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February 15, 2017

対米追従外交

日米首脳会談に関して官邸や自民党は「満額回答」と大喜びです。安倍首相も帰国後のテレビ出演でトランプがゴルフで失敗すると「悔しがる、悔しがる」とまるでキュートなエピソードでもあるかのように嬉々として紹介していました。でも、これ、アメリカ男性にはよくある行動パタンなんですよね。「少年っぽくてキュートでしょ」と思わせたいというところまで含んだ……。

「満額」とされる日米の共同声明は日本政府がギリギリまで文言を練ってアメリカ側に提起したものでした。安保条約による尖閣防衛などに関してはすでにマティス国防長官の来日時に言質を取っていたものの、外交というものはとにかく「文書」です。文字に記録しなければ覚束ない。

対するトランプ政権はアジア外交の屋台骨もまだ定まっていませんでした。日本の専門家もいません。そこに日本の官邸と外務省が攻め込み、まんまと自分たちの欲しかったものの文書化に成功したわけです。

でも、その共同声明の中にひとつ気になる文言があります。

「核及び通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」

日本政府は米国の核抑止力に依存していることは認めています。しかしここにある「核を使って」とまで踏み込んだ発言を、これまで日本はしていたでしょうか? 「抑止力」とは核を実際には使わずに相手の攻撃を防ぐ効果を上げる力のことです。でも、その「核」を「使う」と書いた。これは大きな転換ではないのでしょうか? どの日本メディアもその点について書いていないということは、私のこの認識が違っているのかもしれませんが。

いずれにしてもアベ=トランプの相性は良いようで、産経新聞によると安倍首相は「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」と言って、「俺も勝った!」と応じたトランプの歓心を得たとか得ないとか。

ただですね、報道メディアを攻撃するのはヒトラーの手法です。歴史的には褒められたもんじゃ全くないのですよ。

さて、マール・ア・ラーゴでの2日目のテラス夕食会で「北朝鮮ミサイル発射」の一報がホワイトハウスからトランプのもとに飛び込んできて、前菜のレタスサラダ、ブルーチーズドレッシング和えを食そうとした時にテーブルは慌ただしく緊急安保会議の場と化したんだそうです(CNNの報道)。その時の生なましい写真が会食者のフェイスブックにアップされて、一体こういう時の極秘情報管理はどうなんているんだと大問題になっています。安全保障上の「危機」情報がどうやって最高司令官(大統領)に届くのか、それがどう処理されるのか、というプロトコルは最高の国家機密です。つまりはアジア外交どころか絶対にスキがあってはいけない安保関連ですら、トランプ政権はスカスカであることを端なくも明らかにしてしまったわけです。大丈夫か、アメリカ、の世界です。

そこには血相を変えたスティーブ・バノン首席戦略官とマイケル・フリン安保担当大統領顧問も写り込んでいました。そしてそれから2日も経たないうちにそのフリンが辞任するというニュースも飛び込むハメと相成りました。

フリンはそもそもオバマ政権の時に機密情報を自分の判断で口外したり独断的で思い込みの激しい組織運営のために国防情報局(DIA)局長をクビになった人物です。当時のフリンを has only a loose connection to sanity(正気とゆるくしか繋がっていない)と評したメディアがあったのですが、事実と異なる情報を頻繁に主張したり、確固たる情報を思い込みで否定することが多く、そういうあやふやな情報は職員からは「フリン・ファクツ Flynn Facts」と呼ばれていました。まさに今の「オルタナティブ・ファクツ(もう一つ別の事実)」の原型です。

そんなフリンが昨年12月、オバマ大統領によるロシアの選挙介入に対する制裁があった際に、その解除についていち早く駐米ロシア大使と電話で5回も話し合っていたというのが今回の辞任の「容疑」です。そもそも彼は「宗教ではなく政治思想だ」と主張するイスラム教殲滅のためにロシアと手を組むべしという考えを持っていた人です。そのためにオバマにクビになってからはロシア政府が出資するモスクワの放送局「ロシア・トゥデイ」で解説役を引き受けたりもしていました。ロシアとはそもそも縁が深い。

今回の辞任は民間人(当時)が論議のある国の政府と交渉して、政府本来の外交・政策を妨害してはいけないというローガン法という決まりがあって、それに違反していると同時に、政策に影響を与えるような偽情報を副大統領ペンスに与えていた(ペンスには当初「制裁解除の交渉はしていない」と報告したそうですが、その後にその話は「交渉したかどうか憶えていない」と変わり、ならばそんな記憶力のない人物に安全保障担当は任せられないという話にもなりました。要は、法律違反、利敵行為、情報工作、職務不適格)という話です。まあしかし、それもフリンのそんな電話会議のことをペンスが承知の上だったなら副大統領までローガン法違反の”共犯”ということになりますから、それはそう言わざるを得ないのかもしれませんし。

つまり疑惑は辞任では収まらないということです。疑惑はさらに(1)こんな重要案件でフリンが自分一人の判断でロシア大使と会話したのか(2)その交渉情報は本当にトランプやペンスらに伝わっていなかったのか(3)ロシアとは他に一体何を話し合っていたのか、と拡大します。おまけにトランプ本人の例の「ゴールデンシャワー」問題もありますし。

実はトランプ陣営でロシア絡みで辞任したのは選挙期間中も含めこれでポール・マナフォート、カーター・ペイジに次いで3人目です。ここでまた浮かび上がるのがトランプ政権とロシアとの深い関係。だってトランプ自身も昨年7月の時点ですでにクリミア事案によるロシアへの制裁解除を口にしていたのですよ。この政権がロシアゲートで潰れないという保証はだんだん薄く、なくなってきました。

ところでそんな懸念はどこ吹く風、ハグとゴルフでウキウキのアベ首相は3月に訪独してメルケルさんに「トランプ大統領の考えを伝えたい」とメッセンジャー役を買って出る前のめりぶりです。トランプ政権の誕生で戦後日本の国際的な位置付けや対米意識により独立的な変化が訪れるのではないかと期待した向きもありますが、自民党政権によるアメリカ・ファーストの追従外交には、今のところまったく変化はないようです。

ところでこの「追従」って、世界的には「ついじゅう」と「ついしょう」の両方で捉えられています。就任1カ月もたたないうちにメキシコ大統領と喧嘩はする、オーストラリア首相とは電話会談を途中で打ち切る、英国では訪英したって議会演説や女王表敬訪問などとんでもないと総スカンばかりか英国史上最大の抗議デモまで起きるんじゃないかと言われている次第。こうして西側諸国から四面楚歌真っ最中のトランプ大統領が、アベ首相をキスでもしそうなくらいにハグし歓待したのも、そういう状況を考えると実に頷けるわけであります。

さあトランプ政権、次は誰が辞めさせられるのか? ショーン・スパイサーか、ケリーアン・コンウェイか、はたまたスティーヴ・バノンか──この3人が辞めてくれればトランプ政権もややまともになるとは思うのですが、しかしその時はトランプ政権である必要がなくなる時でもあります。アメリカは今まさに「ユー・アー・ファイアード」のリアリティ・ドラマを地で行っているような状況です。

January 15, 2017

不名誉な情報

トランプ記者会見は日本ではとても奇妙な報道のされ方をしました。トランプにとって「不名誉な情報」のニュースが日本ではほとんど報道されないままだったので、彼と記者たちがなぜあそこまでヒートアップしているのかがまるでわからなかったのです。

で、彼の興奮は例によっていつもと同じメディア攻撃として報じられ、速報では「海外移転企業に高関税」とか「雇用創出に努力」とかまるで的外れな引用ばかり。NHKに至っては「(トランプは)記者たちの質問に丁寧に答えていた」と、一体どこ見てるんだという解説でした。

日本のメディアのこの頓珍漢は、米国では報じられていた「モスクワのリッツ・カールトンでの売春婦相手の破廉恥な性行為」が事実かどうか、裏が取れなかったことに起因しています。

日本のTVってそれほど「裏取り」に熱心だったでしょうか。例えば最近の芸能人らの麻薬疑惑。逮捕されれば即有罪のように断罪口調で飛ばし報道するのに、結果「検尿のおしっこがお茶だった」となると急に手のひら返しで「さん付け」報道。つまりはお上のお墨付き(逮捕)があれば裏は取れたと同じ、お上がウンと言わねば報じもしないというへなちょこでは、権力監視のための調査報道など、いくら現場の記者たちが頑張ったとしてもいつ上層部にハシゴを外されるか気が気じゃありません。

しかも今回のCNNの報道は、未確認情報を真実として報道したのではありません。CNNが報じたのはその未確認情報を米情報当局がトランプ、オバマ両氏へのロシア選挙介入のブリーフィングにおいて2枚の別添メモで知らせた、という事実です。これはトランプが指弾したような「偽ニュース」などではありません。しかもそれが大変な騒ぎになることは容易に予想できたのに日本のメディアはその事情すら報じ得なかった。

一方「バズフィード」はその「不名誉な情報」を含むロシアとの長期に渡る関係を記したリポート35枚をそのままサイトに掲載してしまいました。「米政府のトップレベルにはすでに出回っていた次期大統領に関する未確認情報を、米国民自らが判断するため」という理由です。

こちらは難しい問題です。「噂」を報じて国民をミスリードする恐れと、情報を精査して真実のみを伝えるジャーナリズムの責務と、精査できるのはジャーナリズムだけだというエリート主義の奢りと、そしてネット時代の情報ポピュリズムの矛盾と陥穽と。

いずれにしても日本のメディアは丸1日遅れで氏の「不名誉な情報」に関しても報道することになりました(裏取りは吹っ飛ばして)。その間にTVは勝手な憶測でトランプ氏を批判したり援護したりしていました。しかもCNNを排除した次の質問者の英BBCを、氏が「That's another beauty(これまた素晴らしい)」と言ったのを皮肉ではなく「ほめ言葉」として解説するという誤訳ぶり。BBCが「これまた素晴らしく」トランプ氏に批判的であることを彼らは総じて知らなかったわけです。

いや問題はそんなことではありません。問題の本質は、トランプがプーチン大統領に弱みを握られているのかどうか、米国政治がロシアに操られることになるのか、ということです。

真偽はどうあれ、今回の「暴露」でその脅迫問題云々がこの新大統領にずっと付きまとうことになります。いや、いっそのこと、「ああ、やりましたがそれが何か?」と開き直っちゃえばいいのにとさえ思います。そもそも女性器をgropingしたとかおっぱいを鷲掴みにしたとかしないとか、そんな山のような女性醜聞をモノともせずに当選したのです。「ゴールデンシャワー」など、脅しのネタなんかに全然ならないはずですからね。

January 06, 2017

「脱真実」の真実

米国にはCIAやFBI、その他国家安全保障省や各軍などに属する計17もの情報機関があります。そのいずれもが今回の大統領選挙でロシアのハッキングによる介入があったと結論づけているのですが、次期大統領ドナルド・トランプは、利益相反も懸念されるフロリダの自社リゾートホテルでの大晦日パーティー会場で、「私は誰も知らない情報を知っている」としてその介入がロシア以外のものであることを示唆し、その情報は「3日か4日にはわかる」と話していました。

1月6日現在、しかし彼しか知らないというその情報の確固たるものは開示されていません。それを紛らわすかようにトランプは「情報当局によるブリーフィングが金曜(6日)まで延期された」と、これまた延期された事実もない「情報」を、あたかも前述の情報に関連づけるかのようにツイートしていました。

「脱真実(Post-Truth)」とは、事実に裏打ちされた情報よりも自分にとって耳ざわりの良い恣意的な主張や解釈が好まれる世相のことです。非難と中傷が飛び交う大統領選が、脱真実の状況が拡大する格好の舞台を提供しました。フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディア(SNS)が最強の増幅器として機能したからです。

事実無根の情報を生み出すのは、既存のニュースサイトのように装った新興のネットメディアです。そこではアクセス数によって広告収入が得られるため、より多くの読者が飛びつくような"ニュース"が金ヅルです。そこで「ローマ法王がトランプ支持表明」「ヒラリー児童買春に関与」「ヒラリーとヨーコ・オノが性的関係」といった偽ニュースが量産されました。それらはSNSで取り上げらることで偽ニュースの元サイトがアクセス数で稼ぎ、それがサイト自身の拡大と増殖につながり、さらにそれがまたSNSで拡散し……というスパイラル構造が出来上がったのです。

情報サイト『バズフィード』(こちらはポッと出ではないニュース・サイトです)は、マケドニアの片隅でせっせとトランプ支持者受けする"ニュース"を紡ぎ出し、それらを無数のサイトから発信してカネ儲けをしていた十代の若者たちの姿をリポートしていました。それらを読みたがるのはヒラリーではなくトランプの支持者層でした。つまりこれは政治の話ではなく、経済の話だったのです。

トランプ政権入りのスティーヴ・バノンの関わる保守派サイト『ブライトバート・ニュース』も、そうした「脱真実」新興メディアの1つです。数多くの「バイアス報道」と「偽ニュース」を今も拡散しています。

偽ニュースの蔓延に対して、フェイスブックは先月、「ニュース」と思しき掲載情報の事実確認をABCニュースなどの外部のプロ報道機関とともに行うとに発表しました。でもそのABCニュースも、ブライトバートにかかれば「左傾バイアス」によって「ウソや捏造記事を歴史的に配信してきた企業」でした。つまりは「脱真実」を好む層にとって、ABCニュースやCNNなどの従来のニュースこそが、左寄りバイアスのかかる「偽ニュース」なのです。「事実を無視している」と言うその「事実」こそが、「バイアスのかかった事実」だと思われているわけです。

端的に言えばそのバイアスとは、黒人や女性や移民や性的少数者などの社会弱者(マイノリティ)たちの視点に立つバイアスです。つまりは「政治的な正しさ(PC)」の圧力です。実はそれこそが現在のジャーナリズムの立脚点です。それはトランプではなくヒラリーの標榜した「政治的な正しさ」でした。

一方、そこで捨て置かれていたのがマジョリティ(強者)の視点でした。つまり白人で男性で異性愛者の欧州系アメリカ人にとっての「事実」が不足していた。そこをブライトバートやトランプが掬い取ったのです。

それは「政治的に正しく」ないですが、彼らトランプ支持層の求める、彼らを主人公とする物語でした。「脱真実」とは「脱PC」のことであり、「PC」から自由な事実認識のことに他なりません。彼らの需要を満たして、それがカネと票とに繋がったのです。

その結果誕生した新しい大統領は、今度は「彼らの」というよりは冒頭の例のような、「自分の」読みたい物語を吹聴するツイートを連発するようになっています。かくして「脱真実」の傾向は米国で最大の権力者によって今年、さらに推進されることになります。その行方は誰にもわかりません。

November 01, 2016

「女嫌い」が世界を支配する

投票日11日前というFBIによるEメール問題の捜査再開通告で、前のこの項で「勝負あったか?」と書いたヒラリーのリードはあっという間にすぼみました。州ごとの精緻な集計ではまだヒラリーの優位は変わらないとされますが、フロリダとオハイオでトランプがヒラリーを逆転というニュースも流れて、なんだかまた元に戻った感じでもあります。

だいたい今回のメール問題の捜査対象は、ヒラリーの問題のメールかどうかもわかっていません。ただFBIがまったくの別件で捜査していたアンソニー・ウィーナーという元下院議員の15歳の未成年女性を相手にしたエッチなテキストメッセージ(sexting)問題で彼のコンピュータを調べたところ、中にヒラリーのメールも見つかったので、それをさらに捜査しなくてはならない、というだけの話なのです。もっと詳しく言えばそのウィーナーのコンピュータは彼が妻と強要していたもので、かつその妻がヒラリーの側近中の側近として働いてきたフーマ・アベディンという、国務長官時代は補佐官を務め、今は選対副本部長である女性なんですね。ということで、そのアベディンのメールも調べることになっちゃう。だからその分の捜査令状もとらなくちゃならない、ということで、「ヒラリーのメール問題」とすること自体もまだはばかられる時点での話なのです。

つまりそのメールが私用サーバーを使った国家機密情報を含んでいるものとわかったわけでもなんでもないのですが、とにかくFBIのジェイムズ・コミー長官は自分の机の上に10月半ばまでに「ヒラリーのメールがあった」という書類が上がってきたものだから、これはこのまま黙殺はできない。捜査はしなくてはならないが、捜査のことを黙っていたりその情報自体を黙殺でもしたら後で共和党陣営にヒラリーをかばうためだったと非難されるに決まっている。しかしだからと言って捜査を開始したと言ったら選挙に影響を与えてしまうとして民主党側からも非難される。どっちが自分のためになるか、おそらく彼は苦渋の決断をしたんだと思います。その辺のジレンマの心境は実は彼がFBIの関係幹部に当てた短文のメールが公表されているのでその通りなんでしょう。でも、それは保身のための決断だった印象があります。

そもそもFBIの捜査プロトコルでは、捜査開始のそんな通告を議会に対して行う義務はないし、むしろ選挙に関係する情報は投票前60日以内には絶対に公表しないものなのです。つまり彼はヒラリーの選挙戦に悪影響を及ぼしても自分が職務上行うことを隠していたと言われることを避けた。そちらの方がリスクが高いと判断したんでしょう。つまりリスクの低い道を選んだわけです。誰にとってのリスクか? そりゃ自分にとってのリスクです。つまり保身だと思われるわけです。

で、週末にかけて、アメリカのメディアはコーミーのそんな保身を責めたり、いや当然の対応だと擁護したりでこの問題で大騒ぎです。

ところが問題はもう1つ別のところにあります。

8年前のヒラリー対オバマの大統領選挙の時も言ってきましたが、なぜヒラリーはかくも嫌われるのか、という問題です。なぜ暴言の絶えないトランプが支持率40%を割ることなく、2年前には圧勝を噂されたヒラリーが最終的にかくも伸び悩むのか?

この選挙を、「本音」と「建前」の戦いだと言ってきました。「現実」と「理想」とのバトル。そしてその後ろで動いているのが、もう明らかでしょう、実はアメリカという国の、いや今の世界のほとんどの国の、拭いがたい男性主義だということです。これまでずっとアメリカという国の歴史の主人公だった白人男性たちが今や職を奪われ、家を失い、妻や子供も去って行って、残ったのが自分は男であるという時代錯誤の「誇り」だけだった。いや、職も家も妻子も奪われていなくとも、もうジョン・ウェインの時代じゃありません。当たり前と思ってきた「誇り」は今や黒人や女性やゲイたちがアイデンティティの獲得と称してまるで自分たちの所有する言葉のように使っています。そこで渦巻くのは、アイデンティティ・ポリティクスに乗り遅れた白人男性たちの、白人(ヘテロ)男性であることを拠り所とした黒人嫌悪であり女性嫌悪でありゲイ嫌悪です。ヒラリーに関してもこの女嫌いが作用しているのです。

マイケル・ムーアの新作映画『Michael Moore in Trumpland』で、彼も私と同じことを言っていました。ムーアは昨年、映画『Where to Invade Next?』を撮るためにエストニアに行ったそうです。かの国は出産時の女性の死亡率が世界で一番少ない国です。なぜか? 保険制度が充実しているからです。アメリカでは年間5万人の女性が死んでいるのに。

そこの病院を取材した時にムーアは壁にヒラリーの写真が飾ってあることに気づきます。彼女もまた20年前に同じ目的で同じ病院に来ていたのです。国民皆保険制度を学ぶために。一緒に写る男性を20年前の自分だと言う医師がムーアに言います。「そう、彼女はここに来た。そして帰って行った。そして誰も彼女の話を聞かなかった。それだけじゃない。彼女を批判し侮辱した」

20年前、国民皆保険導入を主導したヒラリーは一斉射撃を浴びました。「あなたは選ばれてもいない、大統領でもない。だから引っ込んでいろ」と。それから20年、アメリカでは保険のない女性が百万人、出産時に亡くなった計算です。保険制度を語る政治家は以来、オバマまで現れませんでした。

ムーアは言います──ヒラリーが生まれた時代は女性が何もできなかった時代だった。学校でも職場でも女性が自分の信じることのために立ち上がればそれは孤立無援を意味した。だがヒラリーはずっとそれをやってきた。彼女はビルと結婚してアーカンソーに行ってエイズ患者や貧者のための基金で弁護士として働いた。で、ビルは最初の選挙の時に負けた。なぜか? 彼女がヒラリー・ロドムという名前を変えなかったから。で、次の選挙でヒラリーはロドム・クリントンになった。で、その次はロドムを外してヒラリー・クリントンになった。彼女は高校生の頃から今の今までそんないじめを生き抜いてきたのだ、と。

そんな彼女のことを「変節」と呼ぶ人たちが絶えません。例えば2008年時点で同性婚に反対していたのに今は賛成している、と。でも08年時点で同性婚に賛成していた中央の政治家などオバマをはじめとして1人としていなかったのです。

マザージョーンズ誌のファクトチェッカーによればヒラリーは米国で最も正確なことを言っている主要政治家ランキングで第2位を占めるのですが、アメリカの過半が彼女を「嘘つきだ」と詰ります。トランプは最下位ですが、どんなひどい発言でも「どうせトランプだから」の一言で責めを逃れられています。同ランク1位のオバマでさえ再選時ウォール街から記録破りの資金提供を受けていたのに、企業や金融街との関わりはヒラリーに限って大声で非難されます。大問題になっているEメールの私用サーバー問題だってブッシュ政権の時も同様に起きていますが問題にもなっていません。クリントン財団は18カ国4億人以上にきれいな飲み水や抗HIV薬を供与して慈善監視団体からA判定を受けているのに「疑惑の団体」のように言われ、トランプはトランプ財団の寄付金を私的に流用した疑惑があってもどこ吹く風。おまけにこれまで数千万ドル(数十億円)も慈善団体に寄付してきたと自慢していたトランプが実は700万ドル(7億円)余りしか寄付をしてこなかったことがわかっても、そんなことはトランプには大したことではないと思う人がアメリカには半分近くいるのです。

これは一体どういうことなのでしょう? よく言われるようにヒラリーが既成社会・政界の代表だから? 違います。だって女なんですよ。代表でなんかあるはずがない。

嫌う理由はむしろ彼女が女にもかかわらず、代表になろうとしているからです。ヒラリーを嫌うのは彼女が強く賢く「家でクッキーを焼くような人間ではない」からです。嫌いな「女」のすべてだからです。「女は引っ込んでろ!」と言われても引っ込まない女たちの象徴だからです。違いますか?

日本では電車の中で化粧する女性たちを「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」と諌める"マナー"広告が物議を醸しています。みっともないと思うのは自由です。でもそれを何かの見方、考え方の代表のように表現したら、途端に権力になります。この場合は何の権力か? 男性主義の権力です。男性主義を代表する、男性主義の視線そのものの暴力です。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」は、どこをどう言い訳しても、エラそうな男(的なものの)の声なのです。

ヒラリーが女であること、そしてまさに女であることで「女」であることを強いられる。それはフェアでしょうか?

この選挙は、追いやられてきた男性主義がトランプ的なものを通して世界中で復活していることの象徴です。私が女だったら憤死し兼ねないほどに嫌な話です。そしてそれはたとえ7日後の選挙でヒラリーが勝ったとしても、すでに開かれたパンドラの箱から飛び出してきた「昔の男」のように世界に付きまとい続けるストーカーなのです。

October 10, 2016

勝負あったか?

前回、トランプに対するジャーナリスムの総攻撃が始まったと書きました。トランプをここまでのさばらせたのもマスメディアです。いざとなったらその落とし前をつけて、アメリカのジャーナリズムは選挙前に事実チェックでトランプ降ろしを始めるだろうと言ってきましたが、まさにそれが今度はワシントン・ポストによって実践されました。しかも今度は「Grab them by the pussy」という発言の録音ビデオです。

この問題はトランプによる一連の女性蔑視発言ではありません。「わいせつ」発言です。

ピューリタンが建国した米国で「卑猥な人格」は致命的でさえあります。たとえ「ロッカールーム・トーク」だと弁明しても、それは血気盛んなプロアスリートでも人気の芸能人でもありません。大統領候補です。

共和党のポール・ライアン下院議長はこれを受けて第2回討論会の席でなんと「投票先未定者」の聴衆席に座り、翌日には「トランプを支持しないし選挙応援もしない」と態度を変えました。彼だけではありません。トランプ支持取りやめは共和党の中でどんどん拡大しています。

背景には大統領選と同時に行われる下院選と上院改選があります。トランプへの嫌悪で、本来の共和党支持者たちが実際の投票所でトランプを支持する共和党の候補者たちの名前を選ぶことを忌避するかもしれない。それを避けるために自ら「そんなトランプは支持しない」と表明しておく必要があるわけです。ライアン下院議長もその辺りを睨んで、「今後は下院での過半数を確保することに集中する」と方針転換したわけです。

第2回討論会は実際、自分のことは棚に上げて全ての質問とその答えを相手への個人攻撃に転じさせたトランプにクリントンも応酬して下世話感甚だしく、メディアのコメンテイターが口々に形容するところによれば「テレビ放送が始まった1960年以降で『最低』『前代未聞』のもの」になりました。

象徴的なシーンはその「わいせつ発言」を責められたトランプが「俺は言葉だけだが、ビル・クリントンは実行したんだからもっとひどい」と言い返したところです。まるで小学生のようなすり替え、責任転嫁。もう1つは自分が大統領になったらEメール問題でヒラリーに特別検察官を立てて再捜査させるとするトランプに彼女が「彼のような感情的な人間がこの国の法の番人でなくてよかった」と言った際、「俺ならお前を牢屋に入れちゃうからな」と横槍を入れたシーンです。

政敵を刑務所に入れるのは民主主義ではない独裁国家の話です。これほど反アメリカ的な(あるいは子どもっぽい敵意剥き出しの)発言は「前代未聞」なのです。

クリントンとトランプの支持率の差は調査によっては11とか15ポイントの差まで広がりました。この時点での2桁の差は、とうとう勝負あったかの感さえあります。

しかしここで考えなければならないのは、トランプ支持層の中核をなすとされる、これまで政治になど関心のなかった学歴のない白人男性労働者層の他に、実はかなり知的な層にも「隠れトランプ支持者」がいるのではないかという説です。

ニューヨークなどの民主党の牙城の大都会で、おおっぴろげにトランプ支持を話せる人は多くはありません。お前はバカかと言われるのがオチです。ところが、"知的"に考えれば考えるほど「人権が第一」「移民も平等に」「差別はいけない」と言った「政治的正しさ(PC)」が行き詰まりを迎えるのは確実だ、と思っている人も相当数いるはずです。また、おそらくは富裕層(あるいは中流層以上)であろうそんな"知的"な人たちが、富裕層への課税を増やすというクリントンに反発し、税制を始めとして富裕層の自分自身が損をしないような政策しか絶対にとらないであろうトランプの方を支持するのはさらに確実だと思われるのです。

つまりは表向き「国のためにはクリントン」のPC顔をしながら、いざ投票となったら「自分のためにトランプ」支持に回ることも大いにあり得る。極端な格差社会とはそういうものです。解消できっこない、ならばこの道の延長戦でも、自分の世界だけはカネの力を使ってでも確保しておきたい、それが「神は自ら助くる者を助く」であると。

最後の3回目の討論会は19日のラスベガスですが、残念なことにそこでの焦点は経済ではなく外交問題です。彼らにトランプへの投票を確実にさせるような話題ではありませんが、しかしトランプ支持層というのは"知的"であろうがなかろうが、討論会はどうでもいい層なのかもしれません。だいたい彼は政策のことなどはなから全く話してなんかいないのですから。

October 03, 2016

ジャーナリズムの総攻撃が始まった

大統領選挙があと一月で決着します。ここにきて大手メディアが相次いで「トランプ大統領阻止」の論陣を張り、総攻撃を行っている感もあります。

驚いたのはUSAトゥデイです。ご存じのようにこの新聞は全米50州すべてで発行されていてどのホテルに泊まってもだいたい置いてあります。創刊34年というまだ新しい新聞ですが発行部数は190万部。政治的中立を謳ってこれまでの大統領選挙でどんな候補への支持も表明してきませんでした。曰く「私たちはその方針を変える必要性を感じてきませんでした。今の今までは(...Until Now.)」と。そして新聞社論説委員室の全員一致の総意として「トランプ候補は大統領として不適格」と結論付けています。しかもその理由の列挙で、「気まぐれで発言する」「偏見を振りまく」と続いた後で最後に「シリアル・ライアーである」と、まるで「シリアル・キラー(連続殺人犯)」みたいな「嘘つき魔」認定。結果、「彼には投票すべきではない」と明言しているのです。

激戦州かつ重要州のオハイオ州でも、これまで1世紀近く共和党候補しか支持してこなかった大手紙「シンシナティ・エンクワイアラー」がヒラリー支持に回りました。カリフォルニア州で148年間も共和党候補を支持し続けてきた「サンディエゴ・ユニオン・トリビューン」もヒラリー支持。アリゾナ州最大手の「アリゾナ・リパブリック」紙も創刊126年の歴史で初めて、さらに「共和党(リパブリカン)」というその新聞名の由来にも反して、トランプを「能力も品位もない」と断じました。ブッシュ元大統領の出身地であり最大の保守州であるテキサス州でさえ、主要紙「ダラス・モーニング・ニュース」が「トランプ氏の欠点は次元が違う」としてヒラリー支持という「苦渋の選択」をしました。大手メディアで正式にトランプを推したものは10月3日時点ではまだ存在しません(ヒラリーは30紙以上)。共和党予備選の時点ではマードック率いるニューズコーポレーションの「NYポスト」やゴシップと宇宙人ネタで売る「ナショナル・エンクワイアラー」など4紙が彼を支持していたのですが。

そんな中でトランプの連邦所得税の納税回避の可能性がNYタイムズによってスクープされました。発端は9月23日に同紙ローカルニュース担当記者に届いたマニラ封筒です。封筒はトランプの会社のもので、差出人の住所もマンハッタンの「トランプタワー」。中にあったのは、これまでトランプ陣営が公表を拒否してきた1995年の納税申告書のコピー3ページ分。そこにあった申告所得額は「9億1600万ドル(916億円)の赤字」でした。

当時の税制度では不動産会社がこうした巨額損失を計上した場合、その赤字を翌年以降に繰り越して、1年に5000万ドル(50億円)を上限としてその年の利益と相殺することが出来ます。つまり毎年の利益がその範囲内なら18年以上に渡って税金を納めなくてもよい計算になるわけです(ちなみにそれ自体は法律違反ではありません)。

さて、どこの誰が何のためにこんなコピーをタレ込んだのでしょう? トランプ陣営及び企業の内部の人間であることは間違いないでしょう。投票間際でも支持者離れを加速させるような暴言を繰り返すトランプのことです、これまでの選挙戦で十分パブリシティ効果も得られたことだし、今後のビジネスもそれで安泰。ひょっとしたら本当は面倒臭い大統領になんかはこれっぽっちもなりたくなんかなくて、「妻のメラニアに出させたんじゃないの?」という陰口まで聞こえています。いやはや。

ジャーナリズムの総攻撃が始まった

大統領選挙があと一月で決着します。ここにきて大手メディアが相次いで「トランプ大統領阻止」の論陣を張り、総攻撃を行っている感もあります。

驚いたのはUSAトゥデイです。ご存じのようにこの新聞は全米50州すべてで発行されていてどのホテルに泊まってもだいたい置いてあります。創刊34年というまだ新しい新聞ですが発行部数は190万部。政治的中立を謳ってこれまでの大統領選挙でどんな候補への支持も表明してきませんでした。曰く「私たちはその方針を変える必要性を感じてきませんでした。今の今までは(...Until Now.)」と。そして新聞社論説委員室の全員一致の総意として「トランプ候補は大統領として不適格」と結論付けています。しかもその理由の列挙で、「気まぐれで発言する」「偏見を振りまく」と続いた後で最後に「シリアル・ライアーである」と、まるで「シリアル・キラー(連続殺人犯)」みたいな「嘘つき魔」認定。結果、「彼には投票すべきではない」と明言しているのです。

激戦州かつ重要州のオハイオ州でも、これまで1世紀近く共和党候補しか支持してこなかった大手紙「シンシナティ・エンクワイアラー」がヒラリー支持に回りました。カリフォルニア州で148年間も共和党候補を支持し続けてきた「サンディエゴ・ユニオン・トリビューン」もヒラリー支持。アリゾナ州最大手の「アリゾナ・リパブリック」紙も創刊126年の歴史で初めて、さらに「共和党(リパブリカン)」というその新聞名の由来にも反して、トランプを「能力も品位もない」と断じました。ブッシュ元大統領の出身地であり最大の保守州であるテキサス州でさえ、主要紙「ダラス・モーニング・ニュース」が「トランプ氏の欠点は次元が違う」としてヒラリー支持という「苦渋の選択」をしました。大手メディアで正式にトランプを推したものは10月3日時点ではまだ存在しません(ヒラリーは30紙以上)。共和党予備選の時点ではマードック率いるニューズコーポレーションの「NYポスト」やゴシップと宇宙人ネタで売る「ナショナル・エンクワイアラー」など4紙が彼を支持していたのですが。

そんな中でトランプの連邦所得税の納税回避の可能性がNYタイムズによってスクープされました。発端は9月23日に同紙ローカルニュース担当記者に届いたマニラ封筒です。封筒はトランプの会社のもので、差出人の住所もマンハッタンの「トランプタワー」。中にあったのは、これまでトランプ陣営が公表を拒否してきた1995年の納税申告書のコピー3ページ分。そこにあった申告所得額は「9億1600万ドル(916億円)の赤字」でした。

当時の税制度では不動産会社がこうした巨額損失を計上した場合、その赤字を翌年以降に繰り越して、1年に5000万ドル(50億円)を上限としてその年の利益と相殺することが出来ます。つまり毎年の利益がその範囲内なら18年以上に渡って税金を納めなくてもよい計算になるわけです(ちなみにそれ自体は法律違反ではありません)。

さて、どこの誰が何のためにこんなコピーをタレ込んだのでしょう? トランプ陣営及び企業の内部の人間であることは間違いないでしょう。投票間際でも支持者離れを加速させるような暴言を繰り返すトランプのことです、これまでの選挙戦で十分パブリシティ効果も得られたことだし、今後のビジネスもそれで安泰。ひょっとしたら本当は面倒臭い大統領になんかはこれっぽっちもなりたくなんかなくて、「妻のメラニアに出させたんじゃないの?」という陰口まで聞こえています。いやはや。

September 10, 2016

いつか来た道

北朝鮮の核実験やミサイル発射でこのところ日米韓政府がにわかに色めき立って、韓国では核武装論まで出ているようです。日本での報道も「攻撃されたらどうする?」「ミサイル防衛網は機能するのか?」と「今ここにある危機」を強調する一方で、どうにも浮き足立っている感も否めません。

でも少し冷静になれば「攻撃されたらどうする?」というのは実はこれまでずっと北朝鮮が言ってきたことなのだとわかるはずです。戦々恐々としているのは北朝鮮の方で、彼らは(というか"金王朝"は)アメリカがいつ何時攻め込んできて体制崩壊につながるかと気が気ではない。何せ彼らはイラクのサダム・フセインが、リビアのカダフィが倒されるのをその目で見てきたのです。次は自分だと思わないはずがありません。

そこで彼らが考えたのが自分たちが攻撃されないための核抑止力です。核抑止力というのは敵方、つまり米国の理性を信じていなければ成立しません。理性のない相手なら自分たちが核兵器を持っていたら売り言葉に買い言葉、逆に頭に血が上っていつ核攻撃されるかわからない。しかし金正恩は米国が理性的であることに賭けた。

実はこれはアメリカと中国との間でかつて行なわれた駆け引きと同じ戦略なのです。冷戦下の米国は、朝鮮戦争時の中国への原爆投下の可能性を口にします。その中で中国が模索したのが自国による核開発でした。米ソ、中ソ、米中と三つ巴の対立関係の中で、核保有こそが相手側からの攻撃を凍結させる唯一の手段だと思われたのです。

そうして60年代、中国はロケット・ミサイルの発射実験と核爆発実験とを繰り返し、70年から71年にかけて核保有を世界に向けて宣言するわけです。それこそがどこからも攻め込まれない国家建設の条件でした。

慌てたのはアメリカです。どうしたか? 71年7月、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が北京に極秘訪問し、それが翌72年のニクソン訪中へと発展するのです。米中国交正常化の第一歩がここから始まったのです。

今の北朝鮮が狙っているのもこれです。北朝鮮という国家が存続すること、つまりは金正恩体制が生き延びること、そのために米国との平和協定を結び、北朝鮮という国家を核保有国として世界に認めさせること。おまけに核兵器さえ持てば、現在の莫大な軍事費を軽減させて国内経済の手当てにも予算を回すことができる。

もちろん中国とは国家のスケールが違います(実際、アメリカが中国と国交を回復したのはその経済的市場の可能性が莫大だったせいでもあります)が、北朝鮮の現在の無謀とも見える行動は、アメリカに中国との「いつか来た道」をもう一度再現させたいと思ってのことなのです。

そんなムシのよい話をしかし米国が飲むはずもない。けれどいま米韓日の政府やメディアが声高に言う「北朝鮮からいまにも核ミサイルが飛んでくるかもしれない」危機、というのもまた、あまりにも短絡的で無駄な恐怖なのです。そんな話では全くないのですから。

さてではどうするか? 国連による経済制裁も実は、北朝鮮と軍事・経済面でつながりを持つアフリカや中東の国々では遵守されているとは言いがたく、そんな中での日本の独自制裁もそう圧力になるとは思えません。たとえ制裁が効果を持ったとしても国民の窮乏など核保有と国家認知の大目的が叶えばどうにでもなる問題だと思っている独裁政権には意味がないでしょうし、中国も手詰まりの状態です。なぜなら金正恩は金正日時代の条件闘争的な「瀬戸際外交」から、オバマ政権になってからの放置プレイにある種覚悟を決めた「開き直り外交」にコマを進めたからです。「いつか来た道」の再現には「この道しかない」わけですから。

金正恩の一連の行動は全て、動かないオバマの次の、新たなアメリカ大統領に向けてのメッセージなのだと思います。さて、彼女は/彼は、どう対応するのでしょう。

June 07, 2016

置き去りの心

日本に戻って北海道・駒ヶ岳の男児置き去り"事件"に関するテレビの騒ぎ方や親御さんへのSNS上の断罪口調を見ていて、改めて世間の口さがなさを思い知っています。今朝退院したそうの大和くんはテレビで見る限りすっかり元気で、ほんと無事でよかったなあ、でいいはずなんですが、その後も教育論だのしつけ論などがなんともかまびすしいこと。

こういう問題はとても難しくて、この子に通じる「論」が他の子に通じるとは限らないし、例えば私も北海道民でしたが、子供のころはよく「そんなことしてたら置いてきぼりにするよ!」と叱られたものです。

実際に田舎の道端に置いてきぼりにされたこともあって、「しかし今思えばそうやって泣きながらサバイバルできる子供に育ったんだなあ」とふとツイッターでつぶやいたら、「そんなことしたら大阪ならすぐに人さらいに遭う」と本気か冗談かわからないリプライをくれる人や、中には「それは体罰だ。子供が取り返しのつかない心の傷を受けるのがわからんのか」とこれまたご自身の経験からか反発なさる方もいて(ある人には「普段はリベラルなふりをしてこういう時にマッチョなミソジニーが馬脚を露わす」なんていうふうに罵倒されました。すごい洞察力だこと……。)、全くもってこの件に関しては「物言えば唇寒し」の感が強いのです。

私はもちろん体罰の完全否定派ですから、体罰だとの指摘はちょいと応えました。ただ、子供のころにその心に何らかの負荷を与えられることは(その子が耐えられる負荷の多寡は斟酌しなくてはなりませんが)、その心の成長のためには絶対に必要なことだと思っています。それがトラウマになるかどうか、そのトラウマを経てさらに強くなれるかどうか、あるいはさらに優しくなれるか否かも、その子その子によって違うので見極めは実に難しいでしょうが。

もしアメリカで「置き去り」なんかしたら親は逮捕されます。自宅に子供を一人置いて出掛けることさえ時には逮捕の対象ですから。子供は親の所有物ではない、という思想もあります。社会全体の宝物だという考え方においては、親の身勝手な"しつけ"は許されません。でも、一方で「置き去り」の気分というのは味わっておいた方がいいとも思う自分がいます。

例えばある種の文学作品は、まるで体罰のように若く幼い私を打ち据えました。実際に殴られ血を流してはいずとも心はズタズタになった頃があります。死んでいたかもしれません。それは、体罰以上に過酷な刑罰でした。でも、誰もそのことを体罰だとは言わなかったし、禁止もしないどころかむしろ読書は奨励されていたのです。そこで暴かれる罪にどんな罰が待っているかも教えないままに。

そう考えると、私は大和くんが親に"置き去り"にされたことと、自分がある種の文学作品によって"置き去り"にされたこととの、その暴力性の違いがよくわからなくなるのです。どうやってそこから生き延びたのかも。

かろうじて今わかっていることは、幼い頃に叱られて置いてきぼりにされた時も、泣いている私を親たちは必ず私の見えないところからじっと見ていたのだろうということです。ちょうど、大和くんの親がすぐに彼の様子を見に、車でそっと戻ったように。

誰かがそっと見守っていてくれる。視点を変えれば、自分がそっと見守り続ける──それが(独りよがりの見守り方もあるでしょうが)暴力と鍛錬との分かれ目かもしれません。打ちのめされた若い私にも、思えばそっと見守ってくれていた友人や先生や親がいましたっけ。

大和くんは、おそらくそんな風にすでに親御さんとの関係性においてサバイバルの力を培っていたのかもしれません。もちろん、そんなことは穿った見方でほんとはまったく関係ないかもしれません。なので、私たち大和くん一家を知らない者たちによる一般論とその敷衍はあまり意味がないことなのです。だから、この話はそれでもういいじゃないですか。(とまあ、ツイッターで言いたかったことはそういうことでした)

April 20, 2016

個人的なことは政治的なこと

ニューヨークの予備選では「勝ち方」が問題でした。クリントンもトランプも有利が伝えられていましたから、あとはどのくらいの差で勝利するかだけがポイントでした。特に両候補とも直前の他州での”負け方”が気になっていたので、トランプはこのままでは7月の党大会の前に大議員数で過半数に達しないのではという懸念が生まれていたのでなおさらです。

民主党のクリントンとサンダーズの場合は得票率の差が二桁になるか一桁になるかがカギでした。十数%ポイントならクリントンの強さが示されて指名獲得へやっと最終ストレッチに入ることになります。逆に10%ポイント以下ならサンダーズの強さが改めて示され、まだもつれる可能性がありました。開票直後のCNNは独自の出口調査からかその差が開いていないとしてクリントンに当確を打つのをためらっていたから、クリントン陣営はヒヤヒヤだったでしょう。もっとも、結果はCNNの出口調査を全く裏切る15%ポイント差と、予想以上の大差でしたが。

一方の共和党はさすがに「ニューヨークの価値観」を非難した宗教右翼クルーズを選ぶわけにもいかず、トランプ以外に投票する積極的な動機はなかったのでしょう。かろうじてケイシックが2位につけたのはニューヨークの”良心”だったでしょうか。しかし60%もの得票率でNY州代議員95人をほぼ総取りできたのは、危ぶまれた指名獲得を引き戻した感もあります。

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それにしても今回の選挙で思うのは人々の個人的な本音の思いの強さです。ロングアイランドシティ、イーストリバー沿いのサンダーズの集会に行って話を聞くと、みんな口々に「政治的革命だ」と言います。「解決策(リゾルーション)がないなら革命(リボリューション)だ」というTシャツのアフリカ系の女性もいました。「クリントンはウォール街から巨額の選挙資金を受け取っているから金持ち優遇を止められるはずがない」と吐き捨てる黒人男性もいました。確かに1回の講演料が20万ドルとか30万ドルとか言われ、昨年から3回講演したゴールドマン・サックスでは計60万ドル(現レートで6600万円)が支払われたというので「こりゃダメだ」と思ったかつての支持者たちのサンダーズ流れが加速してもいるのでしょう。

上位1%の富裕層が世界全体の富の半分以上を所有していると言われます。先日、ボストン大学で講演してきましたが(私の講演料は数百ドルですw)、そこで聞いたのは米国の大学の授業料はいまや年間6万ドルもして、学生たちには卒業時には10万ドル台のローンがのしかかっているという話でした。聴衆の学生たちは中国の富裕層の子女もかなり目立ちました。講演が終わって雑談や立ち話になって、その中の1人の女子学生がニューヨークでいちばんの日本レストランはどこかと聞いてきました。私が「東京レベルの素晴らしい店もあるけど、すごく高いよ」と応えると、「大丈夫、お父さんに頼むから」と言われました。

若者たちにさえそんな歴然とした格差が存在する。そしてそれは米国内だけではなく世界単位で進んでいます。私たちを取り巻くそんな現状にはもう処方箋など残っていず、「革命だ」と叫ぶ以外にないような気がするのはわかります。

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何度も言いますが、米国はそうした個人の本音を公的な建前に昇華して歴史を作ってきた国です。黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが公民権という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には私的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。「私」と「公」の間に回路が通っている。そうでなければ「本音」はいつまでたってもエゴイズムから旅立てません。その双方向の調整装置が最大に稼働するのがこの4年ごとの大統領選挙なのでしょう。

日本ではなかなかこの私的な「本音」が公的な「建前」に結びつきません。「建前」はいま「偽善」だとか「嘘」だとかという意味が付随してしまって、人々から軽んじられ、嫌われ、疎まれてさえいる。

しかし考えてもみてください。理想、理念はすべて建前の産物です。「人権」も建前、「差別はいけない」も建前、「平等」も「公正」も「正義」もみんな建前を追求して獲得してきたものです。ところがそういうもの一般が、日本ではあまり口にされない。口にする人間はいま「意識高い系」と呼ばれて敬遠されさえします。だから問題を言挙げすると「我慢している人もいるのに自分勝手だ」「目立てばなおさら事態が悪くなる」と足を引っ張る。そうして多くの個々人が感じている不具合は、公的に共有され昇華されるより先に抑圧される。

日本をより美しくするにはこの「私」と「公」とをつなぐ回路を作らねばなりません。「個人的なことは政治的なこと The Personal is Political.」という50年も前の至言を知らねば、いまアメリカで起きているこの「革命」めいた混乱を理解することもできないのだと思います。

February 23, 2016

丸山発言のヤバさ

CNNが「日本の国会議員が『黒人奴隷』発言で謝罪」という見出しで報道した自民党の丸山議員の発言は、大統領=オバマ=黒人=奴隷という雑な三段(四段?)論法(というか単純すぎる連想法)が、人種という実にセンシティブな、しかも現在進行形の問題で応用するにはあまりにもお粗末だったという話です。たとえ非難されるような「意図」はなかったとしても、そもそも半可通で引き合いに出すような話ではありません。とにかく日本の政治家には人種、女性、性的マイノリティに対するほとんど無教養で無頓着な差別発言が多すぎます。

この人権感覚のなさ、基準の知らなさ具合というのは、何度もここで指摘しているようにおそらく外国語情報を知らない、日本語だけで生きている、という鎖国的閉鎖回路思考にあるのだと思います。日本では公的な問題でもみんな身内の言葉で話すし、そういう状況だと聞く方も斟酌してくれる、忖度してくれる→そうするとぶっちゃけ話の方が受けると勘違いする→すると決まって失言する→がその何が失言かも勉強しないまましぶしぶ謝罪して終わる→自分の中でうやむやが続く、という悪循環。そういう閉鎖状況というのは昭和の時代でとっくに終わっているはずなのに、です。

かくして丸山発言は当事者の米国だけではなく欧州、インド、ベトナム、アフリカのザンビア等々とにかく全世界で報じられてしまいました。

このところこのコラムで何度も繰り返している問題がここにもあります。日本では本音と建前の、本音で喋るのが受けるという風潮がずっと続いています。建前は偽善だ、ウゾっぽい、綺麗事だ、とソッポを向かれます。だから本音という、ぶっちゃけ話で悪ぶった方がウケがいい。

しかし世界は建前でできています。綺麗事を目指して頑張ってるわけです。綺麗事のために政治がある。そうじゃなきゃ何のために政治があるのか。現状を嘆きおちょくるだけの本音では世界は良くなりはしない。

まあ、トランプ支持者にはそういう綺麗事、建前にうんざりしている層も多いのですが、CNNはじゃあこの丸山議員はわざと建前を挑発して支持者を増やそうとする「日本のトランプなのか?」と自問していて、しかし、そうじゃない、単に「こうした問題に無関心かつ耳を傾けないこの世代を象徴する政治家だ」と結論づけているのです。

さてしかし私は、今回のこの丸山発言、問題は報道されたその部分ではなくて実はその前段、「日本がアメリカの51番目の州になり、日本州出身の大統領が誕生する」と話した部分なんだと思います。

発言はこうです。日本が主権を放棄して「日本州」というアメリカの「51番目の州」になる。すると下院では人口比で議員数が決まるからかなりの発言力を持つし、上院も日本をさらに幾つかの州に分割したらその州ごとに2人が議員になれるから大量の議員役も獲得できる。さらに大統領選出のための予備選代議員もたくさん輩出するから「日本州出身大統領」の登場もおおいにあり得るぞという話。そこでこの「奴隷でも大統領になれる国」という発言が飛び出すのです。

日本がアメリカの属国状態だというのは事実認識としてわかりますが、しかし「日本が主権を放棄する」って「売国」ですか? いやもっと言えば、売国するフリしてアメリカを乗っ取ってしまおう、って話じゃありませんか?

これはヤバいでしょ。しかしそこはあまり問題にならないんですね(日本のメディアが詳報しないんで外国通信社もそこを報道しないため気づかれていないということなんでしょうが)。ま、日本のメディアが報道しないのは、そういうのはどうせ居酒屋談義だと知ってるからでしょうけど、政治がこういう居酒屋談義、与太話で進んでいる状況というのはいかがなんでしょうか。そして何より、この丸山発言に対して、当の自民党が総裁を始め幹部一同まで明確にはたしなめも断罪もしないという状況が、対外的メッセージとしてはそれを容認しているということになってしまって(まあ、事実そうなんですけど)さらにヤバいと思うのですが。

October 15, 2015

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

October 10, 2015

断言の条件

物事は、知れば知るほど断言することが難しくなります。情報が多ければ多いほど判断がつかなくなる。他人に非難されるようなことになった友人を、それでも私たちがなかなか断罪できないのは、友情と同時に、その彼/彼女のいろんな事情を、つまりは情報をたくさん知っていて一概に、一面的に、簡単に断ずることがはばかれるからです。

ニューヨーク在住の複数の関係者に、あるテレビ番組の下請け会社から問い合わせのメールが届いています。年末の番組で特集をしたいので「海外にある日本文化の勘違い料理店やカルチャースクールを探しております」というのです。なので知っていたら教えてほしい、と。

昨今の海外での日本ブーム、クールジャパン展開もあります。その中で「勘違いのニッポン」を探すのは、敢えて予断で言えば、それは日本国内で「嗤い合う」ためでしょうか? それとも10年近く前に農水省がやろうとして「そんな上から目線で」と批判されて方向転換した「寿司ポリス」みたいな「正しいニッポン普及」の話なんでしょうか?

そのメールが「勘違いニッポン」の具体例として挙げているのは「日本料理として奇想天外なメニュー」「日本文化とは思えぬ内装」「間違い日本語による接客や変な日本語店名」「日本文化を間違っている空手師範」「日常では使わなさそうな例文を教える日本語教室」などでした。

こういう話はいくらテレビ番組側の事情を知っていてもなんだかいやな感じがします。日本の「洋食」の無国籍ぶりやフレンチやイタリアンのメニュー誤表記、変な英語Tシャツなどは、それこそ日本国内で枚挙にいとまがない「どっちもどっち」な話でしょうに。

そういえば「寿司ポリス」の話が持ち上がった当時も、あるニュースサイトは米国にある日本食レストランで「日系人オーナーの店は10%以下」「経営者の多くは中国や韓国、ベトナムなどのアジア系」「つまり『ニセ日本食』の提供者は中国人や韓国人、ベトナム人だったわけだ」と書いていました。またその話をぶり返したいわけなのでしょうか?

そのころからです。日本社会がやたら「嫌韓」「嫌中」に傾き、「ニッポンすごい」「ニッポン最高」を連呼するようになったのは。そうそう、「国家の品格」などという根拠の曖昧なニッポン文化礼賛本が発売されたのも10年前でした。

そんな風潮は10年を経てさらに攻撃的で断罪口調になり、いまでは安倍政権を批判するとすぐに「おまえは朝鮮人だろ」「中国政府からいくらもらってる」というような罵倒が飛んでくるようになりました。そしてあろうことか安保法制反対のあの学生組織SEALDsの奥田愛基さんとその家族へ、殺害予告が届くまでに悪化しています。

何気ない揶揄や嘲笑が巡り巡って殺害予告にまでたどり着く。自国礼賛とゼノフォビア(外国嫌悪)が容易に結びつくことは歴史が証明しています。冒頭に書いたように、諸外国の人々や文化を嫌ったり排除したりすることは、他者への一面的な理解しか持っていないことの反映です。むしろ持っていないからこそ断言口調になれる。

そう書くと「おまえはいつも断言口調じゃないか」と言われそうです。まあそうですね。情報を集めて集めて、それでも断じなければいけない時があります。私はそんな時に、批判の対象が権力を持っているかどうかを常に考えるようにしています。持っていなければ批判はしません。私のその断言が正しいかどうかは、あとは読者諸氏の断じるところです。

October 06, 2015

仲良し会見

首相官邸などでの公式記者会見で「円滑な進行のため」に、日本の報道各社が事前に質問を取りまとめて提出するように求められるのは何十年も前から慣行化しています。この場合は政治部ですが、首相官邸だけでなく様々な官庁にある記者クラブ内にはどこでも「幹事社」と呼ばれる取りまとめ役が月ごと(あるいは2カ月ごと)の持ち回りでいて、そこが当局と話して質問の順番が決められるのです。

政府側が説くその「必要性」は国会質疑におけるそれと同じで、「事前に質問を知っていれば十全な情報を用意できるので、報道上も都合が良いだろう」というものです。そう言われればそうかなと思ってしまいそうですが、しかしその慣行によってお手盛りの記者会見はもちろん形骸化し、よほどの大事件でもあった場合は別にしてもほとんどは何ら「問題」の起こらない予定調和の場になっています。

記者クラブ側が、あるいは報道機関がそれ自体を「問題」だとも、問題と思ってもそれを変えようとも思わなくなっているのも、さらには変えねばと思っても「空気」に圧されて手がつけられなくなっているのも、実はこれまでも何度も指摘されてきました。ところが記者たちもまたその記者クラブには持ち回りで属するだけでせいぜい2年で担当が変わったりしますから、意思決定も流動的で定まらないから変えられない、という事情もありましょう。かくして記者会見はその内容を報じる記事もまるでつまらない、「予定稿」でも済むような退屈なものになってしまうのです。

で、そのほころびが先日の安倍首相の国連記者会見で浮き彫りになりました。国連総会での一般演説の後に記者会見に臨んだ安倍首相が、そんな「事前提出」の質問表にはなかったロイター通信のベテラン記者による質問に、とんでもない回答をしてしまった。

この会見も本来は恙無く執り行われるはずでした。首相官邸が取りまとめた質問の内容と順番は次のようなものでした。

NHK(日露関係について)→ロイター(新アベノミクスの3本の矢について)→共同通信(内閣改造の日程について)→米公共放送NPR(普天間移設について)→テレビ朝日(国連改革について)

ところが2番目に立ったロイター記者は、予定質問に次いで、予定としては提出していなかった次の質問を追加したのです。「日本はシリア難民問題で追加支援すると表明したが、日本が難民の一部を受け入れることはないか?」

安倍首相の眉がクイっと上がりました。首相はアドリブで答えざるを得なかったわけです。で、その答えは次のようなものでした。

「これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり高齢者の活躍であり出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」

大挙して押し寄せる難民をどう受け入れをするか欧米が深刻に悩んでいる時です。彼はそれを国内の少子化、人口減少問題に絡めて、その問題を解決し、不足を補充する「移民問題への対処法」の是非として答えてしまったわけです。そもそも難民問題を自らの国の問題としてはほとんど考えてはいなかったのでしょう。なのでこれは「勘違い」というよりも、自分の頭の引き出しから、似たような問題への回答模範を引っ張り出してきたらこうなってしまった、ということなのかもしれません。

ところがそんな「出まかせ」を、「予定調和」の記者会見など知らない、あるいはそんなものを記者会見とは呼ばない真剣勝負の欧米ジャーナリズムは「真に受けた」。

「アベ:日本はシリア難民受け入れより国内問題の解決が先」(ロイター)
「日本は難民支援の用意はあるが、受け入れはしない」(ワシントンポスト)
「アベ:シリア難民受け入れの前に、国内問題の対応が不可欠と話す」(英ガーディアン)

即応した欧米メディアに比して(ガーディアンは日本の移民・難民事情についてかなり詳しく紹介していました)日本の報道は当初はこれを問題視もせずにほぼスルーしました。いつもの記者会見のつもりで「予定外」のニュースに慣れていなかったせいでしょうか。あるいはこれは「真に受けてはいけない間違い答弁」だと斟酌してやるいつもの癖が出たのか。

問題だと気づいたのは、先の見出しが欧米の主要ニュースサイトで踊ってからです。安倍さんも日本の同行記者たちも、現在の難民問題に関するメッセージの重要性の認識が、なんとも実にお粗末であることをはしなくも露呈した形です。

実は予定外の質問はロイターだけではありませんでした。NPRの記者もまた辺野古移転の沖縄の世論の問題を「予定通り」質問した後でさらに、「辺野古移設に関連した環境汚染の問題についてどう考えるのか?」と畳みかけたのです。これにもまた安倍首相は日本式の的を得ない、はぐらかしの、言質を取られないような、四の五の言う長い答えでお茶を濁していたのです。

こういう「予定質問のやらせ会見」というのは「政治部」だけの話では実はありません。実は社会部マターでも経済部でも運動部の会見でも、相手が大物の定例記者会見などという場合には少なからず見られる慣習です。

海外の他の国の事情は詳かではありませんが、少なくともアメリカでは記者会見で事前に質問を提出するなんてことは経験したことはありません。なので鋭い質問が飛んでくると、質問された政治家や官僚や関係者は「それはいい質問ですね」とまずは言っておいて、そこで適当な答えを組み立てる時間稼ぎをするのです。

そもそも質問が事前に分かっているぬるい世界では、「それはいい質問ですね」などという定型句は生まれようもありませんものね。

なので、会見というのは実はとてもピリピリした緊張感が漂い、しかもそれをいかに和ませるか、いかに緊張していないかを演出する度量をもまた試される場になるわけです。そういうのを、視聴者は、読者は、有権者は、見ているのですから。

安倍政権になってから、欧米ジャーナリズムは「日本のメディアは政権に牛耳られている」と折りあるごとに報じてきました。今回の国連記者会見では、その「折り」が実は常態化しているのだということが明らかになってしまいました。

October 03, 2015

文章教室

毎日新聞神奈川版のコラムにこんなのが載った。まあ、書き方からいってまだ一年生とか二年生記者だろうから経験も浅いのだろうが、こういう現場の話も聞かないで単なる思いつきだけで書くテキストの結論が、恣意によってどうとでもなることを例示したいと思う。支局記者は、まず現場、とにかく現場、そこを虚心に歩き回り疲れるほど話をし話を聞き、そしてその中でどういう自分を書いてゆくのか、時間をかけて深く考えていってほしい。

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記者のきもち:ノーパサラン /神奈川
毎日新聞 2015年10月01日 地方版

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。

 デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。

 2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】


***私的改訂版
記者のきもち:ノーパサラン

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性に聞かれた、「何という意味ですか」。ネットで検索してみた。スペイン内戦の際の合言葉だった。「やつらを通すな」。フランス語にも英語にも存在する、自らの立場を死守しようという国際的な合言葉。

 なるほどこのデモは、意味が通じ合う仲間うちだけの集まりではないのだと感じた。世界中の歴史的な民主勢力の思いが、実は今この日本の横浜に集まる人々にも通じている。そんなことを教えてくれる大合唱。「法案反対」デモの参加者は、実は知らないところで世界ともつながっている。それはやがて遠巻きに眺める人々の心にも届くかもしれない。

 2時間後。異様なほどの熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」という不思議な言葉の連呼が、法案について考えてみようとする人の好奇心を少しでも刺激してくれるかもしれない。後片付けのゴミ拾いをする人たちを前にそう思った。【現場で取材してもいないのに取材したみたいに作文する北丸雄二】

August 03, 2015

真夏の錯乱

日本に来ています。いま安保法制に関する反対が各界各層から溢れ出ています。大学生らの抗議グループSEALDs(シールズ)に影響されてか、お年寄りたちの多い巣鴨ではOLDS(オールズ)という年配者たちのデモも行われました。先日は高校生たちが呼びかけたデモが気温35度という猛暑の渋谷で5000人を集めて行われ、「だれの子どもも殺させない」という切実なシュプレヒコールの続くママさんたちのベビーカー・デモもありました。

こんな現象は戦後70年で初めて見るものです。とにかく戦争はダメだという平和憲法の精神がいま危機感として噴出しています。

対して集団的自衛権の確立を訪米で公約してしまった安倍さん側はシンパたちが援護射撃に躍起です。

驚いたのはSEALDsについて、自民党の36歳という武藤貴也衆院議員が「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」とツイートしたことです。この人は「基本的人権の尊重」を「これが日本精神を破壊した主犯だと考えている」と公式ブログで表明している人です。「この基本的人権の尊重という思想によって滅私奉公の概念は破壊されてしまった」とまで言いのける錯乱は、いったいどういう倒錯から生まれたのでしょう。

彼だけではありません。田村重信・自民党政務調査会調査役はSEALDsを「民青、過激派、在日、チンピラの連合軍」と呼びました。これがデマの吹聴であることに加え、問題はもう一つ、彼が明らかに「在日」を侮蔑語で使っていることです。自民党では50万人以上いる「在日韓国・朝鮮人」をそういうカテゴリーで見ているのでしょうか? ヤバいでしょう、それは。

援護射撃どころか自爆テロみたいになってしまっているのはこの安保法制を中枢で推進してきた礒崎首相補佐官の「法的安定性は関係ない」発言も同じです。これは法の支配そのものの否定だけではなく、「安保法制は違憲だけどそんなこと言ってられん」と具体的に白状したということですから、自民党にとっても本来は懲罰もんのはずです。しかしいま私たちが目撃してるのは、その暴走をまたネグろうとしてる権力の錯乱です。

日本はとてもおかしなことになっています。原爆の日の近い長崎では先月、老齢の被爆者を招いてのある公立中学での講話会で、話者が被爆体験の後にアジア侵略の写真などを示しながら日本の戦争責任や原爆と同じ放射線を出す原発の問題に触れたところ、校長が「やめてください!」と大声で遮ったそうです。まるで戦前の官憲による「弁士中止!」です。NHKニュースによると、その後に校長はこの老人を校長室に呼び「写真はでっちあげだ」とか「自虐史観だ」などと話したといいます。

この話にしてもSEALDsや高校生デモに関する誹謗中傷にしても、なぜ日本の権力は政治的な意見表明を抑制しよう、黙らせようと動くのでしょうか。

校長は「政治的中立性が守られない」と弁解したようですが、中立性を守るための対策は、それらの言論を封じる事なかれ主義ではなく、賛否両論の表明の保証、談論風発の奨励のはずです。

ちなみに最近の仰天ニュースは、日テレの「安倍首相批判の落書きが駅トイレで見つかった。警視庁が器物損壊容疑で捜査している」というものでした。ここは北朝鮮か旧ソ連かと、今度は私が軽い錯乱を覚えたほどです。

February 03, 2015

「あらゆる手段」って……

もう40年以上もニューヨークに住む尊敬する友人から電話がかかってきて「ねえ、教えて。安倍さんはどうして海外で働いている私たちを危険にさらすような演説をしたの? 最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの? 私たちは平和を貫く日本人だったのに、これからはテロや誘拐の対象になったの?」と聞かれました。それは私の問いでもあります。

安倍首相のエジプトでの2億ドル支援声明の文言が拙かったことは2つ前のこのブログ「原理には原理を」で紹介しました。日本人人質の2人が「イスラム国」の持ち駒になっていて、この犯罪者集団がその駒を使う最も有効なタイミングと大義名分を探っていた時にまんまとそれらを与えてしまった。そのカイロ演説がいかに拙かったかは、首相自身と外務省が自覚しているのです。なぜなら人質発覚後のイスラエル演説の語調がまるで違っていたからです。「イスラム国」の名指しは最初の呼びかけだけ。あとは「過激勢力」という間接表現。内容も日本の平和主義を前面に押し出したきわめて真っ当でまっすぐなもの。カイロ演説の勇ましさが呼び水だったと自覚していなければ、なぜこうも変わったのか。逆にいえば、なぜ初めからそういう演説をしなかったのか。

そして後藤さんも殺害されてしまいました。3日の国会で、安倍首相は「中東での演説が2人の身に危険を及ぼすのではないかという認識はあったのか?」と問われ「いたずらに刺激することは避けなければいけないが、同時にテロリストに過度に気配りする必要はない」と答弁しました。テロリストへの気配りなんか言っていません。「人質の命」への気配りでしょうに、この人は自分の保身のためにはこんな冷酷なすり替えをするのです。こんな時の答弁くらいもっと正面から堂々ときちんと誠実に答えたらどうなのでしょう。

おまけに言うに事欠いて「ご質問はまるでISILに対してですね、批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」。この人は批判や疑義をかわすためならそんな愚劣な詭弁を弄する。

まだあります。安倍首相は後藤さん殺害を受けての声明で事務方が用意した「テロリストたちを決して許さない」との文言に「その罪を償わせる」と書き加えたのだそうです。

以前からこの人の言い返し癖、勇ましさの演出に危惧を表明してきましたが、この文言はCNNやNYタイムズなどでは「報復/復讐する」と紹介されています。NYタイムズの見出しは「Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings(日本の平和主義から離れて、シンゾー・アベ 殺害の報復を誓う)」でした。それは日本政府として抗議したんでしょうか? 抗議してもシンゾー・アベの政治的言語の文脈ではそういう意味として明確に英訳した」と言われるのがオチでしょうが。

平和主義のはずの日本がなんとも情けない言われ様ですが、これはつまり平和憲法を変えてもいないのに、戦後日本の一貫した平和外交も変えてないのに、一内閣の一総理の積極的「解釈」変更と各種の演説によって、日本は世界に向けた「平和国家」という70年間の老舗看板を、勝手に降ろされてしまっているということなのでしょうか?

早くも政府は閣議で、今回の人質事件では「あらゆる手段を講じてきた。適切だった」との答弁書を決めたそうです。一方で菅官房長官は「イスラム国」は「テロ集団なので接触できる状況でなかった」とも明かしました。接触もできなかったのに「あらゆる手段を講じた」? 例えば接触して人質解放を成功させたフランス経由も試さなかった? つまり「イスラム国」のあの時の突然の要求変更は、2億ドルの身代金云々を告げたのに日本政府がぜんぜん何も接触してこなかったので、詮無く交渉相手をヨルダンに変えた、ということだったでしょうか? つまり初めから後藤さんらを救うための交渉などしてこなかったということなのでしょうか?

それを裏打ちするように、これも3日の参院予算委で岸田外相が、2人の拘束動画が公開された1月20日まで、在ヨルダン日本大使館に置いた現地対策本部の人員を増員していなかったことをしぶしぶ明らかにしました。つまり昨年8月の湯川さん拘束後の5カ月間、後藤さん拘束が発覚した11月になっても、現地はなにも対応を変えなかった。こういうのを「あらゆる手段を講じてきた」と言うのでしょうか?

冒頭に紹介した友人の「最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの?」という切実な問いに、いまの私は答えを知りません。

January 27, 2015

素晴らしい日本

湯川さんが殺害され、後藤さんの解放が焦眉の急となっている状況で、欧米のメディアが日本人社会の不可解さに戸惑っています。再び登場した「自己責任」社会の冷たさや、2人の拘束されている画像を面白おかしくコラージュ加工したものがツイッター上に多く出回っているからです。

ワシントンポストなどは「自己責任」論に関して04年のイラク日本人人質事件に遡って解説し、あの時の人質の3人は「捕らえられていた時より日本に帰ってきてからのストレスの方がひどかった」という当時の担当精神科医の言葉なども紹介しています。タイム誌は今回の事件でもソーシャルメディア上で溢れる非同情的なコメントの傾向を取り上げ、ロイター電は「それらは標準的な西洋の反応とは決定的な違いをさらけ出している」としています。

確かに米国でも「イスラム国」に人質に取られたジャーナリストらの拘束映像が放送されました。しかしどこにも自己責任論は見られませんでしたし、ましてや彼らをネタに笑うようなことは、少なくとも公の場ではありませんでした。そんなものがあったら社会のあちこちで徹底的に口々に糾弾されるでしょう。80年代にあった「政治的正しさ(PC)」の社会運動は、批判もあるけれどこういうところで社会的な下支えとしてきっちりと共有され機能しているのだなあと改めて感じます。

ちなみに「自己責任」に直接対応する英単語もありません。それを「self-responsibility」とする訳語も散見されますが、英語では普通は言わないようです。また、後藤さんのお母様が記者会見で最初に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝ったことも欧米ではあまり理解できない。そもそも悪いのは「イスラム国」であって「息子」たちではない。

日本語の分かる欧米人は「自己責任」と聞くと「自分の行動に責任を持つ」という自身の覚悟のニュアンスとして、つまり立派なものとして受け止めるようです。でもそれをもし他者を責める言葉として使うならば、それは「It's your own fault」や「You were asking for it」というふうに言う。つまり日本で今使われる「自己責任」とはまさに「自業自得」という切り捨ての表出でしかないのですね。

2人の拘束画像を茶化すようなツイッター画像の連投は「#ISISクソコラグランプリ」つまり「クソみたいなコラージュ」という意味のタグを付けられて拡散しています。例えば拘束の後藤さんと湯川さんの顔がアニメのキャラクターやロボットの顔にすげ替えられているものや、黒づくめの「イスラム国」男が逆に捕らわれているように入れ替えられているもの、その男がナイフをかざしているのでまるで料理をしているように背景を台所に加工しているもの、と、それはそれは多種多様です。外電によればそんなパロディ画像の1つは投稿後7時間でリツイートが7700回、お気に入りが5000回という人気ぶりだったそうです。

こういう現象に対し「人が殺されようというときになぜそんなおふざけができるのか?」「日本人ってもっと思いやり深く優しい人たちじゃなかったのか?」という反応は当然起こるでしょう。

もっともこれを「アニメ文化の日本の若者たちらしい」「イスラム国を徹底的におちょくるという別の戦い方だ」と見た欧米メディアもありました。しかしそれはあまりに穿った見方だと思います。これらの投稿のハシャギぶりは、実際には「イスラム国」への挑発でしかなく、「イスラム国」関係者とみられるあるツイッターのアカウントは「日本人は実に楽観的だな。5800km(おそらく8500kmの誤記)離れているから安全だと思うな。我々の兵士はどこにでもいる」と呆れ、「この2人の首が落とされた後でお前たちがどんな顔をするか見てみたいものだ」と返事をしてきたのです。

「日本は素晴らしい国だ、凄い国だ!」と叫ぶネトウヨ連中に限ってこういうときに「自己責任だ」として他人を切り捨て、嘲り、断罪する。そういう日本は素晴らしいのでしょうか? それは自己矛盾です。そうではなく、「日本を素晴らしい国、凄い国にしたい」という不断の思いをこそ持ち続けたいのです。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。

April 28, 2014

尖閣安保明言のメカニズム

「尖閣諸島は安保条約の適用対象」という文言が大統領の口から発せられただけで、鬼の首でも獲ったみたいに日本では一斉に一面大見出し、TVニュースでもトップ扱いになりました。でも本当に「満額回答」なんでしょうか? だって、記者会見を聴いていた限り、どうもオバマ大統領のニュアンスは違っていたのです。

もちろんアメリカ大統領が言葉にすればそれだけで強力な抑止力になります。その意味では意味があったのでしょう。しかしこれはオバマも「reiterate」(繰り返して言います)と説明したとおり、すでに過去ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官も発言していたこととして「何も新しいことではない」と言っているのです。

Our position is not new. Secretary Hagel, our Defense Secretary, when he visited here, Secretary of State John Kerry when he visited here, both indicated what has been our consistent position throughout.(中略)So this is not a new position, this is a consistent one.

ね、2度も言ってるでしょ、not a new position ってこと。これは首尾一貫してること(a consistent one)だって。

それがニュースでしょうか? それにそもそも安保条約が適用されると言ってもシリアでもクリミアでも軍を出さなかったオバマさんが「ロック(岩)」と揶揄される無人島をめぐる諍いで軍を動かすものでしょうか? だいたい、上のコメントだって実は中国をいたずらに刺激してはいけないと「前からおんなじスタンスだよ、心配しないでね」という中国に対する暗黙の合図なのです。

それよりむしろオバマさんが自分で安倍首相に強調した( I emphasized with Prime Minister Abe)と言っていたことは「(中国との)問題を平和裏に解決する重要さ(the importance of resolving this issue peacefully)」であり「事態をエスカレートさせず(not escalating the situation)、表現を穏やかに保ち(keeping the rhetoric low)、挑発的な行動を止めること(not taking provocative actions)」だったのです。まるで中学生を諭す先生のような言葉遣いです。付け加えて「日中間のこの問題で事態がエスカレートするのを看過し続けることは深刻な誤り(a profound mistake)であると首相に直接話した(I’ve said directly to the Prime Minister )」とも。

さらにオバマさんは「米国は中国と強力な関係にあり、彼らは地域だけでなく世界にとって重大な国だ(We have strong relations with China. They are a critical country not just to the region, but to the world)」とも言葉にしているのですね。これはそうとう気を遣っています。

注目したいのは「中国が尖閣に何らかの軍事行動をとったときにはその防衛のために米軍が動くか」と訊いたCNNのジム・アコスタ記者への回答でした。オバマさんは「国際法を破る(those laws, those rules, those norms are violated)国家、子供に毒ガスを使ったり、他国の領土を侵略した場合には(when you gas children, or when you invade the territory of another country)必ず米国は戦争に動くべき(the United States should go to war)、あるいは軍事的関与の準備をすべき(or stand prepared to engage militarily)。だが、そうじゃない場合はそう深刻には考えない(we’re not serious about those norms)。ま、その場合はそういうケースじゃない(Well, that’s not the case.)」と答えているのです。

どういうことか?

実は尖閣諸島に関しては、オバマさんは「日本の施政下にある(they have been administered by Japan)」という言い方をしました。これはもちろん日米安保条約の適用対象です。第5条には次のように書いてある;

ARTICLE NO.5
Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

でもその舌の根も乾かぬうちにオバマさんは一方でこの尖閣諸島の主権国については「We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus」とも言っているのですね。つまりこの諸島の最終的な主権の決定(日中のどちらの領土に属するかということ)には私たちはポジションをとらない、つまり関与しない、判断しない、ということなのです。つまり明らかに、尖閣諸島は歴史的に現在も日本が施政下に置いている(administrated by Japan)領域だけれども、そしてそれは同盟関係として首尾一貫して安保条約の適用範囲である(the treaty covers all territories administered by Japan)けれど、主権の及ぶ領土かどうかということに関しては米国は留保する、と、なんだかよくわからない説明になっちゃっているわけです。わかります?

つまり明らかに合衆国大統領は尖閣をめぐる武力衝突に関しての米軍の関与に関して、言葉を濁しているんですね。しかももう1つ、安保条約第5条の最後に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動する」とあって、この「手続き」って、アメリカはアメリカで議会の承認を経なきゃならないってことでもありますよね。米国連邦議会が「岩」を守るために軍を出すことを、さて、承認するかしら? ねえ。

この共同会見を記事にするとき、私なら「尖閣は安保条約の適用対象」という有名無実っぽいリップサービスで喜ぶのではなく、むしろ逆に「米軍は動かず」という“見通し”と「だから日中の平和裏の解決を念押し」という“クギ刺し”をこそ説明しますが、間違っているでしょうか? だってリップサービスだってことは事実でしょう? 米軍が守るというのはあくまで日本政府による「期待」であって、政治学者100人に訊いたら90人くらいは「でも動きませんよ」と言いますよ。

ところがどうも日本の記者たちはこれらの大統領の発言を自分で解読するのではなく、外務省の解釈通り、ブリーフィング通りに理解したようです。最初に書いたようにこれは「大統領が口にした」というその言葉の抑止力でしかありません。そりゃ外務省や日本政府は対中強硬姿勢の安倍さんの意向を慮って「尖閣」明言を「大成功」「満額回答」と吹聴したいでしょう。でもそれは“大本営発表”です。「大本営発表」は「大本営発表」だということをちゃんと付記せねば、それは国民をだますことになるのです。

私がこれではダメだと思っているのは、何故かと言うと、この「尖閣」リップサービスで恩を売ったと笠に着て、米国が明らかにもう1つの焦点であったTPPで日本に大幅譲歩を強いているからです。ここに「国賓招聘」や「すきやばし次郎」や「宮中晩餐会」などの首相サイドの姑息な接待戦略は通用しませんでした。アメリカ側はこういうことで恐縮することをしない。ビジネスはビジネスなのです。

思えばオバマ来日の前週に安倍さんが「TPPは数字を越えた高い観点から妥結を目指す」と話したのもおかしなことでした。「高い観点」とはこんな空っぽな安保証文のことだったのでしょうか? 取り引きの材料になった日本の農家の将来を、いま私は深く憂いています。

April 26, 2014

勘違いの集団自衛権

みんな誤解してるようだけど、日本が戦争をしかけられるときには集団的自衛権は関係ないんだよ。つまり尖閣での中国との衝突なんて事態のときは、集団的自衛権は関係ないの。どうもその辺、混同してるんだな。集団的自衛権が関係するのは、日本の同盟国である米国が攻撃されたとき。それを米国と「集団」になって一緒に防衛するってこと。つまり米国が攻撃されたらそこに日本が出て行くってこと。米国と同盟国だから。さてそこでそれを「限定的に使うことを容認したい」って言い始めてるのが安倍政権。どこまでが「限定的」なのかは、そんなの、難しくて言えない、ってさ。個別に判断するようです。でも「地球の裏側にまで出かけることはない」とも言ってるけど、「じゃあどこなら行くの?」には答えられていない。

一方、尖閣でなにかあったときに米国が日本を助けてくれるのは、これは米国側からの集団自衛権、それと、それをもっと明確にしての日米安保条約。だから、尖閣の有事の時のために集団自衛権が必要だ、と思い込んでる人は間違いなの。で、今回の日米共同声明では、尖閣も含んだ日本の施政下の場所は、それは「安保条約第5条の適用下にある」ってこと。

いわば、米国から守ってもらいたいがために、日本も米国を一緒になって守りますよ、っていう約束がこんかいの「集団的自衛権の行使」容認に向けた動きなのです。つまり、なんかあったら日本もやりますから、という証文。先物取り引きみたいなもの。約束。だから、日本になんかあったらよろしくね、というお願いとのバーター取引なのね。

でも、じつはこれ、バーターにしなくてももう昔からそう決まっていたの。だって、安保条約、前からあるでしょ? 集団的自衛権行使します、なんて決めなくても、もうそれは約束だったんだから。

じゃあ、なんでいままたそんなことを言いだしたの? というのでいろいろ憶測があって、それは、1つは靖国参拝、1つは従軍慰安婦河野発言見直し、つまりは「戦後レジームからの脱却」「一丁前の国=美しい国」──そういうアメリカが嫌がることをやらなきゃオトコじゃねえ!と思い込んでるアベが、嫌がることの代償にアメリカが有り難がってくれることをやってやればあまり強いこと言わんだろう、ま、だいじょうぶじゃね?という思惑で(というか、もちろんそれはちゃんと武力行使もできるような「一丁前のオトコらしい国家」であることの条件でもあるんでそこはうまく合致するんだけど)、それで前のめりになっているわけ。だってほら、昨年12月26日の靖国参拝で「disappointed」なんて言われちゃったから、なおさら機嫌直さないといけないでしょ。

アメリカだって、助けてくれると言うのをイヤだなんて言いません。そりゃありがとうです。でも、要は、そんなこんなでアメリカが日本の戦争に巻き込まれるような事態はいちばん避けたいわけです。でも日本が集団自衛権行使容認に前のめりになればなるほど、中国や北朝鮮を刺激してそういう事態が訪れる危険度が高まるというパラドクスがあるわけ。だから、アメリカもアメリカに対して集団自衛権を行使してくれるのはありがたいけど、まあちょっとありがた迷惑な感じが付き纏う。

だから、こんかいの共同声明では、集団自衛権の「行使容認に向けての動き」を歓迎・支持する、ではなくて、集団的自衛権の行使に関する事項について「検討を行っていること」なわけよ、歓迎・支持の対象は。

でね、オバマが強調したのは「尖閣も守られるよ」ってことじゃないの。オバマが強調したのは「対話を通した日中の平和的解決」であり、オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と繰り返したんです。さらに「米国は軍事的関与を期待されるべきではない」とも話した。

そりゃね、大統領が明言し共同声明にも「尖閣諸島を含む日本の施政下の土地」は安保条約第5条の対象だと明示したことは、それだけで他国からの侵略へのけっこうな抑止力になります。これまでに繰り返された国務長官、国防長官レベルの談話よりは抑止力になる。その意味ではよかった。でもそれだけです。

だいたい日米安保条約第5条にはこう書いてある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するよう行動する」

つまりは、まずは尖閣をめぐって攻撃されても、まずは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って行動する」わけ。武力行使なんて、ここには明記されていない。

でもってこれ、「施政下」というのがじつはキモでね、「日本の領土」じゃないのよ。オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と言って、「尖閣」とともに中国名の「釣魚島」の名前も言ってるのね。で、尖閣はいまは日本の実効支配下にあるけど、いったん中国が奪い取ったらこれは中国の施政下に入って、安保5条の適用される日本の施政下の領域じゃなくなるわけよ。ね? つまり、その時点で安保によって守られることから除外されるわけ。スゴい論理だよね。

そもそもあそこは無人島なんですよ。英語では「rock」と呼ばれるくらいに単なる岩なわけです(ほんとは海洋資源の権利とかあってそうじゃないんですけどね)。シリアやクリミアで軍事介入しなかったアメリカが、無人島奪還のために軍事介入しないでしょう。大義名分、ないでしょう。アメリカ議会、承認しないでしょう。するわけないもん。

だからここまで考えると、日本のメディアが今回の日米首脳会談、TPPはダメだったけど安全保障の上では尖閣の名前を出してもらって「満額回答だ!」「日米同盟の強固さに関して力強いメッセージをアピールできた!」なんて自画自賛してる政府や外務省の思惑どおりの報道をしてるけど、それ、自画自賛じゃなくて我田引水だから。実質的には何の意味もないってこと、わかるでしょ?

だから「尖閣、危ないじゃん、だから集団自衛権、必要なんじゃね?」と思ってるそこのキミ、それ、違うからね。

集団自衛権ってのは、日本が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたときにそこに(友だちがやられてるのに助けないのはオトコじゃねえ!って言って)自衛隊派遣して、そんでお国のため、というよりも別の国のために、誰かが死ぬかもしれないってことだから。ま、その覚悟があるんならいいけど、そんで、誰か自衛隊員が不幸なことに殺されたら、それはもうそっからとつぜん日本の国の戦争ってことになって、そんで戦争になっちゃうってことだから。で、日本国が攻撃されるかもしれないってことだから、その覚悟、できてる? ていうか、それって、憲法、解釈変更だけでできちゃうの? ウソでしょうよ、ねえ。

そゆこと。

もいっかい言うよ、集団自衛権と尖閣は関係ない。なんか、オバマ訪日の安倍政権の物言いではまるでそうみたいだったけど、尖閣と関係するのは安保条約。集団自衛権は、その見返りとして日本が別の戦争に加わること。

でさ、その「別の戦争」だけど、友だちを助けないのはオトコじゃねえ、と反射的に思う前に、その喧嘩の仲裁に入るのがオトコでしょう、って思ってよ。そっちのほうが百倍難しい。それをやるのがオトコでしょうが。

というわけで、今回、アメリカの妥協を引き出せなかったTPPのほうが具体的な現実世界ではずっと大事なんです。私昔からTPP反対ですけど。

March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

January 29, 2013

実名報道とは何か

日本では匿名報道とかボカシ報道が広がっています。読者・視聴者はそうして現場のナマの個人の証言や現実を知らずに済んでいます。アルジェリアの天然ガス施設の人質事件でも「実名にしなくとも」とか「遺族が可哀相」という反応が多くありました。

私は元新聞記者として実名報道こそが基本だと教わってきました。実名がわからないと取材元がわからない。取材できないと事実が確認できない。大袈裟な話をすれば、事実確認できない状態では権力が都合の悪い事実を隠蔽したり別の形に捏造する恐れがある。すべてはそこにつながるが故の、実名報道は報道の基本姿勢なのです。

しかし昨今の被害者報道を見ていると「実名」を錦の御旗にした遺族への一斉取材が目に余る。メディアスクラムというやつです。遺族や関係者だって心の整理がついていない時点での取材は、事実に迫るための手法とは確かに言い難いでしょう。

ただ、それを充分承知の上で、日本社会が「なにも実名にしなくとも」という情緒に流れるのには、なにか日本人の生き方に密接に関わっていることがあるからではないかと思っています。

苛酷な事件や事故で自分が死亡したとき、自分の死に様を報道してほしいかどうかはその人本人にしか決められないでしょうし、そのときの状況によっても違う。

それは人生の生き方、選び方なのでしょう。実際、苛酷で悲惨なドキュメンタリーや報道を好まない人もいるでしょうしその人はそういう現実になるべく心乱されない人生を送りたいのかもしれません。しかしそれでも誰かがその悲惨と苛酷とを憶えていなければならない。それも報道の役割の1つです。

記録されないものは歴史の中で存在しないままです。「存在しないままでいいんです」という人もいます。でも、その「存在しないままでいいと言う人たち」の存在も誰かが記録せねばならない。それは報道の大きな矛盾ですが、それも「書け」と私たちは教わってきました。なぜならそれは事実だからです。

「そんなことまで書くなんて」とか「遺族が可哀相」とか言っても、同時に「そこまで書かねばわからなかったこと」「別の遺族がよくぞ書いてくれたと思うこと」もあります。どちらも生き残った者たちの「勝手」です。私たちはその勝手から逃れられない。そのとき私たちは「勝手」を捨てて書く道を選ぶ。

それは、今の生存者たちだけではなく未来の生存者たちに向けての記録でもあるからです。スペイン戦争でのロバート・キャパの(撮ったとされる)あの『兵士の死』は、ベトナム戦争のエディ・アダムズのあの『サイゴンでの処刑』は、そういう一切の勝手な思いを超えて記録されいまそこにあります。それは現実として提示されている。

匿名でいいんじゃないか、遺族が悲しむじゃないか、その思いはわかります。実際、処刑されるあのベトコン兵士に疑われた男性の遺族は、あの写真を見たらきっと泣き叫ぶ。卒倒する。でも同時に、もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったらわからなかった現実がある。反戦のうねりも違っていたでしょう。

解釈も感想も人それぞれに違う。そんなとき私たちは読み手の「勝手」を考えないように教えられた。それはジャーナリストとしての、伝え手としての「勝手」にもつながるからです。そうではなく、書く、写す、伝える、ように。なぜならそれは「勝手」以前の事実・現実だからだと教わったのです。そして読者を信じよ、と。

「読者を信じよ」の前にはもちろん、読者に信じられるような「書き手」であることが大前提なのですが。

日揮の犠牲者については、報道側もべつに「今すぐに」と急ぐべきではないと思います。こういう事態は遺族や企業の仲間の方々にも時間が必要です。今は十全に対応できないのは当然です。むしろ報道側には、ゆっくりじっくりと事実を記録・検証する丁寧さが必要とされている。1カ月後、半年後、10年後も。

大学生のときに教えていた塾の教材でだったか、ずいぶんと昔に目にした、(死者は数ではない、だから)「太郎が死んだと言え/花子が死んだと言え」という詩句がいまも忘れられません。誰の、何という詩だったんだろう──そうツイッターでつぶやいたら、ある方が川崎洋さんの『存在』という詩だと教えてくれました。

「存在」  川崎 洋

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡(とち)の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥(もず)と言え頬白(ほおじろ)と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

January 09, 2013

2013年を日本で迎えて

久しぶりに日本で新年を迎えました。帰国するとその間の日本社会のちょっとした変化に気づいたりします。今回はテレビ画面の右下に小さく現れる「CM上の演出です」というテロップでした。1つはキムタクが出ている宝くじのCMで、彼が手筒花火をぶっ放しているものです。もう1つは乗用車が迷路を疾駆している車のCM。ほかにもありました。で「CM上の演出です」と来る。これって前からありましたっけ? 今回初めて気づいたんですが。

以前から「これは個人の感想です」とやるカンキローやコージュンやセサみんやクロズやなんかのインフォマーシャルはありました。が、今度は「これはCM上の演出です」って、いくらなんでもそんな言わずもがなのことを、わざわざ断らなければならない事情はいったいなぜなんでしょう。そもそも演出のないCMなど存在しないって、常識ではないのでしょうか?

こういうテロップはすべて視聴者からの苦情に対する予防措置なんですね。「こんなことを真似して事故を起こしたらどうする?」。なので前もって警告しておく、あるいは断り書きをしておく。でも健全な社会には「こんなことは安易に真似しない」というもう1つの予防教育があるはずです。あるいは「これは演出だ」と判断できる常識的な知力も。

日本はクレイマー社会だという説もあります。しかしこうした断りはもともとは米国のテレビで始まりました。「これはPaid Advertisementです」からそのつもりで見てください、という。苦情はアメリカ社会のほうがずっと厳しく多い。モンスターペアレンツだってきっとアメリカの方が手強い。

でも何が違うかと考えると、アメリカ社会は苦情にも簡単に謝らない。毅然と対処(あるいは理不尽なほどにも反論)する。対して日本社会は謝罪するんですね。謝罪することがあらかじめ当然のように期待されている。身分制度の名残が売り手と顧客の関係にも影響しているのしょうか? 日本語の「客」は確かに「カスタマー」や「ゲスト」やはてさて「神様」までをも取り込んだ強力な概念ですし。

でも、そうやって何か悪いことが起こらないようにと事前警戒ばかりして予防線を張り巡らす社会というのは、みんなとても窮屈でヘマをしないようにおどおどビクビクしている社会に見えてしまいます。さらにそれが何かの際に、人々を発作的な激高に煽ってしまうような、そんな悪循環。

かくして日本では普通のニュース映像でも通行人の顔や事件現場の背景のことごとくにボカシが入って、万が一のプライバシー上の苦情にも万全の予防措置を講じています。事故を目撃した人の証言までその人の足しかテレビには映っていない。もちろん背景には例の個人情報保護法みたいなものがあるのですが、それは見ていてあまりにパラノイア的ですらあります。

私がニューヨークに来て最初に気づいたことの1つは、地下鉄の駅に時刻表がないという事実でした。さらにはちゃんとしたアナウンスもなく勝手に駅を飛ばしたりルートを変更したりする。でも利用者たちはそれでも平然としてるし、そのうちに私も「ああ人間社会ってこんなもんなんだ」と思うようになってきました。あるいは近所のスーパーやファストフード店でも客あしらいがとんでもなくぞんざいで、あるいは商品だっていい加減で、トマトだってブドウだって下の方がつぶれていたり腐っていたり、まあ、そんなことに腹を立ててもしょうがない。自分でどうにかするしかない。だいたい、ニコニコと平身低頭な店員や時刻表通りに運行される列車なんて、世界中で日本くらいにしか存在しないんだと妙に得心している次第です。

ただしアメリカだってもちろんテロ警戒は空港に行くたびに物凄いですし、重要施設の入館チェックも神経質すぎると感じるほど厳重です。ただ、社会全体としては事前警戒と事後対処の覚悟のバランスが取れている。何がおかしいかって、「携帯電話は他の人に迷惑です」と言っていながら東京の地下鉄では現在、携帯の電波が走行中でも通じるようにどんどん工事が進んでいるんですよ。ま、データ通信やテキスティングのためでしょうけど。

「何か悪いことが起きないように」という心配や警告はいまやだれもが気づいているように「悪いことが起きてもこちらの責任が回避できるように」という言い訳になっています。リスク管理上それらも必要なことではあるでしょう。ただし、いくら事前警告していてもそれでも何か悪いことは起きるものです。その場合に「だから言っていたでしょう」という言い訳は責任回避のなにがしかを担うかもしれませんが、問題の解決には何の役にも立ちません。

リスク管理の成否とはむしろ、問題が起きたその際にどう毅然と対処できるか、ということに掛かっていると思います。予防教育と常識の強化ではなく事前警戒の責任回避のみに執心している社会は、肝心の時の対処に必ず抜かりを生じるのではないかと、新年早々、日本社会を見ていてとても心配なのです。

ちなみにこれは「個人の感想です」。

November 14, 2012

自由か平等か

今回の大統領選挙で驚いたのは各種世論調査の正確さでした。NYタイムズのネイト・シルバーの「全州正解」には唖然としましたが、それも各社世論調査に数多くの要素を加味した数理モデルが基でした。ただ、それが可能だったのもオバマ民主党とロムニー共和党の主張の差が歴然としていたからでしょう。

大きな政府vs小さな政府、中間層vs富裕層、コミュニティvs企業、リベラルvs宗教保守、共生vs自律と種々の対立軸がありましたが、日本人に欠けがちな視点はこれが平等vs自由の戦いでもあったということです。

「自由と平等」は日本では今ひとつ意味が曖昧なままなんとなく心地よりスローガンとして口にされますが、アメリカではこの2つは往々にしてとても明確な対立項目です。この場合の自由は「政府という大きな権力からの自由」であり、平等は「権力の調整力を通しての平等」です。つまり概ね、前者が現在の共和党、そして後者が民主党の標榜するものです。

宗教の自由も経済の自由も小さな政府もすべてこの「自由」に収斂されます。アメリカでは自由はリベラルではなく保守思想なのです。何度も書いてきていますが、なぜならこの国は単純化すれば英国政府や英国教会の権力を逃れてきた人々が作った国であり、そこでは連邦政府よりも先にまずは開拓者としての自分たちの自助努力があり、協力のための教会があり、町があり、そして州があった。州というのは自分たちの認める最小の「邦 state」でした。それ以上に大きな連邦政府は、後から調整役として渋々作ったものでした。

アメリカが選挙のたびに真っ二つになるのもこの「古き良きアメリカ」を求める者たちと、そうじゃない新たなアメリカを求める者たちの対立が明らかになるからです。その意味でオバマの再選は、旧来の企業家たちにIT関連の若く新しい世代が多く混入してきたこと、それによりアメリカの資本構造が資本思想、経営思想とともに変わってきたこと、それによって成立する経済・産業構造とその構成員が多様化していること、などを反映した、逆戻りしないアメリカの変身を感じるものでした。オバマへの投票は言わば、元々の自由競争と自助努力の社会に、それだけではない何かを付加しないと社会はダメになるという決意だったように思えるのです。

翻って日本はどうでしょう? 新自由主義のむやみな適用で傷ついた日本社会に、民主党はこの「オバマ型」の平等社会を標榜したマニフェストを打ち立てて政権を奪取しました。けれどその際に「官僚から政治を取り戻す」とした小沢一郎はほとんど「いちゃもんレベル」の嫌疑で被告人とされ、前原ら党内からもマスメディアからもほとんど個人的怨恨のごとき執拗さで袋叩きに遭って政権中央から追われました。いまの野田政権は結局はマニフェスト路線とことごとくほとんど逆のことをやって民主党消滅の道を邁進しています。

野田は結局、民主党つぶしの遠謀深慮のために官僚機構が送り込んでいた「草」だったようにしか思えません。マニフェスト路線にあることは何一つやらず、ことごとくが「かつての民主党」雲散霧消のための道筋を突き進んだだけという、あまりにもあからさまな最後の刺客。日本に帰ってきたとたん年内解散、総選挙と言われても、これでは「平等」路線は選択肢上から消えてしまい、対する「自由」路線も日本型ではどういう意味かさえ曖昧で、そんな中で選挙をして、どこに、誰に投票するか、いったいどのように決められるのでしょう? そうして再び自然回帰だけを頼りにして自由民主党ですか?

指摘しておきますが、自民党はかつては「総合感冒薬」みたいに頭痛鼻水くしゃみ悪寒どんな症状にも対処する各種成分(派閥)が多々入っていましたが、いまはそうではありません。たとえば宏池会というのがありました。ここはかつて“優秀”だったとされる時代の官僚出身者たちを中心に穏健保守の平和主義者たちが集まる派閥で、経済にもめっぽう強かった、それがいまや二派に分裂して下野以降に外れクジをあてがわれた谷垣前総裁の派閥に成り果てる体たらく。時代は多様性なのにそれと逆行して、自民党はどんどんわかりやすく叫びやすい右翼路線に流れました。総合感冒薬から、いまは中国との戦争や核武装まで軽々に口にする安倍晋三が総裁の、威勢の良いだけのエネルギードリンクみたいなものです。何に効くのかもよくわからないまま昔のラベルで売り出してはいるのですが、中身が違っていて経済をどうするかの選択肢すら書いていないのです。

そこにメディアが煽る「第三極」です。それが男性至上主義ファシズムの石原慎太郎や橋下徹が中心だと聞くと、対立軸もヘッタクレもありゃあしません。ひょっとしたら野田も前原も民主党解党後にそそくさとこちらに鞍替えして何食わぬ顔をして連合政権にしがみつこうとしているのでしょうか。日本のメディアは、マニフェストを作った本来の民主党として本来の対立軸の「平等」路線を示し得た小沢一郎の「国民の生活が第一」を徹底して無視して、いったいこの国の何をどうしたいのでしょうか? それは言論機関としても支離滅裂にしか映らないのです。

March 26, 2012

メディア化する会社

こちらで「LAW&ORDER」や「CSI」などのテレビドラマを見ていると本当にのめり込んでしまって仕事がはかどりません。日本でなぜこういう優れた番組が作れないのか役者の友人に聞いたら、日本では資金を管理するプロデューサーがほとんどそのテレビ局の人で、ドラマの制作現場におカネがあまり落ちてこないからじゃないかと言っていました。

おカネがないから優秀な才能が集まらない。だから出来上がったものがつまらない。それはテレビに限らずどこの業界でも同じ理屈に思えます。もちろんおカネがなくとも頭角を現す才能はいつの時代にも存在します。しかしどうしておカネがないのか?

「みんなテレビ局の社員の給料になっちゃってるからじゃないの?」と友人が続けます。「いまでこそ社内監査が厳しいけど、それでもプロデューサーって給料の他に接待だ何だってぼくらから見たら夢みたいなおカネを使えてる。ぼくらもそれにお相伴させてもらってるんだけどね」

日本の中央の、いわゆる大手マスコミ社員というのはかなりの給料をもらいます。テレビ局に限らず大手の出版社、広告会社の社員も30代で年収1千万円以上も珍しくありません。

対して米国のメディアでそんな給料をもらえている人はあまりいません。もちろん名前を出して仕事をするワン&オンリーの人たちは日本とは比べ物にならない報酬を得ていますが、テレビ局や出版社の社員はあくまでメディア=仲介役に徹して薄給で働いています。「オレはマスコミだ」と肩で風など切れません。

それでたとえば作家は本の売上の25%とか30%の印税をもらえます。アマゾンで電子書籍を売れば65%前後が手許に入ってきます。でも日本は単行本で10%。文庫本だと5%前後しか払ってもらえません。日本の電子書籍はフォーマットとおカネの取り分で揉めていてまださっぱり形になっていません。かくして出版社の社員の方が作家先生たちよりもずっとお金持ちという倒錯した現象が起きている。

テレビや演劇や音楽の世界も同じでしょう。アメリカではコンテンツとその提供者は別物です。発送電分離じゃないけれど、プロデューサーは独立していて、集めてきたおカネはメディアの社員の給料を支払うためには使われない。自ずからプロダクション内の、作家や作曲家、役者やスタッフなど作り手の現場に落ちるようになっています。もちろん下働きもものすごく多いですが、作り手は作り手として独立して産業を形作っている。メディアとは一線を画しているわけです。

ことはメディア業界だけじゃありません。世界経済の金融資本化と同じく、銀行だけでなく多くの企業もメディア化して現業やモノ作りの現場から離れていき、現場を支配しています。実際にモノを作っている外部の人々の労働を安く買い叩き、その分で浮いた利益を会社内部の人間だけの互助会・互恵会的な運営に回す仕組みを作っているのです。

会社に入った方が(楽じゃないにしても)カネになるのなら、バカらしくてモノ作りなどやってられません。「そのために苦労して大企業に入ったんです。そういう社員たちだけの特権的な互恵組織の機能を持っていても、べつにそう悪いことではないでしょう」と言う人もいるでしょう。でも組織というものは「互助機能を持つ」とよほど律していないとその互助機能こそを自己目的化してしまうものなのです。そうして閉鎖サーキットの中で自らを喰い潰すことになる。会社はそうやってダメになっていきます。会社だけじゃなくやがてはその社会も、その国も。

日本経済の停滞、日本企業の低迷、官僚組織の怠慢と政界の混迷、それらはすべて中間メディアが肥大するだけの、そんなおカネの回り具合のまずさで起きているような気がします。しかもそのおカネを、メディアのいずれもが既得権として絶対に手放そうとしない。

かくして日本のテレビでは下手な脚本のドラマと芸人が浮かれるだけの低予算番組が隆盛なのでしょう。なんともチャンネルを変えたくなるような話です。

December 24, 2011

捏造された戦争のあとで

先日の野田首相の東電福島第1「冷温停止状態」宣言を聞いていて、なにかどこかで同じ気分になったことがあるなあと思ったら、ジョージ・W・ブッシュが2003年、イラク開戦50日ほどで空母リンカーンの上に降り立って行った「任務完了(Mission Accomplished)」の演説でした。これからの問題が山積しているのに任務が達成されたなんて、バカじゃないかってみんな唖然としたものです。そして彼はその後、史上最低の大統領の1人に数えられるようになりました。

ブッシュのその任務完了宣言から8年有余経った12月14日、オバマ大統領が米軍の完全撤退をやっと発表しました。クリスマスの11日前でした。

クリスマスというのは家族が集まる1年の〆の大イベントです。このタイミングでの発表は、実際にクリスマスに帰国できるかは別にしてとても象徴的なことです。その後ろにはもちろん今年11月の大統領選挙のことがあります。共和党の候補指名争いの乱戦というか混乱というか、ほんとくだらないエキセントリズムの応酬のあいだに、オバマは着々と失地を回復しているようにも見えます。失業率は若干ながら改善し、議会では給与減税法案の延長を拒んだ下院共和党に怒りの演説をしてみせて翌日には明らかに渋面の共和党の下院議長ベイナーから妥協を引き出しました。イラク撤退もオバマの成果になるでしょう。戦争の終わり方は難しい。とくにブッシュの始めた「勝利」のない戦争を終わらせることは、尚更です。

たしかに今も米兵が反政府派の攻撃にさらされているアフガニスタンに比べると、イラクはまだマシに見えます。しかし撤退後は米軍というタガがはずれて治安は悪化するでしょう。事実、12月22日には早くもバグダッドで連続爆弾テロがあり60人以上が死亡しました。政権が空中分解する恐れもまだ色濃く残っているのです。

さまざまな意味で、イラク戦争は新しい戦争でした。そもそも発端が誤った大量破壊兵器情報による「予防的先制攻撃」でした。ブッシュ政権は同時に9.11テロとイラクの関連付けも命じていました。イラク戦争はつまり捏造された戦争だったのです。

他にも、戦争の末端で多く民間の軍事請負企業が協力していることも明らかになりました。ブラックウォーターという軍事警備会社が公的な軍隊のように振る舞い、実際米軍とともに作戦を遂行していました。さらにはその途中の2007年9月17日、バグダッド市民に対する無差別17人射殺事件まで起こしたのです。ブラックウォーターはこの年、悪名をぬぐい去るかのように社名を“Xe”(ズィー)に変更、さらには今月には名称を"Academi"(アカデミー)というさらに何の変哲もないものに再変更して、すでに新たに国務省やCIAと2億5000万ドルの業務請負契約を結んでいるのです。

一方で、ウィキリークスが公開した、ロイターのカメラマンら2人を含む12人の死者を出した2007年の米軍ヘリによるイラク民間人銃撃事件は衝撃的でした。ウィキリークスには米陸軍上等兵のブラッドリー・マニングの数十万点に及ぶ米外交文書漏洩もあり、これも従来なかった戦争への異議の形でした。

マニングはいま軍法会議にかけられ、終身刑か死刑の判決を下されようとしています。米軍の検察側の言い分は「ウィキリークスに重要情報を漏洩したことでアルカイダ側がそれを知ることになった。従ってこれは敵を利する裏切り行為だ」というものです。それはすべての戦争ジャーナリズムを犯罪行為に陥れる可能性を持つ論理です。どんな隠された情報も、公開することで敵に知れるわけですから。そこに良心の内部告発者は存在しようがありません。国家が間違いを犯していると信じたとき、私たちはそれをどう止めることができるのでしょうか?

大手メディアは一様に米国側の死者が約4500人、イラク側の死者は10万人と報じていますが、英国の医療誌Lancetは実際のイラク市民の死者は60万人を超えるだろうと記しています。実際の死者数は永遠に誰にも明らかになることはないでしょうが、米国側の公式推定である10万人という数字ではないと私は思っています。

そしていま米軍が撤退しても、例の民間の軍事請負業者はだいたい16000人もまだイラクに残るそうです。戦争の民営化から、戦後処理の民営化です。こうしてイラクの管轄は米軍から米国務省(外務省に相当)に移ります。バグダッドの米国大使館は世界最大の大使館なのです。そんな中、“戦後復興”に向けてすでに多くの欧米投資銀行関係者がイラクを訪れていることを英フィナンシャル・タイムズが報道していました。将来的に金の生る木になるだろう国家再建事業と石油取引の契約に先鞭を付けたいのです。

イラクはまだ解決していません。お隣イランでは核開発疑惑でイスラエルや米軍がまた予防的に施設攻撃をするのではないかと懸念されています。そしてアジアでは金正日死亡に伴う北朝鮮の体制移譲。そのすべてが米国の大統領選挙の動向とも結びついてきます。

2012年はあまり容易ではない年になりそうです。

December 05, 2011

沖縄を「犯す」

7週間ほどどっぷり日本に浸かってきました。おかげさまで私の翻訳したブロードウェイ・ミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」は西川貴教さん、川平慈英さんほかキャスト・バンド・スタッフのみなさんの奮闘で東京、大阪、北九州と無事に公演を終えることができました。よかったよかった。

またいろいろと美味しいものも食べてきましたが、ところで本日の話題はまた沖縄の話です。

日本にいて楽なのは、なんとなくふうわりと過ごすことができるところです。換言すればすべてを言わずとも通じるところ。逆に居心地の悪さもまた、すべてを言わないから論理が通じないところです。そしてその意味の通じなさ/おかしさを言論メディアまでもが黙過しているので、居心地の悪さはいつかイライラに嵩じてしまう。

今回もそんなことがありました。沖縄防衛局長が米軍普天間飛行場の辺野古移設に関する環境影響評価書の遅れについて「(女性を)犯す前に犯すとは言わない」という比喩を使って更迭されました。そのことに関するメディアの論調がどうも表面的で片手落ちだったのです(ちなみに、「片手落ち」は片手のない人への揶揄とは関係ない語源を持つ言葉ですからね)。

確かに「犯す前に犯すとは言わない」とは、こりゃ非道い言い方です。女性の人権無視も甚だしい。野田さんも「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ申し訳ない」と謝罪しましたから、更迭の理由はその表現方法なんでしょう。

でも、それはとてもおかしな理由付けです。

環境アセスは、これが出たら一応下調べも済んだということで次に工事へと進みます。つまり「工事」を「やる」という宣言にもなります。防衛局長はこの「工事」を「犯る」と言い換えた。問題の核心はここです。

つまり辺野古移設は沖縄を「犯す」=蹂躙する行為だと彼は(図らずも?)示唆した。それは沖縄県民の過半数が思っていることでもあります。だから辺野古移設も反対だし、米軍基地という「犯す」主体が丸ごといなくなってほしいとも願っています。

もしこれが当の沖縄県民の発言だったら、自虐的ではあるがそれ以外に表現しようのない事として問題にはならなかったでしょう。それは発言者の「当事者性」というものです。

ならば防衛局長は沖縄県民の代弁者として「本当の事」を言ったのか? 本当の事だが政府は違う立場に立っている。発言はそれに反する。だから更迭したのだ──この場合は沖縄の代弁者たるこの局長の更迭に、沖縄県民は怒って然るべき、という見方も出てきます。

一方で、逆にこの沖縄防衛局長の人柄がとんでもないという場合もありましょう。本当に女性蔑視の男性至上主義者なのかもしれません。同じような発言の前歴もあるイヤな奴で、だから報道メディアもオフレコ発言とはいえ横紙破りを承知の上で今回ついに問題にしたのかもしれない。

それを指摘しつつ、では実際にこのオフレコ発言を最初に記事にした琉球新報の編集局長談話を見てみましょう。彼は掲載理由をこう記します。「人権感覚を著しく欠く発言であり、今の政府の沖縄に対する施策の在り方を象徴する内容でもある」。なるほど、私が前段で指摘したような、あまり踏み込んだ見方も説明もしていません。新聞メディアとしてはまあそこまで触れる必要もないでしょうし。しかし明らかに、局長はここで問題は2つあると併記しています。「人権感覚を著しく欠く発言」とそれに象徴される「今の政府の沖縄に対する施策の在り方」。

そう、2つです。でも、政府謝罪にはその後者がすっぽりと抜け落ちている。「女性や沖縄の方々を傷つけ不愉快な思いをさせ」たという野田さんの謝罪は前者に対するものだけであり、むしろより重く本質的な後者=沖縄施策の非人間性、から視線を逸らさせる詭弁なのです。政府はまさに、また黙って気づかれないように沖縄を「犯そう」としているのです。

そういえば以前も同じようなことがありましたね。「福島=死の町」発言。これも「福島の人に不快感を与えた」から辞任。以前にもこのブログで指摘しましたが、問題の核心は福島が実際に死の町であるという事実です。言葉尻の問題ではない。

自民党時代も民主党政権になってからも、政治家と官僚がこういう表面的な言い換えで問題の本質をごまかすのは変わっていません。次は4年間上げないと言っていた消費税の引き上げを、どういう理由でごまかすのかを見ているとよいでしょう。

September 29, 2011

野田演説を書いたのはだれだ?

野田さんの首相としての外交デビューとなった今回の国連ニューヨーク訪問は、私の知る限り欧米メディアは一行もその中身を詳報しませんでした。原子力安全サミットでのスピーチも国連総会での演説も無視。かろうじて野田オバマ会談の内容がAPやAFP電などで型通りに伝えられただけです。

というのも、世界が注目している東電の原子力発電所事故の問題はすでに国会の所信表明などですでに伝えられていた内容だったし、冷温停止を年内に(2週間分だけだけど)前倒しするというのもこれにあわせたかのように細野原発相が直前に話していてすでにニュースではなかったからです。

それでも国連での第一声は震災支援への感謝と東電・福島第一原発事故の謝罪から始まりました。低姿勢なのは国会の所信表明と同じで、話し振りも真面目な人柄を表しているようでした。でも、震災から原発、金融危機回避の協調から、南スーダン国連PKOへの協力、中東やアフリカへの援助や円借款と種々多様なことを網羅して終わってみると、はて、何が言いたかったのか中心テーマが思い起こせない。

これは何なんでしょうか? 問題全般に配慮が行き届き、そつなくすべてに触れておく。どこからも文句の出ようのない及第点の演説テキスト。でも逆に、これだとすべての論点が相対化してしまって、主張も個性も埋没してしまう。なんだか「これもやりました、あれにも触れておきました」みたいな、学生の宿題発表みたいな印象だったのです。

総会演説は特にパレスチナの国家承認を訴えるアッバス議長、それに反対するイスラエルのネタニヤフ首相というアクの強い演説に挟まれて、さらには直後のブータンの仏教的幸福論にも高尚さと穏健さで負けて、これではニュースにしたのが日本からの随行記者たちだけというのも宜なるかな。まるでわざと、あまりニュースにならないように、目立たないように、と仕組んだみたいな演説構成だったのですから。

それを疑ったのが原発問題です。先に訪米した前原さんともども野田さんは「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」として、それを免罪符のように外国への原子力技術の協力や原発輸出を継続する考えもさりげなく表明したのです。でもこれって、欧米メディアで取り上げられていたら批判もかなり予想される発言じゃないですか?

考えても見てください。チェルノブイリ直後のゴルバチョフがそんなことを言っていたら世界はどう反応していたでしょう? 日本国内でだって、立派なはずのどっかの一流料亭が食中毒を起こして、それでも「これを教訓に安全面での最高水準を目指し、ご期待に沿うべく明日からすぐに弁当を売ります」などと言えますか?

だいたい日本の原発ってこれまでだって「世界最高水準の安全性」だったはず。にも関わらずこんな重篤な事故になり、だからこそ原発は危ないという話なのです。野田さんは「現在の放射性物質の放出量はいま事故直後の400万分の1」とさも自慢気でしたが、これだって事故後の放出が1週間で77万テラベクレル(テラは1兆)と天文学的ひどさなのに、それがたかだか400万分の1に減ったからと言って何の意味があるのか。おまけに累積残存放射性物質の問題はまるで片付いていないのですよ。

するってえと、野田演説は、誠実なのは話し振りだけで、肝心なところで実はチラチラとごまかしが仕込まれていたってことになります。しかも問題を指摘されそうな部分はみんな「演説全部をきちんと読んでもらえれば、それだけじゃないことも書いてある」「あくまで安全が徹底された上での話だ」という逃げができるように仕掛けられていました。こんな巧妙な、言質を取られないようにどうとでも読めるような、つまりはとても官僚的な演説を、いったい誰が考えたんでしょうね。

そうしたらこないだの毎日新聞、「野田佳彦首相が就任直後、政権運営について (1) 余計なことは言わない、やらない (2) 派手なことをしない (3) 突出しない、の「三原則」を側近議員らに指示していたことが分かった」と報じていました。これ、まさにそのままこんかいの国連演説にも言えることです。ということは、官僚的ながら、ひょっとすると自分で書いたのかもしれませんね。いやそれにしてもよくでき過ぎています。政権運営についても、だれか知恵のある官僚のアドバイスでもあったんじゃないかと勘ぐりたくもなります。

つまりはこの政権は既定路線からはみだそうとしない、波風立てずに長続きするように、という、ときどき爆発したり突出したりして官僚たちが右往左往した菅さんのときとはまた別の形の、官僚主導政治ってことでしょうか。民主党の拠って立つ政治主導はいったいどこに消えたんでしょうね。そりゃ難しいだろうけどさ。

オバマさんが「I can do business with him」と言ったそうですが、これを「彼とは仕事ができる」と日本語に訳してもちょっと意味が曖昧です。「仕事」っていろいろありますけど、ビジネスというのは、取引、商売のことです。ジョブやワーク(何かを為すため、作り上げるために動くこと)ではない。それもアメリカの企図している事業のための取り引きであって日本の都合は関係ありません。そんなビジネス、取引、契約の相手としてノダはふさわしいというニュアンスが窺えるのです。

選挙を控えて国の内外で問題山積の大統領は、安全牌のはずの日本にまで煩わされたくはない(鳩山さんのときには安全牌だったはずの日本にずいぶんと振り回されましたからね)。野田さんはまさに「米国の仕事上、もう煩う心配のない相手だ」という意味なのでしょう。そういや普天間やTPPでも米国の意向に沿って「宿題を1つひとつ解決していく」と表明していましたっけ。やれやれ。


【追記】というようなことをざっと先日のTBSラジオのdigなんかで話したのですが、途中、国連総会での野田演説がどうしてあの順番になったのか、パレスチナとイスラエルに挟まれてそこでも埋没しちまったみたいで、あれも仕組んだのかなんて勘ぐっちゃいましたが、いやそんなことはありませんでした。国連代表部に電話して訊いたら、そうそう、順番の決め方、思い出しました。あれは王様や大統領なんかの国家元首が最初にずらっと演説をするのですね。それから次に首相クラス、次に外相クラス、となる。

で、アッバスさんはパレスチナの暫定自治政府の大統領ながら、まだ国家として承認されていないので、最初の元首カテゴリーの最後に位置することになった。

次に首相クラスが来ます。ところでその前に、各国から国連事務局に、自国の代表が演説したい時間枠(何日目の午前か午後、という選択)というのを3つ提出するそうです。帰国日程もありますからね。

で、日本は初日は大統領クラスで埋まるので最初からそこの枠は選択せずに、2日目の午前が第1希望、3日目の午前が第2希望、2日目の午後を第3希望として出していました。「午後」というのは、みんな演説が長くなるので深夜になっちゃったりして大変だから午前を優先させたということです。で、結果、3日目の午前、アッバス大統領の後の、首相クラスのトップとして登場した、というわけです。

というか、同じ枠にイスラエルも希望してたんですね。国連事務局はそこで考えた。「パレスチナとイスラエルは同じ問題を話すだろうが、近すぎても刺激的過ぎる。で、そこに同じ枠希望の日本とブータンとをバッファーとして挿入しようと。日本は律儀に真面目な演説をするし15分の持ち時間を大きく越えるような真似もしたことがない。さらにブータンは仏教的平和国家で、緩衝剤としてはうってつけではないか」とまあ、この注釈は私の推測ですが、まあそんなところじゃないかなあ。

おかげでアッバスさんのときには満員だった総会場は野田さんのところでトイレタイムになっちゃって4割くらいまで聴衆は減りました(国連の日本代表部は、国連デビューの野田さんに、この順番なので聴衆は退席するかもしれないけれど、はんぶんも入っているのはいい方なのです、とガッカリしないよう説明していたそうです)。CNNも野田演説の前にカメラをスタジオに切り替えてアッバス演説の分析と解説の時間に使いました。で、次に総会場が映ったのはイスラエルのネタニヤフさんの演説だった、というわけです。あの人、そんなに演説はうまくないんだが、相変わらずドスが利いてましたね。もっとも、パレスチナの国家承認国連加盟に強硬に反対するネタニヤフさんでしたが、最新の世論調査では、69%ものイスラエル国民が「イスラエル政府は国連による独立パレスチナ国家承認を受け入れるべきだ」としているのです。調査はまた、占領地区に住むパレスチナ人の83%がこの国家承認の努力を支持していることも明らかにしています。

潮目は変わってきているのです。

September 13, 2011

「死の町」

実際、政治部や政治記者クラブには現役の大臣や首相が気に食わないと言って「絶対に辞めさせてやる」と豪語する“猛者”がいつの時代にも存在します。「産経新聞が初めて下野なう」「民主党さんの思い通りにはさせないぜ」(あ、これは社会部選挙班だったか)とか言ってしまう勘違い土壌が昔から延々と続いているのです。

朝日新聞のサイト(9日18時16分)によれば、鉢呂経産相の「死の町」発言は9日午前の閣議後記者会見で出てきたもので、前後の文脈まで入れると「残念ながら周辺町村の市街地は人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。」ということだったそうです。

これがどういう失言なのか、私にはわかりません。

でもそんな「問題」発言をしたから、フジテレビがその前夜にオフレコの囲み取材で出た、放射能をうつしてやる、という旨の発言をも“暴露”して「ほらこんなやつなんです」と視聴者に知らしめた。【追記:そうしたら13日時点でフジテレビの記者、じつはその囲み取材の中にもいなかった、という話が出てきました。最初に報じたフジも伝聞でやっちゃったわけ? へっ? そりゃ、なんじゃらほい?】

毎日サイト(10日2時31分)の神保圭作、高橋直純、田中裕之の3記者連名記事によると、この「『不用意』では済まされない発言」で、コメントを求めたフクシマ関係者は一様に「怒りをあらわにし」「あきれた様子だった」とか。産経(10日11時37分)に至っては「人間失格だ」とまで言わせています。

ふむ、百歩譲って「死の町」と表現することが住民たちの愛郷心や帰郷の希望を傷つけたとしましょう。でもだれがどう取り繕おうともフクシマ原発の周囲が現在「死の町」である現実は変わりません。あの、牛舎につながれたまま餓死し、文字どおり骨と皮だけになって累々と畳み重なるように死んでいた牛たち。その責任は「死の町」と呼んだ人にはありません。死の町にしてしまった人にあります。それをまるで「王様は裸だ」と言ってはいけないと、言論の雄たる報道メディアが事実を糊塗してどうするのか。ストロンチウム90やセシウム137を「死の灰」と言ってきたのは、それがまさにそうだからであり、ここを「死の町」と言わなければ、再出発も再興もうつろなごまかしです。

そこを「死の町」にしたのは東電や原発政策です。それらはいまも抜本的な責任を取らずに処分もありません。あれだけの大事故なのに東電には警察の捜査も入っていないんです。報道が責めるべきはそちらでしょう。

おまけに例の「放射能うつす」は毎日の記者への発言とされるものでした。囲み取材でも聞いていない記者がほとんど【前段の追記参照】。なのにフジが報じるや他紙他局もみんな伝聞でこれを記事にした。結果、時事は「放射能つけちゃうぞ」、朝日は「放射能をつけたぞ」、産経は「放射能をうつしてやる」、読売なんか「ほら、放射能」。テレビも「放射能をうつすという趣旨の発言」と濁していました。【追記2:視察から帰ってきて服も着替えていないと愚痴った鉢呂に、どこかの記者の方から「じゃあ、放射能ついてるんじゃないですか」と言われて、それに応じる形で「じゃあつけてやろうか」とすり寄った、という情報まで流通しているそうです。なんともはや……。だから伝言ゲームはダメなのです】

報道記者は、裏の取れない情報は、それがいかに重大でも泣く泣く捨てねばならないのです。もし政治家が図太い嘘つきだったら、言った言わないの水掛け論に持ち込むでしょう。そのときに傷つくのは歴代築き上げてきた報道への信頼です。いや逆に、報道した記者が冒頭の政治記者のようなやつだったらどうするのか? ジャーナリズムは体制の転換にまで影響を及ぼせます。だからこそ事実に謙虚でなければならないのに、発言の趣旨の確認や裏取りの基本も捨てたこのメディアスクラムは唖然以外の何物でもない。

鉢呂さんは原発慎重派でした。震災後には福島の学校を回ってクーラーをつける手配をしたり子供たちの年間被曝線量を20ミリシーベルトから1ミリに下げるのに尽力しました。大臣就任後はエネルギー審議会に原発慎重派を入れるべきと発言したり、将来の原発ゼロにも言及しました。

こんなに簡単に謝って辞任してしまう人が自説を貫いて官僚や原発推進派と渡り合えたかどうかはおぼつかないですが、日本の政治の機能不全の一因は、いまの政治報道にもあるのは確かでしょう。だいたい、毎日が「『不用意』では済まされない発言」と書いていたあの記事(産経もほとんど同じトーンです)、あれ、書き方が、典型的な作文記事の書き方なのです。筆が主観に走ってる走ってる。質問とその答えのコメントも誘導尋問のにおいがプンプンする。読んでいると、その浅ましさがわかっちゃうんですよね。よい記事は、ああは下品じゃないのです。

June 15, 2011

演劇もまた語れよ

今週発表されたトニー賞でベスト・プレイ賞を受賞した「ウォー・ホース(軍馬)」も、ベスト・リバイバル・プレイを獲った「ノーマル・ハート」も、見ていて考えていたことはなぜかフクシマについてでした。

ウォーホースは、第一次大戦中に英国軍の軍馬として戦地フランスに送られたジョーイと、その元々の飼い主アルバート少年の絆を描いた劇です。舞台上を動き回る実物大の模型の馬は人形浄瑠璃のように3人で操られるのですが、次第に操り師たちの姿が気にならなくなり、いつしかそんな馬たちに感情移入してすっかり泣いてしまいました。

それは、敵味方の区別なくひたすら人間に仕える動物の姿を通し、戦争という人間の罪業を描く試みでした。健気な馬たちを見ながら私がフクシマの何を思い出していたかというと、あの避難圏内に取り残された動物たちのことです。

荷物の取りまとめに一時帰宅を許された住民たちは、帰宅してすぐにペットフードを山盛りに与えて連れて行けない犬や猫をいたわります。それらを記録したTVドキュメンタリーでは、時間切れで再び圏外へと去ってゆく飼い主をどこまでも必死に追いかけ走る犬を映し続けていました。それが、劇中のジョーイのひたむきさに重なったのです。

ノーマルハートは80年代前半のエイズ禍の物語ですのでこれもまたぜんぜんフクシマと関係ないのですが、全編、無策な政治と無関心な大衆への怒りに満ちていて、あの時代の欺瞞を鋭く弾劾し検証する作品でした。それが、見ている私の中でまた原発を取り巻く同様の欺瞞と無為への怒りに転化していたのです。

エイズの話など、いまはぜんぜん流行らないのに、どうしてかくも力強くいまもまだこの劇が観客の心を打つのか、わかるような気がしました。それは演劇人の、時代を記すという決意のようなものに打たれるからです。

エイズ対策を求めてやっと市の助役とミーティングを持てた場面で、遅れてやってきた助役は主人公のネッドに「いちいち小さな病気の流行にまで我々がぜんぶ対応できるものではないんですよ」と言います。「それより、あなた、少しヒステリックになってるのを抑えてくださいな」

「わかった」とネッドは言います。「サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ボストン、シカゴ、ワシントン、デンバー、ヒューストン、シアトル、ダラス──このすべての街でいま新しい患者が報告されている。それはパリやロンドンやドイツやカナダでも発生している。でもニューヨークだ。おれたちの街、あんたが守ると誓った街が、それらぜんぶの半数以上の患者を抱えてる。1千人の半分だ。そのうちの半分が死んでいる。256人が死んでるんだ。そしてそのうちの40人は、おれの知ってるやつらだ。もうこれ以上死ぬやつを知りたくない。なのにあんたはこれっぽちもわかってない! さあ、おれたちはいつ市長に会えるんだ? ランチに出てます、ランチに出てますって、市長は14カ月もずうっとランチしてるわけか!」

ここにあるのは過ちと誤りの清算の試みです。時代に落とし前を付けてやるという気概です。演劇とは、それを通して自分たちで歴史の不正義を記録してゆくのだという、責任と覚悟の表明なのです。

そう思いながらこれを書いていると、HBOであのリーマンショック後の政財界の内幕を描いた「Too Big To Fail(破綻させるには大き過ぎる)」がウィリアム・ハートの主演で放送されていました。NYタイムズの記者によるノンフィクションを、こんな短期間で上質のドラマに仕上げた。

こういうのを見ると本当にかなわないなと思ってしまいます。 AKB48の「総選挙」を責めるわけじゃないけれど、あれをどの局もそろってニュースの一番手に持ってくるならその一方で、テレビも演劇もジャーナリズムも、もっともっと社会への取り組みがあってもいいじゃないかと思ってしまう。

東電と政府の欺瞞と怠慢とを、日本の演劇や映画やテレビは必ず作品に昇華してもらいたいと思います。どこでどういうウソがつかれ、どこでどういう悲劇が生まれたかを、ドラマもまた語ってほしいと切に願います。

ブロードウェイという華やかな娯楽の街で、拍手を忘れるほどの怒りが渦巻き、涙ながらの喝采が渦巻くのはなぜなのか? それは人間の言葉の力です。すべてを語ることで対処しようとする文化と、すべてまで語らぬことをよしとする文化の膂力の違いを、フクシマを前にした今ほど恨めしいと思ったことはありません。

でも恨めしく思っているだけでは埒も開かないので、とりあえず、私はこの「ノーマル・ハート」を翻訳してみようと思います。いつの日か日本で上演できることを画策しながら。

June 07, 2011

6月はLGBTプライド月間

オバマ大統領が6月をLGBTのプライド月間であると宣言しました。今月を、彼らが誇りを持って生きていけるアメリカにする月にしようという政治宣言です。その宣言を、この末尾で翻訳しておきます。LGBTとはレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの性的少数者たちのことを指す頭字語です。

私がジャーナリストとしてLGBT問題を日本で広く伝えようとしてからすでに21年が経ちました。その間、欧米ではLGBT(当初はLGだけでしたが)の人権問題で一進一退の攻防もありつつ結果としてじつにめざましい進歩がありました。日本でもさまざまな分野で改善が為されています。性的少数者に関する日本語での言説はかつてはほとんどが私が海外から紹介したもののコピペのようなものだったのが、いまウィキペディアを覗いてみるとじつに多様で詳細な新記述に溢れています。多くの関係者たちが数多くの言説を生み出しているのがわかります。

この大統領宣言も私がクリントン大統領時代に紹介しました。99年6月に行われたのが最初の宣言でした。以降、ブッシュ共和党政権は宗教保守派を支持基盤にしていたので宣言しませんでしたが、オバマ政権になった09年から再び復活しました。

6月をそう宣言するのはもちろん、今月が現代ゲイ人権運動の嚆矢と言われる「ストーンウォール・インの暴動」が起きた月だからです。69年6月28日未明、ウエストビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」とその周辺で、警察の度重なる理不尽な摘発に爆発した客たちが3夜にわたって警官隊と衝突しました。その辺の詳細も、今では日本語のウィキペディアで読めます。興味のある方はググってみてください。69年とは日本では「黒猫のタンゴ」が鳴り響き東大では安田講堂が燃え、米国ではニクソンが大統領になりウッドストックが開かれ、アポロ11号が月に到着した年です。

このストーンウォールの蜂起を機に、それまで全米でわずか50ほどしかなかったゲイの人権団体が1年半で200に増えました。4年後には、大学や教会や市単位などで1100にもなりました。こうしてゲイたちに政治の季節が訪れたのです。

72年の米民主党大会では同性愛者の人権問題が初めて議論に上りました。米国史上最も尊敬されているジャーナリストの1人、故ウォルター・クロンカイトは、その夜の自分のニュース番組で「同性愛に関する政治綱領が今夜初めて真剣な議論になりました。これは今後来たるべきものの重要な先駆けになるかもしれません」と見抜いていました。

ただ、日本のジャーナリズムで、同性愛のことを平等と人権の問題だと認識している人は、40年近く経った今ですらそう多くはありません。政治家も同じでしょう。もっとも、今春の日本の統一地方選では、史上初めて、東京・中野区と豊島区の区議選でゲイであることをオープンにしている候補が当選しました。石坂わたるさんと、石川大我さんです。

オバマはゲイのカップルが養子を持つ権利、職場での差別禁止法、現行のゲイの従軍禁止政策の撤廃を含め、LGBTの人たちに全般の平等権をもたらす法案を支持すると約束しています。「それはアメリカの建国精神の課題であり、結果、すべてのアメリカ人が利益を受けることだからだ」と言っています。裏読みすればLGBTの人々は今もなお、それだけ法的な不平等を強いられているということです。同性婚の問題はいまも重大な政治課題の1つです。

LGBTの人たちはべつに闇の住人でも地下生活者でもありません。ある人は警官や消防士でありサラリーマンや教師や弁護士や医者だったりします。きちんと税金を払い、法律を守って生きています。なのに自分の伴侶を守る法律がない、差別されたときに自分を守る法律がない。

人権問題がすぐれて政治的な問題になるのは当然の帰着です。欧米の人権先進国では政治が動き出しています。先月末、モスクワの同性愛デモが警察に弾圧されたため、米国や欧州評議会が懸念を表明して圧力をかけたのもそれが背景です。

6月最終日曜、今年は26日ですが、恒例のLGBTプライドマーチが世界各地で一斉に執り行われます。ニューヨークでは五番街からクリストファーストリートへ右折して行きますが、昨年からかな、出発点はかつての52丁目ではなくてエンパイアステート近くの36丁目になっています。これは市の警察警備予算の削減のためです。なんせ数十万人の動員力があるので、配備する警備警官の時間外手当が大変なのです。

さて、メディアでは奇抜なファッションばかりが取り上げられがちですが、数多くの一般生活者たちも一緒に歩いています。マーチ(パレード)の政治的なメッセージはむしろそちら側にあります。もちろん、「個人的なことは政治的なこと」ですが、パレードを目にした人はぜひ、派手さに隠れがちな地味な営みもまた見逃さないようにしてください。

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LESBIAN, GAY, BISEXUAL, AND TRANSGENDER PRIDE MONTH, 2011
2011年レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・プライド月間
BY THE PRESIDENT OF THE UNITED STATES OF AMERICA
アメリカ合州国大統領による

A PROCLAMATION
宣言


The story of America's Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender (LGBT) community is the story of our fathers and sons, our mothers and daughters, and our friends and neighbors who continue the task of making our country a more perfect Union. It is a story about the struggle to realize the great American promise that all people can live with dignity and fairness under the law. Each June, we commemorate the courageous individuals who have fought to achieve this promise for LGBT Americans, and we rededicate ourselves to the pursuit of equal rights for all, regardless of sexual orientation or gender identity.

アメリカのLGBTコミュニティの物語は、私たちの国をより完全な結合体にしようと努力を続ける私たちの父親や息子、母親や娘、そして友人と隣人たちの物語です。それはすべての国民が法の下での尊厳と公正とともに生きられるという偉大なアメリカの約束を実現するための苦闘の物語なのです。毎年6月、私たちはLGBTのアメリカ国民のためにこの約束を達成しようと戦ってきた勇気ある個人たちを讃えるとともに、性的指向や性自認に関わりなくすべての人々に平等な権利を追求しようとの思いを新たにします。

Since taking office, my Administration has made significant progress towards achieving equality for LGBT Americans. Last December, I was proud to sign the repeal of the discriminatory "Don't Ask, Don't Tell" policy. With this repeal, gay and lesbian Americans will be able to serve openly in our Armed Forces for the first time in our Nation's history. Our national security will be strengthened and the heroic contributions these Americans make to our military, and have made throughout our history, will be fully recognized.

大統領に就任してから、私の政府はLGBTのアメリカ国民の平等を達成するために目覚ましい前進を成し遂げました。昨年12月、私は光栄にも差別的なあの「ドント・アスク、ドント・テル」【訳注:米軍において性的指向を自らオープンにしない限り軍務に就けるという政策】の撤廃に署名しました。この政策廃止で、ゲイとレズビアンのアメリカ国民は我が国史上初めて性的指向をオープンにして軍隊に勤めることができるようになります。我が国の安全保障は強化され、ゲイとレズビアンのアメリカ国民が我が軍に為す、そして我が国の歴史を通じてこれまでも為してきた英雄的な貢献が十全に認知されることになるのです。

My Administration has also taken steps to eliminate discrimination against LGBT Americans in Federal housing programs and to give LGBT Americans the right to visit their loved ones in the hospital. We have made clear through executive branch nondiscrimination policies that discrimination on the basis of gender identity in the Federal workplace will not be tolerated. I have continued to nominate and appoint highly qualified, openly LGBT individuals to executive branch and judicial positions. Because we recognize that LGBT rights are human rights, my Administration stands with advocates of equality around the world in leading the fight against pernicious laws targeting LGBT persons and malicious attempts to exclude LGBT organizations from full participation in the international system. We led a global campaign to ensure "sexual orientation" was included in the United Nations resolution on extrajudicial execution — the only United Nations resolution that specifically mentions LGBT people — to send the unequivocal message that no matter where it occurs, state-sanctioned killing of gays and lesbians is indefensible. No one should be harmed because of who they are or who they love, and my Administration has mobilized unprecedented public commitments from countries around the world to join in the fight against hate and homophobia.

私の政府はまた連邦住宅供給計画におけるLGBTのアメリカ国民への差別を撤廃すべく、また、愛する人を病院に見舞いに行ける権利を付与すべく手続きを進めています。さらに行政機関非差別政策を通じ、連邦政府の職場において性自認を基にした差別は今後許されないとする方針を明確にしました。私はこれからも行政や司法機関の職において高い技能を持った、LGBTであることをオープンにしている個人を指名・任命していきます。私たちはLGBTの権利は人権問題であると認識しています。したがって私の政府はLGBTの人々を標的にした生死に関わる法律や、またLGBT団体の国際組織への完全な参加を排除するような悪意ある試みに対する戦いを率いる中で、世界中の平等の擁護者に味方します。私たちは裁判を経ない処刑を非難する国連決議に、「性的指向」による処刑もしっかりと含めるための世界的キャンペーンを率先してきました。これは明確にLGBTの人々について触れた唯一の国連決議であり、このことで、国家ぐるみのゲイとレズビアンの殺害は、それがどこで起ころうとも、弁論の余地のないものであるという紛うことないメッセージを送ってきました。何人も自分が誰であるかによって、あるいは自分の愛する者が誰であるかによって危害を加えられることがあってはなりません。そうして私の政府は世界中の国々から憎悪とホモフォビア(同性愛嫌悪)に反対する戦列に加わるという先例のない公約を取り集めてきました。

At home, we are working to address and eliminate violence against LGBT individuals through our enforcement and implementation of the Matthew Shepard and James Byrd, Jr. Hate Crimes Prevention Act. We are also working to reduce the threat of bullying against young people, including LGBT youth. My Administration is actively engaged with educators and community leaders across America to reduce violence and discrimination in schools. To help dispel the myth that bullying is a harmless or inevitable part of growing up, the First Lady and I hosted the first White House Conference on Bullying Prevention in March. Many senior Administration officials have also joined me in reaching out to LGBT youth who have been bullied by recording "It Gets Better" video messages to assure them they are not alone.

国内では、私たちはマシュー・シェパード&ジェイムズ・バード・ジュニア憎悪犯罪予防法【訳注:前者は98年10月、ワイオミング州ララミーでゲイであることを理由に柵に磔の形で殺された学生の名、後者は97年6月、テキサス州で黒人であることを理由にトラックに縛り付けられ引きずり回されて殺された男性の名。同法は09年10月に署名成立】の施行と執行を通してLGBTの個々人に対する暴力に取り組み、それをなくそうとする作業を続けています。私たちはまたLGBTを含む若者へのいじめの脅威を減らすことにも努力しています。私の政府はアメリカ中の教育者やコミュニティの指導者たちと活発に協力し合い、学校での暴力や差別を減らそうとしています。いじめは成長過程で避けられないもので無害だという神話を打ち払うために、私は妻とともにこの3月、初めていじめ防止のホワイトハウス会議を主催しました。いじめられたLGBTの若者たちに手を差し伸べようと多くの政府高官も私に協力してくれ、「It Gets Better」ビデオを録画してきみたちは1人ではないというメッセージを届けようとしています【訳注:一般人から各界の著名人までがいじめに遭っている若者たちに「状況は必ずよくなる」という激励と共感のメッセージを動画投稿で伝えるプロジェクト www.itgetsbetter.org】。

This month also marks the 30th anniversary of the emergence of the HIV/AIDS epidemic, which has had a profound impact on the LGBT community. Though we have made strides in combating this devastating disease, more work remains to be done, and I am committed to expanding access to HIV/AIDS prevention and care. Last year, I announced the first comprehensive National HIV/AIDS Strategy for the United States. This strategy focuses on combinations of evidence-based approaches to decrease new HIV infections in high risk communities, improve care for people living with HIV/AIDS, and reduce health disparities. My Administration also increased domestic HIV/AIDS funding to support the Ryan White HIV/AIDS Program and HIV prevention, and to invest in HIV/AIDS-related research. However, government cannot take on this disease alone. This landmark anniversary is an opportunity for the LGBT community and allies to recommit to raising awareness about HIV/AIDS and continuing the fight against this deadly pandemic.

今月はまた、LGBTコミュニティに深大な衝撃を与えたHIV/AIDS禍の出現からちょうど30年を数えます。この破壊的な病気との戦いでも私たちは前進してきましたが、まだまだやるべきことは残っています。私はHIV/AIDSの予防と治療介護の間口をさらに広げることを約束します。昨年、私は合州国のための初めての包括的国家HIV/AIDS戦略を発表しました。この戦略は感染危険の高いコミュニティーでの新たな感染を減らし、HIV/AIDSとともに生きる人々への治療介護を改善し、医療格差を減じるための科学的根拠に基づくアプローチをどう組み合わせるかに焦点を絞っています。私の政府はまた、ライアン・ホワイトHIV/AIDSプログラムやHIV感染予防を支援し、HIV/AIDS関連リサーチ事業に投資するための国内でのHIV/AIDS財源を増やしました。しかし、政府だけでこの病気に挑むことはできません。30周年というこの歴史的な年は、LGBTコミュニティとその提携者たちがHIV/AIDS啓発に取り組み、この致命的な流行病との戦いを継続するための再びの好機なのです。

Every generation of Americans has brought our Nation closer to fulfilling its promise of equality. While progress has taken time, our achievements in advancing the rights of LGBT Americans remind us that history is on our side, and that the American people will never stop striving toward liberty and justice for all.

アメリカ国民のすべての世代が私たちの国を平等の約束の実現により近づかせようとしてきました。その進捗には時間を要していますが、LGBTのアメリカ国民の権利向上の中で私たちが成し遂げてきたことは、歴史が私たちに味方しているのだということを、そしてアメリカ国民は万人のための自由と正義とに向かってぜったいに歩みを止めないのだということを思い出させてくれます。

NOW, THEREFORE, I, BARACK OBAMA, President of the United States of America, by virtue of the authority vested in me by the Constitution and the laws of the United States, do hereby proclaim June 2011 as Lesbian, Gay, Bisexual, and Transgender Pride Month. I call upon the people of the United States to eliminate prejudice everywhere it exists, and to celebrate the great diversity of the American people.

したがっていま、私、バラク・オバマ、アメリカ合州国大統領は、合州国憲法と諸法によって私に与えられたその権限に基づき、ここに2011年6月をレズビアンとゲイとバイセクシュアル、トランスジェンダーのプライド月間と宣言します。私は合州国国民に、存在するすべての場所での偏見を排除し、アメリカ国民の偉大なる多様性を祝福するよう求めます。

IN WITNESS WHEREOF, I have hereunto set my hand this thirty-first day of May, in the year of our Lord two thousand eleven, and of the Independence of the United States of America the two hundred and thirty-fifth.

以上を証するため、キリスト暦2011年かつアメリカ合州国独立235年の5月31日、私はこの文書に署名します。

BARACK OBAMA
バラク・オバマ

January 19, 2011

年の初めにイッパツかます

大晦日の夜、「紅白」の裏のTBSラジオで、1年を振り返る時事座談会に出演していました。「フリーランス座談会 信頼崩壊の2010年」というのがタイトル(ポッドキャストでいまでも聞けますが、いつまでサーバーに残っているのでしょう?)。お相手はジャーナリストの江川紹子さんと神保哲生さん。とはいえこれは帰国していた12月半ばに収録したもので実際の大晦日には私はメキシコに避寒に行っていたのですが。

でも今回書きたいのはそのことではありません。座談は大まかな流れだけ決めてすべて自由だったのですが、スタート直後の番組紹介などは司会役でもあった私の役目で、それはしっかりとセリフが決まっていました。でも台本どおりしゃべるのがどうにも嫌で(この日の台本のことではありません。いつもそうなの)、それも何の気なしにアドリブでしゃべっちゃいました。録音なので後で編集できるからよかったのでしょうが、生放送だったら制作スタッフはヒヤヒヤだったでしょう。すんません、TBSラジオのみなさん。

台本どおりが嫌、というのは、たとえ台本以上の面白いことが言えたにしてもともすると失敗する危険もあります。ですので制作側が台本どおりの無難なところでまとめたいと思うのはまったくもって至極ごもっとも。それを責めるのは筋違いです。私もそんな気は毛頭もありません。

でもこうして言挙げしているのはそれを敷衍していまの日本社会を論じちゃおうという魂胆です。最近日本に帰る機会が多く、帰るたびにとても心地よいぬっくりした感じに包まれるのですが、そのうち次第に時間が経ってくるとなんだかフラストレーションがたまってくるのを禁じ得ない。それはべつに私の周囲の人たちに感じているのではなくて、テレビで報道される政治家や官僚やそれを報道するキャスターや記者やコメンテーターたちにイライラが募ってくるのですね。なんともチマチマとお行儀よくまとまっていて、だれもあまり仕事で冒険も遊びもしない彼らを見ていると、なんだかだんだんイラっとしてくるのです。アドリブを嫌う社会。台本どおり。慣例どおり。つつがなく、つつがなく。それはつまり、予定調和を至上として、失敗を恐れる過度の事前警戒を、「普通のこと以上のことをしない」怠惰の言い訳にしている社会のことです。

江川さんは昨年、某テレビでスポーツ評論をする張本勲さんの「喝!」に思わず「えー?」と異論の感嘆詞を挙げたところその張本さんの逆鱗に触れ、番組を降ろされちゃったようです。そこでは台本上、江川さんは発言しないことになっていたからで、張本さん、プロのオレの野球評論にエー?とは何事だ、素人は黙ってろ、となったらしい。ま、翻訳すればそれはつまり女子供は口を出すなってことみたいな響きですけど、まあそうなんでしょう。そうやって日本のテレビ番組では侃々諤々の論争はほとんど起こりません。みんな司会者の「そうですよね」の言葉でうなづき合って次のコーナーへ移るのです。まあ、視聴者の日本人自身が論争を嫌うから、そういうの見たくないってのもあるでしょうけどね。そういうの、すぐに「放送事故」扱いですし。「事故=失敗」を事前に警戒してその恐れをしらみつぶしに排除してゆく。それが「安全=成功=事無し」に至る道です。それをできるのが優秀なスタッフ、ということ。これはじつは皮肉でもなんでもありません。

じつはあの普天間も同じようなメカニズムが働いたのでした。外務省も防衛省も「端から無理」と失敗を警戒して、鳩山さんの外堀を埋め身動きとれないようにした。それが「安全=成功=事無し」に至る道でした。それを見た菅さんが政権延命だけを目的に失敗を恐れてなにも変革せず、官僚たちの言いなりに消費税増税だけを目指すのは当然かもしれません。消費税増税は、まさにいまの体制を維持するため、つまりは同じく「安全=成功=事無し」であるために必要な手段なのですから。そこに横並びで台本どおりの政治部報道メディアの応援があれば下手はしないだろうという目論見です。その屋台骨はすでに世論の波で揺らいでいるのに、です。

また放送局の例で申し訳ないけれど、たとえば自動車会社の提供する番組ではスポンサー社製の車の批判や車社会の弊害には触れてはいけないことになっています。でもそれはべつに提供企業がそう規制しているわけではないんですよ。じつは番組の制作側がそう慮って事前に出演者になんとなくそう伝え、事無きを期するわけです。先ほども書きましたがそれは制作側としては当然の配慮でしょう。そういうたしなみのあるところじゃないと逆に危なくて番組なんか提供できるものではありません。でも本当にそれがいいのでしょうか?

いや、「それが」というのは違うな。「それだけを金科玉条とするだけでことはすべてうまく運ぶのでしょうか?」というようなところが私の気持ちに正確な疑問文です。批判は財産だとして積極的にそれを聞こうとする会社は、自動車会社に限らず逆に伸びるでしょうし、むしろ誠実だとして信頼すらされるのではないか? それは「普通」以上の効果です。事前にすべて段取りしてちんまりまとまる事無かれ主義よりも、むしろ敢えて少しは波風立っても議論して問題の本質を見極めた方が会社や社会の飛躍になるはず。

ところがその判断ができる勇者が少な過ぎる。日本には、企業や社会というプールの中で「溺れると嫌だから」と立ち泳ぎしてる人ばかりが目立ちます。なにも全員がグーグルやアップルの社員みたいに自由に泳いで発想しろと言っているのではないけれど、そういうアドリブのための余地を用意していないとブレークスルーは絶対に起きない。

台本、慣例、マニュアル──いろいろな呼び名はあるでしょうが、もっと楽しく自由に仕事をしようじゃありませんか。もちろんアドリブはしっかりと基本を押さえていないと無理だし、そういうのができないのにしゃしゃり出てくるやつが多いと「おまえはマニュアルどおりにやってればいいんだよっ!」と怒鳴りたくなるのもわかるんですがね。アメリカにいると日本とは逆に、面白いやつはたくさんいるけどそうした台本どおりの基本動作ができない輩が多すぎて、そっちの点でイラっとすることが多いのですから困ったもんです。

段取りと事前警戒を怠らないきっちりしたスタッフがいる。でも同時に、自由にアドリブでやれるスタッフもいる。そしてその双方がお互いを必要としていることを自覚し尊敬し合っている──どうして人間社会ってそんなふうにバランスよく両方を兼ね揃えることができないんでしょう。うまくいかないもんですねえ。

政権交代から2年目です。このパラダイムシフトには未知の状況を切り拓く当意即妙の胆力が必要なのはわかっていたはずなのに、日本社会の個人個人はそれに対応し切れていません。減点されない普通のことをするのではなく、得点しなくちゃ勝てないのだけれど。まあ、こんなことを新年早々考えているのは、ええ確かに、私がジャズやロックのアドリブが大好きだったサッカー少年として育ってきたせいかもしれませんけど。

October 13, 2010

検察審査会もおかしいぞ(10/18、加筆あり)

小沢一郎という政治家はよほど嫌われているんでしょう。検察審査会の2回もの議決で強制起訴が決まり、それでも議員辞職も離党もしないと言うので、各紙の世論調査によると6割とか7割の人たちがけしからんと思っているようです。

じつは公務員の場合、刑事事件で起訴された時点で「通常な勤務が不可能になる」「公務につくことに疑惑や疑念が生じる」ために休職扱いとなります。ただしそこで被告人本人が罪を認めている場合は、本人に確認した上で懲戒免職の処分が下されたりします。でも本人が罪状を否認している場合はあくまでも「推定無罪」の原則で免職にしたりはできません。

ところが日本では、逮捕されたら即、犯人という印象が強いですよね。だから起訴の段階で会社を辞めさせられたりすることもあるかもしれません。あるいは世間的にそういうふうに思い込んでいる人も多いでしょうね。これはひとえに優秀な日本の警察への信頼があって、さらにそれに乗っかった上でメディアの報道があるからです。新聞記者もテレビ記者も、事件や事故の場合は日常的にほとんどが捜査当局の情報が主たる第一次情報なので、自ずと視点はまずは捜査当局のものと同じになります。

捜査当局の視点とは、事件においては、あくまでも容疑者を捜し出し、そいつは有罪だと思って邁進するという視線です。メディアも推定無罪原則はいったん棚に上げ、とりあえずは手っ取り早く手に入るそうした容疑者情報を基にすることになります。それが同時に、読者に読まれるような(事件が解決してよかった、いったいどんなやつが犯人なんだ?的な)記事を提供するということにつながる。それが期待されるニュースなのですね。

新聞もテレビも商売です。推定無罪を掲げて容疑者の人物像や事件の背景を伝えなかったら(それはまだ捜査当局の思い描く「筋読み」の物語でしかないのですが)だれも買っても見てもくれません。せめてバランスをとって容疑者側の言い分を伝えようにも、勾留期間中は弁護士以外は接見禁止だったりして直接取材ができないので、警察や検察経由の供述内容を伝聞報道するしかないのです。記者による独自の調査報道というのもありますが、よほどの大きな事件でないと徹底取材は難しい。それだっていわゆる世間の関心を見諮りながらやるわけだし、強制捜査件があるわけではない新聞社には人材や労力も限られています。

かろうじて事実に近いものが明らかになるのが裁判ですが、そんなころにはみんな当の事件の内容すら忘れています。とてもそれまで待てません。じつは裁判原稿はきちんと追うとかなり興味深いものがあるのですが、なにしろ事件から時間が経っている上に公判も小間切れで、1回1回の間隔が長い(最近の裁判官裁判は違いますが)。自ずから読者も限られてきます。

かくしてジャーナリズムは、いまも瓦版時代の一時的・短期的なセンセーショナリズムから脱却しきれない。まあ、日本の検察の起訴有罪率は99%以上ですから、そこに乗っかって記事を書いてもあまりハズレはないわけですが。

しかし今回、厚労省局長だった村木さんの裁判で恐ろしいことが発覚しました。前回のコラムで書いたように、検察は自分たちの有罪物語に合わせて証拠を捏造することもあるのかもしれないという重大な疑義が生まれたのです。そのことに世間が気づいた。じつはこれに合わせて新聞報道やテレビ報道というのもじつはすごく危ないのではないかということもわかったのですが、これは当の新聞やテレビが触れないのであまり話題になっていませんよね。

でも、こんなのがありました。
朝日新聞社の今年の会社案内です。まずは9月初め時点でウェブサイトなどで宣伝されていたこの紙面を見てください。

そしてこれが10月になって掲載されている同じ、というか改訂された宣伝文です。

どう変わったかわかりますか?

改訂前は、この郵便不正が局長逮捕にまで及んだ大事件で、それを「朝日新聞は、特捜部のこうした捜査の動向や、事件の構図なども検察担当の記者たちがスクープ」と自慢していたのですが、改訂後には「一方、(中略)厚生労働省の局長が逮捕・起訴されましたが、大阪地裁で2010年9月、無罪判決が出されました。朝日新聞は、逮捕の前後から局長の主張を丹念に紙面化すると同時に、特捜部の捜査の問題点を明らかにする報道も続けました」となって、掲載した新聞紙面の写真も、真ん中のが村木さんの写真まで付けた「厚労省局長を逮捕」の紙面から差し障りのないものにすげ替えられているのです。

村木さんが逮捕・起訴されたときのメディアの報じ方は、やはり前述した「犯人扱い」でした。なんだか女性の出世頭であることが悪いことかのように、まるで(言葉は悪いけど端的に言えば)「やり手ババア」みたいな書き方をしていたんですよ。そのことにホッカムリして、しれっとこれはないでしょう、という気がします。ま、朝日に限りませんが。

村木さんだけではありません。今年は足利事件の菅家さんの再審無罪もありました。そんな大げさな事件でなくとも、たとえば痴漢の事件などでかなりの無罪判決が出ています。これは07年に公開された「それでもボクはやってない」という映画でも描かれていたパタンです。

そういうときはみんな「無実なのに有罪にされるなんて、怖いなあ」と思うのですが、でもやはり誰か容疑者がつかまるとどうしても懲罰心理が働いてしまう。「赦せない」「懲らしめてやれ」という感情がその人に集中します。その心理を煽るようにまたメディアもそうした流れに添った情報を売るのです。

話を最初に戻しましょう。小沢一郎に対するこの検察審査会による「起訴」は、そんな「一般」の「市民」の「感情」を背景にしているのでしょう。朝日は社説で「知らぬ存ぜぬで正面突破しようとした小沢氏の思惑は、まさに『世の中』の代表である審査員によって退けられた」と書きました。他紙も異口同音です。本当にそうなのでしょうか?

ここまでを踏まえた上で、次に検察審査会の問題に触れたいと思います。

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September 15, 2010

菅とオバマのシンクロ具合

「いよいよこれから政権の本格運営」と言いながらも、菅さんの政策が実はいまもよくわかりません。民主党国会議員412人の「全員内閣」というのも、はたして小沢陣営との人事面での折り合いはつくのかどうか。

そもそも告示の前後で小沢さんに人事面で配慮をすると言っていたのをいったん白紙に戻す修正を行い、その後またいつの間にか「全員内閣」と言っているのはどういうことなのか? さらに小沢さんの「政治主導」や「地方主権」という決まり文句を、選挙戦後半では菅さんも言い始める始末。いやいや、全員内閣も官僚政治打破も地方重視も実に結構なことですから、菅内閣がそれで行ってくれるなら小沢派だって大歓迎、べつに小沢総理でなくとも実を取ればそれで民主党的には大団円、めでたしめでたしでしょう。しかし菅さんの場合、ほんとにそうなの? 思いつきでパクってるだけでしょ? という感じで、どうも額面どおりには受け取ってよいものかおぼつかない。

菅さんはこれまで民主党の代表選には9回も立候補しています。ならばもっと日本を率いる具体策や理念があって然るべきなのに、どうも言葉が上滑りして「雇用、雇用、雇用」と言う「新成長戦略」も具体的に何をどうすると言いたいのかよくわからない。今回が初めて総理大臣に直結する出馬だったせいか、政策モットーはこの選挙戦を通じて紡ぎ出した感さえあります。結果、日本のマスメディアでは「政策論争が盛り上がってよかった」との論調まで出た。でも、菅さんの主張に首尾一貫さがないのは消費税10%発言を筆頭に明らかなのでした。

わたしが懸念するのは「長期本格政権を目指す」という発言が(実際、3カ月前の首相就任時にそう言ったのです。「普天間も片付いたから」と)、菅さんにとって目的化していることです。長期政権であるために必要な手っ取り早い方法は「自民党化」することです。つまり、体制を維持し、体制不安につながる抜本改革を行わないこと。つまり、政権交代を狙って民主党の掲げたマニフェストを引き揚げること、なあなあに済ますことなのです──国家戦略局なんて滅相もない。

今回の代表選で菅さんが勝利したというのは、このマニフェスト修正に民主党とその支持者がお墨付きを与えたということです。いや、そうではない、反小沢票が消極的に菅さん支持に回っただけで、マニフェストの理念そのものは否定されていない、と言う向きもいるでしょうが、民主党はそうは動かないでしょう。

菅政権は何をどうしたいのか? そしてそれはかつての自民党の政治とどう違うのか? 第2次菅政権はそれを明確に示し得るのでしょうか?

菅さんのこの3カ月の日和見ぶり、いや腰砕けを見ていると、与野党協調を謳うあまりにどっちつかずになって改革を進められないオバマ政権を見ているような気になります。「チェンジ」を掲げながら、アメリカは変わったでしょうか? イラクの戦闘部隊撤退も形だけ、アフガンは泥沼化、国内には反イスラムの連鎖が顕在化し、同時に同性愛者の従軍問題も拙速が目立つばかり。金融改革も中途半端でまたまたウォール街を利するだけですし、環境問題もメキシコ湾原油流出企業への甘い事前検査が明らかになり、なおかつ環境汚染の危険性の高い海洋油田掘削規制はまったく手つかずです。唯一の成果とされる医療改革と国民皆保険制度も実際はどっちつかずの改革に落ち着いて、大統領就任時の熱狂的ともいえた国民の変革への希求は、なんだか尻すぼみになりつつあるのです。

そこで中間選挙です。貧富だけではなく、アメリカでは保守とリベラルの両極化が進んで、とりとめがありません。リベラルなオバマ政権下で、どうして共和党のティーパーティー(お茶党)みたいな右翼が出てくるのでしょうか? それはまさに例のグラウンドゼロ・モスク問題の反イスラム感情勢力と重なります。そうしてオバマ民主党は中間選挙での敗北が予想されている。

それは、同じくどっちつかずの菅政権の道行きと重なりはしないのでしょうか? 政局ではなく、私は日本とアメリカが心配です。まあ、これまでもいつも「心配」してきたわけですからいまさらどうのという感じもありますが、しかし心配してきた一つひとつはかなりその心配に沿って現実のものになっています。いつどこでそれがロバの背を折る一本の藁になるのか、心配はその線へとシフトしていっています。

August 24, 2010

今野雄二の死去と大橋巨泉

「フツーに生きてるGAYの日常」というウェブサイトを運営しているakaboshiくんが、「今野雄二の訃報コメントがフジテレビに“添削”された顛末」を書いた大橋巨泉のことを紹介していました。

「彼の同性愛者らしい細やかなセンスを買っていただけに残念」という彼の表現が、フジテレビ側から「文章の中の『同性愛者』という表現が、死んだ人に対する表現としては使えないので、それを取って『彼らしい細やかなセンスを・・・』とさせていただきたいのですが」「上司と相談したところ、矢張りある程度同業者の中では知られていても一般的な事ではなく、人が亡くなった時という特殊な時期なので、今回はその表現を控えさせて頂きたい」という事情で書き換えられたという話です。

「人の死に“同性愛者”はふさわしくないのか?日本にはタブーが多すぎる」●今野雄二さんの訃報コメント変更で大橋巨泉さん注目発言

添削されてもブチ切れるんじゃなくて、「もう寝た後の話でどうしようもありませんでしたね。こちらは一向にかまいません。ただこのことは週刊現代に書くつもりです」と、事の顛末を自身の連載コラムで発表するというところがこの人の軽やかさ。メディアで生きてきた人ならではです。

で、わたし、藤村有弘が死んだときのこの大橋巨泉の弔辞もはっきりと憶えています。もう30年近くも前の話ですから、うわあ、すごいこと言うなあ、この人、と思ったものですが、アウティングされた本人とも「巨泉さんならしょうがないか」というような付き合いをしていた、というその自負と自信からの宣言なのでしょうね。

そんなアウティングは、その人個人の責任として為されるもので、当然それなりの覚悟もあるものです。アウティング行為にケチを付けるやつも、アウティング対象の友人にケチを付けるやつも、そういう連中はぜんぶおれんとこに来い、相手してやる、ということなんでしょう。それは世間一般でいう、他人に対するアウティングとはちょいと違います。

それをさておき、「死んだ人」を知りもしない赤の他人が、おこがましくもそこに口を挟む。今野雄二も、巨泉さんになら代弁をしてもらいたいが、フジテレビのサラリーマンに自分の代弁をしてほしいと頼んだ覚えはない、というところでしょう。ま、そのことに乗じて私たちもなんやかんや今野雄二のアウティングに対してコメントする資格もないわけですが……。

しかしいったい、ゲイだと言ったらフジテレビにどういうクレームが来るのかなあ。サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって風が吹くのにもおびえる桶屋の商売敵がほんと多すぎます。ひいてはそれが日本社会の衰退の元凶なのよね(←大袈裟)。

大橋巨泉は希代の遊び人で、むかしから1本芯の通った数寄者です。11PMでも終戦だとか原爆だとか同和だとか硬派企画をどんどんやっていて、そこにこの人の何とも不思議な「日本人離れ」したコメントが重なる。北海道の少年時代に11pmを見ていると、ジャズだとかゴルフだとか英語だとかパイプカットだとかの話題も加わって、ああ、東京の人ってすごいなあ、って唖然としたものです。

18で初めて東京に出てきたときも、わたしが怯んだのは頭のいい人たちではなくて大橋巨泉的な都会人に対してでした。なんだか、生きてきた人生がぜんぜん違うのね。だって、芸能人とか文化人とか芸術家だとかと、子供のころから親交があったりする。これはもう取り返しもつかず、ただただ口を開けるか脱帽するしかないわけで。

今野雄二のこの件も、巨泉さんのこのコラムで、歴史として残ることになりました。「事実」は、いずれにしても書き残さねばならないのです。ところで織田裕二、どうしちゃったんでしょうね。って、関係ないか。

ではごきげんよう。来週半ばからはまた日本です。


***
とまあ、上記のような「日記」を先週、ミクシで書いたところ、フジTVに務める私のマイミクさんの1人が次のようなコメントを寄せてくれました。上記の私のテキストに足りない要素が指摘・補填されていて、合わせてお読みくださると問題の重層的な部分が見えてくると思いますので、コメント者の了解を取って採録しますね。


***

2010年08月22日 04:27
僕は生憎、その件の担当ではありませんでしたが、それでも、僕はその弊社スタッフと結果的に同じ対応を取ったと思います。

僕と、そのスタッフ(たち)の思考経路がどのような展開の末に、同じ結論に至ったのかには相違があると思いますが、僕の場合、まずご遺族・存命の関係者の存在について考えたでしょう。

そして、今野さんが生前、ご自身の意思として、カムアウトしていたのか、していなかったのか、確認が既に容易には取れないその時点で、当人がもしかすると隠していたかもしれない性的指向をメディア・サイドの判断でおおっぴらにしていいものか、その権利がメディアにあるのか、ということを考えると思います。

大橋さんが自分の土俵で語ることについては、大橋さんの責任で負えばいい。大橋さんは今野さんのゲイとしてのスタンス、ご家族について、などご存じだったかもしれない。

が、そういった手がかりのない1メディア担当としては、もし当人がセクシュアリティを隠していたという可能性が少しでもあったら、遺族・関係者の手前、それをアウティングすることはできない、と判断します。

もちろん最善は、遺族・関係者に連絡を取り、このようなコメントが出ますが、問題ございませんか、などと確認を取ることだと思うのですが、自殺というショッキングな状況に対応しているご遺族に、そのタイミングで、この確認は、僕の気持ちとしてはできない。また、報道が出るまでの限られた時間の中ですべての関係者についてそれを網羅することはとうていできない。

弊社スタッフがとったと同じ対応をおそらく自分も取っただろう、というのは、アウティングということに対する僕自身の見解にもよるものでしょう。

社会的な影響力を少なからず持っている同性愛者が、反ゲイに価する言動を行う、またはその人が沈黙していることが、ゲイの立場の向上に反している、そのような限定条件下で、アウティングは行われるべきものだというのが私見です。

自分自身のセクシュアリティに悩んでいる・結論の出ていない、迷える同性愛者(及びその家族)を徒にアウティングすることには反対です。

以上、私見でした。
ご意見・ご反論ございましたら、承ります。


***
このコメントに対して、わたしもコメントを返しました。それが以下のものです。


***
2010年08月22日 06:08
なるほどなるほど、そういや、自殺だったんだ。私の上記の書き物にはその視点が一切欠けていました。つまり2重のスティグマというわけです。そうね、その場合は少しでもそれを軽減させようとするのもメディアたるものの立ち位置かもしれないね。

ただここで肝心なのは、きみの註釈したように当の担当者が思考したという跡すじが、巨泉さんのテキストを読む限りではいっこうに窺えないということです。「結果的に同じ対応を取る」ことと、その問題はまったく別のことです。おそらく巨泉サイドが、上記のきみのような意を尽くした事情説明のコメントを聞いていたら、彼はおそらくそのこともきっとコラムに書くんじゃなかろうか? 結果として、彼のコラムは変わっていたのではないか? ま、わたしも直接フジの担当者に当たったわけでもなく巨泉サイドに確認したわけでもないから、適当にしか言えんのですが。

じっさい、きみの書いた上記コメントは、十分に思考された説得力のあるものですから、たとえ結果が「添削」という同じもので終わっていたとしても、わたしはそこでは両者間にある共通認識が生まれ、これはまた次のステップに進むための一歩になり得たはずだと確信します。

それがしかし「死んだ人に対する表現としては使えない」「人が亡くなった時という特殊な時期」というようなだけの説明では、これはどこにも行き着くところのない言い訳、言い逃れに過ぎなく聞こえてしまうでしょう。じっさい、巨泉さんはそうやって聞いた。そこにはきみのコメントにある説得力はなかった。そういうことではないのでしょうか。

貴社の担当者としては、もし仮にきみのいうようにその辺の遺族への配慮が行き届いていたのだったとしら、コメントを要望した相手への配慮と事情説明もまた行き届いていて然るべきだった、と、ま、そういうことでしょうか。しかしまた、後者がそうではなかった以上、前者もまた、恐らく違っていたのではないか、と推察できてしまう。私はそれを「サラリーマン体質っていうのか役人根性というのか小市民的というのか、減点評価に極端に神経質になっちゃって」と非難したいのです。

いかがなもんでしょうかね。


***
かくして、再びそのコメントをくれた本人から次のような返事が。


***
2010年08月22日 07:09

そうだね。
「死んだ人間には使えない」って説明がヘンだものね。

多分、直接、巨泉さんサイドと対応したスタッフはあまりものがわかってない、ただのメッセンジャーだったのかもしれないですね。

俺としては、少なくとも、彼が相談したという「上の人間」というのは、俺と同じような考え方をした、と考えたいところだけれど。(多分、クラス的に、その「上の人間」は今の俺と同程度の職歴・年齢であるはずなのね。)

ただ、間に立っていたそのメッセンジャーくんが、それをうまく伝えられなかった、と僕は思いたい。

でも、ま、わからないですな。
差別の問題はほんと難しい。
ゲイに関しては、自分がそうだから、一応わかるんだが、同和のこととか、まったくわからないもん。
みんなが避けて、隠してしまうトピックだから、見えて来ないんだよね。だから、きちんと学べない。

もっと見える存在にならなければならない、というのは本当に、真の命題ですな。


***

テレビ局にもいろいろ考えている人間はいるわけです。
もちろんゲイもレズビアンもトランスジェンダーもいるわけですから。
というわけで、この問題に関してはこんなもんですか。
彼がコメントを寄せてくれたおかげで、わたしも問題の多面性を紹介できたと思います。

August 10, 2010

ママの憂鬱

7月下旬、34歳の日テレの女性アナウンサーが5カ月の乳児を残して仙台の高層マンションから飛び降り自殺しました。日本の朝やお昼のニュースショーでは男性のコメンテイターやキャスターたちが深刻顔で「育児ストレス」や「育児ノイローゼ」に関した通り一遍のコメントをしていました。いわく「育児が大変な仕事だという周囲の理解と協力が必要」──しかし育児ストレスというものの正体が何なのかという「理解」は、当のコメンテイターたちにもあまりないようでした。

事件後ややして「育児ストレス」は「産後うつ」という言葉に置き換わりました。そう診断されていたと女性アナのお兄さんが明かしたからです。けれどそれがどういう病気なのかは「優秀で、きまじめで完全主義な人」がかかりやすいだとか、「最後まで仕事にこだわり、育児を割り切れない」のが原因だとか(いずれも産経新聞iZa β版http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/425362/)、なにもわかっていないままでした。

テキサス州ヒューストンの郊外で9年前の2001年、生後6カ月から7歳までの子供5人全員が36歳の母親の手で浴槽で溺死させられたという事件がありました。母親はその2年前に四男を出産し、その後、うつ病になっていたのです。そう「産後うつ」です。

このとき、NYタイムズなどの米紙は事件に絡め、出産に関連する女性のホルモンや代謝の変化の、男性たちの想像もつかない複雑さを詳細にリポートしていました。

こういうことです。出産と同時に胎盤が出てしまうと、女性の体内では卵胞ホルモンであるエストロゲンも数分あるいは数時間以内で急激に下降します。黄体ホルモンも同じく急降下し、その一方でお乳を司る脳下垂体が普段の2倍にまで膨張するのです。それまで9カ月間にわたって母胎を守ってきたシステムそのものがとつぜん切り替わってしまうのです。これはまさに「変身」の衝撃が母体を襲うということです。

その結果、米国では85%もの母親が出産後3日以内に「ベイビー・ブルーズ(産後の気のふさぎ)」という症状を経験するのだそうです。気分の波が激しく、2週間にもわたって鬱々とした状態が続くのです。

85%、とはほとんど全員です。しかしもっと驚くのはそのうちの10人に1人がただの気のふさぎでは済まずに本当に「産後うつ病」に移行するということです。こうしたお母さんたちは疲弊感と孤独感にさいなまれ、母になった喜びも感じられずしばしば涙に暮れ、食事や睡眠も不規則になるのだとか。おそらくこれらの数字に日米の差はあまりないと思います。違いがあるとしたら、それは母親たちを取り巻く環境の差でしょう。とはいえ、それもいまはそんなに変わらないと思いますが。

うつ状態よりも厳しい症状は「産後精神障害」と呼ばれます。米国では新生児の母親の千人に1人という発症率ですが、これはふだんの精神障害発生率の16倍という数字だそうです。この場合は出産直後から妄想が現れ、「赤ちゃんを殺せ」「この子は死んだほうが幸せだ」という幻聴まで聞こえたりするとか。米国ではこうした母親による赤ん坊殺しが毎年百件前後も発生しています。

産後のうつ症状にはホルモン療法が効果的とも言われますが、もちろん同時に家庭内での理解と支援が必要です。もちろんこれはお題目的な理解ではなく、前述した女性の化学のメカニズムを男性たちも含めた周囲のみんながきちんと知っての理解です。そのためにはメディアもきちんと科学的な情報を提供することが欠かせません。何も知らない人たちがテレビで適当にコメントを出し合っても、そんなものは何の役にも立たないのですから。

最近、日本でも子供の虐待死が相次いでいます。男性の手になるものは何をか言わんやですが、それが母親による育児放棄や虐待である場合、私たちが「育児ストレス」と簡単に呼び捨ててしまいがちなケースのその裏側には、甚大な産後の肉体的変調が関わっている可能性もあるのかもしれません。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

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クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

June 23, 2010

ハッピー・プライド!

NHK教育で「ハーバード白熱教室」という番組を12週にわたって放送していて、これがすこぶる面白いものでした。政治哲学教授のマイケル・サンデルが「正義」と「自由」を巡って大教室で学生たちに講義をするですが、このサンデルさん、学生たちが相手だからか論理が時々ぶっ飛んで突っ込みどころも満載。ところが話し上手というか、ソクラテスばりの対話形式の講義でNHKの「白熱」という命名はなかなか当を得たものです。学生たちもじつに積極的に議論していて、その議論の巧拙やコミュニタリアンのサンデルさんの我田引水ぶりはさておき、なるほどこうして鍛えられて社会に出ていくのだから、外交交渉からビジネスの契約交渉まで、種々の討論で多くの日本人が太刀打ちできないのも宜なるかなと、やや悲しくもなりました。

で、6月20日に放送されたその最終回の講義テーマが「同性結婚」でした。実は6月は米国では「プライド・マンス Pride Month」といって同性愛者など性的少数者たちの人権月間。もちろんこれは有名なストーンウォール暴動を記念しての設定で、オバマ大統領もそれに見合った声明を発表するので、NHKはそれを知って6月にこの最終回を持ってきた……わけではないでしょうね。

同性婚が政治的に大きな議論となっているのは米国に住む日本人なら誰しも知っています。ところがほとんどの在留邦人がこの件に関しては関心がない、というか徹底的に我関せずの態度を貫いています。ほかの政治的話題ならば仲間内で話しもするのに、この問題に関してはほとんど口にされることがありません。その徹底ぶりは「頑なに拒んでいる」とさえ映るほどです。

ところが日本からやってくる学生さんたちがまずは通うニューヨークの語学学校では(というのは米国に住むにはVISAが必要で、まずはこの語学学校から学生ビザをスポンサーしてもらうのが常套だからです)、ここ15年ほどの傾向でしょうか、「ハーバード白熱教室」ではないですが、だいたいどのクラスでもこの同性婚や同性愛者の人権問題が英語のディベートや作文にかこつけて必ずと言っていいほど取り上げられるのです。

日本人学生はほとんどの場合ビックリします。だって、同性愛なんて日本ではそう議論しないしましてや授業で扱うなんてこともない。お笑いのネタではあっても人権問題という意識がないからです。しかし語学学校の先生たちは、まあ、若いということもあるでしょうが、これぞニューヨークの洗礼とばかりに正義と社会の問題として同性愛を取り上げるのです。ええ、この問題は正義と公正さを考えるのに格好のテーマなのですから。

私もNY特派員時代の90年代半ば、この同性愛者問題を、黒人解放、女性解放に続く現代社会の最も重要な課題の1つだとして記事を書き続けました。もちろん当時はエイズの問題も盛り上がっていましたから、その話題とともになるべく社会的なスティグマを拭い去れるようにと書いてきたつもりです。ところが日本側の受けはあんまりよろしくなかった。で、気づいたのです。日本と欧米ではこの問題への向き合い方が違っていました。日本人は同性愛を、セックスの問題だと思っているのです。そして、セックスの話なんて公の場所で話したくない。

これは以前書いた「敢えてイルカ殺しの汚名を着て」で触れた、あの映画の不快の原因は「すべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない」ということだ、という論理にも似ています。イルカだろうがブタだろうが牛だろうが鶏だろうが、同じような手法で映画で取り上げれば、どこでもだれでもおそらくは「なんてことを!」という反応が返ってくるはずだということです。

セックスの話も同じ。同性愛者のセックスはしばしば公の場で取り上げられます。おそらく好奇心とか話のネタとかのためでしょうが、それで「気持ち悪い」とか「いやー」とかいう反応になる。しかしこれは異性愛者のセックスにしても、そういうふうに同じ公の土俵で取り上げられれば「要らない情報」だとか「べつに聴きたくないよ」だとかいった、似たような拒絶反応が返ってくるのではないか、ということ。

じつはこの米国でも、宗教右派からの同性愛攻撃は「同性愛者はセックスのことばかり考えている不道徳なヤツら」という概念が根底にあります。欧米でだって、セックスという個人的な話題はもちろん公の議論にはなりません。でも同性愛の場合だけセックスが槍玉にあがり、そしてそんな話はしたくない、となる。

ところがいまひろくこの同性愛のことが欧米で公の議論になっているのは、逆に言えばつまりこれが「セックスという個人的な話題」ではないからだということなのではないか。そういうところに辿り着いているからこそ話が挙がっているということなのではないだろうか?

しかしねえ……、と異論を挟みたい人もいることでしょう。私もこの件に関してはもう20年も口をスッぱくして言い続けているのですが、宗教とか、歴史とか、医学とか精神分析とか、もうありとあらゆる複雑な問題が絡んできてなかなか単純明快に提示できません。しかし、前段までで説明してきたことはとどのつまり「ならば、同性愛者と対と考えられる「異性愛者」は性的存在ではないのか?」という問いかけなのです。

この問いの答えは、もちろん性的ではあるけれどそれだけではない、というものでしょう。これに異論はありますまい。そしていま、同性愛者たちが「性的倒錯者」でも「異常者」でも「精神疾患者」でもないと結論づけられている現実があり(世間的には必ずしも周知徹底されていないですけど、それもまた「性的なことだから表立って話をしない」ということが障壁になっているわけで)、この現実に則って(反論したい人もいるでしょうが、ここではすでにその次元を通過している「現実の状況」に合わせて)論を進めると、同性愛者も異性愛者と同じく生活者であるという視点が必然的に生まれてくるのです。同性愛者もまた、性的なだけの存在ではない、ということに気づくのです。

そういうところから議論が始まってきた。いま欧米で起きていること、同性カップルの法的認知やそれを推し進めた同性婚の問題、さらに米国での従軍の可否を巡る問題など各種の論争は、まさに「同性愛者は性的なだけの存在」という固定観念が解きほぐされたことから始まり、そこから発展してきた結果だと言えるのです。

毎年6月の最終日曜日は、今年は27日ですが、ニューヨーク他世界各国の大都市でゲイプライドマーチというイベントが行われます。ここニューヨークでは五番街とビレッジを数十万人が埋めるパレードが通ります。固定観念を逆手に取ってわざと「性的」に挑発する派手派手しい行進者に目を奪われがちですが、その陰には警察や消防、法曹関係や教育・医療従事者もいます。学生やゲイの親たちや高齢な同性カップルもいます。

かく言う私も、じつはそういう生活者たちとしての同性愛者を目の当たりにしたのはじつはこのニューヨークに住み始めてからのことでした。90年当時、日本ではそういう人たちは当時、ほとんど不可視でした。二丁目で見かけるゲイたちは敢えて生活者ではなかったですしね。いまはずいぶんと変わってきましたが、それでもメディアで登場するゲイたちは決まり事のようになにかと性的なニュアンスを纏わされているようです。まあ、当のゲイたちもそれに乗じてより多く取り上げられたいと思っているフシがありますが、それは芸能界なら誰しも同じこと。責められることじゃありません。

とにかく、生活者としての性的少数者を知ること。同性愛者を(直接的にも間接的にも)忌避する人たちは、じつのところホンモノの同性愛者を具体的に、身近に知らないのです。そしてそのような視点を持たない限り、私たちはハーバード白熱教室にも入れないし、先進諸国の政治的議論にも置き去りのままなのだと思います。

June 16, 2010

ヘレン・トーマス

ユダヤ系アメリカ人の伝統継承月間だった5月末、ユダヤ系オンラインサイトの記者に「イスラエルに関してコメントを」と請われ、勢いで「とっととパレスチナから出て行け(get the hell out of Palestine)」と答えてしまったヘレン・トーマスさんが記者引退に追い込まれました。私もワシントン出張の際に何度か会ったことのある今年で御年90歳の名物ホワイトハウス記者でした。

米メディアでは、彼女が続けて「ポーランドやドイツに帰ればいい」と答えた部分がナチスのホロコーストを連想させて問題だった、なんて具合に分析していましたが、はたしてそうなんでしょうか。

米国ではイスラエル批判がほとんどタブーになっています。タブーになっていることさえ明言をはばかれるほどに。

今回も、賛否両論並列が原則のはずの米メディアがいっせいにヘレンさん非難一色に染まりました。しかしだれもイスラエル批判のタブーそのものには言及しない。ヘレンさんはレバノン移民の両親を持つ、つまりアラブの血を引くアメリカ人です。だからパレスチナ寄りなんだと言う人もいますが、ことはそんなに単純ではないでしょう。

たとえばヘレンさんのこの発言後の5月31日に、封鎖されているパレスチナ人居住区ガザへの救援物資運搬船団が公海上でイスラエル軍に急襲され、乗船の支援活動家9人が射殺されるという大事件が起きました。ところがこんなあからさまな非道にさえも、米メディアはおざなりな報道しかしなかったし、オバマ大統領までもがこの期に及んでまだイスラエル非難を控えています。それに比してこのヘレン・バッシングはなんたる大合唱なのでしょう。アメリカでもこんなメディアスクラムが無批判に起こるのは、ことがイスラエル問題だからに違いありません。

じつは06年にアメリカで出版され、大変な論争を巻き起こした(つまり多く批判が渦巻いた)ジミー・カーターの「パレスチナ」という著作を、「カーター、パレスチナを語る|アパルトヘイトではなく平和を」(晶文社刊)というタイトルで2年前に日本で翻訳・出版しました。批判の原因は、アメリカの元大統領ともあろうメインストリームの人がこの本で堂々とイスラエル批判を展開したからです。

でもこの本の内容は、イスラエルが国際法を無視してパレスチナ占領地で重大な人権侵害を続けていることの告発と同時に、いまや10年近くも進展のない和平交渉を再開・進展させるための具体的な提言なのです。前者の事例も拡大を続けるイスラエル入植地、入植者専用道路によるパレスチナ人の土地の分断、無数の検問所によるパレスチナ人の移動の制限、分離壁の建設による土地の没収など、すべてカーター自身がその目で見てきた、そして米国外では広く認められている事実ばかりなのです。

なのに米国内ではほとんど反射的にこの本へのバッシングが起きた。とくにイスラエル人入植地や分離壁の建設政策を悪名高いあの南アの「アパルトヘイト」と同じ名で呼んだことが親イスラエル派を刺激したのでしょう。私も当時、ユダヤ系の友人にこの本を翻訳していることを教えたところ、露骨に「なんでまた?」という顔をされたのを憶えています。

ヘレンさんが生きてきた時代はジャーナリズムでさえもが男性社会でした。女人禁制だったナショナル・プレス・クラブでの当時のソ連フルシチョフ首相の会見を、彼女ら数人の女性記者が開放させたのは1959年のことです。

そんな強気の自由人が米国に隠然と存在するイスラエルに関する言論規制には勝てなかった。公の場でのイスラエル批判がキャリアを棒に振るに至る“暴挙”なのだとすれば、彼女の引退の理由は彼女の「失言」ではなく、「発言」そのものが原因だったのでしょう。

June 02, 2010

鳩山政権を倒したもの

前回のエントリーと重複しますが、鳩山辞意表明を受けてNYの日本語新聞に依頼されて以下の文章を取りまとめました。ご参考まで。

***

原稿も見ずに正直な思いを語って、鳩山さんの辞意表明演説は皮肉なことにこれまででいちばん心に響くものでした。これをナマで視聴していたかどうかで今回の政局の印象はかなり変わると思います。この演説の本質は、これまでのマイナス面のすべてを逆転させて起死回生を図ったということでしょう。

そもそも辺野古問題の5月末決着宣言が自縄自縛の根因なのですが、社民党の連立離脱と総理辞任の「一石二鳥」のその石となった日米共同声明を外務省のサイトで読んでみると、実に象徴的なことが見えてきます。

日英両語で掲載されているこの共同声明、見ると日本語には「仮訳」とあるのです。つまり米国との共同声明ってのは英語がベースなんですね。日本語の声明文はそれを翻訳したもの。なるほど沖縄のことなのに日本語じゃないってのは、まあ米側は日本語、わからんからね……などと納得してはいけません。日本と外交交渉をする米側の役人はふつう日本語もペラペラです。しかし交渉では日本語は絶対に話さない。ぜんぶ英語。

そういうところからしてもイニシアチヴは端から米国にあった。日米関係というのはそういうものなのです。NYタイムズは「とどのつまり辺野古移設を謳った06年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書きましたが、物事はそうなるように、そうなるようにと出来ていたのです。

そこを転換するに「5月末」は性急に過ぎた。しかも日本のメディアは各番組コメンテイターも含めて「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」という大前提の検証をすっ飛ばし、すべてを方法論に矮小化しました。また「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」にすり替わり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるという幻想を植え付けて、県外・国外移設を頭から幼稚なものと決めつけたのでした。

海兵隊はいまや第一波攻撃隊ではなく、戦闘初期では自国民=アメリカ人の救出隊なのです。それは抑止力ではない。第一波攻撃は圧倒的な空爆およびドローン無人攻撃機のより精緻な掃討だというのは湾岸戦争からアフガン、イラクへの侵攻を見ていれば明らかです。ではいったい、抑止力とは何なのでしょう? 海兵隊が沖縄に残らねばならぬ理由は何だったのでしょう?

社民党の辻元清美前国交副大臣によれば、あの首相の「腹案」というのはグアム移設案だったそうです。ですが今回も、外務省、防衛省の官僚たちが米国の意向を口実にしてつぶした。自民党時代も、米側はグアム全面移転を進めようとしたがそれに待ったを掛けたのはじつは日本側だと言われています。なぜか?

それは論理的に日本の「自主防衛」につながるからです。それは日米関係の構造の大転換につながります。そしてその場合、沖縄の「核」の抑止力も消えることになるからです。それが幻想であるか否に関係なく。

こうした変化を望まない勢力というのが日米双方に存在します。そうして図ってか図らないでか、自覚してか無自覚なのか、日本の新聞・テレビがそれを側面支援した。検察という“正義の味方”までがそこに巧妙に混じり込んでいたことにも無頓着に。

事業仕分けもそうでしたが、鳩山短期政権の功績は様々な問題を私たちの目の前にさらけ出してくれたことです。困ったことはそれらのすべてが予想を超える難題で、次の内閣でも別の政党でも、にわかには解決できないことがわかってしまったことなのです。参院選とか政局とか、事はそんなちっちゃな問題ではないようです。

May 29, 2010

普天間日米共同声明

日本での動きのあまりの速さに、この隔数日刊ではとても対処できないんですけど、でもここは書き留めておかねばならないでしょう。

外務省のサイトで日米共同声明の日本語の仮訳と英語版を見比べてみます。と書きながら、これ、不思議じゃありませんか? 日本語は「仮訳」なんです。つまり、これはまず英語で書かれていて、それをもとに日本語に訳しているんですね。ふうん、アメリカとの外交文書、共同声明ってのは、英語ベースなんだ。沖縄のことを書いているのに、日本語じゃない。なんとなく腑に落ちませんが、アメリカ側は日本語、わからんからね、……などと思ってはいけません。日本と外交交渉をするアメリカ側の役人はふつう日本語ぺらぺらです。でもってしかし、交渉では日本語は話さない。日本側に英語を話させたり、あるいは通訳を使って交渉します。でも英語ベースであるというそういうところからしてもう交渉のイニシアチヴは握られています。これはとても象徴的なことです。

その仮訳で、6段落めにこうあります。

両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置する意図を確認した。

英語ではこうです。

Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls.

日本語では「1800mの長さの滑走路」とある部分が英語では「the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long」と、runway portion(滑走路部分)(s)となっています。つまり、複数形にもなり得ると書き置いているわけです。これはつまり、2006年の「現行案」と同じV字型滑走路に含みを持たせる表現でしょう。いったん土俵を割るとどこまでもずるずると下がってしまう、日本外交の粘りのなさがここにも現れてしまうのでしょうか。

そうやって英語で話が進められたとはいえ、しかし米国ではこの問題は大きな事案として報じられてはいません。これが「原案」回帰という辺野古移設じゃなければ大きなニュースになっていたんでしょうが、いまはアメリカでは例のメキシコ湾の原油流出と同性愛者の従軍解禁がトップニュースで、すべてそっちに目がいっています。おまけに軍の展開に関してはとても複雑で専門的な話が絡んで来るので、日本でもそうでしょうが一般のアメリカ人が関心があるかというと普通はそうじゃないでしょう。そして事はなにごともなかったかのように進んでゆく。NYタイムズのマーティン・ファックラーが23日の沖縄の抗議集会を伝えた記事で、「とどのつまり、辺野古移設をうたった2006年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書いてるんですけど、そういうことだったのです。

昨年の時点から言っていますが、アメリカはいま(というか前から)沖縄のことで煩っているヒマはない。というか、すべてのシステムというのは、とにかくこれまでのとおりに事が進むことを至上の目標としています。これまでどおりなんだから過ちや危険や破綻は起きないはずなのです。それが保守主義。その中で、しかし世界情勢はそうは上手くは問屋がおろさない。韓国もフィリピンもあんなに従順だった時代を経ていつしかアメリカに反旗みたいなのを翻すようになって基地が要らないなんて言い出して、けっきょくは縮小されてしまった。その度に東アジア極東の軍事再編です。面倒臭いことこの上ない。そして唯一日本だけがそういう懸念から自由な安全パイだったわけです。

ところがその日本が変なことを言い出した、のが昨年の政権交代でした。しかしアメリカとしては実にまずい時期に言ってくれた。なにせこちらも政権交代の発足間もないオバマ政権が、アフガン、イラクの戦争でにっちもさっちもいかなくなっている。おまけに日本がやってくれていたインド洋の給油だってやめるとか言うわけです。これは困ったことです。

しかし、一方でオバマ政権もまた当時は、政権交代という同じダイナミズムを経験した日本の民主党政権と、新たな安全保障を築き上げる構えはあったのだと思います。当時、日本の保守メディアでさんざん紹介された旧政権、米共和党と日本の自民党の間で禄を食んでいたジャパン・ハンドラーの人たちとは違い、ジョセフ・ナイを始めとする米民主党の知日派たちは日本の民主党の、これまでの対米従属とは異なる自主防衛の芽を模索するかのような動きに注目していたのでした。そこから10年後20年後の新たな極東安全保障体制が出来上がるかもしれない期待を込めて。なにせ、長い沈滞の政治を経て、日本国民の70%もが支持した政権が発足したのです。この民意をアメリカ政府は恐れた。それこそがかつて韓国、フィリピンから米軍を追い出したものだったからです。

ところが、日本は思いもかけなかった動きを見せました。ここの国民たちは、沖縄の基地移転問題で、そもそもの原因であるアメリカを責めるのではなく、時の政権の不明瞭な態度を責め立てたのでした。

28日付けのNYタイムズは、A-7面という地味な位置取りの東京電で、「これで長引いた外交的論争は解決したが、鳩山首相にとっては新たな国内問題の表出となる」と書き始め、いみじくも次のようなフレーズで記事を〆ました。

Despite the contention over the base, most anger has been directed at Mr. Hatoyama’s flip-flopping on the issue, not the United States. Opinion polls suggest most Japanese back their nation’s security alliance with the United States.
(米軍基地をめぐる論議にも関わらず、怒りの向きはほとんどが米国ではなく、言を左右した鳩山首相へと向かっていた。世論調査ではほとんどの日本人が米国との安全保障同盟を支持している)

これはアメリカにとって僥倖というか、おそらくなんでなのかよくわからない日本人のねじれです。しかしこの間の日本メディアの報じ方を知っているわれわれにはそう驚くことでもありません。なぜなら、メディアのほとんどは、ワイドショーのコメンテイターも含めて、「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」ということを大前提にして論を進めていたからです。その部分への疑義は、最後の最後になるまでほとんど触れられさえしませんでした。

しかも精査してみれば、「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」になり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるような論調にもなった。そしてそのウソに、ほとんどのTVコメンテイターや社員ジャーナリストたちは気づかないか、気づかないフリをしたのです。

12000人のその海兵隊の8000人がグアムに移転するとき、海兵隊は分散配置できない、というウソが露呈しました。残るは4000〜5000人、という海兵隊のプレゼンスの減少は問題とされませんでした。しかも、海兵隊は第一波攻撃隊というかつての戦争のやり方がもはや通用しないにもかかわらず、いまもそれこそが抑止力なのだと信じる人たちが自明のことのように論を進めたのです。

イラクでもアフガンでも、攻撃の第一陣は圧倒的な空爆です。そこでぐうの音も出ないほどに敵を叩き、さらにはドローン無人攻撃機でより緻密に掃討する。そこからしか地上軍は進攻しない。それはもうあの湾岸戦争以来何度も見てきたことではなかったか。

では海兵隊はなにをするのか? 海兵隊は進攻しません。海兵隊は前線のこちら側で、もっぱら第一にアメリカ人の救出に当たるのです。アメリカ人を助け上げた後は場所にもよりますがまず英国人やカナダ人です。次に欧州の同盟国人です。日本人はその次あたりでしょうか。

この救出劇のために海兵隊は「現場」の近くにいなくてはならないのです。
で、これは抑止力ですか? 違います。日本を守る戦力ですか? それも違うでしょう。

いったい、鳩山さんが勉強してわかったという「抑止力」とは、どう海兵隊と関係しているのか? それがわからないのです。昨日の記者会見でその点を質す記者がいるかと思ったがいませんでした。

これに対する、ゆいいつ私の深くうなづいた回答というか推論は、うんざりするほど頭の良い内田樹先生のブログ5月28日付《「それ」の抑止力》にありますが、それはまた別に論じなくてはならないでしょうね。もし「それ」が本当ならば、すべての論拠はフィクションであり、フィクションであるべきだということになってしまうのですから。

それはさて置き、というふうにしか進めないのですが、もう1つ、この問題でのメディアの対応のある傾向に気づきました。じつは昨日、日本時間の夜の11時くらいから某ラジオに電話出演し、日米共同声明のアメリカでの報じられ方に関して話をしました。そのときにそこにその局の政治部記者も加わって、少ししゃべったんですね。その記者さんの話し方を聞いていて、ああ、懐かしい感じ、と思った。聞きながら、なんだかこういうの、むかし、聞いたことがあるな、と頭の隅のほうで思っていたのです。

彼は盛んに政権の不手際を指摘するのですが、なんというのでしょう、その、いちいちもっともなその口調、その領域内ではまったくもって反論できない話し方、それ、そういえばずいぶんとむかし、国会の記者クラブで他社や自社の記者仲間を相手に、いちばん反論の来ない論理の筋道を、どうにかなぞって得意な顔をしていた、かつての自分のしゃべり方になんだか似てる、と気づいたんです。

記者クラブでつるんでいるとなんとなくその場の雰囲気というか、記者同士の最大公約数みたいな話の筋道が見えてくる。それでまあ、各社とも政治部とか、自民党担当の主みたいな記者がいて、下手なこと言ったり青臭いこと言ったりしたらバカにされるんですよ。それでみんな、バカにされないようにいっちょまえの口を利こうとする。そうするときにいちばん手っ取り早く有効な話は、「あいつはバカだよ」ということになるのです。自分がバカだと言われないように、先にバカだというヤツを用意しちゃう。褒めたりはしない。なんか、自分がいちばん通な、オトナな、あるいは擦れ切った、という立ち位置に立つわけですね。そうしているうちに、それこそが最強のコメントだと思い込むようになる。そしてその記者クラブ的最大公約数以外の論の道筋が見えなくなってくるんです。というか、相手にしなくなってくる。

一昨日にテレ朝の「やじうま」とかいう番組に江川紹子さんが出ていたときもその感じでした。スタジオが鳩山の普天間迷走を責める論調になったときに、彼女が1人で「そうは言っても自分の国の首相が何かをしようとしているときに後ろから鉄砲を撃つようなことをしていたメディアの責任も問われるべき」みたいなことを言ったんですね。そうしたら、隣のテレ朝政治部の三反園某と経済評論家の伊藤某が、まるで彼女が何を言ってるのかわからないといった呆れ顔で(ほんとうにそんな顔をしたんです。信じられない!って感じの)いっせいに反論をわめきました。そのときもきっとそうだったです。彼らの反応を見る限り、彼らにはほんとうに、彼女が指摘したような「足を引っぱっていた」という意識はなかった。それは思いも寄らなかった批判だったのだと思います。そういう意見があるということすら、彼らは知らないのかもしれない。

したがって、日本のテレビに登場してくる各社の記者たちのコメントが多く一様にそういう利いた風な感じなのは、きっと記者クラブのせいなんだと、不覚にもいま思い至りました。これもピアプレッシャーというか、プレッシャーとすら感じられなくなった、システムとしては理想的な保守装置です。

うー、何を書いてるのかわからなくなってきたぞ。あはは。

あ、そうそう、で、ラジオで話していて、そのときもはたしてここは論争の場にしていいのか、それともどこか予定調和的にうなづいて終わるようにすべきか、私も日本人ですね、ちょいと逡巡しているあいだに10分間が過ぎて話は終わったのですが。

結論を言えば、鳩山政権のこの問題への取り組みは誠に不首尾だったと言わざるを得ません。
しかし、不首尾は政権だけではないし、民主党だけでもない。
自民党だって不首尾であり続けてきたし、言論機関だってそうだった。

そして、沖縄問題はたしかにいままさにこの不首尾から始まったのです。

May 18, 2010

相互依存便宜供与的身内社会の官房機密費(長い!)

例の、政治評論家やジャーナリストたちに渡った官房機密費(官邸報償費)問題ですが、大手メディアの中で週刊ポストと東京新聞の特報部がこれを報じ始めました。が、その他の大手新聞やTVはやはり反応が鈍いようです。とはいえ、NYにいるんで東京新聞もポストもまだ読めてません(汗)。特報部のサイト、ウェブから見ようとしたんですがあれは携帯からしか見られないのでしょうか? 月100円ちょっとと安いからいいなと思ってるんですけど。

そもそも、東京新聞というのは中日新聞社の東京本社の出している新聞なのですが、中日新聞とは別の紙面作りをしています。中日は名古屋で7割とかの圧倒的なシェアを持つ新聞ですが、その紙面は実におとなしく堅実で東京的にはあまり面白くない。それで東京新聞は名古屋の中日と関係なく紙面作りをするわけ。しかもかなり他社から引き抜いた記者も多く、中日プロパーのラインの記者もわりと独自色を出そうと気骨のある記事を書きます。とくに特報部はそれが存在理由なんで、けっこうさいきんも頑張って他紙の書かないことをやっているようです。

さてこの機密費問題の追及をほぼ孤軍奮闘で続けようとしているのは20代のときに鳩山邦夫の公設第一秘書だった上杉隆さんという人で、つぎにNYタイムズの東京取材記者となり、さらにフリーランスになって、さいきんはテレビの露出も多いようですね。鳩山邦夫との関連がきっかけだったのかしら。私も4月だったか、東京にいたときにTOKYOFMに出演依頼されてスタジオまで出かけたんですが、それもじつはオーガスタ取材で不在だった上杉氏のコーナーの代役出演でした(笑)。

閑話休題。で、彼はNYタイムズにいたせいもあってか日本の既存メディアや記者クラブのあり方を批判しているんですね。彼の立場は明確です。官房機密費は政府として必要だが、それをマスメディア関係者や評論家たちに渡すのはジャーナリズムと民主制度の根底を揺るがす大問題だ、というものです。

その上杉さんが先日、大阪読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で機密費受領疑惑の毎日新聞出身御用政治評論家である三宅久之と対峙しました。YouTubeに出てたのをすかさず見つけて見たんですけど、いまそれは削除されてます。ほかの「委員会」の映像はそのまま放置されてるんですが、その回のは読売テレビからの要請で削除、ってなってますわ。どうしてでしょうかね? まあ、いずれにしても記憶を辿ると、そこで三宅さんは、自民党政治家が出席できなくなった講演会に代理で講演してくれと頼まれ、その講演料はもらったことがあると明かしてました。だれだったかなあ、藤波官房長官だったか? でも、機密費なんか「もらってない」と、言ったような……。ポケットマネーだった、とか(でもそんなのわからんわね)。それから領収書は書いてないみたいですね。

なるほど、「盆暮れに500万」という現金ならば機密費もあからさまですが、それが講演や政治勉強会名目で招聘され、一般相場より割のいい講演料やお車代をもらうとしたら政治評論家もジャーナリストもじつに「もらいやすい」だろうな、と思い至りました。

三宅某は自分の供与された金銭を不労所得の現金ではなく労働実体のある講演料だ、と名目上の具体に誘導し、避難・言い逃れるしているわけです。しかしそれでも講演料は法外ではなかったのか、領収書書いてないなら税金は申告してないでしょ! という問題は強く残ります。

だがその番組、辛坊というアナウンサーがやたらうるさくて、上杉氏のそれ以上の追及を邪魔するんですね。辛坊は「私の知ってる限り、機密費をもらった人など1人もいないですよ!」って見栄を切るんだけど、それに何の意味があるんでしょう。取材調査もしないオマエになんかにゃ聞いとりゃせんわ、ボケ、です。で、野中から「唯一機密費を断った人」とされた田原総一朗もそこに出演して座ってはいたんですが、彼もこの件ではムニャムニャと歯切れ悪いこと甚だしく、何なんでしょうね。同業者をかばう日本的な思いやり? それとも自身もまだなにか話してないことがある?

上杉氏も指摘していましたが、NYタイムズなど米国のメディアには取材対象から金銭的な供与を一切受けてはならないという社内規定があります。たとえばスターバックスのコーヒー1杯程度ならよいが、2ドル相当を越えたら解雇される、というほどの厳しいものです。

ところが日本の新聞社やテレビの報道部局にはそういう明確な規定はありません。というか、記者クラブの便宜供与もそうなのですが、その辺、わりと大雑把なんです。政治部では政治家に食い込めば食い込むほど彼らとの会食やゴルフなんかの機会も出てくる。そのときにきっかりと自分の分の代金を払っているのかどうかははなはだ心もとないところだし、経済部だって企業の商品発表の記者会見などではその商品そのものなどお土産がたくさん。ま、原資は税金じゃないからこちらはまだいいでしょうが、おもらい体質はそうやって培われていくんでしょう。

社会部の事件担当記者にはそういう金銭の絡む関係というのはあまりないですが、しかし情報のおもらい体質というのは存在します。警察や検察からの情報を「もらう」ことに、どんな政治的な作為があるのか、その辺に無自覚にそちらからの情報だけで書いてしまう恐ろしさというのは、昨今の東京地検特捜部のあからさまな情報操作リークでも明らかになってきたところでしょう。

そうしてふと気づくのは、このおもらい体質というのはそもそも日本社会全体が中元・歳暮に限らず、かなりな身内志向的相互便宜供与社会だということと通底しているんじゃないか、ということです。

こないだの大阪の講演でも言ったことですが、例の「身内社会」の成立要件が、この付き合い方なのです。つまり、このわたしたちの社会って、なんらかの付き合いがあれば赤の他人だった人同士でも身内にしようとする、なろうとするように動く社会なんですね、わが日本は。そんな中で贈り物が、挨拶として日常茶飯に行われてきました。それが渡る世間というものなのです。

旅に行くと、出張でもそうですけど、とにかくみなさんその旅先でお土産を買って帰るでしょ。そして同僚・上司やご近所に配る。そんなの、アメリカではあんまり見かけません。贈り物はあくまで個人の領域ですることで、公的な場面ではそれは賄賂や買収です。ですからすでに親しくなった人たちにはするけど、これから親しくなろうとする人を対象にするのは、好きな人に花を贈るときくらいで、そのほかはその意図があからさまに透けて(恋人候補には、逆にその意図が透けないとダメだからいいんですけど)、さもしく映るんです。それは格好わるいから。

さらに日本ではそこに上下関係も出てきます。メシをおごると言われているのに割り勘を主張するのは可愛くないヤツです。それが続けばさらになんとイケ好かないヤツだということになります。メシをおごるのは太っ腹な上司の器量の見せ所なんであって、そういうのを便宜供与だとは意識しない。上司と部下の仲、あるいは利害関係のある仲でも(身内同然の)オレとオマエの仲じゃないか、とうのが理想とされる付き合いなのですからそこに向けて限りなく引っ張られていくのですね。

ふむ、「社会」と「世間」が、日本じゃ実に巧妙に入り組んでるんですな。

ただ、ジャーナリストはそれでは絶対にいけない。ジャーナリストはときに付き合いの悪い、空気の読めない、嫌なヤツだと思われることを恐れてはいけないのです。「社会」と「世間」を混同してはならない。あくまで社会に生きねばならない。そうじゃないと対象の不正を暴けないですからね。

そういう覚悟ができているか? それとも、基本的に世間的な「いい人」でありたいのか?

先に書いたように、メディアでもの申す人物に機密費が渡るときに「盆暮れに500万」という現金ならこれはもうど真ん中で追及しやすいですが、名目上、講演料や車代などのなんらかの「実体」のある対価として渡る場合には、たとえその意図が見え透いていても日本の世間的には批判が和らぐのを、どう論破するのか予防的に考えておいた方がよいと思います。だって、それならおそらくいろんなひとがカネ、もらってる。舛添なんて政治家になる前は自民党関連の勉強会で引っ張りだこでしたしね。それに、新聞記者やTV報道記者もかなりそういうのでは引っかかってきます。だから、なかなかキャンペーンを張れない。東京新聞特報部はまだ若手の一匹狼的記者がピアプレッシャーの主体だから書けたんでしょうけどね。

いみじくも「言って委員会」で三宅が言っていましたが、「会社員は給料もらってるからダメだが、私なんぞはフリーでそういうのでカネを稼いでるんだ。それをダメだと言われたらたまらん」(私の記憶からの書き起こしできっと不正確)みたいなこともある。彼なんぞはとくにもうジャーナリストじゃないし、たんなる政界の政局的内情通でしかないわけで、御用コメンテイターとして雇われてんだ、その何が悪い、と開き直りかねません。そのときに、なんと断罪するか? それもそれは彼を切るだけが目的なのではなく、先に触れた相互便宜供与で成り立っている日本のこの世間が納得する話の筋でなければならないのです。

うーむ、難しい。

そこらへんすっ飛ばして、官房機密費、10年後もしくは20年後(あるいは関係者の死後)に公表します、ってやっちゃえばいいんでしょうね。そうしたら自ずから、もらう方が判断しますよ。しかも歴史の重層が明らかになるし。

そうだ、そうだ、そうしちゃえ、というのが本日の結論であります。ふう。

May 11, 2010

このグッタリ感の理由

続報を期待しているのにさっぱり出て来ないニュースがあります。98〜99年に小渕内閣で官房長官だった野中広務が最近、官房機密費(官邸報償費)を当時「毎月5000万〜7000万円くらいは使っていた」と暴露した件です。使途については▼総理の部屋に月1000万円▼自民党の衆院国対委員長と参院幹事長に月500万円▼政界を引退した歴代首相には盆と暮れに200万円ずつ▼外遊する議員に50万〜100万円▼政治評論をしておられる方々に盆と暮れに500万円ずつ──などとし、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに(おカネを)届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」とも話しました。

この話はじつは以前にも細川内閣の武村元官房長官も明かしていますから、その人たちの名簿は歴代の官房長官に慣例として引き継がれていたらしい。領収書や使途明細の記録を残してはいけないというこの官房機密費は、93〜94年の細川政権時代は月4000〜5000万円だったらしいですが、自公政権の末期にはほぼ毎月1億円国庫から引き出されていたそう。しかも政権交代直前には当時の河村建夫官房長官が通常の2.5倍もの2億5000万円を引き出したことがわかっています。平野官房長官が、金庫は空っぽだったと言ってますからね。

これらの正当性に関する論及を探しているのですが、日本から帰ってきてしまったせいかマスメディア上で探してもなかなか出て来ない。ネット上の未確認情報では、野中から機密費を受け取った政治評論家は渡部昇一、俵孝太郎、細川隆一郎、早坂茂三、竹村健一らだとされており、これら“過去の人”のほかにも最近では三宅久之や宮崎哲弥、河上和雄、岸井成格、岩見隆夫、後藤謙次、星浩、果てはテリー伊藤や北野たけしといった人たちの名前まで取りざたされていて、いやはやホンマかいなの状態。しかもテレビや新聞がそれらの真偽をまったく追及しないのもじつはメディア幹部に内閣からこのカネが流れているからだなんて話まであって、身を以て真偽が知れる「幹部」になる前に新聞社を辞めた自分の不明を悔いています(笑)。

しかし事は冗談で済む話ではない。いったい世論の何が操作され、何が操作されていないのか? テレビでかまびすしく持論を垂れるあれらの顔のどれが本物でどれがヒモ付きなのか? これはジャーナリズムの根幹に関わる問題であり、民主主義の土台を揺るがす大事件です。このことがうやむやなまま検証されなければ、政治評論家の存在自体が政治アパシーを加速させ、全体主義の台頭をゆるしかねない。ただそれら名前の挙がった人たちに事実の有無を訊いて回ればよいだけなのに、「噂の段階で聞くのは失礼」という奥ゆかしい日本的配慮なのかさっぱり埒が明きません。おまけに鳩山政権が機密費開示に消極的なのは野党時代にそこから巨額のカネを受け取っていたからだという話もあながちウソではないでしょうから余計タチが悪い。

政権交代とは、こうした旧体制の旧弊を白日にさらす重大な契機になります。そして、鳩山政権の支持率の急落理由は、世論操作?はさておき、こうした旧弊がせっかく明らかになってきているのに、それらのヘドロをぜんぜん処理できないことにあります。

沖縄基地問題の矛盾、高速料金の不思議、独立行政法人のムダ、天下りの甘い汁、年金行政のデタラメ……結果、毎日ヘドロを見ざるを得ない私たちはなんだかひどく疲弊しちゃうのです。

このグッタリ感は、参院選に向けての見え見えな人寄せパンダ候補者の発表でさらに募ります。とにかく初心に戻って、このヘドロ処理の行程表をとにかくいま一度示してくれるのでない限り、ヤワラちゃんだってイスタンブール歌手だってまるで逆効果でしかないですわね。もっとも、相手方も三原順子とか杉村太蔵とか元野球選手だとか、なんだかわけわかんないですけど。

May 04, 2010

突破力と粘着力

鳩山の沖縄・普天間基地の県外移設断念で、内閣支持率はきっと10%台あるいはそれ以下に急落しているに違いありません。政権交代というモメンタムを以てしてもこの政権に「突破力」がなかったことはこれで確実にわかりました。

ただ問題は、普天間がこの腰折れで終わり、「公約」違反の鳩山退陣で片をつけたら、続く政権は今後何年も沖縄を鬼門としてなんら基地問題を解決するような公約すら出さずにお茶を濁すだけでスルーしようとするのではないかという心配です。それはどう考えたってまずいでしょう。じゃあ、どうするのがいいのか? この政権にまだ問題解決の「執着力」や「粘着力」(っていうんでしたっけ?)を求めてなお期待をつなぐのか、それとも見限るのか?

じつはこの数週間でパラオやテニアン島の議会が米議会に対し普天間の海兵隊4000人の移設先に立候補しています。

アメリカの自治領であるテニアン島には60年以上前に4万人規模の米軍基地が建設されていました。島の面積の2/3がいまもその基地機能の再開を念頭に米国防総省に100年契約で貸与されているのです。テニアンにしてもパラオにしても、もちろん今回の基地誘致の議会決議は雇用創出やその他の経済的利益を見越してのことです。

そういう経済の思惑は両島に限りません。日本側だって辺野古への杭打ち移設で日本企業に流れる8600億円ともいわれる利権がある。それが、すでに滑走路が3本もあるテニアンなら一銭にもならない「恐れ」があります。

一方、アメリカ政府にしても普天間の移設先として「グアムとテニアンが最適」というドラフトを用意しながら(鳩山も沖縄訪問で「将来的にはグアム、テニアンが最適」と発言していました)、アフガンやイラクでの戦費がかさんでいるのとリーマン・ショック後の歳入不安で、そんなときに大規模な基地移転なんかでカネを使いたくないという事情も見えてきました。まあ、沖縄にいるかぎり例の思いやり予算で米側の負担はずいぶんとラクチンなのですから。

こうしたカネの事情をすっ飛ばして「5月末決着」を打ち出した鳩山の政治的ナイーブさが現在の彼の政権の苦境を生み出しているわけですが、このままでは県内移設反対の社民党がいつ政権を離脱してもおかしくない。それを見越して永田町は一気に政局へと傾くかもしれません。以前から言っていますが、「現状維持」を旨とする官僚システム内にはこれでほくそ笑んでいる向きも多々あるはず。じつはこの辺も普天間県外移設の、最大の影の抵抗勢力だったかもしれません。特に北沢防衛大臣など、いかにも面倒臭いことはしたくない官僚任せ閣僚の風情ですしね。

それにしても相変わらず新聞論調はダメですな。例によって読売は「だが、米側は、他の海兵隊部隊の駐留する沖縄から遠い徳之島への移転に難色を示す。杭打ち桟橋方式にも安全面などの理由から同意するかどうかは不透明だ」。産経も「米側は日本国内の動向を注視している。首相の腰が定まらなければ、日米協議も進展しまい」と、まるでいまでも米国の代弁者。沖縄の負担を軽減するための言論機関としての提案はぜんぜんやってこなかった。日米新時代への言論機関としての気概はまるでないんだから。

この政権に「突破力」がなかった、と冒頭に書きましたが、いまさらながらこうしたすべての事情が沖縄問題の「壁」であったわけで、それらを一気に「突破」するのは容易なもんじゃないと改めて思います。

それでも沖縄問題は続きます。私たちが鳩山政権を見限っても、冷戦構造崩壊後も残る沖縄の「異状」は存在し続けます。求められているのは政権の突破力や問題解決の粘着力ではあるんですが、じつは私たち国民の突破力と粘着力もまた必要なわけで、簡単に匙を投げる我々を沖縄の人たちはさてどう見てるんでしょうか。

April 28, 2010

性急な、あまりに性急な

日本の民主党政権の人気浮揚策となるのか、あの事業仕分けの第2弾が始まってます。で、朝昼のワイドショーのニュース談義を見ていて気づいたことがあります。日本ではいろいろな職種の人たちがコメンテイターとしてスタジオに座っています。その人たちが、どうも予定調和的にある一方向のコメントを発する傾向があるのですね。

例えば、仕分け対象になった「独立行政法人都市再生機構」を論じた際にある局では慶応の先生が「本来なら独法は全廃してそこから必要なものだけを再生させるのがスジ」と言えば、隣の政治評論家が「民主党のマニフェストも本来はそれを約束していた」と言葉を継ぐ。そうしてスタジオ全体がそうだそうだという雰囲気になってくる。そこには全廃した際に解雇される膨大な人々の雇用問題をどうするかとか、実際に機能しているプロジェクトの継続をどうするかといった現実的なステップがすっ飛んでしまっています。

こういうのをコメンテイター同士のピア・プレッシャーというんでしょうか。ピア・プレッシャーというのは「仲間の圧力」という意味で、みんなと一緒でなければいけないと、周囲からそういう暗黙の圧力があるように思い込んでしまっていることなんですが、まさに「空気」というやつです。「空気を読めよ」っていうやつ。それが無意識のうちに働いてしまっているようで、どうにもそのスタジオ内では出演者同士の論争を避けているふうな印象を受けるのです。それでなんとなくいまは予定調和的に政権批判の論調に落ち着く。この辺は世論調査の内核支持率とも連動していて、政権発足時の支持率7割のときは賞賛論調でまとまることも多かった。

いやそこは手だれのコメンテイターたち、ときには異論を唱えるのが見事な人たちもいます。でもそれはそこでは論争にはならない。なんとなく司会者やキャスターが引き取って、「それにしても〜〜ですよね」で、うんうん、とまとまっちゃうようなことが多い、そんな印象。もっとも、放送ではコメントする時間はあっても論争する時間はないのが普通ですから無理もないのかもしれませんが、周囲の「空気」を読んでまとまっちゃうこの感じ、これはすごく日本的だなあと思いました。

米国の報道番組ではCNNはじめほとんど必ず論者を対峙させる作りになっています。Foxですらコメンテイターを呼んでモノを言わせるときはスタジオのキャスターとの論争の形を取る。出演依頼したみんなで同じことを言い合って「そうだ、そうだ」ということはまずありません。必ず反対論者が用意されていて、違う視点をぶつけ合い、それで視聴者は視聴者で自分でどうなのか判断するという流れ。「朝まで生テレビ」のミニチュア版が常に行われている、と言ったらわかりやすいかも。医療保険改革案にしても賛成・反対・公的オプション派などが相手の「空気」などお構いなく、侃々諤々か喧々囂々なのか、とにかくあちこちでかまびすしい議論が展開していました。

私はいまでも日本の政権交代は意義があったと思っています。何といっても民主党になっていろいろ隠れていた政治・行政の過程が見えるようになった。事業仕分け然り、揉めている高速道路の無料化公約と実質値上げの新料金制度との問題だって、小沢さんのオトナ気ない前原さんイジメを除けば、米国のニュース番組みたいに賛否両論がなんと政権政党内から提示されて実に興味深い。普天間の問題だってメディアの誤報まで含めてまるで見世物です。だいたい沖縄のことに、それこそ主婦まで含めてみんながこんなに注目したのも初めてのことではないでしょうか?

自民党時代にはそんなゴタゴタはなかったとしてこれらを民主党政権の「迷走」ととるのは簡単です。が、自民党時代の、国民に伝えられるときも国会でも「すでに自民党内で決まったことで決定」という既決感はあまりに空しかった。

鳩山政権の支持率はすでに20%台。でも政権発足8カ月というのは、客観的に言って成果が出せるような期間じゃありません。いくら何でもこの判断は性急すぎるんじゃないのかしらって思うんですよね。だって55年間つづいた自民党独裁の垢落としですよ、そんな簡単に成果が出るわきゃあない。独法全廃、議員定数削減、沖縄基地問題の解決、年金改革、財政均衡……そろって大問題です。「みんなの党」に期待をかけてる人たち、その期待は昨年の選挙前に民主党にかかっていた期待と同じものなんでしょうけど、もし同じように性急ならばその期待は同じように裏切られます。

子供の育て方と同じ。ダメだダメだ、ではなく、この場合は、頑張れ、もう少し頑張れ、うん、そこはいい、ではないのかなあ。

とは言えまあ問題は、民主党下でじゃあこれからどんな成果が出てくるのか、なのですが、その成果創出も、検察審査会の「小沢一郎起訴相当」決定でまた逆風下です。

でもねえ、この検察審査会にしても、いったいどういうひとがやっているのかいっさい謎。米国の陪審員というのは当該事件に関していかに予断を持っていないか、それまでの報道など不確定な“事実”にいかに汚染されていないか、対象案件と利害関係はないか、などをじつに厳しく精査されて選出されるんですが、日本では陪審員制度に似ている裁判員制度ですらあまりそこらは厳密には追及されないようですし、ましてや検察審査員というのはそこら辺、だいじょうぶなんでしょうか?

検察審査会が有効な時というのは、検察が起訴したくなかったやつを案の定起訴しなかったときに、「そうじゃないだろう!」と突き返す時です。たとえば同じ検察官だとか警察官だとかへの、身内かばいの起訴猶予や不起訴が往々にしてあるでしょう? そういうときに市民感覚で、「それは違うだろう、身内に甘いのは許さん!」というのは正しい。でも、起訴したくてしたくてしょうがないのにできなかった場合、小沢の場合はこれに相当しますが、それを起訴しろっていうのは、それこそ証拠がないのに締め上げろって、まさに冤罪の捏造と同じではないのか? それって、検察審査会の役目じゃないような気がします。しかも、「起訴相当」案件が不動産の取得時期と代金支払いの時期との2カ月余りの「期ズレ」に関してだというから、そんなの政治資金規正法上、立件するようなものなんでしょうか。

メディアでみんな同じ方向で論じているのであえて言いますが、「起訴相当」が一般の人たちの感情、という論調も、その詳細をすっ飛ばして小沢は西松から不正資金を受け取っているに違いないという雰囲気を後押しにしています。それは「ポピュリズム」を批判してきた新聞の言うことではないだろうという気がします。それこそ「悪しきポピュリズム」って、民主党発足時にさんざん批判してきた新聞社は、どう整合性を持たせるつもりでしょうか。そのあたり、じつにいい加減。論説室にそういうこと気づくひといないのかしら? それともこれもピア・プレッシャー?

小沢断罪の各紙の今朝の社説はほんと横並びでひどいものでした。言論機関といえどもどう考えても論拠がない。「起訴相当」は「起訴」ですらないのに、そして「起訴相当」対象は期ズレという形式的な問題だというのに、この人たちはよっぽどひとを裁判なしで裁きたいらしい。それが自らにも返ってくる諸刃の論理だということを知らぬはずもないのに。

いや、この体たらく、明るい未来は一筋縄ではいかないもんです。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

February 08, 2010

検察と報道の大罪

米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ(二重の危険)」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。

ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った(産経)り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」(毎日)りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか?」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか?

しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様?」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。

いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか? 他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です(あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい)。

いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その(本当はあるはずもない)無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。

それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね(古い)。

つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。

なのに今回は、1年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。

で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。

一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。

するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。

私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは(システムに思考があるかどうかはまた別にして)、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。

実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。

どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか?
みんな、飽きやすいからなあ。

January 21, 2010

電子ブックと出版革命

アップルのタブレットMacが27日にも発表になるらしいと聞いて、これで日本でも電子書籍販売が加速するんじゃないかとちょっと期待しています。

というのも、電子書籍ってのはデータファイルですから、製本化する必要がないわけで、つまりは手元にあるいろんな原稿を「自費出版」する必要なく「販売」できるってことにつながりますよね。いや、拙文をちまちまと売ろうなんて魂胆ではなくて、じつはちゃんとアメリカで出版されたベストセラーなどの翻訳をしながらも、日本の出版社の都合で急に出版が取りやめになっちゃった原稿がいくつか手元にあるのです。それをどうにかできないかなあとつらつら思っていたのですが、根が無精なもので自分から別の出版社を探すでもなく売り込むわけでもなく、そのままほったらかし。それが出版側のリスクなく、というか出版が必要ないのだから誰のリスクを心配することもなく直接の販路を得ることになるわけで、これって、確実に現在の出版社の機能の大きな一部を削ぎ取っちゃうような、革命的出来事です。

まあ、出版というのは「本になる」といういっしゅ物神崇拝的な実体化を愛でる部分もあるわけで、その意味では出版社のその機能は失われることはないでしょうが、しかしこれはまさしくレコードが電子ファイルになってしまったと同じ流れが著述界にもやってくるということでしょう。

iTunesストアではそういう音楽界のインディーズのアウトプットは受け付けてるんだよね。
でも、大物アーティストたちがレコード会社というかCD会社?にいまもこだわってくっついているのはどういうことなんだろう? ああ、イベントとかプロモーションとかいろいろ抱き合わせでやってくれるからかな。それに、従来からの契約もあるだろうしね。

でも、出版界なんてそんな縛りはない。お抱え作家、なんてものは一時、半村良が「太陽の世界」を角川パッケージで書き続けると宣言したときくらいでしょう(←古い)。

これ、すごいことだなあ。

と思ってたら、先ほどこんなニュースが!!!!

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アマゾン、「Kindle」向け電子書籍の印税を引き上げ--「App Store」と同率に

CNET Japan
文:David Carnoy(CNET News)
翻訳校正:矢倉美登里、長谷睦
2010/01/21 12:24  

 Amazonが「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を利用する作家や出版社に支払う印税を、電子書籍の表示価格の70%に引き上げると発表した。今回の動きは、米国時間1月27日にタブレット型端末を発表する可能性が濃厚なAppleに対する先制攻撃なのかもしれない。70%という印税率は従来の35%から大幅な引き上げとなるが、「App Store」でアプリを販売する開発者にAppleが支払う売上配分と同じであり、これは偶然の一致ではなさそうだ。

 Amazonによると、6月30日以降、印税率70%の新オプションを選ぶ作家や出版社は、Kindle向け電子書籍が売れるたびに、表示価格の70%から配信コストを引いた額を受け取ることになるという。この新しいオプションは、既存のDTP標準印税オプションを置き換えるものではなく、追加される形となる。従来の印税オプションは、印税率が35%で、表示価格の65%をAmazonが受け取っている。

 App Storeは、AmazonやBarnes & Nobleといった電子書籍ストアなどが提供する電子書籍リーダーアプリ(Kindleや「Stanza」)のほか、独立型アプリとして何千もの電子書籍を提供しているが、Amazonは、新しい価格体系がAppleがApp Storeで実施している印税プログラムに対応するものであるのかどうかについては、コメントしていない。ただし配信コストは、ファイルサイズに基づいて計算され、料金は1Mバイト当たり15セントになる点は明確にしている。

 Amazonのニュースリリースには以下のような記述がある。「現在のDTPファイルサイズのメジアン(中央値)である368Kバイトの場合、配信コストは売上部数当たり6セント未満になる。したがって、この新しいプログラムでは、作家と出版社は書籍が売れるたびにより多くの利益を得ることができる。たとえば、価格が8.99ドルの書籍だと、作家の手取りは標準オプションでは3.15ドルだが、新しい70%オプションでは6.25ドルになる」

 今回の発表は、印税率70%オプションの適用条件も定めている。このオプションを利用するには、以下の条件を満たしている必要がある。

 *作家または出版社が設定した価格が2.99~9.99ドルの範囲内である。

 *電子書籍の価格が、紙媒体の書籍の最低価格より20%以上安い。

 *作家や出版社が権利を持つすべての地域で作品の販売が可能。

 *テキスト読み上げ(text-to-speech)機能など、「Kindle Store」の幅広い機能に対応している。こうした機能は、AmazonがKindleおよびKindle Storeに機能を追加し続けるのにあわせて増えていく。

 *他店の価格(紙媒体の書籍の価格を含む)以下で提供される。Amazonがこのプロセスを自動化するツールを提供し、70%の印税はこの最低価格を基準として算出される。

 *著作権のある作品が対象で、1923年以前に出版された作品(パブリックドメインの書籍)は対象外。当初は米国で販売される書籍のみが対象となる。

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びっくりするのは電子書籍の印税ってアメリカでは35%もあったってこと。しかもそれを今度は倍の70%にするってことです。

ええええ!? 日本じゃ単行本でもせいぜい売価の10%。翻訳物だと8%。文庫だと5%ですよ。出版不況だから今はもっと安いかもしれない……。つまり2000円の本1つ売れても、日本じゃ書いた人には高々200円(税引き前)しか手に入らないってこと。初版なんて今きっと3000部がいいところだろうから、2000円の本1つ書いて出しても全部で60万円にしかならないということです。これじゃ生きてけないわね。でもこれがアメリカだったら420万円だ。うーん、俄然やる気が出てくるね。

そういやアメリカって、作家がものすごい前払金をもらったりしてますものね。それにしてもこんなに印税取ってたとは知らなんだ。てか、日本の出版社のほうがすごい搾取をしてるってことか。まあ、製本とか抜群にきれいですけど。

でも道理で大手出版社の社員は結構な高給取り。講談社とか集英社とか新潮社とかの社員ってエリートっぽいもんねえ。しかも作家は本を出していただけるところですから下手な文句も言えず、なんせ「東販/日販がこれじゃあ売れないって言うんで」という一言で、はあ、と言わざるを得ない。

ところが自分の時価の販路ができるとあれば話は違います。まあ、宣伝とかは必要でしょうが、私のような、べつに大して売ろうと思っていないのは読みたい/読ませたい人にだけ届けばよいわけで、これはうれしい。これは出版革命ですわ。

アメリカの一般の本屋さんはアマゾンの成長でどんどん閉店しています。統廃合と再編が進んで大手ブックチェーンだけがかろうじて生き残っている。それが今度は「本」そのものがなくなろうとしているのでしょう。もちろんここでも人間の「物」への執着はなくならないでしょうから本屋さんが完全に消滅することはないにしても、商売のメインストリームからは消えてゆく運命なんでしょうね。だからその大手書店チェーンも今、自社チェーンというかサイトでの電子書籍販売システムの構築に躍起になっているのです。

まあ、わたしが考えてるくらいですから日本の関連業者さんはすでに新たなビジネスモデルとビジネスチャンスをねらってがんばっているんでしょうけれど。

もっとも、次のようなニュースも

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Amazon、Kindle向け自費出版サービスを米国外に拡大

【世界中の出版社や個人が、電子書籍リーダー「Kindle」向けのコンテンツをKindle Storeで販売できるようになった。ただし対応する言語は英語、ドイツ語、フランス語のみ】

1月18日10時49分配信 ITmedia エンタープライズ

 米Amazonは1月15日、米国でのみ提供してきた電子書籍の自費出版サービス「Kindle Digital Text Platform(DTP)」を、米国外でも利用可能にしたと発表した。対応する言語は英語に加え、ドイツ語とフランス語。そのほかの言語についても段階的に対応していくという。

 DTPは出版社や個人がコンテンツをKindle Storeで販売できるようにするサービス。HTMLやテキスト、PDFファイルなどをアップロードするとKindleのフォーマットに変換され、Kindle Storeに登録される。書籍の価格は利用者が設定でき、売り上げの35%を受け取ることができる。これまでは米国の銀行口座と米国在住を証明するための社会保障番号(SSN)などが必要だったが、米国外の利用者はそれらの情報を記入せずに登録できるようになった。売上金の受け取りは小切手で行う。

 Kindleで表示できる文字は現状ではLatin-1と呼ばれる1バイトコードのみで、日本語などの2バイトコードに対応する見込みは具体的に明らかにされていない。
最終更新:1月18日10時49分

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日本語という言葉によって、日本はここでも守られて入るんですが、猶予の時間はそう長くはないと思います。

January 19, 2010

再び、ハイチ地震と日本

距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。

折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう? まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで5日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢4億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。

西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。

それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。

▼アメリカン・エクスプレス;25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。
▼アメリカン航空グループ(AMR);サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。
▼AT&T;携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。
▼バンク・オブ・アメリカ;100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。
▼キャンベルスープ;20万ドル。
▼キヤノン・グループ;22万ドルを米赤十字社へ。
▼シスコ基金;250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付(上限100万ドル)
▼シティグループ;救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。
▼コカコーラ;米赤十字社へ100万ドル。
▼クレディスイス;100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。
▼DHL;災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。
▼ダウ・ケミカル;50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。
▼デュポン;10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。
▼フェデラルエクスプレス;42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。
▼ゼネラル・エレクトリック(GE);250万ドル。
▼ジェネラル・ミルズ基金;25万ドル。
▼ゴールドマン・サックス;100万ドル。
▼グーグル;100万ドルをユニセフとCAREへ。
▼グラクソ・スミス&クライン;抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。
▼GM基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼ヒューレット・パッカード;50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。
▼ホームデポ基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼IBM;技術およびサービスで15万ドル相当分。
▼インテル;25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。
▼JPモルガン・チェース;100万ドル。
▼ケロッグ;25万ドル。
▼KPMG;50万ドル。
▼クラフト・フーズ;2万5000ドル。
▼メジャーリーグ・ベースボール(MBL);100万ドルをユニセフに。
▼マスターカード;会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。
▼マクドナルド;50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。
▼マイクロソフト;125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。
▼モルガン・スタンリー;100万ドル。
▼モトローラ;10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。
▼北米ネスレ・ウォーターズ;100万ドル相当分の飲料水
▼ニューズ・コープ;25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。
▼ニューヨーク・ヤンキーズ;50万ドル。
▼パナソニック;10万9962ドル(1000万円)。
▼ペプシコ;100万ドル。
▼トヨタ;50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。
▼トイザらス;15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。
▼ユニリーヴァー;50万ドルを国連食糧計画に。
▼ヴェライゾン基金;10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。
▼VISA;20万ドルを米赤十字社へ。
▼ウォルマート;50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。
▼ウォルト・ディズニー社;10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。

  ……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。

電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに(地震発生後5日間)で1600万ドル(15億円)を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。

思えば9・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。

とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。

日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ(トップページ)にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがCRMの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。

何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。

今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法9条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。

January 13, 2010

日米外相会談

さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また5分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。

というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。(って、私は前から言っていたんですけどね)。

日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「5月までに決める=5月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか? というかどこに着目しているのか?

アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない(indestructible)のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。

もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50%を初めて切って、46%になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10%を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で5千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。

で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。

じつはこれには伏線があります。1月6日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise(ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ)」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」(朝日新聞)のです。

これを報じた朝日新聞を引きましょう。
同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。(普天間のような)二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。
 東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。

まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。

ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の1つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という(まあ、もっともな)立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。

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Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.
たとえ鳩山氏が結果的に基地計画で折れたとしても、われわれは日本に対してより我慢強く戦略的なアプローチをしていかねばならない。われわれがいまやっていることは東アジアのためのわれわれの長期的戦略を二次的な問題で脅かしているという事態なのである。普天間は、そんなものは屁みたいなもんだし、日本の新政権が持ち出してきた数多くの問題の1つでしかない。新政権が言っているのはより平等な同盟関係とか、中国とのよりよい関係とか、東アジアのコミュニティの創造だとか、まあ、意味ははっきりとはわからないまでもそういうことなのだ。

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.
東アジア戦略に関して1995年にペンタゴンの報告書を手伝ったときに、われわれの見据えたことはこの地域に3つの大国が存在しているという現実だった。すなわち、米国、日本、中国である。われわれが日本との同盟関係を維持することが中国が台頭してくるその環境を決定づけるのである。われわれは中国が国際的なシステムの中に入ってくるよう望んでいた。たとえば世界貿易機関(WTO)に参加するなどして。しかしわれわれは同時に未来のより強大になった中国が好戦的に変わる危険にも備えなくてはならなかったのだ。

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かなりしたたかでしょう。
そう、日本が中国を見ているように、アメリカもまた中国との関係で日本はとても重要な国なのです。その三つ巴の(?)バランスを上手く保たねば、この地域でのアメリカの覇権も危うい。そのためには普天間など取るに足らない問題だ、というわけです。おそらくこれはクリントン国務省の考え方と同じと考えてよい。

ワシントンポストはまさにそこを次のように書いています。(翻訳文のカッコ内は私の註です)

The new tone also stems from a growing realization in Washington and Tokyo that the base issue cannot be allowed to dominate an alliance crucial to both countries at a time when a resurgent China is remaking Asia, signing trade deals and staking claims to ocean resources.
ワシントンと東京で、再び台頭してきた中国がアジアを再構築し貿易問題をまとめ海洋資源の所有権を主張しようとしているとき、米日両国にとって死活の問題である同盟関係を基地問題などで右往左往させてはならないという認識が育ってきて、(日米間の亀裂、不協和音とは違う)あらたな傾向が出てきた。

(中略)
But Tuesday, Clinton was understanding.
火曜日(12日=日米外相会談の日)、クリントンは(日本の立場を)理解していた。

"We are respectful of the process that the Japanese government is going through," she said. "We also have an appreciation for some of the difficult new issues that this government must address," including the widespread opposition to the U.S. military presence on Okinawa.
「日本政府が経験している過程はわれわれも尊重している」と彼女(クリントン)は言った。「またこの(日本の)政府が困難で新たな問題のいくつかに取り組んでいることも私たちは評価している」と。その問題には沖縄の米軍の駐留に対する広い反対意見のことも含まれている。

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ね、いかに「普天間、平行線」という見出しが間違っているか、これでわかるでしょ?
岡田外相と、その報告を受けた鳩山首相が上機嫌そうだったのは、こういうことなのです。

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以下、ナイのエッセーを添付しときます。時間があったら翻訳しますけど、いまはちょっと全部は無理。

SEEN from Tokyo, America’s relationship with Japan faces a crisis. The immediate problem is deadlock over a plan to move an American military base on the island of Okinawa. It sounds simple, but this is an issue with a long back story that could create a serious rift with one of our most crucial allies.

When I was in the Pentagon more than a decade ago, we began planning to reduce the burden that our presence places on Okinawa, which houses more than half of the 47,000 American troops in Japan. The Marine Corps Air Station Futenma was a particular problem because of its proximity to a crowded city, Ginowan. After years of negotiation, the Japanese and American governments agreed in 2006 to move the base to a less populated part of Okinawa and to move 8,000 Marines from Okinawa to Guam by 2014.

The plan was thrown into jeopardy last summer when the Japanese voted out the Liberal Democratic Party that had governed the country for nearly half a century in favor of the Democratic Party of Japan. The new prime minister, Yukio Hatoyama, leads a government that is inexperienced, divided and still in the thrall of campaign promises to move the base off the island or out of Japan completely.

The Pentagon is properly annoyed that Mr. Hatoyama is trying to go back on an agreement that took more than a decade to work out and that has major implications for the Marine Corps’ budget and force realignment. Secretary of Defense Robert Gates expressed displeasure during a trip to Japan in October, calling any reassessment of the plan “counterproductive.” When he visited Tokyo in November, President Obama agreed to a high-level working group to consider the Futenma question. But since then, Mr. Hatoyama has said he will delay a final decision on relocation until at least May.

Not surprisingly, some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise, for Mr. Hatoyama is caught in a vise, with the Americans squeezing from one side and a small left-wing party (upon which his majority in the upper house of the legislature depends) threatening to quit the coalition if he makes any significant concessions to the Americans. Further complicating matters, the future of Futenma is deeply contentious for Okinawans.

Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.

After a year and a half of extensive negotiations, the United States and Japan agreed that our alliance, rather than representing a cold war relic, was the basis for stability and prosperity in the region. President Bill Clinton and Prime Minister Ryutaro Hashimoto affirmed that in their 1996 Tokyo declaration. This strategy of “integrate, but hedge” continued to guide American foreign policy through the years of the Bush administration.

This year is the 50th anniversary of the United States-Japan security treaty. The two countries will miss a major opportunity if they let the base controversy lead to bitter feelings or the further reduction of American forces in Japan. The best guarantee of security in a region where China remains a long-term challenge and a nuclear North Korea poses a clear threat remains the presence of American troops, which Japan helps to maintain with generous host nation support.

Sometimes Japanese officials quietly welcome “gaiatsu,” or foreign pressure, to help resolve their own bureaucratic deadlocks. But that is not the case here: if the United States undercuts the new Japanese government and creates resentment among the Japanese public, then a victory on Futenma could prove Pyrrhic.

December 31, 2009

オバマの1年

年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの1年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを5分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので(MBSは25分くれました、感謝)、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。

12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。

なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた1年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの1年はまた、国内で3割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った1年でもあったからです。

その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。

しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。

あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の1つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。

イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。

彼は計算高いのでしょうか? そうかもしれません。同じように3割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。

景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10%なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。

にっちもさっちもいかなかったオバマの1年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。

なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。

で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ?、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義=悪者」という刷り込みが出来上がっています。

で、オバマに対して批判する人たち,保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。

保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な1年でした。

そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。

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よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで? なんでだよー? いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ?」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。

鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。

で、そこからなのです。話し合いというのは。

普天間の問題は、基本的に2つの問題に集約されます。

1つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。
もう1つは、沖縄に基地が集中している問題。

沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま?」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。

つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。

それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。

沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。

さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。

そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。

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前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。

もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、3年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。

アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。

交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか? だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ? なんか笑えることがあるのか?」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。

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私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。

警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。

アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の,ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。

そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。

December 14, 2009

年越しの果てに見えてくるもの

小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。

にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。

普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の(不慣れな)やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。

米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう? まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか? それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。

米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。

普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。

しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80%を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか? それは果たしてそもそも必要なのか?

日米中の3国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか? あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。

習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。

December 02, 2009

世界エイズデー

1日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。

稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。

一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。

米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。

ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し=犯人探し」が横行しましたっけ。

果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。

エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。

人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。

宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。

稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。

感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で3人で語り合ったのでした。

October 27, 2009

メディアの立ち位置

鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。

ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。

でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。

谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて(じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから)、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。

同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。

自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは