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August 10, 2010

ママの憂鬱

7月下旬、34歳の日テレの女性アナウンサーが5カ月の乳児を残して仙台の高層マンションから飛び降り自殺しました。日本の朝やお昼のニュースショーでは男性のコメンテイターやキャスターたちが深刻顔で「育児ストレス」や「育児ノイローゼ」に関した通り一遍のコメントをしていました。いわく「育児が大変な仕事だという周囲の理解と協力が必要」──しかし育児ストレスというものの正体が何なのかという「理解」は、当のコメンテイターたちにもあまりないようでした。

事件後ややして「育児ストレス」は「産後うつ」という言葉に置き換わりました。そう診断されていたと女性アナのお兄さんが明かしたからです。けれどそれがどういう病気なのかは「優秀で、きまじめで完全主義な人」がかかりやすいだとか、「最後まで仕事にこだわり、育児を割り切れない」のが原因だとか(いずれも産経新聞iZa β版http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/425362/)、なにもわかっていないままでした。

テキサス州ヒューストンの郊外で9年前の2001年、生後6カ月から7歳までの子供5人全員が36歳の母親の手で浴槽で溺死させられたという事件がありました。母親はその2年前に四男を出産し、その後、うつ病になっていたのです。そう「産後うつ」です。

このとき、NYタイムズなどの米紙は事件に絡め、出産に関連する女性のホルモンや代謝の変化の、男性たちの想像もつかない複雑さを詳細にリポートしていました。

こういうことです。出産と同時に胎盤が出てしまうと、女性の体内では卵胞ホルモンであるエストロゲンも数分あるいは数時間以内で急激に下降します。黄体ホルモンも同じく急降下し、その一方でお乳を司る脳下垂体が普段の2倍にまで膨張するのです。それまで9カ月間にわたって母胎を守ってきたシステムそのものがとつぜん切り替わってしまうのです。これはまさに「変身」の衝撃が母体を襲うということです。

その結果、米国では85%もの母親が出産後3日以内に「ベイビー・ブルーズ(産後の気のふさぎ)」という症状を経験するのだそうです。気分の波が激しく、2週間にもわたって鬱々とした状態が続くのです。

85%、とはほとんど全員です。しかしもっと驚くのはそのうちの10人に1人がただの気のふさぎでは済まずに本当に「産後うつ病」に移行するということです。こうしたお母さんたちは疲弊感と孤独感にさいなまれ、母になった喜びも感じられずしばしば涙に暮れ、食事や睡眠も不規則になるのだとか。おそらくこれらの数字に日米の差はあまりないと思います。違いがあるとしたら、それは母親たちを取り巻く環境の差でしょう。とはいえ、それもいまはそんなに変わらないと思いますが。

うつ状態よりも厳しい症状は「産後精神障害」と呼ばれます。米国では新生児の母親の千人に1人という発症率ですが、これはふだんの精神障害発生率の16倍という数字だそうです。この場合は出産直後から妄想が現れ、「赤ちゃんを殺せ」「この子は死んだほうが幸せだ」という幻聴まで聞こえたりするとか。米国ではこうした母親による赤ん坊殺しが毎年百件前後も発生しています。

産後のうつ症状にはホルモン療法が効果的とも言われますが、もちろん同時に家庭内での理解と支援が必要です。もちろんこれはお題目的な理解ではなく、前述した女性の化学のメカニズムを男性たちも含めた周囲のみんながきちんと知っての理解です。そのためにはメディアもきちんと科学的な情報を提供することが欠かせません。何も知らない人たちがテレビで適当にコメントを出し合っても、そんなものは何の役にも立たないのですから。

最近、日本でも子供の虐待死が相次いでいます。男性の手になるものは何をか言わんやですが、それが母親による育児放棄や虐待である場合、私たちが「育児ストレス」と簡単に呼び捨ててしまいがちなケースのその裏側には、甚大な産後の肉体的変調が関わっている可能性もあるのかもしれません。

August 04, 2010

クローゼットな言語

「イマーゴ」という、今はなき雑誌に依頼されて書いた原稿を、昨日のエントリーに関連してここにそのまま再掲します。書いたのは2001年3月って文書ファイル記録にあるんですけど、当のイマーゴは96年に休刊になってるんで、きっと1995年11月号の「ゲイ・リベレイション」特集でしょうね。へえ、私、15年前にこんなこと考えてたんだ。時期、間違ってたら後ほど訂正します。

では、ご笑読ください。

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クローゼットな言語----日本語とストレートの解放のために


 「地球の歩き方」という、若い旅行者の自由なガイドブックを気取った本の「ニューヨーク」グリニッチ・ヴィレッジの項目最初に、「(ヴィレッジは)ゲイの存在がクローズ・アップされる昨今、クリストファー通りを中心にゲイの居住区として有名になってしまった。このあたり、夕方になるとゲイのカップルがどこからともなく集まり、ちょっと異様な雰囲気となる」と書かれている。「ブルータス」という雑誌のニューヨーク案内版では「スプラッシュ」というチェルシーのバーについて「目張りを入れた眼でその夜の相手を物色する客が立錐の余地なく詰まった店で、彼ら(バーテンダーたち=筆者註)の異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」とある。マックの最終案内という文言に惹かれて買ったことし初めの「mono」マガジンと称する雑誌の「TREND EYES」ページに、渋谷パルコでの写真展の紹介があったが、ここには「〝らお〟といっても(中略)〝裸男〟と表記する。つまり男のヌード。(中略)男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」とある。

 この種の言説はいたるところに存在する。無知、揶揄、茶化し、笑い、冷やかし、文章表現のちょっとした遊び。問題はしかし、これらの文章の筆者たち(いずれも無記名だからフリーランス・ライターの下請け仕事か、編集部員の掛け持ち記事なのだろう)の技術の拙さや若さゆえの考え足らずにあるのではない。

 集英社から九三年に出された国語辞典の末尾付録に、早稲田大学の中村明が「日本語の表現」と題する簡潔にまとまった日本語概論を載せている。その中に、日本では口数の多いことは慎みのないことで、寡黙の言語習慣が育った、とある。「その背景には、ことばのむなしさ、口にした瞬間に真情が漏れてしまう、ことばは本来通じないもの、そういった言語に対する不信感が存在したかもしれない」「本格的な長編小説よりは(中略)身辺雑記風の短編が好まれ、俳句が国民の文学となったのも、そのことと無関係ではない」として、「全部言い尽くすことは避けようとする」日本語の特性を、尾崎一雄や永井龍男、井伏や谷崎や芥川まで例を引きながら活写している。

 中村の示唆するように、これは日本語の美質である。しかし問題は、この美しさが他者を排除する美しさであるということである。徹底した省略と含意とが行き着くところは、「おい、あれ」といわれて即座にお茶を、あるいは風呂の、燗酒の、夕食の支度を始める老妻とその夫との言葉のように、他人の入り込めない言語であるということだ。それは心地よく面倒もなく、他人がとやかく言える筋合いのものではない関係のうちの言語。わたしたちをそれを非難できない。ほっといてくれ、と言われれば、はい、わかりましたとしか言えない。

 この「仲間うちの言語」が老夫婦の会話にとどまっていないところが、さらに言えば日本語の〝特質〟なのである。いや、断定は避けよう。どの言語にも仲間うちの符丁なるものは存在し、内向するベクトルは人間の心象そのものの一要素なのだから、多かれ少なかれこの種の傾向はどの社会でも見られることだろう。しかし冒頭の三例の文言が、筆者の幻想する「わたしたち」を土台に書かれたことは、自覚的かそうではないかは無関係に確かなことのように思われる。「ゲイの居住区として有名になってしまった」と記すときの「それは残念なことだが」というコノテイションが示すものは、「わたしたち」の中に、すなわちこの「地球の歩き方」の読者の中に「ゲイは存在しない」ということである(わたしのアパートにこの本を置いていったのは日本からのゲイの観光客だったのだが)。「異様なまでの明るい目つきが、明るすぎてナンでした」というときの「変だというか、こんなんでよいのだろうかというか、予想外というか、つまり、ナンなんでしょうか?」という表現の節約にあるものは、「あなたもわかるよね」という読者への寄り掛かりであり、あらかじめの〝共感〟への盲信である。「男の裸など見たくもないと思う向きもいるだろうが」という、いわずもがなのわざわざの〝お断り〟は、はて、何だろう? 取材した筆者もあなたと同じく男の裸なんか見たくもないと思ってるんだが、そこはそれ、仕事だから、ということなのだろうか? それとも三例ともにもっとうがった見方をすれば、この三人の筆者とも、みんなほんとうはクローゼットのゲイやレズビアンで、わざとこういうことを書き記して自らの〝潔白〟を含意したかったのだろうか……。

 前述したように、内向する言語の〝美質〟がここではみごとに他者への排除に作用している。それは心地よく面倒くさくもなく多く笑いをすら誘いもするが、しかしここでは他人がとやかく言える類のものに次元を移している。彼らは家庭内にいるわけでも老夫婦であるわけでもない。治外法権は外れ、そしてそのときに共通することは、この三例とも、なんらかの問い掛けが(予想外に)なされたときに答える言葉を有していないということである。問い掛けはどんなものでもよい。「どうしてそれじゃだめなの?」でもよいし、「ナンでしたって、ナンなの?」でもよいし、「何が言いたいわけ?」でもよろしい。彼らは答えを持っていない。すなわち、この場合に言葉はコミュニケイトの道具ではなく、失語を際だたせる不在証明でしかなくなる。そして思考そのものも停止するのだ。


 ここに、おそらく日本でのレズビアン&ゲイ・リベレイションの困難が潜在する。

 ことはしかしゲイネスに限らない。日本の政治家の失言癖がどうして何度も何度も繰り返されるのか、それは他者を排除する内輪の言葉を内輪以外のところで発言することそのものが、日本語環境として許されている、あるいは奨励されすらしているからである(あるときはただただ内輪の笑いを誘うためだけに)。「考え足らず」だから「言って」しまうのではない。まず内輪の言語を「言う」ことがアプリオリに許されているのである。「考え」はその「許可」を制御するかしないかの次の段階での、その個人の品性の問題として語られるべきだ。冒頭の段落で三例の筆者たちを「技術の拙さや若さゆえの考え足らず」で責めなかったのはその由である(だからといって彼らが赦免されるわけでもないが)。どうして「いじめ」が社会問題になるほどに陰湿なのか、それは「言葉」という日向に子供たちの(あるいは大人たちの)情動を晒さないからだ。「言葉じゃないよ」という一言がいまでも大手を振ってのさばり、思考を停止させるという怠慢に〝美質〟という名の免罪符を与えているからだ。だいたい、「言葉じゃないよ」と言う連中に言葉について考えたことのある輩がいたためしはない。

 すべてはこの厄介な日本語という言語環境に起因する。この厄介さの何が困るかといって、まず第一は多くの学者たちが勉強をしないということである。かつて六、七年ほど以前、サイデンス・テッカーだったかドナルド・キーンだったかが日本文学研究の成果でなにかの賞を受けたとき、ある日本文学の長老が「外国人による日本文学研究は、いかによくできたものでもいつもなにか学生が一生懸命よくやりましたというような印象を与える」というようなことをあるコラムで書いた。これもいわば内輪話に属するものをなんの検証(考え)もなく漏らしてしまったという類のものだが、このうっかりの吐露は一面の真実を有している。『スイミングプール・ライブラリー』(アラン・ホリングハースト著、早川書房)の翻訳と、現在訳出を終えたポール・モネットの自伝『Becoming a Man(ビカミング・ア・マン--男になるということ)』(時空出版刊行予定)の夥しい訳註を行う作業を経てわたしが感じたことは、まさにこの文壇長老の意味不明の優越感と表面的にはまったく同じものであった。すなわち、「日本人による外国文学研究は、いかによくできたものであっても、肝心のことがわかっていない小賢しい中学生のリポートのような印象を与える」というものだったのである。フィクション/ノンフィクションの違いはあれ、前二者にはいずれも歴史上実在するさまざまな欧米の作家・詩人・音楽家などが登場する。訳註を作るに当たって日本のさまざまな百科事典・文学事典を参照したのだが、これがさっぱり役に立たなかった。歴史のある側面がそっくり欠落しているのだ。

 芸術家にとって、あるいはなんらかの創造者にとって、セクシュアリティというものがどの程度その創造の原動力になっているのかをわたしは知らない。数量化できればよいのだろうが、そういうものでもなさそうだから。だがときに明らかに性愛は創造の下支えにとして機能する。あるいは創造は、性愛の別の形の捌け口として存在する。

 たとえば英国の詩人バイロンは、現在ではバイセクシュアルだったことが明らかになっている。トリニティ・カレッジの十七才のときには同学年の聖歌隊員ジョン・エデルストンへの恋に落ちて「きっと彼を人類のだれよりも愛している」と書き、ケンブリッジを卒業後にはギリシャ旅行での夥しい同性愛体験を暗号で友人に書き記した手紙も残っている。この二十三才のときに出逢ったフランス人とギリシャ人の混血であるニコロ・ジローに関しては「かつて見た最も美しい存在」と記し、医者に括約筋の弛緩方法を訊いたり(!)もして自分の相続人にするほどだった。が、帰国の最中に彼の死を知るのだ。その後、『チャイルド・ハロルドの巡礼』にも当初一部が収められたいわゆる『テュルザ(Thyrza)の詩』で、バイロンは「テュルザ」という女性名に託した悲痛な哀歌の連作を行った。この女性がだれなのかは当時大きな話題になったが、バイロンの生前は謎のままだった。いまではこれがニコロのことであったことがわかっている。

 『草の葉』で知られる米国の国民詩人ウォルト・ホイットマンはその晩年、長年の友人だった英国の詩人で性科学者のジョン・アディントン・シモンズに自らの性的指向を尋ねられた際に、自分は六人も私生児を作り、南部に孫も一人生きているとムキになって同性愛を否定する書簡を送った。これがずっとこの大衆詩人を「ノーマルな人物だった」とする保守文壇の論拠となり、さらにホイットマンが一八四八年に訪ねたニューオリンズ回顧の詩句「かつてわたしの通り過ぎた大きな街、そこの唯一の思い出はしばしば逢った一人の女性、彼女はわたしを愛するがゆえにわたしを引き留めた」をもってしてこの〝異性愛〟ロマンスが一八五〇年代『草の葉』での文学的開花に繋がったとする論陣を張った。しかしこれも現在では、その詩句の草稿時の原文が「その街のことで思い出せるのはただ一つ、そこの、わたしとともにさまよったあの男、わたしへの愛のゆえに」であることがわかっている。『草の葉』では第三版所収の「カラマス」がホモセクシュアルとして有名だが、それを発表した後の一八六八年から八〇年までの時期、彼がトローリー・カーの車掌だったピーター・ドイルに送った数多くの手紙も残っており、そこには結びの句として「たくさん、たくさん、きみへ愛のキスを」などという言葉が記されている。

 これらはことし刊行された大部の労作『THE GAY AND LESBIAN Literary Heritage』(Henry Holt)などに記されている一部であるが、同書の百六十数人にも及ぶ執筆者の、パラノイドとも見紛うばかりの原典主義情報収集力とそれを論拠としているがゆえの冷静かつ客観的な論理建ては、研究というものが本来どういうものであるのかについて、日米間の圧倒的な膂力の差を見せつけられる思いがするほどだ。日本のどんな文学事典でもよい、日本で刊行されている日本人研究者による外国文学研究書でもよい、前者二人に限らず、彼ら作家の創造の原動力となったもやもやしたなにかが、すべてはわからなくとも、わかるような手掛かりだけでもよいから与えてくれるようなものは、ほとんどないと言ってよい。



 「日米間の圧倒的な膂力の差」と一般論のように書きながら、厄介な日本語環境の困難さとしてこれを一般化するのではなく象徴的な二つの問題に限るべきだとも思う。

 一つは「物言わぬ日本語」の特質にかぶさる/重なるように、なぜその「もやもやしたなにか」がまがりなりにも表記され得ないのかは、「性的なるもの」に関しての「寡黙の言語習慣」がふたたび関係してくることが挙げられる(「もやもやしたなにか」がすべて性的なもので説明がつくと言っているわけではない)。日本語において議論というものが成立しにくいことは「他者を排除する言語習慣」としてすでに述べたが、そんな数少ない議論の中でもさらに「性的な問題」は議論の対象にはなりにくい。「性的なこと」が議論の対象になりにくいのは「性的なこと」が二人の関係の中でのみの出来事だと思われているからである。すなわち、「おい、あれ」の二人だけの閨房物語、「あんたにとやかく言われる筋合いのものではない」という、もう一つの、より大きいクローゼットの中の心地よい次元。そうして多くみんな、日本では性的なことがらに関してストレートもゲイもその巨大なクローゼットの中にいっしょに取り込まれ続ける。

 性的なことがらはしたがって学問にはなりにくい。クローゼットの中では議論も学問も成立しない。すなわち、「性科学」なる学問分野は日本では困難の二乗である。九月に北京で行われた国連世界女性会議で「セクシュアル・ライツ」に絡んで「セクシュアル・オリエンテイション」なる言葉が議論にのぼったとき、日本のマスメディア(読売、毎日、フジTV。朝日ほかは確認できなかった)はこれを無知な記者同士で協定でも結んだかのようにそろって「性的志向」と誤記した。「意志」の力では変えられないその個人の性的な方向性として性科学者たちがせっかく「性的指向」という漢字を当ててきた努力を、彼ら現場の馬鹿記者と東京の阿呆デスクと無学な校閲記者どもが瞬時に台無しにしてしまったのである。情けないったらありゃしない。

 考えるべきもう一つはクローゼットであることとアウト(カミング・アウトした状態)であることの差違の問題だ。先ほど引用した『ゲイ&レスビアン・リテラリー・ヘリテッジ』の執筆陣百六十人以上は、ほとんどがいずれも錚々たるオープンリー・ゲイ/レズビアンの文学者たちである。押し入れから出てきた彼らの情報収集の意地と思索の真摯さについては前述した。彼/彼女らの研究の必死さは、彼/彼女らの人生だけではなく彼/彼女のいまだ見知らぬ兄弟姉妹の命をも(文字どおり)救うことに繋がっており、大学の年金をもらうことだけが生き甲斐の怠惰な日本の文学研究者とは根性からして違うという印象を持つ。一方で、クローゼットたちは何をしているかといえば、悲しいかな、いまも鬱々と性的妄想の中でジャック・オフを続けるばかりだ。日本の文学研究者の中にも多くホモセクシュアルはいるが、彼らは一部の若い世代のゲイの学者を除いてむしろ自らの著作からいっさいの〝ホモっぽさ〟を排除する努力を重ねている。

 ここで気づかねばならないのは、「ホモのいやらしさ」は「ホモ」だから「いやらしい」のではないということだ。一般に「ホモのいやらしさ」と言われているものの正体は「隠れてコソコソ妄想すること」の「いやらしさ」なのであって、それは「ホモ」であろうがなかろうが関係ない。性的犯罪者はだいたいがきまってこの「クローゼット」である。犯罪として性的ないやらしいことをするのは二丁目で働くおネエさんやおニイさんたちではなく、隠れてコソコソ妄想し続ける小学校の先生だったりエリート・サラリーマンだったり大蔵省の官僚だったりする連中のほうなのだ。かつてバブル最盛期の西新宿に、入会金五十万円の男性売春クラブが存在した。所属する売春夫の少年たちは多くモデル・エイジェンシーやタレント・プロダクションの男の子たちで、〝会員〟たちの秘密を口外しないという約束のカタに全裸の正面写真を撮られた。これが〝商品見本〟として使われているのは明らかだった。ポケベルで呼び出されて〝出張〟するのは西新宿のある一流ホテルと決まっていて、一回十万円という支払いの〝決済〟はそのクラブのダミーであるレストランの名前で行われた。クレジット・カードも受け付けた。請求書や領収書もそのレストラン名で送られた。送り先は個人である場合が多かった。が、中に一流商社の総務部が部として会員になっている場合もあったのである。〝接待〟用に。

 これがすべて性をクローゼットに押し込める日本のありようだ。話さないこと、言挙げしないこと、考えないこと、それらが束になって表向き「心地よい」社会を形作っている。ゲイたちばかりかストレートたちまでもがクローゼットで、だからおじさんたちが会社の女の子に声をかけるときにはいつも、寝室の会話をそのまま持ち込んだような、いったん下目遣いになってから上目遣いに変えて話を始めるような、クローゼット特有の、どうしてもセクシュアル・ハラスメントめいた卑しい言葉遣いになってしまう。あるいは逆転して、いっさいの性的な話題をベッド・トークに勘違いして眉間にしわを寄せ硬直するような。性的な言挙げをしないのが儒教の影響だと宣う輩もいるが、わたしにはそれは儒教とかなんだとかいうより、単なる怠慢だとしか思われない。あるいは怠慢へと流れがちな人類の文化傾向。むしろ思考もまた、安きに流れるという経済性の法則が言語の習慣と相まって力を増していると考えたほうがよいと思っている。


 そのような言語環境の中で、すなわち社会全体がクローゼットだという環境の中で、リベレイションという最も言葉を必要とする運動を行うことの撞着。日本のゲイたちのことを考えるときには、まずはそんな彼/彼女たちのあらかじめの疲弊と諦観とを前提にしなければならないのも事実なのだ。このあらかじめの諦めの強制こそが、「隠れホモ」と蔑称される彼らが、その蔑称に値するだけの卑しい存在であり続けさせられている理由である。

 「日本には日本のゲイ・リベレイションの形があるはずだ」という夢想は、はたして可能なのだろうか? 「日本」という「物言わぬこと」を旨とする概念と「リベレイション」という概念とが一つになった命題とは、名辞矛盾ではないのか?

 ジンバブエ大統領であるロバート・ムガベがことし七月、「国際本の祭典」の開催に当たってゲイ団体のブースを禁止し、自分の国ではホモセクシュアルたちの法的権利などないと演説した際、これを取り上げたマスメディアは日本では毎日新聞の外信面だけだった。毎日新聞はいまでもホモセクシュアルを「ホモ」という蔑称で表記することがあり、同性愛者の人権についてのなんらの統一した社内基準を有していない。あそこの体質というか、いつも記者任せで原稿が紙面化される。逆にこのジンバブエの特派員電のように(小さな記事だったが)、記者が重要だと判断して送稿すれば簡単に紙面化するという〝美質〟も生まれる。ところでそのジンバブエだが、ニューヨーク・タイムズが九月十日付けで特派員ドナルド・G・マクニールの長文のレポートを掲載している。首都ハラレでダイアナ・ロスのそっくりさんとして知られるショウ・パフォーマーのドラッグ・クィーンを紹介しながら、「イヌやブタよりも劣るソドミストと変態」と大統領に呼ばれた彼らの生活の変化を報告しているのだが、ハラレにゲイ人権団体が設立されていて女装ショウがエイズ患者/感染者への寄付集めに開催されていること、ムガベが「英国植民地時代に輸入された白人の悪徳」とするホモセクシュアリティにそれ以前から「ンゴチャニ」という母国語の単語があること、などを克明に記してとても好意的な扱いになっている。

 ニューヨーク・タイムズがほとんど毎日のようにゲイ・レズビアン関連の記事を掲載するようになったのは九二年一月、三十代の社主A・O・ザルツバーガー・ジュニアが発行人になってからのことだ。それ以前にも八六年にマックス・フランクルが編集局長になってから「ゲイ」という単語を正式に同新聞用語に採用するなどの改善が行われていたが、同時にゲイであることをオープンにしていた人望厚い編集者ジェフリー・シュマルツがエイズでもカミング・アウトしたことが社内世論を形成したと言ってもよい。

 アメリカが「物言うこと」を旨とする国だと言いたいのではない。いや逆に、「物言うこと」を旨としているアメリカの言論機関ですら、ホモセクシュアリティについて語りだしたのがつい最近なのだということに留意したいのである。ホモセクシュアリティはここアメリカでも長く内輪の冷やかしの話題であり、自分たちとは別の〝人種〟の淫らな「アレ」だった。日本と違うのはそれが内輪の会話を飛び越えて社会的にも口にされるときに、そのまま位相を移すのではなくて宗教と宗教的正義の次元にズレることだ。つまり〝大義名分〟なしにはやはりこのおしゃべりな国の人々もホモセクシュアリティについては話せなかったのである。

 わたしの言いたいのは、日本語にある含意とか省略とか沈黙といった〝美質〟を壊してしまえということではない。そのクローゼットの言語次元はまた、壊せるものでもぜったいにない。ならば新たに別の次元を、つまりは仲間うちではなく他者を視野に入れた言語環境を、クローゼットから出たおおやけの言語を多く発語してゆく以外にないのではないかということなのだ。そしてそれを行うに、性のこと以上に「卑しさ」と(つまりはクローゼットの言語と)「潔さ」との(つまりはアウトの言語との)歴然たる次元の差異を明かし得る(つまりは本論冒頭の三つの話者のような連中が、書いて発表したことを即座に羞恥してしまうような)恰好の話題はないと思うのである。ちょうど「セクハラ」が恥ずかしいことなのだと何度も言われ続けどんどん外堀を埋められて、おじさんたちが嫌々ながらもそれを認めざるを得なくなってきているように。そうすればどうなるか。典型例は今春、ゲイ市場への販売拡大を目指してニューヨークで開かれた「全米ゲイ&レズビアン企業・消費者エキスポ」で、出展した二百二十五社の半数がIBMやアメリカン航空、アメリカン・エクスプレス、メリル・リンチ、チェイス・マンハッタン銀行、ブリタニカ百科事典などの大手を含む一般企業だったことだ。不動産会社も保険会社もあった。西新宿の秘密クラブではなく、コソコソしないゲイを経済がまず認めざるを得なくなる。

 インターネットにはアメリカを中心にレズビアン・ゲイ関連のホーム・ページが数千も存在している。エッチなものはほんの一握り、いや一摘みにも満たないが、妄想肥大症のクローゼットの中からはムガベの妄想するように「変態」しかいないと誤解されている。ここにあるのはゲイの人権団体やエイズのサポート・グループ、大学のゲイ・コミュニティ、文学団体、悩み相談から出版社、ゲイのショッピング・モールまで様々だ。日本で初めてできたゲイ・ネットにも接続できる。「MICHAEL」という在日米国人の始めたこのネットには二千五百人のアクティヴ・メンバーがいて、日本の既存のゲイ雑誌とは違う、よりフレンドリーなメディアを求める会員たちが(実生活でカミング・アウトしているかは別にしても)新たなコミュニケイションを模索している。「dzunj」というネット名を持つ男性はわたしの問い掛けにeメイルで応えてくれた。彼は「実は僕がネットにアクセスする気になったのも、もっと積極的にいろいろなことを議論してみたいという理由からだった」が、「ネット上の会話」では「真面目な会話は敬遠されるようです。ゲイネットこそ絶好の場であるはずなのに……」とここでも思考を誘わないわたしたち日本人の会話傾向を嘆いている。しかし彼のような若くて真摯な同性愛者たちの言葉が時間をかけて紡ぎ出されつつあることはいまやだれにも否定できない。「Caffein」というIDの青年は日系のアメリカ人だろうか、北海道から九州までの日本人スタッフとともに二百九十ページという大部の、おそらく日本では初めての本格的なゲイ情報誌を月刊で刊行しようとしている。米誌『アドヴォケート』の記者が毎月コラムを書き、レックス・オークナーという有名なゲイ・ジャーナリストが国際ニュースを担当するという。



 「ホモフォビア」という言葉がある。「同性愛恐怖症」という名の神経症のことだ。高所恐怖症、閉所恐怖症、広場恐怖症と同じ構造の言葉。同性愛者を見ると胸糞が悪くなるほどの嫌悪を覚えるという。長く昔から同性愛者は治療の対象として病的な存在とされてきた。しかしいまこの言葉が示すものは、高所恐怖症の改善の対象が「高い場所」ではないように、広場恐怖症の解決方法が「広場」の壊滅ではないように、同性愛恐怖症の治療の対象が「同性愛者」ではなく、彼/彼女らを憎悪する人間たちのほうだということなのである。その意味で、日本の同性愛者たちをいわれのない軽蔑や嫌悪から解放することは、とりもなおさず薄暗く陰湿な日本のストレートたちを、まっとうな、正常で健全な状態にアウトしてやることなのだ。そうでなければ、日本はどんどん恥ずかしい国になってしまうと、里心がついたかべつに愛国者ではないはずなのに思ってしまっている。         (了)

August 03, 2010

英語しゃーない2

英語社内公用語化に関してちょいと危惧を書いたところ、日本国内でもみなさんこれに批判的というか反発を示していらっしゃるようで、私がツイッターでフォローさせていただいている内田樹先生のつぶやき(12:53 AM Aug 1st)によると「某新聞取材。「英語社内公用語化論」について。「対論」というかたちで、賛否の両論を紹介する企画なのに、「賛成論」を語る識者がいないそうです。ユニクロも楽天も広報は「あ、その話はちょっとご勘弁を・・・」なんですって。変なの。だったら、プレスリリースなんか出さなきゃいいのに。」とのこと。

なるほどしかし、それほど世間的に反発が多いなら、逆に賛成に回ったっていいぞ、みたいな天の邪鬼が体の内側でモソつくのを感じている次第。なにせ、なんとなくその反発、例の「国家の品格」の論調みたいなんじゃないかなあと、逆にこれまた危惧するわけで。

日本の文化や経済が独自に発展してきた背景には、ある意味じつは「日本語」という言語の特殊バリアで守られてきたせいもあります。それは鎖国状態、あるいはガラパゴス状態というのともちょいと違って、選択透過膜とでも言いますか、都合のよいものだけを取り入れ、都合の悪いものは入れも出しもしない。相手には日本内部で何が起きているのかわからないから、国際競争とは別のところでちゃっかり稼がせてもらってきた、という事情があったのだと思います。もちろん大変な企業努力と技術開発があったのは大前提ですが、真の意味で欧米企業と同じ土俵に上り始めたのはカルロス・ゴーンさんが日産に来たころからでしょうか。

その意味でそろそろ英語社内公用語論が出てきてもぜんぜんおかしくない話ではあるのです。

じつは私の日本語の文章修行は英語を勉強することで始まりました。日本語では曖昧に済ませられるところが、英語ではちゃんと1から論理立てて言わねばならないという思考の形の違いにも自覚的になりました。これはとても役に立っています。日本語を相対化することは、同時に英語を相対化することでもありましたし、同じ言葉の背景にある2つ、あるいは3つや4つの文化背景の違いからもいろいろ学ぶところが多いからです。

簡単な例を挙げれば、たとえば「外国人とのハーフ」という言葉。日本語では短くシャレててかっこいいですが、英語だと「半端者」という意味に聞こえるのです。せめて「ハーフ&ハーフ」なら合計「1」になっていいのですが、短縮して「ハーフ」なら「半分しかない人」なのですね。これは日本語の柔軟性と英語の論理性を象徴する(しないか?w)1つの事例だと思います。

それは英語を使って初めて知れる相対性でした。つまり英語も日本語も便利もあれば不便もあるという、いわばアイコだってことが、英語を使うことで初めて実感としてわかったのです。

それを論拠に、わたしはかつて「国家の品格」をトンデモ本だと批判しました。そして今回聞く英語社内公用語化への世間的な一斉の反発もまた、「日本人なんだから日本語を!」「英語に心を売るな!」みたいな単純な国粋主義的な心性の現れではないかと危惧するわけです。

前回ブログで触れた社内公用語化論への反対の根拠の1つは、社内で「英語」使いが重用されるあまり、肝心の「仕事」のできる人が英語ができないという理由だけで排除されるような倒錯が起きないかと心配だということです。それは日本人だから日本語を、ではなく、その日本語を鍛えるためにも余裕があれば英語を学んだ方がよりよいという実感からきています。

先に、日本経済や文化が日本語によって守られてきた、と書きましたが、そういう感覚はじつはいまでも続いています。日本に帰ると急に、国際ニュースなどどうでもいいよその場所のこと、みたいな感じになってしまうのです。ニューヨークにいるとまるで我がことのようにビンビン響いてくる国際ニュースが、日本にいると日本人が日本語で伝えているせいか、どこか遠い外国での話に聞こえてくる(そのとおりなのですが)。

これはまた、以前書いた「身内の言語」=「クローゼットの言語」としての日本語の“効能”なのかもしれません。この原稿、どこに行ったかなと思ってスポットライトで調べたらあらまだこのコンピュータの中にあるではありませんか、というかちゃんと移設してたんだ。それを、この次のブログで近々再掲しましょう(しました=追記)。ご興味ある方はお読みください。長いですけど、これは1995年に青土舎のイマーゴという(もうなくなった)雑誌の「ゲイ・リベレイション」特集に依頼されて書いた原稿です。ずいぶん昔だなあ。でも、まあ、まだかろうじて読めるでしょう。

閑話休題。そう、日本語と英語とは、それはおそらく、日本の近世と近代(現代)の相克なのです。すべて関係します。相撲協会の体質と近代民主税制国家との矛盾とか、官房機密費とマスメディアの癒着とか、西武の大久保と雄星の確執とか、記者クラブとオープン会見の軋轢とか、総会屋と物言う株主の対決とか、おもえばここ数年のゴタゴタのほとんどが身内の言語社会が世界的には通用しないとほぼ初めて公になったということから来る齟齬なのです。そして歴史的に、前者は必ず後者へと流れて行かざるを得ないものなのですね。そういう視点に立てば、「社内」は「英語」の導入でどんどん思考様式を近代化すべきであり、そういうところからしか世界戦略が成り立たないのは道理です。幸いなことに、「会社」は相撲協会や記者クラブなんかよりははるかに旧弊から自由である存在でしょうし。少なくとも楽天やユニクロは。そうやって思い返せば、21世紀に入ってからの例の堀江貴文氏の登場もまた、日本の近世的企業体質への、現代からの挑戦だったのでしょう。

ただし、そうは言ってももう1つ留意すべきことがあります。それは、「英語」が、アメリカが世界で覇権を維持するための大いなる戦略的道具だということです。「英語を世界言語にする」というより大きな米国主導の市場戦略が、背景に見え隠れするのです。

いつの間にか映画がハリウッドだらけになったようにネットもまたいま英語だらけです。相手方のこの言語戦略を自覚しているのかいないのかの違いは、同じ土俵に立つ上でかなり大きいと思います。同じ土俵に乗りはするが、必ず英語文化に対抗しうる日本語文化を重しにしている、そんな「アイコ」に持ち込む努力は、忘れてほしくないと思うのです。

July 26, 2010

英語しゃーない公用語論

ニューヨークの駐在には、日本の会社から必ずしも英語の堪能な人が派遣されてくるわけではありません。それでもやはりある程度は英語が必要でしょう?と聞かれたりしますが、多くの企業で、選任のポイントは「英語」ではなくて「仕事」の出来る人なのです。英語は、その仕事のための1要素でしかなく、まったく英語がダメな人もけっこう来ます。

日本でユニクロや楽天が社内公用語を英語にすると発表して話題になっています。今後ビジネス(事業)をグローバル(世界的)にエクスパンド(拡大)させるにはイングリッシュ・スピーキング(英語圏)のマーケット(市場)に……というわけなんでしょうが、じつはビジネス上の英語は決まった言い回しや単語が多く、会議で交わされる事業戦略や業務報告なども関連の用語さえ押さえればけっこうかんたんに通じてしまうものなので、日本で思われるほどそう大変なことではないかもしれません。ユニクロや楽天の英語公用語化がどういう展望の下で行われるのか報道だけでは今ひとつわかりませんが、日本語なら曖昧に端折ったりしてごまかせることが英語では不可能なので、むしろすべてを具体的に話すという英語特有の思考回路の開拓のためにはこの策は有効かもしれません。
 
では難しいのは何かというと、じつは日常会話がいちばん難しい。どのくらい英語が話せるかという質問によく「日常会話程度」と答える人がいますが、その人たちの思い描く日常会話とは「お名前は?」「これいくら?」「どこにあります?」という、会話というより挨拶みたいな定型文でしかありません。そう、その意味ではこれは前述のビジネス英語と同じようなもんで、想定の範囲外の単語は出てこないという前提があるのでしょう。
 
でも、本当の日常会話とは「調子どう?」と聞いたときに「アイ・アム・ファイン、サンキュー」ではなくて「いや、五十肩でまいっちゃってさ」とか「リストラに遭いそう」とか、頻繁に予想外のことが返ってくるアドリブ能力の試合場のことです。つまりそのときにどんな引き出しをいくつ持っているかがカギなのだということは、ふだん日本語をしゃべっている経験からだってわかっているはずです。よく海外では政治と宗教の話はタブーだとか言われますが、アメリカ人はなにごとにも一家言を持っているので、政治や宗教の話だって普通に話します。もしそんな話をされたことがないなら、それは自分が相手に政治や宗教の話をしても面白くないヤツと思われているというだけのことかもしれません。

要は、日常会話でも政治談義でも話の内容です。いかにその人なりの中身があるかどうか。それは英語と仕事の関係にも似ています。いくらうまく英語を操れても、肝心の仕事の発想がつまらなければ何にもならない。

英語の社内公用語化も、英語だけ出来て仕事の出来ない人が重用されるようなしゃーない倒錯が起きなければいいんですが、きっとそういう勘違いは少なからず社会のあちこちで起きるでしょうね。

June 23, 2010

ハッピー・プライド!

NHK教育で「ハーバード白熱教室」という番組を12週にわたって放送していて、これがすこぶる面白いものでした。政治哲学教授のマイケル・サンデルが「正義」と「自由」を巡って大教室で学生たちに講義をするですが、このサンデルさん、学生たちが相手だからか論理が時々ぶっ飛んで突っ込みどころも満載。ところが話し上手というか、ソクラテスばりの対話形式の講義でNHKの「白熱」という命名はなかなか当を得たものです。学生たちもじつに積極的に議論していて、その議論の巧拙やコミュニタリアンのサンデルさんの我田引水ぶりはさておき、なるほどこうして鍛えられて社会に出ていくのだから、外交交渉からビジネスの契約交渉まで、種々の討論で多くの日本人が太刀打ちできないのも宜なるかなと、やや悲しくもなりました。

で、6月20日に放送されたその最終回の講義テーマが「同性結婚」でした。実は6月は米国では「プライド・マンス Pride Month」といって同性愛者など性的少数者たちの人権月間。もちろんこれは有名なストーンウォール暴動を記念しての設定で、オバマ大統領もそれに見合った声明を発表するので、NHKはそれを知って6月にこの最終回を持ってきた……わけではないでしょうね。

同性婚が政治的に大きな議論となっているのは米国に住む日本人なら誰しも知っています。ところがほとんどの在留邦人がこの件に関しては関心がない、というか徹底的に我関せずの態度を貫いています。ほかの政治的話題ならば仲間内で話しもするのに、この問題に関してはほとんど口にされることがありません。その徹底ぶりは「頑なに拒んでいる」とさえ映るほどです。

ところが日本からやってくる学生さんたちがまずは通うニューヨークの語学学校では(というのは米国に住むにはVISAが必要で、まずはこの語学学校から学生ビザをスポンサーしてもらうのが常套だからです)、ここ15年ほどの傾向でしょうか、「ハーバード白熱教室」ではないですが、だいたいどのクラスでもこの同性婚や同性愛者の人権問題が英語のディベートや作文にかこつけて必ずと言っていいほど取り上げられるのです。

日本人学生はほとんどの場合ビックリします。だって、同性愛なんて日本ではそう議論しないしましてや授業で扱うなんてこともない。お笑いのネタではあっても人権問題という意識がないからです。しかし語学学校の先生たちは、まあ、若いということもあるでしょうが、これぞニューヨークの洗礼とばかりに正義と社会の問題として同性愛を取り上げるのです。ええ、この問題は正義と公正さを考えるのに格好のテーマなのですから。

私もNY特派員時代の90年代半ば、この同性愛者問題を、黒人解放、女性解放に続く現代社会の最も重要な課題の1つだとして記事を書き続けました。もちろん当時はエイズの問題も盛り上がっていましたから、その話題とともになるべく社会的なスティグマを拭い去れるようにと書いてきたつもりです。ところが日本側の受けはあんまりよろしくなかった。で、気づいたのです。日本と欧米ではこの問題への向き合い方が違っていました。日本人は同性愛を、セックスの問題だと思っているのです。そして、セックスの話なんて公の場所で話したくない。

これは以前書いた「敢えてイルカ殺しの汚名を着て」で触れた、あの映画の不快の原因は「すべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない」ということだ、という論理にも似ています。イルカだろうがブタだろうが牛だろうが鶏だろうが、同じような手法で映画で取り上げれば、どこでもだれでもおそらくは「なんてことを!」という反応が返ってくるはずだということです。

セックスの話も同じ。同性愛者のセックスはしばしば公の場で取り上げられます。おそらく好奇心とか話のネタとかのためでしょうが、それで「気持ち悪い」とか「いやー」とかいう反応になる。しかしこれは異性愛者のセックスにしても、そういうふうに同じ公の土俵で取り上げられれば「要らない情報」だとか「べつに聴きたくないよ」だとかいった、似たような拒絶反応が返ってくるのではないか、ということ。

じつはこの米国でも、宗教右派からの同性愛攻撃は「同性愛者はセックスのことばかり考えている不道徳なヤツら」という概念が根底にあります。欧米でだって、セックスという個人的な話題はもちろん公の議論にはなりません。でも同性愛の場合だけセックスが槍玉にあがり、そしてそんな話はしたくない、となる。

ところがいまひろくこの同性愛のことが欧米で公の議論になっているのは、逆に言えばつまりこれが「セックスという個人的な話題」ではないからだということなのではないか。そういうところに辿り着いているからこそ話が挙がっているということなのではないだろうか?

しかしねえ……、と異論を挟みたい人もいることでしょう。私もこの件に関してはもう20年も口をスッぱくして言い続けているのですが、宗教とか、歴史とか、医学とか精神分析とか、もうありとあらゆる複雑な問題が絡んできてなかなか単純明快に提示できません。しかし、前段までで説明してきたことはとどのつまり「ならば、同性愛者と対と考えられる「異性愛者」は性的存在ではないのか?」という問いかけなのです。

この問いの答えは、もちろん性的ではあるけれどそれだけではない、というものでしょう。これに異論はありますまい。そしていま、同性愛者たちが「性的倒錯者」でも「異常者」でも「精神疾患者」でもないと結論づけられている現実があり(世間的には必ずしも周知徹底されていないですけど、それもまた「性的なことだから表立って話をしない」ということが障壁になっているわけで)、この現実に則って(反論したい人もいるでしょうが、ここではすでにその次元を通過している「現実の状況」に合わせて)論を進めると、同性愛者も異性愛者と同じく生活者であるという視点が必然的に生まれてくるのです。同性愛者もまた、性的なだけの存在ではない、ということに気づくのです。

そういうところから議論が始まってきた。いま欧米で起きていること、同性カップルの法的認知やそれを推し進めた同性婚の問題、さらに米国での従軍の可否を巡る問題など各種の論争は、まさに「同性愛者は性的なだけの存在」という固定観念が解きほぐされたことから始まり、そこから発展してきた結果だと言えるのです。

毎年6月の最終日曜日は、今年は27日ですが、ニューヨーク他世界各国の大都市でゲイプライドマーチというイベントが行われます。ここニューヨークでは五番街とビレッジを数十万人が埋めるパレードが通ります。固定観念を逆手に取ってわざと「性的」に挑発する派手派手しい行進者に目を奪われがちですが、その陰には警察や消防、法曹関係や教育・医療従事者もいます。学生やゲイの親たちや高齢な同性カップルもいます。

かく言う私も、じつはそういう生活者たちとしての同性愛者を目の当たりにしたのはじつはこのニューヨークに住み始めてからのことでした。90年当時、日本ではそういう人たちは当時、ほとんど不可視でした。二丁目で見かけるゲイたちは敢えて生活者ではなかったですしね。いまはずいぶんと変わってきましたが、それでもメディアで登場するゲイたちは決まり事のようになにかと性的なニュアンスを纏わされているようです。まあ、当のゲイたちもそれに乗じてより多く取り上げられたいと思っているフシがありますが、それは芸能界なら誰しも同じこと。責められることじゃありません。

とにかく、生活者としての性的少数者を知ること。同性愛者を(直接的にも間接的にも)忌避する人たちは、じつのところホンモノの同性愛者を具体的に、身近に知らないのです。そしてそのような視点を持たない限り、私たちはハーバード白熱教室にも入れないし、先進諸国の政治的議論にも置き去りのままなのだと思います。

June 09, 2010

本格政権への期待

菅新内閣の発足で民主党への支持率がV字回復したというのは、とりもなおさず日本国民が政権交代に託した政治改革をいまも強く希求していることの現れなのでしょう。同時に、昨年の政権交代のときの浮き足立ったような高揚感もやや薄れ、菅首相の初めての記者会見はまったく大風呂敷を広げない、鳩山路線の現実的な軌道修正のような響きがありました。

いや、はっきり言いましょう。持論の「最少不幸の社会をつくる」はよいのですが、財政均衡と景気浮揚の兼ね合いや沖縄問題、機密費問題など、現在の閉塞状況の具体的な打開策がいまいち不鮮明で、記者からの質問にも文字通り「ごにゃごにゃ」と答えをはぐらかした感がいっぱいです。とくに記者会見のオープン化と官房機密費の問題は、あれは、あんまり考えてない人の顔でした。あきらかに回答を避けてましたし。

前政権の陥穽となった普天間の件でも、副総理だった菅さん自身から沖縄の人たちへの謝罪がまずあるべきでした。それがスルーだったので、自らの政権を高杉晋作の「奇兵隊」になぞらえたときには、奇兵隊ならぬ「海兵隊内閣か」とツッコミたくもなった次第。てか、奇兵隊、って、なんの譬えなんだかよくわからんぞ。全体的にあんまり用意周到、理論武装バッチリという感じがしなくて、ともすると菅総理、あまりに言質を与え過ぎて退陣となった鳩山さんの轍を踏むまいと縮み志向になっているんじゃないでしょうかね。まあ、そうであっても道理ですが。

しかしそれではあまりに自民党時代と同じで民主党であることの意味がない。逆にすぐに世論の飽きを招いてしまう。鳩山さんの唯一の功績は、政策決定に至る政治側からの果敢なアプローチが、事業仕分けや高速道路問題など、成功も失敗もゴタゴタまでもが国民の目に生々しく披露されたことなのですから。

にもかかわらず鳩山政権が短命だったのには、沖縄とカネの問題の後ろに2つの要因があります。1つはマスコミ、もう1つは官僚制度です。

政権交代が決まったときに産経新聞の記者が自社の公式ツイッターで「産経新聞が初めて下野なう」「でも、民主党さんの思うとおりにはさせないぜ。これからが産経新聞の真価を発揮するところ」とつぶやいて謝罪したのは憶えてるでしょ。でもこれはいいんです。新聞は報道機関であると同時に言論機関でもあるのですから。

問題は、反対があるときに必ず賛成の意見も併置させるという報道の大原則が日本ではあまり確立されていなくて、日本って褒めるよりも貶す傾向の強い文化なんだなあと改めて気づかされるほど予定調和的に批判・叱責論調でメディアがまとまってしまうところです。

前のブログでも書きましたがそれこそ政治記者クラブ的論理収斂。世論が結果的に偏るのは常ですが、その世論に情報を供給する報道メディアは、そろそろ賛否両論を戦わせるというフォーマットを社内的に、責務として定着させてほしいのです。

もう1つの官僚制度ですが、例えばアメリカやカナダでは政党間の政権交代のときに官僚制度の各部署のトップが地方単位まで数千人規模で入れ替わります。つまりその政権政党の息のかかった管理職が官僚システムを支配する。官僚はそこですでに味方になるのです。

日本は違います。官僚は替わりません。これを変えることはなかなか難しいでしょう。米加には、政権交代で職を失った際にはその人材が民間のシンクタンクや大学研究機関などに行けるパイプがすでに出来上がっていて、そういうものが機能しない限り官僚トップを路頭に迷わせることなどできません。なので官僚のクビのすげ替えは現状では不可能。ならば彼らをどう協力させるかというのが次の命題です。

政治主導を旗印に誕生した鳩山政権は、東京地検特捜部を筆頭にこの官僚システムの隠然かつ熾烈な攻撃に遭いました。普天間問題でも外務・防衛官僚たちが「県外・国外移転」を初めから相手にせず、鳩山さんを包囲し潰しにかかったのです。官僚たちはかくも優秀で、働かないとなるときも徹底的に実に優秀・有能に働かぬ道を見つけます。

さて、これらをどうするか?

メディアに関しては先ほども触れましたが、大臣たちの記者会見を徹底的にオープンにして既成の政治記者クラブ的談合報道を打破することなのです。政治記者クラブ的情報も必要でしょう。しかしそれだけで世論が形成されていいわけではない。そのために、政治は国民により直接に声を届けられるようにすることが必要です。私たちだってそっちのほうが情報の選択肢が増えてうれしい。

後者の官僚制度は、必要以上の官僚の締め付けをやめて有能な官僚との協力関係をどんどん築くことです。それでこそ税金も有効活用される。その上での政治主導です。

じつはこのメディアと官僚とをうまく使いこなしたのが小泉政権でした。小泉首相は彼の個人的な力量なのでしょう、政治記者クラブ的報道に関しては自身のワンフレーズ政治というか、自らの私的な言葉で風穴を空けて国民に直接声を届けたのでした。さらに官僚システムに関しても、竹中・飯島といった手下を駆使して根回しと恫喝とを周到に行っていた。

日本の政治の問題点は、官僚側が常に失敗を繰り返さないための保身的なマニュアルを用意してあるのに対し、政治側がそれを用意していないことです。日本の政治は、失敗をすべて政治家個人の責任にしてしまい、その失敗がなぜ起きたのかを勉強しないことです。今回も、鳩山政権がなぜ倒れたのかを、鳩山さんの政治的拙速さとその手腕の未熟さ、かつ小沢さん個人のカネの問題に帰結させようとするだけです。

この前のブログにも書きましたが、鳩山政権の失敗はそんな個人的な問題ではない。米国と日本の構造的な主従関係がそこにあり、それを官僚制度が制度として補足していたという、実に大きな事実が襲いかかってきたからです。これをどうするのか、どう対応するのか。これは普天間の共同声明で一息つけるような、そんな生易しいものではありません。菅政権はそこをこそ徹底して学習し、解決へ向けてとにかく一歩を踏み出すべきなのです。

菅内閣が本格政権になるかどうかは、おそらく参院選後にまた内閣改造があるでしょうからまだわかりません。いまのところはくれぐれも、失敗を恐れてなにもしないのがいちばんの良策みたいな自民党時代末期のような守りの姿勢に逆戻りしないように覚悟を決めてほしいということでしょうか。前述のように沖縄だって、このまま2+2の日米共同声明どおりに工事が進むなんて考えられないのですから(成田の土地強制収容闘争みたいなことだって予想されています)、参院選後に向けて、いまのうちにすくなくとも記者会見のツッコミにもっと明確に答えられるよう、せいぜい理論武装しておくべきでしょう。難題が目の前に山積している状況はなにひとつ変わっていないのですから。

June 02, 2010

鳩山政権を倒したもの

前回のエントリーと重複しますが、鳩山辞意表明を受けてNYの日本語新聞に依頼されて以下の文章を取りまとめました。ご参考まで。

***

原稿も見ずに正直な思いを語って、鳩山さんの辞意表明演説は皮肉なことにこれまででいちばん心に響くものでした。これをナマで視聴していたかどうかで今回の政局の印象はかなり変わると思います。この演説の本質は、これまでのマイナス面のすべてを逆転させて起死回生を図ったということでしょう。

そもそも辺野古問題の5月末決着宣言が自縄自縛の根因なのですが、社民党の連立離脱と総理辞任の「一石二鳥」のその石となった日米共同声明を外務省のサイトで読んでみると、実に象徴的なことが見えてきます。

日英両語で掲載されているこの共同声明、見ると日本語には「仮訳」とあるのです。つまり米国との共同声明ってのは英語がベースなんですね。日本語の声明文はそれを翻訳したもの。なるほど沖縄のことなのに日本語じゃないってのは、まあ米側は日本語、わからんからね……などと納得してはいけません。日本と外交交渉をする米側の役人はふつう日本語もペラペラです。しかし交渉では日本語は絶対に話さない。ぜんぶ英語。

そういうところからしてもイニシアチヴは端から米国にあった。日米関係というのはそういうものなのです。NYタイムズは「とどのつまり辺野古移設を謳った06年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書きましたが、物事はそうなるように、そうなるようにと出来ていたのです。

そこを転換するに「5月末」は性急に過ぎた。しかも日本のメディアは各番組コメンテイターも含めて「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」という大前提の検証をすっ飛ばし、すべてを方法論に矮小化しました。また「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」にすり替わり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるという幻想を植え付けて、県外・国外移設を頭から幼稚なものと決めつけたのでした。

海兵隊はいまや第一波攻撃隊ではなく、戦闘初期では自国民=アメリカ人の救出隊なのです。それは抑止力ではない。第一波攻撃は圧倒的な空爆およびドローン無人攻撃機のより精緻な掃討だというのは湾岸戦争からアフガン、イラクへの侵攻を見ていれば明らかです。ではいったい、抑止力とは何なのでしょう? 海兵隊が沖縄に残らねばならぬ理由は何だったのでしょう?

社民党の辻元清美前国交副大臣によれば、あの首相の「腹案」というのはグアム移設案だったそうです。ですが今回も、外務省、防衛省の官僚たちが米国の意向を口実にしてつぶした。自民党時代も、米側はグアム全面移転を進めようとしたがそれに待ったを掛けたのはじつは日本側だと言われています。なぜか?

それは論理的に日本の「自主防衛」につながるからです。それは日米関係の構造の大転換につながります。そしてその場合、沖縄の「核」の抑止力も消えることになるからです。それが幻想であるか否に関係なく。

こうした変化を望まない勢力というのが日米双方に存在します。そうして図ってか図らないでか、自覚してか無自覚なのか、日本の新聞・テレビがそれを側面支援した。検察という“正義の味方”までがそこに巧妙に混じり込んでいたことにも無頓着に。

事業仕分けもそうでしたが、鳩山短期政権の功績は様々な問題を私たちの目の前にさらけ出してくれたことです。困ったことはそれらのすべてが予想を超える難題で、次の内閣でも別の政党でも、にわかには解決できないことがわかってしまったことなのです。参院選とか政局とか、事はそんなちっちゃな問題ではないようです。

May 29, 2010

普天間日米共同声明

日本での動きのあまりの速さに、この隔数日刊ではとても対処できないんですけど、でもここは書き留めておかねばならないでしょう。

外務省のサイトで日米共同声明の日本語の仮訳と英語版を見比べてみます。と書きながら、これ、不思議じゃありませんか? 日本語は「仮訳」なんです。つまり、これはまず英語で書かれていて、それをもとに日本語に訳しているんですね。ふうん、アメリカとの外交文書、共同声明ってのは、英語ベースなんだ。沖縄のことを書いているのに、日本語じゃない。なんとなく腑に落ちませんが、アメリカ側は日本語、わからんからね、……などと思ってはいけません。日本と外交交渉をするアメリカ側の役人はふつう日本語ぺらぺらです。でもってしかし、交渉では日本語は話さない。日本側に英語を話させたり、あるいは通訳を使って交渉します。でも英語ベースであるというそういうところからしてもう交渉のイニシアチヴは握られています。これはとても象徴的なことです。

その仮訳で、6段落めにこうあります。

両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置する意図を確認した。

英語ではこうです。

Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls.

日本語では「1800mの長さの滑走路」とある部分が英語では「the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long」と、runway portion(滑走路部分)(s)となっています。つまり、複数形にもなり得ると書き置いているわけです。これはつまり、2006年の「現行案」と同じV字型滑走路に含みを持たせる表現でしょう。いったん土俵を割るとどこまでもずるずると下がってしまう、日本外交の粘りのなさがここにも現れてしまうのでしょうか。

そうやって英語で話が進められたとはいえ、しかし米国ではこの問題は大きな事案として報じられてはいません。これが「原案」回帰という辺野古移設じゃなければ大きなニュースになっていたんでしょうが、いまはアメリカでは例のメキシコ湾の原油流出と同性愛者の従軍解禁がトップニュースで、すべてそっちに目がいっています。おまけに軍の展開に関してはとても複雑で専門的な話が絡んで来るので、日本でもそうでしょうが一般のアメリカ人が関心があるかというと普通はそうじゃないでしょう。そして事はなにごともなかったかのように進んでゆく。NYタイムズのマーティン・ファックラーが23日の沖縄の抗議集会を伝えた記事で、「とどのつまり、辺野古移設をうたった2006年合意を尊重しろというワシントンの主張が勝利したのだ(won out)」と書いてるんですけど、そういうことだったのです。

昨年の時点から言っていますが、アメリカはいま(というか前から)沖縄のことで煩っているヒマはない。というか、すべてのシステムというのは、とにかくこれまでのとおりに事が進むことを至上の目標としています。これまでどおりなんだから過ちや危険や破綻は起きないはずなのです。それが保守主義。その中で、しかし世界情勢はそうは上手くは問屋がおろさない。韓国もフィリピンもあんなに従順だった時代を経ていつしかアメリカに反旗みたいなのを翻すようになって基地が要らないなんて言い出して、けっきょくは縮小されてしまった。その度に東アジア極東の軍事再編です。面倒臭いことこの上ない。そして唯一日本だけがそういう懸念から自由な安全パイだったわけです。

ところがその日本が変なことを言い出した、のが昨年の政権交代でした。しかしアメリカとしては実にまずい時期に言ってくれた。なにせこちらも政権交代の発足間もないオバマ政権が、アフガン、イラクの戦争でにっちもさっちもいかなくなっている。おまけに日本がやってくれていたインド洋の給油だってやめるとか言うわけです。これは困ったことです。

しかし、一方でオバマ政権もまた当時は、政権交代という同じダイナミズムを経験した日本の民主党政権と、新たな安全保障を築き上げる構えはあったのだと思います。当時、日本の保守メディアでさんざん紹介された旧政権、米共和党と日本の自民党の間で禄を食んでいたジャパン・ハンドラーの人たちとは違い、ジョセフ・ナイを始めとする米民主党の知日派たちは日本の民主党の、これまでの対米従属とは異なる自主防衛の芽を模索するかのような動きに注目していたのでした。そこから10年後20年後の新たな極東安全保障体制が出来上がるかもしれない期待を込めて。なにせ、長い沈滞の政治を経て、日本国民の70%もが支持した政権が発足したのです。この民意をアメリカ政府は恐れた。それこそがかつて韓国、フィリピンから米軍を追い出したものだったからです。

ところが、日本は思いもかけなかった動きを見せました。ここの国民たちは、沖縄の基地移転問題で、そもそもの原因であるアメリカを責めるのではなく、時の政権の不明瞭な態度を責め立てたのでした。

28日付けのNYタイムズは、A-7面という地味な位置取りの東京電で、「これで長引いた外交的論争は解決したが、鳩山首相にとっては新たな国内問題の表出となる」と書き始め、いみじくも次のようなフレーズで記事を〆ました。

Despite the contention over the base, most anger has been directed at Mr. Hatoyama’s flip-flopping on the issue, not the United States. Opinion polls suggest most Japanese back their nation’s security alliance with the United States.
(米軍基地をめぐる論議にも関わらず、怒りの向きはほとんどが米国ではなく、言を左右した鳩山首相へと向かっていた。世論調査ではほとんどの日本人が米国との安全保障同盟を支持している)

これはアメリカにとって僥倖というか、おそらくなんでなのかよくわからない日本人のねじれです。しかしこの間の日本メディアの報じ方を知っているわれわれにはそう驚くことでもありません。なぜなら、メディアのほとんどは、ワイドショーのコメンテイターも含めて、「米軍のプレゼンスが日本を守る抑止力である」ということを大前提にして論を進めていたからです。その部分への疑義は、最後の最後になるまでほとんど触れられさえしませんでした。

しかも精査してみれば、「米軍のプレゼンス」はいつのまにか「米海兵隊のプレゼンス」になり、まるで海兵隊が日本を守ってくれるような論調にもなった。そしてそのウソに、ほとんどのTVコメンテイターや社員ジャーナリストたちは気づかないか、気づかないフリをしたのです。

12000人のその海兵隊の8000人がグアムに移転するとき、海兵隊は分散配置できない、というウソが露呈しました。残るは4000〜5000人、という海兵隊のプレゼンスの減少は問題とされませんでした。しかも、海兵隊は第一波攻撃隊というかつての戦争のやり方がもはや通用しないにもかかわらず、いまもそれこそが抑止力なのだと信じる人たちが自明のことのように論を進めたのです。

イラクでもアフガンでも、攻撃の第一陣は圧倒的な空爆です。そこでぐうの音も出ないほどに敵を叩き、さらにはドローン無人攻撃機でより緻密に掃討する。そこからしか地上軍は進攻しない。それはもうあの湾岸戦争以来何度も見てきたことではなかったか。

では海兵隊はなにをするのか? 海兵隊は進攻しません。海兵隊は前線のこちら側で、もっぱら第一にアメリカ人の救出に当たるのです。アメリカ人を助け上げた後は場所にもよりますがまず英国人やカナダ人です。次に欧州の同盟国人です。日本人はその次あたりでしょうか。

この救出劇のために海兵隊は「現場」の近くにいなくてはならないのです。
で、これは抑止力ですか? 違います。日本を守る戦力ですか? それも違うでしょう。

いったい、鳩山さんが勉強してわかったという「抑止力」とは、どう海兵隊と関係しているのか? それがわからないのです。昨日の記者会見でその点を質す記者がいるかと思ったがいませんでした。

これに対する、ゆいいつ私の深くうなづいた回答というか推論は、うんざりするほど頭の良い内田樹先生のブログ5月28日付《「それ」の抑止力》にありますが、それはまた別に論じなくてはならないでしょうね。もし「それ」が本当ならば、すべての論拠はフィクションであり、フィクションであるべきだということになってしまうのですから。

それはさて置き、というふうにしか進めないのですが、もう1つ、この問題でのメディアの対応のある傾向に気づきました。じつは昨日、日本時間の夜の11時くらいから某ラジオに電話出演し、日米共同声明のアメリカでの報じられ方に関して話をしました。そのときにそこにその局の政治部記者も加わって、少ししゃべったんですね。その記者さんの話し方を聞いていて、ああ、懐かしい感じ、と思った。聞きながら、なんだかこういうの、むかし、聞いたことがあるな、と頭の隅のほうで思っていたのです。

彼は盛んに政権の不手際を指摘するのですが、なんというのでしょう、その、いちいちもっともなその口調、その領域内ではまったくもって反論できない話し方、それ、そういえばずいぶんとむかし、国会の記者クラブで他社や自社の記者仲間を相手に、いちばん反論の来ない論理の筋道を、どうにかなぞって得意な顔をしていた、かつての自分のしゃべり方になんだか似てる、と気づいたんです。

記者クラブでつるんでいるとなんとなくその場の雰囲気というか、記者同士の最大公約数みたいな話の筋道が見えてくる。それでまあ、各社とも政治部とか、自民党担当の主みたいな記者がいて、下手なこと言ったり青臭いこと言ったりしたらバカにされるんですよ。それでみんな、バカにされないようにいっちょまえの口を利こうとする。そうするときにいちばん手っ取り早く有効な話は、「あいつはバカだよ」ということになるのです。自分がバカだと言われないように、先にバカだというヤツを用意しちゃう。褒めたりはしない。なんか、自分がいちばん通な、オトナな、あるいは擦れ切った、という立ち位置に立つわけですね。そうしているうちに、それこそが最強のコメントだと思い込むようになる。そしてその記者クラブ的最大公約数以外の論の道筋が見えなくなってくるんです。というか、相手にしなくなってくる。

一昨日にテレ朝の「やじうま」とかいう番組に江川紹子さんが出ていたときもその感じでした。スタジオが鳩山の普天間迷走を責める論調になったときに、彼女が1人で「そうは言っても自分の国の首相が何かをしようとしているときに後ろから鉄砲を撃つようなことをしていたメディアの責任も問われるべき」みたいなことを言ったんですね。そうしたら、隣のテレ朝政治部の三反園某と経済評論家の伊藤某が、まるで彼女が何を言ってるのかわからないといった呆れ顔で(ほんとうにそんな顔をしたんです。信じられない!って感じの)いっせいに反論をわめきました。そのときもきっとそうだったです。彼らの反応を見る限り、彼らにはほんとうに、彼女が指摘したような「足を引っぱっていた」という意識はなかった。それは思いも寄らなかった批判だったのだと思います。そういう意見があるということすら、彼らは知らないのかもしれない。

したがって、日本のテレビに登場してくる各社の記者たちのコメントが多く一様にそういう利いた風な感じなのは、きっと記者クラブのせいなんだと、不覚にもいま思い至りました。これもピアプレッシャーというか、プレッシャーとすら感じられなくなった、システムとしては理想的な保守装置です。

うー、何を書いてるのかわからなくなってきたぞ。あはは。

あ、そうそう、で、ラジオで話していて、そのときもはたしてここは論争の場にしていいのか、それともどこか予定調和的にうなづいて終わるようにすべきか、私も日本人ですね、ちょいと逡巡しているあいだに10分間が過ぎて話は終わったのですが。

結論を言えば、鳩山政権のこの問題への取り組みは誠に不首尾だったと言わざるを得ません。
しかし、不首尾は政権だけではないし、民主党だけでもない。
自民党だって不首尾であり続けてきたし、言論機関だってそうだった。

そして、沖縄問題はたしかにいままさにこの不首尾から始まったのです。

May 18, 2010

相互依存便宜供与的身内社会の官房機密費(長い!)

例の、政治評論家やジャーナリストたちに渡った官房機密費(官邸報償費)問題ですが、大手メディアの中で週刊ポストと東京新聞の特報部がこれを報じ始めました。が、その他の大手新聞やTVはやはり反応が鈍いようです。とはいえ、NYにいるんで東京新聞もポストもまだ読めてません(汗)。特報部のサイト、ウェブから見ようとしたんですがあれは携帯からしか見られないのでしょうか? 月100円ちょっとと安いからいいなと思ってるんですけど。

そもそも、東京新聞というのは中日新聞社の東京本社の出している新聞なのですが、中日新聞とは別の紙面作りをしています。中日は名古屋で7割とかの圧倒的なシェアを持つ新聞ですが、その紙面は実におとなしく堅実で東京的にはあまり面白くない。それで東京新聞は名古屋の中日と関係なく紙面作りをするわけ。しかもかなり他社から引き抜いた記者も多く、中日プロパーのラインの記者もわりと独自色を出そうと気骨のある記事を書きます。とくに特報部はそれが存在理由なんで、けっこうさいきんも頑張って他紙の書かないことをやっているようです。

さてこの機密費問題の追及をほぼ孤軍奮闘で続けようとしているのは20代のときに鳩山邦夫の公設第一秘書だった上杉隆さんという人で、つぎにNYタイムズの東京取材記者となり、さらにフリーランスになって、さいきんはテレビの露出も多いようですね。鳩山邦夫との関連がきっかけだったのかしら。私も4月だったか、東京にいたときにTOKYOFMに出演依頼されてスタジオまで出かけたんですが、それもじつはオーガスタ取材で不在だった上杉氏のコーナーの代役出演でした(笑)。

閑話休題。で、彼はNYタイムズにいたせいもあってか日本の既存メディアや記者クラブのあり方を批判しているんですね。彼の立場は明確です。官房機密費は政府として必要だが、それをマスメディア関係者や評論家たちに渡すのはジャーナリズムと民主制度の根底を揺るがす大問題だ、というものです。

その上杉さんが先日、大阪読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で機密費受領疑惑の毎日新聞出身御用政治評論家である三宅久之と対峙しました。YouTubeに出てたのをすかさず見つけて見たんですけど、いまそれは削除されてます。ほかの「委員会」の映像はそのまま放置されてるんですが、その回のは読売テレビからの要請で削除、ってなってますわ。どうしてでしょうかね? まあ、いずれにしても記憶を辿ると、そこで三宅さんは、自民党政治家が出席できなくなった講演会に代理で講演してくれと頼まれ、その講演料はもらったことがあると明かしてました。だれだったかなあ、藤波官房長官だったか? でも、機密費なんか「もらってない」と、言ったような……。ポケットマネーだった、とか(でもそんなのわからんわね)。それから領収書は書いてないみたいですね。

なるほど、「盆暮れに500万」という現金ならば機密費もあからさまですが、それが講演や政治勉強会名目で招聘され、一般相場より割のいい講演料やお車代をもらうとしたら政治評論家もジャーナリストもじつに「もらいやすい」だろうな、と思い至りました。

三宅某は自分の供与された金銭を不労所得の現金ではなく労働実体のある講演料だ、と名目上の具体に誘導し、避難・言い逃れるしているわけです。しかしそれでも講演料は法外ではなかったのか、領収書書いてないなら税金は申告してないでしょ! という問題は強く残ります。

だがその番組、辛坊というアナウンサーがやたらうるさくて、上杉氏のそれ以上の追及を邪魔するんですね。辛坊は「私の知ってる限り、機密費をもらった人など1人もいないですよ!」って見栄を切るんだけど、それに何の意味があるんでしょう。取材調査もしないオマエになんかにゃ聞いとりゃせんわ、ボケ、です。で、野中から「唯一機密費を断った人」とされた田原総一朗もそこに出演して座ってはいたんですが、彼もこの件ではムニャムニャと歯切れ悪いこと甚だしく、何なんでしょうね。同業者をかばう日本的な思いやり? それとも自身もまだなにか話してないことがある?

上杉氏も指摘していましたが、NYタイムズなど米国のメディアには取材対象から金銭的な供与を一切受けてはならないという社内規定があります。たとえばスターバックスのコーヒー1杯程度ならよいが、2ドル相当を越えたら解雇される、というほどの厳しいものです。

ところが日本の新聞社やテレビの報道部局にはそういう明確な規定はありません。というか、記者クラブの便宜供与もそうなのですが、その辺、わりと大雑把なんです。政治部では政治家に食い込めば食い込むほど彼らとの会食やゴルフなんかの機会も出てくる。そのときにきっかりと自分の分の代金を払っているのかどうかははなはだ心もとないところだし、経済部だって企業の商品発表の記者会見などではその商品そのものなどお土産がたくさん。ま、原資は税金じゃないからこちらはまだいいでしょうが、おもらい体質はそうやって培われていくんでしょう。

社会部の事件担当記者にはそういう金銭の絡む関係というのはあまりないですが、しかし情報のおもらい体質というのは存在します。警察や検察からの情報を「もらう」ことに、どんな政治的な作為があるのか、その辺に無自覚にそちらからの情報だけで書いてしまう恐ろしさというのは、昨今の東京地検特捜部のあからさまな情報操作リークでも明らかになってきたところでしょう。

そうしてふと気づくのは、このおもらい体質というのはそもそも日本社会全体が中元・歳暮に限らず、かなりな身内志向的相互便宜供与社会だということと通底しているんじゃないか、ということです。

こないだの大阪の講演でも言ったことですが、例の「身内社会」の成立要件が、この付き合い方なのです。つまり、このわたしたちの社会って、なんらかの付き合いがあれば赤の他人だった人同士でも身内にしようとする、なろうとするように動く社会なんですね、わが日本は。そんな中で贈り物が、挨拶として日常茶飯に行われてきました。それが渡る世間というものなのです。

旅に行くと、出張でもそうですけど、とにかくみなさんその旅先でお土産を買って帰るでしょ。そして同僚・上司やご近所に配る。そんなの、アメリカではあんまり見かけません。贈り物はあくまで個人の領域ですることで、公的な場面ではそれは賄賂や買収です。ですからすでに親しくなった人たちにはするけど、これから親しくなろうとする人を対象にするのは、好きな人に花を贈るときくらいで、そのほかはその意図があからさまに透けて(恋人候補には、逆にその意図が透けないとダメだからいいんですけど)、さもしく映るんです。それは格好わるいから。

さらに日本ではそこに上下関係も出てきます。メシをおごると言われているのに割り勘を主張するのは可愛くないヤツです。それが続けばさらになんとイケ好かないヤツだということになります。メシをおごるのは太っ腹な上司の器量の見せ所なんであって、そういうのを便宜供与だとは意識しない。上司と部下の仲、あるいは利害関係のある仲でも(身内同然の)オレとオマエの仲じゃないか、とうのが理想とされる付き合いなのですからそこに向けて限りなく引っ張られていくのですね。

ふむ、「社会」と「世間」が、日本じゃ実に巧妙に入り組んでるんですな。

ただ、ジャーナリストはそれでは絶対にいけない。ジャーナリストはときに付き合いの悪い、空気の読めない、嫌なヤツだと思われることを恐れてはいけないのです。「社会」と「世間」を混同してはならない。あくまで社会に生きねばならない。そうじゃないと対象の不正を暴けないですからね。

そういう覚悟ができているか? それとも、基本的に世間的な「いい人」でありたいのか?

先に書いたように、メディアでもの申す人物に機密費が渡るときに「盆暮れに500万」という現金ならこれはもうど真ん中で追及しやすいですが、名目上、講演料や車代などのなんらかの「実体」のある対価として渡る場合には、たとえその意図が見え透いていても日本の世間的には批判が和らぐのを、どう論破するのか予防的に考えておいた方がよいと思います。だって、それならおそらくいろんなひとがカネ、もらってる。舛添なんて政治家になる前は自民党関連の勉強会で引っ張りだこでしたしね。それに、新聞記者やTV報道記者もかなりそういうのでは引っかかってきます。だから、なかなかキャンペーンを張れない。東京新聞特報部はまだ若手の一匹狼的記者がピアプレッシャーの主体だから書けたんでしょうけどね。

いみじくも「言って委員会」で三宅が言っていましたが、「会社員は給料もらってるからダメだが、私なんぞはフリーでそういうのでカネを稼いでるんだ。それをダメだと言われたらたまらん」(私の記憶からの書き起こしできっと不正確)みたいなこともある。彼なんぞはとくにもうジャーナリストじゃないし、たんなる政界の政局的内情通でしかないわけで、御用コメンテイターとして雇われてんだ、その何が悪い、と開き直りかねません。そのときに、なんと断罪するか? それもそれは彼を切るだけが目的なのではなく、先に触れた相互便宜供与で成り立っている日本のこの世間が納得する話の筋でなければならないのです。

うーむ、難しい。

そこらへんすっ飛ばして、官房機密費、10年後もしくは20年後(あるいは関係者の死後)に公表します、ってやっちゃえばいいんでしょうね。そうしたら自ずから、もらう方が判断しますよ。しかも歴史の重層が明らかになるし。

そうだ、そうだ、そうしちゃえ、というのが本日の結論であります。ふう。

May 11, 2010

このグッタリ感の理由

続報を期待しているのにさっぱり出て来ないニュースがあります。98〜99年に小渕内閣で官房長官だった野中広務が最近、官房機密費(官邸報償費)を当時「毎月5000万〜7000万円くらいは使っていた」と暴露した件です。使途については▼総理の部屋に月1000万円▼自民党の衆院国対委員長と参院幹事長に月500万円▼政界を引退した歴代首相には盆と暮れに200万円ずつ▼外遊する議員に50万〜100万円▼政治評論をしておられる方々に盆と暮れに500万円ずつ──などとし、「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに(おカネを)届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」とも話しました。

この話はじつは以前にも細川内閣の武村元官房長官も明かしていますから、その人たちの名簿は歴代の官房長官に慣例として引き継がれていたらしい。領収書や使途明細の記録を残してはいけないというこの官房機密費は、93〜94年の細川政権時代は月4000〜5000万円だったらしいですが、自公政権の末期にはほぼ毎月1億円国庫から引き出されていたそう。しかも政権交代直前には当時の河村建夫官房長官が通常の2.5倍もの2億5000万円を引き出したことがわかっています。平野官房長官が、金庫は空っぽだったと言ってますからね。

これらの正当性に関する論及を探しているのですが、日本から帰ってきてしまったせいかマスメディア上で探してもなかなか出て来ない。ネット上の未確認情報では、野中から機密費を受け取った政治評論家は渡部昇一、俵孝太郎、細川隆一郎、早坂茂三、竹村健一らだとされており、これら“過去の人”のほかにも最近では三宅久之や宮崎哲弥、河上和雄、岸井成格、岩見隆夫、後藤謙次、星浩、果てはテリー伊藤や北野たけしといった人たちの名前まで取りざたされていて、いやはやホンマかいなの状態。しかもテレビや新聞がそれらの真偽をまったく追及しないのもじつはメディア幹部に内閣からこのカネが流れているからだなんて話まであって、身を以て真偽が知れる「幹部」になる前に新聞社を辞めた自分の不明を悔いています(笑)。

しかし事は冗談で済む話ではない。いったい世論の何が操作され、何が操作されていないのか? テレビでかまびすしく持論を垂れるあれらの顔のどれが本物でどれがヒモ付きなのか? これはジャーナリズムの根幹に関わる問題であり、民主主義の土台を揺るがす大事件です。このことがうやむやなまま検証されなければ、政治評論家の存在自体が政治アパシーを加速させ、全体主義の台頭をゆるしかねない。ただそれら名前の挙がった人たちに事実の有無を訊いて回ればよいだけなのに、「噂の段階で聞くのは失礼」という奥ゆかしい日本的配慮なのかさっぱり埒が明きません。おまけに鳩山政権が機密費開示に消極的なのは野党時代にそこから巨額のカネを受け取っていたからだという話もあながちウソではないでしょうから余計タチが悪い。

政権交代とは、こうした旧体制の旧弊を白日にさらす重大な契機になります。そして、鳩山政権の支持率の急落理由は、世論操作?はさておき、こうした旧弊がせっかく明らかになってきているのに、それらのヘドロをぜんぜん処理できないことにあります。

沖縄基地問題の矛盾、高速料金の不思議、独立行政法人のムダ、天下りの甘い汁、年金行政のデタラメ……結果、毎日ヘドロを見ざるを得ない私たちはなんだかひどく疲弊しちゃうのです。

このグッタリ感は、参院選に向けての見え見えな人寄せパンダ候補者の発表でさらに募ります。とにかく初心に戻って、このヘドロ処理の行程表をとにかくいま一度示してくれるのでない限り、ヤワラちゃんだってイスタンブール歌手だってまるで逆効果でしかないですわね。もっとも、相手方も三原順子とか杉村太蔵とか元野球選手だとか、なんだかわけわかんないですけど。

May 04, 2010

突破力と粘着力

鳩山の沖縄・普天間基地の県外移設断念で、内閣支持率はきっと10%台あるいはそれ以下に急落しているに違いありません。政権交代というモメンタムを以てしてもこの政権に「突破力」がなかったことはこれで確実にわかりました。

ただ問題は、普天間がこの腰折れで終わり、「公約」違反の鳩山退陣で片をつけたら、続く政権は今後何年も沖縄を鬼門としてなんら基地問題を解決するような公約すら出さずにお茶を濁すだけでスルーしようとするのではないかという心配です。それはどう考えたってまずいでしょう。じゃあ、どうするのがいいのか? この政権にまだ問題解決の「執着力」や「粘着力」(っていうんでしたっけ?)を求めてなお期待をつなぐのか、それとも見限るのか?

じつはこの数週間でパラオやテニアン島の議会が米議会に対し普天間の海兵隊4000人の移設先に立候補しています。

アメリカの自治領であるテニアン島には60年以上前に4万人規模の米軍基地が建設されていました。島の面積の2/3がいまもその基地機能の再開を念頭に米国防総省に100年契約で貸与されているのです。テニアンにしてもパラオにしても、もちろん今回の基地誘致の議会決議は雇用創出やその他の経済的利益を見越してのことです。

そういう経済の思惑は両島に限りません。日本側だって辺野古への杭打ち移設で日本企業に流れる8600億円ともいわれる利権がある。それが、すでに滑走路が3本もあるテニアンなら一銭にもならない「恐れ」があります。

一方、アメリカ政府にしても普天間の移設先として「グアムとテニアンが最適」というドラフトを用意しながら(鳩山も沖縄訪問で「将来的にはグアム、テニアンが最適」と発言していました)、アフガンやイラクでの戦費がかさんでいるのとリーマン・ショック後の歳入不安で、そんなときに大規模な基地移転なんかでカネを使いたくないという事情も見えてきました。まあ、沖縄にいるかぎり例の思いやり予算で米側の負担はずいぶんとラクチンなのですから。

こうしたカネの事情をすっ飛ばして「5月末決着」を打ち出した鳩山の政治的ナイーブさが現在の彼の政権の苦境を生み出しているわけですが、このままでは県内移設反対の社民党がいつ政権を離脱してもおかしくない。それを見越して永田町は一気に政局へと傾くかもしれません。以前から言っていますが、「現状維持」を旨とする官僚システム内にはこれでほくそ笑んでいる向きも多々あるはず。じつはこの辺も普天間県外移設の、最大の影の抵抗勢力だったかもしれません。特に北沢防衛大臣など、いかにも面倒臭いことはしたくない官僚任せ閣僚の風情ですしね。

それにしても相変わらず新聞論調はダメですな。例によって読売は「だが、米側は、他の海兵隊部隊の駐留する沖縄から遠い徳之島への移転に難色を示す。杭打ち桟橋方式にも安全面などの理由から同意するかどうかは不透明だ」。産経も「米側は日本国内の動向を注視している。首相の腰が定まらなければ、日米協議も進展しまい」と、まるでいまでも米国の代弁者。沖縄の負担を軽減するための言論機関としての提案はぜんぜんやってこなかった。日米新時代への言論機関としての気概はまるでないんだから。

この政権に「突破力」がなかった、と冒頭に書きましたが、いまさらながらこうしたすべての事情が沖縄問題の「壁」であったわけで、それらを一気に「突破」するのは容易なもんじゃないと改めて思います。

それでも沖縄問題は続きます。私たちが鳩山政権を見限っても、冷戦構造崩壊後も残る沖縄の「異状」は存在し続けます。求められているのは政権の突破力や問題解決の粘着力ではあるんですが、じつは私たち国民の突破力と粘着力もまた必要なわけで、簡単に匙を投げる我々を沖縄の人たちはさてどう見てるんでしょうか。

May 02, 2010

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

2009年12月12日、大阪のJASE関西性教育セミナー講演会で話したことを要約しまとめたものを(財)日本性教育協会が『現代性教育研究月報』4月号で採録、さらにその原稿をこのブログ用に加筆したものを「Still Wanna Say」のページにアップしました。

ご興味ある方はどうぞ。

「私」から「公」へのカム・アウト──エイズと新型インフルエンザで考える

April 28, 2010

性急な、あまりに性急な

日本の民主党政権の人気浮揚策となるのか、あの事業仕分けの第2弾が始まってます。で、朝昼のワイドショーのニュース談義を見ていて気づいたことがあります。日本ではいろいろな職種の人たちがコメンテイターとしてスタジオに座っています。その人たちが、どうも予定調和的にある一方向のコメントを発する傾向があるのですね。

例えば、仕分け対象になった「独立行政法人都市再生機構」を論じた際にある局では慶応の先生が「本来なら独法は全廃してそこから必要なものだけを再生させるのがスジ」と言えば、隣の政治評論家が「民主党のマニフェストも本来はそれを約束していた」と言葉を継ぐ。そうしてスタジオ全体がそうだそうだという雰囲気になってくる。そこには全廃した際に解雇される膨大な人々の雇用問題をどうするかとか、実際に機能しているプロジェクトの継続をどうするかといった現実的なステップがすっ飛んでしまっています。

こういうのをコメンテイター同士のピア・プレッシャーというんでしょうか。ピア・プレッシャーというのは「仲間の圧力」という意味で、みんなと一緒でなければいけないと、周囲からそういう暗黙の圧力があるように思い込んでしまっていることなんですが、まさに「空気」というやつです。「空気を読めよ」っていうやつ。それが無意識のうちに働いてしまっているようで、どうにもそのスタジオ内では出演者同士の論争を避けているふうな印象を受けるのです。それでなんとなくいまは予定調和的に政権批判の論調に落ち着く。この辺は世論調査の内核支持率とも連動していて、政権発足時の支持率7割のときは賞賛論調でまとまることも多かった。

いやそこは手だれのコメンテイターたち、ときには異論を唱えるのが見事な人たちもいます。でもそれはそこでは論争にはならない。なんとなく司会者やキャスターが引き取って、「それにしても〜〜ですよね」で、うんうん、とまとまっちゃうようなことが多い、そんな印象。もっとも、放送ではコメントする時間はあっても論争する時間はないのが普通ですから無理もないのかもしれませんが、周囲の「空気」を読んでまとまっちゃうこの感じ、これはすごく日本的だなあと思いました。

米国の報道番組ではCNNはじめほとんど必ず論者を対峙させる作りになっています。Foxですらコメンテイターを呼んでモノを言わせるときはスタジオのキャスターとの論争の形を取る。出演依頼したみんなで同じことを言い合って「そうだ、そうだ」ということはまずありません。必ず反対論者が用意されていて、違う視点をぶつけ合い、それで視聴者は視聴者で自分でどうなのか判断するという流れ。「朝まで生テレビ」のミニチュア版が常に行われている、と言ったらわかりやすいかも。医療保険改革案にしても賛成・反対・公的オプション派などが相手の「空気」などお構いなく、侃々諤々か喧々囂々なのか、とにかくあちこちでかまびすしい議論が展開していました。

私はいまでも日本の政権交代は意義があったと思っています。何といっても民主党になっていろいろ隠れていた政治・行政の過程が見えるようになった。事業仕分け然り、揉めている高速道路の無料化公約と実質値上げの新料金制度との問題だって、小沢さんのオトナ気ない前原さんイジメを除けば、米国のニュース番組みたいに賛否両論がなんと政権政党内から提示されて実に興味深い。普天間の問題だってメディアの誤報まで含めてまるで見世物です。だいたい沖縄のことに、それこそ主婦まで含めてみんながこんなに注目したのも初めてのことではないでしょうか?

自民党時代にはそんなゴタゴタはなかったとしてこれらを民主党政権の「迷走」ととるのは簡単です。が、自民党時代の、国民に伝えられるときも国会でも「すでに自民党内で決まったことで決定」という既決感はあまりに空しかった。

鳩山政権の支持率はすでに20%台。でも政権発足8カ月というのは、客観的に言って成果が出せるような期間じゃありません。いくら何でもこの判断は性急すぎるんじゃないのかしらって思うんですよね。だって55年間つづいた自民党独裁の垢落としですよ、そんな簡単に成果が出るわきゃあない。独法全廃、議員定数削減、沖縄基地問題の解決、年金改革、財政均衡……そろって大問題です。「みんなの党」に期待をかけてる人たち、その期待は昨年の選挙前に民主党にかかっていた期待と同じものなんでしょうけど、もし同じように性急ならばその期待は同じように裏切られます。

子供の育て方と同じ。ダメだダメだ、ではなく、この場合は、頑張れ、もう少し頑張れ、うん、そこはいい、ではないのかなあ。

とは言えまあ問題は、民主党下でじゃあこれからどんな成果が出てくるのか、なのですが、その成果創出も、検察審査会の「小沢一郎起訴相当」決定でまた逆風下です。

でもねえ、この検察審査会にしても、いったいどういうひとがやっているのかいっさい謎。米国の陪審員というのは当該事件に関していかに予断を持っていないか、それまでの報道など不確定な“事実”にいかに汚染されていないか、対象案件と利害関係はないか、などをじつに厳しく精査されて選出されるんですが、日本では陪審員制度に似ている裁判員制度ですらあまりそこらは厳密には追及されないようですし、ましてや検察審査員というのはそこら辺、だいじょうぶなんでしょうか?

検察審査会が有効な時というのは、検察が起訴したくなかったやつを案の定起訴しなかったときに、「そうじゃないだろう!」と突き返す時です。たとえば同じ検察官だとか警察官だとかへの、身内かばいの起訴猶予や不起訴が往々にしてあるでしょう? そういうときに市民感覚で、「それは違うだろう、身内に甘いのは許さん!」というのは正しい。でも、起訴したくてしたくてしょうがないのにできなかった場合、小沢の場合はこれに相当しますが、それを起訴しろっていうのは、それこそ証拠がないのに締め上げろって、まさに冤罪の捏造と同じではないのか? それって、検察審査会の役目じゃないような気がします。しかも、「起訴相当」案件が不動産の取得時期と代金支払いの時期との2カ月余りの「期ズレ」に関してだというから、そんなの政治資金規正法上、立件するようなものなんでしょうか。

メディアでみんな同じ方向で論じているのであえて言いますが、「起訴相当」が一般の人たちの感情、という論調も、その詳細をすっ飛ばして小沢は西松から不正資金を受け取っているに違いないという雰囲気を後押しにしています。それは「ポピュリズム」を批判してきた新聞の言うことではないだろうという気がします。それこそ「悪しきポピュリズム」って、民主党発足時にさんざん批判してきた新聞社は、どう整合性を持たせるつもりでしょうか。そのあたり、じつにいい加減。論説室にそういうこと気づくひといないのかしら? それともこれもピア・プレッシャー?

小沢断罪の各紙の今朝の社説はほんと横並びでひどいものでした。言論機関といえどもどう考えても論拠がない。「起訴相当」は「起訴」ですらないのに、そして「起訴相当」対象は期ズレという形式的な問題だというのに、この人たちはよっぽどひとを裁判なしで裁きたいらしい。それが自らにも返ってくる諸刃の論理だということを知らぬはずもないのに。

いや、この体たらく、明るい未来は一筋縄ではいかないもんです。

April 14, 2010

リタイアという美学

「たちあがれ日本」という平沼・与謝野新党に関して、日本ではまずは反射的に平均年齢69.6歳という高齢を揶揄する論調が多勢を占めました。いわく「立ち上がれ日本、杖なしで」とか「立ち枯れ日本」とか。

これに対し「いや年寄りだからダメということはない。すばらしい高齢者はたくさんいる」という一見「正論」がそれを押し戻した形になっています。たしかにそうです。でもこれは、果たしてそういう問題なのでしょうか?

この妙竹林な党名の命名者である77歳の石原慎太郎は結党会見で「年寄り年寄りとバカにするな。君らが持ってない危機感を我々年寄りは持ってるんだ」と妙に本気で気色ばんでおりました。こういうのを見るにつけ、政治とは理念ではなく情念で動くもんなんだなあと思ってしまいます。

で、この石原を入れれば優に平均年齢70歳を超えるこの彼らの情念とはいったい何なのか? 会見での石原の顔は、なんだかとても怯えているようでした。悲しそうですらあった。それは私の目には、日本の未来への危機感というよりも、自分が用無しの年寄りに成り果てることへの危機感のように映りました。いわば、権力への妄執。力を失って老いさらばえることへの恐れです。それが彼を叫ばせていた。(素人の読心術ですがね)

自民党が70歳定年制を敷いているので、平沼新党の自民党離党者たちはいずれにしても次は公認をもらえなかった。そのためのロートル議員の受け皿党だという口さがないひともいます。しかし私には、問題はそういうことではないと思えます。

私は、どんなにすばらしい高齢者でも、10年後、20年後に責任をもてないひとは政治権力の中枢にいるべきではないと思っています。つまり10年後、20年後に生きていないひとが、10年後、20年後の社会を作ってはいけないと思うのです。

10年後、20年後の社会を憂うなというのではありません。おおいに憂えてもいただきたいが、それは在野からの、そのひと個人の影響力として物申すべきだ。なぜなら、実際に権力を行使して10年後の社会を作るひとは、10年後にそれが失敗したときに責めを負えるひとであるべきだと思うからです。だってその10年後の社会は良くも悪しくも、その10年後にも生きているひとたちのものなのですから。
 
にもかかわらずどうしていまも日本社会の権力中枢には、政界に限らずどこぞの新聞社のドンとか、老醜、老害としか見えないひとたちが居座っているのでしょう。さんざん権力を行使してきていまもまだ社会に危機感を抱いているというのは、とりもなおさず彼らのこれまでの試みのすべてが失敗してきたという証左に他なりません。ならばあっさりと失敗を認めて、引き下がればよいものをまだ自分で何かをしたいと思う。その意気や壮としても、それは在野で個人的にやってもらいたい。そのときこそそのひと個人のそれまでの生き方が評価されます。またそうしてくれないといつまでも若い世代が責任を負って仕事をしません。それこそが次世代への彼らの危機感の原因であるにもかかわらず、その原因の素こそが彼らなのです。

冒頭の言に戻れば、すばらしい高齢者はもちろんたくさんいます。しかし問題はシルバー新党の諸氏がどうすばらしい年寄りなのかということであって、自動的に彼らがすばらしい高齢者だというわけではない。むしろ石原やナベツネのように「オレがオレが」と吠えるひとほど、すばらしいというよりもみすぼらしく映るわけですが、前述したように、すばらしい高齢者であればあるほど、後進に道を譲る道こそが社会の正しいあり方だと知っているはずなのです。それでも国を憂うるならば、身1つで老成した文学者か哲学者のように根気よく発言し続けるか、あるいは不満爺となって憤死するかの2つに1つしか道はないのです。

そう考えてくると、問題は「リタイアの美学」を育ててこなかった日本の社会文化にもあるのかもしれませんね。まあ、それだけ精神的に余裕のない、貧しい国だったということでしょう。それに、年寄りも大事にしてこなかった社会だものなあ。でも、石原なんて若い頃から年寄り攻撃してきた張本人だし、ナベツネだって先達を媚び諂いおもねる道具か唾棄するバカかとしてしか見てこなかった類いの男です。老いて権力を失うことへの強迫的な恐怖は、自業自得といいますか、むしろ彼らの生き方そのものが自ら作り出してきた彼らの人生の亡霊みたいなものなんでしょう。くわばらくわばら。

March 26, 2010

民主党を利用する

今週から1カ月余り日本に滞在します。一方で、そんなこんなのうちにオバマ政権がとうとうアメリカという国に国民健康保険制度めいたものを成立させてしまいました。オバマ人気の陰りが濃くなってきたころに、これは大きな歴史的転換となる出来事です。パブリック・オプションという選択を捨てての妥協案ではありますが、それはいかにアメリカという国が「社会主義」的政策にアレルギーを持っているかを示していることに他なりません。そう、国民皆保険制度というのは米国では「社会主義政策」と見なされているのです。

一方、日本の民主党・鳩山政権はオバマ政権同様、支持率はどんどん下がっています。そして3月内にも指針が表明されるという普天間基地移設問題ではまさにいま天王山。いったいどうなるのでしょうか。

「どうなるのでしょうか」という設問は、しかし私の意図するところではありません。これまでのコラムやブログなどの発言で、私が日本の民主党の支持者なのかどうかをよく聞かれます。旗色を鮮明にするためにここで表明すれば、私は民主党の支持者ではありません。というか、あれだけの(バラバラな)集団、そんな丸ごとぜんぶを支持してるとかどうとか、言えるわけないです。だいたい判断材料の成果を見るにもまだ時間が足りない。ただし言えることはただ、私は、民主党を使おうとしている、ということです。

私は日本の政治が、長い自民党政治でとんでもなく沈滞してしまったと考えています。優秀と言われた官僚たちはいつのまにか働かない集団となり、ろくな税金の使い方をしないようになりました。政治家の言葉は紋切り型のカスみたいなものになり、転換する世界の動きにまったく対応できなくなりました。このまま自民党にやらせていたら、私の考える理想のコミュニティ、理想の国家の形はさっぱり彼らには伝わらないし彼らも聞こうとはしないし、結果、形にもならない。そう諦めていたときに政権交代が行われたのです。

民主党は、それこそ海のものとも山のものとも知れない政党でしたが、政権交代には行政の無駄遣いの根絶や予算の組み替え、官僚制度の刷新や年金改革、沖縄の基地負担軽減などへの期待が託されていました。つまり、自民党政権では託しようのなかった思いを抱いていた人々が、やっと自分の思いを託そうと思えるモメンタムを得た、かのようだったのです。

それは「支持」というよりは「利用可能性」だったのだと思います。自民党時代には端から諦めていた自分たちの思いを具現するために、この政権を利用しようと思ったのです。それは日本の歴史で久しぶりの、民主党という新たな政体というのではなく、新たな(自民党支持の人々とは別の)民衆の積極的な政治意識の登場だったわけです。

自分たちの思いを具現するには、もちろん思いを託す政党そのものを育てなければなりません。おだて、なだめ、励まし、ときには威嚇しながらも、政治家たちを自分たちの思う方向に仕向けなければならない。「どうなるのでしょう」ではなく、そこでは「どうするのか」「どうしたいのか」がテーマです。

それはどんなに早くとも数年はかかる営みだと私は思っていました。50年以上も続いてきた政体を変えるわけですから、そのくらいじっくりと腰を据えなければできないでしょう。利用する側にもそんな覚悟が要た。

ところがそうする前に鳩山首相や小沢幹事長の政治資金問題が出てきました。そのときに私が考えたことは、それは果たしていかほどの大問題かということです。つまり、自分が利用しようとする政党の、利用するだけの気力が失せるほどのくだらなさなのかどうか、ということが判断基準となりました。

けっこう往生際が悪いというか、そのときに私が比較対象にしたのはやはり過去の自民党政治です。田中角栄の金権政治やリクルート事件に関してはここ最近いろいろと見直しが進んで、私もなんだかあのときそれを告発する側だったことの正当性が分からなくなってきていますが、鳩山・小沢問題は、これは自民党政府のあの失望させられ具合に比べたら、ぜんぜん屁でもなかったように感じました。国会では民主党による「あなた(自民党)にそういわれたくない」という反論が封印されてしまったようですが、いやいや私にはまさにそれこそがもう一つの判断基準でもあります。てか、どうしてそれがダメなの? って感じ。

ましてや小沢問題では、無謬性の権化の一つだったはずの検察=東京地検特捜部への疑問が噴出しました。別の一つであったメディアに対してもそうです。彼らは検察の思う筋書きに沿ったリークを喧伝し(リークじゃないとメディア企業は強弁していますが、取材者であった者から言わせれば、あれはどうしたってリークなんです。産経社会部長の言も読みましたが、片腹痛いとはこのこと。あの人、どういう畑だったのかしらね)、起訴するに足る事実がなかったにもかかわらず執拗にダーティーなイメージを糊塗し続けました。そうしていつのまにか私たちの間に民主党も自民党と同じかというニヒリズムが蔓延しているのです。

もちろん、私にはまだまだ自民党よりはぜんぜんマシなように思えているわけで、だからいまでも利用できると踏んでいるのですが、世間はどうもそうじゃないようです。でも、それは「支持するかどうか」という基準で考えているからではないでしょうか? そこを、「支持してないけど、使えるもんは使おう」と考えるともちょっと楽なんじゃないかと思います。各種世論調査も、そういう設問をすればまた変わった世相が見えてくるんじゃないか? 「あなたはいまも民主党を利用したいと思いますか?」ってね。

だって、今度の国家公安委員長の路上キスの問題だって、まったくなあ、と思いますが、ふと立ち止まって考えれば、ありゃそんなに騒ぐほどのものかなあとも思わないでもない。そりゃ脇が甘い、外国からのハニートラップの危険だってある、議員宿舎にテロリストがまぎれる危険もある、のは確かですが、私たちの関心というか非難の先はどうもプライベートな「30歳以上年下の女性とのキス」にあるようで、それ自体はべつに、独身の67男の、そうあれこれ取りざたすべき公の問題ではないのじゃないかとも思う。この問題は、そんな我々の興味の核心とは別に派生する問題が問題なのであって、それがまさに週刊誌ネタの週刊誌ネタである所以でしょう。まあ、人品のことで言えばここでもまた比較が出てくるんですが、宇野宗佑の小指騒動や森喜朗のえひめ丸ゴルフ場問題なんかを知っている身としては、ふうん、よくやるね、というところでまだ収まっている。ま、個人的な感想ですがね。

自民党政権と比べての相対評価というものがいかに危ういかは知っています。しかし悲しいかな、私たちにはいま民主党しか利用する道具がないのだとしたら、それを使うしかないじゃないか、って感じが強いのですね。

しかし私たちが利用しようとした民主党は、私たちが育てる前にへたりつつあるようです。あれだけ言っておきながら普天間の県外移設がかなわなかったら、それこそ政権は危機に陥りもするでしょう。以前にもここに書きましたが、アメリカと交渉するときにいちばん大切なのは、その政権がいかに国民の支持を得ているか、ということです。グアムへの全面移転だって、国民の支持が高ければアメリカだって譲歩せざるを得ない。しかしそれを知ってか知らずか、保守メディアは親米というねじれた構図を変えぬまま、いたづらに政権と国民との乖離を促進した。普天間問題はこれでアメリカの意に添うようにならざるを得なくなった。「国益、国益」と騒ぐメディアに限ってかえってこういうところで国益に反する属米路線を補強するようなことをしたのです。

日本の報道メディアはまた、政権発足後100日間の米メディアと政権との蜜月関係をさんざん紹介し報道しておきながら、その一方で100日以内の段階でも既に、何が足りない、何が問題だ、と騒ぎ立てていました。私も新聞社にいた経験からかなりメディア側に立って援護もしたいのですが、あのとき前口上のように説明していた米国メディアと政権との関係の話は、いったい、何の意図だったのか、その脈絡が私にはいまもさっぱりわからないままです。単なるネタ漁りだったのかもしれません。

いまの日本の民主党政権の危機は、自分の国を「どうしたいか」という主体的な思いを辛抱強く持ち続けていられないせっかちな私たちの危機であり、政党を育てるのではなく叩くことしかしないでいるマスメディアの危機でもあるのだと思います。私たちはいったいどこに行こうとしているのか?

いまのままでは私たちはそうして、利用すべき道具を、これは目立てが悪い、持ったときのバランスが悪い、ここが凹んでいる、ここが傷ついてる、と言って修理することもなく簡単に捨ててしまい、気づいたらいつか家を直すのに素手しかない、という状態になってしまうのではないかと恐れるのです。

March 18, 2010

恋する世代

日本産品の海外進出の柱の1つがスシや茶道を取り巻く食文化ですが、もう1つの柱がソニーやトヨタなどがコツコツと積み上げてきたまじめなモノ作りでした。ところが最近それらに元気がない。こないだ、アカデミー賞を見ていて気づいたんですが、トヨタは例のブレーキ問題で自粛したのかCMを1本しか出してなかった。で、それに代わって目立ったのが韓国の現代自動車です。「ヒュンデ」って発音するんですけどね、こっちでは。なんか、ソニーもパナソニックもいまやサムソンに追い越されそうになってるんだか追い越されたんだか、アメリカではそんな日韓の入れ替わりというかせめぎ合いが熾烈になってきています。

で、そんなモノ作りに代わって日本ブランドとして頭角を現して久しいのはキティちゃんや村上隆デザインの「可愛いグッズ」。これはまだ他に脅かされる分野ではない、独壇場です。なんといっても2年前でしたか、中国の観光客誘致で当時の自民党政権が親善観光大使に選んだのはそのキティちゃんでしたから、日本は国を挙げて(意識してかしないでか)そんな日本印の「子供っぽさ」を販促用のアイデンティティとして使ってるのです。

先日、東京で宮台真司や東浩紀らそうそうたる頭脳を集め、その村上隆らの描く「子供っぽい日本」についてのシンポジウムが行われました。そこにパネリストとして招かれたボストン大学で日本文学を教えるキース・ヴィンセントと事前にそのテーマで話をしていて、興味深い現象を知りました。いまアメリカの大学で日本のことを勉強しようとしている若者たちは、80年代のいわゆるバブル経済期とは違って、日本を勉強することが今後の自分の職業人生にとって有利に働くからとかというのではあまりないそうです。そういうオトナの動機を持つ学生たちが専攻しているのはいまや日本ではなくて中国であるらしい。

ただし一方で、日本の経済がこうしてデフレ・スパイラルのとんでもないことになっていても、日本に興味を持つ学生たちの数というのはそんなに減ってはいないそうです。ではどんな学生たちが来るのかというと、その多くはアニメやマンガといった日本の大衆文化のファンたちだというんですね。ま、それは予想に難くない。

そのせいか、日本学科の学生たちというのは、たとえばフランス語や中国語を勉強したいという学生たちとはなんだかすごく違うらしいんですよ。日本留学を希望している学生たちは面接などで日本の、例えば食べ物が好きだ、ファッションが好きだ、ポップカルチャーが好きだとかと言いつつ、ほとんど必ず「日本自体を愛している」と口にするらしいのです。で、しばしばその「愛」は、子供時代からずっと続いているのだと打ち明けてくるんだそう。

そこで、この子たちが「日本を愛してる」と口にするそのなにか強迫観念的な、オタクっぽい感じには何が潜んでいるのか、キースは考えました。

結論は、彼らにとっての日本は単に「どこかもう1つの別の国」ではなく、他には存在しない「どこか違う、約束の地」なんじゃないかということだったそうです。

中国学科の学生たちは中国の経済発展の凄まじさに魅了されている。ロシア学科の学生たちは新興財閥とヤミ経済に好奇心を抱いている。その文化や言語を大人になるために必要な勉強としてとらえているのですね。アメリカのフランス語専攻の学生たちの夢というのもまあ大人っぽさへの憧れでもあって、いまでも例えばパリに住んでセーヌの左岸のカフェでワインを飲んでカミュを読んで、という感じなんだといいます。

ところがいまの日本学科の学生たちは、全部とはもちろん言いませんが、頭までズッポリと日本に恋しちゃってる。そしてこの恋愛感情の奇妙な強烈さは、おそらく彼らが日本文化を自分の子供時代に結びつけていることと関係しているのではないか。というのも、彼らの記憶の最初期は必ずポケモンやセーラームーンを通して日本とつながっていて、それでどこか無意識のレベルで、日本で勉強したら自分のあの幸せな子供時代をもう一度追体験できる、みたいな、そんなふうに想像しているようなフシがあると言うのですね。

今回のこの話に残念ながらオチはありません。その学生たちが今後、日米の双方の社会でどのような役割を果たしていくのかは、まだだれにもわからないからです。いったい、どういう新しい日米関係が彼らの世代を通して出来上がっていくのでしょうね。なんだかすごく興味があります。

March 10, 2010

敢てイルカ殺しの汚名を着て

アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に日本のイルカ漁を扱う「ザ・コーヴ」が選ばれ、案の定日本国内からは「食文化の違いを理解していない」「牛や豚の屠殺とどう違うんだ」「アメリカ人による独善の極み」と怒りの反応が出ています。あるいは「アカデミー賞も地に墜ちた」とか。

まあ、賞なんてもんは芥川賞だって日本レコード大賞だってトニー賞だってノーベル平和賞まで、そもそも販売促進、プロモーションから始まったもので、それにいかに客観性を持たせるかで権威が出てくるのですが、ときどき先祖返りしてお里が知れることもなきにしもあらずですから、まあここは怒ってもしょうがない。ヒステリックになるとあのシーシェパードと同じで、それじゃけんかにはなるが解決にはなりません。というか、このコーヴ、日本じゃ東京映画祭とかなんとかで上映したくらいでしょ? ほとんどのひとが見ていないはず。見ているひとは数千人じゃないのでしょうか? あるいは多く見積もっても数万人? うーむ、いや、そんな多くはないか……。

「ザ・コーヴ」は毎年9月から3月までイルカ漁を行う和歌山県太地町をリポートした映画です。とはいえ、イルカの屠殺現場は凄惨なので、これがどう描かれるか心配した地元側が撮影隊をブロックしました。そこで一行は世界中からその道のプロを集めて太地町を隠し撮りしたのです。

隠し撮りの手法というのは、ジャーナリスティックな意義がある場合は認めて然るべきものだと私は思います。でも、それ以外は米国ではじつはものすごく厳しい倫理規定があって、一般人を映画に撮影する場合は、道路を行く名もなき人々なんかの場合以外はかならずその映画のプロデューサー側がその人に、「編集権には口を挟まない」かつ「上映を承諾する」、という旨の書類にサインをもらうことになっています。そうじゃなきゃ、この映画気に食わない、といって自分が映っていることで上映差し止めを求める訴訟を起こされたりすることもあり得ますから。

で、このコーヴは、これは告発ドキュメンタリーだと位置づけているのでしょう。だから太地町の人たちにはサインを求めなかった。そしてドキュメンタリーだから映っている人たちの顔にボカシも入れなかった。この辺はなんでもボカシャいいと思ってる日本の制作サイドとは違います。ところが映画の作りはそれはもう大変なサスペンス仕立てで、太地町vs撮影隊、というこの対立構図がとてもうまく構成されているんですね。撮影クルーはなにしろ世界記録を持つ素もぐりダイバー夫婦だとか水中録音のプロだとか航空電子工学士だとかまで招集して、まるで「スパイ大作戦」に登場するような精鋭たち。隠しカメラを仕込んだ「岩」や「木」はあの「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスの特撮工房が作り上げた模型です。それらを設置する真夜中の模様も暗視カメラで記録されて、まるで戦場映画のようなハラハラドキドキ感。なにせ町中の人間が彼らを監視し、警察までが「グル」なのですから、こんな演出が面白くないはずがない。

しかしそれは最後のシーンで衝撃に変わります。そこには、入り江(コーヴ)に追いやられた大勢のイルカたちが漁民たちのモリでズボズボと突かれ、もがきのたうつ彼らの血で海が真っ赤に染まるようすが映っているのです。これはサカナ漁ではない映像です。これは屠殺です。

じつは今回のオスカーにはもう1作「フード・インク」という、食品産業をめぐるおぞましいドキュメンタリーも候補に上っていました。こちらは米国の食ビジネスの大量生産工業化とそのぞっとする裏面を取り上げたもので、米国人の日常生活の根幹を揺るがすショッキングな食の事実が満載です。でもこれに賞をあげたら食関連のスポンサーがいっせいに退くだろうなあ、と思っていたらやっぱり取れなかった。もっとも、映画としてはコーヴの方が確かに面白いのですが。

「イルカの屠殺現場は凄惨なので」と最初に書きました。でも思えばすべての動物の屠殺現場はすべて凄惨です。はっきり言えば私たちはそんなものは見たくない。

コーヴの不快の本質はそこにあります。それは、生き物は他の生き物を殺して食べるしか生きられないという現実を、私たちがどこかで忌避しているからです。みんなそれをやってるが、だれもそれを語りたくない。その結果、近代社会では屠殺の現場をどんどん分業化し、工業化し、近代設備の清潔さの装いの向こう側に囲い込んで見えなくしていったのです。それは、生活の快適さ(のみ)を求める近代化の当然の帰結でした。私たちは牛や豚や鶏の屠殺の現場すら知らない。でもそれは言わない約束だったでしょ? でも、どうしてイルカだけ、こうして「言っちゃう」わけ? しかも「告発」されちゃうわけ? コーヴでは、こうしてそこに制作者側への「自分たちのことは棚に上げて」感という「目には目を」の反発が加わり、より大きな反感が生まれたわけです。そっちがそういうつもりなら、こっちにも考えがあるぞ、です。戦争って、国民の意識レベルでは往々にしてそうやって始まるんです。

そういうときに「日本人は食べ物を粗末にしない。いただきます、と感謝して食べている」という反論は効き目がない。しかもそれ、ウソですから。食品ゴミの量は人口差をならすと日米でほぼ変わりなく、両国とも世界で最も食べ物を粗末にする国なのです。日本じゃ毎年2200万トンの食品ゴミが出てるんですよ。カロリー換算だと食べ物の30%近くが捨てられている。また、「食文化の差」という反論もこれだけ欧米化している時代にそう説得力を持たない。「日本食」の3大人気メニューはカレーにハンバーグにスパゲティでしょ? 古い? あるいは牛丼、ホルモン、回転寿しか? いずれもイルカやクジラではないわけで、そういう中途半端な反駁はすぐにディベートの猛者であるアメリカ人に突っ込まれてグーの音も出なくなります。

もっとも、彼らの振り回す、よくある「イルカは知能が高いから殺すな」という論理には簡単に対抗できます。それはナチスの優生学のそれ(劣った人種は駆逐されるべき)と同じものだ、きみはナチスと同じことを言っているのだ、と言えばいいんです。これはナチス嫌いのアメリカ人への反駁の論理としてはとても有効です。

なんとなく整理されてきました。だとすると、この映画が提起する問題で本当に重要なのは、「イルカの肉に含まれる水銀量は恐ろしく多く、それを知らされずに食べている消費者がいる」という点だけ、だということです。

ところが、私の知る限り、これに対し日本のどこも反論のデータを教えてくれていない。

それは、怒り過ぎているからか、それとも怒りを煙幕に事実隠しをしているからか?

私にはそれだけが問題です。それに対して「水銀量は多くない」というデータで反証できれば、この「ザ・コーヴ」は、敢てイルカ殺しの汚名を着ても、なに後ろ暗いことなく、いや生きることにいままでどおりすこしは悲しい気持ちで、しかしそうではあっても別段これを機に気に病むこともなく、そしてなおかつそうカッカと怒らずでもよい映画である、と明言(ちょっとくどいけど)できるのですが。

February 14, 2010

寄ってたかっての背後にあるもの

ロック少年だったせいで、若いころからさんざん髪を切れ切れとうるさく言われ続けてきました。おまけに高校時代には当時あった制服着用規則に何ら合理性がないと、これまた七面倒くさい論理を考えだして生徒会で制服自由化を決めてしまったクチです。

なので、バンクーバー五輪のスノーボード出場の国母選手が、成田空港で日本選手団の公式ウエアのネクタイをゆるめ、シャツの裾を出し、ズボンは腰パンで登場して問題になったと聞いても、そんなことどうでもいいじゃないのというのが第一の反応でした。

ところが日本ではいっせいにこの国母選手へのバッシングが始まりました。なんでこんなやつを選んだんだという抗議の電話がスキー協会に殺到し、弱冠21歳の彼は選手村入村式への出席を取りやめる謹慎措置となった。さらに反省の会見で記者に攻められ「チッ」と舌打ち後「っるっせーな」とつぶやいちゃった。「反省してまーす」と言ったのも後の祭り。しかもこの反省も語尾を伸ばしたことでまたまた顰蹙を買い、今度は五輪開会式にも参加不可というお仕置きが待っていました。

そういや十代の私も「髪を切れ」といわれて「うるせえなあ」と言い返したことがあったかも。「反省してます」とは意地でもいわなかったですけど。

抗議の人たちは「五輪出場は日本の代表。税金を使って行ってるんだ。代表らしくちゃんと振る舞え」と言っています。まあ、その気持ちはわからぬでもありませんが、どうしてみんなそんなに怒りっぽいのでしょう? まるで沸騰社会みたい。

もっとも、今時の若者なドレッドヘアと鼻ピアスの国母君もそうした「着くずし」をべつに理論武装してやってるわけじゃないようで、なんとなくへなちょこな感じ。そこらへんがむかしの私らと違うところで、会見の様子からもどうして着崩しちゃダメなのか今ひとつ理解していない様子。だから反省の弁に気持ちがこもってないのは当然でしょう。てか、かつての大阪の吉兆の女将さんみたいに、YouTubeで見たらあれ、隣のコーチかなんかが反省してると言えって指示してますよね。まあ、あの会見でみんなピキッと来たんでしょう。

でも、スノボー一筋の21歳のこの子はきっと、自分たちのスノボー仲間以外の、外の社会というものを知らないで生きてきたんですよ(だからこそここまで、ってどこまでかよう知らんけど、五輪出場のすごい選手になったのかもしれません)。そりゃね、行儀のよいお利口さんやロールモデルをスポーツ選手に求めたくなるのもわかりますけど、それができるのは石川遼君という天才くらい。遼君はあれは、ほんと、儲け物なんです。普通はあり得ない。なのにあれをノームにしちゃダメでしょう。しかも国母君はスノボー。スノボー文化というとても狭量な環境の中では、行儀の良い子のいられる場所などそうはない(って勝手に思い込んでますけど)。外の社会を知らないできた国母君は、今回初めて五輪というとんでもない社会的行事にさらされてわけがわからないのだ、というくらいの話なんじゃないですか。しかもオリンピックは彼がぜんぶ自分の実績で勝ち取ったものです。勝手に国をしょわせられても困るってもんじゃないでしょうか。

それとね、スノボーってスキー連盟傘下だって今回初めて知ったけど、ここがふだんからスノボー界をちゃんとサポートしてたのかも疑問です。オリンピック競技だからって急ごしらえで対応してるだけなのに、そこの会長さんがまるでずっと面倒見てきた親父みたいに恩着せがましく激怒したっていうのも、なんだかなー、です。

いつも言っていることですが「寄ってたかって」というのがいちばん嫌いなもので、国母君へのこの寄ってたかっての大上段からの叱責合戦には異和感が先に立ちます。腰パンも裾出しシャツも日本じゃ街中に溢れてる。そいつらへの日ごろの鬱憤がまるで憂さ晴らしのように国母君に集中している感じ。そんなに怒りたいなら、渋谷に行って公道を占拠する若者たちを注意すればよいのに、それができないから代わりに国母君を吊るし上げてる、みたいな。

この国母問題、服装のことなどどうでもいいんじゃないと言うのは50代や60代に多いそうです。まあ、たしかにそういう時代に生きてきましたからね。でも、20代、30代には逆に「国の代表なのに」だとか「日本の恥」だとかを口にする人が多いらしい。そういえば朝青龍も「国技」の横綱にふさわしくないとさんざんでした。

「国」と言えば何でも正義になってしまうのは違うと思います。日本はそんな国家主義の反省から民主主義を担いだ。私はだから、“名言”とされる例のJ.F.ケネディの「国が何かをしてくれると期待するな。あなたが国に何ができるかを考えよ」も実は(米国のあの当時の時代背景を考慮せずに引用するのは)好きじゃありません。オリンピックも、80年代はたしかソ連のアフガニスタン侵攻やボイコット合戦の影響で「国を背負うんじゃなく純粋なスポーツの祭典として楽しもう」という空気がありました。なのに、それがいつのまにかまた「国の代表」です。で、それにふさわしくないと見るやまるで犯罪者扱い。例によって、マスメディアの煽りもありますけれどね。なんってたって、産経なんか国母君お記者会見の写真説明、「服装問題で開会式自粛を余儀なくされた国母だが、会見では座ったままで頭を下げた=12日午後、バンクーバーのジャパンハウス(鈴木健児撮影)」ですからね。これ、頭を下げるときは立ってやれ、って抗議するよう読者を煽ってる文章です。さらに共同が配信した記事じゃあ「バンクーバー市内のジャパンハウス(日本選手団の支援施設)で行われた会見。白と紺色の日本選手用のスポーツウエアを乱れなく着ていたが、トレードマークのドレッドヘアとひげはそのまま。」って、ヒゲまでダメですか? いやらしい書き方するなよなあ。

私としては、せめて「寄ってたかって」にはぜったいに加担しない、という意地を張り続けるしかないですな。

February 08, 2010

検察と報道の大罪

米国では刑事裁判で一審で無罪となった場合は、検察はそれが不服であってももう控訴できません。検察というのは国家権力という実に強力な捜査権で被疑者を訴追しています。そんな各種の強制権をもってしても有罪にできなかったのですから、これ以上個人を控訴審という二度目の危険にさらす過酷をおかしてはならないと決めているのです。「ダブル・ジェパーディ(二重の危険)」の回避と呼ばれるこの制度はつまり、検察にはそれだけの絶大な権力に伴う非常に厳しい責任があるのだということの表れです。

ところが民主党の小沢幹事長不起訴にあたっての日本の検察、東京地検特捜部の対応はまことに見苦しいものでした。「有罪を得られる十分な証拠はそろった」が、起訴には「十二分の証拠が必要」だったと語った(産経)り、「ある幹部は『心証は真っ黒だが、これが司法の限界』と振り返った」(毎日)りと、まるで未練たらたらの恨み節。新聞各紙までまるで検察の“無念”さを代弁する論調で、元特捜部長の宗像紀夫までテレビに出てきて「不起訴だが、限りなくグレーに近い」と援護射撃するんじゃあ、世論調査で「小沢幹事長は辞任すべきか?」と聞くのも「これは誘導尋問です」と言わないのが不思議なくらいの茶番じゃないですか?

しかもこれは冒頭で紹介した裁判の話ですらない。起訴もできない次元での話なのです。つい先日、足利事件の菅谷さんのえん罪判明で検察とメディアの責任が大きく問題となっていた最中のこの「何様?」の断罪口調。カラス頭もここに極まれり、です。

いや、小沢は怪しくないと言っているのではまったくありません。ただ、怪しいと推断するなら、ジャーナリストならまた独自取材を始めればよろしいのであって、報道が検察と心中するかのようにこうも恨みつらみを垂れ流すのは異常としか思えないと言っているのです。産経なんぞ「ほくそ笑むのはまだ早い」「“次の舞台”は検察審査会」ですからね、どこのチンピラの捨て台詞ですか? 他人事ながらこんなもんを書いた産経新聞社会部長近藤豊和の精神状態が心配です(あら、いまネットで検索したら、この「ほくそ笑む」の記事、産経のサイトから消えてるわ。でも魚拓がたくさんあるようで、検索できますね。すばらしい)。

いや、小沢は権力者だから金の出納は厳しく精査すべし、というのも一理あります。しかし小沢個人より、検察や報道機関が権力を持っているのは事実なのです。なぜなら、検察や報道は、その内部の匿名の個人が失敗してもそんなもんは簡単に入れ替わり立ち替わりして、組織としては常に権力を維持するものだからです。これは政治家と言えども個人なんかが戦える相手ではない。田中角栄しかり、ニクソンしかり、それは洋の東西を問いません。もちろん警察や検察、そして報道機関の正しくない社会はとても不幸です。だからまずは信じられるような彼らを育てることが健全な社会の第一の優先事項です。そうしていつしか、その両機関は、その(本当はあるはずもない)無謬性を信じる多くの大衆の信頼と善意に守られていることになる。

それは一義的には正しいでしょう。ただし、何者も無謬ではあり得ない。わたしたちはそんな無謬神話を批判しながら歴史を進めてきたのです。これはかつて宗教のことを書いたブログ「生きよ、墜ちよ」でも触れましたが、日本の検察もまたいま、やっと歴史の審判に面しているのかもしれません。脱構築の対象になっていなかった、最後のモダン的価値の牙城ですものね(古い)。

つまり私が言っているのは、だからこそ報道は個人への断罪機関ではないということを徹底しなければならない、検察は恣意的に法律をもてあそんではいけない、ということなのです。

なのに今回は、1年以上も捜査して西松事件でも陸山会事件でも結局「虚偽記載」などという“別件”の形式犯でしか起訴できなかった。これは特捜部の完全な敗北です。恣意的な捜査だったと言われても反論できないはずです。ですから、負け犬はギャーギャー吠えずに引き下がれ、なのです。臥薪嘗胆のそのときまで泣き言を漏らすな、なのです。なのにこのていたらく。

で、そんなことよりもっと重要なことを記しておきましょう。

一連の小沢問題で、あんなに面白かった政治ニュースが最近はさっぱり面白くなくなりました。こうして国民がまた政治に飽き、日本という国がよくなるかもしれない期待もしぼみ、政治家にも飽き民主党にも飽きて、だから民意に応えようとあんなに張り切っていた民主党の政治家たちもいまやなんだかすっかり鳴りを潜めている。

するといま、その一方で日本の官僚たちがホッと一息ついているのです。「政治主導」におびえた官僚機構が、また無駄ばかりの、予算ばかり取ってろくな仕事をしない、前の自民党政権時代と同じ体制に戻ろうとしているのです。

私は、特捜部の今回の失敗は、その力量の低下だけでなく日本の転換のモメンタムを破壊したという意味でも一番罪が重いと思います。もっとも、官僚たる彼らは、あるいは彼ら個々人ではなくそのシステムは(システムに思考があるかどうかはまた別にして)、そんな破壊をこそ狙っていたのかもしれませんが。報道の書き散しも含め、これは私たちにとっての、とんでもない悲劇です。

実は、関係ないようですがこうして民主党の支持率が下がってくると、アメリカが日本を見る目も変わってきます。オバマ政権が普天間の移設問題に関して妥協する姿勢を見せてきていたのも、鳩山政権に対する国民の支持が背景に見えたからです。ところがその支持がなくなれば、普天間の移設、沖縄からの基地撤去もまた遠ざかることになります。国民が望んでいない政権と真剣に交渉しても始まりませんからね。なんという悲劇か。

どうにかこの悲劇から、回復できないものでしょうか?
みんな、飽きやすいからなあ。

January 19, 2010

再び、ハイチ地震と日本

距離的にも近いし移民の数も多いからでしょうが、アメリカのハイチ地震への対応の早さは官民ともに見事でした。あまりに素早くかつ大規模なので、アメリカはハイチを占領しようとしているという左派からの批判もあるようですが、まあ、そこは緊急避難的な措置ということでそう目くじら立てても、他にそういうことをやってくれるところはないわけですし、って思っています。確かに航空管制とかもアメリカが肩代わりしてるようですしね。で、軍事的な貢献はしないと決めている日本は、だからこそこういうときにいち早く文民支援に立ち上がってほしいところなのですが、しかし今回もまた、今に至ってもまったく反応が著しく鈍いという印象です。

折しも日本のメディアは阪神淡路大震災15周年の特集を組んでテレビも新聞も大々的にあの地震からの教訓を伝えようとしていました。ところが、いま現在進行中のハイチ地震の支援についてはほとんど触れなかったのです。いったいどういうことなのでしょう? まるで何も見えていないかのように、阪神阪神と言っているだけ。そりゃ事前取材でテープを編集して番組に仕立て上げるという作業があったのかもしれないが、すこしは直前に手直しくらいできたでしょうに。ハイチ地震発生は12日。それから阪神淡路の15周年まで5日間あったんですから。あるいは大震災の教訓とはお題目だけで、実際はなにも得ていないのだという、これは大いなる皮肉なのでしょうか。小沢4億円問題も大変ですが、検察リークの明らかな世論誘導や予断記事を少し削って、もうちょっとハイチの悲惨について紙面や時間を割けないものかと思ってしまいます。

西半球で最貧国のハイチにはビジネスチャンスもほとんどないからというわけではないでしょうが、日本企業の支援立ち上がりもまったく目立ちません。一方で米企業の支援をまとめているサイトを見ると大企業は軒並み社員の募金と同額を社として上乗せして寄付すると宣言したりで、不況をものともせず雪崩れを打ったように名を連ねています。まあ、企業として税金控除ができるという制度の後押しもあるせいでしょうが。

それらをちょっと、日本でも知られている企業の例だけでも適当に抜き書きしてみましょうか。

▼アメリカン・エクスプレス;25万ドルを米国赤十字社、国境なき医師団、国際救援委員会、世界食糧計画友の会に。その他、アメックス社員の募金と同額を上乗せして寄付など。
▼アメリカン航空グループ(AMR);サイトを通じてアメリカ赤十字に寄付した人にその金額分のボーナスマイルを付与。ポルトープランスへの救援物資の輸送。
▼AT&T;携帯電話のテキストメーッセージで10ドルの寄付が米赤十字社に簡単にできるように設定。
▼バンク・オブ・アメリカ;100万ドルを寄付。うち50万ドルは米赤十字社へ。
▼キャンベルスープ;20万ドル。
▼キヤノン・グループ;22万ドルを米赤十字社へ。
▼シスコ基金;250万ドルを米赤十字社へ。そのほか社員募金と同額の寄付(上限100万ドル)
▼シティグループ;救援隊、医療用品器具、援助物資、衛星電話。
▼コカコーラ;米赤十字社へ100万ドル。
▼クレディスイス;100万ドルを米およびスイス赤十字社へ。
▼DHL;災害対応チームを派遣して空港でのロジスティックスに当たらせる。
▼ダウ・ケミカル;50万ドルを米赤十字社ハイチ地震援助基金へ。社員募金相当分を上限計25万ドルで世界食糧計画などに寄付。
▼デュポン;10万ドルを米赤十字社ハイチ援助基金に。
▼フェデラルエクスプレス;42万5000ドルを米赤十字社、救世軍などに。救援物資78パレット分を災害地に。総計で100万ドル以上。
▼ゼネラル・エレクトリック(GE);250万ドル。
▼ジェネラル・ミルズ基金;25万ドル。
▼ゴールドマン・サックス;100万ドル。
▼グーグル;100万ドルをユニセフとCAREへ。
▼グラクソ・スミス&クライン;抗生物質などの主に経口医薬品と現金。地方インフラの回復を待ってさらに供給予定。
▼GM基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼ヒューレット・パッカード;50万ドルを米赤十字社国際対応基金へ。社員募金と同額を上限25万ドルでグローバル・インパクトへ。
▼ホームデポ基金;10万ドルを米赤十字社へ。
▼IBM;技術およびサービスで15万ドル相当分。
▼インテル;25万ドル。および社員募金同額分を該当NGOへ。
▼JPモルガン・チェース;100万ドル。
▼ケロッグ;25万ドル。
▼KPMG;50万ドル。
▼クラフト・フーズ;2万5000ドル。
▼メジャーリーグ・ベースボール(MBL);100万ドルをユニセフに。
▼マスターカード;会員のポイントをカナダ赤十字社への現金募金に替えて振り込めるようにした。
▼マクドナルド;50万ドルを国際赤十字社連盟に。傘下のアルゼンチン企業の社員募金も同額分上乗せで計50万ドル寄付の予定。
▼マイクロソフト;125万ドル。その他、社員募金12000ドルを上限に同額を寄付。現地で活動のNGO要員へのMS社対応チームの派遣。
▼モルガン・スタンリー;100万ドル。
▼モトローラ;10万ドル。その他、上限25000ドルで社員募金に同額上乗せで寄付。
▼北米ネスレ・ウォーターズ;100万ドル相当分の飲料水
▼ニューズ・コープ;25万ドルを米赤十字社と救世軍に。その他25万ドルを上限に社員募金に同額上乗せでNGOに。
▼ニューヨーク・ヤンキーズ;50万ドル。
▼パナソニック;10万9962ドル(1000万円)。
▼ペプシコ;100万ドル。
▼トヨタ;50万ドルを米赤十字社、セイヴ・ザ・チルドレン、国境なき医師団に。
▼トイザらス;15万ドルをセイヴ・ザ・チルドレンに。
▼ユニリーヴァー;50万ドルを国連食糧計画に。
▼ヴェライゾン基金;10万ドル。携帯テキストで米赤十字社に寄付できるように変えた。
▼VISA;20万ドルを米赤十字社へ。
▼ウォルマート;50万ドルを米赤十字社へ。10万ドル相当の食糧パッケージを赤十字社へ。
▼ウォルト・ディズニー社;10万ドルを米赤十字ハイチ地震救援基金に。

  ……等々。これらは日本でも知られている名前を適当にピックアップしたもので、リストはこの倍以上あります。なお、リストは米時間19日午前の時点のものです。

電話会社ヴェライゾンとAT&Tは携帯のテキストメッセージで10ドルを寄付できる方法を広め、米市民からの募金は17日までに(地震発生後5日間)で1600万ドル(15億円)を突破したそうです。上記リストにはありませんが、アップルはアイチューンズ・ストアで楽曲やソフトを買うように寄付ができるようにもしています。米大リーグやNYヤンキーズが募金に名を連ねたのは、ハイチからの野球選手が多くいるからでしょうね。

思えば9・11もインド洋大津波の時もそうでした。世界の大災害に当たって、欧米の大企業はそのホームページを続々とお見舞いのデザインに変えていました。でもそのときも、日本の企業のホームページは相も変わらず自社の宣伝だけ。こんなに世界が大わらわなときに、能天気というか、危機管理ができてないというか、現実問題と隔絶してるというか、最も安上がりで手間も時間もかからない企業の社会貢献マーケティングのチャンスをみすみす見逃しているのです。

とはいえ、上記リストにはトヨタとパナソニックも名を連ねていますね。素晴らしい。いま両社のホームページを見たら、ちょこっと、控えめではありますが義援金の拠出についてニュースとして報告してありました。「わが社は◎◎ドルを寄付しました」ってHPに書き加えたって、こういう場合、だれも売名だなんて思いません。企業ってのは稼いでなんぼです。稼いで、それで堂々と寄付もする。それも次の稼ぎにつなげてまた寄付をする。そう、こういうことならどんどん売名すべし、です。

日本の企業にまた呼びかけます。御社のホームページ(トップページ)にいますぐハイチへのお見舞いの言葉を書き込むことです。そうしてそこからクリックで日本赤十字社なりへの募金ページに飛べるようにすることです。それだけで企業の社会意識の高さが示せます。それがCRMの初歩というものでしょう。それをぜひとも企業としてマニュアル化してほしい。

何度も言っていますが、私たちは超能力者じゃないから、なんでも言葉にしなくては通じないのです。お見舞いの言葉もそう。たとえ日本語で書いてあっても、企業としてのそのお見舞いの表明は消費者としての日本国民のお見舞いの言葉と募金に姿を変えて世界に表明されるはずです。

今回も、民主党政府になってからさえも、日本はまたフロリダにいた自衛隊の輸送機を使えないものかと調整してそれで時間を食って出遅れたようです。べつに自衛隊を使う使わないはいいから、そうじゃなくて、とにかく文民の発想で援助にいち早く立ち上がる。それが憲法9条を掲げる日本の国際貢献の基本形だと思います。

January 13, 2010

日米外相会談

さきほどTBSラジオからハワイで行われたクリントン-岡田会談に関してコメントを求められました。また5分程度だったんで思うように喋られず。早口になっちゃうんですよね。ダメポです。

というか、こちらはいまハイチの地震報道一色で外相会談に関してなんらテレビでは速報も続報もありません。新聞がかろうじてAPやロイター電を伝えているのですが、ワシントンポストがかなり今回の雰囲気の変わり具合を如実にというか、なんとなく描写していて面白いです。そこには、日米関係に詳しい人たちが「たかだか40機のヘリコプターの移設問題くらいで日米関係をハイジャックさせてはいけない」って言っている、って書いているのです。NYタイムズもまた、今回の会談を日本との関係を修復するためのものだと位置づけていたし、あらら、なんだか日本で伝えられているのとは違う感じです。(って、私は前から言っていたんですけどね)。

日本の報道をオンラインでチェックしてみたら、「普天間、平行線」という見出し。でもそれって「5月までに決める=5月までは決めない」ってことだからすでにわかってることで、いまのこの時点で見出しになるようなことではないはずです。ことさら日米の「亀裂」を取り上げてみて、この人たちは何が言いたいのか? というかどこに着目しているのか?

アメリカの新聞もかねてから普天間および沖縄にはかなり同情的な視線を持っていたのでしたが、今回はややそれとも報道の仕方が違うようです。より積極的に、日米の不協和音を鎮めるようなトーンが目立って、NYタイムズは「普天間という個別問題で日米同盟という大きな枠組みは壊れない(indestructible)のだ」ってクリントン国務長官が言ってることを取り上げています。

もちろん米国は「これまでの日米同盟こそがベストの道」という主張を崩してはいません。しかしそれはどういうことかというと、意地悪い言い方ですけど、これから20年先を見越した東アジアの安全保障のためにベストという意味じゃなくて、とりあえず今年のいまの時点のオバマ政権にとって一番いい、という意味なんですよね。というのもいまオバマ政権は内憂外患というか、支持率、昨日の NBCの調査で50%を初めて切って、46%になっちゃったんです。アフガン戦争の行方が見えないこと、失業率が10%を超えたままであること、税金を投入して救った金融業界へのボーナスがまた平均で5千万円だとかいうニュースが出始めて、国民の不満がたまりにたまっている。そういう大わらわなときに、これまでいつも助けてくれていた日本までが面倒臭いことを言い始めて、とことん困っているんです。ここはどうあっても、合意どおりに進めてほしい、それがベストな道なのだっていわざるを得ないでしょう。

で、そうしたうえでで、新聞の見出しはクリントン国務長官が日本の決定の遅れをアクセプトした、受け入れた、というトーンになっているのです。

じつはこれには伏線があります。1月6日のNYタイムズに、ジョセフ・ナイが、この人はハーバード大の名誉教授でリベラル派の国際学者といわれてる人で、民主党のカーターやクリントン政権で外交や軍事政策に関わった専門家でもあるんですが、この重鎮が、普天間移設問題に関して寄稿して「some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise(ワシントンの一部には、日本の新政権に対して強硬な姿勢をとりたがっている連中がいるけれども、そりゃバカだ)」といって、「忍耐強く交渉にあたるよう求めた」(朝日新聞)のです。

これを報じた朝日新聞を引きましょう。
同紙は「ナイ氏は『個別の問題よりも大きな同盟』と題する論文で、『我々には、もっと忍耐づよく、戦略的な交渉が必要だ。(普天間のような)二次的な問題のせいで、東アジアの長期的な戦略を脅かしてしまっている』とした。
 東アジアの安全を守る最善の方法は、『日本の手厚い支援に支えられた米軍駐留の維持』だと強調」した、というわけです。

まあ、「論文」というか、全体で750語ほどの新聞用の短い寄稿文なんですが、これとまったくおなじ文脈でクリントンが今回の岡田会談に臨んだように見受けられます。「中国の軍事的な台頭を考慮して」という部分ももちろん共有しています。

ナイはじつはクリントンの外交上の知恵袋でもあって、一時は駐日大使になるかとも思われた人なんですけど、結局はオバマの選挙スポンサーだったルースが大使になったという経緯があります。で、そのオバマがナイを嫌った理由の1つが、ナイってのがかなりこれが戦略的な人でして、これも日本の事情を慮ってというよりはアメリカの国益がどうか、東アジアのアメリカの覇権をどうするか、という(まあ、もっともな)立場なんですね。末尾にこの寄稿文全体を貼付けておきますが、この中で朝日が触れていないニュアンスとしてかれはこう言っています。

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Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.
たとえ鳩山氏が結果的に基地計画で折れたとしても、われわれは日本に対してより我慢強く戦略的なアプローチをしていかねばならない。われわれがいまやっていることは東アジアのためのわれわれの長期的戦略を二次的な問題で脅かしているという事態なのである。普天間は、そんなものは屁みたいなもんだし、日本の新政権が持ち出してきた数多くの問題の1つでしかない。新政権が言っているのはより平等な同盟関係とか、中国とのよりよい関係とか、東アジアのコミュニティの創造だとか、まあ、意味ははっきりとはわからないまでもそういうことなのだ。

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.
東アジア戦略に関して1995年にペンタゴンの報告書を手伝ったときに、われわれの見据えたことはこの地域に3つの大国が存在しているという現実だった。すなわち、米国、日本、中国である。われわれが日本との同盟関係を維持することが中国が台頭してくるその環境を決定づけるのである。われわれは中国が国際的なシステムの中に入ってくるよう望んでいた。たとえば世界貿易機関(WTO)に参加するなどして。しかしわれわれは同時に未来のより強大になった中国が好戦的に変わる危険にも備えなくてはならなかったのだ。

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かなりしたたかでしょう。
そう、日本が中国を見ているように、アメリカもまた中国との関係で日本はとても重要な国なのです。その三つ巴の(?)バランスを上手く保たねば、この地域でのアメリカの覇権も危うい。そのためには普天間など取るに足らない問題だ、というわけです。おそらくこれはクリントン国務省の考え方と同じと考えてよい。

ワシントンポストはまさにそこを次のように書いています。(翻訳文のカッコ内は私の註です)

The new tone also stems from a growing realization in Washington and Tokyo that the base issue cannot be allowed to dominate an alliance crucial to both countries at a time when a resurgent China is remaking Asia, signing trade deals and staking claims to ocean resources.
ワシントンと東京で、再び台頭してきた中国がアジアを再構築し貿易問題をまとめ海洋資源の所有権を主張しようとしているとき、米日両国にとって死活の問題である同盟関係を基地問題などで右往左往させてはならないという認識が育ってきて、(日米間の亀裂、不協和音とは違う)あらたな傾向が出てきた。

(中略)
But Tuesday, Clinton was understanding.
火曜日(12日=日米外相会談の日)、クリントンは(日本の立場を)理解していた。

"We are respectful of the process that the Japanese government is going through," she said. "We also have an appreciation for some of the difficult new issues that this government must address," including the widespread opposition to the U.S. military presence on Okinawa.
「日本政府が経験している過程はわれわれも尊重している」と彼女(クリントン)は言った。「またこの(日本の)政府が困難で新たな問題のいくつかに取り組んでいることも私たちは評価している」と。その問題には沖縄の米軍の駐留に対する広い反対意見のことも含まれている。

**

ね、いかに「普天間、平行線」という見出しが間違っているか、これでわかるでしょ?
岡田外相と、その報告を受けた鳩山首相が上機嫌そうだったのは、こういうことなのです。

*****
以下、ナイのエッセーを添付しときます。時間があったら翻訳しますけど、いまはちょっと全部は無理。

SEEN from Tokyo, America’s relationship with Japan faces a crisis. The immediate problem is deadlock over a plan to move an American military base on the island of Okinawa. It sounds simple, but this is an issue with a long back story that could create a serious rift with one of our most crucial allies.

When I was in the Pentagon more than a decade ago, we began planning to reduce the burden that our presence places on Okinawa, which houses more than half of the 47,000 American troops in Japan. The Marine Corps Air Station Futenma was a particular problem because of its proximity to a crowded city, Ginowan. After years of negotiation, the Japanese and American governments agreed in 2006 to move the base to a less populated part of Okinawa and to move 8,000 Marines from Okinawa to Guam by 2014.

The plan was thrown into jeopardy last summer when the Japanese voted out the Liberal Democratic Party that had governed the country for nearly half a century in favor of the Democratic Party of Japan. The new prime minister, Yukio Hatoyama, leads a government that is inexperienced, divided and still in the thrall of campaign promises to move the base off the island or out of Japan completely.

The Pentagon is properly annoyed that Mr. Hatoyama is trying to go back on an agreement that took more than a decade to work out and that has major implications for the Marine Corps’ budget and force realignment. Secretary of Defense Robert Gates expressed displeasure during a trip to Japan in October, calling any reassessment of the plan “counterproductive.” When he visited Tokyo in November, President Obama agreed to a high-level working group to consider the Futenma question. But since then, Mr. Hatoyama has said he will delay a final decision on relocation until at least May.

Not surprisingly, some in Washington want to play hardball with the new Japanese government. But that would be unwise, for Mr. Hatoyama is caught in a vise, with the Americans squeezing from one side and a small left-wing party (upon which his majority in the upper house of the legislature depends) threatening to quit the coalition if he makes any significant concessions to the Americans. Further complicating matters, the future of Futenma is deeply contentious for Okinawans.

Even if Mr. Hatoyama eventually gives in on the base plan, we need a more patient and strategic approach to Japan. We are allowing a second-order issue to threaten our long-term strategy for East Asia. Futenma, it is worth noting, is not the only matter that the new government has raised. It also speaks of wanting a more equal alliance and better relations with China, and of creating an East Asian community — though it is far from clear what any of this means.

When I helped to develop the Pentagon’s East Asian Strategy Report in 1995, we started with the reality that there were three major powers in the region — the United States, Japan and China — and that maintaining our alliance with Japan would shape the environment into which China was emerging. We wanted to integrate China into the international system by, say, inviting it to join the World Trade Organization, but we needed to hedge against the danger that a future and stronger China might turn aggressive.

After a year and a half of extensive negotiations, the United States and Japan agreed that our alliance, rather than representing a cold war relic, was the basis for stability and prosperity in the region. President Bill Clinton and Prime Minister Ryutaro Hashimoto affirmed that in their 1996 Tokyo declaration. This strategy of “integrate, but hedge” continued to guide American foreign policy through the years of the Bush administration.

This year is the 50th anniversary of the United States-Japan security treaty. The two countries will miss a major opportunity if they let the base controversy lead to bitter feelings or the further reduction of American forces in Japan. The best guarantee of security in a region where China remains a long-term challenge and a nuclear North Korea poses a clear threat remains the presence of American troops, which Japan helps to maintain with generous host nation support.

Sometimes Japanese officials quietly welcome “gaiatsu,” or foreign pressure, to help resolve their own bureaucratic deadlocks. But that is not the case here: if the United States undercuts the new Japanese government and creates resentment among the Japanese public, then a victory on Futenma could prove Pyrrhic.

December 31, 2009

オバマの1年

年末、TBSや東京FMや大阪MBSラジオなど、いろんなラジオ局から大統領がオバマになったアメリカの1年を振り返ってのコメントを求められました。オバマは「Change」と「Yes, we can」で大統領になったが、アメリカは変わったのか、うまく行っているのか、という質問です。それを5分とかで喋れと言われてもなかなかきちんと説明できなかったので(MBSは25分くれました、感謝)、ここでちょっと詳しくおさらいしてみることにします。

12月は青森と大阪で講演があって日本にいるのですが、ちょっと戸惑うのはオバマに対する評価の日米の温度の差です。なんだかある時期のゴルバチョフを連想させるようなところもあります。というのも、2009年を振り返るTVの特集などがこの時期あちこちで放送されていますが、そんな中には「オバマが世界を動かした」などと見出しを打ってはしゃいでいる番組もあったのです。しかしアメリカにいた私にはどうもそうは思えなかった。小浜市を初めとして世界は勝手にオバマに期待して動いたかもしれませんが、世界は動いてもアメリカだけはオバマでも動かなかったと言っていいかもしれません。

なぜならオバマの今年は、とにかく、前政権ブッシュの後始末に追われた1年だったからだと思います。チェンジに取りかかろうにも、まずは後始末しなければならなかった。そのためにはリベラル派と保守派との間で、彼は実に慎重な手探りの政策を続けざるを得なかったのです。それははたから見ていてじつに見事な綱渡りのようにも見えましたが、もちろんそれはリベラル派から見ればじつに欲求不満の募るやり方でした。なぜならオバマの1年はまた、国内で3割を占めるコアなこの保守・右派層の心証を害しないように布石を打った1年でもあったからです。

その一例が核廃絶宣言です。プラハ演説で核廃絶を述べたと思ったら、ノーベル平和賞のオスロでの演説では戦争の必要性、正当性をも説いた。じゃあいったいどっちなんだ、と世界は戸惑っているようでした。

しかし、アメリカではあのプラハ演説、画期的な宣言ではあったがだれも直近の問題とは受け取らなかったのです。つまりだれも真に受けなかったのですね。これだけ軍事・兵器産業が肥大化している大国が、ギアをシフトしてハンドルを回すにはものすごい時間とエネルギーが必要であることをみんな知っているからです。そんなことでははしゃげない。

あれは短期的視野ではなく、彼一流の理想論でした。ノーベル平和賞の委員会はおそらく賞のダイナミズムを彼のリベラリズムの推進力の1つとして加勢したいと思ったのでしょうが、あれは米国内ではむしろやぶ蛇だった面もあります。賞の受諾スピーチでニコリともしなかったオバマ自身がそれを痛いほど感じていたはずです。だからオスロではああして「正しい戦争」を言葉にしたのです。あれは、世界への演説ではなくて米国の保守右翼たちへ向けた演説でした。米国の大統領はかくも自国の、自国のみの国益を考えて行動するものだということをまざまざと感じさせてくれた演説でした。

イラク戦争からの撤退もそうでした。これは保守強硬派からは非難囂々でしたが、その顰蹙を買うのを避けるために戦争自体はやめられなかった。つまり、アフガン戦争にシフトしただけだったわけです。オバマはここでも綱渡りして保守派からもなんらかの安心を勝ち取ったのです。

彼は計算高いのでしょうか? そうかもしれません。同じように3割を占める国内のコアなリベラル派にはオバマ以外の選択肢はないのですから、いくらリベラルな政策が出てこずに苛ついても、それは保守反動からの反発とはまったく意味合いが違います。「裏切り者」となじっても、どこかにオバマへの期待を首の皮一枚でつないでいる、みたいな……。

景気や経済対策も大変でした。リーマン・ショック後の後始末です。GMの破綻。AIGやシティバンクやメリルリンチもそうです。これらを潰すことなく巨額の公的資金を注入しました。これも「大きな政府」を嫌う本来の共和党支持者たちの反発と、大企業優遇に不公平感を募らせるリベラルな民主党支持層と、金融資本で生きている影の共和党支持の金持ちたちの意向との、じつに捩じれた世論の中での決断でした。なのにいま莫大な税金を使って救った金融や保険企業が、景気回復はまだなのに勝手にまた儲け始め、ものすごい高額報酬を復活させ、なおかつ税金を返していないという問題が明るみに出ています。アメリカは失業率が10%なんですよ。どうしてこんな格差が生まれているのでしょう。

にっちもさっちもいかなかったオバマの1年でしたが、じゃあ、まったく成果が出ていないかというと、ここにきて国民医療保険改革がやっと形になってきたということはあります。こないだ、クリスマス前に連邦上院で医療改革法案が可決しました。これは大変なことです。ヒラリー・クリントンが議会にも出せずに頓挫・失敗した健康保険です。国民保険って、アメリカ社会にとってはほとんど革命にも近い大事業なのです。

なぜにそんな大問題なのかというと、アメリカという国家は、この健康保険問題にも象徴されるように、政府が国民のことについてなんだかんだ出しゃばってやってやる、あるいは規制してくるというのを可能なかぎり否定してきた国なんですね。自助努力をモットーにするというか、もともと国の成り立ちがそうだからなんですけど、とにかくまず自由人、自由な個人という存在があって、その後に国が出来る。その「国」の政府というのは、自由な個人に対しては最小限な規制しかしない。それが自由な国だ、というわけなのです。銃の規制が進まないのもそういう背景があるからです。

で、健康保険なんていうのも、国が個人の面倒を見るわけでしょ?、するとそれは社会主義的な制度だという批判が起こる。この「社会主義」という言葉は、アメリカではもう悪の権化みたいな響きです。ずっと米ソ冷戦構造で育ってきたひとたちですから、頭の中で「社会主義=悪者」という刷り込みが出来上がっています。

で、オバマに対して批判する人たち,保守・右翼層というのは、これはおそらく彼が黒人だということも深層心理にはあるんだと確信してるんですけど、「オバマはは社会主義者だ」という大々的な批判キャンペーンを繰り広げてきたのでした。オバマをヒトラーになぞらえる批判キャンペーンもありました。ヒトラーも国家社会主義政治家として登場してきたわけだからでしょう。まあ、ほとんどデマみたいなレベルの批判だったのですが、これが米国内ではけっこう功を奏したわけです。そこにFOXTVなどという保守メディアまでが結託して支持率は急落したわけです。

保守派からのオバマ批判はそれはそれは大変な1年でした。

そしてそんな中で、普天間が出てきたのです。

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よく日本の新聞の見出しなどで出てくる「米政府が不快感」というのは、まずはこうした背景を理解しておく必要があるでしょう。つまり、「もー、こんなにあちこちでめっちゃ大変なのに、えー、今度はニッポンまで? なんでだよー? いままではぜんぜん文句も言わなかった安全パイだったのに、よりによってなんでこんな大変なときに一度合意したことを急にダメって言ったりするわけえ?」ってなことです。アメリカの政治家も官僚も人の子ですからね。

鳩山政権の発足当初の、というか普天間合意見直し発言の当初の米政府の反応はまずはそういう次元でした。ぼやきレベルなのではっきり「不快感」を示すのも大人げないからオバマ政権だって時間稼ぎで成り行きを見ていたのです。そのうちに日本のメディアが米「側」の不快感を先取りしていろいろ言い出します。それに反応してアメリカのメディアも加わり、同じネタを日米のメディア間で紹介し合ったり孫引きしたりでたらい回しすることになります。そのうちにオバマ政権内でもそれまでの心理的なぼやきから派生したいろいろな理論武装が始まります。理論武装したらあとは言ってくるだけです。

で、そこからなのです。話し合いというのは。

普天間の問題は、基本的に2つの問題に集約されます。

1つは、20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障がどうなっているかという問題。
もう1つは、沖縄に基地が集中している問題。

沖縄の基地集約問題はいずれ解決しなければならない問題だと言い続けてもう数十年経ちました。自民党政府は解決をずっと先送りしてきたのです。したがって、これを解決するときはつねに「何でいま?」という抵抗が起きます。それはもう宿命です。つまりこの「唐突感への抵抗」は、この問題に関する新しい障害ファクターではない。それはすでに織り込み済みのこととして考えるべきものなのです。

つまり、沖縄の基地負担は軽減しなければならない。これはすでに至上命題です。異論はない。では次の問題はいつ、どのように、ということになってきます。

それを20年後の日米同盟と、20年後のアジアと世界の安全保障に絡めて考えなければならないのです。その場合、沖縄の基地、日本国内の米軍基地そのものの存在意義にまで立ち入って考えていかなければならない。

沖縄の基地の役割は、冷戦構造下での共産主義体制への防波堤という意味からは大きく変わっています。当時は中国・ソ連が相手だった。でも今は違う。中東への中継地、あるいは北朝鮮への即応基地。でもね、普天間移設の海兵隊というのは、ぜんぜん即応部隊ではないんです。この無人遠隔攻撃の時代に、海兵隊というのは今でも最も勇敢な人的作戦展開の部隊なのです。つまり即応ではなく、最後に乗り込んで残る敵を殲滅するのが役割。するととうぜん沖縄にいなければならない部隊ではない、という結論になるのです。

さらに言えば、20年後を見据えた東アジアの安全保障は、すでに中国の協力なしには不可能です。アメリカが8000億ドルも中国に国債を買ってもらっている現在、いったい米中のどんな「有事」が成立できるのでしょう。北朝鮮問題だって、沖縄の基地なんかよりも中国こそが有効なのです。こないだの中国の副主席の天皇面会問題も、政治利用と言われましたが、これは深く国家の安全保障の問題のように見えます。戦争が始まるかもしれないときに、天皇をも総動員してその戦争を回避しようとするのは、それは政治利用とかそういう卑小な問題ではないのではないか。

そんなこんなの事情が背景にある普天間問題です。アメリカの、オバマ政権の都合を斟酌して「米政府が不快感」というのは、あまりにも問題を矮小化している。

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前述しましたが、アメリカはもとよりどの国だってまずは自国の利益にのみ則って外交を展開します。もちろん相手への斟酌は必要ですが、それは交渉の中ではぜったいに表立って出してはいけないのが常識です。ところがどうしても日本外交は笑顔外交なんですね。相手の気持ちを先取りして、ついつい退いてしまう。

もともとこの普天間・辺野古の移転にしても、3年前の日米合意に先立ってアメリカには全部グアムに移転するというオプションもあったのです。なのに当時の自民党政府と防衛庁は、まあ、急に全部いっぺんに行かれちゃ日本の安全保障もおぼつかなくなるし日本側の準備だって間に合わない、そんなにドラスティックなシフトではアメリカ側の負担にもなるだろうと考えた。で、日本側として普天間案をプッシュしたのです。アメリカとしては「そんなにまでおっしゃるのなら」ですよ。「じゃあ普天間で行こう。せっかくの思いやり予算もあるし、日米地位協定もある。そこまでいわれて据え膳食わぬは」です。カモが葱しょってるみたいなのですから。

アメリカの交渉というのはこれなんです。元々相手側からの思いやりなどは期待していません。交渉における品やカモネギなどは期待してないのです。アメリカ側が期待するのはじつはカウンターオファーです。えげつなくとも、それが交渉するときの役割分担です。言い合うことを第一の前提にして、その中でより良い結論を探り合う。これは裁判の検察と弁護人との立場にも似ています。どんなに悪いやつでも弁護人はそいつのいいところを言い立てるのが仕事ですし、どんなに情状酌量があろうとも検察は悪いところを言い募るのが仕事です。そういう中から結論を導き出すシステム。

交渉とはまさにそうなのです。心を鬼にして、そういう立場で言い立てる、吹っかける、吹っかけ返す。それがどうも日本人には分かっていません。外務省の官僚がワシントンの連中と交渉するのを見たことがありますが、彼らも分かってないんじゃないでしょうか? だいたい、議論に臨むときに笑顔を見せるということからしてダメなのです。官僚たちはみんなええとこのボンボンみたいになってしまって、ニコニコ相手の顔色をうかがいながら日本側の主張を出している。そんなことをずっと続けてきたのです。笑顔を見せていると、アメリカ人は「何が可笑しいんだ? なんか笑えることがあるのか?」とマジに思うんですよ。笑顔は彼らにとっては挨拶ではないのです。笑顔は「笑っちゃうこと」の表示なのです。ましてや交渉の潤滑剤ではけっしてありません。

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私は、極論を言えばアメリカが「世界の警察」を標榜するなら、日本は「世界の消防」を標榜すればよいのにと思っています。どうして日本は平和憲法を盾にして「日本は世界の消防だ」っていわないのかなあ、って思っています。

警察は権力をまとうので人に嫌われることもやらねばならないこともある。でも、消防を恨む人なんて、いませんよ。消防署、消防団員は、尊敬されることはあっても「消防出て行け」なんていわれたことはない。

アフガンでもイランでもイラクでも、日本は消防なんだ、サンダーバードの国際救助隊なんだ、って宣伝すればいいんです。それは最大の武器です。そんな人たちに鉄砲向けたりしたら、バチが当たる、そう思ってもらうことです。それがアメリカの手先と思われるから一緒になって攻撃されたり殺されたりする。警察と消防を、日米で分担するんですよ。それが何よりもこれからの安全保障の基盤だと思っています。丸腰で、もくもくと火を消し、人を救助し、復旧を手伝う。それを宣伝することが一番の,ソフトとしての実に有効な防衛手段なのです。軍服を着ている人間を攻撃するやつはたくさんいますが、丸裸の人間に切りつけられる人はそうはいません。まあ、丸腰で戦場に臨むというのは、ものすごく勇気の要ることですがね。

そういう立場に立って、私は沖縄の、日本国内の米軍基地はなくなるべきだと思っています。まあ、なくならないだろうという現実認識を担保にしている嫌いもなきにしもあらずですが、だからこそそう言い続けています。

December 14, 2009

年越しの果てに見えてくるもの

小沢幹事長の600人大訪中団や習近平中国副主席の天皇会見設定などを見ていると、普天間移設問題で結論を先送りにしている日本の民主党は、実は東アジア全体の安全保障の根本的再構築を狙っているのかと思ってしまいます。膨大な国債依存関係の米中接近を横目に、米中だけでは決めさせないぞとも言わんばかりの日中接近。

にもかかわらず日本での報道は相変わらずです。普天間先送りでは「米国が激怒」とまるで米政府の代弁者のような論調。小沢訪中団に関しても「民主党の顔はやはり小沢」と、些末な党内事情へと矮小化して報道する。

普天間問題で日本の新聞に登場する米国のコメンテイターたちはマイケル・グリーンやアーミテージなどだいたいが共和党系、あるいはネオコン系の人たちで、従来の「揺るぎない」日米関係、つまり「文句を言わない日本」との日米同盟を前提としてきた人たちです。メディアは彼らを「知日派」と紹介して鳩山政権の対応の遅れやブレを批判させているのですが、彼らの「知日」は自民党政府と太いパイプを持っていたという意味であって、「知日」というより自民党政権のやり方に精通しているという意味なのです。だから、民主党政権の(不慣れな)やり方に、やはり彼らも不慣れなために、「前のやり方はこうではなかった」という戸惑いや批判を口にしているにすぎない。その証拠に、自民党に同じ質問をしてごらんなさい。彼らと同じコメントが出てくるはずです。新聞は、そんな浅薄な、というかいちばん手近なやり方で論難しているのです。

米国のルース駐日大使に関してもそうです。岡田会談から始まる政権との会談で対応の遅れに不満表明と報じられていますが、大使というのも指名ポストながらも役人なのです。米政府の役人が米政府の従来路線の踏襲とその事務的な執行を目指すのは当然であって、これまでに決まった米国の立場を説明する以外の権限がないのだから「困った」と言うに決まっています。それ以外、何を言えるのでしょう? まさか、「わかった、私が政策転換をオバマに進言しよう」と言いますか? それが「ルース大使、声を荒げる」とか、見てきたような作文まで“報道”する新聞もありました。

米国のメディアは米国の国益を基に主張しますが、日本のメディアまでが米国の国益を主張するのはいったいどういうねじれなのでしょう。

普天間問題では、日米の取り決めは「合意」であって「条約」でも「協定」でもないのだから、それを検討し直すのは実は外交上は「あり得べからぬこと」ではないのです。もちろん重要な日米関係、事は慎重に進めねばなりませんが。

しかし8000億ドルもの米国債を保有する中国を抱えて、米国の東アジア安全保障の概念も、冷戦時とは大きく様変わりしています。日中の経済関係もますます重要になってきます。「対共産主義の防波堤」だったはずの日本の米軍基地の位置づけも、いまや不安定な中東への東側からの中継地へとシフトしています。沖縄に80%を依存する日本の米軍基地とはいったい何なのか? それは果たしてそもそも必要なのか?

日米中の3国によるここでの新たな枠組みの構築は、21世紀の枢要な安全保障へと発展するはず。小沢はそのあたりを見据えているのではないか? あるいはまた、鳩山の「常駐なき安保」という路線はあながち今も生きているのかもしれません。その枠組みの中で沖縄をどうするのか、そう考えるとこれは性急に結論を出せるものでもないのかもしれない。

習近平副主席の天皇会見で中国に貸しを作った民主党は、まずは直近の安全保障問題である北朝鮮に関して何かを狙っているのではないかといううがった見方もできます。政府要人か党首脳の電撃訪朝と拉致問題の解決・進展なんていうのもあり得ない話ではないかもしれません。新年に向けて期待したいところです。

December 02, 2009

世界エイズデー

1日は世界エイズデーでした。いま講演会のために日本に来ているのですが、メディアも含め、日本ではほとんどエイズは話題になっていませんでした。じつはこの日はニューヨークで30年近くもエイズ医療に携わってきたセントルークス病院の稲田頼太郎先生と、同じく日本のエイズ報道の第一人者である産經新聞の宮田一雄記者に会って話をしていたのです。

稲田先生は来年、エイズ危機の続くアフリカのケニアに活動拠点を移すために、日本に戻って企業各社からの寄付集めに奔走しているところでした。しかし日本もいま景気後退とデフレと円高で、先生の活動に共鳴はするもののなかなか資金的な援助が出てこない。

一方、宮田さんは今春からの新型インフルエンザに対する日本社会の対応があまりに排他的であり続けていることに、エイズ禍からの教訓をなんら活かしていないと嘆いていたのでした。

米国のエイズ禍で私たちが学んだことは、第一にパニックを煽らないこと、そして患者・感染者を決して排除しないことです。それが危機をしっかりと受け止め、それにきちんと対処できる社会を作る基本なのです。

ところが今春からの新型流感に関して、日本政府はすべてその逆をやった。厚労相だった舛添さんは「いったい何事か」というべき異例の深夜1時半の記者会見を開き、まだ感染の事実すらはっきりしない「疑い例」なる高校生の存在を発表してパニックを煽りました。しかもこの高校生をまるで犯罪者のように「A」と呼び捨てにし、図らずも患者・感染者への排除の姿勢を身を以て示してしまったのです。

あの緊急記者会見を見ながら、せめて「Aくん」と呼んでやれよ、と思ったのは私だけではありますまい。まるで感染した者が悪いのだといわんばかりの日本社会のバッシング体質。エイズ禍でも初期は「感染者探し=犯人探し」が横行しましたっけ。

果たしてこの高校生はその後、実際には新型流感には感染していなかったことがわかり、校長が涙を流して安堵している様までがメディアを通じて流されました。

これは例の「自己責任論」にも通じる狭量さです。つまり「新型流感がはやっているのを承知でどうして海外渡航などしたのだ。自業自得じゃないか」という非難です。

エイズ禍でも同じ反応でした。「セックスして感染したのなら自業自得だ」というものです。そんなことを責めても感染危機には何の役にも立たないどころか、そんなことに目を奪われていては対策の遅れにもつながりかねません。

人類はエイズから数多くのことを学んできたはずなのです。

宮田さんはそれを「パニック映画じゃないんだからヒーローはいらないってことですよ」とまとめます。実務的な、地道な対応システムの構築が重要で、深夜の会見みたいなスタンドプレーは不要ということです。

稲田先生は「排除すれば感染者は隠れる。受容すれば感染は食い止められる」というエイズ禍での逆説的な教訓を力説します。新型流感でも「感染者を隔離する」とやればだれだって検査すら受けたくなくなる。でも「感染した人をみんなで助ける」となればいち早く検査を受けて助けてもらおうとする。

感染者に優しい社会は危機に最も強い社会である。それを閑散たる国際エイズデーの東京で3人で語り合ったのでした。

November 13, 2009

麻原と三浦と市橋と

市橋容疑者の絶食が続いています。

あくまでも彼がリンゼイさん殺害の犯人だとして、の話ですが、この子、あの逃亡の手段の凄まじさというか、とにかく逃げたいという執念はなにかというと、基本的に、責任を負いたくない、つまり現実を見たくない、つまり叱られたくない、ってことなんだと思います。

きっと、ずっとそうやって逃げてきたのかもしれません。親からのプレッシャーからもなにからも。ぜ~んぶ逃げて生きてきた(のだと勝手に想像してみる)。

ドッジボールで、人は2つに分類されます。ひとつは、ボールから逃げ回る人間。もうひとつは、ボールを果敢に取りに回ってかつ反撃に転じようという人間。ぼくは、小学生のときに、ぜったいに後者だったんだけれど、けっこう最近、ドッジボールがじつはそういうゲームではないのだと知って愕然としました。というのもずっと「ドッチ」ボールだと思ってて、「ドッジ=dodge=素早く身をかわして避ける」だということに気づかなかったの。

ああ、ぼくは間違っていたんだ。あれは、球を躱すゲームだったのだ。なんという長いあいだ! 

閑話休題。
で、市橋くん、警察が上手かったのは、整形の写真、すぐに公開しなかったことです。市橋くんが整形外科に行って、それで写真も入手してあるというふうに報道させてから、写真を公開するまでに2日ほどあったんだっけ? そのときに、市橋くんはきっと、あの写真を公開されたらまずいと思って、まず手っ取り早く、ひげを剃ったのです。公開写真はヒゲ付きだろうとふんで。

で、警察が出してきたのは「予断を避けるため」として、そのヒゲをフォトショップで取り除いたスッピンの顔だったわけですね。がーん。

このときの市橋くんの動揺はいかほどだったか。
せっかくひげを剃ったのに、完璧に裏をかかれた。しかも、またひげを伸ばすまでには何日もかかる。つまり、あの手配写真は、見事に今の市橋くんだったわけです。

逃亡犯の心理として、このダメージは大きいでしょう。
ここで彼はとても追いつめられます。どこにも逃げられない。顔を隠すということ自体がもうすでに自分は容疑者、指名手配犯だということになるのですから、このどうしようもなさで、彼はほとんど眠れもしなかった。かくれんぼをして、そこら中に鬼がいるという状態です。あとは髪を剃っちゃうしかない。でも、それをしてないのはどうしてかなあ? あれは、フードで隠せるからか? いや、ナルシシズムかな。その辺はぼくにはわかりません。

でもとにかく、わたしの想像の中の彼は、もうどうにもしようがない、という極限状態で、あのフェリーの待合室で捕まったのです。でも、彼は(仮定の彼は)、とにかく、現実を回避したい、責任を回避したい人間なのです。では、次にどうするか?

逃げるのですよ。やはり。
自分の心の中に。
外界を遮断して、心の中に、奥深くに、逃げ込む。そこしかない。

それがこの拒食なのです。
それが私のフィクティシャスな彼に関する解釈。

いわば、麻原彰晃と、三浦和義との間の、どこかにある人間としての市橋くん。

麻原は外界を完全に遮断した。
三浦は真実の内界を遮断した。

市橋くんは、そういう意味で、けっこう興味深い人物かもしれません。
叱られたこと、ないのかなあ。
親との関係、セックス、とても古典的だけど、やはり鍵はそれなんだろうなあ。
でも、もう一個、かつて浅田彰が言ってた「スキゾ・キッズ」。
これ?
スキゾって、現実社会ではこんな無様なものにしかなれないのだろうか?

最近、考えてるのは、このスキゾではなく、クラウド・コンピュータ型の人間たち、です。
実体がないの。
でも、これはちょっとぜんぶ書き出すのは面倒なのでまたの機会にしましょう。

October 27, 2009

メディアの立ち位置

鳩山の所信表明を読みながら、初めて欧米の政治家指導者たちのような、個人的に何を伝えたいのかがよくわかる内容だったと思いました。まあ、鳩山という人はこないだの国連気候変動演説でも理念を語らせるとなかなか雄弁な政治家で、この所信表明もきっと自分で草稿を練ったのでしょうね。問題はさて、果たしてここで言ったうちのどれほどが具現するかということだというのは当然でしょう。

ところで、自民党の谷垣総裁がこれに対して応じる民主党議員を指して「ヒトラーユーゲント」を想起させた、というのはやや無理しゃりの感があります。まあ、自民党政治の残したものを指して「戦後行政の大掃除」「無血の平成維新」といわれれば何がなんでも批判を言い返さねばならないのでしょうが、なんだか表面的な批判ばかりの普通の平凡な野党に成り下がった感じです。ここはひとつ、字面の揚げ足取りではない、本質的な批判、政治のあり方と政府のあり方を常に見据えた論戦を挑んでほしいんですが……。

でもね、もともと現在の多くの社会問題は確かにすべてほとんど自民党の政治責任を問われるような種類のものですから、なかなか攻めづらいところもあるんでしょう。だからこそ、今度の執行部は過去の自民党執行部と決別するような布陣であるべきだったのです。民主党を攻める前に、まずは自分たちの過去を責める、みたいな。そうして初めて民主党攻撃が出来るというものなのですから。

谷垣という人は宏池会という「政策に強いが政局に弱い」派閥の出だからこそ、こんな廃残の自民党を任されちゃった、みたいなところがあります。かつては「保守本流」と呼ばれた派閥だったのですが、今の自民党内ではハト派、リベラル派、知的、という場末な印象。もっともその線こそが臨まれているのだからそれでやりゃあいいのに、それじゃ民主党とかぶるところが多すぎて(じっさい、政界再編となれば真っ先に民主党のリベラル派と結ぶのは彼らだったはずですから)、戦略的にはもっと保守・反動に傾かなければならない、という事情があるわけです。そこで飛び出したヒトラーユーゲント発言なのかもしれません。

同時に、日本のメディアの書くこと言うことの首尾一貫のしていなさというか、表面的なことのあげつらいがなんだか最近すごく目につきます。これも今回の政権交代の副産物か、メディア側も混乱してるんだなあという印象です。

自民党に対しては戦後50年以上も政権の座にあったわけで、そのキャラも定着していたために各メディアの立ち位置はある程度は定まっていました。ところが今度の民主党政権には、どう対応すべきかはまだ場当たり的で、とりあえずは批判的ツッコミをしておけば無難か、みたいな報道の仕方が目につくんですね。

最近の例で言うと、日本郵政への斎藤次郎元大蔵事務次官の社長就任。「脱官僚、天下り根絶」の看板が早くも揺れたと騒ぎますが、そもそも「杓子定規の官僚外しは不合理。優秀な人材なら官僚でも登用して使いこなすべし」というのがこれまでのメディアのだいたいの論調でした。

しかし今回の斎藤元次官の起用批判は、起用そのものに対する是非というより、政権の天下り禁止路線との不整合、さらには民主党が野党だった昨年3月の、武藤敏郎元大蔵次官の日銀総裁起用の際の国会での不同意との齟齬に対する批判なのですね。

で、斎藤の起用はそもそも人材として良いのか悪いのか? 言行不一致を衝くのはジャーナリズムの重要な役割の1つなのでそれはいいのですが、同時にこの本質的な問題に触れないのでなんだかピンと来ない。斉藤氏が小沢幹事長と親しいことも取りざたされますが、「あれとあれがつながってるからねえ」という通好みの仄めかしだけでなく、わたしとしてはもっと真正面からの分析も教えてもらいたいところなのです。で、あいつは駄目なの? どうなの?

米軍の普天間基地移設問題になるともうちょっと複雑です。これは自民党政権のネジレとも関係するのですが、日本の保守層というのは本来の「国益」主義者の顔と、もう一方で安保条約に基づく米国追従者の顔の2つを持っています。この2つは本当は両立しないはずですが、自民党は内には右翼的な勇ましい顔を向けながら、米国には「思いやり予算」その他で不平等な地位協定のおべっかを振りまいてきました。安倍や町村や麻生など、ときどき日本の核武装をぶつ自民党政治家がいますが、彼らは内心これに忸怩たるものを持っていた人たちなのでしょう。自分たちでまいた種なのに。
 
同じことはメディアにも言えます。普天間問題などでワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルが立て続けに「最近、厄介なのは中国ではなく日本」「鳩山外交は日米同盟をむしばむ恐れ」と書けば、米政府の「深刻な懸念」をあたかもそのメディア自身も懸念しているかのように報じる。例のNYタイムズの鳩山論文転載問題のときもそうでした。

でも外交というのは本来は丁々発止やり合って最後にニッコリ握手するのが成功というもの。ワシントン・ポストが伝えた「日米関係はこれまで不変の居心地のよいものだった」という国務省高官の感慨には、コンフォタブル(居心地のよい)という言葉の向こう側にコンビニエント(都合のよい)が透けて見えるのです。しかしこれも国益第一の米国なら当然の主張で、というか、どの国だってまずは自国の利益に立って主張するのが当たり前ですから、そういわれたってべつに驚くことはない。

なのに日本のメディアはこれまでもそうでしたが、あまりに外国での評判を気にしすぎる。やれ鳩山が外国のメディアでどう報じられたか、やれ日本の映画が、日本のアニメが、日本料理が、日本のピアニストが、日本のなんとかが、……とまるで外国での評判がそのままそのものの評価であるような。これじゃ先生にほめられることだけを目標にして行動している小学生みたいです。

そして本来ならこういう時に、日本の主体性を基に米国に噛み付いて然るべき保守メディアが、目先の政権批判にかまけてしまうのはなんだか面白いネジレだなあと思うわけなのです。まあ、基地問題では、これで国防の幾分かは米国任せで安く済む、という帳簿計算があるのだけれど、「保守」って本来は、そういう姑息な帳尻合わせは好きじゃないはずなのにね。もっとも、沖縄は「国益」の「国」の中には入っていない、彼らにとっては辺境の属国なのかもしれませんが。

いや、日本の国益を主張せよと、わたしが国粋主義者になっているわけではありません。政権交代という現象への対応を構築中の日本のジャーナリズムに、表層的なことだけではない、本質的な問題への視点も常に忘れずに提供してほしいと思っているのです。そしてじつは、民主党に対する最も必要なチェックポイントは、この、「米国と対等の同盟関係」なのです。この「対等」という言葉によって国内に台頭してくるだろう国家主義。自民党時代のネジレの鬱憤を一気に解消し晴らそうとする声の大きな国民たち、つまりは右派の熱狂です。

その意味において、じつは先に取り上げた谷垣自民党総裁の「ヒトラーユーゲント」発言は、文脈も意味も違うけれど、なんとも暗喩に満ちた正鵠を射るものであると思うのです。

悪しきポピュリズム(これに関しては3つ前のエントリーで触れました)を、ジャーナリズムと野党が、表面的ではないツッコミを忘れないことで回避してほしいと思います。

October 07, 2009

ポピュリズムはダメなのか?

民主党・鳩山政権が全力疾走を続けています。早くも息切れや逆に暴走気味なところも見られますが、日本にいる友人たちによれば政権交代ってのはこんなにも変わるってことなのかとビックリしているようです。何が変わったのか、具体的にはまだそうはないにもかかわらず、ワイドショーで政治ニュースがこんなに面白かったこともかつてなく、実際、TV出演する与党・民主党の政治家たちが、これまでの自民党と違って言い訳も逃げもせずに真正面から質問に応えるのが心地よいと言うのです。

思えば八ッ場ダムにしても年金にしても格差対策や障害者自立支援法にしてもすべてが自民党失政の後始末。中止宣言されてしまった八ッ場ダムに谷垣新総裁らが民主党マニフェストに振り回される地元周辺住民の不満を聞きに視察に行っても、そもそもが57年を費やして完成できなかった自民党の怠慢こそが素因なので「どの面下げて」感が否めません。

もっとも、鳩山政権マニフェストの問題は国民生活支援という17兆円もの約束手形の財源です。そんなカネどこにあるのか、理想ではなく現実を直視すべきだ、悪しきポピュリズム政策のオンパレードだ、という批判が止みません。

でも、どうなんでしょう? 日本ではポピュリズムというのは大衆迎合主義とか衆愚政治とか訳されて、どうも批判的に用いられることが多いのですが、それを言う人はだいたいが自分はその「大衆」「衆愚」には属していないと思っている人たちです。「大衆というのは馬鹿なものなのだから、彼らの言っていることを真に受けてはいけない」ということなんですが、これって典型的な「上から目線」というやつじゃないでしょうか。

確かにポピュリズムはかつて大衆的熱狂のかたまりとなって国粋主義・ファシズムへとつながりました。けれど現代日本のポピュリズムは、高度情報社会と国際化と教育水準の底上げの支えで安易な全体主義には流れないはずです。もちろんそれには不断の注意が必要ですが、たとえば高速道路無料化や中小企業向けの金融モラトリアムに慎重な世論とかはとても健全なもので、国民はご機嫌取りのような政策を無批判に歓迎しているわけではないのです。

かつて新聞記者の新人のころ県政を取材していた25年前、県庁の企画室なんていう部署にはどの県でも大学を卒業したての20代の中央官庁のキャリア青年たちが腕慣らしに配属されてきていて、予算編成期になると海中公園だとかリニア鉄道だとか、まあそれはそれは派手で大ボラ的な、巨大予算の夢物語をぶち上げるのが優秀な官僚への試金石だと思われていました。実際、上級国家公務員に合格した輩たちは所属省庁が決まるとすぐにもそうした「企画力」のトレーニングをやらされるという話で、税金はそうやって目に見えやすい箱もの思考へと注がれていたのです。まあ、インフラの整っていなかった昭和後期までならそうした箱ものによる経済全体の牽引力も必要だったのでしょうが、いつまでもそれでは通用しない。

ダムや高速道路というのはその象徴のようなものでした。それは企業経済を活性化することで家計経済も勝手によくなる、という思考です。そして現代のポピュリズムとは、企業を潤してもあまりよくなって来なかった生活をどうにかしてくれという権利要求なのです。そのどこが悪いのか?

その意味において、鳩山政権が打ち出し、政治家たちがTV出演などで真摯に説明しようとしている現在進行中の脱・箱もの政策の1つ1つは、たとえそれが途中でへたれになったり国会提案が先送りになったりするにしても、その過程を見ているだけで政治というものの本来のダイナミズムを目撃しているという高揚感を私たちにもたらしてくれているのかもしれません。それが冒頭で紹介した、いま政治ニュースが面白いという事象なのだと思います。

でも、それらの政策に「そんなカネ、どこにあるのか」と批判し続けることは正しいことだと思います。それは政権を超えて、いまきっと50歳前後になったかつての「海中公園」官僚たちにも届くはずです。

税金は本当に、民間のような厳しい監査なく使われています。役所相手の仕事の受注ほど旨いものはない。それをまずは精査すること。それが健全な現代ポピュリズムの原点なのだと思います。

September 08, 2009

鳩山論文、その2

なにせこんな明確な政権交代は初めてのことなので、バタバタしているのは当事者だけでなくメディアも同じようなものです。岡田さんが外相と発表されるや、共同通信は米政府に「好感と懸念が混在」として、「野党代表の経験はあるものの政府機関を取り仕切るポストについたことがなく行政感覚が未知数である点を不安視する見方も」と配信しています。

しかしよく考えればそんなのは当たり前のことで、字数を費やすほどの情報ではない。どうもこの種の「言わずもがな」や「蛇足」の原稿が目につきます。その最たるものが例のNYタイムズ電子版で紹介された鳩山論文をめぐる顛末でした。

この前のエントリーでおかしいと書いたんですが、まあ、だいたい私の推測どおりでした。あれは寄稿ではなかったのですね。ちょっとこの顛末をまとめてみましょう。

最初に噛み付いたのは産経新聞です。鳩山代表が「寄稿した論文に対し米専門家らから強い失望の声」という記事で、同論文に対し「アジア専門の元政府高官は『米国に対し非常に敵対的であり、警戒すべき見方だ』とみる。米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)のニコラス・セーチェーニ日本部副部長は『第一印象は非常に重要で、論文は民主党政権に関心をもつ米国人を困惑させるだけだ』と批判。『(論文を読んだ)人々は、日本は世界経済が抱える問題の解決に積極的な役割を果たすつもりはない、と思うだろう。失望させられる』」と紹介したのです。

ここで紹介されるコメントはCSISのアジア上級部長だったマイケル・グリーンなど、ブッシュ前政権の安全保障政策を担ったサークルです。まあ当然ながら自民党=共和党外交に精通した人たち。つまり、まず鳩山外交への疑問と批判ありき、のメンツなわけです。

さすがは「民主党さんの思うとおりにはさせないぜ」と公的メディアで発言した記者のいる新聞社、「失望」を語る人に「失望」をコメントさせたに過ぎません。しかもこのコメント者たちはこの「寄稿」が実はNYタイムズに寄稿したものではなく、鳩山氏が日本の月刊誌「Voice」9月号に寄稿した日本国内向け論文を、通信社が適当に抜粋して配信したものだということを知らなかった。ネタ元の精査なくあたかも「米国側」の代表のようにコメントするというチョンボは、研究者としていかがなものか。

もっとも、(前エントリーでも書きましたが)電子版でも「オプ・エド」という投稿ページでの掲載でしたから、鳩山氏の「寄稿」と勘違いするのもそう非難できません。でもなんだか変だった。なんでまたこんな時期(選挙直前の8月27日付)に唐突にこんなものをNYタイムズなんかに“寄稿”したのか意味がわからなかったからです。さらにおかしなことに、文末に「 Global Viewpoint/Tribune Media Service」と付記があった。これは通信社の配信を示唆します。テキストの冒頭には確かに「By Yukio Hatoyama」とあったが、それは筆者名のことであって寄稿ではないのではないか、と気づくべきでした。まあ、批判のネタを見つけたと気が急いたのでしょう。

さて、では実際の米側の受け止めはどうなのでしょうか?

米国の民主党は、腹芸の共和党に比べ、人権や環境問題などわりと大義名分や理想論を打ち出して行動する政党です。しかも外交というのは議論から始まります。核持ち込み密約など、異常だったこれまでの日米関係を正常化するためにもどんどん言葉を交わす、そんなディベートができる信頼関係が成立すれば、米国にとっても頼もしい日本であるはずなのです。つまり岡田外相に求められるのは、共同配信で「不安」とされた「行政感覚」などではなく、むしろ議論の能力なのです。

そのあたりを先日、東京新聞特報部の記事でコメントしたので、ここにも転載しておきます。

東京090905.jpg

September 02, 2009

鳩山論文 on NY Times

鳩山論文のNYタイムズ寄稿あるいは転載の問題、なんで日本のメディアはNYタイムズに直接聞かないんだろう? 聞けばすぐにわかるのに。

読売は次のように書いてるけど、これ、せっかく電話取材してるのに、意味わかんない。
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民主・鳩山氏「米紙論文、反米ではない」

 鳩山代表は31日、党本部で記者団に対し、米国のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された鳩山氏の論文が米国内の一部から批判されていることについて、「決して反米的な考え方を示したものではないことは、論文全体を読んでいただければわかる」と強調した。

 論文は、米国主導のグローバリズムや市場原理主義を批判し、アジア中心の経済体制の構築などを主張している。鳩山氏は「寄稿したわけではない。(日本の)雑誌に寄稿したものを、抜粋して載せたものだ」と述べた。論文は日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載されたもので、英訳は鳩山事務所で行ったという。同紙関係者は本紙の電話取材に対し、「紙幅に合わせて短縮し、いくつか不明瞭(めいりょう)な単語を変えたが、内容で本質的なことが編集で変えられたことは断じてない」と強調した。

(2009年8月31日22時04分 読売新聞)

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ね、何言いたいんだかわかんない記事でしょ。鳩山事務所が行った「英訳」ってのはVoiceの論文の英訳のことで、これはすでに鳩山サイトで公開済み。それを寄稿したのかしてないのか、って肝心部分をタイムズは応えてない(読売は聞いていない、あるいは字にしてない)し、そもそも「同紙関係者」ってだれよ? この記事、オレがデスクなら突っ返すわ。

とにかくあの“寄稿文”、NYタイムズの体裁では著者が By Yukio Hatoyama ってなってて、しかもOP-ED(opposite editorial page)っていう普通は寄稿などを載せるページに掲載してあるから、最初に報じた毎日が「鳩山側が寄稿した」ってとるのはまあ、宜なるかな、なんですがね、しかし、そういう寄稿文にしては不思議なことに、最後に「Global Viewpoint/Tribune Media Service」って添え書きがあるんですわ。これ、普通、コピーライトとか書き添える位置なんです。

これ、ウェブサイトからのスクリーンショットです。かの“寄稿文”の最後の部分です。
で、これにはね、「この論文のもっと長いバージョンは日本の月刊誌「Voice」9月号に掲載された」ってあるんですわ。これもおかしいわね。つまりこれが抜粋なのか、それとも端から長短2つのバージョンが用意されていて、それでこれはその鳩山本人が書いた短文バージョンなのか、ってこともわからん。

hatoyama_end.jpg


ですから、私としては、この、何気なく付記されている「Tribune Media Servise」がサービス(仲介)したんじゃないのかね、って思ってる。鳩山論文の英文はもともとあるわけだから、それをトリビューンの部局が鳩山事務所の了解を取るか取らずか、これは重要ってことで配信頒布した。で、トリビューンかNYタイムズが(読売は「同紙」って書いてたけど、わたしとしてはトリビューンが配信してるならふつうは前者だろうなあと思う)字数の関係でずいぶんと端折って(じゃっかん、英単語の入れ替えもあるようだけど)、アメリカに関係する議論のありそうな部分だけを抜粋した。鳩山事務所としてはそこまで明確に抜粋引用の条件を提示していなかった(これは甘いけどね)、って感じなのではないのだろうか?

しかし、それにしても、NYタイムズが「By Yukio Hatoyama」として彼が直接寄稿したような体裁にしたのは、これはほんと、まずいと思う。 それも、最後の「Global Viewpoint/Tribune Media Service」の付記を、何の説明もしていないというのも、姑息な感を否めない。それとも、こういうの、今までたくさんやっていて、慣例になっていることで、わたしがたまたま見逃し続けていたってことだけの話なのかもしれないですが。

だからこれは直接タイムズのOP-EDの担当者に取材すべきなんですわ。
わたしなんぞの個人がやっても時間かかるので、だれかやってくださいな。
てか、わたしこれから飛行機に乗ってまた東京なので、やれないのです。

ネットではいろいろとみなさん憶測で持論を展開しているが、そんなの屁にもならん。ちなみに、わたしの上記の憶測も、何の意味もないです。あしからず。

August 20, 2009

貧すれば鈍する

わたしはまあ、ウッドストック世代といいますか(ああ、先週末が40周年でしたね。これに関しても書きたいことがあったんだけど、時機を逸したかなあ)、ヒッピー世代とか、なんとでもいいんですけど、そうね、カウンター・カルチャー、対抗文化ってのを見てきて育ってきたせいか、既成概念を端から疑ってかかる傾向があるのは認めます。だから脱構築とか、そういうのに出遭ったときには、何の抵抗もなくそうだそうだおもしろいと食いついた口です。

で、というわけでしょう、国旗を切り刻んだって、それは、国旗というものはそういうもんでしょうと思うだけで、切り刻まれるのはなぜならそれが国旗だからであって、ただの布切れだったらだれも切り刻まない、というよりも切り刻んでもだれも問題にしないし、それは布切れの宿命であるわけですから、新聞沙汰にはならないです。

「国旗を切り刻んだ」という行為は、それ自体あらかじめ確信犯です。というか20世紀後半はそうでした。いまでもそうでしょう。そこには主張がある。沖縄の知花昌一さんが沖縄国体で日の丸を焼いたのは、あれは主張でした。国旗を焼くことで表現される主張。焼かねば表現されない主張です。焼くしかなかったわけです。

でももう1つの視点。
それは物神崇拝です。フェティシズムです。
「国旗を切り刻むなんて」「あなたはこんなことができますか?」という言説があふれているけど、そんなの、どうなんでしょう。大切なことでしょうか? ぼくはできるな。簡単。でも、それは国旗の象徴するものを切り刻むんじゃないし、国旗という仮装を纏った布切れを切り刻むだけだと思えばどうでもいいことです。いや、隠れキリシタンが、どうしてもマリアの像を踏めなかった。その心性は痛いほどわかります。でも、その歴史もじゅうじゅうわかっている。そのときに、その枠組みを超えることしか、踏み絵という抑圧を躱すことはできないと私たちはすでに学んでいるはずです。だから、いまは、マリアの像を、踏めるな。簡単に。そうでしょ? それが知性というものです。

ただ、で、民主党の、なんだっけ? 鹿児島で行われた立候補予定者の決起集会での日の丸切り貼り問題は、それほど哲学的でもないんじゃないかとは思うわけで、そんな、切羽詰まった命題ではないでしょう。確信犯じゃないんじゃないの?

日の丸切り貼り.jpg

でも、古森のおじちゃまのブログページには、出典も裏も取れないまま、こんなコメントが。

**
Commented by scottsdale さん
某サイトより転載します。

436 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 02:08:22
集会に参加した従兄からの情報
彼の周辺10名ぐらいの参加者が旗を見て、「ホント、やりよった」と、
檀上を指しながら大はしゃぎ、爆笑してたと。
その時従兄は何のことか、わからなかったとも言っていたが。

初から日の丸を侮辱するつもりで切り刻んでやると
計画的に作ったんだね。
気味悪いわ。民主党

162 :名無しさん@十周年:2009/08/18(火) 12:40:45 ID:viS8Ji000
民主の鹿児島支部の知り合いから聞いた話。
もともと支部にはきちんとした支部の旗は存在していた。
ただ、日教組の党員関係者がこういうの出そうよと提案。
一応支部長である議員にも話通す、面白いやってやれ。
と、いう感じで党ぐるみで行われていた。鳩山党首が
このこと知らないはずもなく、当然上にも報告が行っていた。
**

これに対して、当のおじちゃま、ジャーナリストらしからず、先ほど言ったように裏も確かめずに次のようなコメントを返す始末。

**
Commented by 古森義久 さん
scottsdale さん

日の丸の切り裂きをみて、「ホント、やりよった」と大はしゃぎ、ですか。

不気味ですね。
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耄碌したというわけではなく、古森のおじちゃまは以前からこういうところの恣意性が甘いんですけど、まあ、しょうがないか。

で、まあ、「ホント、やりよった」のだとしても、これはじつに程度の低い、ほんとうはまな板に載せるのも憚れるようなイタズラです。お巫山戯が過ぎるのもほどがある、で済む話でしょう。つまり、追及するにも筋が悪い。

でも突っ込みたいんでしょうなあ。自民党総裁ともあろう人が、17日の党首討論会でこれを指摘して「国旗を刻むとはどういうことか。信じたくない。とても悲しく許しがたい行為だ」。

そうか、悲しいですか。

で、20日もまた霧島市での街頭演説で「(民主党が)日の丸の旗をひっちゃぶいた。ふざけた話でしょうが。日の丸ですらきっちりできない」と。

筋が悪いこのエピソードを自民党がどこまで大げさに追及するのかわかりませんが、何が言いたいかというと、じつは国旗のことではありません。

民主党が政権を取るだろうことで、自民党の天下の陰に安穏と惰眠を貪っていた(一部はそれでも歯ぎしりしてたでしょうが)右翼が、むくむくと蠢き出すだろうということです。そうして、麻生自民党は、そんな彼らをも動員して票の目減りを止めようとする。あるいは次の跳ね板にしようとする。自民党の穏健勢力はこれを苦々しく思うのですが、脈々と続く自民党内の反動右派はこの政権交代を機にこうして先鋭化するに違いありません。こういうのを愚劣というのです。

同じことがじつはいま米国でも起きています。
オバマ政権の医療改革案に、右派勢力がオバマを社会主義者、ヒトラーと呼び慣わすものすごいキャンペーンを繰り広げています。各地で行われているタウンミーティングに、そうした右派勢力の代弁者が続々と送り込まれて協議をズタズタにしています。

米国で最も力のあるキリスト教原理主義運動の1つに、ザ・フェローシップ、あるいは「ザ・ファミリー」と称させる秘密主義の政治団体があります。ザ・ファミリーの熱心なメンバーには連邦議会議員、企業首脳、軍首脳、外国国家元首もいます。そこがいままた、反オバマに蠢いているのです。

民主党政権の誕生は同時に、日本の反動の再生でもあるのかもしれません。

ああ、忘れてました。
この鹿児島の国旗切り貼り問題を報じた産經新聞の記事ですが、次のような文章があります。

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 海外では国旗への侮辱行為に刑事罰を科す国も多い。

 フランスでは公衆の面前で国旗に侮辱行為をした場合、7500ユーロ(約100万円)の罰金刑を定めている。

 集会で同じ行為をすれば、加重刑として6カ月の拘禁刑が科せられる。中国やカナダ、ドイツ、イタリア、米国も国旗への冒涜(ぼうとく)や侮辱、損壊などに処罰規定を設けている。
**

米国では、この処罰規定は否定されています。
ベトナム反戦運動とか、いわゆる「確信犯」としての星条旗焼き捨て事件なんかが続発した歴史を持つ国です。1989年に連邦最高裁は次のように言いました。

「われわれは、国旗への冒瀆行為を罰することによって国旗を聖化することはしない。これを罰することは、この国旗の重要な象徴が表するところの自由を損なうことになる」

つまりね、アメリカの国旗が象徴するものはなによりも「自由」ということなのだ。だから、たとえその国旗を別の象徴(例えばアメリカ帝国主義の象徴とか)として焼き捨てるにしても、本来の象徴として国旗の中にある「自由」が、それを許すのだ、ということです。で、国旗を冒瀆する行為を処罰することは憲法違反だというの。すげえ。ねえ、かっこよくね?

これに対して連邦議会の保守勢力はやっきになって最高裁判決を法律で覆そうとする。で国旗冒瀆処罰法もまた出したりするけど、90年にはまたそれを憲法修正1条に違反するとした。2006年のブッシュ政権の時にも6月にまた憲法修正案で国旗冒瀆を許すまじとしようとしたけれど、これもまた上院で賛成が1票届かずに否決されたという経緯もあります。

産經新聞、ウソを書くなよなあ。

May 19, 2009

最悪の事態の想定

先生たちの目の届かないところで子供たちが遊んでケガでもしたら大変だからと、放課後の校庭から子供たちを閉め出したり、個人情報がどんなふうに悪用されるかわからないからとPTAの連絡網さえ作れない学校があります。

日本のTV番組に映り込む自動車は、神経質なくらいにナンバープレートにボカシが入るようになっていて、先日見た番組ではついに路線バスのナンバーまでがぼかされていました。

そういえば最近では日本のTVニュースでは街の人のコメントでも顔があまり映らなくなりました。事件や事故の周辺の証言でもみんな胸から下しか映りません。あれで守っている個人情報とは「顔」なんでしょうか?

だとしたら、大相撲中継とか野球中継で映り込む観客の人の顔にも、いずれボカシが入るようにならない理由がない。なにせ路線バスのナンバーまで隠すんですから。でもそれははて、一体どういう意図だったんでしょう。実際、グーグル日本のストリートビューでは通行人や住人の顔にボカシが入れられるようになりましたし。

一番悪い事態を想定してそれに備えた対策を講じる。例えばテレビに映った大変な高級車のナンバーから、陸運局なんかでその「お金持ち」の名前や住所までがわかってしまって泥棒被害に遭う恐れはあります。前述のストリートビューから表札や車のナンバーにボカシが入れられたのも同じ理由でしょう。事件の周辺住民のコメントの場合では最悪、犯人に逆恨みされてともすると狙われる恐れさえあるのかもしれません。でも事故現場の周辺住民のコメントの場合の顔隠しってのは、うーむ、何だろう?

最悪な事態を想定するのはべつに悪いことではないです。でも、そればかりに気を取られる過ぎると、なんか違うんじゃないかという気がするのです。

たとえば自分の子供とその友達も誘ってキャンプに行くとします。この場合、最悪の事態を想定すれば大変です。クマに襲われるかもしれないし(ええ、私は北海道出身です)、川で流されるかもしれない。いやもっとよくあることとして、木登りして落っこちてケガでもしたら、走って転んで骨でも折ったら、森に迷って遭難したら……。でもそんなことを考えていたらキャンプになんか連れて行けない。よそ様のお子さんを預かるなんてのももってのほかだ。で、結果、子供も親も、安全だけど楽しいこともうれしいこともない、そんなつまらない事態になってしまう。

回りくどかったですが言いたかったのはじつはまた豚フルーの話です。

そりゃ政府としては直近の課題として「最悪の事態」を想定した対策を講じてきたのでしょう。何事にも万全を期する。それが数十億円もかけた例の「水際作戦」の大騒ぎでした。そうしていま、海外の学会などでは日本人だけが軒並み欠席し、日本による海外イベントも軒並み中止。国内でも神戸まつりなど公共イベントは続々中止となり、公共施設の一時閉鎖の波も広がりつつあります。このままでは都市機能や経済活動までマヒしそうです。

行政としては最悪の事態を想定してかからないと、後でおおごとになったときに責任を問われてしまいます。だからハンカチ落しのハンカチをとにかく早く拾って早くだれかのもとに落とさなければならない。そうせざるを得ないのは、だからある意味わからないでもないのですが。

でもそうやっているうちに気づけばいつのまにか子供がひとりも遊んでいない校庭とボカシだらけのTV番組のような、最悪の想定におびえるだけで家に引き蘢っている、そんな神経症的な社会になってしまう。いや、すでにいま確実に、日本社会はそうなりつつあるんだと危惧するわけです。じつはそれこそが「最悪の事態」なのではないでしょうか。

そんなふうになってから急に舛添さんが「これは季節性のインフルエンザと変わらない」と火消しに回ったって、なかなか簡単にはもとには戻らない。だってそれまではあの深夜未明の記者会見とかさんざん騒いできたんですもの、いまさらしれっと「軽めの症状に合わせた対応に変えたい」って言っても、ほんとにそれでいいのかよ、って突っ込みたくもなるでしょう。初めからそう言って「落ち着け」メッセージを発していたらよかったんだけどねえ。

断食するときは断食してるような顔をするなって、聖書でしたっけ?
われわれは万全を期しているから、国民は落ち着いていてだいじょうぶ、って、そんな頼れる父権的な政府ってのもあんまり信用できないが、バタバタしてるばかりの麻生政権を見てると、つくづくものが見えてない場当たり的な政府なんだなあと思い知ります。

目先の対策と、大所高所からの判断、要はそのバランスの問題なんですがね。

May 16, 2009

患者A

せめてAさん、Aくんと呼んでやれ。
犯罪者でも〜容疑者と付くのに、「A」とはいえ呼び捨てかよ。
舛添も「後期高齢者」という造語を作った心ない厚生官僚のテキストをだだ読みするだけだ。

こういうところだよ、この国の冷たさは。

いつも引用する産経の宮田一雄記者は、こうした言語感覚の鈍感さについて日本時間5月14日午前0時すぎの時点で次のように指摘している。そう、「患者A」はまさに彼の指摘したものの同じ文脈上に、当然のものとしてある。

***

 どうも用語にいちいち引っかかるようで恐縮ですが、《濃厚接触者》という言い方はなんとかならないでしょうか。例えば、新型インフルエンザの患者と同じ飛行機に乗り合わせ、半径2メートル以内の座席に座っていた人はウイルスの飛沫感染の可能性があるということで、《濃厚接触者》になります。

 咳をしている人の隣の隣の席に座っていたら《濃厚接触》。こんな日本語、ありますか。濃厚な接触っていったら、裸になって抱き合うとか、激しくキスをするとか、なんかそんなイメージです。例えば直接の接触があったとしても、握手をしたぐらいで《濃厚接触》はないでしょう。さらに《者》までつくと、いかにも良くないことをしているイメージです。新聞記者とか(ちょっと違うか)。友達と話をしているだけで、なんでそんな言われ方をしなければならないの。

 《疑い例》だとか、新型インフルエンザ患者の《第一号》だとか、検疫を《すり抜ける》だとか・・・。挙げ句の果てに《濃厚接触者》では、どう考えたって非難のトーンがつきまといます。《近くに座っていた人》で十分ではないですか。

http://miyatak.iza.ne.jp/blog/entry/1035440/

May 13, 2009

水際作戦という欺瞞

日本に帰国する飛行機の中で、自分の座席の2メートル以内に発熱した人がいて、その人がもし新型インフルエンザ(豚フルー)の感染者・患者だったら自動的に10日間ホテルに隔離されるそうです。ホテル代は国持ちらしいですけど、帰国が10日以内の予定ならそれで日程のすべてを使って余りある(っていう日本語も変かしら?)。

根拠となっているのは検疫法。
でも、それを聞いただけでNYに住む私たちはげんなりしてしまいます。

これを日本政府は「水際作戦」と称して、新型フルーを日本に上陸させないための有効な手段として喧伝しています。でも、よく考えてみましょう。新型フルーにも潜伏期間があって、その間には発熱もしません。現在の第1次検疫はこの発熱の有無で行うので、潜伏期間の感染者は成田でも大阪でも停め置かれることなくスルーして日本国内に入ってしまいます。

水際作戦は、これでも政府の喧伝するようにウイルスの上陸阻止に「有効」なのでしょうか? むしろ確率を考えるとウイルスはすでに日本に入っていると思った方がいい。いや、百歩譲ってまだだとしても、いずれは入るでしょう。そういうもんです。したがって、水際作戦はそれほど「有効」ではないんです。

では、水際作戦はこの「上陸」を遅らせ、その間に国民にウイルス対策感染予防を周知させる猶予期間として有効活用できるから有用なのでしょうか? でも国民には「手洗い、うがいの励行」「人の集まる場所には行かない」「早めに病院へ」と言うだけで、こんな3つならもう周知されているでしょう。それ以上に連日の報道はパニックをあおるだけで、いたずらに国民をおびえさせているようにしか見えません。日本政府は、わが国民をそんなに脅されなければ動かない愚民と思っておるのかしら? おまけに、この間を利用して病院の態勢を整えることもできるはずなのに、脅されたせいか、ぎゃくに感染の疑いのある人たちを断る病院が出てきているという情けなさ。脅しても脅さなくてもダメってことです。

水際作戦はつまり、ウイルスの侵入を防ぐためのものとしてはまったく無効なのです。そうではなく、前回の繰り返しですけど、ウイルスは入り込むかもしれないが、しかし感染者を早期に発見し一刻も早くその彼・彼女を救うことができる、そうすればその彼・彼女からの二次感染も最小限にできる、という意味においてのみ有効なのです。

言ってみれば、水際作戦を排除の論理としてではなく、救済の論理として位置づける。これだけでも社会はずいぶんとやさしくなれます。そうは思いませんか? そういう国なら一時帰国したときに停留・隔離させされたって、ああ、ありがたいなあって思えるんじゃないでしょうか?

なのに、日本はまた排除に動いています。シカゴで6歳の男児が「日本人で初の感染」って、何がニュースなのでしょうか? で、日本のメディアがシカゴ市街の映像を流し、その子の通っていた日本人学校を取材する。それに何の意味があるのか? ほっといてやれよ、です。

実際、厚生労働省のウェブサイトのQ&Aでは、感染の疑いがあっても「健康監視されていることは秘密にしてもらえますか?」という問いに「検疫所と都道府県および保健所の担当者により、厳格に個人情報は保守されますので、御安心ください」と答えてます。なのに、外務大臣や厚生大臣がどこそこの誰それが感染と、まるで犯罪者扱い。おまけに成田での検疫も「この時期に海外に行く方が悪い」という輩がいたりと、また例の自己責任論なのか非国民扱いです。

何度でも言います。小沢騒動からこの前の草彅くんのとき狂騒といい、最近の日本、ちょっとおかしい。おかしいというより、危うい。

新型フルーは長期戦です。その作戦も立てずに最初からフルスロットルで突っ走っていれば、私たちはすぐにこのフルー情報に疲れ果てます。そのときです、本当の感染爆発が起きるのは。

何度でも言います。いまからでも遅くありません。長期戦としての態勢の立て直しを図るべきなのです。私たちはいつもと同じ生活を続ければよいと思います。いつもよりちょっとだけ健康と予防に注意して。無理をしないこの「ちょっと」が効果的なのです。

May 07, 2009

いい加減にしたらどうでしょうか?

はい、もちろん、例の「感染の疑い例」の逐一発表・報道のことです。
いまさっきも朝日が「ロスから帰国の男性、新型インフル陰性と判明」とオンライン版で速報です。
速報しなくちゃならないのは、そのまえに「都内でも疑い例、ロスから帰国した名古屋の男性」とやったからです。もちろん、これには都から厚生省にその「疑い例」が報告されたからで、それをいち早く厚生省が発表したからです。

これを見て、私はハンカチ落しを思い出しました。
成田でだれかがハンカチを見つける。そのハンカチをそこの係員が都の衛生局?に落とす。落とされた都は、このままでは大変と、それを国・厚生省の背中に落とす。厚生省はそれをそのままでは大変とメディアの前に落としてみせる。メディアは、ありゃりゃと、それを国民の前に落としてみせて、はい、これでゲームは終了。というか、責任は果たした、というわけです。責任ってのは、そういうもんでしょうか?

じつは朝日は2、3日前に東京本社で「疑い例は報道しない」というお達しが全記者に回されたのです。その意気や壮とすべし。ところがすぐにそれも朝令暮改。川崎だかどっかだかの女性がまた「疑い」となって、他社の横並び圧力に負けたのか、デスク間の連絡の不備か徹底の不完全か、翌日くらいにすぐまた字にしちゃった。

それと同じころ、確か東京都も「疑い例」はいちいち発表しない、と決めたんじゃなかったでしたっけ? それが都側の発表じゃあなくてそれを受けての厚生省のせいなのかもしれませんが、また「疑い例」がダダ漏れした。

オオカミ少年そのもののエピソードが続いています。
アメリカの感染者や死者のニュースだって、当のアメリカよりも日本の方が徹底して騒いでる。
これは「倒錯」と言います。
かならず、後世、というほどの後のことではなく、「あのときはひどかった」と新聞協会かなんかの討議で総括されることは目に見えているのに、それをやめられないのはただただ、各新聞社内に自社だけでもそれをやめようと統御できるだけの人材がいないからです。そりゃ会社員だし、では他にどんな有効な対処の仕方があるのか、対案もないしね。

ほんとに対案はないのでしょうか?

メディアとしては、とにかく感染例の第一号を国内で見つけるまではこのまま「疑い例」のいちいちをぜんぶ報道してゆく構えなんでしょう。というのも、かならずもうそろそろ見つかるころだと思っているからです。もうちょっとだ、もう少しの辛抱だ、あと少しのドタバタのみっともなさだ、というわけです。

でもねえ、本質的な問題はそれからなのでしょう。
そうやってはなからフルスロットルでぶっ放しちゃったら、息が続かないでしょう。ほんとうに大変なころにはもう豚インフルエンザの話なんかもう考えたくなってしまっていませんか? いや、メディアではなく、メディアに翻弄された読者・視聴者たちが、です。国民をそうやってどうでもいい情報に疲弊させてしまって、どうするのか?

もうそろそろ、「疑い例」はいいんじゃないか?
確定を発表する態勢でいいんじゃないでしょうか?
こないだの最初の高校生のときも、病院まで押し掛けて、というか、病院まで発表したんでしょう? そういうのはやめましょう。まったく必要ないもの。

いまからでも遅くありません。
これは、長期戦としての報道態勢を考えるべきです。国・政府自民党がバタバタしてるのを尻目に、メディアとして情報の整理をしつつ対処してゆく。情報統制ではなく、整理です。政府発表を報道しないのが怖いならせめて報道する際は「疑い例」の時はにベタにするとか、「今日の疑い例」みたいなワッペン囲みにしちゃうとか、それで「感染例」が発表された時にも感染者を追い回すことはしない、とか、決めてしまえばいいのです。これは報道の統御ではなく、報道者として覚悟を決めるということです。

それで、あくまでも医学的・科学的な今後の展望と対処を報道すればよいのであって、その感染者がどうだこうだは、必要最低限にとどめる覚悟。

アメリカでは、年間3万5千人がインフルエンザで死亡しています。まあ、これは超過死亡といって、間接的な原因も入っていますが、日本だって超過死亡では1万人以上死んだりしています。新型インフルエンザが蔓延すれば3、4万人が死ぬかもしれないとされていますからこれは大変なことですが、でも、われわれとしてはどうしようもない。せいぜい手を洗いうがいをし、という標準的な事前警戒(Standard Precaution)で対処する以外にない。人ごみに行かないようにって言われたって、行かねばならぬ時もあるわけでね。感染したら早期に民フル処方ですよ。それしかないですもの。死ぬときゃあ死ぬんだって、まあ、そこまで言ったらそれはその人の人生観に関係してくることになりますけど。

「水際作戦」という言葉から連想するのは、まるで侵入者を許さない、国内に入ってくるのを阻止する、ということですが、成田到着の飛行機の中で体温モニター使ってやっているあれ、侵入者を排除するという意味においてはほとんど何の意味もありません。感染者を国内に入れない、という目的でなら、あれは意味がないのです。なぜなら、インフルエンザにももちろん潜伏期間あって、あそこで熱出してなくても感染しているかもしれないんですから。

それでも水際作戦が有効だと言えるのは、それは「つかまえる」ためのものではないからなのです。あれは、1人でも多くの感染者たちを早めに救助するための手段としてなら、あるいはそのためにのみ、有効なのです。感染してるかもしれない人を、いち早く助ける、ためのものなんです。水際作戦とは本来そういうものであるべきだ、というのは、前々回のここで産経の宮田一雄記者の記事で紹介した「哲学」です。

それを履き違えて、あんな隠れキリシタン探しみたいなことやってるの、日本と韓国とイギリスくらいですか?
また6月に帰国するのですが、機内に2時間も3時間も居残りさせられるの、いやだなあ。
それだけで病気になりそうです。

May 02, 2009

魔女狩り

米から帰国のトヨタ社員、新型インフル疑いで検査…政府高官
5月1日23時28分配信 読売新聞

 政府高官は1日夜、米国から帰国した名古屋市のトヨタ自動車社員が、新型インフルエンザに感染した疑いで検査を受けていることを明らかにした。

 同高官によると、この社員は一次の簡易検査で陽性反応を示し、遺伝子検査(PCR検査)を行っているという。

***

新型インフルの感染否定=米国から帰国の男性−名古屋
5月1日23時51分配信 時事通信

 名古屋市は1日、米国から帰国後、発熱やせきなどの症状を訴えた30代の男性患者が簡易検査でA型インフルエンザの陽性反応を示し、市衛生研究所が遺伝子レベルの「PCR検査」を実施したところ、新型インフルエンザではないことが確認されたと発表した。 

****

横浜の高校生が終わったら、次はこれです。
昔のエイズ騒動とまったく同じ。
とにかく感染第一号を見つけなければメディアの狂想曲は終わらない。
というか、第一号をぶちあげたらそれで終わるのかしら。
100人くらいまでそれぞれに「また感染」「また感染」ってやるつもりなのでしょうか。

新聞社もテレビ局も、報道幹部、そういうこといまぜんぜん考えてないんだと思う。
止まらないんですね。 思考停止状態。

で、もっと考えると、これ、ぜんぶ政府発表なのね。
高校生のあの深夜の舛添会見といい、なんか、この政府、ずいぶんとバタバタしてませんか?
「やってます」アピールが過ぎる。選挙対策?でこんなパフォーマンスやられたら困るんです。

みっともない。
いやそれ以上に、危うい。

April 30, 2009

豚インフルエンザから新型インフルエンザへ

なんだか知らない間に、日本の報道は全部「新型インフルエンザ」になってしまいましたね。

「豚インフルエンザ」だと、豚肉加工業界が打撃を受けるかもしれないという風評被害回避の措置なんでしょうが、「新型インフルエンザ」だとこのウイルスの発生の理由が鳥だか豚だかはたまた何だか、わからんくなってしまうでしょうに。日本の政府の対応を見ていると(最近、わたし、このMacの上で日本の地上波テレビがオン・タイムで見られる無料ソフト=MacKeyHoleを入手しまして、きゅうに日本のテレビ事情に精通しております)、豚肉関連業界保護の姿勢がわざとらしいくらいに強調されていて、ちょっとなんだかなあって感じがします。もちろんその背後にはアメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉の圧力、つまりはアメリカ農務省からの要請や票田としての豚肉農家の思惑もあるんですが、こちらアメリカではまだそんな言い換えはしていません。Swine Flu は Swine Flu です。これってまた字面だけでごまかそうとする言葉狩りなんでしょうか。まったく、悪しき対応だと思います。

もう一点、日本の報道、とくにテレビは、一方で「正確な情報を」「落ち着いた対応を」と呼びかけてはいるくせに、その一方で豚フルーのニュースにおどろおどろしい効果音やら音楽ジングルをかぶせる。しかも例によって声優気取りのナレーションがまたまた低音恐怖フォントみたいなイントネーション。それはあまりにひどいんじゃないでしょうか? これは報道ですか? それともホラーですか? 視聴者を脅してどうするんでしょう。これをやめるだけでもずいぶんと「落ち着いた対応」が可能になるのではないでしょうか?

だって、まだ豚フルーの死者どころか感染者すら確認されていないのでしょう? 例の横浜の高校生にしたって、30日時点の簡易検査では陰性なのですし。なのにもう、アメリカよりもすごい騒ぎぶりです。アメリカの死者だって、じつは亡くなった男児は豚フルーの発症前から基礎疾患として免疫的な問題を持っていた子だったようです。

いや、この豚フルーが大した問題ではないと言っているのではありません。これは2つの意味で大変な問題です。それは後述しますが、ただ、大した問題ではあるが、同時にこういうのはパニックになってもどうにもならないんですね。どうしようもない。人ごみを避けるって言ったって、避けられない時だってあるでしょう。パンデミック、世界的蔓延の恐れ、と言ったって、これはあのエイズの場合と一緒で、いたずらに恐れて感染者の魔女狩りみたいなことになってもひどいでしょ? 現に、舛添厚生大臣が「横浜の高校生に感染の疑い」と、なんだか「情報の早期発表」なのか「フライング」なのかまたわからんような記者会見を行ったんで、ちょっと休んでる横浜の高校生みんな、あしたから大変ですよね。って、あ、ちょうど週末かつ黄金週間か。

そんなこと言ってもとにかくわかった段階で教えろ、というのは当然です。しかし、ああいう深夜1時半の、ドタバタした発表の仕方しかないもんでしょうか? もっとゆったりした顔で、ふつうに話せなかったものか? まあ、役者じゃなかったということですが、これは困ったもんだなあ。

この点を、産經新聞の宮田さんが的確に指摘していました。

http://sankei.jp.msn.com/life/body/090430/bdy0904300103001-n1.htm

「水際作戦とは感染した人の排除ではなく、可能な限り早い段階で治療を提供するためのものである」というのは、じつに重要な指摘だと思います。宮田さんは日本で最初期からエイズ問題を取材しつづけているベテランジャーナリストです。

ところで、冒頭部分で「アメリカやメキシコ、カナダからの輸入豚肉」と書きました。お気づきの方もいるでしょうが、この3国は、NAFTA(北米自由貿易協定)の3国です。昨日の「デモクラシー・ナウ」では、この豚インフルエンザを「NAFTAインフルエンザ」なのだとするこれまた重要な批判が掲載されています。

http://www.democracynow.org/2009/4/29/the_nafta_flu

つまり、豚フルーの背景には家畜産業革命と呼ぶべきものがあるというのです。第二次大戦前は米国でも家禽や豚というのは全米的に裏庭で育てられていたわけで、鶏の群れ(flock)というのは70羽単位で数えられていた。それが大戦後にはHolly Farms, Tyson, Perdueといった大手家禽精肉加工企業によって統合され、ここで家禽や養豚の産業構造は大きく変わることになり、いまは米国内の養鶏、養豚業は南東部の数州に限られるようになった。しかもそれらは大規模畜養で、70羽とじゃなくて3万羽とかの単位です。

このビジネスモデルは世界に広がり、1970年代には東アジアに拡大して、たとえばタイではCP Groupという世界第4位の家禽精肉加工企業が出来、その会社が今度は80年に中国が市場を開放した後に中国での家畜革命を起こすわけです。

そうやって、世界中に「家禽の大都市」「豚の大都市」が出来上がっていった。もちろんこれにはIMFとか世銀とかあるいは政府とかの財政的後押しもあって、借金まみれだった各国国内の弱小酪農家がどんどんと外部の、外国の農業ビジネス大企業に飲み込まれていくわけです。

そして1993年からのNAFTAがある。これがメキシコでの養鶏・養豚業に大きな影響を与えるわけです。結果、そこの支配したのは米国のSmithfield Foodsという企業の現地法人でした。ベラクルス州ラグロリアという小村にあるこの会社の大規模かつ劣悪な養豚環境が、今回のH1N1ウイルスの発生源とされているのです。そりゃそうですわね、なんらの規制も監視システムも設けないでそういう大型酪農工場を貧困国にどんどん設置していけば、何らかの疾病が起きたときにそれは人口過密の大都市で起きたのと同じく大量の二次感染、三次感染へと連鎖して、ウイルスの変異がどんどん進む。そのうちに鳥や人間のインフルエンザ・ウイルスとも混じり合って、やがて人間世界へ侵出してくるのは当然のことと思われます。

先に「2つの意味で大変な問題」と書いたのは、1つは今後の感染拡大の問題ですが、2つ目はこの、産業構造としての食品工業のことです。

つまり、まとめれば次のようなことです。

1)豚インフルエンザに騒いでもあわててもしょうがありません。感染する時は感染する。
2)感染したら早めに治療するだけの話です。
3)感染したからと言って回りがパニックになっても何の意味もありません。
4)元凶は、私たち人間の食を支える農業ビジネスの歪さかもしれませんね。
5)いずれにしても、ニュースにホラー映画まがいのナレーションや音楽や効果音をかぶせるのはもういい加減やめにしたほうがいいです。
6)日本政府も、水際作戦とやらの全力投球はいいけれど、後先考えずこんなんでずっと保つんですか? 疲れてしまってへたったときにふいっと感染爆発って起きるもんなんですよ。長期戦なりの作戦展開をして対応すべきでしょうに。


お時間があれば次のビデオクリップを見てください。
まあね、このクリップにも効果音楽が被されていますけどね。

上のは「Food Inc.」という映画の、下のは「Home」というドキュメンタリー映画の予告編です。


April 21, 2009

東京地検特捜部の衰退

あれはいったい何だったんでしょう?

小沢の公設第一秘書の起訴から1カ月が経とうとしています。で、なにも起こらない。二階の逮捕もどこに行っちゃったんだ?

当初、だれもが「特捜部は最終的にはトンネル献金による斡旋利得処罰法での立件を目指している。そうじゃなければやらない」と思っていました。でもそんな気配はありません。東京地検特捜部というのは、私の取材していたころとは様変わりして虎の威を借るなんとかに成り下がったのでしょうか? ほんとに政治資金規正法での起訴だけなのか? うそでしょ? ほんとだとしたら、なんでそんなバカみたいな先走りを見せちゃったわけですか? 泣く子も黙る東京地検特捜部までがいま悪しき官僚制度の頭でっかちな世間知らずのボンボンで占められちゃってるのかしら? 

当初、政治資金規正法違反という逮捕容疑が起訴の時点でも同じ罪状ならそれは検察の敗北だ、といろんな政治評論家がかまびすしく語っていました。そこにはもちろん「次は斡旋収賄で小沢本人だ」という“読み”があったからで、それこそがこれまでの特捜部のやり方だったからです。それがこの尻すぼみ……。

にもかかわらず、いま現在も小沢に自ら辞任決断をと迫る論調が続いています。その理由の最大のものは、「記者会見での小沢代表の説明では納得できないという世論が圧倒的だ」、というものです。

でもこれはおかしい。ちょっと考えてみると、この間の国民の小沢への疑問は、新聞やテレビで垂れ流された数多くの検察リーク情報を基にしています。たとえば東北で接待的な権力を誇るとされる小沢陣営の公共事業口利き「天の声」っていう話、陸山会のおかしな不動産取得のこと、西松建設への献金方法を具体的に指南したのは小沢の秘書だという話、小沢に献金しなければ村八分に合うという業者の話……等々。これらはすべて検察が立件を捨てたゴミ情報ですよ。しかし今回は検察回りの記者たちがさんざん書き散らした。とくにNHKと朝日がひどかったですね。NHKも朝日も、いやしかしどうでもいい話をよくもまあ。秘書が容疑を認めたって話は、どこに行ったんでしょう? そうやって世論の小沢イメージは形成されていったのです。

新聞記者仲間ではこういうのを「書き得」と呼びます。検察回り、警察回り、国税回り、そういう摘発関連の記者たちは夜ごと捜査当局を回っていろんな話を聞いてきます。で、立件できるほど証拠もないし筋が悪いさまざまな情報が日々、どんどんたまっていく。苦労して時間を使って集めたのに書けないわけですね。そういうのを、関連の摘発があるとどさくさにまぎれてここぞとばかりに吐き出すのです。まあ、つなぎの紙面を埋めるための記事も必要ですし、デスクは朝刊、夕刊、テレビの場合は朝のニュース昼のニュース、夜のニュースでなにかないか、面白い話はないかってうるさくせっつくわけですから、それにも応えられてちょうどいいわけです。つまり、報われなかった夜討ち朝駆けの苦労もこの吐き出しでカタルシスを迎えられるのです。

今回は、そういうゴミ情報を基に国民はなんだかわからない「疑惑」の印象を小沢に抱くようになった。というか、もしこれが国策捜査ならば、まさに自民党の思うつぼです。べつに小沢が逮捕されなくたっていい。似たような状況がメディアスクラムで作られてしまっている。

さて、問題はそこです。「会見での小沢説明では納得できない」という世論が圧倒的。これ、そもそも納得できるはずがないのです。なぜなら、小沢は、秘書の政治献金規正法の罪状だけではなく、じつはそれ以外に有象無象に垂れ流されたゴミ情報にまみれてしまっているの。そんなもの、いくら時間があっても説明なんかできるもんじゃない。あるいは説明する、釈明する義理だってないわけです。だって、立件されてない、裏のない話なんですから。おまけに秘書の罪状はトンネル献金だけです。その罪状さえ否認しているので、小沢としても公的には釈明のしようがない。せいぜい「世間を騒がせて申し訳ない」ということでしかない。それ以上謝ったら秘書の公判にまで影響が出てしまうからです。

これが「小沢の説明は納得いかない」のメカニズムです。「疑惑」を釈明すれば疑惑の存在を認めることにもなるから触れることもできない。だからどうしたって説明不足の印象だけが残る。そういう結論。一流の識者までがそのメカニズムを理解せずに「説明責任を果たしていない」と批判するのは的外れです。異様に企業献金が多い、というのだって、そういうシステムの中での集金マシンとしてのボス政治家像の好悪の問題です。企業献金が違法となっていない現行の司法制度の中では、それが多すぎるとしても罷免に値するものではないでしょう。

いや、私は、小沢に「辞めるな」と言っているわけではありません。
むしろ辞めた方が現状では政権交代に近いかもしれない。
しかし、これで辞めたら、何かが違うと思っているのです。

そうして小沢・民主党人気は沈没したままです。小沢沈没と同時に麻生内閣の支持率がまんまと回復しています。タイミングもよいことに日本では定額給付金の支給手続きも始まりました。高速道路の値引きもそうですが、選挙を前にしてこういうのは票をカネで買っているのとどう違うのか? もちろんそのカネはじつは自分のカネが戻っているだけというごまかしなのですが、政権政党とはこういう“不正”もレトリックという名のトリックでやり遂げられるのです。

だから私のこの文章は、敢えて小沢に甘いバイアスをかけて書いてます。私だって小沢には聞きたいことがたくさんあるし、政治家としてそういった、たとえ裏のない疑惑にでも答える責任はあると思いますよ。しかしそれ以上に、今回は麻生政権の問題と疑惑のほうが重篤だと思うからです。たとえばこう考えてみてください。政治資金規正法犯罪という形式犯罪で、小沢の秘書が通常のように(逮捕されずに)在宅で起訴されていたら、検察担当メディアがやいのやいの書き散らしたゴミ情報は出てこなかった。そうしたら麻生政権はいままで保っていたかどうか? 今回の秘書逮捕と起訴と、その間のメディアへの検察リークはまさに世論操作です。その証拠が麻生政権の支持率回復ですもの。そう、小沢が辞めたら、それは世論操作によって辞めることになる、という異和感です。

まあ、そんなこといまさら言ってもしょうがないのはしょうがない。世間は小沢にそういう印象を持つようにしむけられてしまったんだから。

ただね、そんなバイアスもなにもなく、客観的に見て麻生の残す日本の未来は大変だと思います。だって、この分じゃあ政権交代しても、民主党に残されているのは莫大な借金の後始末だけだっていうのは、私にはまぎれもない客観的事実だと思われるのですよ。

高速道路の値下げだって民主党が言ったときにゃそんなものは将来に禍根を残す天下の愚策だと切り捨てたのに、自分たちがそのアイディアをパクったときにはこれで消費行動に結びつくですもんね。金をばらまくだけばらまいて、さて、選挙がそろそろうごめき出しているようです。

まったくね、ものすごい権力闘争が、こうやって「あれはなんだったんでしょうね」ということになっちゃったんですね。

April 06, 2009

我慢のチキンレース

そりゃあミサイルが降ってくるとなれば誰だって慌てます。しかしもしそうだとしたら、そのときに為政者が準備すべきは、1つは落下あるいは攻撃地点の被害の予防と事後の救助、そしていま1つはミサイルを射った国との戦争です。

ところが日本政府はどうもその1つも真剣には準備していないようでした。迎撃用ミサイルは配備しましたが、「当たるわけない」と発言する高官までいてどこまで本気だったのか。というかそもそもこれが日本を狙っての「ミサイル」だったとはだれも信じてなかったんでしょう。つまり、この件はどこまで大変なことだったのか? 本当はそう大したことではなかったんじゃないのか?

日本のメディアはものすごい騒ぎでした。おまけに政府は発射の誤認と誤報騒ぎを2度まで起こして、私なんぞはこれでアジア各国に「日本はこれほどに平和国家。あなたの国を侵略する意図なんぞ微塵もありません」と宣伝する最高の材料だったと、いや冗談ではなく真面目にそう思いました。これこそが軍事に走る北朝鮮や中国に対する見事なアンチテーゼだと開き直ることです。

ところで北朝鮮という国の行動パタンはいつも決まっています。数年に1度、軍事的脅威で挑発して、国際社会がその暴走を止めようとさまざまな懐柔の餌を投げ与えてくるのを画策する。

今回のミサイルも、そもそも94年に問題となった核弾頭の原料となり得るプルトニウム生成の黒鉛減速炉から引き続くものです。このときのクリントン政権は北朝鮮の爆撃も検討しましたが、結局は特使のカーター元大統領が当時の金日成と会って代替の軽水炉を無償で建設してやるということになったのです。

とはいえ、それも何度もウラン濃縮計画を口にしたり黒鉛減速炉を再開したり、果ては国際原子力機関を脱退したり次には核拡散防止条約から脱退したり核兵器保有宣言をしたりで、軽水炉事業はついに05年11月に中止になりました。で、06年には核実験の強行です。

この一連の動きの中に今回のミサイル、というかロケットですわね、その発射があった。これは人工衛星だろうがなかろうが、テポドンの精度と射程が改善したことを国際的に見せびらかすためのものでした。おまけに北朝鮮は9日に最高人民会議、15日に故金日成の誕生日、25日には朝鮮人民軍の創設記念日を迎えます。これらを前に、金正日の健康不安で国内的な示威も必要でした。

つまり、今回のロケットでは北朝鮮としても切り離しの1段目ブースターなどを下手に日本本土に落とすわけには絶対にいかなかったのです。そんなことになったら本来の挑発・かく乱の意味がぶっ飛んでマジで大変なことになってしまいますから。日本政府中枢だってそのくらいは読んでいたでしょう。

ですので問題は今回ではない。次なのです。北朝鮮はしばらくは国内イベントで忙しいが、その後にどう動いてくるか? 弾道ミサイルの開発は今後、たしかに急速に進むでしょうから。

日本では早くも自民党の政治家から「北が核ミサイルなら日本も核武装すべき」という声が出ています。オバマが核軍縮に向けて米国の具体的な行動を宣言している時に日本が核兵器を持って何をしようというのか? 核兵器を持つこと、保管することは実際には技術的にとても難しいので、そんな一朝一夕に配備できるなんてことはまったくありませんからこれはブラフあるいは無知な発言なんですけれど、しかしそれにしてもそういう心情を吐露できてしまう野卑な政治状況というのはますます深化するかもしれません。

冒頭にも書きましたが、しかし政治家がまずは準備すべき被害の予防の最大のものとは、まさにそんな戦争をしたたかに事前回避することなんですね。そして上記のような短絡的な政治家の勇ましさは往々にそこに生きるわたしたち無辜の命を忘れがちなのです。それは北朝鮮政府と同じくらい始末が悪い。

で、戦争を回避するにはどうすべきか?
それはいまのところ、挑発には絶対に乗らない、ということしかないんだと思います。相手のチキンレースを受ける必要はまったくありません。メディアも、視聴率狙いでけたたましい番組や記事は作らんことです。もっとおとなになりましょうよ。だってこれは国家の安全保障にかかわることですもの。命がかかってる。ぎゃーぎゃー騒ぐやつは一番先に撃たれるんです。

表向きは騒がず、ときには無視もする。そして水面下で米韓と協調して探り合いを続ける。

でもね、最終的には北の体制を変えることしかないんだろうなあとは、みんなわかってるんだと思います。さてそれを、どうやるかですわ。知られないようにね。

March 17, 2009

死んでゆく新聞

NYタイムズの本社ビルの一部が売りに出されたり、有名なサンフランシスコ・クロニクル紙が廃刊しそうだとかある新聞は全部オンラインに移行するだとか、「旧メディア」としての新聞の危機が叫ばれています。とはいえ、心配しているのはわたしたち新聞に関わっている者たちだけかもしれません。42%のアメリカ人は自分の住む町からそこの地方紙がなくなっても困らないと答えたことが最近の世論調査で明らかになりました。

べつにアメリカに限った話ではありません。日本でも新聞離れが言われて久しいし、じっさい、若者たちはニュースのほとんどを無料のオンライン新聞で得ています。あるいはニュースそのものをどこからも得ていないのかもしれませんが。

先月、創刊150周年を目前にしたコロラド州デンバーのロッキーマウンテン・ニューズ紙が廃刊に追い込まれました。最終発行日のその日、同紙のウェブサイトには「ファイナル・エディション(最終号)」と称して同社編集部の様子や記者・従業員へのインタビューが動画で掲載されました。

20分ほどのそのビデオで、ある記者が悲しそうな顔で訴えていました。

「新聞がなくなったらこれから誰が質問するんだ? ブロガーは質問なんかしないよ。それでいいのか?」

新聞はこれまで、莫大な金と時間を投資して有意の若者たちを訓練し一丁前のジャーナリストに育て上げてきました。時の権力のさまざまな形に「質問」の力で対峙できるように訓練してきたのです。新聞はしばしば「ペン」に喩えられますが、ペンよりも以前に権力の不正や怠慢や欺瞞を見逃さずに質問し調べ上げる「取材」の力によって支えられていたのです。もちろんその途中で権力にすり寄ったり自分を権力と同一化して弱い者いじめに加担するエセ・ジャーナリストも数多く生まれましたが、勘違いするやつが生まれるのはどの業界でもまあだいたい同じようなもんでしょう。

とにかくいまインターネット上にはそうして得られた情報が無料で開示されています。そうしてそれらを基に、多くの第2次、第3次情報が取材調査もしない手先の情報処理だけでえんえんと生み出されている。

そこには「ペン」だけがあって、その事実を支える種々の努力が欠如しがちです。そうすると何が起こるか? 「ペンは剣よりも強し」ではなく、ペンは剣と同じくひとを傷つける怖いものにも成り果てる。それは「2ちゃんねる」などの中の一部掲示板で繰り広げられる「あらし」や「まつり」にも如実に表れています。先日の日テレの「バンキシャ」虚偽証言タレナガシ岐阜県庁裏金作り報道も、結局はネット情報だけでやっちゃった結果なんでしょう?

だれが事実を検証するのか? だれが権力に対峙できるだけの知識と手法とを駆使して真実を知らせるのか? それはよほどの「ブロガー」でなければできないでしょう。もちろんそれは、よほどのジャーナリストでなければできないことでもありますが、「よほどのブロガー」はそんな「よほどのジャーナリスト」たちの第1次情報をネタ元の1つにしているのも確かなのです。

新聞を殺してもよいのか? そんな問いはしかし無効です。新聞はいずれ死にます。さらに、新聞が何ほどのもんだという批判もあるでしょう。しかし社会構造として新聞社が組織的に担っていた対抗権力の大量生産能力には小さからぬ意義があったと思うのです。

そうやって新聞が行ってきたジャーナリストの製造、つまり「質問」と「調査」の新しい担い手を、わたしたちの社会は早急に見つけ出さねば、あるいは育て上げねばならないのだと思います。

無理かもしれませんけどね。

March 07, 2009

類似性

ちょいと酔っぱらって頭が働いた。
小沢のことを言うわけではないんですが。

辻元清美の話。
あれは秘書給与流用詐欺と言われた事件で、そういうのは、みんなじつは便法としてどの国会議員もやっていた。その仕組みを、辻元は歴代の政界の手法として教わってそのままそういうもんだと思って自分の秘書の給料を回していたのですね。それが、いつかなんとなく違法だとなって、いや違法だというのは違法だったんだが、違法でかつ摘発される、ということになって、それで逮捕された。 それまでは違法だがしかし、摘発=強制捜査には至らなかったのです。

あのね、司法というのは、取り締まりだけではなく、という以上に、取り締まる以前に犯罪の予防を行えばそれが最善なわけですわ。なぜなら、訴追費用はもっと節約できるし、なにより、犯罪を事前に回避できればそれはとても倫理的な予防行為になるから。それが慣例的に行われていて明確な犯意というものがなかったらなおさらです。たとえばそれは田舎の農家での未成年の無免許運転とか、ある地域でのどぶろく造りとか、と同じようなもん。その地域の特殊性。この辻元の場合は政界という伏魔殿の特殊性。

そこにも手が入るんだぞ、なぜならこれが近代国家だからだ、と強制捜査踏み切りの基準を変えたことをまずは宣言、とまではいかずともなんとなく周知させねば、なんでいままで造ってたどぶろくが急に重大犯罪扱いになって摘発されるのか、戸惑うだろう。「容疑は容疑だ」と言われればまさにそのとおりではあるにもかかわらず。

そうすることなく掌を返して引っ掛けるのはワナですわ。ワナとは、明確な恣意性の認識の下で、特定の標的を狙って仕掛けるものです。

これが、何より今回の東京地検特捜部のおかしなところ。森喜朗とか二階とか(二階は小沢のかつての腹心だった=同じ手法を知っていた)、そういうところを捕まえたり捕まえなかったりの恣意性は、ワナであるという、ここに起因するわけです。

だから何が言いたいのかというと、辻元の逮捕と、今回の小沢秘書の逮捕は、とてもよく似ているってことです。まあ、もっと奥があるのか、つまり受託収賄にまで発展するのかわからんが、これまでのところ、小沢の反応を見ていると「おいおい、それはないだろう」という部分が大ですもんね。

民主党が政権を取ると、自民党だけでなく、官僚組織も面倒なことになるのは確かで、そのあたりの魑魅魍魎も今回の小沢陣営強制捜査の裏でうごめいているのかもしれませんな。

March 06, 2009

なるほど麻生が粘ったわけだ

わたしはべつに民主党の支持者でも小沢の信奉者でもありません。ただ、自民党からの政権交代が逐次行われるような政治体制でないとダメだとかねてから思っていて、そのために多少の瑕疵には目をつぶっても民主党の政権を作ることのメリットのほうが大きいと思っています(あの、なんで民主党にいるのかわからない、自民党のスパイみたいな薄ら笑い前原は好きになれんが)。

いわゆる自民党的なるものというのは、すでに賞味期限を過ぎて、日本の政治には新しい流れであるとか新しいパラダイムというのが差し挟まれなければどうにも機能不全なのだという思いが強いです。それこそがとにかく日本という国家のためであるという信念は揺るぎません。しかし、自民党はそうじゃないらしい。自分たちが政権に固執していることこそが日本のためという振りをして、それはしょせん自分たちの保身のためでしかないことは明らかです。なぜなら、彼らのいうのはいつも「このままでは選挙を戦えない」であり、「このままでは日本はダメになる」という発想ではいちどもないからです。

麻生が二進も三進も行かなくなって、解散も内閣改造も、そして選挙すらもできない、という状況であるのは確かなのですが、しかしこのところの政権へのしがみつき具合はいったい何なのか、と疑問に思っていました。予算、補正、給付金、二次補正と、とにかく隙を与えずに次の飛び石に向けて邁進する。先の見えないこのガムシャラぶりはいつか破綻すると決まっていたのですが、なるほどそれもこれもすべて、この東京地検特捜部の動きと連動していたわけです。

しかし東京地検特捜部も、今回はえげつないことをしたものです。
特捜部の捜査というのはいつもかならず政治的なものです。「巨悪を眠らせない」といったあの時代も、じつは巨悪だけでなく小悪も中悪も、いろいろと目配りして手や口を突っ込んでいて、それは国民の雰囲気を読みながら刑法を背景にしたもうひとつの政府だったのです。しかし、これまではつねに「選挙」には細心の注意を払って、そこへ腕を突っ込むような、刑法によるあからさまな政治的介入だけは避けてきたはずです。むかし、私が新聞記者だった時は、選挙があるときは警察・検察は敢えて動かない、と教えられたものなのに。すべては選挙のあとだ、と。なのに、今回は選挙の前にこれをやった。

確かに一部が今月末で時効となる事案だったかもしれません。しかし、そうであったとしても「この種の捜査で逮捕者を出したことなどない」と言う小沢の指摘は正しいものです。なのにこれをやった。そういえば、司法が自民党の保身に加担するようになったこの傾向は、あの辻元清美が(政治家ならだれでもやっていた、そして辻元はまだやっていた、というのに過ぎなかった)秘書給与流用で警視庁捜査2課に逮捕されたころからでしょうか。「あくまでも容疑があれば捜査をするだけ」という建前が建前であることは司法というものを少しだけでも知っている者ならだれでも知っています。それが社会的にどういう意味を持つか、それが国民のどれだけの支持を得るか、その捜査がどれだけ勧善懲悪の顔をしているか、そのへんをいろいろと計算して強制捜査に入るのです。

そうやって眺めると、東京地検特捜部を指揮するいまの法務大臣は麻生派の森英介です。
こいつ、こないだ東京に帰った時の鮨屋でたまたま同じカウンターに座ったんだが、魚は養殖がいいとか、何を言ってるんだかわからんことを披瀝して、聞いていてこちらが恥ずかしくなってしまった。一応相手が権力者だから言うけど、この男は、バカである。
さて、とにかくもそういうわけで麻生は西松捜査が小沢に向かうことを知っていたわけで、とにかくそこまで生き延びれば起死回生の一手となる、とふんだわけなのです。それまではとにかく国会審議と外遊(アメリカに次いで、すぐに中国です)を連発してつないでいく。なるほど、権力というのはかくもえげつなく恐ろしい。それを知ると情けなくもしかたないが。

小沢への強制捜査はあるのでしょうか?
しかし、こうやって新聞社を離れて見ると、新聞報道もかなりいい加減です。検察リークを基にしてしか書いてない。以前からそういうもんではあったのですが、司法からのリークは裏を取る必要なく記事になるので、なるほどこれも政権への補強と傾くのは当然なんですね。
いやはや、これで小沢の首を取れなかったら、検察当局は次は首相になった小沢から大粛清を食らうでしょう。なぜってリーク情報で言えばこれは明らかに大規模な受託贈収賄事件なんですからね。
双方、命がけの攻防です。

面白いと言えば面白いが、その間にも日本はどんどんと腐ってゆくんだなあ。
疑惑が本当なら、小沢も二重に罪なことをしたことになります。
そうじゃなきゃ、麻生・自民党こそが諸悪の根源ということです。

November 27, 2008

ウニタの遠藤さん、死去

ウニタ書舗の元店主遠藤忠夫さんの訃報があった。

エリカっていう神田の薄暗い喫茶店で、よく話を聞いたなあ。
あの店、まだあるのかしら。

20年前の当時のぼくは警視庁の公安担当で、遠藤さんには取材で会う必要があったのだけれど、この歴戦の目撃者は妙にひょうひょうとしていてタバコなんぞをくゆらしながら新左翼の連中を温かく批判していた。当時は彼がゆいいつ重信房子なんかの日本赤軍とのパイプ役で、「こないだ重信に会いに行ってきたんだけど」と彼の語るベカー高原だとかゴラン高原だとかは、いまよりもはるかに少ない情報の中で妄想に近い地形となってぼくの頭の中で黄土色の風を吹かせていた。

そういえば彼は北朝鮮の赤軍の連中ともパイプを持っていた。あの大韓航空機爆破事件の蜂谷真由美こと金賢姫の一件でもずいぶんと裏の話を聞いた。あのころの公安は丸岡の逮捕とか泉水の逮捕とか、中核の圧力釜爆弾とか革労協のロケット弾とかスパイ事件もあって、なんでとつぜん思い出したように忙しかったんだろう。 そういえばあれが昭和の終わりだったんだ。

新聞記者のいいところは、新聞記者であるってことだけで業務と関係なくともいろんな人の話を聞けたことだった。記事にならない百万のエピソード。むしろそのほうが大切だったような気がする。

そういう意味では会社勤めのジャーナリストというのはかなり恵まれている。書かないときでも給料をもらえるんだから。わたしもその恩恵をずいぶんと受けてきた。いまでもそれが貯金だし。減らないし。ただ、アップデートは難しいかな。

遠藤さん、享年83歳。
そうか、あのころ遠藤さん、62、3だったんだ。
合掌。

November 22, 2008

おだつ政治家

バラク・オバマの希望と展望と緊張感に溢れた演説に慣れてしまったせいか、日本の首相である麻生太郎の話し振りを聞いているとなんだかグッタリします。「(医者は)社会的常識がかなり欠落している人が多い。とにかくものすごく価値観が違う」という例の発言をあげつらっているわけじゃないんですがね。

「ものすごく価値観が違う」のは(敢えてカテゴライズすれば)医者に限らず高級レストラン通いの麻生さんを筆頭に政治家も似たり寄ったりで、過去、何人かの政治家にインタビューした際もときに開いた口が塞がらなかったことがありましたし、よく言うわ、という感じ。

それよりこないだのワシントンでのG20金融サミットの麻生の記者会見。

英語の話せる日本の政治家というのは、英語になると日本語よりも上機嫌で受け答えする傾向があるようで、私の知るかぎり例外は故・宮澤喜一だけ。宮沢喜一は英語になると逆により慎重かつ的確に受け答えして浮ついたところがなかった。でもこないだの麻生さん、外国人記者の質問にはニコニコと妙にうれしそうで、しかも「通訳が精確に伝えてくれるといいんですが」と、それが気の利いたコメントかのように2回も付け加えた。2回目はなんだかへんな英語も添えて(distort という結構な単語と、okay? というくだけた口語とがなんともチグハグでね)。ダシに使われたプロの通訳さんもお気の毒というかなんというか。

麻生は景気対策第1と言いながら第2次補正予算を出さないとか、解散先送りで延命ばかりだとか、まあ、そういう難しい話はさておき、私にはどうもこの人の性格がよくわからんのですわ。北海道弁で「おだつ」という方言(動詞)があるんですが、麻生太郎を見てるといつも「何ひとりでおだってるんだろう」と思ってしまうんです。

「おだつ」とは「調子に乗る」とか「はしゃぐ」とか、特に子供が大人のウケをねらって必要以上に目立とうとふざける、みたいな意味です。

68歳の政治家を捕まえて「子供みたい」というのもナンだけど、この人、ほんとにおだった言動が目立つ。秋葉原でオタク相手におだてるのは人気取りが宿命の政治家のパフォーマンスとしても、首相ぶら下がり取材の報道陣へのコメントでやたら新聞記者を皮肉ったり挑発したりするのも大人げない。べらんめえ調っぽい言葉遣いだってなんだか下品な方に流れるし、演説はやたらドスが利いてるがさっぱり高邁さが窺えない。ほんとうにいわれてるような上流階級の出とは思えない。ってか、上流階級ってったってみんな明治維新からの政治成金だしなあ。オダツのも宜なるかな。

あの総額2兆円の定額給付金構想にしても私には竹下内閣時の全国市区町村1億円ばらまきふるさと創世資金みたいな愚策に思えて仕方ないんです。これだってどうも熟慮というよりおだった結果の思いつきなんじゃないのか。ホント、自民党はいつからこんな子供じみた政党に成り果てたのか。民主党は、あれ、反対すべきです。

あ〜あ、と思ってテレビをつけたら、TVジャパンでやっている数カ月遅れの「笑点」では、アンジャッシュっていうなんだか知らん若手のコントのコンビが、「わたしカツラなのだしかもゲイよ」だなんてバカみたいなネタで5分間もいたずらに持ち時間をもたしてます。カツラの人間をからかって面白がるのは小学生くらいでしょう。そんでいまもまだ「ゲイ」ネタです。「若手」であることに、なんの意味があるのか。若手というのは、時代の新しさを背景にしているはずではないのか。なのにこれじゃただのバカじゃないですか。

この首相にしてこのコントあり。
日本はいったい何をしてるんだろー。

November 05, 2008

オバマ勝利と日本の外交

オバマの勝利演説を聴きながら、選挙ウォッチパーティーを開いていた友人たちが静かに涙を流していました。ボストン大学で先生をやっているやつが私の横に来て「この国もまだ捨てたもんじゃないだろう」と言います。それにうなずきながら、こういう演説のできる大統領を持つアメリカを少しうらやましく思いました。日本にはこんな政治家はいないなあ。小泉は私語がうまかっただけで、演説はうまくはなかったし。

アメリカというのはこうして4年に1度、やり直しのチャンスというか、ダイナミズムの更新というか、そんなモメンタムを作るわけですね。政体自体がそっくり入れ替わるんですから、そりゃすごいもんです。ただ米民主党政権というのは歴代どうも「日本に冷たく中国を重視する」傾向にあると言われてまして、それを心配する向きもあります。しかし考えてみてください。共和党ブッシュの8年間だって小泉政権の時は9・11の余波のゴタゴタの中でなんだかうまく行っていた、ように見えただけで現在は結局、対北朝鮮宥和政策への転換で面目丸つぶれです。米国が日本のご機嫌を見ながら外交政策を変えたことなどいちどもありません。米国はあくまで時刻の国益でしか動きません。そのアメリカの国益を、日本はさっぱり誘導できてこなかったのです。外交官たちの説得下手というか、ディベイト下手というか、しかしこれはよくよく考えれば元は日本の自民党政権の問題なのだと思います。

日本の外務省ももちろん現在、ワシントンを中心に次期政権のブレインになると目される人たちに盛んに接触中です。オバマの対日ブレインには東アジア専門家のジェフリー・ベイダーや日本の防衛研究所にいたマイケル・シファー、日本生活も長くボーイング・ジャパン社長だったロバート・オアーらがそろっています。経済分野ではブルッキングズ研究所にいたジェイソン・ファーマンなんかもいます。さらにはオバマのこと、超党派で共和党もブレインも入ってくるかもしれません。

しかし日本側の政権がこうもコロコロ変わるせいで米側には彼ら外務官僚たちの背後に控えているはずの政治家たちがよく見えない(もっとも、見えたところでロクでもないやツラばかりですが)。そんなことで外交官だけを相手にまともに話し合おうと思うか? ふつう、思いませんわね。それも、こういうのってものすごく個人的な力量ってのが必要で、パーティーに行ってうまく話せるか、演技できるか、っていうような人間性にも関わる才能が必要なんですね。そういうの、できない役人が多すぎる(役人だけじゃなく日本人全般がそうなんですが)。その間に日米関係はそうして私的な斟酌や腹芸の取り入るスキなく、どんどん建前の議論で(これをやらせたらああ言えばこう言うのアメリカ人にかなう者はきっといません)米国主導で押し切られることになるのが常なのです。


新政権はまずは米国内の経済危機に取り組むでしょうが、その一方でイラク戦争撤兵からアフガン戦争増派へのシフト、テロ対策などは公約のタイムテーブルどおりに進めなくてはなりません。

この場合、外交とは米国にとっては安全保障の問題にほかならないのです。それは日本にとっては思いやり予算などを含む従来の基地問題やアフガン戦争支援のインド洋給油問題です。これらはたとえオバマ政権になったとしてもなんら変更を認めないでしょう。さっきも書いたようにアメリカはアメリカのことしか考えていませんから、あるいはこの財政危機でさらなる物的・人的支援だって要求してくるでしょう。オバマはブッシュ政権の一国行動主義からの転換を謳って「国際協調」という名の責任分担を図るでしょうから。

そんな中で、日本の対米外交はどう対応すればよいのでしょう。米国に押し切られるばかりなのでしょうか?

ここに来て、どうして日本がいつも米国の言いなりにならざるを得ないのかわかってきます。それは日米同盟、日米安全保障という政治的取り決めが、日本国憲法を上書きしているという倒錯のせいなのです。

日本は、日本の平和憲法を対欧米外交の切り札として使ったことがありません。海外への自衛隊派遣の困難の「言い訳」「言い逃れ」として使ったことは何度もありますが、外交の「背骨」として使ったことは一度もない。憲法のことになると遠慮がちに口ごもる、そんな外交なのです。で、安全保障に関してはその都度の対症療法で逃れてきたわけですよ。

こんなんでまともな外交ができるわけがありません。これは自民党が平和憲法をなおざりにしてきたそのツケが貯まったものです。そんなヘドロの中で泳がねばならない外務官僚にはお気の毒と言うしかありません。

この倒錯を解消する道は2つあります。平和憲法を正々堂々と盾にして、環境対策と復興支援を安全保障の中心に据える新機軸を構築・宣言すること。それは20世紀的ではないので旧態依然の国際政治においてとても受けは悪いでしょうが、可能なのです。倒錯解消のもう1つの道は、平和憲法そのものをやめちゃうことです。こっちの方が簡単だが、その以後がかえって大変で、簡単そうに見えてじつはこれは不可能なのです。

それともまだのらりくらりで乗り越えようとするのでしょうか。
まったく、自民党政治までが役所仕事のようになっているんですね。

米国はオバマに変革の希望を託しました。
日本の政治変革はいつ起きるのでしょう。
で、総選挙、どこに行っちゃったんでしょうか?

October 23, 2008

ホテルのバー

東京新聞の一面コラムの筆洗に、麻生のホテルのバー通いとか高額フレンチ通いだとかを揶揄してつぎのようなテキストが載りました。21日付ですか。


 寒さに震える日がいつの間にか増えてきた。お酒が好きな人なら、熱燗(あつかん)一本となるのだろう。江戸川柳には<二日酔飲んだ所を考える>とある。昔も今も飲み過ぎには要注意である▼昨夜の記憶が不確かだとしても、飲んだ所を考える必要がない人もいる。家族への言い訳もいらない。麻生太郎首相のことだ。二面には毎日『首相の一日』が載っている▼例えば日曜日。午後六時十四分から東京・内幸町の帝国ホテルで秘書官と食事し、引き続きホテル内のバーで打ち合わせをしたとある。私邸着は十時四十六分。平日に比べると、早い方の帰宅になる▼昼間は西早稲田のスーパーの店内を視察。その後、JR高田馬場駅前で客待ち中のタクシー運転手と懇談した。人々の生活を心配している姿勢を訴える狙いがあった。それなら夜はつましくした方が…と思うのだが、首相は生活スタイルを崩さぬ主義らしい▼就任以来の『首相の一日』を読み返すと六本木や赤坂、広尾での夕食、一流ホテルのバーでの「打ち合わせ」が多い。首相側の説明では「激務のストレスを発散している」のだという▼それなら自分も同じだと、つぶやいている人もいよう。ただし周囲を見渡すと、今までよりも外食やお酒を控えている人が目立つ。財布の中身を考えた結果である。つらさが首相に分かるのか。素朴な疑問が頭をもたげる。

産經新聞でも次の記事です。これは23日。

麻生太郎首相は24日に就任1カ月を迎えるが、連夜のように帝国ホテルの高級会員制バーなどでの会合に繰り出している。景気低迷に国民は青息吐息の状況で政府・与党も総合経済対策のとりまとめに躍起になっている最中のこと。会合とはいえ、世論に首相の感覚のズレを問う声も出始めているのは事実だ。これに対し首相は22日、記者団の執拗(しつよう)な“追及”に激怒し、「ホテルのバーは安い」「営業妨害だ」などとぶち切れた。首相の言い分は国民の胸にどう響くのか。

 首相が就任後から21日までに、私邸にそのまま帰宅したのは、わずか4日にとどまる。夜の会合が“日課”となっているわけだが、2軒、3軒とハシゴすることも珍しくない。就任以来、立ち寄ったレストランやバーなどでの外食は延べ32回で、平均帰宅時刻も午後10時53分となっている。「料亭通い」が批判された森喜朗元首相でさえ、就任後1カ月間の外食は延べ13回だった。

 麻生首相が会合に利用するのは、首相官邸にほど近い帝国ホテルやホテルオークラなどにある高級バーが多く、目的はもっぱら官房副長官や秘書官らとの打ち合わせや会食と発表されている。しかし、自民党内からも「こんなご時世に毎夜、高級店で会合を開くことはなかろう」(中堅)といった声も出ている。

 だが、首相は意に介さない。22日、記者団に「庶民の感覚とかけ離れているのでは」と問われ、「ホテルのバーは安全で安い」と反論し、費用も「自分で払っている」と強調してみせた。さらに、いきり立って記者に「営業妨害して平気か。いま聞いているんだよ。答えろ」と逆質問する一幕もあった。

 周辺によると、首相は就任前から「執務後にバーやラウンジでブランデーを一杯、葉巻をくゆらしてクールダウンしないと帰宅しても休めない体質」。公式には秘書官と2人で食事といわれていた16日には、中華料理店で中川昭一財務相らが同席していたことも判明した。

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「周囲を見渡すと、今までよりも外食やお酒を控えている人が目立つ。財布の中身を考えた結果である。つらさが首相に分かるのか。素朴な疑問が頭をもたげる。」だとか、「庶民の感覚とかけ離れているのでは」と問う記者団だとか、「これまでも「庶民感覚とのズレ」を指摘する声」だとか、なんだか貧相な当てこすりですなあ。朝日もたしか同じようなことを書いていたっけ。まあ、そういう視点で書くのが一番書きやすいのでしょうが、一国の首相がまさか焼き鳥屋で懇談しても、焼き鳥屋のほうが迷惑でしょうし、隣の客もそんなのいやだろうねえ。SPとかさ、取り巻きがいっぱいで落ち着いて飲んでもいられねえ。

ホテルのバーが安い、ってのはそりゃ、料亭と比べれば安いっていう話で、そこを揚げ足取ったってしょうがないでしょう。一杯1000円以上するのが安いかどうかって議論しても始まらないの。

そんなチマチマしたところを批判してもしょうがない、というなら、では何が問題か? 問題は、麻生はそういう人だってことですわ。政治家の家に「名門」ってのがあるかどうかは知らんが、いわゆる何世議員なの、彼? はたまたどうして政治家の家系が資産家になれるのかも不明だが、そういう資産家政治家の家の坊ちゃんを首相に据えたというこの自民党政治の問題なんですよね。

庶民感覚とのずれ、というのは金銭感覚よりも、そういう高級フレンチ通い(それも時には家族で)、ホテル通い、バー通いをみ〜んなに知られる立場にあるのに、それをみ〜んながどう思うか、いさかかも意に介さない、という点なんだと思いますよ。そんで、それを記者に指摘されても、「あはは、やっぱ、世の中に合わせてわたしも自粛かなあ」なんて軽くかわせないで、「ぶち切れ」(産經新聞)ちゃうという、その狭量さなんだわなあ。

麻生って、ときどきガキみたいなんです。坊ちゃんというより、自己主張ばかりのガキ。お坊ちゃんならもっと鷹揚に「あら、そういわれりゃそうだなあ、悪かったなあ」と言ってみせるくらいがかっこいいのに、こいつはカッとなって売り言葉に買い言葉みたいになる。ほんとはこいつ、自分に自信がないんだと思いますね。「いかがなものか」とか「と自分は思うわけであります」とか、「オレ」とか、かなり定型句を頻用するのは典型的な自信なさげ男のパタンですわ。

ホテルのバー通いも、もっと目立たないようにやれよ。フレンチレストランでワイン空けたって書かれないように配慮しろよ。番記者が付いててそれが無理なら、お忍びで違うところでやれよ。まだ他に隠れ処レストランもバーもあるでしょに。

まあ、恋愛といっしょでね、レストランもひとが見てるから楽しいってひともいる。
内向的劇場型主義ってやつか。

麻生の、それが体質なんですな。
キレるなら、記者にじゃなくて、(ホテルで飲んでるときに)北朝鮮のテロ国家指定解除の電話をしてきたブッシュにキレろよ、なあ。
そういう肝心なところでキレられないのは、とりもなおさず彼が単なる空威張りのガキだからに他なりません。あらかじめ想定しえた状況で、どういうセリフも用意していなかったという、コドモの外交なのであります。

まったく、もう。

それにしても、小沢がまた体調不良らしい。
ヤバいんじゃないのかね。

October 14, 2008

テロ国家指定解除の欺瞞

どの国もそうなんですが、外交というものはあくまで国益を第一に考えるものです。
ブッシュ政権はつねに、最近ではライス国務長官も「日本の立場は理解している」あるいは「拉致問題の重要性は認識している」という言い方しかしませんでした。「テロ国家指定の解除はしない」とはひと言も言っていなかったのです。その結論はどうなるか、そんなことはわたしでもわかる。つまり外交のプロたる外務省の役人たちがわからないはずがない。

アメリカは指定解除をするだろうというのは読めていたわけです。それを、まるで「寝耳に水」と驚いてみせるのは、これは日本国民に対する欺瞞です。そんなはずではなかった、という言い方ですよね。われわれは十分に努力してきてアメリカもそれを理解していたはずなのに、急に寝首をかかれた、という言い方。

これは責任逃れのへりくつです。知っていたんですよ。それを、それじゃ日本国民に格好がつかないから「知らなかった」「予想外だった」と言っている。一番正直なところは中曽根外相あたりの言っていた「一両日中はないと思った」というセリフでしょう。一両日中はないはずだったが、その次の日にはあるかもしれない。そういうこと。

ブッシュは、史上最低の大統領として名を残すことになるのはすでに明らかです。まあ、イラク戦争しかり、イラン政策しかり、イスラエル・パレスチナ問題然り、それは確実なんですが、せめて北朝鮮でどうにか格好を付けたかった。それが正直なところでしょう。

ただし、今回は時間の問題があった。
北が核施設運転再開をちらつかせるのはいつものことです。
どっちが我慢できるか、そのチキンゲーム。
ところが今回はブッシュ政権の命脈が尽きるというタイムリミットがあった。
ただそれだけのことです。いつもなら、むこうが核施設の無効化をしてから、解除です。それが待ちきれなかった。どうにかして先に進める必要があったということです。で、テロ国家指定解除を先出のエサにした。

麻生としては、拉致問題にいささかも影響はない、カードを失ったというわけではない、という言い方しか出来ません。ならば、「はじめから拉致問題とは関係ない。指定解除どうぞどうぞ」と言ってればよかったようなもんですがね。しかしカードを失ったのは確かなのです。麻生は先月の国連総会の訪米でもブッシュに会えなかった。アメリカも北朝鮮も、出ては消える日本の自民党政府を本格長期政権として相手にしていないということです。困ったもんです。

冒頭に言いましたが、今回のテロ国家指定解除は、日本との関係を損なっても、北との核問題解決がアメリカの国益、いや、ブッシュの個人の利益にとって重要だったという判断なのです。簡単なことです。

September 01, 2008

福田ってやつは

けっきょく、とどのつまり自民党には現在、政権担当能力がないということなんでしょう。政権投げ出しが2回続くと、信頼は地に堕ちる。

福田の個人的な性格ってのもあるでしょうが。やる気がない、というか、やりたくないんだわね。初めからそうだった。というか、今から思えば、福田は森にそそのかされた小沢・民主との大連立のみにかけて政権を担ったのかもしれないですわね。それが失敗した段階で福田政権の存在理由はなくなったのです。洞爺湖サミットまでのただの時間つぶしだったわけだ。

記者会見最後の質問「総理の対応は国民からみんな他人事のようだと言われているが」に対して、「あなたは他人事のようだと言うけれどもね、私は自分を客観的に見ることができるんです! あなたとは違うんです!」って気色ばんだのはとても子供っぽくて聞いてられなかったですね。官房長官時代からそういう言動はまま窺えてたんですが。

さて自民党だって麻生か百合子かって選択でしょう。この選択はないわなあ。福田退陣というより、自民党自体が自ら退陣するような雰囲気になっていくでしょう。

総選挙の流れは加速するはずです。
次期政権もつなぎでしかなくなります。
そのつなぎを、お調子者の麻生は受けるしかない。
小池百合子ねえ、どうなんでしょう。
わたしにはわかりませんわ(他人事……)。

July 10, 2008

いまの子供と50年後の子供

温室効果ガスの世界全体の排出量を「2050年までに半減する」ではなく、さらには「半減するという長期目標を共有する」ですらなくて、「2050年までに半減するという長期目標を共有することを目指す」っていう、この、動詞が3つも入ったヘタクソな日本語の3重に薄められた「G8宣言」というのはまさにいまのアメリカの断固たる及び腰と日本政府の遠慮とを象徴していて興味深いものでした。

いや、じつはこういう何重もの言質回避の表現は国連の安保理決議などでも蔓延しているので、政治宣言としては驚くほどのことでもないのですが、米国シェルパ(実質的な議論を担う交渉代理人)のダン・プライス大統領補佐官が「素晴らしいG8宣言文」と自画自賛するのを聞けば、さすがは弁護士出身、そりゃつまり自分に有利に導けたって意味ね、とすぐにわかるというもんです。

日本政府も自画自賛していますが、こちらは欧州勢と米国との板挟みになって、それでもいちおう文言をまとめあげるのに成功したという意味でしょうか。しかしなんだかこれも、安易に「自分をほめてあげたい」と言いのける今時の甘ったれ風潮そのもの。欧州勢から「日本のリーダーシップが見えない」とさんざん呆れられているのを、米国しか見ていないので気づかなかった、あるいは政治理念もなくただまとめることしか考えていなかったってことです。

たしかにまとめあげたことは認めます。それもたしかにひとつの政治でしょう。そのようにしかものごとは進んでいかないのもわかります。だが、このなんとはなしの「切羽詰まっていなさ」は、政治的想像力の不在というか、つまりはこのサミットに出席しているすべての人間たちが、おそらくは50年後にはもうこの世にはいない、ということに関係しているのではないかと、ふと思ったりもするのです。

まあ、そんなことを言うのはエキセントリックだと思われてしまう、われわれのいまの有り様もあるのですがね。

とどのつまり、今回のG8はエコロジー(生態系)とエコノミー(経済)の兼ね合いをどうするかという人類の宿命に関する議論の場でした。つまり50年後の子供たちといまの子供たちの、両方を救うにはどうすればよいかということです。アフリカなどでの食糧危機を見ればそれはより切羽詰まった課題として目の前に立ち現れます。

もちろん、いまの子供たちに心配のない先進国では50年後を考える余裕もありますが、いま現在飢えている国ではいかに産業をおこしそれを基に人びとが食べていけるかを探るに精一杯です。そんなときに温暖化ガス排出規制など気にしている余裕はない、いま生き延びなければ50年後もないのだ、という論理になります。それもまたもっともで、新興国も交えた8日の会議では先進国側が先に80-95%の排出ガス削減を行えといった主張もなされました。それももっともなことなのです。

ところがそれではアメリカは産業が立ち行かなくなる。ガス排出規制のすくない新興国に産業が移行してしまう。そうすればアメリカの50年後もない。それがこの洞爺湖宣言に及び腰だったアメリカの、いまのブッシュ政権の論理です。しかしブッシュは洞爺湖で終始緊張感のない顔をしていましたね。はっきりいって大統領職を投げ出しているような顔だった。北朝鮮問題といいこのG8といい、とにかく任期内でいろんなことをとにかくまとめればよいという、冒頭の日本政府の交渉役みたいな心情なんでしょうか。自分の任期のことだけしか頭にないような。

しかし次のオバマあるいはマケイン政権がどう出るかはまた別の話になると思います。特にオバマ政権になれば、あのゴアが環境関連の特命大臣に任命されるということですし。日本も次の選挙で民主党が勝利して小沢政権になったら果たしてどう変わるかわかりません。不明なところも多いのですが、環境問題でも新味を出してくるはずです。

しかしそれまではおそらくこの問題に関する政治の力の不在が続くかもしれません。
そうしてその間にも刻々と地球環境はいま現在のわたしたちの生態系を破壊するように変化しているのです。
世界の食糧危機を深刻に憂慮すると言ったその舌の根も乾かぬうちに18コースもの豪華な晩餐を囲むサミットリーダーたちを見ていると、まさに人間の活動そのものが宿命的に持つ反生態系の害毒を思わずにはいられません。エコノミーとエコロジーは、だれがなんといったって対立する項目なのです。そこを誤魔化さずに折り合いを見つける、といっても、しょせんそれは破滅を先送りする手段を講じているだけのような気もします。

April 23, 2008

二重の強奪感

「後期高齢者」という名称の付け方1つで、ああ、こりゃもうダメだわとわかるような日本の長寿者向け新医療保険制度ですが、なんでこんなに不評なのかという理由に、こないだ、納税申告をしながら思い当たりました。あれ、自分の財布に勝手に手を入れられた感覚なんですよ。それで一言の断りもなく札ビラを抜かれた。その、おいおい、ってな感じ。

ニューヨークに15年前に住み始めて不便だったことの1つに銀行口座からの自動引き落としがなかったことがあります。電話も電気も水道もぜんぶ請求書が届いて、それに自分でチェックを書いて切手を貼ってポストに入れて支払う仕組みです。税金もそうで、毎年4月15日までに自分で申告して自分で計算して自分で支払うのが原則。面倒なのにいまもそれはずっと続いている。これはどういう考え方なんでしょうね。

納税の義務というか責任というか、それってこの社会を自分たち自身が作っているんだという意気や自負みたいなもんでしょう。個人レベルではそういう意識は薄れてるかもしれないが、少なくとも歴史的にはそうだったはずだ。

そういやそれは裁判の陪審員制度でもそうです。これも自分のコミュニティで起きたことはコミュニティのメンバーで仕切るという、そういう直接民主制に関係してくる制度です。ニューイングランドにいまも残るタウン・ミーティングというのもその名残り。そこにキリスト教の慈善意識や参加意識が加わってくるからなおさらですよね。

対して日本では社会というものはお上のものであって、自分はそこに住まわせてもらっているというような感覚がなきにしもあらず。そこに近頃の都市部の隣人意識の希薄化があれば、マンションの自治会だって面倒だし町内会なんてなにをかいわんや。そこに「裁判員参上!」、いや「誕生!」と言われたって、なんだか唐突な気がして腰がひけてしまうのもむべなるかな、です。

そうそう、後期高齢者医療制度です。
そんな社会意識の違いがあるから、きっと政府は年金からの保険料天引きを「いやいやいちいち手続きする手間を省いてあげたんだ」と言えば済むと思った。そもそもだいたいがみんな自動引き落とし社会ですしね。

しかし自動引き落としだって主導権はこっちにありました。銀行だって夜間や他行での現金引き出しの手数料、ちゃんと「取りますがいいですか?」と聞いてきます。「承認」を指で押すのはいまや単なる儀式的手順ですが、少なくとも私たちはそれでこの財布の主人公は自分だと確認しているのです。

ところがこの保険料の天引き徴収、誰からもなんの断りもない。新聞報道はあったかもしれないが「オレには何の挨拶もない!」。これは「後期高齢者」などとしれっと言い捨てる政府の、まさに「お上」意識です。面倒くさくないようにあらかじめ取ってやってるんだ、というのは、説明不足とかいう問題ではなく根本的に考え方が間違っている。その証拠に、そんなこと、民間でやってご覧なさい、あっというまに総スカン、いやもっと言えば犯罪だって構成し得る。

年金って、社会との契約の果てに戻ってきた大切なお金です。それを了解かどうかの返事も待たずに財布に手を突っ込まれるように取っていかれた。しかも年金消滅のあの問題も棚に上げて。

いまの日本の行政府の怠慢と傲慢を象徴するこの二重の強奪感こそが、今回の大不評の下敷きなのでしょう。怒らんほうがどうにかしてます。

April 16, 2008

国おこし、都市おこし、個人おこし

40日間も日本に行っていました。日本にいると、日本語に守られてるせいでしょうね、国際的な時事ニュースをぜんぜん自分に引き付けて考えられなくなります。なんかまったりしてみ〜んな他人事っぽくなる。で、ここにもなにも書かない、という結果に。てか、たんにだらんとしてただけなんでしょうけどね。

さてさて、帰ってきたとたんサンフランシスコでの聖火の混乱です。中国当局もよく続けるなあと思うのですが、開会式のボイコット気運も高まる中、この問題はどう考えればよいのでしょう。スポーツと政治、五輪と政治の問題ですわ。

私も若かったころは「スポーツと政治は別だ」などと憤慨していましたが、でもずっと以前から五輪と政治はじつは同じものだったんですよね。というか、五輪はその国際的な注目度から、世界に向けて政治的メッセージを送る絶好の檜舞台でありつづけているのです。

ベルリン大会は国威発揚というナチスの政治的思惑の場だったですし、メキシコでは黒人差別に抗議する米国選手2人が表彰台で黒手袋の拳を突き上げました。続くミュンヘンではパレスチナゲリラのイスラエル選手襲撃が行われ、76年のモントリオールでは南アフリカの人種差別問題でアフリカ諸国の大量ボイコットが起こった。80年のモスクワではソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側のボイコット、続くロサンゼルスはその報復的な東側の逆ボイコットと、五輪はまさに常に政治とともにありました。

だいたい中国自体も五輪と政治を結びつけて国際社会にいろいろとメッセージを発してきたんですよ。56年のメルボルンから、ローマ、東京、メキシコ、ミュンヘン、モントリオール、モスクワと、なんと7大会連続で五輪ボイコットです。モスクワ大会を除いて6回はぜんぶ台湾の国際認知問題が背景でした。

そもそもどうして五輪を招致するのか? それは五輪という由緒ある国際大会を主催することで国際社会の責任の一端を担う、一丁前の国家として認められたいという思いが基になっています。同時に、関連施設の建設によって国内の景気浮揚を図りたいというハコモノ行政的な意図もあります。つまり五輪は村おこしならぬ「国おこし」のネタだったのですわね。つまり。ズバリ政治そのもののイベントなわけで。

これは64年の東京五輪もそうでした。あのとき東京は高度成長のまっただ中で、日本は戦後復興の総仕上げをして国際社会への復帰を果たそうと五輪を招致したのです。そこではスポーツはたんなるダシでした。もちろん、日本の復権はスポーツ選手個人の頑張りに投影されてじつに感動的だったのですが、ほんとうの主眼はスポーツ選手個人の威信ではなく、国家としての威信にあったのです。それはまさに政治的思惑でした。

すでに五輪が2周目以降に入っている先進国では、長野やアトランタがそうだったように五輪は国おこしを経ていまはホントに開催都市の村おこしイベントです。一方、周回遅れの中国にとっては(今後のアフリカ、中東諸国なども含め)五輪は遅れてきた第二次「国おこし」運動の原動力なのです。今回の北京五輪も、中国政府のそんな思惑と欧米諸国の、五輪開催を機に中国の人権・民主化改善を促そうという思惑が合致して決まったものですからね。

そんな政治の舞台なのですからチベットが登場してもだれも文句なんか言えない。中国が「スポーツと政治は別だ」だなんて、どの口で言えるのか、です。

そう、「スポーツの祭典だから政治はタブーだ」と言うからややこしくなるのです。どうせならもうこれは政治だと開き直って五輪を機にどんどん主張をぶつけ合えばいいんですわ。それで大会がつぶれるようならつぶれちゃえ。そうなったらでも中国だって面目丸つぶれ、欧米だって思惑外れ、チベットは墓穴を掘る。そういうところにしか反作用としての収拾努力のベクトルは生まれないんじゃないの? じっさいの政治としてはいささかドラスティックにすぎるけどね、ま、思考実験としてはだからこそいまと違った落としどころが見つかるかもしれない。まあ難しいでしょうけどねえ(他人事っぽいなあ)。

ところで再びの東京五輪招致が進んでいます。これはすでに国おこしでもなく都市おこしとしても新味に乏しいやね。何のためにやるんでしょう。私には、自己顕示欲が脂汗になってるあの都知事の「自分おこし」のために見えるんですわ。彼個人の人生最後のステージにとっては格好の大イベントですもん。しっかし、そんな個人行事に付き合うのはまっぴら。

だいたい、新銀行東京にしても、解決にはもう何年もかかるけど、やつの物理的寿命はその前に終わるでしょう。未来のないやつ、つまりあの都知事に、「責任を取る」という考え自体が通用しないんです。死を前にしたら、無敵だなあ。だから政治家は若くなきゃダメなの。あと30年生きてると思ったら、ヘタなことできないもんねえ。

February 20, 2008

最高裁は失礼だ

ロバート・メイプルソープの写真集が「猥褻ではない」とのお墨付きを日本の最高裁からいただいて、そりゃそうだ当然だと反応するのはちょっと違うんでないかいと思います。

以下、朝日・コムから


男性器映る写真集「わいせつでない」 最高裁判決
2008年02月19日11時09分

 米国の写真家、ロバート・メイプルソープ氏(故人)の写真集について「男性器のアップの写真などが含まれており、わいせつ物にあたる」と輸入を禁じたのは違法だとして、出版元の社長が禁止処分の取り消しなどを国に求めた訴訟の上告審判決が19日あった。最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は「写真集は芸術的観点で構成されており、全体としてみれば社会通念に照らして風俗を害さない」とわいせつ性を否定。請求を退けた二審・東京高裁判決を破棄し、輸入禁止処分を取り消した。

 同じ作品を含む同氏の別の写真集について、最高裁は99年に「わいせつ物にあたる」として輸入禁止処分は妥当と判断していた。今回の判断には、わいせつをめぐる社会の価値観が変化したことが影響しているとみられる。

 堀籠幸男裁判官は「男女を問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。多数意見は写真集の芸術性を重く見過ぎている」との反対意見を述べた。

 訴訟を起こしていたのは東京都内の映画配給会社「アップリンク」の浅井隆社長(52)。99年に浅井さんがこの写真集を持って米国から帰国した際、成田空港の税関から関税定率法で輸入が禁じられた「風俗を害すべき書籍、図画」にあたるとされ、没収された。

 写真集は384ページに男性ヌードや花、肖像など261作品を収録。税関はこのうち計19ページに掲載され、男性の性器を強調したモノクロの18作品を「わいせつ」とした。

 この判断に対し、02年1月の一審・東京地裁判決は「芸術的な書籍として国内で流通している」と処分を取り消し、70万円の賠償を国に命じた。しかし、03年3月の二審・東京高裁判決は「健全な社会通念に照らすとわいせつだ」として原告の逆転敗訴としていた。

 第三小法廷は(1)メイプルソープ氏は現代美術の第一人者として高い評価を得ている(2)写真芸術に高い関心を持つ者の購読を想定し、主要な作品を集めて全体像を概観している(3)性器が映る写真の占める比重は相当に低い——などと指摘。作品の性的な刺激は緩和されており、写真集全体として風俗を害さないと結論づけた。

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うーむ、アップリンクの浅井さんは、じつはこれを裁判を起こそうと思って仕組んだのですね。わざと国内での5年もの販売実績を作り、この写真集が公序良俗を紊乱していないという土台を築いてから外国に持ち出して再度入国した際にこれを摘発させるという手の込んだ作戦を練っていた。これは見事です。ですから、政治的にはこの最高裁の判断を導いた浅井さんには「でかした!」の賛辞を贈るにやぶさかではありません。

そのうえで、でも、本来は猥褻とはどういうものなのか、という点も浅井さんはわかっていらっしゃると思います。国家権力が定義するなんて、しゃらくせえ、って思ってらっしゃるわけだ。だから、これはあくまでも社会的な価値判断の変革を形にするための戦略的権謀術数なわけで。

では本質的にはどういうことなのか。
メイプルソープが、男性器とともに、どうしてああも多くの花の写真を撮ったか、というのは、それは美しいからです。
でも、花がどうして美しいのか?
それはあれが性器だからです。そう、最高裁まで争った人間の男性器と同じものなのですね。
あんなに卑猥な写真集はありません。まさに堀籠幸男裁判官がいうように「おしべめしべを問わず性器が露骨に、中央に大きく配置されていればわいせつ物だ。写真集の芸術性に誤魔化されてはいけない」のです。

ですからあれは、猥褻なものをそのまま提示して美しいと感じさせているのです。
メイプルソープは、猥褻なものを提示して、猥褻って、なんて美しいんだっていっているのです。
それを、「猥褻ではない」って、本来は、最高裁はじつに失礼じゃないか、ってことです。

メイプルソープは、花と同様に、男性器を猥褻で美しいと思った(あるいはその逆の順番か)。その美しさはもちろん彼のセクシュアリティに結びついている美しさの感覚です。もっといえば人間であることに関係する美への感覚です(犬は人間の性器を美しいとは思わないでしょうし)。さらによくある70年代的言い方でいえば、彼は己の猥褻さへの欲望を解放しようとした。彼の写真を見ていれば、いまにも彼があの男性器に触れたい頬ずりしたいキスしたい口に含みたい、でもその代わりに写真に撮った、他人と共有したというのが伝わってきます。一見無機質にも思えるあの黒い男性器の鉱物のような銀粉のような輝きを、彼がまんじりと視姦しているのがわかるのです。それは花への視線と同じです。

じつは、花が性器だと気づいたのは、不覚にも私も、大昔にメイプルソープの写真集を目にしてからでした。ほんと、ありゃ、思わずあちゃーとかひえーとか呻いてしまいそうな、ときには赤面するほどいやらしくもすごい写真集ですものね。一部をご覧あれ

そうですよ、みなさん。

「何かご趣味は?」
「ええ、ちょっとお花を」
「あら、まあ……」

爾来、上記の会話の意味は、私にとって永遠に変わってしまったわけです。
蘭を集めております、とか、よくもまあ羞ずかしげもなく公言できるもんだ、と。
少しは赤面しながらおっしゃいなさいな、と。

卑猥とは何か、猥褻とは何か。
劣情を刺激するものでしょうかね。
劣情という言葉自体、価値観の入ったものだからわけわかんないですけど。

むかしね、「エマニエル夫人」って映画あったでしょ。高校か大学時代だったよなあ、あれ。
ボカシがかかるでしょ。あのボカシほど劣情を刺激するものはありません。いったい何が映っているのか、気になって気になって妄想がふくれます。ああ、そうだ、あの「時計じかけのオレンジ」もそうでした。ボカシが気になって、性ホルモン横溢の、脳にまで精液が回ってるような年齢でしたからね、もうおくびにも出さなかったが悶々と妄想を重ねていた時期ですね。

で、仕事でハワイに行ったときにヒマ見つけて当時まだあったタワーレコードでビデオを買ったんですよ、昔年の妄想を解決するために。

そうして見てみた。
ああ、オレはこんなものに欲情していたんだ、って、もう、ほんと、がっかりするような、なさけないようなものしか映ってませんでした。オレの青春を返せ、ってな感じです。

何だったんでしょう、あの「劣情」は。
ボカシは、罪だと思います。健全な欲望を、淫らにひねりまくります。
もちろん、罪もまたちょっとソソルものでもあるのですがね。はは。

何の話でしたっけ?
ま、そういうこってすわ。
失礼しました。

January 10, 2008

もうそろそろ新聞も

以下のニュースはTBS報道局の特ダネです。でも、どの新聞社の記事もそれに触れていない。
それは情報として十全なのか。

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【朝日.com】年賀再生紙はがき、無断で古紙配合率低く 日本製紙
2008年01月10日12時47分

 製紙大手の日本製紙は9日、同社が作った「年賀再生紙はがき」の用紙について、古紙の配合率が受注時の取り決めを大幅に下回っていたと発表した。発注元である日本郵政や、購入者への謝罪文も同時に公表した。

 日本製紙によると、配合率は40%と取り決めていたが、古紙が多いと不純物が増えて要求される品質を満たせないと判断し、日本郵政に無断で1〜5%しか使っていなかった。いつから基準を下回っていたかは調査中という。年賀はがきの98%は「年賀再生紙はがき」で、その用紙の日本製紙のシェアは約8割。

 日本郵政は、はがきを印刷会社に発注し、印刷会社が用紙を日本製紙などから調達している。日本郵政は「印刷会社など関係者から調査し、結果を待って今後の対応策を検討する」としている。

【毎日.com】再生紙はがき:年賀はがき配合率「古紙40%」、実は1% 納入元、無断で下げ

 日本郵政グループの古紙40%の年賀はがき(再生紙はがき)で、古紙成分が1~5%のものがあったことが9日、分かった。納入元の日本製紙が、無断で配合率を下げていたことを認めた。日本郵政は「環境重視のイメージが傷つきかねない」と反発し、調査を行う。

 年賀はがきの発行数は毎年約40億枚。うち97・5%が再生紙を利用している。日本製紙は年賀はがき用の紙の約8割を納入しており、古紙の割合が基準に達しない紙が大半とみられる。

 日本製紙は「古紙の割合を多くすると、紙にしみのようなものができるなど品質が下がるため、配合率を低くした」と説明している。同社は、社内調査を始めたが、数年前から配合率を下げていた可能性が高いという。【野原大輔】

【読売】「古紙40%」年賀はがき、実は一部で1~5%

商品偽装
 環境への配慮をうたって古紙を40%利用して作ることになっていた年賀はがきの一部で、実際には1~5%しか古紙が含まれていなかったことがわかった。


 日本郵政(東京都千代田区)などによると、はがき用の紙を納入した日本製紙(同)が品質を向上させるため無断で古紙の配合率を下げたという。

 問題となっているのは、昨年末に全国の郵便局で販売された「再生紙はがき」。経済産業省によると、「再生紙」と表記する場合、含有する古紙の割合について規定はないが、年賀はがきについては日本郵政側が印刷会社と、全体の40%を古紙とする契約を結んでいたという。

 しかし、印刷会社に納入された紙のうち、日本製紙が納入した分で、パルプの割合が極端に高いことがわかった。古紙にはちりなどが多く含まれ、紙のきめが粗くなるため、古紙配合率を下げたとみられる。

 日本製紙は「詳細は答えられない」としている。日本郵政では、「イメージダウンとなるので、明確な契約違反が確認できた場合、損害賠償請求も検討している」としている。

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アメリカに住んで驚いたことは、新聞もテレビも、他紙あるいは他局の特ダネを、自分のところでぜんぜんおかまいなしに「◎◎がこう報じた」と報道することでした。昨日のCNNも、ヒラリー・クリントンの当選確実をAP通信が打つと「APが当確を打ちました」とやりました。日本のテレビ局ニュースが「共同通信がいま当確を打ちました」とか「NHKが当確としていますが、私たちはまだ不確定要素があるとして打ちません」とか言うのは聞いたことがありません。いやそれよりも、私は毎日新聞と東京新聞で新聞記者だったのですけれど、例えば朝日とか読売がなにかすごい特ダネを抜いたときに、それがどんなに重要なニュースであっても、そう、建前は自分で調べたことじゃないから=つまり自分でほんとうのことかどうか確認できないから、それを掲載することはできない、とするのですね。それは当然です。でも、そうなのかなあ、と思ったのは、自分でそれが本当だったと確認できたとしますわね、つまり、後追いですわ。そのとき、そのニュースを書いても、整理さんに扱いを小さくしてくれとデスクなんかが言うんですわね。「いや、抜かれネタでね」とか。

それって、まだ続いているようですね。
でも、いいじゃないのかなあ、って思うの、もう、そういうの。
「TBSが報じたところによると、」っていうことのほうが、読者・視聴者にとって必要な情報じゃないのかなあ。いや、どっかの地裁で例えそうやって報じたとしてもそれが虚報だった場合にそれによって生じる損害は伝聞ででも報じたそのメディアが負う、みたいな判決が出ましたわね、具体的にはどういう事件でどういう内容だったかは忘れましたけど。

いや、たとえ冒頭のこの古紙再生偽装、このニュース、「日本製紙」が認めたことで初めて他社・他紙が書けるニュースになったんですが、その場合でも、この事態の発覚の敬意として「TBSに内部告発の手紙が来て、」というふうに報じるのが、十全の情報ではないか? そうじゃなきゃ、なんでこのことが明らかになったのか、読者としてはわからんのですよ。まさか、日本製紙が誰にも何も言われないのに懺悔したってか?ってことですわ。おまけにTBSは今回、全国の系列局報道部に指示したのかあちこちの郵便局で再生紙ハガキを購入してそれをどっかの分析所に持ち込んで古紙の混合率を計算させてまでいて、かなり用意周到にがんばって日本製紙にその事実を突きつけ、どうだ、参ったかってやったんですわ。発覚の敬意くらいTBSに敬意を示したっていいんじゃないのかい?

だって、それを言わないってのは、それは十全の事実ではないんだもの。言わないことはウソではないが、言わないことによって伝えるべきことを伝えないという事実を放っておく、未必の故意ですよね。

同じような、なんというか、意味があるのかないのかわからんような「縄張り意識」みたいなのが日本のメディアにはほかにもまだ残っています。

たとえば他局の番組のこと、口にできない、というか口にしないのが礼儀とされるでしょ? 礼儀と言って違うなら、あるいは暗黙のルール? それもじつにくだらんのです。そこにリンゴがあるのをみんなわかっているのに、リンゴがない振りをしてリンゴの話を絶対にしないかのような。むかし、紅白歌合戦で絶対その直前に決まったレコード大賞のことを言わなかったんですよ。そのことに触れるようになったのは20年くらい前からかなあ。そのまえは、レコード大賞獲って駆けつけた歌手のこと、知らんぷりして曲紹介してた。レコード大賞の権威が落ち始めたころに、言うようになったんだけどね。

で、アメリカのトークショートかで俳優がゲストに来ると、ぜんぜんかまわないで他局や他系列の映画会社の映画の話とかするんです。たとえば「笑っていいとも」にゲストで出てきた俳優が日本テレビの新番組について話すのと同じです。へえ、こういう話をするんだって最初はビックリしたけど、聞いてればべつになんの異和感もなくなる。だって、事実だもんね。もっとビックリするのは、他局で、他局の番組の番宣CMが流れたりするのよ。これも日本じゃ考えられない。

これは、あれかね、大映とか日活とか東宝とか、俳優たちがみんな映画会社のお抱えで他の社の映画には出られなかった時代の名残でしょうね。自分の出演作、出演会社にがんじがらめになって、それ以外のものは存在しないも同然、っていう。

対してこちらは俳優は組合もあるし(いままだ脚本家組合のストが続いていて番組製作が大混乱に陥っているように、かなりパワフルなのです)、まずは話が「会社」つながりではなく、「俳優」本人つながりだということなんでしょうね。その俳優の前作がパラマウントであろうがフォックスであろうがワーナーであろうが、CBSだろうがABCだろうがNBCだろうが、主語はその俳優であって映画会社やTV局ではない、ってこと。ここら辺も個人主義と会社主義とかの違いなんでしょう。

こう考えるとどうでもいいのになあと思われることもバカみたいな歴史的背景や文化背景があったりするのがわかりますが、それはトートロジーっぽく言えばやはりしょせんバカみたいなことなのです。

そういう呪縛から逃れて、わかってることはみんな教えてよって、思うんですがね。

November 27, 2007

金儲けには向かない職業

昨年のニューヨークのときもそうでしたが、それにも倍するミシュラン狂想曲が新発売の東京版をめぐって渦巻いているようですね。前も書きましたが、伝統あると言ってもタイヤメーカーのたかがガイド本、金科玉条のように崇め奉るのも主客転倒。「お仏蘭西野郎に和食がわかってたまるけえ!」という感情論は別にして、東京に世界一多い☆の数というのも納得ではあるのですが、同時に、☆を奮発した分だけ本も売れるとふんだ商売っ気だってなきにもあらず。しょせん「ギド・ルージュ」も出版商売なのですから。(とくにカンテサンス、わたしにはあそこに3つ星を与えた背景がよくわからないのです。ありゃ、日本人審査員のプッシュなのか、話題作りなのか……)

まあそれはさて置き、☆付きレストランで難しいのはその“支店”です。なんといっても☆付きシェフはただ1人。いくらレシピを徹底しても東京のガニエールにはピエール師匠はたまにしかやってこない。世界に20もの店を持つアラン・デュカス御大は完全なセントラルキッチン方式を採用し、自身はもう料理しません。つまり、レシピを科学的に分析し食材を工場でできるだけ均一にそろえても、けっきょくはそれを客出しの直前で絶妙なバランスで組み立て得る優秀な現地シェフをいかにして見つけるかがカギなのです。

ですので、例えばゴードン・ラムジーはまったく同じメニューなのにロンドンの本店では3つ星、NYでは2つ星(ここもニール・ファーガソンがいなくなって、次のシェフがどうなのかわたしは試しておりませんが)、東京では星無しとなった。あのデュカスでさえ東京で失敗しているのは、ひとえにこの最後の現地シェフの才能の違いなのでしょう。しかしベージュは評判悪いね。

しばしば「芸術」とも形容されるこうした天才シェフたちの味は、ほんと、大量生産ができない。いくらレシピがあってもそれをかの天才たちのようにはコピーも再現もできません。

食いもんのもう1つの要素は、絵画や音楽などとも違って後世にはぜったいに遺せない、その時その場限りで消えるものであるということです。そのような一過性をこそ本性とする「芸術」はこの「食」以外にはありません。一過性を重んじるパフォーマンス芸術だってDVDで記録できるというのに、その本質が再現可能な記号にはなり得ず、どんなメディアででも記録できない「目の前の味」の現物勝負。食文化というのは、かくも特異なものなのですね。だから味と匂いのわかるテレビというのができないんですわ。

にもかかわらず、こうした食の天才たちへの報酬は、そう多くはありません。とくにこうしてトウモロコシや大豆やエネルギーまでもが金融上の記号として取引され、莫大なカネを生み出している格差バブル経済の現在、現物しか売れないレストランはいくら超一流・超高級であっても儲けの規模は知れたものです。

そこに、どうして他の連中と同じような大儲けができないんだ、と不満に思った「高級・一流・老舗」処があっても不思議ではないでしょう。それが船場吉兆であり、赤福であり、比内地鶏であり名古屋コーチンだったんでしょう。いずれも「名門」に比例する儲けを得て当然だと思ったわけでしょうな。

そこで現物ではないブランドという記号だけで売ろうとした。あるいはブランドという記号を誤魔化すことで現物を売ろうとした。そうやって現物を離れて記号をやりくりする以外に、ケタ違いの金儲けが可能となる手段はないのですから。しかし、現物を離れては食は存し得ない。その齟齬が表面化したのが偽装問題なんでしょうね。

ミシュランも所詮、こうしたブランド化のための記号の集大成でありますわな。ですんで、ご高齢の小野二郎さんの出てない「すきや橋次郎」は記号だけが一人歩きすることになる。

でも、食を志す人は、ゆめゆめそうした記号で金儲けできるなどと思わないほうがよろしいでしょう。与えられるのは客からの笑顔と尊敬だけ。それが現物しか売れない商売の宿命なのですもん。因果なもんですが、それを覚悟できる人だけが食の道に進む資格があるのだと思います。つらいねえ。

November 07, 2007

がんじがらめになれや

いま小沢の記者会見を見ていました。NYは未明の3時過ぎ。緊急生中継。
とはいえ、TVジャパンですけどね。

いやはやしかし、さすが二日間考えていただけあって尻尾は見せなかった。そつがないというか。
読売の記者の突っ込みにはナベツネの影をちらつかせて、てめえのところのボスが仕込んだ話だと示唆する。

さてさてこの前のブログで私も、これはナベツネとナカソネの策動による、安倍との党首会談の失敗のときからの続きの話だと書いていたのですが、それがこうやって記者会見でも表沙汰になると、逆に政策協議も大連立も遠のいたと見てよいのか。やりづらいわね、もう。

たしかに、政治では福田の言ったように阿吽の呼吸めいたところが付き物ですが、そういうのは会見ではふつう、触れないものです。それを会見でも明言したというのは、小沢の復帰はその名言なしにはなかったことで、これですなわち、辞意表明の発端であった党首会談はなかったことになった、に等しいですわね。

それはきっと小沢の改憲に向けた信念からいうと違うはずですが、二大政党制というもうひとつの信念(というか、そうじゃないと彼が自民を出た価値がない)に、今回は軸足を置いているところを見せつけたわけです。うまいじゃありませんか。

いや、うまいという彼の方の都合だけではなく、さすればこれは逆に、彼自身もやはり自民との対決姿勢でがんじがらめになる、という意味では私の「希望的観測」にとっても都合の良いことでもあります。

私としてはなにも言いません。とにかく連立だけはやめてほしい。密室で決める大政翼賛体制だけはぜったいに避けたい。そのためには、小沢だろうが何だろうが、パフォーマンスでも何でもいいからそうやってがんじがらめになってくれ、と思うだけです。

October 30, 2007

時野谷浩というアホ

ひさしぶりにとんでもないタワケを見つけました。

時野谷浩.jpg

こいつは何者なのでしょう?
しかし、こんな記事を載せるゲンダイネット(って日刊ゲンダイ?)ってどういうタブロイド紙に成り下がったのかしら?

まずは以下をゲンダイネットから引用しましょう。

**
おネエキャラ“全員集合”はメシ時に放送する番組か
2007年10月29日10時00分

 23日に注目の「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」(日本テレビ、火曜夜7時〜)がスタートした。昨年10月から土曜日の夕方に放送され、今月からゴールデンタイムに格上げされた全国ネットのバラエティーだ。

 番組の内容はタイトル通りで、“おネエ”言葉を話すおかまキャラの出演者が大騒ぎするというもの。レギュラーはIKKO(美容)、假屋崎省吾(華道)、植松晃士(ファッション)ら9人。

 23日の放送で特に目立っていたのはIKKOで、胸がはだけた黒いドレスを着て、ハイテンションで「どんだけ〜」を連発していた。視聴率は11.2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これを世帯数にすると関東だけで200万世帯近くが見た計算になる。

 東海大教授の時野谷浩氏(メディア効果理論)がこう言う。
「私は番組の冒頭を見て、夕食時に見る番組としてふさわしくないと判断したので、チャンネルを変えました。アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させないし、もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします。日本のテレビ局にもそういった配慮が必要だと思います。特にゴールデンタイムは子供もテレビを見るし、夕食をとる人が多い時間帯だからなおさらです」

 メシがまずくなる。それが問題というわけだ。

***

>アメリカでは、不快に思う人に配慮してホモセクシュアルの男性をめったにテレビに出演させない

どこのアメリカなのでしょう?
すくなくとも私の住んでいるアメリカではホモセクシュアルの男性はかなりの番組で、ネタかとも思えるほどに出ているんですが……。

と思いながら再読すると(再読なんかに値するようなテキストではないのですが)

>もし登場させるとしても、ノースリーブの衣装は着させないなどの工夫を凝らします

あ〜、わかった、こいつ、ドラァグクイーンのことを「ホモセクシュアルの男性」だといってるんだ!
ひえー。いまどき珍しい、すげえアナクロ。
ドラァグクイーンというのはトランスヴェスタイトの商売版みたいなもんで、いわゆる女装しているプロたちですね。こういう基礎的なことも誤解しているようなひとを、東海大学はよう雇い入れてますな。

この時野谷、じつは先日も産経にこんなコメントを寄せていました。
記事はゲンダイネットのそれとじつは同じネタです。ふーむ。おもしろいねえ。

***
性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?
2007.10.7 21:50

 性差を超えたエンターテインメントが世界的なブームだ。日本では中性的な男性タレントが大挙して出演するテレビ番組や、女性歌手のヒット曲を男性歌手がカバーした企画盤が人気を獲得。米ハリウッドでは男優が太った中年女性、女優が男性ロック歌手を演じ話題だが、「テレビ文化がけじめなき社会を作り上げた証明」と批判する専門家もいる。(岡田敏一)

 流行語「どんだけ〜」の生みの親で知られる美容界のカリスマ、IKKOさんや、華道家、假屋崎省吾さんら大勢の中性的な男性タレントが、最新ファッションや美容、グルメ情報などを紹介する日本テレビ系のバラエティ番組「超未来型カリスマSHOW おネエ★MANS」。

 昨年10月から毎週土曜日の午後5時半から約30分間放映しているが、「普通、女性ファッション誌によるテレビ番組の取材は皆無なのに、この番組には取材が殺到しました」と日本テレビ。

 夕方の放送にも関わらず若い女性の支持を獲得し、今月末から放送日時が毎週火曜の午後7時から約1時間と、ゴールデンタイムに格上げ、全国ネットに登場する。

 音楽の世界では、ベテラン男性歌手、徳永英明さんが、小林明子さんの「恋におちて」や、松田聖子さんの「瞳はダイアモンド」といった有名女性歌手のヒット曲をカバーした「VOCALIST(ボーカリスト)」のシリーズが人気だ。

 男性歌手が女性歌手の楽曲に真正面から挑むという業界初の試みだが、平成17年9月の第1弾以来、毎年ほぼ同時期に発売。今回の第3弾(8月発売)までの売り上げ累計は計約150万枚。

 発売元であるユニバーサルミュージックの邦楽部門のひとつ、ユニバーサルシグマでは「主要購買層は20代から30代の女性ですが、予想以上の売り上げ」と説明する。

 ハリウッドでは「サタデー・ナイト・フィーバー」などでおなじみのスター、ジョン・トラボルタが、人気ミュージカルの映画化「ヘアスプレー」(日本公開20日)で特殊メイクで太った中年女性を熱演。

 また、ヒース・レジャーやリチャード・ギアら6人の俳優が米ロック歌手ボブ・ディランを演じ分けるディランの伝記映画「アイム・ノット・ゼア」(米公開11月)では、オスカー女優ケイト・ブランシェットが男装し、エレキギターを抱えて1960年代中期のディランを演じる。

 こうしたブームについて、松浦亜弥さんのものまねなどで人気のタレント、前田健さんは「歌舞伎や宝塚歌劇のように日本では男が女を演じる文化があるが、最近のブームは女性受けを狙ったもの。今の芸能界では女性の人気を獲得しなければスターになれないですから」と分析する。

 一方、メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。

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もう、いかがなもんでしょうと問うのもバカ臭くなるような情けない作文です。

岡田というこの記者はたしかロサンゼルスでオスカーを取材したりしていた芸能記者だったはずです。ブロークバック・マウンテンとクラッシュのときのオスカーの授賞式(2005年?)ではもちょっとまともなことを書いていたように記憶していますが、なんでまたこんな雑な記事を書くようになってしまったんでしょう。いずれにしても東京に帰ったんですね。

だいたい、日本では徳永以前から演歌界では女歌を男が歌うというジェンダーベンディングの伝統があって、それはまあ、歌舞伎から続く男社会の伝統とも関係するのですが、そういうのをぜんぶホッカムリしてこういう作文を書く。大学生の論文だってこれでは不可だ。

いやいや、時野谷なるキョージュの話でした。

>テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。

口から出任せ?
こいつ、ほんとに博士号を持ってるんでしょうか?
恥ずかしいとかいう以前の話。
反論の気すら殺がれるようなアホ。
どういう歴史認識なのでしょうねえ。

テレビの登場以前は、云々、と書き連ねるのも野暮です。ってか、なんで小学生に教えてやるようなことをここで書かねばならないのか、ま、いいわね、どうでも。

しかし、いま私がここで問題にしたいのは、じつはこの時野谷なる人物が、同じ論調の、同じネタで同じように登場してきたというその奇妙さです。もちろん同じネタとコメンテーターのたらい回しという安いメディアの経済学というのは存在します。でも、あまりにも露骨に同じでしょう、上記の2つは?

同じ論調、同じバカ、ってことで思い出したのは、あの、都城や八女市での男女共同参画ジェンダーフリーバッシングのことです。これ、似てませんか? 後ろに統一教会、勝共連合でもいるんでしょうかね。時野谷ってのも、その子飼いですかな。しかし、それにしてもタマが悪いやね。

<参考>
安倍晋三と都城がどう関係するか

October 20, 2007

爆弾武装の“天皇”

言葉が悪いが、「ったく、やりやがったな、赤福め」としか浮かびません。こないだ「不二家や白い恋人とは本質的に違う問題」と指摘したばかりだったのに、じつは同じようにとんでもない事件だった。ニャロメ、ですわ。

こういう問題がどうして報道側に明らかになるかにはいろいろな道筋があります。いずれにしても火のないところに煙は立たずですが、赤福の場合、けっきょく摘発が最後に「余り物の再販、再利用」という疑惑までたどり着くとわかっていて報道側も事前からあおっていたのかどうか。もしそうならそれを読み切れなかった私の甘さですが、まあ、仮にそうだとしてもあのヒステリア状態はルール違反、フライングですけれどね。

さて日本の報道メディアの矛先は今週から少し変わってきました。防衛庁・省の「天皇」の異名もあった守屋武昌前事務次官の、軍需商社とのゴルフ接待癒着へとシフトしてきています。これも赤福同様連日のトップニュース。いまのところ「自衛隊員倫理規定」違反というちっぽけな疑惑ですが、もちろんこんなもので済むほど甘いものではないことは今度は私も知っています。なにせ動いているのはあの東京地検特捜部です。

発端は軍需商社「山田洋行」の元専務が仕事と部下を連れて新しい会社「日本ミライズ」を作ったことのようです。そこで、自衛隊の次期輸送機CXのエンジン契約をその元専務側に取られそうだった山田洋行が、意趣返しとばかりに元専務と守屋の行状を調べ上げた。そうしてリークされたゴルフ癒着。特捜部としてはその後に大規模贈収賄事件という巨悪の摘発を描いていることは間違いありません。

日本の官公庁の怠慢ぶりばかりの目立つ昨今、事件摘発も耐震偽装やライブドアがいまいち尻つぼみでがっかりしたものですが、満を持したかのように東京地検特捜部がこういう動きをするとドキドキしてしまいます。 

さて事件はどう進むのか? まずはその元専務の山田洋行在任中の特別背任という経済事件で入っていくでしょう。そこからがしかしわからない。前次官の国会証人喚問でどんな話が出てくるのかにかかっているからです。爆弾が出てくるのかしらね。まあ、それはないでしょうけど、彼が爆弾を抱えているのは確かです。

なんといっても防衛省の“天皇”なのです。2年をめどに交代するのが普通なのに4年以上も次官職を続けたこの大物官僚と、現大臣でもある石破茂や久間章生、額賀福志郎、瓦力といった防衛族のビッグネームたちが懇ろでなかったと考えるのはあまりにナイーヴでしょう。もちろん守屋の子飼いの防衛庁・省幹部も、です。それらがすべて山田洋行のその専務らとつながるわけであって。

守屋前次官は「組織に迷惑をかけた。組織に話してから説明する」とメディアに話していますが、はて、その落ち着いた顔にはともすると「組織」に伺いを立てる振りをしながら、歴代防衛長官・大臣らの弱みの暴露をちらつかせるような凄みが見えたような見えなかったような……。

前次官の摘発はおそらく避けられないでしょう。しかし彼がどこまで抵抗するか。あるいはどこまで諦めて特捜部に政治家を渡すか。いまきっと永田町と霞ヶ関で熾烈な裏の駆け引きが続いていると思います。

いずれにしてもこれは重大事件です。新テロ対策法なども吹っ飛んでしまうかもしれず、そうなると福田政権の命取りになるかもしれません。その場合は総選挙になる。しばし目が離せない状態が続きそうです。

October 17, 2007

正義の顔したサディズム

亀田だの赤福だのと、なにやらうんざりするニュースが日本から流れてきます。いや、わたしがうんざりしているのは亀田、赤福そのものだけではなくて、むしろその取り上げられ方です。

東京新聞の13日付の一面コラム「筆洗」に「たかだか十八歳の“悪ガキ”が」というふうに綴った、なかなか当を得た文章が載っていました。

わたしも「たかだか18歳の悪ガキ」を主語にすれば、その強がりと敗北とを、こうもマジに怒ったり快哉を叫んだり、むしろふだんはボクシングなんか見ないような人までがまるで百年来のボクシングファンであったかのように「世界戦への冒涜だ」「日本の恥だ」と憤ってみせるのは、さて、いかがなものかと思っちゃう部分があるのです。(「筆洗」は新聞社の顔としてそういうふうにあからさまに過激には論は飛ばしませんが)。

もちろん亀田一家の言動は目に余ります。放送というか後援・プロモーターみたいなTBSも調子に乗り過ぎだ。でもそれにカッカすればするほど視聴率は上がり一家もテレビ局もしてやったりなのでしょう。時代劇じゃないけれど、この一家のことを見るにつけいつも、捨て置け、捨て置けというセリフが口をついて出てしまいます。

つい2か月ほど前には同じようなことが朝青龍について起きていました。これも「国技」を汚した、「横綱」の面汚しだ、というニュアンスでしたが、そりゃ朝青龍もなってないが、しかしそんなに大上段に怒ってみせることなのか。それはもうここに書きましたね。

要約すれば相撲協会なんて、組織としては「なんぼのもんじゃい」ということ。記したように元NHK相撲アナウンサーで現・相撲ジャーナリストの杉山さんの取材証取り上げ問題なんか、むしろそっちのほうが大問題だと思うのですが、しかしこれに関しては「街の声」はどなたも怒ってくれてませんでしたわ。

そして赤福です。

そりゃ「毎日その日の作りたて」と偽ったのは赤福は悪い。でも、問題はそれだけで、ならこれは雪印牛乳や不二家や白い恋人やミートホープとかの不祥事とは本質的に違う話ではないか。

後者はみんな原材料にまかり間違えば腐ってたようなもんを使って出荷していたのです。でも赤福は急速冷凍して加熱解凍したものを「作りたて」と称して出荷していたのが問題。冷凍ならべつに肉や魚でもやってるし、冷凍マグロを生マグロとやったら値段も違ってカネ返せとなるけれど赤福程度なら返ってきても数十円でしょうか。ですんで、これも「おいおいセコいなあ、赤福」という程度のことで、「裏切られた思い」とか「お前も偽装か」とかいう「街の声」を聞くと、なんか違うかなあと思えてしまうんですわ。ま、わたしは赤福なんぞ年に一度食べればいいくらいで、それもべつにそんなに幸せになるほどうまいってもんでもないと思ってるんで、そもそもそういう「街の人」みたいな思い入れがないからそう思うのかもしれませんが。

友人の一人はでも、毎回デパートの物産展で赤福を買うくらいのファン(?)というか親御さんが好きなんで買ってあげるんですって。で、でも「その日に作って空輸するので」という理由で赤福だけ商品の入荷が遅れるんだわね。で、整理券なんか持たされる。

彼女はこう書いてます。
「9時半に行って整理券をもらった私としては腹は立っています。随分余計な勿体をつけやがったな、という心境です。」

これはわかりますね。はは。こういう個人的な思いはどんどん伝えるべきだ。

でも、今回長々とこれらを例示したのは、いずれもそういう「個人」の思いとは毛色の違うように見える、つまりこれら「街の声」の後ろに見え隠れする「正義」のガチムチさ加減です(用語違う?)。肩を怒らせた「正しさ」の嫌らしさ、っていってもよいか。しかもそういうのに限って「日本」だ「国技」だ「伝統」だとやたら話が大きい。怒ってる人自身が権威を体現しているみたいです。

悪者を懲らしめることは必要でしょう。けれどいつの間にか懲らしめること自体が快感になってはいないか。叩き、石打つことを楽しんでいないか? それはサディズムです。イジメやネット上の「マツリ」と同じです。そんな激発的な“正義”の振りかざしが、このところの日本社会に横行しているように見えてなりません。

東京新聞の筆洗子は亀田の件に関して「ちょっと気掛かりなのは、正義役を振られた内藤王者が「“国民”の期待に応えられました」と、コメントしてみせたこと。ヒールを立てて熱狂しやすいこの国で、小泉煽動(せんどう)政治の怖さを体験したばかりだから、なおのことだ。自分が倒したタイの前チャンピオンとの実力比較より、12回保った少年の潜在能力と将来性をもっと称(たた)えてやれば、さらにかっこよかった。斜陽のボクシング業界のためにもなる」と書いてありました。

はたと膝を打つ大人の書き物でした。
「負けたんだから公約どおりに切腹や」なんて言ってるひとたちがとてもカメディに見えます(造語)。

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October 11, 2007

出たか、妖怪!

毎日新聞.jpから抜粋
つまり、レゲエ音楽の流れるCMにIKKOというオネエ(TG? TV?)キャラが出てるのがとんでもないって、レゲエファンがマツリをしたって話ですわ。
西村綾乃記者、よくこのネタを見つけたね。面白い。(ちょっと文章が回りくどくてわかりづらいけど)

MINMI:楽曲提供CMにIKKO出演でバッシング ブログで反論

MINMIさん
 人気レゲエグループ「湘南乃風」の若旦那さん(31)との子供を妊娠中で、12月に出産を控えているソカシンガーのMINMIさん(32)が楽曲提供した化粧品のCMに、美容研究家のIKKOさん(45)が出演していることが、一部のレゲエファンの間で異論を呼び、MINMIさんの公式ブログの使用が一部制限される騒ぎになっている。

 CMは、8月から放送された美禅の「トリートメント・リップ・グロッシー」で、7月に発表したシングル「シャナナ☆」に収録した「MY SONG」が起用されている。だが、MINMIさんが歌う「ソカ」という音楽のルーツとなるレゲエ音楽では、同性愛を認めないというルールがあると解釈している人もおり、ソカシンガーとして世界からも注目されているMINMIさんの楽曲が使用されたCMに、“おねえキャラ”として人気を集めているIKKOさんが出演していることに対し反発した人たちが、MINMIさんのブログに中傷の書き込みを続けたという。そのため、ブログの書き込み機能を制限している。

 MINMIさんは、3日のブログで「CMを創ってる“美禅さん”が曲を気に入ってくれてmy song を使ってくれた。ギャラも発生してないし、出演者のキャスティング、内容とかは、もちろん向こうの制作の方やスタッフが決めて、私の仕事のはんちゅう じゃない」と再反論。続けて「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」とつづっている。

 MINMIさんは、02年8月、50万枚を売り上げたシングル「The Perfect Vision」でデビュー。ソカアーティストとして楽曲制作・提供のほか、イベントプロデュースなど幅広く活動している。【西村綾乃】

ソカはたしかに、ってかジャマイカそのものが土着宗教的にアンチゲイだし、元をただせばアフリカ諸国がそうだからしょうがない(ってわけじゃねえが)。つまりアンチゲイだから唄もそうなるってことです。
それを、日本のこのホモフォウブたちゃ唄とかミュジシャンがそうだからアンチゲイになるって、そりゃあまりに安易に主客転倒じゃねえの、ったく。頭使って考えろよなあ。それ、モジャモジャにするためにくっついてんじゃないんだってえの。

先日、産經新聞にもおバカなジェンダー境界曖昧バッシング作文記事が載ってたようだけど、ほんと、どーしてくれよう。

それにしてもこのMINMIさんとやらのコメントも、前半は及び腰ながら(ってかそれが事実だってことでしょうが)後半は意味やや日本語になってないがなかなか立派。

「もっと日本の今の社会で戦う相手考えたり訴えたりする事があると思う。勇気をもって、自分に正直でいるっこんなタフさとリアルさが私にとってのレゲエ。魂なんか全く売る気ないよ」
=翻訳=
「あんたら、そんなくだらんこと言ってるひまあったら、もっと戦うべき相手や訴えるべき事がこの日本社会の中にはたくさんあるでしょ。それを考えれや、なあ。IKKOがどうだとかは知らんけど、自分に正直でいるってすごい勇気だし、そういうタフさとリアルさとがわたしにとってレゲエから学んだもんだい。そのスピリッツを、あんたらがこのブログサイトを祭ったくらいで、あたしゃぜったいに手放したりはしないよ、あほ!」ってことですわね。

応援コメントは次の彼女のブログ・サイトからどんぞ。
http://blog.excite.co.jp/minmiblog/
って書いてから、上記ブログ、コメント制限してる事に気づきました。失礼。
どうにか、でも、彼女に応援コメントを伝えたいね。

それと、その化粧品メーカーのサイトはどうなんでしょ。
こりゃきっと、そのファッショ・ラスタファ連中がアンチゲイメールを殺到させてるかもしれない。
そうなったら、マジ、これはバカのたわ言じゃなくなるわ。

September 25, 2007

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」

「死刑執行はベルトコンベヤー式で」 鳩山法相が考え

ってえashi.com早版での見出しが、いま見たら変わってた。

「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言

と。
記事内容は以下のごとし。

**
2007年09月25日11時41分
 死刑執行命令書に法相が署名する現在の死刑執行の仕組みについて、鳩山法相は25日午前の退任記者会見で「大臣が判子を押すか押さないかが議論になるのが良いことと思えない。大臣に責任を押っかぶせるような形ではなく執行の規定が自動的に進むような方法がないのかと思う」と述べ、見直しを「提言」した。

 現在は法務省が起案した命令書に法相が署名。5日以内に執行される仕組みになっている。

 鳩山法相は「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが、乱数表か分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば(執行される死刑確定者が)次は誰かという議論にはならない」と発言。「だれだって判子ついて死刑執行したいと思わない」「大臣の死生観によって影響を受ける」として、法相の信条により死刑が執行されない場合がある現在の制度に疑問を呈した。

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「ベルトコンベヤーって言っちゃいけないが」というところのこの「言っちゃいけないが」があるんで救われた格好。しかし、これ、言外の意味では「言っちゃいけないが、そんな感じの方式で」という意味でしょう。それを酌んで変更後の文言も「自動的に進むべき」となった。ということは最初の見出しだって、鳩山さんの言いづらいところを代わって言ってあげた、ってことでしょうがねえ。でも、「言っちゃいけない」って言っている比喩を「言った」こととして見出しにするのは言葉尻というか揚げ足というか、意地悪じゃないかね、と夕刊早版デスク会議で朝日社内のだれかが言ったんだろうねえ。 まあ、鳩山側から文句出てくるでしょうねえ、と。

しっかし問題は、その鳩山の口から「ベルトコンベヤー」という単語が出てくることそれ自体なのだ。思考の歩幅のとんでもない雑さのことです。自民党にはほんと(民主党にもいますがね)、往々にしてこの手の輩がうんざりするほど多いんだわ。

一昔前までは「死刑制度があってもなくても凶悪犯罪の発生率は変わらない」という調査結果が主流で、私も、それじゃ死刑があったってそれは報復のためでしかなくて、未来のためにはなんにもならんじゃん、という意味で死刑廃止論者だった。しかしいまでは死刑制度が確実に凶悪犯罪への抑止効果を持つという調査結果が出て来ていて、さていったいどういうことなのか。

もしそれが本当なら死刑反対論の背骨はほぼ冤罪の可能性だけとなり、私のスタンスも変わらざるを得なくなる。殺人は、とにかくまずは死刑。デフォルトとしてそこから始まる。そんで、どんなけ情状を酌量できるか、そのよほど特別な例外点を引き算していく。もちろん冤罪の恐れのある場合は……云々、クンヌン、と。アメリカ生活が長くなったせいかなあ。刑罰は懲罰ではなく、更生のためだという、そういう理念だけじゃダメなやつも、たしかにいるんだものさ。そういうやつを国家が殺してくれなければ、被害者の遺族なりがそいつを報復として殺してしまって、新たな不要な殺人犯を生み出すことも想定される。国家が裁くこと=殺すことで、建前上は恣意的な仇討ちがなくなったということになっているわけだからして……。うーん、わからん。

しかし、ベルトコンベアとか乱数表とかって、それって屠殺場の発想でしょう。そういう連想、そういう言葉を死刑執行の比喩としてだって口に出せるやつは、なんか、どっかすごく重大なところで間違ってるわってまずは思うわけですわ。肝心なのは、上記の、「うーん、わからん」ということなのだと。

法相は、国民の名において死刑を執行するのです。上記の「うーん、わからん」を含め、死刑制度自体が内包する自家撞着のジレンマに、1億2千万の人間としての苦渋を込めて、判をつく、あるいは逆に判をつかない決断をするってのが当然でしょうが。死刑ってのはそういうところでかろうじて成り立っているもんだろうし、それを司る代表者ってのはそういう責任と重圧と(死刑に判をつかないことも含めて)に耐えるもんであることがアプリオリに求められる。だから安倍だって頓死したんだろうに。

そこを簡単に済ませてもらっちゃ違うんだってことを、どうしてこのバカはわからんのだろう。ってか、そういう機微についてバカだから政治家になれたんでしょうね。私がいつも感じる政治家という存在の、思考形態の空虚さというのの、典型がまた簡単に例示されてしまう形です。情けないというか呆れるというか。

September 23, 2007

マッチポンプ

年金も、格差も、外国からの(軍事的)信用も、障害者自立支援法のとんでもない欠陥も、シャッター通りの疲弊も、農業の衰退も、環境悪化も、山野の荒廃も、珊瑚礁の死滅も、安倍の頓死も、政治不信も、そうして郵便ポストが赤いのも、みんなみんな、自民党の政治の下で起こったことで、それをネタにして「これじゃいけない」「改革だ」「私が全力を尽くして打ち込む」というのは、どーなんでしょう、そういうの、茶番というか、もっとはっきり言って、マッチポンプとかいうんじゃないでしょうか?

自分で火をつけて、火元にいちばん近いこの私が消してみせますと言って歓心を買う放火犯と同じということです。そういうの、通用するんですか? するんだろうねえ、この流れじゃ。でも、メディアがそれに対して無批判なのはどういうことなのでしょう。まあ、テレビは言論機関ではないからしょうがないのか。

日本にいないのでよくわかりませんが(これはじつに都合の良い便利なエクスキューズですわね)、メディア、とくにこちらで放送されているNHKもフジも、ニュースはいつも最初がこの自民党の総裁選挙でした。まるで朝青龍問題にすっかり取って代わったスクラム状態です。まあ中学生なら総裁と総理がどう違うのかよくわからないのも宜なるかな。しかしねえ。

もちろん自民党総裁が日本国総理大臣に直結するというのが集中報道の言い訳なんでしょうが、しかし、政治状況の変化の割には総裁選の報道のあり方があまりにお祭り的に旧態依然であって、現在のこの火急の時勢にまったく、無神経という印象です。だって、それこそ冒頭で書いた、放火消火犯そのものの演説を無批判に垂れ流ししているだけですからね。(でも、日本記者クラブでの福田・麻生両者の突っ込み合いはドキドキするくらい恥ずかしくて面白かったわ)

それも今日で終わって、福田の選出となるわけですが、時事がさきほどこんなニュースを配信しました。

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米艦、イラク戦使用の可能性=インド洋の海自給油活動で−自民・福田氏
(時事通信社 - 09月23日 13:11)

 自民党総裁選に立候補した福田康夫元官房長官は23日午前のテレビ朝日の番組で、テロ対策特別措置法に基づき海上自衛隊がインド洋で給油した米国艦艇が、イラク戦争に参加した可能性があるとの見解を明らかにした。
 福田氏は「インド洋(で活動する米艦)と思っていたものが途中から『イラクに行ってくれ』ということも、あったかもしれない」と述べ、米国に情報提供を求める考えを示した。 
[時事通信社]

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このひと、いったいどこまで本気なんでしょうかね。テレビ中継されてた、二度繰り返しの「ねえ、麻生候補もおなじですよね、ね」という、あの、言うに事欠いて同意を求めるような哀願しどろもどろの結句といい、いやはや、この人に任せていたら、たしかに日本は軍事強硬策には出ないだろうなあという、平和ボケならぬボケ平和的な政治姿勢。

ひょっとしたら、福田の方が総理大臣にはいいかもしれませんね。イラク給油暴露発言も、あるいは確信犯なのかも。

さて、総裁選投票箱がいま開けられました(同時中継)。
ちょっと見ていましょう。

出ました。
総数528票 無効1票
福田 330票(うち地方76票 議員票254票)
麻生 197票(  同 65票  同 132票)

ということでした。
ふむ、やっぱり麻生、予想より取りましたね。
さて、福田総裁政権、いつまで持つのでしょうか。

September 16, 2007

自民党総裁選立会演説会

立会演説会がNYでもTVジャパンでいま現在、生中継されています。

福田の呂律がじゃっかん回ってない。緊張のせいでしょうか。それとも年齢のせいか。つばが出てないようです。口の中が乾いている感じです。

思えば1年前、安倍の総裁選演説で、眼球振盪があったのを覚えています。この眼振はその後、つねにストレスが強まると出てきた。

福田の呂律は何を意味しているんでしょうね。
71歳。
まあ、年だわねえ。

福田が総理になれば、安倍みたいに余計なことはしないだろうからその意味ではまあいいかなとも思うのもわかる。民主党も福田では違いを打ち出していくのも難しいから戦いにくいでしょう。

でもね、福田がどうだ、小沢がどうだ、という問題ではないのですわ。問題は、二大政党という、政治の流動的な力学、ダイナミズムを作らねば日本の政治はどうにもよくならないということなのです。民主は、そこをどうわかりやすく国民に訴えていけるか。それが鍵でしょうね。

おっと、麻生の演説が始まった。
文節の終わりの音節が長く伸びる変なしゃべり方ですねえ。
変なリズム。
「危機に〜、臨んで〜っ、」「その〜、二文字とは〜、希望で〜あります」。

だんだん、演説がおかしな歌みたいになってく。紋切り型の単語と熟語が増えてきた。

「世界が〜、それに〜、耳を〜、傾けます」
「40,50にもなれば〜、己の顔に〜、自信を持てと〜、言われます」

両候補とも、言葉の力を、あまりに矮小化した演説。譬え話もあまりに陳腐。こんなブルシットしか開陳できない。

なさけないねえ。

と思って聞いてたら、麻生、後半10分の演説、印象が変わりました。
俄然説得力があったわね。リズムも変わった。言いたいことを言ったし、具体的でした。ふむ。

「インド洋をテロリストの勝手にさせない」という部分だけは事実誤認のミスリードですが。あの貧乏なテロリスト連中がインド洋をどうにかできるもんではない。

しかしこの演説の後半部で、派閥の数だけでなくもうちょっと票が伸びるかもしれんな、こりゃ。

September 14, 2007

けっきょく福田だ

また派閥の数関係ですぐに結果の予想できる自民党総裁選となりましたね。

麻生はいかにもお調子者でハシャギ過ぎの、北海道弁で言えば「すぐにおだつ奴」で、安倍とは別のタイプのお坊ちゃん。オタクだのマンガだの、しゃーしゃーと恥ずかしいことを得意になって言っちゃうのは、子供時分から周囲に「恥ずかしい」と進言してやるやつがいなかったからでしょう。したがってこいつもまた、空気の読めないやつである。頭よくないのかなあ。

福田は、見るからに他力本願。新聞記者たちもやりづらいでしょうねえ。こいつは肝心なことは話さない。でも、話さないのは、じつは自分で独自に考えていることがないからなんです。今回の総裁選も、自分に勝機があるというだけで出馬を決断した。政策は「これから執行部やみなさんと相談して考える」というタイプ。企業のラインを務め上げるそつのない日本のサラリーマンですわね。

自民は福田のそつのなさで(言い方を変えれば、面白味のなさで)、民主の攻勢を真綿で受け止めるようにして(言い方を変えれば、だらっとした気分をよみがえらせ)世論の熱気を冷まそうとするでしょう。で、解散総選挙はできるだけ先延ばしにする。で、元の木阿弥。

そうしておいて勢いをそがれた民主に大同団結を持ちかけて、憲法改正翼賛会。自民のハト派が盛り返すなんてこともありそうにないですからね。逆に民主の松下政経塾の連中がそんな自民に秋波を送るでしょうし。

以上が最悪のシナリオ。
いやもっと悪いのもありそうですが。

そうならないためには、とにかく早く解散・総選挙ですよ。

September 13, 2007

北の湖という男

朝青龍のときに書こうかどうかと迷っていてけっきょく書かずじまいだったのは、北の湖というのが私の中学時代からの親友の親戚だったということもあるんですけど、今回はやっぱり書かねばと思います。

この話です。nikkansports.comからの転載です。

「評論家」改め「会友」で杉山氏に取材証
(日刊スポーツ - 09月13日 10:04)

 日本相撲協会の北の湖理事長(54=元横綱)が、元NHKアナウンサーの杉山邦博氏(76)の「取材証」を10日に没収した問題で、同理事長は12日、杉山氏への措置を撤回して取材証を本人に返還した。

 両者はこの日午後1時30分から両国国技館内の理事室で約10分、話し合った。北の湖理事長は、前日11日に東京相撲記者クラブの抗議文への回答で示した没収理由の1つ「本場所で取材証を持って取材できるクラブの会友であるのに、相撲評論家などの肩書でテレビに出ていた」をあらためて主張。杉山氏が「その点は配慮を欠いた。これからは会友として出演する。今後も相撲協会の応援団の一員です」と返すと、あっさり取材証を返還した。

 一方で、もう1つの理由「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという。その上で、東京相撲記者クラブには「協会への批判等は真摯(しんし)に受け止める」などと回答した。また、杉山氏に対して10日に十分な説明もなく取材証を没収した行為への抗議については「今後、取材者に返還要求をする際は、事前に東京相撲記者クラブに相談する」と約束した。【柳田通斉】

この北の湖という男に関しては、実は個人的な思い出があります。
2000年のことでしたか、じつはこれも友人のドキュメンタリー映画作家が日米関係における「相撲」の文化的考察を撮りたいというので、私に日本でのロケの手伝いを頼んできたことがありました。それでぜんぜん畑の違う話ではあったけれど、私が相撲協会から学識者から相撲部屋からいろいろと取材と撮影のアポを取って日本各地で数週間にわたるロケを敢行したわけです。

北の湖は当時まだ、理事長ではなく、本場所でも順番持ち回りで花道の警備みたいなことをしていました。そこに私たちがカメラを抱えて土俵を撮影する構えに入っていたのです。そのとき、近くにいた北の湖があの大きな体で無言でカメラの前に背を向けて立ちはだかったのでした。通訳もしていたのでそういうところにも立ち会っていた私はいっしゅん、こいつが何をしようとしているのかわかりませんでした。もちろん撮影は相撲協会の許可を取って、花道の撮影場所まで届けてあります。その日だって別に初めての日ではなく、北の湖だってそれまでも何度も本場所を写している私たちの姿を見ていたはず。で、その日はたまたま自分の近くに私たちがやってきたというわけでした。

北の湖は、その背で、わざとカメラを邪魔していたのです。アメリカ人のカメラマン(女性)も相手が何をやっているのか理解できず、邪魔だというのも日本式には礼を失するかもしれないと変に心配して(とあとから言っていました)右にずれてカメラを構えます。すると北の湖も右にずれてきます。左にずれる、すると北の湖も左に一歩。困っている彼女の顔が見えます。

私はとうとうたまらずに「北の湖さん、撮影してるんですが、よろしいですか?」と声を掛けました。
すると彼は「何だ? 撮影?」と振り返りました。アメリカ人の制作スタッフの方は見ません。私がもういちど「ドキュメンタリー映画を撮影してるんです」と言うと、彼は「そんな話、聞いてない」と言います。「協会に許可は取ってありますが」と言葉を返すと、「知らん」と言ってまた背を向けました。

知らないはずはないのです。それまで協会事務所でも顔を見ていますし、なにせこちらはアメリカ人。カメラやマイクを抱えた外人の姿など、両国の国技館には私たち以外にはいないし、ほかの理事へのインタビューや相撲学校の取材でもう何日も両国に通っていました。北の湖は、ただ、自分へ取材がない,挨拶がないのが面白くなかったのでしょう。それもガキだが、それでそんな嫌がらせをして憂さを晴らそうとしているのも呆れるガキです。そうわかったときに、なんとまあ、相撲協会というのはダメなやつばかりで作られているのだと思ったものでした。はっきりいって北の湖だけではなかったですからね、取材対応のできていないのは。協会の職員までもが同じ体質。相撲の外の世界のことが何も見えてない。協会の内部の論理だけで生きていられると思っている。というかもっと簡単なこととして、一個の大人としてまともに話せるやつがほとんどいないのです。おまけにカネにものすごく汚い。よっぽど困ってたんでしょうかね。

で、さきほどの花道での顛末は、私がやや声を強めて「協会の許可があなたに届いていないということですね」と念を押したら、「いや、知ってるよ」と急にニタニタ顔になって脇に寄って終わり、というものでした。おいおい、これって50になりなんとする男(当時)のやることか?

ああ、こいつはダメだと思ってたら、その何年か後に理事長になった。

で、こないだの朝青龍です。

朝青龍も朝青龍ですが、北の湖が理事長をやっているんだから、あの協会決定の懲罰も公正なものというより子供っぽい報復とか嫌がらせとかいじめとかいう要素があるんだろうなあというのが私の印象でした。くだらなくて、コメントすらバカ臭い。国技とかいってるが、そんなもんです。

そして今回のこの「記者証」問題。

「評論家に取材証は出せない」って、どういう論理でしょう。記者だって評論します。コメントを求められれば評論です。嫌がらせでしょう、これ。同じなんですよ。

また、「出演番組でほかの出演者の批判的なコメントに、杉山氏がうなずいて同意した。協会批判だ」とした点については、何をか言わんやです。自分のことをなんだと思ってるんだ。フセインか、金正日か? 協会批判をした記者は取材証を没収されるということなのでしょうか。「杉山氏が意見を述べようとすると「もう、この件は終わりです」と論争を避けるような態度を取ったという」のは、いったい、どう片を付けたということなのでしょうか? これも私たちに「いや、知ってるよ」と急に掌を返したように対応を変えて、それでなかったことにしたのと、まったく、呆れるほど同じパタンです。で、協会批判は記者証没収の要件なのかどうなのか、東京相撲記者クラブはこの白黒をはっきりさせるべきですわね。

一事が万事。北の湖という下司のアタマの中は、そういう短絡でごちゃごちゃです。朝青龍問題でもけっきょく一度もまともに言葉を発して説明していない。説明できないのでしょう。何度も言うようですが、なにせ嫌がらせといじめが動機なのですから。

そういうことですので、相撲協会のことなどまともに考えるのもバカらしい。だいたい税金もろくに払わないような連中ですよ。7年前の経験からいうと、まともな人も多くいましたが、そういう人たちはほとんど協会では傍流でしたね。惨憺たるものです。

朝青龍の件はどっちもどっちですからどうでもよかったが、今回の杉山さんの件は、ことは言論の自由の問題なのです。

September 12, 2007

総理という重圧

朝起きたらこれだもの、びっくりしたというか、呆れたというか。
しかし、ロバの背を折る最後の藁はどうも健康と自身の金の問題のようですね。

「なんでこんな時期に」というのはみんな同じ反応で私もそうだったんですが、よく考えればそれは安倍自身もそうなわけで、つまりこれはこうせざるを得なかった要因があるんだと思います。それは「党首会談を断られた」などとかいう政治的たわ言なんかではなくて、つまり、ぶっ倒れたってことなんでしょう。

総理大臣ってのはたしかにすごい重圧で、小渕はこれで死んでしまった。大平もそう。あの竹下ですら時限爆弾のように頓死です。角栄だって口が曲がったのは元をただせば総理時代。そんなところに、お坊ちゃんの安倍が就いたこと自体、そもそもの日本の不幸だったのかもしれません。

だいたい、この人、興奮すると呂律が回らなくなり、声がうわずるという、普段のオットリ顔と相反するジキル・ハイド型の政治家。しかもそれに自身が対応できないので、ストレスをためるしかない。「職責にしがみつく」なんていう、意味の通じない日本語が出てくるのも、総身に知恵が周り兼ね、のチグハグさ、精神の一体感の喪失の現れなんだと思います。そもそも、「美しい国」だなんて、字面だけはいいものの内容がさっぱり美しくない彼のビジョンの、国民の意思との一体感の喪失がじわじわと覆いかぶさってたわけですし。ボディブローですよ。

で、そうした精神ストレスが極限に達した。そりゃ達しますわね。医者じゃないんで専門的なことはわからんが、で、下痢が止まらない。胃腸がギタギタになってるんだわ。そこに自身のカネのスキャンダルが出てきそうになってる。もうこりゃたまらんでしょう。

ストレス死ですね、これは。TKOですよ。
坊ちゃんがマッチョを気取るとろくなこたあない。
ってか、マッチョを気取ると誰にしてもろくなこたあないのでしょう。

岸信介は総理を辞したあとも昭和の妖怪として汚い蓄財と裏政治への介入を続けていました。
安倍にはそういうことをさせますまい。まあ、彼の政治生命はほとんど終わりでしょうが、安倍的なものにもトドメをうちたいものです。(うっ、マッチョ発言……すんません)

September 05, 2007

ビリーズ・ブートキャンプ

ビザ更新のために1カか月ほど日本に帰っていましたが、帰るなり友人たちに聞かれたのが「ビリーズ・ブートキャンプって知ってる?」という質問でした。「は?」と聞き返すも相手は「アメリカで大流行のエクササイズだよ」という説明で、こちらとしてはさっぱりわかりません。「そんなの流行ってねえよ」と抗弁しようにも断言できるほどの自信はなく、しまいにはアメリカに住んでるのになにも知らないんだと憐れんでくれる輩も。

テレビつけたらすぐにわかりました。ブートキャンプとは泣く子も黙る海兵隊新兵用の猛烈特訓キャンプのことなんだけど、テレビ画面にはどこかで見たことのある黒人インストラクターが日本語のアテレコで、インフォマーシャルっぽいプロモーションをやたらとやっているわけ。つまり彼のワークアウト・ビデオのことだったのですね。

で、思い出しました。この男、10年くらい前にテコンドーとボクシングを合わせた「テイ・ボウ」なるトレーニング法を考案してアメリカのパブリックチャンネル枠を買い込んでやはり盛んにインフォマーシャルを流していた人。しかしあのころはポニーテールの人だとかモジャモジャ頭の人だとか、いろんなワークアウトのインストラクターがいたなあ。アブなんとかという腹筋器具も手を替え品を替え売っていたっけ。

で、ビリーズ・ブートキャンプ、知らないのは私ばかりかと思ってアメリカにいる友人たちにも聞いてみたのですが、やはり誰ひとりとして知らなかったぞ。しかし日本ではみんな知っていた。なにせ75歳の、実家で一人暮らしの私の母親まで知っていたくらいです。日本側にだれかうまい仕掛人がいたんだろうけど、それにしても日米のこの温度差はいったい何なんでしょうね。

思えばアメリカに来てそういうことがままありました。日本ではかまびすしく「全米で大人気」とか喧伝されているものが、こちらでは「え?」という感じなことがざら。ニューヨークでヒットしたものなんてこの15年で、そうねえ、まずはローラーブレードとスポーツジムかなあ、そんで95年以降にエスプレッソバーが林立し始めたと思ったらそれがあっというまにスターバックスにぜんぶ変身し、それからiPodだね。そんでもって、スシもそうか。それくらいのもんじゃないでしょうか……。

そういえば日本で公開される映画に「全米ナンバー1の大ヒット」とあおられるのがやけに多いと思っていたら、それは毎週明けに発表される週末の映画興行収入ランクでの瞬間風速だというカラクリもこちらに来てから知りました。

それにしても瞬間的な「なんとかブーム」というのが日本には多過ぎるような気がします。(あるある大事典の)寒天とか納豆とかはすぐに売り切れるし、ティラミスからナタデココからたまごっちから、なにかに火がつくと全国的に猫も杓子もそれ一色になってしまう。まあ、アメリカでも最近はゲーム機やアイフォンに行列ができるなど、なんだかオタク化、日本化の進む消費者層も生まれてきましたが。

これにはマスメディア、とくにテレビの影響があるのでしょう。どのチャンネルも同じ内容の横並び。8月は朝青龍一色でうんざりでした。朝青龍よりメディア・スクラムの問題の方が重大です。大袈裟だけど、こりゃあ大政翼賛ファッショと同じメカニズムなんですわいな。国土の狭さと、TVネットワークの東京集中のせいかなあ。朝青龍なんてどうでもいいでしょう。だいたい、相撲協会なんてものすごくくだらない連中が運営してるわけで、国技とはいえ、朝青龍の傍若無人とどっちもどっちなんです。しかも仮病疑惑が尽きないとはいえ、いちおう精神疾患(神経疾患?)と診断された人物をああやって自宅から空港から、飛行機内まで、追いかけ回していいものですか? ひでえよ、テレビ局。

テレビ、電話、漫画はクールメディアだって40年も前にマクルーハンは言いましたが、あのころからよく言ってる意味わからなかったんだけど、時代を経てその分類はすべて逆転したみたいです。当時ホットメディアとされた新聞やラジオ、映画などはいまや受容者の頭を冷やすクールメディアのようです。

思えば、それって単に当時はテレビや電話や漫画が日常にそんなに即してなかったからじゃないのかなあ。マクルーハンはえらく御託を並べてたが、あれは当時もブルシットでしたものね。いまやテレビと携帯と漫画くらい人を熱くするものはない。えらい迷惑です。

ということで、書きなぐりの感のある今回のこれにオチはありません。はは。悪しからず。

August 27, 2007

恥で倒れた仏像

民主党の小沢代表が「アフガン戦争はアメリカの戦争」と言ってテロ特措法の延長に反対していますが、アフガン戦争とイラク戦争とを明確に区別できる人がいまどれくらいいるかというと、当事者のアメリカ人でさえあまりいないんじゃないかというのが正直な印象です。

日本だってそうでしょう。いまさっきもテレビで評論家諸氏がしっかりと「イラク戦争」と言い間違えてましたし。じつは小沢は、そんな“混乱”をうまく利用してテレビ中継までさせてシーファー大使に直かに反対を伝える政治演出を見せたんだと思ってるんですが、さて、どうなんでしょうね。

そもそも小沢の今回の特措法延長反対の宣言の真意は、確かに「アメリカにノーと言える政治家であるということの演出」ではありながらも、じつはアメリカそのものへの強気の「ノー」ではなくて、ブッシュ政権への「ノー」なのですね。ブッシュ不人気はもう米国内だけの現象ではなく、そうした国際的な「脱ブッシュ」の列に加わってみせたからといって日本の国益はそう損なわれまい。もし損なわれたとしても次のヒラリー率いる民主党政権(?)との関係でいくらでも修復できる、そうふんでの小沢一流の政治演出なのではないかと思えました。日本じゃテレビに登場する評論家たちのだれもそんなこと言ってないけど。

ただしこの小沢演出には落とし穴があるのです。

おさらいしてみましょう。
アフガン戦争のきっかけはイラク戦争と同じく例の9・11でした。ブッシュは世界貿易センタービルを破壊されて拳を振り上げた。それはよいのですが、さあさてそれをどこに振り落とせばよいのか、なにせ相手は国家ではなくて流浪のテロリスト、どこに拠点があるかも分からない。で、9.11の下手人としたオサマ・ビン・ラーディン率いる武装組織アルカイダを、アフガンのイスラム原理主義政権党タリバンがかくまっているとして、それでアフガニスタンに拳を振り下ろすことにした、というのが始まりでした。これで体裁は対アルカイダ=対タリバン=対アフガンという国家間の戦争になったのです。思い出してください。当時、アフガン空爆が「これは戦争か?」とさんざん議論されていたことを。

ところが数億ドルもかけて空爆・ミサイル攻撃しても破壊するのが数百円の遊牧テントだった。世界最貧国への攻撃というのは、じつにどうにも“戦果”が上がらない。箱モノ行政の逆ですね。おまけにどこに行ったかビン・ラーディンもさっぱり捕まらない。そこで国民の目をイラクの独裁者フセイン大統領に逸らせた、というのが次のイラク戦争でした。

米国では現在、撤退論かまびすしいイラク戦争に対して、アフガン戦争はあまり話題に上っていません。というのも、アフガン戦線はじつは昨年7月から軍事指揮権が北大西洋条約機構(NATO)に移行し、英・加・蘭・伊・独が主力構成軍です。米国はそうしてイラク戦とアフガンでのビン・ラーディン狩りに戦力を傾注した。なもんで、アフガン戦争を「アメリカの戦争」と言い切ってそれで済むかというと、それはちょっと違うのです。

しかもアフガニスタンは米国の石油戦略にとって重要な中央アジアからの天然ガス・石油パイプラインの敷設予定ルートでもあって、見捨てるわけにはいかない土地です。次期大統領を狙うヒラリーにしても撤退などは口にしていません。NATO諸国にとっても同じでしょうし、日本だってテロ特措法を成立させた当時の小泉政権は日米同盟と同時に石油のことも考えていたに違いありません。

そういう意味で、小沢のテロ特措法延長反対=アフガン戦線からの離脱宣言は、国内向けには演出で済むが、国際的にはよほど裏ですり合わせしなければならない事案なのです。日本の民主党は一刻も早く米民主党およびNATO諸国とそのあたりについてきちんと協議できるパイプを敷設すべきでしょう。

ただし、そこには問題があります。アフガン戦線はイラク戦争と同様に泥沼化してとんでもないことになっています。カルザイ政権も弱体のままです。アフガンへの関与は本来、自衛隊による給油活動などといった程度では済まされないはずのものです。もちろんそれは軍事後方支援などという単純なものではない。日本にはそうしたコミットメントの十全の覚悟があるのかどうか。

アフガンのあのバーミヤンの大仏がタリバンによって破壊されたとき、私たちはそれ以上に多くの人間の生と生活の破壊があったことも知らずに憤慨してみせました。あのときイランの映画監督マフマルバフはこう言ったものです。「あの仏像は誰が破壊したのでもない。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知を恥じて」──私たちはまだ無知なままなのです。

August 07, 2007

辞めないのは何故だ?

参院選明けから日本にまたまた一時帰国しています。尾辻かな子の愕然とするほどの得票の少なさに関してはすでに他のところに書いたため、それが発行されるまではここに掲載できません。ま、次あたりのブログでちょいと触れるかもしれないけど、それはさておき、アベはまだ辞めていません(笑)。ひょっとすると世論や新聞論評で叩かれ「辞めないのは何故だ?」と書くコラムがすぐ無駄になるかもしれないと思って様子見をしてたんですが、もう選挙から1週間以上経って、こいつぁ本当に辞める気がないようです。なら書いても大丈夫かと。しかしすごい神経、執着ですな。次のいない自民党のていたらくもひどいもんです。だいたいモリなんてのがまだキングメーカーを自称してるなんて、こっちもどういう神経をしてるんだか。

「国民と約束したことを実現するのが私の責任」と言い張る首相を見てすぐに連想したのがミャンマーのタン・シュエとかジンバブエのムガベとかポーランドのカチンスキ兄弟とか、いわゆる軍事政権や宗教政権といった強権・独裁政権の自称・国家元首のことです。同じ神経構造なんだな。

「国民と約束したこと」とはけっきょくは新憲法制定など例の「美しい国」造りのことなんでしょう。が、これは自民党総裁選での「約束」をアベが勝手に「国民との約束」だとすり替えただけの話。急に「約束」と言われてもこちらとしてはおいおい、聞いてないぞの寝耳に水の話。そういえばムガベなんかも「この窮状を打破すべく」といって20年も大統領の座に居座っている。「窮状」は自分のせいなのに。

続投の拠って立つ建前のもう一つは「参院選は衆院選と違い首相を選ぶ政権選択選挙ではない」というものですが、では国民はどうやったらその時々の政権にノーといえばよいのか。

そういえば政府・自民党は先の郵政国会・参院で民営化法案が否決されたとき、その肩代わりに衆院を解散して総選挙に討って出たのでした。時の政権がそうやって参院選と衆院選とをすり替えて“信を問う”たのなら、国民としても今回、参院と衆院を入れ替えて不信を突きつけたのも宜(むべ)なるかな。因果応報とはこのことぞ、と私なんぞは膝を打ったのですが、「小沢さんか私か」とまるで政権選択選挙のように訴えていたアベ自身はなぜかコロリと変身して言わなかったフリです。選挙後の共同記者会見がテレビ中継されてて、その点を朝日の記者が衝いてたが、どうも質問というか詰めが甘いもんだから、なんだか単にご機嫌伺いの三河屋のご用聞きみたいな話し方でした。他の記者も若いのか、みんな敬語の使い方ばかりが気になるような輩ばかりで、おいおい、どうして自民党総裁への質問がああも丁寧語オブセッションみたいになるんでしょうかねえ。情けないったらありゃしねえ。

アベなんてこれまでぜんぶがあの郵政総選挙での圧倒的な数を背景にいわば他人のふんどしで強行採決という相撲を取ってきた人。にもかかわらず口癖は「私の内閣」「私の政府」とやたらと「私」。自著にも「わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道(政治家)を選んだのだ」とあり、この自意識というか「私物」意識が猛烈に強い。それがすべてを自分に引きつけて都合の良いように解釈してみせる強引さともつながるのでしょう。こんな激甚な議席減をも「国民からのしっかりしろという叱咤激励」と言われては「国民」も立場がありません。「再チャレンジ」ってのはありゃ自分のための標語だったって、そりゃ笑い話にもならない。まいったね。

自民党はこれまで国民政党として曲がりなりにも選挙結果や国民世論には謙虚であってきました。唯一「昭和の妖怪」といわれたアベ祖父の岸信介だけが安保デモを背景に当時の元首相3人が退陣勧告をするに及ぶほどの執着を見せたのです。今回も森・中川・青木の自民3人組が「辞任もやむなし」と進言しようとしたというのですが、アベに突っぱねられすごすご引き下がるなど、自浄作用はもうないのかしら。まあ、火中の栗を拾おうというヤツもいないんだろうがね。

改憲論を含め意固地なところもそっくり祖父から引き継いだ孫。これってひょっとすると「昭和の妖怪」が平成にバケ出てきてるんでしょうかね。連日30度を超える温暖化猛暑の東京で、いやな怪談が続いていますわ。

July 28, 2007

転載「最後のお願い」

日本では、投票日はもう明日ですか。

選挙のことを書くと、「こういうのは選挙違反になる」「自分のブログに特定候補の応援を公然と書いている。公選法で逮捕されてしまえ」という、いったい、こいつは全体主義の標榜者かというようなとんちんかんを書き連ねる輩が最近、とても増えているような気がします。まあ、ウェブサイトの発信の容易性の為せる業なんでしょうが、どうしてこういう、自分で自分の首を絞めるのが好きな連中がいるんだろうなあ。気づいていないんでしょうね。

基本は、個人の名の下に、自由にものが話せる、意見を述べられる。これが近代社会の基本です。だから憲法でも保障されている。それが許されないなら、そういう公選法の方が悪いのです(ってか、今の日本の公選法はそうはなっていないですから問題ないんですけどね)。

さて、私のところに、「最後のお願い」と題した次のようなメールが届きました。
なるほど、とても切実な思いが綴られています。
こういうきちんとしたことを、若い連中が書いてくれるんだなあ。
うれしいなあ。
ということで、ここに転載します。読んでみてやってください。

***

「世界が100人の村だったら」にはこう書かれています。
 異性愛者は89人います。
 同性愛者は11人います。

 日本にそんなに同性愛者がいるでしょうか?
 誰にもわかりません。
 少なくとも100人のうち3人か4人はいるだろう…とは言われています。
「いない」のではなく、きっと「見えない」のです。「ここにいるよ」と言うことができないのです。

 アフリカのある国の大統領はこう言いました。
「我が国には同性愛者などいない。いるとしたら、よその国に出て行ってくれ」
 そして、いまだに同性愛者だというだけで死刑になる国が世界に9つもあります。

 日本に生まれた同性愛者たちは、そうした国々に比べたらしあわせなのでしょう。
 でも、本当に私たちはしあわせでしょうか?

 思い出してください。
 あなたの周りで、今までにどれだけのゲイやレズビアンの友達が亡くなりましたか?
 日本でいちばん多い死因は、ガンや心筋梗塞です。
 でも、私たちの周りの友人たちは、同性愛者として生きて行ける自信がなくなって自殺してしまったり、エイズを発症したり、そうやって亡くなっていく方がなんと多かったことか…

 日本は先進国一の自殺大国ですが、それでも年間に自殺で亡くなるのは100人あたり0.024人です。
 今年の3月、ゲイの学生さんが自殺で亡くなりました。夢を抱いて生きてるはずの学生さんが…胸が痛みます。
 今もなんと多くの方が、未来に希望が持てず、命を絶っていることでしょう。
 日本は、私たちの社会は、まだまだ同性愛者が生きやすいとはとても言いがたいのではないでしょうか。

 今は陽気に(GAY)暮らしている私たち。でも、どんなに純粋にパートナーを愛し、長年いっしょに暮らしていても、法律上はただの「友人」ですから、扶養控除もありません。何十年か後、もしパートナーが重病で入院したとき、親族として扱ってくれないばかりか、面会すらさせてもらえないかもしれません。万が一パートナーが亡くなったとき、私たちはお葬式に出られるでしょうか? いっしょに住んでる家を追い出されたり、二人で買った家具などを親戚に持って行かれたりしないでしょうか? 生命保険を受け取れるでしょうか?
 私たちは日々、一生懸命働き、税金を収め、社会に貢献しています。にも関わらず、異性愛者が当然のように行使している権利を、何一つ与えられていないのです。

 70年代の東郷健さん以来、国政の場に出ようとするオープンな同性愛者はいませんでした。
 ようやく今、勇気と明るさと行動的な魅力を持ったレズビアンの政治家が現れました。彼女は、民主党の公認を得て参議院比例区に立候補するやいなや、日本中を席巻し、連日メディアをにぎわせ、同性結婚式を挙げ、同性愛者のイメージを「ケ」から「ハレ」へとSWITCHしてきました。まるでジャンヌダルクのように。なんと晴れやかで美しい革命でしょう!

 もし、彼女が当選したら、
 同性愛者として生きる意味を見出せなかった全国の同性愛者たちの希望の星となるでしょう。自分のセクシュアリティを呪い、自暴自棄になったり、命を失ったりという悲劇が繰り返されることはもうなくなるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 私たちが胸を張って、プライドをもって同性愛者として生きていける時代が訪れるでしょう。街中で手をつなぎ、堂々とデートできるでしょう。

 もし、彼女が当選したら、
 同性婚(または同性パートナーシップ法)が遠からず実現するでしょう。性同一性障害特例法が誰も予想しなかったスピードで通ったように。

 もし、彼女が当選したら、
 HIV予防や陽性者支援に対する国家予算がやっと欧米並みになるでしょう(今は何十分の一くらいです)。今でも年に100人以上亡くなっているエイズ患者(異性愛者、同性愛者ともにです)の方もの命を救うだけでなく、HIV陽性者の方々がもっと生き生きと暮らせるようになるでしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 何も変わりません。
 それどころか、
 安倍晋三は「ジェンダーという言葉は使わないほうがいい」と発言するほどのバックラッシュの旗手であり、教科書から同性カップルに関する記述を削除し、そうやって「美しい国=正しい家族像」を作ろうとしています。
 状況は悪くなる一方でしょう。

 もし、彼女が当選しなかったら…
 政治家だけでなく国全体が「同性愛者は政治的な力を持っていない」と思うことでしょう。
 民主党も二度と同性愛者の候補を公認しないでしょう。
 この先、同性愛者の国会議員が実現するために、また30年もの時間を要するかもしれません。

 志半ばにして逝った、天国にいる私たちの仲間たちの無念さを、どうか忘れないでください。
 今、この瞬間、心重ねて、私たちが彼女を応援すること。
お盆に東京で開催されるパレードやレインボー祭りで同性愛者の国会議員の笑顔が全国の仲間たちを勇気づけること。
 それが、亡くなった友人や恋人たちへの供養になるでしょう。
 私たちはみんな遺族です。
 心にそれぞれの遺影を掲げて、この夏、私たちの手で、歴史を変えましょう。

July 25, 2007

尾辻かな子

レズビアンを公言して民主党の比例代表区から立候補している尾辻かな子に対して、「性癖を誇るな」と題して、ネット上で厳しく非難しているブログがありました。すこし引用しますね。

「いやらしいから無視するつもりであったが、いつまでも政治絡みのフォトに出ているので一言。
この人は、自分の性癖を選挙の道具にしている最低の人間である。
性同一障害と、ただの性癖を混同してはいけない。
性同一障害は、自分の体と心が、胎児のときのホルモンの影響などにより生じた、障害である。
尾辻かな子のレズはただの性癖、変態趣味でしかない。
糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人と同じだ。
変態は変態同士、わからぬようにこっそり当事者で楽しむのは全く問題が無い。 アレをこうしようと、どうしようと当人同士の問題である。
しかし、その変態性、性癖を他人に見せ付けるのは、悪質な罪である。」

とまあ、こういう具合です。

きっと一般の認識では少なからずこうした判断を疑うことなくそのままにしている人はいるのでしょう。
同性愛が性癖なら、異性愛も性癖であることになりますが、その辺のことが理解されていないのですね。もちろん、「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」は異性愛者の方が絶対数として圧倒的に多い、という事実は単に算数の問題です。
同性愛がセックスの問題、あるいはセックスの上の嗜好の問題だと思い込んでいるのは、これはひとえに情報の不足によるものです。だいたい、一般社会には、そうした同性愛に関する情報もないし、その情報を必要とする状況もないのだと思います。で、あいもかわらず40年も前の風俗綺譚の理解が依然はびこっている。だから、上記のようなものを書いて恥ずかしげもなく公然と曝してしまう輩が後を絶たない。
可哀相というかなんというか、まあ、しょうがないんだろうけどね。

(同性愛とは何なのか、と知りたい方は、以下のリンクを参考にしてください。もう10年も前ですが、ニューヨークの日本語新聞に「マジメでためになるゲイ講座」という連載を行いました。それを再録してあります)

目次(ここで「マジメでためになるゲイ講座」の各項目をクリック

簡単にまとめたQ&Aです

以下の動画は、CNNが中継した、YouTubeの投稿質問動画に答える民主党の各候補討論会。 一年以上も先だというのに米大統領選挙、かように盛り上がっているのですが、「その変態性、性癖を他人に見せ付ける」人々の結婚の問題がここでも話題になります。

まずはブルックリンのマリーさんとジェンさんのレズビアンカップルの「私たちを結婚させてくれますか?」の問いに各候補が答えます。

ここではすでに、「レズはただの性癖、変態趣味でしかない」というような「無知」や「偏見」は共有されてはいません。というか、排除されています。そういう物言いが、はるかかなたに片のついたブルシットであることをすでにほとんどの人々が理解していて、その上で、世界の論議はすでに先に行っているのです。ですから冒頭の引用のようなレベルの話は、ほとんどの人から相手にされません。議論にもなりません。話題にしても呆れられるか鼻で笑われるか、それこそ「糞」でも見るように目を背けられるかだけです。

さて、クシニッチはゲイカップルが結婚ができる「私が大統領となるより良き新たな時代へ歓迎します」と言葉を結び明快です。

"Mary and Jen, the answer to your question is yes. And let me tell you why. Because if our Constitution really means what it says, that all are created equal, if it really means what it says, that there should be equality of opportunity before the law, then our brothers and sisters who happen to be gay, lesbian, bisexual or transgendered should have the same rights accorded to them as anyone else, and that includes the ability to have a civil marriage ceremony. Yes, I support you. And welcome to a better and a new America under a President Kucinich administration."

「メリーとジェン、あなたたちの質問への答えはイエスです。なぜか。なぜなら憲法がそう言っているから。すべての人間は平等である。もしそうなら法の前では機会も平等だ。だからわれわれの、たまたまゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーである兄弟や姉妹たちは、他のみんなに与えられていると同じ権利を持っている。それには一般市民の結婚の儀式を行う権利も含まれる。イエス。私はあなたたちをサポートします。そして、クシニッチ大統領の政権下でのよりよく新しいアメリカに、私はあなたたちを喜んで迎え入れます」

続いて、レジー牧師の質問です。これはなかなかポイントを衝いた質問です。

「かつて宗教を理由に奴隷、人種隔離、女性参政権の否定を正当化していたことは間違いであり違憲であるといまの多くのアメリカ人は知っています。ではいまもなぜ、宗教を理由にゲイのアメリカ人が結婚することを否定するのが認められているのでしょう?」

司会のアンダーソン・クーパーは、進んで公言してはいませんが否定もしていないゲイのアンカーマンです。

エドワーズは、妻は賛成するが私は反対だ、と苦しい胸の内を披露して理解を得ようという戦術です。
つまりこれほどやはり政治に「宗教」が絡み付いている。

"I think Reverend Longcrier asks a very important question, which is whether fundamentally -- whether it's right for any of our faith beliefs to be imposed on the American people when we're president of the United States. I do not believe that's right. I feel enormous personal conflict about this issue. I want to end discrimination. I want to do some of the things that I just heard Bill Richardson talking about -- standing up for equal rights, substantive rights, civil unions, the thing that Chris Dodd just talked about. But I think that's something everybody on this stage will commit themselves to as president of the United States. But I personally have been on a journey on this issue. I feel enormous conflict about it. As I think a lot of people know, Elizabeth spoke -- my wife Elizabeth spoke out a few weeks ago, and she actually supports gay marriage. I do not. But this is a very, very difficult issue for me. And I recognize and have enormous respect for people who have a different view of it."

オバマは、明らかに答えを回避しています。彼の論理は、法の前ではみな平等だ、です。だから法的な権利はすべて保証するシビルユニオンを提案していると答えるのです。でも、それこそが質問のポイントなのですが、なぜ「結婚」ではダメなのかというには答えづらそうに何度も口ごもりつつ、結局は答えられていません。

同性婚はいまのアメリカにとって最大の政治課題ではありません。しかし主要な政治課題である。わずか人口の5%前後と言われている同性愛者たちのこの問題がなぜ主要課題であるのか。それは歴史を輪切りにしてはわからない。輪切りにすればそれはたった5%でしかない。けれど、歴史を縦切りにしたら、それはずっと昔から100%途切れることなく続いている、つまりは取り残している課題だからです。

それは一般に広く言われているような「性」の問題ではありません。
命の、「生」の問題なのです。

日本の参院選が日曜に迫っています。
参院比例区、個人名を書きます。
そこに「尾辻かな子」と書くことは、その取り残しを(同性婚とまでは行かずとも人権問題全般のこの取り残しを)、気にしていると表明することです。そういうことを「糞をなめることが趣味な人や、○○が好きな変態の人」だといまもかたくなに信じている人をこれ以上はびこらせないように、あるいは歴史の誤解をとくために、力を貸すことです、力を添えることです。
社民党じゃないが、「今回は」です。
なぜなら、日本の社会はこの問題に関して、最も弱い。最も無知だ。最も無関心だからです。
こんなにグローバルに発信し受信している今の日本が、世界に申し開きできない弱点なのです。

私のこのブログを読んでくれているヘテロセクシュアルの友人たち、あるいは通りすがりのROMさん、比例区、適当な意中の人がいないなら「尾辻かな子」を紹介します。

比例区は、「個人名」を書くことを忘れずにいてください。

http://www.otsuji-k.com/

July 03, 2007

久間防衛相の辞任に見る捻れ

「原爆で戦争が終わった。(原爆投下は)しょうがないと思っている」ってなことを発言して3日目に辞任というすばやい対応は、辞めなかったナントカ還元水の松岡農相、女性は産む機械の柳沢厚労相と、どう違うんでしょう。

一つは参院選挙。選挙対応のために今回はすぐに辞めざるを得なかった。自民党内の批判も大きかった。
一つは松岡農相の自殺。かばいつづけて?自殺された日にゃかなわない。

安倍はつい昨日まで「(久間発言は)アメリカの見方を説明したもの」という、別の主語をでっち上げるなんとも「おいおい」なへんてこな論理を持ち出し、「辞める必要はない」と例によって突っ張りの態勢だったのですが、まあそれも内閣発足9か月で3人もの大臣交代という事態を避けようという保身でした。柳沢の時も松岡の時もそれで乗り切ってきたのですから(柳沢が辞めてれば4人だ。これじゃ内閣はもたないですからね、ふつう)。だが今回は与党内からの批判がすごかった。いつもはこんなにメタクソにいわないもんですけれどね。

でも、久間発言がかくも問題とされた背景には、参院選というより、自民党内右派による自虐史観への攻撃も含まれているんでしょう。

そもそも久間ってひとは防衛庁長官を2回務めてるのにどういう立ち位置にあるのかよくわからない「ときどきハト派」的な発言もしたりする。イラク戦争では例の「小泉前首相のイラク戦争支持は非公式」と間違ってみたり、「イラクに大量破壊兵器があると決め付けて戦争に踏み切ったブッシュの判断は間違いだった」と言ってみては叱られてそれを引っ込めてみたり。でも一方では沖縄の基地問題でアメリカのパトリオット配備は「歓迎すべきこと」とか、そう思うと逆に普天間飛行場移設問題では「私は米国に『あんまり偉そうにいってくれるな。日本のことは日本に任せてくれ』といっている」と発言したり、わけわかんない。あるいは太平洋戦争で「私でも沖縄をまっさきに占領しただろう」とか、長崎市長射殺事件では死んでもいない時点で「補充がいつでもできるように公選法を見直すべき」とか、まあ、基本的に人の気持ちが関係ない人なんだなあ、という感じですね。てか、自己完結的ながら自分勝手なもんだから一貫してねえんだなあ、まったく。こういうのを不見識っていうのかしら。

そこに今回の原爆ショーガナイ発言です。
ヒロシマ・ナガサキでは日本の右派と左派が道筋は違うながらも同じ途中結果(変な言葉)をたどっていて、右派は自虐史観を否定するところから(自分が強姦されたことを打ち消したいオスの論理で)「赦せない」となって、そこから太平洋戦争の敗戦の否定、九条改変と再軍備にまで行き着く。左派は米帝批判と平和主義から「赦せない」となって、こっちはそこから世界の被害者の連帯と九条護憲に至る。(小沢が党首討論で「米国に謝罪要求しろ」といったのはどっちなんでしょう)

というわけで、今回の久間発言は右からも左からもけしからんの大合唱。
参院選への影響をかわすというのもあるでしょうが、しかし辞任へと使嗾した安倍自民の心理には、左からの批判とはまったく逆の、憲法改変と益荒男国家へと続く文脈のサブリミナル効果を見る思いがするのです。

ですから「与野党そろって辞任要求」といっても、意味はぜんぜん違う。
そのへんが安倍自民の胡散臭さですわね。

(しっかし、辞任理由を「参院選への影響を考えた」って、久間さん、それじゃなんだかいかにも小手先ですって白状してるのと同じじゃござんせんかねえ。やっぱ、わかってないんだなあ)

June 22, 2007

従軍慰安婦、全面広告の愚

何か問題があったときにその問題を指摘した相手のことを同罪じゃないかと責めても問題解決にはまったくなりません。「◎×君は廊下を走りました」と言われて「△◆君も走ったじゃないか」と言っても帳消しにならないばかりか、そういう抗弁はとても子供じみたものに受け取られるのが普通です。

それを大人が、それも国を代表する国会議員やジャーナリスト、大学の先生までが真顔で言ったら「子供じみた」では済みません。私が14日付のワシントンポスト紙に掲載された「THE FACTS(事実)」と大書された全面意見広告を見て、これはまずいことになるぞと思ったのはそういうことです。

この広告は、いわゆる従軍慰安婦問題で櫻井よしこや元産経の花岡信明、すぎやまこういちらの呼びかけに応じた日本の国会議員らが連名で「第二次大戦中に日本軍が強制的に従軍慰安婦を徴収したことを示す歴史文書は存在しない」と訴えたものでした。「米国民と真実を共有する」とうたった同広告は、「慰安婦は『性奴隷』ではなく、当時の世界では一般的だった公娼制度の下で行われていて大切に扱われていた」「多くの慰安婦女性は佐官級将校やあるいは将軍級よりもはるかに多い収入を得ていた」などとする5つの「事実」を列挙しています。それだけでも言い訳がましく響くのに、ダメを押したのが次の文章です。

「事実、多くの国が自国兵による民間人強姦を防ぐために軍用の娼館を設置していた(例えば1945年には占領当局はアメリカ兵による強姦を防ぐため、日本政府に対し衛生的で安全な“慰安所”の設置を求めた)」

いったい、どういう神経がしれっとこういう文章を書くのか。この記述内容が間違いだとは言っていません。問題は書き方です。「言い訳がましく響く」どころか、これはまるで「おまえの母ちゃんデベソ」ではないか。こんなふうに言われて、アメリカが「ああ、そうでした」と銃をしまうとでもお思いか。

これは本来、膝を突き詰めて腹を割って直談判しているときに出てくる話でしょう。説得とはそうやってするものだ。複雑に入り組んでいる国際問題ならなおさら。ところがブッシュ一辺倒で来た自民党は、米議会で勢力を得た米民主党のキーパーソンとの親密なパイプをだれも持っていなかった。だれもこういう話が出来ないのです。そうして、何を勘違いしたか、本来ならば密室でのせめぎ合いの一端を新聞紙上でかくも公然と高圧的に講釈したもうた。バカじゃないのか。

案の定、これが火に油を注ぐことになりました。副大統領のチェイニーもこれに目を剥き、4月の安倍訪米での謝罪でなんとなく鈍化していた米議会も一気に日本非難決議採択でまとまりました。掲載がNYタイムズではなくワシントン・ポストでまだしもよかった。NYタイムズならあっというまに一般市民にまで反日気運が広まったかもしれません。

思えばこのすり替えの論理は従軍慰安婦に限ったものではありません。故松岡農相のナントカ還元水に始まる事務所費乱用問題では「(民主党の)小沢さんの使い方はどうなんですか」と気色ばみ、年金問題では「そのときの厚生大臣は菅(直人)さんじゃありませんか」といずれも相手の責任に問題をずらす総理大臣がいます。

見逃せない点がもう1つ。「強制はなかった」という言い方は、沖縄戦での集団自決に関して「日本軍の強制はなかった」という論理とじつに似通っている。問題は、従軍慰安婦も集団自決も、それを「強制した文書が存在する、しない」ということではないのに。

あの沖縄戦で、日本軍の基地建設にも関わった沖縄島民は米軍にとらわれて軍事機密を明かしてしまうことを懸念されていた。それで日本軍は鬼畜米英を強調し喧伝し、重要な軍事物資であった手榴弾を島民たちに手渡す。たとえそこに言葉や文書による命令がなかったとしてもそれは自決への明確な誘導であり、その体制での誘導とは精神的な強制以外のなにものでもなかったことは想像に難くありません。ふだんは「すべてを言わずにそれを斟酌するのが日本語の美徳」などと言っておきながら、右翼保守派はこういうときに限って「具体的な言葉がなかった」と逃げ道に使う。まったく、汚いことこの上ない。

同様に、従軍慰安婦でも問題はそれを生み出した戦時体制全体なのであって、慰安婦はその中の一具体例でしかないのです。強制を示す文書がなかったといって鬼の首でも取ったかのようにはしゃいで新聞に全面広告を出すなど、やぶへび以外のなにものでもありません。そんなことを証拠立てたって本質としての軍国体制そのものが赦されるものではない。ここには例の靖国問題の本質も通底しているのです。

こうした一連の自虐史観の書き換えは安倍政権にとっては「戦後レジームからの脱却」の作業の一環かもしれませんが、米国では「第二次大戦の敗戦の否定」「戦時体制の肯定」として映っています。そこを相手にせずに慰安婦は強制しなかったと言っても、「だから何だって言うんだ」なのです。

今回の非難決議は、端緒はたしかに一議員の選挙区事情に動機付けされた側面もあったでしょうが、しかし現在ではすでに、いまの安倍政権を右翼政権ととらえる米民主党の政治的警戒感の表れへと変容しているのです。憲法改正や靖国参拝など、安倍晋三の体質を祖父の岸信介にまで遡って右翼や宗教右派と結びつけて論じるのが米国の民主党系知識人の傾向です。ですから慰安婦問題を足場に自民党の右傾化を阻もうというもうひとつ大きな政治的意図──まさに米民主党からの、米次期政権からの、これは申し置き状だと思って対処したほうがよいのでしょう。米民主党とのパイプをないがしろにしてきたツケが回ってきているのです。

May 29, 2007

現職閣僚の自殺が示すもの

 先週末から仕事で訪れた日本は、5千万件の公的年金記録消失という愕然たる不祥事に揺れ、今度は松岡農水相の自殺でとんでもないことになっています。

 緑資源機構の官製談合事件で関連法人から政治献金を受けていたり、地元熊本で暴力団との関連を取りざたされたりといろいろある人なので自殺の背景はまだ不明のところも多いんですが、ひとつ、あのナントカ還元水問題の「法に従って適正に報告している」一点張りの答弁はどうも政権や自民党国対からの“強要”だったらしいことはわかってきました。

 たしかにね、あれだけ追及されてなに1つ答えないあれだけの厚顔は自分1人の判断では続けられるものではないでしょう。「答えるな、これで行く」という党中枢からの指示があって初めて持ち堪えられる(ってか、まあ、結果的には持ち堪えられなかったわけですが……)。

 それにしても松岡ってこんなに弱いタマだったっけ? というのが第一報での感想でした。直接の関連ではねいですけど、この弱さと対照的に、安倍内閣の「強気」に関して朝日新聞が29日朝刊1面で「年金問題では当初、野党側の追及に『与党は3分の2の議席があるから押し切れる』(首相周辺)との見方も根強かった(略)」と書いています。この強気がいろんなところの金属疲労のようなものを逆に表面化させているんでしょう。

 そもそも安倍政権を支える「3分の2の議席」とは、じつは安倍政権の存在とはまったく関係なく、前の小泉首相が郵政選挙で国民の信を問うとして獲得した数字です。これは安倍への信任の数でもなんでもない。

 ところがその圧倒的多数という他人のふんどしを使って、安倍は郵政民営化反対議員の復党を断行し、「女性は子供を産む機械」の柳沢厚労相をかばい、持論の憲法改変を目指して国民投票法を可決させ、教育3法、年金法の採決を強行した。

 で、とにかく謝らない。靖国問題でも答えない。国会で野党に攻められると顔を真っ赤にして気色ばむ。あれよあれよという間の、じつに強気の国会運営なわけです。しかしナントカ還元水を含む事務所光熱費問題や献金不記載問題などで同じく「説明しない」作戦を決められた松岡にとって、緑資源問題はロバの背を折る最後の藁だったのでしょうかねえ。

 安倍は「任命権者として責任を感じる」とコメントしていますが、むしろ政権の弱体化を避けるために松岡を辞めるに辞められず、かつなにも答えられないという「生殺し」状態に置いたことにこそ責任がありわけです。日本の各紙は安倍が松岡を「かばい続けた」という表現で報じていますが、かばったのではなく私にはむしろさらし者にしたような印象です。強権というのは、ときにここまでむごい。

 そうこう書いているうちに今度は緑資源の前身公団の元理事が飛び降り自殺というニュースまで入ってきました。立花隆氏の「メディア・ソシオポリティクス」によれば、「実は10日ほど前に、松岡農水相の地元(熊本)関係者の有力者(地元秘書ともいわれ、選挙違反・買収容疑で逮捕されたこともある)が、謎の自殺をとげている。死んだ理由はよくわからないが、もともと黒いウワサが山のようにあった松岡農水相のカゲの部分を最もよく知る男といわれた男である。その男については、「あの男の周辺を洗ってみろ。松岡農水相のボロが次々に出てくるはず」というタレ込みがマスコミなどにも流れてきていた。」とも書かれていて、これはほんと、なんかあるのかもしれませんね。

http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070528_yami/index.html


 こうして何人もが死んでも守らねばならなかったその「真実」とは何なのか? 松岡の遺書の1つには「内情は家内が知っている。どこに何があるかは探さないでほしい。そっとしておいてください」とあったそうです。

 死者にムチ打つ気はないけどさ、もしそれが公的なものでも暴かないでくれという願いであるなら、こんな身勝手な大臣を作った安倍首相の任命責任も確かに存在するでしょう。いや、安倍を直撃する疑惑自体が存在するのかもしれませんわね。

May 12, 2007

国民に軍艦を差し向ける政権

案の定、拉致問題は北のテロ支援国家からの指定解除に何の影響も与えないということを、シンゾーは先日の訪米の際にコンディ・ライスから聞いて知っていたそうです。で、ジョージとの首脳会談のときには「どうにかならんですかね」と、どういう口調だったんでしょうかね、ファーストネームの仲で中途半端に親しみを込めたんでしょうか、お頼み申した。で、朝日によればジョージWは「拉致問題を指定解除の前提条件にするよう求めた首相に「考慮に入れる」と語り、法的な処理とは別に政治判断が働く余地も残した。」となっているが、そんなこと、あるんでしょうか。朝日も甘っちょろいこと書くなあ。

先日の、この3つ前のブログ「ワシントン詣でが明かしたもの」でも書きましたが、憲法9条改変もアメリカ側の要請です。「普天間はスケジュールどおりに進める」と沖縄の辺野古に海上自衛隊の軍艦を派遣したのもアメリカの要望に添ったものです。で、ファーアストネームで呼ばれてヤニ下がっているうちにこのざまです。そういえば異常プリオン牛肉輸入禁止解除も、アメリカのご希望どおりの進み具合でしょう。ナメられてる、ナメてないという言い方はマチズムっぽい言い方でいやなんだけどさ、理が通らない、というのは当たっています。

こういう売国的行為、ひごろ猛々しいネット右翼だけでなくホンモノの右翼の連中はさぞ怒り心頭なんだろうと思ったら、どうもわたしにはその動きが見えてこない。なんででしょう?

日本青年社という住吉会系の右翼団体があります。過去、領土問題で先閣諸島の魚釣島に上陸したり、雑誌「噂の真相」を襲撃したりとさすが暴力団つながりの右翼(ってか、右翼団体ってのはみんな広域暴力団の系列団体なのですが)。いまの自民党幹事長の中川秀直が関係を取りざたされて当時の森内閣官房長官を辞任させられたり、こないだ結婚式招待の詐欺で有罪になった有栖川宮なんとかっていうインチキ皇族が名誉総裁だったり、となかなかの胡散臭い人脈でも知られます。んで、新潟の救う会の会長がこの青年社のエラいさんだったりもするわけです。そんでもって、住吉会が覚醒剤や拳銃を入手している先は北朝鮮。そんでシンゾーとかシンタロー(やつらのことを真面目な学生と呼んでる都知事です)とかがこれとどう絡んでくるか。まあ、証拠も持っていないうちになんか書くと真っ赤になって怒って裁判にされたりしますから、くわばらくわばら。

その青年社、首相官邸に街宣車でも繰り出してるんだろうか?
さらにはオピニオン雑誌でかまびすしい文化人右翼たちはどう反応しているのでしょう?
ニューヨークにいて困るのは、新聞に出る週刊誌や月刊誌の見出広告が見られないことです。あれ、けっこう便利なんですよね。新聞のウェブサイトで欠落しているのが新聞広告なわけで。

閑話休題。

今日書きたいのは、横須賀にいた海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が沖縄近海にむけて出港したことです。
沖縄テレビは次のように伝えています。「来週にも行われる調査機器の設置を支援するものと見られています。防衛施設局の事前調査で海上自衛隊が関与するのは極めて異例な事です」

琉球新報によれば、「塩崎長官は、海自を動員するとの一部報道について「方針を決めたとはまだ聞いていない。一般論で言えば、反対運動や反対行為を排除しようという任務は、警察、海上保安庁が負っており、自衛隊は負っていない。報道として不正確な話ではないか」と述べ、県警や海保とともに警備に加わるわけではないとの認識を示した」だそうです。

沖縄タイムズでは「艦船にはゴムボートやボンベが積載されているが、海自が実際に調査で対応するかどうかは不透明だ」と書かれています。

では、なんのために行くのか?
これは反対派市民の威力業務妨害、公務執行妨害をあらかじめ想定しての、それらを恫喝するだけの大いなる国威の見せつけるために他なりません。「反対運動や反対行為を排除しようという任務」は実際にはしない、しかし、軍艦の威容を見せつけ、反対派に大いなる心理的プレッシャーを与えるにじゅうぶんな効果を持つでしょう。

同じく沖縄タイムズ。
「仲井真弘多知事は十一日、「自衛隊との関係がまずまずの状況になってきている中で、県民感情を考えると、あまり好ましいとは思わない。(反対派の)排除というのは自衛隊の役目ではないと思っている。誤解を生むようなことはなるべく避けた方がいいのでは」と否定的な見解を示した。」

国軍が本来守るべき国民に対峙するという事態が起きる場合、歴史上それはほとんどの場合で、その国家の、あるいはそのときの政権の倒錯的な末期症状を象徴します。あの60年安保の大抗議デモが国会周辺で繰り広げられたときに、それこそアベシンゾーの祖父である岸信介が自衛隊の治安出動を要請したことがありますが、そのときですら当時の赤城防衛庁長官が出動を拒否した。

さて、アベはまたそろりと何食わぬ顔で、退陣に追い込まれた岸信介の仇を討つつもりです。この2人が、いずれもアメリカがらみで軍事政策の変換に取り組むというのもあまりにあからさますぎてえげつないことこの上ありません。ネット右翼たちも瀕死の小田実の悪口を書いてるヒマがあるのにどれが焦眉の急か考える時間がないという情けなさ。いや、ないのは時間じゃないのでしょうな。

May 09, 2007

小田実のことなど

小田実があと数カ月で死ぬのだという。胃がんが、けっこう末期のものが、見つかったとニュースになっていた。小田が死ぬのか。そういう時代になっていたんだ、と思った。物理的にも、思想的にも。

そう思ったのは数日前にこのニュースが報じられたときに、ミクシの中でその死に関して言挙げされたさまざまな連中の言辞の醜さからだ。こういうのはいまに始まったことではないから特筆するようなことでもないだろうけれど、小田は90年代か、「朝まで生テレビ」に出ていたらしく、それで新しい世代を、いい意味でよりも悪い意味で引っ付けたんだろう。きっと連中は、「実」が「まこと」と読むことも知らなかったりするんだろう。悪貨は良貨を駆逐する。

学生時代、東京に出たてのころは何でも珍しくてよくいわゆる有名人文化人知識人の講演会なんぞに出かけていたものだ。小田はそのころ岩波から「状況から」という同時代時評を出して、それは大江の「状況へ」という本とカップリングになっていて、この「から」と「へ」の助詞の相違がこの2人の立場の相違を表しているようで面白かった。「状況から」はとにかく現場主義だった。具体例にあふれた行動主義の本だった。そんな小田の話を何度か直に聴きにいった。

小田実の思想はアメリカの草の根民主主義のいちばんの実践主義的な理想を体現したものだった。日本の戦後民主主義の文化人がみんな、というかほとんどが、青っちろいアカデミアからのそりと首を出して何かを言っては言いっぱなしだったのに対して、このひとはとにかく体を張ってた。知識人が男らしくても、いや、こんなに雄々しく熱く勇ましく怒りに満ちていてもいいのだということを教わったのはこのひとからだった。「世渡り」ではなく「世直し」だということも、このひとの本から発想した。このひとは言うことはみごとに人道的な優しいものなのに、「殺すな!」というその柔さの背後にじつに硬派なマチズムがあったわけだ。マチズムはふつう、「殺せ!」に向かうはずなのにね、このひとのマチズムに裏打ちされた「殺すな!」は、だからいまでもだれも論破できない。というか、それを見越して発されたタイトルだからさ。そのことをいま、どれほどの日本人が知っているんだろう。小田に匹敵するのは、いまじゃ一水会の鈴木邦男くらいかもしれんなあ(笑)。

あの当時、喧嘩の仕方はこの人と中上健次と吉本隆明から教わった。3人とも個人的にはとてもやさしい人で、照れ屋で私語がへただった。なのにいったんペンを取って敵を叩くときはじつに徹底していた。中上さんはペン以外でも叩いてたけど。そうして完膚なきまでに、逃げ道もすべて塞いで追いつめる。それは呆れるほどに爽快な職人芸だったし。んで、この3人はそう仲がよいわけではないというのも知っていた。大人って面白いなあって彼らを眺めながら思ってたもんだ。あはは。

小田のニュースがあったと同じ日、朝日のニュースで次のようなのがあった。

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後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ
2007年05月05日13時13分

教室の後方に座る学生はテストの成績は悪い一方、講義への評価は厳しかった──。産業能率大(神奈川県伊勢原市)の松村有二・情報マネジメント学部教授が約140人の学生を対象に調べたところ、そんな傾向が明らかになった。自由に座席を選べる講義では、前に座る学生ほど勉強に取り組む姿勢も前向きのようだ。
(中略)

試験では、前方の平均点が51.2点だったのに対し、後方は30.9点と、20点以上開いた。一方、授業評価では、「配布資料の役立ち具合」「教員の熱意」「理解度」など全項目で前方より後方の方が厳しい評価をした。後方グループには、教員に厳しく、自分に甘い姿勢がうかがえる。
(後略)

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なんだかネットでギャーたれているやつらの印象と重なる。挑発の言葉だけがお上手。ところがみなさん二の句が続かない。映画のセットと同じ。看板やファサードのカッコよさだけを気にして、組み立てを気にしない。四六時中パンチラインだけを拾い集め、単文でしか話が出来ない。まるで玄関の呼び鈴押しのイタズラみたいに一発ぶちかましてさっと身を隠す。そうやって相手をけなすことだけで自分が何者かであるような、その効果だけに縋って生きている。

そうせざるを得ない生き方というのもあるのだろう。もうやり直しのきかない人生。そうやって憂さを晴らすしかない人生。

話はどんどん飛ぶけれど、やはりこれも昨日TVジャパンでやっていたNHKの憲法9条をめぐるドキュメンタリーで、若者たち、フリーターたちで戦争を望む連中たちの声を紹介していた。もうこんなにガチガチに社会が決まっていて自分たちはもう浮き上がる術もない。あとは戦争にでもなってみんなめちゃくちゃになればその暁にはどうにかなるのではないか、という見通し。

そういうのはむかしからある。一発逆転願望。ただし戦争の影がまだ長く伸びていたころにはそれは革命願望だったりした。それから終末願望。勉強していないテストの前夜に大地震が来て学校が壊れればいいのにと妄想したり、核ミサイルで世界が終わりになればどうにかなるんじゃねえかと思ったり。

でも、自分から進んで戦争にするというのはなかったなあ。
マイクを向けられていた30くらいのフリーターの1人は9条が変わったら軍隊に入って職業訓練にもなるし、とか言っていた。いますぐにでも自衛隊に入ればそんなのもすぐに手に入るという選択肢は彼にはないんだろうか。

戦争、戦争。
戦争はするまでが花。
してしまったらみんな後悔する。
だいたい、死体も見たことのない連中がいちばん勇ましく、死体への想像力がないものだから実際にそれを目の当たりにしたら吐く。
あるいはショックで思考停止になる。
で、その後は死体愛好になるか、というと、あまりそううまくは事は運ばない。みんな心に傷を負って壊れていくのだ。そうしてその回復途上で反戦を唱えるようになる。そのときは遅い。あるいはすでに時代はぐるりと一巡してる。あわよく生き延びたひとびとの周りで友人たちはもう亡くなっている。石原慎太郎が制作総指揮をしたという「俺は、君のためにこそ死ににいく」とかいう戦争映画のタイトルの、すでに破綻したはずの論理のゾンビさ具合よ。やれやれ。
まあ、この映画がヒットするほど日本人はどうしようもないとは思っていないが。しかし岸恵子もなんでこんなのに出たんだろう。私が愚劣だと言っているのは「特攻の毋」のことではない。この映画を作る連中の意図のことだ。

しっかし、小田も体調悪いときにどうして病院行かなかったかなあ。胃がんなんて定期検査して早めに見つけられるのに。早めに見つかれば治せるのに。まったく、なあ。残念だなあ。手術も出来ない状態だって、どうしてそれまでほうっておいたかなあ。

小田は、人間は畳の上で死ななければならないって言っていた。それが人間の死だ、と。しかもそれは畳の上で胃がんで死ぬことではなくて、きちんとしっかり平和に死ぬということのはずだったんだよね。

無念だなあ。
本人はそんな素振りはおくびにも出さぬだろうが。

May 08, 2007

ワシントン詣でが明かしたもの

日本の新聞が何を有難がってか「ジョージ、シンゾーとファーストネームで呼び合う仲になった」とうれしそうに記事にしているのを見て、いったいそのどこがニュースなんだとひとりで突っ込んでいました。「ロン、ヤス」の場合は短縮形でもあるのですこしは意味があったのかもしれませんが、「ジョージ、シンゾー」ではひねりもなにもあったもんじゃありゃーせん。当たり前の話だってだけです。

ゴールデンウィークは日本の政治家たちの外遊ラッシュでした。その中で安倍と大臣格上げになった久間防衛相、それに麻生外相という閣僚を含め、ワシントン詣では計30人ほどにもなったそうです。

で、安倍は従軍慰安婦問題でこれまでの御説とどうにもチグハグな感の否めない「謝罪」を強調して意味がわからない。久間も「イラク攻撃は誤り」発言や「(普天間基地移転で)やかましい文句をつけるな」発言、さらにはイージス艦機密漏洩事件の不祥事をひたすら謝る旅になってしまいました。結果、軍事機密保持協定に合意したという、まんまと米国の術策にはまったようなことになった。

これが野党から「強硬右傾化」政権と批判されている同じ政府なのか、「押しつけ憲法を自主憲法に書き換えるぞ」と力む前に、自分の自主自立を図ったほうがよいような体たらくです。

久間が撤回した「イラク攻撃は誤り」はいまでは当の米国人の大半が結論づけている正論なんですよ。それでブッシュ政権は支持率28%という最悪状態になっている。それを一度チェイニーや中央軍司令官が会ってくれなかったからといってどうしてビビることがあるのか。ビビっているのはブッシュのほうなのです。英国のブレアが退陣寸前なのも、イラク戦争で米国と歩調を合わせているのが背景です。ブッシュ政権が大きな顔をしていられるのはいまや日本政府に対してだけなのです。

その大きな顔にこれまたすくんだか、普天間基地問題は沖縄の人たちに説明する前にシンゾーが「合意どおりに着実に実施する」とジョージとの首脳会談で表明してしまった。自国民に伝える前に米国大統領に約束する首相とは何者なのか? まさに主客を転倒して、それでどうして美しい国になれるのか、わけがわからない。

以前から繰り返しているように、米国では来年の大統領選で民主党政権が生まれるかもしれません。今回のワシントン詣でで、日本の政治家たちにそうした民主党のキーパーソンとの個人的なコネクション、それこそ報道用ではないファーストネームの関係を模索した陰の動きがあったのかどうか……はなはだ心もとないところです。

どんなに日本がおもねってみても米国という国は結局はそのときの政権の都合の良いようにしか動きません。いつのまにか北朝鮮の拉致問題が国務省のテロ白書で昨年の3分の1の記述に縮小され、北担当のヒル国務次官補が「いまはわれわれが辛抱すべき」と北擁護に回っているのですからね。アベちゃんよ、どうしてお得意の拉致問題をジョージ君のケツにねじ込んでやんなかったのか。ケツはねじ込むためのものであってキスするためのものではないのだよ(お下品、しかし米国語の表現ではそういうのです。すんません)。

小泉政権での郵政民営化も米国の思惑どおりで日本売りだという批判がありました。
安倍内閣は国内向けには日本第一のような勇ましいことを発言しつづけていますが、米国詣ででのこの平身低頭ぶりを見ると、ミサイル防衛システム参加や集団的自衛権の容認、つまりは憲法9条の“改正”もじつはアメリカの思惑どおりじゃないかと気づきます。さすればこれは日本売りなどという甘っちょろいもんじゃなく、じつは「押し付け憲法」の受け入れなんかよりもはるかに手の込んだ「売国」の一環なのではないかとさえ思えてきます。いや、それはなかなか的を射ているかもしれません。

さて、ここまできて、冒頭の「ジョージ、シンゾー」関係がじつは別の意味でニュースだったのだと気づくわけです。

アベちゃんは揉み手をしながら媚び諂いを込めてジョージと呼んでいるかもしれないが、ジョージ君のほうは意のままになるペットでも呼ぶように「シンゾー」と呼び捨てにしている。そういう関係である。それを言外に伝えるニュースだったのかもしれません。いやちょっとニュアンスが違うか。ジョージは、ミスターと呼び合う関係にはどうにも弱いんだ。正式な話をしなくてはならなくなるから。オフィシャルな発言は気をつけなくてはならないし、そういうのはどうも憶えきれないから苦手。しかしファーストネームで呼び合うような状況ではジョークで誤魔化せるし持ち前のエヘッエヘッという自信なさげな笑いで逃げることもできる。なので、「なあ、シンゾーって呼んぢゃっていいかなあ? まあ、あんまり硬く考えないで話しようよ。難しいことは事務方がやるからさ」って意味なんですね。それをシンゾーはこれは親密さの現れだと受け取ってまんまと相手のゲームに載ってしまった、というわけです。

米国からの敗戦憲法を廃棄する気概にあふれているなら、ここはひとつ「シンゾー」と呼んでいいかと訊かれて相好を崩して尾っぽを振るのではなく、「いや、ミスター・アベ、あるいはプライムミニスター・アベときちんと呼んでいただきたい」と返すくらいの毅然たる態度を取るべきだったのです。相手はレイムダックの大統領。これはギョッとする。こんどの相手には誤魔化しは利かない、と、私語でしか得点を稼げないおバカな男は襟を正すでしょう。そして力を持たないアメリカから出来る限りの譲歩を引き出す。こんな駆け引き、北朝鮮ですら出来ることですよ。

ですからアメリカとの外交は戦略的にもむしろ、「ミスター」と呼び合うことから始まると心得たほうがよいのです。しかしまあこれも、いまとなってはあとの祭りですが。はあ〜。

April 11, 2007

沖縄・集団自決の島〜1987年の夏

1945年、終戦間際の沖縄での集団自決を、安倍政権は文科相の教科書検定を通してまたぞろ「軍の強制はなかった」としようとしているようです。そのニュースが報じられてから、20年前に沖縄で取材したその集団自決の原稿をどうにか探し出してきました。従軍慰安婦の問題とも微妙に重なるこの「日本軍の免罪」化現象は、いったい何を意味しているのでしょう。

以下の原稿は、1987年夏、私が直接話を聞いて書いたものです。その夏の、新聞の終戦企画の1回目として掲載されたそのままの原文。
集団自決がどういうものだったのか、これを読んで判断してください(年齢などは20年前の取材時点のものです)。


 戦(いくさ)ヌクトゥヤ 話シブシクネェラン──戦のことは話したくない。照り返す日の光。ガジュマルの大木。白茶けた細い道に赤瓦(がわら)の家並み。島の人たちは聞き取りにくい方言で、日に焼けたシワ深い顔を穏やかにほほ笑ませながら語ることを拒絶する。

 那覇から10人乗りの小型飛行機で約15分、西へ40キロの海上に、慶留間島はある。本土からダイビングにやってくる若者たちは隣の阿嘉、座間味の島々にモーターボートで乗り継ぎ、慶留間を顧みる者は少ない。

 昭和20年3月26日、米軍上陸。慶留間の島民の半数が壕(ごう)の中で自決した。

 島には鉄筋2階建ての立派な学校があった。ひっそりと押し黙る島に、乳緑色の波が打ち寄せる。

 「戦争のこと話してもらうのは大変。学校でも慰霊の日に沖縄戦を語ってほしいとおじいちゃん、おばあちゃんにお願いしたけれど、断られました」。4月に赴任してきたばかりの慶留間小中学校教諭石嶺律子(22)がそう教えてくれた。全島民56人。学童は計5人。すべてが島南側のわずかな平地部に生活している。北側は深い山があるだけだ。

 「みな生き残りですからヨォ」と、学校に近い自宅で中村武次郎(57)は言った。「10年前までは、1人で20人も首絞めたじいさんが生きておったし」

 集団自決。座間味島ではネコイラズとカミソリが使われた。渡嘉敷島では自軍から渡された手りゅう弾とカマが用いられた。慶留間では、申し合わせたようにそれは縄だったという。

 3月23日、空襲。学校など全焼。百余人の全島民が山に逃げた。翌24日、艦砲射撃の間を縫って、人々は焼け残った家財道具をまとめて山へ運んだ。このときのこん包の縄が、自決に使われることになったのだ。

 中村の避難した真っ暗やみの壕には、母親と当時20歳の姉のほかに10人ほどが入っていた。米軍上陸の報が駆け抜けた26日の朝、母親はどこからか3メートルものヒモを持ってきて、姉を絞め始めたのだと中村は話した。

 「私の頭の上で姉さんの脚がバタバタしてましたヨォ。そん時、息、止まったと思います。それから2分くらいでしたヨ、壕の入り口に、知ってる青年と米兵がいて、出なさいと言われた。死んでなかったのは5人でした。あと5分早ければ姉さんは生きておったかもしれんですヨ」

 自決というより、親族同士での殺し合いだった。「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の戦陣訓は住民にも強要され、慶留間、渡嘉敷など離島での自決者は合わせて500人とも600人ともいわれている。

 「情報が違っていたです」と、中村の横から妻静子(59)がしゃべり始める。「アメリカさん、よかったんです。じぇんじぇん(全然)いじめません。女、ゴーカンしないし、男、道路に並べて戦車でひき殺しもしない。みんな、友軍が悪かったですヨ。日本軍が食糧ため込んで、阿嘉では老人、栄養不良で死んだですヨ。イモ畑とられて、イモ食ったらスパイだと言って日本刀で切り殺されましたヨ。私、阿嘉でしたからみんな知ってますヨ」

 敵上陸を目前に控えて昼夜兼行の戦闘準備を進めた沖縄では、多くの住民が陣地や飛行場の構築に動員され、軍の機密を知ることになった。日本軍は住民の監視を強め、最後にはハワイなどからの移民帰り、ろうあ者、方言を使う老人までもがスパイ容疑で拷問、虐殺された例もある。

 慶留間には、天皇の人間宣言の前に米兵の“人間宣言”があった。その後、復帰の年まで「日本」は生き残った島民から離れ続けた。島占領後、彼らの気掛かりは、捕虜になった自分たちを日本軍が殺しにくるのではないかという逆転した恐れだったのである。だからしばらくは家には帰らず、山で隠れて寝ていたのだと笑いもせずに中村は言った。

 その山のふもとに、当時犠牲になった38人の子供たちを祭る「小鳩の塔」が海を望んでいる。南の海のダイビングを満喫しようと阿嘉島へ向かう九州の大学生グループの1人は、「いろんなことがあったみたいですね」と強すぎる日差しに目を細めながら照れたように笑った。
(了)
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さて、教科書検定で書き換えを指示されたのは「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」というような記述です。この記述は検定意見後に「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と変わって検定に合格しました。

なるほど、いまの「ニッポン」はつまり、自決に使われた手りゅう弾は「スパイだった島民が軍から盗んだものだ」と言うつもりなのでしょう。そうでなければあるいは、日本刀で問答無用で切りつけるような日本軍に(中村さんの奥さんは「友軍」と呼びました。「自軍」ではない。そのニュアンスの違いを忖度してください)、占領後の強姦と戦車での惨殺を予想した思いやり深さで、「それとなく渡されたのだ」と。そんな状況が、想像できるか。

これは沖縄の人たちに、生きながら虜囚以上の辱めを再度押し付けることです。そして、そう言い兼ねないというのがいまのニッポンの自民党政府です。

22日の参院補欠選が福島と沖縄で行われます。
昨10日夜、自民党の参院議員会長青木幹雄は、この2つの選挙で「2勝すれば安倍政権は続くし、何でもできる」と話しています。2勝すれば夏の参院選でも余勢を買えるというのです。
「何でもできる」──違憲と判断されてきた集団自衛権の憲法解釈の再検討も安倍自身が口にしました。なるほど。

汚いものに蓋をして「美しい」と言い、悪いことはしていないと「国」の自信を煽る。
そこに見える大いなる時代錯誤と厚顔無恥は、すでに正気の沙汰ではありません。

沖縄は、集団自決に追い込まれた人びとの生き残りたちは、こんな「ニッポン」に選挙を通じて何と言うつもりでしょう。

April 10, 2007

選挙ブルーにめげずにアフタケアもね

おそらく選挙ブルーの方も多いかと思います。

「石原圧勝」との報道に、「あんなに燃えたぼくの気持ちはどこにも形にならずに消えちゃった」と。

でも、「あんなに燃えたきみの気持ち」はすごく形になってます。もう新聞やテレビでは分析されているかもしれませんが、次の数字を見れば今回の選挙結果の読み方はそんなにがっかりするもんでもありません。

前回の都知事選、4年前、開票結果は次のとおりでした。

石原慎太郎  3,087,190 無所属
樋口恵子    817,146 無所属
若林義春    364,007 日本共産党
ドクター・中松 109,091 無所属
池田一朝     19,860 無所属

で一方、今回の開票結果は次のとおりです。

石原    2,811,486
浅野+吉田 2,322,872

何が読めるか? それは、投票率は前回より9.4ポイント以上も増えたのに、石原は28万票も減らしているということです。
対して、反石原票は今回、浅野と吉田(共産)を合わせただけで230万票もあった。前回と大違いでしょ?

これを考えると、各紙で見出としている「石原、浅野を110万票差で圧勝」という見方は、事実としてはそのとおりながらもニュアンスはちと違う。110万票差というのはすげえが、「常勝・石原」への批判票のこの増え方は尋常じゃない。そうじゃない?
この辺を読みましょう。50万票差です。これはどのくらいか? 総有権者1000万票の5%ですか。これ、そんな自慢できるような圧勝じゃないでしょう。ね?

選挙ブルーに関しては、私もエラそうなこと言えないです。ゴアがブッシュに負けたときには私、思わず深夜未明に家出をしてコニーアイランドまで地下鉄に乗って海を見に行ったし。はは。

石原も、すでに傲慢復活で開票の夜からぶちかましてますが、それも想定内でしょ。浅野が負けるのも想定内。でも、石原の勝ち方はみっともなかったわけで、その辺、強調してやればあの傲慢口も少しは黙らせられるのにねえ。

さて、まだこれから統一地方選の後半戦があります。また、ちょっと選挙に行こうかと思ってみましょう。

それともう1つ、新宿2丁目に浅野を呼んでくれた人、もう一回ご苦労ですが、浅野陣営にお礼メールでも送ってください。「その節はお世話になった」と。「LGBTコミュニティの応援も今ひとつ届かなかったのは残念無念だが」と。「しかし浅野さんは歴史を作ってくれた」と。「私たちを政治に向かわせてくれた」と。

浅野の2丁目遊説の言葉はちょっと(かなり?)頼りなかったけれど、これを機に彼を取り込む言質は取っているわけで。わかってないなら、わからせてあげることです。ま、ちょっと政治的にドラマクイーン入ってますけど、そういうねぎらいのメールですね。そういう腹ゲイ。

秘書の人へでもいいからさ。こういう後始末、そして次へのつなぎ、はすごく大切です。浅野、これからどうするにしても取り込むべき相手でしょう。政治に再度出てくるかもしれないんだし、いずれにしてもテレビには戻るでしょうしね。

んで、もう1つ、夏の「東京プライド」のパレードに浅野を招待してください。来るか来ないかは問題ではない。2丁目に来てくれたんだから、お礼の意味として招待するのは礼儀でしょう。少なくとも私たちのその姿勢は見せてあげるのは礼儀。んで、もちろんメディア向けの事前広報として、招待者の名前をプレスリリースに記載しちゃうのね。その辺、周到に。へへ。

LGBTが欧米諸国でマーケットとして認められてきたのは、「恩義に厚い(Loyalty)」ってこと。礼を尽くすことからすべては始まるのです。

そうそう、そういうの、個人で勝手に出してもよい。ゲイです、ってきちんと書き記した上でね。
宛先としては、メール、選挙期間中のキャンペーンは
yumenet@asanoshiro.org
だったんだけど、これはまだ通じるのかな?
郵便宛先なら次のとおりです。

〒252-8520
神奈川県藤沢市遠藤 5322
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
総合政策学部
浅野史郎

民主党に手紙を出すのも、いいかもしれません。
メールは鳩山か円より子宛がよいでしょう。
info@dpj.or.jp
民主党web-site 問い合わせページ
「件名については、できるだけご意見やご質問の内容がわかるように」とのことです。
また「本文中に送信者の氏名が記入されていないメールには基本的にお返事いたしかね」るとのこと。ってことは、ふつうはお返事来るのね。

スネールメールは
〒100-0014
東京都千代田区永田町1-11-1
民主党本部
民主党幹事長
鳩山由紀夫

〒160-0022
東京都新宿区新宿1−2−8 國久ビル 2F
民主党東京都総支部連合会
円 より子

April 08, 2007

選挙ですよー

まだ時間あるよ。
日本のみなさん、選挙あるところは、選挙、投票に行きなはれ!

あのね、「オレ1人くらい行かなくても」って思うのは違うんだって。

オレ一人くらい行かなくても、ってきみが思うってことは、統計的に、きみのような人たちの多くがそう思うってことなんだって。
もしきみが、オレ一人でも行こうかな、って思ったら、統計的に、きみに似た人たちの多くは、オレ一人でも行こうかな、って思って行くんだって。

つまり、いま、きみが行くか行かないか、行こうと思うか思わないかが、全体の動向に影響するんだ。それは、すでにきみ1人の問題ではないんだって、知ってた?

これ、すごい論理だよ!

ぼくらは、たった1人でも世界を変えられるんだ。
つーか、1人から始まるものでないと、信じちゃだめだす。

さー、石原を落としてください。
10年後の未来のない人に、未来を語らせてはだめだ。

まだ5分あるなら、それだけで投票所に駆け込めるよ! ほい!

April 03, 2007

浅野史郎の二丁目遊説

次の記事はスポーツ報知とスポニチの記事です。

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浅野氏×ゲイ 新宿2丁目で異色コラボ…4・8都知事選

 東京都知事選(4月8日投開票)に向け残り1週間あまりとなった31日、前宮城県知事・浅野史郎氏(59)がゲイタウンとして知られる新宿2丁目に登場した。今知事選で候補がこの地区を訪れるのは初めてで、現場には約500人が群がった。この日は民主党・菅直人代表代行(60)とも遊説した浅野氏。幅広い支援を呼びかけながら、いよいよラストスパートが始まった。

 「ヒュー♪」「かっこいいわヨ」浅野氏が現れると一気に“黄色い声援”が飛んだ。狭い路上には約500人が集まり、まさに大歓“ゲイ”ムードとなった。

 マイクを握った浅野氏は「ここは通りがかったことはありますが、来るのは初めて。ちょっとおびえています」と恐縮気味。同性愛者らに対する具体的な政策について聞かれ「基本的にありません」と答えると「それじゃあ駄目だろ!!」と“黄色い声援”は野太いヤジに変わった。

 浅野氏が「(都政が住民らの)邪魔をしなければいい。誰にも迷惑かけていないんですから」と説明すると、住民らも納得した様子。普段はライターのエスムラルダさん(36)も「実際に来てくれて印象が変わった。社会的弱者が生きやすい社会にしてほしい」と話した。

 イベントには同性愛者であることをカミングアウトしている大阪府議の尾辻かな子氏や、性同一性障害を告白した世田谷区議の上川あや氏らが駆け付けた。会自体は浅野氏を支援する同性愛者の団体が主催しているが、選対関係者によると「浅野本人はそういう性的嗜好(しこう)はない」という。ただあまりの熱気に浅野氏も「(選挙戦で)一番の盛り上がりだったね」と苦笑した。 (報知)
===

「新宿2丁目」は浅野氏“大歓ゲイ”

 前宮城県知事の浅野史郎氏(59)が31日、ゲイタウンとして知られる「新宿2丁目」でマイクを握った。石原慎太郎知事(74)がかつて「2丁目」の景観を条例で規制する発言をしたため、同地区では「街が変えられてしまう」との危機感が広がっており、選挙に注目が集まっている。浅野氏はセクシュアルマイノリティーに対して“保護”する立場を示し、聴衆から拍手を受けた。

 浅野氏は「ここら辺は通りかかったことはあるんだけど、来たのは初めて。少し今、おびえています」とあいさつ。すると、約500人の聴衆からは笑い声が上がり、「おびえちゃダメ!」の野太い声のヤジが飛んだ。

 ゲイの街を揺らす原因は昨年9月の石原氏の発言。五輪招致に絡んで「新宿2丁目」について一部インタビューで「美観とは言えない」として「規制力のある条例をつくる」と語ったため、ゲイタウンは大騒ぎ。そこで都知事選候補で石原氏の最大の対抗馬といわれる浅野氏を集会に招くことになった。注目度は高く、浅野氏も「私の演説会でこんなに集まるのは珍しい…」とビックリ。

 「知事になった場合、セクシュアルマイノリティーに対してどんな政策をするのか?」と司会を務めた女装したフリーライターの男性(35)に問われ、「迷惑をかけているわけでないなら、自由にやれるように…というのが基本的な姿勢。邪魔はしません」と答え、大きな拍手を浴びた。そして「シロウさ〜ん」の声援を浴びながら20分弱の遊説で「2丁目」を後にした。

 演説後、27歳の男性は「ここで演説をする人はなかなかいないし、セクシュアルマイノリティーに対する理解を示してくれたと思う」と感想。30代の男性は「好みの候補者?誰っていうより、イシハラがイヤよ〜。弱者に対する発言がひどいじゃない!」と激怒。「ゲイはこれまで投票に行かない人が多かった。でもこの選挙の注目度は高い。この街には5万票があると言う人もいる。どう動くのか楽しみね」と話す人もいた。 (スポニチ)
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報知の嫌らしい原稿の書き方はさておき、一般紙の報道はなかったようですね。ちょっと数紙の記者に聞いてみたところ、劣勢の浅野は後半戦に向けてどこにでも顔を出すので、いちいち付き合ってられないという心理がデスクレベルで働いているとともに、都知事選では性的少数者問題は争点でもなんでもないし、という感じが背景にあるようです。

私としてはしかしこれは単に一地方としての東京(都知事選)レベルの話ではなく、性的少数者の(初の一連の)政治的動き(の1つ)という意味では全国ネタだと思っているのですが、まだそういうきちんとした人権意識が日本の一般メディア内に育っていないのでしょう。だからキワモノ記事としてスポーツ紙だけが取り上げた。テレビニュースはあったようですが。

浅野に対しても、二丁目関連のあちこちから「ちょっとガッカリ」との声が聞こえてきます。しかしふつうはあんなもんなんですよ。札幌の上田さんが特別なのね。それより、ここまで連れてきた裏方さんたちの努力にまずは大いなる敬意を表したい。これは確かに歴史を作ったのだと思います。ほんとうにごくろうさんでした。

そのうえで敢えて敢えて敢えて苦言を呈させていただけば、浅野にきちんと事前にこの二丁目遊説の意義をレクチャーしてやるやつがいなかったようなのがちと残念です。すくなくとも話すべきポイントを箇条書きにでもして秘書に渡してやればよかったね。政治家なんてそういうもんなんだ。いろんなところに気を配らねばならないんだから何から何まで知ってるってもんじゃない。だからこそこっちから教えてやって初めてナンボのもんになる。教えてやれば百年前から知ってたような一丁前の話をしてくれるんです。擦り合わせもせずに質問ぶつけたらやはりちょっと苦しいかなあ(もし擦り合わせしてたのならごめんなさい)。 もっとも、知らないことを知らない、まだ考えてない、とはっきり言える浅野は、そういうところがいいのかもしれないしね。それにしてもLGBTコミュニティに関する基本認識は、教えてやらないとなんせ情報が流通していないんだから。

その、情報の欠落の問題です。
今回の都知事選で、一般都民は歌舞伎町がきれいにかつ安全になって(?)、きっと暴力団や外国人犯罪集団も駆逐されつつあると思っているのです。これはまったくもって歓迎すべきことだ、と。
おなじようなことが“性と享楽の魔界”である二丁目なる場所で行われて何が悪い、という受け取りなのです。思い起こしてもご覧なさいな、二丁目にデビューする前に、二丁目がいかに目くるめくほど恐ろしく兇まがしく妖しいものとして私たち自身にさえも映っていたかを。そこが浄化されるというのです。いい話じゃないですか! 一般には、「二丁目は性的少数者の数少ない命綱のコミュニティなんだ」とだけ訴えても、「へん、歌舞伎町だって暴力団の命綱の場所だろうが。同じこった」と返されるだけかもしれません。

そういう印象をくつがえせる、そうしたことにきちんと対抗しうる言説を、つまり「歌舞伎町」と「二丁目」はぜんぜん意味が違うのだということを決然と示しうる言葉の群れを私たちは必要としているのですが、それはまだまったく一般都民レベルには届いていないのでしょうね。それで石原の父権主義的な話し振りだけが彼らに響くという構図。断固たる上意下達でディーゼル車も排除して都内の空気はきれいになり、あの四男のスキャンダルの逆風はもう止んでしまったみたいだからそれで「石原で何が悪い」となっているんだ。傲慢、無礼、差別体質、それだけでは政治的にはまったく対抗できないのです。 なぜなら、都民はそれを飲み込んだ上で石原の父権を求めているのだから。強い父親でそういうオヤヂなやつはよくいる話、つまり慣れちゃってるんだから。そこをひっくり返せる物言いが、どうしたらできるのか。

遠く見ているだけの私には何を言う資格もないですけれど、裏方のプロモーターたちは、こういう選挙の時には遠慮なんかしてる暇はない。ほんとうに大変なのです。ご存じのように、人の好い素人じゃダメ。子供でもダメ。選挙で求められるのは、えげつない裏方と笑顔のおもて方。あたりかまわぬ挨拶と謝辞と、悪魔も騙せるほど頭の切れる参謀。マーケティングに精通したアイデアマンたちと、そしてそれを恥も外聞もなく実行してくれるピエロたち。 おお、かなりの人数が必要。

この選挙、きっと多くの人が傷つくでしょうが、どうせ傷つくなら覚悟の上で予定的にしっかりと傷つき、しっかりと這い上がり、さらに強い大人になろうじゃありませんか。ね。

March 16, 2007

だから何だっていうの?──従軍慰安婦問題とは何か

軍による慰安婦強制連行示す資料なし…答弁書閣議決定
(読売新聞 - 03月17日 00:31)

 政府は16日の閣議で、いわゆる従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話について、「(談話発表までに)政府が発見した資料の中には、軍や官憲による、いわゆる強制連行を直接示すような記述は見あたらなかった」とする答弁書を決定した。

 安倍首相は「狭義の意味での強制性を裏づける資料はなかった」としているが、その根拠となる、従来の政府の立場を改めて示した形だ。社民党の辻元清美衆院議員の質問主意書に答えた。

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まったく、日本政府のこの対応のバカさ加減には呆れます。
従軍慰安婦問題とは何なのか、それをまったくわかっていないでこうして傷口を広げるようなことばかりする。これでは国益を損なう一方です。

いままた米国で大きく取り上げられているこの従軍慰安婦問題にはさまざまな要素が絡み合っています。

1つは日本の自民党があまり得意じゃない米民主党の台頭という米国内の事情。もう1つは日本国内の保守派層への説明と国外向けへの説明とで微妙にニュアンスを違える安倍政権の事情。さらにそこに、現在進行中の北朝鮮の核開発に関する6カ国協議の事情が影を投げかけているわけです。

米国の火に油を注いだのが今月初めの安倍の「(慰安婦徴用には)強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実」発言でした。きょうの閣議決定答弁書の内容もこの延長線上です。

論理の上で「非在の証明」というのは最も困難なもので、つまり「強制性を裏付ける証拠がなかった」からといってすべてに「強制性がなかった」とは一概には言えない。それがわかっていながら、なのにそう言ってしまうのはなぜなのか? 証拠がなかった、といって、だから何だと言いたいのでしょう?

私もこの従軍慰安婦制度は、安倍らが言うように、軍や政府が直接手を下して女性たちを強制連行したという事例はおそらくそう多くはなかったのだろうと思っています。彼女たちを集めたのは多くの場合、民間の事業者であることは分っていて、時にはウソを言ったりあるいは脅しや力ずくで引っ張ってきたこともあるでしょうが、しかしそうした事例が大半だと非難するのは状況的にみて「そこまでは言い切れまい」という気がしています。しかしそれが現在から見て免罪されるかというと、それは違う。あの時代はどこかのだれかが言ったようにまさに「女性は産む機械」あるいは「慰みもの」だと言って憚らない時代だったわけです。

こう考えてみましょう。「奴隷」が一般に存在していた時代にはその制度への罪悪感は薄かったでしょう。では、だからといって「必ずしも悪意を裏付ける証拠がない」として奴隷所有を“擁護”するかのような発言は可能かというとそれは違う。ましてや「奴隷制度で得をした黒人もいる」などと発言したら政治生命云々どころの話ではありません。あの時代のパラダイムでは、強制連行されようが奴隷で幸せだったのだろうが、そんなことは問題の本質ではないのです。

しかも、今回の中心の問題は慰安婦の強制「連行」ではなくて、慰安婦への「売春」の強制なんですよ。連行しようがしまいが、その行き着くところで待っている慰安という名のセックス供給制度が問題なのです。そのセックスを、「売春婦ってのは好き者だからな」という男性性の思い込みで誤解したままの男たちの論理で一義的な問題としない、その浅ましさを恥ずかしく思わないのか。

強制したのは個人ではない場合もあるかもしれません。しかし厳然と言える事実は、システムが、時代が、それらを強制・強要していたということなのです。なのに強制連行の具体的な証拠がないって、だからいったいおまえは何が言いたいんだよ?

つまりこの場合、反省は個々の事例に対してというよりは、時代と制度全体への反省なのです。そのあたりの反論と反省の次元の違いを、安倍及び「新しい教科書をつくる会」に連なる右派勢力はあえて混同させているのです。安倍内閣による今回の一連の河野談話修正の“釈明”は、この国内の右派勢力に向けてのご機嫌取りなんですね。

事実誤認に基づく言われのない非難にはきちんと反論すべきです。この場合は、日本はこれまで慰安婦問題で謝罪していないとか、すべて強制連行だった、とかいう誤りに対してです。しかしその反論が、これまでの反省や謝罪そのものを全否定しているように聞こえては逆効果です。ましてや6カ国協議で日米が乖離したほうが簡単になるという国際政治の力学が渦巻いているこの時期。それはあまりに稚拙に過ぎる対応というもんでしょう。

安倍は「(一部の報道で)本来の意図と異なる、正確さと冷静さを欠く形で発言内容が伝えられた」とし、「非生産的な論争を招く」からと反論を自粛する旨を明かしましたが、これも呆れます。こういうときこそ反論しなくては政治家の政治家たる理由がない。もっとも、国外の反応よりも急落中の支持率挽回のために本来の自分の支持層である右派勢力の歓心を買おうとしたという、国内「政治屋」の理由はあるでしょうが。安倍は元もと河野談話修正論者。それを首相になったら重要な外交問題になるとして封印していた。靖国参拝自粛と同じです。なのにこうして時おり持論が飛び出す。こうした首尾不一貫、内外施策のちぐはぐさがなんとも幼稚なのです。で結局、11日には「心の傷を負われ、大変な苦労をされた方々に心からおわび申し上げている」とあらためての謝罪表明。これでは何のために事実誤認だと反論したのか、元も子もないだろうに。それともこれにはなんらかの深い伏線があるんでしょうか。私にはわからない。

そもそも、この慰安婦問題が米議会で出てくるというのは昨年の中間選挙で民主党が勝ったときから予想されていたことです。この非難決議案はカリフォルニアのマイク・ホンダっていう民主党下院議員が昔っから取り上げていたもので、この人、日系3世なんですが、カリフォルニアでは日系よりもはるかに人口の多い中国系を票田としている議員です。で、この中国系支持者層の歓心と献金を買うために日本の戦争責任を問うことを政治姿勢にしている。

ところが自民党は、クリントン政権のときからそうだったんですが、米民主党とのパイプが細い。それでブッシュ政権になったときに舞い上がってさらに共和党一辺倒になった。小泉時代のツケですね。で、民主党の逆転でブッシュ共和党がネオコンを切ってどんどん方向転換をしているのにそれに対応できないでいる。北朝鮮での対話政策への転換もそうです。ここに来て拉致問題重視の日本だけが孤立するはめになっています。6カ国協議で、日本だけが別のことを主張しなくてはならない、それも安倍が政治的に台頭してきたその拉致問題を大切にしなくてはならないときにこうして自らの首を絞めるようなことを言って米国との距離を広げるようなことをするのか。右派勢力のほうが拉致家族よりも大切なのか(まあ、そうなんでしょう)。

この内閣はメチャクチャです。支離滅裂で論評にすら値しない。というか、論評できないのです。
安定多数の議会を背景に、究極のインサイダー取引をしていた日銀総裁を更迭せず、女性機械発言の厚労相を辞めさせず、人権メタボリック発言の文科相を問題なしとし、500万円なんとか還元水の農水相をかばう。「とんでもない」という一言は、どうしたって論評にまで発展しないのです。

January 31, 2007

「ゲイの高校生の普通な毎日」

「ゲイの高校生の普通な毎日」というブログを読みました。ちょっと前ですが、1月25日のです。この高校生ブロガーくんはカムアウトしていないようですが、そのブログに「実は最近仲いい子の部活の後輩の子がゲイなんだって聞いちゃったりしました」と書いていました。

どうも「ケータイを勝手に見られたりして、なかにブックマークしていたゲイサイトを見られてしまって判明した」らしい。で、噂が立って「それでかなり避けられたり陰で言われたりしてるみたい」なのですね。「これって全然他人事に思われへん」と彼は書きます。そうして「やっぱり……異性愛者からしたら同性愛者ってのは気持ち悪いもんでしかないみたいです。あと、どうもおかしな思考回路持った人ってイメージ多いし……。友達に言われましたもん。その子が近くにいるときに僕が背伸びしてお腹出してると『あいつには気をつけろよ。ゲイやから襲われるで!』」

「ゲイの高校生」くんは、「とりあえず作り笑いでごまかしたけどそれって憤慨。同性愛者がみんながみんなそんなやつじゃないですから。普通に常識ありますから」ととてもしっかりしたことを書いています。「カバちゃんとかおすピーとかかりやざきさん」のテレビのイメージの影響を感じながらもその3人を「すごく面白いからすきだけど」とフォローしてもいます。で、「同性愛者って実は、ふつうにキャラ薄く生きてる人が多いんだよぉ……ばれないようにばれないようにって、毎日繕いながらひっそりと恋愛生活してるんやしぃ」といまの高校生ゲイの世界をさりげなく、しかし的確に教えてくれます。「僕もいつかは同性愛者ってことを隠さずに生きていけるようになりたい。たとえ、何人の人が背中をむけても、きっと何人かはわかってくれるはずだって信じたいから」という彼は、そしてブログを「うん。強くなろう……」と結ぶのです。

いい文章だなあ。

さて、これを読んでどう思ったか。こんな21世紀になっても日本の高校生たちは20年前と同じ差別にさらされているのか、とか? あるコメントは「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね……。私も憤慨です。同性愛とか別に普通なんですけどね。そうじゃない人のほうが多いのかーわからんなぁー」と言っていました。また別のひとは「やっぱり友達ゎみんなノンケだから、同性愛っぽい話とかが出るとキモって顔する人ばっかりで」とも。

コメント群もみなさん共感的で、早く噂が消えればいいのにとその噂の後輩くんを気遣ってくれています。やさしいね。

高校生ってどうなんでしょう。ほんとにそんなにホモフォビックなのかなあ。私は「最近同性愛者に対する理解が増えたって言いますが、やっぱり表面上だけなんですかね」というコメントに逆に気づくことがありました。

つまり、理解が増えたというのが表面的なら、理解のなさもまた表面的なんじゃないのかと。ホモフォビアも、ちゃんと理解して抱いてるんじゃなくて、そう凝り固まったものでもないんじゃないのかなって思ったわけです。みんななんとない受け売り、耳に挟んだものをまるで自分の考えたことのように思い込んじゃってるだけかも。そういうのもまたピアプレッシャーの一種でしょうね。みんながそう思ってる。そんな幻想からの圧力に押し流されてるだけ。

そうしたホモフォビアって、まあ高校生のリビドーの強さを纏ってなんだかすっごく厄介なバカ騒ぎめいたものにも見えるけれど、じつはそんなに大したもんじゃないんじゃないんでしょうか? そこを教育で衝いてやれば、かんたんに転ぶんじゃないかなあ。

教育ってカルチベートcultivateすることだっていったのは太宰治ですけど、そこに植えるのは正しさのタネなの。その正しさの芽を示してやること。それは情報のときもあるし態度のときもある。で、正しさはまずは信じるに足るものだってことを示してやること。まさにそれこそが必要なことなのではないか? それこそが「教育の再生」ってことの1つじゃないのか。

高校生のホモフォビアなんて幻想だ、そう実体があるものではないと書きました。中学生や小学生間のホモフォビアではもっとそうでしょう。正確な情報が与えられていないところでは幻想しか成立しませんからね。小学生と高校生のホモフォビアの違いは、まあ、時間が経過したせいで表層の角質化がやや進んだということくらいか。その証拠に(小学生の時とそう変わらないという証拠に)そういうホモフォビックな言辞を吐く高校生に「どうして?」って訊いてやったら、おそらく3つ目の「どうして?」くらいでそれ以上の答えに窮するでしょうから。

それが凝り固まっちゃったいい年のヤツなら、答えに窮する自分を認めたくなくて的外れな反撃に出たり無視を決め込んだりする。そこで終わりです。これは個別対応しても時間と労力の無駄だ。よほどの友達でない限り、そんな手間を敢えてこちらから割いてやる必要も気力もない。それは時代のパラダイムの変化で十把一絡げに変える以外にない。
でも高校生なら(それもまたわたしの甘っちょろい幻想かもしれないけれど)、自分が答えられないという事実に新鮮な驚きを覚えることも可能ではないか? 自分が答えに窮している瞬間に、あ、そっか、と蒙が啓かれる喜びを覚えることもできるのではないか? なぜなら、正しさに気づくことは楽しいことなのですから。ま、最近はキレる高校生もいるだろうけれどね。それはまた別の話。正しさが時としてとんでもなくイヤなものだってのも、それは次のレッスン。

で、私はそれが教育の醍醐味だと思う。そうしてそれはそんなに、というか、ぜんぜん、難しいことではないはずだ。その機会を、先生たちはどうして見逃しているのかなあ。もったいないなあ。

じゃあさ、先生という教育者たちがそれを見逃しているのなら、先生に頼らずに生徒たち同士が互いを触発し合うことだって、じつはそう難しいことではないと思うのです。さっきも書いたけれど、相手が友達だったらそういう触発の手間をかけてやってもいいじゃないですか。友情を手がかりにその友達のホモフォビアをちょっとずつ修正してやる。それはそいつのためです。放っておいたらホモフォビアを抱えたままのみっともないヤツになってしまうのですから。

「言うのは簡単だけれど」という声が聞こえてきそうだけれど、ほんとにそうかしら? 試したこともないんでしょ? どうしてそういえるのか? カムアウトの怖さはね、半分は妄想なんです。ビクついて頭の中で怖さが膨らんで……でも、じっさいはそんなに大変なことではないと思うなあ。十代のホモフォビアなんて枯れススキみたいなもので、そう大層なことではないという例証は欧米の中学や高校なんかでは枚挙にいとまがないのですから。大層な場合もあるけどね、それはだいたい、相手が集団でピアプレッシャーに凝り固まって、自分じゃどうにもできなくなるときです。でもそれはホモフォビアの強さというよりも、集団ヒステリアの強さなんだと思う。

やわらかな心の、やわらかさに期待できるような、そんな機会が、若い彼らのまわりにもっともっと増えるといいね。

January 24, 2007

宮崎県下のゲイは総勢……

以下、zakzak1/22より転載
http://www.zakzak.co.jp/gei/2007_01/g2007012207.html
(きっといずれすぐ消えるのでリンクしないで済ませます)
***
そのまんま東の知事当選にゲイが“ひと肌”


梅川新之輔ママとマドンナちゃん(写真の中央後方)も昨夜、そのまんま東さん(右)のお祝いに駆けつけた
 宮崎県知事選で劇的な圧勝を収めたそのまんま東氏だが、意外な応援団から熱烈な支持を得ていた。宮崎市内の会見場には2人の“和服美女”が登場し、東氏をねぎらう姿が見られたが、この2人、宮崎市内のゲイバー「こけっと」の梅川新之輔ママとマドンナちゃん(共に年齢不詳)=写真。

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 東氏はマドンナちゃんの高校時代の先輩という縁で、タレント時代から同店にたびたび遊びに行っており、今回の知事選で2人がひと肌脱いだというわけだ。

 「宮崎県内のゲイの大御所」(マドンナちゃん)という梅川ママの協力のもと、県下のゲイ全員に東氏への投票を呼びかけたところ、全員が快諾。つまり東氏は宮崎県内では「ゲイからの支持率100%」を達成したわけだ。

 ちなみに、梅川ママによると、宮崎県内のゲイは総勢約20人。わずかな数字だが、このような勝手連が東氏を知事に押し上げたのも事実。梅川ママは「今までのネオン街は死んだみたいだったけど、これで宮崎の景気もよくなるわぁ〜」と色気たっぷりに話していた。

**

ふうん、そうなんだ。20人ねえ。
ちなみに例のジェンダーフリー条例の都城もこの宮崎県。
ちなみにzakzakはフジ産経グループのタブロイド紙のウェブ版です。
この程度です。

January 20, 2007

槙原ケイムアウト?

このところ注目のakaboshiくんのブログが、槙原敬之のカムアウトのテキストを見つけたことでなんだかよくわからないことが起きています。日本テレビのウェブサイトで「第2日本テレビ」というのがあって、そこで見られると言うんだけれど、ぼくのコンピュータはMacなので見られない。といってるあいだに、どうも、その該当の動画ファイルが削除されてしまうということになっているようなのですね。

問題の動画はakaboshiくんによれば「2007年1月15日に放送された『極上の月夜〜誰も知らない美輪明宏の世界』という番組のインタビュー収録の場で語られたことであり、放送ではオンエアされなかったようです。しかし、ネット上に現在公開されている「槇原敬之インタビュー(後編)+槇原敬之『ヨイトマケの唄』ライブ」にて見ることができます」ということだったらしい。

akaboshiくんのブログには、しかし、いまも字に起こされた槙原の発言が載っています。よくはっきりしないけれど、でもまあ、文脈を辿ればカムアウトしたってことなんでしょうね。
akaboshiくんの再録したこの文字テキストは削除できないでしょう。
しかし、そのおおもとの動画ファイルがいまなくなってしまったというのはさて、いったいどういうことなんでしょうね?

ぼくはむかし槙原が覚醒剤で逮捕され、その際になんとかくんというこちらはゲイの男性とともに逮捕されたことで同性愛“疑惑”が週刊誌で仰々しく報じられたときに、てっきり彼も覚悟を決めてカムアウトするものだとばかり思っていました。だって、どうしたってその“疑惑”は蓋然性からいっても事実であって隠しようがなかったから。だから、それを見越して、バディのコラムで、「さて、ぼくらはどうするのか、槙原を見捨てるのか?」と書きもしました。

ところが、隠したんですね。どうしたもんだか彼は、自分はゲイではない、と言った。
おかしなもんでそして当時、日本の芸能マスコミはそれを通用させたんです。
それは何だったのか?

きっとね、ゲイであることは汚辱だってことだったんだとおもいます。汚辱だけれど法律に触れることではない。だから責めるべきことではない。だからそれはプライヴァシーに関することとしてマスから隠してやるべきことでもある。だからこれを不問に付すのが芸能メディアとしての取るべき道である、と判断したのでしょう。なんとまあ慈悲にあふれた対応か。

それは芸能マスコミのやさしさだったのでしょうか? スキャンダルとして、それは離婚や不倫や浮気や隠し子よりも“ヤバい”ことだった。だから、ほんとうにそんなにヤバいことだから、書かないでいてやるのが情けだ、と。そう、離婚や不倫や浮気や隠し子は「書ける」ことです。しかし「同性愛」はマジな部分では「書けない」こと。お笑いやからかいでは書けるけれど、マジな次元では書けないこと。マジでヤバいことだった。

ここにとても複雑な、メディアのズルさがあります。なぜ書けないのか? 書くとそれが人権問題になることを知っているからです。しかし、彼らはそれを人権問題として書かないのではない。プライヴァシーの問題だ、として書かないのです。

このレトリック、あるいはもっと明確に、トリックが、わかりますか?
もし同性愛が人権問題ならば、言論・報道機関はそれを書かねばならないのです。しかし、これがプライヴァシーの問題であるとすれば、彼らはそれを書かない口実を得ることになる。その境界線を行き来することで、日本のメディアはずっと同性愛に触れないできた。いや、触れないできた、というよりどっち付かずの態度を取りつづけてこられた、というべきかもしれません。そうしてここで明らかになるのは、先に書いた「慈悲」とは、同性愛者に対する慈悲ではないということです。あの「慈悲」は、彼ら自身に対する慈悲、自分たちのどっちつかずに対する優しい甘さ、怠けに対する赦しなのです。

さて槙原に戻りましょう。
槙原の動画ファイルが消えた。これは何を意味するのか?
日テレに聞いてみなきゃわからんでしょうけれどね、あるいは槙原サイドからやっぱりありゃあまずい、と削除依頼を受けたのか。

なんとなく察しうるのは、槙原本人も、それとその本人をいちばん近くから見ている“スタッフ”も、カムアウトしたい、そろそろそんなことから楽になりたい、ということです。もう、いいじゃねえの、そんなこと、という感じ。美輪明宏の影響もあると言うか、美輪明宏の名前を出してその神通力に頼ると言うか、そういう含意もあるでしょうね、あの文脈では。ただし、本人サイドはほんと、もうバレバレだし見え見えだし、ええい、やっちゃえ、という勢いだったのだと思うのです。

ところが、それはやっぱりまずかった。よくよく考えると、やっぱ、削除だろう、となった。そんなところではないでしょうか? その背景にはakaboshiくんが書いてる「可視化するホモフォビア」とともにもう1つ、ホモフォビアへのプレコーション(事前警戒)、というのもあるのだと思う。怖いんですよ、マーケットが。

マーケットとは企業のCM、そのCMで成り立っているテレビ番組、諸々のパブリシティ用の印刷メディア、そうしてそれらに誘導される一般購買層です。事前警戒とは、おそらくホモフォビアがあるに違いないと事前に予測して、それよる損害を回避しようと行動することです。つまり、「やっぱ、削除だろう」なのです。

ただね、こうした姿勢って、商売としてそろそろだめになってくると思います。つまりね、ホモフォビアを抱えているような購買層というのは、どうしたって賢い消費者ではないわけですよ。企業及びビジネス自体が必要としているのは賢い購買層なの。槙原がゲイだって分ったって、それでもいいじゃん、という消費層あるいはファン層こそがCMを打って効果的なターゲット層なわけで、ホモフォビアを抱えてるような連中なんてどこにでも流れるような連中で当てにならない。後者だけを見ていて恐れていもだめなのです。ビジネスとしてはこの2層に別々の戦略が必要になってくると思うのですよ。

もっとも、日本ではすごく賢い人でもピアプレッシャー(同輩圧力)のせいでホモフォビックだったりしてね、それを治療するには同じくピアプレッシャーを利用してカムアウトした人を周囲に増やすしかないんだけど。

ま、それはまた別のときにでも再び。

(上記テキストに一部誤りがあったので差し替え訂正しました=1/21。大麻で逮捕と思ったのは覚醒剤でした。それと、放送日時が去年暮れではなくてこないだの15日だったそうです)

January 11, 2007

バラバラ切断殺人と女性蔑視

正月からろくでもない事件です。NYにいると、日本のおそらくは狂騒的だろうメディア・スクラムみたいなこういう猟奇事件めいたものの、その猟奇さに合わせたみたいな下司な報道に曝されなくて済むのがいい。

片や渋谷区幡ヶ谷の歯科医の娘さんとそのお兄ちゃん。片や同じく渋谷区富ヶ谷のモルガン・スタンリーの高給取りとその奥さんです。
なんだかんだいってわたしもオンラインのニュースサイトだけですけどけっこう読んでしまっていて、まあ、報道の下品さに辟易しながらもその同じ土俵に上がってしまっているのですが、その字面だけで判断すると、この2つはとてもよく似ています。ただし、これは「遺体のバラバラ切断」というのはあまり重要な要素じゃないのかもしれません。それはこれまでの報道を総合すればきっと始末に困ったからであって、べつに“猟奇的”な意味合いからではないでしょう。幡ヶ谷のお兄ちゃんは妹の乳房や性器部分を切り取っていたというけれど、これは性的なものなのか捜査の攪乱のためか、今の時点ではよくわからないし、いまのところわたしにはあまり興味がない。どっちにしてもそれだけであるならば想像力の範囲ではありますし。

似ているのはバラバラにしたとか短絡的だとかそういうことだけではありません。
似ているのは、(これはあくまでのわたしの読んだ報道の範囲内だけからの判断ですけれど)この2つの事件に臭う、同じような女性嫌悪(ミソジニー)の要素です。女性嫌悪というのが強すぎるなら、女性蔑視と言ってもよい。

武藤亜澄さんは、お兄ちゃんの勇貴くんから「言葉遣いがなっていない」とか「態度が悪い」とか「恩知らずでわがまま」と非難されていて、それが殺人の背景の一つのようです。非難は勇貴くんだけではなく、どうもそのうえの長兄からもお母さんからも来ていたようだ。こうして根掘り葉掘り情報を流布されてしまうご遺族には同情を禁じませんが、私が書くのはご家族への非難じゃないので赦していただきたい。

「妹」というのは微妙なものです。女であり、さらに年下である。年上の男にとっては愛護の対象である、とされるこの位置から、年上の男に向けて「三浪のくせに」という言葉が発せられたら、愛護の対象は、愛護の対象である分だけ逆のベクトルをまとう攻撃の対象に変わるでしょう。亜澄さんは歯科医の一家にあってひとり演劇に興味があって別の道を歩もうとしていて、それも家族内の波風のもとだったのかもしれません。あるいは、末っ子で女だった彼女は、歯学部ー歯科医というエスタブリッシュからひとり離れることのできた「女」で「年若」の“特権”をあえて使ったのかもしれない。

で、ふと思うのです。彼女がもし女でなかったら、つまり、弟だったなら、勇貴くんが抱いていた殺意は別の種類のものだったんじゃないだろうかというふうなことです。愛護の裏返しのような敢えて駆られての殺意ではなくて、変な言い方ですがもっと対等な殺意というか、いやあるいは兄貴のほうも演劇なんていうろくでもない道に進もうとしている弟を見て、自分も三浪する以外の別の道があるのかもしれないななんていう既成コースの脱構築が促されるようなそんな関係すら想像可能な、もっと風通しのよい景色があったのではないかと、思ったりもする。

亜澄さんも、女であることであえて突っ張って頑張らねばならないような状況にいたのではないか? 勇貴くんも妹にバカにされたことで弟にバカにされる以上の辱めを感じたのではないか?

そこにある女性へのバイアス。

これを、じつはモルガンスタンリーのなんとかさんにも感じます。もちろん、今日時点でのほとんど第一報的な報道の範囲内の情報からの判断ですからそれはわたしの想像を出ないし、殺された方を貶める意図もここにはありません。

さて32歳の妻は、「口論も絶えず」「暴力も振るわれ」「自分を否定している」ように感じられた30歳の夫を寝ているあいだにワインの瓶で殴りつけて殺害します。加害者の一方的な供述をかりに真とするなら、ここに見えてくるのはとても強権的で封建的な、女を人間とも思っていない30歳の男性若者像です。さらにここにも年齢差が、とても日本的に、関係してくるかもしれません。こちらの場合は、愛護の対象ではなくなった女性です。そのときにこの「年上」という要素がどのように「愛護の対象ではない」という部分を補強するのか、その残酷な例は私たちの周囲におそらく多々見られることでしょう。

極論をいえば、どうしてこうも男は女が嫌いなのか、ということです。
裏を返せば、男は自分のセックスの対象となる(可能性のある)女しか好きではないのか?
ふたつの事件で被害者と加害者はそれぞれ男女が逆転していますが、わたしには同じ女嫌いという要素が下地になった殺しだと思えてなりません。いや、モルガンスタリーの男性はすごくいい人で、わたしが基にしているのは加害者容疑者の妻の一方的な虚構の供述なのかもしれませんが。

両事件はまだまだどんな展開になるのかわかりません。
が、そういう視点でニュースショーやワイドショーを眺めてみることも必要かもしれません。日本社会の持つそういう種類のミソジニーは、もちろんホモソシアリティの産物であり、それがゲイと、それ以上にレズビアンたちを抑圧しているのです。その種のメカニズムに、心ある人は自覚的であってほしいと願います。

November 17, 2006

この文章への不快感

連鎖すら生んでいるかのような少年少女のいじめ自殺に、「文部科学大臣からのお願い」なる文章が発表されたという。

(クリックすれば大きくなります)

これはだれが書いたのだろう。役人か、それとも大臣そのひとか。
なんだか、空虚な、文字の無駄遣いのような文章だ。いや、それ以上に、ここに書いてあるような安っぽいことは、きっと数多の教室で家庭で、ろくでもない教師たちだって親たちだってだれだってすぐ言えるような常套句だ。そうしてそれでもいじめは解決されていないのだとすれば、一国の大臣が、この程度の言葉を発表してはダメなのである。曲がりなりにも大臣なのだ。総理大臣が北朝鮮に行くときは外交上の“最終兵器”として出向くのである。文部大臣が言葉を発するときは、それ以上の言葉はもうないのである。

なのに文部科学を司る“最終兵器”が同じことを言っていると知って、いじめられる側もいじめる側も、しょせんオトナのいうことなんてそんな程度だと思ってしまうことが私はいちばんいやだ。いや、そんな権威を信じているわけではない。子供に、世界の果てがそんな目に見えるほどのところにあると思わせることの罪を言っているのである。

このひとは何を言っているのか。
こんなブルシットをしたためるヒマがあるなら、いじめをやっている連中に、オトナの怒りを見せてやることこそが必要なのだ。
なのに、このひとは「怒る」代わりに「脅し」ているのである。おそらく「脅し」とも気づかないまま。
「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とは何事だろう。

いじめを許さない、たとえいじめている側に向けてだって、いじめることを許してはいけない。なのに、「いじめられるよ、だからいじめるな」では、矛盾するだろう。この論理のネヅミ講の最後には、必ずいじめるやつの存在が残るのだ。そりゃそうかもしれない。しかしここはそんな存在をすらも許さないという態度を見せつけてやらなくてはならないのに。

だって、子供たちは、いつか自分も「いじめられるたちばになる」かもしれないことを恐れていじめつづけているのである。いじめる側に固執しているのである。「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」とはまさに、だからそうならないようにいじめつづけていよう、という呼びかけになってしまうのだ。なんと姑息な。

すでにメディアでも取材され報道されているそんな簡単な構造を、どうしてここで見逃しているのか。それは知的怠慢以外の何ものでもない。

冒頭の、疑似美辞的双子構造の二文、「いじめるのは、はずかしいこと」「ひきょうなこと」──これはおそらくあの「国家の品格」の藤原正彦の空疎な受け売りだ。
そうして子供たちは、それがどうしてはずかしいことなのか、ひきょうなことなのか、わからないままだからいじめを続けるのである。

いじめるのは、はずかしいことなんかじゃない。いじめるのは、「恥」そのものなのだ。それは世間様に対して「はずかしい」のではない。自分にとっての「恥」なのである。

「恥を知れ」と一喝してやれよ。
一国の文部大臣が、「いじめる側のままのきみをわたしはぜったいに赦さない」というほどに怒っているところを見せてやれよ。

「後になって」「ばかだったなあと思うより」というような簡単な反省ではないはずだ。
ひとが死ぬのである。それは「バカだったなあ」と思うどころの話ではないだろう。それは犯罪なのだ。「殺人なのだ」となぜ明確に指弾してやらないのだ。子供たちに「殺人者」という言葉を与えよ。それは罪を知らしめることなのだ。

この「お願い」は、いじめる子供たちにバカにされるだけで絶対に彼らの心に届かないだろう。

続いて後段である。
今度はいじめられる側への「お願い」だ。
これも、こんな言葉は聞き飽きている情けないほどに貧しいテキストだ。しかも、いじめる側への「お願い」と同じ紙に印刷するなよ。1つの檻の中に入れられた肉食獣と草食獣の姿を連想してしまう。礼儀にももとる。併記の扱いを受ける、傷ついている子供たちを可哀想だとは思わないのか。無神経だなあ。これこそ、「恥ずかしいこと」なのである。気づけよ、そのくらい。

そうしてその無神経さは全文を貫いてもいるのだ。
「話せば楽になるからね」という安請け合い。
それは「死ねば楽になるからね」というテキストとどれほどに説得の質の違いを持っているのか。

「きっとみんなが助けてくれる」
助けてなんかくれねえよ。バカ言っちゃいけない。おい、大臣、だれが助けてくれるんだい?
「きっと」ってなんだ? 命はそんな「きっと」に賭けてもよいものなのか?

いじめられている子が、どうしてそれを親にもいえないのか。それは、それこそ「はずかしい」からである。自分がいじめられるような、そんな情けない子供であるということを、親に知られることすらもが恥ずかしいのだ。なぜなら、親にまでそう知られたら、自分がほんとうにそんな情けないやつであるように自分でも思えてしまうのがいやだからである。そして親にまで恥ずかしい思いをさせてはいけないと思うからなのである。助けを請うのは情けないやつだからだ、と自分でも思えてしまっているのだ。

恥ずかしいことかもしれないけれど、「恥」ではない、と教えてやれよ。「恥」がどちらに属する言葉なのか、知らしめてやれよ。それがオトナの務めだろう。

ほんとうにいじめられている子たちに届くメッセージを発表したいなら、予算を割いて谷川俊太郎ら世の詩人たちに詩を書いてもらえばよいのである。そうしてそれを文科省の采配で学校の授業で緊急に取り上げさせればよいのである。詩人たちは社会の財産なのだ。有効利用すればよいのだ。役人の作文など、恥じ入ってしまえ。

こんな駄文で本気で何かが変わると思っているのなら、それこそ笑止。
教育基本法の改正どころの話ではなく、日本の危機そのものの露見。

第二の、以下の、親や先生らへの「お願い」文に至っては、アリバイ作り以外の何ものでもない。「……したいものです」という語尾一つとっても、なんなの、この他人事っぽい物言いは。
この内閣の目指す「美しい国」というのは、かくもかように情けない国なのである。ってか、ほんと、情けない政治家しか目立たん国だわなあ。
腹立ってきた。


November 08, 2006

神戸新聞のこの連載はすごい!

最近、日本の新聞づいておりますが、今日のはたまたま、ホントにたまたま仕事途中の逃避行動でネットサーフィンしていて見つけたもの。

神戸新聞のこの夏の連載記事です。
こんな良い企画ものが載ったことをいままで知りませんでした。

例の、神戸で“見つかった”性同一性障害の7歳の男の子(心は女の子)の調査報道です。
タイトルは「ほんとうのじぶん —性同一性障害の子どもたち」
筆者は「霍見真一郎」記者。
筆致はあくまで真摯。余計な飾りのない、素晴らしい原稿です。

地方新聞にこうした良質な記事を書ける記者がいる。うれしいなあ。しかも男の人ですよ! こういう原稿、男イズムにかまけている男性記者たちにはなかなか書けない。いつもLGBT関係は女性記者の独壇場なのです。彼女たちはセクシズムに侵されてない、というより侵されてそれを弾こうと意識的なのだから。

時間があるときに読んでみてください。
最初のページはここです。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200607gid/01.htm

私は読んでいて、不覚にも3度ほど涙が出ました。
一部、以下に抜粋。

**
 母は信じられず、日を置いて、幾度か同じ問いを投げかけ、そのたびに泣かれた。
 あるときは、「いつから女の子になりたいと思っていたの」と聞いた。春樹の答えはこうだった。
 「なりたいんじゃなくて、(生まれたときから)女の子なの」

**

くーっ。この春樹ちゃん、いろんな意味で、なかなかすごいんだ。
ちょっと遅きに失したけどおもわず賞賛のメールを送ろうとしたら、神戸新聞のサイト、読者からのフィードバックを受け付ける窓口がどこにあるのかわかりません。
webmasterにメールすればいいのかしら?
ぜひ、この霍見真一郎記者に謝意を伝えたいものです。
在り難いとは、まさにこのように、存在が稀であることへの謂いなのです。

October 19, 2006

前のブログ、訂正

この下のブログで、司法記者クラブの記述に関して、「麻雀なんて、もうやってませんよ」と最近の同クラブを知る現役記者から教え諭されました。かつてわたしの在職時代とは雰囲気も違うようです。

お恥ずかしい。現況の取材もしないで、わたしの記憶の印象だけで誹謗中傷しました。

もう1つ、藤田社長の会見に関しても、記事にしていないのではなく、ネット上には転載されていなくとも本紙で原稿にしている社もあるようです。

これも、ネットのみ閲覧して判断してしまったわたしの短絡です。これも誹謗でした。当該司法記者に謝罪します。

下記ブログは、自戒のために削除せずにそのままにしておきます。
こういう間違いの典型としてお嗤いください。
「そもそもねえ〜」という態度で書き始めるとロクなことがない、という好例です。

ただし、偽装事件に関する藤田社長の告発は、追跡して調査報道する価値が大いにあるということに関しては訂正しません。志のある若い記者はぜひ頑張っていただきたい。

もうひとつの耐震偽装事件

東京新聞社会面サイトに次のような記事が出ていました。
興味深い、というか、なんだかとても大変なことが書かれてるんですよ、これが。

まずはお読みください。

『アパ3物件も偽装』

藤田元社長暴露


判決後、会見で別の耐震偽装疑惑を述べる藤田被告=18日午前、東京・霞が関の司法記者クラブで

 「国がどうやって真実をねじ曲げてしまうか、みんな知らない」。耐震強度偽装事件の“登場人物”の一人とされ、東京地裁で十八日、有罪判決を受けた民間確認検査機関「イーホームズ」(廃業)元社長藤田東吾被告(45)が判決後、記者会見で「爆弾告発」をした。「アパグループの物件でも偽装が行われた」。藤田被告は激高した口調で、国や捜査当局を「耐震偽装を隠ぺいするために私を逮捕した」と批判、マスコミに真実を追及するよう訴えた。

■首都圏マンションなど

 藤田被告は判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「イーホームズが確認検査をしたホテル・マンション大手『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装があった」と述べた。

 アパは今年六月、「イーホームズより構造計算書に一部不整合があるとの報告を受け、検証中」と明らかにしていた。

 藤田被告によると、イーホームズが偽装を確認したのは(1)埼玉県鶴ケ島市のマンション「アップルガーデン若葉駅前」(2)千葉県成田市のマンション「アパガーデンパレス成田」(3)川崎市内の物件−の三物件。偽装に気付いたのは今年二月。アパグループの物件の構造設計を請け負っている富山市内の設計事務所の代表がイーホームズに来社し、藤田被告に打ち明けたという。

 この後、アパの役員らがイーホームズを訪れ、計画の変更を要請。「アップルガーデン」と「ガーデンパレス」は「計画変更も再計算も適切ではない」と判断し、工事は現在中断しているという。

 藤田被告は「国に通報して、アパの物件を調査するように要請したのに、担当者は『関知しない』と取り合わず、アパは工事を止めなかった」と述べた。

 その上で「本質は確認検査ではなく、偽装が可能なレベルの構造計算プログラムの問題だ」と主張。「その責任は、プログラムの運用プロセスを認定した国土交通省と同省の天下り団体である『日本建築センター』にある」と訴えた。
**

この原稿、他社は書いていない。
東京新聞の司法記者だけが書いたんですね。
朝刊回しなのかもしれないが、司法記者クラブでの判決後会見なのだから「特ダネ」というものではない。みんなそこにいて告発内容を記した紙切れももらってるんでしょうし。

ただし、特ダネには結びつきそうなことは書いてるんですよ。だいたい藤田社長の逮捕・起訴が偽装事件とはまったく関係のないものだとこの日の東京地裁判決で認められているのだから、この藤田社長の告発の奥に何かがあるだろうことは想像に難くないでしょう。ですから、ふつうはどう転んでもいいように、これは本来なら司法記者が書いておくべき原稿ですね。書き方はいろいろあります。が、とにかくアリバイとしてでもいいから載せておく、そういう判断をするのが普通です。

でね、司法記者クラブというのはけっこうベテラン記者たちがそろっていて、いつも余裕で記者同士が麻雀をしているようなクラブなんですよ。各社のブースの他にソファのある居間みたいなスペースがあってね、そこで卓を囲んでるわけ、いつも。そんでまあ、お上の動きがないと、というか、検察、裁判所、といった「お上」の動き(のみ)をウォッチしていればデスクに叱られない記者クラブ、だと記者たち自身も思っているところがあるんですな。

特オチ(特ダネを自分だけが書かない失敗)というのは基本的にこのお上関連の特ダネを落とすことをいいます。イーホームズの藤田社長の告発など、いわば民間の、なんの権威もない、裏も取れてない(つまりは自分で裏を取らねばならないような面倒くさい)、「街ダネ」に過ぎない、ということで、怠けていられるのでしょう。

でもそれでいいのかねえ。この「『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装」ってのは、まえまえからいわれている「耐震偽装はこれだけじゃない」ってやつの具体例だろう。じつにヤバい話ではないのか。

なのに、「耐震偽装報道は、もーいっか。飽きたよ」という雰囲気が、新聞メディアにあるのだとしたら、こりゃ、たまったもんじゃない。こういうときですよ、いつもはメタクソにいわれる週刊誌が頑張るのは。東京新聞もぜひ特報部で追跡報道してほしいもんです。がんばってください。

October 18, 2006

大阪ってすごいね

こんな記事が朝日・コムに載ってました。

http://www.asahi.com/national/update/1018/OSK200610180030.html

「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導
2006年10月18日15時23分
 ダブルの部屋に男性2人で宿泊するのを拒否したのは旅館業法(宿泊させる義務)違反にあたるとして、大阪市保健所が同市内のホテルに対し、営業改善を指導していたことが18日、わかった。宿泊を拒まれたのは22日に同市の御堂筋で開かれる同性愛など性的少数者らによる「関西レインボーパレード2006」に参加予定だった東京都内の教員の男性(26)で、「イベント開催地での宿泊拒否は納得いかない」と話している。

 男性らの話によると、16日にインターネットの宿泊予約サイトを通じ、ホテルのダブルの部屋に、21日から1泊の予定で予約を入れた。しかし同日夜、ホテル側は「男性同士でダブルは利用できない」と電話で宿泊を拒否。17日、ホテルに再度連絡したが、同様に断られたため、保健所に通知したという。

 旅館業法などでは、宿泊業者が客を拒否できるのは、感染症の患者や賭博などの行為をする恐れがある場合などに限られている。ホテル側は「お客様が間違って予約されたものと判断し、ツイン部屋の利用を勧めただけだ。男性同士だから拒否したわけではない」と話している。

**

これ、いいねえ。
いいのは、大阪保健所の「迅速な対応」。保健所としてはちんたら対応することもできたんだろうけど、対応した担当者が即決したってことがすごい。

もっといいのは、この事実を保健所に届けた「都内の教員(26)」。うまい! えらい! 攻めどころを知ってる! 若い!(関係ない)
怒りをクローゼットに閉じ込めてはいけないのだ。

さらに僥倖は、大阪朝日のこの筆者の存在。

じつはこのところ、大阪朝日は

性的少数者らが御堂筋でパレードを開催へ 大阪
2006年10月12日

 同性愛や性同一性障害など性的少数者とその支援者が22日、性の多様性を認め合う社会の実現を訴える「関西レインボーパレード2006」を大阪市の御堂筋で開く。関西では初の開催で、約600人が中之島公園から難波まで、約1時間半かけてパレードする。

 実行委員会事務局長の尾辻かな子・大阪府議は「性的少数者はテレビの中にしかいないと思われている。地域で共に暮らしている姿を見てもらうことが、多様な社会を考えるきっかけになればいい」と話す。

という記事のほか、きょうも早朝の段階で


同性愛者の「結婚」も市長が祝福 大阪市が活性化戦略
2006年10月18日08時07分

 大阪市民であれば、ゲイやレズビアン同士の「結婚」を、市長が祝福します——大阪市は17日、街の活性化を目指す「創造都市戦略」骨子案を公表し、参考としてこんなプランを披露した。担当者は「議論はあるだろうが、多様性を許容するざっくばらんさが、大阪らしいのではないか」と話している。

 新戦略作成をめぐっては6月、市各局・区から選ばれた中堅職員30人がプロジェクトチームを結成。「交通利便性の向上」「大阪の売り出し」など5テーマを掲げ、15の事業案を考え出した。

 お金をかけない「既存施設の活用」の項目で挙がったのが、結婚祝福式だった。市内に住むカップルを月1回、10組ほど募り、市役所1階ホールで、市長がお祝いカードや握手などで祝福する。

 同性愛者ら国内では法的に結婚できないカップルも対象。行政が多様な人の生き方を積極的に認めることで、「本当に人にやさしいまち大阪」を目指すという。

 ほかの事業案は18日午前10時から、市経営企画室のホームページで確認できる。

っていう記事を連発しているのです。

これは市内版担当、市役所担当でしょう、ってことは筆者は若い記者でしょうかね。
同じ記者なんだろうか。
もしそうだとすると彼/彼女、やはりおいしいところに目をつけた。
別人だとすると、大阪朝日の人材はいいねえ、ってことになる。
やっとこういうのを旬な話題だと、さらには他社が書かないから書き得だと気づいたライターが出てきた。
書かない他社がいつまで無視できるか。かえって依怙地になる場合も多々あるけどね。

大阪朝日の社会部に、よくやってくれてるね、さんきゅーメッセージを届けましょう。あるいはこれらの記事の筆者への、感謝・賞賛メッセージですわな。
http://www.asahi.com/reference/form.html

さらには、大阪市役所、大阪保健所にもね。
http://www.city.osaka.jp/shimin/opinion/index.html


**
で、今回の教訓

同性2人でホテルに泊まろうとして、まあ普通は泊まれますが、それがダブルで、と申し込んだ場合に拒否されたとしたらどうするか。
マニュアルとして憶えていたほうがいいでしょうね。

**

宿泊拒否にあったら、え、なんで? と思うこと。

思ったら、これってヘン、って怒っていいということ。

怒ったら、その怒りが冷めないうちにすぐに都道府県の旅館業法を担当している部署(政令指定都市なら市)に電話して報告すること。東京都の場合は福祉保健局環境衛生課です。まあだいたい、保健課、衛生課、観光課みたいなところでしょう。
メールよりやっぱり電話だろうね。向うもこっちの申告・告発が虚偽じゃないってわかりたいし。ま、名前は仮名でもいいでしょう。

同時に、国の法務局、都道府県、市町村の人権を担当する部署に人権侵害があったことを連絡すること。
(今回の「都内の教員(26)」さんも実際に市と府の人権担当に連絡を入れたそうですよ)

根拠は「旅館業法第5条」です。
同性2人でも、宿泊拒否は許されないんだってことを知識のワクチンとして持っておましょう。

よく男2人はお断りっていうラヴホテルがあると聞きますが、ラヴホテルだってじつはおんなじでしょう。(ん? あれ、風俗営業法の管轄じゃないよね=いまちょっと調べたら、両方で規制されてる。not sure。法曹関係者、教えて)

さらにもし、その都道府県(政令市)の動きが悪ければ、国の厚生労働省に訴えて下さい。もしくは「では厚労省に告発します」と言うこと自体も有効かもしれませんね。

October 10, 2006

北の核実験の真意

バグダッドの米軍基地で大規模な爆発があったようです。CNNはそれをトップで報じています。でも犠牲者は出ていないっていってますね。いま現在、まだバグダッドは深夜なので原因は何なのか、現場がどうなっているかの映像も来ていませんが、あさになれば状況は変わるかもしれません。それにしてもこの2日間でバグダッド周辺では110人を超える死体が捨てられているのが見つかったとか、とんでもない状況が続いています。

それと北朝鮮ですが、どうも北朝鮮の核実験、失敗したんじゃないかという話が強くなっていますね。
4キロトンの爆発力が予想されていて(北があらかじめ中国にそう報告していたようです)、しかしどうも500トン、もしくは200トンくらいの爆発力しかなかったようだという話で、核爆発まで行っていないんじゃないかということまでいわれています。

そうすると、未確認ながらいまさっき行われたという再実験の動きというのも、じつはその失敗のためにさらに実験するということなのかもしれません。7月のテポドンの発射のときも失敗していますしね。

同時に、アメリカは軍事的な作戦の行使はないと断言し始めています。理由の1つはよい標的がないこと。もう一つは犠牲者が100万人にも及ぶだろうこと。

日本ではおそらく脅威ばかりが強調されているでしょうけど、ちょっと冷静になって考えてほしいのはね、北朝鮮はね、これで日本や韓国を核攻撃する、というわけではない、ということなのです。そうなれば北朝鮮自体がなくなってしまうということですから、そんなことはしない。それは北の脅しなんです。いつものはったり。今回の核実験というのは、あくまでそのハッタリの度合いを強める、そのハッタリの脅威を、真実味を強める演出でしかないんですよ。そこを読まなければならない。

もちろん米軍が攻撃したら核をぶっ放す、というか自滅覚悟でいわば国家単位の自爆テロをやらかすでしょうが、それはアメリカといえどもやりません。やらないって言ってる。

つまりね、この核実験は、核攻撃をするためではなくて、もう核実験をやらない、ってことを条件に米国から譲歩を引き出すためのネタ作りなんです。核実験をやらないから米国に二国間の直接交渉に出て来い、って、その要求を実現させるための、いわば都合の良くでっち上げたご褒美なんです。核実験もしない、核をテロリストや他の国家にも売らないから、という、自分でネタを作ってその自分のネタで揺すって、そのネタを引っ込めるからこうしろ、と迫るための、じつに稚拙なマッチポンプなんです。つまり、自分で日本刀振り回して、もう振り回さないからカネをくれって言ってるのと同じなんですね。だからここは、そのカネの中味、何が欲しいのか、どうして欲しいのかをはっきりさせた上で、それにどう対処するのかを戦略的に考えるべきなんです。
それを見極めた上での外交上の作戦を練るのが必要なんですよ。

いまおそらく日本では北に対抗するための核武装論や、憲法9条改正論がまた熱を帯びつつあるかもしれません。しかし、そりゃあ、ぜんぜん有効じゃない。日本が核武装してどうするんですか、余計に混乱するだけなんですよ。核武装論者で改憲論者の安倍さんはこれで勢いづくでしょうけど、それはちょっと、為にする議論です。

北が国家自爆テロにまで進んだらどうするか?
そんときは東アジアは壊滅状態です。日本がいまから核武装したって間に合わないし、間に合ったところで自殺テロ志願者にはなんの効果もないし、さらにはいま核武装していたとしたって壊滅を防ぐためのなんの役にも立たない。でしょ? わかります? だから、道は、北に自爆テロをやらせないためにはどうするかってこと。それを考えない限りどうしたってダメだってことです。そんで、それは日本の軍備拡張でも憲法改正でもぜんぜんないってことですわ。

しかし中国はこんかいで北への影響力というのをすっかり失っているということを証明してしまったね。テポドンの7月のときもそうだったけど、胡錦濤の官僚体制が、北との人間的な人脈を蔑ろにしてきた結果なんだろうね。そうすると北がいまどこに逃げ道を模索しているかというと、ロシアなんだろうなあ。今回の実験でも、中国より先にロシアに事前通告していたって、これはどういう兆候なのか、とても興味深いですね。

今朝の朝日の天声人語(さいきん、このコラムがまた甘っちょろくてかつての栄光はどこ行っちゃったんだろうねえっていうような文章しか載せてない情けない一面コラムに成り下がってますが)がアインシュタインの言葉を引用してました。

「第三次世界大戦がどのようにおこなわれるかは私にはわからないが、第四次世界大戦で何が使われるかはお教えできる。石だ!」

この引用以外は、またまたひどいテキストでしたが。

October 06, 2006

フォーリー報道について

5日配信の以下の共同通信の記事に、例によって同性愛者にいわれなき汚名を与える記述がありましたので指摘しましょう。

***
米議員の少年へのわいせつメールで波紋

 米与党共和党の前下院議員、フォリー氏が少年にいかがわしい内容の電子メールを送った問題で、議会上級スタッフは4日、AP通信に対し、少なくとも3年以上前に同氏の「不適切な行動」の存在を知り、ハスタート下院議長側近に注意喚起していたと語った。

 議長はメール問題を昨年知らされたが、文面については「先週まで知らなかった」と釈明。しかし、議長が早くから同氏の不審な行動を把握していた可能性が浮上した。中間選挙で下院共和党の敗北を確実視する声も出始める中、フォリー氏の議員辞職で幕引きを図る考えだった議長への辞任圧力が強まりそうだ。

 同通信によると、証言したのは、かつてフォリー氏の部下でもあったカーク・フォーダム氏。中間選挙で下院共和党の選対本部長を務めるレイノルズ議員の首席補佐官だったが、4日に辞職。フォリー氏はメール疑惑浮上を受け9月29日、議員を辞職した。

 フォーダム氏は数回にわたり、同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っていることを知り、議長側に伝達していたと指摘した。

 与党内では議長への不信感が高まっており、遊説先で議長の応援演説を断る議員も出始めた。 (共同)
[ 2006年10月05日 10:08 速報記事 ]
**

問題の箇所は第4段落、「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取っている」という部分です。

少年少女への「不適切な」性的行動は、ペドフィリア(少年/少女性愛)といわれます。
ペドフィリアとホモセクシュアルとは無関係で、別個の問題とされます。なぜなら、ほとんどのペドフィリアは異性愛者によるもので、しかも家庭内で起こる事例が多い。

ところがここで「同性愛者のフォーリー氏が」「不適切な行動」というふうに結びつけられると、一般的に「同性愛は異常、変態、不適切」という偏見がはびこる社会では、「同性愛者だからこういう不適切な行為もした」と容易に結論づけられることになります。

したがって、この問題を報じる米国では、つねに「同性愛と少年愛は別の問題」という但し書きが(テレビの場合は口頭での解説が)付けられています。とくに、フォーリー氏は今回、この(複数の)ページボーイとの関係に関して「アルコール依存症が原因」とか、「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」として“言い逃れ”しようとしています。

おそらく、筆者は「同性愛者ではあるがペドファイル(少年性愛愛好者)ではない」という部分の米国での報道情報を、自分の翻訳原稿の中にも手短に組み込もうとこのように1つの文でくっつけて書いてしまったのでしょうが、読解の結果は微妙に変わってしまいます。米国では今回の一件は「同性愛者のフォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」というテキストとしては、絶対に、報道されていませんし、公的に発表される文章としてはまったくの「不適切」と考えられます。

いっぱんの読者も、または編集者(デスク)もつい読み流してしまうような部分ですが、こうしたさりげない「刷り込み」が偏見と差別の下支えをしています。「同性愛者の」という形容句を抜かして、たんに「フォリー氏が議会でアルバイトをする少年に「不適切な行動」を取った」でも、なんら重要情報の欠如はなかったでしょうに。

いま最も先鋭な人権問題である性的少数者問題ですが、それに関する記述では、日本ではきちんとしたマニュアルもまだ出来上がっていません。

共同通信の記者ハンドブックでも、被差別部落や外国人に関する記述の厳然たる注意条項はありますが、性的少数者に関するものはおそらくまだまとめられていないのではないでしょうか? したがってスポーツ紙や夕刊紙では、90年代よりは幾分ましになったとはいえ、まだまだ時に目も当てられない野放し状態が続いています。

ことは今回のフォーリー事件に関する一件だけではありません。
共同通信にはぜひ、同性愛などの性的少数者問題への記述の指針を、過去の多数の事例を基に早急に明文化してもらいたいものです。そうすれば朝日、読売、毎日の三大紙のハンドブックも追随する(テレビや地方紙は共同マニュアルを転用しています)ことになっていますからね。

ということで、共同通信にメールで上記の申し入れをしておきますわ。
しっかし、こういうのは重箱の隅を突つくようなアラ探し、みたいなふうに受け取られるんだろうなあ。ほんとはそうじゃないんだけどよ、書いてるほうも疲れるわ。
やれやれ。

September 15, 2006

HRWが動いた

世界最大の人権組織"Human Rights Watch"が都城市の条例改正に関して抗議の書簡を送りました。市長と、市議会宛に送付したようです。内容は、だいたい尾辻さんや私たちが指摘したのと同じことです。翻訳はのちほど追記しましょう。

ところで、私もあの書簡を書いてから、ほんとオレって言い方がキツいなあ、と自分でもなんだかぐったりしたんですけど、さて、一地方都市の条例に、他の土地に住む、都城と直接関係のない人たちが何を言えるのか、もしくは何を言ってよいのか? という問題は考えなくてはならないでしょうね。

でもね、基本的にはこうだと思うの。
都城はまず、条例を市民に向けて制定しながらも、それは政治として、他者へ向けてのメッセージ性を帯びるのは当然だろうということ。
すると、それに関して、他者がどうとかこうとかいうのは間違いだ、となれば、そのジェンダーニュートラルな平等社会を作ろうという条例に、それはいかん、という、今回の“改悪”のきっかけとなった反対運動自体も市内・市民からというより勝共=統一協会=世界日報から来たんだから、それ自体も認められないだろうということになる。

つまりね、政治的ディスコースというのは、そういう性格を帯びざるを得ない。地域に関係なく、その反対も広く受ける、賛成も受ける、ということになるわけだ。公的言論というのは政治レヴェルの高低にかかわらずそういうもん。だから北朝鮮や中国の人権に関して我々が危惧し意見を言うことができる。アフリカやイスラム諸国でのゲイ弾圧に関して我々が抗議を行うのです。そこでもせめぎ合い。

したがって、都城が、他所の連中にいわれる筋合いはない、というのはぜんぜん成り立たない論理なんです。

ということで、HRWからの書簡は次のとおりっす。

Letter to the mayor of Miyakonojo Municipality about the removal of "sexual orientation" from the gender-equality ordinance

September 14, 2006


His Honor Nagamine Makoto
Mayor
Miyakonojo City
Miyazaki Prefecture
Japan

Dear Mayor:

On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

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Human Rights Watch's LGBT website
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Japan: Keep Equality Protections for Lesbians and Gays
Press Release, September 14, 2006

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On behalf of Human Rights Watch, I write in protest against the move to eliminate references to “sexual orientation” from Miyakonojo City’s “Ordinance for the formation of a gender-equal society.” Language affirming equality on the basis of sexual orientation has been part of that ordinance since 2003. Its proposed removal—by a process which has excluded the full input of citizens and civil society—would send a damaging message that your community is regressing from the promise of equality and its commitment to non-discrimination.

As you are aware, the Basic Law for a Gender-Equal Society (Law 78/1999), passed by Japan’s Diet in 1999, committed Japan to “respect for the human rights of women and men, including: respect for the dignity of men and women as individuals; no gender-based discriminatory treatment of women or men; and the securing of opportunities for men and women to exercise their abilities as individuals” (article 3). While the law did not propose penalties for discrimination, it was an important affirmation of government’s positive responsibility to promote equality at all levels. The same law made local governments responsible for “formulation and implementation of policies related to promoting formation of a gender-equal society corresponding to national measures (article 9). In response, Miyakonojo City in 2003 passed a human rights ordinance that affirmed the equality of people regardless of sexual orientation as well as gender. It was one of the first local governments in Japan to include sexual orientation in its commitment to promote equality. The final text of the ordinance was achieved through a process including open hearings at which citizens as well as local lesbian, gay, bisexual, and transgender (LGBT) groups spoke.

However, Miyakonojo City was consolidated with three other towns in January 2006, and officials agreed that ordinances enacted before this would undergo review. Human Rights Watch is concerned by reports that an open hearing was not held as the “Ordinance for the formation of a gender-equal society” was revised. LGBT groups and individuals and their supporters were denied the full opportunity to express their case. While municipal authorities insist that the proposal rises from discussions of a committee of experts, that discussion has not been made public.

Article 2.1 of the previous ordinance stated, “In the gender-equal society, for all people irrespective of gender and sexual orientation, human rights should be fully respected.” Article 2.6 defined “sexual orientation” as “a concept describing the direction of an individual’s sexuality, which can be directed to someone of the different or same gender, or to someone irrespective of their gender.”

In the ordinance now proposed, Article 2.1 now reads, “In the gender-equal society, for all people, their human rights should be equally respected.” Article 2.6 has been completely deleted.

The rationale for these proposed changes is explained, on the city’s website, as “to simplify the contents.” A simplification of an ordinance on gender equality which removes the term “gender” as well as “sexual orientation” is not a streamlining but a drastic weakening of the contents.

The Miyazaki Prefecture’s “Miyazaki Prefecture Development Policies of Human Rights Education,” introduced in 2005, includes a section on “Problems faced by gender minorities.” This section recognizes persisting discrimination and prejudice based on sexual orientation as well as gender, and urges active steps toward accepting sexual diversity. The new text of your city’s ordinance belies this aim. It also places your city at odds with the express finding of international human rights bodies that sexual orientation should be a status protected from discrimination. In 1994, the United Nations Human Rights Committee, which interprets and monitors compliance with the International Covenant on Civil and Political Rights (ICCPR), found that protections against discrimination in articles 2 and 26 of that treaty should be understood to include sexual orientation. Japan has been a party to the ICCPR since 1979.

The proposed revision of the gender-equality ordinance will be debated by the city assembly this week. I urge you to support retaining the existing language. Miyakonojo City’s resonant support of equality made it a model in Japan. Its example is too important for you to retract it now.

Sincerely,

Scott Long
Director
Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Rights Program
Human Rights Watch

September 12, 2006

東京入りしました

26日まで滞在します。

札幌レインボーパレードと行き違いで(日本語、正しいか?)こっちに来てしまいましたが、レインボーのほうにはちゃんと挨拶してきました。みなさま、札幌を盛り上げてくださいね。参加者は千人くらいなので、沿道の通りすがりの人たちといかにコミュニケートするかってのがカギだと思います。そうしてそれが日本のパレードと欧米のパレードとがいちばん雰囲気の違うところ。

都城の一件もあるし、それもアピールしないとね!
他力本願のわたしですけど、参加の皆さん、よろしくお願いします。
札幌、このところずっと快晴だし、気持ちいいよ。涼しいし。

わたしはこちらで新聞社の人たちと少し会ってみます。
都城の話は、尾辻さんの活躍もあって宮崎日々新聞に記事、社説ともに掲載されました。

尾辻さんのブログへ飛びます


なかなかちゃんと的を射た記事及び社説です。
あとは全国紙での掲載ですわね。

September 11, 2006

都城市への手紙

前略

都城市男女共同参画社会づくり条例(案)に関して、「「性的指向」に関しては、人権問題の一分野であり、「すべての人」で包括できるという考え方に立ち、削除しました。」という貴市の考え方は、世界の進み行きの情勢に逆行する明確な誤りだと考えます。一行政機関ならびに議会の行う措置として、これはとてもまずいことです。

「すべての人」で包括できる、というなら、もともと、この条例は必要なかったのでした。なぜなら、すべての人びとの人権は既に憲法で保障されており、ならば、あえて市の条例でわざわざあらためて示す必要などない、ということでしょう。それをなぜ具体的に記述して市の条例としたのか? それは、憲法などで包括的にとらえてそれでよしとするのではなく、市として地域として、その時代にそった具体的な重点事項の指摘が必要だったからです。そうしてそれを世に先んじて正してゆく。都城は2年前、そういう都市になるぞとの重要な宣言を行ったのです。

その重点事項は、この2年で解決したのでしょうか?
それが解決したなら、めでたいことです。
新しい都城市は世界でもまれな人権的理想郷ということです。
ところが、ほんとうにそうなのですか?
そうではないでしょう?

ならば、なぜに「性的指向」を外したのか?
解決もしていないことを解決したかのように削除する。それは、文脈的に明確に、「性的指向」で指し示される人びとを除外する、「性的指向」という概念そのものをも排除する、というメッセージを世に与えるものです。

つまり、それは「そういう人権都市になるぞとのかつての重要な宣言」をあえて否定することです。こんなんならはじめから人権条例などないほうがよかった、というくらいに、これは結果的に「非・人権宣言」になってしまう宣言なのです。

そういう人権否定宣言を、都城は行う覚悟なのでしょうか?
そうではないでしょうに。
ただ、結果的には、時系列上の文脈的には、そうなってしまう。

まずいことです。これはいずれ貴市の歴史的な汚点として語られることになるでしょう。
貴市にとって、心ある貴市民にとって、恥ずかしい過去として振り返られる事例になるでしょう。

スペインのサパテロ現首相は、「性的指向」による差別を廃止しようと国家として同性間結婚を認める決定を下した際に、「わたしたちは同性婚を認める最初の国になる栄誉を得なかったが、同性婚を認める最後の国だとの不名誉は回避できた」と演説しました。南アフリカのネルソン・マンデラ前大統領は「性的指向による差別は憲法として認めない」として世界で初めて「性的指向による差別の禁止」を盛り込んだ憲法を作りました。ケン・リヴィングストン・ロンドン市長はあえて「性的指向によりいじめにあうようなことがあってはならない」と発言して学校における同性愛嫌悪的ないじめ根絶の先頭に立つことを宣言しました。これが世界の良識です。これらに連なるものとしての以前の都城市の「都城市男女共同参画社会づくり条例」は、世界的にもじつに誇らしいものだったのでした。それは欧米のメディアでも伝えられたほどのニュースだったのです。それをご存知でしたか?

その歴史的快挙は、今度はまったく逆の反動としてニュースになります。
それは一地方のカルト機関紙でしかない「世界日報」が報じるよりも大きな恥辱としてほんとうの「世界」に伝えられるでしょう。
あなたの市を、わたしはとても恥ずかしく思います。
それは同じ日本人として、世界に尊敬されるべく生きようとする人間として、じつに悲しいことです。

悲しいことは正すべきです。
いつかまた、あなたの市の次の世代の市民が、正しい「性的指向」の概念にいち早く気づかれることを切に祈念しております。希望は未来にあります。というか、貴市の現状では、未来にしか、ありません。

ジャーナリスト、北丸雄二

September 08, 2006

安倍晋三と都城がどう関係するか

こういうのはかつて学生運動華やかなりしころは常識だったんですが、いまじゃそうじゃないでしょうね。左翼が元気なころは右翼への警戒と分析が継続していたんですが、いまじゃだれも右翼のことを見張るようなことをしないから、いったい、都城の条例改悪の背景にだれがいるのか、それがどことつながっているのかということがわからず、なんとなく単発の事例として受け取られるような雰囲気もあります。でも、これらはすべて根はつながっているわけで、で、今回は、そういう状況背景のおさらいをすることにしましょう。個別の事象については自分で調べてね。ここでは「流れ」を見ていくということで。

都城市のあの条例が一票差で採択されたとき、いや、それ以前から、この「性別および性的指向にかかわらず」という人権条項に関する一大反対キャンペーンを繰り広げていたのが「世界日報」です。世界日報は、これに限らず、一連のジェンダーフリー施策・教育の反対キャンペーンを2002年あたりから本格化させています。

世界日報というのは「統一協会」(世界基督教統一神霊協会)の機関紙です(表向きは無関係と言っていますがね、だれもそんなブルシットは相手にしてません)。統一協会というのは、ご存知、霊感商法や合同結婚式などで悪名高い国際カルト宗教集団で、欧州では信者とわかると入国制限されている“危険団体”扱いです。創設者は、文鮮明です。

さて、都城のあのジェンダーフリー条例への反対をあおっているのがこの統一協会の日本支部であるというわけですが、この統一協会と深い関係にあるのが「国際勝共連合」です。歴代会長は全員、統一協会員。役員もほとんどが重なります。

この「国際勝共連合」は文鮮明が1968年1月に韓国で立ち上げた反共産主義団体です。同年4月にはあの笹川良一(一日一善のおじいさん、っていってももうわからんかなあ)の別荘に、文鮮明と日本の統一協会会長の久保木修己もやって来て日本の国際勝共連合を作った。で、この久保木が初代会長、さらに名誉会長が笹川良一ということになったわけです。勝共と言えば笹川と仲良しの児玉誉士夫なんていう右翼ブローカーも登場してくる(後のロッキード事件のメンツでもあります)。

さて、当時(70年代〜)の東西冷戦を背景に、この勝共は自民党の支持団体としても成長を続けます。それで、このときの自民党の右派の重鎮がこの勝共に深く関与していくことになる。これがA級戦犯不起訴となり復権していた岸信介だったわけです。

kishi.jpg
【1974年11月に、統一協会本部で文鮮明と会談する岸信介=右】

岸信介って、日米安保条約の調印批准のときの総理大臣でね、治安維持法の再来と言われた警察職務執行法(警職法)の改定案を出したり(後に撤回)、教職員への勤務評定の導入を強行したりとかなりの全体主義者(ファシスト)で、けっきょくは安保反対闘争の激化(デモの東大生樺美智子圧死事件が引き金でした)で退陣に追い込まれたんですけど、まあ、日本政界の化けもんですわ。

んでもって、この岸が、いわずとしれた安倍晋三の祖父なんですね。もちろん、安倍晋三は岸信介マンセー、です。

おさらい。
つまり「岸信介=国際勝共連合=統一協会」というつながりがいま、「安倍晋三=国際勝共連合=統一協会」に移行しているというわけです。

その証拠が、今年5月13日に福岡マリンメッセで行われた統一協会の合同結婚式に安倍が祝電を打ったという事実です(各新聞のリンクを示したかったんだが、もう4カ月前でリンク切れでした。適当に探せばどっかにあると思いますけど)。おまけに、現在ベストセラーの安倍晋三の(ゴースト本)「美しい国へ」とかっていう本、これ、前述の統一教会会長久保木の「美しい国/日本の使命」って本のパクリなんですわな。題名まで似てるでしょ。こういう情緒的なものいいで誤摩化す(つまりは言語化=論理化を避ける)のが好きなんだなあ、右翼ってのは。「論理じゃない、言葉じゃないんです!」ってのが決まり文句だもんねえ。議論になんか、さいしょからする気がないわけですわ。頭ごなしですから。

で、この自民党=勝共=統一教会という日本右翼の腐れ縁、ファシスト連合が、都城をはじめとするジェンダーリベラリズムにも猛然と牙を剥いているわけです。頭ごなしに「ホモは死ね」ですから。憲法改正、ってのも、ともすると勢いをかって第24条の強化にまでつながるかもしれません。

で、わたしが「日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません」「戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかも」と9月4日付けのこのブログで書いた意味が、これですこしはわかると思います。

September 06, 2006

英語でも回そう

NYのアジア人・太平洋諸島民のゲイ団体GAPIMNYのケン・タケウチさんから、例の都城の人権条例改悪に関する尾辻かな子さんの呼びかけの、彼の英語翻訳によるアクション・アラートが届きました。これがいまアメリカで回覧されはじめています。

ことはすでに日本だけの問題ではありません。
以下、転載します。

The following text is an ACTION ALERT letter from Ken Takeuchi, a member of NY base organization GAPIMNY.
I want you all to pass it on.

*********

Hello friends and family,

I've translated the open letter from Otsuji Kanako, the first openly lesbian politician ever in Japan. My apologies for a hasty translation, but the urgency and importance of taking immediate action is very much apparent I hope.

We cannot let this ordinance pass. No matter how advanced country like Japan has become, its records in LGBT rights have been non-existent. Being an ex-pat Japanese activist in NY, I cannot sit idly while this ordinance may set precedence in Japanese legal history. IF it comes to pass, it will bring dire consequences in the future LGBT rights in Japan.

PLEASE RE-POST, AND RESEND TO ALL YOUR FRIENDS AND COMMUNITY GROUPS YOU ARE PART OF NOW!!!

I feel that email petitions in Japanese would be most effective, but send them in English anyway if there's not enough time or resources to translate. We only have a week left, I desperately implore you to join in this petition.

You can visit following websites to learn more;

Otsuji Kanako's website;

Japanese;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/index.html

English;
http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/english.html

The proposed changes in the ordinance by Miyakonojo City

Japanese;
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/pabukome/shiminseikatu/seikatubunka/danjosyuseiitiran.jsp

English (There don't have the translated page, but you can get a sense of the city here)
http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/shisei/kokusaikouryu/english/titleenglish.jsp

My appreciation goes beyond description for your help in this matter. Please feel free to send me questions, and I will do as much as I can to follow up.

Best regards and with utmost respect,

Ken Takeuchi
Steering Committee member at large, Gay Asian & Pacific Islander Men of NY (GAPIMNY)
http://www.gapimny.org

Member, Japanese Speaking LesBiGays in NY (JSLNY)
http://jslny.web.fc2.com/index.html

###

!!!ACTION ALERT!!!

By Otsuji Kanako
Assembly Member of Osaka Prefecture, Japan
Party: Independent (first elected in 2003)
Member of "Rainbow and Greens (Japan)"
Book: Coming Out (2005, Kodansya, Japanese only)
The first openly homosexual politician in Japan

I am sending a letter of protest and petition to city counsel members of Miyakonojo City in Miyazaki Prefecture. Please join my petition by sending emails in protest.

Petition emails should be sent to: otsuji_office@osaka.nifty.jp

The deadline is September 12th (11th in the U.S.) - Please take action now, since the committee meeting begins on the 15th.
In addition, individuals should send a message to the city assembly. It is important to send in numbers.

For the mayor of Miyakonojo City, Nagamine Makoto
Tel: +81 986-23-2111, Fax +81 986-25-7973
info@city.miyakonojo.miyazaki.jp

For office of Miyakonojo city assembly
TEL +81 986-23-7869, Fax +81 986-25-7879
gikai@city.miyakonojo.miyazaki.jp

===========An open letter of protest and petition===========

For the members of Miyakonojo City assembly,

An open letter of protest and petition against the deletion of "gender and sexual orientation" from the proposed ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society"

I sincerely respect your diligence in all of your endeavors. Currently the city assembly's new ordinance, "Miyakonojo City Equal Rights Measure in Creating Better Society" is being presented. In this new proposal, the wording of (applying to) "all people including gender and sexual orientation" which was originally present prior to consolidation of Miyakonojo City, was deleted. And instead, revised to be simply, "all people". What was the reason for deleting "gender and sexual orientation" from the original proposal? While many people are being discriminated based on "gender and sexual orientation" in current Japanese society, such act of deletion ignores the reality of discrimination, and may be taken as an approval of such activities. I simply cannot sit by and watch it pass.

In addition, I have been informed that the names of council members who created the ordinance have not been released. Furthermore no hearing was held by the city's community groups or party involved. Without the lack of opinions from them, the ordinance does not reflect the needs of Miyakonojo community.

The policy introduced in January 2005, "Miyazaki Prefecture Human Rights Education-Policies for Basic Development" clearly states the following fact. In chapter 4, section 2 titled, "Promoting the Policies of Various Fields" includes the topic, "Problems faced by minorities of gender and sexual orientation". It recognizes the existence of prejudice and discrimination, and the importance of accepting sexual and gender diversity. The policy encourages the city residents to take initiatives to put more effort in this matter. The current ordinance on the table completely contradicts Miyazaki prefecture's policy.

Please reconsider this proposal one last time. I implore you to reinstate the wording, "gender and sexual orientation".

Otsuji Kanako
Petition organizer, Osaka Prefecture Assembly Member

September 04, 2006

次から次へと

東京新聞2日付けの佐藤敦社会部長の石原慎太郎インタビュー。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060902/mng_____thatu___000.shtml

「メンタル面では、日ごろの情操を培う基本的なものを精錬するとかね。新宿の二丁目と歌舞伎町は美観とはいえないよね。銀座でもごてごてと色があるし。景観法ができたし、規制力のある条例を今年中に作ります。」

東京五輪を名目に、2丁目はつぶされますね。
さてどうしたものか。

日本の現代LGBTコミュニティは、初めて有形の政治権力を相手にすることになるかもしれません。だれでしょう、日本の差別は欧米とは違うなんて言っていたのは。「目立たないようにやれば、日本ってゲイでも生きやすい社会だから」と、うまくだましだましすり抜けてきた世渡りとしての生き方ですが、もうそんな世渡りでは済まなくなってくるかもしれませんね。

おまけに、あの九州・都城市が、町村合併に伴って、男女共同参画社会ってのを定義した条例文「性別や性的指向にかかわらずすべての人の人権が尊重され、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会をいう」っていう条項から、「性別又は性的指向にかかわらず」って部分を削除する流れになっているらしい。今月22日の議会で採決だって。

どうなんでしょう、このバックラッシュというか、いやそもそも前に進んだことなど微々たるものだったのだから、バックラッシュというよりも妖怪がとうとう姿を現したな、という感じに近い。

こっちは大阪府議、尾辻かな子さんのブログに反対表明の仕方と事情の詳細が。
http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/

反対メールは次のメアドに名前と肩書きを書いてその旨を伝えれば尾辻さんが取りまとめてもくれるようです。これは12日まで。
otsuji_office@osaka.nifty.jp

いやはやしかしまったくもって、これから安倍政権ですぞ、みなさん。
こりゃ、戦争が始まると覚悟しといたほうがよいかもなあ。もっともそれも、わがほうに闘う気概があればの話なのだが。

August 06, 2006

新・新木場事件に思う

 2000年2月11日早朝、東京・新木場の「夢の島緑道公園」内でゲイ男性とおぼしき若い男性が頭や顔から血を流して倒れているのをジョギング中の会社員が見つけるという事件が起きました。やがてこの男性への強盗殺人容疑で江東区東雲2、無職、中野大助(25)=当時=と同区立中学3年の少年(14)、同区都立高校1年の少年(15)=同=ら計7人が強盗殺人容疑で逮捕されました。これはいわゆる、日本で初めて殺人にまで発展した「ホモ狩り」、ゲイバッシング殺人事件ですが、裁判では、この被害者男性の遺族であるお母さまの事情も鑑みて、事件をゲイバッシング=ヘイトクライム(憎悪犯罪)と規定するに至らず、たんなる通行人を狙った小遣い稼ぎの凶行、と認定するにととどまりました。

ところが同じようことが6年半後の先月、同じ場所で起きました。

以下、時事通信の記事です。

**
◎同性愛者襲い、現金奪う=「届けないと思った」−高校生ら4人を逮捕・警視庁
 (時事通信社 - 07月27日 14:10)

 同性愛者の男性を襲い、現金を奪ったとして、警視庁城東署は27日までに、強盗傷害容疑で、東京都江東区内の都立高校生(18)ら少年4人を逮捕した。4人は中学時代からの遊び仲間で、調べに対し「同性愛者なら、被害に遭っても警察に届けないと思った」と話しているという。

 調べでは、高校生らは8日午後9時5分ごろ、同区の夢の島総合運動場内の遊歩道で、衣服を着けずに歩いていた板橋区の男性(34)に殴るけるの暴行を加え、現金2万1000円を奪うなどした疑い。男性は全身打撲の重傷を負った。

**

 この事件は、ミクシィというSNSの中での日記書き込みで万人に「突っ込みどころ満載」と形容されました。そうしてまずは面白可笑しく取り上げられていったのです。「衣服を着けずに歩いていた」のに、どこに「現金2万1000円」を持っていたの? 「衣服を着けずに歩いていた」って、それも犯罪じゃないの? 逮捕されないの? 両方とも犯罪者じゃないの? で、「衣服を着けずに歩いていた」って、何をしてたの? どうして被害者が「同性愛者」だって分かったの? あそこはそういう場所なの? というふうに、“異様”な同性愛者たちの“異様な生態”の方に論が進んでいったのです。

 こうしてこの新・新木場事件は、各人が各様に(これはゲイであるかストレートであるか関係なく)「突っ込みどころ」のユニークさとその「突っ込み方」の面白さを競うような(あるいは競ってはいなくともここでなにか一言でも言っておきたいというような)対象となっていきました。もちろんすぐに「そうじゃないだろう」という対抗言説も生まれましたが、また同時に、同じゲイの中からも「こんな全裸徘徊をしているから襲われるんだ」「新木場は危ないと知っていてそういうことをしているのなら、それは自己責任ではないのか」という批判も生まれました。

 こうした反応をさまざまなブログやミクシィ内の日記などで読みながら、私はこれは基本的には社会的なコンセンサスの問題ではないかと思いました。コンセンサスとは、人びとに共通の、社会の大多数の人びとが同じようにもっともだと思う、その共通認識のことです。もちろん自然と形作られていくようなものもありますが、ゲイに関すること、LGBTに関わることでは、情報自体がいつもどこででも公になるというものではないですから、公のコンセンサスというものは、黙ったまま何もしないでいるといつまでもできてこないものです。

 たとえばこの新・新木場事件に10の論点があるとしたら、私の印象は、みんなが順不同に3を言ったり5を言ったり7を言ったり4を言ったり2を披露し合った、というものです。ときにはまだだれも言っていないからと6.5の部分を指摘したり、と。そうして、私たちは10の論点のすべてを消費しました。で、結果、なんらかのコンセンサスは得られたのか?

 『バディ』というゲイ雑誌の編集もしている斎藤靖紀さんは、ミクシィ内で「実際に既に重傷を受けている人間がいるのに、その罪よりも、そこにいたった行動のほうを問題にするのは、お願いだから別の機会にやってほしい」と書き込みました。これを受けて、同じく編集者であるみさおはるきさんが「今回の事件に対して『自己責任』とか『自業自得』って意見を出した人は、これが二丁目の近くでゲイを狙った事件で、たまたまそこに通りかかった自分が襲われて被害者になったとしたら「ゲイが集まることで有名な二丁目に行ったから自分は襲われたんだ、自業自得で自己責任だから仕方がない」なんて」言えるんだろうか、という視点を補足しました。

 斎藤さんがまとめたこの事件に対する人びとの反応はつぎのようなものです。

「事件が報道されたというのが最初の衝撃。

「被害者の変態行動どうよ」な声がワッと出たのが第一の反応

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよ」、というのがその次の反応↓

それを見て、「被害者の変態行動どうよな非情発信はどうよという言論統制的圧迫はどうよ」というのがその次の反応」

 このまとめはじつに要領を得たものでした。こうして、この事件に関する10の論点のほぼすべてが網羅されました。
 そういう書き込みを読みながら、私には、みさおさんにしても、斎藤さんにしてもみんなが一様に、最初の「被害者の変態行動どうよ」というものへの対抗言説として、様々な視点からこの事件に対してどういう態度を取るのが正しいのか、それを懸命に模索しているという印象を受けたのです。とにかく足場が必要だ。その足場がなければ、次のところに進めない。先ほどの物言いでいえば、その足場こそがコンセンサス、共通認識です。みんなが、あるいは少なくとも大多数がそうだと合意できるような、論理的な、しかも万人が納得するような平易な足場。斎藤さんがミクシの中で言っていたことはまさにそういうことでした。10ある論点のうち、1が定まらなければ2に行けないのに、どうしてみんな先に5とか7とか8とか9とかの話をするんだ? どうして1に関して、あるいはその派生としての2に関してきちんと合意もできていないまま3に進んじゃったり6を知ってるってひけらかしたりするんだ?

 そういうことなんだろうと思います。わたしたちは、こういうゲイバッシングに関して、いったいどこでどういうコンセンサスを形成してきたのか? いや、ゲイバッシングにのみ関係する問題ではありません。ゲイに対してまずは公の言説がほとんどなされていない日本という社会のなかで、言説がないのにコンセンサスが生まれるはずもありません。ではバッシングに関してはどうなのかというと、はて、いじめの問題は、いじめられる側にも問題がある、という物言いが平然と訳知り顔で公言されるような社会で、いったいどんなコンセンサスが真っ当なものなのでしょうか。

 思えば現代日本社会は、私の知る限り、公の議論と公のコンセンサスというものをないがしろにして成熟してきた社会のように思えます。戦後30年ほどは、つまりは1975年くらいまでは、いちおう、戦争をしないというコンセンサスがあったように記憶しています。もっとも、それもなんとなく戦後という時代の空気がそうだったのであり、べつに議論してそうなったのではなかった。だからいま、言葉としての伝達がないままになって久しく、ついに憲法9条もまたコンセンサスたり得なくなっている。

 すべてがこの調子です。日本社会は衝突を嫌う社会だという紹介が欧米では為されています。衝突を嫌うあまりに、議論をしなくなってしまった。自分たちの思考を言葉で切磋琢磨することを避けてきてしまった社会です。言葉がないところに、コンセンサスは生まれない。みんな、なんとなくそうでしょう、という雰囲気だけがフワフワと漂っていて、そしてひとたび問題が起きるや、そのなんとなくそうだという幻想の化けの皮がはがれることになる。え、そうじゃなかったの? と慌てるのです。そんな雰囲気だったのに、という共通認識は、じつは各自の勝手な思い込み、思い込みででっち上げられた誤解なのです。

 7月最終の週末に、つまりいまからつい1週間ほど前に、カリフォルニア州サンディエゴでゲイプライド・フェスティバルが行われました。29日夜の公園でのプライドコンサートの帰り道、3人のゲイ男性が、若者5人組に野球バットとナイフで襲撃されるという事件が起きました。3人は命に別状はなかったものの重傷を負い、容疑者の16歳から24歳までの男性が逮捕・起訴されました。前述のみさおさんが指摘した、「ゲイが集まることで有名な」ゲイプライドなんかに行ったから襲われた、のかもしれません。しかし、アメリカにおけるコンセンサスはすでに違います。

 サンディエゴの市長ジェリー・サンダーズは、すぐさま次のようなスピーチを行いました。
 「こんな下劣な犯罪を行うような輩に、あるいはこんなふうに人間を襲撃しようと企てているような連中に、言うべき言葉はわずかだ。きみたちは卑怯者だ(You are cowards.)。犯人たちは3人をバットで殴りながらゲイに対する卑劣な罵倒語を浴びせかけていた。これはヘイトクライムの、まさに定義そのものの犯罪だ。あきらかに、このケモノたちは被害男性たちをまたクローゼットに押し戻したかったのだろう。わたしたちは、ぜったいに、そんなことをさせないし、許しもしない」

 その前月の6月には、NYのゲイプライドに登場するはずだったケヴィン・アヴィアンスがやはり16-20歳の若者4人組に襲撃され、顎の骨を折る重傷を負いました。このときにはNY市長のマイケル・ブルームバーグが即座に「こんなヘイトクライムをしでかして逃げ仰せると思っていたら、それは悲しいくらいの大間違いだ」という声明を発表しています。

 学校での同性愛嫌悪的ないじめをなくすためにイギリスで先ごろ教師向けに作られたDVDの中で、ロンドン市長のケン・リヴィングストンは「私たちの目の前には、gay という言葉を侮辱的に用いるような低レベルな偏見・差別をなくすために、しなければいけないことがたくさんある」と訴えています。

 これがいまの欧米社会の世論の足場です(もちろん現実にはバッシングは頻発しているにしても)。そうしてこれさえあれば、私たちはみずからどんなジョークを言おうがあるいはだれかから笑い話にされようが迷うことはありません。なぜなら、これがいまの社会の背骨だという正義に支えられるからです。もちろんその背骨はアメリカではまだかぼそく、ちょっと横にずれて同性結婚とかの話になるとそれこそ屋台骨が揺らいだりするのですが、しかし暴力に関してはすでにこのサンダース市長らの言説に面と向かって反論することはできない。反論するには、面と向かわない、横を向いた、それこそ卑怯者のやり方でしかできない。

 今回の新・新木場事件で、私たち日本人社会はこの市長たちが代弁したようなコンセンサスを得てはいません。こんな基本的なことが、暴力を振るった者に対するこの絶対の批判が、社会で共有されていないのです。6年半前のあのオリジナルの新木場事件のときよりも、たしかに談論風発ではありましょう。いろんな意見が飛び交いました。相変わらず能天気で問題の核心をはずしているストレートのパッパラパー連中のことは別にしても、ゲイ・コミュニティ(もしそういうものがあるとしたら、ですが)、そしてそのコミュニティに寄り添おうとしているストレートの人びとの中で、たしかにかつてないほどの意見の披瀝と忌憚ない批判がありました。それは6年半という時間を感じさせる展開だと思います。

 ただしそれらは、足場がない限りどこにも行けないのです。10の論点を我れ先に見つけて発表し合うだけで、だからといってすごいね、よくわかったね、気づいたね、と褒められても、あるいはなにかを書き込んだことで自己充足していても、そこから私たちはいったいどこに行けばよいのでしょうか。このままでは私たちは、10の論点を情報として消費してしまったに過ぎない。私たちは、情報を消費するだけで、なんら新しい情報を作ってはいないのです。私たちは私たちのコンセンサスを作ってはいない。

 コンセンサスは、ゲイ・コミュニティの内部だけで作るものではありません。圧倒的な数を誇るヘテロセクシュアルの社会を巻き込まなければ、いえ、われわれの生きるそうした社会全体のなかでこそコンセンサスを作っていかなければ、意味がない。それはどういう運動かというと、じつは、大げさに聞こえるかもしれないけれど、日本の社会を変える運動なのです。たんにゲイに関するコンセンサスの話ではない。ゲイのことを軸にしながらいまの日本の社会のどうしようもなさを変えてゆくことにつながる、もっと大きな運動のことなのです。

 さてそのコンセンサスをどうやって形作ってゆくか。それは、先ほども言ったとおり、情報を消費するだけでなく、情報を作ってゆくことなのです。ゲイに関する、多種多様な情報を社会に向けて発信していく。これまではゲイコミュニティ内部への情報発信だったのを、これからはそれを外部へとつないでゆくこと。私たちの情報を一般社会へと広げてゆくことだと思うのです。これまでの10年間が個々人のカミングアウトの時代だとすると、そこを経ていま、今度はゲイコミュニティ自体が、一般社会へとカムアウトする時代になっていくのだと思います。

 おそらくそれにはまた10年を要するでしょう。でもそのとき、私たちの社会はいまよりもすこしだけ真っ当になっていることは確かだと思う。いやしかしまた、もしそうなっていないとしたら、それはつまり、だれもが不満を抱えているような、嫌な日本の病状が進行してしまっていることになるのだと思います。

 ですから、方法はやはり明らかです。ハーヴィー・ミルクが殺されて28年が経とうとしているいまも、彼が言ったことはだれがどこでどんな屁理屈をでっち上げようが保留をもうけようが、結論としてはぜったいに正しいものです。もちろん過程としてはさまざまな方法論や手練手管はあるでしょうけれど、それは28年を経ていままでだれもだれひとりとしてそのことを否定できなかったという歴史が証明しています。

 「カムアウト! カムアウト!」

 これを否定できた人はいません。すくみあがりたじろぎ留保したひとは多くいるけれど、否定できたひとはだれもいないのです。たとえカムアウトした先に死刑が待っていようとも、その死刑を覆すにはやはりカムアウトするしかないのだという理を、否定できはしない。
 それは、私たち自身を作り上げることです。私たちをこそ情報として発信することです。全裸徘徊が情報として誤解だと思うならば、全裸徘徊ではない自分自身をもまた伝えればよいだけの話です。

 「カムアウト! カムアウト!」

 このことをこそ、まずは私たちのコンセンサス、共通認識にする。いまはカムアウトできなくともよいのです。ただし、いまカムアウトできなくとも、カムアウトすることは正しいことなのだという結論は、揺らぎのないものなのだという歴史的な事実だけは知っておく。そういうことなのだと思います。そうみんなが思っていれば、それだけでも社会は確実に真っ当な方向に進んでゆくはずなのです。

July 13, 2006

予防的先制攻撃論

安保理、難航してます。
中国、どうも北への交渉の窓口を失っているようです。韓国での南北協議も、北の代表は憮然として(本来の使い方と違うけど、ムッとして、という意味で)帰って行っちゃいました。
北は、ぜんぜん言うことを聞かないね。
中国が交渉に失敗して、なんの譲歩も北から引き出せないですごすごと帰ってきたら、中国はかなり国際社会でのメンツを失う。中国がいまでも安保理で存在意義を持っていられたのは、この北朝鮮カードがあったからという部分が大きい。さあ、どうするんだろう。

前回の続きですが、これって、戦略的に1度も歴史上“実験”されたことがないけど、「射つぞ、射つぞ」っていうやつに、最も有効な対処方法は、「射たないぞ、こっちは絶対に射たないぞ」って、世界中に聞こえるようにいうことなんじゃないかと思ったりするんですよね。そういうのって、相手として、一番いやなやつじゃないですか、喧嘩するときなんか。そんなやつを殴ったら、非難囂々ですよ、ふつう。つまり、そんな国にミサイル射り込んだら、それこそ周り、というか世界中が黙っていないでしょ。大変なことになりますわ。
もちろん、国際社会上の政治的言語としてどういうふうに言い回すかはありましょうが、そういうことを宣言するってのは、相手方の武力行使回避のとんでもない抑止力になるのではないか。

先制攻撃論は、相手にこそ先制攻撃の論拠を与える、という意味で、思っていても報道陣のいるところで口にしてはいけないもんです。本気でそれを考えているときは、相手にそれを気取られないところで一気に先制攻撃をしなくてはならない。おくびにも出してはいけない。そんなの、戦争の仕方の初歩中の初歩でしょうが。そうじゃなきゃ、相手に政治的にも外交的にも責め込まれちゃうんだから。

ですから、額賀とか安倍とかがそれを言うってことは、よっぽど迂闊か、あるいは為にするための国内向けの政治的発言以外の何ものでもないんでしょう。さて、では何のためかと言うと、もちろん9条憲法改正ですわね。

そんなことのために、ほんとうに、そんな形式的なことのために、額賀も、麻生も安倍も、北朝鮮に対して日本国民を人身御供に差し出すような、まかり間違えば相手の発射を誘発するような発言をしれっとするってえのは、政治家として売国的に言語道断だってことを、誰も言わんのはどうしてなんでしょう?

繰り返しますが、日本は、戦争をしたら只の国なんです。戦争をしたら弱いのです。戦争をしないから強いんですよ。

戦争をしないぞ、絶対にしないぞ、ぜったいにおまえなんか攻めてやらねえぞ、てめえ、この野郎、って大声で宣言することが、一番の武器なのだということに、気づけよなあ。

ってか、それこそが憲法9条なんでしょうにねえ。
この稀代の武器を、自民党政権は未だかつて、使ったことがないのです。
なんなんだろ、この憲法への背任行為は。

July 11, 2006

北朝鮮をどうしてくれよう

 横田めぐみさんの死亡説を繰り返すだけの元夫とか「ミサイル発射は平壌宣言に違反しない」と会見でしゃーしゃーとうそぶく外交官とか、まったく北朝鮮の連中は自分の言っていることが世界にもまともに聞こえると信じてるのか。もういい加減にしろよ、てめえ、ってそう、気色ばみたくなるのも当然ですわね。

 ただふと気づいたんだけど、前段の金英男さんも会見で虚勢を張った宋日昊(ソン・イルホ)日朝交渉担当大使も、なんだか自分でもうんざりしてるような顔つきでした。国際社会から繰り返される突き上げ質問にうんざりなのか、それらに同じように答えなければならない自分の現状にうんざりなのかは分かりませんが、以前はもっと毅然として強面だったような印象があるんだけど……。

 そのうんざりさ、げんなりさを知っている拉致被害者の1人、地村保志さんが金英男さんについて「彼も被害者の1人だ」と言っていました。洗脳というよりは恐怖から、彼らはそういうふうにしか言えない。ま、宋大使ほどのエリートにもその斟酌が適当かは分からんけど。

 そこを承知でなおかつ斟酌すれば、本当に「世界からの被害」妄想を信じさせられている人たち以外は、北朝鮮では支配層ですら体制にがんじがらめで、どうしたらよいか分からなくなっているんだと思うわけで。改革を唱えるのも体制批判。粛清渦巻いたスターリン時代の旧ソ連と同じで、互いが互いの脅威を妄想してだれもが動けない。まさに恐怖政治の硬直した成れの果て。こういう時に動けるのは軍部だけなのは歴史が示しています。それが今回のミサイル発射でもあるのでしょう。(それにしても、ゴルバチョフってのは、情況の後押しがあったとはいえ、勇気があったよねえ)

 いまや麻薬や偽ドル、偽タバコまで作っているそんな国家に、はたしてどんな策が有効か。だいたいこのミサイルだって、ひょっとしたら販売促進キャンペーンの一環の商品デモかもしれないのであって。

 日本国内での経済制裁と国連安保理を通じた制裁決議提案も「いい加減にしろ」というメッセージです。それは伝わるでしょう。ただし、それであの国が折れるかどうかは五分五分ですよ。逆に言えば、制裁発動もあの国に対するこちら側の瀬戸際外交になります。チキンゲームに参加ってこと。そうしてついに、北のミサイル発射基地に予防的先制攻撃を行えないか、という意味の発言が額賀防衛庁長官から出ました。「先制攻撃」って単語は注意深く回避されていたけど、これはブッシュのサダム・フセインに体する攻撃の口実になったものとまったく同じもんですわ。その米国もおそらくすでに北の軍部を一気に機能不全に陥れ、反攻を最小限に食い止めるような軍事作戦の立案を行っているでしょう。

 ダダをこねればアメを与える、といった従来回路を断ち切り、次の一歩を進めたいってのが例の六カ国協議の狙いです。次の一歩を、というのは北も同じなんでしょう。ただしその一歩が、体制のがんじがらめでこれまでと同じような方法でしか出せない。病理的にはガチガチの硬直部を内部から解きほぐしてやるような東洋医学的な説得と懐柔が一番の打開策なんでしょうが、そんなのんきな時間もない。本当にどうすればよいのでしょうか。

 言えることは、西洋的処方であるもう一方の軍事行動はどうしたってオプションではないということです。有事となれば数百万という北の難民が韓国や中国、ロシアへと流出し、それは東アジア全体のより重大な危機に直結します。ことは38度線の問題ではなくなり、黙視するはずもない中国の軍事行動は容易に台湾問題へとも飛び火するでしょう。先制攻撃論をぶつというのは逆に日本も相手方の先制攻撃の対象になるということで、それは危険を回避するどころか更なる危機を呼び込むことにもなるのです。国内向けの政治的発言であるという読みもできますが、すぐに国際的にニュースになってしまうようないまの状況でそういう発言をすることがどういうことなのか、額賀発言は到底そこまで覚悟した上とは思えないんですけどね。アメリカでは早くも各方面から日本の憲法改正や軍事大国化を予想/懸念するコメントや新聞社説まで登場しています。懸念の背景には、アジアが火種になれば、世界経済は崩壊するって読みがあるんでしょう。日本が振り上げる拳は、そこまでの責任を負えるのか? 拳ってものは、振り上げたあとの後味の悪さに必ず後悔するものなのです。それは個々人の人生の中でも充分に学習してきたでしょう。

 カギはやはり国連安保理なんだと思います。日本の手腕の見せどころは軍事ではなく世界をまとめる外交努力以外にはないのです。とにかく中国を動かすことです。腹芸でも脅しでも使えるものはなんでも使って。中国に平壌説得の時間的猶予を与えたのはその意味では正しいでしょう。六者協議への無条件復帰、それを中国が説得する。説得したのに失敗して、でも安保理では拒否権行使だっていうのは論理的にもおかしいですから、中国も今回ばかりはのっぴきならない状況に押し込まれました。とにかくあくまで外交というか、政治なんです。

 日本が戦争をするようになったらそこらの国と同じでチキンゲームです。日本は戦争をしない。だから強いのです。そうでなければ、これまで66年も、何のための平和国家だったのか分からんでしょう。平和国家の、手練手管を、しかしさて、外務省という最低の官僚組織は持ってるのかしらねえ。

June 21, 2006

インサイダー中のインサイダー

ずっと黙って事の推移を見てきましたが、日銀の福井さん、これはダメです。
あのひと,顔はおばさん顔で、まったく悪意のない顔をしていてそれで世間受けに関しては得をしてるんでしょうけど、そういうもので守りきれはしないです。

村上ファンドの村上が「プロ中のプロ」と自称したら笑われるだけですが、福井さんのことを「インサイダー中のインサイダー」と言っても誰も笑う人はいません。ジョークにもならない。日銀総裁くらいにインサイダーっていないでしょ? そいつがマネーゲームに参加してよいはずがない。事は、冗談じゃないくらいに深刻なのです。それがどうして「何か問題があると、すぐに辞めればいいという問題じゃない」(小泉)なんでしょうか?

小泉は自らの有終の美への汚点を避けようと、庇いとおそうとしているにすぎない。
小泉は、本当は、自衛隊のサマワ撤収に際してブッシュのように隠密行動で現地に行って派遣隊員たちの目の前に立ち、イッパツ演説して労をねぎらう方向で検討していました。それが北朝鮮のあのミサイル騒動でつぶれようとしていて、まあ、簡単に有終の美とは言えない状況になっています。

そこに,やや軸足を変えてきたのが安倍です。まったく、機を見るに敏いというか、21日午後の会見で「国民の受け止めは厳しい。利益は必ずしも少額ではない。資産公開や内規の見直しをすべきだというのが国民の声で、それなしには信頼を得ることは難しい」だって。
前半は福井への個人批判、後半は日銀の構造批判とずらしながらも、しっかり自分の得点だけは稼いで、かつ、政権の方針とも辻褄を合わせるという、こいつはほんとに小賢しいね。

なぜならこの男、自分は統一教会やマル暴とつながっているくせに、そっちの心配をしなくてよいようなネタがあればそっちに目を向けさせてシレッとしているわけなのです。父さんはもっとテンネンが入っていて、で、結局は権力闘争に加わることさえ出来なかった人ですが、その分の欠落を補ってあまりあるほどに卒ないだけこいつはあくどい。

勝共連合、統一教会、つまりはアメリカの現政権の失政の元凶であるネオコンとつながるということに、日本のどれだけのひとが気づいているのでしょう。というか、ネオコンとつながるからといって、「だから、どうなの?」なんでしょうか。

June 15, 2006

医療改革の正体

東大名誉教授の(というのはあまり関係ないのですが)多田富雄さんが、4月に朝日に寄稿していた文章を目にしました。14日、小泉改革の名の下に、医療制度改革関連法が14日午前の参院本会議で、自民、公明両党の賛成多数で可決、成立しました。わたしはまったくフォローしていなかったのですが、こんなことが起きるとわかっていながら(この手記の寄稿は4月8日付紙面に掲載されているのです)法案を通過させてしまう日本の与党とは何なのでしょう。

お読みください。情けない。まったく、情けない。

***
(私の視点ウイークエンド)診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告 多田富雄
2006.04.08 東京朝刊 15頁 オピニオン欄 

 私は脳梗塞(こうそく)の後遺症で、重度の右半身まひに言語障害、嚥下(えんか)障害などで物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。

 ところがこの3月末、突然医師から今回の診療報酬改定で、医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。私は当然リハビリを受けることができないことになる。

 私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルは歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。身体機能はリハビリをちょっと怠ると瞬く間に低下することを思い知らされた。これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかはない。その先はお定まりの、衰弱死だ。私はリハビリを早期に再開したので、今も少しずつ運動機能は回復している。

 ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭(むち)打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。

 そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、火を見るより明らかである。今回の改定は、「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じことである。実際の現場で、障害者の訓練をしている理学療法士の細井匠さんも「何人が命を落とすのか」と3月25日の本紙・声欄(東京本社版)に書いている。ある都立病院では、約8割の患者がリハビリを受けられなくなるという。リハビリ外来が崩壊する危機があるのだ。

 私はその病院で言語療法を受けている。こちらはもっと深刻だ。構音障害が運動まひより回復が遅いことは医師なら誰でも知っている。1年たってやっと少し声が出るようになる。もし180日で打ち切られれば一生話せなくなってしまう。口蓋(こうがい)裂の子供などにはもっと残酷である。この子らを半年で放り出すのは、一生しゃべるなというようなものだ。言語障害者のグループ指導などできなくなる。

 身体機能の維持は、寝たきり老人を防ぎ、医療費を抑制する予防医学にもなっている。医療費の抑制を目的とするなら逆行した措置である。それとも、障害者の権利を削って医療費を稼ぐというなら、障害者のためのスペースを商業施設に流用した東横インよりも悪質である。

 何よりも、リハビリに対する考え方が間違っている。リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は、人間の尊厳を踏みにじることになる。そのことに気づいて欲しい。

 今回の改定によって、何人の患者が社会から脱落し、尊厳を失い、命を落とすことになるか。そして一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が、どうして「福祉国家」と言えるのであろうか。

 (ただとみお 東京大名誉教授)

     ◇

 34年生まれ。医学博士(免疫学)。「生命の意味論」「独酌余滴」など著書多数。

June 05, 2006

ルールと金儲けと天罰と

村上さん、いっしゅんムッとしながらもここが攻めどころと直感したのか「ルールの中でお金を儲けて何が悪いんですか」と笑みを浮かべてしゃべってましたね。

うーん、こういう言い方をしてしまえるというところに彼の、および彼に連なる人びとの短絡があるんだろうなと思いました次第です。まあ、会見でのメディアのバカな質問に対する単なるカウンター・アタックだったのかもしれませんけれど。

ヴォカァね、金儲けは、本来は、なんらかの価値を生んだことに対する対価として生じるものだって、思っています。基本はそこだって。そういう価値を生み出したなら、金儲けは当然の結果ですよね。株式投資によって新たな価値が生まれるのは、その投資先の企業が、投資者に代わって価値を生み出してくれるからです。それが投資のおかげだとなって、投資者に価値の収益が還元される。

でも、この資本主義(資本とはまさに投資の「資」のことです)の世の中で自由主義経済が運営されると、ちょうどリンゴがなくても算数が行われるように、実体の価値がなくてもお金だけが価値の代理となってかってに数字・記号としてあっち行ったりこっち行ったりするようになります。そこから派生してマネーゲームが可能になります。

すると、そういう、実体の価値以上のお金が行き来するそういうゲームの中では、お金儲けはまた同時に、お金損を生み出すことに直結します。価値が生まれてお金が生まれるのではなく、価値が生じずに、お金だけが行き来するのですから、だれかが損をしなければ、つまりその損をしたお金がなければ、それ以外にお金はどこからも来ないのです。

「お金儲け」とはこの場合、だれかが損をした金を,自分こそが手に入れるというゲームです。

さてそこで、このゲームには、ルールが必要になってきます。ところがそれはゲームのルールですから、社会に必要な、平等とか機会均等とかいうルールとは違うものです。むしろゲームというのは不均衡を作るためのもので、ある一定のルールの中でいかに相手を出し抜き、失策を衝き、いかに自分が優位に立つかという遊びです。つまり、ルール自体のカバーしないところで抜け道を探し、アンバランスを生むのを楽しむことに遊びがあるのです。双六もモノポリーも、そこではなんにも価値は生み出しません。いかに相手の持っている点数を、コマを、子供銀行券を、点棒を、マッチ棒を、みかんを奪い取るか、バランスを崩すかというものです。総体としての点棒は、ぜんぜん増えない。だからルールは、時に理不尽でもそれがゲームだからかまわないし、逆にアンバランスを作り出すような不備がなくては勝ち負けが決まらなくてつまらないのです。

ところが現実社会では、ルールは今の世の中の基本となっている生存権とか平等とか機会均等とか平和とか、そういうものに則っています。そういう部分で不備があっては困るから万全を期して具体的なルール(法律)を作るのですが、証取法はしかし、そこに肝心な、「お金儲けをするには価値を実体として生まねばならない」という条項はないんですね。そんなの、市場原理がどうにかしてくれるもんであって、法で国家が介入するようなものではない。つまり、どうしたって不備なんです。

証取法だけでなく、法律というのは(文章というのは)、必ず書いていないものが存在する、という宿命を持っている。私たちはそれをいままで、倫理とか畏敬とかという「理」でもって補って生き続けているのです。(先日の「国家の品格」批判のときに大切なのはむしろ「論理」と書いていた私の論点は、あれからよく考えてみると、「論理」というよりもときには「理(り、または、ことわり)」と呼んだ方がよいかもしれないと思い当たりましたのでここでは「理」を採用します。論としては述べきれない膨大な論理の道筋を、私たちはときに直観として悟ることがあります。それは「論」はたどってはいないが、しかしそれでも「理」ではある、という種類のものです。つまり、道筋のことです)

さて、そんな畏れを、私たちは「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉で表現してきました。ところが、ルールだルールだという人は、逆に、ルールの不備をもっともよく知っている人だったりする。ルールさえ守れば何をしたって大丈夫だと言い切れる人は、相手をそのルールに雁字搦めにしておいて、自分はそのすきにちゃっかりルールの抜け道をたどれる人なのかもしれません。

村上ファンドのやり方はまさにそれでした。
企業が価値を生み出せるような投資をしていたか? ノー。彼らがやってきたことは、単なる売り抜けです。おまけに記者会見で謝罪のふりして「引退」を「潔く表明」する芝居まで演出して、それって、今まで稼いだ「2000億くらい稼ぎましたか」ってさりげない自慢をして示したそのお金を持って、これまた人生「売り抜け」ようというわけですな。

こりゃね、ルールを守っているからいいというものではない。本来の株式投資の趣旨とは違う、金儲けのための資金運用。さっきもいったように、ゲームの中では、儲けるカネは仕組んでだれかに損させたカネです。だって、そういうルールなんだから、そういうゲームの世界でそういう金儲けをしない方こそがバカなんじゃないか、という理屈でしょう。そりゃねえ、まあ、バカかどうかはわからんが、そういう世の中では、こつこつと企業を育てて金を作ろうなんて人は「奇特な人ですなあ」って、よほどのお人好しか時代遅れかのように扱われ、バカを見ることだけは確かな感じですね。で、格差社会って、こないだも書いたけど、正体はこれなんですよね。

で、そういうときに「天網恢恢」なのだ、って昔の人はいいました。そういう濡れ手に粟じゃなくて、ちゃんと価値を生み出しつつお金儲けをしようよ、って。まあ、すっげえ古いというか硬いというか真面目というか、そういう今では奇特な倫理が、そうねえ、村社会みたいな、すべてが目に見えている社会ではあって、そういうところでそういうずるっこい錬金術の金儲けをやってたら確かに村八分だし、でも、こういう今の社会ではデカくて逆になにも見えなくなっているから村八分はないけど、逆に、「どっか変だなあ」から「今に天罰が当たる」へとつながる発言になってくるわけですよね。

だから、彼はインサイダー取引がどうだ、「聞いちゃったでしょうと言われれば、聞いちゃったんですよ」って、そんな“罪のない”ことのせいで責められるべきだってのは、違うんじゃないかと思います。それはあくまで前述した「ルール」上の、ちょっとした「ミステーク」で(それこそ村上さんが会見で強調してたことなんだけど),本質ではないんじゃないんでしょうか? しかも、彼がやったことは「聞いちゃった」なんていう「ミステーク」レヴェルなんかじゃなく、自分で仕掛けてるんですからね。そう、じっさい、彼はその「本質ではない」ってところで自称「ミステーク」を視聴者にインプリントさせるように何度も認めて見せて、それで「潔く」刑にも服しましょうといっているのです。

間違っちゃった、プロ中のプロともあろうものが、ああ、しくじった、悔しいと、そういう演出をしてますが、おいおい、お前が責められてるのはそんなんじゃないだろう、それってわざとケアレスミスを“自白”してみせて、視聴者にケアレスミスだったのかと印象づけて本質を騙そうとする目くらましだろう、って気がするんですね。これは、彼が、そのマネーゲームの哲学そのものを批判されているんだってことを、わざとネグレクトしているか矮小化するためか、それともそういう本質的批判を回避するために開いた会見であるようにしか見えなかったんですよ。だって、ニッポン放送もどこもかしこも、すべてやつが仕掛けた株ゲームだったわけですから。

わたしもじつは、星野仙一さんがああして村上氏に「天罰が下る」と言ったことにはあまり気持ちのよいものを感じなかった。ちょっとわたしの思っているのと方向性が違うような感じがしたんで。でも、それに対して、昨日の記者会見であの村上氏が「天罰が下るなんて言っちゃいかん」「そんなことを言っちゃいかん」と、何度も何度も言ってたでしょう? ありゃ、まさに本質的批判のとば口なんです。そこから見えるものを批判していかねばならない。

それと、これは余談だけれど、あのとき、あの人、40いくつで、まるでじいさまの口調のような話し方を演出しながら、なにか高所から見下したように星野仙一を「叱りつけ」てましたね。あれを見て、ああ、この人、すっげえ尊大な人なんだなあ、と思った。どうしてわかるかというと、私もじつはそういうところがあるから。げへへ。わざとじいさまのように悟り切ったような叱りつけ方をするから(って、このブログの書き方見てる人はわかってますよね。あはは)。ただ、わたしゃ、よく見てくれるとわかるけど、そういう“尊大”な叱りつけ方をするのは、相手が確実に権力を持っている場合に限ってる。星野さん、人気はあるけど、権力、そんなに持ってないんじゃないかなあ。ありゃね、村上さん、よっぽど「天罰」ってものが、まずいって思ったからじゃないんですかね、あの「尊大徹底見下し切り返し」のセリフ回しは。

ところで、天罰が下るとか当たるとか、なぜ「言っちゃいかん」のか。村上氏、あの会見で、どうしてそういう謂いが「いかん」のか説明しなかった。「私の子供にも影響があった」とか言ってましたが、だから言うべきじゃない、というのかしら?

彼はまた、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ような社会じゃないと、日本はダメになる、とかって言ってたけど、あんたみたいな、右のものを左にしただけで金を稼いでいるやつらが税金をいっぱい納めたって、そんなの、それこそ当然の話なんじゃないのって思うだけです。「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」ってのがなくなったのは、あのバブル期に税金をいっぱい払った人ってのが土地をただ転がしたり(あ、そういう人は節税もしっかりしてたから逆に払わなかったりしてたか)売ったりしてた人たちばかりで、なにも価値を生み出したわけではなかった、ただ金が儲かっちゃった人たちばかりだったから。つまり、村上ファンドの元祖みたいな人たちばかりだったからです。

つまり、村上さんはさ、「税金いっぱい払った人を褒めたたえる」社会を作るのに、またあんた、自分で邪魔したんだよ、ってことなのです。

あの村上会見のペテンは、いみじくも、彼が自分で口にした「ルール」と「金儲け」のペテンを、知ってるくせに知らん振りをした、あの厚顔にあります(本当に知らないのなら、こりゃ本当にヴァカってだけの話ですけど)。

天網恢恢疎にして漏らさず。
天罰とは、ですから、今回の検察の摘発のことではありません。
天罰とは、その厚顔を自ら曝す結果になったあの記者会見のことをいうのではないでしょうか。かなり底の割れた、恥ずかしい会見だったと、わたしは思いました。

June 03, 2006

森喜朗のフットボール

国連AIDS総会に出席した森嘉朗が、「私はラグビーフットボールが好きです。次回にはAIDSにトライできるように頑張りましょう」とにやけながらスピーチしました。外務官僚の用意した原稿の丸呑み、棒読みです。この作文を書いた官僚の、ass-kissingがにおうような演説でした。そもそも、こんなところで比喩というよりもシャレに近い言い回しを用いる神経とはなんなのでしょうか。

エイズ対策は一にも二にも教育です。日本では90年代後半、公教育でAIDS教育を性教育と絡めて行ってきた歴史もあります。それが、「行き過ぎた性/ジェンダー教育反対キャンペーン」という反動に遭ってほとんど行われなくなっています。例の日の丸君が代強制問題や多数決も採用できない職員会議問題、官憲をも動員した懲罰主義などとも通底して、教育現場は竦み上がり硬直しきり、疲弊し果てているようにも映ります。

日本ではいま、5人に1人が65歳以上の高齢者だそうです。少子化と若者の減少。その若者たちがHIVにさらされています。それは労働力の減少や社会基盤の脆弱を憂う話ではありません。HIVに感染し、AIDSを発症しても、彼ら/彼女らを支え励ます人がいないと危惧する話です。HIV感染差別の無知は、HIV感染そのものの無知と同じです。つまり、差別者と感染者が同じ無知でつながっているような社会です。これは、不幸が堂々巡りする社会です。暗愚の迷宮です。

自民党政府と官僚の怠慢と無能、自治体の無知と事なかれ主義、そして勝共連合のカラス頭とが、この不幸を増殖させています。「性的少数者の問題には関心もないしその必要もない」とか「性的放埒を嗜好するゲイのライフスタイルを喧伝させるな」というそういう目先のフォビアにブロックされて、その先に何が待っているのかを考えられない。社会を滅ぼすのはゲイたちのライフスタイルではありません。社会を滅ぼすのは憎悪に駆られたアドレナリンです。それは視野狭窄をもたらします。

とにかく、学校でAIDSを、AIDSの背景を、AIDSから学んだ人間の知恵を、子供たちに教えることを一刻も早く再開しなければなりません。日本では、先日もフジテレビがアフリカの貧困地帯のAIDSを取り上げて女性アナウンサーがルポみたいなことをやっていました。その努力は認めます。たとえ彼女がHIVのことをウイルスではなく病気そのもののように話す間違いを自覚していないとしても、アフリカのエイズ問題で浮き彫りになる世界の矛盾はぐったりするほど重大なことです。

けれど、それをアリバイにしないでほしい。アフリカのことをやっていればエイズ問題をカバーしたつもりにならないでもらいたいのです。日本もいま、いや、日本はいまもまだ、HIVの蔓延に無防備のままなのです。その日本のHIV/AIDSを、日本のTV局は、アフリカのいたいけな子供たちの感染を語ると同じように思いやりをもって語ってくれているのだろうか。遠い国の子供たちを同情を込めてこぞって取り上げるその裏側に、間近な性感染者の若者たち大人たちへの、それは自業自得だという、すでに一度10年以上前に破綻したはずの、因果応報論がぶすぶすと発酵してはいないか。

ニュースは自分に近い場所で起こったものほどそのひとにとっては大きな問題のはずです。にもかかわらず、AIDS問題では遠くのニュースの方が大きく頻繁に取り上げられる。おまけに日本政府は、今回の国連AIDS総会用の日本の取り組みのレビューに、4ページの英語のファイルしか用意しませんでした。日本国内向けには説明しなくてよいと考えているようです。それは日本という社会の、「品格」も「けじめ」もむなしい、とても倒錯的な非情を象徴しています。

ちなみに、前回も国連AIDS総会に日本代表としてやってきた森喜朗は、2000年1月、福井県の講演で「選挙運動で行くと農家の皆さんが家の中に入っちゃうんです。なんかエイズが来たように思われて…」としゃあしゃあといいのけた人物です。そのほかにもえひめ丸沈没事故の際のゴルフ続行問題、神の国発言、大阪たんつぼ発言と、史上最も頭の悪い総理として名を為した人。いまもポスト小泉のキングメーカーたらんといろいろとうるさい発言を続けていますが、あのデカい図体、ラグビーフットボールじゃなくとも、ほんと、森喜朗は、邪魔だ、どけ、と一喝したい男です。「トライ」されるべきは本人でしょう。

June 02, 2006

役得亡者

 「役得」という言葉があります。新聞記者にも役得はあります。警察や役所が設ける幹部との酒席は、きっとマスコミ対策費とかいう名目の支出だったのでしょうが、若かった私は最初、結構な料理が出てかなり驚いたものでした。

 私は社会部畑だったのでどちらかというと(不祥事)企業に嫌われる立場でしたんで、他の役得にはほとんど浴しませんでしたが、経済部の記者などは企業の新製品を試供品としてもらったりします。製品紹介のiPodをもらった記者はさすがにうれしそうでしたし、昔はどういう意図か一流デパートのワイシャツお仕立券なども企業から配られたとか。いまはあまりそういう露骨なのはないでしょうが、それでも芸能記者は入手困難のチケットが(他人の分まで)手に入ったりします。かつて、社に送られてくる試聴用のレコードからCDからぜんぶ家に持ち帰っていた記者の家の床が抜けたという本当の話を聞いたこともあります。運動部の記者だってサインをもらえるとか、まあ、そんなのはかわいいもんかもしれません。政治部の記者の役得って、何なんだろう。なんか怖いね。

 NYに来てからも某企業の会長さんが日本からいらっしゃるたびに個別にこちらの一流レストランで食事をご相伴させてもらったりしました。べつにその企業に便宜を図るわけでもないのにどうしてこんなことするのと秘書氏に訊くと「予算があるから消費しなくちゃならないんですよ」との話。今はその会長氏も引退なさったから、もうそんな慣習はないんでしょうね。

 もともと貧乏性のせいか、その種の「役得」に遭遇するたびになんとも居心地の悪い気分になったものですが、まあ、それも年に1度ほどの勉強でした。新聞社を辞めてからは「役得」という言葉自体も忘れましたが。

 ただ、どんどん「役得」中毒が進む人も少なくないようです。役得などなくてもふつうに仕事をしていたのに、そのうちに役得も自分の正当な報酬のうちだと誤解するようになる。役得がないと仕事をしなくなる。

 開いた口がふさがらないとしか言えない社会保険庁の国民年金保険料不正免除問題は、じつはここ数年で明らかになった同庁の「役得体質」と同根です。

 同庁職員たちはこれまで、自分たちで使うゴルフ練習場のクラブやボール購入費、テニスコートやバスケットボールコートの建設費などにも保険料を流用していました。同庁発行の年金マニュアルや健康の手引きのような小冊子で、“監修費”と称して職員に1ページ6万円とか18万円とかのアルバイトをバラまいていました。職員の健康や研修のためと称して自分たち用のマッサージ機やミュージカルやクラシック、狂言のチケットを購入していました。

 これはもう「役得」のレベルではなく「悪徳」極まった立派な背任、横領、窃盗罪です。なのに、そうしたものでの起訴は1件もなかった。わけがわかりません。

 ふと目を横に向けると今度は国会の根幹である国政調査権を支える国政調査活動費が、2年で1億円分も議員たちの料亭やクラブでの飲み食いに流用されていたことが朝日新聞の調べでわかりました。おまけに国会職員までもが備品や光熱費に使うべき庁費を自分たちの飲食に充てていたんですって。それらの中には芸者やコンパニオンを上げての宴会もあって、これも役得ですか? いったい日本という国はどうなっているのか、顎が外れそうです。

 今国会では教育基本法の改正もありますが、そんな連中に「日本を愛せ」と強制されても首を傾げてしまいます。そいつらの「日本」と私の愛する日本は、どうしたって違うもんなあ。で、そういう連中に限って「ニッポンは素晴らしい」とか「品格がある」だとか「国を愛するのは義務だ」とかっていうわけですわ。なんなんでしょ、こういうのって。

 先日もここに書きましたが、産經新聞がネットで流布されている「君が代」の替え歌を憤慨しながら紹介していました。君が代の歌詞にも聞こえる英語の歌詞で、いままたよく読んでみると、死者を悼むその内容は、cave とあって、これは「カマ」で多くの住民が死んでいった沖縄戦のことのようでもあり従軍慰安婦のようでもあり、ですね。ところで、友人が教えてくれたところによると、この歌詞がネットで流布し始めたのは99年2月で、国歌国旗制定法以前の話だとか。その点で、産経の記事の“読み”は事実誤認の間違いだということです。あら、はずかしい。

 私の尊敬するアーティストで上質のやわらかな言論人でもある大塚TAQさんが、この替え歌の、もっとキュートなヴァージョンを遊びで作ってくれました。以下のものがそれです。

  Kick me, girl and your old wand
  Chill your knees, a yacht in your need
  Southern rain, is she known?
  Heat one old toe, not retail
  Cock ate North moon, soup, mud and dates

  お嬢ちゃん、その杖でぼくを蹴飛ばして。
  膝を震わしてる場合じゃないよ、必要なのは一艘のヨット。
  南の雨さん、彼女のことは知っている?
  足の指を一本だけ熱くするの、売り物じゃないやつを。
  雄鶏が北の月とスープと泥とナツメヤシを食べたよ。

 いわく、「現在あるバージョンだと、その都度「慰安婦問題」に向き合わなきゃならないのがシンドイ気がするし…。」ということでいろいろとことばをいじっているうちに、「なんかマザーグースみたいな不思議な世界」が出来上がったというわけだそうです。

 素敵ですね。もちろん、こんなことをしている大塚さんに、役得なんてもんはありません。せいぜいみんなの敬意を集めるくらい。それは役得ではなく、人徳です。

May 29, 2006

力を入れればチューブのお尻が破れる

近年まれに見る痛快な奇想ですわね、こりゃ。
ま、産経新聞の記事をお読みください。

***

「君が代」替え歌流布 ネット上「慰安婦」主題?

 卒業式、入学式での国歌斉唱が浸透するなか、「君が代」の替え歌がインターネット上などで流布されている。「従軍慰安婦」や「戦後補償裁判」などをモチーフにした内容だが、本来の歌詞とそっくり同じ発音に聞こえる英語の歌詞になっているのが特徴で、はた目には正しく歌っているかどうか見分けがつきにくい。既に国旗掲揚や国歌斉唱に反対するグループの間で、新手のサボタージュの手段として広がっているようだ。
 替え歌の題名は「KISS ME(私にキスして)」。国旗国歌法の制定以降に一部で流れ始め、いくつかの“改訂版”ができたが、今年二月の卒業シーズンごろには一般のブログや掲示板にも転載されて、広く流布するようになった。
 全国規模で卒業式、入学式での国旗掲揚、国歌斉唱に反対する運動を展開するグループのホームページなどでは、「君が代替え歌の傑作」「心ならずも『君が代』を歌わざるを得ない状況に置かれた人々のために、この歌が心の中の抵抗を支える小さな柱となる」などと紹介されている。
 歌詞は、本来の歌詞と発声が酷似した英語の体裁。例えば冒頭部分は「キス・ミー・ガール・ユア・オールド・ワン」で、「キー(ス)・ミー・ガー(ル)・ヨー・ワー(ン)」と聞こえ、口の動きも本来の歌詞と見分けにくい。
 歌詞の意味は難解だが、政府に賠償請求の裁判を起こした元慰安婦と出会った日本人少女が戦後補償裁判で歴史の真相が明らかにされていくのを心にとどめ、既に亡くなった元慰安婦の無念に思いをはせる−という設定だという。皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容で、「国家は殺人を強いるものだと伝えるための歌」と解説したホームページもあった。
 ≪陰湿な運動≫
 高橋史朗・明星大教授(教育学)の話「国旗国歌法の制定後、正面から抵抗できなくなった人たちが陰湿な形で展開する屈折した抵抗運動だろう。表向き唱和しつつ心は正反対。面従腹背だ。国会審議中の教基法改正論議で、教員は崇高な使命を自覚することが与野党双方から提案されている。この歌が歌われる教育現場では、論議の趣旨と全く反する教育が行われる恐れすらある」
     ◇
 ■「君が代」の替え歌 歌詞と訳
 【詞】
Kiss me, girl, your old one.
Till you're near, it's years till you're near
Sounds of the dead, will she know?
She wants all told, now retained.
For cold caves know the moon's seeing the mad and dead.

 【訳】
 私にキスしておくれ、少女よ、このおばあちゃんに。
 おまえがそばに来てくれるまで、何年もかかったよ、そばに来てくれるまで。
 死者たちの声を知ってくれるのかい。
 すべてが語られ、今、心にとどめておくことを望んでくれるんだね。
 だって、そうだよね。冷たい洞窟(どうくつ)は知っているんだからね。
 お月さまは、気がふれて死んでいった者たちのことをずっと見てるってことを。
(産経新聞) - 5月29日3時16分更新


***

何が面白いかって、この英語、一応意味が通じるし、ちゃんと君が代に聞こえないこともない。

もっと面白いのは「高橋史朗・明星大教授(教育学)の話」。「陰湿な形で展開する屈折した抵抗運動」とかって、でもこれ、「陰湿」な感じはあんまりしないんじゃないかなあ。
それと「屈曲」ねえ。まあ、まっすぐじゃないわな、わたし bent ですからそもそもそういうのが好きなのかも。ってか、権力が正面からドドってやってくるときに、非権力者たちはそれを躱すために躯を柔らかくしてくねくねといろんな策を練っていたのであって、高橋史朗ちゃん、民衆の教育ってのはそれが醍醐味、そうも含めて考えないとダメなんでないかね? 産経は北朝鮮関連の工作員もしくはその周辺の反日活動と関係しているのかもしれないと(例の産経抄でも)臭わしておりますが、まあそういうこともあり得るだろうけどね。それより、ここまで(屈曲的に)知的だと、こちらも自覚的にあるいは対抗的に知的にならざるを得ないから、そんで赦せちゃうというか、敢闘賞をあげてもよいような気になってくる。

それと、「表向き唱和しつつ心は正反対。面従腹背」とかっていう批判はむしろ、それを強制させた方に向けられるべきものであって、意を尽くす努力なしに強制すれば面従腹背というのは当然の結果として生じてくるのは歴史の常。そこを考えずにけしからんっていうのは、ひとの家に放火しといてその家から逃げるとは何事だって怒ってるような、盗人猛々しいというか(ちょっとちがうか)、お門違いの批判でしょう。

けっきょくはあれでしょ、日本国の首相も言ってたじゃない? 靖国参拝に関して「私の心の問題だから、他人が口を挟むことはしてもらいたくない、また口をはさむことが問題だ」って。

君が代、日の丸も心の問題。心を尽くさずして強制したつけがお尻から出てきただけの話で、私はむしろこの替え歌は、とても屈曲しつつもちゃんと光を求めて空へと顔を出す松が枝のようにたくましく健康的に見えます。

それにしても産経がこれを報じたというのがいいですわね。これが朝日だと新聞沙汰にしてさらに意図的に煽ってるみたいな印象になるが、産経だと、批判しつつもなお、結果的に世間に流布・流通するって感じの段取りを踏むだろうから。皮肉なもんだ。

ちなみに、歌は次のように日本語音に対応します。

Kiss me, girl, your old one.
き み  が よ お わ
Till you're near, it's years till you're near
ち よ  に    や  ちよ   に(it's は飲み込む)
Sounds of the dead, will she know?
さ  ざ   れ  ぅいし の
She wants all told, now retained.
 いわ   おと  な りて(最初のS音を脱落させる)
For cold caves know the moon's seeing the mad and dead.
  こ け  の    むう  すう    まあ あ で(最初のFor は言いかけて飲み込む)

May 19, 2006

共謀罪

うちの猫が、義経というのですが、ガンになっちゃったかもしれなくて、先週から病院に行って検査、検査です。右前肢の、人間でいう二の腕の部分が腫れ上がっていて、原因不明。ビッコ引いてるんだよね。かわいそうに。おまけに右肺にも影が見つかりました。レントゲン、生検、CTスキャン、生検、と繰り返して、来週半ばまで結果が出ない。

6年前、ヨシくんの母親のギャビちゃんが右前肢をひょいと上げてビッコを引くようになったのでお医者さんに連れて行ったのですが、原因不明。それから数週間後に引きつけを起こし、病院に急行し、入院し、その夜に死んでしまった。最後にはお医者さんの診察台の上で目も見えなくなっちゃって自分でパニックを起こしてみゃーみゃー鳴いて、かわいそうだった。脳腫瘍だったんだろうって、あとからお医者さんにいわれて、わかってもどうすることもできなかったと慰められたけど、先週の月曜にこんどはヨシくんが右前肢をひょいと上げているのに気づいて、わたしは、ああ、血の気が引くってのはこのことだってわかりました。

まあ、脳腫瘍でもない、骨にも異常はない、ということで、いまのところ本人も痛がってはいないようで、でも、きっと軟組織の肉腫の疑いが強いってことなんですわね。腕を取っちゃったら予後はいいんだろうか。

ネットで同じような症状を検索しても出てこないんです。

ま、というわけでヨシくんのことにかまけてますけど、日本では共謀罪の成立が土俵際のせめぎあいになっています。あまりにも唐突な話題転換。でも、そうなんだからしょうがない。

まったく、いろんな悪法が自民党によって強行採決されてきたけど、これも歴代トップ級のとんでもない法律だってこと、肝に命じておいてほしいです。

難しいことわからない人、おれを信じろ。この法律は通してはダメだ(といってきた法案はすべて通っちゃってきてるけどねえ)。

こういうときに必ず聞こえてくるのが「べつに自分で罪を犯していないなら心配する必要はないじゃないか」というやつです。「悪いことさえやらないなら、きみには関係のない法律だ」、すなわち、「そういうのに神経を尖らせるのは、なにかやましいことがあるからだ」となって、「そういう法律、べつにあったっていいんじゃないの?」「ダメだっていう理由ないじゃん」という結論になるわけですよ。

でも違うの。
法律ってのはね、たとえ政府が変わっても、この法律があれば大丈夫ってものを作っていく、それが基本。まあ、クーデタなんかだと法体系自体が無視されちゃうけど。

で、自民党支持者は、たとえ共産党が政権を取っても、この法律はきちんと運用されると思うのか、というふうに考えてみる。まあ、共産党が政権を取ることはないだろうし、そして、現在の日本共産党は自民党の毛嫌いしたかつての政党とは違ってしまっているけど、それは今という刹那のこと。そうじゃなくて、たとえ、とんでもない連中が政権を取ってもこの法律を安心して存続させていられるのかどうか、そこを考えなくちゃダメなのですわ。そんじゃなくては、怖くてしょうがない(いまの自民党だって怖いのに)。だいたいね、法律ってのは、恣意的に使いたくなるもんなの、権力を持つと。だからなおさらそこを締めなきゃならんのです。だって、こないだだって日テレのアナウンサーの炭谷宗佑(26)っていうバカが女子高生のスカートの中を盗み撮りしたのに、日テレは個人情報保護法なんだかどーだか知らんが、「プライバシーに関わることなのでコメントできない」とかって、あんた、報道も扱っているメディアの言うこととは思えないコメントだもんね。なによ、その不公平は。

そういうもんなんすよ。奢れるものって。

そう考えたら、共謀罪、危なくて、自民党ですら反対すると思いますよ。
だからダメなの、これ。

つまり、自分が悪事をするかどうかではなくて、政府を信頼するかどうか、なのですわ、問題は。そんで、その政府ってのは、いまの政府だけではなく、その法律が続く限りの、未来永劫のいろんな可能性の政府を含めて、なわけ。

あなたの嫌いなやつらが政権を取ったと想像してみてください。そんで、ここが肝心なのだけど、そいつらもあなたが大嫌いなのです。そんなやつらがこの共謀罪を大嫌いなあなたみたいな連中にどう使ってくるか、怖くありませんか? そういうことなのです。そこまで責任を持った上でこの法律はいいのかどうか。

法律というのは万事、だから徹底して、恣意的に運用され得ないものを作らなくてはいけないのです。

あちこちの人権派のHPで、こんな場合も逮捕される危険があります、こんなことをしても訴追されるかもしれません、という脅しの宣伝をやっていますけど、あれ、基本的にあんまり効果ないと思うんですよね。だって、ふつうの人は「悪いことさえやらないなら、わたしには関係ないもん」だもん。そういう人には、脅しにすらなってないんですよ。

豪腕・小沢の腕の見せ所。「国際条約に関する法律を政争の具にするのはよくない」と河野衆院議長が自民党に要請しているようですが、いや逆の意味でこれはまさに小沢民主党最初の政局です。どんどんぶつかる覚悟でやっていただきたいわね。

May 16, 2006

1ドルの仕事、1億円の仕事

 先月のフォーブス誌によれば、米国の売上上位500社(Forbs 500ってやつです)の昨年のCEO平均報酬は1090万ドル(12億円)だったそうですね。うち51%、560万ドル分がストックオプションの行使で得た収入だそうですんで、そのまま給与というわけでもないんですが、12億円というのは1カ月に1億円の収入ですわ。

 トップのキャピタル・ワン・ファイナンシャルのリチャード・フェアバンクCEO(55)にいたっては、ほとんどストックオプションながら2億4930万ドル(275億円)の収入だったとか。こちらは1日で7500万円の計算。いったいどういう仕事や業務がそれほどのお金の価値に値するのか、浅学な私には皆目見当もつきません。ちなみに日本の上場企業の社長さんは年収で平均4000万円くらいなんですって。まあ、このくらいなら想像できる金額ではありますがね。

 とふと、その号が発売されてややした5月1日に、全米で「移民がいなくなった日」と題した中南米系移民の一斉スト及びデモが行われました。米国内で働いている不法移民は720万人に及ぶのですけど、そのとき、頭の中で、あ、この人たちがみんな1日分の賃金で10セントずつ少なく支払われていれば、フェアバンクさんへの1日7500万円がちょうど出てくる計算だな、と思っておりました。いや、これはとても失礼な素人比較ではあります。フェアバンクさんのお仕事はとてもストレスフルで、1日7500万円もらってちょうど割が合うほどなんだ、というのかもしれない。でもねえ。ほんと、フェアバンクさん、貰ってるということはそれだけの価値を生み出してるってこと。そんな巨額なお金をまいにち生み出しているのかしら? まあ、いずれにしても氏に行っているお金はだれかがどこかで生み出しているに違いはないのでしょう。

 私は、じつはダウンタウンのSOHOの入り口というか、あのハウストンとブロードウェイの角にあるクレイト&バレルって店が好きで、ふと散歩がてらに覗くこともしばしばです。品の良い食器とかグラスとかがポーランドとかあそこらへんから大量に輸入されているせいでしょうか、すっごく安い値段で売られてたりして、うちでよくパーティーをやってワイングラスも大量に仕込まねば割れたりしてすぐなくなっちゃうので、あそこで大振りのボルドーとかブルゴーニュ・タイプのグラスをバーゲンで3ドルくらいで買っちゃうわけです。で、クリスタルなんですよ。大量生産品ではありますがいちおう手吹きですし、そんなとき、3ドルじゃなくたとえ5ドルもらっても10ドルでさえ、私にはこのグラスは作れないなあと思ってしまってしょうがない。だいたいNYではガラスの工房を借りるだけでも何十ドルもしますし、話は違うがコットンの下着が3枚で9ドルとかも私にはぜったい作れない。こちとら文章を書いてるだけですからね、よく考えると、けっこう自己嫌悪のタネが仕込まれたりします。

 でね、こんなに安くていいのかなあ、と思うわけです。まあ、バカラの200ドルのグラスにはそれなりの,それこそ品格みたいなものさえ感じられますが、作れないにしても、200ドルなら作ってもいいかなとは思う。で、クレイト&バレルの方のグラスは everyday wine 用だからこれでじゅうぶん。しかし、3ドルって、おれはぜったいに作れないというより、作らない。そんなお金で仕事なんかできませんもの。

 付加価値まで含めた第1次や第2次産業製品の総体価値がそのまま社会全体の実体価値ではないのでしょうが、どこかで富は生み出されている。それがわずかずつではあるが最下層には少なく配分され、わずかだからたいして騒ぎ立てたり怒ったりするほどのことでもないけれど、そうやって見過ごしているうちに過少払い分が上位層に順次吸収されていって、それで最終的に何百人か何千人かの、宝くじ的な報酬へとつながっていく。塵も積もれば、の逆典型。とどのつまりはこれが「格差社会」の仕掛けなんでしょ? ま、昔いってた資本主義経済の弱肉強食、食物連鎖ってヤツだけど。

 宝くじ、といいましたがそうですわね。100円くらい簡単に出しちゃいます。気にならない。でも格差社会が宝くじと違うのは、当選者がだいたい決まっているってことです。

 その当選者層に入り込みたいという各人の意欲と努力が競争と切磋琢磨という社会のエネルギーを生み出すのだ、という論理はよくわかりますし賛成もしますよ。だが、いくらなんでもひと月に1億円というのは違うだろうという気がするんですよね。

 だって方や人目につかぬNYのチャイナタウンの縫製工場では、背広1着縫って工賃はわずか1ドル前後なんすよ。たった1ドル。それも違うでしょう。そう思わへん?

 アメリカンドリームはいまや、いつか当たると思ってもじつは当たりくじのないインチキゲームと同じになっているとちゃうかという指摘もあります。むかし、お祭りの夜店にそういうのがあったけど。日本では小泉が格差社会について「成功者をねたむ風潮、能力のある者の足をひっぱる風潮は厳に慎んでいかないとこの社会の発展はない」なんて格差社会とはまったく関係ないことをいってごまかしてましたが、アメリカみたいに1着1ドルと1カ月1億円ってな差が出来ている社会、だれか調整してくれないと、こんなふうにねたみたくなってからでは遅いんですわ。で、小泉政権の“推進”する格差社会というのは、政府の社会不均衡調整機能ってもんをはなから放棄しちゃった職務怠慢なんじゃないのと思う今日この頃です。

May 05, 2006

ホモフォビア撲滅運動

さいきんやたらと気が立っていて、それもこれも、わたしもご多分に漏れずミクシなんてものに参加しているのですが、そこで垣間見るいわゆる一般ピープルの「書き込み」というのでしょうか、あれです、日記とかレビューとかで書かれている内容ですわ、それに、いちいち反応してしまうのは大人げないと思いつつもついつい読み込んじゃったりしてしまい、なんというのでしょう、日本のいまの雰囲気というんでしょうか、乗っかっちゃっているその神輿というのでしょうか、そういうものがとてもとてもと繰り返すほどに阿呆らしくて、だいたいがまああれです、れいの「国家の品格」ですわ、あれ、まだ書籍売上で週間トップなんかを取っているのですよ、そんで、そのミクシ内にも溢れるレビューなんかを読んでいると、ほんと情けなくなるというか叱りつけたくなるというか、みなさん、まあ言祝ぐこと言祝ぐこと、いったいどーなっちゃってるんでしょう、日本の知的レベルは。そもそも、知的ということが価値を持ったことがないのかもしれない、というくらいにとんでもないことになってしまっているようです。

で、障害者自立支援法です、教育基本法です、共謀罪です。
わたしはかつて小泉の登場によって日本の政治に私語が持ち込まれたと、その点では評価した一人ではありますが、いま、そんな自分の不明を恥じます。ごめんなさい。この5年は、けっきょくとんでもないところに日本を招き入れてしまった。ワンフレーズ政治でどんどんひとびとがものを考えずに引っ張られるようになってしまった。小泉のことをちょっとでも面白がった自分が恥ずかしい。ことはホリエモンとは違って一国の総理大臣。権力の在り様が違った。自民党は壊れたわけではなく、小泉に成り代わっただけだった。

そういう苛立ちの中で、5月17日は国際的な「ホモフォビア反対運動の日」だということで、大阪府議の尾辻かな子さんから反ホモフォビアに関する協賛コメントを求められたので、書いたのですが、これもまたろくでもない文章になってしまいました。

http://actagainsthomophobia.txt-nifty.com/blog/cat5814336/index.html

こんなふうに書いていたら、伝えたい相手は却って引いてしまうだろうという、悪い見本のような文書です。でも、吐き捨てたかったわけですな。頭ごなしに、そう指弾したかった、そんな大人げない文章になってしまっております。

以下、反省を込めて、再録します。
腹を立てるとロクなことはありません。


ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じです。

それは病気です。

フォビアとは病気なのです。
病的な嫌悪感、恐怖心。

いろいろなフォビア(恐怖症)があります。広場恐怖症、閉所恐怖症、高所恐怖症というポピュラーなものから雷光恐怖症、水恐怖症、暗夜恐怖症、あるいは陶磁器類恐怖症、空気恐怖症、言語恐怖症などというわけのわからないもの、はては13という数字が駄目な十三恐怖症(トリスカイデカフォビア)なんていうものさえあります。この場合、治療の対象は「広場」でも「高所」でも「空気」でも「陶磁器」でもましてや「13」という数字でもないのと同じように「同性愛」ではありません。治療の対象は「恐怖症」のほうです。つまりあなたがホモフォビック(同性愛恐怖症的)ならば、治すべきはあなたの嫌いな「ホモ」たちではなく、あなた自身の恐怖・嫌悪という病的反応のほうだということです。

まずは病識を持つことです。自分が病気だと思っていない病人ほどたちの悪いものはありません。あなたが「生理的」に苦手だと思っている「ホモ」たちは、じつは「ホモ」たちが悪いのではなくてあなたの「生理」が異常なのだと自覚することです。

いやいや、そんなに大袈裟なものじゃなくて、ただなんとなく「嫌」なんだ、と思っているだけなら、ああ、そりゃよかった。それは病気ではありません。それはホモフォビアではない。それは思い込みです。あるいはたんなるフリ、そういう格好をしといたほうが無難だ、あるいは、受ける、というふうに思っての仕草に過ぎません。それは専門的な神経症の治療を施さなくともだいじょうぶです。だって、それはたとえば「納豆が嫌い」というのと同じ、「ヘビがだめ」「クモは苦手」「芋虫、食べられない」というのと同じだということでしょう? だれも無理なものを食べろなどとはいいません。触れともいいません。好きになれとは無理強いしない。安心なさい。万が一そういわれても決然とNOといえばよろしいだけの話です。だが、あなたが嫌っても苦手でも叫んでも、ヘビや納豆は厳然と存在する。カエルやナメクジに罪はない。ボクラハミンナ生キテイル。それが世界だ。そういうもんだ。

それとも、あなたはそれだけじゃ気が済まなくて、それらすべてを一掃したいと思っているのですか? だからヘビや納豆を見ただけでぎゃーぎゃー騒がしく自分の嫌悪を表明し賛同者を募るのでしょうか? ゴキブリはぜんぶ殺せ。クモは死ね。納豆なんか殺菌しろ。陶磁器は生き埋めだ。民族浄化だ撲滅だ。クリスタルの夜だ。セルビアの悪魔だ。

もし、そんなあなたが、好悪に関しても発達過程にあるせいで自分を納得させるためにもどうしても騒がしい表明をしてしまわざるを得ない小学生ではない場合、そんなあなたはやはり病気です。まあ、少なく見積もっても情操障害か。
さらにもし、そのあなた個人の嫌悪の対象が生きている人間であると認識していてすらも、その嫌悪と憎悪と恐怖とを聞こえよがしに振りまいて憚らないというのであるならば、あなたはやはりもっとしっかりと病識を持ったほうがよい。あるいは少なくとも犯罪の自覚を。

ですから、ホモフォビア(同性愛恐怖症)に関していえることは昔から同じなのです。
それは,病気だ。でないなら、犯罪です。
悪いことはいいません。お治しなさい。一刻も早く。
人間、ひとに危害を加えない努力が肝要なのです。
それがいまの人間社会というものの存在基盤なのですから。
ね。

(筆者注)上記の文章は「病気の人」たちを疎外しようとの意図で書かれたものではありません。むしろ、病者でもないのに「病者を騙る人」たちを炙るための文章であることをご斟酌ください。

May 03, 2006

猫に鰹節

 NYに3年くらい派遣されても英語がペラペラになるようなことはまずありません。で、小さいころから英語をやっていればなあという思いが生まれるのは当然でしょうが、そうしていれば本当に話せるようになっていたのかというとそれはまた別の問題です。

 日本の中教審外国語専門部会が「小学校高学年から英語を必修にする」との方針を示したと聞いて、藤原正彦じゃあないが、こいつはまったくの見当違いだろうとの疑問が拭えません。まあ文部省関連ではゆとり教育だとか愛国心教育だとか、朝令暮改でもとから信用できないのですが。

 子供のころからバイリンガルというのは理想的ですが、よほど言葉の才に長ける子を除いて日本語も英語もどちらも満足に使えない虻蜂取らずの危険も待っています。だいたい中学から大学まで10年も英語をやって話せないものを、小学校高学年からの2年を加えたってどうなるものでもないでしょう。英語のできない原因は他のところにあるのです。

 言葉というのはいくら仕組みや言い回しを学んでも、肝心なことは「言いたいこと」「語りたいこと」があるかどうかです。器を買っても、中に入れる料理がなければ観賞用のただの飾りでしかない。では日本の教育は器の中身を満たすその料理のうまい作り方を教えているのかというとそれも心もとないのです。

 自分なりの意見を持つこと、その意見を人前で表明すること、少数意見を邪険にしないこと、他者への批判や反対はその意見を咀嚼し尊重したうえで行うこと──コミュニケーションのその4つの基本はたしかに日本の教育現場でも奨励されてはいるでしょう。しかしその実現に具体的に努力するよりむしろ、「他人と違わないこと」「むやみに私見を主張しないこと」「公共の場では黙っていること」のほうがうまい生き方だと、多くの子供たちが思っているのではないか? 先日発表の経産省の就職アンケートで、「自らやるべきことを見つけて積極的に取り組む」という「主体性」に自信のある大学生はわずか28%でした。

 あるいは東京都の教育委員会が「職員会議で挙手や採決によって教職員の意向を確認するような運営は行わない」という通知を各都立学校長宛に出したというニュース。かつて「NOと言える日本」を記した石原慎太郎都知事ですが、日の丸・君が代問題でもなんでも教育現場でどんどん「NO」と言うことさえ出来ない状況が拡大しています。ではいったい何を話せばよいのか? 子供たちにだって、話すことではなく「話さない」ことが奨励されている。

 そんな中で英語を話せと言われたって無理なのです。話す主体としての「自分」が無いからです。大切なのは「英語を」話すことではなく、英語で「自分を」語ることだというのに。

 前にも書きましたが、こんな笑い話があります。日本人が事故を起こして大ケガをした。アメリカ人が近寄って大丈夫かという意味で「ハウ・アー・ユー?」と訊いたら、ケガでダラダラ血を流しながらその日本人、「アイアム・ファイン、サンキュー、アンド・ユー?」と笑顔で答えた──あまり笑えた話じゃないですが。

 そうしたらこんどは日本で、中学生から使えるクレジットサービスが始まるんですって。まったく、仕事も収入もない中学生に中身の伴わない「クレジット(信用)」を与えてどう使わせるつもりか。猫に小判。いや、この場合は、猫に鰹節、でしょうか。

April 11, 2006

「国家の品格」というジョーク本

 日本から来た若い友人が、どうぞ、とある新書を置いていきました。数学者藤原正彦さんがお書きになった「国家の品格」(新潮新書)という本でした。日本ではもう110万部も売れているのだそうです。ざっと通読後、私の尊敬する友人である若いお医者さんとかまでもが激賞しているのを知り、え、そんな感動するような本だったかしら? と思って、そりゃもういちど精読したほうがいいかなと思ってそうしたのですが、やはりこんども冒頭からつまずいてしまいました。
 こう書いてあるのです。「30歳前後のころ、アメリカの大学で3年間ほど教えていました」「論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会がとても爽快に思えました。向こうではだれもが物事の決め方はそれ以外にないと思っているので、議論に負けても勝っても根に持つようなことはありません」

 おいおいちょっと待ってよ。アメリカでだって「論理の応酬」だけでなんか物事は決まらないし「議論に負けても根に持たない」という見方も単純すぎます。そんなロボットみたいな人間、いるわけないじゃないですか。ちょっと考えただけでもそのくらいはわかる。そんなのとっても中途半端なものの見方で、あまりに情緒的に過ぎませんか。

 首を傾げながら読み進めると、そんな筋運びばかりでした。欧米式の「論理」だけではダメだ、日本的な「情緒」と「形」こそが重要なのだという“論理”なのですが、「論理だけでは駄目だ」が、いつのまにか「論理は駄目だ」にすり替わって、その対極とする日本的「情緒」の価値を持ち上げる、という仕掛けでした。
 もっとも、ここで藤原さんがおっしゃる「情緒」というのは「喜怒哀楽のようなだれでも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神から来る行動基準」だそうなんですが。
 でもしかし、ふむ、ちょっとよくわからない。

 そもそも「論理」というのは方法・メディアであって日本的「情緒」という実体概念・共同幻想とは対にはならないでしょう。次元が違うのです。だって、情緒にだって論理はある。花伝書なんてその最たるものです。近松の虚実皮膜論だって見事なものだ。芭蕉にも種々の俳諧論があります。したがって日本的情緒の根源も論理で説明しようとする努力は歴史的にも否定されるものではありません。論理と情緒は敵対する水と油ではないのです。「論理」に対抗するのはこの本ではむしろ「形」の方でしょう。

 さてこうして筆者はゲーデルの「不完全性定理」まで持ち出してきて徹底的に「論理」を批判します。たとえば57ページには「風が吹けば桶屋が儲かる」という“論理”を、現実には桶屋は儲からない、と結論づけて、だから長い論理は危険だ、とわたしたちに言い含めます。
 ここでまたわからなくなる。
 だって、風が吹いてもじっさいには桶屋は儲からない、という結論自体もまた筆者の嫌う「(長い)論理」によって導かれた結論なのです。しかしそれには触れずに、つまり、論理はダメだということを論理によって説明しているのに、さらにつまり、筆者は論理の有効性を知ってそれを利用して結論づけてもいるのにもかかわらずそれには頬かむりして、だから論理はダメだ、だから情緒だ、と論を持っていくのです。

 もちろん筆者もバカじゃないですから(いやむしろかなり頭の良い方なんでしょうね)、何度も「論理を批判しているのではない」「論理だけでは駄目だといっているのだ」と断りを入れてはいるのですが、そういう「論理だけでは世界が破綻する」というきわめてまっとうな物言いを、ところが読者は限りなく「論理では世界が破綻する」という意味合いに近く誤読するよう誘導される書き方なのですね。
 これって、都合のよいところだけ論理的で、都合の悪いところはまるで手抜きの論証ではないか。いや、違う……都合の悪い部分は「論理」だと言って、都合の良い部分はそれは「情緒」だと依怙贔屓しているのか……。牽強付会は日本的情緒に最も反する行為なのに。

 先ほども言ったように「情緒」に対抗するものは「論理」ではありません。「情緒」に対して批判されるべきはむしろ「ゲーム」という概念です。藤原さんの厭うのは、「アメリカ化」が進んだ末の「金銭至上主義」による「財力にまかせた法律違反すれすれの」「卑怯」で「下品」な「メディア買収」に象徴される「マネーゲーム」だと、ご自身でもわかっていらっしゃるのに(p5)。この「ゲーム」の感覚に対抗するために、本来ならば「論理」を攻撃するのではなく、情緒と論理の2つの力を両輪にすべきなのに。

 さて先ほど、「論理」に対抗するのはこの本では「形」の方だ、とも書きました。
 藤原さんはそれに関していじめの例を引きます(p62)。武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない、と説くのです。
 「卑怯」というのは、「駄目だから駄目だ」らしい。それを徹底的に叩き込むしかない、という。「いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです」とまで力説します。もっとも、何が「いじめ」かについては触れられません。そうしてこの「駄目だから駄目」「ならぬことはならぬのです」(p48)という武士道精神的「形」を子供にまず押し付けなければならないと言うわけです。
 それは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いかけにも同じだそうです。「駄目なものは駄目」「以上終わり」だ、と。

 ところで、武士道というのは「人を殺す」ための教えです。ここでまたまたわからなくなります。
 藤原さんの「なぜ人を殺してはいけないのか」への答えは、藤原さんの敬愛する「武士道」精神では「駄目なもの」ではない。いったい、その「駄目なもの」の基準はどこにあるのか。「いじめ」もそうですけれど、それは時代や文化や場所によって異なるものなのです。普遍的な基準などない。だから懸命にそれを考えるのです。

 「駄目なものは駄目」という話を聞くと私はいつも「廊下を走ってはいけません」という小学校のときの規則を思い出します。小学校の先生というのはあまり深いことを教えてくれません。なぜ廊下を走ってはいけないのか? それは規則だから。なぜ喧嘩をしてはいけないのか、それは規則だから。なぜ人を殺してはいけないのか、それは規則だから。
 で、友だちが大けがをして先生を呼びにいくときも、走らずに歩いていく子供が生まれるのです。「なぜ」という「論理」を考え続けない限り、そうしたやさしい日本的「情緒」の生まれる土壌さえ作れないのです。

 人を殺してはいけない、これは論理ではない、と藤原さんは言いますが、これだって論理です。なぜ人は殺してはいけないのか、という反語は「じゃあ、殺してやろうか?」という反問を有効にするからです。すると自分が殺されてもよい状況が生まれます。そのとき、その自分は殺されるので人を殺すことができなくなります。だから人殺しは不可能なのです。「なぜ人を殺してはいけないのですか」と質問されたら、ですから「じゃあ、殺してやろうか」という答えが,論理的に必然的に待っているのです。
 それから先の論理は自分で考えてもらいましょう。

 では、武士はなぜ人を殺してよかったのか? それはなぜなら、自分が殺されてもよかったからなのです。もちろんそれはある一面ではありますが、それでもこれは1つの論理の導く1つの結論です。武士道もまた、じつに武士道的に論理的なのです。

 「駄目なものは駄目」というのが、じつは私はとても苦手です。生理的に駄目なのです。そういう意味ではまことに「駄目なものは駄目」は駄目です。
 というのも、それを認めると「理不尽」が通されてしまうからです。こういうことを書いている本を、たとえば同性愛者の人がすこしでも評価するというのはいったいどういうことなのかと考えてしまいます。

 ええ、ゲイの若い人たちの中にもこの本を賞賛する人がいます。同じ論理が、いや、ここでは物言いと呼びましょうか、「ゲイ」と呼ばれる者たちに向けて公然と抑圧として発せられてきた歴史を知っているはずの彼らが、この記述をスルーするのはなぜなのでしょうか? 「駄目なものは駄目」「気持ち悪いものは気持ち悪い」「罪なものは罪」。問答無用。そんな物言いを、認めるのですか? 私にはそれはどうしてもできない。

 藤原さんのこの本にはじつは政治や経済に関するごく基本的なことに関しての誤解や誤謬も数多くあります。まあ数学者だからしょうがないのかもしれません。しかし、この「駄目なものは駄目」に象徴される論の運びは私には看過できない。

 どうして若い人たちがこの本をよいと言うのか、その辺を考えると、なんだか日本人としての自分のアイデンティティをくすぐられるという、そういう昔ながらのエサが随所にちりばめられているせいではないかとも思います。
 はかないものに美を感ずるのは日本人特有の感性だというドナルド・キーン(p101)。随筆「虫の演奏家」で日本人は庶民も詩人だと書いたラフカディオ・ハーン(p102)。日本の楓は欧米のと比べて非常に繊細で華奢で色彩も豊かだと気づいて感嘆したフィールズ賞も貰っているケンブリッジ大学の数学の教授(106P)等々。
 なるほどこういうのは日本人として読んでいて心地はよいですが、でもそういうのは欧米人特有のお世辞なんですよ。

 英語の「コンプリメント」は日本語のお世辞と違ってウソの要素はないですが、強いて美点を探し出してそれを強調するのが基本。その分を割り引かずに真に受けて鼻の穴を膨らませるのはあまりに子供っぽい反応でしょう。もちろんこちらとてそれらに関する矜持はありますけれど、それは西洋人にお墨付きを貰わなくともよい。ふむふむ、と聞いているくらいでよいのです。そんな世辞で夜郎自大にならないこと、それこそ謙譲の美徳というものです。

 総じてこの本は、日本という国にもっと誇りが持てるような、あるいは誇りを持つことを励ますような記述にあふれているのですが、思うに日本人ほど自分の国を特別な国だと思っている(思いたがっている)国民はほかにいないんじゃないでしょうか? 逆に言えばどうしてこうも情緒だもののあわれだ武士道だ、といつも確認していなければ自信を持てないのか。どうして特別だと思わなければやっていけないのか。そのへんの自意識のさもしさが,私には品格に欠けると思わざるを得ないのです。

 「虫」の音を「ノイズ」と呼ぼう(101P)が、「サウンド」と呼ぼうが、バッハやモーツァルトやベートーベンやチャイコフスキーを生んだ「西洋人」の音楽性を否定するわけにはいきません。虫の音をノイズと呼んだくらいで、日本人の音楽性やもののあわれのほうがすぐれているとは、論理的にいってわたしにはどうしたって断言できない。儚さを包み込んだラフマニノフのもののあわれは、じゅうぶんに紫式部とも張れるものだと思うし、秋の日のヴィオロンの溜め息の身に沁みて、と謳ったベルレーヌだって、じゅうぶんにもののあはれではないですか。

 この「おあいこ」の感じ、これを大切にしたいのです。日本だけが特別で、すごいのではない。いや、すごくて特別なところはもちろんありますよ。私はそれは密かに自負もしてます。言えといわれれば日本の特別で素晴らしいところなど10や20はすぐにでも言えます。でも言わない。かっこ悪いもの。それに、同じように諸外国にもすごくて特別なところがあるって知っているし。その畏れを大切にしたい。私たちはその国の人じゃないからそれを知らないだけなのです。詳しくも知らないし、その感覚の基となる気候や文化や歴史だってそこに生きている人ほどには知りようもない。次元は違うかもしれませんが、いろんな国の人がみな自分の国や文化をそう思っているのだと思いますよ。そんな他者への畏れを、私はいろんなところに行きいろんな人に出逢っていろんな話を聞いて、持つようになりました。ジャーナリストをしていてよかったと思うのはまずそこです。しかも会社の金で世界中の人たちと会えたし、はは。
 以前にも書きましたが、愛国心、祖国愛というのはどの人にもだいたい共通のものです。そうしてそれは論理的でなくなり、感情的になるときにイビキに変わる。自分のは気にもならないが、隣のヤツのはひどく耳障りになるのです。

 この「国家の品格」は一事が万事この調子でした。きっと「欧米人」が読めたらイビキとか歯ぎしりとかの類いにしか聞こえないような。論の大前提がとても単純化された虚構なのです。先ほども触れたように、さらには藤原さんもご存じのように(p122)、もともとは鎌倉武士の戦いの掟である「武士道」というものと新渡戸稲造の説いた「武士道」とは違うものです。新渡戸武士道が大いなる虚構だというのはいまや常識なのに、それを敢えて前提に持ってきたのは数学でいう「前提が偽なら結果はすべて真」という論理を拝借した結果なのでしょうか。

 武士道に絡めて、もう1つ言ってよろしいですか?
 新渡戸武士道の最高の美徳は「敗者への共感」「劣者への同情」「弱者への愛情」(p124)だそうなんです。そこで差別に関して、藤原さんは「我が国では差別に対して対抗軸を立てるのではなく、惻隠の情をもって応じました。弱者・敗者・虐げられた者への思いやりです。惻隠こそ武士道精神の中軸です。人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」(p90-91)といっていますが、この「惻隠の情」、主語はだれなんでしょうか? そう、武士です。
 敗者、劣者、弱者という人々は惻隠の情を持ち得ない。あくまで、惻隠の情を持ってもらう,抱いてもらう立場のままです。

 この武士道精神は、藤原さんが「非道」(p21)と批判している帝国主義・植民地主義とまったく同じ思考方法です。おまけに「人々に十分な惻隠の情があれば差別などなくなり、従って平等というフィクションも不要となります」と言うその同じ口で、その2ページ前と7ページ前に、「国民は永遠に成熟しない」「国民は賢くならない」とも断言しているのです。
 頭がこんがらがってきませんか? この「国民」と「人々」とは別な存在なのでしょうか? 「人々」とは武士的な人、のことなのでしょうか? まさに、選ばれてあることの恍惚。でもそこに不安はないようです。

 藤原さんの言い方では、武士だけが主語になれるのです。オンナ、コドモやオカマやカタワは常に「惻隠の情」の目的語の位置から逃れられない。そんな定型な「形」は、押し付けられても困ります。万物は流転するのです。日本的情緒の権化である鴨長明だってそういっている。

 私はいまの日本に欠けているのは(そしてこの本にも欠けているのは)むしろ丁寧な論理の紡ぎ方の教育だと思っています。だいたい論理というものが日本で人気のあったためしはありません。面倒くさいですからね。それに対して、情緒という言葉の響きの、なんと情緒的で安易なことか。受けるはずです。

 この本は、じつは第4章以降はまともすぎるほどにまともです。筆者の説く「徹底した実力主義は間違い」「デリバティブの恐怖」「小学生に株式投資や英語を教えることの愚劣さ」「ナショナリズムは不潔な考え」などの結論はまったくもって私の考えと同じです。
 ですがそこに辿り着くまでの論の運びは、私には大いなるブラックジョークとしか読めませんでした。もっとも、その一人漫才ぶりがこの本の売りなんでしょう。

 そういうことです。

 ずいぶん長く書きました。それもこれも、こんな本に簡単に感動しているきみに、私の思いを伝えたかったからです。この本は、ぜひジョークとしてお楽しみください。そうすればまあ可笑しいし、随所で何度かは吹き出したりもできます。
 以上、終わり。

February 08, 2006

懐妊、懐胎、妊娠

 国会での小泉の驚きようったら、あれは本当に知らなかった顔でした。
 彼のところに情報が集まっていないということ。これはなにかの象徴でしょう。
 なんの象徴か。

 先週末のことです。3日の共同電を引きましょう。
 見出は「閣内からも慎重論 皇室典範改正、難航も」でした。
**
 女性、女系天皇を容認する皇室典範改正案をめぐり、3日午前の閣議後記者会見で一部閣僚から「しゃにむにやらなければいけない法案か」(麻生太郎外相)などと、慎重論議を求める声が出された。(中略)麻生外相は「男子皇族が生まれないかのような前提で話をしている。もう少し議論が必要だ」と指摘。(後略)


 毎日はもうちょっと詳しい。
 「外相と財務相が慎重論 反対派が勢い?」として
**
 谷垣氏は「天皇の地位というのは日本国民統合の象徴だから、今国会であろうとなかろうと、じっくり議論して、すんなり決まるように運ぶのが望ましい」と述べ、意見対立が残ったままでの改正に慎重な姿勢を示した。谷垣氏は1月17日の会見で「女系天皇を決断すべきではないか」と改正案に賛成の意向を表明しただけに、慎重論に方向転換したとみられる。
 さらに、中馬弘毅行革担当相は「まだ雅子さまも、紀子さまだって男の子を懐妊される可能性が十分あるのに、なぜ急ぐんだという慎重論がどの派閥にも出ている」(後略)


 この時点で、永田町の風向きがシフトしたのです。どうしてこうも一斉に? それはつまり紀子さんの妊娠の情報が、然るべきところに回されたということに他ならない。これがしかし、小泉には届いていなかった。これは何を象徴しているのでしょうか?

 昨日のニュース画面で、メモを差し出されて驚き顔の小泉に対して、官房長官の安倍は後ろから覗き込むようにして表情を変えなかった。つまり彼も知っていたっぽいですな。

 麻生が知っていた、ということは秋篠宮→寛仁→麻生の線でしょう。麻生の妹は寛仁の奥さんですからね。秋篠宮と寛仁親王はヒゲつながり、ってわけじゃなくて。

 6週ということは先月下旬にはわかってたってことでしょう。それでその情報が麻生や安倍に流れたということはつまり、皇室典範改正への慎重派=反対派へのリークということで、皇室典範改正論議にブレーキをかけるということになる。つまりこれが皇室筋の“意向”ということに。ってことは、秋篠宮の後ろには天皇がいるのかしらねえ、やっぱり。
 「女系・女性容認は天皇陛下の意思ではない」っていうのは、寛仁がいろんなところで繰り返していたことですし。
 これが宮内庁筋なら、とうぜん小泉周辺が知っているはずですから。

 なんだか話がややこしくなってきましたね。ポスト小泉をにらんで、これではすでに情報合戦、政争の具だ。

 ところで、皇室典範改正論議は「第3子の誕生を待って」という論理、すっごくおかしいんですけど、だれも言わないのはどうしてでしょう。

 「男系」というのはとうてい無理がでてくるし,そもそも女系であっても女性であってもかまわないんじゃないか、といってきた世論も、とどのつまりはそれはそれ、次善の策だったのよということで、けっきょくは「男系」がいいってことなんですねー。あるいは「変わらないのが一番」という。それにしてもまるで第3子がすでに“健康”な“男児”であるかのような浮かれよう。はしたないというかなんというか。

 これはなんとも失礼な話です。皇室にとってではなく、私たちにとって。これはとんでもない話なのです。
 天皇制が差別構造の元凶だという、懐かしい理論を思い出しました。ヨーロッパで荒れているマホメッド冒涜の抗議の輩たちの崇拝も、似たようなものかもしれません。

January 30, 2006

少数者マーケットとは何か?

 身障者用の駐車場や客室を用意して建築基準を満たしてから、完了検査にパスすればすぐにそれらをつぶし、一般客用の施設に改造してしまう。「東横イン」という誰もが知っているホテルチェーンがやっていたことは、マイノリティ・マーケットに対する社会と企業のあり方を考える上でじつに示唆的です。東横インの西田憲正社長は記者会見で「身障者用客室を造っても年に1、2人しか来なくて」「使わないものはいいんじゃないのという感覚はあった」とうそぶきましたが、はたしてそれは本当なのでしょうか。

 ニューヨークに暮らして気づくことは、街なかでの車いすの人の多さです。90年代にバスはすべて車いす対応型に変わりました。地下鉄は施設自体が老朽化していますが、現在、主要駅のほとんどでエレベーターを新設して車いすの人も利用できるようになりつつあります。こうしたインフラが整備されてきて初めて、身障者たちの存在が目に見えるようになります。そういう設備がない状態では、それこそ「年に1、2人しか利用しない」わけで、だから「使わないもの」は「必要もない」という論理に落ち込んでいきます。

 この場合、マイノリティ側は自らアイデンティティ意識を高め連帯して企業や社会に自分たちのマーケットの存在をアピールしてゆくべきでしょうか。それはそのほうがいろいろな意味で好ましいのでしょうが、「してゆくべき」となるとなんだかちょっと違うような気もします。逆に考えて、「してゆかなければそのままでいいのか」というとそれは違うからです。しなくたってしてゆかなくてはならない。だいたい巨大マーケットとされる主婦層やギャル層やサラリーマン層が自己同一性を高めて連帯しているなんて話は聞いたこともないし、なんで少数者たちだけがそういう努力を必要とされるか、そんなのは理屈に合いません。そういうマーケットへのアプローチと掘り起こし、育成するは第一義的には企業と社会の側にあるのだと思うのです。巨大ではなく顕在化していないマーケットの存在にも気づかせる、そのための触発は与えるにやぶさかではないけれど、そのために身障者たちの側が必要条件として何かを「しなければならない」という物言いは、あなた何様なの、という感じなのです。

 ホリエモンの登場時、「会社は誰のものか」ということが議論にもなりました。もちろん会社は株主のものです。ただし、その株主の利益を保証するためには、その会社の存在する場に健全な社会が形成されていなければなりません。そのためには会社の利益は単なる株主だけではなく、従業員やその地域社会の構成員にも還元されていかなくてはならないのです。こうして、ステークホルダーの概念には株主だけではなく、広義にその会社や社会の構成員も含まれるというのが私の思うところです。企業はすでに個人的な利益追求の場だけではなく、高度資本主義社会にあっては社会全体の利益追求の道具でもあるのです。そしてその社会全体の中には、もちろんマイノリティも含まれる。

      *

 翻ってゲイ・マーケットについて考えてみましょう。欧米のように言挙げを旨としない日本社会では、マイノリティの言挙げもまた少ない。アイデンティティなどという概念も言語化の問題と関係しますから希薄かもしれません。だからといってゲイ・マーケットは存在しないというのは前段までの身障者の例をとっても誤りですし、日本ではゲイ市場は育たないとかいうのも東急インの社長のような「何様」な物言いでしょう。ゲイ・マーケットはそんなのとは別のところで、当事者であるゲイ(LGBT)の思惑や気力とは別のところで、第一義的には社会と企業の側から形作られなければならないもののはずです。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 なんでまたこんなことをここに書くのかというと、バディの3月号に伏見憲明さんがタワーレコードによる「yes」というLGBT向け新雑誌の創刊に触れつつ、「日本におけるゲイは、時代が進んでも、いわゆる『ゲイマーケット』を形成するような層としては成り立ちえないように痛感してきたのだ」と書かれていたからです。

 なーに、御大、そんなに悲観なさることはありやせんぜ。いや、いっているのは悲観ではないか。では言い方を変えれば、これはそんなに痛感すべきようなことでもないのです。それこそこちら側はのんびり構えていたって一向にかまわないのですから。主婦マーケットのように、老人マーケットのように。

 私はこれまで、マイノリティの解放運動はじつはマイノリティのためだけではなく、より多数という意味においてはより重要に、マジョリティを真っ当に解放するための運動なのだ、ということをいってきました。つまりゲイ市場の創出も確立も育成も、ゲイのためにというよりはこの社会全体の幸せのために必要なことで、結果、LGBTたち自身も全体の一部として幸せになる、という図式です。

 そりゃこの時代のこの日本、さまざまな手段や考え方1つで、マイノリティであってさえもハッピーな感じはなんとなく手にできるかもしれません。それが流行語のようによく言われる「緩い」幸せでもべつに問題はない。それは処世でしょう。それはそれでいいのです。だが、問題はそこではないのです。問題は、それではマジョリティの側のどうしようもなさ、この日本社会の脳天気さはなにも変わらないということなのです。せっかくマイノリティ問題を梃子にしてよりよい全体を築きたいというのに。

 車いすの人や目の不自由な人たちだって緩い幸せくらいは、いや熱い幸せだって持っているかもしれません。しかし、だからといって「それでいいんじゃないの」と東横インの社長が言ってしまうのは筋違いでしょう。

 マーケットというのはその構成員の努力によって形成されるものではありませんし,思惑どおりに形成できるものでもありません。あくまでもマーケター側が利益を上げようとする際に、十把一絡げのように投網を打って消費層をまとめあげ刺激できたらずっと簡単で経済的で効率的だということで出来上がった概念なのです。ですからLGBTをまとめあげてマーケットを形成するのは第一義的に企業の側なのです。われわれ消費者としては、さあまとめあげてよ、そうしてくれればちゃんとカネも落としてあげるよ、というもんです。最終的には互助的なんですがね。

 そういう文脈においてLGBTマーケットを考えてみる。それへのコミットメントについても。それが今回の東横インの身障者用施設改造事件の教えでもあると思います。

January 25, 2006

ホリエモン・ザ・トリックスター

 今年最初の書き込みですね。年末年始は日本でした。帰米は23日。まだ昼夜逆転状態です。さて、自宅に帰ってウェブサイトをチェックしてホリエモンが逮捕されたことを知りました。任意の1日目の事情聴取から即逮捕とは、特捜部も珍しいことをやります。株式市場の思惑による混乱を避けるためにも先手を打つ必要があったのでしょう。同時に、容疑がことのほか固いのだとも思います。だがそれだけなのでしょうか。

 昨年2月のニッポン放送株取得騒ぎのとき以来、ホリエモンはこの時代の日本のトリックスターなのだと言ってきました。トリックスターとは英語で詐欺師のことですが、そうではなく文化人類学的な「いたずら好きの秩序破壊者」という意味においての願いを込めて。

 世界中の数多くの神話に見られるトリックスターたちはときどき人間社会にふらりと訪れては道化と茶目っ気でもって既成の権威をからかい、硬直した文化や規律を掻き乱して去って行きます。彼の残した破壊のあとには新たな秩序がまた産まれる、そんな契機をもたらす存在として。

 ただしトリックスター自身が新たな秩序になることはありません。彼はあくまでも触媒、反テーゼであってメインストリームには参画しない。そういう文脈で考えると彼の語録はいちいち説得力を持って既成概念に迫ってきます。

 いわく「われわれは新聞やテレビってものをこれから殺していくわけです」「人の心はお金で買えるんです」「僕は老人になるつもりはない」。こうしたセリフに読売のナベツネ御大やらフジの日枝会長やらが苦虫噛み潰した顔をしてマジに切れているのを目にできたのは、本筋からは離れていたもののなんだかとても興味深いものがありました。その上で、煮詰まっている感のある日本社会に結果として新しい風穴が生まれればよいとも真に願ったのです。

 しかし一方で私の周囲の若者たちからはライブドア本体のその企業姿勢に関する不満も聞こえてきていました。買収したブログサイトのアフターケアをまったくしないだとかろくなソフトを開発していないだとか、看板のはずのITは実体が薄く、ほとんどM&Aのための法人であるということは彼らには端からわかってもいたのです。

 思えばその夢が「時価総額世界一の企業」。なるほどITなんぞではすでに勝ち組は上につかえていて儲けは限られる。高級寿司店の「時価」ほど恐ろしいものはありませんが、ならば味とか腕前とか売上とか収益とかの実体ではなく、ゲームでどうとでも上下しそうな株価の「時価」を相手にすればよい。それが彼の関心でした。つまり、神話的トリックスターとしての派手派手しさを利用しながら、彼は現実社会の本流に入り込もうとしたのです。

 それは不可能なことです。なぜなら現実社会のトリックスターは「詐欺師」に成り下がり、そんなトリック使いは殺されてしまうからです。

 「ホリエモン・ザ・トリックスター」の物語はいま最低のシナリオを迎えています。
 読売のナベツネさんとつながりのある平松庚三氏がライブドアの新社長となり、フジの日枝さんはライブドアの株を勝手に手放すことができるようになって見るからに嬉々としている。株の持ち合い契約の条件に堀江氏が社長でいることという条項を紛れ込ませていたというのですから、この逮捕劇は和解時にはすでに織り込み済みだったのでしょう。巨大な政治問題であるはずの耐震偽装マンション事件だって肝心の国会喚問の詳細報道がガサ入れで吹っ飛び、既成の権力たちはまさにそろって「破壊」を免れているのです。沖縄で見つかった元幹部の“自殺体”の不可解さも合わせて(首に刺し傷とか、自殺なのに非常ベルを鳴らしたとか、報道の混乱の真相はいったい何なのでしょうか)、これはとんでもなく恐ろしい話です。

 既成の秩序の破壊もできず、ただの出過ぎた杭として、後生に見せしめの効能しか残せずに埋没させられようとしているホリエモンが、もっと確信犯的に神話的トリックスターであってくれていたらと、なんとも残念でなりません。

October 24, 2005

取材源の秘匿

 NYタイムズなどによるCIA工作員漏洩事件が大きな政治問題になってきました。ともするとチェイニー副大統領の辞任にも結びつきそうな雰囲気です(希望的観測)。しかしこれは最初からおかしな事件でした。

 発端は一昨年夏、アフリカ・ガボンの米国大使の妻がCIAのスパイだと報じられたことです。最初からおかしかったというのは、CIAのスパイであるという事実を報道することに何の意味もニュース価値もないからでした。いったいそんなニュースが誰の得になるのか、何のためになるのか、まったく意味をなさなかったからです。

 そこでわかってきたのは、この奥さんの夫である米国ガボン大使ジョセフ・ウィルソン氏が、ブッシュ政権がイラク開戦の理由だった大量破壊兵器疑惑を「脅威を誇張して事実をねつ造した」と批判していたという背景でした。ここで初めて利害関係が見えてきたのです。ウィルソン氏の奥さんがスパイだと露呈すれば著しい生命の危険にさらされる。つまり、政権批判への報復のために、肉体的・心理的嫌がらせをねらってホワイトハウスが意図的かつ巧みにそのスパイの人定情報をリークしたのではないか、というものでした。

 思えば、タイムズ記者のジュディス・ミラーが情報源の秘匿を盾に証言拒否で収監されたときも、米メディアはなにかが歯に挟まっているようなかばい方をしていました。なぜならこの場合、情報源を隠すことで守られていたのはブッシュ政権そのものの方だったわけですから。もともとの記事だって、前述したようにニュース価値のないものだったのですから。ふつうはそういう情報を握ってもまともな記者なら書きはしません。脅迫事件に加担するようなもんですもの。

 手元に文藝春秋の9月号があるのですが(芥川賞の発表があったのでそっちが目的で買ったのです)、ぐうぜん面白いものを見つけました。いつもはメディア批判で筆鋒鋭い「新聞エンマ帖」の欄が「取材源の秘匿が揺らいでいる」と題してとんでもない勘違い原稿をさらしているんですね。

 「ジャーナリストならば、情報提供者の秘密を守るため、その名前を明かしてはならないことは誰でも知っている」として、これを「最も重要な職業論理」と書いているのはいいのですが、ミラー記者の収監に関して日本の新聞はみな「対岸の火事的な報道に終止した」として「悪しき日本の新聞の習性を見る思いがした」と筆を滑らせるのです。

 エンマ帖氏は「仮に権力によって取材源の秘匿が否定され、ジャーナリストがそれを守らなくなれば、人々のジャーナリズムへの信頼は地に堕ちる」と説き、「日本のジャーナリスト」は「だが、いざという時、果たしてニューヨークタイムズの記者のように行動できるのか」と心配してくださっている。

 しかし事の顛末は逆でした。タイムズのミラー記者のように行動してしまえば、権力こそが取材源の秘匿によって守られ批判に頬かむりしていられるのです。ミラー記者ほか一連の漏洩情報の報道者たちはいずれも大量破壊兵器疑惑にも簡単に乗って検証もなく記事を大量生産し米国民の開戦意識をあおった、ブッシュ政権のいわゆる“御用記者”だったのです。

 これは情報漏洩事件ではなく、政権中枢である大統領補佐官カール・ローブや副大統領補佐官ルイス・リビーをリーク源とする、人命をも顧みない冷酷な情報操作と報復の事件でした。権力者の思い上がりも甚だしい、じつに恐ろしい話です。

さてブッシュ政権がどう後始末をつけるか。
チェイニーは辞めるのか。
政権末期のレイムダック化が進むのか。
これからいろいろと展開があるでしょう。

October 18, 2005

小泉靖国参拝NYタイムズ社説

NYタイムズの本日の社説でした。
かなり厳しい論調ですな。ま、リベラルですから、タイムズは。

それにしても、「右翼国粋主義者が自民党のかなりの部分を構成している」とか、「靖国は神社とその博物館で戦争犯罪を謝罪していない」というのは、なかなか正確で明確な意見です。

靖国が戦争を謝罪していないのは、死んだらみんな神様だからってわけでしょうかね。あそこの従業員たちはけっこう過激です。国家護持を狙っているくらいですからね。ものすごい政治力ですもの。

***
October 18, 2005
Editorial 社説
Pointless Provocation in Tokyo
東京での意味をなさない挑発行為

Fresh from an election that showcased him as a modernizing reformer, Prime Minister Junichiro Koizumi of Japan has now made a point of publicly embracing the worst traditions of Japanese militarism.

近代的改革者としての姿勢を見せつけた選挙から間もないというのに、首相小泉純一郎が今度は日本の軍国主義の最悪の伝統の公的な保持者であることを明らかにした。

Yesterday he made a nationally televised visit to a memorial in central Tokyo called the Yasukuni Shrine. But Yasukuni is not merely a memorial to Japan's 2.5 million war dead.

彼は昨日、全国放送される中、東京中心部にある靖国神社という追悼施設に訪問した。もっとも、靖国は日本の戦争犠牲者250万人を祀っているだけの施設ではない。

The shrine and its accompanying museum promote an unapologetic view of Japan's atrocity-scarred rampages through Korea, much of China and Southeast Asia during the first few decades of the 20th century.

同神社とその付属博物館は、20世紀初頭の数十年間、韓国朝鮮全土と中国・東南アジアの多くで極悪非道と恐れられた日本の残虐行為に関して悪びれることのない史観を標榜しているのである。

Among those memorialized and worshiped as deities in an annual festival beginning this week are 14 Class A war criminals who were tried, convicted and executed.

今週始まる例大祭で神として祝われ崇められる中には、裁判にかけられ有罪になり処刑された14人のA級戦犯も含まれている。

The shrine visit is a calculated affront to the descendants of those victimized by Japanese war crimes, as the leaders of China, Taiwan, South Korea and Singapore quickly made clear.

この神社参拝は、中国、台湾、韓国、シンガポールの首脳たちがすぐさま明確に指摘したとおり、日本の戦争犯罪によって犠牲になった人々の子孫への、計算ずくの侮辱である。

Mr. Koizumi clearly knew what he was doing. He has now visited the shrine in each of the last four years, brushing aside repeated protests by Asian diplomats and, this time, an adverse judgment from a Japanese court.

Mr.小泉は自分が行ったことを明確に認識している。彼はこの4年間、繰り返されるアジアの外交官たちの抗議を軽くいなし、さらに今回は日本の司法の違憲判決をも無視して、毎年この神社に参拝してきたのだから。

No one realistically worries about today's Japan re-embarking on the road of imperial conquest.

現実問題として、だれも日本が再び帝国主義的覇権の道を進むだろうなどとは心配していない。

But Japan, Asia's richest, most economically powerful and technologically advanced nation, is shedding some of the military and foreign policy restraints it has observed for the past 60 years.

しかしこの、アジアで最も裕福な、最も経済力を持ち技術的にも進んだ国家である日本は、過去60年間遵守してきた軍事的・外交的歯止めのなにがしかを切り捨てようとしているのである。

This is exactly the wrong time to be stirring up nightmare memories among the neighbors. Such provocations seem particularly gratuitous in an era that has seen an economically booming China become Japan's most critical economic partner and its biggest geopolitical challenge.

近隣諸国にあの悪夢の記憶を掻き回すのに、いまはまことにふさわしくない時期だ。このような挑発は、とくに経済的に急発展中の中国が日本の最も重大な経済的パートナーかつ最大の地政学的難題になりつつある時期にあって、まったく根拠のないものと思われる。

Mr. Koizumi's shrine visits draw praise from the right-wing nationalists who form a significant component of his Liberal Democratic Party.

Mr.小泉の同神社参拝は、彼の自民党の中でかなりの部分を構成する右翼国家主義者たちの賞賛を引き出した。

Instead of appeasing this group, Mr. Koizumi needs to face them down, just as he successfully faced down the party reactionaries who opposed his postal privatization plan.

このグループの要求を受け入れるのではなく、Mr.小泉は彼らを屈服させるべきなのである。ちょうど彼の郵政民営化案に反対した自民党反動派の連中を成功裡に屈服させたように。

It is time for Japan to face up to its history in the 20th century so that it can move honorably into the 21st.

名誉とともに21世紀に進んで行くために、日本はいまこそ20世紀の歴史を直視すべきなのである。

September 21, 2005

ご無沙汰

サーバーがダウンしていて、ずっと書き込みができませんでした。
その間にも日本の総選挙やらカトリーナの顛末やらいろいろなことがあったのですが、なんだか機を失してしまいました。

ただ、カトリーナの被害を見ていると、都市の衰亡の新しい形を見ているような気がするのです。アメリカはこれまで鉱山や鉄鋼や自動車産業の町のゴーストタウン化を経験してきました。が、中心気圧が904ヘクトパスカルというこの驚異的なハリケーンは、ニューオリンズの半数以上の被災者にもうこの街には戻りたくないと思わせているようなのです。たしかに復興ままならないうちに再び同じようなハリケーンが襲ってきたら(あるいは来年、再来年でも)この数字はもっと増えるでしょう。といっているうちに、リタが襲っているのですが。

カトリーナは沿岸部でさえ海水温が32度だったというメキシコ湾内の異常なエネルギーを吸収して発達したのでした。

カエルを水から茹でると(ってすごい実験ですが)気づかずにいつまでもじっとしているので最後には茹で上がって死んでしまうそうです。本当にそうなのか、なんとなく嘘っぽいのですが、ただし危険というのはそういうものかもしれない、という感じはします。

カトリーナがそのまま地球温暖化の兆候なのか私にはわかりません。ただ確実に地球環境はその方向で変わっていくはずです。産業構造の推移ではなく、自然環境の変化による町の放棄という事態の、これが米国での、目についた最初の例だったということにならなければよいのですが。
    *
ところで10年前に中西部一帯の大洪水を取材したことがあります。その際はいま批判の矢面に立っているFEMA(連邦緊急事態管理庁)が行く現場現場で活躍していて、州兵や民間ボランティアの活動をあまねく統率していて見事でした。

クリントン政権下での当時のFEMAは閣僚級の長官を擁した大きな組織でした。それを9・11以降のブッシュ政権が国土保安庁の傘下において権限を縮小し、大幅な予算カットと人員削減を行ったのです。

そこを攻めているヒラリーら野党民主党を見ていて、ふと日本の民主党のことが気になりました。沈滞気味とはいえアメリカの民主党は人権、福祉、外交、財政問題など共和党との違いがもっとわかりやすい。ところが日本の民主党は、惨敗した選挙前の話だけではなく43歳の前原某が代表になって、憲法9条の改正問題などなんだか言っていることがますます自民党に似てきた。

戦争なんて日本は絶対にやらないと思っていたのですが、最近はどうも違ってきたかもしれません。「いつまで北朝鮮に好きなこと言わせてるんだ」というイライラした層が確実に増えていて、そのあたりの無党派層が「変革攻撃型」の小泉さんや安倍さんを支持しています。すると先制攻撃型のミサイルを持てという世論まであと少しの距離なんじゃないかという疑心暗鬼まで生まれます。「戦争じゃない、自衛だ」という論もありますが、戦争はいつも自衛の論理で始まる。だから第9条があったはずなのです。
    *
われわれは愚かなカエルか、それとも心配症の炭坑のカナリアか。それがわかるときにはそれにはもう何の意味もないのですが。

September 01, 2005

カトリーナと日本企業

そろそろこちらの企業のHPがお見舞いページ、寄付募集の呼びかけページに書き替わりはじめました。
9.11のときもそうでしたが、日本企業のこういうときの反応が鈍い。
インド洋津波のときも同じアジアのことなのにまだまだ遅くて欧米企業の後塵を拝したのです。
その都度言っているのですが(たしかここでも書いたか)、ソニー、トヨタ、日産、ホンダあたりの米国進出企業はいますぐにでもHPを書き換えるべきでしょう。
これは危機管理の一環です。

あ、いま見たら、トヨタとホンダはカトリーナへの見舞金を行ったことを今回は早くもHPで出してる。
そうそう、こういうのはタイミングですものね。

August 31, 2005

死者の代弁者

 ブッシュへの支持率がじわじわと40%にまで下がってきて、不支持の56%とともに最悪を記録しています。再選を果たした大統領というのは戦後ではウォーターゲート事件の渦中にあったニクソンを除いて、みな2期目のこの時期には60%ほどの支持率を維持していましたからこれは“異常事態”。これにはイラク戦争で米兵の息子を失い、テキサス州の大統領私邸近くで連日反戦と米軍撤退を訴えているシンディ・シーハンさんへの共感が広がっていることも影響しているのでしょう。

 そのシーハンさんの抗議活動に対してブッシュ共和党支持者のある男性が「戦死した息子は彼女を恥じているだろう。政府に反対なら4年ごとの選挙で不信任の意志を示せばいい」と言っているのを目にして、この夏の日本での靖国問題を思い出しました。靖国に関しても死者たちの思いを生きている者たちが代弁してかまびすしかった。

 死者は何を思っているのか、それを言葉にするのはおそらく不可能でしょう。靖国でいえば軍上層部の無謀な作戦で餓死した兵士たちの無念もあれば、殺したくもない非戦闘員を命令で殺さざるを得なかった人間としての恨みもあるに違いない。そうした彼らが合祀されたA級戦犯を赦すのかどうかはわかりません。生きている現在の日本人がそんな“英霊”たちを一緒くたにして「日本では死ねばみんな神様だ」と急に宗教じみるのも節操がないように見えます。

 しょせん死者の代弁は、死者を代弁しているのではなくて生者の声に過ぎないのでしょう。もっともその生者も、いつか死者になるものとしてのそのときの自らの代弁者として。

 ただしいくら自らの代弁だからといって、イラクで戦死した息子が反戦活動をする母親を恥じているかどうか、それは他人が言ってはならないことのように感じます。今回のブッシュ不支持率の増加もイラク反戦の気運の高まりというよりは、この母親シーハンさんへの批判をこれまでと同じく単純な、正義か悪か、敵か味方か、の二元論で片付けようとするブッシュ支持派の相変わらずの論調に、そろそろ中間派がウンザリしてきた、そんな世論が背景なのではないかと思われるのです。

 さて日本はどうなのでしょう。郵政改革の是非の二元論だけでも単純すぎるのに、今回の総選挙の日程を9月11日に決めた理由を「なにしろ同時多発テロの記念日であるから」「参院議員の反対派の同時多発に我々は巻き込まれてビルから転げ落ちたような格好でございますから」と明かした自民党の山崎拓前副総裁の無神経(http://www2.asahi.com/senkyo2005/news/SEB200508290007.html)を、私はあのテロ死者たちの目撃証人として、直後のユニオンスクエアに参集した夥しい追悼者の1人として、文字どおり吐き気を覚えるほどに恥じるのです。

 しかし“保守派”と呼ばれる人々に、国の違いを問わず、こうして情け知らずの発言が繰り返されるのは、いったいいかなる心理的メカニズムが働いているのからなのでしょうか。

August 07, 2005

小泉解散?

弟の四十九日法要のためまた帰省中です。ところが今夏の北海道もまるで北海道じゃないみたいに暑い日が続きます。おまけに尋常じゃないほど蒸すんだ。まいったね。

弟の息子である4年生の甥っ子が夏休みにどこかに行きたいというので土日を使って高校時代の友人たちを呼び出し、積丹半島の海水浴場に一泊のキャンプをやってきました。ちょうど同じ年齢の子供もいてね、カニや貝やエビなんかも捕まえて大喜びしてましたわ。食事はジンギスカン。翌朝は隣のテントからお裾の牛肉処理のためにビールでシチューつくったらこれまたうまかった。甥っ子ははしゃぎ疲れで帰ってくる車の中ではもちろん爆睡。私は茹でガニみたいに日焼けで真っ赤です。いま体が火照って起きだしてきたところ。庭のキュウリをすりおろしてヘチマコロンの代わりに顔や体に塗ったくったところっす。これ、けっこう効きますよ。

さて本日は小泉解散の日ですか。
わたしが小泉だったら解散はしないと思うんだけどね。

解散総選挙って、総理が信念の正否を問うものだけど、解散総選挙になって、「小泉の信念やよし」とする者がどういう投票行動に出れば「よし」ということになるのか、それがまったくわからないでしょ、今回。
小泉支持だから自民党に入れる? それは郵政法案をつぶしたところへのミソも糞も(失礼)いっしょの投票行動ですよね。たとえ亀井一派が新党を作って戦うと言っても、当選後は自民党に戻るって言ってるんだから同じこと。

つまり、解散総選挙をしたって小泉支持、郵政民営化賛成の意思の表明のしようがないわけですよ。そんな選挙なんて、小泉にとってはやるだけおかしい。それでもとにかく選挙ではぜったいに自民党批判票が増えるでしょ。そうすれば、結局は自民党敗北=下野の責任も小泉が自分で取ることになってしまう。 おかしいやな、そりゃ。

そんな損な役回りを彼がやるかなあ。 森は「変人以上だ」って言ったらしいが、それとは別の意味で、総選挙をやるってのは「変人以上」ですわね。

わたしなら辞職しますね、総理も総裁も。「いつも言ってたでしょ、総理総裁の職に恋々としないって。私の腹を、わかってなかったんだなあ、みなさん」とか言ってさ。

そんで次の総裁総理が自民党から出てくるわけですよ。
すると支持率15%ですよ。
するとそこでこそ総選挙だ。
そうやって下駄を預けてから、自民は総選挙敗北ですよ。小泉を辞めさせた党ですからね。ここで初めて郵政民営化賛成、小泉支持の投票行動が現れる、表し得るわけでね、結果、その敗北の責任を自分とは別物になった自民党に取らせることになるわけですよ。
そんでもって、郵政民営化公約毀損の鬱憤を、もう1つのかねてからの公約、「自民党をぶっ壊す」の成就で晴らすんだなあ。

そんなこと、どこの新聞も書いてないが、そういうシナリオ、あるんじゃないですかね。ま、あと十数時間でわかることですが。

June 02, 2005

傭兵、反日、第9条

 こちらに帰ってくる間際、イラクで負傷・拉致されたという齋藤昭彦さん(44)が死亡したという情報が流れました。それ以後、その話はどうなったのでしょう。日本政府は、齋藤さんのような存在に対してどういう立場を取るのでしょう。それとも、死んだままで終わりなのでしょうか。ここまで届くニュースにはそのへんのことはまったく触れられていません。

 やまぬばかりかいまもなお激化する自爆テロに、イラクでは米英軍も自兵の犠牲者を出してはならじと、自軍を第三国の傭兵部隊に守らせるというなんとも倒錯的なやり方を採用しはじめました。英国系“警備”会社の齋藤さんはそんな中で襲撃され拉致されたのです。

 日本では齋藤さんを「ボスニアでも活躍した傭兵」「フランス外人部隊にも所属」と、なんだか奇妙に思い入れがあるような、あるいは“超法規的”な存在への興味を拭えないような伝え方をしていました。
 「警備会社」に勤務の「警備員」といいますが、戦時における、しかも前線における警備員とはあるしゅの兵力に他なりません。それを「傭兵」と呼びます。
 しかし「傭兵」というのは国際法上では不法な存在なのです。戦争とは国家間にのみ存在し、その国家の正規軍のみが武力の行使権を有します。相手が撃ってきたときに撃ち返す正当防衛はだれにも認められますが、傭兵は私兵であり、人を殺せばテロリストと同じであって超法規的な存在ではない。傭兵が作戦行動として相手を殺害したらこれは殺人罪が適用されます。傭兵に法的な後ろ盾はありません。ジュネーブ条約で認められる「捕虜となる権利」も持っていません。ただ現実として、戦争の混乱の中で罪の有無がうやむやにされるというだけのことなのです。

 いやそれよりもなによりも「戦争の放棄」を謳う憲法を持つ国の国民として、齋藤さんは二重の意味で私たちとは異なる。もし彼がいまも日本国籍を持つ日本国民だとしたら(それは確認されています)、齋藤さんは日本憲法にも国際法にとっても「背反者」なのです。はたしてその認識が、私たちにあるのかどうか。彼には、ぜひ生きて還ってきてほしかった。そしてその特異な存在の、この世界でのありようを、ぜひわたしたち日本人に突き付けてほしかった。そこで明らかになる「日本」と齋藤さんとのねじれを、わたしたちの次の思索のモメンタムにしたかったのですが、政府も、報道も、そのへんについてはすでに終わったものとして扱っているような感じです。
             *
 ところで、アメリカの軍隊もじつは傭兵みたいなものだという意見があります。裕福な白人層はもう従軍などせず、米軍ではイラク開戦前は黒人が24%を占めていました。イラクでの犠牲者が増えるにつれ現在ではそれが14%にまで落ちていますが、ブッシュ政権はボーナスや傷痍金・死亡手当の増額など、金銭的報奨によって兵員志願を“買おう”としているというわけです。
 米国籍を持っていない者でも米軍には入れます。少しは国籍取得に有利になるのでは、という不法移民の心理にも働きかける策ですが、正規軍とはいえ、これでは傭兵「外人部隊」と同じでしょう。さらにテレビで連日放送される新兵募集のCMでは、教育を受けていない若い白人らも取り込もうと「軍で教育が受けられる」「資格が取れる」などの利点を強調します。しかしこうした“未熟”な米軍の存在がまた“プロ”の傭兵の新たな必要性を生むわけで、これらはもう戦争というものの構造的などうしようもなさの連環のような気さえします。
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 国連安保理の常任理事国入りを目指す日本に、お隣り中国・韓国の「反日」「抗日」の気運が根強かったのも日本で感じたことでした。
 直接の理由は小泉さんの靖国参拝と竹島領有などに関する教科書記述問題でした。それが第二次大戦中の話にまで及び、日本への警戒心までがまたぞろ出てきていました。そんなものはもちろんなんの根拠もない(はずな)のですが、そのときの日本側の“釈明”がどうも小手先のものに見えて仕方がありませんでした。

 私たちは戦後60年、「平和国家」としてやってきました。先ほども書きましたが世界でゆいいつ「戦争の放棄」を謳う憲法を持ち、60年ずっといちおうは平和外交を展開してきました。それは中国と韓国を説得するときの最も本質的な論理なのだと私には思われます。

 もっとも、それは軍事活動をとらざるを得ないことのある国連の安保理常任理事国に入る資格としてはそれは矛盾になりますが、しかし中韓を説得するときになぜ誰ひとりとして現存の憲法9条を持ち出さないのか、私にはどうしてもわかりませんでした。自民党は憲法9条に恥じるような、あるいは憲法9条を恥じるようなことしかしてこなかったからでしょうか。
 きっとそうなのでしょう。

 現代の傭兵の発祥は中世のフランスです。齋藤さんに対してと同じく、私はこの日本政府にも中世へと逆戻りするような愚かしき勇ましさを感じます。いや、それよりなにより、憲法違反としてこちらも訴追の対象ですらあるのではないかとさえ思っています。

May 06, 2005

何が見苦しいかといって

いつも言ってることなんですが、「寄ってたかって」というのがいちばん見苦しい。

JR西の、事故車両から離れてさっさと仕事場に行ってしまったという社員2人にしても、そりゃ「あんな大惨事でその場で助けなきゃ人間じゃない」というひとの意見はもちろん分ります。そういうことを、その現場で駆けつけて救助作業を手伝った多くの近隣住民が呆れ顔で口にするのはまったくもってそのとおりだし、たしかにそういうことを言ってほしい、よくぞ言ってくれた、というふうに思いもします。

が、同時に、すくなからず自分も車内で衝撃を受けて転がっちゃったりした“被害者”ならば気が動転していて、さらには脱線衝突車両からはやや離れていた車両だったらば、ショック状態のままそこからのこのこと現場に割り入っていくのだってなかなか大変だと思うのです。しかも「上司の指示」もあって出勤、というお墨付きももらって、人間心理としてはそっちの楽な方に向かっちゃったのは分らないでもない。ぱっと判断してぱっと行動できるのは、事故の当事者ではなく横で一部始終を客観的に見ていた者たちだからです。当事者は、なかなかそうはいかない。それでもできるひとは、それは美談の対象になるでしょ? たとえば怪我をしていながらもその場で必死に他の人を救助していたJR社員がいたとしたら、TVはこれを絶対に美談で取り上げますよ。「あたりまえの話」ではなく伝えるはずです。あるいは「当たり前と言われれば当たり前だが、そういうときというのは気が動転していてなかなかそうはとっさにできないですよね」というふうに。

ホリエモンが「どうせ物語を作るんでしょ、ぼくは物語なんかありませんよ」とそういうニュースの取り上げ方を拒否したり否定していたりしましたが、彼が言っていたのはそういうことです。新聞もテレビも、ニュースをたしかになんでも物語として伝えたがる傾向がある。というか宿命なんだな、それは。

そのときにあるのは、安っぽい物語か、そうじゃないか、です。かつて現場にいた人間としては、安っぽい物語は極力排除したい。安っぽくしかならないときは物語性をあらかじめ放棄すべきなんですよ。

だから、あれはああも何度もテレビやなんかで「乗り合わせていたにもかかわらずそのまま出社した」とかと非難がましく言わなくたっていいじゃないの、って思います。伝えるのは重要ですが、しかし、それは一回か二回の報道で事足ります。それを、鬼の首でもとったみたいにその話題になると何度も何度も呆れたふうに繰り返す原稿を書くニュースデスクは、なんともチープで浅ましくなくないですか。

こういう非難がましさは、JR西の「遅刻→懲戒→再教育」とまったく同じなメディアのいじめ体質です。そりゃ呆れる話だが、アナウンサー、あんたに代わって呆れてもらわなくたっていいんだよって感じになりません? 呆れるのは私にまかしてほしい。ニュースを読む連中にその呆れを先取りしていただかなくて結構。そのくらいは自分でできます、って感じに。

それはボウリング大会にもいえます。
こっちはもっとたしかにひどい。しかし、それにしたって報道は一報と続報、そして調査報道の3回でじゅうぶん。いちいち「こともあろうに」とか「そればかりでなく」とか、そういうふうに主観を交えてさも憎らしげに視聴者をあおるのはいかがなものか、フジTV。「さらに明らかになりました」とかというのはたしかに続報の範囲内ですが、ボウリングの二次会に出ていた人数がもうちょっと多かったからと言って、だからなんだというんでしょう。呆れた、怒った、もっと叱りつけてやれ、ってことですか?

みなさんそうやってすぐに簡単なところで悪者を作って発奮して叱りつける、いじめる。

もっと大人になりましょうよ、報道現場にいる人たちも、デスクにいる人たちも。
視聴者だって大衆だって、あおられるのが好きな人たちばかりではないでしょう。
ここで報道が問題とすべきは、JR西の企業・組織としての危機管理の甘さと、その職員たち個人の危機対処の訓練・指導の甘さです。それは組織構造上の欠陥かもしれないし、個々の士気や誇りの低下の問題かもしれません。それは叱るべきことではありますが、いつまでもぎゃーぎゃーと叱り続けるべきことではありません。

キリキリ絞めつけたって、効果を持つのは最初の段階だけです。そこで止めるべきなのです。それ以上続けたら、結果はなんらプラスには働かないどころか、限界を超えるとゴムが切れるみたいにこんなふうな事故を起こすことにつながったりもするのです。そのふたつはまったく同じなんだもの。

そんでね、じつをいうとさ、そうやって煽るような人ほど、じつは同じような状況になったときに事故現場をそそくさと立ち去って我関せずで出勤するような人たちなんですよね。ちゃっかりボウリング大会に行っちゃってたりするタイプのひとなんですよ。

みんな、そんなに怒りたいのかしらね。いやそんなことはない。怒っていたらとっくに政府は倒れているだろうはずだし銀行や証券会社はもっとまともになってるはずだ。
そうじゃなくて、だれかを叱りつけたいんだな。だれかを人身御供にしたいんだ。政府や銀行はなかなか叱りつけ方が難しい。しかし適当な個人を見つけ出して怒鳴りつけるのは簡単です。それはたしかにインスタントなストレスの発散法です。だが、問題の解決法ではまったくない。

90秒の遅れを認めなかったのは、JR西の社長ではなく、そういういい加減さ=よい加減さのありようを見極められないで人身御供がいさえすればすぐにキリキリ絞めつけ上げるばかりの(日本社会に多く見られる)人たちなんではないでしょうか。だって、90秒の遅れは認められないくせに何年待ってもちっとも増えない銀行利子とかにはぜんぜん余裕で待ち続けられるんですからね。まあ、みんなの責任だなどと、一億総懺悔=責任の一億総拡散化みたいなことは言いませんが、背景認識としては必要かもしれない、程度で。

いずれにしても、呆れ顔で将来的な展望もなくただただ怒鳴りつけたり叱りつけたりするのは、まともな人間のすることじゃありません。それが「寄ってたかって」ならもう、なにをかいわんや、です。

May 03, 2005

せまい日本、そんなに急いで

 じつはいまでも列車の先頭車両のいちばん前に立って迫り来る景色を見ているのが好きなんですが、だけど鉄道の運転士に憧れたことはなかった。あの「指差確認」というのがすごくいやだったんですね。子供のころ、初めてそれを見たとき「このひと、変な独り言をいってる」と思って窓の景色そっちのけでじっと観察してしまった。日本ではタクシーの運転手さんでもそうやって声を出しながら指差確認をしているひともときどきいて、それもなんか苦手なんだなあ。

 まあ、それもこれももちろんじゅうぶんに有効性の確かめられた安全対策なので好き嫌いの問題じゃあないんですけどね。そんなことでもしないと安全が確保されないような、高度に複雑な交通システムの中で私たちは暮らしているということですから。

 もっとも、ニューヨークにいると地下鉄もバスも、郊外列車のハーレムラインとか長距離のアムトラックまで、大げさにいえば時刻表どおりに動いたためしがなく、いや地下鉄なんぞはそもそも時刻表自体があるのかどうかも疑わしいと思ってしまいます。ホームのどこにもそんなもの見当たりませんしね。

 もちろん地下鉄にだって内部的にはちゃんと運行表があるそうです(そりゃそうだ、なきゃ走れるもんじゃない)。でも後ろが詰まれば前の列車は勝手に駅を飛ばして“急行”になっちゃうし、グランドセントラルでもペンステーションでも列車が到着した順番にホームを割り当てるもんだから毎日つねに発車番線が違っていて、最初はずいぶん戸惑います。保線状況だって惨たんたるもので、線路は波打っているし揺れはひどいし、ATSなどという上等なものもありません。

 そんな鉄道事情の国ですから、NYタイムズも尼崎のJR事故には解説を付けることを忘れませんでした。いわく「日本の列車は通常かくも正確な時刻表どおりの運行をしているので、乗客はとても複雑な旅程をウェブサイトで組むこともできるほどだ。遅れというものがないから乗り換えでミスをするということもないと知っている」と。時刻表の知識を駆使する鉄道ミステリーという推理小説の一分野は、脈々と培われた鉄道への信頼によって成立している、アメリカでは存在し得ない分野なんです。

 そんなハイスタンダードを維持するために、日本では人間ならばだれでもがもつような詰めの甘さを、極限まで排除する指差確認のようなシステムまで導入して事故を防いできたんだなあと思います。あの指差確認って、じつはすごく画期的なものだったんじゃないだろうか。いったい、だれが考えたんでしょうね。オリジナルって、なんだったんだろ?

 一方、お寒い環境ながら曲がりなりにもこれまで「大惨事」というような事故を起こさずに日々ニューヨークの地下鉄が走ってこれたのは逆に、「遅れるのが普通さ」という、人間の持ついい加減さのおかげだったような気がします。ここの地下鉄は開通が1904年ですから、もう100年を越えました。たしか線路の総延長が世界でも1、2の巨大システムじゃなかったっけかなあ。これを維持するのは、前述したようにとにかくその場その場で運行の仕方が変わるんですから、かっこよくいえば「臨機応変」、まあ実際は「その場しのぎ」。というか、まずはあんまり高度に複雑にしない、という基本姿勢なのかもしれませんね。尼崎事故のように、90秒の遅れを取り戻すために疾駆するNYの地下鉄だなんて、考えるだに恐ろしい。

 JR西の23歳の運転士に宿った時速108kmの焦りは、いい加減さをゆるさない会社の、ひいては世間のプレッシャーを反映していたのかもしれません。90秒の遅れは、そうしてついに到着を果たせない永遠の遅れになった。

 犠牲になられた方々、怪我を負われた方々に心からのお悔やみ、お見舞いを申し上げます。

April 07, 2005

会社は誰のもの?

 しかし、堀江さんもずいぶんと嫌われたもんです。フジもソフトバンク陣営を持ってくるとはえげつないことやりますわなというのが第一印象でしたが。ライブドアとフジTVの攻防戦はどこまで続くのでしょう。ソフトバンクもライブドアも、そう変わらんでしょうにね。

 まあ傍目で見ている分には面白いのですが、フジやニッポン放送にはじつは友人も何人かいて、あまり軽々しくはいえないのです。ただ、私の友人たちが一様に示す堀江社長への不快感ってものの一因は、「株式会社は商法上は株主のものですから」と言ってのけたこと(に如実に表れているマネーゲーム感覚)にもあるようです。

 そう言われて私なんぞは「ふうむ、そういえばそうだったかな」とあらためて気づかされた口ですが、でもいまのこの巨大企業、巨大資本の時代、あながちそうとも言い切れないのではないかと思い直しているのです。

 株式会社はたしかあの東インド会社あたりを起源としています。つまり金持ちたちが資金を出し合って船を用意し、さらに船員を契約で雇って東インド(インドネシア)から香辛料などを運ぶ航海を企画する。そして結果として儲かった金を元々の出資者同士で配分するのです。そのうちにこの出資と航海と利益分配の図式が恒常的組織になった。それが会社であり、そう考えるとたしかに会社は出資者(株主)のものです。

 ただ、そう言い切られるとなんだかさみしい。つまりは社員なんてみんな契約社員ってことで、その都度の仕事が終われば解約されてもしょうがないシステム。出資者の金儲けのために必要な道具、というわけです。でも、これって17世紀のオリジナルでしょう? 歴史とともに社会も経済も成熟してきて、いまは違う意味合いを持っていなくちゃおかしいはずですよね。

 日本ではそれが終身雇用制みたいな(これは成文化なんかされていないけど)慣例として育ってきて、会社とは社員全員が創り上げているもの、というような感覚になっていました。株主なんか、どこか「自分たちの毎日の業務を儲けのタネにしているだけのやつら」みたいな感覚だってなきにしもあらず。だから社長なんてほんとうは株主が決めるものなのですが、社長は社員というか取締役会が、あるいはつまりいまの社長が次の社長を決める、というような状態が続いているのですね。そういうところから、「愛社精神」などという英語はありませんが、日本ではずいぶんとそれを育まされてきました。「会社のため」という文言も何度も聞いてきました。それもこれもひとえに「会社は働いている私たちすべてのもの」という、商法にもどこにも保証されていない幻想に基づいていたのです。

 逆にさっきもいったように、そういう会社本位制、社員本位制のようなニッポン株式会社では株主の存在があまりにも軽んじられていたという弊害があります。バブル崩壊で企業不祥事が一気に表面化したことも、あまりにも閉鎖的に社内のみで経営を処理してきたことの結果でした。社外、つまり出資者や社会全体への責任を明らかにせず、せっせせっせと社内的な保身に奔走する。そうしてどうにか定年までを乗り切る、そしておさらば、というわけです。そういうところから総会屋などという、外国では存在し得ないおかしな職業までが幅を利かせている始末なのです。

 株主が弱いと取締役会へのチェックが機能しません。もっとも、株主が強いといわれる米国でもエンロンのとんでもない粉飾決済事件があり、しかもアーサー・アンダーセンという米国最大手の会計事務所まで粉飾に関与していたとわかってからは、いったいどうなっているのと唖然としました。ストックオプションの利便性を悪用して八百長で株価をつり上げたりするなど、これもどうしてどうして、マネーゲームのうまみを利用したじつに現代的な犯罪でした。堤義明もとんでもないですけれど、こっちのエンロンのかんぺきな犯意に基づく犯罪に比べると、なんだかエンロンのCEOは居直り強盗だけど堤は電車の中の痴漢みたいなちまちました感さえしますね。

 さて、そんなふうにここまで企業が大きくなってしまうと、それはすでにあるひとつの利益カテゴリーの単なる所有物ではなくなるのではないか。それが最近よく耳にする「ステークホルダー(stakeholder)」の概念なのでしょう。

 つまり会社は、株主や従業員だけではなく消費者や地域住民などすべての利害関係者のものという、準公的な存在なのだ、ということです。そうでなければ不正や害悪を垂れ流したときの損害があまりにも大きくなってしまいます。そうやって四方八方から相互監視しつつ利益を配分・還元していくことこそが、これからの企業に求められていることなのだというわけです。

 でも、べつにこれはまたまた、成文化した「商法」なんかに取り決められているものではなくて、あるひとつの考え方に過ぎません。それでもアメリカでは、単なる一例ですが、大企業を中心にドメスティックパートナー制度を認めてLGBTの社員にも平等な福利厚生を与えたりしている。義務なんかじゃないのに、です。これって優秀な人材を確保するためでもありますがそれだけでの意味ではもちろんなく、地域や社会への責任ということなのでしょう。というか、利益を確保するためにはそうした寛容で公正な企業イメージが必要、という“しがらみ”機能でもあって、社会とか経済の活動分野ではおうおうにしてその種の共同幻想が法より先に機能したりするのですね。

 堀江さんには私はかねてから経営者としての手腕などは期待していなくて、既成のものを引っ掻き回していろんなことを私たちに気づかせてくれる、それがありがたいと思っています。今回も、「会社は株主のものだ」と言いのけて私たちにそんなことを気づかせてくれたかれのトリックスターとしての力は、じつにまったく捨て難いなあと思った次第です。

 でも、最近のかれ、TVニュースの画像でしか知りませんが、なんか顔が妙に脂ぎっていませんか? 東京はもうずいぶん暑いみたいですけど。

April 06, 2005

マンデート難民の取り扱い変更か?

朝日ウェッブ版に次の記事を見つけました。

*****
国連認定難民は強制収容せず 法務省が新方針

2005年04月07日00時05分

 法務省は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民と認定された外国人(マンデート難民)について、今後は原則として強制収容せず、在留特別許可を柔軟に与えていく方針を決めた。同省はこれまで「UNHCRの認定基準は、国が批准した難民条約と目的や対象が異なり、一律に扱えない」として本国へ強制送還するなどして、国際的な批判を浴びていた。

 関係者によると、国内には約25人のマンデート難民がいるが、03年ごろからは国連も新たなマンデート難民認定を日本ではしておらず、取り残された形だ。同省は、こうしたケースに一定の理解を示す一方、UNHCRにも他国への定住あっせんなどの努力を求め、問題解決をねらう。

 マンデート難民をめぐっては、今年1月、UNHCRが認定したクルド人アハメッド・カザンキランさん親子を政府がトルコへ強制送還。UNHCRや国際的な人権団体・アムネスティ・インターナショナルから「国際法の原則に反する」などと抗議を受けていた。

 このため法務省は対応を検討。難民認定の基準は変えないが、国連側との情報交換を増やすことで「新たな事実が判明したり、くむべき事情が明らかになったりした場合」などには、在留特別許可を与えることにした。

 また、難民認定をめぐる訴訟などで国側が勝った場合も強制退去とはせず、UNHCRと協力し、安全な第三国への定住をはかる。

*****

さて、「今後は」とありますが、これがはたしていつからの話なのか、シェイダさんは該当するのか、とても気になるところです。近々に支援グループからも報告があると思います。

それにしても1月にトルコに強制送還されたクルド人父子、その後、どうなっているのでしょうか。追跡調査はしているのでしょうか。ひょっとしたら外務省、法務省の追跡調査で収監されたとわかって急きょこの取り扱い変更に結びついたのでなければいいのですが。新聞各紙のトルコのカバーはどこの海外支局がやっているのかなあ。ぜひ取材してほしいです。

March 30, 2005

北尾さん

しかし、北尾さんも、堀江氏に負けずに若いなあ。
「堀江さんも、わたしを敵に回すと大変だよ。わたしはタフだよ」なんて、いうもんじゃないよ、その年で。あんたが難物なのはみんな知ってるんだからさあ。ダメ押しを言うなんてかっこ悪いことこの上ない。なんでそんな見栄を切らなければならないかなあ。歌舞伎役者か、あんたは。

急に、安いなあ。わたしの中では、北尾さん、このメディアの露出で100段くらい下がっちゃった。おまえも所詮その程度のスノッブかよ。だいたい、テレビインタビューでソファに反っくり返るなよなあ。演出しろよ、そのくらい。反っくり返っていいのは美空ひばりとかマーロン・ブランドーくらいです。ともに故人ですが。

ダンディズムって、けっこう難しいんですよね。

堀江氏も、最近は本来のトリックスターの位置づけから離れちゃって、まるでメインストリームの人になりたがっているという部分が状況的に大きくなってきて、それじゃぜんぜん面白くなくなってきています。トリックスターは負けるの。負けて社会を変えるのです。そういう気構えがないと、歴史に名を残せません。ま、べつに名を残さなくたっていいんですけど。しょせんは彼も乗っ取り屋のマネーゲーム野郎なんでしょうか。ただ、彼の場合はダンディズムなんて期待すらしないですけどね。

February 27, 2005

ホリエモン理論

ホリエモンに関する、とってもよいテキストを見つけました。
例の江川紹子さんのインタビューです。
これ読むと、じつによくわかります。

http://www.egawashoko.com/c006/000119.html

ホリエモン、頭いいし、思い切りもとてもいいけど、ある境界線を通り越すと、というか、あるジャンルからはずれると、「ぼくには興味ない」って思考停止するんですね。というか、そこを突き詰めていくと、ホリエモン理論が崩れる。そしてそこを突き詰める人があまりいないからホリエモン理論が成り立っていける。そういうところに立脚しているんだな。じつはそこを突き詰めることこそが肝心の(面白い)論点なのですが。

数学(経済ニュース)と文学(社会ニュース)の違うところ、それはね、数字はストーリーを記述するだけで作ることをしないが、文字はアプリオリにストーリーを探り求めて次の文字とつながる、つまりストーリーを作り出しながら自己増殖するということなんだ。したがって、彼のいう「市民ニュース記者」を使ったって、文字のあるところにはストーリー(ホリエモンの言うところの恣意性、虚構)が生まれるということ。物語の呪縛から抜け出せないんですよ。それは紙媒体だって、インターネットという媒体だって、言語を思考メディアにしている限りまったく同じなんだ。

そのときにさ、要はどの虚構が現実に拮抗できるだけの結構を持っているかということが問われるんですよね。そこを突き詰めると、かれの「ニュースランキング」構想は破綻します。破綻するから、彼は「どうでもいいっすよ」と言うしかない。

彼はこういいます。「事実を書きながら、そこに思いを込めることが可能じゃないですか。新聞って、みんなそうなんですよ。それって、思い上がりじゃないのっていうことです。」

つまりこれは、新聞だけの話ではないんですよ。文章ってみんなそうなんだ。日記だってそう。そういうの、文学の世界でもなんでも、もう言い尽くされていることで、だから脱構築とか言ってきたわけです。モダンという意味に満ちた世界からポストモダンへと抜けようとしたわけでしょ? ま、脱構築というのもまた、新たなストーリーを(しかし意味の存在に自意識的に)作る行為だ、ということを知りつつね。バルトの言った「零度のエクリチュール」ってのもその模索なんだ。その辺のこと、ホリエモン、知らないと思います。知る必要ない。というか、知ったら、言えなくなるから、あえて、知らなくていいんだって言っているんだろうね。その辺の、感覚、というか、見え方、あるていど、彼、持っているんでしょうね。先を見る目はけっこう鋭い。変なにおいがしたらそこには触れない。ふふ。

てらいとかウソとかって、でも、彼、ないですね。その辺もすごいと思う。背伸びはあるけど、かなり正直で、その正直さもお金の論理という単純さに支えられた若き自信の為せる技なのかもしれません。

彼はやはり当代きっての、というか、当代であるがゆえの、たぐいまれなるトリックスターですよ。この彼を楽しまない手はない。宮沢喜一みたいな引退じいさんはなんか嬉々として楽しがって堀江コメントしてるようですが、そういうのを現役の経済人、政治人がやらないとなあ。 もっと楽しまなくちゃもったいないですよ。

ハイゼンベルクの「不確定性原理」じゃないけど、わたし、この人のおかげでいままでどの位置にあるか不確定だった人々の位置が急に観測できるようになって、とても面白いです。

友だちになりたいかどうかっていう話は、またぜんぜん別ですけどね。

February 24, 2005

片腹痛し

ロイター電で、

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が22日に出版された自身の新刊の中で、同性婚は「新たな悪魔の思想」の一端であり、知らぬ間に社会を脅かしているとの見方を示した。同著では、同性婚以外にも中絶などの社会問題に触れ、20世紀に行われたユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する「合法的根絶行為」と言明。

なんて伝えられていて、まったく、病膏肓に入るとはこのことだと思いました次第。

ローマカトリックは、第二次大戦中、もちろんナチを支持していました。時のローマ法王はピウス12世です。ユダヤ人はカトリックの慈悲を受けない。彼はそう考えていた。同時にあの時代、LGBTたちはそのユダヤ人同様、ヴァチカンの戦況報告室で冷血に画策される虐殺の犠牲者だったわけでもあります。ピウスとは、ニュルンベルクが見逃した戦争犯罪人の名前なのです。

ローマンカトリックがそのことを謝罪したのはつい最近、1997年のことです。それまで頬っかむりをしてきた。それがどうでしょう、ピウスに連なるいまのヨハネ・パウロが、「ユダヤ人などに対する撲滅行為にも匹敵する」などとあたかも100年前からユダヤ人撲滅行為に反対していたかのような口ぶりでしれっとあらたな撲滅行為に加担する。歴史は繰り返す、というのは愚かしい彼のためにあるような成句です。恥を知っているなら、ふつうはそんな比喩は恐れ多くて口が腐ってもいえない。

かたはらいたし、とはこのことです。

いったい、この頑迷なる善意というのは、何に起因しているのでしょう。
こういうのは悪意より始末に悪い。

***
さらに再び

asahi.comから
***
 フジテレビジョンの村上光一社長は24日の定例記者会見で、ライブドアによるニッポン放送株の取得を巡る他の民放各局の報道について「あまりにも、ちょっと狂騒曲的。ニュースはただおもしろおかしくやればいいのではない」と批判した。もっともフジ自身が娯楽路線をとってきただけに「自省を込めて」とも前置きした。
 村上社長は「(他の民放の)報道番組を見ていると、あまりにもちゃらちゃらして『えーっ』と思う例が頻発していた。いかがなものか。(ライブドアに)テレビは公共の電波だと言っている時期だからこそ、きちっとやらなければいけない」と強調した。
***

おいおい、ニュース番組のタイトルからかつて「ニュース」という単語を外してみせたのはどこの局だったっけ? ニュースに効果音入れたりオドロオドロしい音楽をかぶせて視聴率稼ごうとしたのはどこの局だよ。声優使ってドラマ仕立てで報道して視聴者の劣情をあおってきたのはどこのどなたさまですかってんだ。

フジテレビが「公共の電波」っていうのは、日テレが「公共の電波少年」っていうくらいにコントラディクションじゃあありませんかえ? どの口からそんな言葉が出てくるんだろ。まったく、社長ってのはどこまで厚顔にならんとできないもんなのか。この世で一番恥ずかしいことは、恥を知らないということなのだ。

ふむ、「デイリー・ブルシット」のブルシット叩きらしくなってきましたな。

しかし、わたしは罵詈雑言がかなりきつい、ということをある人から指摘された。
叩くときは、けっこう、完膚なきまでに言葉を連ねる、しかも、かなり強烈なグサグサの感じがするらしい。

先日の「怠けもん」発言も、けっこう、本来の標的とは別のところでグサグサ刺された感じがするという人がいるようだし、そういえばその昔、金原ひとみの「蛇にピアス」を叩きのめしたら、思いもかけぬ方向にいたぼせくんから「そういう言い方はない」的な叱責をいただいた。こちとら、ゲイの視点からあえてだれも触れないでいる蛇ピアのぬぐい去り難いホモフォビアを指摘しただけだと思っていたんだが。反省。

悪口は自分に返ってくる、って、なんてったっけ? なんか、成句があったような気がするけど。

くわばらくわばら。

February 14, 2005

蛇足─アメリカ文化、日本文化

(先に02/05、02/12を読んでね。その続きなのだ)

さて、そうやって考えていくと、日米あるいは日欧米間の方法論の相違というのは、つまりは「怠け心」を奮起させて、やっぱやんなきゃだめかなあ、って思わせるための方法論の違いなんですね。「運動でなにをやるか、どうやるか」ではなく、もっと基本の基本、スタート地点に立つための方法論、あるいは立たせるための方法論の違い。

「運動」っていう言葉自体、翻訳語、翻訳概念ですからして「運動」そのものってのはそもそも端からすでに欧米型なんであって。ただしそれはちょっとしたアレンジやアイディアで日本“的”に持っていくことは可能だし、現にそういうふうなことはけっこう成功してもきた。日本文化って大陸や半島の影響を受けていたころからそうでしたから。

さて、そこでただし問題は、その「運動」なり「ムーヴメント」に到達する以前の、「怠けないでコミットしようよ」っていうことを、どう折伏するか、どう納得させるか、どう奮起させるか、ということなのでしょう。そこを、アメリカとかではキリスト教なり聖書の倫理観なり、あるいは社会契約みたいなものといった共通意識で一気にピョ〜ンと越えることも可能なんだけれど、そのような共通意識が(幸か不幸か)希薄ないまの日本の社会では、まずそこから始めなくてはならない。その大きなひと手間、それが苦労の原因の1つなんだなあ、ということなのです。そうしてそれこそが「日本的」の意味するところなのだということです。 そんな共通意識の、決定的な不在。

そこをはっきりさせるために「怠けもん」というキーワードは必要なのではないかと思うわけでした。

「アメリカアメリカアメリカアメリカ」ってみんな一言でいってますけど、知ってのとおりいろんなアメリカがあって、最近はブッシュの体現するようなアメリカを指すことが多いけどさ、ゲイプライドを成功させるようなアメリカ、同性婚を木で鼻をくくったように議論にも乗せたくないアメリカ、それに涙を流して抗議しようとする人たちのアメリカもあるでしょ。そうした種々様々な人間かつ社会のダイナミズムはどこから来ているのかなあ。

わたしはキリスト教なり宗教なりというのは唾棄したい人間ですが、だが、それを信じて慈善活動を続ける善意のアメリカ人というのはなかなか唾棄できない。たとえその善意がじつに恣意的な善意であったにしても、そのクリスチャニティーっていうものの実体性を、虚構性を含めて、その存在性を、日本の空洞部分に比較してよい意味でも悪い意味でもすげえもんだなあと思うのです。

底支え、というか、前回エントリーの「とー」さんのコメントで相応するものとしての「儒教・仏教的倫理観とか美意識」とかいう基盤部分が、そういうもんは共同幻想だと知っている上での知的なある人間社会の共通意識が、必要だなあって思うけど、まあ、共通意識ばかりが先走るとブッシュ・アメリカになっちまうわけで、そこをひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていくというのはかなり大切な作業なんだと一方で信じてもいるのですけど、さて、そこで最初にも言った「怠けもん」の原則がふたたびノソノソと顔を出し作用して、そういうものを「ひとつひとつ検証しながらその都度作り上げていく」ということなどしないもんだ、という堂々巡りになるわけなんですよね。で、そこで思考停止。だれかやるでしょう症候群の千年寝太郎。

まあ、かんたんにはっきり言ってしまうとね、あなたの思っているとおり、「この国、何か、すごく間違ってるわ」状態なんだなあ。

教育なんだよね。学校教育ばかりか、社会教育までもが慎太郎的空疎に煽動されていて、そこをどう変えていくか。それを変えればどんなところでも10年以内で変わるのだ。

February 12, 2005

補足─アメリカ文化、日本文化

2月5日の“「日本とアメリカは違う」という物言い”に関しての付け足しなんですけどね。「アメリカ式のゲイリブは日本では根付かないのではないか」という命題について、ずっとむかしから、まあ、そりゃそうだろうけど、でも、どこまではパクれて、どこらからパクれなくなるのかなとつらつら考えているうちに、和の文化だとか、論破と納得の文化の違いだとか、ディベートの論理だとか、そういう文化論って、どこまで本当なんだろうかなあって思い至ります。

けっきょく、人間って、ほぼ共通して、面倒くさいことはできればやりたくない、という意識を持ってるでしょ。怠けもんなんですね。それがキーなんじゃないか。

そういうの、日本の「文化」なんていう立派なもんじゃなくて、「雰囲気」みたいなものって、とどのつまり「怠けもん」ってことじゃないのか。国会も地方議会も、話すの面倒だから議論しないってだけじゃないのって。そんでいままでは怠けていてもどうにかうまくやってこれた。それは戦後のお父さんやお母さんたちが築き上げてくれたものを食い潰すことでやってきたんですね。

だから、初期設定としての怠けもんでもよかったの。蓄積された文化/社会資本があったから。

で、アメリカって何が違うかっていうと、「怠けてちゃダメ」っていう、なんていうんでしょう、嫌いな言葉だけど「倫理」ってのが共通認識としてある。そういう、アンチ「怠けもん」の論理って、日本にないんじゃないか? キリスト教もないですしね。

アメリカには議論で勝つのに3つの決め言葉があります。
It is not fair.  それは公平ではない
It is not justice.  それは正義ではない
It is not good for children.  それは将来の子供たちに禍根を残す

この三つをいわれると、相手は怒ります。そんなことはない、とかって反論します。犯罪人だってこの三つには逆らえない。言い訳はするけど。

対して、日本でこういう共通認識ってあるのかしら、と思うわけ。共通認識なんて、ろくなもんじゃねえ、という考え方もしっかりと知的に押さえつつ、それでもコミュニティとして力を維持していけるような共通認識。

私たちの“世代”というのは、大昔の高校生のときに「かっこいいってことは、なんてかっこわるいことなんだろう」とか、「きみは空を行け、ぼくは地を這う」だとか、「愛と友情の連帯」だとか、そういうフォークシンガーや漫画家たちの“名言”を倫理めいた教訓譚の代わりに肝に銘じたことがあったんだけど、もちろんそんなのは行き渡らないですわね。学生運動はそうして終焉した。

そんで現在、アメリカ型ゲイリブが方法論として日本ではうまく行かない理由は、「日本の私たちは怠けもんだから」ってだけの話じゃないんでしょうかって思うわけ。

文化論みたいな難しいこというけど、そんなご立派なものじゃなくてほんとはものすごく単純なことじゃないの? 社会へのコミットメントに関して、怠けていてなーんにも考えてこなかったし、考えるの面倒だと思っててもだいじょうぶだからなんじゃないですか? じゃあ、日本に合う運動って、つまりは怠けもんでもできるような運動とはどういうものがあり得るか、ってことではないのか?

ねえよ、そんなの。
そこで、アメリカ式は合わない、ってのは、単なる怠慢の言い訳なのではないか、って思っちゃったりするわけなのです。ま、もちろん違う要素もありますけどね。

「怠けもん」ってのは、それは固有で決定的な「文化」なんかじゃなくて、教育で6年あれば変えられることでもあると思います。明治の教養人は議論をしたし、大正リベラリズムなんて時代もあったんですから。

問題はさ、怠けないでコミットしましょうってことなんではないか。そんで、ブッシュみたいな単純なひどい側面が出てきたら困っちゃうけど、それこそそこで日本の「和」の文化がフェイルセーフの機能を果たしてくれるはずだと信じつつ。

February 07, 2005

ショーケンと堤義明

しかし、どう見ても微罪だな、こりゃ。警視庁も、こういうのはマスコミ受けをねらってやってるだけだ。お灸をすえてやる、みたいな、そういうもんですな。起訴まで行くのかしら?

それよりもなによりも、東京地検も警視庁も、どうして堤義明を逮捕しないんでしょうかね。
あれはどこからどう見てもインサイダー取引の証券取締法違反だけじゃなく、西武・コクドの特別背任、業務上横領、脱税等々、経済事犯のオンパレードです。アメリカなら即逮捕だな。なぜなら、これは経済の民主制度に対する大罪だからです。しかも堤の場合はあまりにもあからさまだし、あまりにも直接的な関与だ。なのに、検挙までにあまりにも時間がかかりすぎている。1カ月前に東京に行ったときにその辺を聞いたら、捜査に慎重を期している、ってな話だったが、経済事犯って、すぐに身柄を押さえないとどんどん書類なんか処分されちまうんだ。司法当局、何考えてんだか。

February 05, 2005

「過激派の判事が」

とまたブッシュ政権および保守派・宗教右翼連中が言いたてるんでしょうね。そうして第二次憲法修正運動のモメンタムに利用しようとする。しかし、そういう妨害・障壁はしょうがない。そうやりながらも進んで行かなくてはならないのだと思います。

というのは、NY州の地方裁判所が4日、5組の同性カップルが自分たちに結婚許可証を発行しないのは違憲だと訴えていた件で、この5組に結婚を認めないのは州憲法違反であるという判決を下したことを指します。

このパタンはすでにハワイでもマサチューセッツでもカリフォルニアでも行われたと同じもので、ニュース自体としてはあまり衝撃はないのかもしれません。しかし、ブッシュの第二期政権でも連邦憲法の修正を目指して結婚を異性間に限るとするという方針が示されての最初の司法判断として、さて、同性婚をめぐる攻防は再び仕切り直しで第2戦(?)あるいは、第3戦かもしれませんが、そういうところに入ったということでしょう。

さて、これが「過激派の判事」という、昨年、ブッシュの指弾した表現でなおも通じるのかどうか。
わたしは短期的にはこれは彼らの保守蒸気機関に石炭をくべるようなことにつながると思います。かっと赤い火がまた起ち上がるでしょう。

しかし、石炭はいつか消えます。その石炭をさっさと消費させなくてはならない。
カナダでは先日、連邦レベルでの同性婚認可の法案がやっと提出されました。ここでも最高裁の判断があってからの、1年以上たってのやっとの法案化です。
これは長期戦なのです。
    *
「日本とアメリカは違う」という物言いを、1980年代末の日本でのゲイムーブメントの最初からずっと聞いています。最初のころはまあそうだと思いました。当たり前の話です。
ただ、いまもそう言いつづけている人は、そういう世界の運動のモメンタムを自分の文化の中で取り入れる努力を怠っている、その言い訳としてしか聞こえていないのに気づいていないのでしょう。

日本とアメリカとは違います。それはあなたと私だって違う。
難しいことを言うと、それは対幻想と共同幻想というレベルと質の違いを含んだ対比ではありますが、そんなことは当然のことで、いまはとりたてて言挙げするほどのことでもないでしょう。私たちは靴を履き、服を着て、西洋便座に座り、ピザを食べています。その中からウォシュレットなんていう世紀の発明ができて、ピザにだってツナマヨなんていうものができている。

そのくせ、お寿司にアボカドが入っているとそんなものは寿司じゃないよね、なんていっている。それは、ゼノフォビアといいます。あるいは、自分たちの国や文化だけが特別だと思いたいことの反動による、他者への侮蔑です。

なにかをやるときには、差異を知りながらも同じことを見つめていなくてはならない。
そうしなければ仲間なんかできないし手をつなぐこともできません。
そろそろ欧米はね、違うんだよ、という、きいたような口はきかないほうがよい。かっこわるいでしょう。そんなのは言われなくともわかっているのですから。そういう輩は、じっさいは怠け者なのです。かまびすしくおしゃべりすることは得意でも、怠け者であることにかわりはありません。

January 26, 2005

インド洋大津波

 きのう銀行に小切手を入れに行って、自動振込機の初期画面がインド洋大津波の寄付金を呼びかける画像だったのに驚きました。

 インド洋大津波から今日で1カ月です。アメリカのテレビでは元大統領のブッシュ父と前大統領のクリントンとが2人仲良く並んで被災者支援の募金を呼びかける公共広告が流れています。いわく「起きたことは変えられません。しかし、これから起きることは(あなたの支援で)変えられます」。

 正月に日本に一時帰国していたのですが、同じアジアでの大災害にも関わらずこうした支援呼びかけはあまり目につきませんでした。中越地震の支援で目一杯だったからなのでしょうか。対してアメリカに帰ってみると、企業も芸能界もこぞってお金を出したり集めたりして遠いアジアの被災国に送ろうとしています。というか、その広報、プレゼンテーションの仕方がじつにうまいんですね。

 同じようなことを9・11のときにも感じました。あのテロの直後、米国企業のホームページは一斉に追悼を表したものに書き換えられましたが、米国内にある日系企業のホームページはまるでなにもなかったかのようにいつまでも“平時”の宣伝ページのままだったのです。企業広報というか、社会事象に対する対応の仕方がまるで鈍いのです。

 今回の大津波もそうです。これ聞こえよがしに「寄付をした」と吹聴はしていませんが、米国企業のウェッブサイトにはさりげなく自社の寄付実績が書き添えられ、同時に赤十字などへの寄付金の案内が書き加えられるようになりました。コカ・コーラは1000万ドル(10億円強)を寄付、同じくペプシコもインド、インドネシア、スリランカなどでボトル飲料水の無料配給など多大な寄付を行っているようです。アメリカン・エクスプレスは社員が100万ドルを集め、社としてもそれに同額の100万ドルを追加して計200万ドルを寄付しました。AOL、アマゾン、アップル・コンピュータ、ヤフーなどのホームページでもみんな義援金団体へのリンクが貼られ、テレビ各局も寄付を募る緊急番組をプライムタイムにCMなしで放送しました。ラジオもそうですね。クリア・チャンネルも全米1200局のラジオ網を使ってユニセフの広報キャンペーンに協力していました。

 ハリウッドの大物俳優たちや音楽家たちもノーギャラでそれに出演しては視聴者からの寄付金の電話を受け取ったりしているのです。NBCテレビですが、インド洋大津波の被災者救済のための募金2時間特番「ツナミ・エイド」をロサンゼルスのユニバーサルスタジオからCMなしで生中継しました。
 この番組にノーギャラで出演したのは音楽界からはマドンナやエルトン・ジョン、グラミー賞歌手のノラ・ジョーンズら。映画界からはお膝元とあってブラッド・ピット、レオナルド・ディカプリオ、マット・デイモン、ベン・アフレック、ニコラス・ケイジ、トム・セレック、ジェームズ・カーン、モーガン・フリーマンといったそうそうたる顔です。番組ではクリント・イーストウッドらが地震から津波発生までの過程や被災状況を報告し、数々の悲劇を言葉で再現しました。マドンナは犠牲者への哀悼を示して黒衣でジョン・レノンの「イマジン」を歌い上げ、ブラッド・ピットら多くのセレブは自ら電話オペレーターとなって視聴者からの寄付金の電話を受け付ける、といった演出です。

 じつは米国企業ではこうした“危機”あるいは“大事”に対処する部署が決まっていて、その場合にどうするかのマニュアルがシステムとして確立しています。このマニュアルは必要なものです。「まずいことをやらなかった」からよしとする消極的な対応は「よいこともしなかった」と同義であって、企業にとっては社会的怠慢と受け取られます。それはいまや減点の対象なのです。

 日本企業が、あるいは日本政府がいまひとつ世界にその存在感をアピールできないのは、こうした社会的責任へのアプローチを示すのに怠慢だからだと思えてなりません。やっと大企業が動き出していますが、おかしなことになんだかそろってついこのあいだ、1月24日付けでHPを書き換えているところが多い。はて、談合でもあったのかしらん。

 NHKで辞職なさるエラいさんの退職金が1億円だとかそれ以上だとか言われていますが、全部とはいわないけれど半分くらいポンとそれを寄付したりしたら、ずいぶんと汚名返上になるでしょうにね。

October 26, 2004

日本が大変だ

こちらの大統領選挙のことばかり考えていたら、日本では台風に続いて新潟が大変なことになっています。ニューヨークにいると限られた情報しか入りませんが、知り合いの新聞記者たちの携帯にかけてもきっと新潟に行っているんでしょう、なかなかつながりません。

そんな中で、こちらの日本語放送で西武の優勝騒ぎが週明けの昨夜、スポーツニュースで流れていました。十数年ぶりの優勝はそれは“お祭り”騒ぎでしょうが、でも、どうして所沢から200キロ、祝賀会の名古屋からだって400キロしか離れていない土地で寒さと疲労に震えている10万人という人がいるのに、ああいうふうになんの思いも持たずにビールを掛け合えるのか、いや、せめて、せめてです、今夜は乾杯で静かに勝利を噛みしめよう、という人がいなかったのか。ま、いたのかもしれませんね。しかしそれもスポーツ乗りとでもいうのでしょうか、そういう勢いになきに等しかったのかもしれない。

でも、敢えていわせてもらうなら、あれは「西武」です。いま、世間で反社会的な株式売買で非難を受けている会社です。そりゃ、選手は“関係ない”というのかもしれませんが、彼らは組合も持っている(個人契約主ながら)西武の“従業員”でもあるのです。

せめて、乾杯だけにしようと言っていたら、この野球人たちは昔と違って、ロールモデルになり得ただろうになあ、と思います。まあ、そういうものをそもそもスポーツ選手に期待していないのかもしれませんが、なんとなく、なさけない、というか、かなしいというか。ぼくらはテレパシストじゃないのだから、いろんな思いは、言葉や態度や行動に表さないと、何の意味も持たないのです。いい人は、ただいい人だからいい人なのではなくて、いいことをするからいい人なんです。ビール掛けしかやらないやつは、ビール掛けしかやらないやつなのです。

そうこうするうちに今夜は日本人がイラクでザルカウィ一派に拉致されたというニュースが入ってきました。思わず知り合いのジャーナリストじゃないかと心配してしまうのはあまりにも心が小さいとは思いますが、そういうのはどうしようもありません。いったい、この時期、だれが入っているのでしょうか。男性のようですが、「長髪」という報道で、なんでイラクに長髪で入るかなとも思ってしまいます。

いまのところ、だれなのか私にはわかりませんが、この男性がだれであれ、日本政府というのは日本人の総意として形成されている組織なのですから、邦人の安全のためにあらゆる手段を講じなければなりません。これは前回の女性を含む三人、またほかの二人のジャーナリストの拉致の際でも同じことです。危険を承知の自己責任ではあるが、一旦危険な目にあったならば絶対にそれを救わねば、それこそ政府としての責任を果たしていないことになります。それをいちはやく「自衛隊の撤退はない」と手の内を明かしてしまって、いったいこの政府は外交もしくは交渉というのを何だと考えているのでしょう。

もっとも、ザルカウィの一派は前回の日本人拉致事件のイラク人たちとは違いますから(イラク人ですらないのです)、交渉など無理でしょうが。これは12月の自衛隊派遣期限を睨んでの計画的な揺さぶり行為です。そう、もちろん、アメリカの大統領選挙への挑発でもあります。

かわいそうに、としかいえません。

July 13, 2004

なんだか嫌な空気への反応

 「小泉自民党敗北」の参院選を前に、東京新聞が「ニッポンの空気」(www.tokyo-np.co.jp/kuuki)という連載を行っていました。北朝鮮の拉致被害者家族の会やイラクの人質事件などに関連して、政府や権威への批判を許さぬ最近のニッポンの息苦しさを描いた好企画でした。

 その中で今年2月、「愛国心」を盛り込もうという教育基本法「改正促進委員会」の設立総会で、民主党衆院議員の西村真悟が「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す」と演説したことが紹介されていました。
 西村ってのは民社党から新進党を経て民主党に入った人。民主党もこういう寄せ集め集団ですからそういうなんだかわからん発言が出てきても不思議ではないのですが、政治家に教育とか倫理とかを語らせるとロクなことにならねえなと思うのは私だけでしょうかね。

 いま上映中の『華氏911』にも同じようなことが描かれています。連合軍の死者が1千人を越えたイラク戦争(イラク人の死者数はその10倍以上です)で、自分の子息を軍に徴兵登録している連邦議員は1人しかいない。そこでムーア監督は例によって首都ワシントンに繰り出し、往来の議員たちに向けて徴兵登録への記入を勧めるわけです。ところが予想どおり、それに応じる議員は1人もいない。
 翻って西村議員。彼にもお子さんが3人いらっしゃる。彼はそのお子たちには率先して「お国のために命を投げ出」させるのかしら。

 映画を見ながら、私は4年前からのことを思い出していました。そうだ、そうだったよなあ、という感じです。あの大統領選挙で国民の半分は怒り狂いました。ブッシュの支持率は9・11の前は40%代でした。それがあっという間に「戦争人気」です。映画は、その辺をうまくおさらいしてくれます。ジャーナリストとしてずっとウォッチしてきた者にはそう新しい話はないのですが、ただしまとめて提示されるとさすがにそこに強い意味が出てきます。ムーア監督の編集構成はなかなかのものです。ブッシュのアホさ加減と、しかし厳粛な戦争の映像とが、映画に緩急を付けます。そうしてしだいに、ブッシュに対するそもそものあの怒りがよみがえってくるといった仕掛けです。

 そうやって思い返すと、9・11の後でアメリカ中に星条旗があふれたのは仕方ないと思います。しかし、批判が許されない状況はどうみても異常でした。異常だと口にすること自体も認められないような雰囲気。映画の中でブリトニー・スピアーズがガムをクチャクチャやりながら「ブッシュ大統領を支持するわ」と言っていましたが、それを見ながら私は逆に、ディキシーチックスというカントリーシンガー3人娘が同じテキサス出身のブッシュを「恥だと思う」と発言してものすごいバッシングが起きたことを思い出していました。
 そのバッシングを容認するばかりか寄ってたかって後押しするようなあのときの“空気”は、なんだか嫌ないまの「ニッポンの空気」にも通底していました。年金も多国籍軍も批判なしで通そうというその小泉自民党の「嫌な感じ」に、そして参院選の日本の有権者は拒絶反応を示した。ケリー・エドワーズ組への支持率上昇を通して現れている反ブッシュの気運も、そんななんだか嫌な感じを拒絶したいアメリカの平衡感覚の現れなのかもしれません。

 『華氏911』はすでに千数百万人が見ています。大統領選の投票率は50%ほど。5千万票代での競り合いです。ですから観客動員2千万人にはなるだろうとされるこの映画の影響はかなり大きいはずです。今はそれに期待しましょうか。とはいえ、ブッシュ政権はテロを理由にした大統領選挙の延期ということも検討しているのだとか。ふ〜む、こいつぁ厄介だわなあ。

July 01, 2004

青少年健全育成

東京で、エッチな本の包装陳列が始まったそうですね。東京都の青少年健全育成条例の新規定らしいですが、ああいうのって、隠されるからよけいに劣情を刺激するのです。劣情というのは、呼んで字のごとし、劣していると思うから密やかで暗いところを好むわけで、その密やかさと暗さを助長したら、もっと劣情しちゃうんじゃないか。そういうことを(というかそういうことだけは)、あの太陽の季節おやじはわかってるはずじゃなかったのでしょうか。

立ち読みできたらもっと刺激する、という説もありますが、そうでしょうか。
立ち読みで興奮しちゃうような輩は、封印されてた方がもっと興奮するんじゃないでしょうか。いや、もっと妄想を膨らませる。立ち読みして、なんだこんなもんかね、と思ってそれでおしまいだった連中も、こんどは隠されているから「こなくそ」とばかりにもっとむらむらしちゃうんじゃないかしらん。

これって、クローゼットのメカニズムと同じなのです。

どうすりゃいいか?
エロいものにフタ、でだめなことは一応、万人の共通認識でしょう。
臭いものは元から絶たなきゃだめ、式で行くと、エロイもの自体を追放駆逐することが物事の根本解決にはなりますが、しかし、エロイものと臭いものとを、ミソも糞も一緒に同様に「いけないもの」とする短絡がここにはあります。

エロイもの、あったっていいじゃない。
要は、それでも一応社会通念に照らしてあんまり変なことしないだけの自分のコントロールをできるかってことです。
エロイものはある。あってもかまわない。そんで、そのつぎにどう対応するか、ということを、もし、子供に教えたけりゃ教える。それしかないでしょう。

かつて寺山修司は、「知るのに早すぎるということはない」といいました。
どんなものでも「知るのに早すぎるということはない」。
なぜなら、それはそこに存在するからです。
次は、知ってもだいじょうぶなように早く大人になる、ということしかないのです。
もちろん、知ってもそれを遊べるような子供である、ということも含めて。

政治に、こういう青少年教育とか健全とか倫理とかやらせると、ろくなもんじゃないという好例がここにあります。次の国会ででてくる教育基本法の改正にしても、自民党や公明党なんかに教育なんか語ってほしくないなあという気がします。

June 17, 2004

怖い

 なんだか、こんなバカみたいな詭弁というものを久しぶりに見た思いがします。多国籍軍に参加すると言ったその首相の発言を法的に支えるために、多国籍軍の「統一された指揮権」という英語の「unified command」というのを「統合された司令部」って訳したのです。
 いわく、「(自衛隊は)多国籍軍の中で活動するが、わが国の指揮に従い、統合された司令部の指揮下に入ることはない」。あら、「参加」という言葉もなくなってしまいました。
 しかし「ユニファイド・コマンド」を「統合された司令部」ってやるのは、ものすごい力技です。なぜなら、逆に、統合された司令部というのを英語になおそうと思ったら、それは「united headquarters」という英語になってしまって、ぜったいに「unified command」とはならない。

 ユニファイというのは、いろいろあるものをいろいろあるまま1つに「束ねる」ことではなくて、合金みたいにして混ぜ合わせて1つに「しちゃう」ことなのです。
 それからコマンドですが、これは第一義的には「命令すること、指揮すること」であって、それから「指揮権、司令権」という抽象概念につながっています。ここから「司令部」という意味が派生するのはその先の、もっと派生した先でやっと辿り着く語義であって、いわば比喩なんです。とてもじゃないが、軍事用語に比喩を使っちゃいけない。使ってよいのはそれが熟した言葉になっているときだけです。つまり、慣用的に使い込まれて熟語として存在しているときだけです。そんなの、わたしでもわかるような誤訳を日本政府たるもの、知らないはずがない。

 これは、嘘をついているということです。国民に説明するときに嘘をついている。そしてそれを恥じない。だいたい、軍というものは参加したら統一した指揮で動くのです。それとは別に独自の指揮権を持っている、というのは、それは参加ではない。多国籍軍とは協調しながら行動しているが、別の指揮権のもとで行動している、つまり、別の組織である、ということです。なんで、それじゃいけないのでしょうか。なぜに、多国籍軍に参加する、といわなければならないのでしょうか。そのへんを、小泉は説明していません。嘘をついたまま、訳の分からないことを言って通そうとする。何なのか、これは。

 権力が、こういうことをやる。ブッシュ政権も同じように嘘をつきますが、しかしそれはアルカイダがイラクとつながっていたというような、なかなか証明の難しいところを勝手に政治的に言いきってしまうという種類の嘘であって、事実はねじ曲げているが、こういう、だれの目にも明らかな論理のねじ曲げではない。

 わたしは、これまで自民党政府にバカだバカだと文句ばかり言ってきましたが、最近は、正直言って、この日本の政府が怖い。バカですが、こいつら、本当はバカじゃありません。権力を持つ限り、バカはバカじゃないのです。中川とか麻生とか安倍とか石原とか、こういうことをいけしゃあしゃあとやる権力は、マジな話、他にどんなことでもやるんじゃないかと思います。「こういうこと」、とは、わたしたちを、ないがしろにしてよいと思っていることです。論理が通じないということは論理じゃないことをやってくるということです。いままでの論理の集大成である「法」が通じない。法が通じないということは、わたしたちがこの政府と話をする道筋を失うということです。それは何か。それは、超法規的なファシズムです。大政翼賛会です。怖いな、こりゃ。
 イラクの、あの3人のバッシングあたりからでしょうか。政府が、個人を真っ向から攻撃して得意げになっている。政府要人が国民個人を攻撃するコメントを発する、ということは、よほどの重大犯罪人に向けたものでない限り、かつて例がなかったことです。それはいつわたしたちに向かってくるかわかりません。なにせ、論理じゃないのだから。

 ヤバいなあ。
 ブッシュをつぶす。
 小泉自民党を牽制するには、そのドミノ効果しかないのでしょうか。
 まずいね、日本は。

February 10, 2004

学歴疑惑

例のあの古賀なにがしとかいうやつの学歴詐称問題から、今度は安倍幹事長やら小泉首相の大学留学に疑義ありってな具合に、日本じゃ問題になってるらしいね。

そしたら小泉さん、単位を取ろうが取るまいが、「留学は経験が大事だ」なんてまたとぼけたことを言い始めました。この人の詭弁はまったく困ったもんだ。

留学でも入学でも在籍でも何でも、欧米では卒業しなければ何の意味もないのです。それが証拠に、首相官邸のウェッブサイト(www.kantei.go.jp)に入ってみたら、小泉さんの日本語での履歴紹介である「足跡」(http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiprofile/2_sokuseki.html)というページでは「1967年 ロンドン大学留学」というのが記述されていますが、英文のサイトの相当ページ「milestone」(http://www.kantei.go.jp/foreign/koizumiprofile/2_milestones.html)ではそれに相当する英文がそっくり割愛されています。英語サイトでは慶応卒業しか書いていないの。面白いでしょ。なによ、これ。

推察するに、英文サイトの英語を監修した英国人もしくは米国人なりが、この「留学」には何の意味もなく、たんに「卒業していないという恥をさらすだけだ」と判断して削除したのでしょう。そういうもんです。留学経験という大事な経験を積んでいながら、そんな常識もわからない留学経験がなんぼのものなのか? 「留学は経験が大事」という言葉自体もでたらめだということがこれでわかるというもんです。

安倍さんの南カリフォルニア大学だってたった1年。

こうなるとお二人とも、お「家筋」がよろしいお金持ちのボンボンのご遊学でしょ。ふつうは「留学」だなんて恥ずかしくて書けない。それより、書いたら叱られますよ。しかし政治家の履歴にはそれがしっかりとはったりの自慢になる。おかしなもんです。これでは、くだんの古賀さんも「卒業」ではなく「留学」と書いておけばよかったわけだ。「留学」というのに何の意味もないと、それを書くのがはばかれて、「卒業」とウソをついてしまったのなら、「留学」といけしゃあしゃあと書き連ね、これで国民は誤解するはずだとシレッとしてる輩とどっちが正直なのか、いや、どっちが不正直なのか、わかったもんじゃないね。これは明白に、詐欺罪の、未必の故意です。

小泉のやばさに、いや、貢献はあるよ、小泉のおかげで政治家がすこしは言葉を話すようになった。しかしそれが詭弁だらけなんだ、とみにこのごろ。自衛隊派遣の詭弁、大量破壊兵器の詭弁、「大量破壊兵器が存在しないということをイラクが証明しなかったから悪い」って、あーた、物事ってのはね、「存在証明」は可能だが、「非在」は直接的には証明できないのだ。それが論理というものです。

小泉はヤバいっす。このヤバさを衝けない民主党はこれまたヤバいくらいにバカだが、このヤバさをチャンスにしなきゃあねえ。小泉以後になってまた森みたいな間抜けが出てきたら衝くにも抜けるだけでぜんぜん衝けないんだから。

December 10, 2003

テロテロとバカみたいに

ちょっと物言い、よろしいか。
というか、いつも物言いなんだがね。

自衛隊のイラク派遣が閣議決定しましたね。
そんでもって、「テロが相次ぐイラクに自衛隊を派遣するための重装備」というのが、当然のように言われていますが、ちょっとお待ち下さい。イラクで起こっているのは、あれは「テロ」じゃないですよ。あれは、国軍の残党が、いままだ“侵略軍”に対してゲリラ戦として戦っているわけです。戦闘、戦争ですよ。じじつ、米国は戦闘終結という変な宣言はしたが、戦争終結はしていない。つまり、ほんとに戦争です。戦争「状態」とか、そういう言葉でごまかすべきでもない。

それを流行語のようにテロ、テロと呼べばいいってもんじゃないでしょう。
というより、そう呼ぶと見誤たる。あなた、ヴェトナム戦争時のゲリラ戦を、だれがテロといいますか?
これはつまり、「戦地に自衛隊を派遣する」と明確に認識しなくてはならない。
これは、歴史を見ても、だれがどう考えても、米国という“侵略軍”勢に加わる、ということです。

わたしはイラク復興に出かけていくことは、必要なことだと思います。
しかしそれには、戦争が終わっていなければならない。
戦争が終わって、それでもテロが続くという状態はあるでしょう。
しかし、現在のイラクは、それではないのです。
憲法がどうだとかいう以上に、その憲法の背景にあった基本精神にのっとって、戦争にはぜったいに加担できない。いま苦しんでいるイラク市民には酷だが、日本の「人的な直接関与」は待ってもらわねばならない。なぜならいま関与しないことで、さらに別の意味で、次元で、分野で、関与できるところが拡大する可能性もあるから、そうやって補償することを必ず検討するということで、いまは忍んでいただかなければならない。

そうしたうえで、戦争が終結した段階で、サンダーバードよろしく国際救援隊として、あるいは「世界の警察」に対峙する概念としての国際的な「世界の消防」国家を標榜して、堂々と出かけていくのです。そのときには、「テロ」で殺されても撤退なぞしないぞと強く示しながら。だって、そのときは、殺す方が悪いと明示されているから。

しかし、いまは、殺す方にも義がある。なぜなら、戦争だからです。義と義との戦いに、武力は行使しない、行使しても始まらない、武力を使っても何の解決にもならない、というのが、我々日本の、痛く辛く、しかし貴重な結論だったんじゃあありませんか。

「危険だからといって派遣しないわけにはいかない」という小泉は、コンテキストのねつ造です。
危険だから派遣しないのではない。戦争だから派遣しないのです。戦争でなければ、危険であっても派遣する。そんなことは当然です。

どうしてそんな自明のことが、日本という国ではわかられていないのでしょうか。
この程度の論理が通用しないって、ちょっとひどすぎやしないか?

December 08, 2003

年の瀬っすねえ

ちらほらあーっとクリスマスカードの届く季節と相成っています。
そうそう、日本だとクリスマスカードはクリスマス、年賀状はお正月、とその時に合わせて送るものだけど、こっちのグリーティングという概念はちょっと違って、メリー・クリスマスってのは「メリークリスマスを送ってね」という意味だし、「ハッピーニューイヤー」ってのも「明けましておめでとう」という意味でゃなくて、「明けましたらおめでたいようにね」という、未来への願望なんだね。だから、その時期のずっと前に届くの。
はい、また一つ、英語のおべんけうでしたね。

でも、こういうさ、なんちうのかなあ、新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ(はい、ここで今回のちょっとした論理の飛躍というかひきつけがあります)、ということを当然の人生の態度として共有していない人というのがけっこう多いのかなあ、と思ってしまったのが、例のハンセン氏病のもと患者の宿泊拒否問題でした。

当該の熊本県南小国町の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」、8日の朝日・コムでは「ホテルを経営する「アイスター」(本社・東京)は8日、同社のホームページで「社の正式見解」として「『宿泊拒否はホテル業として当然の判断』との主張になんら変更はありません」と掲載した。県や元患者らは反発を強めている。」ということらしいね。病膏肓に入るって、こういう人たちの方をこそいうの、とか非難するのは簡単だが、非難しても始まらないのが面倒くさいところ。聞く耳を持たない頑迷なこうした妄想を、それでも辛抱強く折伏していかなければならない。そういう作業をだれかがやらなくてはね、イラクを叩くブッシュと同じことになってしまうのだわ。

それともう一つ、この宿泊拒否された「菊池恵楓園入所者自治会」のほうに、なんだか、すごい電話や手紙が舞い込んでいるらしい。
12/5付けの東京新聞の特報面(これが近年、また読ませて面白いんだわ)によると
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20031205/mng_____tokuho__000.shtml

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 (ホテル側の謝罪を)入所者側は謝罪文の受け取りを拒否。この場面がテレビのニュースで放映されると、その後三日間にわたり全国から百本以上の電話がかかってきた。「ほとんどが批判、中傷でした。『ごう慢だ』『裁判に勝ったって社会は受け入れてない』などで、年配の人が多かった」
 電話が一段落すると、手紙が届くようになった。こちらも中傷の方が多い。「これはひどかった」と太田さんがいう、はがきの中央に、変形した顔の写真をはり付けたはがきがあった。「人々に嫌悪され、国が差別していたのを謝罪したのをたてにとりいい気になっているが、中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」
 その他の手紙にも、入所者らの気持ちを刺すような言葉が並ぶ。「調子に乗らないの」「謝罪されたら、おとなしくひっこめ」「私たちは温泉に行く暇もなくお金もありません。国の税金で生活してきたあなたたちが、権利だけ主張しないでください」—。差出人は名前が書いてあるものもあるが、「善良な一国民」「女性代表」など、匿名も目立つ。
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ね、すごいっしょ。
こういうの書いちゃえる人たちって、基本的に、「人生への態度」が違うんだなあって、思わない? 正しさ、とか、そういうこと、端から持ってないというか、諦めちゃってるというか、バカにしてるというか、「世の中、そんなもんじゃねえんだよ」ってドラマの中で言うやつぁ視聴者にはだいたい悪者・いじめ役だって思ってたのだけど、こういう輩って、主人公より、そういういじめ役のほうに感情移入してるのかねえ。

いや、あたしだってね、「正しさ」のもうどうしようもない「おこがましさ」とか「イヤらしさ」ってのは知ってるさね。しかし問題は、そういうのって、「正しさ」が権力を持ったときの話で、だって、あーた、ハンセン氏病に関する「正しさ」って、権力なんて持ったことないでしょね。かわいらしい、それこそ、すぐへなってしまいそうな正しさなんだわ。それを「おこがましい」とは、どの面下げて言えるんだえ? ってことなの、言いたいのは。

でも、そこでふと気づくのよ。
なんだか、こういう抗議文、トーンが一緒で、ちょっと待てよ、またこれ“組織票”なんでないの? まあ、よくある陰謀説みたいに受け取られるかもしれねえけどな。

逆に、組織票だったら納得できるけど、自然発生的にこうもトーンが同じだったら、恐いわねえ。ハンセン氏病元患者はもう病原体を持ってるわけじゃないんだから感染するわきゃないけど、「アイスター」ウイルスは感染するんだ、というか、ナントカ子さまの帯状疱疹のように、他が弱くなったら一気にぼわっと体の表面に出てくるのだね。

あのね、ニューヨークってね、街をエレファントマン病の人とか、五体不満足な人とか、いろいろ平気で歩いてたりするの。市バスなんかも、車いすの人、ばんばん乗せるしね。いま、地下鉄駅(これが古いから)、あちこちで改装工事中なのは、みんな車いす用のエレベーター設置のためなのだ。ま、そういうもんだよ。
先の記事で「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」ってはがき送った人もね、慣れなのよ。慣れ。初めはびっくりするけど、慣れるの。この「慣れ」にはいろんな条件が必要なんだけどさ。

昔はさ、「中央の写真を見よ。これが他の人間と同様か」って、きっと黒人とかさ、ホッテントットとか、牛女とか、ヘビ女とか、小人症の人とかさ、ジャイアント馬場とかさ、カルホーンとかさ(う、古いな)、平気で言えてた時代があったんだと、思うよ。

でもね、「新しいことを憶えていくのはいいことなんだ、正しい知識というのは憶えていかなくてはならないんだ」という積み重ねでさ、「これが他の人間と同様か」っていう突きつけに、いまはやはり平然と、「そうなんだよ、おぢさん」と応えるのが、気持ちいい人生への態度なんだと、選択したいのだ。

July 19, 2003

市中引き回し

朝日のオンライン
http://www.asahi.com/column/aic/Fri/d_forum/20030718.html
に「市中引き回し」に賛同する投書が7割もあったということが載っていました。けっこう鴻池のおっちゃんのあの発言、人気なんですな。

何なんでしょうかね、こりゃ。ブッシュ化は日本でも進行中なのか。
というより、そういうおバカなことを堂々と披瀝して得意顔でいるのを許す、あるいは面倒なのでただ言わせておく、そのうちに大したことでなくなるのを待つ、といった風潮が蔓延してるんでしょうかね。
わたしゃ悲しいわ。同時に、けっこう恐いわ。

話をするということは面倒なことを考えるということなんです。
しかし、この人たちは面倒なことを考えないで話をする。勢いで語る。だもんで陶然となる。引っ込みが付かなくなる。そんでもって、面倒なこと考えてる間にも人は殺されるんだ、とか言うんでしょうな、そん中の弁の回る小賢しいのは。面倒なこと考えないから人殺しなんかしちゃうんですよ。

リンチについてとか、考えたことがないんでしょう。
集団暴行を加えて人を殺す連中と、自分が同じだということに気づいていない。
そんな大人たちあれば、あんな子供たちあり、ですな、まったく。
そうして、そういう連中は常に自分が多数派に属しているという妄想を、自分の思いは絶対的に善だという虚妄を信じて疑わない。
こういう連中が、ナチスを支持し、天皇にひれ伏し、ブッシュに快哉を叫び、イラクや北朝鮮に核を落とせと言うのです。

「市中引き回しのうえ打ち首」というのは、そういう論理です。
何様だと思ってるんでしょね。
わたしなんぞ、そういう連中には第一に引き回されちゃうでしょう。
対して、私はそういう連中がいても引き回したりしない、というのが絶対的な不公平ですが、この絶対的な不公平を引き受けねば私の論理を完遂できないというのが、こりゃまた絶対的な不公平で、つらいところだがしょうがない。