とは何か、猥褻とは何か。
劣情を刺激するものでしょうかね。
劣情という言葉自体、価値観の入ったものだからわけわかんないですけど。

むかしね、「エマニエル夫人」って映画あったでしょ。高校か大学時代だったよなあ、あれ。
ボカシがかかるでしょ。あのボカシほど劣情を刺激するものはありません。いったい何が映っているのか、気になって気になって妄想がふくれます。ああ、そうだ、あの「時計じかけのオレンジ」もそうでした。ボカシが気になって、性ホルモン横溢の、脳にまで精液が回ってるような年齢でしたからね、もうおくびにも出さなかったが悶々と妄想を重ねていた時期ですね。

で、仕事でハワイに行ったときにヒマ見つけて当時まだあったタワーレコードでビデオを買ったんですよ、昔年の妄想を解決するために。

そうして見てみた。
ああ、オレはこんなものに欲情していたんだ、って、もう、ほんと、がっかりするような、なさけないようなものしか映ってませんでした。オレの青春を返せ、ってな感じです。

何だったんでしょう、あの「劣情」は。
ボカシは、罪だと思います。健全な欲望を、淫らにひねりまくります。
もちろん、罪もまたちょっとソソルものでもあるのですがね。はは。

何の話でしたっけ?
ま、そういうこってすわ。
失礼しました。

October 30, 2007

時野谷浩というアホ

ひさしぶりにとんでもないタワケを見つけました。

時野谷浩.jpg

こいつは何者なのでしょう?
しかし、こんな記事を載せるゲンダイネット(って日刊ゲンダイ?)ってどういうタブロイド紙に成り下がったのかしら?

まずは以下をゲンダイネットから引用しましょう。

**
おネエキャラ“全員集合”はメシ時に放送する番組か
2007年10月29日10時00分

 23日に注目の「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」(日本テレビ、火曜夜7時〜)がスタートした。昨年10月から土曜日の夕方に放送され、今月からゴールデンタイムに格上げされた全国ネットのバラエティーだ。

 番組の内容はタイトル通りで、“おネエ”言葉を話すおかまキャラの出演者が大騒ぎするというもの。レギュラーはIKKO(美容)、假屋崎省吾(華道)、植松晃士(ファッション)ら9人。

 23日の放送で特に目立っていたのはIKKOで、胸がはだけた黒いドレスを着て、ハイテンションで「どんだけ〜」を連発していた。視聴率は11.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これを世帯数にすると関東だけで200万世帯近くが見た計算になる。

 東海大教授の時野谷浩氏(メディア効果理論)がこう言う。
「私は番組の冒頭を見て、夕食時に見る番組としてふさわしくないと判断したので、チャンネルを変えました。アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させないし、もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします。日本のテレビ局にもそういった配慮が必要だと思います。特にゴールデンタイムは子供もテレビを見るし、夕食をとる人が多い時間帯だからなおさらです」

 メシがまずくなる。それが問題というわけだ。

***

>アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させない

どこのアメリカなのでしょう?
すくなくとも私の住んでいるアメリカではホモセクシュアルの男性はかなりの番組で、ネタかとも思えるほどに出ているんですが……。

と思いながら再読すると(再読なんかに値するようなテキストではないのですが)

>もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします

あ〜、わかった、こいつ、ドラァグクイーンのことを「ホモセクシュアルの男性」だといってるんだ!
ひえー。いまどき珍しい、すげえアナクロ。
ドラァグクイーンというのはトランスヴェスタイトの商売版みたいなもんで、いわゆる女装しているプロたちですね。こういう基礎的なことも誤解しているようなひとを、東海大学はよう雇い入れてますな。

この時野谷、じつは先日も産経にこんなコメントを寄せていました。
記事はゲンダイネットのそれとじつは同じネタです。ふーむ。おもしろいねえ。

***
性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?
2007.10.7 21:50

 性差を超えたエンターテインメントが世界的なブームだ。日本では中性的な男性タレントが大挙して出演するテレビ番組や、女性歌手のヒット曲を男性歌手がカバーした企画盤が人気を獲得。米ハリウッドでは男優が太った中年女性、女優が男性ロック歌手を演じ話題だが、「テレビ文化がけじめなき社会を作り上げた証明」と批判する専門家もいる。(岡田敏一)

 流行語「どんだけ〜」の生みの親で知られる美容界のカリスマ、IKKOさんや、華道家、假屋崎省吾さんら大勢の中性的な男性タレントが、最新ファッションや美容、グルメ情報などを紹介する日本テレビ系のバラエティ番組「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」。

 昨年10月から毎週土曜日の午後5時半から約30分間放映しているが、「普通、女性ファッション誌によるテレビ番組の取材は皆無なのに、この番組には取材が殺到しました」と日本テレビ。

 夕方の放送にも関わらず若い女性の支持を獲得し、今月末から放送日時が毎週火曜の午後7時から約1時間と、ゴールデンタイムに格上げ、全国ネットに登場する。

 音楽の世界では、ベテラン男性歌手、徳永英明さんが、小林明子さんの「恋におちて」や、松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」といった有名女性歌手のヒット曲をカバーした「VOCALIST(ボーカリスト)」のシリーズが人気だ。

 男性歌手が女性歌手の楽曲に真正面から挑むという業界初の試みだが、平成17年9月の第1弾以来、毎年ほぼ同時期に発売。今回の第3弾(8月発売)までの売り上げ累計は計約150万枚。

 発売元であるユニバーサルミュージックの邦楽部門のひとつ、ユニバーサルシグマでは「主要購買層は20代から30代の女性ですが、予想以上の売り上げ」と説明する。

 ハリウッドでは「サタデー・ナイト・フィーバー」などでおなじみのスター、ジョン・トラボルタが、人気ミュージカルの映画化「ヘアスプレー」(日本公開20日)で特殊メイクで太った中年女性を熱演。

 また、ヒース・レジャーやリチャード・ギアら6人の俳優が米ロック歌手ボブ・ディランを演じ分けるディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(米公開11月)では、オスカー女優ケイト・ブランシェットが男装し、エレキギターを抱えて1960年代中期のディランを演じる。

 こうしたブームについて、松浦亜弥さんのものまねなどで人気のタレント、前田健さんは「歌舞伎や宝塚歌劇のように日本では男が女を演じる文化があるが、最近のブームは女性受けを狙ったもの。今の芸能界では女性の人気を獲得しなければスターになれないですから」と分析する。

 一方、メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

****

もう、いかがなもんでしょうと問うのもバカ臭くなるような情けない作文です。

岡田というこの記者はたしかロサンゼルスでオスカーを取材したりしていた芸能記者だったはずです。ブロークバック・マウンテンとクラッシュのときのオスカーの授賞式(2005年?)ではもちょっとまともなことを書いていたように記憶していますが、なんでまたこんな雑な記事を書くようになってしまったんでしょう。いずれにしても東京に帰ったんですね。

だいたい、日本では徳永以前から演歌界では女歌を男が歌うというジェンダーベンディングの伝統があって、それはまあ、歌舞伎から続く男社会の伝統とも関係するのですが、そういうのをぜんぶホッカムリしてこういう作文を書く。大学生の論文だってこれでは不可だ。

いやいや、時野谷なるキョージュの話でした。

>テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。

口から出任せ?
こいつ、ほんとに博士号を持ってるんでしょうか?
恥ずかしいとかいう以前の話。
反論の気すら殺がれるようなアホ。
どういう歴史認識なのでしょうねえ。

テレビの登場以前は、云々、と書き連ねるのも野暮です。ってか、なんで小学生に教えてやるようなことをここで書かねばならないのか、ま、いいわね、どうでも。

しかし、いま私がここで問題にしたいのは、じつはこの時野谷なる人物が、同じ論調の、同じネタで同じように登場してきたというその奇妙さです。もちろん同じネタとコメンテーターのたらい回しという安いメディアの経済学というのは存在します。でも、あまりにも露骨に同じでしょう、上記の2つは?

同じ論調、同じバカ、ってことで思い出したのは、あの、都城や八女市での男女共同参画ジェンダーフリーバッシングのことです。これ、似てませんか? 後ろに統一教会、勝共連合でもいるんでしょうかね。時野谷ってのも、その子飼いですかな。しかし、それにしてもタマが悪いやね。

<参考>
安倍晋三と都城がどう関係するか

October 11, 2007

出たか、妖怪!

毎日新聞.jpから抜粋
つまり、レゲエ音楽の流れるCMにIKKOというオネエ(TG? TV?)キャラが出てるのがとんでもないって、レゲエファンがマツリをしたって話ですわ。
西村綾乃記者、よくこのネタを見つけたね。面白い。(ちょっと文章が回りくどくてわかりづらいけど)

MINMI:楽曲提供CMにIKKO出演でバッシング ブログで反論

MINMIさん
 人気レゲエグループ「湘南乃風」の若旦那さん(31)との子供を妊娠中で、12月に出産を控えているソカシンガーのMINMIさん(32)が楽曲提供した化粧品のCMに、美容研究家のIKKOさん(45)が出演していることが、一部のレゲエファンの間で異論を呼び、MINMIさんの公式ブログの使用が一部制限される騒ぎになっている。

 CMは、8月から放送された美禅の「トリートメント・リップ・グロッシー」で、7月に発表したシングル「シャナナ☆」に収録した「MY SONG」が起用されている。だが、MINMIさんが歌う「ソカ」という音楽のルーツとなるレゲエ音楽では、同性愛を認めないというルールがあると解釈している人もおり、ソカシンガーとして世界からも注目されているMINMIさんの楽曲が使用されたCMに、“おねえキャラ”として人気を集めているIKKOさんが出演していることに対し反発した人たちが、MINMIさんのブログに中傷の書き込みを続けたという。そのため、ブログの書き込み機能を制限している。

 MINMIさんは、3日のブログで「CMを創ってる“美禅さん”が曲を気に入ってくれてmy song を使ってくれた。ギャラも発生してないし、出演者のキャスティング、内容とかは、もちろん向こうの制作の方やスタッフが決めて、私の仕事のはんちゅう じゃない」と再反論。続けて「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」とつづっている。

 MINMIさんは、02年8月、50万枚を売り上げたシングル「The Perfect Vision」でデビュー。ソカアーティストとして楽曲制作・提供のほか、イベントプロデュースなど幅広く活動している。【西村綾乃】

ソカはたしかに、ってかジャマイカそのものが土着宗教的にアンチゲイだし、元をただせばアフリカ諸国がそうだからしょうがない(ってわけじゃねえが)。つまりアンチゲイだから唄もそうなるってことです。
それを、日本のこのホモフォウブたちゃ唄とかミュジシャンがそうだからアンチゲイになるって、そりゃあまりに安易に主客転倒じゃねえの、ったく。頭使って考えろよなあ。それ、モジャモジャにするためにくっついてんじゃないんだってえの。

先日、産經新聞にもおバカなジェンダー境界曖昧バッシング作文記事が載ってたようだけど、ほんと、どーしてくれよう。

それにしてもこのMINMIさんとやらのコメントも、前半は及び腰ながら(ってかそれが事実だってことでしょうが)後半は意味やや日本語になってないがなかなか立派。

「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」
=翻訳=
「あんたら、そんなくだらんこと言ってるひまあったら、もっと戦うべき相手や訴えるべき事がこの日本社会の中にはたくさんあるでしょ。それを考えれや、なあ。IKKOがどうだとかは知らんけど、自分に正直でいるってすごい勇気だし、そういうタフさとリアルさとがわたしにとってレゲエから学んだもんだい。そのスピリッツを、あんたらがこのブログサイトを祭ったくらいで、あたしゃぜったいに手放したりはしないよ、あほ!」ってことですわね。

応援コメントは次の彼女のブログ・サイトからどんぞ。
http://blog.excite.co.jp/minmiblog/
って書いてから、上記ブログ、コメント制限してる事に気づきました。失礼。
どうにか、でも、彼女に応援コメントを伝えたいね。

それと、その化粧品メーカーのサイトはどうなんでしょ。
こりゃきっと、そのファッショ・ラスタファ連中がアンチゲイメールを殺到させてるかもしれない。
そうなったら、マジ、これはバカのたわ言じゃなくなるわ。

September 25, 2007

安逸を求める

イランのアフマディネジャドが国連総会出席でNYに来ています。
今日の午後にはコロンビア大学で講演を行いました。
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もちろんQ&Aの時間が設けられていて、聴衆の1人はイランにおけるゲイの人権と死刑執行について質問しました。これに対して彼は性的指向の観点はまったく無視して米国でも死刑制度があることを指摘して直接の回答を回避しました。しかし司会役の学務部長はさらに回答を促しました。その結果の彼の返答はこうです。

「イランにはあなたの国とちがってホモセクシュアルたちはいません。私たちの国にはそういうのはないのです。イランには、そうした現象はない。私たちの国にもあるのだと、だれがあなたに言ったのか知りませんが」

アフマディネジャドはもちろん聴衆から失笑とブーイングを浴びました。まあ、彼の言いたかったことは、「われわれはホモセクシュアルたちを殺しているからイランにはそういうのはなくなっているのだ」ということだったのでしょう。2年前の2005年7月に行われた少年2人の絞首刑を、私たちは忘れてはいません。
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宗教というのは、答えの用意されている教科書です。巻末を見れば練習問題の答が書いてあるから、それを憶えればいちばん手っ取り早いし神様・お坊さま・司祭さまにも誉められる。それでめでたいので自分で考える必要などありません。はたまた質問そのものの正当性、さらには答えの真偽を疑うということもありません。なぜなら、それは「信じる」ことをすべての基本においているからです。「信じる」は「疑う」の対義語です。そうして「疑う」は「考える」の同意語です。宗教に「なぜ?」は必要ない。むしろ、邪魔で、いけないことです。

なぜ? と考えずに済む人生は、なんと安逸なものでしょうか。もっとも、宗教的生活を送っている人たちも、誠実であればあるほど宗教的回答を突き超えて必ず「なぜ」を考えてしまうものですが。

その辺のことは2005/02/22の「生きよ、堕ちよ」でも書いていますが、思えば、日本語訳ではいまいちその過激さが伝わっていないジョン・レノンの「イマジン」も、じつはすごい宗教否定の歌なのです。多くの戦争の背景に宗教があるということがわかりきっているとして、頭の上には天国なんてない、ぼくらの下にも地獄なんてないんだ、と宗教的迷妄を唾棄して歌は始まるのです。レノンにはもう1つ、「God」というすごい歌があって(というかそのままなんですけど)、そこでははっきり「神なんか、自分の痛みを測るためのメジャーでしかない」と宣言しているんですよね。

しかしアフマディネジャドなるものに対抗するには、どうすればいいのでしょう。
憎悪と嫌悪にまみれた、聖という名の邪悪。
しかも、われわれには憎悪と嫌悪という武器はないのです。手ぶらで、丸腰で、身1つで、戦わねばならない。こまったもんです。

September 21, 2007

強きもの、その名は親

カリフォルニア州サンディエゴ市の市議会が19日、同性婚を禁止しているカリフォルニア州に対して、州最高裁判所がそれを違憲として覆すようにと求める決議を採択しました。まあ、それはよくあることで、それにカリフォルニア州は今月初めに州上院が賛成22反対15で同性婚法案を可決し、それにシュワルツェネッガー知事がまたまた拒否権を発動の構えという状況がつづく場所でもあって、米国における同性結婚問題の最前線でもあるのですが、今日のお話はそれをふまえて、じつは、そのサンディエゴ市長(共和党)が、その市議会の決議にやはり拒否権を発動すると思われていたところ、それをしないばかりか驚きの声明を会見で明らかにしたというお話です。

市長さんは共和党所属の人ですんでもちろん同性婚には反対の立場で、でもカリフォルニア州という土地柄もあってその代わりに「シビル・ユニオン」制度の導入をしようという立場の人でした。

昨晩の記者会見に出てきた市長はこう言いました。

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「Two years ago, I believed that civil unions were a fair alternative. Those beliefs, in my case, have since changed. The concept of a 'separate but equal' institution is not something that I can support.」
(2年前、私はシビルユニオンなら公正な別オプションだと信じていた。そうした信念はしかし私の場合、変わった。「別物の、しかし平等ではある」制度という考えは、私が支持できるものではない)

ん? どういう意味? シビルユニオンじゃなく、結婚じゃないと公正じゃないってこと?

そうなんです。
理由は?
サンダーズ市長の娘さん、リサさん(上記写真中央)、レズビアンなんですね。で、そのことを4年前に父親に打ち明けた。自分には大切な女性がいるとも。そうして、お父さんはずっとそのことを考えてきたんでしょう、「もうこれ以上、私にはこの国ですべての人に与えられている権利を彼女には認めないというわけにはいかなくなった」という結論に達したわけです。

市長さん、続けて曰く、「とどのつまり、私には彼ら彼女らの顔を見て、きみらの関係は、そしてきみらのまさに人生それ自体も、私が私の妻ラナと分かち合っているこの結婚と比べて無意味なものだとはとても言えるもんじゃないということだ」

サンダーズ市長は、この決定に当たって「ゲイである自分の友人たちやスタッフたちのことを考えた」といいます。

「I just could not bring myself to tell an entire group of our community they were less important, less worthy or less deserving of the rights and responsibilities of marriage than anyone else, simply because of their sexual orientation...I want for them the same thing that we all want for our loved ones. For each of them to find a mate, whom they love deeply and who loves them back. Someone who they can grow old together and share life's experiences.」
(我々のこのコミュニティのグループ全体に、彼らの重要性、彼らの価値、彼らの権利適性、彼らの結婚への責任感が、ただその性的指向を理由に、他の誰彼と比べて劣るものだとは、私にはどうしても言えなかった……私は、私たちのすべてが私たちの愛する者のために欲するのと同じものを彼らが得られるように求める。それは彼らが、深く愛し、同じように愛を返してくれる伴侶を見つけられるということだ。彼らがともに年を重ね、ともに人生の経験を重ねられるようなだれかを得られるということだ)

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サンダーズさん、共和党ってだけじゃなく、元は警察署長だった人だそうです。

子を思う親の気持ちってのは強いなあ。
福岡の、あの飲酒運転で3人の子供を失ったあの若いお父さんお母さんの思いも。
少年に、妻と子を殺された山口県光の旦那さんも。

August 26, 2007

転載;署名のお願い

現在イギリスに住むイラン人女性、ペガー・エマンバクシュさんは、レズビアンであることをカムアウトしている方です。パートナーが逮捕、拷問、死刑に処せられてから本国を脱出し、2005年にイギリスで難民申請を行いましたが却下され、あさって火曜日にイランに強制送還されることになりました。

イランは同性同士の性交渉を罰するいわゆるソドミー法があり、送還されればむち打ちと投石の刑を受けます。事実上の死刑です。

現在、強制送還に反対し、恩情的にイギリスに滞在する権利をペガーさんに与えるよう、世界的な署名活動が行われています。その呼び掛けが私のところにも来ました。

以下、転載します。

**

3分あれば出来るアクションです。
レズビアンがイランへ強制送還=鞭打たれて死刑、という事態をとめるためのネット署名(英語)はこちらから。
1分あればすぐ出来ます。
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html

お願いします!!

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
 【緊急コクチ】
 たくさんの方々にひろめてください。
 28日火曜日まで目が離せません。
 
 ーー以下記事要約/転送歓迎ーー

ペガー・エマンバシュクさん、イラン人女性、40歳。2005年にイランを脱出し、イギリスで難民申請をしたが、それが認められずにあと数日で故郷のイランに強制送還されようとしている。彼女は、レズビアン。レズビアンであるということは、イスラム法の下、イランでは死を意味する。石打ちの刑に処されることもある。

殺される確率が高いとわかっていて、彼女をこのまま強制送還させていいのか。国際難民法の述べる難民の定義を引用するが、「…人種、宗教、国籍もしくは 特定の社会的集団の構成員であるということ又は政治的意見を理由に迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる 者」(難民条約第1条)とは、彼女のことではないのか。

彼女の強制送還は、国による殺人である。これは許しがたい犯罪であり、人命の冒涜だ。国際社会は黙って見すごしていけない。ペガーさんのために一人一人のアクションを求めたい。

【英語サイト】
インディーメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/2007/08/379580.html

シェフィールドのメディア:
http://www.indymedia.org.uk/en/regions/sheffield/2007/08/378415.html

ネット署名(英語):
http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html


【日本語訳ブログ】:
http://pega-must-stay.cocolog-nifty.com/blog/

※記事は刻一刻と更新されて、新しい記事が出ていますので、トップから別の記事も見られます

July 28, 2007

転載「最後のお願い」

日本では、投票日はもう明日ですか。

選挙のことを書くと、「こういうのは選挙違反になる」「自分のブログに特定候補の応援を公然と書いている。公選法で逮捕されてしまえ」という、いったい、こいつは全体主義の標榜者かというようなとんちんかんを書き連ねる輩が最近、とても増えているような気がします。まあ、ウェブサイトの発信の容易性の為せる業なんでしょうが、どうしてこういう、自分で自分の首を絞めるのが好きな連中がいるんだろうなあ。気づいていないんでしょうね。

基本は、個人の名の下に、自由にものが話せる、意見を述べられる。これが近代社会の基本です。だから憲法でも保障されている。それが許されないなら、そういう公選法の方が悪いのです(ってか、今の日本の公選法はそうはなっていないですから問題ないんですけどね)。

さて、私のところに、「最後のお願い」と題した次のようなメールが届きました。
なるほど、とても切実な思いが綴られています。
こういうきちんとしたことを、若い連中が書いてくれるんだなあ。
うれしいなあ。
ということで、ここに転載します。読んでみてやってください。

***

「世界が100人の村だったら」にはこう書かれています。
 異性愛者は89人います。
 同性愛者は11人います。

 日本にそんなに同性愛者がいるでしょうか?
 誰にもわかりません。
 少なくとも100人のうち3人か4人はいるだろう…とは言われています。
「いない」のではなく、きっと「見えない」のです。「ここにいるよ」と言うことができないのです。

 アフリカのある国の大統領はこう言いました。
「我が国には同性愛者などいない。いるとしたら、よその国に出て行ってくれ」
 そして、いまだに同性愛者だというだけで死刑になる国が世界に9つもあります。

 日本に生まれた同性愛者たちは、そうした国々に比べたらしあわせなのでしょう。
 でも、本当に私たちはしあわせでしょうか?

 思い出してください。
 あなたの周りで、今までにどれだけのゲイやレズビアンの友達が亡くなりましたか?
 日本でいちばん多い死因は、ガンや心筋梗塞です。
 でも、私たちの周りの友人たちは、同性愛者として生きて行ける自信がなくなって自殺してしまったり、エイズを発症したり、そうやって亡くなっていく方がなんと多かったことか…

 日本は先進国一の自殺大国ですが、それでも年間に自殺で亡くなるのは100人あたり0.024人です。
 今年の3月、ゲイの学生さんが自殺で亡くなりました。夢を抱いて生きてるはずの学生さんが…胸が痛みます。
 今もなんと多くの方が、未来に希望が持てず、命を絶っていることでしょう。
 日本は、私たちの社会は、まだまだ同性愛者が生きやすいとはとても言いがたいのではないでしょうか。

 今は陽気に(GAY)暮らしている私たち。でも、どんなに純粋にパートナーを愛し、長年いっしょに暮らしていても、法律上はただの「友人」ですから、扶養控除もありません。何十年か後、もしパートナーが重病で入院したとき、親族として扱ってくれないばかりか、面会すらさせてもらえないかもしれません。万が一パートナーが亡くなったとき、私たちはお葬式に出られるでしょうか? いっしょに住んでる家を追い出されたり、二人で買った家具などを親戚に持って行かれたりしないでしょうか? 生命保険を受け取れるでしょうか?
 私たちは日々、一生懸命働き、税金を収め、社会に貢献しています。にも関わらず、異性愛者が当然のように行使している権利を、何一つ与えられていないのです。

 70年代の東郷健さん以来、国政の場に出ようとするオープンな同性愛者はいませんでした。
 ようやく今、勇気と明るさと行動的な魅力を持ったレズビアンの政治家が現れました。彼女は、民主党の公認を得て参議院比例区に立候補するやいなや、日本中を席巻し、連日メディアをにぎわせ、同性結婚式を挙げ、同性愛者のイメージを「ケ」から「ハレ」へとSWITCHしてきました。まるでジャンヌダルクのように。なんと晴れやかで美しい革命でしょう!

 もし、彼女が当選したら、
 同性愛者として生きる意味を見出せなかった全国の同性愛者たちの希望の星となるでしょう。自分のセクシュアリティを呪い、自暴自棄になったり、命を失ったりという悲劇が繰り返されることはもうなくなるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 私たちが胸を張って、プライドをもって同性愛者として生きていける時代が訪れるでしょう。街中で手をつなぎ、堂々とデートできるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 同性婚(または同性パートナーシップ法)が遠からず実現するでしょう。性同一性障害特例法が誰も予想しなかったスピードで通ったように。

 もし、彼女が当選したら、
 HIV予防や陽性者支援に対する国家予算がやっと欧米並みになるでしょう(今は何十分の一くらいです)。今でも年に100人以上亡くなっているエイズ患者(異性愛者、同性愛者ともにです)の方もの命を救うだけでなく、HIV陽性者の方々がもっと生き生きと暮らせるようになるでしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 何も変わりません。
 それどころか、
 安倍晋三は「ジェンダーという言葉は使わないほうがいい」と発言するほどのバックラッシュの旗手であり、教科書から同性カップルに関する記述を削除し、そうやって「美しい国=正しい家族像」を作ろうとしています。
 状況は悪くなる一方でしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 政治家だけでなく国全体が「同性愛者は政治的な力を持っていない」と思うことでしょう。
 民主党も二度と同性愛者の候補を公認しないでしょう。
 この先、同性愛者の国会議員が実現するために、また30年もの時間を要するかもしれません。

 志半ばにして逝った、天国にいる私たちの仲間たちの無念さを、どうか忘れないでください。
 今、この瞬間、心重ねて、私たちが彼女を応援すること。
お盆に東京で開催されるパレードやレインボー祭りで同性愛者の国会議員の笑顔が全国の仲間たちを勇気づけること。
 それが、亡くなった友人や恋人たちへの供養になるでしょう。
 私たちはみんな遺族です。
 心にそれぞれの遺影を掲げて、この夏、私たちの手で、歴史を変えましょう。

July 25, 2007

尾辻かな子

レズビアンを公言して民主党の比例代表区から立候補している尾辻かな子に対して、「性癖を誇るな」と題して、ネット上で厳しく非難しているブログがありました。すこし引用しますね。

「いやらしいから無視するつもりであったが、いつまでも政治絡みのフォトに出ているので一言。
この人は、自分の性癖を選挙の道具にしている最低の人間である。
性同一障害と、ただの性癖を混同してはいけない。
性同一障害は、自分の体と心が、胎児のときのホルモンの影響などにより生じた、障害である。
尾辻かな子のレズはただの性癖、変態趣味でしかない。
糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人と同じだ。
変態は変態同士、わからぬようにこっそり当事者で楽しむのは全く問題が無い。 アレをこうしようと、どうしようと当人同士の問題である。
しかし、その変態性、性癖を他人に見せ付けるのは、悪質な罪である。」

とまあ、こういう具合です。

きっと一般の認識では少なからずこうした判断を疑うことなくそのままにしている人はいるのでしょう。
同性愛が性癖なら、異性愛も性癖であることになりますが、その辺のことが理解されていないのですね。もちろん、「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」は異性愛者の方が絶対数として圧倒的に多い、という事実は単に算数の問題です。
同性愛がセックスの問題、あるいはセックスの上の嗜好の問題だと思い込んでいるのは、これはひとえに情報の不足によるものです。だいたい、一般社会には、そうした同性愛に関する情報もないし、その情報を必要とする状況もないのだと思います。で、あいもかわらず40年も前の風俗綺譚の理解が依然はびこっている。だから、上記のようなものを書いて恥ずかしげもなく公然と曝してしまう輩が後を絶たない。
可哀相というかなんというか、まあ、しょうがないんだろうけどね。

(同性愛とは何なのか、と知りたい方は、以下のリンクを参考にしてください。もう10年も前ですが、ニューヨークの日本語新聞に「マジメでためになるゲイ講座」という連載を行いました。それを再録してあります)

目次(ここで「マジメでためになるゲイ講座」の各項目をクリック

簡単にまとめたQ&Aです

以下の動画は、CNNが中継した、YouTubeの投稿質問動画に答える民主党の各候補討論会。 一年以上も先だというのに米大統領選挙、かように盛り上がっているのですが、「その変態性、性癖を他人に見せ付ける」人々の結婚の問題がここでも話題になります。

まずはブルックリンのマリーさんとジェンさんのレズビアンカップルの「私たちを結婚させてくれますか?」の問いに各候補が答えます。

ここではすでに、「レズはただの性癖、変態趣味でしかない」というような「無知」や「偏見」は共有されてはいません。というか、排除されています。そういう物言いが、はるかかなたに片のついたブルシットであることをすでにほとんどの人々が理解していて、その上で、世界の論議はすでに先に行っているのです。ですから冒頭の引用のようなレベルの話は、ほとんどの人から相手にされません。議論にもなりません。話題にしても呆れられるか鼻で笑われるか、それこそ「糞」でも見るように目を背けられるかだけです。

さて、クシニッチはゲイカップルが結婚ができる「私が大統領となるより良き新たな時代へ歓迎します」と言葉を結び明快です。

"Mary and Jen, the answer to your question is yes. And let me tell you why. Because if our Constitution really means what it says, that all are created equal, if it really means what it says, that there should be equality of opportunity before the law, then our brothers and sisters who happen to be gay, lesbian, bisexual or transgendered should have the same rights accorded to them as anyone else, and that includes the ability to have a civil marriage ceremony. Yes, I support you. And welcome to a better and a new America under a President Kucinich administration."

「メリーとジェン、あなたたちの質問への答えはイエスです。なぜか。なぜなら憲法がそう言っているから。すべての人間は平等である。もしそうなら法の前では機会も平等だ。だからわれわれの、たまたまゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーである兄弟や姉妹たちは、他のみんなに与えられていると同じ権利を持っている。それには一般市民の結婚の儀式を行う権利も含まれる。イエス。私はあなたたちをサポートします。そして、クシニッチ大統領の政権下でのよりよく新しいアメリカに、私はあなたたちを喜んで迎え入れます」

続いて、レジー牧師の質問です。これはなかなかポイントを衝いた質問です。

「かつて宗教を理由に奴隷、人種隔離、女性参政権の否定を正当化していたことは間違いであり違憲であるといまの多くのアメリカ人は知っています。ではいまもなぜ、宗教を理由にゲイのアメリカ人が結婚することを否定するのが認められているのでしょう?」

司会のアンダーソン・クーパーは、進んで公言してはいませんが否定もしていないゲイのアンカーマンです。

エドワーズは、妻は賛成するが私は反対だ、と苦しい胸の内を披露して理解を得ようという戦術です。
つまりこれほどやはり政治に「宗教」が絡み付いている。

"I think Reverend Longcrier asks a very important question, which is whether fundamentally -- whether it's right for any of our faith beliefs to be imposed on the American people when we're president of the United States. I do not believe that's right. I feel enormous personal conflict about this issue. I want to end discrimination. I want to do some of the things that I just heard Bill Richardson talking about -- standing up for equal rights, substantive rights, civil unions, the thing that Chris Dodd just talked about. But I think that's something everybody on this stage will commit themselves to as president of the United States. But I personally have been on a journey on this issue. I feel enormous conflict about it. As I think a lot of people know, Elizabeth spoke -- my wife Elizabeth spoke out a few weeks ago, and she actually supports gay marriage. I do not. But this is a very, very difficult issue for me. And I recognize and have enormous respect for people who have a different view of it."

オバマは、明らかに答えを回避しています。彼の論理は、法の前ではみな平等だ、です。だから法的な権利はすべて保証するシビルユニオンを提案していると答えるのです。でも、それこそが質問のポイントなのですが、なぜ「結婚」ではダメなのかというには答えづらそうに何度も口ごもりつつ、結局は答えられていません。

同性婚はいまのアメリカにとって最大の政治課題ではありません。しかし主要な政治課題である。わずか人口の5%前後と言われている同性愛者たちのこの問題がなぜ主要課題であるのか。それは歴史を輪切りにしてはわからない。輪切りにすればそれはたった5%でしかない。けれど、歴史を縦切りにしたら、それはずっと昔から100%途切れることなく続いている、つまりは取り残している課題だからです。

それは一般に広く言われているような「性」の問題ではありません。
命の、「生」の問題なのです。

日本の参院選が日曜に迫っています。
参院比例区、個人名を書きます。
そこに「尾辻かな子」と書くことは、その取り残しを(同性婚とまでは行かずとも人権問題全般のこの取り残しを)、気にしていると表明することです。そういうことを「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」だといまもかたくなに信じている人をこれ以上はびこらせないように、あるいは歴史の誤解をとくために、力を貸すことです、力を添えることです。
社民党じゃないが、「今回は」です。
なぜなら、日本の社会はこの問題に関して、最も弱い。最も無知だ。最も無関心だからです。
こんなにグローバルに発信し受信している今の日本が、世界に申し開きできない弱点なのです。

私のこのブログを読んでくれているヘテロセクシュアルの友人たち、あるいは通りすがりのROMさん、比例区、適当な意中の人がいないなら「尾辻かな子」を紹介します。

比例区は、「個人名」を書くことを忘れずにいてください。

http://www.otsuji-k.com/

May 02, 2007

「銃」と「人種」の不在

 バージニア工科大乱射事件から2週間が経ちました。いろいろと報道を追い、犯人の書いた「劇脚本」なるものも読んでみたのですが、なんだか肝心のことが茫漠としていて形にならず、ただ彼に蓄積された怒りの巨大さがわかっただけで、その発散のありようであったその字面のとげとげしさと今回の凶行との相似に鬱々とした気持ちになるだけでした。「脚本」はいずれも10枚ほどの短いフィクションなんですが、1つは「義理の父親」への、1つは「男性教師」へのありとあらゆる罵詈雑言で埋め尽くされていました。

 凶行のあいまに彼がNBCへ送りつけた犯行声明ビデオの言葉も基本的にそれと同じものでした。8歳のときから米国に移り住みながらまだアクセントの残る英語で発せられる同じような罵倒の数々はむしろ若い彼の孤立を際立たせて痛々しく、しかもやはりこの犯罪の理由のなにものをも説明していませんでした。

 そんな中、各局各紙ともこの事件報道から(犯人は中国系という誤報はありましたが)人種問題を注意深く除外していたのが印象的でした。チョ青年へのいじめめいたからかいや揶揄もあったようですが、そこに人種的なバイアスがかかっていたかどうかはあまり問題となっていませんでした。また、日本なら両親が謝罪を強要されるような状況が生まれていたかもしれませんがそういうプライヴァシーに無碍に踏み込むようなこともなく、むしろ韓国から“逆輸入”されるニュースのほうが人種や責任問題に敏感になっているようでした。

 もう1つ“除外”されていたのが銃規制の必要性でした。いまごろになってバージニア州知事が精神科医にかかった者のすべての履歴を警察のデータベースに登録して銃を買えないようにするという知事令を出したりしていますが、なんだか枝葉だけがサワついている印象で肝心要の部分は揺らぎもしていない。これについては大統領選を控え民主党が保守票にも食い込むため遠慮しているのだとか、悲劇を政治的に利用すべきではないとの空気が支配的だからなどの解説もありますが、私にはどうも銃規制を訴え続ける徒労感というか、諦観めいた思考停止があるような気がしてなりません。

 15年前にバトンルージュで起きた服部君射殺事件の裁判を現地でずっと取材していたことがあります。あのころは銃規制賛否どちらももっと熱心に議論を戦わせていた。ところがこの議論は実に単純で、「銃を持った強盗が襲ってきたときに銃で対抗する権利はだれにでもある」というのと「銃で銃を防ぐことは不可能だし時に事態をより悪くさせる」という意見に集約されてそれ以外はない。「規律ある民兵は必要だから」という、この国の建国史に関わる憲法条項もどちらの主張にもエサになって議論は平行線のまま。

 そうしてコロンバインが起き、今度は大学です。衝撃に加えうんざりとげんなりもが合わさって、マンネリな銃規制議論などだれも聞きたくないのかもしれません。この行きどころのなさは、泥沼なイラク戦争への閉塞感ともなんとなく似ています。考えるのに疲れているんですよね。

 でも、敢えて言えば「人種」と「銃」、この2つの問題の中立化と除外とが逆にこの事件への対応の方向性を見失わせているのかもしれないとも思うのです。事件はもちろん犯人青年の個別的な人格や精神状態に負うところが多いでしょうが、どんな犯罪にもなんらかの社会問題が影を落としているもの。

 PC(政治的正しさ)で無用な人種偏見を煽らない風潮は定着しましたが、大学女子バスケチームを「チリチリ頭の売女ども」と呼んでクビになった人気ラジオホストがいるようにこの国の人種差別はなくなっているわけではありません。犯人青年への「いじめ」に人種偏見は絡んでいなかったのか。この国に住む私たち日本人の経験からも、それは強く疑われもします。

 敢えて人種や銃の問題も新たに考え直して議論してみる。そんな局面が必要なのかもしれません。そういうぐったりするような議論を繰り返すことでしか(それこそがアメリカの原動力でもあったはずです)、次の暴力の芽を摘むことはできないのではないか──もっとも、1つを摘んでも別の1つが摘めるかどうかはだれにもわからないのですが。

 もう1つ、この事件、いやほとんどの大量殺人乱射事件に共通する要素があります。それは犯人(たち)の抱えるミソジニーとホモフォビアなのです。女性嫌悪と同性愛嫌悪。自分の男性性を回復するために、この2つを総動員して暴力に訴える。暴力こそが自分の男らしさの復元装置および宣伝吹聴器なのです。この点に関してはとても面白いのでじつはバディ誌の今月の原稿で書いて送ってしまいました。なので詳細はそちらでお読みくださいね。今月20日ごろに発売されるはずです。

April 27, 2007

国際反ホモフォビアの日のことなど

ことしもまた5月17日がやってきます。国際反ホモフォビアの日(IDAHO)です。
上記ビデオはそのアウエアネスのTVスポット。イギリスのかしら?
ナレーションは
「ホモフォビアに反対するCMを作ろうと思いました。パワフルでシンプルで真実の映像で。それでこの椅子に座ってくれる俳優たちを探したのですが、ヘテロセクシュアルもホモセクシュアルも、みんな断ってきました。残念です。今日でもホモであることを見せるにはほんとうに勇気が要ることだということでしょう。クイアとかダイクとかファゴットとかの言葉での罵倒はいまもずっと続いています。80カ国がホモセクシュアルを犯罪としています。うち9カ国では死刑に値するとしています。5月17日は国際反ホモフォビアの日です。怖いのはホモフォウブたち(ホモフォビアを抱える連中)です。ホモたちではありません」

9カ国は解放されたはずのアフガニスタン、イスラム原理主義のイラン、アフリカのモーリタニアとナイジェリア、 スーダン、同じアジアのパキスタン、親米親西欧であるはずのサウジアラビア、西洋資本がどんどん投入されて潤うアラブ首長国連邦、そしてイエメンです。

最後の字幕コピーで、「ホモフォビア」の「ホモ」の部分が「レズボ」「トランス」と変わります。
ゲイ・プライドがいまはLGBTプライドと呼称変えしているのと同じ配慮ですかね。

IDAHOのホームページはこちらです。

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もう先週になりましたが、4月18日はアメリカで「11th Annual National Day of Silence」でした。デイ・オヴ・サイレンス(沈黙の日)というのは、なにも話さない日。全米の大学や高校で、自分がゲイだと、トランスだと、言えないホモフォビックな状況に抗議するため、それに共感する学生たちが性的少数者であろうとなかろうとみんな、学校でひと言も話をしない、というパフォーマンスを続ける、というものです。参加者はDay Of Silence のワッペンをしたり、次のようなカードを無言で手渡して話しかける相手に理解を求めていました。

「今日、私が話をしない理由を理解してください。沈黙の日運動に参加しているのです。これは全米の若者の運動で、学校でレズビアンやゲイやバイセクシュアルやトランスジェンダーの人たち及びその同伴者たちが直面させられている沈黙に抗議するものです。私のこの強いての沈黙は、いじめや偏見や差別が強いる沈黙と共鳴しています。こんな沈黙を終わらせることがこれらの不正義と戦っていく第一歩だと信じています。きょう、あなたの聞かなかった声のことを考えてください。この沈黙を終わらせるために、あなたは何をしてくれますか?」

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市を挙げてゲイの観光客誘致に熱心なフィラデルフィアが、市内のゲイエリアに36個ものレインボーカラーのストリートサイン(通りの名前の表示板)を出しました。

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このことを「We Have a 'Gayborhood'」(neighborhood=おなじみの地区、とのシャレです)と報じた地元紙「the Philadelphia Daily News」の引用によると、LGコミュニティの観光市場はなんと540億ドル(65兆円)規模なんだって。これ、世界のかしら? まさか米国内ってことはないよね。だって日本の国家予算(80兆円)にも迫る額だもなあ。

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誘致しなくてもじゅうぶんにゲイなロサンゼルスはウエスト・ハリウッド地区に、BMWの新型3シリーズのコンバーチブルのポスターが張り出されているんですが、これももちろんここのゲイ・コミュニティに向けての広告ですわね。

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「Hard top. Firm bottom. It's so L.A.」

格納式のハードトップの屋根を持つコンバーチブルは、屋根部分がなくなることで車体の剛性が弱くなるんですね。でもBMWはさすがに基部(bottom)の車体剛性もしっかり保ってぶれません。ロサンゼルスにぴったりの車です。

ってのが車の宣伝としての意味ですね。

で、「ガチガチのトップ(おにんにん)、締まったボトム(お尻)、もうまさにロサンゼルス」ってのが掛けてあるのさ。はは。

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おまけ。ハードトップ。

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これはぜんぜんゲイじゃありません。
ネットで拾ってきたんだが、ふつうに函館の業者が作った函館土産らしい。
イカの形をした陶器に入った日本酒っていうんだが。
まんまストレート。もうすこしひねるとかできなかったのか……。
あ"〜、って感じではあるものの、しかし、サイズはどのくらいなんだろ。
ぜったい狙っておりますな。

格調高く始まったのがなんだか下品に堕して終わりです。とほほ。

April 10, 2007

選挙ブルーにめげずにアフタケアもね

おそらく選挙ブルーの方も多いかと思います。

「石原圧勝」との報道に、「あんなに燃えたぼくの気持ちはどこにも形にならずに消えちゃった」と。

でも、「あんなに燃えたきみの気持ち」はすごく形になってます。もう新聞やテレビでは分析されているかもしれませんが、次の数字を見れば今回の選挙結果の読み方はそんなにがっかりするもんでもありません。

前回の都知事選、4年前、開票結果は次のとおりでした。

石原慎太郎  3,087,190 無所属
樋口恵子    817,146 無所属
若林義春    364,007 日本共産党
ドクター・中松 109,091 無所属
池田一朝     19,860 無所属

で一方、今回の開票結果は次のとおりです。

石原    2,811,486
浅野+吉田 2,322,872

何が読めるか? それは、投票率は前回より9.4ポイント以上も増えたのに、石原は28万票も減らしているということです。
対して、反石原票は今回、浅野と吉田(共産)を合わせただけで230万票もあった。前回と大違いでしょ?

これを考えると、各紙で見出としている「石原、浅野を110万票差で圧勝」という見方は、事実としてはそのとおりながらもニュアンスはちと違う。110万票差というのはすげえが、「常勝・石原」への批判票のこの増え方は尋常じゃない。そうじゃない?
この辺を読みましょう。50万票差です。これはどのくらいか? 総有権者1000万票の5%ですか。これ、そんな自慢できるような圧勝じゃないでしょう。ね?

選挙ブルーに関しては、私もエラそうなこと言えないです。ゴアがブッシュに負けたときには私、思わず深夜未明に家出をしてコニーアイランドまで地下鉄に乗って海を見に行ったし。はは。

石原も、すでに傲慢復活で開票の夜からぶちかましてますが、それも想定内でしょ。浅野が負けるのも想定内。でも、石原の勝ち方はみっともなかったわけで、その辺、強調してやればあの傲慢口も少しは黙らせられるのにねえ。

さて、まだこれから統一地方選の後半戦があります。また、ちょっと選挙に行こうかと思ってみましょう。

それともう1つ、新宿2丁目に浅野を呼んでくれた人、もう一回ご苦労ですが、浅野陣営にお礼メールでも送ってください。「その節はお世話になった」と。「LGBTコミュニティの応援も今ひとつ届かなかったのは残念無念だが」と。「しかし浅野さんは歴史を作ってくれた」と。「私たちを政治に向かわせてくれた」と。

浅野の2丁目遊説の言葉はちょっと(かなり?)頼りなかったけれど、これを機に彼を取り込む言質は取っているわけで。わかってないなら、わからせてあげることです。ま、ちょっと政治的にドラマクイーン入ってますけど、そういうねぎらいのメールですね。そういう腹ゲイ。

秘書の人へでもいいからさ。こういう後始末、そして次へのつなぎ、はすごく大切です。浅野、これからどうするにしても取り込むべき相手でしょう。政治に再度出てくるかもしれないんだし、いずれにしてもテレビには戻るでしょうしね。

んで、もう1つ、夏の「東京プライド」のパレードに浅野を招待してください。来るか来ないかは問題ではない。2丁目に来てくれたんだから、お礼の意味として招待するのは礼儀でしょう。少なくとも私たちのその姿勢は見せてあげるのは礼儀。んで、もちろんメディア向けの事前広報として、招待者の名前をプレスリリースに記載しちゃうのね。その辺、周到に。へへ。

LGBTが欧米諸国でマーケットとして認められてきたのは、「恩義に厚い(Loyalty)」ってこと。礼を尽くすことからすべては始まるのです。

そうそう、そういうの、個人で勝手に出してもよい。ゲイです、ってきちんと書き記した上でね。
宛先としては、メール、選挙期間中のキャンペーンは
yumenet@asanoshiro.org
だったんだけど、これはまだ通じるのかな?
郵便宛先なら次のとおりです。

〒252-8520
神奈川県藤沢市遠藤 5322
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
総合政策学部
浅野史郎

民主党に手紙を出すのも、いいかもしれません。
メールは鳩山か円より子宛がよいでしょう。
info@dpj.or.jp
民主党web-site 問い合わせページ
「件名については、できるだけご意見やご質問の内容がわかるように」とのことです。
また「本文中に送信者の氏名が記入されていないメールには基本的にお返事いたしかね」るとのこと。ってことは、ふつうはお返事来るのね。

スネールメールは
〒100-0014
東京都千代田区永田町1-11-1
民主党本部
民主党幹事長
鳩山由紀夫

〒160-0022
東京都新宿区新宿1−2−8 國久ビル 2F
民主党東京都総支部連合会
円 より子

April 03, 2007

浅野史郎の二丁目遊説

次の記事はスポーツ報知とスポニチの記事です。

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浅野氏×ゲイ 新宿2丁目で異色コラボ…4・8都知事選

 東京都知事選(4月8日投開票)に向け残り1週間あまりとなった31日、前宮城県知事・浅野史郎氏(59)がゲイタウンとして知られる新宿2丁目に登場した。今知事選で候補がこの地区を訪れるのは初めてで、現場には約500人が群がった。この日は民主党・菅直人代表代行(60)とも遊説した浅野氏。幅広い支援を呼びかけながら、いよいよラストスパートが始まった。

 「ヒュー♪」「かっこいいわヨ」浅野氏が現れると一気に“黄色い声援”が飛んだ。狭い路上には約500人が集まり、まさに大歓“ゲイ”ムードとなった。

 マイクを握った浅野氏は「ここは通りがかったことはありますが、来るのは初めて。ちょっとおびえています」と恐縮気味。同性愛者らに対する具体的な政策について聞かれ「基本的にありません」と答えると「それじゃあ駄目だろ!!」と“黄色い声援”は野太いヤジに変わった。

 浅野氏が「(都政が住民らの)邪魔をしなければいい。誰にも迷惑かけていないんですから」と説明すると、住民らも納得した様子。普段はライターのエスムラルダさん(36)も「実際に来てくれて印象が変わった。社会的弱者が生きやすい社会にしてほしい」と話した。

 イベントには同性愛者であることをカミングアウトしている大阪府議の尾辻かな子氏や、性同一性障害を告白した世田谷区議の上川あや氏らが駆け付けた。会自体は浅野氏を支援する同性愛者の団体が主催しているが、選対関係者によると「浅野本人はそういう性的嗜好(しこう)はない」という。ただあまりの熱気に浅野氏も「(選挙戦で)一番の盛り上がりだったね」と苦笑した。 (報知)
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「新宿2丁目」は浅野氏“大歓ゲイ”

 前宮城県知事の浅野史郎氏(59)が31日、ゲイタウンとして知られる「新宿2丁目」でマイクを握った。石原慎太郎知事(74)がかつて「2丁目」の景観を条例で規制する発言をしたため、同地区では「街が変えられてしまう」との危機感が広がっており、選挙に注目が集まっている。浅野氏はセクシュアルマイノリティーに対して“保護”する立場を示し、聴衆から拍手を受けた。

 浅野氏は「ここら辺は通りかかったことはあるんだけど、来たのは初めて。少し今、おびえています」とあいさつ。すると、約500人の聴衆からは笑い声が上がり、「おびえちゃダメ!」の野太い声のヤジが飛んだ。

 ゲイの街を揺らす原因は昨年9月の石原氏の発言。五輪招致に絡んで「新宿2丁目」について一部インタビューで「美観とは言えない」として「規制力のある条例をつくる」と語ったため、ゲイタウンは大騒ぎ。そこで都知事選候補で石原氏の最大の対抗馬といわれる浅野氏を集会に招くことになった。注目度は高く、浅野氏も「私の演説会でこんなに集まるのは珍しい…」とビックリ。

 「知事になった場合、セクシュアルマイノリティーに対してどんな政策をするのか?」と司会を務めた女装したフリーライターの男性(35)に問われ、「迷惑をかけているわけでないなら、自由にやれるように…というのが基本的な姿勢。邪魔はしません」と答え、大きな拍手を浴びた。そして「シロウさ〜ん」の声援を浴びながら20分弱の遊説で「2丁目」を後にした。

 演説後、27歳の男性は「ここで演説をする人はなかなかいないし、セクシュアルマイノリティーに対する理解を示してくれたと思う」と感想。30代の男性は「好みの候補者?誰っていうより、イシハラがイヤよ〜。弱者に対する発言がひどいじゃない!」と激怒。「ゲイはこれまで投票に行かない人が多かった。でもこの選挙の注目度は高い。この街には5万票があると言う人もいる。どう動くのか楽しみね」と話す人もいた。 (スポニチ)
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報知の嫌らしい原稿の書き方はさておき、一般紙の報道はなかったようですね。ちょっと数紙の記者に聞いてみたところ、劣勢の浅野は後半戦に向けてどこにでも顔を出すので、いちいち付き合ってられないという心理がデスクレベルで働いているとともに、都知事選では性的少数者問題は争点でもなんでもないし、という感じが背景にあるようです。

私としてはしかしこれは単に一地方としての東京(都知事選)レベルの話ではなく、性的少数者の(初の一連の)政治的動き(の1つ)という意味では全国ネタだと思っているのですが、まだそういうきちんとした人権意識が日本の一般メディア内に育っていないのでしょう。だからキワモノ記事としてスポーツ紙だけが取り上げた。テレビニュースはあったようですが。

浅野に対しても、二丁目関連のあちこちから「ちょっとガッカリ」との声が聞こえてきます。しかしふつうはあんなもんなんですよ。札幌の上田さんが特別なのね。それより、ここまで連れてきた裏方さんたちの努力にまずは大いなる敬意を表したい。これは確かに歴史を作ったのだと思います。ほんとうにごくろうさんでした。

そのうえで敢えて敢えて敢えて苦言を呈させていただけば、浅野にきちんと事前にこの二丁目遊説の意義をレクチャーしてやるやつがいなかったようなのがちと残念です。すくなくとも話すべきポイントを箇条書きにでもして秘書に渡してやればよかったね。政治家なんてそういうもんなんだ。いろんなところに気を配らねばならないんだから何から何まで知ってるってもんじゃない。だからこそこっちから教えてやって初めてナンボのもんになる。教えてやれば百年前から知ってたような一丁前の話をしてくれるんです。擦り合わせもせずに質問ぶつけたらやはりちょっと苦しいかなあ(もし擦り合わせしてたのならごめんなさい)。 もっとも、知らないことを知らない、まだ考えてない、とはっきり言える浅野は、そういうところがいいのかもしれないしね。それにしてもLGBTコミュニティに関する基本認識は、教えてやらないとなんせ情報が流通していないんだから。

その、情報の欠落の問題です。
今回の都知事選で、一般都民は歌舞伎町がきれいにかつ安全になって(?)、きっと暴力団や外国人犯罪集団も駆逐されつつあると思っているのです。これはまったくもって歓迎すべきことだ、と。
おなじようなことが“性と享楽の魔界”である二丁目なる場所で行われて何が悪い、という受け取りなのです。思い起こしてもご覧なさいな、二丁目にデビューする前に、二丁目がいかに目くるめくほど恐ろしく兇まがしく妖しいものとして私たち自身にさえも映っていたかを。そこが浄化されるというのです。いい話じゃないですか! 一般には、「二丁目は性的少数者の数少ない命綱のコミュニティなんだ」とだけ訴えても、「へん、歌舞伎町だって暴力団の命綱の場所だろうが。同じこった」と返されるだけかもしれません。

そういう印象をくつがえせる、そうしたことにきちんと対抗しうる言説を、つまり「歌舞伎町」と「二丁目」はぜんぜん意味が違うのだということを決然と示しうる言葉の群れを私たちは必要としているのですが、それはまだまったく一般都民レベルには届いていないのでしょうね。それで石原の父権主義的な話し振りだけが彼らに響くという構図。断固たる上意下達でディーゼル車も排除して都内の空気はきれいになり、あの四男のスキャンダルの逆風はもう止んでしまったみたいだからそれで「石原で何が悪い」となっているんだ。傲慢、無礼、差別体質、それだけでは政治的にはまったく対抗できないのです。 なぜなら、都民はそれを飲み込んだ上で石原の父権を求めているのだから。強い父親でそういうオヤヂなやつはよくいる話、つまり慣れちゃってるんだから。そこをひっくり返せる物言いが、どうしたらできるのか。

遠く見ているだけの私には何を言う資格もないですけれど、裏方のプロモーターたちは、こういう選挙の時には遠慮なんかしてる暇はない。ほんとうに大変なのです。ご存じのように、人の好い素人じゃダメ。子供でもダメ。選挙で求められるのは、えげつない裏方と笑顔のおもて方。あたりかまわぬ挨拶と謝辞と、悪魔も騙せるほど頭の切れる参謀。マーケティングに精通したアイデアマンたちと、そしてそれを恥も外聞もなく実行してくれるピエロたち。 おお、かなりの人数が必要。

この選挙、きっと多くの人が傷つくでしょうが、どうせ傷つくなら覚悟の上で予定的にしっかりと傷つき、しっかりと這い上がり、さらに強い大人になろうじゃありませんか。ね。

March 30, 2007

オーディナリーという言葉

NHKで「夢見るタマゴ」って番組、ニューヨークでもTV Japanで放送されていて、例のあのダウンタウンの浜田が司会で、きのうは男性美容員っていう、デパートの化粧品売り場で客たちの化粧品相談やメーキャップ相談や実地をやってる男の子が出てきました。で、思ってたとおりの展開になるわけですね。つまり、浜田が「そっちのほうに間違えられへん? その世界、メケメケが多いやろ」ってなふうにいじって、あ〜あ、と思ってたら、その美容員も控えめながら「ぼく、あの、ノーマルです」って返事して、予定調和というか何というか sigh...。(この辺のノーマルのニュアンスへの引っかかりは、すでに10年近く前に書いたマジためゲイ講座の第一回目をご参考に)

まあ、きっと「ノーマル」という言葉は日本では外来語ボキャブラリーの偏狭さから「ストレート」という意味で使ってるんでしょうが、それでスタジオはまたパブロフの犬に成り果てたごとくお嗤いで反応して、いったいこの人たちっていつまでこういうことを続けてれば気づくんだろうとすでにパタン化した暗澹たる思いを横目に、そういやNHKだからってんで浜田もオカマを「メケメケ」と言い換えてるのか、その辺の放送コードはすでに確立してるのかねとか思うものの、言い換えててもけっきょくは同じだけどね、とか思いつつ、はたと膝を打ったのでした。

その膝を打ったことはあとで述べますので、まずは次のクリップを見てくださいな。
これは「2人の父親 Twee Vaders」ってタイトルの歌です。
どうもオランダのテレビ番組らしく、毎回、このKinderen voor Kinderen(子供たちのための子供たち?)という子供たちのグループが、いろんなメッセージソングを作って歌う番組らしい。


さて、英語の字幕によれば、歌の主人公の男の子はバスとディードリックという2人の男性カップルに1歳のときに養子にもらわれたと歌います。で、バスは新聞社で働く人で、ディードリックは研究所で働いてる人です。
歌詞は次のように続きます。

「バスはぼくを学校に送ってくれるし、ディードリックはいっしょにバイオリンを弾いてくれる。3人で家のTVでソープオペラを見たりもする。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、でもすごくうまくいってる。ぼくには2人の父さんがいる。2人の本物の父さんたち。で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる」

2番以降は以下のごとし。
**
ぼくがベッドに入るとき、
ディードリックが宿題をチェックしてくれる。
バスは食事の皿を洗ったり、洗濯をしてたり。
病気になって熱があるときなんか
ディードリックとバス以上に
ぼくのことを心配してくれる人なんかだれもいない。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。

ときどき学校でいじめられもする。
もちろんそんなことはイヤだけど。
おまえの親、あいつらホモだぞって。
それをヘンだって言うんだ。
そんなときはぼくは肩をちょっとすくめて
だから何だい? おれ、それでも父さんたちの息子さ。
そういうのはよくあることじゃないけど
ぼくにとってはぜんぜんオッケーさ。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
2人ともクールだし、ときどきは厳しいけど、
でもすごくうまくいってる。
ぼくには2人の父さんがいる。
2人の本物の父さんたち。
で、必要ならば、2人はぼくの母さんにもなってくれる。
**

これを見たあとでも浜田は「メケメケ」といって嗤えるんだろうか。(反語形)
ただたんに浜田は、このような情報を持っていなかったためにこういうことをお嗤いにしてしまえるのでしょう。(斟酌癖)
それを思うとそうした愚劣さを気づかずにさらしている彼が哀れでもありますが。(ちょっと本音)

さて、この歌詞の3番に、学校でおそらく浜田のようなガキどもから「あいつらホモだろ」といじられた主人公の少年が、「It's not ordinary」と述懐する部分があります。「But for me, it's quite ok」(でもぼくにとっちゃそんなのぜんぜんオッケーさ)と。

このオーディナリー、「それって普通じゃないけれど」と訳すとうまく伝えきれないものがあります。「普通」という言葉だと、多数決に基づく「正常さ、標準さ、規範的さ=ノーマル」という意味にもとられてしまうので。
で、ここはordinaryですので、日本語では「よくあること」と訳したほうがニュアンスが近い。
で、「はたと膝を打った」のは何かというと、父親が2人いることは「It's not ordinary」と歌うのを聞いてて、ああ、これ、使えるかも、と、さきほどの「ノーマル」に対比して思ったということなのです。

これから、ヘテロセクシュアルの人は、自分のことを「ノーマル」の代わりに「オーディナリー」です、って言えばいいんじゃないのかしら。(意地悪、入ってます)

で、ゲイはオーディナリーじゃないのね。
何か?

エクストローディナリー Extraordinary に決まってるんじゃないですか! (笑)

(付記)
じつは、この番組でプチッとキたのはほんとは上記の部分じゃなくて、「子供が言うことを聞かないときに浜田さんはどうしますか」という出演者からの問いに、浜田が「ぶん殴るよ、男だから」とかいうことを平気で口にして、それに合わせてスタジオのゲストの中尾彬だの加藤晴彦なのが「そうだそうだ」「すばらしい」と平気で賛成してたことでした。

いま日本のあちこちで頻発している児童虐待で死者まで出してることを、この人たち、どう思ってるのかなあ。そう言えば「オレの言ってる意味はぜんぜん違う」って返ってくるのは予測できるけれど、それとこれとが根でつながっていることには気づいていない。
ニュース見てないのかもしれないけど、ま、こういう輩はニュース見てても同じか、プライベートで言うことと、テレビでパブリックに言えることとの、場合分けがない。それは子供のすることです。まあ、「子供」とはいえ、上記ビデオで紹介した子供たちはそういうことはしないでしょうけどね。
だとすれば浜田以下のこの人たちは、きーきー騒いではしゃぐだけの猿と同じじゃねえか。
恥ずかしいなあ。

そしてもう1つ、こういうのを平気でオンエアーするのは、これが「将来の夢をひたむきに追いかける若者たちを紹介するバラエティー」と紹介しているように、なんでもありのジャンルの番組だというふうに思ってるからなのでしょうかね、NHK。
情けないことです。

追記)

しっかし、いまやってたんだけど、子供向けロボットドラマ「ダッシュマン」ってのでさ、悪者役の紫色の口紅塗ってる宇宙人みたいなのが、これまたオカマ言葉でしゃべってるのって、いったい何なのでしょう。

なんだかこれだけ続くとウンザリというか、ゲンナリというか。
いやがらせかよ、おい。
まいったなあ。

March 19, 2007

中国人を犯人にしない

いまに始まったことではないんだけどさ、ということではなく、いまもまだこんな体たらく、という感じですかね。TVジャパンの日曜番組で水谷豊の「相棒IV」ってのをやってて、今日のは「殺人生中継」なるタイトルでテレビ局の女子アナ殺人事件だったんですが、犯人はその女子アナを恋い慕って局に入った新人お天気キャスターのアナウンサー。「こんなに愛しているのに報われないなら、いっそこの手であなたを殺す」っていうストーカーまがいの脅迫状ってことは、つまりレズビアンのねじれた愛憎の結末、ってわけですか。
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女子アナ、レズビアン、愛憎、殺人、ともう、このとてもわかりやすい妄想世界はまさに世の“普通”の男性たちの典型ものなのかしら。ところがドラマのセリフではレズビアンも同性愛も単語としては出てこなくて、水谷豊の「相棒」である寺脇なんちゃらっていう刑事がもっともらしく愛ってもんを諭す場面まであってですね、なんだかその「倒錯性」はスルーなんです。べつに問題にもならない。ふうん、それって、人権遠慮? でもしっかりとレズビアンの関係性には殺人というスティグマをベタ塗りしてしまってるのにさ。

ま、それだけだったら私も見流してたんだけど、そのドラマが終わったら今度は続いて「アウトリミット」っていう、これまたへんてこなドラマ。元はWOWOWのドラマだったんですか? 岸谷五朗が主演のめちゃくちゃな刑事ドラマ。ここでもさ、麻薬密売のヤクザなんだかギャングなんだか、へんてこなスキンヘッド+タトゥーの兄貴と茶髪のチンピラが突然のホモ関係。よくわからんねえ。なんなんですかね。
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なんたっけ、あの芥川賞、蛇にタトゥー、か。ちがった。蛇にピアスだ。あれでも殺人犯が限りなくサド趣味の男性同性愛者に設定されていて、そのときも「おいおい」って書いたんですが、またこれですもんね。ちょっとメモとして書いておいてもよいかな、と。

人権メタボリックともいちぶでいわれる日本には、すでに謂れのないスティグマを負われている社会弱者に、さらに犯罪者という別のスティグマを塗り付ける惰性と安易が無自覚に繰り返されています。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、死者に鞭、ですよ。そうでなくてもパンチドランクでヘロヘロしてる同性愛という関係性を、またさらにそんなにいじめて、どうしたいのよ? 同性愛という言葉の持つ「変態性」「倒錯性」の雰囲気という先入観に寄り掛かったストーリーって、いい加減、拙いって気づきましょうよ。当のプロデューサーたちに「いじめってどう思います?」と訊けばしたり顔で「赦せません」って言うだろうくせに、これ、いじめですよ。どう? そうじゃない?

最近は「うたう警官」や「警察庁から来た男」などで注目の作家、佐々木譲さんと2年前にそんなことを話したときに、「そういえば、アメリカの推理小説ではかつて、中国人は犯人にしない、という暗黙のルールがあったんですよ」って教えてくれました。50年代、60年代かな、人種マイノリティだった中国移民への偏見と差別が蔓延してた時代、プロの作家たるもの、そういう偏見に安易にのっかって彼らを真犯人に設定するのは沽券に関わったんでしょうね。

どうなのよ、日本のプロデューサーたち。きみたちの沽券はどこよ?

March 17, 2007

虹色のタイムズスクエア

ピーター・ペース統合参謀本部長の「同性愛は不道徳」発言はその後も大きな反発を産んでいて、15日昼にはマンハッタン・タイムズスクエアで250人のゲイたちが集まって抗議のピケが行われました。これ、13日の夜にヴィレッジのゲイ&レズビアン・コミュニティ・センターで緊急抗議集会が開かれて、その場であのラリー・クレイマーが「私たちは自分たちが憎まれている存在だということを思い起こすべきだ」として、往年の「アクト・アップ(ACT UP=Aids Coalition to Unleash Power=私たちの力を解き放つためのエイズ連合)」的な実力行使の部隊を組織すべきだと訴えた、その呼びかけに応えたものだったんですね。ACT UPはそのクレイマーが1987年に組織したエイズ活動組織だから、まあ、懐かしいこと。
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クレイマーさん。

で、集まったのは当のクレイマーの他、ゲイだってバレて関連するスキャンダルでお隣ニュージャージー州の知事を辞めちゃったジェイムズ・マグリービーとか、マイケル・シニョリーレ、さらにはレインボウフラッグの発案デザイナーのギルバート・ベイカーなんかの往年のバリバリの活動家たちや若い連中も。いやはや。

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マグリービーさん。

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レインボウフラッグの発明者ベイカーさん。

しかし、年寄りたちが出てくると、ってか40代、50代、60代、70代という年齢層もそろっているこういう政治活動って、かっこいいなあ。若いもんも大切だが、やっぱり大人もいなくちゃね。それが自然というもんだもの。

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で、なんでタイムズスクエアかというと、あそこのブロードウェイと7番街がクロスする中洲の三角部分に、米軍のリクルートセンターがあるわけ。ここに抗議のターゲットを向けたんだけど、同センターはだれもいなくて、それをレインボウフラッグで取り囲む、ということに。
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こういうの、久しぶりですね。そうだな、マンハッタンで言うと、あのマシュー・シェパードの追悼集会が事前の予定なく五番街の大規模デモに変わった1999年以来かもしれません。

その模様が、YouTubeにアップされています。
しかしアメリカ人はこういう行動がうまいよね。
「Fire Pace, Hire Gays!(ペイスをクビにして、ゲイたちを軍に雇え)」なんてシュプレヒコール、ちゃんと韻を踏んでるんだもの。「Pace is immoral, Gays are fabulous」ってのも、不道徳はペースの方、ゲイはファビュラスなの!って意味ね。インピーチ・ブッシュというのもあります。これはブッシュを弾劾しろ、という意味。

日本も統一地方選と参院選の年、世界の動きを感じて、LGBTの政治の季節をつくりましょね。
いま発売中の週刊SPA! に、LGBTの政治家候補の特集が載ってます。参院選比例代表区に民主党から出る尾辻かな子(比例区投票では政党名と候補の個人名のどっちも書けるけど、彼女を当選させるには個人名の「尾辻かな子」って書いてね。尾辻だけじゃダメです。自民党にもう1人尾辻ってのがいるから)や中野区議選に出る石坂わたる(中野区の人たち、よろしく!)などが登場しています。読んでみてくださいな。

その1


その2

あ、そうそう、ゲイは不道徳かという質問に明確に答えていなかったヒラリーは、同じ15日、ちゃんと答えました。

"Well I've heard from a number of my friends and I've certainly clarified with them any misunderstanding that anyone had, because I disagree with General Pace completely. I do not think homosexuality is immoral. But the point I was trying to make is that this policy of Don't Ask, Don't Tell is not working. I have been against it for many years because I think it does a grave injustice to patriotic Americans who want to serve their country. And so I have called for its repeal and I'd like to follow the lead of our allies like, Great Britain and Israel and let people who wish to serve their country be able to join and do so. And then let the uniform code of military justice determine if conduct is inappropriate or unbecoming. That's fine. That's what we do with everybody. But let's not be eliminating people because of who they are or who they love."

みんな誤解してるようだけど、あたしは「ゲイは不道徳」っていうペースの意見には同意してなんかいないわ、ってなことです。「あたしの発言のポイントは、でも、Don't ask, Don't tell のほう。こんなの早くやめちゃえって前から言ってるでしょ。イギリスでもイスラエルでも従軍できるのよ。とにかく、その人がだれであるか、だれを愛してるかってことで従軍させないなんてことのないようにしましょ、ってことよ」って内容です。

March 15, 2007

「同性愛は不道徳」と発言するとどうなるか?

これは単純な言葉狩りの問題ではないのです。政治的に正しいとか正しくないとかとも違う。これはまさにじつに政治的な戦いの前線というか、戦陣のその最も切っ先の部分なのですね。権力闘争、政治闘争なのです。

発端はすでに日本でも報道されています。シカゴトリビューン紙という一流紙に12日、米軍制服組トップの統合参謀本部議長、ピーター・ペースのインタビューが掲載された。そこに次のような発言があったわけで。

peter_pace.jpg

"I believe homosexual acts between two individuals are immoral and that we should not condone immoral acts. I do not believe the United States is well served by a policy that says it is OK to be immoral in any way. As an individual, I would not want [acceptance of gay behavior] to be our policy, just like I would not want it to be our policy that if we were to find out that so-and-so was sleeping with somebody else's wife, that we would just look the other way, which we do not. We prosecute that kind of immoral behavior."
「私は、2個人間の同性愛行為は不道徳なものだと信じている。そうした不道徳な行為をわれわれは容認すべきではない。いかなる形でも、不道徳であってもよろしいのだというようなポリシーでこの国がうまく行くとは私は信じていない。一個人として、(ゲイ的行動の受容を)私たちのポリシーにしたいとは思わない。それはちょうど、だれそれがだれか他の人の奥さんと寝ているとわかりそうなときに、目を逸らしてわざと見ないようにするような、そういうことはしないし、そういうのをわれわれのポリシーにしたくないのと同じことだ。そういった種類の不道徳な行動は訴追するものだ」

なるほどね。
統合参謀本部長というのは、ほら、前国務長官だったパウェルさんが湾岸戦争時に就いていた職位。けっこうなもんでしょ?
で、予想されたとおり人権団体やリベラル派のみならず米上院軍事委員会の共和党議員までもが「同性愛を不道徳とする立場に反対する」と述べたり、ゲーツ国防長官までもが現行政策(Don't ask, Don't tell)を遂行する上で個人的な意見は意味を持たない、とペース議長を批判するということになった。で、13日には「自分の個人的な道徳観に踏み込むべきではなかった」との声明を発表するに至ったわけです。でも謝っちゃいませんよね。ゲイは不道徳というその信念が間違いだったとも言っていない。

これらはじつはいまも触れた、「Don't ask, Don't tell」をこれからも維持するかという政策論争が根本にあるのです。去年の中間選挙で民主党が勝利したときに、まずは軍隊でのそういう偽善的なポリシーが変更される動きがヒラリーらを中心に出てくるだろうとわたしもここに書きました。それが現実的なものになってきて、保守派の間から「軍隊でおおっぴらにゲイが横行するなんて信じられない」という声が出てきた。ペースの発言はそうした文脈で登場したものなのです。つまり、まさに政治的な鍔迫り合いなわけで。

ところが今日、ワシントンポストの寄稿欄で、共和党の元上院議員、アラン・シンプソンが次のような論考を展開して「Don't ask, Don't tell」なんていうバカげた規制は撤廃してしまえと訴えたのです。これもかっこいいから読んでみておくれでないか。

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"In World War II, a British mathematician named Alan Turing led the effort to crack the Nazis' communication code. He mastered the complex German enciphering machine, helping to save the world, and his work laid the basis for modern computer science. Does it matter that Turing was gay? This week, Gen. Peter Pace, chairman of the Joint Chiefs, said that homosexuality is "immoral" and that the ban on open service should therefore not be changed. Would Pace call Turing "immoral"?

Since 1993, I have had the rich satisfaction of knowing and working with many openly gay and lesbian Americans, and I have come to realize that "gay" is an artificial category when it comes to measuring a man or woman's on-the-job performance or commitment to shared goals. It says little about the person. Our differences and prejudices pale next to our historic challenge."

「第二次世界大戦時に、英国の数学者でアラン・チューリングという男(訳注=もちろんチューリングはすごく有名ですからこんな持って回った言い回しは不要なんですけど、シンプソンは敢えてこう強調したんですね)がナチの通信暗号を解読する努力の先頭に立っていた。彼は複雑なドイツの暗号変換機をマスターして、世界を救うのに貢献し、さらにはその仕事が現代コンピュータ科学の基礎を成したわけだ。このチューリングがゲイであることは、問題か? 今週、統合参謀本部議長のピーター・ペース将軍はホモセクシュアリティを“不道徳”だと言って、ゲイたちがオープンに軍に奉仕することを禁止する規則はだから変えるべきではないと言った。ペースはこのチューリングを“不道徳”と呼ぶのだろうか?」
「1993年からこのかた、私は多くのオープンリー・ゲイ/レズビアンのアメリカ人を知り、ともに働いてきたことに大いなる満足を感じている。そうして得た私の理解は、仕事の現場でのその男性または女性の仕事ぶりや共通した目標への貢献ぶりを評価するときに、“ゲイ”というのはわざと持ってこられたカテゴリーだってことだ。それはその人間のある部分をしか語っていない。私たちの相違点や先入観など、われわれの歴史的な挑戦の前では色褪せてしまう」

かっこいいこと言いますわね、アメリカの政治家ってのは。

まあ、じっさい、チューリングの時代ってのはたしかに多くの人びとがチューリングを「不道徳」と非難したのは確かなのです。

Alan_Turing.jpg
(合掌)

チューリングは1912年に生まれ、54年に死にます。享年42歳。
なぜ死んだのか? 同性愛関係が見つかり、悪名高い「gross indecency」罪で有罪判決を受け、ホルモン療法か刑務所行きかを命じられ、保護観察下でのホルモン療法を選択した1年後に青酸化合物を塗った林檎を食べて自殺したのです。

今週の国防総省の発表では、2006年度には612人が同性愛者として除隊されました。2001年の1227人に比べると半減しています。97年から01年までの5年間は年平均で1000人が除隊処分でした。その後の5年間ではこれが平均730人にまで落ちています。この減少はべつにゲイが少なくなったからではないでしょう。イラク戦争でゲイでもビアンでも必要だからと、多少のことは大目に見ているという偽善が働いているからなのです。

(追記)
ちなみに、「同性愛は不道徳」なのかどうか。
ヒラリー・クリントンは14日、この質問への直接な回答を回避して保守派層を刺激しない策をとっていると批判されています。しかし、それを言ったくらいで変わるのかなあ?

同性愛は不道徳なのか? ならば異性愛は道徳的なのか?
そう考えればわかることでしょう。
性指向は道徳とか倫理とか関係なしに、事実なのです。ヒラリーもそう答えればいいのにねえ。

February 15, 2007

いや、今度のヘドウィグは、よい!

ぼくは17のときにジーサス・クライスト・スーパースターをNYのブロードウェイで見て人生観を変えたってえ世代なんですよね、ぶっちゃけ。いや、それ以前にもいろいろほかにもファクターを得てはいました。ウッドストックもそうだし、コルトレーンはいたし、ジャニスもジミヘンも生きてたし。で、プロってもんの恐ろしさをそのときから知った、というか崇拝した。

で、です。そのときからプロじゃないものは見たくないと、いろんなものを見るたびにその思いが重なった。そんで、劇団四季のジーザス・クライストを見たときに、ものすごく怒ったわけですわ。ロンドン、ニューヨークでやったジーザス・クライストで世界中の劇団がこれを自分たちでもやりたいと思った。ところがどうだ、劇団四季のジーザス・クライストを見たら、世界中の劇団が、これはもう、どこでもやらなくてもよいと思うのではないか。

以来、基準にしたことがある。
自分の歌よりうまくないミュージカルは、見るべきではない。

わたし、じつはロック少年で、高校・大学までロックのバンドをやっていました。ドラムでしたがね。高音が出たんでバックコーラスというか、リード・ヴォーカルのラインから外れる部分をオレが歌う、みたいなこともやってたの。で、いまも、はは、ものすごく歌、うまいのよん。ハイウェイスター、歌えるんだぜ、へへ、みたいな。

また今回も前置き長いな。
本題に入ります。
もう昨日ですが、ヘドウィグのゲネプロ(舞台総練習)、見てきました。ええ、わたし昨日まで札幌でぎっくり腰で1週間寝てて、そんできょうやっと東京に着いたわけです。そんで最初のオーダーが、このゲネプロだったのです.

感想。
これは楽しみだ!

それじゃわからんな。まあつまりあのね、これは三上ヘドとはぜんぜん違います。三上のときは三上ですごかったけど、あれはいい意味でもそうでなくても三上のショウだった。彼の圧倒的なパワー。でも今度の山本ヘドは、山本だけのヘドではなく、中村中の絡むヘドであり、鈴かつさんのヘドであり、ジョン・キャメロン・ミッチェルの悲しみを背負ったヘドだったということだった。おまけにそれは日本のヘドだった。

しみじみするのはきっとセリフのせいでしょう(ちょっと自画自賛。えへへ)。
1つ1つのセリフがまるで詩のように響く。どうしてヘドウィグが書かれなければならなかったのか、それがわかる。ジョン・キャメロン・ミッチェルがなにを言いたかったのか、それが響いてくる。つまり、このヘドウィグは、悲しいの。これはショーじゃない。演劇なんだ。三上バージョンのように、ヘドウィグはオカマ笑いを笑いながら喋ったりはしない。酔っぱらって訥々と自分を語りだす。

で、なにはさておき、山本君、歌、うめえじゃないの、こいつ、って思いました。
中村中ちゃんはもちろん歌、うまいです。で、この2人の声のアンサンブルが、声質の差とその重なり具合がすごく気持ちいいんだなあ。そんでもって中村君のイツァークの出番、すごく工夫されていて、鈴木さん、これは考えたんですねー。ジョン・キャメロンがいまもう一度ヘドウィグをつくったら、やっぱりイツァークをこうするだろうって思った。いや、もっと正確に言うと、ジョン・キャメロンの気づかないイツァークを、鈴木さんはジョン・キャメロン本人に代わってジョン・キャメロン本人に気づかせてあげた、みたいな。こういうの、演出家やってて醍醐味だろうなあ。力量です。昨晩、初めてお会いしたけど、プロの顔をしてた。

でね、ヘドウィグの山本耕史、化粧その他、女装部分、すごいですわ。なんでこんな? って感じ。でも、言わせてください。ネタバレですけど。これが最後の転換ではじける。彼、すごく綺麗なの。
神々しいのでです。
うわ、芸能人って、こんなに綺麗なんだ、って、思ったです。
しかしなんであんな躯してるんだろ。ってか、あの肌。
思わず手を伸ばして、あ、すんません、ちょっと触っていいですか、ってお願いしたくなっちゃう。
それがわかるステージになってる。あの綺麗さにはひれ伏します。

でね、わたし、ゲネプロ見て、不覚にも左の目から涙が一粒こぼれました。
もう最後に近く、

(トミーの歌:)「LOOK WHAT YOU DONE. YOU MADE ME WHOLE. BEFORE I MET YOU, I WAS THE SONG. BUT NOW I'M THE VIDEO.(きみがしてくれたこと。ぼくを完全にしてくれた。きみ会う前、ぼくは歌でしかなかった。それがいまはビデオだ」

(ヘドウィッグの歌:)「LOOK WHAT I'VE DONE. I MADE YOU WHOLE. YOU KNOW THAT TOU WERE JUST A HAM. THEN CAME ME, THE DOLE PINEAPPLE RINGS...(あたしがやってあげたこと。あなたを完全にしてやった。ただのハムだったあなたのもとに、あたしが来たの、ドールのパイン缶の穴開きパインが)」

*****
ね、すごいでしょ。

悲しいヘドウィグを、ぜひ見てください。この劇が何を言おうとしていたのかを、山本君のことばで聞いてみてください。これは、おそらく、回を重ねるごとによくなってくるはずです。本日のこけら落とし、観客の入った中で山本、中村の2人が、どう化けるか、ものすごく楽しみです。この劇、翻訳してよかった、って昨晩、舞台を見ながら思いました。わたしの日本語がプロによってこなされ、配置され、語られるさまを見て、ゾクゾクしたもんね。はは。これは4月の新宿コマも見たくなってきた。そんときもまた日本に帰ってこようかしら。

****

で、ここで業務連絡。
あした金曜日の新宿FACEのチケットが何枚か別枠で出るそうです。
新宿FACE、ほんとは完売だったんですけど、十数枚かしら、会場の中央部分の席があるって。

わたしのこのブログで告知です。
早い者勝ち。
販売のサンライズ・プロモーション東京
0570-00-3337
ここに電話したら、買えるって。
16日のヘドウィグ、あるんですか? って電話で言ってみてください。

では、

February 13, 2007

元NBAスターのカムアウト

日本・札幌に帰っております。ところがインフルエンザと(急な雪かきによる)ぎっくり腰でこの1週間、ほとんどなにもやる気なしで過ごしてしまいました。その間、いろいろなことが起きたようです。

まず大きなニュースだったのは7日水曜日のジョン・アミーチ(36)のカムアウトでした。これはESPNというアメリカのスポーツ専門チャンネルで「Outside of the Lines」というタイトルを付けて特別枠で放送されました。

http://sports.espn.go.com/nba/news/story?id=2757105
(冒頭のYouTubeが削除されても上記のESPNサイトで動画が見られるかもしれません)

もっとも、このカムアウトは近々出版される彼の自伝「Man in the Middle」(ESPN Books)の中でなされているのですが、その前触れという形ですね。
amachiebook.jpg

彼のカムアウトの何がニュースかというと、米国4大プロスポーツの1つ、全米バスケット協会(NBA)ではこれが初めてのカミングアウトだということなのです。4大スポーツ(NBA, MLB, NFL, NHL)では6人目のゲイ男性、ということ。で、APなどが一斉にこれを報じることにもなっています。ここでも紹介したことのあるゲイ人権団体「ヒューマンライツ・キャンペーン(HRC)」は、例の「カミングアウト・プロジェクト」(カムアウトを呼びかける活動)でアミーチにスポークスパーソンになってくれるようお願いしているそうです。

アミーチはペン州立大学からオーランドー、ユタ、クリーブランドという名門チームでプレーして3年前に引退、現在はロンドンで暮らしています。さて、カムアウトのいきさつはまあ、だいたい同じです。現役時代には考えられなかったということ。しかしユタ・ジャズ時代からすこしずつゲイとしての生き方を受け入れてきたこと。2人のチームメートが、おそらく最初から彼がゲイであることをわかっていただろうということ。

その1人がグレグ・オスタータグ。彼だけがアミーチにゲイかと訊いてきたといいます。その彼に、アミーチは「You have nothing to worry about, Greg」と答えた。「そのことで、心配することはないもないよ、グレグ」。

もう1人は彼が「マリンカ」と呼ぶチームメートでした。これはロシア語で「おちびちゃん」という意味だそう。ロシア出身のアンドレイ・キリレンコという選手のことでした。質問されたわけではないが、おそらく彼もアミーチのセクシュアリティを知っていた。ユタ・ジャズでの最後のシーズン、クリスマスが終ったあるときのことだそうです。「マリンカがインスタントメッセージでぼくを大晦日のパーティーに招待してくれたんだ。自分は気に入った友達しか招待しない、と断りながらね。で、次のメッセージを読んだとき、ぼくは涙が出てきた。『ぜひ来てくれ、ジョン。もしいるなら、もちろんきみのパートナーも大歓迎だ、きみにとって大切なひとのことだ。連れてこいよ。それがだれであっても、ぼくはかまわない』」

その日は自分でパーティーを開くことになっていたので招待は断わらざるを得なかったそうですが、アミーチは代わりに500ドルもするジャン・ポール・ゴルティエのボトルのシャンパンをキリレンコに届けました。いい話だね。

さて、かつてのチームメートやコーチなどから、彼のカミングアウトへの反応が表に出てきています。
いろいろあって面白いです。

ダラス・マーヴェリックスのオーナー、マーク・キューバン「マーケティングの見地から言うと、たまたまゲイだった選手は、とんでもなく金持ちになりたいんならそりゃカムアウトすべきだな。マーケティング(商売)とエンドースメント(スポンサーの獲得などの社会的認知のこと)の話で言えばこんなに最高のことはない。単にスポーツ選手だっただけでは得られないくらい、多くのアメリカ人にとっての最高のヒーローになれる。で、金がポケットに入ってくるってわけだ。逆に言えば、だれかがゲイだからっていってそれで非難するようなことをしたら、そりゃつまはじきだ。抗議のデモはされるしいま持っているスポンサーまで失うことになる。なんでもいま世界中が、そりゃ難しいことだ、困難なことだって思うようなことをそれこそ自分が自分であるために困難をものともせずに立ち上がって克服しようとしたら、それがなんであろうとそれはもうアメリカン・ヒーローなんだ。それがアメリカの精神ってなもんだ。逆境に立ち向かい、自分が何者かであるために闘う、それがたとえ多くのひとには分かってもらえないようなもんでもだ、それは強い意志を持ってなくちゃできないってもんだ。苦しいことにも耐えてな。まあ、そうはいっても彼(アミーチ)をジャッキー・ロビンソン(黒人で最初の大リーガー)に喩えるつもりはないけど、しかしいろんな点で似たような部分もある。やつはロールモデルになるよ」

キューバンの上記のコメントはthe Fort Warth Star Telegramという新聞に載っていたものですけど、ま、そのまま受け取るにはちょっと理想的すぎますけどね。でもしかし、おそらく彼はそう言わねばならない、そう言うことでそういう理想に近づくべきだ、という思惑をしっかり意識して発言しているのだと思います。まあ、エール半分だな。いいやつだ。

ではほんとうのところは、ってんで次のコメントを。

ユタ・ジャズのコーチ、ジェリー・スローン(反ゲイの侮蔑語でアミーチを呼んだことがある輩らしいです)
「(侮蔑語で呼んだことは)ああ、そりゃきっと問題あったかもな。はっきりとは知らんが、だいたいおれはいつも人の心がわかるんだ、言葉じゃなくて。人間ってのはやりたいことをやるんだ。べつにそれが悪いとは思わんよ」(訳者注;英語でも言ってることがよくわからないのです=Oh yeah, it would have probably mattered. I don't know exactly, but I always have peoples' feelings at heart. People do what they want to do. I don't have a problem with that.)

クリーヴランド・キャヴァリアーズのレヴロン・ジェイムズ(現在の若手NO.1スタープレーヤー)
「チームメートってのは信頼が置けなくちゃダメだ。もしだれかがゲイでそのことを自分で認めてないとしたらそれはそいつが信頼が置けないやつだってことだ。チームメートの条件としてそれが第一のこと。みんな信頼してやってる。部室内、ロッカールーム内の規則てのを知ってると思うけど、ロッカールームで起きたことはそこから出してはいけない。それが信頼ってことだ、マジで。そういう信頼の問題ってすごく大きなもんだ」
(訳者注;これも何が言いたいんだかよくわからんね。カムアウトのパラドクスに関して、もうすこし理解があってもよさそうなもんだけど、高校卒業後すぐにキャヴァリアーズにドラフト1位で入ったもんだからいまもあまり世間のことを知る機会がないんだと思う。「カムアウトのパラドクス」ってのは、カムアウトしなかったら嘘つきになり、カムアウトしてもいままでずっと嘘つきだったということになること、あるいはカムアウトしたら嘘つきよりひどいゲイだということになるということ;したがって、ゲイであることはいずれにしても信頼の置けないやつであるという結論になるわけです)

オーランドー・マジックの選手グラント・ヒル
「ジョンがそうしたことで、きっと現役っでプレーしてる選手でも引退してる選手でも、励まされ自信を得て、これからカムアウトしやすくなるはずだと思う」

NBAのコミッショナー、デイヴィッド・スターン
「わがリーグはじつに多様性に富んでいる。NBAで問題なのはつねに「試合に勝ったか?」ということであり、それだけだ。それ以上の詮索は不要」

フィラデルフィア・シクサーズ、シャヴリック・ランドルフ
「おれにゲイだって寄ってこない限りおれは大丈夫さ。ビジネスの問題である限りいっしょにプレーすることに問題はないよ。まあ、でもロッカールームじゃちょっとぎくしゃくした感じになるだろうけどな」

トロント・ラプターズのコーチ、サム・ミッチェル
「スポーツってものの何たるかを考えると、それにロッカールームってのもあるしね、なかなか難しいものがあるな。タフな問題だよ。まあ、そんなにたくさんだとは思わないが、チームの1人か2人は(いやだってやつが)いるだろうね」

フィラデルフィア76サーズ選手、スティーヴン・ハンター
「マジかよ? やつがゲイだって? いまの時代、ダブル・ライフを送ってるやつっているからなあ。オレ、テレビたくさん見てるからわかるけど、結婚してる男がゲイの連中と遊び回っていろんなバカなこととか気持ち悪いこととかヘンタイなこととかたくさんやってるのを知ってるさ。まあ、オレに言い寄ってこなけりゃオレは関係ないけどね。男らしくバスケットボールをプレーしてちゃんとした人間として振る舞うなら、オレのほうには問題はないけど」

スポーツ界の抱える困難が、これらのコメントに如実に現れているようです。

January 31, 2007

「ゲイの高校生の普通な毎日」

「ゲイの高校生の普通な毎日」というブログを読みました。ちょっと前ですが、1月25日のです。この高校生ブロガーくんはカムアウトしていないようですが、そのブログに「実は最近仲いい子の部活の後輩の子がゲイなんだって聞いちゃったりしました」と書いていました。

どうも「ケータイを勝手に見られたりして、なかにブックマークしていたゲイサイトを見られてしまって判明した」らしい。で、噂が立って「それでかなり避けられたり陰で言われたりしてるみたい」なのですね。「これって全然他人事に思われへん」と彼は書きます。そうして「やっぱり……異性愛者からしたら同性愛者ってのは気持ち悪いもんでしかないみたいです。あと、どうもおかしな思考回路持った人ってイメージ多いし……。友達に言われましたもん。その子が近くにいるときに僕が背伸びしてお腹出してると『あいつには気をつけろよ。ゲイやから襲われるで!』」

「ゲイの高校生」くんは、「とりあえず作り笑いでごまかしたけどそれって憤慨。同性愛者がみんながみんなそんなやつじゃないですから。普通に常識ありますから」ととてもしっかりしたことを書いています。「カバちゃんとかおすピーとかかりやざきさん」のテレビのイメージの影響を感じながらもその3人を「すごく面白いからすきだけど」とフォローしてもいます。で、「同性愛者って実は、ふつうにキャラ薄く生きてる人が多いんだよぉ……ばれないようにばれないようにって、毎日繕いながらひっそりと恋愛生活してるんやしぃ」といまの高校生ゲイの世界をさりげなく、しかし的確に教えてくれます。「僕もいつかは同性愛者ってことを隠さずに生きていけるようになりたい。たとえ、何人の人が背中をむけても、きっと何人かはわかってくれるはずだって信じたいから」という彼は、そしてブログを「うん。強くなろう……」と結ぶのです。

いい文章だなあ。

さて、これを読んでどう思ったか。こんな21世紀になっても日本の高校生たちは20年前と同じ差別にさらされているのか、とか? あるコメントは「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね……。私も憤慨です。同性愛とか別に普通なんですけどね。そうじゃない人のほうが多いのかーわからんなぁー」と言っていました。また別のひとは「やっぱり友達ゎみんなノンケだから、同性愛っぽい話とかが出るとキモって顔する人ばっかりで」とも。

コメント群もみなさん共感的で、早く噂が消えればいいのにとその噂の後輩くんを気遣ってくれています。やさしいね。

高校生ってどうなんでしょう。ほんとにそんなにホモフォビックなのかなあ。私は「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね」というコメントに逆に気づくことがありました。

つまり、理解が増えたというのが表面的なら、理解のなさもまた表面的なんじゃないのかと。ホモフォビアも、ちゃんと理解して抱いてるんじゃなくて、そう凝り固まったものでもないんじゃないのかなって思ったわけです。みんななんとない受け売り、耳に挟んだものをまるで自分の考えたことのように思い込んじゃってるだけかも。そういうのもまたピアプレッシャーの一種でしょうね。みんながそう思ってる。そんな幻想からの圧力に押し流されてるだけ。

そうしたホモフォビアって、まあ高校生のリビドーの強さを纏ってなんだかすっごく厄介なバカ騒ぎめいたものにも見えるけれど、じつはそんなに大したもんじゃないんじゃないんでしょうか? そこを教育で衝いてやれば、かんたんに転ぶんじゃないかなあ。

教育ってカルチベートcultivateすることだっていったのは太宰治ですけど、そこに植えるのは正しさのタネなの。その正しさの芽を示してやること。それは情報のときもあるし態度のときもある。で、正しさはまずは信じるに足るものだってことを示してやること。まさにそれこそが必要なことなのではないか? それこそが「教育の再生」ってことの1つじゃないのか。

高校生のホモフォビアなんて幻想だ、そう実体があるものではないと書きました。中学生や小学生間のホモフォビアではもっとそうでしょう。正確な情報が与えられていないところでは幻想しか成立しませんからね。小学生と高校生のホモフォビアの違いは、まあ、時間が経過したせいで表層の角質化がやや進んだということくらいか。その証拠に(小学生の時とそう変わらないという証拠に)そういうホモフォビックな言辞を吐く高校生に「どうして?」って訊いてやったら、おそらく3つ目の「どうして?」くらいでそれ以上の答えに窮するでしょうから。

それが凝り固まっちゃったいい年のヤツなら、答えに窮する自分を認めたくなくて的外れな反撃に出たり無視を決め込んだりする。そこで終わりです。これは個別対応しても時間と労力の無駄だ。よほどの友達でない限り、そんな手間を敢えてこちらから割いてやる必要も気力もない。それは時代のパラダイムの変化で十把一絡げに変える以外にない。
でも高校生なら(それもまたわたしの甘っちょろい幻想かもしれないけれど)、自分が答えられないという事実に新鮮な驚きを覚えることも可能ではないか? 自分が答えに窮している瞬間に、あ、そっか、と蒙が啓かれる喜びを覚えることもできるのではないか? なぜなら、正しさに気づくことは楽しいことなのですから。ま、最近はキレる高校生もいるだろうけれどね。それはまた別の話。正しさが時としてとんでもなくイヤなものだってのも、それは次のレッスン。

で、私はそれが教育の醍醐味だと思う。そうしてそれはそんなに、というか、ぜんぜん、難しいことではないはずだ。その機会を、先生たちはどうして見逃しているのかなあ。もったいないなあ。

じゃあさ、先生という教育者たちがそれを見逃しているのなら、先生に頼らずに生徒たち同士が互いを触発し合うことだって、じつはそう難しいことではないと思うのです。さっきも書いたけれど、相手が友達だったらそういう触発の手間をかけてやってもいいじゃないですか。友情を手がかりにその友達のホモフォビアをちょっとずつ修正してやる。それはそいつのためです。放っておいたらホモフォビアを抱えたままのみっともないヤツになってしまうのですから。

「言うのは簡単だけれど」という声が聞こえてきそうだけれど、ほんとにそうかしら? 試したこともないんでしょ? どうしてそういえるのか? カムアウトの怖さはね、半分は妄想なんです。ビクついて頭の中で怖さが膨らんで……でも、じっさいはそんなに大変なことではないと思うなあ。十代のホモフォビアなんて枯れススキみたいなもので、そう大層なことではないという例証は欧米の中学や高校なんかでは枚挙にいとまがないのですから。大層な場合もあるけどね、それはだいたい、相手が集団でピアプレッシャーに凝り固まって、自分じゃどうにもできなくなるときです。でもそれはホモフォビアの強さというよりも、集団ヒステリアの強さなんだと思う。

やわらかな心の、やわらかさに期待できるような、そんな機会が、若い彼らのまわりにもっともっと増えるといいね。

January 26, 2007

喰えないヤツだね

CNNの中でもタフマンとされるウルフ・ブリッツァーが、ブッシュの一般教書演説のあとで副大統領のチェイニーに対面インタビューを行ないました。日本の新聞報道などでは上記映像の前半部分、つまり、ブッシュによるイラク増派政策への民主党からの批判を聞き、ブリッツァーが「イラク政策の失敗が政権の信頼を損ね、共和党内にも増派への疑問が広がっている」と言うと、チェイニーがひとこと、「ホグウォッシュ(hogwash=豚のエサ)」と吐き捨てるように一蹴した、という部分がニュースになっていますが、まあ、この男、ほんと、凄みがありますわね。

ホグウォッシュってね、このブルシット(牛の糞)と同じく、だれも喰わない戯言、っていう意味。それもこいつ、鼻で笑いながらこういうことを口の端でいうんだ。吐き捨てるように言う、というのがどういうことか、この映像は教科書だね。ブリッツァーもいちいち言葉に詰まるほどだもんなあ。はは。

で、日本ではニュースにならない部分を抜き出しましょう。同じインタビューでこの映像の最後の部分の質問は、あの娘のメアリーさんの妊娠問題についてです。そんなことも訊くわけです。
それはつぎのようなやりとりでした。
それにしてもどうしてこんなプライヴェートなことまで質問するのか?
それは、まさに先日、私がここで記した槙原カムアウト問題で触れたことです。
妊娠はプライヴェートなこと。しかし、レズビアンであるメアリーさんの妊娠は、いま最も議論の起きている人権問題に関わることだからです。ゲイのカップルに生まれる子供のこと。そうしてそのカップルと子供への法的保護。だからブリッツァーは質問しようとした。ところが……。

さあ、顛末は次のようなものでした。文字に起こします。

**
Q We're out of time, but a couple of issues I want to raise with you. Your daughter Mary, she's pregnant. All of us are happy. She's going to have a baby. You're going to have another grandchild. Some of the -- some critics, though, are suggesting, for example, a statement from someone representing Focus on the Family:
"Mary Cheney's pregnancy raises the question of what's best for children. Just because it's possible to conceive a child outside of the relationship of a married mother and father, doesn't mean it's best for the child."
(Q;もう時間がないんですが、もう1つ2つお訊きしたい。あなたの娘さん、メアリーのことです。妊娠なさった。とてもうれしいことです。赤ん坊が生まれるんですからね。あなたにまたお孫さんができるわけです。ただ、批判する人も、まあ、何人かいて、例えばですね「家族の価値」を標榜する代表者なんかからは「メアリー・チェイニーの妊娠は子供たちにとって何が最良なのかという問いを提起している」と声明を出したりしています。つまり結婚している母親と父親の関係の外で子供が生まれてもいいと思われたりして、それは子供にとってベストなことではない、と)
Do you want to respond to that?
(そういう発言について何か言いたいですか?)

THE VICE PRESIDENT: No, I don't.

(副大統領;いや、言うことはない)

Q She's obviously a good daughter --
(もちろんとても素晴らしい娘さんで……)

THE VICE PRESIDENT: I'm delighted -- I'm delighted I'm about to have a sixth grandchild, Wolf, and obviously think the world of both of my daughters and all of my grandchildren. And I think, frankly, you're out of line with that question.
(遮るように=筆者註)(うれしいことだ……6人目の孫が生まれようとしてるのだから、それはうれしいことだ、ウルフ、それにもちろん、娘2人の世界のことや私の孫たちみんなのことを考えるとね。で、思うに、率直に言えば、きみのその質問はルール違反だ)

Q I think all of us appreciate --
(たじたじになって)(いや、みんな評価すると思いますが、その……)

THE VICE PRESIDENT: I think you're out of -- I think you're out of line with that question.
(きみは論点から……その質問は、論点から逸れていて訊くべきことではないと思う)

Q -- your daughter. We like your daughters. Believe me, I'm very, very sympathetic to Liz and to Mary. I like them both. That was just a question that's come up and it's a responsible, fair question.
(しどろもどろ状態で)(あなたの娘さん、あなたの娘さんたちを気にかけているのです。私を知ってるでしょう、私はリズにもメアリーにも、とても、とても同情的だ。2人とも大好きです。これはただのふつうの質問ですよ。ふつうに頭に浮かんだ質問。それを責任をもって公正に質問しているのです。

THE VICE PRESIDENT: I just fundamentally disagree with your perspective.
(わたしは基本的に、そのきみの考え方には同意しない)

**
以上。そんなけ。
すごいでしょ。はは。
この"out of line"というのは、「線を越えてる」「はみ出している」「出過ぎだ」「分(ぶ)をわきまえない」「常軌を逸している」「規則違反だ」っていう、かなりきつい意味の婉曲な言い回しですわな。つまりね、ほんとはチェイニー、「たわごとだ」「何を言ってるんだ、バカ」「言って良いことと悪いことがあるぞ」という脅しをしてるわけです。脅し。でも、本質は何かというと、このおやじ、逃げてるんだ。都合が悪くなるとこうして脅して逃げる。

チェイニーは、同じこのインタビューで、イラクから手を引くことは「「アメリカ人は戦う根性がないとテロリストに言われる。それが最大の脅威だ」とも発言しています。彼の思考回路にはそれしかない。つまりメアリーさんのときと同じなんですね。都合が悪くなるとこうして「脅威だ」と言って脅すのです。で、なにも答えていない。「戦う根性」以外のものを相手に示し得ない、そういう思考回路こそがテロリストを煽るのだということに触れない。

こういうのを虚仮威しというのです。ホグウォッシュとは、まさにチェイニーに向けてこそ発せられるべき罵倒語です。おまえは豚も喰わねえわ、ってね。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

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 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

January 12, 2007

ハーヴィー・ミルクの胸像


6年近く前から準備されていた、サンフランシスコ市庁舎にハーヴィー・ミルクの胸像を設置するプロジェクトですが、いまその市庁舎に最終候補の3作の粘土プロトタイプが展示されました。「ハーヴィー・ミルクをもういちど市庁舎へ」というスローガンもいいですね。

彼がどういう人かはもう少なからぬ人が知っていると思いますが、知らない人はこちらを'クリック'。ここでは「ハーヴェイ・ミルク」となっていますけど(わたしも昔そう呼んでいたし、映画のタイトルもそうでした)、彼、ほんとの読みは「ハーヴィー」なんですね。だいたい英語の名前の読みで最後が「-ey」となってるのは「エイ」じゃなくて「イー」です(英語豆知識!)。

最終候補の作家はいずれもサンフランシスコ湾エリアのひとたちで、近々、この中から1作が選ばれます。で、1年かけて粘土からブロンズ像にして、それで来年2008年5月22日という、ハーヴィーの誕生日(生きていたら78歳です)に、除幕式っていうのかしら、公開される予定です(あら、彼、わたしの誕生日と1日違いだわん)。2008年は、彼が暗殺されてからちょうど30年目でもあります。

これは一般から9万ドル(1050万円)の寄付を集めて推進されているプロジェクトで、1等賞には制作費も合わせて6万ドル(700万円)くらいが提供されるんですって。最終候補の3作には粘土代で2500ドルだそう。

で、候補作は左のがいちばん写実的だね。この、ネクタイが風に翻ってるところがいいなあ。
で、顔としてはわたしは右のが好きかも。まさによく知っているハーヴィー・ミルクの笑顔です。
真ん中のは2つの別の顔が付いている。ペルソナっていう概念か。

さあ、どれになるんでしょう。どれに決まるにしても、いつも思うんだけどアメリカ人ってのはほんと人を顕彰するのがうまいやね。サンフランシスコの市役所にハーヴィー・ミルクの胸像が建つって、じつにサンフランシスコらしい計らい。決まったらまたここでお知らせします。

January 05, 2007

さて、2007年の書き初めは

今年はどんな年かといえば、アメリカでは来年11月(という遠い先)の大統領選挙への動きが徐々に表面化してくる年です。昨年11月の中間選挙で民主党が主導権を握った米国上下院議会が4日から始まりました。ということで、上にはめ込んだのは、昨年12月29日にニューハンプシャー州ポーツマスのタウンホールで行なわれた、民主党の大統領選挙出馬表明者ジョン・エドワーズの公開討論会の模様です。エドワーズは、2004年の選挙でも大統領候補に出馬して、けっきょく予備選でケリー上院議員に破れましたがそのケリーに請われて副大統領候補としていっしょに選挙戦を戦っていた若手のホープです。

さて、その彼がヒラリーやオバマより早く出馬表明して、選挙戦を開始、でこの質疑応答に臨んだわけです。一般参加者からの質問はイラク問題やなにやらと多岐にわたりますが、ここではお隣りマサチューセッツ州からの参加者であるマークさんという人が、ゲイマリッジについて質問しました。内容はかいつまむと次のようなものです。

質問「同性婚に関してはこの国には多くの軋轢が生まれているようですが、あなたの見方はどういうものですか? というか、あなたを支持するこの国のゲイの有権者に、どういうふうに話しますか、つまりその、宗教的な意味での同性結婚ではなく、公民権としてのゲイ結婚について、つまり同性のパートナーと結婚できる市民としての資格を得ることができるという意味での結婚に関して」

エドワーズの回答には、いまのアメリカの抱える困難が如実に示されています。というか、アメリカの大統領選挙で勝ち抜くための戦略的な物言いの難しさというものでしょう。

エドワーズは逃げるのです。こう言って。
「私にとって、一つの最も難しい問題ですね、個人的に──いえ、難しい問題はたくさんありますが──他の問題のほとんどにはそんなに個人的な葛藤は抱かないわけで。ただこのことに関しては個人的な苦悩が続いています……というのも、問題は、わたしの見方で言えば、自分のパートナーといっしょに暮らしたいという男女は、尊厳と敬意をもって扱われるべきだしその公民権も持って然るべきである。それが、おっしゃるように、アメリカにおける権利と公正さと正義である、と思うわけであり、そこで、問題は次にでは「それはシヴィル・ユニオンやパートナーシップの認知やパートナーとしての諸手当への支持を通しては達成できないものなのか? これではゲイのアメリカ人が与えられるべきレヴェルの尊厳と敬意は得られないのか? あるいは、ゲイ・マリッジの事柄へと橋を渡らなければならないものなのか?」、と。わたしは個人的にそのことに関してものすごく悩んでいます。答えがわからないのです。わかればいいのですが……云々」

じつは今月発売のバディにも書いたのですが、民主党の中でも最も先進的な1人とされるヒラリー・クリントンもまたゲイ・マリッジに関しては言葉を濁しています。

つまり、同性結婚の問題は、大統領選挙にとって鬼門中の鬼門なのです。

ならこう言ってはどうなのか?
「わたしは同性結婚には賛成です。しかし、いま同性結婚を支持すると公言すれば、多数の有権者にそっぽを向かれることになる。そうすれば大統領にはなれない。アメリカ全体の意思としては同性婚はいまはまだ時期尚早なのだと判断せざるを得ない。なので、戦略的に、わたしは同性結婚をまだ推進しようという立場を取らないことにします。しかし、時期が熟するときは必ず来る。HIV/AIDSに関してもその理解が多数派を占めた時期が来たように。その時期はわたしの任期中に来るかもしれない。そのときに同性婚に踏み切るにやぶさかではない。しかしそれまでは同性シヴィルユニオン、あるいは同性パートナーシップ制度として下地を作りたいのです」

まあ、そんなことをおくびにも出したら、それは同性婚賛成ということであって、戦略的にそれを隠しているということになって、まあ、選挙で投票者を失うことになるのは同じです。なのでそうとさえ言えないということになる。

つまり、言えないのですよ。

言えるときはいつか?
それは、そう言ったほうが票が取れる、失う票よりも得る票が多くなるときです。そうしていまはそうじゃないんだろうなあということなのです。

ただし、あと2年のうちに、そのような状況にならないとも限らないのもまた事実です。
というのも、例の米軍の同性愛者の従軍問題、「Don't Ask, Don't Tell」ポリシーですね、それがもうすぐにでも翻される時が近づいているのですから。これもまた、「Don't Ask, Don't Tell」の妥協が発効した1994年には考えられなかった状況なのです。

さてさて2007年。
まあ、今年もどうにかみなさん、生き延びましょうぜ。そうすりゃなんかかならずいいこともあるでしょうから。

November 14, 2006

おお、南アフリカよ〜&その他の短信

14日、南アフリカの国会(下院)が、なんと230対41という圧倒的多数で、同性婚を容認しました。
くーっ、やってくれますね。「結婚を男女に限定するのは憲法に保障する平等権に違反する」っていう違憲判決が最高裁で出たんだけど、それに基づいて議会で審議していた。

オランダ、ベルギー、スペイン、カナダに次ぐ、国家としては5番目の同性婚容認国です。

southafricamap.jpg

南アフリカって、ネルソン・マンデラが大統領になったときに「いかなる差別も許さない」という、アパルトヘイトの反省を込めた厳しい憲法(1994)を作ったのですね。で、そこには世界で初めて性的指向による差別も禁止するという文言が明確に規定されていた。ですから時間の問題ではあったんだが、国論はやはり、この議会の票決のようには圧倒的ではなく、なかなかきわどい二分状態だったようですよ。

同性愛はアフリカのほとんどの国で刑法犯罪で、なかには強姦や殺人と同じ量刑であるという状態の中、南アにはゲイの人権団体「OUT」ってのがあります。そこのプログラムマネジャーってからうーん、行動計画部長? ま、そんな役職のメラニー・ジャッジさん、さっそく速報しているNYタイムズにこんなコメントをしてます。

「この問題は私たちの憲法がどのような価値を持っているかのリトマス試験紙でした。平等って本当にどういう意味なのか? それはどんな姿をしているのか? 平等というのはスライド制の中には存在しません」

いいこと言うねえ。

これは今後、今月中にも全州評議会(上院)で承認されたあと、大統領の署名で法律になります。発効はまだ先でしょうけど。
ただ、批判票をかわそうと、役場の窓口係員が宗教上の理由などで(良心・宗教・信念の自由ってやつね)個人として同性婚申請者を拒否することもできるようになってるのですわ。こりゃまずいってんで、これに関してはまたまた法廷闘争の動きもあるかもしれません。こんなことしてたら黒人と白人の結婚も個人の思想上宗教上の信念によって拒否していいってことになりますものね。

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パリで先週の木曜日に(ギネスの日だっけ?)「同じ場所で最も多くのひとがキスをする世界記録」ってやつがやられたんだけど、あつまったのは1188人でみごと失敗に終わりました。世界記録は昨年ブダペストで集まった総計11570人の同時キスなんだってさ。

でもでも、はい、あなたは何人、この写真の中で同性同士でのキスを見つけられますか?

いい写真だなあ。

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残念なニュース。
モントリオールで今夏開かれたアウトゲームズ、大赤字。
モントリオール市に350万ドル(カナダドルだから3億円くらいかな)の借金ですって。
シカゴのゲイゲームズも赤字だったので、やっぱり、2つの分裂は財政的には痛かったんだろうなあ。なんでも派手だったし。さて次回はどうなるのでしょう?

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デザイナーのトム・フォード、エステローダーの重役とのミーティングで、彼の新作香水「ブラック・オーキッド(黒蘭)」の香りを、「男性の股間の匂いにしたい」って、あんた……。
pagesix014b.jpg

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Gays.comのドメインネームが50万ドルで売れたそうです。6000万円。
そんなに価値があるんですね。
久しぶりのドメイン売買ニュース。
ちなみに「Gay.com」は有名サイトで、こっちは既存、健在です。

November 10, 2006

エルサレムで何が起きているか?〜その他ハガード続報

イスラエルの首都であり、古代からユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒の巡礼の中心地であるエルサレムで、数週間前から、きょう11月10日に開催されるゲイプライド「ワールドプライド」のパレードに反対する超保守派(ウルトラオーソドックス)のユダヤ教徒たちの暴動が起きています。パレード開催予定のハレディ地区では夜ごとに車がひっくり返されたり火をつけられたりと、なんともこの宗教的憎悪の激しさは神をも畏れぬ蛮挙です。もっとも彼らはそれが神の意思だと思っているのだからたちが悪い。去年も参加者が刺されるという襲撃事件が起きました。本来はことし8月10日に行われたワールドプライドですが、メインイヴェントだったパレードはレバノン・ヒズボラへの攻撃や度重なる妨害で2度にわたって延期され、規模の縮小も余儀なくされてきました。8月には「ソドムとゴモラの住人たち(同性愛者たち)を殺した者には賞金20000NIS(50万円)を与える」というお触れまで出たんですよ。

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イスラエルでは同性愛は違法ではありません。たしか2年前には史上初のゲイの国会議員も誕生している。商業都市であるテルアビブではもう何年も前から大規模にゲイプライドマーチが敢行されています。しかし聖地イスラエルは別なのでしょう。「去年の刃傷沙汰はことし起こることに比べたら子供だましだったとわかるだろう。これは聖戦の布告なのだ」とラジオ番組で宣言する右派指導者まで現れる始末です。

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米ボストングローブ紙には、わざわざブルックリン(ニューヨークのこの地区にはオーソドックスジュー=正統派ユダヤ教徒=の一大コミュニティがあります)から出向いている反ゲイ活動家のラビ、イェフダ・ラヴィンが「この共通の憎悪の強大さは、ユダヤ人とムスリムの共闘を生むほどだ」とコメントしていました。じじつ、世界三大宗教の代表者たちがそろって聖地でのゲイプライドの開催を禁止するよう政府に要求してもいます。パレスチナを巡って戦争までしているユダヤ人とアラブのイスラム教徒が、ホモセクシュアルを駆逐しようというその猛攻においてのみ結託できるというこの愚かさを、私たちはそれこそナチスのユダヤ人虐殺やキリスト教による十字軍の傲慢に喩えることができるのですが。

じつは今日11月10日は「クリスタルナハト=クリスタル(割れたガラス)の夜」の記念日なんですね。クリスタルの夜とは、ナチがユダヤ人の商店・住宅・教会堂を破壊し大虐殺を行った1938年11月9日から10日にかけての夜のことです。それもユダヤ教原理主義者たちの不興を買ったのでしょうが。

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そういうわけで、このパレードの開催に向けてまたもや警察が妥協策を提示して、これには8日のガザへのイスラエルの誤爆で市民が19人も死んで、パレスチナ側がその報復テロを予告しているのでその警備をしなくてはならないということが背景なんですがね、まさに前門の虎、後門の狼状態。場所をヘブライ大学構内のスタジアムに限定する野外集会ということになったようですが、それでパレードの代わりと言えるんだろうかという疑問も残ります。でもとにかくそれがあと数時間で始まります。警官隊は3000人体制で警備すると言っているのですが、さて週末にかけて予想されるこのエルサレムの混乱は日本では報道されるでしょうか。

しかしそれにしても、こんなにまで妨害されても暴力をふるわれても、どうしてゲイたちはパレードを行おうとするのでしょうね。
それがわからないひとには、たしかにこれはなんの意味も持たないニュースではあります。

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全米福音派協会代表で自ら率いるニューライフ教会の司祭テッド・ハガードをアウトしたマイク・ジョーンズが、アウティングの行為によって福音派の連中から感謝されているというエピソードを紹介している。
コロラドスプリングスでホテルにチェックインした際、ニューライフ教会の信者という受付の男性が手を差し伸べてきて、「ありがとう。あなたのおかげで教会もテッドも救われた。テッドはこれで彼の必要とする助けを受けることができる」。
サイテー。
悔い改めよ、さらば救われん、ってことに収斂してしまっているようだ。

そのマイク・ジョーンズがもう1人をアウティング。

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ハガードの親友で全世界6000局で毎日放送されているラジオ番組「Focus on the Family」と、同名の非営利団体を持つ福音派クリスチャンの反ゲイ超保守派指導者、ジェイムズ・ドブソン=写真上=もゲイだ、と。

そのドブソン、ハガードのリハビリチームから「この重大な責任を負う仕事に対応できる時間がない」と辞去。神の助けを親友に与える時間のない宗教者とはいったい何ぞや。

そのハガードも登場した映画「ジーザス・キャンプ」(少年少女へのキリスト教洗脳サマーキャンプ)を率いるペンタコスタ派の司祭ベッキー・フィッシャー、「いまは危険な時期」ということでこのサマーキャンプを当面の間(数年間)中止すると発表。
おまえら、ずっと危険だったろ。

で、ハガードのリハビリとは、キリスト教系ニュースサイト「ChristianToday,com」によれば、

http://www.christiantoday.co.jp/news.htm?id=654&code=dom

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ハガード元米福音同盟代表、長期リハビリに参加へ
2006年11月10日 14時06分
 男性との「性的不品行」の疑惑を受けて米国福音同盟(NAE)代表を辞任したテッド・ハガード氏が、同性愛者向けの長期リハビリを始めることが10日、米国メディアの報道でわかった。

 メディアによると、リハビリはキリスト教理念に基づいて行われる。集団および個人カウンセリングと祈りで構成され、3−5年を要する。回復には個人差があり、個々の必要に応じてプログラムを組み立てる。

 祈りやカウンセリングでは、キリスト教徒として高い水準の聖潔を維持している人々と長期間交流をしながら、患者が自分自身の罪、不道徳さ、課題に正面から取り組む。

 コロラド州コロラド・スプリングスに拠点を置く福音主義キリスト教団体、フォーカス・オン・ファミリーのロンドン副代表はリハビリについて、「成功率は50パーセント。失敗して途中で逃げてしまった患者は正気を失って持ち物を売り払い、人々を避けながら寂しく余生を送るケースがほとんどだ」とプログラムの過酷さを明かした。リハビリの成果は患者の強い精神力と、支援側の正しい判断力にかかっているという。

 同団体創設者、ジェームズ・ドブソン師は当初ハガード氏の治療に参加する予定だったが、日程が合わず辞退が決まった。これまでにジャック・ヘイフォード牧師(チャーチ・オン・ザ・ウェイ主任、カリフォルニア州)とトミー・バーネット牧師(フェニックス・ファースト・アッセンブリー・オブ・ゴッド主任、テキサス州)らメガチャーチ(1万人を超す大規模な教会)の代表らがカウンセラーとして名乗りを上げている。

リハビリを経たハガード氏が宣教復帰するかは不明。同氏の弁護士で親友でもあるレオナルド・チェスラー氏は「彼(ハガード氏)は人生を神にささげて献身的に行き、今後も神の導きに自身を委ねたいと願っている」と話した。

***
これって、いわゆる「エックス・ゲイ(元ゲイ)」運動の“リハビリ”でしょう? 「ゲイを治す」というやつ。ああ、神さま。やっぱりけっきょくこいつら、なにもわかってないようです。なんたることか。


(冒頭のニュースの続報アップデートです)
イェルサレムのゲイプライド「ワールドプライド」、無事開催。

とはいえ、当初予定のパレードではなくヘブライ大学スタジアムを利用した青空集会(ラリー)に縮小(ってのは冒頭のブログのとおり)。反ゲイのユダヤ教、キリスト教、イスラム教の暴動や襲撃事件だけでなく、8日にガザ地区にイスラエル軍が誤爆して子ども7人を含む19人の一般パレスチナ市民が死亡するという事件があったため、パレスチナによる報復テロを恐れてイスラエルはそれでなくとも厳戒態勢。金属探知機などを使った3000人の警官の物々しい警備の中、取材者発表で1万人、警察発表で2000人、ってことはつまり、だいたい4000人が集まったってことでしょうね。
ほんと、イェルサレムは快晴のようでした。

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ところで、やっぱりラリーに妥協じゃなくちゃんとパレードをというLGBTの流れも止められず、ガン・アハアモン公園という別の場所から(大学との位置関係わかりません。すんません)「自然発生的な」パレードを計画していたグループもあった。で、こっちはパレードを始めようとしてあっという間に警官隊ともみ合いになって、30人の逮捕者を出したもよう。

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プライド反対の宗教学生のグループ250人がプライド集会後にデモを行ったらしいが、目立った衝突はなかった。

この問題に関する英語を話すイスラエル人及び他国人の意見はイスラエルの新聞ハーレッツ(って読むのかしら?)のサイトで読めます。なかなか興味深いです。

http://www.haaretz.com/hasen/pages/ArticleNews.jhtml?itemNo=784991&contrassID=13&subContrassID=1&sbSubContrassID=0

ken.mehlman.jpg

もう1人のアウティングされそうな隠れゲイ、共和党全米委員会(NRC)議長のケン・マールマン=写真上。先日のCNN「ラリー・キング・ライブ」でのビル・マーによる名指しが聞いたわけでもないんだろうが、どうも1月に議長職から退く予定らしいとのニュースが。まあ、選挙大敗の責任を取って、ということだろうが、“ゲイ疑惑”が弾けるまえに、ということなんでもあるんだろう。
しかしねえ……。
(さらに続報=マールマン、新年度はNRC議長職から退くことを発表しました。尻に火がついたんでね)

November 09, 2006

アメリカは変わるか〜中間選挙終わる

昨日からずっと中間選挙の結果を追って原稿を書いていました。やっと一息ついたのでブログにはLGBT関連のまとめを書き留めておこうと思います。とはいえ、まだ頭の中でまとめてるだけなので、書きながら、ということですか。

民主党の地滑り的勝利と言っていい下院での大量当選と、上院もまあヴァージニアのジェイムズ・ウェブの当選が確実になりましたので、あとはその票差が1%以内ということで負けた共和党の大物議員のジョージ・アレンが再カウントを要請するかどうかにかかっています。再カウントしてまた負けたらこいつは潔くないということでアレンは次の選挙にも目がなくなる。さあ、今か次か、どちらに賭けるか。

ということで民主党が議会を握るのは間違いありません。それでは同性婚などのLGBT関連の法案が通るようになるか。これにはまだ判断を示せません。プライオリティはまずはイラクなのです。さらに、ここで急進的に走ると次の08年の大統領選挙での反動が怖い。LGBT関連の事項に限らず、ここはまさに戦略的に事を進めるべきなのだと民主党側は思っていると思います。なぜなら、正念場はどうしたって2年後の大統領選挙なのですから。そのためには、次の2年間で議会では大統領を牽制しながら共和党からは妥協を引き出しながら建設的な施策を具現させることです。そうして国民の信頼を堅固にしてから大統領選挙に臨む。それしかありません。

ただ、布石というか伏線は張れました。まずはヒラリーがNY州の上院選で67%もの圧倒的な得票率で勝ったということです。同時に知事も同性婚賛成を公言している前州検察長官のスピッツァーが、その後任の検察長官にはリベラルで知られるマリオ・クオモ元州知事の息子であるアンドリュー・クオモが、そうして州会計監査官にも民主党のハヴェシ(彼はいろいろ私的流用などのスキャンダルがあったのに謝罪して当選)がそろって当選し、民主党の牙城である(あったはずの)ニューヨークの面目躍如といったところです(市長と知事が共和党だったのを、少なくとも知事だけは奪還したということで)。

このため、私としてはNY州が、同性婚に関する次の主戦場になるものだと思っています。

ところが、それもヒラリーが大統領になってからかもしれません。ヒラリー・ロダム・クリントンには昔からあまりに急進的だという批判がついて回っています。人気も高いが、毛嫌いする勢力も多い。しかも当選すればなにせ史上初の女性大統領ですからね、その抵抗勢力は筆舌に尽くし難いものになるに違いない。そこでより穏健なバラク・オバマの出馬が取りざたされてもいるわけです。もっとも、彼としても史上初のアフリカ系(父はケニア出身のイスラム教徒、毋はカンザス出身の白人、本人はプロテスタント)の大統領となるわけですが。

さてその同性婚問題は、今回の中間選挙で8州で「結婚は男女間に限る」という州憲法の新規定(修正)を作ろうとした住民投票が行われ、7州(アイダホ、サウスカロライナ、テネシー、ヴァージニア、ウィスコンシン、コロラド、サウスダコタ)で賛成多数だったものの、この種の住民投票としては初めて、アリゾナ州でこの提案が否決されたのです。

これは画期的なことです。なにしろ前回04年の選挙の時の住民投票では11戦11敗。しかも、そんな差別的な憲法修正に対する反対票が40%に届いたのがわずか2州だったのに、今回の7州のうちでこの提案の反対者が40%を超えたのは5州もあった。これは、確実に同性婚への理解がじわじわと広がっていることを指し示す証左でしょう。ニュースの見出としては「今回も7州で同性婚禁止の憲法修正案に賛成票」となるんでしょうがね、ほんとうは「アリゾナ州で同性婚禁止提案に史上初のノー」ってことのほうがニュースとしての読みは面白いでしょう。

ハガードのときも書きましたが、これってやはり同性婚は「どうでもよい問題」「そんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないの、ってな問題」に徐々になってきたことなのではないかと思うのです。わたしは、それは健全な推移だと思います。「同性婚は認めなくちゃ」という力の入った訴えの時期から、大衆レヴェルでは「まあ、そういう感じかな」というふうに変わってゆく。そうして、そういうふうにしてしか歴史ってのは変わらないんじゃないかと思うのですね。

また、Gay & Lesbian Victory Fund という、選挙に際してLGBTコミュニティとしてオープンリーゲイの候補への推薦を行う団体があるのですが、今回はそこが推薦した候補の67人もが当選したようです(中間選挙より前に行われた一部の選挙も含む)。ほとんどが州議会議員や市、郡レヴェルでの当選ですが、88人の立候補のうち67人が当選、しかもその37人が新人議員でした。州議会に初めてLGBT議員が登場したのがアラバマ州、アーカンソー州、オクラホマ州の3州で、公選のどのレヴェルでも歴史上、州内にオープンリーLGTBの公僕が誕生したことがないのはこれでアラスカなどの7州に減りました。さらに州議会議員でオープンリーLGBTがいたためしのない州もフロリダやハワイ、ペンシルバニアなど13州になりました。まあ、つまり計20州ではだれもオープンに選挙で公職に就いたことがないんですね。たしかトランスジェンダーの議員というのも、米国選挙史上では1人もまだ存在しません。イタリアのルクスリアさんや日本の上川さん、それにドイツのどこかではたしか首長さんがいましたよね、そういう意味では画期的なんです。

ただ、アメリカってのはいったん姿を現すと速い。トランスジェンダーの問題はいまから10年前まではゲイコミュニティの中でも議論にすらなっていなかったんですよ。ほんと、この7、8年なんです。それがいまや、そうそう、昨日のニュースでしたが、ニューヨーク市はいまトランスジェンダーの人たちの性別表記を早急に変えられるように法整備を進めているというのです。これまでは性別適合手術をしていないとジェンダー表記を変えられなかったのですが、これからはいわゆる性同一性障害という治療の過程にあれば、例えばホルモン治療を行っているとか心理療法に通っているとか、そういう医者の証明があれば、公文書でも性別を自分の心理上のジェンダーに合わせて変えてよいことになる。(続報=これ、市議会で否決されました。残念。時期尚早ということ。しかし推進派はこれからも強力にアクションを起こしてゆくとのことです)

これは9/11後のセキュリティチェックの厳格化で、そうしたトランスジェンダーの人たちがIDを見せる際にとても大変な目に遭っていることをどうにかしなければ、という動きなのですね。従来あった就職の際の履歴書の記載とかも重要ですが、とにかくいまはニューヨーク市内でちょっとしたオフィスビルに入るのにもIDを見せてチェックを受ける。空港でも史跡でも公的な施設はみんなそう。近くのデリでビールを買うときにだって21歳以上である証明としてIDの提示を求められるんだけど、その都度、トランスジェンダーの人たちはひどく嫌な思いをするわけですよ。それはちょっと想像力を働かせればすぐにわかることだ。

いまのニューヨークでは1971年から施行の法律で性別適合(性転換)手術を受けたひとにだけ出生証明の性別欄の書き換えが認められているんですが、テネシー、オハイオ、アイダホ州では書き換えは一切不可なんです。でも、こうしたこともかくじつに変わっていく方向にあるのです。アメリカって、そういうのがほんと目に見えるんです。これは住んでいてストレスのたまらないところですね。他にはたくさんストレスがあるようですが。

そうそう、もう1つ。
共和党上院のNO.3だったペンシルバニア選出のリック・サントラム=写真下=、このブルシット(http://www.bureau415.com/kitamaru/archives/000010.html)でもあの最高裁が同性間性行為の違法性(ソドミー法)を覆した際に「合意があれば家庭内でどんな性行為も許されると最高裁が認めたら、重婚や一夫多妻や近親相姦や不倫の権利も認めることになりなにをしてもよいことになってしまう」ってなブルシットを吐いたおバカなキリスト教原理主義(カトリックのオプス・デイ=ダ・ヴィンチ・コードにも出てきたセクトですわ)のホモフォビック議員ですが、落ちました。はは。

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ところで今日のラリー・キング・ライヴに、わたしがいつも注目しているコメディアンのビル・マーが出ていて今回の民主党の大勝利について(っていうか共和党の凋落について)話してたんですが、その中で彼、共和党全国委員会(RNC)の議長であるケン・マールマン=写真下=がゲイであるとアウティングしていました。かねてから噂のある人物だったんですが。

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しっかし、どうしてこうも保守派層や宗教人や共和党のエラいやつらがそろって隠れゲイで、しかもそろってアンチゲイな、というよりももっと明確にゲイバッシングな言動を繰り返すのでしょう。

それに関してはまた日をあらためてじっくり考察したいと思います。

November 08, 2006

神戸新聞のこの連載はすごい!

最近、日本の新聞づいておりますが、今日のはたまたま、ホントにたまたま仕事途中の逃避行動でネットサーフィンしていて見つけたもの。

神戸新聞のこの夏の連載記事です。
こんな良い企画ものが載ったことをいままで知りませんでした。

例の、神戸で“見つかった”性同一性障害の7歳の男の子(心は女の子)の調査報道です。
タイトルは「ほんとうのじぶん —性同一性障害の子どもたち」
筆者は「霍見真一郎」記者。
筆致はあくまで真摯。余計な飾りのない、素晴らしい原稿です。

地方新聞にこうした良質な記事を書ける記者がいる。うれしいなあ。しかも男の人ですよ! こういう原稿、男イズムにかまけている男性記者たちにはなかなか書けない。いつもLGBT関係は女性記者の独壇場なのです。彼女たちはセクシズムに侵されてない、というより侵されてそれを弾こうと意識的なのだから。

時間があるときに読んでみてください。
最初のページはここです。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200607gid/01.htm

私は読んでいて、不覚にも3度ほど涙が出ました。
一部、以下に抜粋。

**
 母は信じられず、日を置いて、幾度か同じ問いを投げかけ、そのたびに泣かれた。
 あるときは、「いつから女の子になりたいと思っていたの」と聞いた。春樹の答えはこうだった。
 「なりたいんじゃなくて、(生まれたときから)女の子なの」

**

くーっ。この春樹ちゃん、いろんな意味で、なかなかすごいんだ。
ちょっと遅きに失したけどおもわず賞賛のメールを送ろうとしたら、神戸新聞のサイト、読者からのフィードバックを受け付ける窓口がどこにあるのかわかりません。
webmasterにメールすればいいのかしら?
ぜひ、この霍見真一郎記者に謝意を伝えたいものです。
在り難いとは、まさにこのように、存在が稀であることへの謂いなのです。

November 04, 2006

どっちを見てもホモだらけ?

アメリカでまたまたとんでもないスキャンダルが発覚しました。

ted_haggard-thumb.jpg

テッド・ハガード(50)=写真上=という、全米3000万人もの信者を有する「福音派(Evangelical=エヴァンゲリオンの語源ですね)」のトップが、まあ、キリスト教保守派の総本山とも言うべき「全米福音教会協会(the National Association of Evangelicals=NAE)」の会長さんなんですけど、日本でいえば創価学会の池田大作みたいなひとですかね、このひとが、なんと3年間にわたって男性エスコート(プロの男娼です)と性的関係を続けていたってことを、このエスコートがばらしちゃったのです。うわっ、なに、それ? です。それだけでなくて、このハガードが覚せい剤(メタアンフェタミン)などの麻薬を使ってることも、「私のファンタジーは18歳から22歳くらいの大学生の男の子たち6人といっしょにセックスすることだ」なんて話してたこともばらしちゃった。おまけに「アート」と名乗ってこのエスコートに残していた伝言メッセージ(ボイスメール)も公開されました。麻薬を100ドルとか200ドル分、いますぐ手配できないかって言う話です。

この「福音派」、前の日記にも書いた例の「静かな広がり」の「ヘルハウス」のおっちゃん、なんとかロバーツ牧師ってのも所属している右翼バリバリの会派です。もちろん「ホモは地獄に堕ちろ!」派の中心組織。で、ハガードさん、本日の朝のニュースショーでニコニコしながら「私はゲイの関係など持ったこともない」「妻に忠実な夫だ」とかって余裕(のカラ元気?)でいってたけど(子供も5人!います)、NAEの協会長を辞任、自ら率いる「ニューライフ教会」(信者14000人、本部・コロラドスプリングス)の代表も降りると発表しました。このひと、「タイム」誌で「最も影響力のある福音派宗教人25人」に選ばれたようなやつで、「福音派教会の政治的方向性を支配するのに彼より強大な人物はいない」ってひとなのです。毎週月曜にはブッシュに週の初めのありがたい聖書のお話をしてるっていうし、電話すれば24時間以内に必ず大統領から返事が来るって豪語もしてる。

で、ご多分に漏れず、信者を前にしてはアンチ・ホモセクシュアルの説教をバシバシ。同性婚などもってのほかで大反対っていう急先鋒。いまアメリカで話題のドキュメンタリー映画「ジーザス・キャンプ」(少年少女たちを大量に動員してサマーキャンプをやるように福音派の教義を教え込むキャンプ。洗脳キャンプですね)にも噛み付いてる。彼自身が映ってますからね。

(ふうむ、私らもあんたが昨晩、何してたか知ったってわけよん)

いやいや、マーク・フォーリーといい、いったいこの保守派連中のホモセックス行為はいったい何なんでしょう。今回これをばらしたメイル・エスコートはマイク・ジョーンズさん(49)=写真下=ってひとなんだけど、つい最近、この3年間毎月決まって自分の体を買っていたこの相手がハガードだって気づいて、しかも同性婚やホモセクシュアルへの攻撃的なスピーチの内容を聞いて、このアウティングを決意したんだそうな。「みんな私を見て(メイル・エスコートなんて)反道徳的な人間だと言うかもしれないが、心では道徳的なことをしなければと思ってきた。言ってることとやってることのまったく違う偽善的な人間を公にすることが、わたしにとっての道徳的な行為だった」と話してます。で、ハガードとは完全に肉体関係だけで、「情緒的な関係emotional relationshipはまったくない」と。「心は孤独なクローゼット」ってなら同情の余地があるかもしれないが(そんなことねえか)、単純に肉体的快楽を追い求めてのゲイセックス狂いだってなら、あちゃちゃ、イタいですな、こりゃ。

mike_jones.jpgmikejones.jpg

一方のハガードは「麻薬は買ったが興味があっただけで使ってはいない」と言い訳。マイク・ジョーンズをホテルに呼んでいた一件についても「マッサージをしてもらっただけでセックスはしていない」と言い張っております。なるほどね。

まあ、来週火曜日の中間選挙に向けて、ということもあるでしょうが、出てくるは出てくるは。

敬虔なキリスト教信者は、おそらくかわいそうなくらい混乱してるでしょうね。いったい、何がなんだかわからなくなってるんじゃないでしょうか。いやそれとも、こんなのはやはり神の与えた試煉だと考えているのかも。あるいはデマだ、信じない、とか。

わたしだってこうも続くといったい何だかわかりません。

こうしたスキャンダルはさて、選挙にどう影響してくるのでしょうか。

今回の選挙と前回の2004年選挙との大きな違いは、同性婚や人工中絶などのモラル・イッシュー(道徳問題)はひとびとの関心から離れてきているということです。CNNの調査では、同性婚が一番の争点と言うひとは1%にしかならない。これは日本のマスメディアでも「イラク戦争の泥沼化のことが大きすぎてそちらに目が回らない」というような言い方がなされているのですが、私にはどうももっと積極的に(あるいは消極的に?)、同性婚のことなどどうでもよくなってきたんじゃないかと思われるのです。どうでもよくなってきた、というのはもちろん、そんなに目くじらを立てるほどのことではないんじゃないか、認めてもいいんじゃないの、というような感じが、大勢を占めてきたんじゃないか、という意味です。

その証拠に、やはりCNNの最新の調査では、同性婚を認めるべきというひとは28%。ドメスティックパートナーなどのシヴィルユニオンの形を認めるべき、というひとは29%で、この2つを会わせると57%と、大きく過半数なのです。どちらも認めるべきではない、というひとは39%にとどまって、これは2年前とは大きな違いです。

そうしてこうした一連のスキャンダルで最も影響を受けると思われるのは、共和党、というかブッシュの支持母体であった草の根保守主義のキリスト者たちが、呆れて今回は投票にいかなくなる、ということなのではないかと思うのですね。つまり、2年前には同性婚支持派の拡大に危機感を持っていて投票に出かけた層が、今回はなんだかわからなくなって投票に出かけるだけの動機付けにも迷ってしまう、ということなんじゃないか。

だって、ホモセクシュアルはダメと言っていたひとがホモセックスを楽しんでいたとなると、これはそのひとが投票しようと訴えていた共和党も、ほんとに投票していいのかどうかわらなくなる。だって共和党にはマーク・フォーリーみたいなやつもいたということが明らかになったばかりですし。で、共和党も民主党もとにかくホモばっかりだ。もう政治はダメだ。投票にも行きたくない、という具合になるのではないか。

これが今回の共和党の不振の下支えになっているのではないかと思うのです。もちろん上の揺れを支えているのはイラクですけどね。

November 03, 2006

すっかりクレーマー〜朝日記事、続報

どんな組織でも、組織というのはすぐれた部分もあるし劣った部分もあります。ですから、例えば「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても「読売はどうですか」と言われても、応えはだいたい同じです。「すごい記者もいればひどい記者もいる。素晴らしいデスクもいればとんでもないデスクもいる。その比率はどの社もだいたい同じ」。

ですんで、新聞を読むときはいずれも記事を個別に判断しなければなりません。そうして同じ内容の、同じ題材を扱った他社の記事と比較してみれば、どの記事に何が足りないのか、何が余計なのか、何が舌足らずなのかがわかってきます。

先日の、朝日のイタリアの「ゲイの議員」の一件は、朝日新聞広報部から正式に「議員自身がゲイだと公表しているから」そう記したのだという回答をもらいました。しかし、実際は違うようです。善意に解釈して、ゲイとトランスジェンダーの違いがまだ行き渡っていない社会なので、朝日の筆者(ロイター電の訳者ですが)もそのイタリアでの言いに引っかかったのではないか、とも斟酌しましたが。

くだんのルクスリア議員は、自分では「ゲイ」と言っていないのです。

イタリアでゲイを公表している議員はGianpaolo Silvestriといい、ルクスリア議員と同じ選挙で初当選した、上院初のオープンリーゲイ議員です。一方、ルクスリア議員はイタリアではゲイの団体からも「Vladimir Luxuria, 1° deputata transgender d'Europa 」というふうに紹介されている。(参考=http://www.arcigay.it/show.php?1865)

英語版のウィキペディアでも以下の通りです。
「Luxuria identifies using the English word "transgender" and prefers feminine pronouns, titles, and adjectives.」
(http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Luxuria)
「英語でのトランスジェンダーという言葉を使って自分をアイデンティファイしている」、つまり、自分はトランスジェンダーだと言っているわけです。

したがって「本人がゲイであると公表しているため」という朝日広報部の回答は、裏が取れない。確認できない。 適当にごまかせると思って嘘をついたとは思いたくはありませんが、回答は結果としてはまぎれもなく嘘です。まあここでも斟酌すれば、ゲイライツを標榜とか、イタリアでゲイプライドを始めたとか、そういう記述に引っ張られたのかもしれませんけれど。

**

それで終わればよかったのですが、翌々日にふたたびおかしな外信記事が朝日に載りました。以下のようなものです。

「お化け屋敷」で神の教え 若者呼ぼうと米で広がり

2006年11月01日03時13分
 ハロウィーンの“本場”の米国で、この時期、民間のお化け屋敷の形を借りてキリスト教の教えに基づく世界観を広めようとする「ヘルハウス」(地獄の家)が静かな広がりをみせている。若者を教会に引きつけようと、31日のハロウィーン本番にかけて、各地で人工妊娠中絶や同性愛の人たちが地獄に落ちる筋書きの「宗教お化け屋敷」が設営されている。

 ヘルハウスは、教会に通ったことのない10〜20代を主な対象にしている。七つの部屋を通り、最後は地獄と天国を体験する仕組み。同性愛、人工妊娠中絶、自殺、飲酒運転、オカルトなどにかかわった人たちが苦しむ様子が描かれる。

 ヘルハウスは30年以上前からあったが、95年に福音主義のニュー・デスティニー・クリスチャン・センターのキーナン・ロバーツ牧師が筋書きと設営の仕方をセットにして売り出して広まった。ハロウィーンを前に各地に設けられるお化け屋敷を利用した形だ。同牧師は「教会ドラマ」と呼ぶ。

 同牧師によると、800以上の教会が購入、米国の全州と南米を中心に20カ国に広がっている。米南部と西部が中心だが、ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。

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この最後の部分、「ニューヨークでは今年、これを利用した舞台版のお化け屋敷も登場、連日大入りの人気だった。」というのが引っかかりました。こんな宗教右翼のプロパガンダがニューヨークで流行るはずがないのです。流行ったらそれこそ大ニュースで、だとしたら私の日々のニュースチェックに引っかかってこないはずがない。ってか、だいたい、こんな宗教右派の折伏劇を取り上げてなんの批判も反対も紹介しないで「静かな広がりをみせている」だなんて、おまえはキリスト教原理主義宣伝新聞か、ってツッコミを入れたくなっても当然でしょう。

で、NYタイムズなどのアーカイヴを調べました。そうしたら案の定、話はまったく違ったのです。

このニューヨーク版はブルックリン・DUMBO地区の小劇場で10月29日まで2週間ほど行われていたものですが、これには今年初めのロサンゼルスでの「ハリウッド・ヘルハウス」というパロディ版が伏線にあります。キーナン・ロバーツ牧師の売っている筋書きと設定をハリウッドのプロダクションが買って脚本を作り、面白おかしいパロディにして上演した。地獄を案内する狂言回しの「悪魔」役はいまコメディアンとしてHBOで人気トークショー番組(毎回、政界や芸能界やメディアなど各界の左右の論客を3人呼んでそのときの政治問題を侃々諤々と議論する1時間番組)ホストを務めるビル・マー。これだけでもこの劇を「嗤いもの」にしようとしている意図がわかろうというものです。

で、そのヒットにかこつけて今度はNY版が出来上がった。しかしこちらはそう明確なお嗤いにはしなかった。「悪魔」役こそ誇張されて変だけれど、展開する寸劇はより生々しくシリアスにおどろおどろしく、制作陣の意図はむしろこうしたキリスト教原理主義の教条をナマのままに差し出したほうが観客の自ずからの批判を期待できるのではないか、ということだったようです。ってか、ここに来るような観客はみんな地獄に堕ちろと言われんばかりのニューヨーカーなんですから。

NYタイムズの劇評(10/14付け)は「Obviously, “Hell House” is a bring-your-own-irony sort of affair.(言うまでもなく、「ヘルハウス」は自らこの劇の皮肉を気づくためのもの)」と結んでいます。まあふつうそうでしょう。これで信仰に帰依しちゃうようなナイーヴなひとはとてもニューヨークでは生きていけないもの。ちなみにこの劇団、例のトム・クルーズの没頭する変形キリスト教集団「サイエントロジー」をおちょくった「A Very Merry Unauthorized Children’s Scientology Pageant」なんて劇をやってたりするようなところですし。

つまり、言うまでもなく、朝日のこの記事の結語はまったくの誤解を与える誤訳なのです(じつはこれはそもそも、APの英文記事の翻訳原稿でしかありません)。文脈としてはまったく逆であって、全米の教会ではまともに布教活動の一環として素人演劇で行われているが、NYでの連日の大入りの背景は逆に、そんなキリスト教原理主義のばかばかしさを笑う、あるいは呆れる、あるいはそのばかばかしさに喫驚するための、エンターテインメントなのです。ね、ぜんぜん意味が違ってくるでしょう?

「同性愛や人工妊娠中絶の人たちが地獄に堕ちる」というような、とてもセンシティヴな話題を取り上げるとき、まずこれをどういった姿勢で書くのか、どういった背景があるのか(ことしの米国は中間選挙で、モラル論争をふたたび梃子にしようとする右派の動きとこの「ヘルハウス」は無縁ではありません)、さらに、書くことで傷つくひとはいないのか、ということをまずは考えなくてはいけません。それだけではない。新聞社にはデスクという職責があって、記者がそういうものを書いてもデスクで塞き止めるというフェイル・セーフ機構があるはずなのです。朝日のこの記事、および例のトランスジェンダー議員の記事、立て続けに出ただけに、おいおい、だいじょうぶかいな、という心配と腹立たしさが募りました。こういうことを書くことで「だからマスコミは」「だから新聞記者は」「だからジャーナリズムは」という安直な批判言説を生み出してしまうとしたら、その失うものは筆者やデスクやその新聞社の名前だけにとどまるものではないのです。

朝日は10月半ばにLGBT関係で大阪の記者がレインボーパレードを取り上げたり、同性愛者の「結婚」も市長が祝福という記事を書いたり、「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導、と教えてくれたり、ヒットを連発してくれてとてもありがたい限りだったのですが。

ね、ですから、「朝日新聞をどう思いますか」と訊かれても、それは全体としては応えられないわけで、これはよかったけれど、あれはひどかった、としか言えないのです。

November 02, 2006

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

一部スポーツ紙などですでに紹介記事が載りました=写真=が、NY発のグラムロック・ミュージカル「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」が来年2月15日から新宿歌舞伎町のライヴハウスFACE、および大阪、名古屋、仙台、福岡で再々上演されることになりました。

その公式サイトが昨日、オープンしました。
http://www.hedwig.jp/

わたしが原作の台本を歌詞まで含めてすべて忠実に、なおかつ発語してもリズムが乱れないよう語呂よく翻訳しました。ってか、舞台セリフなんでかなり難しいんで、日本語の脚本は演出家の鈴木勝秀さんに改竄自由に任せています。

昨年まで三上博史でパルコ劇場で2年続きで公演が行われていますが、今回はより若い、原作に近いヘドウィグをねらってるそうです。で、そのヘドウィグは山本耕史が半裸になってやるの。そのジェンダー混乱のパートナー、イツァークを中村中ちゃんが演じます。

まあ、原作は90年代初めのジェンダーベンディングの傑作。あの当時の時代性、政治性もおおいに感じる。東西分裂と男女分裂とその和解と融合と。つまりはすごく深読み(もちろんクイアリードですがね)もできる物語です。ミュージカルというより、ロックのライブコンサートに近い舞台構成ですんで、タテノリ好きのひともどーぞ。

チケットは今月18日から電子チケットぴあとかローソンとかで発売になるそうです。

ロッキーホラーショーじゃないけど、ヘドウィグ・フリークという大ファン層が日本にもすでに存在してるそうなんで、会場はきっと若い女の子が圧倒的でしょうけど、冬の寒いさなか、熱い狂乱のステージの炎をあなたの心に点してください。

October 30, 2006

おいおい、朝日新聞よ

いったい何事かとびっくりして読んでみたら、へっ?

***

ゲイの議員の女子トイレ使用巡り大げんか 伊下院

2006年10月30日11時40分
 イタリア下院で27日、中道左派に所属するゲイの議員が女子トイレを使おうとしたところ、中道右派の女性議員から抗議されて大げんかになる騒ぎがあった。双方とも「セクハラ行為だ」と主張して譲らず、両派の院内総務による協議へ発展。下院議長に判断を仰ぐことで合意したという。

 抗議されたのは、今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目されたブラジミール・ルクスリア議員。男性として生まれたが、日頃から「『彼女』と呼んでほしい」と求めている。休憩時間に女子トイレに入った際、ベルルスコーニ前首相率いる政党のエリザベッタ・ガルディーニ議員から「入るな」と怒鳴られたという。

 ルクスリア氏は「いつも女子トイレを使っているが、こんな経験は初めて。私が男子トイレに入ったらもっと大きな問題になる」。「トイレに『彼』がいたので驚いた。気分が悪くなった」とガルディーニ氏。

 判断を委ねられた議長は中道左派所属で、ルクスリア氏に同情的だ。

**

おいおい、ゲイの議員は女子トイレなんか使わんでしょうが。これ、引っかけ見出しですか?  だれが送稿した原稿でしょう? ローマ特派員?
ウェブサイト上では無署名でわかりませんが、休み明けの外信部の内勤がロイターかなんかを見て埋めネタで訳したんでしょうか? うーん、「女子トイレ」だもんねー。

本日夕刊内勤の外信部デスクおよび担当局デスク、こんな、サルでもわかるような基本的な間違いをスルーするなんて、いったいどういうデスク作業をしてるんだい?

呆れたぜメッセージは
http://www.asahi.com/reference/form.html
まで。

しかし、イタリアでのトランスジェンダー理解というのはこれほどにひどいのかなあ。文句を言ったこの女性議員って、中道右派ってことは、バカってことか。

こういうときに、「性同一性障害」っていう病理的な分類のターミノロジーが有効なんだってのは、とても哀しいけど、戦略上はそれが手っ取り早いのかね。わたしは手っ取り早くなくとも、出発点が早ければ結局はいまの時点でも本質的にも有効な言説が生まれていると思う。レトロスペクティヴにしかいえないが。だから、いまでも性同一性障害という言葉と同時に、トランスジェンダー/トランスセクシュアルという言説を日本でも生み出しておきたいと思う。それはきっと1年後のいま、回顧的に見てけっして戦略的という皮相なものではなく本質的に有効な足場になってくれると思うのです。

いま、新聞協会にね、こういう具体的な性的少数者に関する記事原稿の誤りを正すように申し入れしようと思っています。新聞協会は「新聞研究」という月刊誌を出しているのだけれど、そこへの寄稿もあり得ますね。こうしたなさけない具体例がいまでも数多簡単にピックアップできるという現状は、批判者にはおいしいが、ほんとはじつに哀しいです。

*****

で、上記内容を朝日新聞にメールしたところ、さっそく朝日新聞広報室からの回答が来ました。この辺はちゃんとしてますわね。回答文、すんごく短いけど。

以下転載します。


北丸雄二様

メール拝読しました。ご指摘の件ですが、トランスジェンダーのルクスリア議員を「ゲイの議員」と表現したのは、本人がゲイであることを公表しているため、とのことです。

朝日新聞広報部
**

ってわけで、次にコピペするのがこれに対するわたしの2信。でもいまその自分のを読み直して気づいたけど、「ゲイと自称」じゃなくてこの広報部の返事には「ゲイであることを公表」って書いてあるわい。つまりこれ、ひょっとして「カムアウト」の意味の誤解かな? She came out ってののcome outを「ゲイであることを公表する」って辞書に書いてある意味のまま理解したのかしら? トランスジェンダーとしてカムアウトしてるのかもしれないのに。だとしたら大ボケだ。

で、朝日の実際の紙面も友人が送ってくれました。夕刊2面のアタマの扱いだそうです。

じゃっかんウェブ版とは文言が異なります。トランスジェンダーの説明があるところが違いますね。


拝復、

さっそくの回答ありがとうございます。

ところで、「本人がゲイであることを公表している」としていますが、それは広義の「性的少数者」としての意味の「ゲイ」であって、一般の定義の「ゲイ」とは違うのです。それは自称の有無とは関係ありません。
もし彼女がゲイなら、「トランスジェンダーのレスビアン」、つまり、体は男でも心は女で、しかもゲイ(同性愛者)なら、好きなのは女性であるレズビアン、という意味になってしまいます。でも、ちがうでしょう?

トランスジェンダーの概念が行き渡っていない国ではそういう言葉がないのと同じですので、そういうところではトランスジェンダーのひとも「ゲイ」と自称したりするのです。
日本でもむかしはそうでした。トランスジェンダーもトランスベスタイト(異性装者)も性同一性障害者もゲイもみんないっしょくたに「おかま」だったでしょう? 違いますか? 今回の朝日の記述は、いま違うとわかっている上で、自称しているのだからと言ってあえてこの「おかま」という総称を使うのと同じことなのです(もちろん蔑称の意味を含んでいないのは承知しています)。

で、いまはどうか? 少なくともトランスジェンダーとゲイは違うということを、メディアの記述者は知っていなければならない。わたしが言っているのはそのことです。だって、「今年4月の総選挙で当選し、「欧州初のトランスジェンダー議員」として注目された」わけでしょう? 彼女はトランスジェンダーなのだって、メディアで確認されているのですから。筆者およびデスクはそこを配慮して記述すべきでしょう。この記事のままでは「ゲイ」への、また同時に「トランスジェンダー」への誤解を助長する、あるいは放置する。それは読者を混乱させるし、少なくともその混乱の素である「ゲイ」という単語を見出しに取ったことは賢明とはいえないと思います。(それに、こういう少数者の人権問題をトイレにかけて「落とし所どこ」とするのは、整理部記者冥利なんでしょうけれど、なんだかねえ……)

これにはロイターも配信していてロイター自身による日本語翻訳原稿もあるのですが、それもなんだかおちゃらけた感じ(当該議員を「元ドラァグクィーン」としたり「女装議員」と呼んだり、混乱しています)なのですが、こうしたことも含め、朝日新聞にはもう一歩、配慮のある対応をとっていただきたいものでした。ベテラン記者の郷さんなら、そのあたりのニュアンスをおわかりいただけると思うのですが。

いずれ、この問題は各紙の具体例を収集して新聞協会の「新聞研究」に載せたいと思っています。
この第2信に対する朝日新聞のコメントもいただけると助かります。

不一。

北丸雄二拝

***

そういうわけで、直後に第3信も追送しておきました。
私もヒツコイ
その文面は以下のとおり。

**

さきほど返信を送りましたが、もう一点、いま気づいて確認したいところがあります。

ご回答では「本人がゲイであることを公表しているため」とありましたのを、わたしは勝手に「ゲイであると自称している」と受け止めましたが、これはどちらなのでしょうか?
じつは、日本語のターミノロジーとして「ゲイであることを公表する」というのは、一般に英語の「come out」の辞書的定義の丸写しなのです。

まさか「She has already come out」という英文テキストを「本人がゲイであることを公表している」と理解した誤解、誤読、誤訳ではないでしょうね?

もし上記のような文だったならば、「She came out as gay」と「She came out as transgender」との2つの可能性があるのです。
彼女は「ゲイ」(イタリア語で何というのか知りませんけれど)と「自称」しているのでしょうか?(もっとも、英語で「She came out as gay」といったら先のメールでも触れたとおりレズビアンのことになりますが)。

ご面倒でもそのあたりも郷さんにご確認願えれば幸いです。
もしトランスジェンダーとしてカムアウトしているのをカミングアウトという言葉に引っ張られて「ゲイであることを公表」と訳していたのなら、ぜんぜん違う話になってしまいますから。

不一。

北丸拝

October 18, 2006

大阪ってすごいね

こんな記事が朝日・コムに載ってました。

http://www.asahi.com/national/update/1018/OSK200610180030.html

「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導
2006年10月18日15時23分
 ダブルの部屋に男性2人で宿泊するのを拒否したのは旅館業法(宿泊させる義務)違反にあたるとして、大阪市保健所が同市内のホテルに対し、営業改善を指導していたことが18日、わかった。宿泊を拒まれたのは22日に同市の御堂筋で開かれる同性愛など性的少数者らによる「関西レインボーパレード2006」に参加予定だった東京都内の教員の男性(26)で、「イベント開催地での宿泊拒否は納得いかない」と話している。

 男性らの話によると、16日にインターネットの宿泊予約サイトを通じ、ホテルのダブルの部屋に、21日から1泊の予定で予約を入れた。しかし同日夜、ホテル側は「男性同士でダブルは利用できない」と電話で宿泊を拒否。17日、ホテルに再度連絡したが、同様に断られたため、保健所に通知したという。

 旅館業法などでは、宿泊業者が客を拒否できるのは、感染症の患者や賭博などの行為をする恐れがある場合などに限られている。ホテル側は「お客様が間違って予約されたものと判断し、ツイン部屋の利用を勧めただけだ。男性同士だから拒否したわけではない」と話している。

**

これ、いいねえ。
いいのは、大阪保健所の「迅速な対応」。保健所としてはちんたら対応することもできたんだろうけど、対応した担当者が即決したってことがすごい。

もっといいのは、この事実を保健所に届けた「都内の教員(26)」。うまい! えらい! 攻めどころを知ってる! 若い!(関係ない)
怒りをクローゼットに閉じ込めてはいけないのだ。

さらに僥倖は、大阪朝日のこの筆者の存在。

じつはこのところ、大阪朝日は

性的少数者らが御堂筋でパレードを開催へ 大阪
2006年10月12日

 同性愛や性同一性障害など性的少数者とその支援者が22日、性の多様性を認め合う社会の実現を訴える「関西レインボーパレード2006」を大阪市の御堂筋で開く。関西では初の開催で、約600人が中之島公園から難波まで、約1時間半かけてパレードする。

 実行委員会事務局長の尾辻かな子・大阪府議は「性的少数者はテレビの中にしかいないと思われている。地域で共に暮らしている姿を見てもらうことが、多様な社会を考えるきっかけになればいい」と話す。

という記事のほか、きょうも早朝の段階で


同性愛者の「結婚」も市長が祝福 大阪市が活性化戦略
2006年10月18日08時07分

 大阪市民であれば、ゲイやレズビアン同士の「結婚」を、市長が祝福します——大阪市は17日、街の活性化を目指す「創造都市戦略」骨子案を公表し、参考としてこんなプランを披露した。担当者は「議論はあるだろうが、多様性を許容するざっくばらんさが、大阪らしいのではないか」と話している。

 新戦略作成をめぐっては6月、市各局・区から選ばれた中堅職員30人がプロジェクトチームを結成。「交通利便性の向上」「大阪の売り出し」など5テーマを掲げ、15の事業案を考え出した。

 お金をかけない「既存施設の活用」の項目で挙がったのが、結婚祝福式だった。市内に住むカップルを月1回、10組ほど募り、市役所1階ホールで、市長がお祝いカードや握手などで祝福する。

 同性愛者ら国内では法的に結婚できないカップルも対象。行政が多様な人の生き方を積極的に認めることで、「本当に人にやさしいまち大阪」を目指すという。

 ほかの事業案は18日午前10時から、市経営企画室のホームページで確認できる。

っていう記事を連発しているのです。

これは市内版担当、市役所担当でしょう、ってことは筆者は若い記者でしょうかね。
同じ記者なんだろうか。
もしそうだとすると彼/彼女、やはりおいしいところに目をつけた。
別人だとすると、大阪朝日の人材はいいねえ、ってことになる。
やっとこういうのを旬な話題だと、さらには他社が書かないから書き得だと気づいたライターが出てきた。
書かない他社がいつまで無視できるか。かえって依怙地になる場合も多々あるけどね。

大阪朝日の社会部に、よくやってくれてるね、さんきゅーメッセージを届けましょう。あるいはこれらの記事の筆者への、感謝・賞賛メッセージですわな。
http://www.asahi.com/reference/form.html

さらには、大阪市役所、大阪保健所にもね。
http://www.city.osaka.jp/shimin/opinion/index.html


**
で、今回の教訓

同性2人でホテルに泊まろうとして、まあ普通は泊まれますが、それがダブルで、と申し込んだ場合に拒否されたとしたらどうするか。
マニュアルとして憶えていたほうがいいでしょうね。

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宿泊拒否にあったら、え、なんで? と思うこと。

思ったら、これってヘン、って怒っていいということ。

怒ったら、その怒りが冷めないうちにすぐに都道府県の旅館業法を担当している部署(政令指定都市なら市)に電話して報告すること。東京都の場合は福祉保健局環境衛生課です。まあだいたい、保健課、衛生課、観光課みたいなところでしょう。
メールよりやっぱり電話だろうね。向うもこっちの申告・告発が虚偽じゃないってわかりたいし。ま、名前は仮名でもいいでしょう。

同時に、国の法務局、都道府県、市町村の人権を担当する部署に人権侵害があったことを連絡すること。
(今回の「都内の教員(26)」さんも実際に市と府の人権担当に連絡を入れたそうですよ)

根拠は「旅館業法第5条」です。
同性2人でも、宿泊拒否は許されないんだってことを知識のワクチンとして持っておましょう。

よく男2人はお断りっていうラヴホテルがあると聞きますが、ラヴホテルだってじつはおんなじでしょう。(ん? あれ、風俗営業法の管轄じゃないよね=いまちょっと調べたら、両方で規制されてる。not sure。法曹関係者、教えて)

さらにもし、その都道府県(政令市)の動きが悪ければ、国の厚生労働省に訴えて下さい。もしくは「では厚労省に告発します」と言うこと自体も有効かもしれませんね。

October 11, 2006

全米カミングアウトの日

本日、10月11日は米国では「ナショナル・カミングアウト・デイ」です。

このリンクで、各界の著名人がゲイの人権とカムアウトを奨励するスピーチを行ったのがまとめられています。

これはゲイの最大の人権団体の「ヒューマンライツ・キャンペーン」という組織の総会とか表彰式とかでのビデオクリップ。最初はナブラチロワ姐さん。「メッセージはシンプルなたったひとつのこと。アウトなさい。カムアウトよ」。

ボーイスカウトでゲイ差別があって、ゲイのスカウトが追放されたときに「そんな差別をする組織になんかもう寄付しない」と表明したスティーヴン・スピルバーグも話してます。テレビのドラマでカムアウトしたときのエレン・デジェネレスも。

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アン・リーももちろんあの今年の人権大賞の授賞式のスピーチからの抜粋ね。同じくジェイク・ジレンホールもいます。彼はブロークバックに触れて「あの物語は、他のどの愛の物語とも平等だ」って言った部分をクリップされてますね。

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アン・ハザウェイなんか、自分のお兄ちゃんのマイクがこの秋に(今年のことか?)5年間付き合ったパートナーのジョシュと結婚するの、ってカムアウトしてる。「あたし、花嫁の付き添い役(ブライズ・メイド)よ!」だって。ふうん、兄ちゃん、嫁のほうなんだ(笑)

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「トランスアメリカ」のフェリシティ・ハフマンは、ヘテロセクシュアルから見るLGBTの問題ってものを「それって最初は、あなたかわたしか、という問題。次に、あなたとわたし、という問題。それから最後には、あなたはわたし、という問題」と、とても哲学的に語っている。これはなるほど、素敵な言い回しですわね。氷の微笑のシャロン・ストーン姐さんも、「わたしたちみんな、カムアウトしなきゃダメなの」って怖い顔だぞ。

クリントンは夫も妻も両方。撮影時に時間差はあるけどね。
今回のアルバムを出す前のとんでもなく太っていたころのジャネット・ジャクソンもいますね。わたしゃアリサ・フランクリンかと思った。

で、これを見ていて、というか最近、あの中村中ちゃんの出た「僕らの音楽」で、安藤優子さんがインタビューアーでよかったという話を聞いたりもしながら、来年の東京パレードとかには、こういう有名人を巻き込む努力もしてみたらどうだろうと思いました。

ねえ、安藤優子をパレードに誘うとかどうでしょう。彼女、わたしの大昔の「フロントランナー」を自分のニュース番組で宣伝してくれたくらいにゲイフレンドリー(なはず)。もちろん中村中ちゃんといっしょに歩いてもらう、という話で。そのころには彼女もビッグになってるでしょう。あるいは、こんどヘドウィグをやる山本耕史も歩かせる。あ、その話はまだここで書いてませんでしたが、来年2月、ヘドウィグの再々公演を、全面書き直しでやるのです。その翻訳をわたしが担当しています。詳細は別の書き込みで、後ほど。

話を続ければ、ほかには文化人から山田詠美はいかがでしょう? 村上龍といっしょに出てもらおう。あるいは詠美ちゃんを口説き落とした後で龍にもプッシュして、と頼む。あとは政治家も。自民も民主も関係なく巻き込んで、社民の福島瑞穂なんかは出てくるはずよ。辻元だってね。党派性とか政治利用とかうるさいやつがいるだろうけど、関係ないわ。

そんな人選を考えてるだけでも楽しいわ。

そんでかならず専門の担当係を付けて、失礼のないようにしてね。謝礼なんか必要ないから、このLGBTの問題がいかにヒップかということとわれらの熱意を伝える。さすればかならずや出てくれると思うけどね。とにかくより広い社会性を持たせることだ。

いかがなもんでしょう?
有名人って、こういうふうに利用されるために存在してるようなもんだしさ。
ぜひご一考を。

October 06, 2006

フォーリー報道について

5日配信の以下の共同通信の記事に、例によって同性愛者にいわれなき汚名を与える記述がありましたので指摘しましょう。

***
米議員の少年へのわいせつメールで波紋

 米与党共和党の前下院議員、フォリー氏が少年にいかがわしい内容の電子メールを送った問題で、議会上級スタッフは4日、AP通信に対し、少なくとも3年以上前に同氏の「不適切な行動」の存在を知り、ハスタート下院議長側近に注意喚起していたと語った。

 議長はメール問題を昨年知らされたが、文面については「先週まで知らなかった」と釈明。しかし、議長が早くから同氏の不審な行動を把握していた可能性が浮上した。中間選挙で下院共和党の敗北を確実視する声も出始める中、フォリー氏の議員辞職で幕引きを図る考えだった議長への辞任圧力が強まりそうだ。

 同通信によると、証言したのは、かつてフォリー氏の部下でもあったカーク・フォーダム氏。中間選挙で下院共和党の選対本部長を務めるレイノルズ議員の首席補佐官だったが、4日に辞職。フォリー氏はメール疑惑浮上を受け9月29日、議員を辞職した。

 フォーダム氏は数回にわたり、同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っていることを知り、議長側に伝達していたと指摘した。

 与党内では議長への不信感が高まっており、遊説先で議長の応援演説を断る議員も出始めた。 (共同)
[ 2006年10月05日 10:08 速報記事 ]
**

問題の箇所は第4段落、「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っている」という部分です。

少年少女への「不適切な」性的行動は、ペドフィリア(少年/少女性愛)といわれます。
ペドフィリアとホモセクシュアルとは無関係で、別個の問題とされます。なぜなら、ほとんどのペドフィリアは異性愛者によるもので、しかも家庭内で起こる事例が多い。

ところがここで「同性愛者のフォーリー氏が」「不適切な行動」というふうに結びつけられると、一般的に「同性愛は異常、変態、不適切」という偏見がはびこる社会では、「同性愛者だからこういう不適切な行為もした」と容易に結論づけられることになります。

したがって、この問題を報じる米国では、つねに「同性愛と少年愛は別の問題」という但し書きが(テレビの場合は口頭での解説が)付けられています。とくに、フォーリー氏は今回、この(複数の)ページボーイとの関係に関して「アルコール依存症が原因」とか、「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」として“言い逃れ”しようとしています。

おそらく、筆者は「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」という部分の米国での報道情報を、自分の翻訳原稿の中にも手短に組み込もうとこのように1つの文でくっつけて書いてしまったのでしょうが、読解の結果は微妙に変わってしまいます。米国では今回の一件は「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」というテキストとしては、絶対に、報道されていませんし、公的に発表される文章としてはまったくの「不適切」と考えられます。

いっぱんの読者も、または編集者(デスク)もつい読み流してしまうような部分ですが、こうしたさりげない「刷り込み」が偏見と差別の下支えをしています。「同性愛者の」という形容句を抜かして、たんに「フォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」でも、なんら重要情報の欠如はなかったでしょうに。

いま最も先鋭な人権問題である性的少数者問題ですが、それに関する記述では、日本ではきちんとしたマニュアルもまだ出来上がっていません。

共同通信の記者ハンドブックでも、被差別部落や外国人に関する記述の厳然たる注意条項はありますが、性的少数者に関するものはおそらくまだまとめられていないのではないでしょうか? したがってスポーツ紙や夕刊紙では、90年代よりは幾分ましになったとはいえ、まだまだ時に目も当てられない野放し状態が続いています。

ことは今回のフォーリー事件に関する一件だけではありません。
共同通信にはぜひ、同性愛などの性的少数者問題への記述の指針を、過去の多数の事例を基に早急に明文化してもらいたいものです。そうすれば朝日、読売、毎日の三大紙のハンドブックも追随する(テレビや地方紙は共同マニュアルを転用しています)ことになっていますからね。

ということで、共同通信にメールで上記の申し入れをしておきますわ。
しっかし、こういうのは重箱の隅を突つくようなアラ探し、みたいなふうに受け取られるんだろうなあ。ほんとはそうじゃないんだけどよ、書いてるほうも疲れるわ。
やれやれ。

October 04, 2006

アメリカでいま一番のニュース

日本ではあまり報じられていませんが、まあ、それもうなづけます。日本には関係のない話だし、国際的なニュースでもない。しかし連日、いまアメリカのTV各局のニュースはこの話「下院議員マーク・フォーリーのページボーイ性的チャット問題」で持ち切りです。ページボーイってのは、政治家の雑用係のアルバイト少年たちのこと。ペンシルバニアのアーミッシュの学校での女児射殺事件や、北朝鮮の核実験宣言などを差し置いて、やはり下ネタというのは求められるんでしょうね。おまけに取材も簡単だ。

foley-mark-thumb.jpg

朝日が書いていたので引用すると以下のようなもの。そうですね、こうして中間選挙に絡めてしか書けないかもね。

わいせつメールで下院議員スキャンダル 米中間選挙
2006年10月04日20時35分
 米与党・共和党のマーク・フォーリー前下院議員(52、フロリダ州)が10代のアルバイトの少年にわいせつなメールを送っていた疑惑が浮かび、11月の中間選挙を前に波紋が広がり始めた。共和党にとっては新たな逆風になりかねない。

 独身の同氏は6期を務めたベテラン。先月29日に突然、辞職し、アルコール依存症の治療などを理由に施設に入っている。米メディアによると、少年にメールを送り、「服を脱がしたい」「興奮させたか」などと伝えた、とされる。

 下院が独自調査を決めたほか、連邦捜査局(FBI)が捜査を開始。野党・民主党は与党の「セックス・スキャンダル」を攻撃する構えだ。

 児童の権利保護を推進する議連の会長だったこともあって、共和党内でもモラルに厳しい保守派が反発。同党のハスタート下院議長の辞任を求める声もあがっている。

しかしね、このフォーリーって男、どこまでゲスなんだか。
辞職してこないだは「アルコール依存症のリハビリに入る」とかいって酒のせいにして、次には「十代のときに教会の司祭にいたずらされたことがあって」と言い訳し、さらに昨日は「私はペドフィリア(小児性愛者・少年少女愛好者)じゃない」って言って(ペドフィリアだとそれで即、犯罪ですからね)、「でもゲイだということは知ってもらいたい」だってさ。へっ、人権を斟酌されるべき「ゲイ」?

おいおい、いい加減にしろよ、です。どこまで「なにか」の所為にするつもりなんだろう。

こちらのニュースではかならずこうした事件を報じるときに、「これはホモセクシュアルの問題ではありません。これはペドフィリアの問題です」っていうコメントが入ります。つまり、こうした犯罪は同性愛者だから起こすのではなく、異性愛者でも起こす、つまりは未成年者への違法な性的アプローチという犯罪なのだ、という論理立てを明確にしておくわけ。そうじゃないと性的少数者への言われない偏見をまた助長することになるから。その辺の建前はしっかりしています。

それでもってさらに、いやいや百歩譲って彼がもしゲイだとしても、こいつはクローゼットでいままでゲイだなんてことをこれっぽっちも言ってこなかった隠れホモなんですね。それが急に「ゲイだ」なんて言うことで、いったい何を「知ってほしい」というのでしょうか。

アメリカでは隠れホモセクシュアルはそれこそ「自己責任」なのです。処世としてホモセクシュアルであることをひた隠して余計(と思われるよう)な風当たりを回避する。

「ゲイ」という言葉には2つの意味があります。1つはホモセクシュアルということ。これは単純に性指向上の用語です。もう1つは、「ホモ」から解放されて「ゲイ」になった歴史的な経緯をふまえて、誇り高きその人格形成上のアイデンティティを示す言葉です。なので、彼は性指向はホモセクシュアルでも、人格的にはプライドとともに語られるゲイなんかじゃない。しかも共和党の政治家で、同性婚や性指向による差別禁止に関しても、1996年の結婚防衛法(DOMA=結婚は男女間に限ると規定した初の連邦法)では成立に賛成票を投じた。マーク・フォーリーはそういう輩です。そんなやつがいまごろ「私がゲイだということを知ってほしい」って、どのツラ下げて言えるんでしょう。

ですからこの犯罪は、クローゼットのメカニズムが生み出した行為でもある。そんで、この記事の最後に出てくるハスタート下院議長ってのが、これがまた数年前からフォーリーのこうした“性癖”を知っていたっていうんだな。共和党も裏と表の使い分けが狡猾というかなんというか……。ちなみに保守派で知られるFOXニュースは昨日の人気番組「オライリー・ファクター」で、フォーリーを3回も「フロリダ選出の民主党議員」って間違えてました。わざとなんだかどうだか、まったくねえ。

ところでね、アメリカでこれがこうも大きく連日ニュースで取り上げられるのは、やっぱ、どうしたってこれが異性愛ではなく同性の未成年への破廉恥行為、という、ホモフォビアも絡んだ、そういう下世話な要素があるのは否めないとは私も思うんですわ。そういうのも自覚しながらニュースを見ております。

ちなみに、朝日にある「メール」というのは、正確にはインスタントメッセージです。チャットみたいなもんね。このテキストを先月末、ABCニュースがすっぱ抜きました。当の少年と2003年時点で交わされたもの。いやはや、なんともえげつない内容。

「今週末はどっかの女の子が手で抜いてくれるのかな?」とか「それじゃ自分でマスかくのかい?」とか「キミくらいの年じゃあ毎日だろう」とか、少年が「そんなにエロくないよ、週に2、3回だ」と答えると「シャワーの中でとか?」って訊きやがるの。「シャワーは朝、さっと入るだけだからやらない」といえば、「じゃあベッドで仰向けかな?」だもんね。さらに少年が「いや、下を向いて」と書くと「ほんと? どうやって? ひざまずいて?」「いや、手は使わない。ベッド自体を使う」「じゃあどこに出すんだ?」「タオルの上」「ほんと! 全裸で?」「まあね」「それはいい。かわいいお尻が飛び跳ねてるわけか」

まだ行きますか?

それでローションだとかタオルの堅さだとかいろいろ詳細に訊きまくって、このエロおやじ、どんなフェティッシュがあるだとかも訊くわけよ。で、もちろん、「いま何着てる?」「普通のTシャツとショーツだよ」「大きくなってるのか?」「ああ」「脱がしてみたいなあ」「はは」「それで1つ眼の怪獣(おちんちんのこと)を握りしめてる?」「いや、今夜はやらないよ。そんなに興奮しないでよ」「でも硬くはなってるんだろ?」「それは事実」「測って長さを教えてくれないか?」「前にも言ったじゃん。7インチ半だよ」

ってな塩梅です。
原文は
http://abcnews.go.com/WNT/BrianRoss/story?id=2509586&page=1
から始まってます。
お好きな方はどうぞ。

October 03, 2006

HIVはゲイの病気です

このポスター及びキャンペーンはいまロサンゼルスのゲイ&レズビアン・センターが展開しているものです。

80年代に登場したAIDSは、最初期に「ゲイ関連病」とか「ゲイの癌」と呼ばれていたそのスティグマのせいもあって盛んに「ゲイの病気じゃない」「みんな危ないんだ」というふうに喧伝されて現在に至ります。たしかにゲイだけの病気じゃなかったわけだし。

それがいまふたたび、「ゲイの病気だ」というコピーで啓蒙されることに関しては、もちろんアメリカでも賛否が分かれています。ショッキングですし。

でも事実、ゲイの感染率が多いのは確かだし(ロサンゼルスではHIV感染者の75%がゲイです)、ここに来て95年までの「死への恐怖」を知らない若者たちの感染も増加してきている。

そこで、あの病禍を自分たちのものとして引き受け、さかんに予防啓発活動の先頭に立った80年代のゲイたちの活動や意識を想起・再燃させようと、こうしたコピーで世論をあおるという戦略は、私はありだと思う。ゲイに再びスティグマを塗り付けるためのコピーではなく、あの主体的なHIV/AIDSへのコミットメントを思い起こさせるためのコピーとして。もちろん、「汚れ(スティグマ)」を自覚させるためのなにげないカマシも含めてね。

それにこれはG&Lセンターがゲイコミュニティに向けて展開しているキャンペーンです。もちろん一般社会にも出回るでしょうけど、それも含めてゲイたちを身内として挑発している。そういうことが、まだ誤解はあるだろうけれど、できるような社会になったという自信もアメリカのゲイたちにはあるのかもしれない。右翼保守陣営からのキャンペーン・コピーだったら意味がまったく違ってきますけどね。まだそんなこと言ってるのかよ、ってな、勝手にしてろ、みたいな。

これとおなじく、感染率の増えているアフリカ系、ラテン系、女性コミュニティーは彼ら・彼女らなりに「HIVはアフリカ系アメリカ人の病気です」「HIVはヒスパニックの病気です」「HIVは女性たちの病気です」と発信するのもぜんぜんありじゃないでしょうか。そうして「HIVは男のビョーキです」ってのも、ある意味すごい。

それを日本に置き換えてみればつまり、日本でも、先進国でゆいいつ感染率が増加の一途であることを憂慮して、「AIDSはいま、ニッポン人のビョーキなのです」ってやってもいいと思う。

それにしても、こうしたコピーの変遷に時代を感じてしまいます。怠慢を繰り返してしまうわれら人間の愚かしさも同時に。

みんな、ほんと、気をつけてね。

October 01, 2006

Hand-Holding(手を取り合うこと)

こないだ、NYタイムズに興味深い記事が載ってました。5日付だったかな。

さいきん、NYの街なかで手を握って歩いている人たちが目立つってことから、STEPHANIE ROSENBLOOM記者が、あちこちの心理学者や社会学者に電話取材とかして一本の長文リポートをまとめてるのです。世相を社会心理学で分析するっていうジャンルね。

要旨はね、むかしは手を握り合うことは次のセックスに進む2人の親密さの初期のワンステップだったんだけど、いまはもっと進んだ関係のアナウンスメントの要素というか、周りに手をつないでいることを見せることで自分は「他の人求めてません」て表すと同時に、キス以上に相手に対する愛情や保護や慰撫を示す行為になっている、ってもんでした。手をつなぐことはいま、キスよりもマジで真剣な愛情表現なのだってことっすね。

いわれてみりゃそうですわね。たしかに手をつなぐってことはむかしはまだキスができない時点で(その前段階として、あるいはその代償として)の行為だったけど、いまではすでにキスもセックスもしたあとで手をつなぐ。じぶんたちは深い関係性の中にあるってことが、手をつなぐ行為におのずから示されている。手を握ってる連中はもう「いい仲」なわけですよ。むかしは、手を握ってるのは「うぶな仲」のシニフィエだったんだけど。

もちろん、こうした変化は性革命(性を公にすることは恥ずかしいことではない、という意識革命から派生したさまざまな性的事象の急変)を経たアメリカだから、の話だろうと思います。

また中村中の話を持ち出すけどさ、あの詩の「手をつなぐくらいでいい/並んで歩くくらいでいい/見えているだけで上出来」というのに登場する「手をつなぐくらい」という行為はもちろん、そんなところまで至っていない、ロマンスの初期段階でのささやかな願いですわね。とてもとても、このNYタイムズの取り上げているところになんぞ至っていない。

05hands.600.jpg

で、街なかで手をつないで歩いているのはNYではゲイの男の子たちも多いんですね。チェルシー地区なんか、カップルは必ず手をつないでますし。NYタイムズの記事のちなみ写真はそんな男の子たちの手つなぎでした=上の写真。で、これにはもう1つ要素があって、それは「ゲイプライド」の示威行為、デモンストレーションにもなってるわけですよ。もちろんゲイバッシングなんかの危険も伴うけど、手をつなぐ2人は互いを互いで守り合うって意気込みだぞ(これは私のinterpretation)。あるいは2人で手をつないで逃げるのかも?(笑)。でも、いずれにしても手をつなぐのはいいもんだ。

手をつなぐことは、ときにはキスよりも気恥ずかしかったりしますわね。おかしいね、この心理。でもだからこそいま意識的にトゥマと手をつないでみる、握ってみる、トゥマと手を取り合ってみる、そういうことって、いいんじゃないかって思うよ。(あ、ちなみに、この「トゥマ」というのは、「妻・夫」の古語の発音です。自分の性愛の対象を指すジェンダーニュートラルな名詞で、尊敬する大塚隆史さんが「パートナー」とか「連れ」とか「相方」という言葉の代わりに広めようと提唱している言葉です) 。

キスだけでなく、手をつないでもごらん、若者たちよ。
こころがすこしジュンッとする。

(ところで「hold your hand」の「hold」、日本語にならないって書いてて気づきました。握るのともちょっとちがう=ちなみに握手の英語はshakehandsで、これは取った手を揺する行為を指した言葉。Hold は「つなぐ」でも「取る」でもない、「保持する」って感じね。大和言葉、なし、ってホントかよ)

September 23, 2006

ふたたび「友達の詩」について

いつか右手で書いていたものを左手に移し、右腕に筋肉をつけて左手をかばい、傷つきやすい心のかさぶたをはがしては心ではないところの皮膚を移植し、けんめいに、けんめいに、もう泣かないように、もう傷つかないように、もう死にたくならないように、いろんなものを弾き返せるように、鎧をまとい、剣を取って生きていく。おとななんてのも、一皮むけばそんなもんだ。

でも、土の中に埋めた、大昔の心のかけらの化石が、ときどき身を震わせて号泣したがる。
あのときの自分が、地層の奥で身悶えして泣きわめく。

そんなきっかけはいつもだいたいなにかの歌だ。

触れるまでもなく先のことが
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋をずいぶん
続けてきたね

胸の痛み治さないで
べつの傷で隠すけど
かんたんにばれてしまう
どこからか流れてしまう

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

忘れたころに
もいちど
会えたら
仲良くしてね

手をつなぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

手をつなぐぐらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な
人は友達くらいでいい
友達くらいがちょうどいい

中村中が15のときにかいたというこの詩は、おそらく、巧まざる心の動きのたぐいまれに巧みな描写だ。こうした複雑に折り畳まれた心象を、彼ら/彼女らはあらかじめ敷かれた鉄路のような強引さで運命的に手にしてしまう。そうした道筋しかないような袋小路。迷路とはいえしっかりと矢印の示されている十五夜。「先のことが見えてしまう」「そんなつまらない恋をずいぶん続けてきたね」と中村中は自分に向けてこともなげに言い切る。15歳の中村中の、「ずいぶん」とはどれほどの数を指すのだろうか。あるいはいまやっと21歳だという中村中の。

いやこれは、「触れるまでも」経験するまでもなく「先のことが見えてしまう」と知った15歳の中村中の、その15歳にとっての過去形ではなく、いずれの未来においてもこれからずっとすでに定まってしまっている先取りの過去のことなのだ。

誤読の罠にはまるのはそこばかりではない。

この詩で最も印象的なフレーズ、「手をつなぐくらいでいい」に耳を奪われ、わたしたちは中村中の、好きなひとへの最も適度な願いがまずどうしても、ふつうに考えれば最小限にささやかな願いと聞こえる、「手をつなぐ」ことだと言っているように読み取るのである。

だがこれは誤りである。
なぜなら、中村中は直後にその願いをさらに縮小し、望むことはじつは手をつなぐことではなく、ただたんに「並んで歩く」ことだと訂正するのだ。

そうしてそれすらもふたたび思い直す。
それすらも「危ういから」と、横に並び歩く距離ですらなく、はるかに遠い、ただ「見えてい」ることだけで満足するように、と、自分にとってはそれで「上出来」なのだ、と言い聞かせるのである。しかもそれもいまそこで具現している現実ではなく、「見えていれば」という形の、ここにいたってもまだあえかな希望としてのつつましやかな仮定法で。

接続詞のない、箇条書きのように並べられる3つの願い事はだから並列ではない。それはそっと提示された、譲歩と諦めと退却の、縮んでゆこうとする時系列だ。

だが、好きになればなるほど、その事実を思えば思うほど相手から遠く身を退かねばならない事情とはいったい何なのか。「並んで歩く」ことすら「危うい」状況とは何なのか。さらに続く、「忘れたころにもいちど会えたら、仲良くしてね」というさりげない謙譲は、何を忘れ、誰を主語とすることを前提としているのだろうか。

忘れることなど、じつはないのだ。なのに、「仲良く」というせめてもの願望は、忘れない限り成立し得ない。そうしてそれこそが、「友達」という中立性への、あらかじめ不可能な希求なのである。

その事情に共感できる経験を、わたしたちのだれが、どれほどが、共有しているのだろう。
「友達の詩」は、取っ付きやすいそのタイトルや、ともすればつねに微笑んでいるようにすら聞こえるその歌唱とは裏腹に、じつは安易な共感を求めていない。そんな有象無象を相手にしてはいない。「友達」へと向かうヴェクトルは、希望というよりもむしろ、退却しつづけた果ての絶望をあらかじめ先取りしたものだからだ。

大切な人が見えていれば、それだけでたしかに上出来だった。
そのひとはじつは「友達」ですらなかった。
「友達ぐらいでいい」のその「ぐらいで」とは、ただその程度を曖昧さで広げるものではなく、「ほんの〜だけで」「せめて〜ばかりで」とのニュアンスの、おおく自嘲的な否定さえ伴うむしろ小心な副助詞なのである。

中村中と、それらを共有する者たちはみな、そんな季節からの生き残りだ。
そうして肝心なことは、生き残りに恥じず、中村中の「友達の詩」はけっして嘆き節に陥らない、ということである。生き残るためにはつん抜けざるを得なかったようなその歌唱の決意的な明るさによって、いま、新しく生き残ろうとしている者たちは絶望を突きつけられつつもおそらくこれに励まされる。こんどこそこの詩を逆に、先取りの過去として嘆くのではなく消化するために。
中村中はこの絶望を消化して生き残った。だから、歌に凝結させ得た。このじじつは大切だ。
そこまで知ったとき、この詩を歌えるのは、おそらく中村中以外にはいないのだろうということにわたしたちは気づくのである。

中村中は、現代だ。
21歳にしての、この命の強さと美しさを、言祝がない手はない。

September 15, 2006

HRWが動いた

世界最大の人権組織"Human Rights Watch"が都城市の条例改正に関して抗議の書簡を送りました。市長と、市議会宛に送付したようです。内容は、だいたい尾辻さんや私たちが指摘したのと同じことです。翻訳はのちほど追記しましょう。

ところで、私もあの書簡を書いてから、ほんとオレって言い方がキツいなあ、と自分でもなんだかぐったりしたんですけど、さて、一地方都市の条例に、他の土地に住む、都城と直接関係のない人たちが何を言えるのか、もしくは何を言ってよいのか? という問題は考えなくてはならないでしょうね。

でもね、基本的にはこうだと思うの。
都城はまず、条例を市民に向けて制定しながらも、それは政治として、他者へ向けてのメッセージ性を帯びるのは当然だろうということ。
すると、それに関して、他者がどうとかこうとかいうのは間違いだ、となれば、そのジェンダーニュートラルな平等社会を作ろうという条例に、それはいかん、という、今回の“改悪”のきっかけとなった反対運動自体も市内・市民からというより勝共=統一協会=世界日報から来たんだから、それ自体も認められないだろうということになる。

つまりね、政治的ディスコースというのは、そういう性格を帯びざるを得ない。地域に関係なく、その反対も広く受ける、賛成も受ける、ということになるわけだ。公的言論というのは政治レヴェルの高低にかかわらずそういうもん。だから北朝鮮や中国の人権に関して我々が危惧し意見を言うことができる。アフリカやイスラム諸国でのゲイ弾圧に関して我々が抗議を行うのです。そこでもせめぎ合い。

したがって、都城が、他所の連中にいわれる筋合いはない、というのはぜんぜん成り立たない論理なんです。

ということで、HRWからの書簡は次のとおりっす。

Letter to the mayor of Miyakonojo Municipality about the removal of "sexual orientation" from the gender-equality ordinance

September 14, 2006


His Honor Nagamine Makoto
Mayor
Miyakonojo City
Miyazaki Prefecture
Japan

Dear Mayor:

On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

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Press Release, September 14, 2006

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On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

As you are aware, the Basic Law for a Gender-Equal Society (Law 78/1999), passed by Japan’s Diet in 1999, committed Japan to “respect for the human rights of women and men, including: respect for the dignity of men and women as individuals; no gender-based discriminatory treatment of women or men; and the securing of opportunities for men and women to exercise their abilities as individuals” (article 3). While the law did not propose penalties for discrimination, it was an important affirmation of government’s positive responsibility to promote equality at all levels. The same law made local governments responsible for “formulation and implementation of policies related to promoting formation of a gender-equal society corresponding to national measures (article 9). In response, Miyakonojo City in 2003 passed a human rights ordinance that affirmed the equality of people regardless of sexual orientation as well as gender. It was one of the first local governments in Japan to include sexual orientation in its commitment to promote equality. The final text of the ordinance was achieved through a process including open hearings at which citizens as well as local lesbian, gay, bisexual, and transgender (LGBT) groups spoke.

However, Miyakonojo City was consolidated with three other towns in January 2006, and officials agreed that ordinances enacted before this would undergo review. Human Rights Watch is concerned by reports that an open hearing was not held as the “Ordinance for the formation of a gender-equal society” was revised. LGBT groups and individuals and their supporters were denied the full opportunity to express their case. While municipal authorities insist that the proposal rises from discussions of a committee of experts, that discussion has not been made public.

Article 2.1 of the previous ordinance stated, “In the gender-equal society, for all people irrespective of gender and sexual orientation, human rights should be fully respected.” Article 2.6 defined “sexual orientation” as “a concept describing the direction of an individual’s sexuality, which can be directed to someone of the different or same gender, or to someone irrespective of their gender.”

In the ordinance now proposed, Article 2.1 now reads, “In the gender-equal society, for all people, their human rights should be equally respected.” Article 2.6 has been completely deleted.

The rationale for these proposed changes is explained, on the city’s website, as “to simplify the contents.” A simplification of an ordinance on gender equality which removes the term “gender” as well as “sexual orientation” is not a streamlining but a drastic weakening of the contents.

The Miyazaki Prefecture’s “Miyazaki Prefecture Development Policies of Human Rights Education,” introduced in 2005, includes a section on “Problems faced by gender minorities.” This section recognizes persisting discrimination and prejudice based on sexual orientation as well as gender, and urges active steps toward accepting sexual diversity. The new text of your city’s ordinance belies this aim. It also places your city at odds with the express finding of international human rights bodies that sexual orientation should be a status protected from discrimination. In 1994, the United Nations Human Rights Committee, which interprets and monitors compliance with the International Covenant on Civil and Political Rights (ICCPR), found that protections against discrimination in articles 2 and 26 of that treaty should be understood to include sexual orientation. Japan has been a party to the ICCPR since 1979.

The proposed revision of the gender-equality ordinance will be debated by the city assembly this week. I urge you to support retaining the existing language. Miyakonojo City’s resonant support of equality made it a model in Japan. Its example is too important for you to retract it now.

Sincerely,

Scott Long
Director
Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Rights Program
Human Rights Watch

September 12, 2006

東京入りしました

26日まで滞在します。

札幌レインボーパレードと行き違いで(日本語、正しいか?)こっちに来てしまいましたが、レインボーのほうにはちゃんと挨拶してきました。みなさま、札幌を盛り上げてくださいね。参加者は千人くらいなので、沿道の通りすがりの人たちといかにコミュニケートするかってのがカギだと思います。そうしてそれが日本のパレードと欧米のパレードとがいちばん雰囲気の違うところ。

都城の一件もあるし、それもアピールしないとね!
他力本願のわたしですけど、参加の皆さん、よろしくお願いします。
札幌、このところずっと快晴だし、気持ちいいよ。涼しいし。

わたしはこちらで新聞社の人たちと少し会ってみます。
都城の話は、尾辻さんの活躍もあって宮崎日々新聞に記事、社説ともに掲載されました。

尾辻さんのブログへ飛びます


なかなかちゃんと的を射た記事及び社説です。
あとは全国紙での掲載ですわね。

September 11, 2006

都城市への手紙

前略

都城市男女共同参画社会づくり条例(案)に関して、「「性的指向」に関しては、人権問題の一分野であり、「すべての人」で包括できるという考え方に立ち、削除しました。」という貴市の考え方は、世界の進み行きの情勢に逆行する明確な誤りだと考えます。一行政機関ならびに議会の行う措置として、これはとてもまずいことです。

「すべての人」で包括できる、というなら、もともと、この条例は必要なかったのでした。なぜなら、すべての人びとの人権は既に憲法で保障されており、ならば、あえて市の条例でわざわざあらためて示す必要などない、ということでしょう。それをなぜ具体的に記述して市の条例としたのか? それは、憲法などで包括的にとらえてそれでよしとするのではなく、市として地域として、その時代にそった具体的な重点事項の指摘が必要だったからです。そうしてそれを世に先んじて正してゆく。都城は2年前、そういう都市になるぞとの重要な宣言を行ったのです。

その重点事項は、この2年で解決したのでしょうか?
それが解決したなら、めでたいことです。
新しい都城市は世界でもまれな人権的理想郷ということです。
ところが、ほんとうにそうなのですか?
そうではないでしょう?

ならば、なぜに「性的指向」を外したのか?
解決もしていないことを解決したかのように削除する。それは、文脈的に明確に、「性的指向」で指し示される人びとを除外する、「性的指向」という概念そのものをも排除する、というメッセージを世に与えるものです。

つまり、それは「そういう人権都市になるぞとのかつての重要な宣言」をあえて否定することです。こんなんならはじめから人権条例などないほうがよかった、というくらいに、これは結果的に「非・人権宣言」になってしまう宣言なのです。

そういう人権否定宣言を、都城は行う覚悟なのでしょうか?
そうではないでしょうに。
ただ、結果的には、時系列上の文脈的には、そうなってしまう。

まずいことです。これはいずれ貴市の歴史的な汚点として語られることになるでしょう。
貴市にとって、心ある貴市民にとって、恥ずかしい過去として振り返られる事例になるでしょう。

スペインのサパテロ現首相は、「性的指向」による差別を廃止しようと国家として同性間結婚を認める決定を下した際に、「わたしたちは同性婚を認める最初の国になる栄誉を得なかったが、同性婚を認める最後の国だとの不名誉は回避できた」と演説しました。南アフリカのネルソン・マンデラ前大統領は「性的指向による差別は憲法として認めない」として世界で初めて「性的指向による差別の禁止」を盛り込んだ憲法を作りました。ケン・リヴィングストン・ロンドン市長はあえて「性的指向によりいじめにあうようなことがあってはならない」と発言して学校における同性愛嫌悪的ないじめ根絶の先頭に立つことを宣言しました。これが世界の良識です。これらに連なるものとしての以前の都城市の「都城市男女共同参画社会づくり条例」は、世界的にもじつに誇らしいものだったのでした。それは欧米のメディアでも伝えられたほどのニュースだったのです。それをご存知でしたか?

その歴史的快挙は、今度はまったく逆の反動としてニュースになります。
それは一地方のカルト機関紙でしかない「世界日報」が報じるよりも大きな恥辱としてほんとうの「世界」に伝えられるでしょう。
あなたの市を、わたしはとても恥ずかしく思います。
それは同じ日本人として、世界に尊敬されるべく生きようとする人間として、じつに悲しいことです。

悲しいことは正すべきです。
いつかまた、あなたの市の次の世代の市民が、正しい「性的指向」の概念にいち早く気づかれることを切に祈念しております。希望は未来にあります。というか、貴市の現状では、未来にしか、ありません。

ジャーナリスト、北丸雄二

September 10, 2006

エレンがオスカー司会者に

アウト・レズビアンのエレンが来年のオスカーの司会に決まりました。女性としてはウーピー・ゴールドバーグに次いで歴代2人目。エレンって、このところ毎日午前10時から1時間のトーク番組「エレン・デジェネレス・ショー」が人気で(私も見とります)、これをトークショー王者オプラ・ウィンフリーの「オプラ」にぶつけて午後4時からに編成替えになったばかり、というノリノリムード(昭和語)。

エレンって、日本だと彼女が話しているのを見たことのある人は少ないでしょうし吹き替えじゃ意味がないんだけど、見ていてほんとに嫌味がないっていうか、ジョークもすごくさらっとしているしなんとなくほんわかしていてきれいなのです。ゲストとのトークも粘着質じゃない、むしろはずしている部分がおもしろい、しかもしっかりエッジーなんだが意地悪じゃない、という感じ。そういう意味でもじつに頭のよいチャーミングな女性です。見た目どおりっていえば見た目どおりですわ。

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司会業でもね、2001年の9/11の直後のエミー賞の司会をやって、で例の、その年のオスカーで白鳥の変なドレスを着て登場したビョルクをパロってとんでもなく大きな白鳥の首巻きドレスを着て登場してみせて、うちひしがれていた観客・視聴者を笑わせた。あのとき、ああ、こんなときの笑いはこれしかないなって思ったもんです。いま、48歳。何度か顔を引っ張ってるけど(白人の女性は特に大変なんだよね)、いまでもとてもキュート。

さあ、今度は何を着て司会するんでしょうね。エレンは「タキシードにキュロットかしら? なんていうの、あれって、スコート?」とコメントした後で、「そういや、まだあの白鳥のドレスをもってるわ」と言ってました。ま、そんなことはないでしょうけど。

オスカーの司会はこのところ、ロビン・ウィリアムズからビリー・クリスタル、ウーピーにデイヴィッド・レターマン、そしてこないだのクリス・ロックと続いてたけど、これをするってのはアメリカの当代きっての人気コメディアン・コメディエンヌってことです。

最近のビアンはナブラチロワが全米オープンでダブルス優勝、モレスモのウィンブルドン優勝(全米じゃシャラポワに初敗戦だったけど)と、頑張ってるねえ。日本でも尾辻さんだし。

September 08, 2006

安倍晋三と都城がどう関係するか

こういうのはかつて学生運動華やかなりしころは常識だったんですが、いまじゃそうじゃないでしょうね。左翼が元気なころは右翼への警戒と分析が継続していたんですが、いまじゃだれも右翼のことを見張るようなことをしないから、いったい、都城の条例改悪の背景にだれがいるのか、それがどことつながっているのかということがわからず、なんとなく単発の事例として受け取られるような雰囲気もあります。でも、これらはすべて根はつながっているわけで、で、今回は、そういう状況背景のおさらいをすることにしましょう。個別の事象については自分で調べてね。ここでは「流れ」を見ていくということで。

都城市のあの条例が一票差で採択されたとき、いや、それ以前から、この「性別および性的指向にかかわらず」という人権条項に関する一大反対キャンペーンを繰り広げていたのが「世界日報」です。世界日報は、これに限らず、一連のジェンダーフリー施策・教育の反対キャンペーンを2002年あたりから本格化させています。

世界日報というのは「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)の機関紙です(表向きは無関係と言っていますがね、だれもそんなブルシットは相手にしてません)。統一協会というのは、ご存知、霊感商法や合同結婚式などで悪名高い国際カルト宗教集団で、欧州では信者とわかると入国制限されている“危険団体”扱いです。創設者は、文鮮明です。

さて、都城のあのジェンダーフリー条例への反対をあおっているのがこの統一協会の日本支部であるというわけですが、この統一協会と深い関係にあるのが「国際勝共連合」です。歴代会長は全員、統一協会員。役員もほとんどが重なります。

この「国際勝共連合」は文鮮明が1968年1月に韓国で立ち上げた反共産主義団体です。同年4月にはあの笹川良一(一日一善のおじいさん、っていってももうわからんかなあ)の別荘に、文鮮明と日本の統一協会会長の久保木修己もやって来て日本の国際勝共連合を作った。で、この久保木が初代会長、さらに名誉会長が笹川良一ということになったわけです。勝共と言えば笹川と仲良しの児玉誉士夫なんていう右翼ブローカーも登場してくる(後のロッキード事件のメンツでもあります)。

さて、当時(70年代〜)の東西冷戦を背景に、この勝共は自民党の支持団体としても成長を続けます。それで、このときの自民党の右派の重鎮がこの勝共に深く関与していくことになる。これがA級戦犯不起訴となり復権していた岸信介だったわけです。

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【1974年11月に、統一協会本部で文鮮明と会談する岸信介=右】

岸信介って、日米安保条約の調印批准のときの総理大臣でね、治安維持法の再来と言われた警察職務執行法(警職法)の改定案を出したり(後に撤回)、教職員への勤務評定の導入を強行したりとかなりの全体主義者(ファシスト)で、けっきょくは安保反対闘争の激化(デモの東大生樺美智子圧死事件が引き金でした)で退陣に追い込まれたんですけど、まあ、日本政界の化けもんですわ。

んでもって、この岸が、いわずとしれた安倍晋三の祖父なんですね。もちろん、安倍晋三は岸信介マンセー、です。

おさらい。
つまり「岸信介=国際勝共連合=統一協会」というつながりがいま、「安倍晋三=国際勝共連合=統一協会」に移行しているというわけです。

その証拠が、今年5月13日に福岡マリンメッセで行われた統一協会の合同結婚式に安倍が祝電を打ったという事実です(各新聞のリンクを示したかったんだが、もう4カ月前でリンク切れでした。適当に探せばどっかにあると思いますけど)。おまけに、現在ベストセラーの安倍晋三の(ゴースト本)「美しい国へ」とかっていう本、これ、前述の統一教会会長久保木の「美しい国/日本の使命」って本のパクリなんですわな。題名まで似てるでしょ。こういう情緒的なものいいで誤摩化す(つまりは言語化=論理化を避ける)のが好きなんだなあ、右翼ってのは。「論理じゃない、言葉じゃないんです!」ってのが決まり文句だもんねえ。議論になんか、さいしょからする気がないわけですわ。頭ごなしですから。

で、この自民党=勝共=統一教会という日本右翼の腐れ縁、ファシスト連合が、都城をはじめとするジェンダーリベラリズムにも猛然と牙を剥いているわけです。頭ごなしに「ホモは死ね」ですから。憲法改正、ってのも、ともすると勢いをかって第24条の強化にまでつながるかもしれません。

で、わたしが「日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません」「戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかも」と9月4日付けのこのブログで書いた意味が、これですこしはわかると思います。

September 06, 2006

英語でも回そう

NYのアジア人・太平洋諸島民のゲイ団体GAPIMNYのケン・タケウチさんから、例の都城の人権条例改悪に関する尾辻かな子さんの呼びかけの、彼の英語翻訳によるアクション・アラートが届きました。これがいまアメリカで回覧されはじめています。

ことはすでに日本だけの問題ではありません。
以下、転載します。

The following text is an ACTION ALERT letter from Ken Takeuchi, a member of NY base organization GAPIMNY.
I want you all to pass it on.

*********

Hello friends and family,

I've translated the open letter from Otsuji Kanako, the first openly lesbian politician ever in Japan. My apologies for a hasty translation, but the urgency and importance of taking immediate action is very much apparent I hope.

We cannot let this ordinance pass. No matter how advanced country like Japan has become, its records in LGBT rights have been non-existent. Being an ex-pat Japanese activist in NY, I cannot sit idly while this ordinance may set precedence in Japanese legal history. IF it comes to pass, it will bring dire consequences in the future LGBT rights in Japan.

PLEASE RE-POST, AND RESEND TO ALL YOUR FRIENDS AND COMMUNITY GROUPS YOU ARE PART OF NOW!!!

I feel that email petitions in Japanese would be most effective, but send them in English anyway if there's not enough time or resources to translate. We only have a week left, I desperately implore you to join in this petition.

You can visit following websites to learn more;

Otsuji Kanako's website;

Japanese;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/index.html

English;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/english.html

The proposed changes in the ordinance by Miyakonojo City

Japanese;
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/pabukome/shiminseikatu/seikatubunka/danjosyuseiitiran.jsp

English (There don't have the translated page, but you can get a sense of the city here)
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shisei/kokusaikouryu/english/titleenglish.jsp

My appreciation goes beyond description for your help in this matter. Please feel free to send me questions, and I will do as much as I can to follow up.

Best regards and with utmost respect,

Ken Takeuchi
Steering Committee member at large, Gay Asian & Pacific Islander Men of NY (GAPIMNY)
http://www.gapimny.org

Member, Japanese Speaking LesBiGays in NY (JSLNY)
http://jslny.web.fc2.com/index.html

###

!!!ACTION ALERT!!!

By Otsuji Kanako
Assembly Member of Osaka Prefecture, Japan
Party: Independent (first elected in 2003)
Member of "Rainbow and Greens (Japan)"
Book: Coming Out (2005, Kodansya, Japanese only)
The first openly homosexual politician in Japan

I am sending a letter of protest and petition to city counsel members of Miyakonojo City in Miyazaki Prefecture. Please join my petition by sending emails in protest.

Petition emails should be sent to: otsuji_office@osaka.nifty.jp

The deadline is September 12th (11th in the U.S.) - Please take action now, since the committee meeting begins on the 15th.
In addition, individuals should send a message to the city assembly. It is important to send in numbers.

For the mayor of Miyakonojo City, Nagamine Makoto
Tel: +81 986-23-2111, Fax +81 986-25-7973
info@city.miyakonojo.miyazaki.jp

For office of Miyakonojo city assembly
TEL +81 986-23-7869, Fax +81 986-25-7879
gikai@city.miyakonojo.miyazaki.jp

===========An open letter of protest and petition===========

For the members of Miyakonojo City assembly,

An open letter of protest and petition against the deletion of "gender and sexual orientation" from the proposed ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society"

I sincerely respect your diligence in all of your endeavors. Currently the city assembly's new ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society" is being presented. In this new proposal, the wording of (applying to) "all people including gender and sexual orientation" which was originally present prior to consolidation of Miyakonojo City, was deleted. And instead, revised to be simply, "all people". What was the reason for deleting "gender and sexual orientation" from the original proposal? While many people are being discriminated based on "gender and sexual orientation" in current Japanese society, such act of deletion ignores the reality of discrimination, and may be taken as an approval of such activities. I simply cannot sit by and watch it pass.

In addition, I have been informed that the names of council members who created the ordinance have not been released. Furthermore no hearing was held by the city's community groups or party involved. Without the lack of opinions from them, the ordinance does not reflect the needs of Miyakonojo community.

The policy introduced in January 2005, "Miyazaki Prefecture Human Rights Education-Policies for Basic Development" clearly states the following fact. In chapter 4, section 2 titled, "Promoting the Policies of Various Fields" includes the topic, "Problems faced by minorities of gender and sexual orientation". It recognizes the existence of prejudice and discrimination, and the importance of accepting sexual and gender diversity. The policy encourages the city residents to take initiatives to put more effort in this matter. The current ordinance on the table completely contradicts Miyazaki prefecture's policy.

Please reconsider this proposal one last time. I implore you to reinstate the wording, "gender and sexual orientation".

Otsuji Kanako
Petition organizer, Osaka Prefecture Assembly Member

September 04, 2006

次から次へと

東京新聞2日付けの佐藤敦社会部長の石原慎太郎インタビュー。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060902/mng_____thatu___000.shtml

「メンタル面では、日ごろの情操を培う基本的なものを精錬するとかね。新宿の二丁目と歌舞伎町は美観とはいえないよね。銀座でもごてごてと色があるし。景観法ができたし、規制力のある条例を今年中に作ります。」

東京五輪を名目に、2丁目はつぶされますね。
さてどうしたものか。

日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません。だれでしょう、日本の差別は欧米とは違うなんて言っていたのは。「目立たないようにやれば、日本ってゲイでも生きやすい社会だから」と、うまくだましだましすり抜けてきた世渡りとしての生き方ですが、もうそんな世渡りでは済まなくなってくるかもしれませんね。

おまけに、あの九州・都城市が、町村合併に伴って、男女共同参画社会ってのを定義した条例文「性別や性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会をいう」っていう条項から、「性別又は性的指向にかかわらず」って部分を削除する流れになっているらしい。今月22日の議会で採決だって。

どうなんでしょう、このバックラッシュというか、いやそもそも前に進んだことなど微々たるものだったのだから、バックラッシュというよりも妖怪がとうとう姿を現したな、という感じに近い。

こっちは大阪府議、尾辻かな子さんのブログに反対表明の仕方と事情の詳細が。
http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/

反対メールは次のメアドに名前と肩書きを書いてその旨を伝えれば尾辻さんが取りまとめてもくれるようです。これは12日まで。
otsuji_office@osaka.nifty.jp

いやはやしかしまったくもって、これから安倍政権ですぞ、みなさん。
こりゃ、戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかもなあ。もっともそれも、わがほうに闘う気概があればの話なのだが。

August 29, 2006

ちょうど150人

報道機関への要望書間は、締め切り後の作業中もメールでの連名の申し出が続き、結局150人分を添付し、報道各社に送りました。在京新聞社の編集局長及び社会部長、在京テレビ局の報道局長及び報道部長、あるいは、報道番組のキャスター、プロデューサー宛です。この後、手がすいたら新聞社の一面コラム氏にも送ろうと思っています。

みなさんのご協力に感謝します。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

北丸雄二拝

August 20, 2006

ありがとう;署名最終結果

連名署名の受け付けを締め切ります。
ありがとうございました。

私の手元に、120人の名前をお預かりしました。これからカウントされた方々(まだ返事をお出しするひまがなかった方々)に返事を出します。
大半がわたしのこれまで知らなかった人たちです。16歳の大分の高校生という方からも署名をいただきました。ちょっとうれしかった(べつに年齢差別じゃないけどね、笑)。
このほかにも、他の方にとりまとめを頼んだ名前がまだ挙がってくるはずです。

で、最終稿の文面を少し変えました。
これで行きますが、この文面だと賛同できないという方はお手数ですがまたメールを下さい。お名前を外します。だいたい同じですが、ある部分ではさらに主張が明示的になっています。そのくらいの違いだと思います。

もう一つ、ぜひお願いがあります。
各新聞社・通信社で働いている皆さん、おたくの編集局長の名前、社会部長の名前、を教えて下さい。
テレビ局の場合は、新聞社の編集局長・社会部長に該当する報道局長? 報道部長? というのでしょうか、その方々の名前を私宛のメッセージでお知らせ下さい。
手紙は、個人名も含めて出したほうがよいと思いますので、ぜひ、ご協力下さい。
教えてもぜんぜん問題はないよね?

ということで文面again but a final versionです。
****
前略 編集局長ならびに社会部長さま(ここには各社における個人名を入れる予定です)

とつぜん長文の手紙を差し上げる無礼をお赦しください。
私たちは先日8月12日(土)午後に東京・渋谷から新宿にかけて行われた「東京レズビアン&ゲイパレード2006」を準備し、あるいは参加し、あるいは関心を持って見つめていた同性愛者などの性的少数者とそれに寄り添う異性愛者の有志のグループです。今回のこの手紙は、私たちのこの人権パレードが、翌日の新聞各紙でなにひとつ、あるいはテレビニュースでもほとんど取り上げられていなかったという事実に少なからぬショックを受けてお出しするものです。

12日当日は、東京はご存じのように激しい雷雨に見舞われ、午後3時から予定していたこの人権パレードもあわや中止に追い込まれるところでした。しかし中止にすることはどうしてもできませんでした。このパレードは1年近い大変な準備の末に行われる、性的少数者の年に1度の東京での示威行動です。もっとも「示威」といっても、もちろん私たちにはなんの「威力」もありません。私たちがこのパレードで目指しているのは「威」というよりもただただまずは「存在」を世に「示」したいということです。なぜなら私たちは、性的少数者への差別は、性的少数者の実際を知らない、あるいは実在すら知らない、多くの人たちのその無知と偏見から来ているものだと知っているからです。これを正していくには、第一に当事者たちの存在を具体的に示すこと以外に方法はないのだろうと考えています。私たちにとって、それは「カムアウト」という言葉で表されています。このような英語で表記せざるを得ないのは、それが日本的な方法ではないからなのでしょう。しかしとりあえずいまの私たちにはそれしかない。しかも欧米先進国に比べて著しく潜在している、あるいは言語化すらされていない差別感を抱える日本社会で、カムアウトすること自体にも大きなリスクが伴うのは確かです。ですから、このパレードには、取材されて顔が出ては困るという参加者のために例年、「取材および写真撮影不可」という隊列カテゴリーももうけているほどです。

あの激しい雷雨で山手線がスットップしていたこともあり、今年は参加者の激減が危惧されました。ですがあの雨の中、それでも昨年とほぼ同じ2292人が出発地点の代々木公園に集合し、予定の15分遅れで行進が開始となりました。雨は不思議と止んだのでした。沿道からの応援やイベント会場の参加者を合わせると私たちの数は計3800人にもなりました(デモ行進扱いのマーチは、東京では3000人を超える行進者は認められないようです)。東京ばかりではなく、みんなこの日のために全国から集まってくれた人たちです。ゲイとかレズビアンとか単純にカテゴライズされるけれど、中には学校の先生がおり、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどのグループもいました。HIV/AIDSの支援団体の人もいれば、会社員も弁護士も会計士もコンピューター技術者もフリーターも学生も、それにメディアで働くゲイやレズビアンも参加してくれました。日本で初めて政治家としてレズビアンであることをカムアウトした尾辻かな子大阪府議会議員や、トランスセクシャルを公言する上川あや世田谷区議会議員も歩きました。社会民主党の保坂展人さんは国会議員として初めてこのマーチに参加してくれ、そのもようをご自身のブログでも公開してくれました(http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/d/20060812)。事実上の同性婚を法的に保障している英国のロンドン市長ケン・リビングストン氏からは、このイベントは「日本のレズビアンやゲイの方々の貢献をたたえ、目下の課題である人権問題や法的平等を勝ち取るための戦いを知らしめる絶好の契機だ」(Tokyo Pride is a timely opportunity to celebrate the contribution of Japanese lesbian and gay people and to acknowledge their ongoing struggle for human rights and legal equality.)とのメッセージが寄せられました。その他にも多数の欧米の政治家、人権団体代表の方々からメッセージをもらいました。日本の政治家からは、上記御三方以外のものは、ありませんでした。

ご存じのように、同性愛者など性的少数者の人権問題は宗教問題を絡めながらも現在の先進諸国の最大の政治課題です。にもかかわらず日本では、そのことを議論するどころか口にすることすらも忌避される傾向にあります。欧米で真剣に議論されている同性結婚の問題も、日本の新聞で読むとなにか「遠い異国の話」でしかない。そんな風潮は、もともと「性的なこと」を話題に上らせるのをよしとしないという、日本の文化的背景も一因であろうとは承知しています。さらには議論して衝突することを嫌う社会であるせいでもありましょう。でも「結婚」は、たんに性の話でしょうか?

でも、私たちが「示」したいのは、私たちの「性」の話ではありません。それらもすべて含めた、私たちの「生」のことなのです。そのために私たちは年に1度のこのパレードで私たちの「生命」と「生活」の存在を世間に示しています。それが差別と偏見をなくしていく最初の一歩だということを、先輩諸国の人権運動の歴史が示してくれているから、だからこそ私たちはリスクを冒しても顔を見せ手を振って公道をパレードしているのです。また、そうでなくては、欧米諸都市での数万人、数十万人規模のゲイ・パレードの説明もつきません。そこに参加する警察官の、消防士の、裁判官や検事や弁護士など法曹界の、政治家の、銀行や会計事務所や一般企業の、ありとあらゆる分野の参加者たちの動機を説明できないのです。ロンドンやパリやニューヨークなどでは、市長や国会議員が先頭に立ってこの人権パレードを歩く。その意味を、読者・視聴者に伝え得た日本の新聞・テレビはほぼ皆無です。それは、日本のメディアに従事するほとんどのジャーナリストがその意味を即答できないことでも明らかでしょう。それは、政治的な点数稼ぎのためではすでにありません。

このパレードに先立つ7月に、東京・新木場公園で同性愛者を狙った強盗傷害事件が起きました。
時事通信による配信では次のような事件でした。

**
◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。
**

この記事の書き方のせいでもありましょうが、このニュースはインターネット上のブログやミクシィというSNSコミュニティ内で「突っ込みどころ満載」と形容され、さんざん面白おかしく取り上げられました。「衣服を着けずに歩いていた」のにどこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それって犯罪じゃないの? 両方とも犯罪者じゃないの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。そうしてこの被害者は、強盗傷害の犯人と同列に、あるいは揶揄の点からはそれ以上に非難されることになった。自業自得、自己責任、というふうにしか発想しないこの本末転倒、ニュースを読む側の倒錯。こうした日本社会の非情の背景にはいったい何があるのでしょう。それをめぐって東京のゲイ・コミュニティでは70人が出席する緊急討論会も行われたほどです。もちろん、それも報道はされませんでしたが。

私たちがなぜ性的少数者への差別の解消を訴えているのか。
それは、性的少数者を差別しない社会は、他のすべての差別や卑下に関しても許さない正しい社会になるだろうと思うからです。日本でこれまでほとんど知的議論の対象になってこなかった性的少数者という存在を理解することは、あるいはとても難しいことかもしれません。それでなくとも日本社会には面白おかしい「ハードゲイ」像とか「おかま」像とかしか表面化していないのに、いったいどうやってそんな固定観念から自由に同性愛者というものを受け入れていくことができるのか。あるいはいまだに同性愛というものを「そっちのセックスのほうが好きだから自分で選んでそうなった」と思っている無知がはびこる中で、どうやって正しい知識を広める機会を持てるのだろうか。私たちの課題はとてつもなく大きく、重たいものです。でも、それを超えて、日本というこの社会をもっと真っ当なものにしたいからこそ、これからもパレードを続けていこうと思っているのです。なぜなら、同性愛者たちにきちんと向き合える社会は、病者や老人や外国人など、いわれなき偏見と差別にうちひしがれているすべての種類の人びとにもきちんと向き合える社会だと信じているからです。

しかし、それを日本でも成功させるには私たちだけの力では足りません。私たちにも、どうしてもメディアの力が必要なのです。欧米でももちろんそうでした。マスメディア各社の力添えがない限り、私たちの3800人のパレードは沿道わずか数十メートルの幅の、延長わずか数キロでしかないその通りすがりの人びとにしか伝わらない。いや、通りすがりの人びとにすら無視されるかもしれないのです。お願いです。貴メディアの力をお貸しいただきたい。私たちのことを、興味本位のものではない、ジャーナリズムの目を通して報道してください。私たちの現在は、人種、宗教、病気、性別、階級、障害、年齢、それら歴史上のすべての差別問題の再現なのです。私たちは、歴史です。それも現在進行形の。

私たちが最も恐れることは、私たちが単なる情報として消費されてしまうことです。HIV/AIDSの問題でもそういう消費と疲弊とが進行しています。それは教育と啓発の問題なのに、いつのまにかファッションの問題に置き換わってしまっている。結果、日本は先進諸国中ゆいいつHIVにとても脆弱な国家になってしまっています。

私たちは生きています。私たちを、私たちという歴史を記録してください。
今後末永く、少しずつでいいですから私たちをジャーナリズムに載せていってください。
そのために、いますぐでなくとも、性的少数者の問題を長期的に「生」の問題として扱う社内態勢あるいは社内コンセンサスを形作っていただきたいのです。

パリのドラノエ市長も、ニューヨークのブルームバーグ市長も、スペインのサパテロ首相も、私たちが求めればニュースになるようなメッセージくらいいくらでも送ってくれるでしょう。現在の東京都知事に期待できることはまったくないにしても、しかしこれくらいのことは「外圧」を必要とせずに私たち日本社会の中でやり遂げたい。
どうか、この困難な人権運動にお力添えください。

長文の、一方的なお願いの手紙になりました。
貴重な時間を割いて読んでいただいたことを感謝いたします。

お願いついでにもう一件。
来る9月17日(日)に、北海道札幌市中心部でこの種のパレードの第二弾となる「第10回レインボーマーチ札幌」が行われます。他都府県からも多くの参加者が札幌に向かいます。札幌の上田文雄市長は、この人権マーチに賛同を表明している数少ない日本の行政執行者・政治家の一人です。紙面の余裕がありましたら、ぜひ取材・報道してみてください。
詳細は「www.rainbowmarch.org/」にあります。

貴社の、ますますのご発展をお祈りいたしております。

不一。

             在NYジャーナリスト 北丸雄二拝

この書簡に賛同する方の連名署名をネット上の私のブログなどで募ったところ、5日間で次の方々から私宛のメールでお名前をお貸しいただきました。全員のメールアドレスは私が保管してあります。ご覧のようにメディア関係者のほとんどは残念ながら匿名・仮名での署名でした。本来ならばメディア内部の私たちの仲間が率先して社内啓発に努めるべきなのでしょうが、現在の日本で、社内「カムアウト」することの複雑困難な背景が存在するという事情をこのことからもご高察くだされば幸いです。このお願いの手紙は、貴社内で公開くださってもかまいません。
この手紙に関するお問い合わせ、ご意見は、遠慮なく私宛にお返しください。

(以下、連名署名を並べます)

August 16, 2006

連名で要望を出しましょう

先日の東京LGパレードが、けっきょくどこの新聞でも報道されなかったということを知って、私はすごくショックを受けました。それで、次の内容で東京の報道メディア各社(朝・毎・読・日経・東京・産経・共同・時事、それとテレビ各局)に手紙、まあ、要望書ですね、それを送りたいと思っています。北海道新聞にも送ろうかしら。

この書簡の内容に、連名で名前を載せてくれるひとを募ります。
あなたの名前を貸してください。

肩書き(職業、なるべく具体的な社名)と名前をください。名前を出せないひとは、たとえば職業のほうは本当のものを書いて「TBS社員、何乃誰平(仮名)」とかいうふうにしてください。 パレードの準備委員会だった方、あるいはボランティアをしていた方は、その役付きも表記してください。

お名前は、わたし(yuji_kitamaru@mac.com)宛に、メールでその旨を知らせてください。この要望内容に賛同する方ならどなたでも結構です。
ここのブログのコメント欄でもよかったのですが、このコメント欄、不具合で使えません。
申し訳ない。近々、ブログページ自体を変えますのでお待ちください。

また、みなさん、ここにリンクを張ってこの連名署名への参加者を呼びかけていただけるとうれしいです。

で、書簡の内容です。長文注意。


***
前略 編集局長ならびに社会部長さま

とつぜんお願いの手紙を差し上げる無礼をお赦しください。
私たちは先日8月12日(土)午後に東京・渋谷から新宿にかけて行われた「東京レズビアン&ゲイパレード2006」を準備し、あるいは参加し、あるいは関心を持って見つめていた同性愛者などの性的少数者とそれに寄り添う異性愛者の有志のグループです。今回のこのとつぜんの手紙は、私たちのこの人権パレードが、翌日の新聞各紙あるいはテレビニュースでなにひとつ取り上げられていなかったという事実に少なからぬショックを受けてお出しするものです。

12日当日は、東京はご存じのように激しい雷雨に見舞われ、午後3時から予定していたこのパレードもあわや中止に追い込まれるところでした。しかし中止にすることはどうしてもできませんでした。このパレードは1年近い大変な準備の末に行われる、性的少数者の東京での年に1度の示威行動です。もっとも「示威」といっても、もちろん私たちにはなんの「威力」もありません。私たちがこのパレードで目指しているのは「威」というよりもただただまずは「存在」を世に「示」したいということです。なぜなら私たちは、性的少数者への差別は、性的少数者の実際を知らない、あるいは存在すら知らない、多くの人たちのその無知と偏見から来ているものだと知っているからです。これを正していくには、第一に当事者たちの存在を示すこと以外に方法はないのだろうと考えています。私たちにとって、それは「カムアウト」という言葉で表されています。もちろん、欧米先進国に比べて著しく潜在している差別感を抱える日本社会で、カムアウトすること自体にも大きなリスクが伴います。ですから、このパレードには、取材されて顔が出ては困るという参加者のために例年、「取材および写真撮影不可」という隊列カテゴリーももうけているほどです。

あの激しい雷雨で山手線がスットップしていたこともあり、今年は参加者の減少が予想されました。が、それでも昨年とほぼ同じ2292人が行進し、沿道からの応援やイベント会場の参加者を合わせるとその数は計3800人にもなりました。東京ばかりではなく、この日のために全国から集まってくれた人たちです。中には学校の先生がおり、医師や看護師、ソーシャルワーカーなどのグループもいました。HIV/AIDSの支援団体の人もいれば、会社員も弁護士も会計士もコンピューター技術者もフリーターも学生も、それにメディアで働くゲイやレズビアンも参加してくれました。日本で初めて政治家としてレズビアンであることをカムアウトした尾辻かな子大阪府議会議員や、トランスセクシャルを公言する上川あや世田谷区議会議員も歩きました。事実上の同性婚を法的に保障している英国のロンドン市長ケン・リビングストン氏からは、このイベントは「日本のレズビアンやゲイの方々の貢献をたたえ、目下の課題である人権問題や法的平等を勝ち取るための戦いを知らしめる絶好の契機だ」(Tokyo Pride is a timely opportunity to celebrate the contribution of Japanese lesbian and gay people and to acknowledge their ongoing struggle for human rights and legal equality.)とのメッセージが寄せられました。その他にも多数の欧米の政治家、人権団体代表の方々からメッセージをもらいました。尾辻、上川両氏以外の日本の政治家からは、ありませんでしたが。

ご存じのように、同性愛者など性的少数者の人権問題は宗教問題を絡めながらも現在の先進諸国の最大の政治課題です。にもかかわらず日本では、そのことを議論するどころか口にすることすらも忌避される傾向にあります。新聞で読んでもなにか「遠い海外の話」でしかない。そんな風潮は、もともと「性的なこと」を話題に上らせるのをよしとしないという、日本の文化的背景も一因であろうとは承知しています。さらには議論して衝突することを嫌う社会であるせいでもありましょう。

でも、私たちが「示」したいのは、私たちの「性」の話ではありません。それらもすべて含めた、私たちの「生」のことなのです。そのために私たちは年に1度東京に集まってこのパレードで私たちの命の存在を世間に示したい。それが差別と偏見をなくしていく第一の道だということを、先輩諸国の運動の歴史が示してくれています。だからこそ私たちはリスクを冒しても顔を見せ手を振って公道をパレードしているのです。そうでなくては、欧米での数万人、数十万人規模のゲイ・パレードの説明もつきません。そこに参加する警察官の、消防士の、裁判官や検事や弁護士など法曹界の、政治家の、銀行や会計事務所や一般企業の、ありとあらゆる分野の参加者たちの動機を説明できないのです。

このパレードに先立つ7月に、東京・新木場公園で同性愛者を狙った強盗傷害事件が起きました。
時事通信による配信では次のような事件でした。

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◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。
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この記事の書き方のせいでもありましょうが、このニュースはインターネット上のブログやミクシィというSNSコミュニティ内で「突っ込みどころ満載」と形容され、さんざん面白おかしく取り上げられました。「衣服を着けずに歩いていた」のにどこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それって犯罪じゃないの? 両方とも犯罪者じゃないの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。そうしてこの被害者は、強盗傷害の犯人と同列に、あるいは揶揄の点からはそれ以上に非難されることになった。自業自得、自己責任、というふうにしか発想しないこの本末転倒、ニュースを読む側の倒錯。こうした日本社会の非情の背景にはいったい何があるのでしょう。それをめぐって東京のゲイ・コミュニティでは70人が出席する緊急討論会も行われたほどです。もちろん、それも報道はされませんでしたが。

私たちがなぜ性的少数者への差別の解消を訴えているのか。
それは、性的少数者を差別しない社会は、他のすべての差別や卑下に関しても許さない正しい社会になるだろうと思うからです。日本でこれまでほとんど知的議論の対象になってこなかった性的少数者という存在を理解することは、あるいはとても難しいことかもしれません。それでなくとも日本社会には面白おかしい「ハードゲイ」像とか「おかま」像とかしか表面化していないのに、いったいどうやってそんな固定観念から自由に同性愛者というものを受け入れていくことができるのか。あるいはいまだに同性愛というものを「そっちのセックスのほうが好きだから自分で選んでそうなった」と思っている無知がはびこる中で、どうやって正しい知識を広める機会を持てるのだろうか。私たちの課題はとてつもなく大きく、重たいものです。でも、それを超えて、日本というこの社会をもっと真っ当なものにしたいからこそ、これからもパレードを続けていこうと思っているのです。なぜなら、同性愛者たちにきちんと向き合える社会は、病者や老人や外国人など、いわれなき偏見と差別にうちひしがれているすべての種類の人びとにもきちんと向き合える社会だと信じているからです。

しかし、それを日本でも成功させるには私たちだけの力では足りません。私たちにも、どうしてもメディアの力が必要なのです。欧米でももちろんそうでした。マスメディア各社の力添えがない限り、私たちの3800人のパレードは沿道わずか数十メートルの幅の、延長わずか数キロでしかないその通りすがりの人びとにしか伝わらない。いや、通りすがりの人びとにすら無視されるかもしれないのです。お願いですから力を貸してください。私たちのことを、ワイドショー的な興味本位のものではない、ジャーナリズムの目を通して報道してください。私たちの現在は、人種、宗教、病気、性別、階級、障害、年齢、それら歴史上のすべての差別問題の再現なのです。

どうか、私たちのこの運動にお力添えください。
今後末永く、私たちをジャーナリズムに載せていってください。
性的少数者の問題を長期的に「生」の問題として扱う社内態勢を形作っていただきたいのです。

長文の、一方的なお願いの手紙になりました。
貴重な時間を割いて読んでいただいたことを感謝いたします。

お願いついでにもう一件。
来る9月17日(日)に、札幌中心部でこの種のパレードの第二弾となる「第10回レインボーマーチ札幌」が行われます。紙面の余裕がありましたら、ぜひ取材・報道してみてください。
詳細は「www.rainbowmarch.org/」にあります。

貴社の、ますますのご発展をお祈りいたしております。

不一。

August 06, 2006

新・新木場事件に思う

 2000年2月11日早朝、東京・新木場の「夢の島緑道公園」内でゲイ男性とおぼしき若い男性が頭や顔から血を流して倒れているのをジョギング中の会社員が見つけるという事件が起きました。やがてこの男性への強盗殺人容疑で江東区東雲2、無職、中野大助(25)=当時=と同区立中学3年の少年(14)、同区都立高校1年の少年(15)=同=ら計7人が強盗殺人容疑で逮捕されました。これはいわゆる、日本で初めて殺人にまで発展した「ホモ狩り」、ゲイバッシング殺人事件ですが、裁判では、この被害者男性の遺族であるお母さまの事情も鑑みて、事件をゲイバッシング=ヘイトクライム(憎悪犯罪)と規定するに至らず、たんなる通行人を狙った小遣い稼ぎの凶行、と認定するにととどまりました。

ところが同じようことが6年半後の先月、同じ場所で起きました。

以下、時事通信の記事です。

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◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。

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 この事件は、ミクシィというSNSの中での日記書き込みで万人に「突っ込みどころ満載」と形容されました。そうしてまずは面白可笑しく取り上げられていったのです。「衣服を着けずに歩いていた」のに、どこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それも犯罪じゃないの? 逮捕されないの? 両方とも犯罪者じゃないの? で、「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。

 こうしてこの新・新木場事件は、各人が各様に(これはゲイであるかストレートであるか関係なく)「突っ込みどころ」のユニークさとその「突っ込み方」の面白さを競うような(あるいは競ってはいなくともここでなにか一言でも言っておきたいというような)対象となっていきました。もちろんすぐに「そうじゃないだろう」という対抗言説も生まれましたが、また同時に、同じゲイの中からも「こんな全裸徘徊をしているから襲われるんだ」「新木場は危ないと知っていてそういうことをしているのなら、それは自己責任ではないのか」という批判も生まれました。

 こうした反応をさまざまなブログやミクシィ内の日記などで読みながら、私はこれは基本的には社会的なコンセンサスの問題ではないかと思いました。コンセンサスとは、人びとに共通の、社会の大多数の人びとが同じようにもっともだと思う、その共通認識のことです。もちろん自然と形作られていくようなものもありますが、ゲイに関すること、LGBTに関わることでは、情報自体がいつもどこででも公になるというものではないですから、公のコンセンサスというものは、黙ったまま何もしないでいるといつまでもできてこないものです。

 たとえばこの新・新木場事件に10の論点があるとしたら、私の印象は、みんなが順不同に3を言ったり5を言ったり7を言ったり4を言ったり2を披露し合った、というものです。ときにはまだだれも言っていないからと6.5の部分を指摘したり、と。そうして、私たちは10の論点のすべてを消費しました。で、結果、なんらかのコンセンサスは得られたのか?

 『バディ』というゲイ雑誌の編集もしている斎藤靖紀さんは、ミクシィ内で「実際に既に重傷を受けている人間がいるのに、その罪よりも、そこにいたった行動のほうを問題にするのは、お願いだから別の機会にやってほしい」と書き込みました。これを受けて、同じく編集者であるみさおはるきさんが「今回の事件に対して『自己責任』とか『自業自得』って意見を出した人は、これが二丁目の近くでゲイを狙った事件で、たまたまそこに通りかかった自分が襲われて被害者になったとしたら「ゲイが集まることで有名な二丁目に行ったから自分は襲われたんだ、自業自得で自己責任だから仕方がない」なんて」言えるんだろうか、という視点を補足しました。

 斎藤さんがまとめたこの事件に対する人びとの反応はつぎのようなものです。

「事件が報道されたというのが最初の衝撃。

「被害者の変態行動どうよ」な声がワッと出たのが第一の反応

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよ」、というのがその次の反応↓

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよという言論統制的圧迫はどうよ」というのがその次の反応」

 このまとめはじつに要領を得たものでした。こうして、この事件に関する10の論点のほぼすべてが網羅されました。
 そういう書き込みを読みながら、私には、みさおさんにしても、斎藤さんにしてもみんなが一様に、最初の「被害者の変態行動どうよ」というものへの対抗言説として、様々な視点からこの事件に対してどういう態度を取るのが正しいのか、それを懸命に模索しているという印象を受けたのです。とにかく足場が必要だ。その足場がなければ、次のところに進めない。先ほどの物言いでいえば、その足場こそがコンセンサス、共通認識です。みんなが、あるいは少なくとも大多数がそうだと合意できるような、論理的な、しかも万人が納得するような平易な足場。斎藤さんがミクシの中で言っていたことはまさにそういうことでした。10ある論点のうち、1が定まらなければ2に行けないのに、どうしてみんな先に5とか7とか8とか9とかの話をするんだ? どうして1に関して、あるいはその派生としての2に関してきちんと合意もできていないまま3に進んじゃったり6を知ってるってひけらかしたりするんだ?

 そういうことなんだろうと思います。わたしたちは、こういうゲイバッシングに関して、いったいどこでどういうコンセンサスを形成してきたのか? いや、ゲイバッシングにのみ関係する問題ではありません。ゲイに対してまずは公の言説がほとんどなされていない日本という社会のなかで、言説がないのにコンセンサスが生まれるはずもありません。ではバッシングに関してはどうなのかというと、はて、いじめの問題は、いじめられる側にも問題がある、という物言いが平然と訳知り顔で公言されるような社会で、いったいどんなコンセンサスが真っ当なものなのでしょうか。

 思えば現代日本社会は、私の知る限り、公の議論と公のコンセンサスというものをないがしろにして成熟してきた社会のように思えます。戦後30年ほどは、つまりは1975年くらいまでは、いちおう、戦争をしないというコンセンサスがあったように記憶しています。もっとも、それもなんとなく戦後という時代の空気がそうだったのであり、べつに議論してそうなったのではなかった。だからいま、言葉としての伝達がないままになって久しく、ついに憲法9条もまたコンセンサスたり得なくなっている。

 すべてがこの調子です。日本社会は衝突を嫌う社会だという紹介が欧米では為されています。衝突を嫌うあまりに、議論をしなくなってしまった。自分たちの思考を言葉で切磋琢磨することを避けてきてしまった社会です。言葉がないところに、コンセンサスは生まれない。みんな、なんとなくそうでしょう、という雰囲気だけがフワフワと漂っていて、そしてひとたび問題が起きるや、そのなんとなくそうだという幻想の化けの皮がはがれることになる。え、そうじゃなかったの? と慌てるのです。そんな雰囲気だったのに、という共通認識は、じつは各自の勝手な思い込み、思い込みででっち上げられた誤解なのです。

 7月最終の週末に、つまりいまからつい1週間ほど前に、カリフォルニア州サンディエゴでゲイプライド・フェスティバルが行われました。29日夜の公園でのプライドコンサートの帰り道、3人のゲイ男性が、若者5人組に野球バットとナイフで襲撃されるという事件が起きました。3人は命に別状はなかったものの重傷を負い、容疑者の16歳から24歳までの男性が逮捕・起訴されました。前述のみさおさんが指摘した、「ゲイが集まることで有名な」ゲイプライドなんかに行ったから襲われた、のかもしれません。しかし、アメリカにおけるコンセンサスはすでに違います。

 サンディエゴの市長ジェリー・サンダーズは、すぐさま次のようなスピーチを行いました。
 「こんな下劣な犯罪を行うような輩に、あるいはこんなふうに人間を襲撃しようと企てているような連中に、言うべき言葉はわずかだ。きみたちは卑怯者だ(You are cowards.)。犯人たちは3人をバットで殴りながらゲイに対する卑劣な罵倒語を浴びせかけていた。これはヘイトクライムの、まさに定義そのものの犯罪だ。あきらかに、このケモノたちは被害男性たちをまたクローゼットに押し戻したかったのだろう。わたしたちは、ぜったいに、そんなことをさせないし、許しもしない」

 その前月の6月には、NYのゲイプライドに登場するはずだったケヴィン・アヴィアンスがやはり16-20歳の若者4人組に襲撃され、顎の骨を折る重傷を負いました。このときにはNY市長のマイケル・ブルームバーグが即座に「こんなヘイトクライムをしでかして逃げ仰せると思っていたら、それは悲しいくらいの大間違いだ」という声明を発表しています。

 学校での同性愛嫌悪的ないじめをなくすためにイギリスで先ごろ教師向けに作られたDVDの中で、ロンドン市長のケン・リヴィングストンは「私たちの目の前には、gay という言葉を侮辱的に用いるような低レベルな偏見・差別をなくすために、しなければいけないことがたくさんある」と訴えています。

 これがいまの欧米社会の世論の足場です(もちろん現実にはバッシングは頻発しているにしても)。そうしてこれさえあれば、私たちはみずからどんなジョークを言おうがあるいはだれかから笑い話にされようが迷うことはありません。なぜなら、これがいまの社会の背骨だという正義に支えられるからです。もちろんその背骨はアメリカではまだかぼそく、ちょっと横にずれて同性結婚とかの話になるとそれこそ屋台骨が揺らいだりするのですが、しかし暴力に関してはすでにこのサンダース市長らの言説に面と向かって反論することはできない。反論するには、面と向かわない、横を向いた、それこそ卑怯者のやり方でしかできない。

 今回の新・新木場事件で、私たち日本人社会はこの市長たちが代弁したようなコンセンサスを得てはいません。こんな基本的なことが、暴力を振るった者に対するこの絶対の批判が、社会で共有されていないのです。6年半前のあのオリジナルの新木場事件のときよりも、たしかに談論風発ではありましょう。いろんな意見が飛び交いました。相変わらず能天気で問題の核心をはずしているストレートのパッパラパー連中のことは別にしても、ゲイ・コミュニティ(もしそういうものがあるとしたら、ですが)、そしてそのコミュニティに寄り添おうとしているストレートの人びとの中で、たしかにかつてないほどの意見の披瀝と忌憚ない批判がありました。それは6年半という時間を感じさせる展開だと思います。

 ただしそれらは、足場がない限りどこにも行けないのです。10の論点を我れ先に見つけて発表し合うだけで、だからといってすごいね、よくわかったね、気づいたね、と褒められても、あるいはなにかを書き込んだことで自己充足していても、そこから私たちはいったいどこに行けばよいのでしょうか。このままでは私たちは、10の論点を情報として消費してしまったに過ぎない。私たちは、情報を消費するだけで、なんら新しい情報を作ってはいないのです。私たちは私たちのコンセンサスを作ってはいない。

 コンセンサスは、ゲイ・コミュニティの内部だけで作るものではありません。圧倒的な数を誇るヘテロセクシュアルの社会を巻き込まなければ、いえ、われわれの生きるそうした社会全体のなかでこそコンセンサスを作っていかなければ、意味がない。それはどういう運動かというと、じつは、大げさに聞こえるかもしれないけれど、日本の社会を変える運動なのです。たんにゲイに関するコンセンサスの話ではない。ゲイのことを軸にしながらいまの日本の社会のどうしようもなさを変えてゆくことにつながる、もっと大きな運動のことなのです。

 さてそのコンセンサスをどうやって形作ってゆくか。それは、先ほども言ったとおり、情報を消費するだけでなく、情報を作ってゆくことなのです。ゲイに関する、多種多様な情報を社会に向けて発信していく。これまではゲイコミュニティ内部への情報発信だったのを、これからはそれを外部へとつないでゆくこと。私たちの情報を一般社会へと広げてゆくことだと思うのです。これまでの10年間が個々人のカミングアウトの時代だとすると、そこを経ていま、今度はゲイコミュニティ自体が、一般社会へとカムアウトする時代になっていくのだと思います。

 おそらくそれにはまた10年を要するでしょう。でもそのとき、私たちの社会はいまよりもすこしだけ真っ当になっていることは確かだと思う。いやしかしまた、もしそうなっていないとしたら、それはつまり、だれもが不満を抱えているような、嫌な日本の病状が進行してしまっていることになるのだと思います。

 ですから、方法はやはり明らかです。ハーヴィー・ミルクが殺されて28年が経とうとしているいまも、彼が言ったことはだれがどこでどんな屁理屈をでっち上げようが保留をもうけようが、結論としてはぜったいに正しいものです。もちろん過程としてはさまざまな方法論や手練手管はあるでしょうけれど、それは28年を経ていままでだれもだれひとりとしてそのことを否定できなかったという歴史が証明しています。

 「カムアウト! カムアウト!」

 これを否定できた人はいません。すくみあがりたじろぎ留保したひとは多くいるけれど、否定できたひとはだれもいないのです。たとえカムアウトした先に死刑が待っていようとも、その死刑を覆すにはやはりカムアウトするしかないのだという理を、否定できはしない。
 それは、私たち自身を作り上げることです。私たちをこそ情報として発信することです。全裸徘徊が情報として誤解だと思うならば、全裸徘徊ではない自分自身をもまた伝えればよいだけの話です。

 「カムアウト! カムアウト!」

 このことをこそ、まずは私たちのコンセンサス、共通認識にする。いまはカムアウトできなくともよいのです。ただし、いまカムアウトできなくとも、カムアウトすることは正しいことなのだという結論は、揺らぎのないものなのだという歴史的な事実だけは知っておく。そういうことなのだと思います。そうみんなが思っていれば、それだけでも社会は確実に真っ当な方向に進んでゆくはずなのです。

July 22, 2006

トランスアメリカ

日本でもついに公開になりましたね。「トランスアメリカ」。
これは、“父”と息子のアメリカ横断(トランスアメリカ)の物語と同時に、トランスセクシュアルを取り巻くアメリカ(トランスアメリカ)の現状と希望とを描いた佳作です。

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監督のダンカン・タッカーに、この5月、日本公開に先駆けてマンハッタン・グリニッジヴィレッジの老舗カフェ「ラファエラ」でインタビューをしました。その内容をここで公開しますね。映画鑑賞の参考にしてください。

**

●赤ん坊が生まれるって?

DT そうエージェントを通して捜した代理母で。名前は知らされてない。もう38週目でいつ生まれてもおかしくない。生まれたって連絡が来たらすぐにカリフォルニアに飛ぶんだ。

●オープンリー・ゲイだって聞いたけど、赤ん坊って?

DT ゲイっていうか、ぼくはぼくに優しくしてくれる人とだったらだれとでも寝るよ(笑)。区別しないようにしてるのさ。この映画を作っていて学んだことの1つは、残忍性ってのは最近ではどの社会層にも見られるってことで、区別はない。男でも女でも保守派でもリベラルでも、黒人でも白人でも。人種って、アジア人とかヒスパニックのことも最近は話すけど、とにかくいろんな肌の色がある。セクシュアリティとかジェンダーってのも同じ数だけいろんな色があるんだってこと。ジェンダーって、ボートみたいなもんだと思う。ある人たちはボートの中心部に座っていて、真ん中だからあんまりボートも揺れない。でも縁の方にいる人たちにはボートは揺れてるんだ。すごく縁の人はそれで勢いあまってひっくり返って転げ落ちちゃうみたいにね。男も女もゲイとかストレートとか言ってるけど、そんな簡単なものじゃなくて、でも簡単に言っちゃえば僕らはただの性欲いっぱいのアニマルってことだよ。男で20歳だったりしたら、それこそ木の股とだってやれちゃうんだからね(笑)。
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●アメリカ人って、すぐにレーベル付けたがるからね。さて、赤ん坊に絡めて、もうすこし「家族」ってものについて話を聞かせて。これからあなたが持つ「家族」は一般に言う伝統的な「家族」とはちょっと違うでしょ?

DT たくさん親しい友だちがいて、彼らが家族を持っていて、あるいはいま付き合ったりしていて、そういうの見てて、このまま一人で待っていてもしょうがないなと思ったんだ。映画が出来上がって去年、マーケティングもとてもうまくいって、最後にはこうやって日本まで買ってくれたわけだしね、日本は最後の買い付け国の1つなんだよ。うれしかったね。で、映画がうまくいった。じゃあ次は何だってことになって。そうか、この映画で借金することもなくなったし、家も買えるし、子守りだって雇えるじゃないの、って気づいたわけ。で、ずっと長いこと自分の子供が欲しかったからね。よーしって。そんで、昨年の8月には代理母の女性が妊娠してくれたというわけ。

●この「トランスアメリカ」の制作自体が、家族を持とうと決心させてくれたというところもある?

DT その2つはいっしょだね。この映画、ずっと何年も作りたかった映画だし。

●ブロークバックマウンテンは7年かかってっていうのは有名だけど、この映画は?

DT 5年かな。で、いまでもまだこうしてインタビューで忙しくしてる(笑)。昨日なんて、カンヌでケヴィン・ジーガーが新人賞をもらったし、まだ続いてるものね。

●ケヴィン、よかったね。でも、とてもハンサムなんで、トビー役にはハンサムすぎて最初は採用しないつもりだったんだって?

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DT ああ、ほんとに彼は使うつもりじゃなかったんだ。彼はカナダのトロントの出身で、自分でこの役を取るためにリサーチをしてきてね、街に立つ若いハスラー(男娼)たちに話を聞いたりしたらしい。僕もこの役を作るためにいろんな若い連中に話を聞いたりしてたからね。で、リハーサルをやったんだけど、とにかく彼、あきらめないんだ。ダメだったらまた別のやり方を試すみたいな、全力で役作りをしてた。この役を取るという決心はすごいもんだったよ。で、彼に決めたんだ。

●あなた自身も、このニューヨークにある家庭や地元から疎外されたLGBTのための高校、ハーヴィー・ミルク・ハイスクールでリサーチをしたんでしょ?

DT いや、あそこはリサーチじゃなくて、あそこでボランティアで教えたりしてたんだよ。だからLGBTの若い子たちのことはわかる。それにあそこにはハスラーをやってる子がいるわけじゃないしさ。で、リサーチというか取材は別の場所でいろいろしたね。基本的にこれは、社会にミスフィットしてる人間を描いた映画なんだ。むかしジェイムズ・ディーンが「理由なき反抗」でやったのと同じなんだ。あれも社会に合わない、はじかれた若者の話だった。で、ジェイムズ・ディーンの役をもっとボリュームアップして、この「トランスアメリカ」のフェリセティ・ハフマンのブリーの役が、いまの社会の、べつの種類のだけど、ミスフィットということなんだよ。基本的に、このストーリーは、社会に誤解され、疎外されている人間が、いかに大人になるかを探す物語なんだよね。トランスセクシュアリティそのものが、いかに大人の自分に変身するかという問題だから。

●なるほど、そうか。性別適合手術までの話というのは、成長した自分になるための成長譚なんだ。

DT ぼくのいちばん好きな物語は何かというと、「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」なんだ。15歳のころに、あの本は7回も読んだ。で、自分の自由にできる予算内で「ロード・オブ・ザ・リング」を作るにはどうしたらいいかって考えたわけだ。そのためにはまず登場人物は、架空の存在じゃなくて実際の人間にしようと。で、それからそいつが探求の旅に出る。で、友だちに出遭い、敵に出遭い、故郷に帰ってきたときには別の人間に成長している。で、主人公は社会にミスフィットの存在で、どこにも自分が帰属していないと考えていて……そうやって組み立てていって、だからブリーとトビーは、どこかサムとフロドに似てるでしょ? ブリーはサムのように捨てにいく宝物を携えながら旅をしている。

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●ははあ、すごいなあ。で、トビーがブリーにセックスを提供しようとする場面も出てくるわけか。サムとフロドの2人の関係が、逆にトランスアメリカでは明示的にそこにかぶってくるね。面白いなあ。

DT トビーはセックスでしか他人と関われないからね。それ以外に方法を知らないんだ。

●あのシーンはどういうふうに演技指導したの?

DT ケヴィンにはとにかくシンプルに演じるようにって言った。「マイ・プライヴェート・アイダホ」で、リヴァー・フィニックスがキアヌに「I really love you, man」って言うシーンがあるだろ? あんなふうに、飾りのない、朴訥で裏のない正直な、まんまの感じで演じてくれっていったんだ。で、それがあのブリーに背を向けながら「It's like...I see you(見えるよ、本当のあんたが)」って言うシーンになった。

●あれはほんとうに胸がつぶれるシーンだった。

DT そう、あのシーンで、みんなに、居心地の悪さや悲しさや可笑しみや共感や、そうね、オエッていう感じとかも、そういうものすべてを同時に感じてほしかったんだ。肝心要のシーンだし。

●フェリシティ・ハフマンにしても、ブリーのこの役はまったく新しい経験だったんじゃないかな。

DT ホルモン剤の副作用でおしっこが近くなるせいで、夜に車を停めて路肩で用を足さなくてはいけなくなるシーンがある。道路を離れて草の生える場所でしゃがみ込んで用を足すにはヘビが恐くてダメ。で、やむなく立ち小便をするというシーンでね、これはいわば真実の暴露という場面で、いかに本物らしく撮るかがカギだと思って、医療用の模造ペニスを用意しようとしたら2万ドル(220万円)もするっていうんだ。それで12ドル95(1400円)で代用品を用意して小道具の人たちに中央に孔を通してプラスチックボトルからお湯が流れて出てくる仕組みにしたんだ。で、メイキャップの女性スタッフには本物らしく色を塗らせて、これは男性陣がボランティアでポーズをとってモデルになって(笑)。で、撮影の夜だったけど本番前にフェリシティがそれを付けるっていうんでトレイラーのトイレの中に入って、そうしたら蛍光灯の光ですっごく生々しく見えたんだそうだ。そえでフェリシティは「オー・マイ・ゴッド!」って言ってね、それで出てきて、泣き出したんだ。ただただ泣くだけだった。この映画の撮影はだいたい時系列に沿って順番に撮っていたから、彼女、そのころにはブリーにかなり自分をだぶらせていたんだと思う。で、そのとき初めてわかったんだって。ブリーがどんな荷物を抱えていたのか、ペニスを持っている女性が、どんなに辛い人生を送っているのかってことをね。ぼくはブリーを慰めるみたいにフェリシティを慰めてた。それからぼくらはもっと深い友だちになった。

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●トランスジェンダー、トランスセクシュアルの問題って、アメリカでもかなり最近になってやっと取り上げられてきたもので、LGBTコミュニティの中でも関心は90年代なんかぜんぜん高くはなかったよね。その意味では彼ら彼女たちはマイノリティの中のマイノリティでもある。

DT そうだね。ゲイ・コミュニティでもトランスジェンダー、トランスセクシュアルの人たちのことを理解していなかった。ものすごく極端なゲイな連中がトランスになるんだとか冗談みたいに言ったりしてた。彼らは心の中は本当の異性愛の男性と女性なんで、ゲイとは別の辛さがある。ゲイの人権運動の中でも救ってこなかった人たちだ。結婚しているせいで見えてこない人たちもいまもたくさんいるし。

●アメリカより先に、ベルギーとフランスだったか、ヨーロッパの映画で「ma vie en rose(ぼくのバラ色の人生)」というキュートな映画があったよね。ヨーロッパの方がこなれているというか寛容というか、同性婚の制度も進んでいるしそういう点では柔軟だなあと思う。

DT 「ぼくのバラ色の人生」に比べて、「トランスアメリカ」はもっと現実的でシビアで暗くてぐったりする映画だっていうわけじゃないよ。これは究極的にはコメディだし、人生を祝福する映画だと思う。泣いたり、いろんな感情も高まったりするかもしれないけれど、コメディというのは人びとに一体感を与え、希望を与えるものだ。差別されるマイノリティを描いた映画には古くは黒人差別の「アラバマ物語(To Kill a Mockinbird)」があり、最近では「ボーイズ・ドント・クライ」があるよね。「ボーイズ」はすごい映画だけど、異端者やはみ出し者は殺されるべきだと誤解される話だ。でも、この「トランスアメリカ」はアメリカで初めてトランスセクシュアルを主人公として、「死ぬ」のではなく「生きていく」話を提示した映画だよ。ハリウッド的なストーリー展開と冒険とコメディと、それからちょっと知的で人生の真実を伝える、自分が何ものかを教える、そんな要素とが融合した映画であってほしいと自分でも思ってるんだ。

●偶然だけど、ちょうど日本で、7歳の男の子が、自分が男の子であることを嫌がって女の子として小学校に通っているというニュースがあったんだよ。

DT ええ? それで、学校とか大人たちとかは受け入れてるの?

●学校はそのようだけど、周囲の大人たちにはそのことを知らない人もいて、匿名でのニュースだけど、こういうニュースになったらまたいろんな違った反応も出てくるかもしれない。

DT 日本の学校ってのは、とても画一的だって聞いたけど……。

●この映画の日本での公開がそういうところにもよい形で影響を与えてくれるといいなと思ってる。

DT あるトランスの人の話を聞いたんだけど、家族が10年以上も話をしてくれなかったんだって。でもこの「トランスアメリカ」を見てまた話をしてくれるようになったんだって聞いた。これはすごくいい話だと思う。ただ、言っておきたいけど、映画ってそれ自体はべつに「社会宣言」ではないんだから、それ自体に語らせるというかね。

●しかし、出来上がるまでが大変だったでしょう?

DT 永遠に出来ないんじゃないかと思った。借金は両親、兄弟、友人、クレジットカード会社と山のようにたまるし、これから10年はこの映画の借金返済に追われると思ってた。だれもこの映画が成功するなんて思ってなかったし、映画祭だってこれがコメディなのかドラマなのかわからないってなかなか受け付けてくれないし、そうしたらベルリン映画祭で賞をもらって、そこからバラエティ誌の映画評で褒められて、それからあれよあれよって間にみんなが注目ってことになってね。作り手側としてはね、アーティストとして俳優も撮影監督もメイキャップも衣装もほんとうに協力的でさ、給料を少なくしてもとにかく完成させようとして頑張ってくれたんだ。ただしビジネス側、制作陣、販売エージェントだとか配給会社だとか財務関係だとか、そっちはすごく保守的で偏狭で、大変だった。
ベルリンですらそうでね、「トランスアメリカ」は600席とか800席の会場で上映して、ベルリンの人たちで売り切れ状態だったんだけど、ハリウッドの関係者はだれも来なかった。たまたま知り合いのプロデューサーに会って聞いたら、「みんなトラニー(トランスセクシュアルへの蔑称)の映画なんて見ないんだよ。商売にならんから」と言うんだ。にもかかわらず賞をもらってバラエティに出たら掌を返したように殺到してきたってわけ。で、ビル・メイシー(エグゼクティヴ・プロデューサーでハフマンの夫)が「こいつらには見せるな。トライベッカ(NYで春に行われる映画祭)でやろう」って言ってきてね(笑)。で、トライベッカ映画祭でいくつかのオファーを獲得したんだ。だがまだそう大した数ではなかった。まあ、大都市でしか上映できないような映画だということで。ぼくとしては「愛と追憶の日々(Terms of endearment)」とか「黄昏(On Golden Pond)」とかを見て泣いたり笑ったりした家族層なんかもを狙って作ったつもりだったんだが、配給会社側も広告代理店側も、その辺がよくわかってなかったんだよね。だって、トビー役のケヴィン・ジーガーがいるんだぜ。こんなにきれいな男の子が出てて、女の子たちを初めとして女性層が来ないわけがない。ゲイだって来るさ。それにフェリシティ・ハフマンだよ、「デスパレート・ハウスワイブズ」の。ねえ、あんたらバカじゃないの、って言ってやったら、「でも、ストーリーがねえ」って言いやがってさ。

●そういう、性的少数者を描いた作品に対するマーケットの偏狭さってのは、そうすぐには変わらないかな?

DT これをやって気づいたことはね、ハリウッドでもどこでも、この世の中は政治だってことだね。ってことはまた、だれかひとりでもわかるやつがいれば、ルーズベルトでもチャーチルでもいいけど、大きく変わるチャンスもあるってことだ。ただ、なかなかそういう人物はいない。みんなわかってないんだ。この「トランスアメリカ」でゆいいつ、実際の人物をモデルにして描いた役柄がある。それはフィヌオラ・フラナガンが演じた、ブリーの母親役のエリザベス。ほんとに可笑しいしすごいキャラだし、最高。で、彼女は、実在する人物なんだ。でも、何人か評論家たちは「ありゃ,やり過ぎで、真実味がない」って言うんだよね。でも、あれは本当なんだ。ぼくの弟だって見たとたん「ダメだよ、ママを出しちゃ」って言ったくらいだから(笑)。

●この映画は、「家族」をもういちど作ろうとする映画でもあると思う。トビーは家族を知らない。ブリーは自分と家族を作り直そうとしている。あなたにとって、「家族」の定義って何です?

DT 家族って、だれもしないような世話をしてくれる人のこと。自分の欠けている部分を補ってくれる人。たとえば事故とかで手を失ったらさ、代わりにお尻を拭いてくれる人のことだよ(笑)。血とかじゃないね。そんなの、知らなければわからないもの。努力というか、コミットメントというか、自分を愛してくれていつも見ていてくれる人のことだな。

●次のプランは?

DT この夏にハリウッド・ミュージアムで「ブロークバック・マウンテン」と「トランスアメリカ」の両方のコスチュームを展示する展覧会があるんだ。フィヌオラとかトビーの服とか。それの運び出しを今週中にやらないと。

●映画は?

DT 赤ん坊が出来るから、1年は消えてるね。それで、本当にやりたい脚本を見つけてからだな。オファーはたくさんあるけど、やらなくちゃいけないってものはないから、まだ次のは考えてないよ。

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(了)

July 07, 2006

NYの同性婚、認められず

州最高裁で認められませんでした。
4対2で敗訴。
理由は、簡単に言えば州の結婚法が、結婚は男女間だと規定してるから。それを同性婚も認めるようにするには、まずは州議会が州法を変えなきゃダメっていう論理です。

がっかりですね。結婚相手いないけど、そーいう問題じゃないってか。

まあ、マサチューセッツのドジョウの二匹目はNYにはいなかったわけっすね。
でも、同性婚を支持したジュディス・ケイ首席判事は「未来の世代が今日のこの判決を振り返って、必ずやこれは判断間違いだったと思うに違いないと信じている」と反対意見を付記しております。ふむ、けっこう力強いね。

市長のブルームバーグもコメントを発表して、「だれがだれと結婚しようと、そんなことは州の知ったこっちゃない」と。はい、そのとおり。「とはいえ、法律は立法府の議員が決めるもの。同性婚を認めるか否かは裁判所の問題ではない。んで、知事と私はどんな法であれ存在する法を執行する立場だ」として、そのうえで、「個人的には同性婚を認めるための法改正に賛成する」と言ってます。まあ、論理的に考えればそんなもんでしょう。

さらに、次期州知事候補のエリオット・スピッツァー(民主党)も同性婚支持派。彼が知事になる可能性は高く、そうすればこの秋以降、法改正へ向けて彼自身がプッシュする可能性もあって、また次があるさーね、って感じですな。

同じ日、南部ジョージア州では判事全員一致で同性婚が却下されました。

ほんと、結婚に関することになると、そんなに感情的な反発が強いんだなあ。
理屈じゃないっていうんだろうが、理解できませんなあ。

***
State's Highest Court Rules Against Gay Marriage

July 06, 2006

The state's highest court ruled Thursday that gay marriage is not allowed under state law.

In a 4-2 decision, the State Court of Appeals rejected arguments by same-sex couples throughout the state who said that state law violates their constitutional rights.

The court said New York's marriage law clearly limits marriage to between a man and a woman and any change in the law should come from the Legislature.

The case involved several lawsuits representing 44 gay and lesbian couples in the state.

Associate Judge Robert Smith wrote in the majority opinion wrote: "By limiting marriage to opposite-sex couples, New York is not engaging in sex discrimination. The limitation does not put men and women in different classes, and give one class a benefit not given to the other."

In a dissenting opinion, Chief Judge Judith Kaye said: "I am confident that future generations will look back on today's decision as an unfortunate misstep."

The cases decided Thursday were filed two years ago when high court judges in Massachusetts ruled same-sex couples there have the same rights to wed as straight couples.

Gay rights groups called the ruling a sad day for New York families, saying they are disappointed but that they are not giving up.

"It's so disheartening and so difficult to hear that the courts can't protect us, and we have to turn to the people," said plaintiff Cindy Blink.

They say they hope to have a gay marriage bill in front of state lawmakers by next year.

Both Mayor Michael Bloomberg and Governor George Pataki said they do not believe that same-sex marriage should be regulated by the courts.

Instead, they say it is a matter of changing the state's existing marriage law, a move that must be made in Albany.

"I haven't read the entire decision, but I just think it's right that any change in what has been the law of this state for over 200 years should be made by the elected representatives of the people and not by the court," said the governor.

"It's not the state's business who you can marry, and now, having said that, I also believe that it is up to the legislature to have laws. The governor and I will enforce whatever laws are on the books. And so I will personally campaign to change the law," said the mayor.

Democratic front-runner for governor Eliot Spitzer says he also supports gay marriage, which means if elected this fall, he could push for a law change.

The issue also has its detractors, including State Senate Majority Leader Joseph Bruno. He has said he will oppose any effort to legalize gay marriage.

June 16, 2006

GAY PRIDE MONTH

6月はご存じのようにこっちはGay Pride Monthなわけで、それに伴って米国ではいろんなマーケットがさまざまなゲイ向けの企画を実行しています。

で、気づいたんですが、アップルのiTunes Music Storeが、ゲイプライドに合わせて、ゲイプライド月間のエッセンシャルズ・プレイリストを公開してます。ま、これで売れる売れないは別にして、iTMSとしても顧客のLGBT層に向けての企業姿勢は示しているわけですね。

で、日本のiTMSは、見てみましたがもちろんなにもやってません。
「エッセンシャルズ」という切り売りの売り方自体、ないみたいですね。あるのかな?

そこで、東京パレードは8月12日ですよね。札幌は9月17日。
これ、iTMSに企画として持ち込んだらいかがでしょう?
アップルが企業としてパレードに協賛してくれるのが一番ですが、同時に、iTMSでもエッセンシャルズみたいなコーナーを設けて、パレードの実行委員会とかバディとかと連動してゲイに人気の曲やシンガーのリストアップを行う、とかね。

そろそろ、LGBTマーケットも対外的な自己主張しないと。
そのためにはまずはゲイフレンドリーな企業を無理しゃり作っちゃうことですわ。

iTMSにはすでにメッセージを送ってみました。
iTunes Store Feedback

実行委のみなさん、お忙しいでしょうが、いかがでしょうかね?

June 14, 2006

FOXにもこんなキャスターが!

いやいや、すばらしい。
このYouTubeのビデオ、5分ありますが、5分見続ける価値あり。

<該当のYouTubeビデオ、著作権問題で削除>

イラクで亡くなった米兵の葬儀に、「こいつはゲイだ」として墓地への埋葬にデモ隊を送り出してたウエストボローバプティスト教会(カンザス州)の一派があるんだが、その広報の女性に、FOXニュースのジュリー・バンデラスがピチッと切れて烈火の如き猛攻撃。

こいつらね、9/11もイラクの戦死者もAIDSもなにも、すべて神の思し召しだっていうわけだ。いまのこの世の悪行がすべて報いとなって現れているんだというわけね。ゲイプライドなんてものは倒錯を誇ってることで、そんなんがあるせいで天罰が下っているってのさ。

いやはや、ジュリーさん、怒りようが尋常じゃない。「Oh, really?」ってのは、けっこうけんか腰の物言いでね、「あら、ほんと、はあ?」ってな感じ。よく見ると首を横に揺らしてる、もうこりゃ、本気だね。聖書のレヴィ記を引用する相手のシャーリー・フェルプス・ローパーに真っ向から噛み付き、おまけに声がきれいだから相手のきんきん声を圧倒してなおさら小気味よい。しかしこのおばちゃんも最初は低〜い声で穏やかぶってたんだけど、いやいやどんどん声は高くなるし叫ぶし、がははは。
しかしFOXって、保守派だと思ってましたが、こういうキャスターもいるのね。

「神の言葉が憎悪だなんて、そんなことはあるはずがない!」
「だれがあんたに神の代弁をさせる権利を与えてるの? 何者なのあんたは? 説教者?」
「あなたが憎悪をばらまいてるのよ。あなたこそが悪魔よ。聖書を信じてるって? なら、あなたこそが地獄に堕ちなさい!」
「あなたみたいな人はアメリカ人じゃないわ。その教会を持ってどこか他の国に行くべきよ!」

以上全部、ジュリーの発言。ふだんは同じ文句をゲイの方が言われているのに、それをそっくりお返ししてやっているという構図。これは、前から考えてないと出てこないしゃべりですね。お見事!

May 05, 2006

ホモフォビア撲滅運動

さいきんやたらと気が立っていて、それもこれも、わたしもご多分に漏れずミクシなんてものに参加しているのですが、そこで垣間見るいわゆる一般ピープルの「書き込み」というのでしょうか、あれです、日記とかレビューとかで書かれている内容ですわ、それに、いちいち反応してしまうのは大人げないと思いつつもついつい読み込んじゃったりしてしまい、なんというのでしょう、日本のいまの雰囲気というんでしょうか、乗っかっちゃっているその神輿というのでしょうか、そういうものがとてもとてもと繰り返すほどに阿呆らしくて、だいたいがまああれです、れいの「国家の品格」ですわ、あれ、まだ書籍売上で週間トップなんかを取っているのですよ、そんで、そのミクシ内にも溢れるレビューなんかを読んでいると、ほんと情けなくなるというか叱りつけたくなるというか、みなさん、まあ言祝ぐこと言祝ぐこと、いったいどーなっちゃってるんでしょう、日本の知的レベルは。そもそも、知的ということが価値を持ったことがないのかもしれない、というくらいにとんでもないことになってしまっているようです。

で、障害者自立支援法です、教育基本法です、共謀罪です。
わたしはかつて小泉の登場によって日本の政治に私語が持ち込まれたと、その点では評価した一人ではありますが、いま、そんな自分の不明を恥じます。ごめんなさい。この5年は、けっきょくとんでもないところに日本を招き入れてしまった。ワンフレーズ政治でどんどんひとびとがものを考えずに引っ張られるようになってしまった。小泉のことをちょっとでも面白がった自分が恥ずかしい。ことはホリエモンとは違って一国の総理大臣。権力の在り様が違った。自民党は壊れたわけではなく、小泉に成り代わっただけだった。

そういう苛立ちの中で、5月17日は国際的な「ホモフォビア反対運動の日」だということで、大阪府議の尾辻かな子さんから反ホモフォビアに関する協賛コメントを求められたので、書いたのですが、これもまたろくでもない文章になってしまいました。

http://actagainsthomophobia.txt-nifty.com/blog/cat5814336/index.html

こんなふうに書いていたら、伝えたい相手は却って引いてしまうだろうという、悪い見本のような文書です。でも、吐き捨てたかったわけですな。頭ごなしに、そう指弾したかった、そんな大人げない文章になってしまっております。

以下、反省を込めて、再録します。
腹を立てるとロクなことはありません。


ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じです。

それは病気です。

フォビアとは病気なのです。
病的な嫌悪感、恐怖心。

いろいろなフォビア(恐怖症)があります。広場恐怖症、閉所恐怖症、高所恐怖症というポピュラーなものから雷光恐怖症、水恐怖症、暗夜恐怖症、あるいは陶磁器類恐怖症、空気恐怖症、言語恐怖症などというわけのわからないもの、はては13という数字が駄目な十三恐怖症(トリスカイデカフォビア)なんていうものさえあります。この場合、治療の対象は「広場」でも「高所」でも「空気」でも「陶磁器」でもましてや「13」という数字でもないのと同じように「同性愛」ではありません。治療の対象は「恐怖症」のほうです。つまりあなたがホモフォビック(同性愛恐怖症的)ならば、治すべきはあなたの嫌いな「ホモ」たちではなく、あなた自身の恐怖・嫌悪という病的反応のほうだということです。

まずは病識を持つことです。自分が病気だと思っていない病人ほどたちの悪いものはありません。あなたが「生理的」に苦手だと思っている「ホモ」たちは、じつは「ホモ」たちが悪いのではなくてあなたの「生理」が異常なのだと自覚することです。

いやいや、そんなに大袈裟なものじゃなくて、ただなんとなく「嫌」なんだ、と思っているだけなら、ああ、そりゃよかった。それは病気ではありません。それはホモフォビアではない。それは思い込みです。あるいはたんなるフリ、そういう格好をしといたほうが無難だ、あるいは、受ける、というふうに思っての仕草に過ぎません。それは専門的な神経症の治療を施さなくともだいじょうぶです。だって、それはたとえば「納豆が嫌い」というのと同じ、「ヘビがだめ」「クモは苦手」「芋虫、食べられない」というのと同じだということでしょう? だれも無理なものを食べろなどとはいいません。触れともいいません。好きになれとは無理強いしない。安心なさい。万が一そういわれても決然とNOといえばよろしいだけの話です。だが、あなたが嫌っても苦手でも叫んでも、ヘビや納豆は厳然と存在する。カエルやナメクジに罪はない。ボクラハミンナ生キテイル。それが世界だ。そういうもんだ。

それとも、あなたはそれだけじゃ気が済まなくて、それらすべてを一掃したいと思っているのですか? だからヘビや納豆を見ただけでぎゃーぎゃー騒がしく自分の嫌悪を表明し賛同者を募るのでしょうか? ゴキブリはぜんぶ殺せ。クモは死ね。納豆なんか殺菌しろ。陶磁器は生き埋めだ。民族浄化だ撲滅だ。クリスタルの夜だ。セルビアの悪魔だ。

もし、そんなあなたが、好悪に関しても発達過程にあるせいで自分を納得させるためにもどうしても騒がしい表明をしてしまわざるを得ない小学生ではない場合、そんなあなたはやはり病気です。まあ、少なく見積もっても情操障害か。
さらにもし、そのあなた個人の嫌悪の対象が生きている人間であると認識していてすらも、その嫌悪と憎悪と恐怖とを聞こえよがしに振りまいて憚らないというのであるならば、あなたはやはりもっとしっかりと病識を持ったほうがよい。あるいは少なくとも犯罪の自覚を。

ですから、ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じなのです。
それは,病気だ。でないなら、犯罪です。
悪いことはいいません。お治しなさい。一刻も早く。
人間、ひとに危害を加えない努力が肝要なのです。
それがいまの人間社会というものの存在基盤なのですから。
ね。

(筆者注)上記の文章は「病気の人」たちを疎外しようとの意図で書かれたものではありません。むしろ、病者でもないのに「病者を騙る人」たちを炙るための文章であることをご斟酌ください。

April 10, 2006

DVD到着、BBM4回目鑑賞

DVD届きました。
いやこりゃいいわ。ヘッドフォンで聞いたら細かい囁きまでぜんぶ聞こえるし、おまけにキャプションを出したらセリフとぴったり。

画質も最高。2回目の夜のキスシーンでは、ふと顔を離したお2人の口のあいだに、唾液の糸がつーっと渡ってキラリと光ります。この夜、エニスはテントに帽子を脱いで入ってくるのですが、その帽子の様子は紳士が淑女にあらためてあいさつをするときのようでもあり、かつ、その帽子がジーンズの股間を覆うようにもなっているのでこれまたなにかの含意があるかのようにも受け取れます。そうしてたしかにエニスは「sorry」とつぶやいています。そうしてジャックが「It's allright...allright...」と応じる。なるほどねえ。あるよなあ、こういうやりとり。

4年ぶりのモテルのシーンでは、ジャックがあのルリーンと結婚する年にロデオで稼いだ金額が2000ドルと改変されていて、これは原作では3000ドルだったのですが、面倒な説明と誤読を避けるために2000ドルに引き下げてあまり金がなかったという筋運びにしたのが分かりました。それで資産家の娘であるルリーンと結婚した、というわけです。

この映画は、鑑賞者が勝手に読みを深めて栄養を与えて、各自で勝手に物語を膨らませてしまうように出来ています。そうすることをしない鑑賞者には、「なに、これ?」となるのでしょう。淡々と描いているブロークバック山での描写も見る人が見るとなにかの予兆にあふれて目が離せないけれど、そうじゃないと「なんにも筋がなくただただ冗漫」となる。

見る人の過去の記憶さえもが、この映画の伏線と化するわけです。病み付きになるはずです。だって、自分のことが描いてあるんだもんね。
すべてがスクリーン上で展開し、すべてがセリフで説明できる、隠し立てのない「クラッシュ」とは大違いの映画。

アルマもかわいそうだけど、アルマ以上に彼らはかわいそうだ。アルマがかわいそうだというのが第一義である感想は、アルマ以上にかわいそうな彼らをどう処理しているのでしょう。それが不思議です。彼ら以上にアルマがかわいそうなら、この映画は作られなかったはずですしね。つまりこの映画を、アルマがいちばんかわいそうな、性欲に駆られた男2人の不倫物語と評する人は、敢えてそういうふうに読もうとする、読みたいというバイアスにさらされているか、あるいはわざと人と違った感想を探しているか、のどちらかということになる。あるいはどんな映画を見ても間違えているのか。

誤解されるように書いちゃいましたが、ま、しかしこれはどっちがかわいそうか、という比較の問題ではないですね。ごめんごめん。むしろ、どちらのかわいそうさに着眼するか、という問題。かわいそうさ? 悲惨さ?

もちろんアルマはかわいそうです。そのかわいそうさがあるから、彼らのかわいそうさがなおさら引き立つ、という構造です。どっちのかわいそうさも外せない。そうしてそのかわいそうさの道筋の基本も外せない。その構造を知ったうえで、再度アルマとルリーンに目配せをする。そうしてクローゼットがすべての人々を失望させることに気づく、という展開が望ましい。なんちゃってね。

ヒース・レッジャーより、ジェイク・ジレンホールの方が演技はうまいな。というか、エニスって、難しいから、どうしてもヒースの演技のふとしたわざと臭さが垣間見えちゃうところがある。たとえばキャシーとのダンスのシーンは、ありゃ、ダンスのうまいヤツがわざとぎくしゃくやっているの図ですね。

しかし、まあ、また面白うございました。またも性懲りもなく泣きましたですし。うへー。

March 14, 2006

yes 創刊2号 本日発売


日本時間で本日15日発売(地方はちょっと遅れるかも)のタワーレコードの雑誌「yes」(880円)で、「ブロークバック・マウンテン」の小特集が組まれております。

ヒース・レッジャーのインタビュー、BBMの分析「ブロークバック山の案内図」、雑学情報集「ブロークバック付録袋(ふろくぱっく)」などが掲載されています。
一般書店、もしくはタワーレコード各店、あるいは以下のアマゾンでも買えます。

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ヒース・レッジャーのインタビューのさわり

Q この映画がLGBTの観客にとっていかに大事な映画になるかということをあなたに言ってきたゲイの友人はいた? 「こいつは重要だぜ、失敗するなよ」って?

H そういうこと、友だちに言ってもらわなくてもわかるからね(笑)。これが重要な物語であるということは理解してたし、これまで正しく語られてきたことのない話であるということもわかってた。これをやることで責任が生じるということも知ってた。

Q この役を手にするってことについてはどう? この映画ならいろんな俳優がやりたがっただろうなって思うけど。

H 実際のところ、ちょっと変でもあった。台本を読んでこれはすごいと思ったんだ。こんなに美しい脚本を読んだことがなかった。ほんとにそう。おれのエージェントに「制作サイドがきみにやってもらいたいって言ってきてる」って言われてね。で、そのときは、おれの役はジャックの方だったんだよ。で言ったわけ。「いや、ジャックってのはどうやってやったらいいのかおれにはわかんないな。エニスだったらやれるけど。2人のうち、エニスの物語だったらできる」って。それからプロダクションは他の俳優を当たってたみたいで、しばらくおれもその話は忘れてたんだ。オーストラリアに帰って家族に会ったりとかしてね。そうしたらまたその話が来てさ、「きみの希望どおりにやってみるってさ。エニスがきみでジェイクがジャックをやるって案だ。アン(・リー監督)に会うかい?」って言うから「もちろん会いたい」って言って〜〜〜(続く)


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映画分析記事のさわり

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

 「Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。(中略)このコピーの二重性は象徴的である。〜〜(続く)

March 10, 2006

ブロークバックはただじゃ終わらない

オスカーに抗議して、「我々の作品賞はブロークバック・マウンテンです」という新聞一面広告=写真参照=を出そうという運動が始まりました。 「ありがとう;ブロークバック・マウンテン」という、ファンたち自身からの最優秀作品賞の授与ですね。

これがブログで紹介されるや、48時間で400人以上から17500ドル(200万円)が集まった。

呼びかけはアメリカでの熱狂的ファンサイト「the Ultimate Brokeback Forum」。落選の怒りをあたりかまわずぶちまけたりひたすら落ち込んだりという非生産的な行為の代わりに、この映画への制作陣への敬意と賞賛とを表明しようと新聞広告を打とうというわけです。画像にもあるように、2005年のベスト作品賞受賞映画賞を網羅して圧巻です。ただ1つ、オスカーだけがない。アカデミー会員のじいさんたちはこれをみて畏れ多くないか、ってわけですね。

言い出しっぺは私もこの欄とか自分のサイトとかでいろいろとネタ元にしていたDave Cullenくん。ふーん、本物だ、このブロークバック好きさ加減は。

こんなことはハリウッド映画史上かつてありませんでした。
面白いねえ。

ジャックとエニスの愛が社会によって否定されていたことに関する映画が、再び社会によって否定された(作品賞の落選)に我慢がならんというわけですね。アメリカ人の行動力って、ほんとこういうときに凄いと思います。

まずはハリウッドで最も読まれている映画関連新聞の「デイリーヴァラエティ」紙の本日10日付けで全面広告を打つとのこと。

さらに寄付を集めて他の雑誌や新聞にも、同様の広告を打つようです。
で、コピーは
「We agree with everyone who named 'Brokeback Mountain' best picture」
「わたしたちは、ブロークバック・マウンテンを最優秀映画賞に決めたすべての人々に賛同します」

で、日本からももちろん寄付できます。
http://www.davecullen.com/brokebackmountain/adcampaign.html
に行って、peypalのところをクリックして寄付が出来ます。
10ドルでもいいわけ。もちろん1ドルでもね。
でも、ビザかマスターカードを持ってないと難しいかも。

日本の新聞社にも教えましょうね。
こりゃぜったいに面白いネタだ。

March 08, 2006

ブロークバックの衝撃2

 今年のアカデミー賞は「クラッシュ」が作品賞を獲ったということより「ブロークバック・マウンテン」がそれを獲らなかったということのほうがニュースになっています。昨年12月の公開以来アメリカ社会にさまざまな「衝撃」を与えてきた「ブロークバック」ですが、作品賞を「クラッシュ」に横取りされた別の「衝撃」が返ってきちゃいました。記事の見出しも「アカデミー賞でのドンデン返し」とか「ブロークバックのバックラッシュ」とかですものね。

 アカデミー賞はその選考投票の内容を明らかにすることはありませんが、新聞各紙やロイターやAPなどがさまざまな見方を示しています。

 NYタイムズは作品賞を逃したことを;
 ブロークバックをだれも止められないと思っていた。だが最後に思わぬ事故(クラッシュ)が待ち受けていた。再びの屈辱的な教訓。アカデミーはだれかにどうこうすべきと言われるのが好きではないのだ。ジャック・ニコルソンが最後の封筒を開けたとき、すべての賭け金、一般の思惑、これまでの受賞暦が無に化した。「ホワー」とニコルソンは言った。

 たしかにニコルソンの反応は面白かった。「何たること!」という感じでしたものね。

 クラッシュはロサンゼルスのある交通事故が、いろんな場所のいろんな人々のいろんな話をない交ぜて思わぬ展開を見せていくというものです。そこには人種問題、貧富の問題、階級の問題、職業の問題、いろいろあって、オリジナル脚本賞も取っただけあってじつによく書けている。

 ところが、これが「今年の映画」かというと、正確にはアカデミー賞は去年の映画を対象とするのですが、その「いまのこの年の映画か」というと違うんじゃないか、というのが正直な印象です。「クラッシュ」のこの手法というのは「群像劇」の手法で、たとえばロバート・アルトマンの「ショートカッツ」(94年)なんかの手法なのです。またかよ、という感じ。

 さてそのうえで、NYタイムズとかAPでも共通しているブロークバックの敗因は、まず、ロサンゼルスという地の利/不利のことでした。NYタイムズの見出しは「ロサンゼルスがオスカーの親権を維持した」でしたし。
 つまりクラッシュはお膝元のロサンゼルスが舞台で、しかも登場するのはものすごい数の有名俳優たち。ブレンダン・フレイザーやサンドラ・ブロックの役などほんのちょいでなくてもかまわない、マット・ディロンもこれで助演男優賞候補?ってぐらいに出演時間もちょっと。そういう使い方をしてる。でもこれはハリウッドの俳優陣総出演というか、見事にむかしの東宝東映大映松竹オールスター大江戸花盛り、みたいな映画で、まさに化粧直しした新型ハリウッド映画なのです。対してブロークバックはカナダで撮影され、ロサンゼルス=西海岸資本が作った映画ではなくて、ニューヨーク=東海岸の資本が作った映画なんですね。これはいわばボクシング試合などのホームタウン・デシージョンではなかったか、そういう分析です。

 あるいはかねてから言われていたように、「ブロークバック」を、アカデミーの会員のご老人たちは観てもいないのではないか、という説。
 アカデミーというのは映画に関係するすべての職業の人から構成されていて、現在の会員は6000人くらい。そのうち投票するのは4500人とか5000人なんですが、ほかの賞のグループ、監督協会とか評論家協会とかよりも高齢化が進んでいて、そこに候補作品のDVDが送られてくるという仕組みです。それで自分で見る。日本にも何人も会員はいて、そこに字幕付きのも送られてます。
 だが、このカウボーイ同士のゲイの恋愛もの、そういうご年配の会員たちにとって、黙ってても観てくれる種類のものだろうかというと……。 「クラッシュは私たち自身が生きて働くこの業界をよく体現した映画だ( 'Crash' was far more representative of the our industry, of where we work and live)」とあるハリウッド関係者がNYタイムズの記事でコメントしています。対してブロークバックは「神聖なハリウッドのアイコン偶像に挑戦した、アカデミーのご年配方がそういうアメリカのカウボーイのイメージが壊れるのを観たいだろうかというと、答えは明らかだろう('Brokeback' took on a fairly sacred Hollywood icon, the cowboy, and I don't think the older members of the academy wanted to see the image of the American cowboy diminished.)」ということです。
 脚本を書いたラリー・マクマートリーもまた「Perhaps the truth really is, Americans don't want cowboys to be gay,(きっと真実はたぶん本当に、アメリカ人はカウボーイがゲイであってはほしくないということなんだろう)」と「bittersweet」なオスカーの夜を振り返っています。

 でも肝心なのはそれだけではないようです。
 クラッシュの配給会社は大手のライオンゲートですが、ここがクラッシュが候補に上ったとたん、じつはものすごいキャンペーンを展開したというんですね。というのも、その時点でもうクラッシュのアメリカでの劇場公開は終わっていて、DVDが発売されていた。このDVDを映画関係者に13万本以上もバラまいたというのです。対してブロークバックはDVDは市販用にはまだ出来ていない。だからバラまきようがない。13万本も作ったら破産してしまう。ふつう候補作は1万本とかが郵送されるようですが、クラッシュはその10倍以上です。ライオンゲートはほかの三流映画で稼いだお金をぜんぶつぎ込んでこのクラッシュをプロモートしました。何度も何度も、いろんな賞のたびに送るんです。そりゃ家に10本もたまったら観ますよね。クラッシュはこのプロモーションで数十万ドルつまり1億円近く使っています。そのほかにもパーティーはやるわ、贈り物はするわ、で、選挙運動じゃないですからそういうの、べつに逮捕されたりしませんからね。そういう背景があった。これはかつてあのイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のときに問題になったやり方です。あの映画もものすごいパーティーをやり、アカデミー会員に贈り物攻勢をかけ、あの主役のなんとかっていうコメディアンが愛嬌を振りまいた。で、オスカーを獲った。まるでオリンピックの招致合戦のような様相を呈しているわけですね。

 おまけに、クラッシュは「街の映画」でテレビ画面で見てもあまり印象は変わりませんが、ブロークバックは「山の映画」で、たとえ幸運に見てもらったとしても、あの広大な自然の美しさをバックに描かれる愛が、テレビの画面ではいまいち伝わらない。そういう不利もあったろう、と。

 つまり、今回の作品賞の顛末は、クラッシュが作品賞を獲る理由と、ブロークバックが作品賞を獲らない理由が、うまく二重合わせになった結果なのだろうということです。

 ま、しかし、冷静に考えるとBBMはいかにそれがエポックメーキングだとはいえ、アメリカ国内での興行成績はまだ8000万ドルに過ぎません。ゲイ関連の映画で、1億ドルを超えたのは過去にあのロビン・ウィリアムズの「バードケージ」(フランス版「ラ・カージュ・オ・フォー」のリメーク)だけなのです。BBMの観客数はこれまでで米国内1500万人くらいでしょうか。で、リピーターも多いから、つまりアメリカ人の95%以上はこの映画を観てもいないのですね。映画というのはそういう媒体です。テレビのヒット作なんか一日の1時間の番組で3000万人が見たりするのに。だから4200万人が視聴する中、94年4月にエレン・デジェネレスがテレビのコメディドラマでカムアウトしたときのほうがインパクトは強かったのかもしれない。

 あれから12年、時代の先端部分はたしかにBBMのような映画を作れるようにはなってきました。
 ただし、ジェイク・ジレンホールとヒース・レッジャーもインタビューで自分たちで言っていたように、「キスシーンでは最初、どうしても笑ってしまった」のですね。彼らですらそうなのですから、映画館であの男同士のキスシーンを見て笑ってしまわざるを得ない男たちというのはまだまだ相当数いるわけです。笑うだけではなく、「オーゴッド!」とか「カモン(やめてくれ)!」とか「グロース(キモイ)!」とか茶々を入れなきゃ見てられない連中だって。この映画を観た男性たちの中には、あえて「そんなに大した映画じゃなかった」という感想を、あえて表明しなければならない、というプレッシャーを感じている輩も多いのです。
 それはもちろんそういうホモセクシュアルな環境に耐えられない自分の中のホモセクシュアルな部分をごまかすためであり、あるいは一緒に映画を見ている仲のよい友人たちとの相互のピアプレッシャーでもあり、そういうのはさんざんわかっているのですが、やはりそういうのはまだ強い。ましてや、社会から隔絶して引退生活を送っているアカデミーの終身会員のお歴々がBBMに関して何を思っているのか、いや、なにも思っていない、ということは、つまりは見る必要性を感じない、というのは、ある意味当然ではあるのでしょう。

 歴史というのは、手強いのです。

 ただし、わたしには確実に空気が変わったのは感じられるのです。
 日本の配給会社ワイズポリシーの用意した掲示板に行ってみると(すこしでも映画にネガティブなことを書くと速攻で削除されるという恐ろしい掲示板らしいですが)、さまざまな人たちがゲイのことについて、あるいは自分はゲイであると明かして、さまざまに書き込みをしています。こういうことは「メゾン・ド・ヒミコ」でもあったようですが、あのときはオダギリ・ジョーのファンの女性たちに気圧されて掲示板でそう主人公にはなれなかった。でも、今回はBBMファンの女性たちと渡り合って余りある勢いや思いも感じられます。

 こういうのは「クラッシュ」には起きない。BBMの崇拝者は生まれていますが、クラッシュの崇拝者というのは聞いたことがない。
 ですんで受賞を逃したのはそれはそれでいいんじゃないかと。それが2006年という時代の断層なのではないかと思うわけです。BBMが、今後のハリウッド史の中で「アカデミーに作品賞を与えられなかったことが衝撃を与えた作品」として、長く語り継がれるだろう映画であることは間違いないのですから。

March 03, 2006

先行公開スタートですか?

 えっと、日本では4日に、渋谷だけなんでしょうか? ブロークバックの先行公開。
 で、一般のブログサーファーの方向けに、文章を書いてみます。こちらではこの日曜にアカデミー賞の発表および授賞式です。

 で、今年のアカデミー賞で最多8部門でノミネートされているのがその「ブロークバック・マウンテン」です。この映画はでも、オスカー云々以前、はるか12月初めの公開直後からアメリカではすでに社会現象になっていました、という話。というか、観てほしいのです。

 アメリカではすで公開から3カ月なんですが、この映画に関するブログやパロディサイトは数限りなく立ち上がり、新聞各紙は映画評から離れて「ガールフレンドにブロークバックを観に行こうと誘われて『いや』と応える男はクールじゃない」とかいう社会分析を載せたりしました。パーティーの席などで「ブロークバックは見た?」という会話は、自分がいかに差別や偏見を持たない人間であるかを示す格好のリトマス試験紙になっています。

 というのも、これは1963年から20年間にも及ぶ,米国中西部に生きるカウボーイ同士の恋愛の映画だからです。そう、男同士の愛。ただし、一般に信じられているステレオタイプの同性愛とは違いました。そこがミソだったのです。多くの人が知らなかった「愛」の、その愛の形と悲しみとがあらわになるこの映画で、「これが同性愛なら私はいままで大きな勘違いをしてきた」と思いはじめる人が出てきた。まるであの黒人差別をえぐったシドニー・ポワチエの映画「招かれざる客」のような真摯な議論を現代に持ち込んでいるのです。

 興味深いのはキリスト教右派とされる人たちの反応でした。欧州諸国やカナダなどの同性婚受容の動きの反動で、アメリカではいまこの同性間パートナーシップにあちこちで厳しい不寛容が表面化してきています。その不寛容の急先鋒である宗教団体の人たちまでも、ところが「この映画はとてもよい映画だけに、間違ったメッセージを送る恐れがある」となんとも及び腰の批判ぶりなのです。

 ここに至ってすでにゲイだなんだというのはあまり問題ではなくなりました。保守的とされる中西部や南部でさえもかなりの観客を動員しており、初めはプロモーションのために配給会社側もゲイ色を出さず「普遍的な愛の物語」と曖昧にプッシュしていたのですが、いまや観客のほうから「ゲイの恋愛だって普遍的なもの」との見方に自然にシフトしてきました。男性主義の米国社会にとって、それは実に衝撃的な問題提起なのでした。

 でも、一方でさきほど、こんなニュースを見つけました。

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【第78回アカデミー賞】ミシェル・ウィリアムズ、“ゲイ映画”に出演したとして母校から縁を切られる

 アカデミー賞8部門でノミネートされている『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズが、映画の内容のせいで母校から縁を切られた。カリフォルニア州にあるウィリアムズの母校サンタフェ・クリスチャン・スクールの校長は、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快。彼女の行動は当校の価値観とは異なり、一切関わりは持ちたくない」とコメントしている。   (FLiX) - 3月3日13時19分更新

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 ふむ、「卒業生がゲイをテーマにした映画で苦悩する女性を演じたのは非常に不快」なわけなんですか?

 つまりゲイをテーマにした映画で、「そんなふうに苦悩してはいけません。それは世間では「ホモフォビア」といわれます。恐怖症という病気なのです」ってことなのかしら? でそれが「当校」の価値観とは異なる、というのでしょうか?

 ええ、わかってますよ。もちろんそうじゃない。はいはい。
 そう、つまり、いまになってもこうなんですから、それだけコントラヴァーシャルな、ってことですね。なんだかんだいっても、「ゲイだなんだというのはあまり問題では」まだ、やはり、あるわけです。だからこの映画が人口に膾炙するわけで。

 しかし時代の変わり目というのでしょうか、ブッシュ政権下での9.11やその後のイラク戦争など、このところずっと政治的に息苦しかった風潮を打破しようとする意志が、今年のオスカー候補の面々には感じられます。テロ(ミュンヘン)や人種軋轢(クラッシュ)、政治による言論弾圧(グッドナイト&グッドラック)や同性愛(ブロークバック、カポーティ)──政治的議論の噴出する話題を映画が再び語りはじめました。時代のこの潮目を、「ブロークバック・マウンテン」を観てぜひ日本でも感じ取ってください。また、その感想はぜひこの「コメント」のところにもどうぞお書き込みください。わたしもみなさんの意見が聴きたいです。

January 30, 2006

少数者マーケットとは何か?

 身障者用の駐車場や客室を用意して建築基準を満たしてから、完了検査にパスすればすぐにそれらをつぶし、一般客用の施設に改造してしまう。「東横イン」という誰もが知っているホテルチェーンがやっていたことは、マイノリティ・マーケットに対する社会と企業のあり方を考える上でじつに示唆的です。東横インの西田憲正社長は記者会見で「身障者用客室を造っても年に1、2人しか来なくて」「使わないものはいいんじゃないのという感覚はあった」とうそぶきましたが、はたしてそれは本当なのでしょうか。

 ニューヨークに暮らして気づくことは、街なかでの車いすの人の多さです。90年代にバスはすべて車いす対応型に変わりました。地下鉄は施設自体が老朽化していますが、現在、主要駅のほとんどでエレベーターを新設して車いすの人も利用できるようになりつつあります。こうしたインフラが整備されてきて初めて、身障者たちの存在が目に見えるようになります。そういう設備がない状態では、それこそ「年に1、2人しか利用しない」わけで、だから「使わないもの」は「必要もない」という論理に落ち込んでいきます。

 この場合、マイノリティ側は自らアイデンティティ意識を高め連帯して企業や社会に自分たちのマーケットの存在をアピールしてゆくべきでしょうか。それはそのほうがいろいろな意味で好ましいのでしょうが、「してゆくべき」となるとなんだかちょっと違うような気もします。逆に考えて、「してゆかなければそのままでいいのか」というとそれは違うからです。しなくたってしてゆかなくてはならない。だいたい巨大マーケットとされる主婦層やギャル層やサラリーマン層が自己同一性を高めて連帯しているなんて話は聞いたこともないし、なんで少数者たちだけがそういう努力を必要とされるか、そんなのは理屈に合いません。そういうマーケットへのアプローチと掘り起こし、育成するは第一義的には企業と社会の側にあるのだと思うのです。巨大ではなく顕在化していないマーケットの存在にも気づかせる、そのための触発は与えるにやぶさかではないけれど、そのために身障者たちの側が必要条件として何かを「しなければならない」という物言いは、あなた何様なの、という感じなのです。

 ホリエモンの登場時、「会社は誰のものか」ということが議論にもなりました。もちろん会社は株主のものです。ただし、その株主の利益を保証するためには、その会社の存在する場に健全な社会が形成されていなければなりません。そのためには会社の利益は単なる株主だけではなく、従業員やその地域社会の構成員にも還元されていかなくてはならないのです。こうして、ステークホルダーの概念には株主だけではなく、広義にその会社や社会の構成員も含まれるというのが私の思うところです。企業はすでに個人的な利益追求の場だけではなく、高度資本主義社会にあっては社会全体の利益追求の道具でもあるのです。そしてその社会全体の中には、もちろんマイノリティも含まれる。

      *

 翻ってゲイ・マーケットについて考えてみましょう。欧米のように言挙げを旨としない日本社会では、マイノリティの言挙げもまた少ない。アイデンティティなどという概念も言語化の問題と関係しますから希薄かもしれません。だからといってゲイ・マーケットは存在しないというのは前段までの身障者の例をとっても誤りですし、日本ではゲイ市場は育たないとかいうのも東急インの社長のような「何様」な物言いでしょう。ゲイ・マーケットはそんなのとは別のところで、当事者であるゲイ(LGBT)の思惑や気力とは別のところで、第一義的には社会と企業の側から形作られなければならないもののはずです。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 なんでまたこんなことをここに書くのかというと、バディの3月号に伏見憲明さんがタワーレコードによる「yes」というLGBT向け新雑誌の創刊に触れつつ、「日本におけるゲイは、時代が進んでも、いわゆる『ゲイマーケット』を形成するような層としては成り立ちえないように痛感してきたのだ」と書かれていたからです。

 なーに、御大、そんなに悲観なさることはありやせんぜ。いや、いっているのは悲観ではないか。では言い方を変えれば、これはそんなに痛感すべきようなことでもないのです。それこそこちら側はのんびり構えていたって一向にかまわないのですから。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 私はこれまで、マイノリティの解放運動はじつはマイノリティのためだけではなく、より多数という意味においてはより重要に、マジョリティを真っ当に解放するための運動なのだ、ということをいってきました。つまりゲイ市場の創出も確立も育成も、ゲイのためにというよりはこの社会全体の幸せのために必要なことで、結果、LGBTたち自身も全体の一部として幸せになる、という図式です。

 そりゃこの時代のこの日本、さまざまな手段や考え方1つで、マイノリティであってさえもハッピーな感じはなんとなく手にできるかもしれません。それが流行語のようによく言われる「緩い」幸せでもべつに問題はない。それは処世でしょう。それはそれでいいのです。だが、問題はそこではないのです。問題は、それではマジョリティの側のどうしようもなさ、この日本社会の脳天気さはなにも変わらないということなのです。せっかくマイノリティ問題を梃子にしてよりよい全体を築きたいというのに。

 車いすの人や目の不自由な人たちだって緩い幸せくらいは、いや熱い幸せだって持っているかもしれません。しかし、だからといって「それでいいんじゃないの」と東横インの社長が言ってしまうのは筋違いでしょう。

 マーケットというのはその構成員の努力によって形成されるものではありませんし,思惑どおりに形成できるものでもありません。あくまでもマーケター側が利益を上げようとする際に、十把一絡げのように投網を打って消費層をまとめあげ刺激できたらずっと簡単で経済的で効率的だということで出来上がった概念なのです。ですからLGBTをまとめあげてマーケットを形成するのは第一義的に企業の側なのです。われわれ消費者としては、さあまとめあげてよ、そうしてくれればちゃんとカネも落としてあげるよ、というもんです。最終的には互助的なんですがね。

 そういう文脈においてLGBTマーケットを考えてみる。それへのコミットメントについても。それが今回の東横インの身障者用施設改造事件の教えでもあると思います。

December 28, 2005

ブロークバック・マウンテンの衝撃

映画を見て、原作を読んで、もいっかい映画を見て、もいっかい原作を確認して、ああ、そうだったのね、と細かいところまでいちいち納得して、そんで思ったのは、これはマジでヤバい作品じゃないの、ということでした。こんなの作っていいのかい、という感じ。

最初のとっかかりは、ヒース・レッジャーやジェイク・ジレンホールのインタビューでした。彼らがことさら強調していたのは、これは「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないと思う」ということだったのです。つまり、「普遍的な純愛の話だ」という翻訳でした。

それは、いまだにホモセクシュアリティがタブーであるアメリカの一般社会を相手にしてのプロモーション上の、つまりは女性客を排除しないための、ある意味でじつにハリウッド的なホモフォビックな発言ではないか、と、あまりよい気はしなかったのです。なぜなら、これはどう考えても「ゲイのカウボーイの恋愛の話」なのですから。あるいは、「カウボーイのゲイ・ラヴ・ストーリー」といってもいいけれど。

でも、「これはゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」という言い方は、ある意味、とても的を得ているのです。そして、その場合、とてもヤバいことになる。それはアメリカ文化をひっくり返す危険があるのです。

ゲイのカウボーイの恋愛映画ではないとしたら、これは、男たちはときにこんな陥穽にはまり込むことがあるということになる。

じっさい、こういう事例はつまり「男しかいない特殊状況の中での疑似恋愛/疑似性行為」としてながく範疇化されてきたものです。刑務所の中とか、軍隊とか、よくある話。でも、女のいる環境に戻ればそれは終わることになっていたのです。

ところが終わらない。終わらないなら、いまでも一般に広く流通している従来の概念ならば「真性のゲイ」ということです。だが、ブロークバックの2人は妻も子供も作る。そして20年間も(とは一っても年に1、2回ですが)釣りや狩りと称しての密会を重ねるのです。

こんなことは実際には起きないよな、とか、これはフィクションだ、とかいってしまうのは簡単ですけれど、この実世界、だいたいどんなことでも起きますからね。

つまり、どう見ても「真性のゲイ」ではない二人が、「真性のゲイ」の関係を持つ。そんなことがこの映画では起こるのです。

この映画のなかの世界の流れ方は、簡単に言えば、ホモソシアルな関係は、ホモセクシュアルな関係と等しいということなのです。その間にはこの現実世界では確固たる垣根があって、いろいろなタブーがその垣根を作ったり支えたりしているのですが、このブロークバック・マウンテンという山の上では、下界のタブーは通用しない。ジャックの妻がのちに回想するように「ブロークバック・マウンテンって、青い鳥が歌ってウイスキーが噴水になってるような夢の場所をいってたんじゃないかって、ね」なのです。

そして、男たちは、その思いを胸に20年間を過ごしてゆく。その思いが垣根を踏み越えさせている。

これは例えばこれまでのハリウッドの典型的なバディームーヴィーでも描かれてきた関係でした。
たとえばあの「ロード・オヴ・ザ・リング」のフロドとサムもそうです。あんなふうに信じ合い、あんなふうに命を掛け合ってまでともに旅をする2人の関係は、とても尋常な友情ではありません。
たとえばワイアット・アープとドク・ホリデーもそうでしょう。ドク・ホリデーは「荒野の決闘」では愛する女を捨ててワイアットのもとに助太刀に駆けつけ、そうして死んでいくのです。
新撰組だってそう。ヤクザ映画もそう。
それらはすべて、もちろんすごくホモソシアルな関係なのです。女は要らない男同士の濃密な関係性。そして、それをホモセクシュアルなのだと言い切ってしまったのがブロークバックなのです。

これはですから、「ゲイのカウボーイの恋愛映画」であるほうがじつは安全だったのです。
だって、ゲイだもの、仕方がないだろう、なんですから。

でも、二人はゲイではない。ジャックのほうは後にゲイセックスを求めてメキシコに行くのではありますが、「あそこじゃなにも(おまえに求めて得られたものは)手に入らなかった」とエニスにいいます。近くの牧場主との関係も示唆されるのですが、一般に思われているゲイのステレオタイプとはかけ離れている。
その意味で、ゲイじゃない男たちのゲイの関係なのです。(ま、それも私たちから見ればとてもゲイなんですけれどもね)

しかし「ゲイのカウボーイの恋愛映画ではない」「もっと普遍的なものだ」といえばいうほど、これは危険な映画になります。
インタビューに答えてそういっている監督のアン・リーや主役の二人は、そのことをいっているんでしょうか。これは危険な映画である、と。

彼らは、これはだれにでも起きることで、たまたまその2人が男だったというに過ぎない、という意味でいっているのでしょうけれど(その証拠に、映画のポスターには「Love is a force of nature」とあるのです。ことさらに、「自然の力」である、と)、これって逆に、すごく危険じゃないですか。
ヤバいなあ、と冒頭に書いたのは、そういうことです。

この映画を見て、ストレートとされる男たちの反応が知りたいです。
“普遍的”な、そんな関係性を、みんな私たちはある時期を境に封印して生きてゆきます。そうして女と結婚する。ふつうはそれで終わりです。それからは揺るがない。それを揺るがすようなトピックは,それ以後の状況も環境もあってなかなか起こらないからでもあります。

ところがこの映画を見て、男たちは自分にとってのブロークバック・マウンテンを思い出してしまうのではないか。封印してきたあの思いを、掘り起こされてしまうのではないか。封印する過去などないやつもたくさんいますけれどもね。

それはヤバいことです。

女性にしても、この映画を見たら自分のボーイフレンドに対する見方が変わってしまうのではないか。このひとにもひょっとしたら、わたしの知らないブロークバック・マウンテンがあるのかもしれない、と。

それは危険な気づきです。
世界は一変してしまう。

保守派たちが、この映画に対していっていることが気になります。
彼らは、これを出来の悪い映画ではないといっているのです。とてもよい出来の映画だと。だが、これは不貞を勧める映画だとして非難しています。妻を裏切り、結婚生活を裏切り、子供を裏切る不道徳者の映画だとして。

そういうのを聞けば聞くほど、ああ、こいつらは知ってるんだ、と思わざるを得ません。
こいつらは、男は男が好きなのだということを知っている。だからタブーにしたのだ、と。

こいつらが怖れているのは、女と寝るように、男とも寝る、ストレートの男たちの可能性のことなのです。

ストレートとゲイというのはこの場合は本質主義的な物言いですが、こうするとますます、旧約のレヴィ記にある「女と寝るように男と寝る者」への非難は、ゲイに対するものではなく、ストレートの男たちのその傾向への非難だったのだとわかります。

「ブロークバック・マウンテン」は、それを暴くからヤバいのです。
そう、もちろんこれは,単なる「ゲイのカウボーイの恋愛映画」では、いまや、あり得なくなっているのです。だれにでも起こりうる、性愛の話なのです。それは多くの観客にとって、初めての衝撃なのです。

December 25, 2005

ホリデーズ・グリーティング

 「人事部社員行事担当のキャシーからこんな社内メールが回ってきた」というジョークがクリスマス前にニューヨークで流行りました。

 「お知らせします。今年のわが社のクリスマスパーティーは12月23日正午から近くのグリルハウスで個室を借り切って行います。バーも用意してます。バンドもキャロルを演奏しますのでみんなで歌いましょう。部長がサンタの格好で現れてもびっくりしないで。ツリーの点灯は1時。みなさんで10ドル以内のプレゼントを交換しましょう──キャシー」というのが1通目のメールでした。

 で、2通目になると「昨日のメールは別に非クリスチャンを無視したものではありません。ハヌカ(ユダヤの祭り)やクワンザ(アフリカ系の祭り)ももちろん祝いましょう。で、クリスマスではなくホリデーパーティーとします。ごめんなさい。キャロルとツリーも中止します──キャシー」。

 さらに3通目。「労組の方からプレゼント交換の10ドルは高過ぎるといわれ、逆に上層部からは10ドルは安いといわれたので、プレゼント交換は取りやめにします──キャシー」。

 さらに4通目。「気づかなかったのですが今年は12月20日からイスラム教の断食月ラマダンだそうです。日中は飲食は一切だめだそうで、でもパーティーはやるので、夕方まで食事を出さないか、食事は各自、袋に包んでもらって持ち帰りにするか検討中です。さらにゲイの社員の方からはみんな同じテーブルに座りたいとの要請があったので調整中です。ダイエット中の社員用には低脂肪の食品を用意します。糖尿病の方のデザートは果物を用意します。グリルハウスは低カロリー甘味料は使用しないとのことなので注意してください。あと何か忘れたことあったかしら???──キャシー」

 これで終わりではありません。結局こうなりました。
 「何なのよ、菜食主義者って! グリルハウスでやるって決めたのよ! 肉料理でしょう、グリルって! サラダバーがあるからそれを喰ってりゃいいじゃないの! オルガニックかって? そんなの知るか! ええ? トマトも感情を持ってるだって? 切るときに悲鳴をあげる? 上げてろ、バカ。あんたを切ってやるよ! あんたの悲鳴が聞きたいよ! あんたらみんな、酔っぱらい運転で帰って事故起こして地獄に堕ちればいいんだああああ!」

 最後のメールはキャシーの上司のジョンからでした。「キャシーのいち早い回復を祈っています。ところでホリデーパーティーは中止と決定しました。そのかわり23日は午後から休業で、ただしその分の給料も出すこととします」

 そうしてみんなハッピー、というのがオチでした。
 それに比べ、バチ当たりなほどに宗教を受け流している日本はなんといい国でしょうね。

 ちなみに一部日本の報道で、「アメリカでは最近、クリスマスツリーをホリデーツリーと呼ぶ」というふうにマジに書かれていたりしますが、あれは「こんなことをしてると、クリスマスツリーまでバカみたいにホリデーツリーと呼ぶようになってしまう」という保守派からのジョークです。クリスマスツリーをホリデーツリーと呼んでいるわけではもちろんありません。

December 18, 2005

フォード、翻りました

 保守派団体の圧力に屈してゲイ向けメディアからの広告一部撤退を発表した米国フォード・モーターが、10日を経て「ゲイ向けにグループ広告を新規に始める」とのまったく逆の決定を発表しました。ワシントンで、全米のLGBT人権団体のリーダーたちとの交渉を行ったようですね。同様なことは今年、マイクロソフト社のロビー活動でも起きており、まあ、企業もあっちから責められこっちから責められ、大変です。

 フォードが米国の超保守派団体「アメリカンファミリー協会(AFA)」のボイコット運動の訴えを受けてグループ内のジャガーとランドローバーのゲイ向け広告を中止すると発表したのが12月6日。しかし、14日かな、ジョー・レイモン副社長(人事担当)が「ジャガーとランドローバーを含む8ブランド(リンカーン、マーキュリー、ボルボ、マツダ、ダイムラー、アストン・マーチン)のフォード・グループすべての広告としてゲイ向けメディアへの広告をスタートさせる」とLGBT団体に向けて書簡を出したというわけです。同社は今回の決定を企業として性的少数者への反差別の流れを再確認したもの、位置づけているようで。

 フォードはジャガーとランドローバーの広告撤退も今年第3四半期で1億800万ドルの赤字を計上したため、としてAFAの圧力に屈したわけではないことを強調してました。でもこれが全米のメディアで取り上げられて(日本のメディアでも)、ゲイ団体ばかりか世論の反差別の気運をあおる結果になったわけですか。バックラッシュに対するバックラッシュですね。

 レイモン副社長は「重要な消費者すべてに向けてフォードが広告を発していきたいというのは本当。どっち付かずの態度をこれで一掃し、この問題を過去のものとしたい」とコメントしています。

 同様の問題は今年4月から5月にかけて、マイクロソフトがワシントン州のゲイ差別禁止法案に賛成していることをやはり保守派がボイコット運動で攻撃したときにも起きました。MS社は一時は同法案への支持を取りやめるという事態に陥ったんですけど、結局は「多様性を奨励し保護する法案を支持することは適切なこと」(S・ボルマーCEO)として従来の法案賛成の姿勢に立ち戻った経緯があります。

 フォードのゲイ向け広告はプリント部門だけで今年は百万ドル強とそう多くはないんですけど、まあ増加傾向にあって、さらに、例の雑誌「yes」にも書きましたがバイアコム系列の「Logo」チャンネルが開局するなど、LGBT向けの広告チャンスも増えています。

 あ、そうそう、それに「Brokeback Mountain」ね、これ、絶対見てほしいなあ。
 その映画に関しては、また別建てで書きますが、胸がつぶれます。英語、西部とテキサス訛りで半分くらいしか聞き取れませんが。ま、その話も後で。

 ほんじゃまた。

December 03, 2005

LGBT雑誌「yes」創刊へ

タワーレコード初のゲイライフスタイル・マガジン「yes」
2005年12月8日創刊!

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 日本のタワーレコードが来週、音楽、ファッション、映画、アートほか様々なジャンルを網羅した新たなLGBTライフスタイル・マガジン「yes」を創刊します。値段は880円(ページ数は100ページとちょっと薄いが全ページフルカラー)。

 この雑誌は〈Read The Truth〉というコンセプトのもと、LGBTのセンスや視点で迫る野心的なカルチャー・マガジンです(とはいえ、一介の配本業者であるはずの東販、日販の強圧的な編集権介入的指導によって「ゲイ」という文字は表紙には出せず)。12月8日発売予定となる創刊号では、ご存知、お正月映画「僕の恋、彼の秘密」に主演するトニー・ヤンが表紙を飾るほか(彼はゲイ雑誌だと知っても表紙モデルを快諾したそうです)、新作『Confessions On A Dancefloor』がヒット中のマドンナにもロンドンでインタビューしました(マドンナは5日に来日予定。この「yes」のプロモートにも一役買ってくれるかもしれないとの思惑のもと、ひそかに戦略を画策中)。

 また米国メディア大手バイアコム系列のLGBT向け初のベーシックケーブルTV局「LOGO」ほか、世界で拡大するLGBT TV事情の詳細や、来年開催のゲイゲームズとアウトゲームズの両方も紹介。さらにシドニーのマルディグラも押さえてあるし、ディズニーばかりか米大リーグ界にも拡大中のゲイ・デイ(Gay Day)のイベントも本邦初紹介。この部分は私が18ページにわたってすべて取材・執筆を担当しました。

 それと橋口亮輔さん、しりあがり寿さんなどの連載、特集記事も充実掲載しています。詳細は下記の通りとなります。

 この雑誌は、広告も含めてポルノのない、日本で初めてのゲイ雑誌です。というか、これまでのゲイ雑誌はゲイのコミュニティ内部に向けて情報を発信してきたけれど、このyesはゲイの視点からゲイ以外の外部の一般社会へ情報を発信してやれ、というもくろみでもあるわけで。
 この雑誌を成功させて、ビジネスチャンスとしてのゲイマーケットというのを日本でもそろそろ顕在化させてやろうじゃないか、というのがスタッフの意気込みです。前述のLOGO開局など、欧米ではすでにその波は確立されていますし。


▼「yes」創刊号掲載予定記事

 - 表紙&特別対談:トニー・ヤン(お正月映画「僕の恋、彼の秘密」主演俳優;ルイ・ヴィトンモデル)

 - Special Feature:マドンナ・インタビューin London、カイリー・ミノーグ、ロビー・ウィリアムスほか

 - 特集:「US LGBT TV最新事情 New Yorkルポ」
  MTV、CBSとおなじバイアコムが今夏、初めて基本ケーブルサービスで設立したLGBT TV局「LOGO」。視聴世帯数1800万世帯までにぐんぐん成長しています。この設立までの道のりや、CNNでも活躍していた若手リポーターをメインキャスターに据えたLGBT関連専門ニュースチームの立ち上げをインタビューを交えて詳細にリポートしています。話題の番組コンテンツと合わせての紹介は、日本初のメディア露出です。

 - ファッショングラビア:リーバイス2006年春夏デニム in New York

 - 連載コラム:橋口亮輔(映画監督)、しりあがり寿(漫画エッセイ)

 - カルチャーレビュー:
  音楽:アルミナムグループをGreat3片寄氏が紹介
  映画:ジョージ・マイケルとボーイ・ジョージの映画
  アート:横浜トリエンナーレ
  本:糸井重里主宰「ほぼ日」連載時から話題の「新宿二丁目のほがらかな人々」著者ジョージ氏インタビューほか
  健康:フィットネス

 - 占い:鏡リュウジ

September 06, 2005

尾辻さんの軌跡

テレ朝が6日、大阪府議、尾辻さんのカムアウトの軌跡を朝のワイドショー『スーパーモーニング』の一コマとして(はかなり丁寧に)取り上げています。
この下のリンクで飛んで見られますよ。
まずは見てください。

http://dp23055276.lolipop.jp/tv.htm(現在もうリンク切れ)

さて、そこで敢えて苦言を呈します。

1)「性的指向自体は疾病ではない」って、意味不明でしょう。テロップにもフリップにもして2回も強調しているのですが、「性的指向」というのは異性愛というのも含まれているんだからさ。はしなくも、どうも他人事です。自分は含まれていないってことですから。

2)「ドメスティックパートナーシップ制度」を、結婚との比較で「名前の違いで、法的にはまったく同じ」と物知り顔のコメンテーター(だれ? ディレクターかな=後にどっかの弁護士と判明しました。TVによく出ている人のようです)が話してますが、「ほぼ同じ」と言うべきでしょう。養子がとれるかどうか、や、外国での扱いなどがまったく違うのですからね。

3)アメリカではカリフォルニア州などがドメスティックパートナーシップ制度を認めている、とフリップで紹介していたけれど、マサチューセッツ州の同性婚制度があるのですから、それをそのフリップの上段、「同性婚を認めているところ」にオランダやベルギー、スペイン、カナダと並べて含めるべきでしたね。

つまり、これらのことは、誤報なのです。ふつうの新聞記事やテレビニュースなら訂正を出さなくてはならないところです。

とても丁寧に、バランスよく取り上げていたことは評価しますが間違いはいけません。「でも、せっかくとりあげてくれたんだし」という問題とはまったく関係ありません。これは「間違いは報道ではゆるされない」という鉄則を外した、というふうに考えるべきです。プロとはそういうものです。これなら、「はい、とてもよく調べましたね」と褒められて喜んでいる学生レベルのリポートであって、プロのやることではありません。

つまり、これほどまでに肝入りで取り組みながら、そこらすらもクリアできないという一般レベルでの知的惨状がはからずも浮き彫りにされているのですね。鳥越俊太郎さんが一言も発していないのは賢明と言わねばならないでしょう。知らないことはしゃべらない。こういう問題で知ったかぶりはできない。そういう判断だったのだろうと思います。

このビデオでいちばんよかったのは、尾辻さんのカムアウトに対して街の声でいちばん多かったのが「まあいいんじゃないですか」「べつにいいんじゃないですか」「ひと、好き嫌いはあるし」とかいうコメントだった、というところでした。それを「他人に対する無関心」としての「受容」ではないのかと示唆しているのです。

これだよ。ここだよね。
この部分こそ、コメンテーターが引き取ってなにかを言うべき勘所だったのに。鳥越さん、ここくらいはなんか言ってよ、って感じでした。だれも引き取らなかった。

でも、尾辻さん、相変わらずかわいかったな。かっこかわいいというのは、彼女のことをいうんだ。こんな彼女を、次の府議選挙がどう扱うのか、「まあいいんじゃないですか」は、票にはならないですからね。彼女を泣かしたくないとつよく思う。

August 12, 2005

尾辻かな子さん、Good Luck!

この共同配信の英語ニュースは8月12日付けでアメリカなどのLGBTニュースサイトでも大きく転載されてますよ。

尾辻さんはまえまえからカムアウトのタイミングを考えていたんだよね。本を書いてたのかあ。よくふんばったね。ビアンの潔さ(って一般化するわけじゃないが)、拍手。そうそう、東京パレードだな、今日は。良き日和であることを。

Osaka Prefectural Assembly legislator comes out as lesbian

(Kyodo) _ In a move rarely seen by a legislator, Kanako Otsuji, a member of the Osaka Prefectural Assembly, told reporters Friday that she is a lesbian and is publishing an autobiography that centers on her quest for sexual identity.
When she ran in an election for the 112-seat prefectural assembly in April 2003, Otsuji, 30, gave up the idea of coming out to the public because she was unsure she could win understanding about her sexuality from the general public in the prefecture with a population of 8.84 million, the second largest after Tokyo.

議員がするのは珍しいが、大阪府議の尾辻かな子(30)が報道陣に自分がレズビアンであること、その性的アイデンティティへの探索を中心にした自伝を出版することを話した。2003年4月の選挙では自分のセクシュアリティへの理解を得ながら当選できるかわからなかったのでカムアウトは断念していた。

With two years elapsed, she decided to come out because "I don't want children troubled by being homosexual to experience the same (hardship she had)."

2年経って、カムアウトの理由は「同性愛者であることで子供たちが私と同じこと(つらさ)を経験してほしくなかった」から。

In her book titled "Coming Out -- Jibunrashisa wo Mitsukeru Tabi (a journey for finding your true self)" published by Kodansha Ltd., she says she realized she was homosexual when she fell in love with a woman at the age of 23 but had a hard time because she could not tell her parents or close friends.

本のタイトルは「カミングアウトー自分らしさを見つける旅」(講談社)。自分が同性愛者だと気づいたのは23歳のときに女性に恋したとき。自分の両親にも親友たちにもそのことを話せずとてもつらかったという。

May 18, 2005

いま日本

あさって、中野で講演会をします。
アイデンティティハウスの鍛治良実さんが昨年に続いて企画してくれました。
以下の要領です。

北丸雄二時事講演会
「マジためゲイ講座番外編=だれもが避けていた世界観 〜 小泉首相とリチャード・ギアのダンスが教えるもの」

日時:2005年5月21日 (土)午後2時〜5時
場所:中野ZERO 学習室(中野区中野2-9-7 JR中野駅下車南口、徒歩8分)
http://www.nices.or.jp/02guidance/02-1.html
参加費:1000円

「1000円」って、高いですな。こりゃ、ちゃんと面白い話をしなくちゃ、映画のレディースデイに負けちゃう。
でもまだ話すことをまとめておりません。まずい。明日までのアエラの締め切りもあるし、今夜は飲み会だし。大丈夫でしょうか。不安。
お時間ある方、ふらっとお立ち寄りくだされませ。

May 09, 2005

マイクロソフト、折れる

ふーむ、やっぱりマイクロソフト、戻ってきました。
同性愛者差別禁止法に対して、「やっぱり、考え直したら、多様性だよね、こういうのは支持しなきゃいけないってわかったよ」というわけです。しかしスティーブ・ボルマーさんよ、「考え直したら」って、あんた、「考え直し」たせいでこういう議論の分かれる社会問題には企業はどちらも支持しない立場を取ろうって決めたんじゃないの。ま、こういうのはもうちょっと最初から真剣に考え込まなけりゃね。

詳細は
http://japan.internet.com/busnews/20050509/11.html
(とうか、このブログの末尾にもくっつけちゃお)

日本語、ちょっと読みづらいけど、ま、私のブルシットでこれまでの経緯を知っていればどうにか理解できると思います。いちばん最初に「これはこうやって報道されたら、法案の否決は変わらないにしてももう一回なんかあるような気もしますな。」と書きましたが、「一回」どころか、何度もあって結局ぐるっと回って元に戻った、ということでしょうか。

ヘテロな企業もなかなか大変です。
でも、まあ、よかったよかった。あはは。

****
「多様性を尊重」、Microsoft が同性愛者差別禁止法案を支持
▼2005年5月9日付の記事
■海外internet.com発の記事翻訳

Microsoft (NASDAQ:MSFT) は、ワシントン州が審議中の同性愛者差別禁止法案に対する支持を先ごろ撤回したが、その姿勢を変え、再び支持を表明した。

同社 CEO の Steve Ballmer 氏は6日、従業員に宛てた Eメールで、姿勢変更について説明した。それによると、民間企業がこうした政策論議に関わることが正しいことかどうかなど、同問題について熟慮した結果、論議はあるにしても多様性を尊重する方が良いとの結論に達したという。

Ballmer 氏は、次のように述べている。「この問題については様々な観点からの意見が寄せられたが、その意見とは別に、わが社が多様性を重んじている点については全ての人が強い支持を表明した。私にとって、これは大変重要なことだ。わが社の成功は、顧客と同じように多様な従業員を持つこと、および、そうした多様性の全てを活かすよう従業員が協力しながら働くこと、にかかっている」

Microsoft によると、社内通信を公開したのは、差別禁止法案に関する同社の姿勢について、広く一般の関心が高まっていた状況を考えてのことだという。

同社は、早くから同性愛者同士で暮らす従業員に対しても家族手当などの恩恵を与えている企業の1つだ。しかし、Ballmer 氏が先ごろ出した社内通信で、ワシントン州の同性愛者差別禁止法案について同社が中立的立場をとると決めた理由を説明したことから、同性愛者の人権擁護団体から非難が湧き上がっていた。

こうした事態を鑑み、あらゆる側面から問題を再検討した結果、職場における多様性も自社にとって重要だとの結論に達したと、Ballmer 氏は言い、次のように述べた。

「したがって、わが社が職場における多様性を奨励し保護する法案を支持することは、適切なことだ」

さらに、Ballmer 氏の通信は、雇用差別禁止連邦法に性的指向による差別禁止条項を加えることを支持している企業に Microsoft も仲間入りする意向だとも記している。連邦の雇用差別禁止法は、すでに人種/性別/国籍/宗教/年齢/身体障害による雇用差別を禁じているが、性的指向による差別も禁止すべきだという声も増えており、Microsoft もそれに賛同したことになる。

Microsoft Changes Stand on Gay Issues
By internetnews.com Staff

After withdrawing its support for a pending gay rights bill in Washington State, Microsoft (Quote, Chart) has changed its mind.

In an e-mail to employees Friday, Microsoft CEO Steve Ballmer said after thinking the issue over -- such as whether it was appropriate for a public corporation to get involved in such public policy discussions -- he decided to err on the side of diversity.

"Regardless of where people came down on the issues, everyone expressed strong support for the company's commitment to diversity," Ballmer's memo said. "To me, that's so critical. Our success depends on having a workforce that is as diverse as our customers -- and on working together in a way that taps all of that diversity."

Microsoft said it released the memo to the public in response to widespread public interest in the company's position about the anti-discrimination legislation.

Although Microsoft is among the earliest companies to extend company benefits to same-sex partners, a prior memo from Ballmer, explaining why Microsoft decided to remain neutral on an anti-discrimination bill in Washington State, sparked an uproar among gay rights groups.

"I said in my April 22 e-mail that we were wrestling with the question of how and when the company should engage on issues that go beyond the software industry. After thinking about this for the past two weeks, I want to share my decision with you and lay out the principles that will guide us going forward," Ballmer said.

"First and foremost, we will continue to focus our public policy activities on issues that most directly affect our business, such as Internet safety, intellectual property rights, free trade, digital inclusion and a healthy business climate."

But after looking at the question from all sides, Ballmer said he concluded that diversity in the workplace is also an important issue for the company.

"Therefore, it's appropriate for the company to support legislation that will promote and protect diversity in the workplace."

In addition, the memo said Microsoft would join other companies in supporting federal legislation that would prohibit employment discrimination on the basis of sexual orientation -- adding sexual orientation to the existing law that already covers race, sex, national origin, religion, age and disability.

"Obviously, the Washington State legislative session has concluded for this year, but if legislation similar to HB 1515 is introduced in future sessions, we will support it."

May 01, 2005

キャッチアップMS

先日来のマイクロソフトのごたごたは、先週、ビル・ゲイツが地元シアトルタイムズのインタビューに答えて「数多くの社員から批判のメールを受け取って驚いている。次にこういうことの決定を行うとき、これは主要な決定要素になるだろう」と語って、またまた方針転換を匂わす、あるいは鎮静化のための甘言をいっておく的な態度を見せました。

しかし一方で、マイクロソフトが反ゲイの保守派として有名なラルフ・リード(キリスト教者連合の前会長です)の運営するロビー会社(つまり、ワシントンDCで共和党にいろいろと働きかけて自社に都合のよいような政策を取るように動き回るための会社です)を使っていることが明らかになりました。マイクロソフトは今回のワシントン州のゲイ差別禁止法案に関してはこの会社は何の関係もないといっていますが、そもそも、そういうところに金を出して雇っているということ自体、何だかなあという感じがしますわね。

その辺の経緯について、日本語で、きちんとまとめたのを見つけましたので参考にしてください。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000047715,20083228,00.htm
です。(ここ、なんか、トラックバックができるようになっているみたいだけど、どうやってやればいいのかわからないので、また、上記URLをコピペしてね)
ここは、ネット関連の海外ニュースを翻訳紹介しているところなんですが、日本のメディアはこれは最初に共同がちょっと伝えただけで、そのまんまですね。他にどこも続報を行っていません。その程度の関心と言ってしまえばそうなのでしょうが。

April 25, 2005

MS続報、っていうか……

こないだのNYタイムズの報道の続きです。
まずは訳しましょうか。

***
Microsoft C.E.O. Explains Reversal on Gay Rights Bill
マイクロソフトのCEO、ゲイ人権法案への支持撤回を説明
By SARAH KERSHAW (記者署名サラ・カーショー)

Published: April 24, 2005

SEATTLE, April 23 - The chief executive of Microsoft, Steven A. Ballmer, sent what company officials described as an unusual e-mail message on Friday evening to roughly 35,000 employees in the United States, defending Microsoft's widely criticized decision not to support an antidiscrimination bill for gay people in Washington State this year.

シアトル23日─マイクロソフトのCEOスティーヴンAボルマーが金曜夜、アメリカ国内の約35000人の社員に、同社側言うところの"異例の"eメールを送信した。そのメールの中で彼は、広く批判されているマイクロソフトの決定、つまりワシントン州のゲイに対する反差別法案への今年の支持撤回決定を擁護してるってわけさ。

The e-mail message came as company officials, inundated by internal messages from angry employees, withering attacks on the Web and biting criticism from gay rights groups, sought to quell rancor following the disclosure this week that the company, which had supported the bill in past years, did not do so this year. Critics argue that the decision resulted from pressure from a prominent local evangelical Christian church.

このeメール・メッセージが送られてきたのは、同社側が、怒り心頭の社員からの社内メッセージやウェッブ上でのびびっちゃうような攻撃、ゲイ人権グループからの噛み付かれちゃいそうな批判なんかに圧倒されちゃって、どうにかしてこの、去年まではこの法案を支持してきたのに今年はそうじゃなくしたって今週明らかになったあとで起こってきた敵意みたいな感情を鎮めたいなあと思ってのことなんだわ。

In his message, posted on several Web logs on Saturday and confirmed by company officials, Mr. Ballmer wrote that he had done "a lot of soul searching over the past 24 hours." He said that he and Bill Gates, the founder of Microsoft, both personally supported the bill but that the company had decided not to take an official stance on the legislation this year. He said they were pondering the role major corporations should play in larger social debates.

メッセージってのはこの土曜日にいくつかのウェッブログでポストされてて、そんでもって同社側も確認した本物なんだけど、そのメッセージの中でミスタ・ボルマーは「この24時間にわたって魂の追求みたいな厳しい思索」を行ったと書いている。彼が言うのは、彼もビル・ゲイツも、マイクロソフトの創設者ね、ともに個人的にはこの法案を支持している、でも会社としては今年はこの法案に対して公的な立場を取らないことに決めたんだっていうわけ。ふたりはね、大きな企業というのが大きな社会的議論になっているようなことでどのような役割を演じるべきかについて熟考してたんだってさ。

"We are thinking hard about what is the right balance to strike - when should a public company take a position on a broader social issue, and when should it not?" he wrote. "What message does the company taking a position send to its employees who have strongly held beliefs on the opposite side of the issue?"

「なになにが正しいバランスの取り方なのか、私たちは懸命に考えている─公的な企業がある広範な社会問題に対して一つの立場を取るべきなのはいかなる時なのか、あるいはいかなる時には取るべきではないのか?」って書いてるのね。「ある立場を取っている会社が、その問題に対して反対の信念を強く持っているような従業員たちに対してはどのようなメッセージを送るのか?」って。

The bill, which has been debated in the Legislature for years and would have extended protections against discrimination in employment, housing and other areas to gay men and lesbians, failed by one vote on Thursday.

問題の法案はワシントン州議会で何年も議論されていたもので、雇用や住宅やその他の分野でのゲイ男性とレズビアンたちへの差別に反対して、法的保護を広げるはずのものだった。

Critics, including some Microsoft employees and a state legislator, who said they had conversations with company officials about their decision, said a high-level Microsoft executive had indicated that the company withdrew its support because of pressure from a local minister, Ken Hutcherson. Dr. Hutcherson opposed the bill and said he had threatened a national boycott of Microsoft.

マイクロソフトの従業員や州議会議員も含む複数の批判者は、今回のこの決定について会社側と話をして、会社が支持を引っ込めたのは地域の牧師のケン・ハッチャーソンの圧力によるものだとマイクロソフトの上の方のエラいさんが言っていたよって話している。ハッチャーソン博士(神学者なんだろうね;訳注)はこの法案に反対していてマイクロソフトに全米で不買運動をするぞと脅していたわけだしさ。

Company officials have denied any connection between the threatened boycott and their decision not to support the bill.

会社側は今回のこの法案不支持の決定とボイコットの脅しとは無関係だと否定してるけどね。

Microsoft, which is based in Redmond, Wash., east of Seattle, has long been known for being at corporate America's forefront on gay rights, extending employee benefits to same-sex couples. In his e-mail message, Mr. Ballmer said, "As long as I am C.E.O., Microsoft is going to be a company that is hard-core about diversity, a company that is absolutely rigorous about having a nondiscriminatory environment, and a company that treats every employee fairly."

マイクロソフトはワシントン州レッドモンド、シアトルの東ね、そこに本社を置いてるんだけど、長いこと“アメリカ株式会社”のゲイ人権に関する最先端を行っていたことで知られてたわけさ。従業員の福利厚生を同性カップルにも拡大したりしてさ。eメールのメッセージの中でミスタ・ボルマーは「私がCEOでいるかぎり、マイクロソフトは多様性に関して筋金入りの中心的存在になるし、差別のない環境を作ることに絶対的に厳格に取り組む会社になるし、そしてすべての従業員を公正に扱う会社になる」と言ってる。

Mr. Ballmer described the antidiscrimination measure as posing a "very difficult issue for many people, with strong emotions on all sides." He wrote, "both Bill and I actually both personally support this legislation," adding, "but that is my personal view, and I also know that many employees and shareholders would not agree with me."

ミスタ・ボルマーはこの反差別法案のことを「多くの人たちにとって、どんな立場であっても強い感情を伴うとても難しい問題」を投げかけるもの、としている。彼は「ビルも私も実際、個人的にはともにこの法案を支持する」と書き、続けて「しかしそれは私の個人的な意見であり、その私に賛成しない多くの従業員や株主がいることも知っている」と言うのね。

Blogs and chat rooms on the Web were filled Saturday with lively debate about Microsoft's actions, including postings from people who said they would now buy products from other software companies and encourage others to do the same.

ブログやウェブのチャットサイトは土曜日、マイクロソフトのこの動きに関して活発な議論で埋まった。そん中には、もうこれからは他のソフトウェア会社の製品を買うからみんなもそうしようと呼びかける人からの書き込みもあった。

One posting Friday on a Web log run by "Microsophist," who promises "an unfiltered and unfettered view of Microsoft from the inside," said of Mr. Ballmer's memo: "When I read the mail, I felt some relief (the situation wasn't as bad as I'd first thought) followed by disappointment as he's basically saying he doesn't want to do anything that might cross the religious right."

マイクロソフトに関する検閲も足かせもない内部からの見方を約束するという「マイクロソフィスト(マイクロソフトのソフィスト、つまりマイクロソフト学者ってなシャレかね;訳注)」という人の運営するあるブログの金曜の書き込みは、ミスタ・ボルマーのメモに関して「メールを呼んだとき、なにか安心した(最初に思ったほど事態は悪いわけじゃなかった)けど、その後でがっかりした。だって彼、基本的には、宗教的な権利とぶつかるかもしれないようなことはぜんぶ避けて通りたいって言ってるわけだからさ」

A gay Microsoft employee who read the e-mail message from Mr. Ballmer on Saturday and spoke on the condition of anonymity out of fear of retribution said: "Overall it's a good thing that Steve is reaffirming the company's commitment to it's internal anti-discrimination policies. But I'm disappointed that he would give equal weight to the views of employees or shareholders who would condone discrimination as to those who would be the subject of discrimination."

土曜日にミスタ・ボルマーからのメッセージを読んだゲイのマイクロソフト従業員は仕打ちが怖いという理由で匿名で話してくれた、「全体的に見て、スティーヴが会社の社内的な反差別方針への取り組みを再確認しているということはいいことだ。でも、これって差別を黙認するような社員や株主の意見は、差別の対象になるような人々の意見と同じだけ等しく重要だという判断なわけで、それは失望だよ」

***

あらら、思いのほか時間がかかってしまいました。長いしね。

記事の書き方ってもんがありますが、もとよりそれは公平なんてことはあり得なくて、どうしたって書き手の立場が反映してしまいます。この記事もそうで、まず、報道として取り上げるということ事態が一つの意思表明なわけですよね。そういうことも含めてフーコーは書くこと自体が権力になると言っていました。それはたしかにそうで、では、じゃあ、権力に汚されていないニュートラルな状態は何なのか、そのへんが読解のカギになるのです。

このボルマーさん、それはきっと難しい決断だったのだと思いますよ。で、これこそが「正しいバランス」の取り方だ、と思った。ほんとかなあ。

だってさ、「支持を取りやめる」という行為は「中立に戻る」というニュートラルな行為ではないのですもの。それは「在るもの」を「無くする」という積極的なマイナスの行為なのです。それはメッセージなのです。宣言です。どうしたってそうなってしまう。つまり、マイクロソフトはこうすることで結果的に、「積極的に差別を肯定する」のと実質的に同じメッセージを送ってしまったことになるのです。

「いやいや、そんなことは言っていない」とボルマーさんは言うでしょうけれど、問題は、言っている中味ではない。支持を取りやめると「言う」行為のことです。「支持を取りやめる」というアクションのメッセージ性のことなのです。(ほんとうは支持取りやめを発表しないでそっと黙っていたかったのかもしれないけれど、そんなこと、不可能ですものね。おまけにそれが公表されてしまってからもこのメールメッセージです。2回も「言」っちゃっている)。

ビル・ゲイツだってボルマーだって、(いくら理系だからといって)こうしたことに気づいていないわけはない。すっごく頭はいいはずですもんね。にもかかわらずそういうアクションを取った。これも「一つの立場」なわけで、「ニュートラルな立場」なんてあり得ないのです。ニュートラルなら、「立場」すらないんですよ。ふわふわ漂って、その「広範な社会問題」自体にコミットなんかしないで、どこにいるのかわからない、人々に意識すらさせない、これを社会問題におけるニュートラルなあり方というのです。中立なんてないのです。あるのは「支持」か「不支持」か、「考えてない」かです。あるいはもうちょっと踏み込んで「そんなのくだらん」と問題そのものを否定する立場。

たとえばナチスです。ナチスに対するニュートラルな立場、というのは何を意味しているのでしょうか。ふわふわ漂って、コミットしないで、なんにも考えていない、というならわかります。それはただのバカです。しょうがない。そうじゃないなら、ナチスに対する支持か不支持しかあり得ない。困っちゃって黙って隠れているというのはあります。あとは「どうせ他人事」というのもあるでしょう。でも、「私はナチスに対して中立でいたい。なぜなら、その支持者も不支持者も大いに感情的になってしまって、賛否両論、大きく分かれているからだ」というのは、つまりナチスを黙認してる、ってことと実質的に同じになってしまうでしょう。第二次大戦中のローマ法王がそうだった。そんでもって、けっきょく法王庁は戦後何十年もたってから謝罪することになるのです。ザマァミロ、と思った人は少なくなかったはずです。

でもって、ボルマーさん、社内的には同性カップルにも平等な環境を与えると言っている。なんじゃらほい? そういうのに反対の株主や従業員だっているでしょうに、それは問題ではないのかしら。これは偽善とか詭弁とかっていうもんじゃないかしらん? 

NYタイムズのこのサラさんは、この原稿の終わりに「これって差別を黙認するような社員や株主の意見は、差別の対象になるような人々の意見と同じだけ等しく重要だという判断なわけ」ってことだよね、というコメントを持ってきています。これがこの記事の結論でもあります。この皮肉と逆説と反語とがすべてを語っているのだと思います。

しかし、ほんとにボルマーとゲイツ、頭いいんだろうか……。

April 23, 2005

マイクロソフト

いやいや、まったく、「全米規模での福音派のマイクロソフト製品不買運動」と、全世界規模での性的少数者たちのMS製品ボイコット運動と、どっちがビジネスとして深刻な問題なのかなあ。ゲイは平和的だからボイコットしないって思われてるのかしら。いったい、どういう判断なのか、ほんとうに、よくわからんというのが正直な感想です。だって、どう考えたってこれって、MS側にとっては大変なイメージダウンですからねえ。

現場の担当者の判断ミスってのじゃないのかなあ。時代に逆行してるとかって、大げさに言うのが恥ずかしいくらいのベタな選択だもの。それとも、あれ? もう法王の影響? って、福音派って保守派とはいえプロテスタントで、カトリックじゃないんだから。あはは。ま、いずれにしてもブッシュ再選の重要なカギだった連中には違いないのだが。

でも、これはこうやって報道されたら、法案の否決は変わらないにしてももう一回なんかあるような気もしますな。

NYタイムズのオンライン・フォーラムにはすでに読者から1万件を越える書き込みがあるみたいです。いまざっと眺めてきたけど、しかしすごい数だ。おまけにNYT22日の記事はいま現在「最もeメールの来た記事」の3位だって。さすがにNYTの読者は反応が早いね。もちろん、MSはバカじゃないの、ってのが多いみたいだなあ。

あなた、まだウィンドウズですか? そろそろ考えた方がよくな〜い? iPodもあることだしさ。うふふ。

***
マイクロソフトに非難 同性愛権利擁護法案支持撤回で

 米紙ニューヨーク・タイムズ電子版が22日伝えたところによると、これまで社内での同性愛者の権利擁護に努めてきた米ソフトウエア大手マイクロソフトが、キリスト教右派の「福音派」からの圧力に屈し、同性愛者への差別を禁じるワシントン州法案に対する支持を撤回したとして、自社社員や同性愛者権利擁護団体などから非難を浴びている。同法案は21日、州上院で1票差で否決された。

 圧力を加えたのは、同州レドモンドにある同社本社から数ブロックにある著名な福音派教会という。マイクロソフトは2年間にわたり同法案を支持してきたが、最近これを撤回した。

 同教会のハッチャーソン牧師は、マイクロソフト側と会合を持ち、全米規模でマイクロソフト製品の不買運動を起こすと伝えると、法案に対する支持を撤回した、と語った。マイクロソフト側は、支持撤回と教会とは無関係と否定している。(共同)

April 19, 2005

新法王 ラツィンガー

新法王に選ばれたヨーゼフ・ラツィンガーについて、「Becoming a Man」というポール・モネットの半自叙伝に次のような記述があります。彼は24年にわたって教理省長官を務め、教義において超保守的とされた前法王ヨハネ・パウロ2世の側近中の側近でした。バチカンのこの20数年間の超保守主義を形作って恥じなかった人物です。エイズ禍初期の80年代に、いかにひどい憎悪の言葉が彼らの口から発せられたか。そういう男が今度の法王です。

ただし、違う読みもあります。ラツィンガーはいま78歳。法王としてもっても数年でしょう。このラツィンガーで保守派の生き残り連中のガス抜きをして、改革派は次を狙っている。それが今回のコンクラーベ、比較的早く決まった理由だと。とりあえず花を持たせておいて保守派の顔も立て、さて、次がどうなるか。じつはバチカンの次回のコンクラーベはすでにいまこの時から始まったと言ってもいいのだと思います。

****以下、「Becoming a Man--男になるということ」からの抜粋訳

 「ローマ・カトリックの問題点は」と、ある司祭が残念そうにぼく【註;ポール・モネット】に語ってくれたことがある。「ずっと逆上ってアクィナス【註:トマス・アクィナス。中世イタリアのローマ・カトリック神学者でスコラ哲学の大成者。主著「神学大全」】に帰結する」と──13世紀カトリックのあの野蛮人。女性とゲイに関するやつの煮え滾ぎるナンセンスが聖書と同等の権威になったのだ。これは憶えておく価値がある。最初の千年王国では、教会はゲイとレズビアンをも歓迎する場所だった。既婚聖職者を受け入れていたと同じようにゲイとレズビアンをも受け入れていたのだ。さらにもう一つ、優しきヨハ2ネ23世【註:1958〜63年のイタリア人ローマ法王。62〜65年にかけ、第2ヴァチカン公会議を開催。キリストの死に対する新約聖書中のユダヤ人の「罪」を否定したことで有名】時代に、偏見と頑迷さとが俎上に上りそうになった瞬間があったことをぼくは知っている。第2ヴァチカン公会議が光を注いでいたそのときに、フェミニズム運動とストーンウォール革命とがあの家父長制度の目の前でぼくらへの鞭打ち刑を打ち砕いたのだ。その二つの出来事が時期を同じくしたのはけっして偶然ではない。

 しかし第2公会議は自らを去勢した。いまやバラ色の60年代ではすでになく、新たな異端審問が咆え声も高らかに全速力で疾走している。率いるのは錦織の法衣を着た狂犬病のイヌ、ローマ法王庁の枢機卿ラツィンガー【註:こいつが今度の法王】だ。ゲイを愛することは「本質的な邪悪である」という御触れを発布した悪意のサディスト神学者。エイズ惨禍のこの10年間、ぼくは道徳的堕落に関するグリニッジ標準時のごとき存在としてのあのポーランド人法王【註;ヨハネ・パウロ2世】の教会に何度か足を運んだ。ぼくなりのささやかなやり方でナチ突撃隊長【@シュトゥルムフューラー】ラツィンガーへの返礼をするために。法王の植民地の手先どもが一週間でもいいから黙っていてくれることはまずない||ニューヨークではオコーナー【註;1984年から2000年までNYのローマ・カトリック教会大司教で、法王の最高顧問である枢機卿の一人だった。2000年5月死去】が、ロサンゼルスではマホーニー【註;同じくLAの大司教・枢機卿】が、自分らの女性恐怖症と同性愛恐怖症とを辺りかまわず吐き散らかしている。セックスはついには死に至るのだと勝手に勝利に呆けながら。

 けれどぼくは、たとえそうでもカトリックそのものを憎むことはしないように努めている。これに関しては、神は罪は憎むが罪人を憎むのではないという法王さまたちご自身のお言葉に倣うのだ。そうしてぼくはミサにやってくるかよわい老婦人たちのために、あのブロケードの法衣の向こうにどうやるのか神を見ようとする貧しい異国の人々のために、さらには遠慮がちにこの恐怖の時代はやがて終わりますとぼくに手紙を寄越した怯える司祭たちのためにすら、舌を噛んでじっと言葉をこらえるのだ。

April 05, 2005

ゲイ向け広告急増中

先日のNYタイムズに、ゲイ向けの印刷メディア(雑誌とか新聞のことですね。調査は139の出版物を対象にしているそうです)における広告出稿量が2004年はそれまでの3年連続の落ち込みを一気に回復する、前年比28.4%増の2億700万ドル(推定値)に達した、という記事が載っていました。

もっともこれは2000年の2億1100万ドルよりはまだ少ないんですけれど、2001年の9/11テロがあってからは景気も大変でしたから、まあ、すごい数字といっていいのかもしれません。というのも、社会が動くときはかならず経済が先に動いているもんなんで、まあ、去年は同性婚のこともあったし、LGBTが社会的にも元気だったのを背景にしているのでしょう。そうしてその流れは今年2005年にもなんらかの形で現れるかもしれません。

あ、そうそう、ぜんぜん違う話ですが、マンハッタンのタイムズスクエア近くにあった「ゲイエティ」という男性ストリップの劇場が3月末にとつぜん予告なく閉鎖されたそうです。30年もそこで営業していたのに、どうもビルの新しいオーナーがリース契約を更新させてくれなかったらしい。まあ、家賃の高騰も背景にはあるんでしょうがね。

残念なことに、私はいちどもそこに行ったことがないのです。こんなことなら行っておけばよかったなあ。
42丁目以北の8番街あたり、そこらは前市長のジュリアーノが率先したタイムズスクエア周辺の浄化作戦で、ポルノショップやストリップ小屋がどんどんなくなっていたのですが、最近のリポートではまたポルノショップがオープンしてきているとかいうのを読んだばかりです。はて、それは何を意味してるんでしょうね。

なんか、とりとめもないニュースブログでした。はい、ではもう寝ます。
おやすみなさい。

February 14, 2005

蛇足─アメリカ文化、日本文化

(先に02/05、02/12を読んでね。その続きなのだ)

さて、そうやって考えていくと、日米あるいは日欧米間の方法論の相違というのは、つまりは「怠け心」を奮起させて、やっぱやんなきゃだめかなあ、って思わせるための方法論の違いなんですね。「運動でなにをやるか、どうやるか」ではなく、もっと基本の基本、スタート地点に立つための方法論、あるいは立たせるための方法論の違い。

「運動」っていう言葉自体、翻訳語、翻訳概念ですからして「運動」そのものってのはそもそも端からすでに欧米型なんであって。ただしそれはちょっとしたアレンジやアイディアで日本“的”に持っていくことは可能だし、現にそういうふうなことはけっこう成功してもきた。日本文化って大陸や半島の影響を受けていたころからそうでしたから。

さて、そこでただし問題は、その「運動」なり「ムーヴメント」に到達する以前の、「怠けないでコミットしようよ」っていうことを、どう折伏するか、どう納得させるか、どう奮起させるか、ということなのでしょう。そこを、アメリカとかではキリスト教なり聖書の倫理観なり、あるいは社会契約みたいなものといった共通意識で一気にピョ〜ンと越えることも可能なんだけれど、そのような共通意識が(幸か不幸か)希薄ないまの日本の社会では、まずそこから始めなくてはならない。その大きなひと手間、それが苦労の原因の1つなんだなあ、ということなのです。そうしてそれこそが「日本的」の意味するところなのだということです。 そんな共通意識の、決定的な不在。

そこをはっきりさせるために「怠けもん」というキーワードは必要なのではないかと思うわけでした。

「アメリカアメリカアメリカアメリカ」ってみんな一言でいってますけど、知ってのとおりいろんなアメリカがあって、最近はブッシュの体現するようなアメリカを指すことが多いけどさ、ゲイプライドを成功させるようなアメリカ、同性婚を木で鼻をくくったように議論にも乗せたくないアメリカ、それに涙を流して抗議しようとする人たちのアメリカもあるでしょ。そうした種々様々な人間かつ社会のダイナミズムはどこから来ているのかなあ。

わたしはキリスト教なり宗教なりというのは唾棄したい人間ですが、だが、それを信じて慈善活動を続ける善意のアメリカ人というのはなかなか唾棄できない。たとえその善意がじつに恣意的な善意であったにしても、そのクリスチャニティーっていうものの実体性を、虚構性を含めて、その存在性を、日本の空洞部分に比較してよい意味でも悪い意味でもすげえもんだなあと思うのです。

底支え、というか、前回エントリーの「とー」さんのコメントで相応するものとしての「儒教・仏教的倫理観とか美意識」とかいう基盤部分が、そういうもんは共同幻想だと知っている上での知的なある人間社会の共通意識が、必要だなあって思うけど、まあ、共通意識ばかりが先走るとブッシュ・アメリカになっちまうわけで、そこをひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていくというのはかなり大切な作業なんだと一方で信じてもいるのですけど、さて、そこで最初にも言った「怠けもん」の原則がふたたびノソノソと顔を出し作用して、そういうものを「ひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていく」ということなどしないもんだ、という堂々巡りになるわけなんですよね。で、そこで思考停止。だれかやるでしょう症候群の千年寝太郎。

まあ、かんたんにはっきり言ってしまうとね、あなたの思っているとおり、「この国、何か、すごく間違ってるわ」状態なんだなあ。

教育なんだよね。学校教育ばかりか、社会教育までもが慎太郎的空疎に煽動されていて、そこをどう変えていくか。それを変えればどんなところでも10年以内で変わるのだ。

February 12, 2005

補足─アメリカ文化、日本文化

2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。

けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。

そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。

だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。

で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。

アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair.  それは公平ではない
It is not justice.  それは正義ではない
It is not good for children.  それは将来の子供たちに禍根を残す

この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。

対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。

私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。

そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。

文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?

ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。

「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。

問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。

February 06, 2005

士別の武井さん

北海道士別市の青年会議所で、新しい理事長になった武井祐司さんが会議所の新年会で100人の会員に向けてカムアウトしたそうです。北海道新聞の2月5日付け夕刊に載っているというのですが、ぜひ読みたいなあ。どなたか、記事を教えてくれないかしら。

ということでさっそく士別青年会議所のHPに行ってみました。
武井さんの所信が書かれてあります。
さすが、そこらの理事長ご挨拶とはちがう文章でした。
いい人なんだなあ。

このサイトには掲示板もあります。
みなさん、それとなく武井さん応援のコメントを書き込んであげたらどうでしょう。
そういうのもとても大切な意思表明だと思います。
私たちはテレパシストではないのだから、思いはきちんと字にしなくては伝わりませんものね。
(とはいえ、余所者からの組織票みたいに思われるのもなんだから、書き込みはくれぐれも威圧感なきようにさりげなくね)

February 05, 2005

「過激派の判事が」

とまたブッシュ政権および保守派・宗教右翼連中が言いたてるんでしょうね。そうして第二次憲法修正運動のモメンタムに利用しようとする。しかし、そういう妨害・障壁はしょうがない。そうやりながらも進んで行かなくてはならないのだと思います。

というのは、NY州の地方裁判所が4日、5組の同性カップルが自分たちに結婚許可証を発行しないのは違憲だと訴えていた件で、この5組に結婚を認めないのは州憲法違反であるという判決を下したことを指します。

このパタンはすでにハワイでもマサチューセッツでもカリフォルニアでも行われたと同じもので、ニュース自体としてはあまり衝撃はないのかもしれません。しかし、ブッシュの第二期政権でも連邦憲法の修正を目指して結婚を異性間に限るとするという方針が示されての最初の司法判断として、さて、同性婚をめぐる攻防は再び仕切り直しで第2戦(?)あるいは、第3戦かもしれませんが、そういうところに入ったということでしょう。

さて、これが「過激派の判事」という、昨年、ブッシュの指弾した表現でなおも通じるのかどうか。
わたしは短期的にはこれは彼らの保守蒸気機関に石炭をくべるようなことにつながると思います。かっと赤い火がまた起ち上がるでしょう。

しかし、石炭はいつか消えます。その石炭をさっさと消費させなくてはならない。
カナダでは先日、連邦レベルでの同性婚認可の法案がやっと提出されました。ここでも最高裁の判断があってからの、1年以上たってのやっとの法案化です。
これは長期戦なのです。
    *
「日本とアメリカは違う」という物言いを、1980年代末の日本でのゲイムーブメントの最初からずっと聞いています。最初のころはまあそうだと思いました。当たり前の話です。
ただ、いまもそう言いつづけている人は、そういう世界の運動のモメンタムを自分の文化の中で取り入れる努力を怠っている、その言い訳としてしか聞こえていないのに気づいていないのでしょう。

日本とアメリカとは違います。それはあなたと私だって違う。
難しいことを言うと、それは対幻想と共同幻想というレベルと質の違いを含んだ対比ではありますが、そんなことは当然のことで、いまはとりたてて言挙げするほどのことでもないでしょう。私たちは靴を履き、服を着て、西洋便座に座り、ピザを食べています。その中からウォシュレットなんていう世紀の発明ができて、ピザにだってツナマヨなんていうものができている。

そのくせ、お寿司にアボカドが入っているとそんなものは寿司じゃないよね、なんていっている。それは、ゼノフォビアといいます。あるいは、自分たちの国や文化だけが特別だと思いたいことの反動による、他者への侮蔑です。

なにかをやるときには、差異を知りながらも同じことを見つめていなくてはならない。
そうしなければ仲間なんかできないし手をつなぐこともできません。
そろそろ欧米はね、違うんだよ、という、きいたような口はきかないほうがよい。かっこわるいでしょう。そんなのは言われなくともわかっているのですから。そういう輩は、じっさいは怠け者なのです。かまびすしくおしゃべりすることは得意でも、怠け者であることにかわりはありません。

February 02, 2005

ペンギンの同性カップル

こんなニュース、配信されてましたっけ? クリスマスと年末の喧噪で見逃したかな? それとも日本のニュースルームではキワモノとして無視されたか。ま、休みにも入ってるしなあ。

内容は、立教の上田先生ってひとが日本の水族館を調べたら、ペンギン飼育において雄雌比が合わない場合に同性同士のカップルができるみたいってわかったっていうんですな。共同配信の記事では、16の水族館・動物園で20組の同性ペアがいたらしい。

でも、雌雄比が合わないってことだけが原因なんでしょうかね。なかにゃ、そっちの方がすきだってのもいるんじゃないのかしらん。これって、科学的推計というよりも、科学者個人の解釈だからなあ。経験に基づくって言えばかっこいいけどさ。

NYのコニーアイランドの水族館でも有名なオス同士のペンギンのカップルがいてね、これは前にも書いたことがあるんですけど、ペンギンって、鳥の中でもけっこう自意識あるみたいなたたずまいがあるもんね。コニーアイランドの二羽は、お互いに身繕いをしてやったり餌を相手のために取っておいてあげたりするんだよ。

そうそう、上田先生の観察では、オス同士、メス同士のペンギン・カップルではマウンティングの行為も見られたんだってさ。ほほう、おもしろいねえ。

Researchers find gay penguins in Japanese aquariums
Agence France-Presse
Tokyo,?December 25|19:23 IST

Researchers have found a number of same-sex pairs of penguins at aquariums in Japan, with an imbalance between the numbers of male and female birds suspected to be the cause, a report said on Saturday.

A research group led by Keisuke Ueda, professor of behavioural ecology at Rikkyo University in Tokyo, found about 20 same-sex pairs at 16 major aquariums and zoos, Kyodo news agency said.

Penguins in captivity "may be more likely to form same-sex pairs" due to?the?difficulty of finding partners of the opposite sex because breeding facilities in Japan only have an average of 20 birds, the agency quoted Ueda as saying.

It is not known if the frequency of homosexuality is higher than in the wild, where telling the sexes apart is tough, he said.

Many of the gay male pairs and two of the female pairs were seen performing mounting behaviour, it said.

Ueda was not available for comment on the report on Saturday.

January 24, 2005

やっと起き出した

しかしすごい風邪でした。まる5日間、寝っ放し。
本日起き出して、冷蔵庫に食うものがほとんどなくなったんで買い物に出かけたら、途中でめまいがしてきました。ニューヨークは一面の雪でして、きらきらと遠近感がなくなるというか、目の焦点調整がうまくいかないというか、そんでもってぶっ倒れそうになってしまって。両手には重いショッピングバッグだし。

でもまあ、こうやって書き込んでいるんですから。

さて、ずいぶんと時間が経ってしまいましたが例のジャーナリストネット、15日に東京の方々で時間のある方と2丁目のアクタでお会いしました。フジテレビ、TBS、にじ書房の永易さん、東京新聞の特報部デスク、岐阜聖徳学園大学非常勤講師(ジャーナリズム)の5人プラス私が顔合わせしました。1時間の予定が、なんだかんだと話し込んで3時間にもなりました。

その中で気づいたことは、メディアの現場にいると、社会の雰囲気というか時代の匂いというか、そういうものがふだん気づくやり方とは別の感じ方で気づかされるという実感です。たとえば最近のテレビで、政府自民党に噛み付く評論家がだんだん外されて来ているというようなこと、きづけばそういう評論家はみんな権力に都合の良いコメント、当たり障りのない意見を言う連中に偏ってきてしまっている。そんなことをみんなで話したりしました。

まあ、LGBTのジャーナリスト、あるいはテレビ人、新聞人という固定した観念というより、よりよいジャーナリスト、テレビ人、新聞人であれば自ずからLGBTあるいはひろく少数者たちの感覚を共有できるのでしょう。あるいは、LGBTであるということから鍛えられたそうした足場を持ちつつ、プロのメディア人として仕事をこなしている人たち。

このジャーナリストネットワークも、たとえば30人、40人という数になれば(現在は14人です)かなりの影響力を持つのではないかと思います。そこからたとえば新聞協会なりにLGBTをジャーナリズムで扱う場合での基準、コード作りなどを働きかけることもできると思われます。

さて、そうこう話しているうちになんとなく見えたのは、とにかくもう少し参加者を募ろうということ。NHK、朝日、読売、毎日、共同からもぜひ参加してほしいものです。さらに、日本でのこのネットワークの拠点を、大学内のジャーナリズム専攻のどなたかの研究室に置いて、日本の新しいジャーナリズムの動きとして研究がてら参加・協力してもらう、という方法をとりたいということでした。社会学としてLGBTを扱っている先生たちは多いのですが、ジャーナリズムとしてLGBTを研究している先生はいまのところ日本ではいないのではないかということです。その意味ではとても面白い研究テーマでもあるでしょうし。

さて、そのうえでどうにかこの夏ごろまでにはネッッとワークの形を作りたいと思っています。そうして、�外部の人を呼ぶメディア関連の勉強会を開催する�ネットワーク内でのワークショップを開く�大学生を対象に講演会を開く�一般を対象にLGBT関連の啓発活動を行う�LGBT関連の事象(同性婚、憎悪犯罪、人権運動、歴史)についてプロのジャーナリストや研究者が活用できるようなデータベース・資料サイトを構築して公開する�ネットワーク参加者相互の情報交換のサイト(mixiなんかどうかしら?)を作る……などの活動を具体化していくということになろうかと思います。

じつはこの顔合わせの後で、わたしは別のネットワークの主催者と会いました。
それは女性ジャーナリストのネットワークで、数年前に立ち上げてすでに100人からの参加者がいるそうです。ネットワークの名前はなんと「薔薇トゲ」という、じつにキャンピーでビッチーで、オキャマ心をそそる命名ですが、主催者の女性はぜんぜんそういう意識はなくて、わたしと会って「そうね、そっちと提携しても面白いですよね」などと言ってくれました。この女性ジャーナリストネットも定例でいろんな著名人を呼んで勉強会を開いているそうです。「ビアンはいないの?」と聞いたら、「調べたことないわ」ということですが、まあ、アメリカの高校や大学でよくあるゲイ&ストレート・アライアンス(ゲイであろうがストレートであろうがいっしょに性的少数者の人権を守ろうと活動する同盟運動体)みたいな感じになればよろしいかと。

こうやって考えてみると、なかなか面白い活動ができそうです。
そう思いません?

さあ、もう少しリクルート活動を展開しようと思っています。
皆さんも是非ご協力ください。

November 28, 2004

永易さん──「にじ」休刊にあたり

おそらく、海外事情を伝えられようと、日本の事情を伝えられようと、あるいは隣家の事情を伝えられようと、自分のリアリティをさえ遮断してしまっているときにはむしろ逆に「痛み」を感じないようにと、自分自身の内部ですら立ち回るのかもしれません。すべてはそうやって遮断されるのです。個人が世界と断絶しているのも、日本が世界と遮断されているという幻想も、みなそういうメカニズムなのでしょう。日本はLGBTだけではなく、社会そのものが巨大な身内のクローゼットのようです。

無反応の理由、というよりも、「無反応」のなりから抜け出さないでいる理由の根っこはわかっているのです。「にじ」に、無反応だったというのではなく、無反応のなりをしているのがいちばん楽だった、ということなのでしょう。カムアウトしないのがいちばん楽であると思うとき、私たちはリアリティを犠牲にせざるを得ない。そしてその犠牲をすらも楽だと思う擬勢が、次のウソを発明するのです。

私は、カムアウトは時と場合による、という謂いをじつは信じていません。処世としてはいろいろな方法もTPOもあるでしょう。しかし、それは時と場合にはよらず、結論として絶対にカムアウトなのです。そうして初めて批評の土壌に出ても行けると思っています。そうしてその場合、カムアウトはべつにセクシュアリティの固定化には関与しません。むしろおっしゃるサムソン高橋さんの変遷こそがカムアウトなのだ、という意味においてのカムアウト。身内のクローゼットからの大きなカムアウト。それは自己の問題だけではなく、他者を認識するという問題でもあるはずです。

「ほとんど反応はありませんでした」とお嘆きなさるな。
私たちはそこから始めたのではなかったか。そこ以下には引き下がりようもなく、また引き下がらぬとの意志的な思いにおいても。

あなたが「にじ」を始めたのは、そうする以外になかったあなたの誠実であり、あなたの切実でもあったと思います。「自分がゲイもの企画をやったり、『にじ』を自媒体で紹介して、「疑われる」のは困る」という人々は、しかし、そういうウソのほうを楽だと感じているのでしょう。ですが、あなたといちばん最初にお会いした14年前にはいなかった軽々とした若者たちが育っているのも確かです。

「当事者である書き手のがわの内面化されたホモフォビアをかえって刺激し,沈黙させるしかなかった」という事情は、日本の(あるいは東京のギョーカイの)事情を知らぬ私には論評しかねますが、私はホモフォビアともう一つ、もっと日常的な、ゲイネスですらクローゼットなりに急速に日常化してしまうような情報消費社会のかったるさが相手なのではないかと思っています。ちょうど、「なべてこの世は事もなし」と呟きつづけた大江健と、風呂に浸かりながらこの平和な日常に負けたのだと思った高橋和巳の呟きの表裏一体さのような。

LGBTのジャーナリストネットワークというのは、おっしゃるように、自分のネタを共有し合うようなものではないでしょう。書き手はつねに、その種の共同作業が苦手なものです。わたしが新聞社を辞めた理由も、じつは共同作業を監督責務とするようなポストになってしまうからでした。

書き手と編集者という共同はありますが。ご紹介したNLGJAもそういうことは行っていません。各自、自分の仕事は自分でやり、この場は若いジャーナリスト志望者へのセミナーやワークショップを行ったり、あるいは講演会を催したりといったことに使っているようです。さらには、LGBT関連の優れたジャーナリズムの業績の顕彰活動。また、LGBT報道への監視ですね。

もうひとつ例に挙げたAGPも多くのワークショップを行っているようです。AGPのように、LGBT関連のジャーナリズムに関するレクチャーやワークショップを開催するのも面白いと思います。ジャーナリズムに限らず、広くマスメディア一般にかんすることでも。

とにかく数を集めたい。そうして、本名は出せなくとも責任をもって、そのネットワークの名前で発言も行っていきたい(ジャーナリズムのネットワークとしては政治的にはニュートラル=不偏不党ではありますが)。

事務局作りとか、そういうロジスティックももちろん必要でしょうが、まずは参加者の数です。永易さん、あなたの目にかなうようなネットワークを作りたいと思います。その際にはぜひお力添えください。

引き続き、このネットワークのリストへお名前をお寄せください。
yuji_kitamaru@mac.com
です。

November 26, 2004

ハッピー・サンクスギビング

ぼせさん、KREATIVE35さん、前回のブログへのコメントありがとうございます。

おかげさまで、ぽつ・ぽつ・とではありますが反応のメールもいただいています。
メールをくださった方々もありがとうございます。

しかし、よく考えると、「プロのジャーナリストのみなさんへ」というのは正確ではなかったかもしれません。

プロのジャーナリストはもちろんのこと、プロのジャーナリストを目指す人も、あるいは情報・意見を責任をもって広めたい人も、さらにはLGBT以外のジャーナリストでLGBTに同伴したいと思っている人も、いろんな人への呼びかけでありたいと思います。ぼせさんのブログ(http://blog.livedoor.jp/bose_web/)から飛んできてわたしにメールをくださった方は報道の世界には直接関係はなくても、情報を発信することを通じてこのコミュニティーになにかを為したいとおっしゃっています。

まだまだ「ネットワーク」を構成するに至るには時間がかかるかもしれませんが、こういうのは歴史ですから、拙速は目指しません。具体的な構想もまだですけれど、いま私のアタマの中にあるのは、日本ではLGBTの医療・社会福祉関係者のネットワークであるAGP(http://homepage2.nifty.com/AGP/)の活動とか、ひいては米国のThe National Lesbian & Gay Journalists Association(The National http://www.nlgja.org/index.html)に匹敵するようなものへの発展です。

また段落ごとにご報告します。
気長にお見守りいただければ幸いです。

さ、今日はこちらはサンクスギビング。
友人宅にお呼ばれだったのですが、そこのオブンが壊れてしまって、急きょ我が家でパーティーをやることになりました。七面鳥を焼くのは久しぶりです。4年ぶりかな? 15kgあるので4時間はぶっ込んでないとダメですかね。

ではでは。

November 21, 2004

プロのジャーナリストの皆さんへ

バディの新しい号が届きました。
DVDも付いていて、これで1500円というのは安いかもしれませんね。レインボウマーチのクリップだけでなくちゃんとポルノも入っていて、きちんと買うとこういうのは日本じゃもっとするでしょうに。ふむ。メディアミックスというわけですか。企業努力でしょうね。

その中でいつも読んでいる伏見君のコラムで、コミックやフィクションの(当事者の)フリーの書き手は育ってきている,「大きく水準が上がってきている」、にもかからず、ノンフィクションが弱い、ということが載っていました。

まさにそのとおりなのです。
わたしもその分野にいるのでわかるのですが、その理由は、おそらく伏見君もノンフィクション、というかルポルタージュにトライしたことがあるからわかっていると思うのですが、あれはカネがかかるのです。おそらく、ひとえにそれが理由です。

小説とかコミックは、あれは1人でできる作業です(違う人もいますが、基本的に、ということで)。夜、ひとりで書くことができる。
しかし、ルポルタージュは、昼に作業をしなくてはならない。いろんな人に会って、その人の時間をもらい、そうして、信頼をも勝ち取って、さらにそれがどういうように形になって世に出るのかということまでを折伏して、そうして初めて作業を進めることができる。これは大変な労力です。インタビューをただまとめるのとはまたちがう。生活のほとんどをかけなくてはできないのです。

そうやって時間と労力と、つまりはひいてはお金とをつぎ込んで、しかも、ジャーナリズムの訓練もきびしく積んでいなくてはならない、という場合、これは、個人の努力ではなかなか難しい。小説を書くのとは次元が違うのです。もちろん、フィクションとノンフィクションの、どっちの次元がすごいというものではなく、たんに物理的に違うのです。それがいまのマーケットで、コストパフォーマンスからいってどちらが有利なのか、という、たんにその違いなのではないか、と思うのです。小説は、自分の経験からいっても、気が楽なんだ(精神の消耗の仕方が違うという意味で)。

伏見君は産經新聞の宮田くんのことを引き合いに出していますが、ぶっちゃけた話、エイズ関連でずっと彼が第一線でやってこれたのも、あれは産經新聞に勤めていたからです(宮ちゃん、言わせてね)。彼も何度もフリーになろうとした。しかし、それはできなかった。フリーになってエイズのことだけを追っていては食っていけないし、そればかりかエイズの記事を載せてくれる媒体すら見つからない、という現実があります。だからこそ彼は産經新聞内で頑張ってくれているのです。

それは、社会の問題です。つまりは、マーケットの問題です。ノンフィクション分野の成育ほど、社会の様相を反映しているものはないのではないかとおもいます。ジャーナリズムの国、アメリカですら、LGBT関連のノンフィクションは、ジャーナリズムは、他の分野に遅れて最後に形成されたのです。

ではどうすれば育つのか。
それは、フリーランスではかなり難しい。
そのフリーランスの土壌を開くためにも、もうそろそろ、メディア内部のGLBTをまとめあげる時なのかもしれません。ずっと考えていたことなんですが。
いや、なにをすべきというのではなく、まずはニュースレターなどを回して、緩やかなネットワークを形成する。さてさらにそのあとに、どうするか。

いまアメリカのLGBTのニュースメディアは、ジャーナリズムのプロの集合体であるブロッグ形式でのニュース投稿をやりはじめています。この大統領選挙の前後では特にブロッグへの移行が目立ちました。

ただしネットの落とし穴は、みんなが発信者になってしまって、どれが信頼のおける情報なのかわからなくなっているということです。デマですら体裁の良いニュース記事の顔を装うことができる。ブロッグでもそうです。

そういうときに、プロのメディアの連中がメンバーとして自分なりにニュースソースを咀嚼して責任をもってブロッグ投稿する、そういう掲示板的なサイトが必要かもしれません。
そこから何が生まれるかは、わかりません。
でも、何かが生まれるかもしれない。
さて、それをそろそろやってみましょうか?

これを読んで下さっているプロのジャーナリストの皆さん、フリーランス、あるいは企業内記者の方、自分の仕事の空いている時間に、LGBT関連のニュースを自分の取材範囲の中から取り上げ、どこかに発表・投稿したいと思っている方々、わたしまでまずはメールでご連絡いただけませんか。

そういう方が、10人、あるいは20人くらいになったら、そういうプロのジャーナリズムのブロッグ板を立ち上げるというのはどうでしょう。

私も忙しいですが、どうにか事務局を立ち上げたいと思います。
参加してもよいとおっしゃる方、わたしまでメールで連絡ください。
まずは参加者のリストを作ってみます。とりあえずはネットワークです。
わたしのメールは
yuji_kitamaru@mac.com

ここに、ご自身の名前(本名の他、ハンドルでも,あるいは両方でももちろん結構です)、所属報道機関名、またそこでの経歴、経験年数(ご年齢でも結構)、あるいはフリーランスならばどういう分野でどういうお仕事をなさって来たかということ、ご住所,電話番号、メールアドレス、さらにはどういう分野でのLGBT関連の報道に興味があるかということ、あるいはご要望、ご意見などを添えて、メールいただけませんか?

ネットワーク内でも、情報は開示してよいもの以外は開示いたしません(わたしだけが知っているということになりますが)。

さて、この提案は、どこまで届くでしょうか。
ご検討ください。

北丸雄二拝

November 19, 2004

イギリスでも“結婚”

イギリス人の恋人がいて、この夏にニューヨークを引き払ってロンドンのその彼のもとに行ってしまった日本人の友人から、英国上院でシビルパートナーシップ法案が会期切れ一日前に可決したというメールが飛び込んできました。しかも251対136の大差。よかったね、イギリスに住んでる人たち。保守党党首のマイケル・ハワードもこの法案を支持してたというから、イギリスもこれで同性カップル認知においてとうとう21世紀に入ったわけですな。

私の友人も、これで恋人と“結婚”して,晴れてイギリスの永住権も獲得できるわけです。メールの文面から、うれしそうな様子が伝わってきました。この法律がなければつねにビザの更新を心配しなくてはならないし、そのことで疲弊して恋人との仲も悪くなるカップルはたくさんいるのです。かなしいことに、「愛」は物理的なものに勝てないこともあるんだよね。

なぜか、アメリカのメディアは完全無視で、英国関連ではキツネ狩り禁止法が成立というニュースばかりです。「結婚」じゃあないからかしら? 不思議だなあ。今夜あたりのニュースに出るのかなあ。

しかし内容は結婚とほぼ同じです。名前が違うだけ。
年内に女王のお墨付きをもらって法律として成立します。それからこのパートナーシップ法に合わせて税法とか年金法だとかの書き換えが行われて地方の役所段階でも受付業務変更の訓練なんかもやって、来年の秋には晴れて同性“結婚”第一号が誕生する見込みです。
イギリスのゲイサイトでは早くもみんなの喜びの声の書き込みが殺到しています。そういうのを読んでるだけで幸せな気分になれます。いいなあ。よかったなあ。

翻ってアメリカは、という話はやめましょう。
ブッシュの新しい駐日大使になるやつが、トマス・シーファーだそうです。やっぱりテキサス人脈で、石油や天然ガス、野球がらみでブッシュのビジネスパートナー。

ね、こりゃやっぱり、完璧な論功行賞政権ですわ。

October 15, 2004

This is not a good man

案の定、というか、どうしてなのか、というか、例の「もしチェイニー氏の娘さんに訊いたら、わたしはこうやって生まれてきたのだと言うでしょう」と答えたケリーの発言が槍玉に挙がっています。昨日も言ったように、まずはFOXの保守論者たちが問題にしたのだが、じつはチェイニーの奥さん、つまりはマリーさんの母親であるリン・チェイニーが噛み付いたのが大きい。

彼女、ディベートが終わってからすぐに、「This is not a good man(こいつはとても上質の人間とは言えない)」と苦虫をかみつぶしたように発言、さらに「なんて安っぽく卑劣な政治的な引っかけかしら!(What a cheap and tawdry political trick!)」とまで言い切ったのです。

これでFOXだけではなく各局とも一応問題にしなければならなくなりました。
ケリーはこれに対して「わたしは(レズビアンであるということを)何らかのポジティブなこととして言おうとしたのだ」と釈明し、一部で突きつけられている謝罪はしていない。

謝罪なんかしてはいけませんよね。
「セクシュアリティという、そういう個人的な事情をテレビで言挙げすべきではない」という言い方はとうに破産している言い方です。だって、そういう個人的な事情を言挙げしない限り、政治課題としてのゲイ・イシューは議論できない。しかも、質問は「ホモセクシュアリティは選択の問題だと思うか」というものです。これに対して、異性愛者であるケリーがなんら具体的な証拠を示さずに自分の判断を言って何になるのでしょうか。もちろん、「わたしがヘテロセクシュアルなのは選択の問題ではない(つまりどうして同性愛だけが選択の問題なのか)」と言い換えて答えることも可能でしたが、まあ、そう言って理解できるひとが多いとは思えませんし。

そうしてとにかく問題なのは、昨日も書いたように、どうして「マリーはレズビアンだ」ということが、なにか言ってはいけないタブーであるかのように扱われてしまうのかという、まさにその点なのです。

「マリーはレズビアンだ」ということがマリーにとっての汚辱でも不名誉でもないような状態を目指すためには、まず、「マリーはレズビアンだ」ということを汚辱でも不名誉でもなく言い募ることが不可欠なのです。

それを、卑劣で安っぽい言挙げだと非難するのは、その非難者自体が「レズビアン」という言葉を下劣で恥ずべき言葉だと思っていることを露呈しているにほかなりません。

チェイニーの妻、リン・チェイニーはじつはたいへんな反動右翼保守主義の女性でして、ネオコンの巣窟であるところのアメリカン・エンタープライズ・インスティチュート・フォー・パブリック・ポリシー・リサーチ(米国エンタープライズ公共政策調査研究所)の上級研究員の肩書きを持つほか、2001年までは一大軍事企業ロッキード・マーティンの重役だった、という人。でも、80年代初めまではフェミニズムの闘士で、公には共和党の記録には載っていないものの、男性憎悪ともいうべきレズビアン小説「Sisters(姉妹たち)」を出版してもいるのです(いま、アマゾンで確認したら、古本で500ドルのプレミアムがついてた)。その抜粋が下記のサイトで見られますよ。(ホワイトハウスとなっていて紛らわしいけど、ブッシュ批判団体のサイトです)
http://www.whitehouse.org/administration/sisters.asp

それが一転、反フェミニズム、反人権、愛国一辺倒に転向した。その軍事産業との結びつきや愛国保守反動ぶりはチェイニー以上ともいわれている、こわーい女性なのですね。

この母親は、当のマリーさんが自分でレズビアンだと公言しているのに「娘がそんなこと(レズビアンであること)を宣言したことなど一度もない」と頑なにその事実の受け入れを拒んでいるのです。これは2000年の、前回の大統領選挙で話題になったことですが、テレビのインタビューで「そんなことを話題に上らせるなんて信じられない」とインタビューアーに食ってかかったほど。つまり、前回と同じなんですね、今回のケリー発言に対する反応も。

なんか、わたしは三島の未亡人のことを思い出しました。いや、百倍、リンのほうが怖いですけど。

前々回でしたか、旦那のチェイニーのことを怖いなあと書きましたが、なんか、最近、チェイニーの言ってることをよく聴いていると、ありゃ、あんまり大したこと言ってないですね。言ってるように見えるだけなんだ、あの風貌から来る見た目の印象で、あるいはブッシュとのコントラストがあまりにあり過ぎで。でも、言ってること、ガキみたいに結構ばりばりに単純です。そんなもんだわね、ネオコンなんて。

個人的なことは政治的である、とは、リン・チェイニーもフェミニズムをかじったことがあるなら知ってるはずなんですがね、そのへんを頬かむりできる不誠実が転向者の転向者たる所以なのでしょう。

September 28, 2004

ちょっと冷たい

薔薇族廃刊に関して、あんな冷たい言い方はないかもしれませんね。
伊藤文学にシンパシーはないけど、でも、おつかれさまとは言うべきだった。
ごめんなさい。
おつかれさまでした。

苦労もあったはずだし、そういう文脈でしか考えられない時代が確かにあったのだよな。

ああ、こころがささくれだっていると書くものまでささくれだつ。
何のために年を取っているんだか。
なさけない。

August 18, 2004

続々報 マグリービー

NJ州知事のセックススキャンダルをめぐる報道はいまも続いています。いろいろ読んでいますが、これはやっぱり、彼はすぐにでも辞任すべきだと思いますね。ゲイであることでどんなに大目に見ても、これはぜったいにやってはならないことをしたのですから。

やってはならないこととはゲイセックスのことでもないし、婚外セックスのことでもありません(マグリービーの弁解辞任声明ではこれがあたかも辞任理由のさらにその遠因のように扱われていますが)。彼は、自分のセックス相手を(たとえそれが“真剣”な恋愛だったにしても)自分の率いる州政府の重要ポストに就けた。いや、そのポストというのがその人物がまさに適任でたまたま自分のセックス相手だったというならまだしも、そうではまったくなかった。イスラエル国籍の詩人を、ほとんど治安行政など経験したこともないのに州の治安行政のトップに据えた。それはそのポストが州知事の任命ポストで、議会の承認の要らない肩書きだったからというふうにしか考えられない人事です。これは間違ったことです。しかも税金で彼を雇っていることになる。これは横領、背任に等しい。刑事訴追されてもおかしくないことです。

前回のブルシット以降にわかったことは、ゴラン・シペル氏、知事側の話ではどうも知事の辞任会見の前に5000万ドル(55億円)を要求したらしいということ。そんなもの払えないと突っぱねたら最終的にそれが500万ドルまで下がったらしいこと。しかし、その代わりに知事はNJにユダヤ系の医科大学を誘致するという条件を受け入れるように迫られたらしい。この背景には、シペル氏の背後にいるやはりユダヤ系の開発ブローカーがいて(彼は州政府から退職したシペル氏を自分の会社の広報担当に雇い入れて年収3万ドルを給与を与えていた人物です。また、マグリービー知事の選挙陣営の資金源でもあったらしい)、その事業を後押しする意味があったらしいことです。

これに対し、シペル氏はマグリービー知事の辞任会見後、取材陣を避けるようにイスラエルに帰国しました。そこで「自分はゲイではない」「知事には恒常的に殴られて脅されていた」と話しているようです。まあ、これこそ傍目には「ブルシット」的な発言ではありますが、セックスや金が絡むとどんなことでも起き得るので、マグリービー氏がそういう婚外での私生活で暴力的である可能性というのもないわけではない。「ゲイでない」というのには笑っちゃうしかないですけど。
まあしかし、それは2人の関係の中の問題であって、第3者である州民や有権者や、はたまた私のような他人には関係ないことです。ですから、そんなことを“明かし”ても、公的にはブルシットなわけでね。

マグリービー知事は11月15日まで辞めないとしていましたが、しかし共和党はもちろん、僚友の民主党の中からも辞任要求の声が出てきています。3カ月もなんで居残るのか、その理由が明らかでない。いや、それ以前だと選挙になってしまうからというのは、あまりにも理由にならない理由ですから。

事は大統領選挙に影響しそうな様相をも呈してきています。
こんなところで民主党の名を汚してはいけない、という、民主党支持者からの気運も高まっているようです。ここは辞めるしか道はないでしょう。

もっとも、知事への支持率はあのゲイ・アメリカンのカムアウト記者会見以後、2ポイント上昇したそう。まずは同情が先にあったのでしょうね。知事が辞任する理由としても、最新の世論調査では「ゲイだから辞めなければならない」「婚外セックスをしたから辞めなければならない」という人たちは10%前後の少数で、大半が「州の行政ポストを恣意的に利用したから」と、有権者たちはきちんと見極めて冷静に判断しているようです。

マグリービーさんには、そのことをもういちど清算してもらわなくてはならないでしょう。そのためにも、11月までその職に恋々とするというみっともなさは、避けなければならないでしょう。

August 14, 2004

続報詳報マグリービー

詳細は後ほど、と言いながら飯を食いに出てしまってここに書く時間を先延ばしにしていましたが、週末を利用してお知らせしましょう。つまりこういうことだったようです。

マグレービー知事は2002年にとつぜん、イスラエル人の詩人、ゴラン・シペル氏なる人物をNJ州のホームランドセキュリティー・タスクフォースの長官に据えました。これはいわば州政府の治安部門のトップの役職であり、テロ対策で騒いでいるいまの社会情勢ではとても重要なポストです。年収は11万ドル。1200万円くらいですか。

でも、治安対策員に、イスラエル人? しかも詩人? 議会の承認を必要としないで知事の特権で任命したこの人事に、当然議会は疑問を差し挟みます。しかもシペル氏、これまで治安対策の経歴などお持ちじゃなかった。それにこういう役職に外国人が就く場合には連邦政府のバックグラウンドチェックも必要です。それもしていなかった。いったい何なんだ、ということで騒がれて、知事もこの人事を翻し、シペル氏は今度はさして仕事もない「相談役」になりました。でも、給料は同じ。これで収まるはずもなく、結局はその年のうちに州政府を離れることになります。

マグリービー知事がシペル氏に出会ったのは2000年のイスラエル旅行のときだったといいます。それで米国に連れ帰った。ふむ。40代半ばの隠した恋はそれほどまでに強かったのでしょう。(シペル氏はうーん、一言でいうと色白、かわいい感じかな。30代だろうなあ、まだ)。

マグリービー知事というのは笑顔さわやか、民主党の次世代ホープとして期待されていた人です。二回結婚して、それぞれの妻との間に娘が1人ずついます。「I am a gay American」の例の記者会見はなんと全米放送されましたが、となりにはその2番目の奥さんが(なぜか最初はにこにこして)立っていました。知事の背後にはご両親も立っていました。

「自分のアイデンティティをめぐってこれまでの人生、ずっと悩んできた」と会見では話しました。彼は47歳です。こんなにゲイライツが取りざたされるアメリカの現在でも、カムアウトは難しい。それは彼の世代、生きてきた時代にも一因はあるでしょう。それにカトリックでもあるし、いちぶの若い人たちのように軽々とは行かないのかもしれません。さらに政治の世界というのも人気商売ですからカムアウトができづらいのかもしれません。まあ、米国にはゲイであることもあって当選している議員たちも何人かいることは確かですが。
 スポーツの世界も同じですね。いまだ現役の野球選手もフットボール選手もアイスホッケー選手もバスケット選手も、つまりアメリカの四大スポーツの中で現役中にカムアウトしたアスリートはいません。ゲイはいないんだ、なんて信じているやつはいないにもかかわらず。

でも、カムアウトしないからこういうことになっちゃうのですよね。
カムアウトしないから脅しの対象になるのです。

もっとも、今回は、「ゲイであること」で辞任したのではありません。
結婚しているのに他の男性と(合意の上ながらも)性交渉を持った。それは結婚の取り決めに反した行為だった、というのがマグリービー知事の説明です。そうして、この相手側が数百万ドル(数億円)の現金を要求してきた。こうしたことが自分の知事としての統治能力によくない影響を与える。それはニュージャージー州のためにならない。だから辞任することが正しい道だと判断した。そういう論理です。

でも、元々オープンなゲイだったら、つまりカムアウトしていたら結婚もしていなかったかもしれないし、脅しの形態もおそらくは違っていたでしょう。

クリントン時代に、それまで同性愛者では就職できなかった米国の情報部門職が同性愛者にも門戸を開放しました。ホモセクシュアルだとわかると脅迫の対象になってスパイには向かない、秘密情報を扱う職にも向かない、ということだったのですが、同性愛者がおおやけに生活できるようになって(というか、すくなくとも建前上はそうであろうとしていることによって)、ゲイネスはすでに脅迫の材料ではなくなったという判断が基にあります。

アメリカではこの知事のカムアウト会見がメディアの恰好のネタとなって、アテネ五輪の開幕もかすんでしまいました。会見で名指しされることはなかったにしろ、言われっぱなしのシペル氏側も昨日、代理人の弁護士が声明文を読み上げ「この米国で最も力のある政治家の1人であるマグリービー知事によって私は長いことセクハラに苦しめられてきた」と反撃に出ています。自分で金を要求したのではない、知事側が金の支払いを持ちかけてきて、そのまま消えてくれるように依頼してきたのだ、とも言っています。まだセクハラ損害賠償訴訟は起こしてはいません。「時間が教えてくれるだろう」というのが訴訟に関する代理人の便です。

ところでこのシペル氏がゲイなのかどうなのか、性的関係は合意の下だったのかどうなのか、その声明文では明らかにはなりませんでした。まあ、クローゼットの内部でのこと、どんなことでもあったのだろうと考えるのが普通ですが、世論はなんとなくマグリービー知事の説明の方を買いたがっているような気はします。もっとも、共和党の方は即刻いま辞任しろと迫っていますが。というのも、いま辞任すれば残り任期の関係で選挙になるのですが、会見で発表したように11月15日(の辞任)まで知事を続けるとそのまま州上院議長の民主党議員が知事代行になるのです。11月には大統領選挙もあるので、政治の駆け引きはこんなところでも続いています。

ところで、知事の辞任カムアウト会見でも、これから結婚はどうなるのか、知事を辞めてどうするのか、そうして最も肝心なこと、これから、ゲイの政治家としていまいちど政界に復帰する気があるのかどうか、がわかっていません。

遅咲き40代のゲイはルサンチマンを抱えていますから一旦カムアウトしたら強いと思います。ぜひゲイのアドボケットとして復活してほしいものです。なにせ、彼はNJ州知事では同性婚には反対だと言っていたんです。もうそんなことは言ってほしくありませんものね。

August 12, 2004

いやあ、たまげたね

ニュージャージーの州知事ジェイムズ・マグリービーがさっき、「わたしはゲイだ」って会見で声明を発表しちゃった。ひゃー、結婚もしてるんだけど、「もう嘘を生きるのをやめにすべき時だ」だってさ。久々の大物カムアウト。

というかどうも、セックススキャンダルになりそうだったらしいなあ。そんで知事も辞めるとか。なるほどね。
ゲイはいいけど、隠れでどうも側近と性的交渉を持っていたらしい。だからクローゼットはろくなことにならんのだわ。とほほ。
詳細は後ほど。

June 27, 2004

Happy Pride!

けっこう今年は人が多かったですね。浴衣を着て歩くのも今年で4年目かな。日本人のプレゼンスを示すには、まあ、われらもそれなりの貢献をしてるとは思うけど、でも、実際のLGBTってのはわれらがグループにはあまりいなくてね。多くはうちのパーティーの常連の女の子たち。まあ、いっか。日本人くらいだよなあ、ニューヨークでもあんまりこういう場所に出てこないのは。なんか、「日本」というものに欠陥があるのかしら。「プライドに出てこないからといって欠陥ではないだろ」ってのはもちろん知った上でですが、ことはプライドに限った話ではないからさ。ゲイであろうがなかろうがそんなのとは関係なく、このプレゼンスの示し方の短絡性、あるいは幼児性、あるいは引き籠り。関係性を重要視しないところに可能性を見出すとしたら、それはいったいどんな可能性なんだろう。

アメリカってのは嫌なところもたくさんあるけど、こういう、物事が機能していく、あるいは物事を機能させる力ってのかね、パレードとか、イベントとか、ある種の仕事でもそうなんだろうけど、そういうのってすごいですわ。だれかさんが七面倒くさいことごたごた考えてる間に、プラグマティックといいますか、こっちはどんどん行動しちゃってるといいますか、まあ、行動すりゃいいってわけじゃないのはブッシュの例を見ればアタボウですが、行動しないでぐちょぐちょ言ってばかりいるってのもみっともなくて、要は動いてこそ浮かぶ思いもあれ、ってなことで、バランス。あとは換気のよさね。

アメリカの真似をしちゃほとんどで厄介ごとまで引き受けることになってしまうでしょうからそれはやめた方がよろしいのは当然。しかし物事を機能させるその仕組みというのだけでも、どうにか日本も取り入れられないのかなあ。

でもね、こういうのってホウレン草と同じでね、葉っぱの部分が好きだから茎のところを切り捨てて葉っぱだけ売ってちょうだい、とは言えないもんなんだよね。そこが「文化」とか「風土」とかの、一筋縄ではいかないところなんですよね。ま、だから面白いんでもありますが。

あー、歩いたあとはビールがうまい。暑くもなく、本日は最高の天気でした。
東京も札幌も、どうにかうまく機能することを祈ってます。
その努力に敬意を込めて。

March 20, 2004

俳句など載せてる場合ではなかった

なんか、八女市でまた「わざわざ」なことが起きてたみたいね。

西日本新聞から引用する
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八女市議会 同性愛差別禁止の条例案 委員会が文言一部削除 (西日本新聞 2004/03/16)

 性同一性障害や同性愛などを理由にした差別を禁じた福岡県八女市の「男女共同参画のまちづくり条例」案について、同市議会総務文教委員会(川口誠二委員長)は十五日、条文から「その他性に関する事項を理由とする差別をしてはならない」とする文言を削除する修正案をまとめた。「条例が同性愛などを擁護、助長し、性道徳の乱れにつながりかねない」とする反対意見を踏まえた対応だが、「条例の目指す理想が後退した」と残念がる関係者もいる。

 条例案の素案は、市長の諮問機関「市男女共同参画推進審議会」が昨年一月に答申。その際は「その他性に関する事項」の部分を「性的指向」と表現していた。

 しかし、それは同性愛を示唆していると指摘する市民団体などが「同性愛者の教師が条例を根拠に、同性愛賛美を児童に押しつける事態も考えられる」などと反対を表明。市側は表現を「その他性に関する事項」と改め、「同性や異性、両性などすべての性的指向のほか、先天的に性別が不明確な人などを含む概念」と説明していた。

 委員会では「同性愛者などの人権は守るべきだ」との意見では一致したが、「『その他性に関する事項』という部分は拡大解釈され、問題点は解消されない」などの意見が続出。賛成意見はなく、川口委員長は「条例自体に反対する議員もおり、修正して可決しやすい案にした」という。

 素案を答申した審議会の高橋安男委員は「同性愛を含め、さまざまな性的指向のある者に対し根強い偏見があり、それを解消したいとの思いで明文化を目指していたので残念。ただ、『その他』という表現が小児性愛などまで含むと誤解された面もある」と話した。

 性同一性障害については医学的見地から反対意見は出なかった。二十二日の市議会本会議で委員長報告を踏まえ採決の予定。可決されれば、性同一性障害に関する内容を含む条例は全国四番目、九州では宮崎県都城市に次ぐ制定となる。
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毎日新聞は次のごとし

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「男女共同参画」条例案 同性愛差別禁止を削除−−福岡・八女 (毎日・西部版 2004/03/16)

 性同一性障害や同性愛などに対する差別禁止を盛り込んだ福岡県八女市の「男女共同参画のまちづくり条例」案について、市議会総務文教委員会(川口誠二委員長)は15日、差別禁止対象の「性同一性障害その他性に関する事項」のうち「その他性に関する事項」を条例案から削除することを決めた。「表現があいまいで分かりにくい」というのが理由。22日の最終本会議に修正案が議員提案される。

 条例案は市の男女共同参画推進審議会の答申(1月)を受け、執行部が原案を作成。恋愛感情などが異性か同性、両性のいずれかに向かうことを示す「性的指向」も差別禁止の対象と認め、「性同一性障害または性的指向を理由とする差別をしてはならない」との条文を盛り込んだ。

 ところが「同性愛を助長する」などの抗議が市内外から相次ぎ、市は「性的指向」の表現を「性に関する事項」と直して議会に提案。しかし、その後も「性道徳の崩壊につながる」などの意見が寄せられた。

 川口委員長によると、委員会では「『性に関する事項』は抽象的。ロリコンや痴漢など犯罪も容認すると、拡大解釈される恐れがある」と削除を求める声が続出した。【福岡静哉】

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なんだかね、論評するのもうざいなあ。

「委員会では「同性愛者などの人権は守るべきだ」との意見では一致したが」って、西日本に書いてあったが、「拡大解釈」を恐れるんなら、ほんじゃ最初の案文のように「性的指向を理由とする差別をしてはならない」ってのに戻せばいいんじゃないの? なーんにも問題はないっしょ。

削除したってことは、「性的指向を理由とする差別は、してもいい」ってメッセージなんだわね。じゃあ、それを条例に入れちゃえばいいんだわな。

「性同一性障害は医学的に確立した症例なのでこれは病人差別に当たるからしてはならない。しかし、性的指向を理由にする差別は、逆に、同性愛を助長しないためにも積極的に奨励されるべきである」

そんで、これで賛否を問う。
フロイトじゃないけどね、神経症を患っている人たちには、その神経症の内容を言葉で対象化してやる必要があるんだわ。上記の「訂正条例文」を、じっとみつめて、さあ、そのとおりだと思う人は、そこで初めて治療のトバ口に立つということなんです。

八女市に住む若い子たち、上記報道と、それが可決されたという新聞や地方ニュースを見て、がっかりしたろうなあ。ま、そのがっかりがきみを強くするんだ。ふんばれやな。

February 26, 2004

死ねというのと同じ

ゲイ団体などが長く支援してきたシェイダさんの難民認定裁判で、先日、東京地裁の市村陽典裁判長がシェイダさんに「死刑」に等しい判決を下した。
ぼくは鳥肌が立った。

朝日のサイトから引用する。
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「同性愛は死刑」とイラン人の難民申請、東京地裁退ける

 「同性愛者の自分が強制送還されると本国で死刑になる」と言って、イラン人男性(40)が、政府に強制退去処分の取り消しなどを求めた訴訟の判決が25日、東京地裁であった。市村陽典裁判長は「公然と同性間の性行為をしない限り刑事訴追される危険性は相当低く、迫害を受ける恐れがあるとは言えない」と述べて本国への送還を適法と判断し、原告側の請求を棄却した。

 同性愛者を難民と認めるかについて初の司法判断となった。原告側の代理人は、欧米では、自国での同性愛者に対する迫害を理由に難民と受け入れる例が相次いでいるのに、人権を無視した判決だとして控訴する方針を明らかにした。

 判決によるとイラン人男性は91年に来日。そのまま不法残留し、00年に出入国管理法違反容疑で逮捕された。このあと強制退去処分の手続きが始まったため、難民認定を申請したが認められなかった。

 市村裁判長は、イラン刑法では男性同士が性行為を行い、それが4人以上の目撃証言で裏付けられると死刑になるとし、最近も2件の死刑が報道されたことを認定した。

 しかし、男性が来日前は同性愛者であることを隠して普通の生活を送っていたことを踏まえ「訴追の危険を避けつつ暮らすことはできる」と指摘。「自分が望む性表現が許されないことをもって難民条約にいう迫害にはあたらない」と判断し、原告側の主張を退けた。
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 朝日のこの記事からしかいまのところ判決文はわからないが、様々な所与の環境をすべて認定した上での本国送還。市村裁判長の認識になにが欠落していたのか。それは、「自分が望む性表現が許されないことをもって難民条約にいう迫害にはあたらない」という文言からは判断するに、同性愛を「望んだり望まなかったりできる性表現」でしかないと思っていることの誤謬なのだと思う。市村さん、あんた、異性愛者にも同じことを言えるのか? 女が好きなことを、表現しさえしなければいいんだと、ほんとうにそう思っているのか?

 「公然と同性間の性行為をしない限り刑事訴追される危険性は相当低く」というのは、とても法律の勉強をした者とは思えない無知だ。米国でのソドミー法の例をとるまでもなく、ソドミー法というのは一般に、「同性愛」という頭の中のことを裁けないがために、その“次善”の策として、同性間性行為を裁こうというものである。頭の中を裁けるものならやつらはほんとうはこの愛を裁きたいのだ。だからオスカー・ワイルドは裁判でその愛を名前で呼ぶことを避けたのである。あえてその名を呼ぶことをしない愛(The love that dare not speak its name)、とはそういうことなのだ。

 そうしてソドミー法はその刑罰の対象である性行為をはるかに突き抜けて、その人間全体を否定するように機能するのである。そこにあるのは神への罪である。大文字のSINだ。このsinnerに対して、迫害がないと、市村さん、あんた、よく言えたな。刑法の処罰を逃れられるだと? 逃れてそこにあるのは、法ですらないリンチである。私刑である。それ以上の迫害を、たったひとつの例でよい、歴史上、挙げられるものなら揚げてみよ。「4人以上の目撃証言」など、それをねつ造することこそが神への忠誠だと叫び上げるような社会に送り返すというのは、コロシアムでライオンの前に引きずり出される奴隷たちへの処遇と同じだ。そうして彼らを殺したのは私ではなくライオンだと言い張るのである。市村さん、あんた、その後でピラトよろしく手をすすぐのか?

 こんなに腹立たしく、こんなに情けなく、こんなにも身の毛のよだつ判決をぼくは久しく知らない。「イランには同性愛者への死刑がない」というのではないのである。そういう種類の無知蒙昧ではない。「最近も2件の死刑が報道されたことを認定した」上での、確信犯的な無知の選択だ。アムネスティなど先進的国際社会がすでに明確に認定している事実への敢えての無視である。もし頭の中を裁けるのなら、わたしは市村さん、あんたのその無知と怠慢と、そうしてその無知と怠慢をどうにもしようとしないあんたの持続的な努力とを、この手でぎたぎたに引き裂いてやりたい。

February 15, 2004

少子化を助長しないために

昨日のサンフランでの同性婚は14日のバレンタインデイということもあって、市庁舎をぐるっと取り巻くほどの多数の申請者がいたそうである。

やっぱりね、ニューヨークの日本人社会でもそれを話題にする人たちが出てきましたね。ニュースででかでかと取り上げられているからね。それでも、これまでの蓄積がないから、この事象に対応するのはやはり大変なんだと思う。こんなにもいろんな前兆があって、伏線もあって、攻防もあからさまだったにもかかわらず、知らんぷりしてきたからいまになっていったい何だ何だと慌てることになる。

そんで本日もまたそんな方とこの件で話をしてみたのだが、いや、彼はこれで「世の少子化を助長することになるんじゃないか」と本気で心配なさっていた。

そんときに気づいたんだが、まあね、ゲイビアンなんてのはまあ人口でいえば5%〜10%でしょ、そんで、そういうのとは関係ない90-95%の社会が少子化に“悩んでいる”のかもしれないけど、ゲイビアンはもとより数字に入っていないのだから、どうしようが少子化は関係ないのだ。で、しかし、「多子化」には関係できるって、気づいてた?

もとより数字に入ってなかったゲイビアンが結婚するでしょ。するってえと安定した次にはやっぱり子供が欲しくなるってなもんよ。するとビアンたちは人工授精で子供を産もうとするわね、さらに雄のゲイカップルたちも養子もらいたいと思ったり自分の精子の落ち着き先つまり代理母を求めたりするわね。するってえと、子供産まれるわ。これって、ゲイビアンの結婚を認めることは、たった5〜10%の援軍だけれど、少子化を防ぎたいと声高に唱えるものたちの味方になるってことですわ。

同性婚は少子化を助長するどころか、それとは逆の効果をもたらす。

これ、結構使える言い方でないかしら? ま、それもこれも、「同性愛は少子化を助長する」ってなバカな妄想をもってるような連中のためにバカな論理を持ち出して折伏するしかないという、そういうレベルでの話だけどね。

February 14, 2004

サンフランシスコ同性婚!

すごいことをやりますね、あの若い市長さん。ギャヴィン・ニューソムっていうんだよ。36歳だってさ。いやあ、わかいねえ。それもなかなかハンサムなのだ。見たい?
http://www.sfgov.org/site/mayor_index.asp?id=22014
なんか、頭のてっぺんが水平一直線なのがおかしいけど、ま、関係ないやね。

そうそう、同性婚、市で証明書発行しちゃったわけ。
カリフォルニア州は例の連邦法のDOMA(結婚防衛法)と同じに州法で結婚を男女間に限ると規定しているわけです。例のハワイの同性婚のうねりがあったときからの同じ流れでワーって決まっちゃったんだね。だから、その下の自治体であるサンフランシスコという一「市」が同性婚を認めたっていっても、州法に照らしてそれは違法ということになるんだけど、このニューソム市長、今朝のテレビのニュースインタビューなんかでも「州法といっても、州憲法で差別はいけないって決まっているんだからそっちを尊重するほうが先で、そうすると当然同性婚を認めなければいけない」っていう論法ですっぱり明快に断じていました。

先日、再び最高裁がダメを押して「同性婚でなければダメだ」って言ったのはマサチューセッツ州だけど、これも同じ論理なんだ。つまり、ドメスティックパートナーシップとかシヴィルユニオンとかっていうので妥協すると、矛盾が出てくるというのである。その辺の詳細はバディにでも書きますのでそれを参考に。あ、それと17日に発売の『情況』というかつてのサヨク誌めいた思想誌にアメリカでの同性婚の攻防戦について結構長く書いてあります、わたしが。それもご興味のある方はどーぞ。なんたって、原稿料が図書券2000円分だっていうぞ、まだ届いてないけど。書いてくれって頭下げられなきゃ書かんわ。

いや、本日言いたかったのは、サンフランシスコ、同性婚証明書発行して、つまり同性婚が行われて、メディアみんな騒いでるけど、この件の大切なおさえどころは「ねえ、これでなんか不都合あった?」って、それが新しい地平なんだって示せることなんだと思うわけさ。

同性婚、やっちゃったぜ、でも、なんか変わった? 変わってねえしょ。だいたい、他人のこと、そんないちいち関係ないっしょ。なんでそんなことに口出して心配して、でもぜんぜんだいじょうぶでしょ、ってこと。何大騒ぎしてるの? ってなこと。

いやいや今後もっと増えれば大変だ、と心配性の人は言うかもしれないけど、前述のニューソム市長、こう言ってました。「ほんの数十年前まで、黒人と白人は結婚できなかった。キリスト教徒と異教徒も結婚してはいけなかった。それは差別だった。差別はいけないと、いまは当然みんなわかっているじゃないか」。そうだね、黒人と白人との結婚で、みんな社会が混乱に陥るとパニックになったが、けっきょくはそんな混乱は起こらなかった。それは純粋にプライバシーの問題だった。他人がとやかく言うことでもないし心配することでもない。社会はむしろ、それによってよくなったのですからね。

同性婚、目が離せませんよー。

November 09, 2003

ミルク高校その後

昨日だかおとといだか、例のハーヴィー・ミルク高校の男の子5人が警察に逮捕されちゃってね、こりゃ、ともすると大変な問題になるかもなあ。

事の起こりは、ビレッジのミートディストリクト(食肉市場地区)で先月、女装した16歳と17歳の男の子たちが客引きをしてね、引っかかった客に「じつはこれは警察のおとり捜査」と言ってニセの警察バッヂを見せて手錠をかけて、そんでもって金を奪ったりしたというのだ。被害は85ドルから人によっちゃ1200ドル。ATMに連れてって銀行から金を下ろさせたりもしてる。わかってるだけで被害は4件。もっとあるかもね。

こりゃね、もうれっきとした強盗。おまけに警官のふりをしたってのも立派な犯罪なわけで。やってくれるじゃないの、ねえ。

ミルク高校はもちろん、こういう「問題を抱えた生徒たち」を引き取って勉強させる学校なんだから、わたしなんかはほら、こういうことはまあ織り込み済みってのかね、おお、こういうこともあらあな、って感じで思うけど、そもそも市で予算を出してってことに反発していた宗教右派とか保守派の連中は、これを機に、こういうことのためにカネなど出していいのか、と攻めてくるでしょうね。

ふむ、どうなるか。
今後、また展開をお知らせしましょう。

August 01, 2003

バチカン

まったくね、同性間結婚を「限りなく不道徳」と呼んだもんだ。

みなさん、これは憶えておいたほうがよい。
あいつらはかつてナチスを賞賛し、ユダヤ狩りを黙認し、ハンセン氏病患者を原罪者と呼んで排斥することを恥じなかった連中だ。そういう連中に「不道徳」と名指しされるほど道徳的なことがあるだろうかね。
私たちはそのことに胸を張るべきだ。破廉恥を恥じない人間たちに最も忌み嫌われる存在こそ、破廉恥さとは逆の価値観を有しているのだと。

自分の罪深さを棚に上げて、だれか他者を「sinner(原罪者)」と指弾する者の顔は、つねにナチのそれに酷似する。彼らが生み出しているのは、かつてもいまも排除と憎悪の論理でしかない。

おお、神よ、彼らを憐れみたまえ。
そして、神よ、その少しを、あなた自身のために遺しておきたまえ。
そうすることができるなら、神よ、私はあなたを赦してやるだろう。
そうすることができないなら、神よ、だからこそまた、私はあなたを深く哀れんで、それでもきっと赦してやることになるだろう。
なぜなら、私は排除ではなく受容を、憎悪ではなく愛を、あなたにも与えるだろうからだ。

ま、そういうことだね。

July 31, 2003

ハーヴィー・ミルク高校

ニューヨークが、市としてLGBTの市立高校を設立して、それを現在あるヘトリック・マーティン・インスティテュートの特設カリキュラムであるハーヴィー・ミルク高校(これは学校そのものが存在するのではなくて、そこで受けた授業を正式単位として認めるという制度だったのだね)に取って代わらせる、という計画を発表した。

ふむ。
さて、これは難しい問題だね。いや、保守派のバカどもが反対する、というのとはぜんぜん別の理由で、こういうことにつねにつきまとう問題。つまり、これって、隔離政策じゃないか、という問題があるわけだ。隔離政策、これは英語ではセグリゲーションっていってさ、アメリカでは60年代まで続いた白人と有色人種(colored)の分離政策をつよく連想させちゃうのね。

ヘトリック・マーティンのカリキュラムは、いわば緊急避難的に設置された、いじめられ、はみ出されたLGBTの生徒たちのための教育制度なわけ。本来はね、おんなじ学校でストレートもゲイもクイアもいっしょに勉強するってのがこの世のあり方にいちばん近いわけでしょ。だからそれがいいのさ。ところがだ、それが分けて教育を受ける。これが示すことは、つまりいまもまだ、LGBTが疎外され、いじめられ、つまはじきにされる現状があるということだ。そっちの現状をどうにかして、クイアがきちんと受け入れられる状態をこそ造らねばならない、これこそがまず第一の課題なわけよ。ちがう?

だからね、これをあくまで緊急避難的なものとして位置づけることが肝要なのだ。つまりね、「そうはいってもいま現実問題として、普通校に通えないほどにとんでもなく傷ついた少年少女がいる。その子たちのための学校が必要なのよ。なんだかんだ手を打っているうちにもその子たちの修学年は過ぎてしまうのだ」というものに対する、いまでなくてはだめだ、という、そのための対策。だから、LGBTはみんなこっちに来ればいいというのとはぜんぜん違うのだ。そんなの、自然じゃないだろ?

LGBTの解放とはね、ストレートの連中を真っ当な人間に治してやるための運動なのよ。わかりますか? そういう発想を徹底しないとダメね。

まだ、この高校構想に関してゲイメディアの反応はあまり出てないけど、さて、どういう反応なんだろうね。という間に、これって新学期、つまりは夏休み明けの新学年度9月から始められるわけで、そんときにはわたしもぜひ取材してみようと思ってる。

July 13, 2003

同性愛

まあ、なんと直接的なタイトルだこと。

ついに腹まわりも剥けてきて、へたにむりやり剥くと皮膚がまだ未成熟でヒリヒリしたりするんだよね。

ということで今日の話題は、例の長崎の駿ちゃん殺害事件です。

ストリーミングでリアルプレイヤーで見られる日本のニュースはTBSとフジなんだけど、問題のコメントはどっちでだったか忘れた。おまけにだれが言ったのか、その犯罪心理学者だか精神科医だからの名前も見逃した。だって、まさかそんなこと言うなんて思ってなかったからさ。くそ。

で、なんて言ったかっていうと、あの12歳の少年ね、この異常さの背景に「幼児愛、サディズム、同性愛がありますね」って言いやがったのよ。これが少女に対する性的傷害事件だったら、この“専門家”は「幼児愛、サディズム、異性愛があります」って言うのでしょうか?

はい、同性愛にはストレスがつきものです。それによって引き金が引かれる可能性もある。しかしそれは同性愛の「困った問題」ではなくて、同性愛を抑圧している社会の「困った問題」なのですね。

それ以前に、この“専門家”は、おそらく同性愛をいままだ異常性愛のカテゴリーとして捉えているのでしょう。それがまず第一のこの人物の怠慢と無知。そういう人物はテレビで専門家としてコメントをすべきではないし、また、ニュースのディレクター氏もこういう人物を選んではいけない。さらに、選んでしまったにしてもコメントのチェックをゆめ忘れてはいけないのです。

ですから、このコメントは「いま現在、表に出てきた報道内容から推測するに、少年の今回の行動には幼児性愛、サディズム、さらに同性愛を閉塞させてしまっている社会環境が背景にあると思われます」とならなければなりません。

そういうことです。

終わり。

July 03, 2003

ゲイプライドマーチも大成功

いやあ、疲れちゃってまた更新に間が空きました。
もう7月ですね。今年も折り返したか。早いなあ。
ゲイプライドは浴衣姿が功を奏して、なんと地元24時間ニュースチャンネル「NY1」のニュースクリップにばっちり3秒ほど我らが勇姿が映っておりました。ミーハーです。はい。

さて、ミーハーじゃないところで、やっぱね、ソドミー法違憲判決はブッシュ政権に評判が悪いようで。ブッシュが大統領の間は同性婚の解禁はないね、この国じゃ。それが5年先になるか、それとも来年の大統領選の大番狂わせがあって3年先になるかは、神のみぞ知る。しかし、この5年で絶対に政治日程に上ってくるでしょうね。それは予言者じゃなくてもわかります。

さてその前に、片づけておかなければならないのがサントラムっていう上院議員の問題だ。

この5月、フィラデルフィアのセントジョセフ大学の学位授与式で同州出身の上院議員リック・サントラムが壇上から演説しようとしたとき、600人の卒業生の約100人がいっせいに立ち上がって退場するという“事件”が起きた。サントラムはその前月のAPとのインタビューで同性愛を重婚、一夫多妻などと同等だと非難した人物。一斉退場は、そんなサントラムに同大の名誉学位が与えられることへの抗議だったんですな

 反応したのは退席した100人だけではなくってね、他の卒業生の多くも卒業帽にレインボーカラーの房飾りを添えて臨席していたんですね。レインボウカラーはご存じのとおり生/性の多様性を示すゲイのシンボルカラー。一斉退場の際には会場にとどまる学生からも大きな拍手が挙がった。
 まさかイエズス会のこの大学にこんなに多くのゲイ学生がいるとはだれも信じないわな。もう、意識的な若い世代にはゲイかゲイでないかはあんまり関係ないみたい。要は、お互いの差異を認め合って生きる社会を作るか、差異を憎悪に変えるようなシステムで生きるかっていう選択の問題なんだわな。そんなの、答えは決まり切ってるんだけどね、バカにはどうしても自分が後者に属してるっていう事実がわからんようなのだ。

 さて、サントラムの肝心のその発言を精査してみまひょか。
やっこさんは次のようにのたまったわけです。
 「合意があれば家庭内でどんな性行為も許されると最高裁が認めたら、重婚や一夫多妻や近親相姦や不倫の権利も認めることになりなにをしてもよいことになってしまう」
 そうそう、お気づきのように、これは例の最高裁のソドミー法判断を前にしての発言だったわけ。結果はご存じのように違憲判断だったんだけどさ、さて、すぐに「重婚や一夫多妻や近親相姦や不倫」を思い浮かべてしまう汚らわしい思考傾向を持つ、ということ以外に、このサントラムの発言のじつは何が本質的に問題なのか?
 「同性愛は重婚とか一夫多妻とは違う」という意見があるけど、そういった場合に違うのは何? 同性愛は重婚とかと違って犯罪ではない? でもね、そういう論理はサントラムのような人には「同性愛も犯罪」なのだから効き目がないのね。

 ではどう違うと考えればよろしいのでしょうか。
 サントラムの論理は、この手の人物によくある傾向なのだけど、そもそも前提からおかしいんですね。「合意があれば家庭内でどんな性行為も許されると最高裁が認めたら」という部分がパープリンに間違いなのさ。
 最高裁=司法は「家庭内の性行為」を含むすべてのプライバシーに対して口出しをしないというのがこの市民社会の大原則。その上でそのプライベートな行為がパブリックな社会に大きな害を与えると判断した場合にのみ、それに法的な制限が加えられる。それが近代民主法制度の基本なのであるわけ。だから最高裁が認める以前に「合意があれば家庭内ではどんな性行為も許される」の。これが前提。その上でどれはダメだということを定める。社会に害を与える重婚などが禁止されたのはそういう経緯なのだ。

 それでは「同性愛」は重婚や一夫多妻と同じような、社会に対する弊害を持っているのでしょうか? そこが違うところですね。サントラムは害は自明だと言うだろうけど、ためしに例示を求めれば彼は答えに窮するでしょう。きみは例示できる?

 ブッシュ人気に力を得た共和党は、そんなサントラムの非論理を支持してる。つまり、個人のベッドルームにも介入するような全体主義社会がよいと言っているのと同じなのです。でも、バカだから自分の言ってることの重大さに気づきもしない。それって、すごいでしょ。
 あと5年もこんなのが続くと思うと、さすがにげんなりしてきますね。

June 28, 2003

ソドミー法違憲判断の詳細

えー、この前予告したソドミー法の何たるか、違憲判断の何たるかは、毎日インターナショナルのウェッブサイトのほうに掲載しました。
興味のある方は読んでください。
http://www.mainichi.com/
ここで左のバーからDays In USAというのを選んで、そこの「北丸雄二のアメリカ談議」というのをクリックすると出てきますよん。

June 27, 2003

朝日が書いてた

書き込んだ後でしばらくしたら朝日・コムが書いてたね。
というか、あれは朝日と提携してるcnn.co.jpが書いたからでしょう。

そういうことなんです。ええ。

June 26, 2003

ソドミー法と日本のメディア

本日(26日)午前、連邦最高裁が米国でずっと続いているソドミー法は違憲だという判決を下しました。本来はテキサス州のソドミー法(刑法は州法なので、州によって違うのです)に関する最高裁判決だったのですが、それを意見だと言うだけでなく、その他の州のソドミー法も違憲だと宣言してしまったのです。これは、すごい判決でした。
ソドミー法というのは、同性間セックスを犯罪と規定している法律です。
これが憲法違反のプライバシーの侵害に当たるという判断なわけで、ここから米国の同性間結婚の問題まですぐなのですね。オランダとかベルギーとかカナダとか、同性間結婚を合法化する動きというのは報道されていますが、今チェックしてみたところ、日本のメディアはこのソドミー法違憲のニュースを、少なくともウェッブサイトのニュースではどこも報道していない。どうしてなんでしょう?

わたしもプロのジャーナリストです。このニュース判断は、どう考えても解せません。
アメリカがこうなるということは、これは「事件」なのです。
これを報道しないなんて、バカじゃないだろか。

違憲判断の詳報はまた別に書きます。

June 25, 2003

ゲイプライドの歩き方

 えー、書き込みを怠るとけっこうこれって、すぐに間が空いてしまうものなのだね。ってぜんぜん当たり前だわな。
 さて、今年のNYゲイプライドのテーマは「ピースとプライド」っていうんですね。「ピース」って出してくるわけですよ。ふむ。アメリカの平均的な国民とは正反対に、イラク戦争に半数以上が反対したニューヨーク市民ならびにゲイ市民になんとふさわしいテーマでありましょうか。
 プライド週間初日の22日(日)には、42丁目の市立図書館の裏手のブライアントパークで午後2時から4時間にわたって歌あり踊りあり朗読ありの「ザ・ラリー」という祝祭イベントがありました。13丁目のゲイコミュニティーセンターでは映画会やレクチャーやパーティーなど連日いろんな企画が行われています。
 この29日(日)にはすでにこれも恒例の「ウェディング・パーティー」が午前10時から五番街の59丁目、プラザホテル前のグランドアーミープラザで執り行われます。これは同性間でも結婚と同じ社会的利益と保証を、というプロパガンダですね。ところでカナダが同性間結婚を合法化しちゃうっていうんで、もう、アメリカのゲイカップルたちはこの夏は休みを利用してカナダで結婚しようとウズウズしてるんですが、アメリカは宗教かつ政治的なパワーゲームが続いていて、結婚はまだ先ですね。
 そしてもちろんその後は数十万人のプライドマーチ。そのマーチの終点、ワシントン・ストリートのクリストファーとスプリング・ストリート間で、朝11時から夜10時半まで「プライドフェスト」と名付けられた露店も並んでいます。
 恒例のダンスパーティーも準備万端。ハドソン川と13丁目のぶつかるピア54で、午後4時から夜11時まで「ダンス・オン・ザ・ピア」の開催です。10時半からの花火も見もの。ここはチケット($54、$124)が必要。詳細は「www.nycpride.org」まで。

 ということで、私たち日本人もプライドマーチを歩きます。例によって浴衣姿。
 もし参加したければ、29日日曜日の当日、53丁目の五番街とマディソンの間に午前11時半までにぷらぷら集まってください。そこにAPICHAというアジア人向けのエイズ支援団体の一行が集合することになっています。私たちも「ジョーズ(JAWS=Japanese AIDS Workshop Series」という団体でそれにくっついて歩くわけです。ま、浴衣のない人でも普段着で参加けっこうですよ。あるいはすごいコスチュームでいらしてもウェルカム。つまり、だれでもウェルカム。だって、このマーチはみんな違うってことを認め合うのがテーマですからね。