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June 08, 2017

「内心の自由」

コミーFBI長官を辞めさせたことで却ってロシア疑惑が深まり窮地に陥っているトランプ大統領。前川文科省事務次官の引責辞任から全く別筋と思われた加計学園の「総理のご意向」問題が火を噴いている安倍首相。

日本ではトランプ政権の破茶滅茶を笑う人が多いのですが、なんのなんの、この2人は"covfefe”や"unpresident"といった英語のミスと「云々(でんでん?)」といった漢字の誤読まで含めて実はとてもよく似ています。だって、身内びいき、マスメディア攻撃、御用メディアの多用、大統領令と閣議決定の多発、「フェイクニュース!」や「印象操作!」といった金太郎アメ反論、歴史の捏造と歴史の修正、「文書は確認できない」といったオルタナファクトに基づいた政権運営──ほら、ほとんど相似形でしょ? しかも磐石な支持層はオルトライト・白人至上主義団体とネトウヨ・日本会議というところまで合致している。

似ていないのは、トランプ政権の方は司法長官の辞任話やコミー証言なども出てきて今やもうメタメタなのに対し、安倍首相の方は今も国会無視の強気の政権運営を続けられていることです。その差異はおそらく政権の長に対する日米の議会と司法の独立性、そしてジャーナリズムの力の違いを背景にしているのでしょう。

なんとも情けない話ですが、さっきCNNで中継されていた上院情報委員会公聴会での委員(上院議員)たちと証人(アンドリュー・マッケイブFBI長官代理、ロッド・ローゼンスティン司法副長官、ダン・コーツ国家情報局長、マイケル・ロジャーズ国家安全保障局長)たちとの丁々発止のやり取りを見ていると、そもそも議論とか質疑応答というものに対する熱量というか、対応の真剣さがまるで違うんですね。ああ言えばこう言うの応酬で、この公聴会ではトランプと彼らの間で交わされた/交わされなかった会話の内容はほとんど明らかにされなかったですが、その「明らかにされなかった」具合の攻防が、ディベイトとはかくあるものかというほどに青白く燃え盛っていました。

一方、そんなアメリカを尻目に安倍政権はいま着々と「共謀罪」の強行採決に向けて進んでいます。共謀罪は過去3回も廃案になった無理筋の法案です。なのに今回は「五輪を前にしたテロ対策だ」という名目で再提出されました。テロ対策なら必要じゃないか、という世論が圧倒的ですが、「テロ等準備罪」という看板を掲げたものの当初は法案内に「テロ」という文言さえ存在しなかった代物なのです。しかも「この法律がなければ国連組織犯罪防止条約(TOC条約)を批准できず国際的批判を受け、オリンピックも開けない」という政権側の説明は「虚偽」。さらにこの条約は金銭目的の組織犯罪に対するもので、「テロ」とは無関係ということもわかってしまいました。


テロと関係ないなら現行法で既に対応できています。おまけに「花見客が双眼鏡を持っていたらテロの下見かもしれない」といったアホみたいな答弁を繰り返す法務大臣が管轄する案件とあって、国会審議は全く噛み合っていないどころか、そもそもまともな説明も回答も皆無なのです。

嘘や説明回避を繰り返しながらのこの前のめりは、いったい何が目的なのでしょう?

ロシアに亡命中のあのエドワード・スノーデンが日本向けに「これは政府の大衆監視をさらに容易にするための法律だ」と説明しています。なぜ監視しなければならないのか? その方が政権運営が簡単だからです。特に警察の活動が容易になります。そしてこれで公安警察の予算がまた増える。1980年以降、どんどん減っている公安警察の活動の場が、これでまた増えることになります。

社会正義と秩序のためにも警察には大いに活躍してもらいたい。それは当然でしょう。しかしその一方で公安警察が、社会正義と秩序を旗印にとんでもない国民弾圧をしてきた歴史も厳然と存在しています。共謀罪と同じような治安維持法で、拷問や冤罪や政治の政権に都合の悪い「一般人」たちへの「予防的な排除」がなされてきました。

警察組織の性格というのは、じつは世界中で今も同じです。だって「今月はスピード違反検挙率が悪いから、ちょっとネズミ捕りやって増やそうか」という「警察の性格」は私たちの誰もが経験的に知っているはずじゃないですか。それが交通警察なら罰金や免停で済みます(それだって酷い話ですが)、それが刑事警察や公安警察の場合だったら、話は取り返しもつかず人生に関わってきます。交通警察と刑事・公安警察の差は、その警察活動が目に見えてわかるかどうか、の違いだけです。どちらにしても警察組織の胸三寸で容赦なく検挙できます。

共謀罪では「内心の自由」が侵される、と心配されています。実際の「内心」など誰にもわかるはずないから、それが直接的に侵されるはずもない、杞憂だよ、と言う人もいるでしょう。けれど問題は、その知られるはずもない「内心」の中身を、自分が決めるのではなく他人が勝手に判断するという点なのです。

「内心」を他人に勝手に決め付けられない権利を「内心の自由」と言います。だから「自分は(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことは考えないから大丈夫」という問題ではありません。共謀罪の恐ろしさは「あなたは(共謀罪の対象になるような)そんな恐ろしい反社会的なことを考えた」と他人から決め付けられることなのです。

April 11, 2017

予測不能な2つの要素

オバマがシリアの化学兵器使用に軍事介入を模索した2013年から14年にかけ、当時のドナルド・トランプは武力攻撃に反対するツイートを19回も繰り返していました。それが今回、なぜ急に方向転換して60発ものトマホークを射ち込んだのでしょう?

ホワイトハウスの伝えたかった物語は「大統領は犠牲となった子供たちの姿を見て決断した」というものでした。トランプ自身はさらに「アサドのこの残虐行為はオバマの弱腰と優柔不断のせいだ」ともツイートして相変わらずのオバマ責め。でも自らの過去との矛盾には頰かむりを決め込んでいます。

子供たちは毎日、世界中で殺されています。アメリカ大統領が人間味溢れた優しい人物だというのは好ましいことですが、ならば大統領を動かすには彼に悲惨な動画を見せればよいということになります。そんなことはない。そこにはもっと政治的な判断が働いているはず、いや、働いていなければなりません。

タイムラインで確認しましょう。シリアで化学兵器が使われたのは米国東部時間で3日深夜のことでした。やがて全米にもその悲惨な状況が放送され始めます。

4日午前10時半、情報当局による定例ブリーフィングで大統領は女性や子供たちが犠牲になったという情報をビデオや写真付きで知らされたということになっています。トランプはここで何らか軍事行動を決心したようで、同日中にさらに国家安全保障会議(NSC)が招集され米国が取り得る選択肢を検討するよう指示しています。

5日はヨルダン国王との面会がありました。午後1時にホワイトハウスで共同会見があり、そこでトランプは「シリアは一線を超えた。レッドラインを超えた」と発言。すでに軍事行動の腹を決めていたと窺えます。NSCはその日、具体的な軍事作戦の絞り込みを行いました。そこで決まったのが必要最小限のピンポイント攻撃。戦線は拡大させないということです。

そして6日は最大のイベント、フロリダの例のマール・ア・ラーゴで2日間の米中首脳会談が始まる日でした。一方で午後4時、トランプはシリア空軍基地へのミサイル攻撃にゴーを出します。発射時刻は首脳会談の会食もデザートにさしかかろうとする午後7時40分。そうしてその時がやってきて、トランプは習近平にシリア攻撃を報告しました。

ところでトランプ政権はその前週に、アサド退陣は優先事項ではないとしてオバマ時代からの政策の転換を発表していました。シリア内のISIS(イスラム国)駆逐はアサドとロシアにやってもらうという計画。これはロシアゲートで失職したあのマイケル・フリン安保担当補佐官と"影の副大統領"とも言われたスティーヴ・バノン主席戦略官らの「アメリカ第一主義」一派の戦略でした。

その舌の根も乾かぬうちのアサドへの攻撃。米国はまた「世界の警察」に戻るのか、とも言われています。

いえ、そんなことはありません。これはすべて6日の習近平との会談に向けての行動だったのだと踏んでいます。なぜならシリア攻撃は、アサド政権が本当にサリンを使ったのかを確認してからでも遅くはなかった。むしろその方が国際社会(国連)をも納得させられました。なんといってもシリアは化学兵器を全廃したと国際機関(OPCW)によってお墨付きを得ていたはずなのですから。

しかしトランプ政権は攻撃を急ぎました。この性急な行動はいかにもトランプらしい交渉術に見えます。交渉に入る前に、相手にイッパツかましたのです。北朝鮮問題で、習近平との交渉で「北に対してもやるときはやる。だから速やかにかつ強力に働きかけを行え」という暗黙の、かつ強烈なメッセージを大前提として臨むためです。首脳会談の本題はその翌日に話し合われる予定でした。

トランプは支持率36%という異例の不人気にあえいでいました。不人気の米国大統領は支持率回復のために軍事行動に打って出るというのが常です。トランプはそこでずっと、まずは北朝鮮への軍事行動を仄めかしてきました。

ところが北朝鮮への武力行使はソウルと東京がミサイルの標的になる。難民は押し寄せ韓国のGDPはゼロになる。クリントン政権の1993年から検討されている攻撃計画はリスクが多くて実行不能というのが、この24年間変わらぬ結論です。だから北への強硬手段は、実はブラフでしかない心理戦なのです。

しかしそこに降って湧いたようにシリアの化学兵器使用疑惑が起きたのでした。おそらくトランプはこれで「物怪の幸い」とばかりにシリア叩きをひらめいたのでしょう。シリアはすでに紛争国で、ミサイルを射ち込んでも北朝鮮のようなドバッチリは少ない。おまけに米中首脳会談で中国による「北への圧力」の圧力にもなる。ひいてはシリアの向こうにいるロシア・プーチンに対しても、やるべき時にはやるという自分の毅然さを国内に示すことができて、それはロシアゲートの目くらましにもなるだろう。さらには「化学兵器」「赤ん坊殺し」というキーワードは民主党も反対できない絶対的な不正義だから国内の支持も多いはずだ。ヒラリーでさえニュースを受けてシリア攻撃を要求したのだから……と。

それが今回のトマホーク攻撃でした。結果、攻撃を支持する国民はCBSの調査で57%と過半数。政権支持率も微増したようです。

もう一つ、見逃せない変化があります。トマホーク攻撃までの3日間で、トランプ政権内で重大な人事の変更がありました。白人至上主義者でフェイクニュースでの情報操作も厭わぬスティーヴ・バノンがNSCから外れたという5日付けのニュースです(なんと、私は前回の2月のブログエントリーで、次に辞めるのはスパイサーかケリーアンかバノンかって呟いてるんですな、いや我ながら慧眼慧眼)。そこに本来のメンツであったはずの統合参謀本部議長のダンフォードと国家情報長官のコーツが加わることになりました。これを主導したのがフリンの後任に2月に安保担当補佐官となったマクマスター陸軍中将です。トランプに示した後任就任の条件がまさにこのNSC人事を主導することでしたから。

これはイスラム圏からの入国禁止やオバマケアの撤廃という選挙公約を画策したバノンや、反PC(政治的正しさ)路線の若きスピーチライター、スティーヴ・ミラー補佐官らの白人至上主義かつ反グローバリズムかつ破壊主義的ハチャメチャ一派がいま、トランプの娘イヴァンカとその夫ジャレッド・クシュナー、さらにその2人とつながるマクマスター、ジェイムズ・マティス国防長官、ダンフォードらの軍人閣僚に政権運営の主導権を奪われつつあるということです(実はその奥にもう一つ、国務長官のティラーソンや商務長官のウリルバー・ロス、財務長官のムニューチン、国家経済会議議長のゲーリー・コーンといった産業・金融界人脈が控えているのですが)。

さて、シリア攻撃を終えて現在、トランプは朝鮮半島周辺にカール・ビンソン、ロナルド・レーガンという空母2隻を展開させるなど、いまにも北朝鮮を攻撃するようなシフトを敷き始めました。

軍人というのは実戦の厳しさを知るので実は戦争を嫌います。北への攻撃など頭がおかしくなければできない、というのが24年変わらぬ結論であるということは先に述べました。おまけに北の軍事施設はこの間に地下に潜って攻撃困難となり、瞬時の無力化はまずもって不可能です。つまりアメリカによる平壌への先制攻撃は、次にソウルと東京にミサイルが飛んでくるという展開になります。東京ではそのとき国会、霞が関周辺で42万人が犠牲になります。

だからこそ戦争は、より無理になっているという状況は変わらないのです。

ただしそこでこれまでと変わったことが2つだけあります。それがトランプと金正恩という、2人の予測不能な指導者の登場です。お互いに頭がおかしいと思っているであろうその相手の出方を、お互いが読み間違える恐れはなきにしもあらず。トランプ政権内の軍人閣僚たちに期待するのは、そんな時の正気の状況分析と抑制力なのです。

February 15, 2017

対米追従外交

日米首脳会談に関して官邸や自民党は「満額回答」と大喜びです。安倍首相も帰国後のテレビ出演でトランプがゴルフで失敗すると「悔しがる、悔しがる」とまるでキュートなエピソードでもあるかのように嬉々として紹介していました。でも、これ、アメリカ男性にはよくある行動パタンなんですよね。「少年っぽくてキュートでしょ」と思わせたいというところまで含んだ……。

「満額」とされる日米の共同声明は日本政府がギリギリまで文言を練ってアメリカ側に提起したものでした。安保条約による尖閣防衛などに関してはすでにマティス国防長官の来日時に言質を取っていたものの、外交というものはとにかく「文書」です。文字に記録しなければ覚束ない。

対するトランプ政権はアジア外交の屋台骨もまだ定まっていませんでした。日本の専門家もいません。そこに日本の官邸と外務省が攻め込み、まんまと自分たちの欲しかったものの文書化に成功したわけです。

でも、その共同声明の中にひとつ気になる文言があります。

「核及び通常戦力の双方によるあらゆる種類の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」

日本政府は米国の核抑止力に依存していることは認めています。しかしここにある「核を使って」とまで踏み込んだ発言を、これまで日本はしていたでしょうか? 「抑止力」とは核を実際には使わずに相手の攻撃を防ぐ効果を上げる力のことです。でも、その「核」を「使う」と書いた。これは大きな転換ではないのでしょうか? どの日本メディアもその点について書いていないということは、私のこの認識が違っているのかもしれませんが。

いずれにしてもアベ=トランプの相性は良いようで、産経新聞によると安倍首相は「あなたはニューヨーク・タイムズに徹底的にたたかれた。私もNYタイムズと提携している朝日新聞に徹底的にたたかれた。だが、私は勝った…」と言って、「俺も勝った!」と応じたトランプの歓心を得たとか得ないとか。

ただですね、報道メディアを攻撃するのはヒトラーの手法です。歴史的には褒められたもんじゃ全くないのですよ。

さて、マール・ア・ラーゴでの2日目のテラス夕食会で「北朝鮮ミサイル発射」の一報がホワイトハウスからトランプのもとに飛び込んできて、前菜のレタスサラダ、ブルーチーズドレッシング和えを食そうとした時にテーブルは慌ただしく緊急安保会議の場と化したんだそうです(CNNの報道)。その時の生なましい写真が会食者のフェイスブックにアップされて、一体こういう時の極秘情報管理はどうなんているんだと大問題になっています。安全保障上の「危機」情報がどうやって最高司令官(大統領)に届くのか、それがどう処理されるのか、というプロトコルは最高の国家機密です。つまりはアジア外交どころか絶対にスキがあってはいけない安保関連ですら、トランプ政権はスカスカであることを端なくも明らかにしてしまったわけです。大丈夫か、アメリカ、の世界です。

そこには血相を変えたスティーブ・バノン首席戦略官とマイケル・フリン安保担当大統領顧問も写り込んでいました。そしてそれから2日も経たないうちにそのフリンが辞任するというニュースも飛び込むハメと相成りました。

フリンはそもそもオバマ政権の時に機密情報を自分の判断で口外したり独断的で思い込みの激しい組織運営のために国防情報局(DIA)局長をクビになった人物です。当時のフリンを has only a loose connection to sanity(正気とゆるくしか繋がっていない)と評したメディアがあったのですが、事実と異なる情報を頻繁に主張したり、確固たる情報を思い込みで否定することが多く、そういうあやふやな情報は職員からは「フリン・ファクツ Flynn Facts」と呼ばれていました。まさに今の「オルタナティブ・ファクツ(もう一つ別の事実)」の原型です。

そんなフリンが昨年12月、オバマ大統領によるロシアの選挙介入に対する制裁があった際に、その解除についていち早く駐米ロシア大使と電話で5回も話し合っていたというのが今回の辞任の「容疑」です。そもそも彼は「宗教ではなく政治思想だ」と主張するイスラム教殲滅のためにロシアと手を組むべしという考えを持っていた人です。そのためにオバマにクビになってからはロシア政府が出資するモスクワの放送局「ロシア・トゥデイ」で解説役を引き受けたりもしていました。ロシアとはそもそも縁が深い。

今回の辞任は民間人(当時)が論議のある国の政府と交渉して、政府本来の外交・政策を妨害してはいけないというローガン法という決まりがあって、それに違反していると同時に、政策に影響を与えるような偽情報を副大統領ペンスに与えていた(ペンスには当初「制裁解除の交渉はしていない」と報告したそうですが、その後にその話は「交渉したかどうか憶えていない」と変わり、ならばそんな記憶力のない人物に安全保障担当は任せられないという話にもなりました。要は、法律違反、利敵行為、情報工作、職務不適格)という話です。まあしかし、それもフリンのそんな電話会議のことをペンスが承知の上だったなら副大統領までローガン法違反の”共犯”ということになりますから、それはそう言わざるを得ないのかもしれませんし。

つまり疑惑は辞任では収まらないということです。疑惑はさらに(1)こんな重要案件でフリンが自分一人の判断でロシア大使と会話したのか(2)その交渉情報は本当にトランプやペンスらに伝わっていなかったのか(3)ロシアとは他に一体何を話し合っていたのか、と拡大します。おまけにトランプ本人の例の「ゴールデンシャワー」問題もありますし。

実はトランプ陣営でロシア絡みで辞任したのは選挙期間中も含めこれでポール・マナフォート、カーター・ペイジに次いで3人目です。ここでまた浮かび上がるのがトランプ政権とロシアとの深い関係。だってトランプ自身も昨年7月の時点ですでにクリミア事案によるロシアへの制裁解除を口にしていたのですよ。この政権がロシアゲートで潰れないという保証はだんだん薄く、なくなってきました。

ところでそんな懸念はどこ吹く風、ハグとゴルフでウキウキのアベ首相は3月に訪独してメルケルさんに「トランプ大統領の考えを伝えたい」とメッセンジャー役を買って出る前のめりぶりです。トランプ政権の誕生で戦後日本の国際的な位置付けや対米意識により独立的な変化が訪れるのではないかと期待した向きもありますが、自民党政権によるアメリカ・ファーストの追従外交には、今のところまったく変化はないようです。

ところでこの「追従」って、世界的には「ついじゅう」と「ついしょう」の両方で捉えられています。就任1カ月もたたないうちにメキシコ大統領と喧嘩はする、オーストラリア首相とは電話会談を途中で打ち切る、英国では訪英したって議会演説や女王表敬訪問などとんでもないと総スカンばかりか英国史上最大の抗議デモまで起きるんじゃないかと言われている次第。こうして西側諸国から四面楚歌真っ最中のトランプ大統領が、アベ首相をキスでもしそうなくらいにハグし歓待したのも、そういう状況を考えると実に頷けるわけであります。

さあトランプ政権、次は誰が辞めさせられるのか? ショーン・スパイサーか、ケリーアン・コンウェイか、はたまたスティーヴ・バノンか──この3人が辞めてくれればトランプ政権もややまともになるとは思うのですが、しかしその時はトランプ政権である必要がなくなる時でもあります。アメリカは今まさに「ユー・アー・ファイアード」のリアリティ・ドラマを地で行っているような状況です。

January 15, 2017

不名誉な情報

トランプ記者会見は日本ではとても奇妙な報道のされ方をしました。トランプにとって「不名誉な情報」のニュースが日本ではほとんど報道されないままだったので、彼と記者たちがなぜあそこまでヒートアップしているのかがまるでわからなかったのです。

で、彼の興奮は例によっていつもと同じメディア攻撃として報じられ、速報では「海外移転企業に高関税」とか「雇用創出に努力」とかまるで的外れな引用ばかり。NHKに至っては「(トランプは)記者たちの質問に丁寧に答えていた」と、一体どこ見てるんだという解説でした。

日本のメディアのこの頓珍漢は、米国では報じられていた「モスクワのリッツ・カールトンでの売春婦相手の破廉恥な性行為」が事実かどうか、裏が取れなかったことに起因しています。

日本のTVってそれほど「裏取り」に熱心だったでしょうか。例えば最近の芸能人らの麻薬疑惑。逮捕されれば即有罪のように断罪口調で飛ばし報道するのに、結果「検尿のおしっこがお茶だった」となると急に手のひら返しで「さん付け」報道。つまりはお上のお墨付き(逮捕)があれば裏は取れたと同じ、お上がウンと言わねば報じもしないというへなちょこでは、権力監視のための調査報道など、いくら現場の記者たちが頑張ったとしてもいつ上層部にハシゴを外されるか気が気じゃありません。

しかも今回のCNNの報道は、未確認情報を真実として報道したのではありません。CNNが報じたのはその未確認情報を米情報当局がトランプ、オバマ両氏へのロシア選挙介入のブリーフィングにおいて2枚の別添メモで知らせた、という事実です。これはトランプが指弾したような「偽ニュース」などではありません。しかもそれが大変な騒ぎになることは容易に予想できたのに日本のメディアはその事情すら報じ得なかった。

一方「バズフィード」はその「不名誉な情報」を含むロシアとの長期に渡る関係を記したリポート35枚をそのままサイトに掲載してしまいました。「米政府のトップレベルにはすでに出回っていた次期大統領に関する未確認情報を、米国民自らが判断するため」という理由です。

こちらは難しい問題です。「噂」を報じて国民をミスリードする恐れと、情報を精査して真実のみを伝えるジャーナリズムの責務と、精査できるのはジャーナリズムだけだというエリート主義の奢りと、そしてネット時代の情報ポピュリズムの矛盾と陥穽と。

いずれにしても日本のメディアは丸1日遅れで氏の「不名誉な情報」に関しても報道することになりました(裏取りは吹っ飛ばして)。その間にTVは勝手な憶測でトランプ氏を批判したり援護したりしていました。しかもCNNを排除した次の質問者の英BBCを、氏が「That's another beauty(これまた素晴らしい)」と言ったのを皮肉ではなく「ほめ言葉」として解説するという誤訳ぶり。BBCが「これまた素晴らしく」トランプ氏に批判的であることを彼らは総じて知らなかったわけです。

いや問題はそんなことではありません。問題の本質は、トランプがプーチン大統領に弱みを握られているのかどうか、米国政治がロシアに操られることになるのか、ということです。

真偽はどうあれ、今回の「暴露」でその脅迫問題云々がこの新大統領にずっと付きまとうことになります。いや、いっそのこと、「ああ、やりましたがそれが何か?」と開き直っちゃえばいいのにとさえ思います。そもそも女性器をgropingしたとかおっぱいを鷲掴みにしたとかしないとか、そんな山のような女性醜聞をモノともせずに当選したのです。「ゴールデンシャワー」など、脅しのネタなんかに全然ならないはずですからね。

November 01, 2016

「女嫌い」が世界を支配する

投票日11日前というFBIによるEメール問題の捜査再開通告で、前のこの項で「勝負あったか?」と書いたヒラリーのリードはあっという間にすぼみました。州ごとの精緻な集計ではまだヒラリーの優位は変わらないとされますが、フロリダとオハイオでトランプがヒラリーを逆転というニュースも流れて、なんだかまた元に戻った感じでもあります。

だいたい今回のメール問題の捜査対象は、ヒラリーの問題のメールかどうかもわかっていません。ただFBIがまったくの別件で捜査していたアンソニー・ウィーナーという元下院議員の15歳の未成年女性を相手にしたエッチなテキストメッセージ(sexting)問題で彼のコンピュータを調べたところ、中にヒラリーのメールも見つかったので、それをさらに捜査しなくてはならない、というだけの話なのです。もっと詳しく言えばそのウィーナーのコンピュータは彼が妻と強要していたもので、かつその妻がヒラリーの側近中の側近として働いてきたフーマ・アベディンという、国務長官時代は補佐官を務め、今は選対副本部長である女性なんですね。ということで、そのアベディンのメールも調べることになっちゃう。だからその分の捜査令状もとらなくちゃならない、ということで、「ヒラリーのメール問題」とすること自体もまだはばかられる時点での話なのです。

つまりそのメールが私用サーバーを使った国家機密情報を含んでいるものとわかったわけでもなんでもないのですが、とにかくFBIのジェイムズ・コミー長官は自分の机の上に10月半ばまでに「ヒラリーのメールがあった」という書類が上がってきたものだから、これはこのまま黙殺はできない。捜査はしなくてはならないが、捜査のことを黙っていたりその情報自体を黙殺でもしたら後で共和党陣営にヒラリーをかばうためだったと非難されるに決まっている。しかしだからと言って捜査を開始したと言ったら選挙に影響を与えてしまうとして民主党側からも非難される。どっちが自分のためになるか、おそらく彼は苦渋の決断をしたんだと思います。その辺のジレンマの心境は実は彼がFBIの関係幹部に当てた短文のメールが公表されているのでその通りなんでしょう。でも、それは保身のための決断だった印象があります。

そもそもFBIの捜査プロトコルでは、捜査開始のそんな通告を議会に対して行う義務はないし、むしろ選挙に関係する情報は投票前60日以内には絶対に公表しないものなのです。つまり彼はヒラリーの選挙戦に悪影響を及ぼしても自分が職務上行うことを隠していたと言われることを避けた。そちらの方がリスクが高いと判断したんでしょう。つまりリスクの低い道を選んだわけです。誰にとってのリスクか? そりゃ自分にとってのリスクです。つまり保身だと思われるわけです。

で、週末にかけて、アメリカのメディアはコーミーのそんな保身を責めたり、いや当然の対応だと擁護したりでこの問題で大騒ぎです。

ところが問題はもう1つ別のところにあります。

8年前のヒラリー対オバマの大統領選挙の時も言ってきましたが、なぜヒラリーはかくも嫌われるのか、という問題です。なぜ暴言の絶えないトランプが支持率40%を割ることなく、2年前には圧勝を噂されたヒラリーが最終的にかくも伸び悩むのか?

この選挙を、「本音」と「建前」の戦いだと言ってきました。「現実」と「理想」とのバトル。そしてその後ろで動いているのが、もう明らかでしょう、実はアメリカという国の、いや今の世界のほとんどの国の、拭いがたい男性主義だということです。これまでずっとアメリカという国の歴史の主人公だった白人男性たちが今や職を奪われ、家を失い、妻や子供も去って行って、残ったのが自分は男であるという時代錯誤の「誇り」だけだった。いや、職も家も妻子も奪われていなくとも、もうジョン・ウェインの時代じゃありません。当たり前と思ってきた「誇り」は今や黒人や女性やゲイたちがアイデンティティの獲得と称してまるで自分たちの所有する言葉のように使っています。そこで渦巻くのは、アイデンティティ・ポリティクスに乗り遅れた白人男性たちの、白人(ヘテロ)男性であることを拠り所とした黒人嫌悪であり女性嫌悪でありゲイ嫌悪です。ヒラリーに関してもこの女嫌いが作用しているのです。

マイケル・ムーアの新作映画『Michael Moore in Trumpland』で、彼も私と同じことを言っていました。ムーアは昨年、映画『Where to Invade Next?』を撮るためにエストニアに行ったそうです。かの国は出産時の女性の死亡率が世界で一番少ない国です。なぜか? 保険制度が充実しているからです。アメリカでは年間5万人の女性が死んでいるのに。

そこの病院を取材した時にムーアは壁にヒラリーの写真が飾ってあることに気づきます。彼女もまた20年前に同じ目的で同じ病院に来ていたのです。国民皆保険制度を学ぶために。一緒に写る男性を20年前の自分だと言う医師がムーアに言います。「そう、彼女はここに来た。そして帰って行った。そして誰も彼女の話を聞かなかった。それだけじゃない。彼女を批判し侮辱した」

20年前、国民皆保険導入を主導したヒラリーは一斉射撃を浴びました。「あなたは選ばれてもいない、大統領でもない。だから引っ込んでいろ」と。それから20年、アメリカでは保険のない女性が百万人、出産時に亡くなった計算です。保険制度を語る政治家は以来、オバマまで現れませんでした。

ムーアは言います──ヒラリーが生まれた時代は女性が何もできなかった時代だった。学校でも職場でも女性が自分の信じることのために立ち上がればそれは孤立無援を意味した。だがヒラリーはずっとそれをやってきた。彼女はビルと結婚してアーカンソーに行ってエイズ患者や貧者のための基金で弁護士として働いた。で、ビルは最初の選挙の時に負けた。なぜか? 彼女がヒラリー・ロドムという名前を変えなかったから。で、次の選挙でヒラリーはロドム・クリントンになった。で、その次はロドムを外してヒラリー・クリントンになった。彼女は高校生の頃から今の今までそんないじめを生き抜いてきたのだ、と。

そんな彼女のことを「変節」と呼ぶ人たちが絶えません。例えば2008年時点で同性婚に反対していたのに今は賛成している、と。でも08年時点で同性婚に賛成していた中央の政治家などオバマをはじめとして1人としていなかったのです。

マザージョーンズ誌のファクトチェッカーによればヒラリーは米国で最も正確なことを言っている主要政治家ランキングで第2位を占めるのですが、アメリカの過半が彼女を「嘘つきだ」と詰ります。トランプは最下位ですが、どんなひどい発言でも「どうせトランプだから」の一言で責めを逃れられています。同ランク1位のオバマでさえ再選時ウォール街から記録破りの資金提供を受けていたのに、企業や金融街との関わりはヒラリーに限って大声で非難されます。大問題になっているEメールの私用サーバー問題だってブッシュ政権の時も同様に起きていますが問題にもなっていません。クリントン財団は18カ国4億人以上にきれいな飲み水や抗HIV薬を供与して慈善監視団体からA判定を受けているのに「疑惑の団体」のように言われ、トランプはトランプ財団の寄付金を私的に流用した疑惑があってもどこ吹く風。おまけにこれまで数千万ドル(数十億円)も慈善団体に寄付してきたと自慢していたトランプが実は700万ドル(7億円)余りしか寄付をしてこなかったことがわかっても、そんなことはトランプには大したことではないと思う人がアメリカには半分近くいるのです。

これは一体どういうことなのでしょう? よく言われるようにヒラリーが既成社会・政界の代表だから? 違います。だって女なんですよ。代表でなんかあるはずがない。

嫌う理由はむしろ彼女が女にもかかわらず、代表になろうとしているからです。ヒラリーを嫌うのは彼女が強く賢く「家でクッキーを焼くような人間ではない」からです。嫌いな「女」のすべてだからです。「女は引っ込んでろ!」と言われても引っ込まない女たちの象徴だからです。違いますか?

日本では電車の中で化粧する女性たちを「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」と諌める"マナー"広告が物議を醸しています。みっともないと思うのは自由です。でもそれを何かの見方、考え方の代表のように表現したら、途端に権力になります。この場合は何の権力か? 男性主義の権力です。男性主義を代表する、男性主義の視線そのものの暴力です。「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」は、どこをどう言い訳しても、エラそうな男(的なものの)の声なのです。

ヒラリーが女であること、そしてまさに女であることで「女」であることを強いられる。それはフェアでしょうか?

この選挙は、追いやられてきた男性主義がトランプ的なものを通して世界中で復活していることの象徴です。私が女だったら憤死し兼ねないほどに嫌な話です。そしてそれはたとえ7日後の選挙でヒラリーが勝ったとしても、すでに開かれたパンドラの箱から飛び出してきた「昔の男」のように世界に付きまとい続けるストーカーなのです。

September 10, 2016

いつか来た道

北朝鮮の核実験やミサイル発射でこのところ日米韓政府がにわかに色めき立って、韓国では核武装論まで出ているようです。日本での報道も「攻撃されたらどうする?」「ミサイル防衛網は機能するのか?」と「今ここにある危機」を強調する一方で、どうにも浮き足立っている感も否めません。

でも少し冷静になれば「攻撃されたらどうする?」というのは実はこれまでずっと北朝鮮が言ってきたことなのだとわかるはずです。戦々恐々としているのは北朝鮮の方で、彼らは(というか"金王朝"は)アメリカがいつ何時攻め込んできて体制崩壊につながるかと気が気ではない。何せ彼らはイラクのサダム・フセインが、リビアのカダフィが倒されるのをその目で見てきたのです。次は自分だと思わないはずがありません。

そこで彼らが考えたのが自分たちが攻撃されないための核抑止力です。核抑止力というのは敵方、つまり米国の理性を信じていなければ成立しません。理性のない相手なら自分たちが核兵器を持っていたら売り言葉に買い言葉、逆に頭に血が上っていつ核攻撃されるかわからない。しかし金正恩は米国が理性的であることに賭けた。

実はこれはアメリカと中国との間でかつて行なわれた駆け引きと同じ戦略なのです。冷戦下の米国は、朝鮮戦争時の中国への原爆投下の可能性を口にします。その中で中国が模索したのが自国による核開発でした。米ソ、中ソ、米中と三つ巴の対立関係の中で、核保有こそが相手側からの攻撃を凍結させる唯一の手段だと思われたのです。

そうして60年代、中国はロケット・ミサイルの発射実験と核爆発実験とを繰り返し、70年から71年にかけて核保有を世界に向けて宣言するわけです。それこそがどこからも攻め込まれない国家建設の条件でした。

慌てたのはアメリカです。どうしたか? 71年7月、ニクソン政権のキッシンジャー大統領補佐官が北京に極秘訪問し、それが翌72年のニクソン訪中へと発展するのです。米中国交正常化の第一歩がここから始まったのです。

今の北朝鮮が狙っているのもこれです。北朝鮮という国家が存続すること、つまりは金正恩体制が生き延びること、そのために米国との平和協定を結び、北朝鮮という国家を核保有国として世界に認めさせること。おまけに核兵器さえ持てば、現在の莫大な軍事費を軽減させて国内経済の手当てにも予算を回すことができる。

もちろん中国とは国家のスケールが違います(実際、アメリカが中国と国交を回復したのはその経済的市場の可能性が莫大だったせいでもあります)が、北朝鮮の現在の無謀とも見える行動は、アメリカに中国との「いつか来た道」をもう一度再現させたいと思ってのことなのです。

そんなムシのよい話をしかし米国が飲むはずもない。けれどいま米韓日の政府やメディアが声高に言う「北朝鮮からいまにも核ミサイルが飛んでくるかもしれない」危機、というのもまた、あまりにも短絡的で無駄な恐怖なのです。そんな話では全くないのですから。

さてではどうするか? 国連による経済制裁も実は、北朝鮮と軍事・経済面でつながりを持つアフリカや中東の国々では遵守されているとは言いがたく、そんな中での日本の独自制裁もそう圧力になるとは思えません。たとえ制裁が効果を持ったとしても国民の窮乏など核保有と国家認知の大目的が叶えばどうにでもなる問題だと思っている独裁政権には意味がないでしょうし、中国も手詰まりの状態です。なぜなら金正恩は金正日時代の条件闘争的な「瀬戸際外交」から、オバマ政権になってからの放置プレイにある種覚悟を決めた「開き直り外交」にコマを進めたからです。「いつか来た道」の再現には「この道しかない」わけですから。

金正恩の一連の行動は全て、動かないオバマの次の、新たなアメリカ大統領に向けてのメッセージなのだと思います。さて、彼女は/彼は、どう対応するのでしょう。

August 27, 2016

オルトライト?

大統領選はどんどんうんざりする方向に進んでいます。ここでもトランプvsクリントンの選挙戦を何度も「本音と建前の戦い」と説明してきましたが、このトランプ勢力の本音主義、白人男たちの言いたい放題の感情主義を具現する集団を、クリントンがとうとう「オルトライト(alt-right)」と名指しして批判しました。

「オルトライト」とは「オルタナティヴ・ライト Alternative Right」つまり「もうひとつ別の右派」「伝統的右翼とは違う右翼」のことで、本当は右翼かどうかも疑わしいのですが、この5〜6年、自分たちでそう呼んでくれと自称していた人たちのことです。トランプと同じく「政治的正しさ(Political correctness)なんか構ってられない」と、あるいはアメリカの主人公だった白人男たちの特権を取り戻せと、つまり「アメリカを取り戻す!(Make America Great Again!)」と言っている人たちです。

右翼とは本来、保守、愛国、国家主義を基盤としていますが、この「オルトライト」たちには今のアメリカ国家は関係ありません。白人のアメリカだけが重要なのです。したがって「黒人や有色人種はDNAからいって劣っているから差別されて当然」「移民・難民とんでもない」。それだけだと昔からある白人至上主義と似ていますが、彼らは女性差別も当然だと言ってはばからない。反フェミニズム、男性至上主義も取り込んでいるのです。

なにせ、彼らの理想の国は「女性が従順な日本や韓国」なのだそう。それだけではありません。ツイッターなど彼らのSNS上のアイコンはなぜか日本のアニメの女の子であることが多く、しかも日本のネット掲示板「2ちゃんねる」を真似た「4チャンネル」なる掲示板を作って好き勝手な差別的方言暴言で盛り上がっています。新作の女性版「ゴーストバスターズ」の映画で、ヒロインの1人の大柄な黒人コメディエンヌ女優の容姿をさんざんな悪口で侮辱、罵倒して、彼女がツイッターをやめると言うまでに追い込んだ輩たちもこの「オルトライト」たちです。

こういうと何か連想するものはありませんか? そう、日本でさまざまな差別的ヘイト・スピーチを繰り返す「ネトウヨ」と呼ばれる連中のことです。「ネット右翼」=匿名をいいことにネットを中心に辺り構わず差別的言辞を繰り返し、標的のSNSアカウントを「炎上」させては悦に入っている輩ども。

こちらも「右翼」という名が付いてはいるものの、本来の「保守」主義からは程遠く、「反日」「愛国」と叫びはしますが平和を唱える今上天皇をも「反日」認定したりと、まったく支離滅裂。むしろそういう真面目な主義主張や信条をからかうこと自体を面白がる傾向すらあります。

実際、「オルトライト」の名付け親とも言われる人物は、今回クリントンが名指しで批判したことに対して「やっと大統領候補みたいな大物政治家にも存在を認められた」と言って喜ぶのですからどうしようもありません。

反知性主義、排他主義、男性主義、そういうものが世界中で同時発生的に増殖しています。30年前のネオナチから続く流れにポップカルチャーが混じり込み、それにネットメディアが「場」を与えたのかもしれません。そのせいで今、アメリカの共和党が崩壊の危機にあります。

今回の大統領選挙は、そんな傾向に対抗する言説がどれだけ有効かを見る機会かもしれません。ただ、それにしてはクリントンの好感度がどんどん下がって、対抗言説どころの話ではなくなっているのが冒頭の「うんざり」の原因なのですが。

August 26, 2016

「優生思想」という詭弁

『アルジャーノンに花束を』という、いまから50年も前に書かれた世界的なベストセラーがあります。開発されたばかりの脳手術を受けた、知的障害を持つチャーリイ・ゴードンの一人称で書かれるこの物語は、IQ68から数カ月後にIQ185という天才になる青年の知の遍歴の喜びと悲しみと孤独とを綴っていきます。ですが、その知の絶頂にあって、先行した動物実験で同じく驚異的な能力を獲得したハツカネズミの「アルジャーノン」が、やがてその能力や知力をことごとく失っていく様を目の当たりにするのです。徐々に失われていく知能の中で彼自身、自らの退行を押しとどめる技術を研究するのですが、それも空しくやがて彼もまた元の知的障害者に戻っていく……そして最後の一文が、タイトルの言葉に重なってくるのです。

神奈川県相模原の障害者施設で今からちょうど1カ月前の7月26日に起きた、元職員の男性(26)による入所者19人の刺殺、26人への傷害事件が頭を去りません。そしてつらつら思い出していたのがこの小説でした。容疑者は重度の障害者は社会や周囲の人間を不幸にするだけで生きる価値がないとして、「善行」でも施すかのように次々と凶行に及んだのでした。

これをナチスの優生思想として言葉の上で断罪するのは簡単ですが、果たして私たちの社会はその詭弁をきちんと論破し片を付けてきたのだったか?

この事件報道では被害者の名前が遺族の意向で公表されていません。遺族の一人はその理由を「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」「事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」と不公表の苦渋の選択を説明しています。カミングアウトのジレンマがここにも存在しています。カミングアウトしなければ誤解が解けない、誤解が解けないうちはカミングアウトは不可能だ……。

実際、そんな誤解の愚かさを私がツイッターでその旨をつぶやいたところ、「ではあなたは、子供がみな重度の障害者で生まれてもこの社会は大丈夫だと思っているのですか?」とまで言ってくる輩がいました。私にはむしろ、生まれてくる子がみなこの人のようであることのほうが恐ろしい。基本的にこの人は、いろんな人が生まれてくるのが社会であるという多様性の原理を理解していないのです。ほうれん草は葉っぱだけで生まれるわけではありません。根があり茎があり葉があり虫食いがあり傷つく部分もある。それらが全部でひとつです。根の赤い部分が嫌いだ、虫食い部分が嫌だ、と言って除外すれば、茎も葉も育たないし、代わりにまた別の部分が虫に食われるだけです。

障害者は、障害を持っているのではありません。社会の方に、障害者が生きていく上での障害が存在しているのです。だから私たちの社会はその障害を一つ一つ取り除いてきました。バスには車椅子リフトがあり、駅のホームにはエレベーターが設置され、バリアフリーの住宅も増えて、まだまだとは言え今は昭和の時代よりもずっと「障害」が少なくなりました。社会はそのために発展していると言ってもいい。人間みんなが幸せに生きられるために、です。

それは人間が、弱肉強食の世界ではすべて弱者であり、だからこそ社会全体が多様な生き方を保持したまま共生してゆくことが最も有利な生き残り策だとわかったからです。上っ面の損得以上の利益が多様性の中に潜んでいるからです。さらにまた私たちは「障害者」でなくともみな子供時代は「障害」を持ち、老人になればまた「障害」を引き受けざるを得ないからです。「障害者」を邪魔者として「殺す」のが正当化されるなら、老人や働けない者を邪魔者として「殺す」社会との差がなくなるからです。それはつまり、誰もが障害者として排除され得る社会です。

そう考えたとき、冒頭の『アルジャーノン』の物語は実は、幼さという「障害」と老いという「障害」との間を経巡る、他ならぬ私たち自身の物語だったのだと気づくのです。

August 07, 2016

第二の「人間宣言」

「社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、(中略)私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」と「天皇」が切り出したとき、私はほとんどめまいのような感覚に襲われました。「天皇」は「個人」としても「天皇」なのであり、存在そのものが一体である象徴だと(なんの根拠もなく)思っていた自分に気づかされたからです。

それが、ある「個人」が存在して、その人が「天皇」という「務め=機能」について話をしている。では、私の目の前にいる「この人」はいったい「誰?」なのだろうという一閃の疑問がよぎったのでした。そのとき、「天皇」の「お気持ち」表明のこのビデオ・メッセージは実は、「天皇」の新たな、第二の「人間宣言」なのだと気づかされたのです。

日本のメディアは奥歯に物が挟まったような表現しかしていませんが、NYタイムズなど海外メディアの論調は「リタイアメント=引退」という直接表現でこのメッセージを解説していました。あれは確かに「生前退位したい、それが合理的だ」という訴えでした。

生前退位がなぜこんなにも問題になるのか?──それは主に
(1)退位後の上皇、法王化で権威の二重化が起こる恐れがある
(2)退位したいというご自身の意向を装って強制退位させられる恐れも生じかねない
(3)恣意的な退位が可能になれば象徴天皇としての権威が薄れる
(4)皇室典範を変えなければならないので、生前退位を言うこと自体が(違憲の)政治行為になる
──ということでしょう。

これは今の天皇がそうだ、ということではなく、普遍一般の話で、あくまでも様々な「恐れ」を想定した法律論議とならざるを得ないのです。

今上天皇は、15年前には世の嫌韓ブームの走りを察してか自ら「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話されたり、太平洋戦争での激戦地に慰霊の旅を続けられたりと、とても目配りの利かれた、いまの日本で最大の平和主義者であり、かつ現行憲法の見事な体現者であると感得しています(なんといっても、「天皇」もまた人間的な「個人」であると気づかせてくれているのですから)。

そんな方が上皇になって憲法の制約を離れ、ビシバシ政治的発言をなさるとは思いませんし、今回の「お気持ち」に「陰謀」が仕組まれているとも思いません。今回の「お気持ち」の核はあくまでも82歳という年齢のこと、健康のことなのだと推察します。そしてその「意向」が最初にNHKから報じられ、直後に宮内庁がその「意向」の事実を完全否定したのも、前掲の(4)の政治行為を疑われてはならないという、深慮の末の当然のシナリオだったのだと思います。

さてここでやはり日本のメディアが指摘しない重要な視点が欧米主要紙によって明らかにされています。それは「時代遅れ」と批判される皇室典範の改正で退位が実現すれば、皇室の戦後の大転換として女性天皇容認論議も再燃する可能性がある、ということです。これは10年前にも起きた論議ですが、あの時は安倍首相を含む自民党保守派が、そしてその背後にいるいま話題の「日本会議」が強く反対した経緯があります。そしてそれが、現政権の憲法改定路線にどう関わってくるのか?──もっとも、国民の7割が理解を示す生前退位にも、元号や退位後の地位や住居まで、法整備の問題は山積していて、実現はなかなか難しいのも確かなのですが。

July 12, 2016

生ぬるさの裏側で

「改憲勢力が3分の2議席」という今回の参院選の結果を、NYタイムズはアメリカの大統領選やイギリスのEU離脱国民投票とは異なって「ポピュリズムの激しい感情のうねりを必要とせずに達成された。日本の選挙は現状への諦めを反映しているようだ」と論評しました。「大衆はハッピーじゃない。けれど投票で何かが変わるとも思っていない。自民党への支持はせいぜい生ぬるい程度のものでしかない」というテンプル大学アジアン・スタディーズ部長ジェフ・キングストン教授のコメントも合わせて。

この「生ぬるさ」を、高知新聞が興味深いアンケートで裏打ちしています。高知市内で100人に質問したところ、今回の参院選での「3分の2議席」の意味を83人までの人が知らなかったというのです。

「3分の2」というはもちろん憲法改定の是非を国民投票にかけるために必要な議席数です。自民、公明を中心とした改憲派が3分の2を占めたのがこの参院選でもあったのですが、その一方で憲法を変えることに賛成の人はアンケートの100人中35人、反対の人は51人ですから、憲法改定には漠然とでも抵抗がある。けれど「3分の2」のことは気にしていなかったというわけです。

今回から始まった18歳選挙権にしても、蓋を開ければ18、19歳の投票率は45%そこそこ。全体よりも9ポイント以上低いものでした。

どうしてかくも政治への関心が「生ぬるい」のか? ロイターは「人口減少、社会保障制度の先細り、生まれてからずっと停滞している経済まで、日本の若者は不満の種に事欠かないのに」といぶかります。そして「日本の若者は、学校でほとんど政治に触れていない。政治活動のイメージを悪くさせた1960年代の暴力的な学生デモが残した『遺産』なのかもしれない」と推測します。

その「学校」のことで、自民党のウェブサイトが参院選のさなかに「教育現場の中には『教育の政治的中立はありえない』あるいは『子供たちを戦場に送るな』と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいる」として、「政治的中立を逸脱するような不適切な事例を具体的(いつ、どこで、だれが、何を、どのように)に記入してください」と〝タレ込み〟〝密告〟を促す書き込み欄を設けていたことが明らかになりました。

「子供たちを戦場に送るな」が「中立を逸脱した教育」なのか、という激しい反論がネット上で渦巻いて、自民党は即刻この文言だけは削除しましたが、「密告の勧め」はまだそのまま残っています。この後味の悪さは実は今の教育現場では「後味」ではなく今も舌の上で続く味なのかもしれません。

さらには都知事選に出馬しようとした石田純一さんに対し、政治的行動をしたことでのCMや番組出演に関する違約金が「数百、数千万円」に上るという芸能界の「非政治」圧力もまた、アメリカから見ていると本当に不思議な現象なのです。「日頃から政治に関心を持ちなさい」という時間をかけた〝教育〟が、こういう現象で一気に否定される「反政治」社会を見ていれば、若い人たちが「触れぬ〝政治〟に祟りなし」と感じるようになるのは至極当然なことに思えます。実際、学校で政治のことを話したりすれば生徒や学生同士で「意識高い系」として敬遠される風潮はずっと以前から続いていて(生徒会の会長選にだって立候補者がいないという状況はかねてより指摘され続けてきたことです)、昨年来の学生たちによるあの「SEALDs」運動も、そんな圧倒的な現状への異議を申し立てようというささやかな胎動でした。

もっとも、大人社会でできないことが、若者社会ならできるというのは青春というものへの淡い妄想で、この親にしてこの子ありなのはいつの時代もどの世界でも同じなのかもしれません。

ただ、もう一つ、いつの時代もどこの世界でも共通していることがあります。

それは、政府の言うことは常に「政治的中立」で、それ以外は「中立性を欠く」と言うのは、独裁国家の物言いだ、ということです。それを通用させるには、その前にまず「政治を語らない、関心がない」という世間一般の「生ぬるさ」が必要だということもです。なぜならいつの時代でもどこの世界でも、権力は常にそんな「生ぬるさ」の裏側で策動しているのですから。

June 07, 2016

置き去りの心

日本に戻って北海道・駒ヶ岳の男児置き去り"事件"に関するテレビの騒ぎ方や親御さんへのSNS上の断罪口調を見ていて、改めて世間の口さがなさを思い知っています。今朝退院したそうの大和くんはテレビで見る限りすっかり元気で、ほんと無事でよかったなあ、でいいはずなんですが、その後も教育論だのしつけ論などがなんともかまびすしいこと。

こういう問題はとても難しくて、この子に通じる「論」が他の子に通じるとは限らないし、例えば私も北海道民でしたが、子供のころはよく「そんなことしてたら置いてきぼりにするよ!」と叱られたものです。

実際に田舎の道端に置いてきぼりにされたこともあって、「しかし今思えばそうやって泣きながらサバイバルできる子供に育ったんだなあ」とふとツイッターでつぶやいたら、「そんなことしたら大阪ならすぐに人さらいに遭う」と本気か冗談かわからないリプライをくれる人や、中には「それは体罰だ。子供が取り返しのつかない心の傷を受けるのがわからんのか」とこれまたご自身の経験からか反発なさる方もいて(ある人には「普段はリベラルなふりをしてこういう時にマッチョなミソジニーが馬脚を露わす」なんていうふうに罵倒されました。すごい洞察力だこと……。)、全くもってこの件に関しては「物言えば唇寒し」の感が強いのです。

私はもちろん体罰の完全否定派ですから、体罰だとの指摘はちょいと応えました。ただ、子供のころにその心に何らかの負荷を与えられることは(その子が耐えられる負荷の多寡は斟酌しなくてはなりませんが)、その心の成長のためには絶対に必要なことだと思っています。それがトラウマになるかどうか、そのトラウマを経てさらに強くなれるかどうか、あるいはさらに優しくなれるか否かも、その子その子によって違うので見極めは実に難しいでしょうが。

もしアメリカで「置き去り」なんかしたら親は逮捕されます。自宅に子供を一人置いて出掛けることさえ時には逮捕の対象ですから。子供は親の所有物ではない、という思想もあります。社会全体の宝物だという考え方においては、親の身勝手な"しつけ"は許されません。でも、一方で「置き去り」の気分というのは味わっておいた方がいいとも思う自分がいます。

例えばある種の文学作品は、まるで体罰のように若く幼い私を打ち据えました。実際に殴られ血を流してはいずとも心はズタズタになった頃があります。死んでいたかもしれません。それは、体罰以上に過酷な刑罰でした。でも、誰もそのことを体罰だとは言わなかったし、禁止もしないどころかむしろ読書は奨励されていたのです。そこで暴かれる罪にどんな罰が待っているかも教えないままに。

そう考えると、私は大和くんが親に"置き去り"にされたことと、自分がある種の文学作品によって"置き去り"にされたこととの、その暴力性の違いがよくわからなくなるのです。どうやってそこから生き延びたのかも。

かろうじて今わかっていることは、幼い頃に叱られて置いてきぼりにされた時も、泣いている私を親たちは必ず私の見えないところからじっと見ていたのだろうということです。ちょうど、大和くんの親がすぐに彼の様子を見に、車でそっと戻ったように。

誰かがそっと見守っていてくれる。視点を変えれば、自分がそっと見守り続ける──それが(独りよがりの見守り方もあるでしょうが)暴力と鍛錬との分かれ目かもしれません。打ちのめされた若い私にも、思えばそっと見守ってくれていた友人や先生や親がいましたっけ。

大和くんは、おそらくそんな風にすでに親御さんとの関係性においてサバイバルの力を培っていたのかもしれません。もちろん、そんなことは穿った見方でほんとはまったく関係ないかもしれません。なので、私たち大和くん一家を知らない者たちによる一般論とその敷衍はあまり意味がないことなのです。だから、この話はそれでもういいじゃないですか。(とまあ、ツイッターで言いたかったことはそういうことでした)

May 24, 2016

広島と謝罪と「語られていない歴史」

共同通信のアンケートで、広島や長崎の被爆者の8割近くの人たちがオバマ大統領に原爆投下への謝罪を求めないと答えました。「謝罪しろと言ったら来ないだろうから」と言う人もいました。確かに原爆ドームや展示館は、「来る」だけで何らかの思いを強いるものでしょう。

日本人は原爆を落とされた後の「結果」を見る。アメリカ人は原爆を落とす前の「原因」を見る。で、今も原爆投下を日本の早期降伏のために必要だったと考える人はアメリカに今も56%います。

でも同じアメリカ人でも44歳以下では投下を正しくなかったと答える人の方が多くなってきました。そんな世論と世代の変化を背景にオバマ大統領が広島で犠牲者を追悼します。これはアメリカ(大統領)が、原爆を落とした「結果」について触れる初めてのことでもあります。

もっとも、アメリカは第二次大戦前も今も同じ国体を保っています。同じ「国」が、自分の過去を謝罪することは、そこから続く現在の国のあり方を謝罪することにもなって論理的に難しい。1945年の前と後では国体の異なる今の日本が、違う国だったあの「大日本帝国」の慰安婦問題やバターン死の行進、南京虐殺を謝罪するのとは意味が全く違うわけです。

さて、それでもオバマ大統領が広島訪問にこだわったのは、もちろん就任直後に核廃絶を謳った09年のプラハ演説(ノーベル平和賞を受賞したきっかけです)の締めくくりを任期最後の年に行いたいという思いがあったのでしょう。でもこの間、世界の事情は大きく変わりました。「イスラム国」の台頭で核兵器は米ロ中といった国家間での交渉だけの問題ではなくなりました。世界の核管理の問題がより複雑になり、そこに北朝鮮やイランなどの不確定要素も加わって、核廃絶の道は遅々として進まないままです。

日本の事情もありました。鳩山政権時の09年にオバマ大統領が広島訪問を日本側に打診した際には、当時の藪中外務次官がルース駐日大使に「反核団体」や「大衆」の「期待」を「静めなければならない」ため「時期尚早」と自ら断っていたのです。民主党政権の得点になるようなことを、一官僚が個人的な忖度で回避したのだという見方もあります。

その後もオバマ大統領は広島訪問を探りますが、やがて与党に返り咲いた自民党・安倍首相が靖国参拝を断行したりハドソン研究所で「私を軍国主義者と呼びたい人はどうぞ」とスピーチしたりで日米関係は最悪になります。

それでもオバマ政権の嫌悪感をよそに憲法改定への道を探りたい安倍首相は、集団的自衛権の容認及び法制化で、米国(特に国防省)に擦り寄る作戦に出ました。同時に米国(これは国務省です)の強い要請のあった懸案の韓国との表面上の和解も果たして、外交的にも鎮静化を図ります。そうして伊勢・志摩サミットの開催で、オバマ広島訪問のお膳立てがそろったのです。

米側、というよりも任期最後の大統領の個人的な思いと、安倍首相の狙う平和憲法改定へ向けての参院選挙あるいは衆参同時選挙のタイミングが、ここで合致します。そこで広島の平和記念碑の前で日米トップのツーショットが世界に発信されるのです。この辺の安倍政権の算段は、偶然もありましょうが実に見事と言わねばなりません。

***

実は71年前の原爆投下の後で、7人いるアメリカの5つ星元帥及び提督の6人までが(マッカーサーやアイゼンハワー、ニミッツらです)原爆は軍事的に不必要で、道徳的に非難されるべきこと、あるいはその両方だと発言しています。その中の1人、ウィリアム・リーヒー提督は、原爆使用は「"every Christian ethic I have ever heard of and all of the known laws of war.(私の聞いたすべてのキリスト教的倫理、私の知るすべての戦争法)」に違反していると指摘し、「The use of this barbarous weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. In being the first to use it we adopted an ethical standard common to the barbarians of the dark ages.(この野蛮な兵器を広島・長崎で使用したことは、日本に対する我らの戦争において何ら物理的支援ではなかった。これを使用する最初の国になることで、我々は暗黒時代の野蛮人たちに共通する倫理的基準を採用したのだ」とまで言っています。

これらはアメリカン大学のピーター・カズニック教授の「The Untold History of US War Crimes」(米国の戦争犯罪に関する語られない歴史)というインタビュー記事に中に出ています。

それによれば、戦争末期には日本の暗号はすべて米側に解読されていて、日本の軍部の混乱がつぶさにわかっていたのです。マッカーサーは「日本に対し、天皇制は維持すると伝えていたら日本の降伏は数ヶ月早まっていただろう」と発言しています。実際、1945年7月18日の電報傍受で、トルーマン大統領自身が「the telegram from the Jap emperor asking for peace.(日本の天皇=ジャップ・エンペラーからの和平希望の電報)」のことを知っていました。トルーマンはまた、欧州戦線の集結した1945年2月のヤルタ会談で、スターリンが3か月後に太平洋戦争に参戦してくるのに合意したと知っていました。その影響の大きさも。4月11日の統合参謀本部の情報部の分析報告ではすでに「If at any time the USSR should enter the war, all Japanese will realize that absolute defeat is inevitable. ソ連の参戦は、日本人すべてに絶対的な敗北が不可避であることを悟らせるだろう」と書いてあるのです。

さらに7月半ばのポツダムで、トルーマンはソ連の参戦を再びスターリンから直に確認しています。その時のトルーマンの日記は「Fini Japs when that comes about. そうなればジャップは終わり」と書いてあって、翌日には家で待つ妻宛の手紙で「We'll end the war a year sooner now, and think of the kids who won't be killed. 今や戦争は一年早く終わるだろう。子供達は死なずに済む」と書いていました。もちろん、日本の指導者達はそのことを知らなかったのです。

そして広島と長崎の原爆投下がありました。マッカーサーは広島の翌日に自分のパイロットに怒りをぶつけているそうです。そのパイロットの日記に「General MacArthur definitely is appalled and depressed by this Frankenstein monster. マッカーサー元帥は本当にショックを受けていて、このフランケンシュタインの怪物に滅入っていた」と記されていました。「フランケンシュタインの怪物」とは、人間の作ってしまったとんでもないもの、つまりは原爆のことです。

ただし、原爆が日本の降伏を早めた直接の契機ではなかったのです。46年1月、終戦直後の米戦争省の報告書は(最近になってワシントンDCの米海軍国立博物館が公式に見つけたものです)"The vast destruction wreaked by the bombings of Hiroshima and Nagasaki and the loss of 135,000 people made little impact on the Japanese military. However, the Soviet invasion of Manchuria … changed their minds."(広島と長崎の爆弾投下によってもたらされた広範な破壊と13万5千人の死は日本の軍部へ少ししか衝撃を与えなかった。しかし、満州へのソビエトの侵攻こそが彼らの意見を変えた)として、日本の降伏を早めたのは原爆ではなくてソ連の満州侵攻だったのだと分析しています。

あの当時、戦争の現場にいて原爆の非情な威力を目の当たりにした軍部のトップ達はおそらく自分たちの軍が犯したその行為の「結果」に、恐れをなしたのだと思います。それはしかし、取り返しも何もつくものではなかった。だから歴史を「語り直す」作業がそこから始まったのでしょう。「日本は原爆によって降伏を早めたのだ」と。「日本の本土決戦で奪われたであろう50万人のアメリカ兵の命と、やはり犠牲になったであろう数百万人の日本人自身の命をも救ったのだ」と。

***

今は語られていないその歴史も、「戦争」を冷静に見ることのできる世代が育ち上がればやがて米国の正史になるかもしれません。それはひょっとすると数年先のことかもしれません。

でもその前に、次に安倍首相が真珠湾で謝罪し、さらに「トランプ大統領」が回避されれば、という条件が必要でしょうが。

April 20, 2016

個人的なことは政治的なこと

ニューヨークの予備選では「勝ち方」が問題でした。クリントンもトランプも有利が伝えられていましたから、あとはどのくらいの差で勝利するかだけがポイントでした。特に両候補とも直前の他州での”負け方”が気になっていたので、トランプはこのままでは7月の党大会の前に大議員数で過半数に達しないのではという懸念が生まれていたのでなおさらです。

民主党のクリントンとサンダーズの場合は得票率の差が二桁になるか一桁になるかがカギでした。十数%ポイントならクリントンの強さが示されて指名獲得へやっと最終ストレッチに入ることになります。逆に10%ポイント以下ならサンダーズの強さが改めて示され、まだもつれる可能性がありました。開票直後のCNNは独自の出口調査からかその差が開いていないとしてクリントンに当確を打つのをためらっていたから、クリントン陣営はヒヤヒヤだったでしょう。もっとも、結果はCNNの出口調査を全く裏切る15%ポイント差と、予想以上の大差でしたが。

一方の共和党はさすがに「ニューヨークの価値観」を非難した宗教右翼クルーズを選ぶわけにもいかず、トランプ以外に投票する積極的な動機はなかったのでしょう。かろうじてケイシックが2位につけたのはニューヨークの”良心”だったでしょうか。しかし60%もの得票率でNY州代議員95人をほぼ総取りできたのは、危ぶまれた指名獲得を引き戻した感もあります。

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それにしても今回の選挙で思うのは人々の個人的な本音の思いの強さです。ロングアイランドシティ、イーストリバー沿いのサンダーズの集会に行って話を聞くと、みんな口々に「政治的革命だ」と言います。「解決策(リゾルーション)がないなら革命(リボリューション)だ」というTシャツのアフリカ系の女性もいました。「クリントンはウォール街から巨額の選挙資金を受け取っているから金持ち優遇を止められるはずがない」と吐き捨てる黒人男性もいました。確かに1回の講演料が20万ドルとか30万ドルとか言われ、昨年から3回講演したゴールドマン・サックスでは計60万ドル(現レートで6600万円)が支払われたというので「こりゃダメだ」と思ったかつての支持者たちのサンダーズ流れが加速してもいるのでしょう。

上位1%の富裕層が世界全体の富の半分以上を所有していると言われます。先日、ボストン大学で講演してきましたが(私の講演料は数百ドルですw)、そこで聞いたのは米国の大学の授業料はいまや年間6万ドルもして、学生たちには卒業時には10万ドル台のローンがのしかかっているという話でした。聴衆の学生たちは中国の富裕層の子女もかなり目立ちました。講演が終わって雑談や立ち話になって、その中の1人の女子学生がニューヨークでいちばんの日本レストランはどこかと聞いてきました。私が「東京レベルの素晴らしい店もあるけど、すごく高いよ」と応えると、「大丈夫、お父さんに頼むから」と言われました。

若者たちにさえそんな歴然とした格差が存在する。そしてそれは米国内だけではなく世界単位で進んでいます。私たちを取り巻くそんな現状にはもう処方箋など残っていず、「革命だ」と叫ぶ以外にないような気がするのはわかります。

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何度も言いますが、米国はそうした個人の本音を公的な建前に昇華して歴史を作ってきた国です。黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが公民権という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には私的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。「私」と「公」の間に回路が通っている。そうでなければ「本音」はいつまでたってもエゴイズムから旅立てません。その双方向の調整装置が最大に稼働するのがこの4年ごとの大統領選挙なのでしょう。

日本ではなかなかこの私的な「本音」が公的な「建前」に結びつきません。「建前」はいま「偽善」だとか「嘘」だとかという意味が付随してしまって、人々から軽んじられ、嫌われ、疎まれてさえいる。

しかし考えてもみてください。理想、理念はすべて建前の産物です。「人権」も建前、「差別はいけない」も建前、「平等」も「公正」も「正義」もみんな建前を追求して獲得してきたものです。ところがそういうもの一般が、日本ではあまり口にされない。口にする人間はいま「意識高い系」と呼ばれて敬遠されさえします。だから問題を言挙げすると「我慢している人もいるのに自分勝手だ」「目立てばなおさら事態が悪くなる」と足を引っ張る。そうして多くの個々人が感じている不具合は、公的に共有され昇華されるより先に抑圧される。

日本をより美しくするにはこの「私」と「公」とをつなぐ回路を作らねばなりません。「個人的なことは政治的なこと The Personal is Political.」という50年も前の至言を知らねば、いまアメリカで起きているこの「革命」めいた混乱を理解することもできないのだと思います。

February 23, 2016

丸山発言のヤバさ

CNNが「日本の国会議員が『黒人奴隷』発言で謝罪」という見出しで報道した自民党の丸山議員の発言は、大統領=オバマ=黒人=奴隷という雑な三段(四段?)論法(というか単純すぎる連想法)が、人種という実にセンシティブな、しかも現在進行形の問題で応用するにはあまりにもお粗末だったという話です。たとえ非難されるような「意図」はなかったとしても、そもそも半可通で引き合いに出すような話ではありません。とにかく日本の政治家には人種、女性、性的マイノリティに対するほとんど無教養で無頓着な差別発言が多すぎます。

この人権感覚のなさ、基準の知らなさ具合というのは、何度もここで指摘しているようにおそらく外国語情報を知らない、日本語だけで生きている、という鎖国的閉鎖回路思考にあるのだと思います。日本では公的な問題でもみんな身内の言葉で話すし、そういう状況だと聞く方も斟酌してくれる、忖度してくれる→そうするとぶっちゃけ話の方が受けると勘違いする→すると決まって失言する→がその何が失言かも勉強しないまましぶしぶ謝罪して終わる→自分の中でうやむやが続く、という悪循環。そういう閉鎖状況というのは昭和の時代でとっくに終わっているはずなのに、です。

かくして丸山発言は当事者の米国だけではなく欧州、インド、ベトナム、アフリカのザンビア等々とにかく全世界で報じられてしまいました。

このところこのコラムで何度も繰り返している問題がここにもあります。日本では本音と建前の、本音で喋るのが受けるという風潮がずっと続いています。建前は偽善だ、ウゾっぽい、綺麗事だ、とソッポを向かれます。だから本音という、ぶっちゃけ話で悪ぶった方がウケがいい。

しかし世界は建前でできています。綺麗事を目指して頑張ってるわけです。綺麗事のために政治がある。そうじゃなきゃ何のために政治があるのか。現状を嘆きおちょくるだけの本音では世界は良くなりはしない。

まあ、トランプ支持者にはそういう綺麗事、建前にうんざりしている層も多いのですが、CNNはじゃあこの丸山議員はわざと建前を挑発して支持者を増やそうとする「日本のトランプなのか?」と自問していて、しかし、そうじゃない、単に「こうした問題に無関心かつ耳を傾けないこの世代を象徴する政治家だ」と結論づけているのです。

さてしかし私は、今回のこの丸山発言、問題は報道されたその部分ではなくて実はその前段、「日本がアメリカの51番目の州になり、日本州出身の大統領が誕生する」と話した部分なんだと思います。

発言はこうです。日本が主権を放棄して「日本州」というアメリカの「51番目の州」になる。すると下院では人口比で議員数が決まるからかなりの発言力を持つし、上院も日本をさらに幾つかの州に分割したらその州ごとに2人が議員になれるから大量の議員役も獲得できる。さらに大統領選出のための予備選代議員もたくさん輩出するから「日本州出身大統領」の登場もおおいにあり得るぞという話。そこでこの「奴隷でも大統領になれる国」という発言が飛び出すのです。

日本がアメリカの属国状態だというのは事実認識としてわかりますが、しかし「日本が主権を放棄する」って「売国」ですか? いやもっと言えば、売国するフリしてアメリカを乗っ取ってしまおう、って話じゃありませんか?

これはヤバいでしょ。しかしそこはあまり問題にならないんですね(日本のメディアが詳報しないんで外国通信社もそこを報道しないため気づかれていないということなんでしょうが)。ま、日本のメディアが報道しないのは、そういうのはどうせ居酒屋談義だと知ってるからでしょうけど、政治がこういう居酒屋談義、与太話で進んでいる状況というのはいかがなんでしょうか。そして何より、この丸山発言に対して、当の自民党が総裁を始め幹部一同まで明確にはたしなめも断罪もしないという状況が、対外的メッセージとしてはそれを容認しているということになってしまって(まあ、事実そうなんですけど)さらにヤバいと思うのですが。

February 16, 2016

映画『あん』を観て

帰国便の機内で河瀬直美監督の「あん」という日本映画を見ました。永瀬正敏演じる訳ありのどら焼き屋さんに、樹木希林演じるお婆さんが仕事を求めて訪れて、絶品のあん作りを伝授する、というお話です。

美しい桜の景色から始まる物語は淡々と、けれど着実に進んで行きます。なるほどよくあるグルメ映画かと思う頃に、最初に描かれたお婆さんの手指の変形という伏線が顔を出してきます。彼女はほど遠からぬ所にある「らい病」つまりハンセン病患者の施設(旧・隔離施設)から通っていることが明らかになり、その噂で客足も遠のくことになるのです。

心にしみる佳作です。お婆さんはその店でのアルバイトを辞して「園」に戻ります。映画は「世間」の偏見と無理解とに直接対峙するわけではありません。店主の無言の悔しげな表情と、そして常連だった女子中学生と2人しての「園」訪問と再会とが、かろうじてこの病気を取り巻く「差別」と「やるせなさ」の回収に機能します。そして映画は観客の心に何らかの種子を植え付けて終わるのです。

一人一人の心の底に染み渡りながら、しかしその「種子」が「私」の土壌から芽吹いて「公」の議論に花開くことはあるのだろうかと思ったのは、翻ってアメリカの大統領選挙のことを考えたからでした。米国では4年に1度、全国民レベルで「私」たちが「公」の議論を戦わせる大いなる機会があります。というよりむしろ米国という国家そのものが、「私」の領域を「公」の議論に移し替えて成立、発展してきたものでした。

黒人奴隷の問題は「私」的財産だった黒人たちが「公民権」という「公」の人間になる運動に発展しました。女性たちは60年代に「個人的なことは政治的なこと」というスローガンを手にして社会的な存在になりました。そして同性愛者たちも「個人的な性癖」の問題ではなく人間全部の「性的指向」という概念で社会の隣人となり結婚という権利をも手にしました。

それらの背景には個人的な問題を常に社会的な問題に結びつけて改革を推し進めようという強い意志と、それを生み出し受け止める文化システムがありました。顧みれば社会問題に真っ向から取り組むハリウッド映画のなんと多いことよ。

人権や環境問題では地下水汚染の「エリン・ブロコビッチ」やシェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の「プロミスト・ランド」がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。ハンセン病に匹敵する「死病」だったエイズでもトム・ハンクスの「フィラデルフィア」などが真正面から差別を告発しています。今年のオスカーで作品賞などにノミネートされている「スポットライト」はカトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描いています。

映画としてどちらの方法が良いかという問題ではありません。アメリカはとにかく問題をえぐり出して目に見える形で再提出し、さあどうにかしようと迫る。彼我の差は外科手術と和漢生薬の違い、つまりは文化の違いなのでしょう。でも、後者は常に問題の解決までにさらなる回路を必要とするし、あるいは解決の先送りを処世として受け入れている場合さえあります。かくして差別問題は日本では今も多く解消されず、何が正義なのかという議論もしばしば敬遠され放置される……。

映画としての良し悪しではない。けれど社会としての良し悪しはどうなのでしょう? 個人の心に染み渡らねば問題の真の解決はないでしょう。しかし一方でそれを社会的な問題として言挙げしなければ、迅速な解決もない。その両方を使いこなす器量を、私たちはなぜ持ち合わせられないのかといつも思ってしまうのです。

February 02, 2016

偽善vs露悪

初戦アイオワでのトランプの敗北は、トランプ人気が実は「面白がり屋」たちの盛り上がりで支えられているということなのかもしれません。選挙はやはりその土地で実際に歩き回る「どぶ板選挙」のような運動が下支えするのでしょう。もっとも、来週のニューハンプシャーなど、これ以降の州ではあいかわらずの強さを示しているようですが。

対して民主党の方はクリントンとサンダーズが事実上の引き分けです。当初は(社会主義者と自称するがゆえに)泡沫とみられていたサンダーズがここまで健闘する背景には、若者たちに広がる社会格差感が(社会主義的メッセージを必要と感じるほど)深刻だということなのかもしれません。サンダーズはニューハンプシャーではクリントンを破るだろうと予想されています。

それにしてもアメリカはどうしてこうも大統領選挙で盛り上がるのでしょうか? 4年に1度の政治的お祭り、と言うのはわかりますが、どうしてその「政治」イベントが「お祭り」のようになるのでしょう?

政治が盛り上がるのは、この国では人間が社会的存在として成立するからじゃないかと思います。「有権者=社会的人間」として「投票=社会的行動」するためにあちこちで「政治=社会的言説」を語る。社会的言説とは「建前=理想と正義」を語って他人と生き方を共有することです。すなわち「社会」を作ることです。アメリカの政治社会史とは、黒人の公民権運動をはじめとして女性の権利、性的少数者の権利など、一人一人が「公民」=社会的存在になるためのうねりだったのですね。

ですから、社会的言説(建前)が必要で、それにコミットしたいと思うのは、基本的にはマイノリティの心性なんです。私的で個人的な言説では埒があかないので、次元を上げて社会の在り方を問題にする。個人の好み(本音)だけではない、どんな社会を求めるべきかを語らねばならない、という自覚。

そう、アメリカの今はみんながどこかでマイノリティだと自覚している時代なのです。人種や性指向に限らず、社会的にも経済的にも、価値観が多様になればなるほどみんながそれぞれのマイノリティです。だからこそそれぞれの場所で社会的言説(建前)がさらに必要になる。

大統領選挙というのはまさにそんなおおっぴらな社会的言説(政治)が許される、奨励される場なんですね。それは盛り上がるはずです

対して昨今の日本社会はどうでしょうか? 私たちはいつの間にか建前(社会的言説)を語ることがとても格好悪いことだと思うようになってきました。本音で生きようよ、と。

そういえば同調圧力の強い日本ではみんなが自分をマジョリティだと思いたがる。マジョリティという安心感があれば、それ以上の建前はあまり必要ないんですね。「本音で生きよう」とはつまり、すべてを個人的な領域で片付けることです。正義と理想は、ナニ格好つけてんだよ、となる。それは「偽善」で、個人の好みをあけすけに語る「露悪」にこそ価値が置かれる。それは当然、社会的存在としての人間を「偽善」として忌避する傾向につながります。よって露悪趣味のネット右翼が声を張り上げる。

実はこれまでのトランプの主張もこの「露悪」を利用したものでした。「政治的正しさ(PC)」を「偽善」として叩き、人間の、生物としての防御本能や恐怖という「本音」を前面に押し出して「私的正しさ」を主張してきた。

その意味で、私は今回の大統領選挙を、まさにこの「建前=公民=PC=偽善」と「本音=私民=非PC=露悪」の戦いの最たるものとしても見ています。

December 08, 2015

排除と防衛の本能

6日に行われたフランスの地方選で極右政党の「国民戦線」が記録的な支持を集めました。得票率は全体の28%。5年前の前回選挙では11%でしたから2倍半にも増えました。全13の選挙区のうち半分近い6選挙区で首位、しかも党首マリーヌ・ルペン(47)とその姪の副党首マリオン・マレシャル・ルペン(25)は、それぞれ40%超の票を獲得したのです。

130人もが殺害された11月のパリ同時多発テロの不安が「反EU」「反移民」を訴える同党への共感を呼んでいるのでしょう。

同じことがカリフォルニア州の銃乱射テロでも言えます。共和党大統領候補ドナルド・トランプは例によって全てのイスラム教徒の米国渡航を禁止すべきだと主張し始め、支持率をさらに上げています。

銃規制問題も、こういう事件が起きるたびに米国社会には「銃規制すべきではない」「自分と家族を守るために銃所持は必要」という世論も逆に高まるのです。

これまで、米国で最も銃が売れた1日は3年前の12月21日でした。この日の1週間前、コネチカット州ニュータウンで26人殺害の例の「サンディフック小学校銃撃事件」が発生していたのです。

今年のブラックフライデーでも、過去最高の18万5千件以上の銃購入犯歴照会すなわち過去最高の銃セールスがありました。もっともブラックフライデーに限らず、銃の売り上げ自体も今年は年間を通して例年より増加しています。というか、4人以上が死傷した銃乱射事件自体が今年はすでにカリフォルニアの事件で355件目。こういうのを「負のスパイラル」というのでしょうか。

「反EU」「反移民」「難民規制」「反イスラム」「反銃規制」──これらはすべて人間として当然の防衛本能から始まっていることです。私たち人間は、経験則からも常に「悪いことが起きる」と想像してそれに対処できるようまずは身構えることから始めるようにできています。何かいいことがあるはずと想像してガッカリするよりも、初めに悪いことを想像していればそう落ち込まずにも済む、という先回りした自己防衛です。

しかしそればかりでは人間生活は営めません。周囲に戦々恐々としているだけでは友情も共存も平和すらも訪れません。つまりは繁栄もない。「己を利する」ことだけを考えていては結局周囲の反感を買って「己を利する」ことができなくなるという「利己主義」の矛盾がそこにあります。

「防衛」も似た矛盾を抱えています。究極の防御は「予防的防衛」です。「予防的防衛」は「予防的先制攻撃」にすぐにシフトします。そして「予防的攻撃」に専心すれば相手側も先に予防的攻撃を防ぐ予防的攻撃を画策するでしょう。

それが軍拡競争でした。7万発という、人間世界を何度滅ぼせばいいのかというレベルの核兵器が存在した80年代冷戦期の愚蒙を経て、私たちはその矛盾を知っていたはずでした。

それでも背に腹は変えられない。まずは生き延びねば話にならない。それはそうです。しかしそういうことを主張する人々が「防衛」の後の「共存」の展望を、「利己」の後の「利他」の洞察を、ほとんど度外視しているふうなのは何故なのでしょう。その人たちの脳はマルチタスクではないのでしょうか?

フランスやアメリカを笑ってはいられません。中国の脅威だ、北朝鮮のミサイルだ、と同じパニック感を背景に日本でもいま、平和共存の理念が排除防衛の本能に置き換わろうとしています。

背に腹は変えられません。が、背と腹はともに存在して人間なのです。

November 16, 2015

11.13と9.11

思えば14年前、私たちニューヨークに住む者たちは今のパリの人々と同じ恐怖と不安と怒りと悲しみとを共有していました。あのころアメリカには星条旗が溢れ、同じように「普段と同じ生活を続けよう。家にこもっていたらテロに屈したことになる」という呼びかけが誰からともなく発せられ、世界中から数限りない追悼と支持のメッセージが寄せられました。

ただ、14年前と今ではなにやら受け取り方が違うところもあります。Facebookではパリ市民への支援といたわりを込めて自分のアイコンにフランス国旗の三色を重ねる人が急増していますが、一方でパリ事件の前日にあった43人死亡のベイルートでの連続テロ事件には何ら大きな反応を示さなかった大多数の「自分」たちに、「この違いは何なのだろう」という疑問が浮かんでいます。FBが、パリ事件で急きょ適用した安否確認機能も、ベイルートやその他のテロ事件では有効にしなかったことへの批判が起きました。

思えば2001年のあの当時は、欧米はまだ自分たちが「無実の被害者」であることを信じていた時代だったのかもしれません。もっとも、現在のテロ戦争へと連なる動きは直接的には1979年のソ連アフガン侵攻あたりから始まってはいたのです。その時アメリカはソ連に対抗してアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供しました。それがイスラム原理主義勢力で、そこにオサマ・ビン・ラーデンもいた。

やがてソ連は侵攻に失敗し91年の崩壊につながりました。中東ではイラクのクウェート侵攻と湾岸戦争の勃発、そしてアフガンの無秩序状態と内戦が始まりました。タリバン、アルカイダは、そんな背景から起ち上がってきたのですから。

でも、それは世界貿易センターの崩壊という圧倒的な事件の前では吹っ飛んでいました。世界はアメリカを支持し、ビン・ラーデンは世界の悪者となり、やがてそれはサダム・フセインにも向けられて、米英などの「有志連合」によるイラク戦争へと突入していったのです。

フランスに溢れる「パリは恐れない」というスローガン、「我々はパリとともに立つ」というメッセージ──ニューヨークも同じものを経験しました。私はいまも、そこから起きた労わりと善意と親切と癒しとを忘れていません。そして同時に、狂騒と間違いをも。

イラク戦争の大義名分だった「大量破壊兵器」は虚偽でした。そしてそのウソから始まった戦争がイラクの混乱を招き、タリバン、アルカイダに続く原理主義「イスラム国」を生み出した。

私たちはもうそれを知っています。パリの虐殺に対し、FBの三色旗アイコンに賛否が分かれるのも、シリア出身の女性の「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います」というツイートがたちまち世界中に拡散しているのも、私たちは世界がすでに「あの時」よりも複雑になってしまったことを知っているからなのでしょう。

政治家に求められているのは常に、直近の問題解決能力と10年後のより良い未来を作る能力です。しかしその2つが両立しない場合、前者を行えば後者が成立しない場合、「目には目を」が世界を盲目にするだけの場合、私たちはどうすればよいのか? その難問がいま私たちに突きつけられています。

日本のある若手哲学者が「まいったな。これが21世紀か」と嘆いていました。ええ、これが21世紀なのでしょう。

November 09, 2015

旭日大綬章

ジャパンハンドラーとして有名なリチャード・アーミテージやブッシュ政権での国防長官ドナルド・ラムズフェルドの2人が秋の叙勲で旭日大綬章を受けることが発表されたその翌日、イラクの政治家アフマド・チャラビが自宅で心臓発作で死亡していたとの報が届きました。この取り合わせに興を殺がれたのは私だけでしょうか。

このチャラビという人物がアメリカを誘導してイラク戦争に突入させたのです。いえ、それにはもちろんチャラビを利用してイラクに介入し、中東におけるアメリカ戦略を有利に進めようとしたラムズフェルドらネオコン一派がいたことが背景でした。

チャラビはイラク・シーア派の名家の出で、16歳でマサチューセッツ工科大学に入るなど神童と呼ばれた人物。サダム・フセイン時代には国外に亡命していた反フセイン運動の政治策士でした。

憶えていますか? イラク開戦の理由は、9.11から続く対テロ戦争の流れで「イラクは核や生物化学兵器など大量破壊兵器を隠し持っている」というものでした。それが嘘だったことは今では明らかで、イラク進攻に前のめりだった当時のブレア英首相も先月、CNNのインタビューに答えて「情報が間違っていた」と謝罪したほどです。なぜそんな情報が流れたのか?

そこに反体制派組織イラク国民会議(INC)の代表のチャラビがいました。フセインの追放を目指していた彼が、ここぞとばかりに大量破壊兵器のニセ情報を軍事機密として売り込んだのです。「フセインに虐げられているイラク国民がアメリカの進攻を待ち望んでいる」「フセインを追放したらアメリカは解放者として歓迎される」とラムズフェルドや同じくネオコンの筆頭格ポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)に信じ込ませたのも彼でした。

精緻に仕組まれたニセ情報だとしてもネオコンたちはなぜかくも簡単にそれを信じたのか? ネオコンは親イスラエルです。そのネオコンのパトロンたちに、チャラビはフセイン後に自分がイラクの指導者になれば、イラクをアラブ民族主義から脱却させて民主化し、その上でイスラエルと和平を結んでイスラエル企業がイラクでビジネスできるようにする、イラク北部のモスル油田とイスラエルの製油港はイファをつなぐパイプラインを作る、とも約束していたからです。

人は信じたい未来しか信じないと言いますが、米国とイスラエルの抱える難題を一気に解決するこの中東再編の「夢物語」にラムズフェルドらはまんまと引っかかったのでした。

この経緯はマット・デイモンが主役を務めた『グリーン・ゾーン』という映画にもなっています。懸命に大量破壊兵器を探しても見つからず、そのうちに国防総省の大変な情報操作と陰謀とが明らかになっていくという映画です。これに登場する亡命イラク人「アフマド・ズバイディ」のモデルがチャラビでした。

フセイン憎しの私怨と金儲けしか頭になかったようなチャラビは、果たしてイラクでも全く人望もなく、ラムズフェルドらがイラク新政権の首班に置こうとしたのも当然のように失敗しました。かくしてブッシュ政権ネオコン一派が夢見た「新イラク」は破綻し、そのゴタゴタを縫って「イスラム国」という化け物が誕生したのです。

その責任の一端にチャラビがいます。そしてもう一端にラムズフェルドらがいる。チャラビは暗殺もされかけましたが結局は自宅のベッドの上で病死しました。そしてイラク戦争の「戦犯」と批判されるラムズフェルドは安倍政権からは旭日大綬章を贈られるのです。

October 15, 2015

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

一億総活躍

第三次安倍改造内閣の目玉ポストと位置付けられている「一億総活躍」担当相とはいったい何なのか、海外メディアが説明に困っています。ウォールストリート・ジャーナルはこれを有名な映画の題に掛けて「ロスト・イン・トランスレーション」と見出しを打って説明しています。

そもそも「一億総ナントカ」というのは日本語でこそ聞き慣れてはいますが、外国語においては熟語ではないのでどう呼ぶのか思案にくれるわけでしょう。アベノミクスの「新3本の矢」を強力に推進していくというのですが、「強い経済」なら経済再生相、「子育て支援」と「社会保障」なら厚労相とどう違うのかもよくわからない。そんな内容以前にまずはそのネーミングをどう翻訳するかもわからない、というわけです。

WSJ紙はまず直訳を試みます。「All 100 Million(一億総)Taking Active Parts(積極参加)」。ところが「ワン・ハンドレッド・ミリオン」が日本国民のことだとは普通はわかりません。「アクティヴ・パーツ」は何への参加なのかもわからない。

そこで米国の通信社であるAP電の表記を引いてみます。するとAPは「一億」の部分の翻訳を諦めていて、で、「経済を強化し出生率を増やすことで人口を安定させ国家が浮揚し続けることができるようにする大臣」としていました。

これでは長すぎて話になりません。ではその内容をよく知っている日本の新聞の英字版はどうなんだろうと、そちらを当たってみます。すると毎日新聞は「minister to promote '100 million active people'」(一億の活動的な国民をプロモートする大臣)。読売は「promoting dynamic engagement of all citizens」(全市民のダイナミックな参画を推し進める)。ジャパンタイムズは、これまた長いですが「minister in charge of building a society in which all 100 million people can play an active role」(一億国民全員が積極的役割を担えるような社会を建設する担当大臣)。

ところがロイター電はちょっと違っていました。一応の説明をした後で安倍首相の「一億総〜」のスローガンを「戦時中のプロパガンダの不気味な残響」と注釈したのです。そうです、あの「一億総特攻」とか「一億総玉砕」「一億総懺悔」です。

そもそも「一億総〜」というネーミングはこれまで、戦中のプロパガンダへの反省や揶揄を込めて「一億総白痴化」だとか「一億総中流」だとかといった、何らかの恥ずかしさを伴った批評の文脈でしか使われてきませんでした。

そもそも「一億総〜」というネーミングは、戦後70年かけて培ってきた、一人一人が違っていいのだという成熟した民主社会とは真逆の呼びかけです。「神は細部に宿る」というせっかくの気づきを台無しにするベタ塗りの文化です。

そういえば「行きすぎた個人主義」だとか「利己的」だとかは安倍政権周辺の人たちが最も好む、パタン化した非難のフレーズです。「一億総〜」というのは確かに「個」ではなく「全体」を重視する発想ですしね。

そんなことを考えていたらある人から「一億総活躍」にピッタリの英語熟語があると言われました。「ナショナル・モービライゼーション National Mobilization」。国家国民を(National)全て動かすこと(Mobilization)、はい、すなわち日本語の熟語で言うところの「国家総動員」という言葉です。

ちなみにこの新大臣に任命された安倍首相の右腕、加藤勝信衆院議員は「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」などの政府批判メディア弾圧発言が相次いだ自民党「文化芸術懇話会」の顧問格でした。

October 10, 2015

断言の条件

物事は、知れば知るほど断言することが難しくなります。情報が多ければ多いほど判断がつかなくなる。他人に非難されるようなことになった友人を、それでも私たちがなかなか断罪できないのは、友情と同時に、その彼/彼女のいろんな事情を、つまりは情報をたくさん知っていて一概に、一面的に、簡単に断ずることがはばかれるからです。

ニューヨーク在住の複数の関係者に、あるテレビ番組の下請け会社から問い合わせのメールが届いています。年末の番組で特集をしたいので「海外にある日本文化の勘違い料理店やカルチャースクールを探しております」というのです。なので知っていたら教えてほしい、と。

昨今の海外での日本ブーム、クールジャパン展開もあります。その中で「勘違いのニッポン」を探すのは、敢えて予断で言えば、それは日本国内で「嗤い合う」ためでしょうか? それとも10年近く前に農水省がやろうとして「そんな上から目線で」と批判されて方向転換した「寿司ポリス」みたいな「正しいニッポン普及」の話なんでしょうか?

そのメールが「勘違いニッポン」の具体例として挙げているのは「日本料理として奇想天外なメニュー」「日本文化とは思えぬ内装」「間違い日本語による接客や変な日本語店名」「日本文化を間違っている空手師範」「日常では使わなさそうな例文を教える日本語教室」などでした。

こういう話はいくらテレビ番組側の事情を知っていてもなんだかいやな感じがします。日本の「洋食」の無国籍ぶりやフレンチやイタリアンのメニュー誤表記、変な英語Tシャツなどは、それこそ日本国内で枚挙にいとまがない「どっちもどっち」な話でしょうに。

そういえば「寿司ポリス」の話が持ち上がった当時も、あるニュースサイトは米国にある日本食レストランで「日系人オーナーの店は10%以下」「経営者の多くは中国や韓国、ベトナムなどのアジア系」「つまり『ニセ日本食』の提供者は中国人や韓国人、ベトナム人だったわけだ」と書いていました。またその話をぶり返したいわけなのでしょうか?

そのころからです。日本社会がやたら「嫌韓」「嫌中」に傾き、「ニッポンすごい」「ニッポン最高」を連呼するようになったのは。そうそう、「国家の品格」などという根拠の曖昧なニッポン文化礼賛本が発売されたのも10年前でした。

そんな風潮は10年を経てさらに攻撃的で断罪口調になり、いまでは安倍政権を批判するとすぐに「おまえは朝鮮人だろ」「中国政府からいくらもらってる」というような罵倒が飛んでくるようになりました。そしてあろうことか安保法制反対のあの学生組織SEALDsの奥田愛基さんとその家族へ、殺害予告が届くまでに悪化しています。

何気ない揶揄や嘲笑が巡り巡って殺害予告にまでたどり着く。自国礼賛とゼノフォビア(外国嫌悪)が容易に結びつくことは歴史が証明しています。冒頭に書いたように、諸外国の人々や文化を嫌ったり排除したりすることは、他者への一面的な理解しか持っていないことの反映です。むしろ持っていないからこそ断言口調になれる。

そう書くと「おまえはいつも断言口調じゃないか」と言われそうです。まあそうですね。情報を集めて集めて、それでも断じなければいけない時があります。私はそんな時に、批判の対象が権力を持っているかどうかを常に考えるようにしています。持っていなければ批判はしません。私のその断言が正しいかどうかは、あとは読者諸氏の断じるところです。

October 06, 2015

仲良し会見

首相官邸などでの公式記者会見で「円滑な進行のため」に、日本の報道各社が事前に質問を取りまとめて提出するように求められるのは何十年も前から慣行化しています。この場合は政治部ですが、首相官邸だけでなく様々な官庁にある記者クラブ内にはどこでも「幹事社」と呼ばれる取りまとめ役が月ごと(あるいは2カ月ごと)の持ち回りでいて、そこが当局と話して質問の順番が決められるのです。

政府側が説くその「必要性」は国会質疑におけるそれと同じで、「事前に質問を知っていれば十全な情報を用意できるので、報道上も都合が良いだろう」というものです。そう言われればそうかなと思ってしまいそうですが、しかしその慣行によってお手盛りの記者会見はもちろん形骸化し、よほどの大事件でもあった場合は別にしてもほとんどは何ら「問題」の起こらない予定調和の場になっています。

記者クラブ側が、あるいは報道機関がそれ自体を「問題」だとも、問題と思ってもそれを変えようとも思わなくなっているのも、さらには変えねばと思っても「空気」に圧されて手がつけられなくなっているのも、実はこれまでも何度も指摘されてきました。ところが記者たちもまたその記者クラブには持ち回りで属するだけでせいぜい2年で担当が変わったりしますから、意思決定も流動的で定まらないから変えられない、という事情もありましょう。かくして記者会見はその内容を報じる記事もまるでつまらない、「予定稿」でも済むような退屈なものになってしまうのです。

で、そのほころびが先日の安倍首相の国連記者会見で浮き彫りになりました。国連総会での一般演説の後に記者会見に臨んだ安倍首相が、そんな「事前提出」の質問表にはなかったロイター通信のベテラン記者による質問に、とんでもない回答をしてしまった。

この会見も本来は恙無く執り行われるはずでした。首相官邸が取りまとめた質問の内容と順番は次のようなものでした。

NHK(日露関係について)→ロイター(新アベノミクスの3本の矢について)→共同通信(内閣改造の日程について)→米公共放送NPR(普天間移設について)→テレビ朝日(国連改革について)

ところが2番目に立ったロイター記者は、予定質問に次いで、予定としては提出していなかった次の質問を追加したのです。「日本はシリア難民問題で追加支援すると表明したが、日本が難民の一部を受け入れることはないか?」

安倍首相の眉がクイっと上がりました。首相はアドリブで答えざるを得なかったわけです。で、その答えは次のようなものでした。

「これはまさに国際社会で連携して取り組まなければならない課題であろうと思います。人口問題として申し上げれば、我々は移民を受け入れる前に、女性の活躍であり高齢者の活躍であり出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」

大挙して押し寄せる難民をどう受け入れをするか欧米が深刻に悩んでいる時です。彼はそれを国内の少子化、人口減少問題に絡めて、その問題を解決し、不足を補充する「移民問題への対処法」の是非として答えてしまったわけです。そもそも難民問題を自らの国の問題としてはほとんど考えてはいなかったのでしょう。なのでこれは「勘違い」というよりも、自分の頭の引き出しから、似たような問題への回答模範を引っ張り出してきたらこうなってしまった、ということなのかもしれません。

ところがそんな「出まかせ」を、「予定調和」の記者会見など知らない、あるいはそんなものを記者会見とは呼ばない真剣勝負の欧米ジャーナリズムは「真に受けた」。

「アベ:日本はシリア難民受け入れより国内問題の解決が先」(ロイター)
「日本は難民支援の用意はあるが、受け入れはしない」(ワシントンポスト)
「アベ:シリア難民受け入れの前に、国内問題の対応が不可欠と話す」(英ガーディアン)

即応した欧米メディアに比して(ガーディアンは日本の移民・難民事情についてかなり詳しく紹介していました)日本の報道は当初はこれを問題視もせずにほぼスルーしました。いつもの記者会見のつもりで「予定外」のニュースに慣れていなかったせいでしょうか。あるいはこれは「真に受けてはいけない間違い答弁」だと斟酌してやるいつもの癖が出たのか。

問題だと気づいたのは、先の見出しが欧米の主要ニュースサイトで踊ってからです。安倍さんも日本の同行記者たちも、現在の難民問題に関するメッセージの重要性の認識が、なんとも実にお粗末であることをはしなくも露呈した形です。

実は予定外の質問はロイターだけではありませんでした。NPRの記者もまた辺野古移転の沖縄の世論の問題を「予定通り」質問した後でさらに、「辺野古移設に関連した環境汚染の問題についてどう考えるのか?」と畳みかけたのです。これにもまた安倍首相は日本式の的を得ない、はぐらかしの、言質を取られないような、四の五の言う長い答えでお茶を濁していたのです。

こういう「予定質問のやらせ会見」というのは「政治部」だけの話では実はありません。実は社会部マターでも経済部でも運動部の会見でも、相手が大物の定例記者会見などという場合には少なからず見られる慣習です。

海外の他の国の事情は詳かではありませんが、少なくともアメリカでは記者会見で事前に質問を提出するなんてことは経験したことはありません。なので鋭い質問が飛んでくると、質問された政治家や官僚や関係者は「それはいい質問ですね」とまずは言っておいて、そこで適当な答えを組み立てる時間稼ぎをするのです。

そもそも質問が事前に分かっているぬるい世界では、「それはいい質問ですね」などという定型句は生まれようもありませんものね。

なので、会見というのは実はとてもピリピリした緊張感が漂い、しかもそれをいかに和ませるか、いかに緊張していないかを演出する度量をもまた試される場になるわけです。そういうのを、視聴者は、読者は、有権者は、見ているのですから。

安倍政権になってから、欧米ジャーナリズムは「日本のメディアは政権に牛耳られている」と折りあるごとに報じてきました。今回の国連記者会見では、その「折り」が実は常態化しているのだということが明らかになってしまいました。

October 03, 2015

文章教室

毎日新聞神奈川版のコラムにこんなのが載った。まあ、書き方からいってまだ一年生とか二年生記者だろうから経験も浅いのだろうが、こういう現場の話も聞かないで単なる思いつきだけで書くテキストの結論が、恣意によってどうとでもなることを例示したいと思う。支局記者は、まず現場、とにかく現場、そこを虚心に歩き回り疲れるほど話をし話を聞き、そしてその中でどういう自分を書いてゆくのか、時間をかけて深く考えていってほしい。

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記者のきもち:ノーパサラン /神奈川
毎日新聞 2015年10月01日 地方版

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性が、困惑の表情を浮かべていた。「何という意味ですか」。尋ねられた私も分からない。インターネットで検索し、「やつらを通すな」という意味のスペイン語らしいと知った。

 デモを否定するつもりはないが、意味が通じる仲間による仲間に向けた大合唱に、近寄りがたさを感じた。「法案反対」に共感するデモの参加者にさえ理解できない言葉が、遠巻きに眺める人々の心に届くのかと疑問を抱いた。

 2時間後。異様な熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」の連呼が、法案について考えてみようとする人の機会を奪う「通せんぼ」にならなかったか。地道な活動を続ける人たちを前に思った。【水戸健一】


***私的改訂版
記者のきもち:ノーパサラン

 「ノーパサラン」という言葉をご存じだろうか。安全保障関連法案を審議する参議院特別委員会が16日に横浜市で開いた地方公聴会の会場の周辺で、法案に反対するデモの参加者の一部が国会議員の車両を取り囲んで何度も叫んでいた。

 「憲法9条を守れ」とのボードを掲げた初老の男性に聞かれた、「何という意味ですか」。ネットで検索してみた。スペイン内戦の際の合言葉だった。「やつらを通すな」。フランス語にも英語にも存在する、自らの立場を死守しようという国際的な合言葉。

 なるほどこのデモは、意味が通じ合う仲間うちだけの集まりではないのだと感じた。世界中の歴史的な民主勢力の思いが、実は今この日本の横浜に集まる人々にも通じている。そんなことを教えてくれる大合唱。「法案反対」デモの参加者は、実は知らないところで世界ともつながっている。それはやがて遠巻きに眺める人々の心にも届くかもしれない。

 2時間後。異様なほどの熱気は消え、数人がビラを配るだけになった。受け取る人はわずかだったが、法案に反対する理由がしっかりと書かれていた。「ノーパサラン」という不思議な言葉の連呼が、法案について考えてみようとする人の好奇心を少しでも刺激してくれるかもしれない。後片付けのゴミ拾いをする人たちを前にそう思った。【現場で取材してもいないのに取材したみたいに作文する北丸雄二】

September 22, 2015

最も偉大な愛国心

安倍政権の安保法制が可決しました。世界の反応として中韓以外の国々が多くこれを支持、歓迎していることを受け「ホラ見たことか、国際的にも支持されているじゃないか」と鬼の首でも取ったようにドヤ顔の人たちがいますが、それはそうでしょう。その国々はみな、これで日本が海を渡って自分の国を守りに来てくれると期待しているのですから。

なのでここは本来「あ、それはちょっと待ってください」と言うのがスジじゃないでしょうか? 「それは誤解です。自衛隊はアメリカや同じ目的行動をとる部隊しか助けないんです」と言わねば。

同じように、国内の街頭インタビューでも「日本を守ることは大切ですので賛成です」と言う人たちがいます。しかしこれも実は今法案論議の最初期に「そういうのは個別的自衛権だから、今回の集団的自衛権の法案とは直接関係がない」として片付いたものです。個別的自衛権とは国家固有の権利ですし、今以上に十全な自衛を追求するならむしろ武力だけでは賄えない部分をこそ万全にすべきというのが現在の常識です。そんな世界情勢の中で武力が挑発ではなく抑止になると考えるのはあまりに楽観的で単純すぎるでしょう。

国会での政府答弁も故意と勘ぐられるほどに核心を外していました。首相がイラストまで使って説明したあの日本人母子の乗る米艦防護にしても、後に「邦人が乗っているかどうかは絶対条件ではない」と撤回されました。唯一具体的な立法事実想定だったホルムズ海峡の機雷除去も「現在は想定していない」と首相自らが否定した。にもかかわらず追加の議論も説明もなしの強行採決でした。

よって、この法律に関する「違憲である」「立法事実がない」「歯止めがない」という三大瑕疵については、何の解決もないままです。そもそも武力行使要件の1つである「必要最小限の実力行使」という条項にしても、その「必要最小限」は、相手から一発タマが飛んでくるだけで「最小限」のレベルが対応的に変化するのは論理的にも当然なのですから。

ことほど左様にこの法案に関しては欠陥が多すぎる。しかし、とにかく日本が「70年の平和主義を放棄」(CNN)し「海外での軍事的役割拡大」(BBC)する方向で「立憲平和主義の終わり」(リベラシオン)を迎えたというメッセージだけは「既成事実」として発信されました。

首相はこの安保法制反対論にも「時間が経ていく中で間違いなく国民の理解は広がっていく」とうそぶいていますが、この論でいけば、首相が自信を持って進める全ての法案審議に国民の理解は無用であるということになります。法に則るのではなく、権力者の恣意に基づく政治を「独裁」と呼びます。

今回の法制可決で放棄されたのは日本の平和主義だけではありません。私たちの国はいま、法治主義でも立憲主義でもない国家になりました。法的安定性を放棄した今、法学は、日本ではなくどこかの別の国の法精神を語る夢語りに貶められました。

国家の安全保障はとても重要なものです。しかしそれは「愛国心」をまとったナショナリズムとは違います。私が今回の安保法制に反対しているのは、それが愚かなナショナリズムに支えられているというその一点から始まっています.

フランス自然主義の作家モーパッサンは「愛国心という卵から戦争が孵化する」と言っています.

アイルランド出身の劇作家バーナード・ショウは「愛国心とは、自分がそこに生まれたというだけの理由でその国が他より優っていると信じること」と言い捨てました.

同じく英作家のジュリアン・バーンズは「最も偉大な愛国心とは、あなたの国が不名誉で愚かで悪辣な行いをしているときにそれを指摘してやることである」と言っています。

September 08, 2015

安倍マクベス

国民の6割以上が今国会での成立を「拙速」と考えているのに、安倍政権は安保法案を来週16日に強行可決するそうです。自民党の高村副総裁は「国民のために必要だ。十分に理解が得られていなくても決めないといけない」と断じます。

成立への凄まじいまでのこの固執は、どこから来ているかより、どこへ向かおうとしているのかを考える方がわかりやすい。それは「私たち」の国ではなく「彼ら」の国家です。もちろん民主政治を指して「衆愚政治」と呼ぶことはあります。賢人がそんな衆愚を導くこともあるでしょう。

しかしいまは古代ギリシャではないし、「ナチスの手口に学べばいい」とか「立憲主義なんて聞いたことない」と言ってはばからない政府が「賢人」であるとはとても思えません。高村の言は単に、現在の一政権の命運だけを気にしているふうにしか聞こえない。

というのも、彼らが盛んに吹聴する「周辺環境の悪化」というのも、この法案を成立させるために小さな脅威を大きく見せつけているようにしか思えないからです。

「東シナ海のガス田開発で中国が新たに12基のプラットホームを新設している」というのは、今年の防衛白書では当初「施設建設や探査を行っている」との表現にとどまっていました。それが自民党で「表現が弱すぎる」とヤリ玉にあがり、急に「新たな建設」「一方的な開発」と付け加えられました。さらに中谷防衛相が国会でそれが軍事拠点化される「恐れ」があると強調した。

ところがこれは東シナ海で日本が主張する日中の「中間線」(中国の主張する目一杯こちら側に張り出した「中間線」ではなく、わが日本の主張する「中間線」です)に従った中国側経済水域内での経済活動であって、中国は別に日本の水域を侵しているわけではありません。文句のつけようはないのです。しかも軍事施設でもないのにそのように仮想してみせる。

中国の南沙諸島岩礁埋め立てにしても、海洋法条約では「人工島及び構築物はそれ自体の領海を有しない」と定めていてすぐにどうだという話じゃありません。そこに中国が「一方的に」埋立てや飛行場建設を行ったと騒がれていることについても、軍事評論家の田岡俊次さんはフィリピンはパグアサ島、ベトナムがチュオンサ島、マレーシアがラヤンラヤン島に、いずれも他国の了承なしに「一方的」に飛行場を建設し、一部では埋立ても行っていて、中国の行為だけを「一方的」と論じるのは公正ではないと説明します。

南シナ海で中国が支配権を握っているような報道も間違いで、12ある「島」はベトナム、フィリピン、台湾、マレーシアが支配していて中国の支配はゼロ。どこに喫緊の脅威があるのか?

安倍政権のこの前のめりぶりを見ていると、私はシェイクスピアの「マクベス」を思い出します。王を暗殺して自分が王になったマクベスは、自分の周囲にいる者たちをすべて脅威に感じて、自衛のために次々と先制的に友人や臣下を殺していくのです。それは自衛の妄想スパイラルです。

究極の自衛を考え詰めれば「攻撃は最大の防御である」に落ち着きます。9・11後のブッシュ政権はその妄想で誤った戦争を起こしました。

そんな「自衛の妄想スパイラル」に落ち込まないために日本は「専守防衛」という方策を育んできたのです。その70年分のクレジットを、今の一政権が、喫緊ではない「周辺環境の悪化」を煽り立ててかなぐり捨てようとしている。切迫した「脅威」といえば朝鮮戦争や中ソ対立の時の方がはるかにひどかったでしょうに、そんなことは思い出しもしない。

彼らはすでに妄想の領域に落ちているのかもしれません。

ちなみに今年、日本の演劇界が劇団の大小を問わずさまざまに「マクベス」を上演しています。流山児事務所もやりましたし、今度は蜷川マクベスも17年ぶりに再演となるそうです。これを、アベ政権に対する演劇界からのメッセージだと見るのは深読みに過ぎるでしょうか。

August 18, 2015

歴史を中和する試み

安倍首相の70年談話はとても見事な歴史講話となっていました。さてそこに透ける意図というのを紐解くのが私たち物書きの役目でもあります。

私が見たのは、安倍首相による「歴史のニュートラライゼーション(中和)」というものです。言い換えれば、安倍さんのいつもの「言い返し癖」を満足させるレトリックが、それとはあからさまには知れない形でちりばめられていたということです。

始まってすぐに指摘したのが「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が広がっていた」という事実です。そこから歴史をたどり、「欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進め」たために日本は「外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解決しようと試みた」という第二次大戦への道のりです。これは「日本も悪かったが西洋諸国だって悪かったじゃないか」という指摘です。

それだけではありません。談話が「哀悼の誠を捧げ」たのはこれまでの「中国、東南アジア、太平洋の島々など」の戦場となった地の人々だけではなく、「国内外に斃れたすべての人々の命」です。「三百万余の同胞の命」「広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦など」で犠牲となった「たくさんの市井の人々」です。これもまた加害と被害を並列させた「歴史の中和」の試みです。

そうして出された結論が「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」という、主語の示されない文でした。「日本が」ではなく、世界全般の真理として読める普遍的な願い。「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としてはもう二度と用いてはならない」という言葉も、日本の姿勢とともにいまも武力での解決を図ろうとし続ける世界(あるいは中国)への言及です。

これに異議は挟めません。誰が見てもこれは「正しい」歴史認識です。学校の歴史の講義で使いたくなるくらいの。

ポイントはそこです。安倍首相は「歴史修正主義者」という批判をよほど気にしているのでしょう。なので歴史を書き換えて見せるのではなく、この談話では、謝罪してきた一方の「自虐史観」を、少なくとも「喧嘩両成敗」の「どっちもどっち」状態にまで中和させることに意を注いだ。しかもそこに、誰も異議を挟めない「自由、民主主義、人権といった基本的価値」を振りまいて。

これを最初に「見事な歴史講話」と書いたのは、これが歴史の授業での講師の歴史俯瞰およびその解説なら百点満点だということです。しかしこれは日本の国体の代表者でもある首相の「談話」です。「歴史講義」ではありません。そこには日本という主語がどういうふうに振る舞うのか、どういうふうに振るわねばならなかったのか、どういうふうに振る舞うべきではなかったのか、という責任論が付随するものなのです。

村山談話の2.5倍という3400字余りの字数を要したのは、まさにその責任を「丁寧」に回避し、「謝罪の歴史」を中和するためのレトリックが必要だったからです。これは実に高度な文章作法です。首相官邸のスピーチライターはなかなかの巧者です。

で、どうなったか? 朝日新聞が17日の紙面で「外務省のホームページから政府の歴史認識やアジア諸国への『反省とおわび』の記事が削除された」と報じました。「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「痛切なる反省と心からのおわびの気持ちを常に心に刻み」などの記述がそっくりなくなっているのです。中和とは、それを装う修正と消去のこと……。

12日は日航ジャンボ御巣鷹山墜落から30年でした。日航の社長が「この30年十分に反省をし、事故対策を重ね安全運航に努めてきたので、もう謝罪はしない」と宣言したらどう思いますか? ドイツが「ナチスに関してはすでに謝罪は済んだ」と言い始めたらどう感じますか?

首相は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とも述べました。日航の新たな若い社員が、ドイツの新しい世代が、「謝罪」するのはもとよりボランタリーなものです。彼らに謝罪の義務などない。しかしそれを社や国に代わって「謝罪」してあげている。それは自らの所属する全体の、肩代わりを具現しようという意思の行動です。それは「宿命」などと押し付けられたものではありません。

同様に、日本の戦後世代が「謝罪」の「宿命」を背負っていることなどはあり得ない。それは背負っているのではなく、この国を愛するが故の「引き受け」なのです。それを首相がおこがましくも「宿命を背負わせてはならない」とあたかも忌むべき義務のように宣言する。その宿命は、国民ではなく「首相」が背負っているものなのにもかかわらず。明確に言えば、安倍首相は、自分が「謝罪を続ける宿命を背負わせられてはたまりません」と宣言したいのでしょう。

この「歴史の中和」の先に何が用意されているのでしょう。それは新安保法案だけではなく、平和憲法そのものの改定であることはすでに明らかです。

August 03, 2015

真夏の錯乱

日本に来ています。いま安保法制に関する反対が各界各層から溢れ出ています。大学生らの抗議グループSEALDs(シールズ)に影響されてか、お年寄りたちの多い巣鴨ではOLDS(オールズ)という年配者たちのデモも行われました。先日は高校生たちが呼びかけたデモが気温35度という猛暑の渋谷で5000人を集めて行われ、「だれの子どもも殺させない」という切実なシュプレヒコールの続くママさんたちのベビーカー・デモもありました。

こんな現象は戦後70年で初めて見るものです。とにかく戦争はダメだという平和憲法の精神がいま危機感として噴出しています。

対して集団的自衛権の確立を訪米で公約してしまった安倍さん側はシンパたちが援護射撃に躍起です。

驚いたのはSEALDsについて、自民党の36歳という武藤貴也衆院議員が「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」とツイートしたことです。この人は「基本的人権の尊重」を「これが日本精神を破壊した主犯だと考えている」と公式ブログで表明している人です。「この基本的人権の尊重という思想によって滅私奉公の概念は破壊されてしまった」とまで言いのける錯乱は、いったいどういう倒錯から生まれたのでしょう。

彼だけではありません。田村重信・自民党政務調査会調査役はSEALDsを「民青、過激派、在日、チンピラの連合軍」と呼びました。これがデマの吹聴であることに加え、問題はもう一つ、彼が明らかに「在日」を侮蔑語で使っていることです。自民党では50万人以上いる「在日韓国・朝鮮人」をそういうカテゴリーで見ているのでしょうか? ヤバいでしょう、それは。

援護射撃どころか自爆テロみたいになってしまっているのはこの安保法制を中枢で推進してきた礒崎首相補佐官の「法的安定性は関係ない」発言も同じです。これは法の支配そのものの否定だけではなく、「安保法制は違憲だけどそんなこと言ってられん」と具体的に白状したということですから、自民党にとっても本来は懲罰もんのはずです。しかしいま私たちが目撃してるのは、その暴走をまたネグろうとしてる権力の錯乱です。

日本はとてもおかしなことになっています。原爆の日の近い長崎では先月、老齢の被爆者を招いてのある公立中学での講話会で、話者が被爆体験の後にアジア侵略の写真などを示しながら日本の戦争責任や原爆と同じ放射線を出す原発の問題に触れたところ、校長が「やめてください!」と大声で遮ったそうです。まるで戦前の官憲による「弁士中止!」です。NHKニュースによると、その後に校長はこの老人を校長室に呼び「写真はでっちあげだ」とか「自虐史観だ」などと話したといいます。

この話にしてもSEALDsや高校生デモに関する誹謗中傷にしても、なぜ日本の権力は政治的な意見表明を抑制しよう、黙らせようと動くのでしょうか。

校長は「政治的中立性が守られない」と弁解したようですが、中立性を守るための対策は、それらの言論を封じる事なかれ主義ではなく、賛否両論の表明の保証、談論風発の奨励のはずです。

ちなみに最近の仰天ニュースは、日テレの「安倍首相批判の落書きが駅トイレで見つかった。警視庁が器物損壊容疑で捜査している」というものでした。ここは北朝鮮か旧ソ連かと、今度は私が軽い錯乱を覚えたほどです。

July 21, 2015

「理解」が足りない?

どうにも引っかかるのが、安保法案の審議に関して「国民の理解が進んでいない」と繰り返す安倍首相以下、政権の言葉です。「反対しているのは理解していないからだ。理解さえ進めば賛成するはずだ」とはつまり、この法案に異例の抗議署名を連ねた日本の1万人の学者・研究者を筆頭に、反対者はみな理解力に欠けるという認定なのでしょうか。

「理解が進んでいないから反対している」のではなく、「この法案は憲法違反であり、安倍首相のこの性急な強行姿勢はどこかおかしい」と「理解」しているからこそ反対している──じつは政府はそれを恐れているのです。16日の衆院強行採決は、これ以上「理解が進む」と反対がさらに増えるので「支持率の高い今のうちに強行採決した方がよい」という判断が働いていたのですから。

はたして安保法案強行可決で安倍内閣の支持率は30%台にまで急落し、不支持は50%前後に増えました。これを受けて安倍首相はおそらくは人気浮揚の秘策と用意していたのでしょう、それまでは論外としてきた大不評の新国立競技場の突然の建設計画白紙撤回を発表しました。しかも実は「1カ月前から検討していた」という打ち明け話まで付けて、あたかもこれが首相自らの英断であるとの印象操作までしながら。そうであるとすればなぜ、撤回20日前の6月29日にそもそも総工費2520億円(+加算忘れの周辺整備費72億円)の政府案を決定したのか、という矛盾はスルーしたまま。

だいたい、3000億円もの馬鹿げた建設案を認めたのは政府であり、それを政府自らが撤回したからといって、それが支持率回復につながるという都合のよい発想はどこから来るのでしょう。思いっきり落書きをしてしまった小学生が自分でそれを消したからといって、そこで言うべきことは「ボクってエラいでしょ」ではなくて「ごめんなさい」なのです。

安保法案の「理解を進める」ために首相は20日、かねてより懇意である日枝会長のフジTVの番組に90分も出演して、「支持率を上げるために政治をしているのではない」とうそぶきました。ひとさまの年金をジャブジャブつぎ込み株価を上げ、円安を仕組んで海外への日本売りを進めてはアベノミクスの功績だと吹聴して支持率を維持してきた、それがすべての強権の前提であると骨の髄まで知っているはずの御仁の言うこととはとても思えません。

そして集団的自衛権の「わかりやすい説明」として持ち出したのがまた三軒の家が燃える「たとえ話」です。首相は「日本の消防士たちが、日本に延焼する恐れがあるのでアメリカの離れの家の火事を一緒に協力して消すというのが集団的自衛権だ」と話し、それが国際的に正しい行動規範だと強調したのですが、このたとえ話は軍事の常識に無知なのか、知ってて国民をだましにかかってるのかどちらかです。

だって、「火事」には「敵」はいません。火を消すときに襲撃される心配はないし、消火活動に協力することで憎まれることもありません。

首相は他にもこれを「町内みんなで戸締まりをしっかりやろうという法案、特定の泥棒をやっつけようという法案ではない」と説明したことがあります。これもおかしな「たとえ話」です。なぜならそれは集団安全保障の話であって、敵を想定する集団的自衛権の話ではないからです。

「理解」を進めると言いながらその実「理解」を妨げる政府のこの不誠実を、「理解」しているからこその反対であるということを、今後の参院審議を通して安倍政権はしみじみ理解すべきなのです。

July 06, 2015

復興五輪の嘘

前回のエントリーの最後に今の自民党の政治的知性の劣化の例として「新国立競技場」の名前も出しました。当初予算を895億円上回る2520億円の建物です。

印象的だったあの北京五輪の鳥の巣競技場は540億円で建ちました。ロンドン五輪のスタジアムだって840億円、今回の予算上乗せ分だけでも建つ計算です。おまけに新国立は、過小見積りだと批判された50年間の修繕費もやはり「656億円」から「1000億円以上」に修正されました。しかもそれらの数字の全ては、これでもまだ控えめな計算値なのです。

なぜそんな大赤字の建物に待ったがかけられないのでしょうか。第一の元凶は森喜朗元首相のようです。東京五輪大会組織委員会の会長を務める元首相は、1本1千億円といわれるあの2本のキールアーチのデザインに固執しています。あのユニークなデザインが五輪誘致成功の決め手だったから、という、なんともどうでもいいようなことが理由です。建設主体を管轄する下村博文文科相も「国際公約だから」と同様の亡国セリフ。

先日、IMF(国際通貨基金)への支払いを実行できずに「延滞」措置で債務不履行(デフォルト)を先延ばしされたギリシャのその支払額は2000億円です。新国立の2520億円で十分なお釣りがきます。もっともギリシャの国家債務は44兆円にのぼりますので2000億円の後も支払いは続きますが、それを言うなら日本の借金(国際発行額)は1千兆円以上あるのでギリシャどころではありません。そして、ギリシャのこの経済破綻は、アテネ五輪が国家財政を圧迫した04年から始まっているのです。

目の前で展開するそんなギリシャの悲劇は、日本の未来とは無関係と言い切れるのでしょうか?

このバカげた新国立競技場の建設を止められないのは、「新たに設計をやり直すと最短で19カ月かかり、19年9月開幕のラグビーW杯に間に合わない」(文科省)からだそうです。ここでも6月まで日本ラグビー協会会長だった森喜朗の影がちらつきます。そんなもの、主会場を横浜にある72,000人収容の日産スタジアムに移せばいいだけの話なのです。

安倍首相は今度の東京五輪を「復興五輪」にしたいと話していました。かつ一昨年9月の五輪招致演説では、福島第一原発は「私が保証する。状況はアンダーコントロールだ(統御できている)」と言い張りました。「私が首相なんだから私が責任者だ」という例の大言壮語です。そして東日本大震災の後始末は今もまだメドが立っていません。

毎日新聞が書いています。先日、石巻市で震災後初の「復興マラソン」が開かれました。64年の東京五輪の聖火台を借りてきていたそうです。その火をずっと灯し続けようとしたが費用の800万円が調達できなかった。「800万円と895億円──被災地がコツコツと資金を集めている時、新国立の巨額の追加予算が決まった。どう考えても金銭感覚がずれていないか」「市全体では1万人以上が仮設住宅で暮らす」「もし895億円が被災地に回れば、単純計算で住宅3580戸分の財源になる」

「復興五輪」の口だけぶりを見ていると、この政権は歴史だけでなく事実までも「糊塗」しようとしているように思えます。「武器輸出三原則」は「防衛装備移転三原則」と変わり、前線に武器や燃料を補給する「兵站」は「後方支援」と置き換えられ、「戦争」加担法案は「平和安全」法制と名を変えています。そしてその「解釈合憲」の法案は来週にも「強行」ではなく粛々と採決される手はずのようです。

June 29, 2015

無理と道理

安保法制に関する安倍政権の国会答弁にあまりに呆れたり怒ったりでブログ更新も忘れていました。でもそろそろ書かねばなりません。何に怒っているのかというと、これまで築かれてきた立憲主義の道理が安倍政権によってことごとく無視されていることにです。

そもそも立憲主義=憲法とは時の政府の権力を制限し、国民の権利・自由を擁護するためのものです。なのに安倍首相は「それは王権が絶対権力を持っていた時代の考え方で古いものだ。憲法は国の形、理想と未来を語るものだ」と独自の見解を固持しています。王様の時代には憲法なんか存在すらしていなかったのに、です。

「独自」というか「勝手」は安倍政権のすべてを覆っています。集団的自衛権は日本に数多いる憲法学者のたった3人しか明確に合憲だと考えていないのに合憲だと言い張り、しかもその根拠はだれもが「?」な砂川判決だと言います。そんな無理な牽強付会がまかり通れば日本社会で道理が通じなくなります。

百田尚樹を招いての自民党若手の勉強会の問題でも同じです。安倍は「(自民に批判的な)マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番」と発言した議員には「自民党は自由と民主主義の政党」「私的な勉強会」だからと謝罪を拒否、「沖縄の2紙は絶対に潰さなあかん」とした百田に関しても「その場にいないのに勝手におわびできない。発言した人だけができる」と他人事で済ませました。

こうした「無理」の背景はすべて、じつは自民党の「憲法改正草案」にあります。

「自民党草案」21条は言論・表現の自由を保障すると書きながら「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動(中略)は認められない」と但し書きを入れます。自民党の論理では「マスコミ」は「公益と公の秩序を害する」報道をしているのだから「懲らしめ」てよいことになる。テレ朝幹部を呼びつけて安倍政権を批判した報道番組に関して査問したのはつい先日です。

注目の9条はタイトルを「戦争放棄」から「安全保障」「平和主義」へと「改正」します。まるで今回の安保法制が「平和安保法制」となったのと同じ種類の改名です。改正草案では、武力の行使は「永久にこれを放棄する」という文言が消えているのにも関わらず。

自衛隊の活動拡大で懸念される徴兵制も、まるで国家的急務においてはOKとも読めるようになります。なにせ国民の権利が尊重されるのは憲法草案に頻出する「公益及び公の秩序に反しない限り」(13条)で、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚」するのが国民の責務(12条)なのですから。

もとより「憲法改正をするために政治家になった」と明言してきた首相です。その露払いたる解釈改憲での集団的自衛権の容認理由を、まるで降ってわいたように「日本を取り巻く安全保障環境が変わったからだ」とうそぶくのは、この「環境の変化」を奇貨としているというよりもむしろ、未必の故意の外交不在でわざと敵対環境を仕組んだのだと勘ぐられても仕方がないほどです。

昨今の自民党の「無理くり」ぶりは自分たちが常に「公」であるという「一強」の自信から来ています。安保法制やメディア弾圧に限りません。2520億円以上かかってなおも赤字な新国立競技場の計画を推進するのも政治的知性の劣化です。政権交代はそんな自民党システムの限界を多くが知ったから起きたのに、政権復帰後の自民党はそれを反省ではなく重篤化させているように思えてなりません。

May 07, 2015

あめりか万歳!

安倍首相の米国訪問が終わりました。こちらではボルチモア暴動やネパール大地震が連日ニュースを占めていて、安倍関連はちょっとしか報道されていませんでしたね。日本のどこかの新聞が書いていたように「異例の歓待」とか「高い評価」とはちょっと違ったように思います。

上下両院合同会議での演説も、いろいろと反応を聞いていくと(1)米国にとっては非常に納得できるものだったでしょう。軍国主義者だと聞いていたがアメリカ留学の経験も話していたしアメリカが好きだと言っていたし、新ガイドラインとやらで自衛隊が出てきてくれるそうだし米国の安全保障にも100%の協力と貢献をすると言っていたし、これだけカモネギというかお土産抱えてわざわざこっちまでやってきてくれて、「なんだ、思ってたのと違って結構ナイスガイじゃないか」という印象で、大合格点だったようです。

報道のされ方もあって(2)日本国内での受け取られ方も大方はそうだったようですね。演説も全部英語で頑張ったしスタンディング・オベーションとやらが10回以上あったそうだし(3月のネタニヤフの時は23回ありましたが)、アメリカさんがそうやって喜んでくれていたんだから及第点。ただし米国ヨイショの度合いがちょいと過ぎて、そこがワザと臭いと思われなかったか心配。

一方で普段から安倍の家父長主義ぶりを警戒している(3)日米欧の監視層(これにはNYタイムズやワシントンポスト、英ガーディアンやBBCなどの報道機関も含まれます)には、慰安婦問題では謝罪も回避して女性の人権問題という一般論でごまかすし、国会審議も経ずに安保法制の今夏成立を国際公約してしまうし、さりげなく戦犯だった祖父・岸信介の名誉回復は図るし、許せない詭弁演説だったという感じでしょうか。おまけに日頃から英語で苦労して他人にも厳しい日本人の耳には、ブツ切れの単語と結語で高揚するあの英語(デモォークラシイイイとかリスポォン・・シビリテイイとか)はかなり恥ずかしいとクソミソでした。

もっとも安倍政権はこの演説を(1)の米国向けに行ったのであって(3)の批判層の歓心を買おう、汚名を濯ごうと思って用意したわけではなかったわけです。つまり(3)は相手にしていないのですから苦虫を噛み潰すのは当然。(1)の歓心を買うことが目的だったと思えば、歯が浮くようなアメリカ万歳でもオッケーだった──そういうことなのです。

ただ、演説でアベとエイブ・リンカーンとの近似を示唆したり(慰安婦が「性奴隷」だと言われてる時にですよ)、会見ではキング牧師の「I Have A Dream」を文脈を無視して引用したり(ボルチモアで黒人層がこれは「夢の未来」ではないと抗議してる時にですよ)、そういうセンスはかなり危なかったしジョークもなんだか滑ってたし。そもそも議員たちは事前配布の手元のスクリプトに目を落とさねばあのブツ切り英語はよく聞き取れなかったのだと思います。

じつはオバマの安倍への態度や会話も、よく観察すると心なしか終始硬かった、というか、なんだか素っ気ないというか、はっきり言えば軽蔑した相手への態度のようだったのですよ。日本政府が異様にこだわるファーストネーム呼称もすぐ忘れたし会見中は体の向きが外向きで、安倍首相の方へは向かないし。それに普通、共同記者会見した後は後ろ向いて去りながらも会話したりするもんなんですが、オバマはぜんぜん話しかけてなかったですもんね。笑顔が笑ってなかったんですよ。

その辺、行動心理学者に見せたら面白いだろうに、日本のテレビはどこもそんなことはしなかったです。きっと大歓迎だったと頭から信じているからでしょう。それはまあ、あれだけの「お土産」ですからねえ、失礼な対応はしませんでしたが……。

私が気になったのは1つ、安倍がオバマとの共同記者会見で指摘した「レッテル貼り」の批判というか例の「言い返し」台詞です。60年の安保改定の時に「戦争に巻き込まれる」というレッテル貼りが行われたが、それは間違いだったことは(戦争に巻き込まれなかった)歴史が証明している、と安倍は言っていました。しかしその戦争を防いだのは平和憲法でしたし、それを変えようとしてるのが安倍政権だという矛盾はどう考えればよいのでしょう。

戦後日本に山羊や羊を何千頭も贈ってくれた米国、民主主義のチャンピオンたる大使を次々と送り込んでくれた米国。それを褒め称えながら、民主主義の本当のチャンピオンたる「憲法」だけは「押しつけられた」と言うのは、「矛盾」というよりも「二枚舌」と呼ぶべきです。「賞賛」というより「面従腹背」というべきなのです。口では何とでも言っていいんだ、とこの人は思っているのだということなのです。

April 28, 2015

舌をまくほどにお見事!

日米の防衛協力ガイドラインが18年ぶりに改定されました。とはいえこれは国会で話し合われたわけでもなく、今回の安倍訪米に合わせてバタバタと日米両政府間で合意したのです。これで自衛隊は「周辺事態」を越えて世界規模で活動することができるようになる。集団的自衛権容認の閣議決定からこの方、安倍政権は思うがままに日本を変えています。

「え? オバマ政権ってそういう日本の軍事拡大を警戒してたんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。

オバマ政権だけでなく欧米諸国およびその報道メディアはいまでも安倍首相の国家主義的な歴史認識を懸念しています。なぜなら彼の歴史修正の方向性は(「イスラム国」と同類の)第二次大戦以降の国際秩序への挑戦だからです。

NYタイムズは安倍訪米に先立って論説室の名前で今回の訪米の成否は「首相が戦争の歴史を直視しているかどうかにかかっている」と断言し、さらに別の記事でも「政府による報道機関の政権批判抑え込みが功を奏している」と批判の度合いを高めています。フォーブス誌に至っては首相の上下両院合同会議での演説はカネで買ったようなもんだというコラムを掲載するし、ウォールストリート・ジャーナルも首相は「歴史に関する彼の見解がかき立てた疑念」を抑止する必要があると指摘しました。英ガーディアンも安倍演説に先立ち「日本の戦時の幽霊がまだ漂っている」と警告していたのです。

けれど、安倍訪米団の最初の仕事であった防衛協力ガイドライン合意の際の相手方、ケリー国務長官の満面の笑みは、まるでそんな懸念など関係ないかのようでした。なぜか?

ちょっとおさらいしましょう。

オバマ政権はアフガン・イラク戦争からの撤退で「世界の警察」の地位から下りることを志向しました。これは何度も書いてきたことです。何千人もの若者たちの命と何億ドルもの軍事費を費やしても地域紛争は果てることなく続き、米国の介入が逆に恨みを買うことも少なくない。ならばその地域の安全保障はその地域で担ってもらおう、という方向転換でした。その中に「東アジア・太平洋地区のリバランス」というものも含まれています。

ここに安倍政権は乗ってきた。取り直しの形で登場してきた第二次安倍政権は、第一次で手もつけられずに退陣した悔しさからか平和憲法の改変と「美しい国」という家父長制国家の復活を明確に押し出してきました。しかしそれは2013年12月、靖国参拝を敢行することで米国の異例の「失望」表明を招き、失敗します。なぜなら日本の存在する東アジア「地域」では、それが中国と韓国を挑発して却って「地域」の安全保障を毀損するからでした。それはリバランスの目論見も崩れて米国の方針に叶わなかったからです。

そこで安倍政権は軌道修正をしました。靖国は参拝しない。ハドソン研究所での演説のような「私を軍国主義者と呼びたければどうぞ」的な無用な国粋主義発言も控える。今回の訪米での厚遇を目指して、安倍政権はこの1年ひたすら米国の歓心を買うためにそうやって数々の布石を打ってきたのです。

昨年7月の集団的自衛権の容認も米国支援を名目に憲法の実質的改変を含んで一石二鳥でした。従軍慰安婦問題については「人身売買」だったとの表現で主語を曖昧にしたまま反省の雰囲気を醸し出しました。先日のバンドン会議では中国の習近平主席と2度目の会談を実現させて「地域」の緊張緩和を演出し、「侵略戦争はいけない」という、これまた主語の違う一般論で先の大戦を反省したような演説も行った。

米政権が懸念するのは米国の安全保障政策に則らない他国の軍事拡大です。その意味で安倍政権は、中国の海洋進出などの脅威増大を背景に実に周到に米国に取り入った。これだけ上げ膳据え膳の「お土産」をもらって喜ばない政府はないし、その菓子箱の底に首相の恣意的な理想国家実現のプロジェクトを忍び込ませたわけです。

なんとも舌を巻くほどに見事な権謀術数ではないですか。

February 03, 2015

「あらゆる手段」って……

もう40年以上もニューヨークに住む尊敬する友人から電話がかかってきて「ねえ、教えて。安倍さんはどうして海外で働いている私たちを危険にさらすような演説をしたの? 最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの? 私たちは平和を貫く日本人だったのに、これからはテロや誘拐の対象になったの?」と聞かれました。それは私の問いでもあります。

安倍首相のエジプトでの2億ドル支援声明の文言が拙かったことは2つ前のこのブログ「原理には原理を」で紹介しました。日本人人質の2人が「イスラム国」の持ち駒になっていて、この犯罪者集団がその駒を使う最も有効なタイミングと大義名分を探っていた時にまんまとそれらを与えてしまった。そのカイロ演説がいかに拙かったかは、首相自身と外務省が自覚しているのです。なぜなら人質発覚後のイスラエル演説の語調がまるで違っていたからです。「イスラム国」の名指しは最初の呼びかけだけ。あとは「過激勢力」という間接表現。内容も日本の平和主義を前面に押し出したきわめて真っ当でまっすぐなもの。カイロ演説の勇ましさが呼び水だったと自覚していなければ、なぜこうも変わったのか。逆にいえば、なぜ初めからそういう演説をしなかったのか。

そして後藤さんも殺害されてしまいました。3日の国会で、安倍首相は「中東での演説が2人の身に危険を及ぼすのではないかという認識はあったのか?」と問われ「いたずらに刺激することは避けなければいけないが、同時にテロリストに過度に気配りする必要はない」と答弁しました。テロリストへの気配りなんか言っていません。「人質の命」への気配りでしょうに、この人は自分の保身のためにはこんな冷酷なすり替えをするのです。こんな時の答弁くらいもっと正面から堂々ときちんと誠実に答えたらどうなのでしょう。

おまけに言うに事欠いて「ご質問はまるでISILに対してですね、批判をしてはならないような印象を我々は受けるわけでありまして、それは正にテロリストに私は屈することになるんだろうと、こう思うわけであります」。この人は批判や疑義をかわすためならそんな愚劣な詭弁を弄する。

まだあります。安倍首相は後藤さん殺害を受けての声明で事務方が用意した「テロリストたちを決して許さない」との文言に「その罪を償わせる」と書き加えたのだそうです。

以前からこの人の言い返し癖、勇ましさの演出に危惧を表明してきましたが、この文言はCNNやNYタイムズなどでは「報復/復讐する」と紹介されています。NYタイムズの見出しは「Departing From Japan’s Pacifism, Shinzo Abe Vows Revenge for Killings(日本の平和主義から離れて、シンゾー・アベ 殺害の報復を誓う)」でした。それは日本政府として抗議したんでしょうか? 抗議してもシンゾー・アベの政治的言語の文脈ではそういう意味として明確に英訳した」と言われるのがオチでしょうが。

平和主義のはずの日本がなんとも情けない言われ様ですが、これはつまり平和憲法を変えてもいないのに、戦後日本の一貫した平和外交も変えてないのに、一内閣の一総理の積極的「解釈」変更と各種の演説によって、日本は世界に向けた「平和国家」という70年間の老舗看板を、勝手に降ろされてしまっているということなのでしょうか?

早くも政府は閣議で、今回の人質事件では「あらゆる手段を講じてきた。適切だった」との答弁書を決めたそうです。一方で菅官房長官は「イスラム国」は「テロ集団なので接触できる状況でなかった」とも明かしました。接触もできなかったのに「あらゆる手段を講じた」? 例えば接触して人質解放を成功させたフランス経由も試さなかった? つまり「イスラム国」のあの時の突然の要求変更は、2億ドルの身代金云々を告げたのに日本政府がぜんぜん何も接触してこなかったので、詮無く交渉相手をヨルダンに変えた、ということだったでしょうか? つまり初めから後藤さんらを救うための交渉などしてこなかったということなのでしょうか?

それを裏打ちするように、これも3日の参院予算委で岸田外相が、2人の拘束動画が公開された1月20日まで、在ヨルダン日本大使館に置いた現地対策本部の人員を増員していなかったことをしぶしぶ明らかにしました。つまり昨年8月の湯川さん拘束後の5カ月間、後藤さん拘束が発覚した11月になっても、現地はなにも対応を変えなかった。こういうのを「あらゆる手段を講じてきた」と言うのでしょうか?

冒頭に紹介した友人の「最後の一人まで助けるとか言っておいて何もできないなら、何のための政府なの?」という切実な問いに、いまの私は答えを知りません。

January 27, 2015

素晴らしい日本

湯川さんが殺害され、後藤さんの解放が焦眉の急となっている状況で、欧米のメディアが日本人社会の不可解さに戸惑っています。再び登場した「自己責任」社会の冷たさや、2人の拘束されている画像を面白おかしくコラージュ加工したものがツイッター上に多く出回っているからです。

ワシントンポストなどは「自己責任」論に関して04年のイラク日本人人質事件に遡って解説し、あの時の人質の3人は「捕らえられていた時より日本に帰ってきてからのストレスの方がひどかった」という当時の担当精神科医の言葉なども紹介しています。タイム誌は今回の事件でもソーシャルメディア上で溢れる非同情的なコメントの傾向を取り上げ、ロイター電は「それらは標準的な西洋の反応とは決定的な違いをさらけ出している」としています。

確かに米国でも「イスラム国」に人質に取られたジャーナリストらの拘束映像が放送されました。しかしどこにも自己責任論は見られませんでしたし、ましてや彼らをネタに笑うようなことは、少なくとも公の場ではありませんでした。そんなものがあったら社会のあちこちで徹底的に口々に糾弾されるでしょう。80年代にあった「政治的正しさ(PC)」の社会運動は、批判もあるけれどこういうところで社会的な下支えとしてきっちりと共有され機能しているのだなあと改めて感じます。

ちなみに「自己責任」に直接対応する英単語もありません。それを「self-responsibility」とする訳語も散見されますが、英語では普通は言わないようです。また、後藤さんのお母様が記者会見で最初に「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と謝ったことも欧米ではあまり理解できない。そもそも悪いのは「イスラム国」であって「息子」たちではない。

日本語の分かる欧米人は「自己責任」と聞くと「自分の行動に責任を持つ」という自身の覚悟のニュアンスとして、つまり立派なものとして受け止めるようです。でもそれをもし他者を責める言葉として使うならば、それは「It's your own fault」や「You were asking for it」というふうに言う。つまり日本で今使われる「自己責任」とはまさに「自業自得」という切り捨ての表出でしかないのですね。

2人の拘束画像を茶化すようなツイッター画像の連投は「#ISISクソコラグランプリ」つまり「クソみたいなコラージュ」という意味のタグを付けられて拡散しています。例えば拘束の後藤さんと湯川さんの顔がアニメのキャラクターやロボットの顔にすげ替えられているものや、黒づくめの「イスラム国」男が逆に捕らわれているように入れ替えられているもの、その男がナイフをかざしているのでまるで料理をしているように背景を台所に加工しているもの、と、それはそれは多種多様です。外電によればそんなパロディ画像の1つは投稿後7時間でリツイートが7700回、お気に入りが5000回という人気ぶりだったそうです。

こういう現象に対し「人が殺されようというときになぜそんなおふざけができるのか?」「日本人ってもっと思いやり深く優しい人たちじゃなかったのか?」という反応は当然起こるでしょう。

もっともこれを「アニメ文化の日本の若者たちらしい」「イスラム国を徹底的におちょくるという別の戦い方だ」と見た欧米メディアもありました。しかしそれはあまりに穿った見方だと思います。これらの投稿のハシャギぶりは、実際には「イスラム国」への挑発でしかなく、「イスラム国」関係者とみられるあるツイッターのアカウントは「日本人は実に楽観的だな。5800km(おそらく8500kmの誤記)離れているから安全だと思うな。我々の兵士はどこにでもいる」と呆れ、「この2人の首が落とされた後でお前たちがどんな顔をするか見てみたいものだ」と返事をしてきたのです。

「日本は素晴らしい国だ、凄い国だ!」と叫ぶネトウヨ連中に限ってこういうときに「自己責任だ」として他人を切り捨て、嘲り、断罪する。そういう日本は素晴らしいのでしょうか? それは自己矛盾です。そうではなく、「日本を素晴らしい国、凄い国にしたい」という不断の思いをこそ持ち続けたいのです。

January 21, 2015

原理には原理を

「イスラム国」が2億ドルの身代金を払わねば人質の日本人2人を殺害すると予告した事件は米国でも波紋を広げています。米国ではすでにジャーナリストら3人が容赦なく斬首されていて、この件で私に話しかけてきた友人たちも、2人の運命がすでに決まっているかのように「アイ・アム・ソーリー」と言うばかりでした。

米政府はこれまで交渉を表向き全く拒否して空爆を強化してきました。「それが功を奏しつつあってISIL(イスラム国)は追い込まれている」とも発表されたばかりでした。20日のオバマ大統領の一般教書演説でも「イスラム国」の壊滅を目指し、国際社会で主導的な役割を果たすとの決意表明がありました。

交渉しない代わりに、諜報力でどこに拠点があるのか割り出し、そこを急襲して人質を救出するという作戦も行われています。ところが失敗して、昨年12月には数日中に解放予定だった英国人人質を殺させてしまったこともある。

そういうのがアメリカのやり方です。まるでハリウッド映画です。そうじゃない世界の可能性というものはないのか? アメリカ式ではない別の道はないのでしょうか?

今回、拉致されているジャーナリストの後藤さんはシリアに入る際に「日本はイスラム国と直接戦っていない。だから殺されることはないだろう」と語っていました。しかし、安倍首相はエジプトでの記者会見で「イスラム国対策2億ドル支援」を勇ましく表明しました。曰く「ISILがもたらす脅威を少しでも食い止める」「ISILと闘う周辺各国に総額で2億ドル程度支援をお約束」。

ところが人質殺害予告後のイスラエルでの会見はもっぱら「非軍事的な人道支援」を強調した内容で、「イスラム国」を刺激しないためか一転して名指しすらせずもっぱら「過激主義」とのみ呼んでいました。

私はイスラエルでの会見はとてもバランスのとれた、平和主義日本の立場をよく説明した声明だと思いました。それは日本憲法の前文と9条の精神を下地にしたもののようでした。「イスラム国」に対し「何を言っているのだ。日本は困っている人々に手を差し伸べる国家なのだ。2億ドルはそういう支援だ。そんな私たちの国民を殺害するなどイスラム法に則っても正義はない」と正面から啖呵を切れる論理だったと思えたのです。

ここに疑問が湧きます。エジプトでの声明とイスラエルでの声明との間にある明らかな語の選択と語調の差。それこそが安倍外交の齟齬、外務省の失敗の自覚なのではないか? エジプト声明での自慢気さに「拙い」と気づいての慌てての語調変更。

私は「イスラム国」には対抗すべきだと思っているし、「わざわざ標的になるような余計なことは言うな」とは思いません。ただ、彼らの原理主義への対峙は、米国追従やハリウッド的なテロ絶対悪説ではなく、もっと根源的な別の人間原理に基づくべきだと思っています。その原理とはまさに憲法前文と9条と民主主義による真正面からの反撃のことなのだと思うのです。そしてそれこそが、ハリウッド式ではない、世界のもう一つの在り方なのだ、ということなのです。

そんなことを言うとまた「平和ボケのお前が9条を掲げてシリアに入って、おめでたい人質救出交渉でもしてこい」とか「北朝鮮や領土問題の中国や韓国にも同じこと言えるのか」と言う人が現れます。はいはい、でも私が話しているのはそういうその場その場での対処方法の話なんかじゃないんです。

83年からパキスタンやアフガニスタンで戦火の中でも医療活動や水源確保・農業支援活動を続けてきた中村哲さんが毎日新聞の取材に答えて次のように語っています。

「単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」

平和憲法を平和ボケだとかお題目唱えてろとか言う人たちは、そんな中村さんたちの、現場の切実な安心感はわからんのでしょうね。

January 19, 2015

運動としての「表現の自由」

仏風刺誌「シャルリ・エブド」襲撃事件はその後「表現の自由」と「自由の限度」という論議に発展して世界中で双方の抗議が拡大しています。シャルリ・エブドの風刺画がいくらひどいからといってテロ殺人の標的になるのが許されるはずもないが、一方でいくら表現の自由といっても「神を冒涜する権利」などには「自由」は当てはまらない、という論議です。

私たちはアメリカでもつい最近同じことを経験しました。北朝鮮の金正恩第一書記をソニーの映画「ジ・インタビュー」が徹底的におちょくって果てはミサイルでその本人を爆殺してしまう。それに対してもしこれがオバマ大統領をおちょくり倒してついには爆殺するような映画だったら米国民は許すのか、というわけです。

日本が風刺対象になることもあります。最近では福島の東電原発事故に関して手が3本という奇形の相撲取りが登場した風刺画に大きな抗議が上がりました。数年前には英BBCのクイズ番組を司会していたスティーヴン・フライが、「世界一運が悪い男」として紹介した広島・長崎の二重被爆者の男性の「幸福」について「2010年に93歳で亡くなっている。ずいぶん長生きだったから、それほど不運だったとも言えないね」と話したところ在英邦人から抗議が出てBBCが謝罪しました。

シャルリ・エブドの事件のきっかけとなった問題は、風刺の伝統に寛容なフランス国内でも意見は分かれるようです。18日に報じられた世論調査結果では、イスラム教預言者ムハンマドを描写した風刺画の掲載については42%が反対でした。もっとも、イスラム教徒の反対で掲載が妨げられてはならないとの回答は57%ありましたが。

宗教批判や風刺の難しさは、その権威や権力を相手にしているのに、実際には権威や権力を持たない市井の信者がまるで自分が批判されたかのように打ちのめされることです。そして肝心の宗教そのものはビクともしていない。

でも私は、論理的に考え詰めれば「表現の自由に限度はない」という結論に達せざるを得ないと思っています。何が表現できて、何が表現できないか。それはあくまで言論によって選択淘汰されるべき事柄だと思います。そうでなくては必然的に権力が法的な介入を行うことになる。つまり風刺や批評の第一対象であるべきその時々の権力が、その時々の風刺や批評の善悪を決めることになります。自らへの批判を歓迎する太っ腹で寛容で公正な「王様」でない限り、それは必ず圧力として機能し、同時にナチスの優生学と同じ思想をばら撒くことになります。

もちろん、表現の自由の限度を超えると思われるようなものがあったらそれは「表現の自由の限度を超えている」と表現できる社会でなければなりません。そしてその限度の境界線は、その時々の言論のせめぎ合いによってのみ決まり、しかもそれは運動であって固定はしない。なので表現の自由とその限度に関する議論は止むことはなく、だからこそ自ずから切磋琢磨する言論社会を構成してゆく、そんな状態が理想だと思っています。

ヨーロッパというのは宗教から離れることで民主主義社会を形成してきました。青山学院大学客員教授の岩渕潤子さんによると「ヴァチカンが強大な権力を持っていた時代、聖書の現代語訳を出版しようとしただけで捉えられ、処刑された。だからこそヨーロッパ人にとってカトリック以外の信教の自由、そのための宗教を批判する権利、神を信じない権利は闘いの末に勝ち取った市民の権利だった」そうです。

対してアメリカは宗教とともに民主主義を培ってきた国で、キリスト教の権威はタブーに近い。しかしそれにしても市民社会の成立は「神」への永遠の「質問」によって培われてきたし、信仰や宗教に関係するヘイトスピーチ(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの差別や排斥の表現)も世界の多くの国々で禁止されているにもかかわらず「表現の自由」の下で法的には規制されていず、あくまでも社会的な抗議や制裁によって制御される仕組みです。もちろんそれが「スピーチ(表現)」から社会的行動に転じた場合は、「ヘイトクライム(偏見や憎悪に基づく様々なマイノリティへの犯罪行為)」として連邦法が登場する重罪と位置付けられてもいるのです。いわば、ヘイトスピーチはそうやって間接的には抑圧されているとも言えますが。

「表現の自由」の言論的な規範は、歴史的にみればそれは80年代の「政治的正しさ(PC)」の社会運動でより強固かつ広範なものになりました。このPC運動に対する批判もまた自由に成立するという事実もまた、根底に「正しさ」への「真の正しさ」による疑義と希求があるほどに社会的・思想的な基盤になっています。

でもここでこんな話をしていても、サザンの桑田佳祐が紅白でチョビ髭つけてダレかさんをおちょくっただけで謝罪に追い込まれ、何が卑猥かなどという最低限の自由を国民ではなく官憲が決めるようなどこぞの社会では、何を言っても空しいままなのですが。

December 15, 2014

「圧勝」の正体

「自公圧勝」と一面に大見出しが踊ったのは読売と産経でした。しかしその割に各局の開票速報テレビ特番に顔を出した安倍総理はあまり笑顔が持続しませんでした。というかはっきり言って時にとても苛立っていた。

中でもひどかったのは読売系であるはずの日本テレビ「NEWS ZERO」での村尾信尚キャスターへの受け答え。アベノミクスで賃金は来年も上がると強調する安倍首相に対し「中小企業に賃上げ余力はあるのか」と問われると、安倍さんはスタジオからの音声イヤフォンを外して「村尾さんみたいに批判しているだけでは何も変わらない」と一方的にまくし立てる始末。言いたいことしか言わない例の「強弁で糊塗」癖と「言い返し」癖がまたぞろ出てきて、とても「圧勝」の将の弁とは思えません。

もう1つはテレビ東京「池上彰の総選挙ライブ」。「集団的自衛権について選挙戦であまり触れていなかった」と指摘されて安倍さん、「そんなことありませんよ。今までもテレビの討論会で何度も議論したじゃないですか!」「(自民党が)勝ったから(集団的自衛権について)訴えていなかったというのはおかしいと思いますよ」と語気を強めました。

つまり今回の選挙結果は「集団的自衛権容認も支持を得られたと受け止める」ということです。うーむ、そう言いたいのは山々でしょうが、自民党が選挙前、国民の意見がかなり分かれる問題から懸命に話題をそらそうとしていたのも事実。菅官房長官は選挙が決まった先月19日の記者会見で集団的自衛権に関しては「既に憲法改正を国政選挙の公約にしており(信を問う)必要はない」と明言していて、秘密保護法についても「いちいち信を問うべきではない」と争点化を避けていたのです。そして「信を問うのはアベノミクス」と言い切っていた。

自公合わせて議席占有3分の2以上は選挙前と変わりません。つまり「圧勝」ながらも「現状維持」なのです。しかも自民党は議席を3つ(追加公認で最終的に2つ)減らしている。

では何のための選挙だったのか? 野党の体たらくのうちにあわよくば自民だけで3分の2の議席を、とでも皮算用していたのか? 実際、産経新聞などはそう予想していました。安倍さんのあの日の苛立ちはそこら辺が原因かもしれません。

一方で憲法9条改変に反対の党は150から174議席に、原発再稼働慎重派の党は119から139議席へと増えました。そもそも自民のストッパーを自称する公明党が議席を増やしての前議席数越え。そして反自民鮮明な共産が大幅増。自民より右翼と言われる次世代の党が壊滅状態。安倍政権へのこのメッセージは予想以上に明らかではないかと思われます。

前回衆院選も似たようなものでしたが、比例区で自民党に投票した人は今回も全有権者の17%に過ぎません。3分の2という「圧勝」はあくまで小選挙区制というプリズムを通しての数字です。得票率を全国完全比例代表制で議席に分配したら与党勢力は自民158、公明65、次世代12で計235議席で全475議席の過半数に至らず。対して野党勢力は民主87、維新75、共産54、社民12、生活9、幸福2云々となるそうです。

まあいずれにしても14年前の森喜朗政権以降、小泉フィーバーの時の3回を除けば自民党の比例区絶対得票率は16〜18%どまりです。国民有権者の6人に1人くらいしか自民党に積極的に投票していないとすれば、これは「圧勝」という見かけよりも「支持横ばい」が実態です。しかしそれでも安倍政権は「圧勝」で動いていくのでしょう。そして私たちはそれを見越しての対応を考えなければならないのでしょう。

December 02, 2014

礼節を知る

選挙の際になぜいつも景気の話が最も重要視されるのか、それは何を為そうにも生活が保障されていない限りすべてがむなしいからです。ですから今回の解散総選挙で安倍首相は「この道しかない」と言ってアベノミクスの推進を前面に押し出しているのでしょう。

けれど、アベノミクスそのものが成功しているのか、正しい「道」なのか、という点には実質賃金が16カ月連続でマイナスになっているなど、さまざまな疑問が生じ始めているのも事実です。

思えばアベノミクスはその命名自体こそが政治的成功でした。経済の話は難しいのでなかなかついていけない。でも「アベノミクス」と聞けばなんとなく実体があるような、具体的な政策のように聞こえます。

簡単に言えばそれは世間にお金をじゃぶじゃぶ注ぎ込んでカネ余りの状態を作り、そこで「国土強靭化」と称する公共投資をやっていけば、そのうちに民間の会社にも活力がみなぎるはずだという政策なんですが、活力がみなぎる前に米格付け会社ムーディーズが日本の国債を1つ格下げしたというニュースも飛び込んできました。

ムーディーズも勝手なもんで「消費増税を見送ったことで財政健全化が遠のいた」というのが一因だそう。一方では消費増税のあおりで個人消費が落ち込み、財政健全化の一端を担う税収増の源(民間活力)がヘトヘトになっているのに。結局アベノミクスも「行くも地獄、戻るも地獄」状態だということですか。

しかし「この道しかない」と言うだけあって、野党にはアベノミクスに対抗する経済政策の上手いネーミングがありません。なので有権者には魅力的な「別の道」がさっぱり見えてこない。

私は「アベノフィックス(アベノミクスの修正)」が必要だと思うんですが、そもそもどうして景気が大切なのかというと、それは「衣食足りて礼節を知る」ためなのだと信じています。少なくとも私は礼節を知って「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会(世間)において、名誉ある地位を占めたいと思」うのです。

ところがアベノミクスでもなんでもいい、とにかく日本経済を再生させて安倍政権が手に入れようとしているものが、どうもこの「礼節」とは違うもののように思えてしょうがない。

集団的自衛権の閣議決定という解釈改憲やチェック機能なしの特定秘密保護法の施行は、戦争や全体主義のあの時代の残酷さを忘れた逆の意味の「平和ボケ」にしか思えませんし、先の選挙で脱原発や反TPPを訴えてそれらを全て反故にした無責任さも、景気条項を外した消費増税の決定を「増税先送り」と呼ぶセコさも、そして何より首相自らが民族差別組織を宣伝したり先の大戦を美化したりするような不見識も、礼節とはかけ離れている。礼節なくしていったい何のための景気回復なのでしょうか?

選挙に際してぜひ肝に銘じてほしいことがあります。民主主義というのは何かをするのに適した制度ではなく、むしろ何かをさせないよう生み出された制度なのです。何かを為すには話し合いなどない独断専行がいちばん手っ取り早い。でもそうすると権力は必ず独善と横暴に堕します。

独裁や専政、圧政、そういうことをさせないためにわざとまだるっこしい手続きである民主制度が作られました。選挙とは、権力の奢りを遅滞させ反省させる唯一の武器なのです。まだるっこしさの覚悟がないところに民主主義は成立しません。景気の話と同時に、選挙では礼節と覚悟の話もぜひ考えてください。

November 17, 2014

エボラ禍で私たちにできること

米国移送の最初のエボラ感染患者がニューヨークの病院から退院する一方で新たに搬送されたシエラレオネの医師が治療の甲斐なくネブラスカ州で死亡するなど、エボラ熱との戦いはまだ続いています。感染爆発の西アフリカでは死者5000人を超えました。

これから始まる新たな社会問題もあります。エボラで死んだ親の子供たちが、感染を恐れる親戚にも見放されて続々
と孤児になっているのだそうです。中でも死者が3000人近いリベリアでは孤児の数も4000-5000人いると見られています。ところが彼らを世話する孤児院がない。

その孤児院を建設しようと、1人の牧師さんがこの夏からニューヨークで資金集めに奮闘しています。首都モンロビアで最大のキリスト教区を持つサミュエル・リーブズ牧師です。

そもそもなぜリベリアで感染被害が多いかというと、リベリアは家族や友人をとても大切にする社会で、道で会っても話をするときでもいつもハグしたりキスしたり手を取り合ったりしているのだそうです。また家族が亡くなるとみんなでその遺体を拭き清める習慣もある。そんな温かい関係がかえってエボラ熱の接触感染を広める仇となったのです。

にもかかわらずエボラの恐怖と社会的スティグマは家族親族の関係を断ち切るほどに強い。私たちも知っているエイズ禍の時と同じです。

リーブズさん自身、9月の故国からの電話で、幼馴染の隣の教区の牧師さんがエボラで急死したという方を受け取りました。国の保険証の担当官と一緒に国内のエボラ患者の支援と救済に飛び回っている最中に自身もエボラに感染してしまったのだそうです。

リーブズ牧師はどうにか孤児たちを引き受ける孤児院を作りたいと奔走しています。全米の教会を回り資金集めに忙殺されていた9月には、幼なじみだった隣の教区の同僚牧師さんがエボラで急死したという電話連絡も受けました。リベリアの厚生省の担当者といっしょに国内各地を回って患者たちの世話をしていて感染したそうです。

リベリアはやっと内戦が終わり民主社会を建設中でした。それがまた壊滅的な打撃を受けています。その立て直しは孤児院の建設から始まると言うリーブズ牧師は、最終的に国内に15の院が必要になると話しています。その第一号の建設地はすでにシエラレオネとの国境沿いに国際支援でできた医療センターと高校施設との共同敷地があるそうです。

資金集めの目標は1000万ドル(10億円)。そこにニューヨークで40年活躍しているジャズマンの中村照夫さんが慈善コンサートで資金集めに協力することになりました。中村さんは日本のジャズ界の大きな賞である南里文雄賞の受賞者で、20年来、日米でエイズの啓発コンサートも続けてきた人です。

今年も12月1日(月)は世界エイズデーです。この日に「エイズからエボラへ」という持続的な社会啓発を謳って中村さん率いるライジングサン・バンドがブルックリン・パークスロープの「ShapeShifter Lab(シェイプシフター・ラブ)」で7時から演奏します。寄付は現金と小切手で受け付けます。詳細は次のとおりです。

    *

【世界エイズデーコンサート=エイズからエボラへ】
日時=12月1日(月)午後7時〜9時
場所=ShapeShifter Lab (18 Whitewell Place, Broklyn, NY=最寄駅はR線のユニオン・ストリート)
出演=Teruo Nakamura & the Rising Sun Band, with Monday Michiru (Vocal/Flute)
入場料=15ドル
寄付願い=できれば10ドル以上を。小切手宛先は The Safety Channel。全額がモンロビアの「Providence Baptist Church Medical Center and Orphanage」へ寄付されます。

October 06, 2014

脅迫者の手口

NHKの新しい朝ドラ「マッサン」で、主人公のマッサンこと亀山政春がスコットランド人女性エリーと結婚して帰国しました。でもマッサンの母親役の泉ピン子は外国人との結婚など認めず、エリーに「政春のことを思うなら、あの子の将来を考えるならどうぞ国へ帰ってつかぁさい」と迫った。ああそう来たか、と思いました。古今東西の脅迫者は直接の相手ではなくその恋人や家族が危ういぞと脅すのが常だからです。

そうなると問題は当事者の手を離れ、被害の可能性を無限に広げます。脅された相手はもう自分の覚悟や判断だけではどうにもなりません。泉ピン子のその台詞を聞きながら私が思っていたのは、大阪の帝塚山学院大に、従軍慰安婦問題に関するいわゆる「吉田証言」の記事を執筆した元朝日新聞記者の教授を辞めさせなければ大学を爆破するという内容の脅迫状が届いた事件です。

周知のとおり「吉田証言」とは故・吉田清治氏が戦時中に軍令に従って済州島などで「若い朝鮮人女性を拉致・強制連行して慰安婦とした」と証言したものです。そして今年8月5日、朝日新聞はこの吉田証言を虚偽として関係する過去の記事を取り消しました。朝日はこれで多くの批判を浴びており、安倍首相までが「日本のイメージは大きく傷ついた。『日本が国ぐるみで性奴隷にした』とのいわれなき中傷が世界で誤報によって作り出された」と、記事取り消しに乗じてまるで慰安婦問題そのもの(つまりは河野談話も)がなかったかのような物言いをしています。

帝塚山学院大は、この爆弾テロ予告を受けて自主退職を選んだ朝日OB教授の辞表をそのまま受理しました。いわばテロに屈して学問と言論の拠って立つ矜持を放棄したわけです。「大学のことを思うなら、辞めてつかぁさい」ということでしょう。

一方、同じような脅迫が北海道の北星学園大にも届きました。ここにも吉田証言に関わった朝日OB記者が非常勤講師を務めているのです。しかし北星学園は「本学が主体的に判断する」と、脅しに屈しない毅然たる態度を表明しています。

とはいえこの朝日OB記者の高校生の長女はネットで氏名、写真をさらされ「自殺に追い込む」と脅され、長男の高校の同級生は同姓のために間違われてネット上でやはり名指し写真付きで「売国奴のガキ」と書かれた。まさに家族を脅す悪者の典型パターンです。

こうしたネット上での安易な右翼的振る舞いの有象無象を「ネトウヨ」と称しますが、その増殖は安部政権自体の振る舞いに鼓舞されてか最近目に余るものがあります。政権自体が彼らをまともに批判しないばかりか、ときにはかばう仕草すら見せるのですから。そこに「売らんかな」の週刊誌がここぞとばかりに嫌韓・嫌中で販促を行う。

ネトウヨたちはものごとを「愛国」と「反日」で分け、日本批判をすべて「反日」認定してネット上で「炎上」を仕掛けます。なんとも寒々しい光景です。「反日」はかつての「非国民」の怒声と同じなのですが、彼らはなぜか「非国民」という言葉は使いません。いっそのこと使えば正体がはっきりするのに、さすがにそれはまずいと知っているのでしょう。

いまの日本を席巻しようとする「愛国勢力」たちが、自分たちの振りまく罵倒と憎悪と怨嗟の言葉が古今東西の脅迫者たちの手口と似通っていることに気づくことはあるのでしょうか。作家の高橋源一郎さんは言っています。「自称『愛国者』たちは『愛国』がわかっていないのではない。『愛』が何なのかわかっていないのだ」

September 14, 2014

朝日非難の正体

朝日新聞が大変なことになっています。

まずは8月5日にこれまでの「従軍慰安婦」関連報道の検証を公表して、32年前の吉田清治証言など多くの事実関係の誤りを認めました。次にこの問題を分析して「訂正するなら謝罪もすべきではないか」と論評した池上彰氏の同紙コラムを不掲載として、これも大批判を浴びました。さらには東電福島原発事故の際の吉田調書のスクープ(5月20日付記事)でも「吉田昌郎所長の命令に違反して所員が撤退した」とした記事が誤報だったとして9月11日付で再び削除、謝罪するに至りました。そこで現在、同業の読売、産経をはじめ週刊誌や自民党政治家などから「朝日は潰れろ」とばかりの袋だたきに遭っているのです。まるで「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態です。

背後にはとにかく「従軍慰安婦問題」が気に食わないいわゆるネトウヨ(ネット右翼)がいるようです。というのも慰安婦問題そのものがなかったかのような「訂正しろ」コールが沸き起こっているのですね。

実は「吉田証言」はかねてから怪しいとされてきて、さまざまな国際報道でも疑義が差し挟まれてきました。訂正するにしても本質的な全体像にはあまり変わりはないのですが、首相である安倍サンですらこの虚報騒動の中で「世界に向かってしっかりと取り消すことが求められる」「事実ではないと国際的に明らかにすることをわれわれも考えなければならない」と、何かまるで全部「事実ではなかった!」みたいな言い方でしょ。

もちろん池上問題はまったく弁解の余地もない話ですし、引き続く「吉田調書」スクープでの失敗も、記者がとにかく「原発は危ない」「東電はけしからん」などの世論と呼応して前のめりになってしまって、調書の読解が「ウケ狙い」の曲解に傾いたのが原因だと思います。

朝日が大きな間違いを犯したのは事実です。でも、それで巻き起こっている日本社会の非難の正体が何なのかが気になるのです。産経に至っては連日の批判記事の他に「朝日よ『歴史から目をそらすまい』」「産経 史実に基づき報道」という大見出しで全面PRまで作って読者牽引を図っているサモシさですよ。

例えばNYタイムズが誤報をして、それを他のメディアが嬉々として叩いて客引きする、なんて図式はアメリカではまず考えられません。Foxでもそこまではしない。むしろジャーナリスト同士で叱咤すべきは叱咤し、商売仇とはいえ同僚でもある当該紙の再起を願うはずです。なぜならそれが言論全体の健全さを保障すると、ジャーナリストなら知っているからです。

でもそんなことを言うと「反日だ」とレッテルが張られます。「朝日をかばうのか」「捏造した記事を書く新聞は逝ってヨシ」などといった実に乱暴な反論が(罵詈雑言とともに)ツイッターで返ってきます。彼らの「反日」とは国内向けにはまさに「非国民」という意味なのですが、なぜか彼らは「非国民」という非難の仕方は避けています。アノ時代のアノ人たちとは違うと思われていたいのかしら?

私たちの言論の拠って立つところは、実はとても稀少で脆弱です。みんなで育て支えていないとすぐに崩れる。なのに、そういう乱暴な声の行き着く社会が、真っ先にそういう人たち自身の物言いをも封じ込める社会だとは気づいていない。

かくして欧米では朝日の誤報自体と同時に、朝日の誤報以降に安倍政権や保守派勢力が朝日=リベラル勢力に対して絶え間なく圧力を掛けているという話もニュースになっているのです。

August 30, 2014

氷のビショービショ

友人からチャレンジされて私もアイスバケットの氷水をかぶりました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病の支援を目的に7月末から始まったこのキャンペーンは有名人を巻き込んであっというまに300万人から計1億ドル以上を集めました(8月末現在)。昨年の同じ時期に米国ALS協会が集めた募金は280万ドルだったといいますから、このキャンペーンは大成功です。

フェイスブックやツイッターで映像画像を公開しているみなさんは嬉々として氷水をかぶっているようですが、スティーヴン・ホーキング博士も罹患しているこの病気はじつはとても悲惨なものです。四肢から身体全体にマヒが広がり、最後に残った眼球運動もできなくなると外界へ意思を発信する手段がなくなります。意識を持ったまま脳が暗闇に閉じ込められるその孤独を思うと、氷水でも何でもかぶろうという気になります。

啓発のためのこういうアイディアは本当にアメリカ人は上手い。バカげていても何ででも耳目を集めればこっちのもの。こういうのをプラグマティズムと呼ぶのでしょうね。もちろんチャレンジされる次の「3人」も、「幸福の手紙」みたいなチェーンメール方式と違って断る人は断ってオッケー、その辺の割り切り方もお手の物です。

レディ・ガガにネイマール、ビル・ゲイツやレオナルド・ディカプリオといった世界のセレブたちが参加するに至って案の定、これはすぐに日本でも拡散しました。ソフトバンクの孫さんやトヨタの豊田章男社長といった財界人から、ノーベル生理学・医学賞の山中教授、そして田中マー君も氷水をかぶりました。

ところがあるスポーツタレントがチャレンジの拒否を表明して、それが世間に知られると「エラい」「よく言った」と賞讃の声がわき起こったのです。ある意味それはとても「日本」らしい反応でした。その後ナインティナインの岡村隆史も「(チャリティの)本質とはちょっとズレてきてるんちゃうかな」と口にし、ビートたけしも「ボランティアっていうのは人知れずやるもの」と発言しました。こうした批判や違和感の理由は「売名行為」「一過性のブーム」「やっている人が楽しんでるだけで不謹慎」「ただの自己満足」といったものでした。

日本にはどうも「善行は人知れずやるもの」というストイックな哲学があるようです。そうじゃないとみな「偽善的」と批判される。しかし芸能人の存在理由の1つは人寄せパンダです。何をやろうが売名であり衆人環視であり、だからこそ価値がある。ビートたけしの言い分は自己否定のように聞こえます。

私はこれは日本人が、パブリックな場所での立ち振る舞いをどうすべきなのかずっと保留してきているせいだと思っています。公的な場所で1人の自立した市民として行動することに自身も周囲も慣れていない。だからだれかがそういう行動を取ると偽善や売名に見える。だから空気を読んで出しゃばらない。そんな同調圧力の下で山手線や地下鉄でみんな黙ってじっとしているのと同じです。ニューヨークみたいに歌をうたったり演説をする人はいません。

そういう意味ではアイスバケット・チャレンジはじつに非日本的でした。パブリックの場では大人しくしている方が無難な日本では、だから目立ってナンボの芸人ですら正面切っての権力批判はしない。むしろ目立つ弱者を笑う方に回る。

私は、偽善でも何でもいいと思っています。その場限りも自己満足も売名も総動員です。ALSはそんなケチな「勝手」を飲み込んであまりに巨大なのですから。

August 10, 2014

コピペ首相

6日の広島平和記念式典、9日の長崎平和祈念式典、双方で安倍首相の読み上げた「あいさつ」文が昨年の「あいさつ」とほぼ同一の文言が多かったことから、ネット上で「昨年のコピペ」「首相は被爆者をナメてる」「平和軽視の証拠だ」と大炎上になりました。コピペとは「コピー&ペースト」。小保方論文や学生のリポートでも問題となっている「引き写し」のことです。

広島では冒頭が「69年前の朝、1発の爆弾が十数万になんなんとする、貴い命を奪いました」。昨年はこれが「68年前」で、それ以外は2段落分が一字一句同じ。長崎でも「本日、被爆69周年〜」で始まる最初の段落と2段落目は、年数を示す文言以外同一文章。3段落目の「一度ならず、二度までも被爆の辛酸をなめた」もまったく同じ表現でした。

問題は2つあると思います。1つは、こういう全国放送もされる式典などでのスピーチは政治家が自らの「政治の言葉」をフルに発信できる絶好の機会です。それは「言葉の力」で民衆に感動や納得や賛同を植え込む好機です。その檜舞台をコピペ演説で浪費するなんて、政治家ならそれだけで失格です。

少なくともアメリカ大統領の年恒例の演説で前年のスピーチからのコピペはあり得ません。地方遊説で同じスピーチを使い回すことはあっても、それは聴衆が違うからで年一度の大イベントでのコピペはあり得ない。

ならばやはり安倍首相は広島・長崎を舐めてかかったのでしょうか。このところ2年続きで同じ首相が「あいさつ」することがあまりなかったので小泉純一郎まで遡ってみると、さすがに6年も同じ「あいさつ」をしているので内容も似通っているものの、むしろ話の順序を入れ替え、細かい表現を取ったり加えたりと、同じにならないような何らかの工夫が為されていました。安倍首相のコピペとは違ったのです。

しかし加藤官房副長官は安倍コピペを「特段の問題があるとは考えておりません」。首相周辺によれば、こうした式典の挨拶は頻繁に変えるべきではないとして、敢えて同じ言葉を選んでいると言うのです。

なるほどそこが問題の2点目です。官僚的には政府見解の整合性、連続性、統一性こそが重要なのであって、それは首相「あいさつ」にも当てはまるという論理です。

もっともコピペはかなり情緒的な表現部分で行われていて、こうした整合性で問題となる肝心の状況認識とか政治的意義付けの部分ではありません。むしろコピペしたような情緒部分こそスピーチライターの腕の見せ所だったはずです。

ただし問題はそこではありません。整合性というならば問題はむしろコピペじゃなく、コピペ「しなかった」部分にこそある。つまり従来の「あいさつ」を踏襲しなかった部分です。それは「憲法を守る」という表現の欠落でした。

じつは06年まで、自民党の歴代首相は「日本国憲法を守る」「平和憲法を遵守する」と「あいさつ」してきました。それが07年の第1次安倍内閣では「憲法の規定を遵守する」と、なんとなく形式が変わった。そして次の福田、麻生内閣で初めて憲法への言及が消えたのです。

次の民主党政権3年度にわたる「あいさつ」では再び「日本国憲法を遵守する」が復活しましたが、第2次安倍内閣の翌13年と今回14年ではまた憲法への言及が省かれていたのです。

「首相周辺」の論理で行けば、コピペではない部分こそがメッセージの変更です。だとすれば戦後憲法、平和憲法からの「脱却」の試みは、すでにとっくに始まっていたのかもしれません。

August 07, 2014

佐世保の少女

佐世保の女子高校生殺害事件で、加害少女が3月に父親をバットで襲った後に通院した精神科医が「このままでは人も殺しかねない」と児童相談所や当の父親に報告していたことがわかりました。地方の名士の家に生まれながらも複雑な家庭環境があり、それらがどう少女の心に影響したのか、などが取り上げられていますが、いま明らかになっている情報を精査してみると、私には少女は、社会的な善悪の基準を理解しない、罪悪感の欠落した行為障害(いわゆる反社会的人格障害、大人だとサイコパスと呼ばれる症状)なのだろうと思われるのです。

アメリカでは明確な精神医学会の診断基準があります。少女を診断した精神科医もおそらくそれらを基に「人を殺しかねない」と判断したのでしょう。それは「心の闇」と形容されて済むようなものではなく、歴とした「病気」なのです。

ところがTVでは加害少女の事件直前のそうした行動を「闇」として報道し、声優まがいの禍々しいナレーションや不吉な音楽がかぶせられます。これはドラマじゃありません。粛々たる現実なのに、どうしてそれを客観的に淡々と伝えられないのでしょう。そういうことをしてるからこのような事件を、わたしたちの社会はどこかよそごとの虚構としてしか認識しなくなる。というか、そういう「闇」として認識する方が、私たちの理解のパターンに添うために、受け入れやすい。たとえその「闇」の実態が知れなくとも、「心の闇」という定型句の中には収まってくれるからです。

でもそうではなく、これをまずは病気、精神障害としてとらえることが必要なのではないかと思います。「普通」の「私たち」にはとても理解できない「病気」。でも事実として存在する「病気」。ネットではそのことに関してもカミュの「異邦人」の「殺人」や、星新一の「暑さ」というショートショートにある物語と重ねて論じる向きも窺えます。わたしも最初はそれを考えてみました。でも、カミュの「太陽が圧倒的だったから」というのはあまりにロマン的に過ぎるし、「暑さ」の主人公の動機は「イライラ」と明快なのです。書かれたものは、すでに理解されたものなのです。佐世保の少女の場合、それはまだ書かれていないものです。

少女の症状が一種の行為障害だった場合、最も効果的な治療法はとにかくまずは危害の広がる一般の環境から引き離し、精神衛生施設や青少年用の保護施設など厳格に統制された環境の中で社会性の「規範」を知らせてゆくことなのだそうです。

いま残念なのは、せっかく関係者が少女の危険性に気づいたのに、そのことに具体的に対処しきれなかったことです。私たちは、カミュや星新一ではなく、すでに同じような現実をほんとうは知っていたのに。

1つは97年に数カ月にわたって計5人の小学生が殺傷された神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇事件です。もう1つは2000年に「殺人の体験をしてみたかった」として愛知県の17歳の男子高校生が68歳の主婦を40カ所も刺して殺した豊川市主婦殺人事件です。他にもあるでしょう。

もちろん知ってはいても、実際は「そんな映画みたいな話が自分の周りで起きるはずはない」とふつうは思います。でも関係するプロは「起きるかもしれない」と警戒することが仕事です。

1980年代のエイズ禍の出現とともに、医療現場ではある概念が導入されました。「ユニバーサル・プレコーション(普遍的事前警戒)」、さらにはそれの発展形である「スタンダード・プレコーション(標準的事前警戒)」というものです。後者は日本語では「標準予防策」と訳されます。医療現場にあっては、感染がわかっていようとなかろうと、すべてが感染源かもしれないという前提で事前に警戒して取り扱う、という原則のことです。

この考え方が徹底されることで予防注射の針は使い捨てになり、歯医者でも患者ごとに十全に殺菌済みの器具を使用するようになった。病院では消毒法だけでなく患者に接する際の手袋やマスク、エプロンやガウン、さらにはゴーグルやフェイスシールドの着脱の順番まで細かく基準化(スタンダード化)されています。

「スタンダード・プレコーション」とはいわば「疑わしきは疑ってかかる」ことです。

でもこれを社会全般に適用するととんでもなくイヤな世界になってしまいます。例えばアルコールを提供する場所でのダンスは淫らな非行に通じるからと「事前警戒」して取り締まる社会。例えば漫画やアニメの「ある部分」が青少年の健全な精神育成に悪い影響を与えると「事前警戒」して規制に走る社会。あるいは幼い女の子の手を引いている男の人を見かけたら何か悪いことが起きる「事前」にすぐに警察に通報する社会。

そんな潔癖一辺倒で、なおかつ疑心暗鬼な社会はまっぴら御免でしょう。

エイズ禍でもそうでした。医療現場だけでなくコミュニティ全体にスタンダード・プレコーションが行き渡っても、それで人間関係がギスギスしてしまったら何のための安全かわかりません。なのでその場その場でのポイントを押さえ、スマートに事前警戒するしかないのです。そのためには1人ひとりの警戒の感度をレベルアップする必要がありました。それは、1人ひとりが知的に考えることでしか得られない社会的な安全保障のレベルアップでした。

では今回の佐世保の事件ではどうだったのでしょうか? この場合の事前警戒ポイントは精神科医と両親と児童相談所でした──少女に最も近しい者とプロフェッショナル。

せっかく事件直前にも少女の異状に気づきながら、その三者とも対応が一歩ずつ遅れた。医師は忙しく、児童相談所は時間外で、両親はまさか翌日に少女が同級生を殺すとは思っていなかった……不運というには残酷すぎる結末です。事前警戒のポイントで即応できるよういま一度、私たち自身の知的警戒の質をレベルアップしなくてはならない。こうした障害や病気があるのだという事実を、嫌悪感や処罰感情を除外して事実として学習しなければならないと思うのです。これは安っぽい事件ドラマではないのです。

July 19, 2014

中古(ちゅうぶる)の大切さ

CNNとニューズウィーク・ジャパンがそろって先日、建て替えられる東京のホテル・オークラ本館を惜しむ記事を掲載しました。老朽化が進み,20年の東京五輪を前に建て替えてしまえというものですが、CNNは「時代の中に取り残されたような趣きが魅力だったタイムカプセル的ホテル」と重要性を強調し、ホテルの保全運動を支持しています。

こういうのを読むにつけ、私たちはどうしていつも外国人の指摘で日本のよいものに気づくのだろうと思います。

思えば世界無形文化遺産に登録された和食だって、私が日本を離れた20年前にはだれも騒いでいませんでした。だいたい懐石・会席料理だって料亭になんか一般人が入ることはまずなかった。政治家とか経済界の重鎮たちが行く密室料理のことだったのです。

それが急にロビュションやらデュカスやらが日本料理に注目しだして、そこに菊乃井の村田さん辺りが和食の普及に奮闘し、世界ばかりか日本国内に向けても同時売り出しをしたわけです。それまでは、日本では何かの折りの豪勢な食事と言えば中華やフレンチだったのですから。

遡れば桂離宮だって昭和8年に来日したブルーノ・タウトが「これは凄い」って言ったというので日本人も「ああ、そうなのか」と気づいた。京都そのものだってかつては単なる修学旅行の場所でした。それが世界中から観光客が溢れもてはやしてやっとふつうの日本人も広く「そうだ、京都に行こう」となった。

ニューズウィークにオークラを惜しむエッセイを書いたのはレジス・アルノーさんというフランス人なんですが、この人、六本木ヒルズや計画される新国立競技場も大嫌い。スカイツリーは東京の衰退の象徴とバッサリ。東京駅と東京ステーションホテルも「改装前の面影はほとんどなく、東京ディズニーランド駅だ」と情け容赦ない。

対してオークラは「最先端のホテルではない。『古風』と言ってもいい。だが、ホテルオークラのロビーは戦後の日本の卓越した力強さを見事に映し出している」とべた惚れ。CNNも「セイコーの時計が入った世界地図には今でもレニングラード(現サンクトペテルブルク)の時刻が表示される。バー『ハイランダー』では世界各地でとうに姿を消したカクテルが注文できる」「何でも取り壊して大きく作り直すのが主流のアジアにあって、ホテルオークラはかつて素晴らしかったものへの敬意を思い起こさせる存在だった」

世界にはものすごく古いものと、ものすごく新しいものが混在しています。その中間にオークラのようなものが存在している。この、中くらいに古いものがどうして大切かというと、これ、生きている人間たちの記憶だからです。生きてきた時代の記憶なのです。つまりノスタルジアの源だということです。

でもこの「中くらいに古いもの」、言葉を換えれば「中古」「中ブル」です。その重要性を敢えて意識していなければすぐに「建て替え」「買い替え」の対象です。

いま生きている日本人の大多数にとってはそれは「昭和」のことなんでしょう。オークラも前回の東京五輪前の昭和37年に開業しました。そうした昭和の記憶とノスタルジアとが、とても古いものととても新しいものとの橋渡し役を担っているのですが、私たちはついそのことを忘れがち。じつはこの中くらいに古いものが庶民の文化のカギを握っているのです。それがなければ歴史は脈絡を失ってバラバラにほどけてしまうのですから。それを、外国人に指摘されないまでも意識していたいと思うのですが。

June 22, 2014

永遠の記憶ゼロ

【以下の文章はこれまでも繰り返し言ってきたものですが、都議会性差別ヤジの一件に絡めて再構成してみます。なお、ここでは黒人、女性、同性愛者と書くのみですが、他の人種や性自認、性指向を排除しているものではありません。それらを含むともっと字数もいるので、これはモデル化した、きわめて単純化したエッセーだと考えてください(=表題含めて書き直しました)】


「おまえが早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」。東京都議会で、妊娠、出産、不妊に悩む女性への支援の必要性を訴えた女性都議に対し、議場の自民党席からこんなヤジが飛びました。日本ではこれをセクハラと呼びますが、英米メディアは「セクシスト(女性差別)の暴言 sexist abuse」(英ガーディアン紙)などとより強い言葉で糾弾しています。

世界はつねに白人で異性愛者の男性によって語られ(決められ)てきました。彼らはすべての語りの「主語」でした。黒人も女性も同性愛者もその彼らによって語られる(決められる)「目的語」の位置にいました。

ところが米国では50年代あたりから黒人たちが、60年代から女性たちが、70年代から同性愛者たちが、下克上よろしく「主語」の地位を獲得しだします。するとどうなるか? 黒人たちが白人について、女性たちが男たちについて、同性愛者たちが異性愛者たちについて語りだす主客転倒が起こるのです。異性愛白人男性は急に自分たちが「語られ(自分の意に関係なく勝手に意味を決められ)」て、なんとも居心地の悪い受け身の状態に陥るわけです。今までは勝手に語ってきたのに、今度は勝手に言われる立場に逆転する。

一番の脅威は性的問題でした。黒人たちは性器の大きさを、女性は性交の巧拙を話題にする、極めつけは同性愛者たちで彼らは文字通り自分たちを「目的」にしている!(ような気がする)。

この「目的語」の恐怖は、彼らに2つの道を選択させます。1つは再びの絶対的主語奪還をはかるやみくもな実力行使です。さらなる男性至上主義、父権主義、セクシズムへの固執です。前提や環境が変わっていてすでに「絶対」は存在し得ないにもかかわらず、それを理解できないのです。

もう1つは主語と目的語の平準化、交換可能な交通化です。すなわち、主語でも目的語でもその間を自由に行き来して相対的な自我を意図的に(これは、わざとじゃないとなかなか出来ないことです)構築していく道です。ここでは世界の主語でないからと言って怯える必要はありません。

さてそこで例の都議会女性差別暴言ヤジ問題を考えてみましょう。当初この問題を取り上げたTVインタビューである自民党都議は「こんなヤジよくあること」と答えたのです。これはまさに50年代以前の、絶対的主語幻想が生きていた時代の言辞です。

ところが翌朝の新聞での自民党の反応は「まさか大ごとになるとは」。

これは自分たちが他の主語たちによって語られていることへの気づきと驚きです。自民党のセクシズムが世間の「目的語」として受け身にさらされるという、予期せぬことへの呆然です。だって今までの地方議会では「今日はパンツスーツだけど生理なの?」(千葉県我孫子市議会)「痴漢されて喜んでるんだろ」(2010年都議会)などと発言しても「よくあること」として問題視されなかったのですから。

さて、自民党はどちらの道に進むのでしょう? 再びの男性至上主義、セクシズムへの固執か、それとも……?

まあ、一番の可能性は遅ればせながら犯人のクビを差し出し、とりあえずは謝っておいて(週明けにでもそうなるでしょうかね)でも時間が経てばまた「なかったことにする」という記憶障害の再発でしょう。

ただしそれは自民党が知的鎖国状態にあることの証左であって、その限りでは今後も諸外国のメディアの、そして日本国内の、遅ればせながらいまとうとう主語の地位を獲得し始めた“元・目的語”の人たちの、批判対象、外圧対象であり続けるということです。それを逃れる道はなく、抜本的に脳髄を入れ替えないと永遠の記憶ゼロを繰り返さねばならぬはめになります。

June 16, 2014

6年後のニッポン

このところの日本のスポーツ報道の過剰な思い入れとか浪速節調などにちょっとした異和感を感じています。ソチ五輪のときもそうでしたが今回はもっとひどい。「今回」とはもちろんワールドカップのことです。

アメリカにいるとサッカー熱がそれほどでもないのでなおさら彼我の差として目につくのでしょう。いちばん気持ち悪かったのは朝日の本田圭佑の記事でした。「本当に大切なものは何か 自問自答した4年間」という見出しのこの読み物、まるで高校野球の苦悩のエースを取り上げたみたいな書き方でした。プロで莫大なカネを稼いでいるオトナに、「もともとはサッカーがうまくなりたいだけだったのに、ビジネスの要素が大きくなった。純粋な気持ちだけでサッカーをすることが難しくなった」と言わせる。「純粋な気持ちだけでは難しい」って、まるでプロを否定するようなこの切り口はないでしょう。

果たしてW杯予想でも初戦での日本の敗北をだれも口にできない幇間ぶり。大方が2−1での日本勝利予測で勝手に盛り上がり、こういうのを手前味噌というのではなかったか。こうしたうたかたの極楽報道は何かに似ているなと思ったら、そうそう、あの小保方さんの割烹着記事のニヤケ具合もこんな感じでした。

W杯報道はTVも新聞もみんな太鼓持ちになったみたいに総じて気持ち悪く進んでいます。

私は88年のソウル五輪を取材しました。事前の企画連載から本大会まで、ベン・ジョンソンの金メダル剥奪をスクープした東京新聞チームにいたのです。なのでいまもはっきり憶えています。あのころは「ニッポン、ニッポン」ばかりの報道は格好悪いから(どの社も)極力避けようと意識して報道していました。ちょうど国際化、グローバリゼーションなどという言葉が新聞にも登場し始めていたころです。いまのような「愛国」も「嫌韓」もありませんでした。

思えば88年というのはバブル経済真っ盛りのころでもあります。日本人には余裕というか、根拠のない自信もまた大いにあったのでしょうね。だから当時だっておそらくはいたはずのネトウヨ体質の人たちにしても、いまみたいに爬虫類よろしくすぐに噛み付いたりはしなかったのかもしれません。というか、政治的には圧倒的に少数派でしたから、いまの安倍のような守護神も集まる場もなくただただ逼塞するしかなかった。

あれから26年、「ニッポンすごい!」「ニッポン最高!」のしつこいほどの念押しが時代の様変わりを如実に示しています。背景にあるのは日本の余裕と自信のなさなのでしょう。だからいま改めて賛辞以外のいかなるメッセージも拒絶している。賛辞が聞こえない場合は自己賛辞で補填している。アメリカに住んでいると日本への賛辞はいろいろな機会に聞こえてくるので、そんなに不安になる必要はないと思うのですが、日本国内だと違うみたいですね。

おそらくもっと中立的、客観的な報道も出来るのでしょう。でも最も簡単でかつ喜ばれるのは読者・視聴者におもねるやり方です。だれもひとに嫌われたくなんかありませんし、とくにW杯みたいな「お祭り」ではそんなおべんちゃらもゆるされると思っているメディアの人間たちも多い。でもそれはジャーナリズムではありません。

この過剰な思い入れは戦争のときの高揚感に似ているのだと思います。中立でも客観でもなく、根拠もなく「イケる」と思ってしまう。まあ、そう思わない限り戦争なんか始められません。開戦というのはいつもそんな幻想や妄想と抱き合わせなのです。

不安の裏返しの「ニッポン最高!」の自己暗示。それは数多のJポップの歌詞に溢れる「自分大好き!」にも通底し、そこに愛国心ブームがユニゾンを奏でている──6年後の東京オリンピックではいったいどんなニッポンが現れているのでしょうね。

May 29, 2014

暴力のジェンダー

札幌市厚別区で行方不明になっていた伊藤華奈さんが殺害されていたという痛ましいニュースを目にしながら、その数日前に起きたカリフォルニア州サンタバーバラでの大量殺人事件の余波を考えていました。というのも「暴力には人種や階級、宗教や国籍の別はない。けれどジェンダー(男女)の別はある」という米国の女性作家の言葉が忘れられなかったからです。

サンタバーバラでの事件は単なる「もう1つの銃乱射事件」ではありませんでした。自殺した犯人の男子大学生(22)が残した犯行予告のビデオや百三十七ページの手記の内容が、全米の女性たちに異例の反応を惹き起こしたのです。なぜならば犯人は「自分のような完璧な紳士を相手にしないのは女たちの不正義であり犯罪だ。そんな女たち全員に罰を下してやるのがぼくの喜びだ」などと発言していたからです。

この激しいジェンダー間憎悪。ここにあるのは一義的には「モテない男の個人的な恨みつらみ」ですが、その根底には男たちの拭い去りがたい女性嫌悪、女性蔑視が横たわっているのではないか──その気づきが全米の女性たちに大議論を巻き起こしたのです。

ツイッターなどを舞台にしたその議論のハッシュタグ(合言葉)は「#YesAllWomen(そう、女たちはみんな)」。

男性性への批判に対して男たちが反論するときに「Not All Men(男がみんな〜〜だとは限らない)」と切り出す決まり文句があります。それに対抗して女性たちがいま、直言や皮肉として逆に「そう、女はみんな〜〜だ」という合言葉の下、自分の経験した性暴力や性差別、嫌がらせや性的脅しなどの具体例を報告しているのです。その数すでに百数十万件。つまりここにあるのは圧倒的なジェンダーの不均衡です。男女間の暴力事案の被害者は圧倒的に女性が多く、加害者は圧倒的に男性が多いという事実の列挙です。

しかも今回の犯人はメンズ・ライツ運動(男性の権利を取り戻す運動)に関わっていたこともわかりました。しかも彼の場合は女性の権利の台頭に恐れをなした男性側が、男性性の優位を訴えて権利回復を叫ぶというとても短絡的な主張です。これはつまりフェミニズムに出遭ったときに男性たちがそれを取り込んで柔軟かつ大らかに変わるのではなくて、そんな女性たちに対抗し競争して打ち勝つ、というなんとも子供じみた衝動なのです。

冒頭の「暴力にはジェンダーの別がある」というのは歴史家でもある作家レベッカ・ソルニットの新著「Men Explain Things to Me(私に物事を教える男たち)」の中の言葉です。今回の事件に関して彼女は「democracynow.org」という独立系の米ニュースサイトで「世界中で女性に対する性暴力が溢れている。なのにそれが人権の問題としてとらえられることは少ない」と論難しています。先のツイッターでの議論ではインドやアフリカ諸国などで多発する強姦事件や女性の人権無視も数多く言挙げされています。いやそれだけでなく、米テキサス州で「ビールとバイオレンスはドメスティックに限る!」と手書きの看板を出していたマッチョなバーもあることが報告されました。奨励される前者は国産ビール、後者は身内での暴力、特に女性への暴力のことです。

伊藤華奈さんへの加害者が男性なのかはまだわかっていません。しかし思えば先日のAKB握手会事件も男性が女性を襲ったものでした。暴力事案をこうしたジェンダーの視野から照らして見る。そうしなければ男たちは、犯罪に潜む身勝手な女性嫌悪と女性蔑視とに永遠に気づかないかもしれません。ええ、男がみんなそうだとは限らないのですが。

May 12, 2014

日系企業のみなさんへ〜任天堂事件の教訓

記憶に新しいところではこの4月、ファイアフォックスのモジラ社の新CEOがかつてのカリフォルニアでの反同性婚「Prop8」キャンペーンに1000ドルの寄付をしていたために就任10日で辞任に追い込まれました。東アジアのブルネイが同性愛行為に石打ち刑を適用することに対し全米でブルネイ国王所有のホテルチェーンにボイコットが起きていることも大きなニュースです。そういえばロシアの反同性愛法への抗議でソチ五輪で欧米諸国がそろって開会式を欠席したのもまだ今年の話でした。

性的少数者への差別や偏見に対してかくも厳しい世界情勢であるというのに、どうして大した思想も覚悟もあるわけでない任天堂米国社が、6月に発売するソーシャルゲーム「Tomodachi Life(日本名ではトモダチ・コレクション=先にコネクションとしたのを書き込み指摘により修正しました)」の中で同性婚が出来なくなっているのでどうにかしてほしいと言うファンからの要望に対して「任天堂はこのゲームでいかなる社会的発言も意図していません」「異性婚しかないのは、現実世界を再現したというよりは、ちょっと変わった、愉快なもう1つの世界だからです」と答えてしまったのでしょうか。

実は同じことは日本版リリース後の昨年暮れにも起きました。このときは日本国内での話題で、一部外国のゲームファンの中からも問題視する声がありましたが、任天堂はこれを「ゲーム内のバグ」と言いくるめて押し通し、肝心の同性間交際の問題には正面からはまったく対応しませんでした。そして今回に至ったのです。

これはマーケティング上の大失敗です。なぜならこれは、米国では誰から見ても明白に「大きな問題」になることだったからです。そして、同性婚を連邦政府が認めているアメリカで「異性婚しかないのは」「現実世界」とは違ってそれ「よりはちょっと変わった愉快なもう1つの世界」の話だからだと言うことは、まるで同性婚のある現実世界はその仮想世界よりも楽しくないという、大いなる「社会的メッセージ」を発することと同じだったからです。

果たしてこれをAP、CNN、TIME、ハフィントンポストなど、米国のほぼ全紙全局が一斉に報じました。AP配信の影響でしょうか、アメリカのゲーム関連のニュースサイトもちろん速報しました。「任天堂は同性婚にNO」という批判文脈で。それでもまだ任天堂は気づいていなかった。というのもハフィントンポストからの取材に対して日本の任天堂は「すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたい」とコメントしたのです。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/05/08/nintendo-tomodachi_n_5292748.html
「日本では昨年発売されたものですし、お客様にも大変喜んでいただいています。
 ゲームの中で、結婚したり、子供を作ったりという部分が特徴的なのは確かですが、それだけではありません。いろいろなことができるゲームですし、その部分のみが取り上げられるのは、ゲームの中身が理解されていないのかな、という印象です。まだ海外では発売すらされていないので、そういった報道になるのかもしれません。すでに発売された日本で大きな問題になってはいませんし、まずはゲームを楽しんでいただきたいと思います。」

そして翌9日、任天堂は謝罪に追い込まれました。「トモダチ・ライフにおいて同性間交際を含めるのを忘れたことで多くの人を失望させたことに謝罪します」と。

We apologize for disappointing many people by failing to include same-sex relationships in Tomodachi Life.

TIMEは次のようにこの謝罪も速報しました。

The company issued a formal apology Friday and promised to be "more inclusive" and "better [represent] all players" in future versions of the life simulation game. The apology comes after a wave of protests demanding the company include same-sex relationships in the game

もっとも、任天堂は例の「社会的発言」云々のくだりなど、それ以前のコメントの「間違い」への反省の言及は一切ありませんでした。

LGBT(性的少数者)の人権問題に関してどうして日系企業はかくも鈍感なのでしょう。そもそもアメリカに進出していてもLGBTという言葉すら知らない人さえいます。かつて日系企業の米国進出期には女性差別やセクハラ、人種差別やそれに基づくパワハラが訴訟問題にも発展し、多くの教訓を得てきたはずです。にもかかわらず今度はこれ。実際は何も学んでこなかったのと同じではありませんか。

性的「少数者」として侮ってはいけません。米国社会では親しい友人や家族の中にLGBTがいると答えた人は昨年調査で57%います。同性婚に賛成の人は先日のCNN調査で59%にまで増えました。所謂ゲーム世代でもある18歳〜32歳の若年層に限ると、同性婚支持の数字は68%にまで跳ね上がるのです(ピューリサーチセンター調べ=2014.3.)。

つまり、LGBTに関して「あいつオカマなんだってさ」「アメリカにはレズが多いよな」などという言葉を吐こうものなら、あなたは7割の若者から差別主義者の烙印を押されることになるのです。それで済めば良いですが、もしそれが職場や仕事上の話題ならば、訴訟になり巨額のペナルティが科せられます。冒頭に挙げた例はビッグネームであるが故の社会制裁を含んだものですが、アメリカでは最近、せっかく新番組のTVホストに決まっていた双子の兄弟が過去のホモフォビックな活動を問題視されて番組そのものがあっというまにキャンセルされてしまった例もあります。こう言ったらわかるかもしれません。アメリカ社会で黒人にニガーという言葉を投げつけただけであなたは社会的にも経済的にも大変困ったことになります。その想像力をそっくりLGBTに対しても持つ方がよい。ホモフォビックな性的少数者に差別と偏見を向ける人は、よほどの宗教的な確信犯ではない限り、すでにそちらこそが少数派の社会的落伍者なのです。

そんなこんなで任天堂問題がツイッターなどを賑わしているさなかに、大阪のゲーム会社がまた変なことをやらかしていることが発覚しました。

ノンケと人狼を見分けて「(ホモ)人狼」を追放する「アッー!とホーム♂黙示録~人狼ゲーム~」だそうです。

こうなるともうわけがわかりません。

これがアップルやグーグルのゲームアプリとして発売されるというので、いまツイッターなどでみんながアップルとグーグルにこんなホモフォビックなゲームは販売差し止めにしてほしいという運動を起こしています。なにせアップルもグーグルも世界的にLGBTフレンドリーを公言している企業だから尚更、というわけです。

このゲーム会社、大阪のハッピーゲイマー(Happy Gamer)というところらしいですが、ツイッターで抗議されて慌ててこのゲームのサイトに「表現について」という急ごしらえの「表現について」http://ahhhh.happygamer.co.jp/expressというページを追加してきました。そこで「このゲームにおいて「性的少数者=人狼」のように表現はされておりません」と釈明したのです。でも、それ以前にこの会社、ツイッターで「#ホモ人狼 あ、ハッシュタグ作ったんで使ってくださいね!」という「人狼=ホモ」という何とも能天気な自己宣伝をばらまいていたんですね。頭隠して尻隠さずというのはこういうことを言うのです。あまりに間抜けで攻めるこちらが悲しくなってきます。

というわけでこの会社が両販売サイトから差し止めを食らうのも時間の問題です。おそらく零細企業でしょうし、「ホモ人狼」などと堂々と宣伝してしまうところから見てもまったく意識がなかったのは明らかですが、「差別するつもりはなかった」という言い訳が通用するのは小学生までです。ユダヤ人に、黒人に、世界中でどれほどそういう名目での差別が行われてきたか、「差別するつもりはなかった」ということをまだ恥ずかし気もなく言えるのもまた日本社会の甘やかなところなのだと、とにかく一刻も早く気づいてほしい。並べて日本の会社はこの種のことにあまりに鈍感過ぎます。

「差別するつもりはなかった」という言葉で罪が逃れられると思っているひとは、「殺すつもりはなかった」という言葉があまり意味のない言い訳であるということを考えてみるといいと思います。こんなことが差別になるとは知らなかったと言って驚く人は、こんなことで死ぬとは思っていなかったと言って驚く人と同じほど取り返しがつかないのです。LGBTに関して、いま欧米社会はそこまで来ています。

ゲイやレズビアンなどの市民権がいまどうして重要なのか。いつから彼らは「ヘンタイ」じゃなくなったのか。私はもう20年以上もこのことを取材し書いてきました。日本企業のこの状況を、ほとほと情けなく思っています。この問題について企業研修をやりたいなら私が無料で話してさしあげます。連絡してください。

April 28, 2014

尖閣安保明言のメカニズム

「尖閣諸島は安保条約の適用対象」という文言が大統領の口から発せられただけで、鬼の首でも獲ったみたいに日本では一斉に一面大見出し、TVニュースでもトップ扱いになりました。でも本当に「満額回答」なんでしょうか? だって、記者会見を聴いていた限り、どうもオバマ大統領のニュアンスは違っていたのです。

もちろんアメリカ大統領が言葉にすればそれだけで強力な抑止力になります。その意味では意味があったのでしょう。しかしこれはオバマも「reiterate」(繰り返して言います)と説明したとおり、すでに過去ヘーゲル国防長官、ケリー国務長官も発言していたこととして「何も新しいことではない」と言っているのです。

Our position is not new. Secretary Hagel, our Defense Secretary, when he visited here, Secretary of State John Kerry when he visited here, both indicated what has been our consistent position throughout.(中略)So this is not a new position, this is a consistent one.

ね、2度も言ってるでしょ、not a new position ってこと。これは首尾一貫してること(a consistent one)だって。

それがニュースでしょうか? それにそもそも安保条約が適用されると言ってもシリアでもクリミアでも軍を出さなかったオバマさんが「ロック(岩)」と揶揄される無人島をめぐる諍いで軍を動かすものでしょうか? だいたい、上のコメントだって実は中国をいたずらに刺激してはいけないと「前からおんなじスタンスだよ、心配しないでね」という中国に対する暗黙の合図なのです。

それよりむしろオバマさんが自分で安倍首相に強調した( I emphasized with Prime Minister Abe)と言っていたことは「(中国との)問題を平和裏に解決する重要さ(the importance of resolving this issue peacefully)」であり「事態をエスカレートさせず(not escalating the situation)、表現を穏やかに保ち(keeping the rhetoric low)、挑発的な行動を止めること(not taking provocative actions)」だったのです。まるで中学生を諭す先生のような言葉遣いです。付け加えて「日中間のこの問題で事態がエスカレートするのを看過し続けることは深刻な誤り(a profound mistake)であると首相に直接話した(I’ve said directly to the Prime Minister )」とも。

さらにオバマさんは「米国は中国と強力な関係にあり、彼らは地域だけでなく世界にとって重大な国だ(We have strong relations with China. They are a critical country not just to the region, but to the world)」とも言葉にしているのですね。これはそうとう気を遣っています。

注目したいのは「中国が尖閣に何らかの軍事行動をとったときにはその防衛のために米軍が動くか」と訊いたCNNのジム・アコスタ記者への回答でした。オバマさんは「国際法を破る(those laws, those rules, those norms are violated)国家、子供に毒ガスを使ったり、他国の領土を侵略した場合には(when you gas children, or when you invade the territory of another country)必ず米国は戦争に動くべき(the United States should go to war)、あるいは軍事的関与の準備をすべき(or stand prepared to engage militarily)。だが、そうじゃない場合はそう深刻には考えない(we’re not serious about those norms)。ま、その場合はそういうケースじゃない(Well, that’s not the case.)」と答えているのです。

どういうことか?

実は尖閣諸島に関しては、オバマさんは「日本の施政下にある(they have been administered by Japan)」という言い方をしました。これはもちろん日米安保条約の適用対象です。第5条には次のように書いてある;

ARTICLE NO.5
Each Party recognizes that an armed attack against either Party in the territories under the administration of Japan would be dangerous to its own peace and security and declares that it would act to meet the common danger in accordance with its constitutional provisions and processes.
第5条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。

でもその舌の根も乾かぬうちにオバマさんは一方でこの尖閣諸島の主権国については「We don’t take a position on final sovereignty determinations with respect to Senkakus」とも言っているのですね。つまりこの諸島の最終的な主権の決定(日中のどちらの領土に属するかということ)には私たちはポジションをとらない、つまり関与しない、判断しない、ということなのです。つまり明らかに、尖閣諸島は歴史的に現在も日本が施政下に置いている(administrated by Japan)領域だけれども、そしてそれは同盟関係として首尾一貫して安保条約の適用範囲である(the treaty covers all territories administered by Japan)けれど、主権の及ぶ領土かどうかということに関しては米国は留保する、と、なんだかよくわからない説明になっちゃっているわけです。わかります?

つまり明らかに合衆国大統領は尖閣をめぐる武力衝突に関しての米軍の関与に関して、言葉を濁しているんですね。しかももう1つ、安保条約第5条の最後に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動する」とあって、この「手続き」って、アメリカはアメリカで議会の承認を経なきゃならないってことでもありますよね。米国連邦議会が「岩」を守るために軍を出すことを、さて、承認するかしら? ねえ。

この共同会見を記事にするとき、私なら「尖閣は安保条約の適用対象」という有名無実っぽいリップサービスで喜ぶのではなく、むしろ逆に「米軍は動かず」という“見通し”と「だから日中の平和裏の解決を念押し」という“クギ刺し”をこそ説明しますが、間違っているでしょうか? だってリップサービスだってことは事実でしょう? 米軍が守るというのはあくまで日本政府による「期待」であって、政治学者100人に訊いたら90人くらいは「でも動きませんよ」と言いますよ。

ところがどうも日本の記者たちはこれらの大統領の発言を自分で解読するのではなく、外務省の解釈通り、ブリーフィング通りに理解したようです。最初に書いたようにこれは「大統領が口にした」というその言葉の抑止力でしかありません。そりゃ外務省や日本政府は対中強硬姿勢の安倍さんの意向を慮って「尖閣」明言を「大成功」「満額回答」と吹聴したいでしょう。でもそれは“大本営発表”です。「大本営発表」は「大本営発表」だということをちゃんと付記せねば、それは国民をだますことになるのです。

私がこれではダメだと思っているのは、何故かと言うと、この「尖閣」リップサービスで恩を売ったと笠に着て、米国が明らかにもう1つの焦点であったTPPで日本に大幅譲歩を強いているからです。ここに「国賓招聘」や「すきやばし次郎」や「宮中晩餐会」などの首相サイドの姑息な接待戦略は通用しませんでした。アメリカ側はこういうことで恐縮することをしない。ビジネスはビジネスなのです。

思えばオバマ来日の前週に安倍さんが「TPPは数字を越えた高い観点から妥結を目指す」と話したのもおかしなことでした。「高い観点」とはこんな空っぽな安保証文のことだったのでしょうか? 取り引きの材料になった日本の農家の将来を、いま私は深く憂いています。

April 26, 2014

勘違いの集団自衛権

みんな誤解してるようだけど、日本が戦争をしかけられるときには集団的自衛権は関係ないんだよ。つまり尖閣での中国との衝突なんて事態のときは、集団的自衛権は関係ないの。どうもその辺、混同してるんだな。集団的自衛権が関係するのは、日本の同盟国である米国が攻撃されたとき。それを米国と「集団」になって一緒に防衛するってこと。つまり米国が攻撃されたらそこに日本が出て行くってこと。米国と同盟国だから。さてそこでそれを「限定的に使うことを容認したい」って言い始めてるのが安倍政権。どこまでが「限定的」なのかは、そんなの、難しくて言えない、ってさ。個別に判断するようです。でも「地球の裏側にまで出かけることはない」とも言ってるけど、「じゃあどこなら行くの?」には答えられていない。

一方、尖閣でなにかあったときに米国が日本を助けてくれるのは、これは米国側からの集団自衛権、それと、それをもっと明確にしての日米安保条約。だから、尖閣の有事の時のために集団自衛権が必要だ、と思い込んでる人は間違いなの。で、今回の日米共同声明では、尖閣も含んだ日本の施政下の場所は、それは「安保条約第5条の適用下にある」ってこと。

いわば、米国から守ってもらいたいがために、日本も米国を一緒になって守りますよ、っていう約束がこんかいの「集団的自衛権の行使」容認に向けた動きなのです。つまり、なんかあったら日本もやりますから、という証文。先物取り引きみたいなもの。約束。だから、日本になんかあったらよろしくね、というお願いとのバーター取引なのね。

でも、じつはこれ、バーターにしなくてももう昔からそう決まっていたの。だって、安保条約、前からあるでしょ? 集団的自衛権行使します、なんて決めなくても、もうそれは約束だったんだから。

じゃあ、なんでいままたそんなことを言いだしたの? というのでいろいろ憶測があって、それは、1つは靖国参拝、1つは従軍慰安婦河野発言見直し、つまりは「戦後レジームからの脱却」「一丁前の国=美しい国」──そういうアメリカが嫌がることをやらなきゃオトコじゃねえ!と思い込んでるアベが、嫌がることの代償にアメリカが有り難がってくれることをやってやればあまり強いこと言わんだろう、ま、だいじょうぶじゃね?という思惑で(というか、もちろんそれはちゃんと武力行使もできるような「一丁前のオトコらしい国家」であることの条件でもあるんでそこはうまく合致するんだけど)、それで前のめりになっているわけ。だってほら、昨年12月26日の靖国参拝で「disappointed」なんて言われちゃったから、なおさら機嫌直さないといけないでしょ。

アメリカだって、助けてくれると言うのをイヤだなんて言いません。そりゃありがとうです。でも、要は、そんなこんなでアメリカが日本の戦争に巻き込まれるような事態はいちばん避けたいわけです。でも日本が集団自衛権行使容認に前のめりになればなるほど、中国や北朝鮮を刺激してそういう事態が訪れる危険度が高まるというパラドクスがあるわけ。だから、アメリカもアメリカに対して集団自衛権を行使してくれるのはありがたいけど、まあちょっとありがた迷惑な感じが付き纏う。

だから、こんかいの共同声明では、集団自衛権の「行使容認に向けての動き」を歓迎・支持する、ではなくて、集団的自衛権の行使に関する事項について「検討を行っていること」なわけよ、歓迎・支持の対象は。

でね、オバマが強調したのは「尖閣も守られるよ」ってことじゃないの。オバマが強調したのは「対話を通した日中の平和的解決」であり、オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と繰り返したんです。さらに「米国は軍事的関与を期待されるべきではない」とも話した。

そりゃね、大統領が明言し共同声明にも「尖閣諸島を含む日本の施政下の土地」は安保条約第5条の対象だと明示したことは、それだけで他国からの侵略へのけっこうな抑止力になります。これまでに繰り返された国務長官、国防長官レベルの談話よりは抑止力になる。その意味ではよかった。でもそれだけです。

だいたい日米安保条約第5条にはこう書いてある。

「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続きに従って共通の危険に対処するよう行動する」

つまりは、まずは尖閣をめぐって攻撃されても、まずは「自国の憲法上の規定及び手続きに従って行動する」わけ。武力行使なんて、ここには明記されていない。

でもってこれ、「施政下」というのがじつはキモでね、「日本の領土」じゃないのよ。オバマは「尖閣諸島がどちらに属しているかに関してはアメリカは立場を明確にしない」と言って、「尖閣」とともに中国名の「釣魚島」の名前も言ってるのね。で、尖閣はいまは日本の実効支配下にあるけど、いったん中国が奪い取ったらこれは中国の施政下に入って、安保5条の適用される日本の施政下の領域じゃなくなるわけよ。ね? つまり、その時点で安保によって守られることから除外されるわけ。スゴい論理だよね。

そもそもあそこは無人島なんですよ。英語では「rock」と呼ばれるくらいに単なる岩なわけです(ほんとは海洋資源の権利とかあってそうじゃないんですけどね)。シリアやクリミアで軍事介入しなかったアメリカが、無人島奪還のために軍事介入しないでしょう。大義名分、ないでしょう。アメリカ議会、承認しないでしょう。するわけないもん。

だからここまで考えると、日本のメディアが今回の日米首脳会談、TPPはダメだったけど安全保障の上では尖閣の名前を出してもらって「満額回答だ!」「日米同盟の強固さに関して力強いメッセージをアピールできた!」なんて自画自賛してる政府や外務省の思惑どおりの報道をしてるけど、それ、自画自賛じゃなくて我田引水だから。実質的には何の意味もないってこと、わかるでしょ?

だから「尖閣、危ないじゃん、だから集団自衛権、必要なんじゃね?」と思ってるそこのキミ、それ、違うからね。

集団自衛権ってのは、日本が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたときにそこに(友だちがやられてるのに助けないのはオトコじゃねえ!って言って)自衛隊派遣して、そんでお国のため、というよりも別の国のために、誰かが死ぬかもしれないってことだから。ま、その覚悟があるんならいいけど、そんで、誰か自衛隊員が不幸なことに殺されたら、それはもうそっからとつぜん日本の国の戦争ってことになって、そんで戦争になっちゃうってことだから。で、日本国が攻撃されるかもしれないってことだから、その覚悟、できてる? ていうか、それって、憲法、解釈変更だけでできちゃうの? ウソでしょうよ、ねえ。

そゆこと。

もいっかい言うよ、集団自衛権と尖閣は関係ない。なんか、オバマ訪日の安倍政権の物言いではまるでそうみたいだったけど、尖閣と関係するのは安保条約。集団自衛権は、その見返りとして日本が別の戦争に加わること。

でさ、その「別の戦争」だけど、友だちを助けないのはオトコじゃねえ、と反射的に思う前に、その喧嘩の仲裁に入るのがオトコでしょう、って思ってよ。そっちのほうが百倍難しい。それをやるのがオトコでしょうが。

というわけで、今回、アメリカの妥協を引き出せなかったTPPのほうが具体的な現実世界ではずっと大事なんです。私昔からTPP反対ですけど。

April 17, 2014

オバマ訪日に漕ぎ着けたものの

昨年のハドソン研究所での安倍さんの「軍国主義者と呼びたきゃ呼んで」発言から靖国参拝、さらにはNHK籾井会長や経営委員の百田・長谷川発言まで、あれほど敏感に反応してうるさかった欧米メディアの日本監視・警戒網が、この2〜3カ月ぱったりと静かなことに気づいていますか?

なにより安倍さん自身が河野談話の見直しはないと国会で明言してみせたりと、これまでの右翼発言を封印した。とにかくこれらはすべて来週のオバマ来日がキャンセルになったら一大事だからなんですね。

これにはずいぶんと外務省が頑張ったようです。岸田外相以下幹部が何度もオバマ政権に接触し、米国の顔を潰すようなことはもうしないと説明した。この間の板挟み状態の取り繕いは涙ものの苦労だったようです。そういえば岸田さんは最近では自民党でさっぱり影の薄いハト派、宏池会ですからね。そこには使命感に近いものもあったのではないでしょうか。

そうして一日滞在だったのが一泊になり、次に二泊になって宮中晩餐会へのご出席を願う国賓扱いにまで漕ぎ着けた。ふつうは向こうが国賓にしてほしいと願うものなのに、今度は日本政府からオバマさんにお願いしたのです。もっともそれでもミッシェル夫人は同伴させませんが。

そこで現在の注目点はいったい23日の何時に日本に到着するのかということです。夕方なら翌日の首脳会談の前に安倍さんがぜひ夕食会に招きたい。ところがオバマさんはいまのところ安倍さんと仲の好いところを見せてもあまり国益がなさそうです。なにせTPPの交渉がどうまとまるのか(17日になった現在もまだ)わからない。ウクライナ情勢が緊迫していてそこで安倍さんと食事しているのも得策ではない。なので直前までワシントンで仕事をして日本入りは23日深夜かもしれない。そうすると日本訪問は実質的に最初の計画どおり24日の一日だけという感じ。二泊するから日本のメンツは立て、実質一日だから米議会にも申し訳が立つ。

そこで安倍さん、今年に入って米国のご機嫌伺いに集団自衛権にやけに前のめりですし、先日はリニア新幹線の技術を無償で米国に提供するとまで約束する構えになりました。ものすごいお土産外交です。

ところが米国にとっても都合の良い集団自衛権はすでに織り込み済みで新味がない。極論を言えば、そういう事態にならないようにすることこそが重要なわけで、集団自衛権を使うような有事になったらそっちのほうが米国にとってはやばい。しかも集団自衛権が日本国内で盛り上がることでむしろ集団自衛権を発動しなければならないような状況を刺激するかもしれない。つまりは自国の戦争には協力させたいが日本が起こす紛争に巻き込まれるのはまったくもって困る、というわけなのです。それは米国の国益には反するのです。だから集団自衛権なんてものは、喫緊の議題としてはオバマさんにはむしろ、どっちでもいい、くらいなところに置いておいた方が得なわけです。

で、ならばとばかりにリニア新幹線です。普通は、大もとの技術は特許関連もあるので日本が押さえる、でもインフラや部品は無償で供与する、というのが筋です。しかしそれが逆。じっさい、無償で技術提供を行って引き換えに車両やシステムをたくさん買ってもらった方が得ということもあるでしょう。

でも、ご存じのようにアメリカは鉄道の国というよりは自動車やコミューター飛行機の国です。全米鉄道網というような大規模なものならともかく、いまのところリニアは可能性としてもワシントンDC、ニューヨーク、ボストンといった東部地域のみの感じで、そこら辺は厳密に損得勘定を計算してのもの、というより、大雑把にまあここで恩を売っとけば見返りもあるんじゃないかなあ、というような感じの判断だったなんじゃないでしょうか。しかもワシントンーボルティモア間の総工費の半額の5千億円ほどを国際協力銀行を通じて融資するという大盤振る舞いなんですよ。軸足はやはり「お土産」に置いていると言ってよい。

いかに靖国で損ねたご機嫌を取り繕いたいと言っても、これって安倍さんの大嫌いな屈辱外交、土下座外交、自虐ナントカではないですか?

というわけでオバマさんの訪日、どこが注目点かというと、23日の何時に到着するかということと、翌24日の共同声明でオバマさんが安倍さんの横でどんな表情を見せるか、ということです。満面の笑みか、控えめな笑顔か。宮中晩餐会は平和主義者の天皇のお招きですから満面の笑顔でしょうが、さて、安倍さんとはどういう顔を見せるのでしょうね。

March 29, 2014

48年間の無為

48年という歳月を思うとき、私は48年前の自分の年齢を思い出してそれからの月日のことを考えます。若い人なら自分の年齢の何倍かを数えるでしょう。

いわゆる「袴田事件」の死刑囚袴田巌さんの再審が決まり、48年ぶりに釈放されました。あのネルソン・マンデラだって収監されていたのは27年です。放送を終えるタモリの長寿番組「笑っていいとも」が始まったのは32年前でした。

48年間も死刑囚が刑を執行されずにいたというのはつまり、死刑を執行したらまずいということをじつは誰もが知っていたということではないでしょうか? なぜなら自白調書全45通のうち44通までを裁判所は「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」などとして任意性を認めず証拠から排除しているのです。残るただ1通の自白調書で死刑判決?

また、犯行時の着衣は当初はパジャマとされていましたが、犯行から1年後に味噌樽の中から「発見」された5点の着衣はその「自白」ではまったく触れられていず、サイズも小さすぎて袴田さんには着られないものでした。サイズ違いはタグにあったアルファベットが、サイズではなく色指定のものだったのを証拠捏造者が間違ったせいだと見られています。

いずれにしてもその付着血痕が袴田さんのものでも被害者たちのものでもないことがDNA鑑定で判明し、静岡地裁は「捏造の疑い」とまで言い切ったのでした。

ところがその再審決定の今の今まで、権力の誤りを立ち上がって正そうとした者は権力の内部には誰ひとりとしていなかった。それが48年の「無為」につながったのです。(1審の陪席判事だった熊本典道は、ひとり無罪を主張したものの叶わず、半年後に判事を辞して弁護士に転身しました。そして判決から39年目の2007年に当時の「合議の秘密」を破って有罪に至った旨を明らかにし、袴田さんの支援運動に参加しました。ところが権力の内部にとどまった人たちに、熊本氏の後を追う者はいなかったのです)

こうした経緯を考えるとき、私はホロコースト裁判で「命令に従っただけ」と無罪を主張したアドルフ・アイヒマンのことを思い出します。数百万のユダヤ人を絶滅収容所に送り込んだ責任者は極悪非道な大悪人ではなく、思考を停止した単なる小役人だった。ハンナ・アーレントはこれを「悪の凡庸さ」と呼びました。

目の前で法や枠組みを越えた絶対の非道や不合理が進行しているとき、非力な個人は立ち上がる勇気もなく歯車であることにしがみつく。義を見てせざる勇なきを、しょうがないこととして甘受する。そうしている間に世間はとんでもない悪を生み出してしまうのです。その責任はいったいどこに求めればよいのでしょう?

ナチスドイツに対抗したアメリカは、この「悪の凡庸さ」に「ヒーロー文化」をぶつけました。非力な個人でもヒーローになれると鼓舞し、それこそが社会を「無為の悪」から善に転じさせるものだと教育しているのです。

こうして内部告発は奨励されベトナム戦争ではペンタゴンペーパーのダニエル・エルスバーグが生まれ、やがてはNSA告発のエドワード・スノーデンも登場しました。一方でエレン・ブロコビッチは企業を告発し、ハーヴィー・ミルクは立ち上がり、ジェイソン・ボーンはCIAの不法に気づいてひとり対抗するのです。

対して日本は、ひとり法を超越した「命のビザ」を書き続けた杉原千畝を「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなどもっての外であり、組織として絶対に許せない」として外務省を依願退職させ、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答し続けた。彼が再び「存在」し直したのは2000年、当時の河野洋平外相の顕彰演説で日本政府による公式の名誉回復がなされたときだったのでした。すでに千畝没後14年、外務省免官から53年目のことでした。

それは袴田さんの名誉が回復される途中である、今回の「48年」とあまりに近い数字です。

March 09, 2014

「一滴の血」の掟

アメリカ南部州にはかつてワンドロップ・ルール(一滴の血の掟)というのがあって、白人に見えても一滴でも黒人の血が混じっていたら「黒人」と定義されていた時代がありました。奴隷制度では白人たちは黒人を性的にも所有し、奴隷を増やすためにも混血は進んだのでしょう。もちろんそれだけではなく純粋に人種を越えた恋愛や結婚もあるわけで、いま「一滴の血」ルールを適用したらアメリカの白人の3人に1人は黒人になるとも言われます。

Jリーグの浦和vs鳥栖戦のあった3月8日の埼玉スタジアムで、浦和サポーター席入り口のコンコースに「JAPANESE ONLY」という横断幕が掲げられる“事件”が起こりました。浦和サイドはこれを問題視したサポーターからの通知で事を知りますが、どうすべきかわからずそのまま1時間ほど放置。一方では問題視したサポーター氏にその写真をネットにアップしないように要求。横断幕が撤去されたのは試合後しばらく経って、欧米系の観客が写真を撮って初めてスタッフが慌てて外したのだそうです。

右翼国粋主義と形容される安倍内閣から始まって嫌中嫌韓の見出し踊る週刊誌、そしてアンネの日記破損問題と、このところの日本社会はまさに「ナチスの手口にマネ」ているようです。で、今回の「日本人以外お断り」の横断幕。そしてそれに即応できない大のオトナの思考停止。

それにも増して意味不明なのは、この期に及んでこの「JAPANESE ONLY」を、浦和の8日の先発・ベンチ入り選手が全員日本人だったことから「日本人だけで戦う」だとか「日本人だけでもJリーグを盛り上げよう」だとかの意味だと言い張る“愛国”者たちがいることです。挙げ句の果てにこの横断幕の何が問題なのかわからない、という開き直り同然の差別主義者まで。

同じ言い逃れを、昨年12月の安倍靖国参拝の際の米国務省「失望」声明でも聞いたことがあります。例の「The United States is disappointed」を、いかにも英語通であるかのように「よくある表現で重大なことではない」などと勝手に講釈する右派評論家が後を絶ちませんでした。

今回も新聞やTVニュースの論調までもがどういうわけかこれを「差別」とは断定せず、「差別的な意味にも取れる」「差別的とも解釈されかねない」などと奥歯に物が挟まったような報道ぶりです。誰がどういう意図で書いたかは関係ないのです。表現とは、表現されたその「モノ」こそが自立した表現なのであって、「JAPANESE ONLY」は差別表現に他ならないのです。

「日本人」にワンドロップ・ルールを適用したら、古く縄文時代から続く中国・朝鮮半島からの渡来人との混血は限りなく「日本」人など1人もいなくなります。さらにはそもそもこの島国は大陸と陸続き。人種も民族もあったもんじゃありません。

ワンドロップ・ルールは、本来はそれによって白人の立場を死守しようとした人たちが作ったものですが、実際には逆に機能して、結果、白人という立場がいかに実体のないものかを浮き彫りにしてしまいました。同じように“チョン”だ“チュン”だと純血主義けたたましい人は、自分の血の一滴に気づいて自爆するしかないのです。生き残れるのはその決まりを唾棄できる者だけ。

この浦和での一件を知って、翌日のFC岐阜のサポーター席には「Say NO to Racism」の文字の横断幕が掲げられたそうです。偏狭な愛国心をあおるのもスポーツならば、それを糾弾するのもスポーツなのです。

後者のスポーツをこそプロモートしていかなくてはならないのに、それでもまだ「スポーツは信条表明の場ではない」などという人もいます。ねえ、友情とか、親交とか、差別反対とか、そういうのだって立派な「信条」なのです。どうしてそんなにみんな信条や思想を表明することにアレルギーを持つのでしょう? スポーツを、堂々と麗しき信条を表明する場にしてなにがいけないのでしょうかね。

March 04, 2014

太鼓持ちの善意

久しぶりの日本で、なんとなく確実に空気が変わってきていることを感じています。電車内の週刊誌の吊り広告では「嫌韓嫌中」見出しが踊り、まさに1月のこのブログ「爬虫類の脳」で指摘した「反知性主義」が大手を振っています。昨年7月末の麻生副総理の「ナチスの手口に学べ」発言は、その後の日本版国家安全保障会議の設置や特定秘密保護法の強行可決、さらには首相の靖国参拝やその周辺の歴史修正発言などで着実に実行に移されています。あのときはまさか本気ではなく失言の類いだろう程度に思っていたのですが。

この種の時代の動きをどう捉えればよいのでしょうか? かつてハンナ・アーレントは、ナチスドイツで数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に送ったアドルフ・アイヒマンを、怪物ではなく、職務を淡々とこなすだけの小役人的な思考停止の人物であったと結論し、それを「悪の凡庸さ」と呼びました。

私がこのところ気になっているのは、しかしその次の段階のことです。普通の人が、おそらくは“善意”で上層部の意向を汲み、決定や通達やそのときの政治的な空気を過度に忖度してそれ以上のことをやってしまう。そういう心づくしの先回り行為は、この「悪の凡庸さ」を超えて、社会学的にはどう考えられているのだろうか、ということです。

先日、東京都美術館が「憲法9条を守り、靖国参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた造形作品を「政治的」として撤去・手直しを求めていたことがわかりました。今週には護憲の立場を明確にしている哲学者の内田樹さんを招いた憲法集会を神戸市がやはり「政治的中立性を損なう」として後援拒否をしていたことが明らかになりました。これまではずっと後援してきたのに突然の断り。同じような集会は長野県千曲市でも後援が断わられたとか。東京新聞によると、千曲市の担当者は解釈改憲による集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相への配慮をほのめかしています。

私はこのメカニズムがとても恐ろしい。話は大きくなりますが、南京大虐殺も従軍慰安婦も実は同じようなことだったのではないかと思っています。真正の命令や強制の証拠がないということを根拠にこれらを否定する人たちがいますが、命令や強制などなくても人間は自ら進んで権力の“意向”を代行するのです。

この、言わば「太鼓持ちの善意」のようなものが、今の日本であちこち無批判に湧いてきているような気がします。いや、彼らは自分が太鼓持ちをしているなどとは思っていないのです。そこがさらに怖い。そして同時多発的なこの太鼓持ち的な動きの1つ1つが、その時の権力の意向をなんとなく社会に満たす役目を果たしている。かくしてそれが結果的にたとえ由々しき事態を招くことになっても、もちろん「上」は「そんな命令は出していない」「そこまで言っていない」とシレッとしていられる。

韓国人街で有名な新宿・大久保の街にいま「朝鮮人は帰れ」とかナチスの鉤十字のマークなどの落書きが溢れています。今月2日、ツイッターやフェイスブックなどの呼びかけで集まった人たち50人以上が「差別らくがき消し隊」を結成してその落書きを3時間にわたって消して回りました。中には岐阜や愛知からはるばるこのためにやってきた人もいました。

太鼓持ちではない「善意」も日本にはまだまだ溢れています。もっともその善意の彼らは、ネトウヨと呼ばれる人たちに氏名がわかると、職場や自宅に嫌がらせの電話がかかり、顔写真や素性をネット上で「指名手配リスト」として公開されているのだそうです。

いったい日本はどうなっているのでしょう?

February 23, 2014

拡大する日本監視網

浅田真央選手のフリーでの復活は目を見張りました。ショートでの失敗があったからなおさらというのではなく、それ自体がじつに優雅で力強い演技。NBCの中継で解説をしていたやはり五輪メダリストのジョニー・ウィアーとタラ・リピンスキーは直後に「彼女は勝たないかもしれない。でも、このオリンピックでみんなが憶えているのは真央だと思う」と絶賛していました。前回のコラムで紹介した安藤美姫さんといい、五輪に出場するような一流のアスリートたちはみな国家を越える一流の友情を育んでいるのでしょう。

一方でそのNBCが速報したのが東京五輪組織委員会会長森嘉朗元首相の「あの子は大事な時に必ず転ぶ」発言です。ご丁寧に「総理現職時代から失言癖で有名だった」と紹介された森さんのひどい失言は、じつは浅田選手の部分ではありません。アイスダンスのクリス&キャシー・リード兄妹を指して「2人はアメリカに住んでるんですよ。米国代表として出場する実力がなかったから帰化させて日本の選手団として出している」とも言っているのです。

いやもっとひどいのは次の部分です。「また3月に入りますとパラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと会長は健常者の競技だけ行ってて障害者のほうをおろそかにしてると(略)『ああまた27時間以上もかけて行くのかな』と思うとほんとに暗いですね」

日本の政治家はこうして自分しか知らない内輪話をさも得意げに聴衆に披露しては笑いを取ろうとする。それが「公人」としてははなはだ不適格な発言であったとしても、そんな「ぶっちゃけ話」が自分と支持者との距離を縮めて人気を博すのだと信じている。で、森さんの場合はそれが「失言癖」となって久しいのです。

しかしこういう「どうでもいい私語」にゲスが透けるのは品性なのでしょう。そのゲスが「ハーフ」と「障害者」とをネタにドヤ顔の会長職を務めている。27時間かけてパラリンピックに行くのがイヤならば辞めていただいて結構なのですが、日本社会はどうもこういうことでは対応が遅い。

先日のNYタイムズは安倍政権をとうとう「右翼政権」と呼び、憲法解釈の変更による集団自衛権の行使に関して「こういう場合は最高裁が介入して彼の解釈変更を拒絶し、いかなる指導者もその個人的意思で憲法を書き換えることなどできないと明確に宣言すべきだ」と内政干渉みたいなことまで言い出しました。国粋主義者の安倍さんへの国際的な警戒監視網はいまや安倍さん周辺にまで及び、というか周辺まで右翼言辞が拡大して、NHKの籾井会長や作家の百田さんや哲学者という長谷川さんといった経営委員の発言から衛藤首相補佐官の「逆にこっちが失望です」発言や本田内閣官房参与の「アベノミクスは力強い経済でより強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだ」発言も逐一欧米メディアが速報するまでになっています。

日本人の発言が、しかも「問題」発言が、これほど欧米メディアで取り上げられ論評され批判されたことはありませんでした。安倍さんはどこまで先を読んでその道を邁進しようとしているのでしょうか? そのすべてはしかし、東アジアにおけるアメリカの強大な軍事力という後ろ盾なくては不可能なことなのです。そしてそのアメリカはいま、日本経済を建て直し、沖縄の基地問題を解決できると踏んでその就任を「待ち望んだ安倍政権を後悔している」と、英フィナンシャルタイムズが指摘している。やれやれ、です。

February 17, 2014

自信喪失時代のオリンピック

安藤美姫さんが日本の報道番組でソチ五輪での女子フィギュア競技の見通しに関して「表彰台を日本人で独占してほしいですね」と振られ、「ほかの国にもいい選手はいるから、いろんな選手にスポットライトを当ててもらえたら」と柔らかく反論したそうです。

五輪取材では私は新聞記者時代の88年、ソウル五輪取材で韓国にいました。いまも憶えていますが、あのころは日本経済もバブル期で自信に溢れていたせいか、日本の報道メディアには「あまりニッポン、ニッポンと国を強調するようなリポートは避けようよ」的な認識が共有されていました。それは当時ですでに24年前になっていた東京オリンピックの時代の発展途上国の「精神」で、「いまや堂々たる先進国の日本だもの、敢えてニッポンと言わずとも個人顕彰で十分だろう」という「余裕」だったのだと思います。

でもその後のバブル崩壊で日本は長い沈滞期を迎えます。するとその間に、就職もままならぬ若者たちの心に自信喪失の穴があくようになり、そこに取って替わるように例の「ぷちナショナリズム」みたいな代替的な擬制の「国家」の「自信」がはまり込んだのです。スポーツ応援に「ニッポン」連呼が盛大に復活したのもこのころです。

知っていますか? 現在の日本では街の書店に軒並み「嫌韓嫌中」本と「日本はこんなにスゴい」的な本が並ぶ愛国コーナーが設けられるようになっているのです。なにせその国の首相は欧米から「プチ」の付かない正真正銘の「ナショナリスト」のお墨付きをもらっているのですから、それに倣う国民が増えても不思議ではありません。だからこそ64年の東京五輪を知らない世代の喪失自信を埋め合わせるように、日本が「国家的自信」を与える「東京オリンピック」を追求し始めたのも当然の帰結だったのでしょう。

そこから冒頭の「表彰台独占」コメントへの距離はありません。さらに首相による羽生結弦選手への「さすが日本男児」電話も、あざといほどに短絡的です。80年代にはあったはずの日本人の、あの言わずもがなの「自信」は、確かにバブルのように消えてしまったよう。まさに「衣食足りて」の謂いです。

そんな中で安藤美姫さんも羽生選手も自信に溢れています。それはやるべきことをやっている人たちの自信でしょうが、同時に海外経験で多くの外国人と接して、その交遊が「日本」という国家を越える人たちのおおらかさのような気がします。そしてその余裕こそが翻って日本を美しく高めるものだと私は思っています。じっさい、安藤さんのやんわりのたしなめもとても素敵なものでしたし、羽生選手の震災に対する思いはそれこそじつに「日本」思いの核心です。

スポーツの祭典は気を抜いているとことほどさように容易に「国家」に絡めとられがちです。だからヒトラーはベルリン五輪をナショナリズムの高揚に利用し、それからほどなくしてユダヤ人迫害の大虐殺に踏み切ることができました。ソチ五輪もまたロシア政府のゲイ弾圧に国際的な黙認を与えることかどうかで議論は続いています。

オリンピックはいつの時代でも活躍する選手たちに「勇気を与えてくれた」「感動をありがとう」と感謝の声をかけたくなります。そして表彰台の彼らや日の丸につい自己同一してしまう。そんなとき、私はいつも歌人枡野浩一さんの短歌を思い出します──「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」

はいはい、わかってはいるんですけどね。

January 20, 2014

逆張りの泥団子

昨年の夏に、来月7日から始まるロシアのソチ五輪ボイコットを呼びかけるハーヴィー・ファイアスティン氏の寄稿がNYタイムズに掲載されたことを紹介しました。プーチン政権による同性愛者弾圧を見過ごして五輪に参加するのは、ユダヤ人弾圧に抗議もせずドイツ五輪に参加した1936年の国際社会と同じ愚行だ、という意見でした。当時、私は、ロシア産品の不買運動もすでに始まっており、五輪を巡るこの攻防は国際的にはさらに大きな動きになるはずだと書きました。

果たして予想は当たり、国際社会はその後、米英仏独や欧州連合(EU)などの首脳が相次いで開会式への欠席を表明して、ソチ五輪は国際的にはロシアの人権弾圧に抗議を示す異例の事態下での開会となります。

そんなときに日本の安倍首相が、「北方領土の日」に重なるとして一旦は「欠席」だった開会式に一転、出席する意向を示しました。日本はいちおう西側社会の一員ですが、欧米と逆を行くこの対応は何なのでしょう。

「日ロ関係全体を底上げし、北方領土問題の議論に前向きな結果をもたらすことを期待」と外相が代わって意味づけをしましたが、プーチンさんとの首脳会談も日程的に難しいそうです。それでも開会式に出席すれば北方領土問題でロシアに貸しを作れると思っているなら、それはナイーブに過ぎます。それより何よりロシアの例の同性愛者迫害の一件はどうスルーするのでしょうか?

日本社会では性的少数者の人権保障はいまだ大きな政治課題に育っていないのは確かです。しかし性的少数者の人権保障はいまや先進民主主義国の重要な政治傾向。それを無視して、あるいは知らない振りをしてシレッと開会式に出る。こういうのを何と言うのでしたっけ? 「逆張り」?

そこで思い出すのは昨年12月10日のマンデラさんの葬儀です。アパルトヘイトという史上最大級の差別への反省から、自身で作った南アの新たな憲法で世界で初めて同性愛者などの性的少数者への差別をも禁止したこの偉人の弔問外交の場には、世界の首脳140人が一堂に会しました。それにも安倍首相は欠席した。その3日後に東京で開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)特別首脳会議のため、というのが公式理由でした。

でもここまで来ると安倍さんは仲間はずれ、つま弾きになりそうなところには行きたくない、歓迎されるところにしか行きたくないのだと疑ってしまいます。いろいろ文句を言ってくる欧米はメンツを潰されるので嫌いなのだと。

私は日本が国際社会で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」国家であるという「名誉ある地位を占めたいと思」っています。でもここまで「逆張り」が続くと国際社会の動向の「読み違い」が原因というより読もうという努力をハナからしていない、いやむしろ確信犯的に「逆」を張ってどこまで「持論」を通せるか反応を試しているようにさえ思えます。その持論である「美しい国」には国際社会からの評価は必要ないのでしょうか。

国際社会に媚びろと言うのではありません。積極的平和主義だろうが何だろうが、政治も外交も一にも二にも正確な状況分析がすべての土台だということです。それなのに日本はいま、世界の情報を日本語だけで勝手にこねくり回して勝手に解釈している。伝言ゲームよろしくまったく違った牽強付会の泥団子をめでているのです。その泥団子はまずいどころか本来は食べる物ですらないというのに。

私はオバマさんの4月の来日が不安です。

January 14, 2014

爬虫類の脳

ディック・メッカーフ Dick Metcalf(67)という米国の銃器評論家の第一人者がいます。有名雑誌に連載を持ち、テレビでも自身の番組を持って最新銃器のレビューを行う大ベテラン。イェールやコーネル大学で歴史を教えてもいるその彼が昨年11月以降メディアから姿を消しました。なぜか? その経緯が新年早々のNYタイムズで記事になっていました。

40万購読者を誇る「Guns & Ammo(銃&弾薬)」という雑誌のコラムで10月末、彼が「Let's Talk Limits」というタイトルの下、「銃規制」を呼びかけたことが原因でした。とはいえ書いたことは「憲法で保障されている権利はすべて何らかの形で規制されている。過去もそうだった。そしてそれは必要なことなのである」ということだけ。つまり銃の所持権に関しても同じだろうということで、べつに声高に銃規制を叫んだわけでもありません。彼はそもそも銃所持権支持者なのですから。

ところがこれが掲載されるや抗議のメールが編集部に殺到し、あっという間に読者が大挙して定期購読をキャンセル。ネットでは大バッシングが始まり、長年のスポンサーだった銃器メーカーは支援を中止、出演していたテレビも打ち切りとなりました。そして彼は根城だった保守論壇から完全に干されたのです。

もちろん銃規制という国を二分するセンシティブな問題のせいもありましょう。でも注目したいのはこの間髪入れぬ激昂の反応です。ここには有無を言わせぬ敵愾心だけがあります。人間の知性と理性はどこに行ってしまったのか?

人間の脳は何百万年もかけて原始的な脳から層を重ね、いまの大脳皮質まで辿り着きました。原始的で凶暴な反応は上層の大脳皮質にまで行き着くことで理性的になり知性的に発展します。その最深部の最も原初的な層はR領域と呼ばれます。Rとはレプタイル(reptile, 爬虫類)のこと、つまり相手が近づくと誰彼なくとにかく反射的に噛み付いてみるヘビやワニなどの脳のことです。そういう爬虫類脳同然の反応……。

ことはアメリカに限りません。イギリスでは昨年夏、新しい10ポンド紙幣に女性の肖像画(ジェイン・オースティン)を採用するよう運動していたフェミニスト女性がツイッター上でレイプする、殺すと脅され、それを報道した女性ジャーナリストまでが脅迫された事件が起こりました。犯人2人には今月24日に判決が下ります。ナイジェリアでは反ゲイ法が成立発効して有無を言わさず待ち構えていたように100人以上のゲイ男性たちが逮捕されるという事態が起きています。翻って日本であっても、ツイッターで例えば例の安倍の靖国参拝を批判すると猛然とすぐに噛み付いてくる匿名の見知らぬ安倍崇拝者たちがいます。噛み付き口汚く罵り気勢を上げてはまたどこかに消える。これらはみんな同じタイプの人間たちです。こちらで丁寧に対応しても聞く耳など持ちません。

かつては発言するということはその言葉が実社会で他人からの批判や反論の摩擦を受けるということでした。ところがインターネットの一般化で摩擦を受けずに自分の言葉を直接そのまま発信できるようになった。それは権力を手にしたかのような幻想を与えます。1人評論家ごっこもできるし、切磋琢磨を経ない石のままの言葉を投げつける独善主義にもなれる。

ひとつ引用しましょう。たとえば私にツイッターで一方的に絡んできた彼は、私のことを「ジャーナリスト様」と揶揄しながらこう書いて溜飲を下げていました。「インテリを自称する連中は、知性が高くても精神的に成熟している訳ではなくむしろ未成熟。自分は何でも知っていて絶対に正しいと思い込み自分の理解できないものをくだらないと否定し、自分を理解しない人間を愚かだと見下す」

これもその彼に限ったことではありません。すべての噛み付き性向の者たちはまるでどこかで示し合わせてでもいるかのようにほぼこの「引きずり下ろし」とも呼ぶべきパタンを踏襲しています。なぜかわからないが自分よりもエラそうに社会的に発言している者たちへの攻撃パタンです。ここで図らずも白状するかのように記してしまっている、「愚かだと見下」されていると自分のことを妄想する被害者意識と劣等感。それらを起爆剤として彼らは自爆テロのように爆発するのです。

それは知性に敵対する行為です。そう考えて思い当たるのは、文化大革命やカンボジアのポルポトで、まず根絶やしにされたのが知識層だったという史実です。スターリニズムもそうでしたし、アメリカの赤狩りでも同じことが起こりました。権力側が彼ら反対勢力の知的抵抗を怖れたからというのもあったでしょうが、それよりもそれは一部大衆による、知識層への恨みにも似た劣等感とその反動が推進力でした。それらのドキュメンタリー映像に映る激昂する人々の顔は知識層への恐ろしいほどの憎悪と敵意に満ちています。本当は丁寧な知性は大衆の敵ではなく味方であったはずなのに。

知性は勉強ができるできないとは関係ありません。知性とは本来エリート主義とは無縁です。知性とは人々すべての善き人生のための問いかけと答えの運動のことなのです。なのに鼻持ちならない一部エリートたちへの嫌気から彼らと知性とを混同し、知性を蔑み敵対し夜郎自大になる──それがポピュリズムを煽る日本のネトウヨ(ネット右翼)や米国の「ティーパーティー」の、そしてその層を利用している日本の安倍政権や米共和党右派の、爬虫類的な大いなる禍いなのです。

世界で共通するこの反知性主義。「反」くらいな感じでは済まないほどの根拠のない怨念めいた憎悪が渦巻く日本のネット社会。知性フォビア。知性憎悪症。ポピュリズムというのはもともとは反エリート主義の大衆政治のことでしたが、その基盤となった大衆知がいつのまにか本当の知性に置き換わって知性を攻撃しだす。中途半端な知識人への嫌悪が知性を矮小化しその生き方と価値とを憎み倒すようになる。そうして鬱憤を晴らして、しかし彼らはどこに行くのでしょうか?

劣等感というものは、どう転んでも個人的鬱憤の次元から出るものではありません。どう鬱憤を晴らしてもそこから先はないのです。そこから先を作るのは劣等感ではなく知性です。もう一度言います。それは勉強ができるとかできないとかじゃなくて、現在を批評的に捉えて次のより自由な次元へと飛翔するための気真面目な問いかけの運動のことなのです。

ペンは剣よりも物理的には強いはずがありません。ペンが剣より強いのは人間の知性がそういう社会を志向するときだけです。そして反知性主義は、そういう社会を志向しません。剣がペンよりも強い世界、それは微笑みよりも噛み付く牙がすべてである爬虫類の世界です。

December 29, 2013

I am disappointed

クリスマスも終わってあとはのんべんだらりと年を越そうと思っていたのに、よいお年を──と書く前に驚かされました。安倍首相の靖国参拝自体にではなく、それに対して米国ばかりかヨーロッパ諸国およびEU、さらにはロシアまで、あろうことかあの反ユダヤ監視団体サイモン・ウィーゼル・センターまでもが、あっという間にしかも実に辛辣に一斉大批判したことに驚かされたのです。

中韓の反発はわかります。しかし英語圏もがその話題でもちきりになりました。靖国神社が世界でそんなに問題視されていることは、日本語だけではわからないですが外国に住んでいるとビシビシ刺さってきます。今回はさらにEUとロシアが加わっていることもとても重要な新たなフェイズと認識していたほうがよいでしょう。

こんなことは7年前の小泉参拝のときには起きませんでした。何が違うかと言うと、小泉さんについては誰も彼が国粋主義者だなんて思ってはいなかった。でも安倍首相には欧米ではすでにれっきとした軍国右翼のレッテルが張られていました。だって、3カ月前にわざわざアメリカにまで来て「私を右翼の軍国主義者だと呼びたいなら呼べばいい」と大見得を切った人です(9/25ハドソン研究所)。それがジョークとしては通じない国でです。そのせいです。

例によって安倍首相は26日の参拝直後に記者団に対し「靖国参拝はいわゆる戦犯を崇拝する行為だという誤解に基づく批判がある」と語ったとされますが、いったいいつまでこの「誤解」弁明を繰り返すのでしょう。特定秘密保護法への反発も「誤解」に基づくもの、武器輸出三原則に抵触する韓国への弾薬供与への批判も「誤解」、集団的自衛権の解釈変更に対する反対も「誤解」、この分じゃ自民党の憲法改変草案への反発もきっと私たちの「誤解」のせいにされるでしょう。これだけ「誤解」が多いのは、「誤解」される自分の方の根本のところが間違っているのかもしれない、という疑義が生まれても良さそうなもんですが、彼の頭にはそういう回路(など)の切れている便利な脳が入っているらしい。

果たしてニューヨークタイムズはじめ欧米主要紙の見出しは「国家主義者の首相が戦争神社 war shrine」を参拝した、というものでした。それは戦後体制への挑戦、歴史修正主義に見える。ドイツの新聞は、メルケル首相が同じことをしたら政治生命はあっという間に終わると書いてありました。英フィナンシャルタイムズは安倍首相がついに経済から「右翼の大義」の実現に焦点を移したと断言しました。

問題はアメリカです。クリスマス休暇中のオバマ政権だったにもかかわらず、参拝後わずか3時間(しかもアメリカ本土は真夜中から未明です。ケリー国務長官も叩き起こされたのでしょうか?)で出された米大使館声明(翌日に国務省声明に格上げされました)は、まるで親や先生や上司が子供や生徒や部下をきつく叱責する文言でした。だいたい「I am disappointed in you(きみには失望した)」と言われたら、言われたほうは真っ青になります。公式の外交文書でそういう文面だったら尚更です。

アメリカ大使館の声明の英文原文を読んでみましょう(ちなみに、米大使館サイトに参考で掲載されている声明の日本語訳はあまり日本語としてよくなくて意味がわかりづらくなっています)。

声明は3つの段落に分かれています。前述したようにこれはアメリカで人を叱りつけるときの定型句です。最初にがつんとやる。でも次にどうすれば打開できるかを示唆する。そして最後にきみの良いところはちゃんとわかっているよと救いを残しておく。この3段落テキストはまったくそれと同じパタンです。

第一段落:
Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.
日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかし、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させる行動を取ったことに、米国は失望している。

これは親友に裏切られてガッカリだ、ということです。失望、disappointedというのはかなりきつい英語です。
というか、すごく見下した英語です。ふつう、こんなことを友だちや恋人に言われたらヤバいです。もっと直截的にはここを受け身形にしないで、You disappointed me, つまり Japan's leadership disappointed the United States, とでもやられたらさらに真っ青になる表現ですが。ま、外交テキストとしてはよほどのことがない限りそんな文体は使わないでしょうね

ちなみに国連決議での最上級は condemn(非難する)という単語を使いますが、それが同盟国相手の決議文に出てくると安保理ではさすがにどの大国も拒否権を行使します。で、議長声明という無難なところに落ち着く。

第二段落;
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
米国は、日本と近隣諸国が共に、過去からの微妙な問題に対処し、関係を改善し、地域の平和と安定という我々の共通目標を前進させるための協力を推進する、建設的方策を見いだすよう希望する。

これはその事態を打開するために必要な措置を示唆しています。とにかく仲良くやれ、と。そのイニシアティブを自分たちで取れ、ということです。「日本と近隣諸国がともに」、という主語を2つにしたのは苦心の現れです。日本だけを悪者にしてはいない、という、これもアメリカの親たちが子供だけを責めるのではなくて責任を分担して自分で解決を求めるときの常套語法です。

そして第三段落;
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan's commitment to peace.
我々は、首相が過去に関する反省を表明し、日本の平和への決意を再確認したことに留意する。

これもあまりに叱っても立つ瀬がないだろうから、とにかくなんでもいいからよい部分を指摘してやろうという、とてもアメリカ的な言い回しです。安倍首相が靖国を参拝しながらもそれを「二度と戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるという決意を伝えるため」だという意味をそこに付与したことを、われわれはちゃんと気づいているよ、見ているよ、とやった。叱責の言葉にちょいと救いを与えた、そこを忘れるなよ、と付け加えたわけです。

でも、それを言っているのが最後の段落であることにも「留意」しなくてはなりません。英文の構造をわかっている人にはわかると思いますが、メッセージはすべて最初にあります。残りは付け足しです。つまり、メッセージはまぎれもなく「失望した」ということです。

参拝前から用意していたテキストなのか、安倍首相はこの自分の行動について「戦場で散っていった方々のために冥福を祈り、手を合わす。世界共通のリーダーの姿勢だろう」と言い返しました。しかし、世界が問題にしてるのはそこじゃありません。戦場で散った人じゃなく、その人たちを戦場で散らせた人たちに手を合わせることへの批判なのです。これはまずい言い返しの典型です。この論理のすり替え、詭弁は、世界のプロの政治家たちに通用するわけがありません。とするとこれはむしろ、国内の自分の支持層、自分の言うことなら上手く聞いてくれる人たちに「期待される理由付け」を与えただけのことだと考えた方がよいでしょう。その証拠に、彼らは予想どおりこの文脈をそっくり使ってFacebookの在日アメリカ大使館のページに大量の抗議コメントを投げつけて炎上状態にしています。誘導というかちょっとした後押しはこれで成功です。(でも、米大使館のFB炎上って、新聞ネタですよね)

さてアメリカは(リベラルなコミュニティ・オルガナイザーでもあり憲法学者でもあるオバマさんは安倍さんとは個人的にソリが合わないようですが)、しかし日本の長期安定政権を望んでいるのは確かです。それは日本の経済回復やTPP参加で米国に恩恵があるから、集団自衛権のシフトや沖縄駐留で米国の軍事費財政赤字削減に国益があるからです。そこでの日本の国内的な反発や強硬手段による法案成立にはリベラルなオバマ政権は実に気にしてはいるのですが、それは基本的には日本の国内問題です。アメリカとしては成立してもらうに不都合はまったくない。もちろんできれば国民が真にそれを望むようなもっとよい形で、曖昧ではないちゃんとした法案で、解釈ではなくきちんと議論した上で決まるのが望ましいですが、アメリカとしては成立してもらったほうがとりあえずはアメリカの国益に叶うわけです。

しかしそれもあくまで米国と同じ価値観に立った上での話です。ところが、安倍政権はその米国の国益を離れて「戦後リジームからの脱却」を謳い、第二次大戦後の民主主義世界の成り立ちを否定するような憲法改変など「右翼の大義」に軸足を移してきた。

今すべての世界はじつは日本だけではなく、あの第二次世界大戦後の善悪の考え方基本のうえに成立しています。何がよくて何が悪いかを、そうやってみんなで決めたわけで、現在の民主主義世界はそうやって出来上がっているわけです。それが虚構であろうが何であろうが、共同幻想なんてみんなそんなものです。そうやって、その中の悪の筆頭はナチス・ファシズムだと決めた。だから日本でも戦犯なんてものを作り上げて逆の意味で祀りあげたのです。そうしなければここに至らなかったのです。それが「戦後レジーム」です。なのにそれからの「脱却」? 何それ? アメリカだけがこれに喫驚しているのではありません。EUも、あのプーチンのロシアまでがそこを論難した。その文言はまさに「日本の一部勢力は、第2次大戦の結果をめぐり、世界の共通理解に反する評価をしている」(12/26ロシア・ルカシェビッチ情報局長)。安倍首相はここじゃもう「日本の一部勢力」扱いです。

なぜなら、今回の靖国参拝に限ったことではなく、繰り返しますが、すでに安倍首相は歴史修正主義者のレッテルが貼られていた上で、その証左としてかのように靖国参拝を敢行したからです。そうとして見えませんものね。だからこそそれは東アジアの安定にとっての脅威になり、だからこそアメリカは「disappointed」というきつい単語を選んだ。

何をアメリカがエラそうに、と思うでしょうね。私も思います。

でも、アメリカはエラそうなんじゃありません。エラいんです。なぜなら、さっきも言ったように、アメリカは現在の「戦後レジーム」の世界秩序の守護者だからです。主体だからです。そのために金を出し命を差し出してきた。もちろんそれはその上に君臨するアメリカという国に累が及ばないようにするためですし、とんでもなくひどいことを世界中にやってきていますが、とにかくこの「秩序」を頑に守ろうとしているそんな国は他にないですからね。そして曲がりなりにも日本こそがその尻馬に乗ってここまで戦後復興してきたのです。日本にとってもアメリカは溜息が出るくらいエラいんです。それは事実として厳然とある。

それはNYタイムズが26日付けの論説記事を「日本の軍事的冒険は米国の支持があって初めて可能になる」というさりげない恫喝で結んでいることでも明らかです(凄い、というか凄味ビシバシ。ひー)。そういうことなのです。それに取って代わるためには、単なるアナクロなんかでは絶対にできません。そもそもアメリカに取って代わるべきかが問題ですが、独立国として存在するためには、そういうアナクロでないやり方がたくさんあるはずです。

それは何か、真っ当な民主主義の平和国家ですよ。世界に貢献したいなら、それは警察としてではなく、消防士としてです。アナクロなマチズム国家ではない、ジェンダーを越えた消防国家です。そうずっと独りで言い続けているんですけど。

いまアメリカは安倍政権に対する態度の岐路に立っているように見えます。「日本を取り戻す」のその「取り戻す日本」がどんな日本なのか、アメリカにとっての恩恵よりも齟齬が大きくなったとき、さて、エラいアメリカは安倍政権をどうするのでしょうか。

December 17, 2013

戦争のできる国

日本を「戦争のできる国にしようとしている」と安倍政権を批判する声があちこちで聞こえています。そのたびに本当にそうなのかなと思ってしまいます。

たしかに国家安全保障会議(NSC)やら特定秘密保護法やらと来て、次は集団的自衛権の解釈変更からやがては憲法改正まで照準に入れた安倍首相ですが、いかな諸外国から「国粋主義者」と罵られても、その国家運営の目的が「戦争するため」だなんて信じられません。そんなのは狂人です。安倍さんは頭は悪いかもしれませんが狂人には見えません。

じゃあなぜこうも強権的に日本の進路を変えようとしているのか? どうにか考えてみるとそれはどうもきっと日本を「美しい国」にするためです。「結果的に美しくなるんだから(多少ゴリ押しがあったって)いいじゃないか」というわけです。それが「決める政治」というわけです。

でも「美しさ」というのは人によって違います。安倍さんにとっての「美しさ」とは何なのでしょう? それを考えなければ安倍さんの意図するところはわからないままです。

自著「美しい国へ」から簡単に引用しましょう。

「個人の自由を担保しているのは国家なのである」
「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない」
「(旅行先での外国人)は、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである」

──そう書いて、安倍さんは映画「三丁目の夕日」を例に挙げます。「みんなが貧しいが、地域の人々はあたたかいつながりのなかで、豊かさを手に入れる夢を抱いて生きていく」「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかけてきた」

ツッコミたいところは満載ですがまあそれは抑えて1つだけ。私は昭和30年代を知っていますが、それはあの映画に描かれたほど温かくも優しくもなかった。選挙違反は現金が動いて酷かったし、暴力団は幅を利かし、役人の賄賂や情実は横行していた。障害者は(今と同じく)差別され、女性は軽んじられ、親の命令は絶対だった。「三丁目の夕日」が描いた和やかさ、朗らかさの後ろには「生きる」(昭和27年公開ですが)で描かれたあのドブや掃き溜めの沼が偏在していたのです。だからこそひとびとはほんのちっぽけな幸せやささやかな喜びにでも大きくすがるようにして生きていたのです。

そんなひどい時代にそれでも「偉かった」のは「先生」と「親」でした。「先生」とは政治家や医者や弁護士や、とにかくそういう人たちすべて。「親」は会社の社長や暴力団の親分や町内会の会長やそういう身内的な偉い人も含みます。そう、あの時代は「社会」と「家」とが相似形に重なっているようで、「家父長」的な人たちの力が強かったのです。

「三丁目の夕日」が娯楽として存在するには、そんな「親」で「社長」の堤真一の役回りを徹底してコミカルに描くことが必要でした(吉岡秀隆はハナから権威とは無縁に描かれていました)。もちろん実際の昭和30年代にもああいうコミカルな人はいました。けれどその上にはコミカルではない社会が厳然として存在していたのです。

つまり「三丁目の夕日」は、そうした昭和30年代的な「権力」の絶対を相対化しなければ、あるいはその「権力」を存在しないものとしていなければ、あれほどに朗らかにはなれなかったのです。

そう、昭和30年代は強い父親がいてさまざまな困難にも即断対応しようとしていた、そんな時代の名残のような時でした。そんな伝統的な「家」を基本にした立派な国家の最後の光芒。それが60年安保(昭和35年)の学生運動やビートルズが来た1966年(昭和41年)あたりから揺らぎ始めるわけです。

世の中はそう単純じゃないとわかってきたのが昭和40年代からの日本でした。高度成長のせいもあっていろんな個人が自信を持ち始めたのかさまざまに勝手に声を出し始め、ゴチャゴチャうるさいことこの上ない。公共事業で道路つくって公民館つくって箱モノを与えてやればよいだけだった政治もだんだんそれだけじゃあ済まなくなった。ああ、美しくない。

そうやって考えた結果が、もう一回国家がしっかりすれば個人もしっかりするはずだという倒錯です。そして「ゴチャゴチャ国家」の元凶を現行憲法に求める。それは個人より公共、自由より秩序、権利より責務と明記されている自民党の憲法改正草案を見ると明らかです。

これってまさに伝統的な姿である家制度=父権主義=「父さんの言うことは黙って従いなさい」です。伝統的な家を基に国家を考えると、いまの自民党が夫婦別姓に反対するのも、嫡子差別を(違憲判決にも関わらず)当然と考えるのもわかります。それはとてもスッキリとわかりやすく、美しく見える。国家は父親なのです。国家は「国」と「家」とをつなげた概念なのです。

このときあるべき「父親」の姿が見えてきます。国民を守り、国民が帰属すべき国家。子供を守り、子供が帰ってくるべき家。安倍さんの「美しい国へ」にもそう書いてある。そしてそんな家の父親はもちろん押し売りや強盗という外患にも毅然と対応しなくてはならない。それは父親の男気です。誇るべき美しいマチズムです。だからこそ外国に行ったときに名乗るべき名前は、あなた個人を識別するファーストネームなんかよりも先に、あなたを庇護している「日本」という苗字であるべきなのです。

ああ、わかった。安倍さんを批判する「国家主義者」とか「戦争のできる国」とかいうのはまわり回ってそういうことなんだ。外患に対してバットを用意するマッチョな在り方の別名なんだ。安倍さんのすべては、この善意の「男性主義的家父長制国家」への、美しさの幻想から来ているのだ。あの人は男らしいのが好きなんだ。ただこの日本を「オトコらしい」「一丁前の」国家にしたいだけなんだ。「オトコらしい国」ってのがたまたま「戦争もできる国」ってことなんだ。その「オトコの美学」が「美しい国」ってのにつながってるんだ。

──と見切ったつもりでいたら12月14日、都内のホテルで開かれた安倍首相夫妻主催の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳晩餐会、余興として登場したのはミニスカートの制服もまぶしいAKB48の面々でした。

ASEAN_AKB48.jpg

ごめんなさい。

延々と論を連ねて安倍さんの主義主張を家父長制度に根ざしたものだと言ってきたのに、それはじつは「男性主義」「父権主義」ではなくて単なる「オヤジ趣味」だったのかもしれません。

……ま、同じことかもしれませんが。

December 07, 2013

「臭いものに蓋」法

近代国家は国家機密に関するきちんとした法律を持っていければならないと思います。きちんとした特定秘密保護法案ならまったく反対しません。ところが衆参両院で強行可決された「特定秘密保護法」は、スパイ防止にならないばかりか単に官僚たちの「臭いものに蓋」としてしか機能しないだろうと強く懸念される。だからこの法に反対しているのです。国民の知る権利がどうだとかジャーナリズムがどうだとかそんな高尚な話ですらありません。法律として、また審議過程としてもボロボロだからです。

欧米の同様法は外国への機密漏洩を厳罰化しています。利敵行為への戒めです。対して日本のこれは誰にも喋ってはいけないという法律です。しかも秘密の範囲は漠として曖昧。公務員も何が秘密かわからず戦々恐々。つまり何であれ喋らぬに越したことはない。触らぬ神です。国民の代表である政治家たちにも明かせない。

すると政治家にとっても霞ヶ関の情報収集が従来のようにはいかなくなる上に、政策の立案も精度が落ちてきます。秘密を知る官僚だけが考えることになるのですから、じつは自民党は自分で自分の政治家としての首を絞めたのも同じです。

一方でこの法は官僚機構そのものの弱体化すら招きます。他人に説明しない=説明を怠る癖は、説明責任=論理構成力をも殺ぎ取ることにつながり、独善的なシステムを構築するに至る。それはつまり、官僚機構そのものの堕落に直結するのです。

日米双方の官公庁を取材して違うのは、日本の役所ではほとんどの情報がまずは「秘密」に設定されるということです。宣伝になること以外はこちらから突つかない限りはまず出てこない。資料を出すのを面倒くさがる。情報がみんなのものだという意識が低い。秘密保護法なんて必要ありません。そもそも最初からみんな秘密なんですから。

情報を持っているというのは力です。情報を秘密にすればそれは権力になる──例えば警察取材では日本の一年生記者は揉み手をし頭を下げて情報をもらいます。そこで先輩に「ご用聞きじゃないんだ!」と叱責されるのですが、全員がそんな立派なジャーナリストに育つわけでもありません。揉み手のクセが抜けない記者も多いのです。一方で警察は、いや普通の役所ですら、揉み手をしてにこやかに接してくれる新聞記者が心地よい。自分のところで情報を塞き止める「よかれと思ってする自己規制」「勝手な判断」がそうやって生まれもします。本来そもそも市民国民のための情報であるにも関わらず(主権在民とはそういうことです)、その情報を恣意的に自分の手で出し惜しみして末端の権力の味を味わうのが好きな小役人はどこにでも一定数存在するのです。

もう1つ、米国では政権交代のたびに官僚組織のトップが5000人とか7000人の単位でガラッと入れ替わります。すると党派的に都合の悪い秘密などは隠していた方がまずいことになる。「臭いものへの蓋」は政権交代ごとに開けられてしまうからです。そうやってバレたらなおさらまずいでしょう。だから「機密」は客観性の高いものにならざるを得ない。

対して日本の「秘密」とはそうした客観的にもおかしくはない国家機密のほかにも、その時点の国家機構や組織の弱点を隠すための秘密も含まれがちなのです。組織のトップが責任を問われずに済むように情報を隠しておく、だってそれが優秀な部下の務めでもあるわけですから。内部告発なんかとんでもない。そういうのは内部告発ではなくまずは内部処理です。それが日本的組織です。

しかも安倍政権はそんな秘密を「保存中に破棄することもある」とさえ閣議決定してしまった。シュレッダーに掛けちゃうというのです。そういうことをすると、秘密と権力だけが実体もなく延々と保全されることになります。保身の前には秘密の保全こそが重要であって歴史の保全などは二の次、むしろ邪魔っけな考え方なのです。

例えば国会審議の最中の12月2日、東海村の原子力機構で高レベルの廃液が未処理で残り水素爆発の恐れまであるという記事が出ました。これは日本の混乱を狙うテロリストには格好の情報たりうるでしょう。また森雅子担当相は「食の安全」もテロリストの脅迫材料になるから「特定秘密の可能性がある」と答弁しました。そうなると国民は食品の危険を知らされないおそれだってあるかもしれない。もちろん政府はそんなことはないと言うでしょうが、そうならそうできちんとそこを法律として規定しなければならない。時の政府の恣意的解釈ができないものでなくては法律とは言えないのです。

皮肉を言えば自民党は、「自分たち以外」の「危険な政府」が誕生するかもしれないことをまったく頭に入れていないのでしょうか? つまり絶対に政権はもう二度と誰にも渡さないぞ、という構えを強化するつもりなのでしょうか?

米国では国家機密も原則25年で公開です。日本では60年。これは事実上「公開されない」と同じです。だって60年って、関係者はみんな死んでしまっているのですよ。そう批判すると米国だって最長75年、英国では100年の秘密もある、という反論が返ってきます。でもそれは何が秘密かはわかるようになっているのです。保全途中での秘密裏の廃棄だってあり得ません。情報公開法だって素晴らしく機能しているのは日本の「秘密」が米国の情報公開で次々と明らかになっていることからもわかるでしょう。

そしてそれはどうして日本では秘密なのか、その理由さえよくわからないものばかり。日本政府もその理由を説明しません。なぜならそれは「秘密」だからです。キャッチ22ですか?

いま一度言いましょう。特定秘密保護法案という概念にはまったく反対じゃありません。賛成派はそんなものは当然の法律で反対する方がおかしいと言いますが、そうやって勝手に反対の理由を捏造しないでいただきたい。そんなことで反対してるんじゃない。反対なのは、あくまで強硬可決された「この特定秘密保護法」が、スパイ防止などではなくむしろ官僚制度や自民党の「臭いものに蓋」法として機能するしかないだろうからなのです。

November 07, 2013

ストップ&フリスク

市政監督官のビル・デブラシオ候補が大勝したNY市長選ですが、ブルームバーグ市長の政策を「富裕層優遇」と真っ向から批判してきたことが功を奏したというより、私にはあの高校生の息子ダンテくんの超アフロヘア人気がカギを握っていたと見るのですがミーハーに過ぎるでしょうか?

さてハイラインの建造や歩行者天国の拡大、最近では(これは人気イマイチですが)シティバイクの設置といろいろとアイディアマンだったブルームバーグ市長ですが、確かに振り返れば市の貧困率は21%と過去最高ですし、NY市警による「ストップ&フリスク(通行人を呼び止めての職務質問と身体検索)は人種プロファイリング(人種偏見を基にした思い込みの捜査手法)だとして風当たりが強くなっています。ここら辺で違う風がほしいと思った向きがデブラシオというほとんど無名だった候補へ流れたのでしょう。

ところでこのストップ&フリスク、一般の注目を浴びたのは8月に地方判事が「この施策は憲法に違反する」と判断したのが発端です。警官が「白人だったならば呼び止められなかったであろう黒人やヒスパニックの人々」を日常的に呼び止めており、市警は「間接的な人種プロファイリング施策」に依拠しているとしたのです。

しかしそれが市長選挙直前の10月31日、思いがけぬ展開を見せました。控訴審がストップ&フリスク改革を停止し、警官たちに事実上同手法の継続を容認したのです。

そんな中、19歳の黒人男子大学生トレイヴォン・クリスチャンがこの4月にバーニーズNYで大好きなラッパーがしていたのと同じ350ドルのフェラガモのベルトを購入したところ、店から1ブロックのところで2人の私服警官に呼び止められ、「こんな高いものを買えるはずがない」として手錠を掛けられ、分署で2時間も拘束された件が公になりました。

クリスチャンはIDやレシートを見せたのですが偽造だと相手にされなかったとか。これとは別にやはりバーニーズで21歳の黒人女性が2500ドルのセリーヌのハンドバッグを買って同じような目に遭っていたことも新聞で報じられました。2人ともこれを人種偏見の違法行為として市警とバーニーズを訴えてニュースになったのです。

これは犯罪を起こす以前の予防的警戒と言えます。五番街やマディソン街などの高級地区から危なそうな人物を職質してその場から立ち去らせる。人種差別、人種偏見を基に予防的に犯罪可能性に対応する。この施策を支持したブルームバーグ市長は犯罪率の明らかな低下を支持の理由に挙げていました。

なるほどそうかもしれません。そしてこれはよく考えれば9.11以降にブッシュ政権が国際法を無視して行ってきた、そしてオバマ政権もそれを継承している対テロの予防戦争、予防的先制攻撃の思想と同じです。そうしてブッシュはアフガニスタンやイラクやパキスタンのアルカイダを叩き、オバマは怪しい者を証拠や訴追もなくグアンタナモ刑務所に予防的に拘禁している。いまそれから10年以上経って、その考え方がアメリカの一般社会にまで降りてき始めている。富裕層およびそれを取り巻く権力システムが、既得権益を守るために犯罪も成立していないうちから犯罪の憶測、見込みを取り締まる。黒人だ、ヒスパニックだということだけで高級ショッピングエリアから排除する。これはまさに予防的先制攻撃でしょう。

テロは起きてからでは遅いから事前に叩く──この考えが認められるなら犯罪にだって同じじゃないか、そういうことです。ビッグデータを駆使する対テロ予防の監視システムを認めるなら、それを人種プロファイリングという犯罪予防措置に敷衍して何が悪い、ということです。正当防衛の先取り理論。「悪は、危ないことをしてしまった後ではもう遅い。何かをしでかす前の芽の時点で摘み取るべし」なのです。

10年以上前にトム・クルーズ主演の「マイノリティリポート」というSF映画がありました。まさにこの予防的治安維持捜査の物語でした。原作はフィリップ・K・ディックの1956年の小説です。

翻って日本でさえも特定秘密保護法といい予防的治安維持といい、こないだまでSFの中だけだったものがどんどん現実になっています。一流のSF作家の予見の的確さに感心すると同時に、彼らが怖れたものを私達もまた十分に怖れているのか、私達の感性が試されているような気がします。

November 04, 2013

メニューの上の虚実皮膜

一時帰国中の日本ではホテルレストランなどでの食材の「偽装・誤表記」が連日ニュースになっています。発端は反新阪急ホテルでの「芝エビとイカのクリスタル炒め」なるものが、実は芝エビではなく「バナメイエビ」を使っていたというものでした。

日本の中華料理界では小エビをだいたい「芝エビ」と表記するのが慣行だったそうで、芝エビといえどもすでに江戸「芝浦」で捕れるエビとは限らず、しかもいまや大量消費で世界中からいろんなエビが輸入されるとあってはいちいち聞いたこともない名前でメニュー表記されても客としても困り物だろうにと、私としてはむしろ「クリスタル炒め」の方に、一体全体これは何ぞや?と反応してしまった。

その後も同種の問題発覚は後を絶たず、ブラックタイガーを車エビ、トビッコをレッドキャビア(これは日本では鱒の卵のことだそうです)、ロブスターを伊勢エビ、スパークリングワインをシャンパン……中には牛脂を注入した豪州ビーフの成型肉を「和牛」表記してたなんていうトンデモ例もありますが、食材なんてのはだいたい料理の上手下手でどうにでもなるもので、ブラックタイガーだってヘタな車エビより美味くもなれば、スパークリングワインだって近頃は上等です。アメリカじゃ伊勢エビ(スパイニー・ロブスター)よりも爪のあるロブスターの方が重宝される。鱒子をレッドキャビアだなんて呼ぶこと自体がそもそも偽装でしょうに、それを棚に上げて着色トビッコを「赤い魚卵=レッド・キャビア」と呼んではいけないというのもおかしな話です。

もちろんそんなメニュー表記で付加価値が上がって客を引きつけられると考えるレストラン側のさもしさ浅ましさが第一の問題です。客を騙そうなんて以ての外。

だがしかし、そもそも日本のメニューというのは昔から謎掛け、見立ての伝統があって、それをわかってこそ風流、などという特権意識がお茶や懐石の、器や掛け軸や生け花やあしらいの根底に流れている。

簡単な例ならば「竜田揚げ」は百人一首の「からくれない」に染まる竜田川の色合いを持った揚げ物のことですし「紅葉おろし」だとか仙台名菓「萩の月」だとかも、じつに妙(たえ)なる名前だけどこれも知らなきゃ何のことやら。そうやって日本にはそのものズバリの名付けを無粋として避ける文化が脈々とあって、潮汁だとか鉄砲汁だとか鉄火巻きだとか松笠焼きだとか、それがいつしか「クリスタル炒め」なんぞにつながるわけです。

それは、テラピアをイズミダイと呼び換え、カペリンをカラフトシシャモと呼び換え、ブルーギルをビワコダイなどと呼び換える慣行とどう違うのか、と言われると、確かに商売根性のあからさまさは違うけど、本質的にはどっかでなにかが通底してる。

かくして客側の自己防衛としては、端からメニューなど信じないのがいちばんです(そういや日本にはメニューより信頼が重大な「おまかせ」文化もありますね)。それで食ってみてからもういちどメニューを見直す。美味かったらそこで「ほお、そうだったのか」と思うし、まずかったら「へえ、こうしちゃうのね」です。同じ食材も「こんなに美味くなるのか」なときも「ダメポ」なときもあるので、客釣りのためのメニューなんぞ単なる参考資料、半分信じてちょうどいいくらいなのですよ。

もっともそう書いたからと言ってレストラン側が話二倍の誇大表記をしてよいということにはなりません。「しょせん素人、客になんぞ味の違いはわからねえ」と思っている店があれば、まあ、そりゃ大方そうかもしれないけど、そうじゃない客だって必ずいるのだと言うしかありません。そうすると、そういう味のわかる、畏敬すべき客は必ずその店に二度と来なくなります。そして次第にその店の客は、店側が蔑ろにするような客ばかりになる。そうするとその店自体が蔑ろにしてよい店に堕するのです。それは恐いことではありませんか?

先日、岐阜のどこかの学校給食でパンに小バエが混じっていたという“事件”がありました。ハエが混入したパンの数は約100個にものぼったそうですが、学校側は「 健康に影響はない」として、付着箇所を取り除いて食べるよう指導したそうです。ええ、パンは高温で焼いているから小バエが混じっていても病原菌は死んでるし大丈夫かもしれません。でもこの問題はそこにあるのではないのです。この問題は、小バエが混じるような環境を放置しているような給食施設では、必ず他にもなにか見落とされている衛生上労働上の問題があるはずだ、ということです。小バエ混入は、そういう悪環境、悪監督、悪労働の象徴だということなのです。

これを敷衍すれば、客の気を惹くためには実態以上のかっこいい言葉でメニューを飾ればどうにかなると思っているレストランは、どこか料理でも客サービスでも嘘が混じるということなのです。誤表記、偽装はその象徴でしかないのです。天網恢恢疎にして漏らさず。料理は愛情だというのは、じつはそういう嘘をつかない誠実な心のことを言うのだと思います。

最後にレストラン以外の苦言を1つ。レストランなら選べます。でも日本では、どこに行っても本物のベーコンが売っていない(高級グルメマーケットとかにはかろうじて存在してますが)。

ベーコンとは本来は塩漬けにした豚の肋肉を燻製にして作るもので、熱処理していないのです。なのに日本で「ベーコン」として売ってるのはみんな加熱したハムもどき。せっかく世界に誇るおいしい豚肉がある日本なのに、これは焼いてもカリカリにならないし、口にぺっとり甘ったるい化学調味料の味が残るし、食文化を誇る日本で、ベーコン1つまともなのを買えないというのは、TPP後に世界から押し寄せる食材に、農水省の食品行政がはたして立ち行くのかどうか、そちらの方が心もとないのです。

October 29, 2013

軍人の思考

驚いたのは安倍首相が27日、自衛隊の観閲式で「防衛力はその存在だけで抑止力になる、という従来の発想は完全に捨て去ってもらわないといけない」と演説したことです。武力は行使しなければ意味がないとは、日本が依存する「核抑止力」をも否定することになる論理だと、気づいているのかいないのか。この人どうも首尾一貫しないでブレーンの入れ知恵をその場その場で適当に口にしているだけの印象が拭えません。入れ知恵を自分の論理として理解する力、一体化して構築する力がないのか、ただ「勇ましさ」だけをキーワードにしてかっこいいフレーズを飛び石渡りしているような気がするのです。

そして国家安全保障会議とか特定秘密保護法案です。安倍さんは戦後日本が築き上げてきた「平和主義」ドクトリンを根底から変えたいんですね。で、こちらのキーワードは「勇ましさ」をもうちょっと外向きに言い換えた「積極的平和主義」。同じ「平和」が入っているとはいえその中身は正反対です。

今回スルスルと閣議決定にまで至った日本の秘密保護法案は、なにせ事前のパブリックコメント募集で反対が8割もあったのにそれはまったく無視されました。町村信孝元外相が「組織的にコメントする人々がいたと推測できる」と一蹴したように初めから成立ありき。いったい何のためのパブコメ募集だったのか。もしこれが賛成8割だったならそれも組織票だと言ったのかしら?

この法案はそもそも湾岸戦争以降共同軍事行動に前のめりになった自民党政府に対し、提供する軍事機密が日本から漏れては困るという米国側の危惧から始まりました。それが2000年のアーミテージ・リポートで具体的に字になって日本にも「アメリカ並みの秘密保護法制が必要」とされ、翌01年の9.11後に制定された愛国者法の対テロ戦争の熱狂下で日本への圧力もぐっと高まった。そして第一次安倍政権下の07年に「日米軍事情報包括保護協定」が締結されたのです。

本来ならこれで事足りるはずでした。ところが安倍政権はもっけの幸いとばかりにこれを秘密保護法案に拡大し、持論の改憲、集団的自衛権、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱見直し等々とパッケージして、彼の言う「積極的平和主義」を構想したのです。

国家にはもちろん運営上の機密情報が存在します。それを守るための法律もまた必要です。日本にはすでに公務員法や自衛隊法でそれが守られています。しかし今回の秘密保護法案は罰則をさらに強め、取材のジャーナリストたちも処罰対象にするものです。

秘密保護法案にはそれに拮抗する情報公開法や、内部告発者をきちんと保護する法律並びにそれを保障する社会文化が同時に必要とされます。ところが日本にはそれがない。日本にはジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンも出てきそうにないのです。そして秘密の正当性を検証する機会がないまま、政府の指定する秘密だけが増殖するのです。

ではその秘密とは何なのか? 1つのウソをつきとおすために別のウソをつかねばならなくなるように、1つの秘密を隠すためにその周辺情報までも秘密にしなくてはならなくなります。ウソがウソを呼ぶように、秘密が秘密を呼ぶのです。そして何が秘密なのか、誰も定義できなくなってしまう。それが検証されることのない「秘密」の正体です。

その好例が国家安全保障局(NSA)によるメルケル独首相ら35カ国首脳への盗聴です。この盗聴が始まったのは2002年。やはり2001年の9.11後の狂乱下ですね。テロ情報収集のためには手段を選ばない。そのためにはヨーロッパ経由の情報も必要、ドイツのNATO情報も必要、つぎにドイツの首相になりそうなメルケルさんの情報も必要、といくらでも拡大して行ったことは想像に難くありません。諜報活動は歯止めがない場合はかならず自己増殖するのです。

この場合、盗聴内容はもちろん機密情報でしょう。さらにその具体的方法として「盗聴」という違法行為をやっていたこと自体も機密情報になります。つまり、政府の違法行為までが機密情報に指定されるわけです。そして秘密保護法ができれば、政府の違法行為を告発することさえもが違法となってしまう。政府の違法行為は、では誰がどのように正すことができるのか?

問題はそこにあります。

平時のときの有事対策とは、平時であるが故に冷静かつ論理的に考えられるすべての回路を駆使しなくてはなりません。政治家は秘密を保護するだけではなく、情報を精査して評価する方法や情報公開法も作っておかねばならない。なのにいまのこの平時に、まるで有事の際に有事の対策を立てるかのような有事ヒステリアで思考回路が一本化してしまっている。それは政治家の思考ではありません。軍人の思考なのです。

October 03, 2013

靖国とアーリントンと千鳥ヶ淵と

しかし安倍政権もよほどオバマ政権に嫌われたものです。この前のエントリーでも安倍さんのハドソン研究所講演などにおける米民主党との疎遠ぶりに触れましたが、今度は日米外務・防衛担当閣僚会議に訪日したケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、10月3日のその会議の朝に、わざわざ千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れ、献花・黙祷したのです。

米国の大臣が2人そろって日本人戦没者を追悼する──この異例の弔意表敬は何を意味しているのでしょう?

これには伏線がありました。安倍が今年5月の訪米に際して外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」のインタビューでバージニア州にあるアーリントン国立墓地を引き合いに出し「靖国はアーリントンだ」という論理を開陳したのです。

「靖国神社についてはどうぞ、アメリカのアーリントン国立墓地での戦没者への追悼を考えてみてください。アメリカの歴代大統領はみなこの墓地にお参りをします。日本の首相として私も(そこを)訪れ、弔意を表しました。しかしジョージタウン大学のケビン・ドーク教授によれば、アーリントン国立墓地には南北戦争で戦死した南軍将兵の霊も納められているそうです。その墓地にお参りをすることは、それら南軍将兵の霊に弔意を表し、(彼らが守ろうとして戦った)奴隷制を認めることを意味はしないでしょう。私は靖国についても同じことが言えると思います。靖国には自国に奉仕して、命を失った人たちの霊が祀られているのです」

このケビン・ドーク教授のくだりは産經新聞への寄稿からの引用で、産経の古森のオジチャマも「靖国参拝問題で本紙に寄稿したジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が『アーリントン墓地には奴隷制を守るために戦った南軍将兵の遺体も埋葬されているが、そこに弔意を表しても奴隷制の礼賛にはならない』と比喩的に指摘したことに触発され、初めて南軍将兵の墓を訪れてみたのだった」とコラム(2006年05月31日 産経新聞 東京朝刊 国際面)で触れているから、おそらくそれを読んでの引き合いだったのでしょう。

例によって古森のオジチャマはフォーリン・アフェアーズ記者への安倍の回答を、自分のコラムを読んでくれていたせいか「なかなか鋭い答えだと思います」と賞賛しています。

ですが今回、日本の首相たちのアーリントン墓地表敬訪問の返礼として、オバマ政権が選んだ場所はその「靖国」ではありませんでした。千鳥ヶ淵だったのです。これはつまり日本で「アーリントン」に相当するのは「靖国ではない」ということを暗に、かつ具体的に示したのです。かなりきつい当てつけです。普通の読解力があれば、これは相当に苦々しいしっぺ返しです。

アメリカとしては、東アジアでキナ臭いことが起きたら大変なのです。にもかかわらず相も変わらず中韓を刺激するようなことばかりする安倍内閣というのは何なのかと呆れている。安倍さんは民主党政権でぐちゃぐちゃになったアメリカとの関係を「取り戻す」と、これも自らの宣伝コピーとともに宣言してきましたが、「取り戻せた」と自賛するほどにはまったく至っていないのは自分でも知っているはず。

同時に千鳥ヶ淵献花はかつての敵国である米国による日本との完全な和解の象徴でもあります。いま敵対している中国や韓国との関係をも、このように敬意を示して和解に持っていけよ、というオバマ政権からのメッセージだと読めなくもありません。

「完全な和解の象徴」と書きましたが、じつはその「完全」にはきっと次があります。それは核廃絶を謳ってノーベル平和賞を受賞したオバマさんが広島に行くことです。

米国はイランや北朝鮮の核開発を認めるわけにはいきません。テロリストに核爆弾が渡るのも流血を厭わず阻止し続ける。その強硬一本の姿勢とともに、彼はヒロシマ献花という平和の象徴的なメッセージを世界に振りまく戦略を考えているのではないか。

折りも折り、日本の大使には「叔父(エドワード・ケネディ)とともに1978年に広島に訪れて深く影響を受けた」と承認のための上院公聴会でわざわざ話したキャロライン・ケネディがまもなく赴任します。大統領の広島記念式典への出席には米国内でいろいろと異論も多いのですが、天下の「ケネディ」とともに出席すればその批判も出にくくなるでしょう。

来年の8月、あるいは選挙もない任期最後の2015年8月に、私は今回のケリーとヘーゲルのように2人並んで広島で献花するオバマとケネディの姿が目に見えるような気がするのですが、ま、そんな先のこと、今から確定するはずもありませんけどね。

September 27, 2013

アベノミス

NY訪問を終える安倍首相のフェイスブックのページに「安倍政権の目指す方向を世界に発信できた有意義な出張でした」と書き込まれていました。「発信」といっても報じたのは日本のメディアで、アメリカではほとんど触れられていませんでしたが。

「発信」は今回、ハドソン研究所、ウォールストリートの証券取引所、そして国連総会での3つの演説でした。この中にオバマ政権との接触はありませんでした。

ハドソン研究所というのは限定核戦争を肯定したり核戦争下での民間防衛のあり方を論じたりしたタカ派の軍事理論家ハーマン・カーンの創設したシンクタンクです。もちろんここは共和党と親和性が高い。ちなみにこのカーンさん、あの名高い映画『博士の奇妙な愛情』の主人公ドクター・ストレンジラヴのモデルなんです。

もっとも、ここでの講演は安倍さんがそのカーンの名を冠した賞を授与された記念講演でした。同賞歴代受賞者はレーガンやキッシンジャー、そして前副大統領のチェイニーらほぼ共和党系。そんなところで「私を右翼の軍国主義者と呼びたければ呼んでください」とやればもちろんそれは受けるでしょう。けれど東アジアの、特に日中の緊張関係にヒヤヒヤしているオバマ政権はどう思うでしょう。それでなくとも安倍さんを「右翼の国粋主義者」として距離を置いているオバマ民主党です。中国を意識して言い返したつもりの先の決め言葉は、彼らには当てこすりと聞こえたに違いありません。

そして証券取引所でのスピーチでした。私はこれにも「おや?」と思いました。安倍さん、出だしで「ウォール街──この名前を聞くとマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーを思い出す」とやったんですね。

この映画、オリバー・ストーンが監督で徹底してウォール街の嘘とごまかしと裏切りとインサイダー取引とマネーゲームのひどさとを描いたものです。そしてゲッコーこそがウォール街を具現する悪役なのです。それを思い出すと言うとは、安倍さんは金融マンたちを目の前にして皮肉をかましたんでしょうか?

彼はまだ続けます。「今日は皆さんに、日本がもう一度儲かる国になる、23年の時を経てゴードンが金融界にカムバックしたように『Japan is back』だということをお話しするためにやってきました」。そして「ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには3語で十分です。『Buy my Abenomics』」と……。

映画の続編で、慕ってくる青年にゲッコーが「Buy my book」つまりオレの本を買えばわかると言ったことに引っ掛けたわけですが、ゲッコーはその続編でも手痛いしっぺ返しを食らうのです。その文脈に沿えば、アベノミクスはしっぺ返しを食らう運命にあるってことの隠喩でしょ? これって自虐ジョークじゃないですか?

終始ヤンキーズやイチローやバレンティンや寿司の話などアメリカ人の好きそうなエピソード満載のスピーチで、安倍さんはとても得意げだったのですが、私は逆に微妙な違和感を持ちました。演説の〆で、この演説の悪ノリの印象は決定的になりました。

安倍さんは五輪開催を決めた日本に触れます。そこでヤンキーズのリベラ投手のテーマ曲を持ち出し(リベラはこの演説の翌日が引退試合でした)「日本は再び7年後に向けて大いなる高揚感の中にあります。それはヤンキースタジアムにメタリカの『Enter Sandman』が鳴り響くがごとくです」とやったんです。

でもこのヘビメタ曲、敵チームに対し、リベラが出てきたから「もうお前たちは眠りにつくしかない」と敗戦を言い渡す歌なんですよ。サンドマンというのはまさにその「眠りの精」こととなんですから。東京五輪に来る人たちに「さあ、おまえらはこれからやっつけられるんだぞ」と言うのは、それは大変失礼というもんじゃないでしょうか。

巷間なかなか評価の高い安倍さんのスピーチライターは元日経ビジネスの記者だった谷口智彦内閣審議官なのですが、安倍さん、本当にこのメタリカってヘビメタバンド、知ってるんでしょうかね。どこからどこまでが安倍さんのナマの言葉で、どこからどこまでが谷口さんの入れ知恵かはわからないのですが、いずれにしてもその比喩の原義の取り違えと文脈の無視、私には詰めの甘いミスとしか思えなかったのです。

September 03, 2013

孫子の兵法

シリアの首都ダマスカス近郊で毒ガス兵器による死者が1429人も出て(うち426人が子供だとケリー国務長官は言っています)、これを見逃すことは国際社会としてタブーである化学兵器、ひいてはイランや北朝鮮の核兵器開発をも見逃すという誤ったメッセージになる──これがオバマ大統領がシリア政府を攻撃しようとしている理由です。

もちろんこれ以上の一般市民の犠牲を防ぐという人道的な背景もありましょう。ですが国際的な軍事モラルとバランスの維持というのがアメリカにとっての第一の国益なのです。ええ、その「モラル」も「バランス」もアメリカにとっての、というのが国益の国益たる所以ですが、毒ガス兵器がむやみにテロリストやマフィアや犯罪組織に渡ったりするのは確かにまずい。

なのでシリアは(懲罰的にも、国際的な見せしめとして)叩かねばならない、というのが米政権の論理です。ところがアラブの春以来のこの2年半でシリアは内戦状態になり、しかも情勢は政府vs反政府勢力という単純な構図ではなくなっています。日本人ジャーナリストの山本美香さんも昨年8月、そんな混乱の中で政府軍に射殺されました。

反政府勢力の中にも民主化を求める市民勢力やアルカイダ系のイスラム原理主義集団、ジハード主義集団などが入り乱れていて、さらにそこにイランやロシアといった政府支援国、レバノンのヒズボラの参戦やトルコ、イスラエルといった敵対隣国の事情も絡み、国際社会もどう手をつけてよいかわからないのが現状です。

例えばオバマがトマホークを射ち込んで、シリア政府はどうするでしょう。シリアはロシアから地対空ミサイル防衛システムももらっています。報復としてアメリカではなくその同盟国のイスラエルにロシア製のスカッドミサイルを射ち込むということは大いに考えられます。その場合、それがまた化学兵器だったらそこから大変な戦端が開かれる恐れもあります。それを合図にレバノンもまたイスラエルを攻撃するでしょう。イスラエルはすでにそれに備えて「アイアン・ドーム」と呼ばれる防空システムを配備しています。アサド政権の後ろに控えるイランやロシアも黙ってはいないでしょう。アメリカではいま、サイバー・パールハーバー(コンピュータ戦争における真珠湾攻撃)も懸念されています。1週間前にニューヨークタイムズのサイトがハッキングされたのもシリア関連の攻撃だと言われているのです。なにより、個人の持ち込む兵器によるアメリカ本土でのテロも怖い。そんなことになる前にまずロシアと米国の反目が激化します。ロシアが動けばアメリカのソチ五輪ボイコットという事態もあるでしょう。

そしてそれらは、さらに先の、「ひいての」アメリカの国益につながるのだろうか?

その問題がオバマが今回の軍事介入をあくまで「限定的なもの」で「アサド政権の打倒を目指すものではない」として、慎重である理由です。トマホークを射ち込んでも次にどうなるのかが見えない。この軍事介入には「Bad ひどい」か「Worse よりひどい」か「Horrible とんでもなくひどい」の3つの選択肢しかないと言われる理由です。進むも地獄、進まぬも地獄……。

そこでオバマ政権の国防安保チームが知恵を絞ったのが今回の「軍事介入に当たって議会の承認を求める」でした。もちろん前週に英国議会がキャメロン内閣の軍事介入方針を否決した影響もあります。ただこれでオバマは、ブッシュのように猪突猛進はしないと宣言できました。なにせイラクもアフガンもリビアも、米国が軍事介入してうまく行った例はベトナム以降皆無なのですから、ノーベル平和賞受賞者としては1人で勝手にミサイルは射てません。でもこれで軍事介入の責任を議会にも分散させられる。リベラルの大統領としてはアリバイができる。

しかしその一方で東地中海のシリア沖に展開している5隻の駆逐艦、400基以上のトマホークはいまも待機状態で、いつ何時でも有事の際には攻撃できるようになっています。声明でも「司令官から常時報告を受けている。攻撃はいつでも可能。攻撃は一刻を争うもの(タイムセンシティヴ)ではなく、明日でも来週でも1カ月後でも有効だ」と断言しています。議会承認を求めると言う前にオバマがまずは「私は軍事介入を決心した」と明言したことも忘れてはいけません。

これはシリア政府に向けた恫喝です。アメリカの大統領は議会の承認を経ずに宣戦布告して60日間の軍事行動をとれます。つまり、議会の承認を求めるとは言ったものの、シリア政府軍に何か新たに不穏な動きがある際は火急の対応として攻撃できるんだ、とシリア側に宣告しているわけです。

これではシリア軍はなにもできません。いまシリアの司令本部や通信施設は攻撃を予測して移動し仮の状態です。兵器や部隊も分散させてシリア軍はいま本来の力を出せません。それが続く。つまり攻撃しないでも、軍事行動をとったに似た効果をもたらしている。これは孫子の兵法でいう「戦わずして人の兵を屈するは善の善」です。

もっともそれもかりそめのものです。9日以降の議会の承認審議は大揉めに揉めるでしょう。米国民の世論だって軍事介入にはもう乗り気ではない。もちろん介入が否決されてもオバマ大統領は次のシリアの出方でそれはまた変えることはできます。結局はやはり軍事介入、ということになる可能性も高い。シリア国内でも、アメリカの介入を求める人々が多く存在します。介入を求めない人々も多くいます。国際的にも賛否は真っ二つです。なにもしないでよいのかという人道的な憤りも加わって、アサド政権の非道さへの批判は高まる一方です。

しかし結局軍事介入することになっても、「その後」がわからないのはそのときも変わらないのです。そんなことも考えずに、アメリカよりも先に「アサド退陣」を求め、アメリカ国民よりも先に「アメリカ支持」方針を早々と打ち出してしまっている日本の安倍政権の不見識を、とても恥ずかしく思います。

July 24, 2013

ロシアの反ゲイ弾圧

ニューヨークタイムズ22日付けに、ハーヴィー・ファイアスティンの寄稿が掲載されました。
プーチンのロシアの反LGBT政策を非難して、行動を起こさずにあと半年後のソチ冬季五輪に参加することは、世界各国が1936年のドイツ五輪にヒットラーのユダヤ人政策に反発せずに参加したのと同じ愚挙だと指摘しています。

http://www.nytimes.com/2013/07/22/opinion/russias-anti-gay-crackdown.html?smid=fb-share&_r=0

以下、全文を翻訳しておきます。

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Russia’s Anti-Gay Crackdown
ロシアの反ゲイ弾圧
By HARVEY FIERSTEIN
ハーヴィー・ファイアスティン

Published: July 21, 2013


RUSSIA’S president, Vladimir V. Putin, has declared war on homosexuals. So far, the world has mostly been silent.
ロシアの大統領ウラジミル・プーチンが同性愛者たちに対する戦争を宣言した。いまのところ、世界はほとんどが沈黙している。

On July 3, Mr. Putin signed a law banning the adoption of Russian-born children not only to gay couples but also to any couple or single parent living in any country where marriage equality exists in any form.
7月3日、プーチン氏はロシアで生まれた子供たちを、ゲイ・カップルばかりか形式がどうであろうととにかく結婚の平等権が存在する【訳注:同性カップルでも結婚できる】国のいかなるカップルにも、または親になりたい個人にも、養子に出すことを禁ずる法律に署名した。

A few days earlier, just six months before Russia hosts the 2014 Winter Games, Mr. Putin signed a law allowing police officers to arrest tourists and foreign nationals they suspect of being homosexual, lesbian or “pro-gay” and detain them for up to 14 days. Contrary to what the International Olympic Committee says, the law could mean that any Olympic athlete, trainer, reporter, family member or fan who is gay — or suspected of being gay, or just accused of being gay — can go to jail.
その数日前には、それはロシアが2014年冬季オリンピックを主催するちょうど半年前に当たる日だったが、プーチン氏は警察官が同性愛者、レズビアンあるいは「親ゲイ」と彼らが疑う観光客や外国国籍の者を逮捕でき、最長14日間拘束できるとする法律にも署名した。国際オリンピック委員会が言っていることとは逆に、この法律はゲイである──あるいはゲイと疑われたり、単にゲイだと名指しされたりした──いかなるオリンピック選手やトレイナーや報道記者や同行家族やファンたちもまた監獄に行く可能性があるということだ。

Earlier in June, Mr. Putin signed yet another antigay bill, classifying “homosexual propaganda” as pornography. The law is broad and vague, so that any teacher who tells students that homosexuality is not evil, any parents who tell their child that homosexuality is normal, or anyone who makes pro-gay statements deemed accessible to someone underage is now subject to arrest and fines. Even a judge, lawyer or lawmaker cannot publicly argue for tolerance without the threat of punishment.
それより先の6月、プーチン氏はさらに別の反ゲイ法にも署名した。「同性愛の普及活動(homosexual propaganda)」をポルノと同じように分類する法律だ。この法は範囲が広く曖昧なので、生徒たちに同性愛は邪悪なことではないと話す先生たち、自分の子供に同性愛は普通のことだと伝える親たち、あるいはゲイへの支持を伝える表現を未成年の誰かに届くと思われる方法や場所で行った者たちなら誰でもが、いまや逮捕と罰金の対象になったのである。判事や弁護士や議会議員でさえも、処罰される怖れなくそれらへの寛容をおおやけに議論することさえできない。

Finally, it is rumored that Mr. Putin is about to sign an edict that would remove children from their own families if the parents are either gay or lesbian or suspected of being gay or lesbian. The police would have the authority to remove children from adoptive homes as well as from their own biological parents.
あろうことか、プーチン氏は親がゲイやレズビアンだったりもしくはそうと疑われる場合にもその子供を彼ら自身の家族から引き離すようにする大統領令に署名するという話もあるのだ。その場合、警察は子供たちをその産みの親からと同じく、養子先の家族からも引き離すことのできる権限を持つことになる。

Not surprisingly, some gay and lesbian families are already beginning to plan their escapes from Russia.
すでにいくつかのゲイやレズビアンの家族がロシアから逃れることを計画し始めているというのも驚くことではない。

Why is Mr. Putin so determined to criminalize homosexuality? He has defended his actions by saying that the Russian birthrate is diminishing and that Russian families as a whole are in danger of decline. That may be. But if that is truly his concern, he should be embracing gay and lesbian couples who, in my world, are breeding like proverbial bunnies. These days I rarely meet a gay couple who aren’t raising children.
なぜにプーチン氏はかくも決然と同性愛を犯罪化しているのだろうか? 自らの行動を彼は、ロシアの出生率が低下していてロシアの家族そのものが衰退しているからだと言って弁護している。そうかもしれない。しかしそれが本当に彼の心配事であるなら、彼はゲイやレズビアンのカップルをもっと大事に扱うべきなのだ。なぜなら、私に言わせれば彼らはまるでことわざにあるウサギたちのように子沢山なのだから。このところ、子供を育てていないゲイ・カップルを私はほとんど見たことがない。

And if Mr. Putin thinks he is protecting heterosexual marriage by denying us the same unions, he hasn’t kept up with the research. Studies from San Diego State University compared homosexual civil unions and heterosexual marriages in Vermont and found that the same-sex relationships demonstrate higher levels of satisfaction, sexual fulfillment and happiness. (Vermont legalized same-sex marriages in 2009, after the study was completed.)
それにもしプーチン氏が私たちの同種の結びつきを否定することで異性婚を守っているのだと思っているのなら、彼は研究結果というものを見ていないのだ。州立サンディエゴ大学の研究ではヴァーモント州での同性愛者たちのシヴィル・ユニオンと異性愛者たちの結婚を比較して同性間の絆のほうが満足感や性的充足感、幸福感においてより高い度合いを示した。(ヴァーモントはこの研究がなされた後の2009年に同性婚を合法化している)

Mr. Putin also says that his adoption ban was enacted to protect children from pedophiles. Once again the research does not support the homophobic rhetoric. About 90 percent of pedophiles are heterosexual men.
プーチン氏はまた彼の養子禁止法は小児性愛者から子供たちを守るために施行されると言っている。ここでも研究結果は彼のホモフォビックな言辞を支持していない。小児性愛者の約90%は異性愛の男性なのだ。

Mr. Putin’s true motives lie elsewhere. Historically this kind of scapegoating is used by politicians to solidify their bases and draw attention away from their failing policies, and no doubt this is what’s happening in Russia. Counting on the natural backlash against the success of marriage equality around the world and recruiting support from conservative religious organizations, Mr. Putin has sallied forth into this battle, figuring that the only opposition he will face will come from the left, his favorite boogeyman.
プーチン氏の本当の動機は他のところにある。歴史的に、この種のスケープゴートは政治家たちによって自分たちの基盤を固めるために、そして自分たちの失敗しつつある政策から目を逸らすために用いられる。ロシアで起きていることもまさに疑いなくこれなのだ。世界中で成功している結婚の平等に対する自然な大衆の反感に頼り、保守的な宗教組織からの支持を獲得するために、プーチン氏はこの戦場に反撃に出た。ゆいいつ直面する反対は、彼の大好きな大衆の敵、左派からのものだけだろうと踏んで。

Mr. Putin’s campaign against lesbian, gay and bisexual people is one of distraction, a strategy of demonizing a minority for political gain taken straight from the Nazi playbook. Can we allow this war against human rights to go unanswered? Although Mr. Putin may think he can control his creation, history proves he cannot: his condemnations are permission to commit violence against gays and lesbians. Last week a young gay man was murdered in the city of Volgograd. He was beaten, his body violated with beer bottles, his clothing set on fire, his head crushed with a rock. This is most likely just the beginning.
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルの人々に対するプーチン氏の敵対運動は政治的失敗から注意を逸らすためのそれであり、政治的利得のためにナチの作戦本からそのまま採ってきた少数者の魔女狩り戦略なのだ。私たちは人権に対するこの戦争に関してなにも答えないままでいてよいのだろうか? プーチン氏は自らの創造物は自分でコントロールできると考えているかもしれないが、歴史はそれが間違いであることを証明している。彼の非難宣告はゲイやレズビアンたちへの暴力の容認となる。先週、州都ヴォルゴグラードで1人の若いゲイ男性が殺された。彼は殴打され、ビール瓶で犯され、衣服には火がつけられ、頭部は岩でつぶされていた。これは単なる始まりでしかないと思われる。

Nevertheless, the rest of the world remains almost completely ignorant of Mr. Putin’s agenda. His adoption restrictions have received some attention, but it has been largely limited to people involved in international adoptions.
にもかかわらず、そのほかの世界はほとんど完全にこのプーチン氏の政治的意図に関して無関心のままだ。彼の養子制限はいくらか関心を引いたが、それもだいたいは国際養子縁組に関係している人々に限られている。

This must change. With Russia about to hold the Winter Games in Sochi, the country is open to pressure. American and world leaders must speak out against Mr. Putin’s attacks and the violence they foster. The Olympic Committee must demand the retraction of these laws under threat of boycott.
この状況は変わらねばならない。ロシアはいまソチで冬季オリンピックを開催しようとしている。つまりこの国は国際圧力にさらされているのだ。アメリカや世界の指導者たちはプーチン氏の攻撃と彼らの抱く暴力とにはっきりと反対を唱えなければならない。オリンピック委員会は五輪ボイコットを掲げてこれらの法律の撤回を求めなければならない。

In 1936 the world attended the Olympics in Germany. Few participants said a word about Hitler’s campaign against the Jews. Supporters of that decision point proudly to the triumph of Jesse Owens, while I point with dread to the Holocaust and world war. There is a price for tolerating intolerance.
1936年、世界はドイツでのオリンピックに参加した。ユダヤ人に対するヒトラーの敵対運動に関して何か発言した人はわずかしかいなかった。参加決定を支持する人たちは誇らしげにジェシー・オーウェンズ【訳注:ベルリン五輪で陸上四冠を達成した黒人選手】の勝利のことを言挙げするが、私は恐怖とともにそれに続くホロコーストと世界大戦のことを問題にしたい。不寛容に対して寛容であれば、その代償はいつか払うことになる。

Harvey Fierstein is an actor and playwright.
ハーヴィー・ファイアスティんは俳優であり劇作家。

July 23, 2013

世の中の変わり方

安倍首相のことをこちら欧米メディアではかならず「右翼の」「国家主義者の」「歴史修正主義の」と形容詞がつけられていることを,日本にいる人たちはあまり知らないようです。

参院選での自民大勝を受けてロイターは今回の選挙後の安倍政権を「困難な経済立て直しという問題への関心を失ってその代わりに自身の国粋主義的目標に向かって突き進むのではないかという疑い」と報じ、あのフォックスニュースまでもが「アベノミクスはさておき、選挙後に日本の指導者は彼の国粋主義的政治課題をどれほどまで推し進めるのか」と懸念を示しています。フォーリンポリシー誌は「安倍晋三首相は彼の急進的国粋主義者の新憲法をもって歴史を書き換えようとするだろうか」、NYタイムズなどもそんな疑念を隠していません。

最近、アメリカ人の友人と一緒の夕食の席で、話題になったのがスーザン・ダンという女性歴史学者による新著「1940: FDR, Willkie, Lindbergh, Hitler-the Election amid the Storm(1940:FDR、ウィルキー、ヒトラー=嵐の中の選挙)」でした。長引く不況の中にあったアメリカの1940年大統領選挙を軸に、当時の世界のキープレイヤーたちの動きを描いたものです。

当時は大恐慌の余波で、このアメリカですら民主制度というものは行き詰まっているのではないかという空気が産まれていました。

すべては経済です。一般の国民の民意というのは経済によって支配されます。不況だと生きてゆけない。そうするとアメリカでは、当時ヨーロッパで台頭してきたドイツに目を向ける人たちが現れた。つまりナチズムこそが停滞する民主主義に変わる新しい政治制度なのではないか、と賞賛する空気です。

民主主義はとにかく面倒くさい。剛毅果断も独断専行もできない。なぜなら、民主主義というのは「何かをやるための制度」ではなく、独裁とか弾圧とか強権政治とかを「やらせないためにできた政治制度」だからです。良いことを断行するためのものではなく、悪いことをさせないための社会体制なのです。(日本の憲法96条なんてまさにその権化でしょう)

それをわかって付き合って行かないと、民主主義って「何もできない、時間が掛かる、よく機能しない制度なんじゃないか」というフラストレーションが高まるに決まっているのです。そこで当時のアメリカでは、ナチズム、ファシズムこそが新たな時代の希望ではないのか、という見方が出てきたのです。そして「翼よ、あれがパリの灯だ!」で有名な人気飛行家チャールズ・リンドバーグなどが、ドイツ・ファシズムの代弁者になっていったのです。

ヒトラーは、ファシストであると同時に、そういう民意を上手に利用する大変なポピュリストでもあった。ポピュリズムが許す民主主義の否定とファシズムへの傾倒……そんな政治状況、社会の空気は、今の日本と似ていませんか?

とにかく経済、でもその一義的な大義名分にくっつくように全体主義(とは名指しされないものの中身はまさにそうであるもの)が社会政策として併せて首相の口から語られる。経済復興を旗印に裏で浸透してゆくポピュリズムとファシズム。

選挙大勝から一夜明けて、首相は憲法9条改正について「いや最終的には国民のみなさんの投票で決まることですから」と、あたかも自分の強権は関係無さげに話しています。しかし共同は同日早くも「安倍政権、武器輸出に新指針検討 禁輸三原則『撤廃』も」と報じました。

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安倍政権、武器輸出に新指針検討 禁輸三原則「撤廃」も

 安倍政権は22日、武器禁輸政策の抜本見直しに向けた議論を8月から本格化させる方針を固めた。新たな指針の策定により、従来の武器輸出三原則を事実上「撤廃」することも視野に入れている。安倍晋三首相は撤廃に前向きという。政府筋が明らかにした。

 防衛省は26日にも公表する新防衛大綱の中間報告に新指針の策定方針を盛り込む方向だ。冷戦下で共産圏への技術流出を防ぐ目的の三原則が、武器の国際共同開発が主流の現状にそぐわないとの判断からで、野田民主党政権が進めた禁輸緩和をさらに徹底する。国内防衛産業を育成する狙いもある。(2013/07/23 02:00) 【共同通信】

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なるほど、時代は、日本は、こうして変わってゆくのです。

June 01, 2013

2013年プライド月間

私が高校生とか大学生のときには、それは1970年代だったのですが、今で言うLGBTに関する情報などほとんど無きに等しいものでした。日本の同性愛雑誌の草分けとされる「薔薇族」が創刊されたのは71年のことでしたが、当時は男性同性愛者には「ブルーボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「オカマ」といった蔑称しかなくて、そこに「ホモ」という〝英語〟っぽい新しい言葉が入ってきました。今では侮蔑語とされる「ホモ」も、当時はまだそういうスティグマ(汚名)を塗り付けられていない中立的な言葉として歓迎されていました。

70年代と言えばニューヨークで「ストーンウォールの暴動」が起きてまだ間もないころでした。もちろんそんなことが起きたなんてことも日本人の私はまったく知りませんでした。なにしろ報道などされなかったのですから。もっともニューヨークですら、ストーンウォールの騒ぎがあったことがニュースになったのは1週間も後になってからです。それくらい「ホモ」たちのことなんかどうでもよかった。なぜなら、彼らはすべて性的倒錯者、異常な例外者だったのですから。

ちなみに私が「ストーンウォール」のことを知ったのは80年代後半のことです。すでに私は新聞記者をしていました。新聞社にはどの社にも「資料室」というのがあって、それこそ明治時代からの膨大な新聞記事の切り抜きが台紙に貼られ、分野別、年代別にびっしりと引き出しにしまわれ保存されていました。その後90年代に入ってそれらはどんどんコンピュータに取り込まれて検索もあっという間にできるようになったのですが、もちろんその資料室にもストーンウォールもゲイの人権運動の記録も皆無でした。

そのころ、アメリカのゲイたちはエイズとの勇敢な死闘を続けていました。インターネットもない時代です。その情報すら日本語で紹介されるときにはホモフォビアにひどく歪められ薄汚く書き換えられていました。私はどうにかアメリカのゲイたちの真剣でひたむきな生への渇望をそのまま忠実に日本のゲイたちにも知らせたいと思っていました。

私がアメリカではこうだ、欧州では、先進国ではこうだ、と書くのは日本との比較をして日本はひどい、日本は遅れている、日本はダメだ、と単に自虐的に強調したいからではありません。日本で苦しんでいる人、虐げられている人に、この世には違う世界がある、捨てたもんじゃない、と知らせたいからです。17歳の私はそれで生き延びたからです。

17歳のとき、祖父母のボディガード兼通訳でアメリカとカナダを旅行しました。旅程も最後になり、バンクーバーのホテルからひとり夕方散歩に出かけたときです。ホテルを出たところで男女数人が、5〜6人でしたでしょうか、何かプラカードを持ってビラを配っていたのです。プラカードには「ゲイ・リベレーション・フロント(ゲイ解放戦線)」と書いてありました。手渡されたビラには──高校2年生の私には書いてある英語のすべてを理解することはできませんでした。

私はドキドキしていました。なにせ、生身のゲイたちを見るのはそれが生まれて初めてでしたから。いえ、ゲイバーの「ゲイボーイ」は見たことがあったし、その旅行にはご丁寧にロサンゼルスでの女装ショーも組み込まれていました。でも、普通の路上で、普通の格好をした、普通の人で、しかも「自由」のために戦っているらしきゲイを見るのは初めてだったのです。

私はその後、そのビラの数十行ほどの英語を辞書で徹底的に調べて何度も舐めるほど読みました。そのヘッドラインにはこう書かれてありました。

「Struggle to Live and Love」、生きて愛するための戦い。

私の知らなかったところで、頑張っている人たちのいる世界がある。それは素晴らしい希望でした。そのころ、6月という月がアメリカ大統領の祝福する「プライド月間」になろうとも想像だにしていませんでした。

オバマが今年もまた「LGBTプライド月間」の宣言を発表しました。それにはこうあります。

「自由と平等の理想を持続する現実に変えるために、レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーのアメリカ国民およびその同盟者たちはストーンウォールの客たちから米軍の兵士たちまで、その歴史の次の偉大な章を懸命に書き続けてきた」「LGBTの平等への支持はそれを理解する世代によって拡大中だ。キング牧師の言葉のように『どこかの場所での不正義は、すべての場所での正義にとって脅威』なのだ」。この全文は日本語訳されて米大使館のサイトにも掲載されるはずです。

この世は、捨てるにはもったいない。今月はアメリカの同性婚に連邦最高裁判所の一定の判断が出ます。今それは日本でもおおっぴらに大ニュースになるのです。思えばずいぶんと時間が必要でした。でも、それは確実にやってくるのです。

February 26, 2013

アメリカ詣で

オバマ大統領にとって5人目の日本の首相が就任後の挨拶回りにやってきました。訪米前から日本側はメディアの報道も含めてTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉への参加問題こそが今回の首脳会談の主要テーマとしていましたが、それは結局はTPP参加に進むと心に決めている安倍がいかにオバマから「聖域あり」との(参院選に向けた、自民党の大票田であるコメ農家の反対をなだめるための)言質を引き出すかといった、安倍側のみの事情であって、米国側にとってはとにかくそんなのは参加を決めてくれない限り主要問題にもなりはしない、といったところでした。

その証拠に、首脳会談の最初の議題は東アジアの安全保障問題だったのです。TPPはその後のランチョンでの話題でした。

東アジアの安全保障とはもちろん北朝鮮の核開発の問題であり、そのための日韓や日中関係の安定化のことです。とにかく財政逼迫のアメリカとしては東アジアで何か有事が発生するのは死活問題です。しかも米側メディアは安倍晋三のことを必ず「右翼の」という形容詞付きで記事にする。英エコノミストも「国家主義的な日本の政権はアジアで最も不要なもの」と新年早々にこき下ろしました。NYタイムズも「この11年で初めて軍事予算を増やす内閣」と警戒を触れ回ります。同紙は河野談話の見直しなど従軍慰安婦問題でも「またまた自国の歴史を否定しようとする」と批判しており、米国政府としても竹島や尖閣問題で安倍がどう中韓を刺激するのか気が気ではない。まずはそこを押さえる、というか釘を刺しておかないことには話が進まなかった。

会談では冒頭、オバマの質問に応える形で安倍がかなり安保や領有問題に関して持論を展開したようではありますが、中国との均衡関係も重視するアメリカは尖閣の領有権問題では踏み込んだ日本支持を表明しなかったのです。なぜなら中国は単に米国にとっての最大の貿易相手というだけでなく、北朝鮮を押さえ込むための戦略的パートナーであり、さらにはイランやシリアと行った遠い中東での外交戦略にも必要な連携相手なわけですから。ただ、この点に関しては安倍自身も夏の参院選が終わるまではタカのツメを極力隠すつもりですから、結果的にはそれはいまのところは米国の希望と合致した形になって、今回の首脳会談でも大きな齟齬は表に出はしなかった。しかしそれがいつまで続くのかは、わからないのです。安倍は、アメリカにはかなり危ないやつなのです。

読売などの報道では日本政府筋は概ねこの会談を「成功」と評価したようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。アメリカにとっては単に「釘を刺す」という意味で会談した理由があった、という程度です。メディアも「警戒」記事がほとんどで成果などどこも書いていません。そもそもここまで慣例的になっているものを「成功」と言ったところでそれに大した意味はありません。もし今回の日本側の言う「成功」が何らかの意味を持つとしたら、それは唯一TPP交渉参加に関して「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」という共同声明をギリギリになって発表できたということに尽きます。

しかしこの日本語はひどい。一回聞いてもわからないでしょう? 安倍や石原らが「翻訳調の悪文」として“改正”しようとしている憲法前文よりもはるかにひどい。「一方的に」「全ての」「あらかじめ」「約束」「求められる」と、条件が5つも付いて、「関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃を求められるものではない」でも「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ求められるものではない」でもありません。その「約束」を「求められるものではない」という五重の外堀に守られて、誰も否定はしないような仕掛け。それを示された米側が、しょうがねえなあ、と苦笑する姿が目に見えるようです。

これは国際的には何の意味もありません。ただただ日本国内および自民党内のTPP反対派に示すためだけに安倍と官僚たちが捩じ込んだ作文です。現に米国の報道は日本での「成功」報道とはまったく違って冷めたものでした。基本的にほとんどのメディアが形式的にしか日米首脳内談に触れていませんが、NYタイムズはそんなネジくれまくった声明文を「たとえそうであっても、この貿易交渉のゴールは関税を撤廃する包括的な協定なのである(Even so, the goal of the trade talks is a comprehensive agreement that eliminates tariffs)」と明快です。もちろん自民党内の反対派だってこんな言葉の遊びでごまかされるほどアホじゃないでしょう。TPP参加は今後も安倍政権の火種になるはずです。

というか、アベノミクスにしてもそれを期待した円安にしても株高にしても、実体がまだわからないものに日本人は期待し過ぎじゃないんでしょうか。TPPでアメリカの心配する関税が撤廃されて日本の自動車がさらに売れるようになると日本側が言っても、日本車の輸入関税なんて米国ではたった2.5%。為替レートが2〜3円振れればすぐにどうでもよくなるほどの税率でしかありません。おまけに日本車の70%が米国内現地生産のアメリカ車です。関税なんかかかっていません。

それにしても日本の首相たちのアメリカ詣でというのは、どうしてこうも宗主国のご機嫌取りに伺う属国の指導者みたいなのでしょう。それを慣例的に大きく取り上げる日本の報道メディアも見苦しいですが、「右翼・国粋主義者」とされる安倍晋三ですら「オバマさんとはケミストリーが合った」とおもねるに至っては、ブルータスよ、お前もかってな感じでしょうか。

まあ、日本っていう国は戦後ずっと自国の国益をアメリカに追従することで自動的に得てきたわけで、それを世界のリジームが変わっても見て見ない振りしておなじ鉄路を行こうとしているわけです。そのうちに「追従(ついじゅう)」は「追従(ついしょう)」に限りなく近づいていっているわけですが。

こうなると安倍政権による平和憲法“改正”の最も有力な反対はまたまたアメリカ頼みということにもなりそう。やれやれ。

February 06, 2013

体罰という暴力

大阪・桜宮高校のバスケットボール部の主将が自殺して日本中での体罰蔓延がにわかに社会問題になっています。そこに女子柔道ナショナルチームの内部告発問題までもが持ち上がりました。

暴力監督・指導体制を告発した選手らの声は4カ月以上も封殺されていました。全日本柔道連盟も日本五輪委員会も、体罰問題から飛び火した自分たちのニュースに仰天してやっと動き出す堕落ぶりです。その前には五輪金メダリストが教え子柔道部員の女子大生をレイプした裁判、その前には大相撲の稽古名目の虐待、日本の体育界には暴力が横行しています。

一見無関係に見えますが、AKB48のメンバーが“禁止”されている男性との交際が発覚して頭をトラ刈りにしてビデオ謝罪する、という“事件”も起きました。これも髪を切るという体罰的な自傷行為が、なんらかの解決や決着に結びつくという美化された切腹文化が改めて確認・補強された形です。体育界といい芸能界といい、日本社会にいまも存在するプレモダンに関しては、前にも相撲界の八百長問題にからめて「近代と現代のガチンコ」というコラムに書きました。

体罰と言うとわからなくなります。体罰の本質は罰という力です。肉体的な力で相手を屈服させ、こちらの思うように行動させる。体罰肯定とはつまり私たちは、教育上の肉体的・物理的な力の行使は、時と場合によっては有効だと思っている、ということです。でも本当にそうなのでしょうか?

場合分けしなくてはなりません。1つは、本人がそれをしたい、上手くなりたい、向上したい、と思っているときの体罰です。いま1つは本人がそれをしたくない、サボりたい、と思っているときの体罰です。

前者はスポーツが好例です。勉強だって本来はそうだ。この場合は成果が上がらないからと言って体罰を振るうヒマがあったらもっと技術を、もっと情報を教えてもらいたいわけで、体罰など論外であることはすぐにわかります。にもかかわらず全日本女子柔道の監督は体罰を選んだ。肉体だけではなく精神的にも力を行使して、大人の選手たちの人格否定にまで踏み込んだ。

冷静に考えればそれが何の意味もない暴力であることは明らかです。世界の一流スポーツ界ではいま科学的・論理的な指導法しか採用されない。それには指導陣自身の弛まぬ勉強と努力が必要です。対してスポ根マンガ的精神論を説く体罰主義者は、単にそうした最新情報を勉強せず根性でどうにかできると妄信するバカな怠け者でしかない。罰を受けるべきはどちらなのでしょうか。

一方で後者は、やりたくない勉強、やりたくない活動をさせるための体罰です。これは難しい。

じつはいまから30年前、80年代前半に愛知県で「戸塚ヨットスクール事件」というのが起きました。児童・青少年向けのヨットスクールで参加していた青少年の死亡が相次ぎ、これは不登校などの情緒障害を抱える参加者に対する苛酷な暴行による“指導”が原因だったとして、校長の戸塚宏らコーチ陣15人全員が有罪になりました。

この時も日本中で体罰の是非が議論となりました。しかし結局、世間一般では「愛があれば体罰も時と場合によっては必要だ」というようななんとも情緒的な清算しか行われず、私たちはいまのいままで体罰に対する曖昧な態度に片をつけることもせずになんとなくやり過ごしてきたのです。そうするうちに戸塚宏は2006年に刑期満期で出所し、ヨットスクールを再開して、その直後から現在に至るまで同スクールはまたも1人の溺死者、3人の飛び降り自殺者を出している。そしていま全国の学校で、報道を契機にした今更ながらの体罰が「出遅れるな」とばかりに続々と名乗り出され、体罰による不登校や転校という、まさに本末転倒の事態が明らかになっている。

そこまで極端ではなくとも、たとえば「理性と知性を身につける前の子供の躾は動物の調教と同じでムチが必要なのだ」という説には私たちもついつい頷いてしまったりするのです。

「子供を叱りつけるのさえも精神に対する威圧と暴力であり、体罰がダメなら叱るのもダメということになる」にもなるほどなと思ったり。「体罰をしない先生は体罰をする先生の存在があるからこそ慕われて教育的指導ができる。体罰教師とは実は持ちつ持たれつなのだ。体罰禁止はそのバランスが崩れて生徒は誰の指導も真剣に聞かなくなる」と言われれば、ふうむ、そうかもしれないと考え込む。私の中学にもやたらとビンタをする体育教師がいて、おまけにそういう輩が「生活指導主任」だったりして、そうじゃない先生たちの優しさが身にしみた記憶があります。あのコントラスト。

でも、もう一度言います。本当にそうなのでしょうか? 本当にそんな「愛」や「力」や「愛と力のコントラスト」は必要なのでしょうか?

これもまた、2つ前の「実名報道」に関するコラムで書いたようにその人の人生の生き方に関係してくるのかもしれません。

私はたとえ理性も知性もない子供にでも、最初の理性と知性を与えるためのやさしい言葉を尽くしたい。なぜなら「言葉じゃないんだよ」と言う人で、本当に言葉を尽くして考えたと思われる人には出会ったことがないからです。自分が体罰という暴力を振るったときに、カッとしてなどいなかったと言い切れるほどの自信もないからです。そしてさらに言えば、冷静に暴力を振るえるほど不気味な人間にもなりたくないからですし、「力」を担保にした「愛」などは語りたくないからです。

January 29, 2013

実名報道とは何か

日本では匿名報道とかボカシ報道が広がっています。読者・視聴者はそうして現場のナマの個人の証言や現実を知らずに済んでいます。アルジェリアの天然ガス施設の人質事件でも「実名にしなくとも」とか「遺族が可哀相」という反応が多くありました。

私は元新聞記者として実名報道こそが基本だと教わってきました。実名がわからないと取材元がわからない。取材できないと事実が確認できない。大袈裟な話をすれば、事実確認できない状態では権力が都合の悪い事実を隠蔽したり別の形に捏造する恐れがある。すべてはそこにつながるが故の、実名報道は報道の基本姿勢なのです。

しかし昨今の被害者報道を見ていると「実名」を錦の御旗にした遺族への一斉取材が目に余る。メディアスクラムというやつです。遺族や関係者だって心の整理がついていない時点での取材は、事実に迫るための手法とは確かに言い難いでしょう。

ただ、それを充分承知の上で、日本社会が「なにも実名にしなくとも」という情緒に流れるのには、なにか日本人の生き方に密接に関わっていることがあるからではないかと思っています。

苛酷な事件や事故で自分が死亡したとき、自分の死に様を報道してほしいかどうかはその人本人にしか決められないでしょうし、そのときの状況によっても違う。

それは人生の生き方、選び方なのでしょう。実際、苛酷で悲惨なドキュメンタリーや報道を好まない人もいるでしょうしその人はそういう現実になるべく心乱されない人生を送りたいのかもしれません。しかしそれでも誰かがその悲惨と苛酷とを憶えていなければならない。それも報道の役割の1つです。

記録されないものは歴史の中で存在しないままです。「存在しないままでいいんです」という人もいます。でも、その「存在しないままでいいと言う人たち」の存在も誰かが記録せねばならない。それは報道の大きな矛盾ですが、それも「書け」と私たちは教わってきました。なぜならそれは事実だからです。

「そんなことまで書くなんて」とか「遺族が可哀相」とか言っても、同時に「そこまで書かねばわからなかったこと」「別の遺族がよくぞ書いてくれたと思うこと」もあります。どちらも生き残った者たちの「勝手」です。私たちはその勝手から逃れられない。そのとき私たちは「勝手」を捨てて書く道を選ぶ。

それは、今の生存者たちだけではなく未来の生存者たちに向けての記録でもあるからです。スペイン戦争でのロバート・キャパの(撮ったとされる)あの『兵士の死』は、ベトナム戦争のエディ・アダムズのあの『サイゴンでの処刑』は、そういう一切の勝手な思いを超えて記録されいまそこにあります。それは現実として提示されている。

匿名でいいんじゃないか、遺族が悲しむじゃないか、その思いはわかります。実際、処刑されるあのベトコン兵士に疑われた男性の遺族は、あの写真を見たらきっと泣き叫ぶ。卒倒する。でも同時に、もしあの写真がなかったら、あの記事がなかったらわからなかった現実がある。反戦のうねりも違っていたでしょう。

解釈も感想も人それぞれに違う。そんなとき私たちは読み手の「勝手」を考えないように教えられた。それはジャーナリストとしての、伝え手としての「勝手」にもつながるからです。そうではなく、書く、写す、伝える、ように。なぜならそれは「勝手」以前の事実・現実だからだと教わったのです。そして読者を信じよ、と。

「読者を信じよ」の前にはもちろん、読者に信じられるような「書き手」であることが大前提なのですが。

日揮の犠牲者については、報道側もべつに「今すぐに」と急ぐべきではないと思います。こういう事態は遺族や企業の仲間の方々にも時間が必要です。今は十全に対応できないのは当然です。むしろ報道側には、ゆっくりじっくりと事実を記録・検証する丁寧さが必要とされている。1カ月後、半年後、10年後も。

大学生のときに教えていた塾の教材でだったか、ずいぶんと昔に目にした、(死者は数ではない、だから)「太郎が死んだと言え/花子が死んだと言え」という詩句がいまも忘れられません。誰の、何という詩だったんだろう──そうツイッターでつぶやいたら、ある方が川崎洋さんの『存在』という詩だと教えてくれました。

「存在」  川崎 洋

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡(とち)の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥(もず)と言え頬白(ほおじろ)と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

January 09, 2013

2013年を日本で迎えて

久しぶりに日本で新年を迎えました。帰国するとその間の日本社会のちょっとした変化に気づいたりします。今回はテレビ画面の右下に小さく現れる「CM上の演出です」というテロップでした。1つはキムタクが出ている宝くじのCMで、彼が手筒花火をぶっ放しているものです。もう1つは乗用車が迷路を疾駆している車のCM。ほかにもありました。で「CM上の演出です」と来る。これって前からありましたっけ? 今回初めて気づいたんですが。

以前から「これは個人の感想です」とやるカンキローやコージュンやセサみんやクロズやなんかのインフォマーシャルはありました。が、今度は「これはCM上の演出です」って、いくらなんでもそんな言わずもがなのことを、わざわざ断らなければならない事情はいったいなぜなんでしょう。そもそも演出のないCMなど存在しないって、常識ではないのでしょうか?

こういうテロップはすべて視聴者からの苦情に対する予防措置なんですね。「こんなことを真似して事故を起こしたらどうする?」。なので前もって警告しておく、あるいは断り書きをしておく。でも健全な社会には「こんなことは安易に真似しない」というもう1つの予防教育があるはずです。あるいは「これは演出だ」と判断できる常識的な知力も。

日本はクレイマー社会だという説もあります。しかしこうした断りはもともとは米国のテレビで始まりました。「これはPaid Advertisementです」からそのつもりで見てください、という。苦情はアメリカ社会のほうがずっと厳しく多い。モンスターペアレンツだってきっとアメリカの方が手強い。

でも何が違うかと考えると、アメリカ社会は苦情にも簡単に謝らない。毅然と対処(あるいは理不尽なほどにも反論)する。対して日本社会は謝罪するんですね。謝罪することがあらかじめ当然のように期待されている。身分制度の名残が売り手と顧客の関係にも影響しているのしょうか? 日本語の「客」は確かに「カスタマー」や「ゲスト」やはてさて「神様」までをも取り込んだ強力な概念ですし。

でも、そうやって何か悪いことが起こらないようにと事前警戒ばかりして予防線を張り巡らす社会というのは、みんなとても窮屈でヘマをしないようにおどおどビクビクしている社会に見えてしまいます。さらにそれが何かの際に、人々を発作的な激高に煽ってしまうような、そんな悪循環。

かくして日本では普通のニュース映像でも通行人の顔や事件現場の背景のことごとくにボカシが入って、万が一のプライバシー上の苦情にも万全の予防措置を講じています。事故を目撃した人の証言までその人の足しかテレビには映っていない。もちろん背景には例の個人情報保護法みたいなものがあるのですが、それは見ていてあまりにパラノイア的ですらあります。

私がニューヨークに来て最初に気づいたことの1つは、地下鉄の駅に時刻表がないという事実でした。さらにはちゃんとしたアナウンスもなく勝手に駅を飛ばしたりルートを変更したりする。でも利用者たちはそれでも平然としてるし、そのうちに私も「ああ人間社会ってこんなもんなんだ」と思うようになってきました。あるいは近所のスーパーやファストフード店でも客あしらいがとんでもなくぞんざいで、あるいは商品だっていい加減で、トマトだってブドウだって下の方がつぶれていたり腐っていたり、まあ、そんなことに腹を立ててもしょうがない。自分でどうにかするしかない。だいたい、ニコニコと平身低頭な店員や時刻表通りに運行される列車なんて、世界中で日本くらいにしか存在しないんだと妙に得心している次第です。

ただしアメリカだってもちろんテロ警戒は空港に行くたびに物凄いですし、重要施設の入館チェックも神経質すぎると感じるほど厳重です。ただ、社会全体としては事前警戒と事後対処の覚悟のバランスが取れている。何がおかしいかって、「携帯電話は他の人に迷惑です」と言っていながら東京の地下鉄では現在、携帯の電波が走行中でも通じるようにどんどん工事が進んでいるんですよ。ま、データ通信やテキスティングのためでしょうけど。

「何か悪いことが起きないように」という心配や警告はいまやだれもが気づいているように「悪いことが起きてもこちらの責任が回避できるように」という言い訳になっています。リスク管理上それらも必要なことではあるでしょう。ただし、いくら事前警告していてもそれでも何か悪いことは起きるものです。その場合に「だから言っていたでしょう」という言い訳は責任回避のなにがしかを担うかもしれませんが、問題の解決には何の役にも立ちません。

リスク管理の成否とはむしろ、問題が起きたその際にどう毅然と対処できるか、ということに掛かっていると思います。予防教育と常識の強化ではなく事前警戒の責任回避のみに執心している社会は、肝心の時の対処に必ず抜かりを生じるのではないかと、新年早々、日本社会を見ていてとても心配なのです。

ちなみにこれは「個人の感想です」。

December 27, 2012

LGBT票が決めたオバマ再選

オバマ再選はすっかり昔のニュースになってしまいましたが、2012年の総括として、LGBT票が彼の再選に果たした役割についてはここに記しておいたほうがよいでしょう。

アメリカでは今回の選挙では、出口調査によれば全投票者中ほぼ5%が自らをLGBTと公言しました。今回は1億2千万人ほどが投票しましたから、5%というのは600万票に相当します。これが激戦州で実に雄弁にモノを言ったのです。

オバマは選挙人数では332人vs206人とロムニーに大勝しましたが、実際の得票数では6171万票vs5850万票と、わずか321万票差でした。つまり2.675%ポイント差という辛勝だったのです。

UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)法科大学院ウィリアムズ研究所のゲーリー・ゲイツ博士とギャロップの共同調査によると、オバマとロムニーはストレートの投票者数ではほぼ拮抗していました。しかも、選挙を決めた最重要州のオハイオとフロリダの両州では、実はロムニーの方がストレート票では勝っていたのです。

ちょっと数字が並んで面倒くさいけれど、最後まで読んでください。オバマに勝利をもたらしたのがLGBTの票だったということがわかりますから。

もともと民主党(オバマの党)はゲイ票やアフリカ系、ラテン系、アジア系米国人の票、さらにユダヤ系の票にも強い党です。それぞれはそう大きくはないグループですが、これらマイノリティ層を全部合わせると全有権者の3分の1を占めます。対して共和党は残り3分の2の層で優位に立たねば選挙に勝てません。ここで支持者層の核を形成するのはキリスト教福音派と呼ばれる白人の宗教保守派層です。この人たちは全有権者数の4分の1を占めます。

ラテン系、アジア系の人口比率はここ最近拡大しています。これは移民の増加によるものです。同時に、ゲイだと公言する有権者も増えています。ギャロップの出口調査によると、65歳以上ではLGBTを公言する投票者は1.9%に過ぎませんでしたが、30歳から49歳の層ではこれが3.2%に上昇し、18歳から29歳層ではなんと6.4%に倍増します。もちろん年齢によって性的指向に偏りがあるはずもありませんから、これはもっぱらカムアウトの比率の違いなのでしょう。そしてそのLGBT層がニューヨークやロサンゼルスといった大都市部を越えて、いま激戦州と呼ばれるオハイオやフロリダなど複数の州でも拡大しているというのです。

共和党はヒスパニックやアジア系の票を掘り起こそうとしていますが、さて、ゲイ票はどうだったのか?

出口調査ではゲイと公言する有権者の76%がオバマに投票していたことがわかりました。対してロムニーに投じた人は22%でした(投票先を答えなかった人もいます)。ストレート票はオバマvsロムニーでともに約49%とほぼ同率だったのに、です。つまり、オバマに投票したLGBTの有権者は600万票のうちの76%=474万人、対してロムニーには22%=120万人。その差は354万票になります。

思い出してください。これは、全得票数差の321万票を上回る差です。つまり、ストレート票だけではオバマは負けていたのに、このLGBT354万票の差で逆転した、という理屈になるのです。

じつは共和党の内部にも「ログキャビン・リパブリカンズ」というゲイのグループがあります。ゲイの人権問題以上に、共和党のアジェンダである「小さな政府」主義に賛同して共和党支持に回っている人がほとんどなのですが、その事務局長を務めるR・クラーク・クーパーは「反LGBT、反移民、反女性権といった社会問題に関する不協和音の大きさに共和党はいま多くの票を失っている」と分析しています。

実際、同性婚に関してはすでに全米規模で賛成・支持が過半数を超えて多数派になりました。共和党支持者ではまだ同性婚反対に回る人が多いですが、それでも今年5月のオバマによる同性婚支持発言に対して、共和党の指導的な政治家たちはそろって静かでした。以前ならば声高に非難していたところなのに、有権者の支持を得られないとわかってその問題に反対するよりもその話題を避けるようにしたのです。とてもわかりやすい時代の変化でした。クーパー事務局長も「それが時代の進むべき方向なのだと(共和党の)議員たちもわかってきている」と話しています。「もっとも、それを公式に表明することはしないだろうが」

翻って日本の総選挙です。同性婚どころかLGBTの人権問題の基本事項すら国政の表舞台ではなかなか登場してきません。得票数では前回の民主党の政権交代が実現した選挙よりも減らしているくせに議席獲得数では大勝した今回の自民党は、ある選挙前アンケート調査ではLGBTの人権問題に関しては「考えなくともよい」「反対」とこたえたそうですね。

LGBT票は日本でも世界の他の国と等しい割合で存在しています。つまりそれが政治の行方を変える力は、いまこの時点でも日本に潜在しているということなのです。それがいつ顕在化するのか、そしてどういうふうな政党に何を託す形で姿を現すのか、長い目で見なくてはならないかもしれませんが、私はそれが少し楽しみでもあります。

December 15, 2012

男性主義の政治という遺物

明日は自民党が290議席、あるいは300議席をも窺うという勢いだそうです。もっとも、どこに投票するかわからないと答える人も全体で40%以上、女性だけだと50%以上もいるようで、民意は単純に「自民復権」を望んでいるわけではないような気もします。

というのも、「わからない」人たちは今回はむしろ、浮動層というよりは「民主党には裏切られたが、かといって自民党には投票したくない」と逡巡している層を多く含むと疑われるからです。その未回答層が結果的にどこに投票するのか、その動向はこれまでの選挙世論調査の常識とは違うような気がしないでもありません。まあ、でも実際は「自民党対それ以外」という選挙動向上の仕組みでは、多党乱立の「反自民勢力」は票が分散して不利になってしまうのでしょうが。

でもいったい今回の総選挙はどういう選挙なのか、少し考えてみてもよいかと思います。3.11後初めてとなるこの選挙を、ある人は「生命vs経済」の戦い、「善悪vs損得」の戦いだと呼びます。でも大方の関心事は原発問題よりも経済・景気のことで、すでに首相気分の安倍・自民党総裁は日銀法改正、金融緩和、公共事業と大風呂敷を広げています。

原発も重大、景気も重要、善悪も損得もともに大切なことです。だからどこに入れてよいかわからない、という人が多いのでしょう。でもその中で、目を付けるべき何かが欠けている。いま日本にいてこの選挙戦を目の当たりにしながら、私はずうっと日本の政治と言論とに奇妙な違和感を感じています。その根が何なのか、安倍晋三や石原慎太郎や橋下徹らキーパーソンの言葉を聞いていてなんとなくわかってきたような気がします。

この3人は簡単に言えば男性至上主義者です。男性主義というのは父権主義のことです。停滞する政治への不信を募らせる民衆が強い指導者像を求めて父権政治にあこがれを抱く、というのは「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」の社会です。

欧米はこの「父権」を超克あるいは脱構築しながら現代社会を形成してきました。その過程では「父権」だけでなく「男性性」そのものも超克されてきました。それは50年代からの黒人解放で「白人」が、60年代からの女性解放で「男性」が、70年代からの同性愛者解放で「異性愛者」が解体されてきた歴史に裏打ちされます。オバマvsロムニー、ウォール街占拠運動vsティーパーティー運動は一方でそういう戦いでもあったのです。

ところが日本ではこうしたイケイケどんどんの「男性主義政治」に対するアンチがそう明示されません。そもそもそれが父権政治=強権政治=国粋主義であるという批評が存在せず、逆にイケイケどんどんが「強いリーダーシップ」という美辞にすり替えられてしまうのです。その状況下で安倍は国防軍を強調し、石原は徴兵や核武装を唱え、橋下は仮想敵を量産してはそれらを叩き潰して見せることでヒーローを気取る。ナチスに関する総括もできていない、なんと雄々しい「男」たちでしょうか。

そういえば自民党の憲法改正草案は「基本的人権」以上に「公益及び公の秩序」を強調し、国民を「市民 citizen」であるよりも「臣民 subject」であるかのように描いています。自民党に投票しようという人たちは、しかしそれを望んでいるわけではないでしょう。そうじゃなくて単に民主党より前の方がよかった、という印象で投票しようとしているのかもしれません。いや、態度を決めかねている40%を鑑みれば、自民党圧勝の読みの背景の支持者の数字は、前回の選挙で自民党に入れた人たちとそう変わっていない。そうすると、民意はどこにあるのか? ほんとうに「300議席」という単純な議席数に置き換えて測ってはいけないのではないか、という気がするのです。

「生命vs経済」「善悪vs損得」の二者択一ならばどちらを取るか決断しかねます。両方とも大切だからです。がしかし、他者を「対象 subject」としか捉えない雄々しい男性主義か、それに対抗する反・男性主義か、となれば私の選択は明らかです。なぜなら国家の機能不全は、すでにジョン・ウェイン的な人物の解決できる次元を越えているからです。

バットマンもジェイムズ・ボンドも悩み傷つき涙を見せる時代です。どうしてその事実に気づかないのか? 気づきたくないのでしょうか? 勇ましい方がかっこいいしスッキリもする。そう、男性主義的な政治は日本国内だけを見ていれば一時的には有効かもしれません。しかしそれは国際的には必ず破綻するのです。尖閣をめぐる安倍や石原の発言が現実の政治の上ではまったく無効なばかりか有害ですらあったように。女性たちの50%以上が投票先を決めかねている現実は、いまも続くそんな日本の男性主義の胡散臭さに気づき始めたからではないかと願うのです。

拳を振り上げるとき、人は自分に陶酔しています。けれどそれを振り下ろすとき、後悔はすでに始まっています。それに気づかないのは、ずっと陶酔していられる人間だけです。なのに拳を振り上げる人が、それを振り下ろす人が絶えない。それは、後悔しても、人間は陶酔感に高揚することのほうが好きだからなのかもしれません。その高揚に、人間は後先を忘れるようにできているからなのかもしれません。

アホです。

November 14, 2012

自由か平等か

今回の大統領選挙で驚いたのは各種世論調査の正確さでした。NYタイムズのネイト・シルバーの「全州正解」には唖然としましたが、それも各社世論調査に数多くの要素を加味した数理モデルが基でした。ただ、それが可能だったのもオバマ民主党とロムニー共和党の主張の差が歴然としていたからでしょう。

大きな政府vs小さな政府、中間層vs富裕層、コミュニティvs企業、リベラルvs宗教保守、共生vs自律と種々の対立軸がありましたが、日本人に欠けがちな視点はこれが平等vs自由の戦いでもあったということです。

「自由と平等」は日本では今ひとつ意味が曖昧なままなんとなく心地よりスローガンとして口にされますが、アメリカではこの2つは往々にしてとても明確な対立項目です。この場合の自由は「政府という大きな権力からの自由」であり、平等は「権力の調整力を通しての平等」です。つまり概ね、前者が現在の共和党、そして後者が民主党の標榜するものです。

宗教の自由も経済の自由も小さな政府もすべてこの「自由」に収斂されます。アメリカでは自由はリベラルではなく保守思想なのです。何度も書いてきていますが、なぜならこの国は単純化すれば英国政府や英国教会の権力を逃れてきた人々が作った国であり、そこでは連邦政府よりも先にまずは開拓者としての自分たちの自助努力があり、協力のための教会があり、町があり、そして州があった。州というのは自分たちの認める最小の「邦 state」でした。それ以上に大きな連邦政府は、後から調整役として渋々作ったものでした。

アメリカが選挙のたびに真っ二つになるのもこの「古き良きアメリカ」を求める者たちと、そうじゃない新たなアメリカを求める者たちの対立が明らかになるからです。その意味でオバマの再選は、旧来の企業家たちにIT関連の若く新しい世代が多く混入してきたこと、それによりアメリカの資本構造が資本思想、経営思想とともに変わってきたこと、それによって成立する経済・産業構造とその構成員が多様化していること、などを反映した、逆戻りしないアメリカの変身を感じるものでした。オバマへの投票は言わば、元々の自由競争と自助努力の社会に、それだけではない何かを付加しないと社会はダメになるという決意だったように思えるのです。

翻って日本はどうでしょう? 新自由主義のむやみな適用で傷ついた日本社会に、民主党はこの「オバマ型」の平等社会を標榜したマニフェストを打ち立てて政権を奪取しました。けれどその際に「官僚から政治を取り戻す」とした小沢一郎はほとんど「いちゃもんレベル」の嫌疑で被告人とされ、前原ら党内からもマスメディアからもほとんど個人的怨恨のごとき執拗さで袋叩きに遭って政権中央から追われました。いまの野田政権は結局はマニフェスト路線とことごとくほとんど逆のことをやって民主党消滅の道を邁進しています。

野田は結局、民主党つぶしの遠謀深慮のために官僚機構が送り込んでいた「草」だったようにしか思えません。マニフェスト路線にあることは何一つやらず、ことごとくが「かつての民主党」雲散霧消のための道筋を突き進んだだけという、あまりにもあからさまな最後の刺客。日本に帰ってきたとたん年内解散、総選挙と言われても、これでは「平等」路線は選択肢上から消えてしまい、対する「自由」路線も日本型ではどういう意味かさえ曖昧で、そんな中で選挙をして、どこに、誰に投票するか、いったいどのように決められるのでしょう? そうして再び自然回帰だけを頼りにして自由民主党ですか?

指摘しておきますが、自民党はかつては「総合感冒薬」みたいに頭痛鼻水くしゃみ悪寒どんな症状にも対処する各種成分(派閥)が多々入っていましたが、いまはそうではありません。たとえば宏池会というのがありました。ここはかつて“優秀”だったとされる時代の官僚出身者たちを中心に穏健保守の平和主義者たちが集まる派閥で、経済にもめっぽう強かった、それがいまや二派に分裂して下野以降に外れクジをあてがわれた谷垣前総裁の派閥に成り果てる体たらく。時代は多様性なのにそれと逆行して、自民党はどんどんわかりやすく叫びやすい右翼路線に流れました。総合感冒薬から、いまは中国との戦争や核武装まで軽々に口にする安倍晋三が総裁の、威勢の良いだけのエネルギードリンクみたいなものです。何に効くのかもよくわからないまま昔のラベルで売り出してはいるのですが、中身が違っていて経済をどうするかの選択肢すら書いていないのです。

そこにメディアが煽る「第三極」です。それが男性至上主義ファシズムの石原慎太郎や橋下徹が中心だと聞くと、対立軸もヘッタクレもありゃあしません。ひょっとしたら野田も前原も民主党解党後にそそくさとこちらに鞍替えして何食わぬ顔をして連合政権にしがみつこうとしているのでしょうか。日本のメディアは、マニフェストを作った本来の民主党として本来の対立軸の「平等」路線を示し得た小沢一郎の「国民の生活が第一」を徹底して無視して、いったいこの国の何をどうしたいのでしょうか? それは言論機関としても支離滅裂にしか映らないのです。

November 05, 2012

スーパーストーム・サンディ

スーパーストームと呼ばれたサンディの被害でマンハッタンは大混乱だと日本のニュースでも大きく報じられていましたが、本当にひどい被災はじつはあまり日本では報道されていないスタッテン島やブルックリンを含むロングアイランドの海岸部、さらにはサンディが上陸で直撃したお隣ニュージャージーの沿岸部でした。こちらのニュースでも報道の中心はまずはマンハッタンだったのですが、いまはほとんどがニュージャージーやスタッテン島の被災に重点が移っています。

スタッテン島をスタート地点とするニューヨーク・マラソンが中止になったのも宜なるかな。日本人の私たちには尋常ではないところにある車やボート、ゴッソリとえぐられたり流されたりしている家並みは3・11を彷彿させて身につまされるものがあります。

あの時の東北もそうでしたが、最も大切なのはまずは必要物資や救援活動の情報でした。なのに停電のためにそれを必要とする人たちにこそ肝心の情報が伝わらない。

でも少なくともマンハッタンではiPhoneなどのスマートフォンを利用して、停電地区でもネット経由で復旧情報をいち早く知ることができていたようです。あちこちで善意の無料充電スポットが出来ていたのは新しい光景でした。日本人同士でも懸命に日本語で地下鉄やバスの運行状況やトンネルや橋の通行止め情報、電気の復旧の見通しなどをツイッターで共有していました。

そんな中、遅ればせながらミッドタウンの日本領事館も29日夜になってツイッターを始め、サンディ関連の「緊急情報」を流すというので大いに期待したのです。

ところがどうでしょう。とんと何もつぶやかない。最初の「緊急情報」は「緊急対策本部を立ち上げ」たという前日の領事館の対応の紹介。その後も具体的情報にはほとんど何も触れずに一次情報の英語のリンク先を紹介するだけ。橋や地下鉄の開通状況や電力復旧状況を流すのも遅いったらありゃしない。

そのツイッターは結局2日時点で終了していて「つぶやき」の数は5日間でたったの計17回。900人以上の人がフォローしているのに、きっとほとんど何の役にも立たなかったと思います。まさかいちいち稟議書を上げて何をつぶやいていいかダメかの上司決済を取っていたんじゃないでしょうね。こういう「お役所仕事」は、責任のある人が自分の責任ですぐに情報発信できるような仕組みにしないと何の役にも立たない。減点主義ではなく、得点主義で運営すべきなのです。それがなかなか出来ないのが日本型組織の、ひいては日本社会の弱点なんでしょうね。

ちなみに日本領事館のツイッターのアカウント名は「JapanCons_NY」。まるで商品評価の「Pros & Cons」の「Cons=ダメなところ」みたいな名前。おまけに「Cons」というのは「ペテン師たち con artists」とか「犯罪者たち convicts」とかいう意味でもあって、さらに動詞だと解釈すれば「日本がニューヨークをペテンに掛ける(con の三人称単数形)」ってな意味にもなってしまって……まったく、これは偽アカウントかと思ってしまうほどのセンスの無さでした。

さてそれでもやっと電気も地下鉄も復旧してきて、マンハッタンはこれで一安心と思っていたらいまさっき友人から電話があって「何言ってんのよ、うちのアパートは大変な孤立状態なのよ!」って……ああ、そういえばあのぶらぶらクレーンがまだ解決していないのでした。

彼女の住む高層アパートは56丁目。まさにあのクレーン宙づりのビル(57丁目)から短い方の1ブロックで、倒れたらビルを直撃するのでビル北側の住民全員が強制避難。撤去作業に4〜6週間かかるといわれるのですが工程の精査で作業は始まってさえいないそうです。おまけに今週半ばにはまた別の嵐がニューヨークを襲うともいわれているではありませんか。

カーネギーホールを含め周辺丸ごと封鎖状態の現場は、下を走る地下鉄も落下直撃の恐れで不通のまま。しかも落下したら地下に埋設のガスとか電気とかのインフラが直撃され、それがすべて基幹の本管であるためにマンハッタン中がブラックアウトする恐れもあるのだそう。「あたしのこと忘れないでよ!」と彼女に怒られたのも、じつにもっともなことです。

May 08, 2012

緊急避難としての原発

5月5日、日本国内にある原子力発電所がすべて稼働を停止しました。マスメディアの一分には「全電源の3割が失われる異常事態」「今夏の電力需給逼迫が懸念される」とするものもありますし、民主党の仙石由人はこれを「集団自殺」とまで形容しました。

原子力発電はあんなことでも起きない限りおそらく十分に安全なものなのでしょう。だから「即時脱原発は短絡的な考え方」という意見も多い。日経は社説で「電力供給への不安」で「企業は国内の設備投資をためらわざるを得」ず「原発停止の穴を埋める石油や天然ガスの調達増加」で「年間2兆円を超える国富が余分に海外へ流出」「電力料金の上昇」など「景気や雇用に影響が及」ぶ、と心配しています。

でも本当に短絡的なのでしょうか?

原発の是非に関する議論には昔から奇妙なねじれがあります。反対派はかねてから使用済み核燃料再処理などでの長期的な非採算性や環境汚染を問題視しています。反原発運動の最初期にはいずれ勃発するかもしれない第三次世界大戦ではまず最初に原